トマス・アクィナスにおける「知識の獲得」の構造

三上 茂


 トマスは知識の獲得という問題に関して、一方において素朴な「外在的注入主義」を、他方において素朴な「内在的開発主義」を拒ける。経験主義的、感覚主義的な外在的注入主義は知識獲得の主体的条件を無視し、獲得する主体を空の容器、教える者が意のままにその中に知識を注ぎ込むことのできるうつわと見倣す。つまり、知識は主体とのかかわりなしに外在し、それを注入することをもって教師の任務とする考え方である。他方、プラトンの「学習=想起説」はそれが通俗的に理解されるとき、内在的開発主義となる。知識は学ぶ者のうちに先在する。そこでは教師は殆どなすべき役割をもたない。トマスはこれら二つの極端な主張--一方は教師万能論、他方は教師無用論に陥らざるを得ない--のいずれをも拒けるのである。では、トマスは教師にいかなる役割を与え、いかなる制約を帰するのであろうか。以下の小論においてトマスにおける「知識の獲得」の構造を明らかにするために『教師論』の若干の命題及び概念を検討することにしよう。

一 知識の原理

 我々はまず、トマスにおける知識成立の根本前提である人間知性について若干のことがらを検討しなければならない。周知のように、トマスはアリストテレスに従って人間の生命原理としての魂をそのはたらきにもとづいて知性的諸能力と欲求的諸能力とに区分する。知識の獲得にかかわるのは主として知性的諸能力である。トマスはこの知性的諸能力に関して、「知識のある意味での原理」(1)としての「能動知性の光」(lumen intellectus agentis)(2)について語っている。知性的能力は知性認識するというはたらきの原理である。トマスは『教師論』において、「学ぶ者のうちには知識が先在するが、それは純粋な受動的可能態においてではなく、能動的可能態(potentia activa)においてである。」(3)と云っている。我々はここで云われている「知識の先在」(scientia praeexistens)、「能動的可能態」に関連させて、知性的能力を考えることにしよう。

 トマスによれば、「知性はある意味において能動的能力であり、ある意味において受動的能力である。」(4)能動的能力としての知性は「能動知性」と呼ばれ、受動的能力としての知性は「可能的知性」(intellectus possibilis)(5)と呼ばれる。知性の二つの能力、即ち能動知性と可能的知性の区別はその対象としての可知的なものに対する関係に従っての区別である。「魂の外部にある事物は可能態において可知的である。しかし精神それ自体は現実態において可知的である。そしてこの故に魂のうちに能動知性が措定されるのであって、それは(可能態における可知的なものを)現実態における可知的なものとする。」(6)能動知性は対象との関係において、「対象を現実態におけるものとする能動的な能力」(7)であり、能動的能力のはたらきに対して、その対象はその終極ないし終点という位置にある。(8)これに対して可能的知性は「現実態においてあるところの対象によって動かされる受動的な能力」(9)であり、この受動的能力のはたらきに対して、対象はその根源ないし運動因という位置を占める。(10)云いかえれば、能動的能力たる能動知性はその対象たる可知的なものを可能態におけるものから現実態におけるものとするというはたらきをなし、他方、受動的能力たる可能的知性は現実態における可知的なものによって動かされて可能態における知性から現実態における知性とされるのである。しかし、ここで我々が注意しなければならないことはトマスが人間知性に関して「受動的」と云う場合の、その意味である。可能的知性は受動的能力であると云われるが、この「受動」についてトマスは次の三つの意味を区別している。(11)即ち、ものが「受動する」と云われるのはまず第一に、最も本来的な仕方においてである。それは「本性的に適合するところのものがそのものから取り去られる場合」であって、例えば、水が熱せられてその冷たさを失うとか、人間が病気になる、あるいは悲しみに沈む場合がそうである。第二に、それほど本来的な仕方においてでなくそう云われる場合である。それは「ひとにとって適合的たると適合的ならざるとを問わず、およそ何事かが彼から除かれる場合」であって、「いかなる仕方においてであるにせよ、およそ変化をこうむり動かされる」ものは受動すると云われる。例えば、病気になることとともに健康になること、悲しむこととともに歓喜することもそう呼ばれる。第三は、「ひろく一般に、およそ何事かに対して可能態にあるところのものが、それに対して可能態においてあったところのものを受け取る場合、何ものかが除かれることのないに拘わらず、ただこれだけのことよりして、そのものは『受動する』といわれる。」人間知性に関して「受動的」といわれるのは、この第三の意味において、すなわち、「可能態から現実態への移行」という意味においてである。

