アルカンタラの聖ペトロの
念祷の栞


アルカンタラの聖ペトロ著

八巻 頴男譯


念祷の栞


中央出版社


Nihil Obstat

P.V. Totsuka, Censor lib.

Tokyo, die 14 Aprilis 1938

Imprimatur

+ Doi, Archiepiscopus.

Tokyo, die 14, Aprilis 1938


p.1

譯者の言葉

 本書は、譯者が翻譯した後、一々ガブリエル師の校閲を仰いだものである。もしアルカンタラの聖ペトロの名著を、少しでも正しく日本語に再現することが出來たとすれば、同師の御援助に負ふ所が、多いことを感謝しなければならない。然しこの翻譯の有する缺陥は、譯者のみの責であることは言ふまでもない。ただ譯者は、靈的生活の達人である聖人に謙遜に學ばうとの心持を以って翻譯を進めたことを附記しておきたい。拙い手に成るこの書が、多くのキリスト敎信者の默想の生活に少しでも資する所があれば、譯者の深く悦びとする所である。
 終りに賢明なる讀者諸氏の御同情と御敎示によって、本書を更によきものとする機會を與へられれば、譯者の悦びはこれにまさるものはない。

 昭和十三年六月九日

八巻 頴男

p.2
白紙

p.3

序文

 本書の著者アルカンタラの聖ペトロはその名の示すやうに、西暦一四九九年スペインのアルカンタラで生れた。サラマンカ大學で法律を學んだ後、十六歳の時聖フランシスコ會に入った。一五二五年司祭に叙せられ、專ら説敎に身を委ねた。一五四八年管區長に選ばれたが、その後、彼は、特に心を惹かれてゐた隠者生活をその兄弟達の間に普及させるため、大に活動し始めた。また彼は特別の會憲を以って改革された一管區を起した。この熱烈なる管區はフィリッピンや日本に宣敎師を送ったが、これこそ日本のフランシスコ會の殉敎者を出した一團である。アルカンタラの聖ペトロは、殊にその禁慾生活と祈祷の精神によって有名である。また彼は、聖テレジアの改革の最初に於て大に彼女に援助を與へた人でもある。一五六二年六十三歳で没し、一六六九年に列聖された。

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 熱心な説敎者であり深遠な神祕家である彼は、書簡、改革の會憲、聖テレジア小記および念祷と默想の栞など數種の書を書殘した。
 本書は、彼みづからその献本辭に言っているやうに、この問題に關する多くの書を讀んで、これから初心者に有益と思はれる節々を抜萃した後、これに據って執筆したものである。彼が特に依據したと思はれる書は、ドミニコ會のルイス・グラナダ(慶長四年出版邦譯本ギヤ・ド・ペカドルの著者)の著である。
 或はアルカンタラの聖ペトロが讀み且つこれより抜萃したと稱する多くの書中には、ルイス・グラナダがその著作を執筆するに當って使用した書があるのだから、兩者に類似の語句が多いのかもしれない。とにかくアルカンタラの聖ペトロよりも二十六年後れて死んだルイス・グラナダが、度々版を重ねて、聖テレジアの言によれば、一五六五年にはあらゆる念祷者が手にしてゐたこの小著を自著と主張したことのないのは確かである。

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 おそらく本書はフランシスカン默想書(Manresaマンレサ 聖イグナシオが「靈操」を著した地名から來る)と稱すべきものである。然し本書の第一編には、フランシスカン的色彩が殆どない章が多いことは認めねばならない。そしてそこでは愛に訴へるよりも恐怖に訴へる要素が濃厚である。特に初心者叉は靈魂の指導者に語るアルカンタラの聖ペトロは何等獨創を示さず、彼以前の著書の考を要約したに過ぎない。然しその第十章の最後にある天主の愛を求める祈祷に於て、彼は極めて個人的またフランシスカン的なるものを示した。
 彼は、修德生活と神祕的生活との間に障壁を設けなかった第十六世紀以前のカトリックの大なる傳統に常に留ってゐた。その點に於て、彼は念祷を論じた彼以前の總ての聖人、即ち、聖イグナシオ・ロヨラ、ハルピウス、オスナのフランシスコ、ロイスブルーク、タウラー、聖トマス、及び聖ボナヴェントゥーラから聖ベルナルド、カシアノ、デオニシオ、聖グレゴリオ大敎皇、聖アウグ

