ファチマの聖母マリア

なんとも腑に落ちない話

--シスター・ルチアについて最近報道されているニュース--

The Fatima Crusader, Issue 70, Spring 2002より

ジョン・ヴェナリ(Cand.)

70年以上の間、ファチマのシスター・ルチアは、「あの可哀想な国」の回心をもたらすために天が要求したマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献のための正確な条件について首尾一貫したことを主張してきました。

しかし、ヴァチカン情報サービスVatican Information Service(VIS)によって2001年12月20日に出されたコミュニケによれば、すべてが変化したのです。ヴァチカン情報サービスはヴァチカンのベルトーネ大司教によってシスター・ルチアとなされたと申し立てられているインタビューについて報告しています。その中では、70年間以上の変わることのない証言に反して、ルチアは今や申し立てによると「聖母が望まれた奉献は1984年に成し遂げられ、天によって受け入れられました」注1と宣言しているのです。

この返答に直面して、ベルトーネ大司教は理性が要求する明らかな質問をしませんでした。手始めに、こう質問してもよいはずです。もし1984年の世界の奉献(ロシアへの言及なしの)が天の要求を満たしたとするならば、そのとき、1917年以来ファチマのメッセージが約束していたロシアの回心はどこにあるのか? と。

この質問は問われなければなりません--そして答えられなければなりません--何らかの理性的な人間が、カトリック信仰への回心の何らのしるしも示さない国、ロシアの適切な奉献のための戦いにおいて武器を捨てる前に--。

実際、奉献の18年後にロシアは、今やモスクワがロシア・テレビでのライブの成人番組--ロシアの視聴者が「十分に受信することができない」注2「リアリティ・テレビ」のロシア版--を放映するところまで、中絶、離婚、不道徳そして同性愛で荒れ狂っている頽廃的な国です。もっと悪いことに、ロシアは今や児童ポルノ配給のための指導的な世界センターです注3--しかし、これらの恐るべきことの細部については後述します。

「ファチマ信心をおだやかに地位低下させる」

シスター・ルチアと信仰教義聖省長官タルチジオ・ベルトーネ大司教S.D.B.との間のインタビューは2001年11月17日に行われた、とヴァチカン情報サービスは言っています。読者は、ベルトーネ大司教がラッツィンガー枢機卿と共著で、2000年6月26日のヴァチカン文書、第三の秘密の幻視の開示を伴った「ファチマのメッセージ」を出したことを思い出すでしょう。

11月インタビューは2時間以上続いた、そして福者フランシスコとヤチンタの列聖調査要求の副査であるルイス・コンドル(Luis Kondor)神父、S.V.D.とシスター・ルチアが住んでいるコインブラにある聖テレジア・カルメル修道院の院長同席のもとに行われたと報じられています。

報告の中で、シスター・ルチアは、聖母から新しい啓示を、特に9月11日の悲劇に関して、受けたという噂を否定しています。ファチマの第三の秘密、そして秘密を全部は受け取らなかったと主張している人々について質問されて、彼女は「すべてのことが公表されました。どんな秘密も残っていません」と報告では述べています。

秘密の問題は今のところわきへ置いておきましょう。「ファチマ・クルーセイダー」は以前のもろもろの号で、特に64号でこのことを詳細に取り扱って来ました。しかしながら、シスター・ルチアのものだと言われている言葉に対して疑いを投げかける一つの点があります。

第三の秘密がその全体において明らかにされたと主張する前に、ベルトーネのルチアは、「信仰教義聖省によって公表された小冊子を注意深く読み、そしてそれをよく考えました。そしてそこに書かれたすべてのことを確証しました」と言っています。これは奇妙なことです。というのは、「ロスアンジェルス・タイムズ」でさえ、ファチマに関するヴァチカンの6月26日の文書が「ファチマ信心をおだやかに地位低下させる」注4ということを認めたからです。さらに、同じ6月26日のラッツィンガー/ベルトーネ文書は、シスター・ルチアが「信心のいろんな書物の中に見たであろう諸々のイメージ」注5から秘密の幻視の考えを得たのであろうという示唆を持ち出しています。これは、実際、異端的なオランダ・カテキズム注6に貢献した近代主義者のイエズス会士エドゥアルド・ダニス(Edouard Dhanis)のテーゼです。彼はファチマの地位を低下させようとすることから身を立て、また、ルチアが「第三の秘密」注7の事柄全体を意図せずにでっち上げたのであろうと示唆しました。

 もしベルトーネのシスター・ルチアが6月26日の文書に「書かれたあらゆる事柄を」確証するならば、それは、シスター・ルチアが今や、間接的に、秘密の幻視は(カトリック信徒が1917年以来信じるように導かれたように)最初に天から来たものではなくて、彼女が信心の書物のうちに読んだものに基づいて、彼女自身の頭から作り上げたものであると告白しているということを意味します。このような陳述はヴァチカンにいるファチマ修正主義者たちとってあまりにも利己的なものだと思われます。注8この点に関してこれ以上コメントするよりはむしろ、わたしたちは、それがルチアの生涯にわたる証言の堅固さとは一致しないとだけ言っておきましょう。公会議以後の時代に典型的であるように、わたしたちは解答を得るよりももっと多くの疑問を生み出す、もう一つのヴァチカンの「説明」に直面しているのです。

1984年の奉献

ヴァチカン情報サービスは次ぎに教皇ヨハネ・パウロ二世の1984年の世界の奉献の問題に言及しています。報告を引用すると、以下のとおりです。「シスター・ルチアは質問された。『教皇が最終的にマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するために--それはこれまでに決してなされなかた--、署名を集めているグルーナー神父のしつこい確言に対してあなたは何と言いますか? 』彼女はこう答えた。『カルメル共同体は署名集めのための書類を拒絶しました。わたしはすでに、聖母が要求なさった奉献が1984年に達成され、天によって受け入れられたと言ってきました。』」注9

この陳述が提起する諸問題を論じる前に、全司教によるロシアの奉献のための署名集めは必ずしも邪悪な行為ではないし、またグルーナー神父とともに始まったのでもないと言わなければなりません。さまざまのファチマ使徒職はそれを数十年にわたって行ってきました。

ひとつだけ例を挙げましょう。1971年、若いニコラス・グルーナーが司祭に叙品される五年前に、ファチマのヴェナンシオ司教は適切な奉献を要求する署名を集めるように平信徒のグループ、特にブルー・アーミーを励ましました。数年以内にスリピイ(Slipyi)枢機卿は教皇パウロ六世に司教全体によるロシアの奉献のために200万以上の請願を差し出しました。注10 さらに、シスター・ルチアのカルメル修道院がこれまでにこれらの署名集めに率先して参加したかどうかは明らかではありません。

しかしそれは比較的重要でない点です。もっと重大なことは、ロシアの回心と聖母の汚れなき御心の勝利をもたらすために、世界の司教たちと一致した教皇による全教会をあげてのロシアの奉献を天が要求したことについてのシスター・ルチアの堅固な証言に突然の断絶が生じたということです。

半世紀以上の首尾一貫性:ロシアは名前をあげて奉献されなければならない

55年以上前、1946年7月15日に、優れた著作家であり、歴史家であるウィリアム・トマス・ウォルシュ(William Thomas Walsh)はシスター・ルチアにインタビューをしました。そのことは彼の優れた著作「ファチマの聖母」に詳しく述べられています。書物の最後に出てくるこのインタビューでウォルシュ氏は司教全体による奉献のための正しい手続きについて彼女に鋭い質問をしました。

「最後にわたしたちは7月2日の秘密の重要な主題に至りつきました。それについては、非常に多くの、そして対立する解釈が公表されてきました。ルチアは、聖母がご自分の汚れなき御心に対する世界の奉献を求められなかったということを明らかにしました。聖母が特に求められたことは、ロシアの奉献でした。聖母は、もちろん、ピオ十二世が1942年に汚れなき御心に、ロシアではなく、世界を奉献されたという事実についてコメントなさいませんでした。しかし、ルチアは再三、そしてよく考えた上で強調してこう言いました。

 『聖母が望んでおられることは、教皇様と世界中のすべての司教様方がある特別な日に聖母の汚れなき御心にロシアを奉献するということです。もしこのことがなされるならば、聖母はロシアを回心させ、そしてそこには平和が来るでしょう。もしそれがなされないならば、ロシアの誤謬は世界中のあらゆる国に広まるでしょう。』と。」注11