 トマスにおける「知識の獲得」は人間知性の「可能態から現実態への移行」ということにおいて為される。我々がこの世で出会うすべての事物は可感的なものである。この可感的なものは形相すなわち可知的なものと限定された質料との結合されたものである。この可感的なものの表象像は特殊的、個別的であることを免かれない。「しかしながら、人間の知性認識は普遍的なものに関してである。つまり、人間はその知性のはたらきにおいて、物質的対象の形相を抽象において知解する。」(12)能動知性は表象像(13)を照明し、それから普遍的なもの、すなわち可知的形象を抽象するのである。可能的知性は能動知性によって抽象されたこの普遍的、可知的形象を受取る。このようにトマスは知性認識における表象と可知的形象との根本的な相違を認める。しかし、トマスは次のように云う。「それによって可能的知性が表象像から事物の形象を受け入れるところの受容において表象像は道具的、第二次的能動者という位置にある。しかし能動知性は主要な、第一次的能動者という位置にある。それ故に、そのはたらきの結果はいずれか一方の条件に従ってではなく、両者の条件に従って可能的知性のうちに残される。それ故に、可能的知性は形相を受け取るのであるが、それを能動知性のちからによって現実態における可知的なものとして、(他方)表象像の認識によって限定された事物の似姿として、受け取るのである。このように、現実態における可知的形相はそれ自体で表象作用あるいは能動知性のいずれかのうちに存在するのではなく、ただ可能的知性のうちにのみ存在するのである。」(14)トマスが同じ一つの主体のうちに能動知性と可能的知性という二つの別の能力を措定するのは、可感的なものと可知的なものとの間の秩序が問題であるからである。ジルソンはこの点に関して次のように云っている。「可感的なものは形相、そしてそれ故に可知的なものと限定された質料との結合である。それ故に、可感的なものは可能態においてある可知的なものを含んでいる。そかしそれは現実態においてある所与の特殊の存在の様式へと限定された可知的なものである。もし今、人間へと進むならば、我々は現実態におけるある可知的なもの、彼の知性--天使の最低の秩序に接するところの人間の部分--を見出す。しかし我々はこの可知的なものは限定を欠いているということを知っている。それは、それによって我々がなお見ることができるが、しかしそのうちには我々がもはや何ものをも見ることができないところの一つの光である。もしそれが我々をして見ることを可能ならしめるべきであるならば、この光はある対象の上に落ちなければならない。しかしそれが対象の上に落ちるためには、それに関係づけられた対象が存在しなければならない。現実態における可知的なもの、我々の知性はもしそれがその中に我々が置かれている世界のうちに栄養を見出さないならば空虚のために死ぬであろう。明らかに、それはそれをただ可感的なもののうちにのみ見出すであろう。このように、知識に関するトミズムの問題の解決は、現実態において限定され、可能態において可知的である可感的なものが、現実態において可知的であるが、しかしただ可能的にのみ限定されている我々の知性に対してその限定を伝達するときにのみ可能である。」(15)そしてジルソンはトマスにおける魂の二つの能力の共在の主張は矛盾ではないとして次のように云っている。「ところでこう主張することは矛盾ではない。むしろ同一の事物が同時に、そして同じ関係の下で可能態及び現実態においてあるべきであるというのは矛盾である。それが一つの関係の下で可能態にあり、他の関係の下で現実態にあるというのは矛盾ではない。実際これはあらゆる有限的な、創造された存在の通常の状態である。それはまた可感的なもの及びそれを表している表象像への関係における理性的霊魂の状態でもある。魂は現実態において限定をもっているが、しかし可知性が欠けている。魂は表象に可知性を与える。そしてこの点においてそれは能動知性である。それは限定を表象から受け取る。そしてこの点においてそれは可能的知性である。理解しうるはたらきのためには一つの条件--秩序の必要性に基づいた一つの形而上学的条件--が要求される。そしてそれはこうである。すなわち、表象像を可知的なものとする能動知性のはたらきはこの可知的なものの可能的知性への受容に先行しなければならない。[Actio intellectus agentis in phantasmatibus praecedit receptionem intellectus possibilis.]。そのものとしての可感的なものはそのものとしての可知的なものに浸透することはできない。そして可感的なものから限定を受け取ることを切望して、それをそれ自身の尊厳にまで高めることにおいてその行為を可能とすることによって始めるところの我々の知性も同様である。これが知識の値である。」(16)