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スティヌスに至る諸聖人に似て、決して聖福音と異なる方法を敎へようとするものではない。
 本書がその出版以來博した好評は、それが念祷に熱心な總ての靈魂の渇望に應ずる所が多いことを示してゐる。聖テレジアはその自傳の第三十章に於て「現今殆ど總ての人々の手中にある一小著」のことを語って、かくも純粋に念祷を實行した人が、その問題についてかくも巧みに、またかくも有益に語ったとて驚くに足らぬと附言してゐる。一五九○年敎皇グレゴリオ第十四世は「本書は靈魂を、天國に導く煌々たる光明である」と賞し、更にその著者に神祕神學の博士、また天來の光明に照らされたる敎師といふ稱號を與へた。
 この小著は默想の書と言ふよりも、寧ろ敬虔の手引書である。偉大なる靈的敎師は、カトリック敎會の總ての事柄に於けると同じやうに、アルカンタラの聖ペトロにとっても、聖靈である。聖テレジアは、本書を利用することが出來

p.7
る人々は彼女の勸めを求める必要なしと言って、本書を推賞した。抑も、念祷の本質は理論ではなくして感情であるから、少くとも初心者にとっては、本書の利用は極めて有益である。數週間後、この方法を會得したる後に、各自、その獨特の方法を試みる方がよい。これこそ、アルカンタラの聖ペトロみづからが推擧した所であって、彼は、それが靈魂に於ける聖靈の自由なる活動を少しも妨げることのないことを確信してゐる。
 我々がこの小著を出版しようとする所以のものは、特に聖者に、正しい祈祷の方法を學ばうとする人々に手引きを與へるためである。正しく、且つ純眞なる靈魂は、靈魂を天主に導く使命に忠實なるカトリック敎會が、新なる著述家の間から、いかに天主と交る傳統的方法を、最もよく示す人々を辨別する術を識ってゐるかを悟るであらう。
 次にこの翻譯は、西暦一九二三年パリで出版されたカプチン會のウバルト・

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ダランソン師のフランス語譯のテキストに據ったことを附言しておく。終りに本書の譯者なる八巻頴男氏は、多年中世紀のキリスト敎文學、殊にフランシスカン文學に親しんでゐる人であって、この種の勞作には素養を具備した人であることを一言しておきたい。

ガブリエル・マリア

p.9

目次

譯者の言葉…………………………………………………………………………………………………一
序文…………………………………………………………………………………………………………三
第一章 念祷と默想から得る利益……………………………………………………………………一五
第二章 默想と主題について…………………………………………………………………………二一
 月曜日 --  罪と自己認識 ………………………………………………………………………二三
 火曜日 --  この世の不幸 ………………………………………………………………………三一
 水曜日 --  死 ……………………………………………………………………………………三八
 木曜日 --  最後の審判 …………………………………………………………………………四四
 金曜日 -- 地獄の苦罰 …………………………………………………………………………四九
 土曜日 --  天國 …………………………………………………………………………………五四
p.10
 日曜日 --  天主の御恩惠 ………………………………………………………………………六○
第三章 默想の時とその成果…………………………………………………………………………六五
第四章 御苦難の七つの默想とその默想の仕方……………………………………………………六七
   御苦難に關する七つの默想…………………………………………………………………七一
 月曜日 -- 洗足と御聖體の定制[ママ=入力者、制定]………………………………………七一
      御聖體の祕蹟の制定について………………………………………………………七四
 火曜日 -- 園に於ける祈祷、救主の祈祷 アンナの家に入り給ふこと……………………七八
 水曜日 -- カイファの家に於いてペトロの否み及びイエズスの打擲………………………八四
 木曜日 -- 茨の冠、看よ人を、十字架を負ひ給ふイエズス…………………………………九○
 金曜日 -- 十字架と七つの聖言…………………………………………………………………九七
 土曜日 -- 槍に刺され、十字架から下ろされ給ふイエズス
      マリアの御悲嘆。イエズスの御埋葬……………………………………………一○四
 日曜日 -- 救世主の古聖所下り。聖主の御顯現と御昇天…………………………………一一○
第五章 正しい念祷に到る六つの順序……………………………………………………………一一七
p.11
第六章 念祷の前に要する準備について…………………………………………………………一一九
第七章 靈的讀書について…………………………………………………………………………一二二
第八章 默想について………………………………………………………………………………一二四
第九章 感謝について………………………………………………………………………………一二六
第十章 奉献について………………………………………………………………………………一二九
第十一章 祈願について……………………………………………………………………………一三一
第十二章 この聖なる修業に於いて守るべき若干の心得………………………………………一四二
    第一の心得………………………………………………………………………………一四三
    第二の心得………………………………………………………………………………一四四
    第三の心得………………………………………………………………………………一四五
    第四の心得………………………………………………………………………………一四七
    第五の心得………………………………………………………………………………一四九
p.12
    第六の心得………………………………………………………………………………一五一
    第七の心得………………………………………………………………………………一五三
    第八の心得………………………………………………………………………………一五四