シスター・ルチアは明快で率直です。天によって要求された全司教による奉献は 世界の奉献ではなくて、ロシアの奉献です。それは同じ日に世界の司教たちと一致した教皇によってなされなければなりません。

次ぎに、1950年代の初期にシスター・ルチアに対する聖母のあまりよく知られていない啓示があります。それはイタリア司教団の後援のもとに発行されたIl Pellegrinaggio Della Meraviglieにおいて詳しく述べられています。おとめマリアは1952年5月にシスター・ルチアに御出現になり、こう言われました。「教皇に、わたしが汚れなき御心へのロシアの奉献を常に待っているということ、奉献なしにはロシアは回心することができず、また世界も平和を持つことがないだろうということを知らせなさい。」注12

このように、教皇ピオ十二世の1942年の世界の奉献の10年後に、わたしたちはシスター・ルチアに、もしロシアが名を挙げて奉献されないならば、ロシアは回心させられないし、また平和もないだろうと、思い出させられる聖母の報告を持つのです。

1982年までのほとんど30年間、シスター・ルチアの証言はぐらつかないままです。企てられた1982年の奉献の一日前、1982年5月12日に、ヴァチカン自身の「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」がサレジオ会司祭ウンベルト・マリア・パスクアーレ(Umberto Maria Pasquale)神父によるシスター・ルチアのインタビューを発表しました。そのインタビューの間に、彼女はウンベルト神父に、聖母が世界の奉献を要求なさったことは一度もなく、ただロシアの奉献だけを要求なさった、と語りました。

「あるとき、私は彼女に言いました。『シスター、ひとつ質問したいのですが、もし答えることができないならば、それで結構です。でも、もし答えることができるならば、非常にありがたいのですが...聖母はあなたにご自分の汚れなき御心への世界の奉献について語られたことがありますか? 』

いいえ、ウンベルト神父様、決して!コヴァ・ダ・イリアで1917年に、聖母はこう約束なさいました。わたしはロシアの奉献を求めるために来るでしょう...1929年トゥイで、聖母は約束なさったように、あの国(ロシア)の奉献のために教皇に求める時が来たと私に告げるために戻って来られました。」

この証言はウンベルト神父への手書きの手紙(上の写真)において、シスター・ルチアによって確証されました。神父もまたそれを公表しました。その手紙の翻訳は次のとおりです。

「尊敬するウンベルト神父様、あなたの御質問に答えて、以下のことを明らかにします。ファチマの聖母は、その御要求において、ただロシアの奉献だけに言及なさいました...コインブラ 13 IV 1980  (署名)シスター・ルチア」

再び、1983年3月19日に、教皇の要求で、シスター・ルチアは教皇使節ポルタルピ(Portalupi)大司教、ラセルダ(Lacerda)博士、そしてメッシアス・コエリョ(Messias Coelho)神父と会いました。

この会見の間に、シスター・ルチアは、1982年の教皇ヨハネ・パウロ二世の奉献は聖母の要求を満たしていないということを確証しました。シスター・ルチアはこう言いました。

「1982年5月13日の奉献の行為において、ロシアは奉献の対象であるものとしては現れませんでした。そして各司教様は御自身の司教区において償いとロシア奉献の公式の荘厳な儀式を組織されませんでした。教皇ヨハネ・パウロ二世はただ、1942年10月31日にピオ十二世によって行われた世界の奉献を更新なさっただけです。この奉献から私たちはなんらかの利益を期待することができますが、しかしロシアの回心は期待できません。」
彼女はこう結論しました。「ロシアの奉献は、聖母が要求なさったようにはなされませんでした。私はそれを言うことができませんでした。というのは、私は聖座から許可を得ていなかったからです。」注13

一年後、1984年3月25日に教皇ヨハネ・パウロ二世は奉献の行為をされました。その中で教皇はふたたび「世界」を--ロシアではなく--奉献されました。1982年の奉献の時と同じように、「各司教様は御自身の司教区において償いとロシア奉献の公式の荘厳な儀式を組織されませんでした。」

ファチマ作家フレール・フランソワはこう書いています。「1982年の奉献の行為の単なる更新にすぎなかった1984年3月25日の奉献の行為に続く数ヶ月に、主要なファチマ学者たちは、ロシアの奉献は天が望んだようにはなされなかったと言う点で一致しました。」

そのようなことがアントニオ・マリア・マルティンス(Antonio Maria Martins)神父やメッシアス・コエリョ神父の確信でした。コエリョ神父は1984年3月25日の前晩にMensagem de Fatima--彼はその出版・編集者ですが--において次のように言いました。「ロシアの奉献:それは今回も為されないでしょう。」彼はさらにこう説明しました。「より多いものがより少ないものを含んでいることは確かです。ですから、明らかに、『世界の奉献』はおそらく特殊的にロシアを奉献することに代わる力を持っているという印象を与えるでしょう。しかしながら、問題は論理学的用語では解決できませんし、また組織神学の光に照らしてさえ解決できないのです。」注15

これらの神学者たちは彼らの陳述を、ロシアの奉献は「ロシア」という言葉に言及する必要があるという明白な事実に基づかせているばかりでなく、またシスター・ルチア自身の証言にも基づかせています。

奉献の行為の二日前、1984年3月22日に、コインブラのカルメル会はシスター・ルチアの77歳の誕生日を祝っていました。彼女は、習慣どおり、その日に古い友人、エウジェニア・ペスタナ(Eugenia Pestana)夫人を迎えました。カルメル会修道女である友人に挨拶をした後で、ペスタナ夫人はこう尋ねました。「ところで、ルチア、日曜日は奉献ですわね?」すでに教皇の奉献文を受け取り読んでいたシスター・ルチアはひとつの否定的なしるしをして、こう宣言しました。「あの奉献は決定的な性格を持つことはできないわ。」注16

適切な奉献のしるしである「決定的な性格」はロシアの奇蹟的な回心です。

そしてそのことは強調されなければなりません。というのは、今日のエキュメニズム的なものの考え方は、ロシアの回心はカトリシズムへの回心を意味するという論点をぼやけさせたからです。これは単に常識の論点であるばかりでなく、また、おそらく二十世紀の最高のファチマ専門家であるホアキン・アロンゾ神父の証言のうちにも見出されます。シスター・ルチアと多くのインタビューをしたアロンゾ神父は1976年にこう書きました。

「...わたしたちは、ルチアが常にロシアの『回心』はソヴィエットのマルクス主義的無神論を拒絶して、ロシアの人々が正教会のキリスト教的諸宗教に戻ることに限定されるべきではなく、むしろ、それが純粋に、端的にそして単純に一つの真のキリストの教会、カトリック教会へのロシアの全体的、総体的な回心のことを指していると考えていた、と主張すべきです。」

Sol de Fatimaでの1985年のインタビューにおいて、シスター・ルチアは、教皇が1984年に世界を奉献したとき、聖母のご要求を果たしたのかどうか尋ねられました。シスター・ルチアはこう答えました。「すべての司教様方の参加がありませんでしたし、またロシアの言及がありませんでした。」それで彼女はこう尋ねられました。「それでは奉献は聖母によって要求されたようにはなされなかったのですか?」それに対して彼女はこう答えました。「ええ、なされませんでした。多くの司教様方はこの行為を重要だとは考えられなかったのです。」注18

進歩主義者たちの僚友であるルネ・ローランタン(Rene Laurentin)神父でさえ、1986年に次のように認めました。「シスター・ルチアは不満足のままです...注19 ルチアは奉献が聖母の望まれたとおりには『なされなかった』と考えているように思われます。」注20

次ぎに、1987年7月20日に、シスター・ルチアは選挙の間修道院の外で急いでインタビューを受けました。ここで彼女はジャーナリストのエンリケ・ロメロ(Enrique Romero)にロシアの回心は要求されたようにはなされなかったと語りました。注21

1984年の奉献が天の諸条件を満たさなかったというもっと多くのシスター・ルチアの主張を引用することができますが注22、要点をわかってもらえたと思います。

それにもかかわらず、わたしたちに「解明」を与えるためにはるばるポルトガルまで旅行されたベルトーネ大司教はシスター・ルチアに明白な次の質問を決してしませんでした。「聖母が『世界』の奉献を求められず、『ロシア』の奉献を求められたのだと過去70年間主張されたのに、あなたはなぜ今、『世界』の奉献が天の要求を満たしていると言われるのですか?」

わたしたちの洞察力のあるヴァチカンの質問者はこの問いをすることを単純に忘れたのでしょうか? そのことは彼に決して起こらなかったのでしょうか? 彼は都合を考えて「質問しないことに」したのでしょうか? この問題に関して、わたしたちは彼とシスター・ルチアとの間の会話の正直な説明を受けているのでしょうか? 私はこれらの問いに答えることはできません。わたしたちに分かるのはただ、ベルトーネ大司教が、70年間の不動の証言に関するシスター・ルチアの突然の180度方向転換が何であると思われるかの理由を私たちに決して解明してくれなかったということです。

ベルトーネ大司教はまた、問われるべきだと声を大にして言うべき他のもろもろの質問をシスター・ルチアにしませんでした。すなわち、もし天によって要求された奉献が果たされたのであれば、ロシアの回心は『どこに』あるのですか? 平和の約束は『どこに』あるのですか? 汚れなき御心の勝利は『どこに』あるのですか?