 我々の知識の成立を可能ならしめる「知識の原理」(principium scientiae)(17)は、トマスによれば、まず何よりも我々のうちに内在する「能動知性の光」であって、それは「それでもって知性認識がおこなわれるところのもの」(18)である。ところで、この「能動知性の光」、「知性の内的な光」は「神的な光の或る分有」(19)、「創造されざる光の一種の分有された似姿」(20)、「第一真理の刻印づけ」(21)として神に由来する。「被造物における知性能力は、それ自身ただちに神の本質たるのではないがゆえに、それは根源的知性たる神自身に基づくところの、或る分有された似姿であるほかないわけである。知性的被造物の能力が、いわば根源的光に由来するものとして、これまた一種の知性的な光と呼ばれる所以もここに存している.....。」(22)このように「神によって我々のうちに植えつけられている理性の光」(23)によってはじめて、すべての人間的な教授は効力をもつことができるのである。ジルソン(24)に従えば、トマスはアウグスティーヌスの「種子的原理」及び「神的照明」の説に若干の変更を加えている。アウグスティーヌスが『告白』において「神は私の心の光、私の魂の内的な口のパン、私の精神と私の思惟の胎を脹らませる力である」(25)と云っているように、彼は「我々の思惟をその御言を以て受胎させるのは、神である。しかも神は、我々の思惟の耳に囁く声として、その内的な教師であるのみではなくして、我々の思惟がそれによって見る光である。否、我々の口にするパンのように、我々の思惟の糧であり、且つ叉思惟の内部に入り込み、それを娶って受胎させ、それに真理を孕ませるところの生きた精子である」(26)と考える。アウグスティーヌスは神の作用性の権利を最大限に保証しようとする。しかし、トマスは第一原因と第二原因とを区別することによって、自然のはたす役割にも正統な地位を与えようとする。アウグスティーヌスに従えば、「すべてが既に実現されているのであって、第二原因は殆どなすところがない....。理性的存在に対して真理と徳とが起り来るのはまさしく神からである。」(27)しかし、「総てが既に自然の内部においてなされているにせよ、或いは総てが自然のために外からなされるにせよ、自然そのものはなんらなすところがない」(28)と云わなければならない。

 ところで、「第一原因はその卓越せる善性からして他の諸物に、ただそれらがあるところのものを与えるのみではなくして、それらが原因としてあるところのものをも与えるのである。」(29)それ故、「種子的原理を認めることは、将来現われるべき諸存在の形相が既に質料の中に潜在していることを主張するものに外ならない。しかるに実際は、形相は質料の中に既に実現されて存在するのではなく、叉質料は形相をいわばレディ・メードで外から受けるのでもない。形相は、アリストテレスが云っているように、可能性において質料の中に存在する。即ち、質料は形相を受けることが出来るのである。質料が形相を受けるためには、或る第二原因が存在し、そしてその第二原因はそれ自身現実性における存在であって、その現実性は或るものを質料の可能性へ移し入れるのでなければならない。」(30)また照明の説について云えば、「真理の光は本来それを欠いている知性の上に高所から落ち来るのではなくして、或る仕方で知性と一体になっている。というよりはむしろ、知性は、勿論類比的に、分有によってではあるが、この真理の光そのものとなっている。」(31)と云わなければならない。「真理の場合にも徳の場合にも、我々が神のイデアに到達するのは、その中に神のイデアが含まれている創造されない光を分有して、それに類似していることろの知性の仲介によるのである。」(32)

 以上、我々はトマスにおける人間知性の神的知性への依存性と第二原因としての人間の知性の作用性を概観した。それは能動知性に関して云われたことであるが、次に可能的知性に関連して問題にされる、いわゆる「タブラ・ラサ説」を検討してみよう。トマスは、「人間知性は諸々の可知的なものに関して可能態にあるものであり、.....それは最初は『何も書かれていない書字板のようなもの』でしかない」(33)と云う。これが普通、タブラ・ラサ説と考えられるのであるが、我々はトマスにおいて考えられているものは、経験主義的、感覚主義的な意味での、いわゆる「タブラ・ラサ説」とは根本的にその性格を異にすると云わなければならない。トマスにおいては、「教えることは、いわば知識が教師のうちにあるのと同じ量において、生徒のうちに知識を注入することを意味しない」(34)のであり、さらに「生徒は受動的な可能性としてではなく、能動的可能性として見られなければならない」(35)のである。トマスにおけるタブラ・ラサは可能的知性として、それが「すべてのものになり得る」ものとしてのみ解されるべきである。それ故、トマスにおいては知性は可能性としてタブらである、即ち、認識能力あるものである。「さもなければ、人間は自ら知識を獲得することはできないであろう。」(37)ラサによっては、ただ時間的なはじめのみが意味され得る。「知識の獲得に際しては根源や構成要素が必ずしも常により前なるものではない。事実、我々は時としては、可感的な諸々の果から出発して可知的な根源や因の認識にまで到るのである。だが、知識の完成されるに及んでは果についての知識は常に根源や構成要素の認識に依存する。」(38)前提された可能性としてのタブラと時間的なはじめとしてのラサとは二つの異なった次元にあるが、しかも一つの全体をなしている。「ラサは時点の規定されたことがらであり、具体的人間存在のはじめ、或いは認識過程のはじめである。他方、タブラは可能態と同じ次元のうちに、従って諸条件及び諸前提の次元のうちに存する。」(39)