信心論

第一章 信心の性質について………………………………………………………………………一六二
第二章 信心に達する助けとなる九つの事柄について…………………………………………一六七
第三章 信心の妨害となる十の事柄について……………………………………………………一七○
第四章 念祷に從事する人々を普通疲らす最も
   普通な誘惑とその救濟法…………………………………………………………………一七四
   第一の心得…………………………………………………………………………………一七五
   第二の心得…………………………………………………………………………………一七六
p.13
   第三の心得…………………………………………………………………………………一七九
   第四の心得…………………………………………………………………………………一八○
   第五の心得…………………………………………………………………………………一八二
   第六の心得…………………………………………………………………………………一八三
   第七の心得…………………………………………………………………………………一八四
   第八の心得…………………………………………………………………………………一八五
   第九の心得…………………………………………………………………………………一八六
第五章 念祷に從事する人々に必要な二三の心得………………………………………………一八七
   第一の心得…………………………………………………………………………………一八八
   第二の心得…………………………………………………………………………………一九二
   第三の心得…………………………………………………………………………………一九三
  第四の心得…………………………………………………………………………………一九四
p.14
   第五の心得…………………………………………………………………………………一九四
   第六の心得…………………………………………………………………………………一九五
   第七の心得…………………………………………………………………………………一九七
   第八の心得…………………………………………………………………………………一九八
   聖主に仕え始めようとする人々のための
   簡單なる訓誡………………………………………………………………………………二○○
   少ない時間に大いに進もうとする人々のすべき三つのこと…………………………二○九
付録……………………………………………………………………………………………………二一七

p.15

念祷の栞

 第一章 念祷と默想から得る利益

 この小論は念祷と默想について語るのであるから、この聖い修業から人々が得る利益について簡單に説明するのは適當なことであらう。かうすれば人々はいよいよ悦ばしい心をもって、それに從事することにならう。
 さて我々が最高の幸福、また最高善に達しようとするに當り、これを妨げる最大の障害物の一つは、我々の心の惡しき傾向であり、また善業をするに際して經験する困難また嫌惡の情であることは、誰もよく識ってゐることである。この邪魔物がないならば、善德の道を走って人間創造を遂げることは極く容

p.16
易なことであらう。それで聖パウロも「我は内なる人によりては、神の律法を悦ぶと雖も、我が五體に外の法ありて、我れ精神の法に敵對し、我を虜にして五體に在る方に從はしむるを認む」(ロマ書八章二二- 二三)と言ってゐる。即ち、總ての惡の最も普通なる原因は、我々の内にあるのである。  またこの嫌惡と困難とを取り除き、この救の業を以って我々を幸福にするがため最も有益なる原因は、信心である。
 聖トマスが我々に敎へる所では、信心とは善業への機敏さ、また氣輕さに過ぎない。それは我々の靈魂から總ての困難と嫌惡とを消滅させる。それは我々を總ての善に傾かせ善をするのに容易にする。それは靈的滋養物であり、清凉劑であり、天の露であり、聖靈の息吹であり、超自然の感動である。それは人の心を整え、力附け且つ變化させて、これに靈的事物に對する新しい嗜好と新しい熱心とを傳へ、また感覺的事物に對する新しい嫌惡と、新しい恐怖とを傳

p.17
へるやうにする。
 經験は毎日我々にそれを證する。靈的な人は深く、且つ專心なる念祷から出て來る時、自分のうちに、その總ての善い決心を新にする。そこで、人は御恩惠を戴いて善をしようと決心する。そこで、至善であり甘美にまします天主の御心に適ひ、且つ、これを愛し奉らうとの願望が起る。そこで、天主のために新たなる働をなし遂げ、惱み、且つ血を流さうとの思が起る。最後に、そこで我々の靈魂のあらゆる生氣は再び若やぎ、新にされるのである。
 もし汝がどうしてこの力強く、また貴い信心の心を得るかと私に問ふならば同じ聖博士が神的事柄の默想と觀想によると答へるのである。この深い默想と沈思は、實際我々の中に所謂信心といふこの感動と感情とを生ずる。そしてこの感情は我々を刺戟して、我々を善に到らせる。
 またこの聖なる修業は總ての聖人達によって稱賛され、且つ推薦されてゐ

p.18
る。それは信心に達する方法である。信心それ自身は一個の善德にすぎない。然しこの修業は我々を準備させて、他の總ての善德へと我々を促し進める。それは我々を刺戟する一般的な刺戟物である。
 汝はこのことをよくよく納得したいと思ふか、聖ボナヴェントゥーラが明白にかうした言葉を發してゐるのをみよ。
 「汝はこの世の困難や不幸を耐へ忍びたいならば、念祷の人となれ。もし敵の誘惑に打ち勝たんがため、德と力とを得んと欲するならば、念祷の人となれ。もしも汝自身の意志を、その情向と欲望と共に殺さうと欲するならば、念祷の人となれ。もしも惡魔の僞計を識り、そのわなを逃れんと欲するならば、念祷の人となれ。もしもその心に喜悦を湛へて生活し、爽快な心持を以って悔悛と犠牲の道を進まうと欲するならば、念祷の人となれ。もしも汝の靈魂から空しき思、空しき心遣のうるさい蠅を追拂はうと欲するならば、念祷の人となれ。