しかし、事実を正直に受け入れましょう。誰もこれまでファチマに関する専門家であることについてベルトーネ大司教を非難したことはありません。彼はファチマ趣味に熱中する人であるとさえ思われませんし、また週末の道楽として楽しむ人でさえありません。おそらく、ベルトーネ大司教は、聖母がすでに、ご自分の汚れなき御心の勝利がどのように見えるかについて、世界に一つのおぼろげな感知、のぞき見、前奏曲を与えられたということに気づいていないのです。聖母は1931年5月13日にポルトガルにおいて、ポルトガルの司教団がその国を--名をあげて--奉献した後に、このことをなさったのです。

教皇が世界の司教たちと一致してロシアを汚れなき御心に奉献するとき、世界的になそうとしておれることを一つの国のレベルで示すために、聖母はポルトガルをお用いになったと思われます。おそらく、聖母はまた、気の抜けた汎宗教的な「愛の文明」が決して天の元后の勝利を装うことができないように、わたしたちにこの予告編をお与えになったのです。

ポルトガルの奉献:「聖母のショーケース」

1931年5月13日、その出来事のためにファチマにやって来た30万人の信徒の面前でポルトガルの司教団はマリアの汚れなき御心にその国を荘厳に奉献しました。これらのよき司教たちは、ヨーロッパ中を、特にスペインを襲っていた共産主義の悪影響からその国を守るために、ポルトガルを聖母の保護の下に置いたのです。この奉献の結果としてポルトガルは三つの奇蹟を経験しました。ここで、わたしたちはただありのままの点だけを述べることにします。注23

1)すばらしいカトリック・ルネッサンスがあり、カトリック生活の偉大な再生がありました。それは非常に顕著であったので、それを経験した人々はそれを問題なく神の働きに帰しました。この時期の間、ポルトガルは司祭職の召命において猛烈な急増を享受しました。修道者の数は10年間にほとんど4倍になりました。もろもろの宗教共同体も同じように増加しました。カトリック新聞、カトリックラジオ、巡礼、黙想会、そして司教区および小教区の枠組みに統合されたカトリック・アクションのたくましい運動を含む、多くの領域に現れたキリスト教的生活の大きな更新がありました。

このカトリック・ルネッサンスは非常に巨大なものだったので、1942年にはポルトガル司教団は共同牧会書簡において次のように宣言しました。「25年前に目を閉じ、今目を開く人は誰でも、ファチマでの祝せられたおとめの御出現のつつましいそして不可視的な要因によって作用した変容が非常に大きいので、ポルトガルをもはや認めないでしょう。実際、聖母はポルトガルを救おうと望んでおられるのです。」注24

2)政治的、社会的な改革の奇蹟が、カトリックの社会的諸原理に一致して、行われました。1931年の奉献後間もなく、ポルトガルにおける一人のカトリックの指導者、アントニオ・サラザール(Antonio Salazar)が権力の座に登りました。彼はカトリック的、反革命的プログラムを開始しました。彼は、政府の法律と諸々の社会制度がキリストの律法、その福音そしてその教会と調和する、できるかぎりカトリック的な社会秩序を作ろうと努力しました。注25 社会主義と自由主義の恐るべき敵対者である彼は、「家庭を衰えさせ、あるいは解体するあらゆる事柄」注26に反対しました。

サラザール大統領は単によい方針を語っただけではありません。彼は、離婚を認めない法律を含む、家庭を守るための法律を制定しました。24条ではこう定められています。「カトリックの結婚の本質的諸特性と調和して、教会法上の結婚の儀式というまさにその事実によって、夫婦は離婚を求める法的権利を断念するということが理解される。」注27 この法律の結果は、カトリックの結婚の数が減らずに、増加したということです。その結果、1960年までに、この国におけるすべての結婚のうちの約91%が教会法上の結婚でした。

それが愛の文明です。そしてわたしたちが第三千年紀に入って、どこにもそういう光景を見ることがないのです。それは確かに1984年以後のロシアには、後に見ますように、見出されないことです。

3)平和の二つの奇蹟がありました。ポルトガルは、共産主義の恐怖政治から、特に隣のドアで荒れ狂っていたスペイン市民戦争から守られました。ポルトガルはまた第二次世界大戦の荒廃からも守られました。

スペイン市民戦争に関して、ポルトガルの司教団は1936年に、もし聖母がポルトガルを守ってくださったならば、マリアの汚れなき御心への国家の奉献を更新することによって彼らの感謝を表明すると誓いました。その言葉にたがわずに、彼らは1938年5月13日に聖母の御守護への感謝として汚れなき御心へのポルトガルの奉献を更新しました。カレイェイラ(Carejeira)枢機卿は公式に次のことを認めました。「1917年にファチマの聖母が御出現になって以来...ある特別の神の祝福がポルトガルの地に下りました...特に、わたしたちの誓約以来過ぎ去った2年間を振り返ってみるならば、神の見えざる御手が、戦争の鞭と無神論的共産主義の堕落を免れさせながら、ポルトガルを守られた認めざるを得ません。」

教皇ピオ十二世でさえも、ポルトガルがスペイン市民戦争の恐怖と共産主義の脅威から免れたことに驚きを表明されました。ポルトガル国民への挨拶の言葉の中で、教皇は「あなたたちにとって非常に脅威的で、非常に身近であった、にもかかわらず、あのような予期しない仕方で避けられた赤い危険」注28について語られました。

ポルトガル国民はこの最初の危険を無傷で切り抜けました。しかし直ちに第二の悪しきことが彼らの前に現れました。第二次世界大戦がまさに勃発しようとしていました。

1939年2月6日、宣戦布告の七ヶ月前、シスター・ルチアは彼女の司教であるモンセニョール・ダ・シルヴァ(Msgr. da Silva)に手紙を書きました。彼女は司教に戦争は切迫していると告げました。しかし次ぎに奇蹟的な約束について語りました。彼女はこう言いました。「この恐るべき戦争の中で、ポルトガルは、司教団によるマリアの汚れなき御心への国家的奉献のゆえに危害を与えられないでしょう。」注29

そしてポルトガルは戦争の諸々の恐怖を免れました。その詳細についてはあまりにも数が多くてここでお話しすることができません。注30 いっそう注目すべきことには、シスター・ルチアは1940年12月2日に教皇ピオ十二世に手紙を書いたのです。それは他の国の司教たちが彼らの国をマリアの汚れなき御心に奉献したならば、他の国も受けたであろう特別の守護を戦争の間、ポルトガルが受けているということを教皇に告げるためでした。彼女はこう書きました。

「教皇聖下、われらの主は...戦争においてわたしたちの国に特別の守護を約束なさっています。それはマリアの汚れなき御心への、ポルトガル司教団による国家の奉献によるものです。それは、他の国々もまた、自らをマリアに奉献するならば、その恵みを得たであろう証明としてです。」注31

同様に、ポルトガルのカレイェイラ枢機卿は、この時期の間聖母がポルトガルのために得られた大きな恵みをファチマの聖母に帰することをためらいませんでした。1942年5月13日、彼は言いました。「ここで25年間に起こったことを表現するために、ポルトガル語の語彙はたった一つしかありません。それは奇蹟という言葉です。そうです。わたしたちはポルトガルの驚くべき変容をいと聖なるおとめの守護に負うていると確信しています。」注32

カレイェイラ枢機卿はさらに、1931年の奉献のために聖母がポルトガルのために得られた奇蹟的な祝福は、ロシアが聖母の汚れなき御心に適切に奉献された後に聖母が全世界のためになさるであろうことの予告である、と説明しました。注33 枢機卿はこう言われました。