 我々は以上の意味においてトマスのいう「知識の先在」を理解しなければならない。「知識は人間のうちに予かじめ置かれ(前提され)ていなければならない。それは現実態において完全に達成せられたものとして考えられるべきではなくて、比喩的に萌芽的な理性の根柢として理解されるのである。」(40)トマスはこのことを次のようにいう。「知識は完全な現実態において先在していたのではなくて、いわば胚種的原因においての如くに先在していたのである」(41)と。人間のうちに前提せられるべき知識は原則的な認識能力として表わされる。対象的に認識され得るものは、その対極として人間の認識能力を要求する。「認識可能であること、従って自ら認識する精神に関係づけられることは事物の最も内面的な本質に属する。」(42)「我々の知性によって認識されることのない多くの事物が存在する。しかしながら、神の知性が現実態において、そして人間知性が可能態において認識しないいかなる事物も存在しない。」(43)この意味において、我々の知性認識の能力は認識することの原理である。

 トマス的な意味でのタブラ・ラサは、それ故に、一方において、タブラによって人間知性が全くの無規定の空虚なものでなくして、可能的に認識能力をもつということを、他方において、ラサによってただ時間的な契機のみを意味しているのである。この可能態にある知性の状態は端的な「無知」ではなくて、むしろ「未知」なのである。この未知は能動的可能態における知性、知の原則的可能性、「先在せる知」にほかならない。

二 諸原理

 前節で見たように、トマスは知識の原理としてまず能動知性の光が前提されなければならないと主張するのであるが、彼は更にもう一つの知識の原理として「諸原理」(principia)(44)を考えている。「我々のうちにはある種の知識の胚種が先在している。即ち、それは知性の第一の諸概念であって、可感的なものから抽象された形象を通じて能動知性の光によって直ちに認識される。」(45)トマスは他の個所で、それを「それ自身によって知られる一般的諸原理」(46)、「生得的諸原理」(47)、「第一の諸原理」(48)、「すべての知識のある普遍的な諸原理」(49)などと呼んでいる。諸原理によって何が意味されているのであろうか。リンネンボルンはそれについて次のように云っている。「諸原理は変化することのない秩序の契機であり、あらゆる交代、あらゆる変化にとっても超時間的な規準であり、いかなる時間、いかなる交代、いかなる時代や文化にもその価値要求において支配されない前提された妥当性である。諸原理はあらゆる個々の人間にも依存することなく、すべてのものに対して妥当する。しかも、たとえ我々が諸原理を問おうが問うまいが、常に妥当する。それはたとえ我々がそれをそのようなものとして見倣そうとそうでなかろうと、拘束的なものである。」(50)

 それが「第一の諸原理」と云われる場合、われわれはそれを数系列における第一項としてのはじめとして理解してはならない。それが意味するのは、そこからすべてのものが展開するところの諸条件の体系ということである。「いかなる学問もその諸原理を証明しない。」(51)諸原理は我々の認識の前提として、「証明不可能なもの」(52)であり、「自明的なもの」であって、知性はそれを「自然本性的に」(naturaliter)(53)、「端的に」(simpliciter)(54)認識する。諸原理は複雑なものでもあり得るし、単純なものでもあり得る。例えば、前者の例として、「全体は部分よりも大きい」というような公理が挙げられ得るし、後者の例としては、「存在」、「一」等の概念が挙げられる。ウルフ(55)は諸原理を「知識の指導的諸原理」と呼んでいる。彼によれば、それらは、矛盾の原理(或る事物は共に存在しかつ存在しないということはできない)、同一性の原理(存在するところのものは存在する。存在はそれ自身に等しい)、排中の原理(存在と非存在の間には中間項はない)、十分理由の原理(存在はそれなしにはそれが存在することのできないところのすべての要素を与えられている)、全体性の原理(全体はその諸部分の総計に等しい)、作用因の原理(非必然的な存在はそれ自身以外の他の存在の影響によって存在する)、などである。(56)「これらの諸判断は、それが他の諸判断のための基礎として奉仕するが故に、諸原理と呼ばれる。それらをより基礎的な諸判断に還元することによって証明することが不可能であるが故に、第一の、或いは直接的な諸原理であり、それらがいかなる種類のものであれ、存在の間の単純な関係及び『非存在』、『全体』、『部分』、『存在のはじめ』の如き、存在に関連する或る基本的な、そして原初的な諸概念を表わすが故に、指導的諸原理(スコラ哲学者のことばでは諸公理axiomata)である。」(57)