p.19
もしも汝の靈魂を信心の養液を以って養ひ、常に聖なる思と善き願望をもって靈魂を滿さうと欲するならば、念祷の人となれ。もしも汝が天主の道に於いて汝の心を強くし、且つ固めようと欲するならば、念祷の人となれ。最後に、もしも汝の靈魂からあらゆる惡を抜き取り、その代りに、善德を植え附けんと欲するならば、念祷の人となれ。この聖なる修業に於いてこそ、人は、總ての事を敎へ給ふ聖靈の感導と恩寵とを得るのである。更に、もしも觀想の絶頂に登りゆき、花婿の甘美なる抱擁を樂しまうと欲するならば、念祷につとめよ。そは、この道を經てこそ、靈魂は觀想にまで登り、天的事物を味ふに到るのである。汝は念祷の功能と力とがいかに大なるかを見んとするか。聖書の證明は言うに及ばず、特に言はうとする總てのことの證明として、我々がすでに見且つ聽いたこと、また毎日見ることを引證するだけで差當り充分である。即ち、大多數の無學な人々が、私が列擧しようとする總ての善に、また更に高い他のも

p.20
のを得た事實こそ、それである。では、これはどんな方法によるのか。即ち、念祷によるのである。」
 以上が聖ボナヴェントゥーラの言である。人は念祷よりも豐麗な寳を見出すことが出來るであらうか。このことに關し、極めて聖く信仰深い博士の他の言に傾聽せよ。彼はこの同じ德に關して語って、
 「念祷に於いて靈魂は罪より淨められ、愛德は養はれ、信德は根強くされ、望德は強められ、精神は悦び、靈魂は優しさに溶かされ、心は潔くされ、眞理は見出され、誘惑は克服され、悲しみは逃げ、官能は新にされ、冷淡は消え、平凡なる德は完成され、惡德の錆は焼きつくされる。この交りから生々とした火粉、また燃えるやうな天への憧れが生じ、この火のうちに神愛の焔が燃える。いと卓れたるかな念祷、いと大なるかなその特權、そこに天は開かれ、そこに諸々の祕密は明かにされ、そこに向って天主の耳は常に注意深くむけられるの

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である」
と言った。この聖なる修業の成果に關しての考は、これを以って一先づ終ることにする。

 第二章 默想の主題について

 念祷と默想の宏大な成果について考へたから、今度は我々が默想すべき題目について考へよう。この聖い修業の目的は、我等の心のうちに、天主に對する愛と、畏れを起させることに在る。そこで、默想に最もふさはしい主題は、我々をしてこの目的を充分達することを得しめるものである。勿論、總ての被造物、また總て靈的にして神聖なる事柄は、我々をしてそこに到らしめるものである。然しながら、一般には使徒信經に含まれてゐる我等の信仰の玄義は、もっとも有効且つ有益に我々をそれに向ってうながすのである。實際、使徒信經

p.22
は天主の御惠、最後の審判、地獄の苦罰、また天國の榮光を語ってゐる。これは我等の心を刺戟して天主の愛と畏れに到らせるいとも大なる刺戟物である。使徒信經は我等の救世主キリストの御生涯と、御苦難とを語ってゐるが、それは我々の利益である。
 使徒信經に於いて、特に語られる二つの主題がある。それは、また我々が默想に際して最も普通に考察する主題である。また使徒信經がこの聖なる修業の最も適はしい材料といふのは、極めて理由のあることである。各人にとって最も好いものは、我々の心を最も有効に天主の愛と畏れとに導くものである。
 新參者、初心者をこの道に導き、彼等に適するやうに調理されたやわらかな滋養物を與へるため、一週の間、毎日朝夕一度づつ我等の信仰の玄義の大部分にわたって二段の默想についてここに簡單に示してみたいと思ふ。我々は一日三度の食事を肉體に與へる。我々は我々の靈魂にもこれを與へよう。その滋養

p.23 物とは默想であり、神的事柄の考察である。
この默想の一部は、キリストの御苦難と復活に關するものであり、他の一部はすでに述べた他の玄義に關するものである。
 一日に二度靜修する暇を持たない人は、少くとも一週間に第一の玄義について默想し、他の週間に他の玄義を默想してもよい。あるひは、最も大切な御生涯と御苦難の默想だけにしてもよい。然しながら、改心の初めに第二をおくのはふさはしくない。それは、天主の畏れと罪の悲しみと痛悔とを必要とするこの時期に於いては、第一の默想こそ、魂にとってより適當であると思はれるからである。

-- 一週間を通じ毎日行ふ默想の第一聯 --

月曜日 -- 罪と自己認識

p.24
 今日は、罪の思出と自己認識に專心しよう。前者は、汝のうちにある凡ゆる惡を示し、後者は、汝に天主のうちにないものは何もないことを示すであらう。これが總ての善德の母である謙遜の德を得る道である。
 まづ、汝の過去の生涯の數々の罪、殊に汝が天主を識ることの少かったとき汝が犯した罪を考へよ。もしも汝が、汝自身をよく批判するならば、その罪は汝の頭髪より多く重ねられて、汝は天主の何たるかを識らない異敎人のやうに生きてゐたことを悟るであらう。實際、十誡と七つの罪源を調べて見よ。然らば汝はこの言行と思によって、度々その罪に陥ったことを悟るであらう。
 第二に天主のあらゆる御恩惠と汝の過去の生涯の種々なる時期のことを考へよ。汝はこれをどんなに使ったであらうか。汝は天主の御前に總勘定をしなければならない。汝はその小兒時代を、青年時代を、幼年時代を何に使ったか考へねばならない。また最後に、その過去の全生涯をいかに送ったかを考へねば