「ポルトガルにおいて起こったことは、奇蹟であることを示しています。そしてそれはマリアの汚れなき御心が世界のために準備なさったことを予め示しているのです。」注34

このように、なぜポルトガルがこのときに「聖母のショーケース」と呼ばれたかを理解することは難しいことではないのです。そしてポルトガルのこの三つの奇蹟は、ロシアと世界が全司教たちによるロシアの奉献の後に見るであろうことの予告として存在しています。この予告はまた、わたしたちが現在を判断することができる計器としてわたしたちの役にたちます。ポルトガルの三つの奇蹟をロシアと世界の現在の状態と比較するならば、ロシアの適切な奉献がまだ達成されていないことは明らかです。

1)1931年の奉献の後ポルトガルには偉大なカトリック・ルネッサンスがありました。しかし、1984年の奉献以来、ロシアはカトリック生活の再生を誇っていません。

カトリック教会はロシアにおいてはまだ少数派宗教です。ロシアにおける最大の宗教は分派的なロシア・オーソドックスです。次ぎに大きな宗教はイスラム教で、それに続くのがプロテスタント諸派です。ロシアにおけるカトリック宗教は諸々のセクトのうちの一つのセクトの地位しか持っていません。すなわち、ムーニーズ、モルモン教、クェーカー派、エホヴァの証人、ハーリ・クリシュナ、そしてサイエントロジー教会のような少数派宗教の水準にあるのです。注35

これは、特に司教たちの奉献の結果であったポルトガルのカトリック・ルネッサンスと比較したとき、ぜんぜん「ロシアの回心」ではありません。

2)1931年の奉献に引き続いて、ポルトガルにおいてはカトリックの諸々の社会的原理に一致した、政治的、社会的改革の奇蹟がありました。しかし、1984年の奉献の後、ロシアのどこにも社会的改革はありません。それどころか、ロシアは現在不道徳と頽廃で荒れ狂っています。

奉献の18年後、ロシアは世界で最高の中絶率を持っています。過去8年間ロシアで過ごしたダニエル・マウラー(Daniel Maurer)神父 C.J.D.は、統計的に、平均的なロシア女性は妊娠可能期間に8件の中絶を行うだろうと言っています。--しかし、マウラー神父は実際の数は女性一人につき12の中絶であると考えています。彼は25回の中絶をした女性たちと話したことがあります。これらの恐るべき数字の理由は、他の避妊の手段(それらはいずれにせよ道徳に反するものですが)がロシアに導入されてこなかったこと、またそれらが信用されていないことです。このことが、中絶を「家族の大きさを制限する最も安価な方法」として残しています。現在、ロシアでは中絶は無料ですが、出産はそうではありません。注36

真のカトリック信仰を保護しそれをわれわれの子どもたちに伝えることはわれわれの義務である。イエズスは一人の小さな子どもを御自分のところへ呼び、彼らの真ん中にその子どもを立たせてこう言われた:「われ誠に汝らに告ぐ、汝ら、もし翻りて幼子のごとくにならずば、天国に入らざるべし。」(マテオ18:3)「されど、われを信ずる、このいと小さき者の一人をつまずかする人はろばのひきうすを首にかけられ、海の深みに沈めらるるこそ彼に益あるなれ。」(マテオ18:6)

1931年以後のポルトガルにおいては、一人のカトリックの国家元首が事実上離婚を禁止しました。しかし、1984年以後のロシアでは、離婚率はアメリカ合衆国に匹敵しています。そのことは、それが異常に高い離婚率であるということです。>

ロシアはまた世界の中で最高のアルコール消費の国です。悪魔主義がロシアでは増加傾向にあり、出生率は急落しつつあり、そして同性愛がモスクワにおいて、また国中に猛威をふるっています。実際、「適切な奉献」の9年後の1993年4月にはボリス・エリツィン(Boris Yeltsin)は、同性愛を犯罪の枠からはずして許可しました。同性愛は現在ロシアでは「合法的」なのです。注37

もっと悪いことに、ロシアは今や児童ポルノの配給のための指導的世界センターです。アソシエイテッド・プレス(Associated Press)は、2001年8月9日、テキサスにおける他の児童ポルノ組織と結びついたモスクワを基地とする児童ポルノ組織について報じました。APを引用します。

「ロシアの法律は児童ポルノと成人を含むポルノとを区別せず、ポルノの生産と配給とを比較的重要でない犯罪として処理している、とハイテク犯罪を取り締まるロシア内務省の幹部、ディミートリー・チェプチュゴフ(Dmitry Chepchugov)は述べた。ロシア警察はしばしば、ロシアを児童ポルノ生産の国際的センターに変えた法的混乱について不満をもらしている。不幸なことに、ロシアは児童ポルノの世界的ゴミ入れとなってしまった。チェプチュゴフはモスクワ報道員にこう語った。」注38

ロシアの児童ポルノ問題の恥ずべき事柄は2001年10月22日のニュースに出ました。インターファックス・ニュース・エイジェンシー(Interfax News Agency)は、ロシアを基地とするサイバー犯罪の新しい波について報道した「モスクワにハイテク犯罪増加」という記事を載せました。

「昨年インターポール(国際刑事警察機構)を通過したハッカー攻撃に関する国際捜査の四分の三はモスクワに関係していた」と不満をもらしたのは、再びロシア内務省幹部ディミートリー・チェプチュゴフでした。

彼は、「Eメイル経由で殺人の契約をすることを含めて、犯罪を遂行し、また隠すために、同様にまたインターネットを通しての詐欺的な商行為、児童ポルノの配信のために、薬物や武器を販売し、疑いを招くような品物を集配し、匿名の注文を出すために、最新の複雑な技術、たいていはエレクトロニクスの装置を用いた技術を獲得する犯罪グループへと向かう着実な傾向」注39 があると言いました。

ロシアの堕落についての次の例は非常に挑発的なものなので、それについて書くことはばつの悪いものです。それで私はあらかじめ読者にお詫びを申し上げます。私はただ、すでに燃え上がっている問い:すなわち、もしロシアの名指しのない1984年の世界の奉献が天の要求を満たしていたのであるならば、そのとき、ロシアの回心はどこにあるかという問いに油を注ぐためにだけ、それを話します。

なされたと言われているベルトーネとルチアとのインタビューの8日後に、サンデータイムズ・ロンドン(Sunday Times-London)は、ロシアの新しいそしてみだらな「リアリティ・テレビ」番組”ザ・ステクロム(Za Steklom)”(”鏡の背後に”)についての記事を載せました。一日に三回放映されるこの番組について他のニュース・サービスはこうコメントしました。「ロシアはそのショーを彼らの西欧の似た番組よりももっとみだらなものにするために非常な努力を傾けた。」注40

それはおだやかな言い方です。

ここには、ロシアの視聴者が数百万人もその番組を見ていることがあるのです。

六人の二十代はじめの若い競技者たち--三人は男性、三人は女性--がひとつのアパートに鍵をかけて閉じこめられ、その中で60台のカメラが彼らを一日24時間撮影します。彼らの行動のすべてが撮影され、放映されますが、それは若い女性がシャワーを浴びるところや、もっと悪いことも含まれています。

11月17日のベルトーネ・インタビュー--そこではわたしたちはロシアが適切に奉献されたと告げられたのですが--のわずか数日後、その番組は「数百万の疑い深い視聴者が見守っているときに」注41 アパートの中で姦淫を行っている一組の男女の競技者を放映しているのです。

勝利者たち(視聴者によって最も人気があると投票されたカップルあるいは個人)はそれぞれモスクワにある一つのフラット(住居)を受け取り、そして「金になる広告とショー・ビジネスの契約を期待することができる」でしょう。

そして私はその番組が放映している同性愛の活動の詳細を読者に免れさせたいと思います。

フランケッティ(Franchetti)は古い強硬派の共産主義者たちからの非難の苦情にもかかわらず、ロシアの視聴者はレアリティ・テレビのこの「最も下品な翻案」に「いくら受信してもし足りない」と報じています。その番組は「50%以上の視聴率を誇り、数千人のロシア人は零度以下の気温に耐え、フラットの一つの窓を通してそれを一目見るために1時間以上、長い列を作った。数百万の人々はそのウエッブサイトにログオンして、そのサイトは交信の重さの下でしばしばクラッシュした。」

ロシアの回心?