 また、諸原理が「生得的諸原理」或いは「生具的諸原理」と云われる場合、我々はそれを生物学的に理解してはならない。諸原理は我々が誕生のときにそれを出来上った内容として携えてくるという意味で、人間に「生得的なもの」ではない。それは、人間が前提に従って妥当性の諸原理に結合されているということ、云いかえれば、諸原理は人間に本性的に属しているのであり、知識の確実性が問題である限りで、「生得的諸原理」が前提されなければならないということ、を意味する。「それらが知性のうちに先在するということは、身体が我々の霊魂に作用する行為とは独立に、知性がそれ自身のうちに現実的にそれらを所有するということではない。それはたんに、それらは我々の知性が可感的経験から直接に出発して概念するところの第一の可知的なものであるということにすぎない。諸原理の現実的知解は、我々の推理の結論が我々のうちに内在するのではないのと同様に、我々のうちに内在するのではない。我々は諸原理を自然的に発見するのに対して、結論を我々の研究という代価を払って獲得しなければならないのである。」(58)トマスは次のように云っている。「知性は諸原理を自然本性的に認識する。そしてこの(諸原理の)認識から人間のうちに結論の知識が原因される。しかし、結論の知識は人間によって自然本性的に認識されるのではなくて、発見、或いは教授によって認識される。」(59)このことは、諸原理が我々の知識の成立の前提であるということ、そして、我々はその前提を引き受け、それとともにその前提(Voraussetzung)、即ち、予かじめ置かれているもの、に応じて改めて措定(Setzung)、即ち、行為による完成、にまでもたらされなければならないということ、を意味している。つまり、諸原理は一般に実現されるべき諸要求を設定する、と考えることができるであろう。「我々に自然本性的に植えつけられている認識」(60)を「完全な現実態における知識」(61)たらしめるということこそ我々に課せられた課題であり、同時に、教育の必然性と可能性の根拠でもある。諸原理は「前提」であり、それに対して「結論」はその「前提の展開」である。(62)

 さらに我々は、「それ自身によって知られる一般的諸原理」において、教授と学習ははじめて可能である、と云わなければならない。何故なら、教える者と学ぶ者とはその共通の諸原理(principia communia)によって、即ち、その共通の地盤において、はじめて対話可能であるからである。このことは、「教師生徒関係にとって、与えることと受取ること、単なる再生産と知識の媒介、の遮断を意味する。教師は、生徒が教える者の人格にではなくて、諸原理に結合されることを学習するということ、生徒が基礎づけられた立場からの判断をすることが可能となり、自己自身を援助することを学習するということ、に対して、責任を有する。教師は、生徒が『それ自身によって知られる諸原理』から見るという立場に立つということ、生徒が諸原理から必然性をもって帰結されるところのものを確実なものとして保持することができるが、しかし、諸原理に矛盾するものを完全に拒否することができなければならないということ、に対して、配慮しなければならない。」(63)このような意味において、教師も生徒も同一の秩序(unius gradus)に属するのであり(64)、より高い秩序へとともに導かれる「共弟子」にすぎないのである。「それ自身によって知られる」、即ち、「自明的」ということは、云いかえれば、「自然本性的に」、「端的に」知られるのであって「推論によらない」(sine discursu)(65)ということにほかならない。

 能動知性の光が「創造されざる光の一種の分有された似姿」であるように、「第一諸原理」は「創造されざる真理の或る似姿」(66)である。それが我々のうちに「植えつけられた」のは神によってである。

 諸原理に関連して、我々は最後に、いわゆる「学習=想起説」に対するトマスの立場を検討しておきたい。彼は次のように云っている。「同様にまた、或る者は、すべてのものの知識は魂とともに創造されており、そしてそのような教授によって、また、そのような知識の外的援助によっては、魂が以前に(prius)知っていたそれらのものの想起、或いは考察へと導かれるということ以外には何も起らない、と主張した。それ故に、彼らは、学習は想起以外の何ものでもないと云う。」(67)トマスはこの考えを道理にかなった基礎を欠くもの(absque ratione)として拒ける。「以前に」ということがたんに時間的に解されればそのとき、学習は記憶したものの再生産、たんなる繰り返しに終る。我々は時間的により先なるものへの遡行においては、たんに事実的な個別性を把握するにすぎず、決して基礎づけられた認識には到達し得ないであろう(69)。トマスはこの「以前に」ということを時間的な意味では理解していない。「『以前に』ということに属するものは常に原理の性格をもっている」(70)のである。従って、「以前に」ということはただ論理的な意味において理解されなければならない。

 以上、我々は「能動知性の光」及び「諸原理」がいずれも「知識の原理」として、我々の認識の前提、知識成立の条件であるということを見た。最初に挙げたトマスの命題において、「学ぶ者のうちには知識が先在する」といわれたその「知識の先在」は、知性認識の能力及び知の可能性としての可能態における先在にほかならない。知識の獲得に関するトマスの「可能態から現実態へ」の立場は以上のような知識成立の条件の下でのみ意味をもちうるのである。