p.25
ならない。汝は天主を識り、これに仕へんがために、天主から戴いた肉體の感覺と靈魂の能力を何のために用ゐたのであるか。汝はその眼を空しい物をみること以外に何に用ゐたであらうか。汝の耳は僞を聞くため以外何に用ゐたか。汝の舌は種々様々の冒涜と誹謗以外に何に用ゐたか。汝の味覺、嗅覺また、觸覺も快樂と肉感的愛撫のため以外に何に用ゐたか。
 汝は天主が汝のために設け給うた祕蹟の神聖を、いか程利用したか。いかに汝は彼の御惠に感謝し奉ったか。汝は彼の靈の勸めにいかに答へ奉ったか。汝は、汝の健康と力、汝の天賦、財産と稱する汝の寳、また善い生活を送るために、汝が有してゐた便利と機會を何に利用したであらうか。 汝は、天主が汝に勸め給うた隣人をいか程顧みたか。また彼が汝に彼のために成就せよと命じ給うた慈善業をいか程心に掛けたか。汝は總決算の日に天主が汝に「汝最早家令たるを得ざれば、家來たりし時の會計を差出せ」と言ひ給ふ

p.26
とき、汝は何と答へ奉るつもりであるか。永遠の苦罰に投げ入れらるべき枯木よ、汝は汝の全生涯、また時々刻々のために申開きをしなければならないときに、何と答へ奉るつもりであるか。  第三に、汝がをかした罪、また汝が天主を認めてから毎日をかす罪を考へよ。そうしたら汝は、汝の中に、舊きアダムが生きてゐることを見出すであらう。如何に汝が天主に對して傲慢であり、その御惠に對して忘恩の徒であり、聖靈のすすめに背き、その奉仕をおこたっていたかを考へよ。汝は天主のため、快く熱心に、しかも清い心根を以って何もなさない。汝は他の動機また世間的な利益のために行動する。
 また汝はどんなに隣人につれなくして、なんじ自身には憐み深く、叉汝の意志、汝の肉、汝の名譽、また汝の總ての利益を愛した者であったかを考へよ。如何に汝は傲慢であり、野心に燃え、おこりっぽく、虚榮心に滿ち、大言壯語を

p.27
し、嫉妬深く、惡意滿々として、氣むづかしく變り易く、輕々しく、肉慾的であり、また汝の快樂、汝の無駄話、汝の笑、汝のおしゃべりを無際限に愛する者であるかを見よ。汝はいかにその善き決心を變え、その語る事が無思慮であり、その仕事が疎略であり、總ての眞面目な事に對して無氣力、また小膽であったかを見よ。
 第四に、汝の數々の罪の次に、汝の不幸の眞相を見出すため、その罪の重さを考へよ。このために汝は、自分の過去の罪の三つの場合、即ち、何に對して汝は罪を犯したか、何のために罪を犯したか、どんな風に罪を犯したかを考へねばならない。
 汝が罪を犯した當の相手を考へるならば、これは、御惠と御靈威が無限にましまし、その御慈愛と御憐みは、海の深さにもまさる天主に對してであったことを識るであらう。

p.28
 何のために、汝は罪ををかしたのであるか。名譽のため、肉的快樂のため、一つの小さな利益のため、また時には何の利益もないことのために、罪を犯したのである。また、どんな風に罪を犯したかといふに、汝はいかにも容易に、いかにも大膽に、しかも少しの懸念も、少しの怖れもなく、罪を犯したのである。まるでこの世に起ることは何も識らず、また何もわからない偶像に對して罪を犯すやうに、易々とまた悦んで罪を犯したのである。これが、かくも崇高にまします天主に對して拂ふべき敬意であらうか。これがかくも多くの御惠に對する謝恩であらうか。このやうにして十字架上に流し給うた貴き血と、汝のために受け給うた鞭と平手打は償はれるのであるか。ああ、汝が失ったものを思へば、いかに痛ましいことか。更に汝がしたことを思へばなほ更である。まして汝が自分の不幸を理解しないならば、いよいよ悲惨の極みである。
 それから、汝の「無」の究明にその考察の眼を留めることは、甚だ有益であ

p.29
る。汝自身は、罪の外に何も持たず、それ以外のものは、天主から來るのである。自然の恩惠もまた聖寵の最大の恩惠も、當然、天主のものであることは明かである。總て他の惠の源である豫定の惠は、「彼」の所有(もの)である。召命の惠み、この世にある間、我々とともにある助力の聖寵、永遠の生命の聖寵も「彼」のものである。それならば「無」と罪との外に、汝は誇るべき何物をもっているか。
 この「無」をしばらく考へて、これを自分に歸し、他を天主に歸せよ。このやうにして汝は、汝がいかなる者であり、「彼」がいかなる御方にましますかを、また、汝がいかに貧しく、彼がいかに富んでゐたまうかを、從って汝は、いかに汝みづからに頼らず、また、汝みづからを重んぜずして、彼を愛し、彼を誇るべきかを、明かにはっきりと識るであらう。
 次いで、私が今語ったばかりのこれらの事の總てを考へ、汝みづからをなる