ラッツィンガー枢機卿とベルトーネ大司教が根拠のないおおげさな言動でもって「これ以上のどんな議論もまたロシアの奉献を求める要求も根拠がない」注42と宣言するとき、わたしたちが彼らを信用しないのは驚くに当たらないのです。シスター・ルチアが突然ベルトーネ大司教の言うすべてのことに同意しているという大司教の孤独な証言をわたしたちが疑問視するのは驚くに当たらないのです。

3)1931年の奉献の結果として、ポルトガルは平和の奇蹟を与えられました:それはスペイン市民戦争と第二次世界大戦の恐怖を免れさせました。それとは著しく違って、1984年の奉献の後には平和がありません。ロシアの適切な奉献に引き続く平和の約束はロシアだけのためになされているのではなく、全世界のためなのです。「平和の一時期が世界に与えられるでしょう」と天から来られた美しい婦人は固く約束されたのです。

平和の払底について長々と説明する必要はありません。特に、9月11日の事件とその余波のことを考えてみれば、そうです。「歴史上最悪のテロ攻撃」は汚れなき御心の勝利の「決定的瞬間」の一つではないでしょう。世界の至るところで戦争のサーベルのがちゃがちゃ鳴る音が聞こえます。聖地における暴力は絶えず第一面のニュースです。アフガニスタンにおける砲声は続いています。インドとパキスタン--核兵器を持ち、それを使用する明白な決意を持った二つの国--は主要な軍事紛争に近づいています。注43 ジョージ・ブッシュ(George W. Bush)大統領は2002年は「戦争の年」注44 となるであろうと宣言しました。聖ペトロ大聖堂における教皇のクリスマス深夜ミサでさえ、テロリストたちによる「可能な攻撃のおそれのために」通常よりも厳しい厳戒態勢の中で行われました。注45

それにもかかわらず、ファチマに反対するヴァチカンのキャンペーンはわたしたちの「どうかロシアを奉献してください」という旗じるしをまとめて家に帰るように期待しているのです。なぜなら、「奉献はなされた」のであり、「ファチマは終わった」のだからです。

Don't Rain on My Charade

それでは、なぜ指導的なカトリック高位聖職者たちはファチマの聖母にそのような意地の悪い扱いをするのでしょうか? ヴァチカンで広まっている態度がなぜ「ファチマ問題」を抑えつけ、聖母の言葉を本当に信じている粗野な民衆を沈黙させようと努力するものなのでしょうか?

与えられる通常の理由はヴァチカン-モスクワ合意--「メッツ協定(Pact of Metz)」--です。その中で教皇ヨハネ二十三世は公会議の前の晩に、第二ヴァチカン公会議はエキュメニズムのために、ロシア正教会の司教たちがオブザーバーとして公会議に参加できるように、共産主義を非難しないことを保証しました。

今なお有効であるこの協定は、それと競合するいかなる見解もカトリック信徒の間で有名にならないように決意しているヴァチカン国務省にとって最高のものなのです。そしてファチマのメッセージは、「ロシアの誤謬」についてのその厳しい警告とともに、「メッツ」協定にとってより不利なものであることができないのでしょう。

その結果、ヴァチカンにおける今日の雰囲気はまるで狂気の状態である「ロシアを怒らせることの恐れ」によって支配されているように思われます。2000年11月の「インサイド・ザ・ヴァチカン」(Inside the Vatican)において、「教皇に最も近い相談相手の一人」と目されているある枢機卿は、教皇がさまざまの奉献や「親任」の儀式においてロシアに言及しないように忠告されていた、なぜなら、それはロシア正教会の聖職者階層を怒らせるからだ、と漏らしました。注46

これはすべて十分に真実です。そしてヴァチカンの東方政策についてわたしたちがここで言ったことを支持する山のような証拠があります。注47 しかし、わたしはなおもう一つ別の要素がここで働いているのではないかと考えています。公会議以来教会内部での新しい方向があるとして、おそらく、多くのヴァチカンの指導者たちがファチマの聖母を撃退することに余念がないように見える理由は彼らが実際「回心」という言葉に当惑させられているからでしょう。特に、ファチマの聖母に従えば、「回心」は単に汎宗教的な「神にイエスという心」ではなくて、その外にはいかなる救いもない唯一の真のキリストの教会、カトリック教会への、非カトリック者の回心だからです。

救いのためのカトリシズムへの回心? なんとおもしろくないことか!なんと偏見に満ちたことか!何たる第二ヴァチカン公会議以前のデキモノであることか!排他的なものの考え方と偏狭な宗派的見解をもったこのファチマの婦人は誰なのか?

ヴァチカンにいる人々を含めて、多くのわたしたちの教会指導者たちが、非カトリック者にとって、統一と救いのために、キリストの唯一の真の教会に回心する必要はないという誤った原理に基づいて行動しているということは一つの悲しい現実です。

わたしたちの聖なる歴史においてはじめて、2000年のカトリックの教えを無視して、誤った諸宗教のメンバーを、彼らの諸々の誤謬と戦い、彼らをカトリック教会に改宗させるために働くよりもむしろ、彼らがいまあるままに、受け入れることが、教会の政策なのです。

第二ヴァチカン公会議で生み出されたこの「新しい思考様式」はカトリック新聞からヴァチカンの最高の階層に至るまで、教会の至るところに見出されます。

例えば、ウォルター・カスパー(Walter Kasper)枢機卿の最近の声明を取り上げてみましょう。彼は教会のスター非信者、ハンス・クング(Hans Kung)の元秘書でした。教会中にその近代主義的見解が有名であるカスパーは2001年2月に教皇ヨハネ・パウロ二世によって枢機卿とされました。そして現在キリスト教一致促進のためのヴァチカン教皇庁協議会の長官の地位を享受しています。カスパーはこう言いました。

「...今日わたしたちはもはやエキュメニズムを、それによって他の人々が『回心させられ』『カトリック信徒』であることへ戻るというそういう帰還の意味においては理解していません。これは第二ヴァチカン公会議で明確に放棄されたことです。」注48

多くのカトリック信徒はカスパーのあきれた陳述についてどぎまぎしています。わたしとしては、彼の正直さを評価します。少なくとも、カスパーは今日のたいていの高位聖職者がいずれにせよ信じていると思われるが、肯定も否定もしないことを公然と言っているのです。

実際、「教会の外には救いはない」という三度も[不可謬のものとして=訳者挿入]定義された教義を軽蔑しているカスパーの陳述は現に「第二ヴァチカン公会議の精神」を代表しているのです。ヨーゼフ・ラッツィンガー神父(現枢機卿)はその1966年の著書「第二ヴァチカン公会議の神学的最重要点」(Theological Highlights of Vatican II)において、回心を不要にする、非カトリック者に対する公会議の新しい方向性について自慢しました。ラッツィンガーはこう説明しています。

「カトリック教会は他の諸教会を吸収する権利を持っていません...[一つの]基本的統一--諸教会にとどまるが、にもかかわらず一つの教会となる諸教会の--が回心という観念に取って代わらなければなりません。--たとえ、良心においてそれを求めるように動機づけられた人々にとって回心がその有意義さを保持しているとしても--」注49

ところで、ラッツィンガーはこの書物を公会議の間に書きました。カール・ラーナー(Karl Rahner)の協力者として、彼は諸文書の草案作りに精力的に取り組みました。彼は第二ヴァチカン公会議での建築家たちの本当の意図が何であったかを私たちに告げる立場にあります。そして彼は、第二ヴァチカン公会議の真の教えは、その著者たちに従えば、回心は一つのオプションであり注50、そして非カトリック者は救いあるいは一致のために真の教会へ回心する必要はないということだったと宣言しています。

このことは、もう一人の進歩主義者である公会議の専門家peritus、エドワード・シルレベークス(Edward Schillebeecks)神父と一致しています。彼は「第二ヴァチカン公会議でカトリック教会はキリスト教宗教に対するその独占権を公式に放棄した」注51ことを祝っています。

同じように、ローマに基づいた国際ユダヤ人キリスト者の証拠資料サービスからの「カトリック」ジャーナル(SIDIC)注52は非カトリック者に対する第二ヴァチカン公会議の新しい方向づけについて語りました。1999年にそれは、ルフェーブル(Lefebvre)大司教を含むいわゆる「伝統的なカトリック者」についての「主要な問題」は何かに焦点を当てました。SIDICはこう説明しました。