三 知識の獲得と教師

 我々は前二節においてすでに知識の獲得に触れてきた。「能動知性の光」及び「諸原理」は「それでもって知性認識のおこなわれるところのもの」であるということができるが、両者に関しては、「諸原理はいわば能動知性の道具(instrumenta)のごときものである」(71)と云われている。我々は「それでもって知性認識されるところのもの」について検討するときに、必然的に同時に「知性認識せられるところのもの」(72)についても言及せざるを得ない。何故なら、「我々自身以外の他の対象のあらゆる認識は我々自身の存在と他の存在との間の一つの実在的関係である」(73)からである。「トマス・アクィナスは、一方にそれ自身における事物の世界を、他方に知識の世界を想像するどころか、これら二つの秩序を一つの単一の経験のうちに常に与えられ、一緒の分かちがたく与えられたものとして考察する。知られる事物にとって、知られることはそれ自身においてあることの代りに、知る主体のうちにあることである。知る存在にとって、知ることは単にそれ自身であることの代りに他の事物であることである。」(74)

 さて、トマスは知識の獲得を、ひとが可能態から現実態へと導かれることだとするのであるが、その際に二つの仕方を区別している。「それ故に、ちょうど或るひとが二つの仕方によって--即ち、一つの仕方においては、自然のはたらきによって、他の仕方においては、医術の援助とともに自然によって--治療されるように、知識を獲得するのにもまた二つの仕方がある。即ち、一つは、自然的な理性が自己自身によって、知られていないことがらの認識に到達する場合であって、この仕方は発見(inventio)と呼ばれる。他は、或る者が相手の自然的な理性を外的に援助する場合であって、この仕方は学習(disciplina)といわれる。」(75)このことは、既に見たように、トマスが「自然的諸事物において或るものが二つの仕方で可能態において先在する」(76)としていることに基づく。即ち、一つのしかたでは、「完全な能動的可能態」(77)においてであり、他の仕方においては、「受動的可能態」においてである。そして、知識が先在するのは第一の仕方、即ち、能動的可能態においてであった。この場合には、内的根源は可能態にある知識を獲得する者自身が可能態から現実態への移行の主要原因なのである。トマスはこのことを「発見」というのであるが、それは次のような過程をたどる。「しかし、発見することにおいて知られていないことがらの認識へと到達する理性の進行は、それ自身によって知られる一般的諸原理を一定のことがらへ適用し、そしてそこから或る特定の結論へ進み、それらから他の結論へと進むことである。」(78)

 他方において、外的な根源によるものとしての「学習」もまた、「発見」と同じ過程をたどる。「教える者もやはり、いずれも、生徒の知っていることがらに基づいて、そこから相手のこれまで知らなかったことがらの認識へと導いてゆく。」(79)この場合に、教える者は学ぶ者における可能態から現実態への移行の主要原因ではない。彼は「外的に援助する」者にすぎない。教える者は学ぶ者の精神を照明することによって、真理を教えると云われうる。しかし、トマスはこのことを次のような意味に限定する。教師のはたらきは「ちょうど(生徒の)理性に光を注入する如きものとしてではなく、(教師が)外的に提示するところのものによって(生徒の)知識の完成へと理性の光を援助する如きものとして」(80)理解されなければならない。「技術は自然を模倣し、自然を援助するものとしてはたらく」(81)のである。

 以上のことからも明らかなように、「発見」においても、「学習」においても、その認識過程は「諸原理から結論へ」の過程をたどる。既述のように、知性は「諸原理」を「自然本性的に」、「推論なしに」認識する。しかし、「結論」の知識は、「諸原理」の認識のように、自然本性的に得られるのではない。この過程はまた、「知られたものから知られていないものへ」の過程でもある。「すべての教授、すべての学習は、先在する認識に基づいてなされる」(83)のである。

 「発見」及び「学習」における「知識の獲得」の構造は、或る意味において、同じものである。我々はこのことを既に、「先在せる知識」に関連して述べた。我々のうちに先在するといわれる知識は、固定的、静的な構造をもつものではなくして、能動的能力として、知と無知の関係を、探究、問いの過程として展開してゆく可能性、人間における知の可能性であった。「知識の原理」はこの可能的な問い、可能的な探究の条件である。則ち、それはあらゆる問いを可能ならしめ、それに先行するとともに、問われたもの、探究されたものへと導くところの光である。「すべての探究において前提されているのは光そのものであり、それはまた探究されたものへと導くものである。」(84)「先在せる知識」は、教える者においても、学ぶ者においても、同じ秩序のものである。「人間の知性は何れも自然の秩序において同一の段階に属する。」(85)教師生徒関係は二重のものであり、真理に対しては人間はすべて生徒である。それに対して、人間の教師生徒関係はロゴス、則ち、真理たる神に依存し、ロゴスによって結合される対話的関係(dia-logische Verhaeltnis )である。教える者は同時に彼自身学ぶ者として、自己の探究、問いをやめることができない。