p.30
べく低く評價せよ。汝は風吹く毎に折れる野生の蘆に過ぎず、重みもなく、德もなく、力もなく、安定もなく、頼り所のないものであることを考へよ。汝は四日前に埋葬されて、その死體に蛆がわいてゐるおそろしい忌はしいラザロのやうな者なのである。通る人々は總てこの光景を見て、鼻に栓をし、また眼を閉ぢる。汝が天主と天使の前に現はれる時は、このやうな有様であることを想像せよ。汝は天を仰ぐだけの價値もなく、また地に支へられ、被造物に養はれる値打もなく、また汝がそれによって生きるパンや空氣を有する價値もないことを思へ。
 汝はかの罪ある女と一緒に救主の御足許に跪けよ。恥よ、恥を負はしたその夫の前にある女の恥を有てよ。深い悲しみと痛悔の念を以って、汝の迷の赦を乞ひ、且つその無限の御憐みをもって、汝をその家に迎へ給ふやう願ひ奉れ。

p.31
 火曜日 -- この世の不幸

 今日は人生の不幸について考へよう。汝はこれによって、この世の榮えがいかに空しいものであるか、またこの不幸な人生よりも、脆い礎は、他にないのであるから、この人生はいかに蔑視すべきものであるかを了解するであらう。
 この人生の缺陥また不幸は、殆んど數限りないものである。が特に次の七つの事を考へよう。
 第一に、この人生は短い。人生は永くて七十年あるひは八十年である。而して更に生命が延びることがあれば、豫言者の言ったやうに、惱みと悲しみに過ぎない。この人生から、人間よりも寧ろ動物の生活に近い幼年時代を引き去って見よ。また、我々の官能も人間特有の理性をも、使用することのない睡眠に費される時を引き去って見よ。すると人生は、その外見よりも短いことが了解

p.32
される。もしも汝がこれを未來の生活の永遠なのと比較するならば、それは殆んど一個の點に見えはしないだらうか。それでかくも短い人生の吐息を樂しまふとして、終りなく續くべき生命の休息を失ふ危険を冒すのは、何と狂氣の沙汰であるかが了解される。
 第二に、この人生がいかに不確實であるかを考へよ。これは第一の不幸に加はる第二の不幸である。人生は單に短いといふばかりでなく、安定なく不安である。すでに言ったやうに、七十歳、あるひは八十歳に達する人々は、幾人あるであらうか。どれ程多くの人々が、その人生の織物を織り始めたばかりの時に、これを停止することであらう。何と多くの人々が、花の盛に、時ならず死んでゆくことであらう。救主は言ひ給ふ「然れば汝等警戒せよ、家の主の來るは何時なるべきか、夕暮なるか、夜半なるか、將鷄鳴く頃なるか、これを知らざればなり」と。この眞理を更によく理解するため、汝がこの世に於いて識っ

p.33
てゐる多くの人々の死、殊に汝の友達、汝の仲間、また名高い人々の死を考へよ。死は年齢に頓着なく、彼等の計畫や希望を吹き散らしてしまふ。
 第三に、この人生はいかに脆く、且つ弱いかを見よ。汝は人生ほど脆い硝子の花瓶はないことをさとるであらう。病人の一呼吸、太陽の一線、一杯の清水これだけで我々の生命を斷つに充分である。毎日の經験は、このことを證明してゐる。これらの原因のいずれかのため、花の盛に倒れる人々は極めて多數である。
 第四に、この生命はいかに變化して、決して同じ状態に留まることがないかを見よ。決して同じ健康状態を保たず、また同じ氣分を續けることの出來ない我々の肉體の變化を考へよ。また精神の變化を見よ。それは海の水のやうに、常に種々なる風や、常に我々を惱ます激情貪慾、また欲望の波に惱まされるのである。最後に身上に起る變化を見よ。何人も同じ状態、同じ繁榮、また同じ

p.34
悦びに留まることに滿足しない。これは場所を移りゆく車輪のやうなものである。殊に我々の生命の絶えざる動きを考へよ。夜となく、晝となく、それはとどまることなく、その一生を通じて常に失ってゆくのである。それで我々の生命は絶えず燃えつくされてゆく燈でなくして、何であらうか。それは燃えれば燃えるほど、輝けば輝くほど失せてゆくのである。我々の生命は朝開いて、晝は萎み、晩は枯れる花でなくて何であらうか。
 このやうに絶えざる變化があればこそ、天主はイザヤの口を通して「肉は總て枯草にすぎず。その總ての榮えは野の花の如し」と言ひ給うたのである。
 聖ヒエロニムスはこの語をこのやうに注釋してゐる。實際、我々の肉體は脆く、また我々はその一生涯を通じて、何處にても、常に増減して、少しも同じ状態に留ることがないこと、また今我々の論説、我々の計畫、また我々の默想の目的となるものは、それだけ我々の生命の障碍であることを思ふ時に、何人