「...ルフェーブルとその追随者たちによって受け入れられた唯一のエキュメニズムはキリストの唯一の教会、ローマ・カトリック教会への、他の諸教会のメンバーの無条件の帰還のために努力するエキュメニズムである。この硬化した宗派心は教会の本性についての深い省察を通じて、まさに第二ヴァチカン公会議が受け入れることを拒否した種類の論理である...」注53

非カトリック者は、「ある神秘的な仕方で」キリストの教会の一部であるがゆえに、回心する必要がないという新しい主張は、エキュメニカルな運動に関するピオ十二世の1949年の教えに要約されたように、非カトリック者が彼らの誤謬を捨て、イエズス・キリストの唯一の真の教会へと戻る必要性についての教会の永遠の教えを軽蔑するものです:すなわち

「真の再統一はただキリストの唯一の真の教会(カトリック教会)への、意見を異にする人々の帰還によってのみもたらされる。」注55

悲しいことに、教皇ヨハネ・パウロ二世はピオ十二世の方向づけよりもむしろ、第二ヴァチカン公会議の新しい方向づけに加担しているあらゆる兆候を与えておられます。たしかに、ヨハネ・パウロ二世は、非カトリック者は救いのためにカトリシズムへ回心する必要はないと公然と宣言されてはいません。しかし教皇の言葉と行動は他のどんな結論のための余地もほとんど残していないのです。

(多くの)例のうちの最も強力な例の一つは、カトリック、正教そしてプロテスタント諸宗教からの「諸聖人」を含む「共通の聖人学」の創設への教皇ヨハネ・パウロ二世の呼びかけです。注56

ヴァチカンのセルジオ・セバスティアーニ大司教は提案された新しい聖人学についてコメントしながら、「それは完全に新しいこと」であると認め、次のように喜びを表明しました。「正教会とプロテスタント諸教会の殉教者たちを崇敬するという教皇の考えは実際可能的な最も広い意味でエキュメニカルです。」

次いで、2000年5月7日日曜日に、教皇の最も野心的なミレニアム儀式のうちの一つとして、ヨハネ・パウロ二世はローマのコロッセウムで開催された「新しい殉教者たち」のエキュメニカルな記念式典を主催されました。ロサンゼルス・タイムズ(Los Angeles Times)はそれを「ヴァチカンによって上演された最も広い代表的なエキュメニカルな出来事」注58 と呼びました。正教会、英国国教会、プロテスタント各派の19名の代表者が参加したその集会には5千人の人々が出席しました。

その儀式で、教皇ヨハネ・パウロ二世が名をあげたたった二人の「殉教者」は非カトリック者:すなわち、正教会の主教とルーテル派の牧師でした。注59

これらの言葉や行動は教皇エウジェーヌ四世(Eugene IV)の聖座から の次のような宣言にまっこうから反対するものです。すなわち、「カトリック教会の外にある人々は、単に異教徒ばかりでなく、またユダヤ人、異端者、分離派、も、永遠の生命にあずかることはできず、死ぬ前にカトリック教会に加わらないかぎり、『悪魔とその手下たちのために備えられている』(マタ 25:41)永遠の火に入らなければならない...カトリック教会のふところと一致のうちに住まないかぎり、たとえキリストの名のために血を流すとしても、誰も救われることはできない。」注60

いっそう不安にさせられることには、カトリシズムへ回心しようと望む非カトリック者を積極的に落胆させるヴァチカンの枢機卿たちの事例が報告されています。

ファチマ・クルーセイダーは69号において、ルーマニアの正教において育てられたリヌス・ドゥラグ・ポピアン(Linus Dragu Popian)神父の話を公表しました。1975年に彼は生命の危険を冒して、共産主義のルーマニアを脱出し、そして一人の神学生として、カトリックへ回心したいという望みをヴァチカンに申し出ました。当時の国務相長官ヴィヨ(Villot)枢機卿と他のヴァチカンの枢機卿たちは恐れをなしました。彼らは若いポピアンに、共産主義から逃げてはいけないし、またカトリックになってはならない、なぜなら、これは共産主義のルーマニアおよびルーマニア正教会とのヴァチカンの関係に損害を与えることだからだ、と告げました。注61

それ以来、ローマにおいては、事態はほとんど変わりませんでした。

聖ピオ十世協会のフェレイ(Fellay)司教は最近のインタビューの中で、カトリック教会へ改宗することを望んでいた一人の分派的(正教の)司教に出会ったと述べました。フェレイ司教は彼にローマと直接交渉するようにと勧めました。この正教の司教がヴァチカンに自分はカトリックになることを望んでいるのだと告げたとき、「パニックが起こった。翌日、司教聖省長官のネヴェス(Neves)枢機卿はその分派的司教に言った。『閣下、回心する必要はありません。公会議以後、事態は変わったのです!もはや回心する必要はないのです。』」注62

カトリック信仰への回心を強調なさったファチマの聖母のメッセージが「第二ヴァチカン公会議の精神」とは相容れないという証拠を私たちはもっとたくさん必要としているのでしょうか? 注63 その第一の忠誠が公会議の汎宗教的な構想に捧げられている人々によって現在支配されている教会においては、あなたたちが現代化(aggiornamento)を言うことができるよりも早く、ファチマの聖母の上に幕がおろされるでしょう。ゴルバチョフ・センターをステージにあげなさい。ダライ・ラマ・センターをステージにあげなさい。盆栽をかざった汎宗教的、平和のための儀式・センターをステージにあげなさい。ファチマの聖母よりもむしろ何であれ、誰であれに照明を当てなさい。かつてスポットライトは青い衣をまとった美しい婦人を照らしました。公会議の戯画はその自然の暗闇の中へと退くでしょう。そして聖母が愛し、代表しておられる2000年にわたるカトリックの伝統でステージ全体が輝くでしょう。

2002/07/31 三上 茂 試訳

脚注:

(1)"Sister Lucy: Secret of Fatima Contains No More Mysteries", Vatican Information Service[VIS], Dec. 20. 2001. このインタビューの報告はまた2002年1月9日の「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」(英語版)にも現れた。それは第三の秘密についてシスター・ルチアが述べたと主張されているコメントに関してもう少し多くの情報をもったVISレポートと実質的には同じものであった。「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」の報告はわれわれがこの論考において提出した質問には何も答えていない。すなわち、a)世俗の諸新聞でさえ、ラッツィンガーの文書はファチマを「おだやかに正体暴露している」ということを認めたときに、なぜシスター・ルチアはラッツィンガー枢機卿の2000年6月26日の文書「ファチマのメッセージ」という文書に同意すると主張するのか? b)70年間以上の変わらない証言の後に、なぜシスター・ルチアは見たところ、ロシアの奉献に関する彼女の証言を変えたのか? c)もしロシアの奉献が達成されたとするならば、そのときファチマの聖母によって約束されたロシアの回心はどこにあるのか?

(2)"Big Brotherski Goes Too Far for Staid Russians", Mark Franchetti, London Times, November 25, 2001.

(3)"Activist Says Child Porn Prosecutions Will be Difficult in Indonesia, Russia ", Christine Brummitt, Associated Press, Aug. 9, 2001.

(4)Los Angeles Times, "Catholic Church Unveils Third Secret: The Vatican's Top Theologian Gently Debunks a Nun's Account of Her 1917 Vision That Fueled Decades of Speculation", June 27, 2000.

(5)「『秘密』の結論的な部分はルチアが諸々の信心書の中で見たであろう、また長年の信仰の直感からそれらのインスピレーションを引き出したであろうイメージを用いている。」The Message of Fatima, Cardinal Josef Ratzinger, June 26, 2000.