 我々は先に、「学習」における外的根源としての教師は相手の自然的な理性を外的に援助する、と云った。彼は生徒に対して、生徒の知性が知識の獲得に役立たせうる何らかの補助或いは道具を提供する。これらの補助或いは道具は一つは「記号」である。教師が「外的に」提示するこの記号は生徒におけるい知識の獲得の主要原因ではなくて、むしろ、それによって生徒自身の知性が自ら真理を発見するように促される刺激、或いは道具である。我々が記号によってそれについて教えられるところのもの、則ち、或る記号によって示されるものごとについて、我々はそれを端的に知っているか、知らないかのいずれかであるという主張に対して、トマスは次のように云う。「我々は、記号によってそれについて教えられるところのものを、或る程度知っており、また或る程度知らない」(86)と。それ故に、「学習」において学ぶ者がかかわるのは「知られたもの」だけ、或いは「知られていないもの」だけ、ではなくて、両者の関係である。それ故にまた、教える者は生徒が知っているものから知っていないものの認識へと導くのである。我々が「知っていて知らない」という事態、知と無知の共存ということを認めないならば、およそ探究とか学習ということはあり得ないと云わなければならない。トマスの云う「発見」も「学習」も、いずれもこの事態においてのみ意味をもちうる。

 教師と生徒とは、上述の意味において、同じ秩序に属すると云えるが、しかし、教師は教師という資格において、則ち、生徒との関係においては、異なった段階にいなければならない。「生徒における知識は教師における知識とは別のものである。」 (87)それ故に、「ひとが自分自身で知識を獲得する場合、自分自身を教えるとか、或いは自分自身の教師であるとか、云われることはできない。何故なら、彼のうちには教師において要求されるような完全な知識(scientia completa)が先在するのではないからである。」(88)教師は生徒の知性を援助し、記号を提示することによって、生徒の認識過程を生徒自身の力によって進展せしめるのであるが、この場合の記号の提示は、教師の「完全な知識」に基づいてなされなければならないのである。教師におけるこの「完全な知識」とは、「そこでは事物が判然と限定されて認識されるような知識」(89)である。それに対して、「生徒における知識」は、「不完全な知識」、則ち、「そこでは事物が判然としない、或る混雑の下に知られるような知識」(90)ではあるがしかし、それは「判然性、則ち、区別の原理」(91)を知るに到るべき可能態においてある知識である。それ故に、トマスは、「教師が生徒に提示する記号は、普遍的に、或る混雑のもとに知られてはいるが、しかし個別的に、或る判然性のもとに知られているのではないことがらの記号である」(92)と云うのである。学ぶ者にとっては、ことがらは「知っていて知らない」という性格をもっているが、しかし、教える者にとっては、その同じことがらは既に解決されたもの、判然と知られたものでなければならない。さもなければ彼は導くことができないであろう。

 教師が生徒をして、知られたことがらに基づいて知られていないことがらを認識せしめるもう一つの仕方は、「学ぶ者の知性を強化する」(93)という仕方であり、この場合に、彼は「生徒に諸原理の結論に対する秩序づけを提示する。」(94)このことを明らかにするためには、「比量のちから」(virtus collativa)について検討しなければならないが、それについてはまた稿を改めたい。いま、ここでは、この「諸原理の結論に対する秩序づけ」が、たんに認識の問題に関してだけ云われていると考えるよりは、むしろ一般に、教育に対して課せられた任務、教師が生徒をして、彼の諸々の課題を秩序づけることを学習せしめる仕方、と解すべきものであるということを示唆するにとどめよう。