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も我々の肉體を乾草と稱し、その總ての榮えを野の花に譬へるに躊躇しないであらう。乳呑兒はいとも速かに少年になり、少年は若者となり、やがて老人となるのであるが、老人にならない前に、彼は、おのれが最早若くないのに驚く。その美を以って多く青年を引き附けた女子はやがて皺だらけの額を見出し、始めは快かったものも、やがて嫌むべきものとなるのである。
 第五に、人生は虚僞に滿ちてゐることを考へよ。おそらくそれは最も惡いことである。人生には迷ひが多く、多くの盲目な崇拝者を引きつける。それは醜いのに我々には美しく見える。それは苦いのに我々には甘美に見える。それは短かい。しかもそれは到底思い切られない寳にみえる。それは無限にみえる。しかもそれはみじめなのである。それは非常に愛すべくして、たとへ永遠の生命を失っても、人間はそのためには危険を冒し、また働いてよいやうに思はれるが、しかもこれは、人間をしてその限りない生命を失はせる行なのである。

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 第六に、かくも不幸に滿ちてゐるこの生命は、靈肉のために、なほ多くの不幸に會はねばならないことを考へよ。これは涙の谷であり、限りない艱難の滿ちてゐる海である。
 聖ヒエロニムスの傳へる所によれば、山を平かにし海を埋めることが出來る程強い王ザーキセスは、ある日、高い所にあって、足下の無數の人々から成る軍隊を見下したことがある。熟々眺めてゐたが、やがて彼は泣き出した。そして人が彼にその泣く理由を問うた所が、彼は答えて「これから百年もたてば今茲に見てゐる人々は、一人も存在しないのだから涙を流したのだ」と言った。
 聖ヒエロニムスは言ふ。「全地を足下に見ることが出來る程、高い所に登ることを得しめよ。然らば汝は諸々の國民が相互に滅し合ひ、王國は王國に覆へされる全地の興亡と不幸とを見るであろう。汝は茲に苦痛と虐殺を見るであらう。ある人は海で死に、他の人は牢獄に曳かれる、茲に婚禮があり、かしこ

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には葬式がある。茲には横死があり、かしこには美はしき死がある。一人は富に溢れ、他は乞食をしてゐる。最後に汝はザーキセスの軍隊を見るであらう。そして今日この世界に生きてゐる總ての人々も、やがてこの世から消えてゆくのを見るであらう」と。
 人間の體のあらゆる弱さや、あらゆる勞苦を考へ、その精神の苦惱と心配、またいかなる状態に於いても、いかなる時に於いても、彼につきまとふ危険を顧みよ。汝は人生の不幸とこの世は、いかに汝に與ふるもの少きかを明かに見ることが出來て、もはやこれを重んじない心になることは、いよいよ容易になるであらう。
 總てこれらの不幸に續いて、死といふ最後の不幸が來る。肉體にとっても、靈魂にとっても、死は彼等の禍の最後である。而して肉體は間もなく總ての物を奪はれ、また靈魂は間もなく、常にそれを待ち望んだものの上におかれるで

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あらう。
 かうした默想は汝にこの世の榮がいかに短く、且つみじめであるかを理解させてくれる。しかもこの世の人々の生活は、かかる物に根據をおいてゐるので、實際輕蔑にふさはしいものである。

 水曜日 -- 死

 今日は、死の道について考へよう。

 これはキリスト敎的智慧を得るためにも、罪を逃れるためにも、またゆっくりと最後の審判に備へるためにも、最も有益な考察の一つである。
 第一に、死が襲ひ來るときが、いかに不確であるかを考へよ。
汝はその日、その場所、またどんな状態で汝を襲ふかを識ることは出來ない。

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汝は唯だ汝が死ななければならぬことを識ってゐるばかりであって、外の事は總て不確である。普通この時は、人がそれを最も望まない時、またそれを忘れてゐる時に來るものである。
 第二は、死がこの世の愛するものからばかりでなく、古くしてしかも非常に親しい友であった靈肉からの別離をもたらすことを考へよ。
 逐謫の身は、その愛するものを總て携へてゆくとも、故國から逐はれ、その故郷の空を離れることを大なる不幸と考へる。然らばその家の總てのもの、また財産や友人や父や母や子や、また馴染の深い光や空氣や、最後には總てのものから離れる普遍的逐謫は、これよりもどれほど痛ましいことであらう。牡牛は、共に働いてゐた他の牡牛から離される時、咆哮する。汝を助けて共にこの世の重荷を負ってくれた人々の群から離される時、汝の心はどんな叫びを出すことであらう。