(6)Hebblethwaite, Peter. Paul VI (New York: Paulist Press, 1993), pp.490-91を見よ。

(7)ダニス神父はラッツィンガー枢機卿の6月26日の文書「ファチマのメッセージ」において言及されているただ一人の「ファチマ専門家」である。

(8)われわれは、ついでに、1988年における大きな論争点に言及することができるだけである。すなわち、ヴァチカンはすべてのファチマ使徒職に1984年の奉献がファチマの聖母の要求を満たしたと主張するよう命じた。フレール・フランソワは1988年に「ファチマ当局者、シスター・ルチア、さまざまの教会関係者−−メッシアス・コエリョ神父、そして聖母にたいへん献身しているあるフランス人司祭を含む--に宛てられた、すべての者にロシアの奉献で教皇を悩ませることをやめるよう命じる、一通の命令が来た」と書いている。ファチマ帰依者カイヨン(Caillon)神父はこう書いている。「ローマから一通の命令が来たが、それはすべての人に次のように言い、考えるよう強制するものであった。『奉献はなされた。教皇はできることをすべてされたから、天はその姿勢に同意なさったのだ』と。」(「ファチマ:悲劇と勝利」、pp.189-190)ロシアの奉献はなされなかったと言って来た多くのファチマ使徒職が突然、1984年の奉献は天の望みを満たしたと言い始めたのは、1988-1989年のこの時期の頃であった。シスター・ルチアの偽の、タイプ書きされた手紙が出回り始めたのもこの時期であった。悲しいことに、カイヨン神父でさえ、その後間もなくその証言を変更して、1984年の奉献がファチマの要求を満たしたと言い始めた。それ以上のことについては、最近ファチマ・センターによって出版された「もみ消しの年代記」(The Chronology of a Cover-up:1929-2001)Fatima Center, 17000 State Route 30, Constable, NY 12926.を見よ。

(9)Vatican Information Service, December 20, 2001.

(10)Fatima: Tragedy and Triumph、これはFatima: Intimate Joy, World Event,Frere Francois de Marie des Anges,(English translation by Immaculate Heart Publications, Buffalo, NY, 1994)の第4巻 p.134である。

(11)Our Lady of Fatima, William Thomas Walsh,(Image-Doubleday, New York, Imprimatur 1947)p.221.強調は原文どおり。

(12)Il Pellegrinaggio Della Meravigle, p.440. Rome, 1960. イタリア司教団の賛助の下に出版されたこの同じ著作はこのメッセージが6月に教皇ピオ十二世に伝えられたということを肯定している。また、カノン・バルタス(Canon Barthas)も、その御出現を1967年のリスボン・ファチマのマリア学評議員会で言及した。 De Primoridiis cultus mariana, Acta congressus mariologici-mariana in Lusitania anno 1967 celebrati, p. 517. Rome, 1970.を見よ。 Fatima: Tragedy and Triumph, pp.21 and 37 を見よ。

(13)Centre Saint Jean 61500 Sees,(Orne)France.のPierre Caillon神父による論考の中で報告されている。この論考は月刊誌Fidelite Catholique, B.P. 217-56402.Auray Cedex, France.によって出版された。英語訳はThe Fatima Crusader, Issue 13-14(Oct.-Dec., 1983)p.3.

(14)Fatima e o Coracao de Maria, p.101-102.を見よ。

(15)Fatima: Tragedy and Triumph, pp. 172-173.

(16)ibid., pp. 167-168.

(17)La verdad Sobre el Secreto de Fatima, Fatima sin mitos, Father Joaquin Alonso,(2nd edition, Ejercito Azul, Madrid, 1988)p.78. 英語訳はJoseph Cain. スペイン語原文は次のとおり。"...podriamos decir que Lucia ha pensado siempre que la "conversion" de Rusia no se entiende solo de un retorno de los pueblos de Rusia a la religion cristiano-ortodoxa, rechazando el ateismo marxista y ateo de los soviets, sino que se refiere pura y llanmente a la conversion total e integral de un retorno a la unica y verdadera Iglesia, la catolica-romana."

(18)Sol de Fatima, September 1985.

(19)Chretiens-Magazine, March 1987,#8 Fatima: Tragedy and Triumph, p. 189.
から引用。

(20)Father Laurentin, Multiplication des apparitions de la Vierge aujourd'hui, p. 45. Fayard, September, 1988.Fatima: Tragedy and Triumph, p. 189.
から引用。

(21)シスター・ルチアのこの証言はアルゼンチンで出版されたPara Tiの8月初めの版で報じられた。World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope,Fr. Nicholas Gruner(Immaculate Heart Publishing, 1989), pp.212-213.

(22)それ以上の証言についてはFatima: Tragedy and Triumphの第四章を見よ。

(23)この「三つの奇蹟」はジョン・ヴェナリによるカセット講義「ポルトガルはなぜ戦争とテロから救われたか」にもっと詳しく説明されている。これはFatima Center, 17000 State Route 30, Constable, NY 12926で入手可能である。

(24)1942年の御出現記念祭のための共同牧会書簡、Merv. XX's, P.382 The Whole Truth about Fatima , Vol. II,"The Secret and the Church", Frere Michel de la Sainte Trinite ,(English edition, Immaculate Heart Publications, Buffalo, NY, 1989), p. 410 から引用。

(25)ポルトガル政府におけるサラザールの影響は1928年以来大きくなっていた。彼は1933年に評議会議長となった。後に、サラザールは彼の諸努力のために教皇ピオ十二世の称讃と祝福を受けた。ピオは言った。「私は彼を心から祝福する。そして彼が霊的および物質的な国家回復の仕事を成功のうちに完成させることを心から願っている。」 The Whole Truth about Fatima , Vol. II," p.412から引用。

(26)ibid. p. 415.(サラザール自身の言葉)。

(27)ibid. p. 421.

(28)ibid. p. 422.

(29)ibid. p. 428.

(30) The Whole Truth about Fatima , Vol. II," pp.369-439を見よ。

(31)ibid. p. 428.

(32)ibid. p. 405.カレイェイラ枢機卿はこれらの言葉を1942年のファチマ御出現記念祭の儀式の間に話した。

(33) わたしはラッツィンガー枢機卿のようなファチマの正体を暴露しようとする人よりもカレイェイラ枢機卿のようなファチマを信じる人の言葉を信用する。

(34) Cardinal Carejeira, Preface to Jacinta(1942), Obras Pastorais,Vol.II, 333.また、彼の1942年5月13日の説教、Merv. XX's,p.339をも見よ。 The Whole Truth about Fatima , Vol. II," p.437から引用。

(35) 「この現在の暗闇」"This Present Darkness" Part II, Mark Fellows, Catholic Family News, Sept. 2000.から取られた比喩。

(36)マウラー神父の指摘はCatholic World Report, Feb. 2001におけるインタビューに見られる。このインタビューについての梗概と注釈は「さらけ出された回心したロシアの神話」"The Myth of a Converted Russia Exposed", Martin Horvat, Ph.D., Catholic Family News, March 2001.において公表された。

(37)"Russia Legalized Homosexuality",United Press International, May 28, 1933. この論考の初めの部分を引用すれば、「ロシアの同性愛活動家たちは金曜日、男同士の合意の上での性行為を禁止していたソヴィエト刑法121条の廃止に続くソヴィエト後のロシアにおけるゲイの権利に対する大きな勝利を祝った。『これはロシアにおけるゲイとレスビアンにとって大きなニュースである』と、モスクワのゲイ雑誌 Risk の編集長、ウラディスラフ・オルタノフ(Vladislav Ortanov)は語った。」

(38)「活動家は児童ポルノの告発はインドネシアとロシアでは困難だろうと言っている。」"Activist Says Child Porn Prosecutions Will be Difficult in Indonesia, Russia", Christine Brummitt, Associated Press , Aug. 9, 2001.(Emphasis added)

(39)"High-Tech Crime on the Rise in Moscow",Interfax News Agency, Communications and Electronics Report,October 22, 2001.(Emphasis added)

(40)"Interactiverussia Announces its Own Version of 'Big Brother',"Business Wire , Nov. 8, 2001.

(41)「60台のカメラを据えつけられたフラット(住居)に鍵をかけて閉じこめられて2週間後、二人の競技者、マーゴとマックスは数百万人の疑い深い視聴者が見守っていたときに『姦淫を行った』...先週、彼らは『再び浴室の中で』姦淫しているところを撮影された。」"Big Brotherski goes too far for staid Russians", Mark Franchetti, Sunday Times(London), November 25, 2001.から引用。

(42)"The Message of Fatima" , Vatican Commentary, June 26, 2000.

(43)"India, Pakistan Prepare for War" , Associated Press,Dec. 26, 2001. "India Vows to Use Military Might" , Leuters, Jan. 3, 2002.

(44)"Bush Predicts 'War Year' in 2002" , Leuters, Dec. 21, 2001.

(45)"No ]war in God's Name, Pope's Christmas Message Says" , Leuters, Dec. 27, 2001.

(46) 同じ枢機卿は愚かな発言をした。「余りにも字義通りの考え方をしないように気をつけましょう。」Inside the Vatican, Nov. 2000.