(1)S.T., I. 117, 1c.
(2)ibid.
(3)De mag., 1c.
(4)De verit., 16, 1, ad 13.
(5)ibid.
(6)De verit., 10, 6c.
(7)S.T., I, 79, 7c.
(8)S.T., I, 77, 3c.
(9)S.T., I, 79, 7c.
(10)S.T., I, 77, 3c.
(11)S.T., I, 79, 2c.大鹿一正訳『神学大全』第6冊、1961, pp.145-146.
(12)Frederick Copleston, S.J., A History of Philosophy, vol.II, Medeaeval Philosophy, Part II, Albert the Great to Duns Scotus, New York, 1962, p.109.
(13)cf. S.T., I, 84, 7, ad 2.個別的な事物の似姿(similitudo rei particularis)In III de anim., 3. 具体的器官のうちに存する個別的なものの似姿(similitudines individuorum existentes in organis corporis)
(14)De verit., 10, 6, ad 7.
(15)Etienne Gilson, The Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas, tr. by L. K. Shook, C.S.B., New York, 1956, pp.219-220.
(16)ibid.
(17)S.T., I, 117, 1c.
(18)S.T., I, 88, 3 ad 1."id quo intelligitur".
(19)S.T., I, 12, 11, ad 3. "participatio quaedam divini luminis".
(20)S.T., I, 84, 5c. "quaedam participata similitudo luminis increati".
(21)S.T., I, 88, 3 ad 1. "quaedam impressio veritatis primae".
(22)S.T., I, 12, 2c.高田三郎訳『神学大全』第1冊、1960, p.214.
(23)De mag., 1c. "rationis lumen,...nobis a Deo inditum".
(24)ジルソン『中世哲学の精神』上巻、服部英次郎訳、1944, pp.185-193.
(25)『告白』1, 13, 21.同上、p.188.
(26)同上、p.188.
(27)同上、p.190.
(28)同上、p.190.
(29)同上、p.191.
(30)同上、p.191.
(31)同上、p.192.
(32)同上、p.193.
(33)S.T., I,79, 2c.大鹿一正訳、上掲書、p.147.
(34)Magdalene Linnenborn, Das Problem des Lehrens und Lernens bei Thomas von Aquin, Freiburg im B., 1956, S.184.
(35)ibid.
(36)S.T., III, 9, 1c.
(37)De mag., 1c.
(38)S.T., I, 85, 8, ad 1.大鹿一正訳、上掲書、pp.323-324.
(39)M. Linnenborn, op. cit., S. 189.
(40)M. Linnenborn, op. cit., S. 191.
(41)De mag., 1 ad 5.
(42)Josef Pieper, Wahrheit der Dinge, Muenchen, 1951, zitiert von Linnenborn, op. cit., S.192.
(43)De verit., 1, 2, ad 4.
(44)横山哲夫訳、『神学大全』第8冊、p.282 及びその他の個所では「基本命題」と訳されている。筆者はその原理的な性格を強調したいため敢えて「諸原理」という訳を用いた。
(45)De mag., 1c. "quaedam scientiarum semina".
(46)ibid. "principia communia per se nota".
(47)ibid. "principia innata".
(48)De verit., 10, 6, ad 6. "prima principia".
(49)S.T., I, 117, 1c. "quaedam universalia principia omnium scientiarum".
(50)M. Linnenborn, op. cit., S. 169.
(51)1 Anal., 21c. zitiert von Linnenborn, op. cit., S. 171.
(52)S.T., I, 79, 9c. "principia prima indemonstarabilia".
(53)L. Schuetzによれば、「自然から、自然的に、自然的秩序に応じて」の意。同義語はconnaturaliter, 反対語はsupernaturaliter, violenter.
(54)「絶対的に」(absolute)と同義。
(55)Maurice de Wulf, The System of Thomas Aquinas, New York, 1959.
(56)ibid., p.26.
(57)ibid., p.27.
(58)E. Gilson, op. cit., pp.215-216.
(59)S.T., I, 60, 2c.
(60)De mag., 1, ad 5. "cognitio ...nobis naturaliter insita".
(61)ibid., "scientia ...in actu completo".
(62)我々はこのことによって、トマスにおいては、知識が諸原理から演繹されるというということが強調されていると解してはならない。
(63)M. Linnenborn, op, cit., S. 178.
(64)cf., S.T., I, 117, 1c.
(65)cf., De verit., 8, 15c.
(66)De verit., 10, 6, ad 6. "quaedam similitudines inreatae veritatis".
(67)De mag., 1c.
(68)ibid.
(69)cf., M. Linnenborn, op. cit., S. 179.
(70)S.T., I, 60, 2c.
(71)De verit., 1, 1, ad 2. (72)S.T., I, 88, 3 ad 1. "id quod intelligitur".
(73)E. Gilson, Elements of Christian Philosophy, New York, 1960, p. 261.
(74)ibid.
(75)De mag., 1c.
(76)ibid.
(77)ibid. "potentia activa completa".
(78)ibid.
(79)S.T., I, 117, 1c. 横山哲夫訳、上掲書、p.282参照。
(80)De mag., 1 ad 9.
(81)拙稿「トマス・アクィナスの『教師論』(その一)」、九州大学教育学部紀要、第11集参照。
(82)S.T., I, 117, 1c. "ex notis ad ignota procedens".
(83)ibid.
(84)Nicolaus Cusanus, Complementum theologicum, cap. IV, fol. 95a, zitiert von Linnenborn, op. cit., S.206.
(85)S.T., I, 117, 1c.
(86)De mag., 1, ad 3.
(87)S.T., I, 76, 2, ad 5.
(88)S.T., I, 117, 1, ad 4.
(89)S.T., I, 85, 3c.
(90)ibid.
(91)ibid.
(92)S.T., I, 117, 1 ad 4.
(93)S.T., I, 117, 1c.
(94)ibid. "ordo principiorum ad conclusiones".

付記:本稿は1966年10月10日お茶の水女子大学における第9回教育哲学会大会での報告に若干手を加えたものであり、拙稿「トマス・アクィナスの『教師論』(その一)」(九州大学教育学部紀要第11集所収)の続篇をなすべきものである。(神奈川県立栄養短期大学助教授)

教育哲学研究第15巻 昭和42(1967)年4月 pp.19-33から転載

作成日:2003/01/23

最終更新日:2003/01/23

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