(47)二三のものだけを挙げれば、"The Vatican-Moscaw Agreement"これはもともとJean Madiranによってフランスで出版されたものである。英語訳は「ファチマ・クルーセイダー」(Sept.-Oct., 1984)において公表された。Father Paul Crane, SJ, の"Communism and the Catholic Church"seriesで、Christian Order, 1977にある。"The Metz Pact", Atila Sinke Guimaraes,Catholic Family News,Sept. 2001.

(48) Adisti, Feb. 26, 2001. "Where Have They Hidden the Body?" by Christopher Ferrara. The Remnant, June 30, 2001.

(49)(Emphasis added)Theological Hightlights of Vatican II, Joseph Ratzinger[Paulist Press, New York, 1966], p.65-66. 書物のこの部分は公会議文書 Lumen Gentium が基づいている慎重なエキュメニカルな基礎に焦点を当てている。ラッツィンガー師の書物のより完全な議論のためには、"Vatican II vs. the Unity Willed by Christ," by J. Vennari, Catholic Family News, Dec. 2000.を見よ。

(50)このことは、たとえラッツィンガー枢機卿が彼自身の個人的見解をより正統的な立場に完全に変えたとしても、真である。公会議のテキストそのものは非カトリック者のカトリシズムへの回心を求めていない、あいまいな、不正確なものであり、非正統的なエキュメニズムへと方向づけられている。

(51)E. Schillebeeckx, OP, Ingreja ou igrejas?,in V.A.Cinco problemas que desafiam a Igreja hoje, pp.26f. Cited from In the Murky Waters of Vatican II, Atila Sinke Guimaraes(Maeta, Metairie, 1997)p. 243.

(52)SIDICはカトリック-ユダヤの「対話」を促進するために、「Nostra Aetateの発布に続く第二ヴァチカン公会議の専門家グループの要求で1965年にローマにおいて設立された」自らをカトリックと見なしている団体である。ローマを根拠地とするSIDICは以下の国々にその地方代表を持っている。オーストラリア、ベルギー、カナダ、イギリス、フランス、オランダ、イスラエル、イタリア、合衆国。

(53)引用全体は次のとおりである。「ルフェーブルのエキュメニズム受け入れの拒否は教権から出されている明白な教えにその源がある。すなわち、レオ十三世の回勅 Satis Cognitum(1896); ピオ十一世の回勅 Mortalium Animos(1928); 1949年12月20日のエキュメニズムに関する聖座の教え。ルフェーブルとその追随者たちによって受け入れられる唯一のエキュメニズムはキリストの唯一の教会、ローマ・カトリック教会への、他の教派のメンバーの無条件的な立ち戻りのために努力するものである。この硬化した分派主義はまさに、教会の本性についての深い省察を通じて、第二ヴァチカン公会議が受け入れることを拒否した種類の論理である。伝統に根ざしているとはいえ[ママ]、公会議の省察の展望はキリスト教の歴史において前例のないものであった。統合主義者たちにとって、エキュメニズムは第二ヴァチカン公会議による基本的な裏切りである。」(Emphasis added)Service International de Documentation Judeo-Chretienne, Rome,[English edition from Washington, D.C.]Vol. XXXII, No. 3, 1999, p. 22.

(54)この誤った考え方をおしすすめるために第二ヴァチカン公会議によって用いられた言葉の曖昧さは Lumen Gentium 8 に見出されるが、そこではこう言われている。”The Church of Christ subsists in the Catholic Church"--The Church of Christ IS the Catholic Church という教皇ピオ十二世の定義[Mystici Corporis, Pope Pius xII]よりもむしろ--と。常に進歩主義者であってきたラッツィンガー枢機卿は最近、キリストの教会は実際にカトリック教会よりも大きいという[誤った]考え方をおしすすめるために、公会議においてsubsistsという語が用いられたのだと認めた。公会議の間に起こったことは、ラッツィンガー神父(当時)が、ドイツのプロテスタント、シュミット(Schmidt)牧師のアドバイスに基づいて行動しながら、”is”という語を”subsists”と置き換え、そしてフリングス(Frings)枢機卿を通じて、この新しい定式を公会議の教父たちに票決するように提案したとうことである。これは公会議文書 Lumen Gentium に一つのエキュメニカルな次元を与え、キリストの教会がともかくもカトリック教会よりも広い実在であるという嘘を提出するための進歩主義的神学者や高位聖職者による陰謀の一部だった。この点に関して、ラッツィンガーが最近次のように語った。「公会議の教父たちが"is"という語を"subsistit"という語と置き換えたとき、彼らは一つの非常に正確な理由のためにそうしたのだ。"is"(to be)によって表現される概念は"to subsist"によって表現される概念よりもはるかに広いのだ。"to subsist"は非常に厳密なway of beingである。すなわち、一つの主体として存在することであり、それはそれ自身において存在するのである。このようにして、公会議の教父たちは、教会の存在はそれ自体として、ローマ・カトリック教会よりも広い一つの実体であると言おうとしたのである。しかし、ローマ・カトリック教会の内部で、それは、ある比較しえない仕方で、一つの真の、適切な主体の性格を獲得するのである。」ドイツの新聞 Frankfurter Allgemeine, Sept. 22,2000. <編集者の注記>もしあなたがラッツィンガー枢機卿のこの陳述によってまごつくならば、驚いてはいけない。なぜなら、それはあなたを混乱させることを意図しているからである。ラッツィンガー枢機卿は、"is"という語はこの文脈において"to subsist"という語よりも広い意味を持っていると主張するとき、あなたを誤解させている。"subsists"cと"is "は同じことを意味することができる。しかし、ある公会議のテキストを特徴づけるべき正確さのために、もしその文書が"subsists"という語を用いているならば、それは「キリストの教会はただカトリック教会のうちにのみ存在する」と読むべきです。悲しいことに第二ヴァチカン公会議文書における正確さのこの欠如は計画的なものである。公会議におけるラッツィンガーの仲間の進歩主義者であるEdward Schillebeeckx神父は、彼と彼の自由主義の仲間が文書において曖昧な句を用いたことを認めた。そして彼らはそれらを後でどのように解釈するのかを知っていた。何が起こっているかを疑わなかった公会議の教父たちの大部分は、キリストの唯一の教会があり、そしてそれはカトリック教会であるということを、すべてのカトリック者は、魂を救うためには保持しなければならないというカトリック信仰の教義的真理を確言するつもりだったのだということは、指摘されるべきであろう。

(55)Instructio,[The Instruction from the Holy Office on the Ecumenical Movement, Dec. 20, 1949]その全体の英語訳はThe Tablet[London]Mar. 4, 1950.

(56)Ut Unum Sint, Pope John Paul II, 1996, #84. 教皇はまた大聖年の回勅 Tertio Millennio Adveniente[# 37]においても、汎教派的な「殉教者学」に言及しました。

(57)Interview with Vatican Archbishop Sergio Sebastiania, The Catholic World, January, 1966.

(58)"Pope Honors 20th Century Christian Martyrs", Los Angeles Times, May, 8, 2000.

(59)"Blood of Christ's Witnesses Gives Impulse to Ecumenism", Zenit News, May, 7, 2000. "Pope Honors Modern-Day Heroes", Associated Press, May, 8, 2000.

(60)Bull, Cantate Domino, Eugene IV, Feb. 4, 1442, Council Florence.

(61)ポピアン神父の物語の簡単な説明については、"Vatican says, Do Not Convert to Catholicism", John Vennari, The Fatima Crusader, Issue 69, page 24を見よ。"Vatican's Ostpolitik and Ecumenism Tried to Prevent My Conversion to Catholicism" というタイトルのオーディオ・カセットでのポピアン神父の証言は、Fatima Center, 17000 State Route 30, Constable, NY 12926 から入手可能。

(62)"We are a Sign of Contradiction", interview with Bishop Bernard Fellay, SSPX, Latin Mass Magazine, Fall, 2001, p.11.

(63)わたしたちは、ファチマの聖母のメッセージがQuas Primasとどのように共鳴するか、しかしGaudium et Spesの不協和音とどのように衝突するかという大きなトピックを扱うことさえしなかった。ロシアの回心はたしかにイエズス・キリストの社会的王権の勝利であろう。(キリストの社会的王権は数世紀にわたる諸教皇によって教えられてきた。その最も美しい表現はピオ十一世の回勅 Quas Primas のうちに見られる。)

It Doesn't Add Up --The Latest Reported News of Sister Lucy

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作成日:2002/08/01

最終更新日:2004/03/23

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