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 更に死後、その心身を待つ運命を思うて、人の忍ぶ苦痛を考へよ。肉身に就いては、他の死者の側に七呎の墓穴が彼を待て[ママ=入力者]ゐることをよく識ってゐる。靈魂については、その未来またその運命が少しも確かではない。それこそ人間が惱むべき最大の苦惱の一つである。人は永遠の榮光と苦罰のいづれについても識ってゐる。人はそのいづれにも近い人はかく異なる運命のいづれかが、我々を待ってゐることを識ってゐる。
 この苦惱に續いて同様に、大なる他の苦惱がある。それは人が為さねばならぬ清算であって、それは最も雄々しい人々をさへ戦慄させる。
 傳ふる所によれば、アルセス修道士は臨終に際して慄へ出した。その弟子達が彼に向って「師よ、あなたは今恐怖をお持ちですか」と言ふと、彼は「わが子等よ、この恐怖は私にとって決して新しいものではない。私は常にそれを持ってゐたのだ」と答へた。

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この時に際し、人間はその總ての罪を、彼に襲ひ掛る敵の大軍のやうに思ひ出す。最も大なる罪、即ち、彼に最も快樂を與へた物を彼はいともまざまざと見て、彼は恐怖に捉へられる。ああ、かくも甘美に感ぜられた過ぎにし甘美の思出の苦しいことよ。賢者が「酒は赤く、その色は盃の中に輝き、その味は良し、然れど終に蛇の如く噛み、蝮の如く毒を注ぐ」と言ったのは、もっともな次第である。
 これこそ敵が毒を入れたこの飲物の殘り糟である。之こそ外側は、黄金であるバビロンの杯の味の名殘である。
 かくも多くの告發者に取圍まれた、かくも不幸な人間は、この審判の凄さを畏れ始めて獨り言を言ふ。「禍なるかな、我は過誤の中に生き、惡しき路を歩みぬ。この審判に際して我が行動はいかにみゆるならん」と。聖パウロは「人はその蒔きし所を刈取らん」と言ったが、我が蒔きし所とは、肉の業でなくして

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何であらう。我は唯腐敗以外に何も待つものがない。聖ヨハネは「この市街の衢(ちまた)は純金なり。潔からざるものこれに入らず」と言った。かくも惡しく、かくも恥づべき生涯を送った人は、何を望むことが出來ようか。
 次いでかうした苦惱に際して、我々を助くべき聖會の最後の救である告白、聖體拝領及び終油の祕蹟が來る。そこに惡しき生涯を送ったが故に苦しむ人の心配と苦惱を見よ。さすれば人は他の道を辿ったら、よかったと望むことであらう。もし彼が時を與へられるならば、彼はこの後どんな生涯を送ることであらう。さればかくなって彼は、天主を呼び求めるであらうが、苦しみと疾病はこの頼りに縋ることすら殆んど彼に許さない。
 また疾病の最後の出來事を見よ。これは死の先觸れである。それはおそろしくまた戦慄すべきものである。胸は膨れ、聲は嗄れ、足は弱くなり、膝は凍え鼻孔は鋭くなり、眼は落ち込み、顔は死人のやうに青くなり、舌はその用をな

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さなくなり、靈魂は去らうと努め、苦しんでゐる總ての感官はその能力を失ふ。然しながら殊に惱み、戦ひ、苦しむのは靈魂である。靈魂は肉とはなれることを恐れ、また備へられてゐる審判を恐れる。靈魂はこの別れをおそれ、その身上を愛し、審判をおそれる。
 最後に、靈魂は肉體と離れて、二つの道が汝に現れる。一つは墳墓まで汝に伴ふものであり、他は靈魂に從って審判の判決にまで到るものである。この二つに起らうとすることを見よ。その靈魂を離れた肉身を見よ、人は彼を埋葬するため、彼を立派に裝ひ、また彼を家から取り去らうと急ぐ。また、その葬式の事を一々細々に考へて見よ。鐘の音、死者の事に關して人々の問ひ、祈祷、敎會の悲しい歌唱、葬列、友達の悲痛、最後に墳墓である永遠の忘却の地にその肉體を埋めることに通常附隨する細々とした事柄などを。
 次に靈魂に行き、それがこの新しい地に向って取らうとする道、その到着

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點、叉その次に來る審判を考へ、その所に汝臨めりと想像せよ。天の御國は總てその宣告の終結を待つ。人は、その受けた總ての物に對しては針の先程のものに到るまで總決算をしなければならないのであらう。そこで人はその生命、財産、家族、聖靈の勸め、善德への傾向、殊にキリストの血について報告しなければならないであらう。而して各自は、その報告した所に從って審判されるであらう。

 木曜日 -- 最後の審判

 今日は、最後の審判のことを考へよう。
この考察は、總てのキリスト信者に力を與ふべき一つの重要なる感情、即ち、天主に對するおそれと罪惡の恐怖を、汝の靈魂に注ぎ込むであらう。
 第一に、アダムの子等の凡ゆる訴訟沙汰の調査の日のいかにおそろしいかを

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思へ。その時こそ、我等の生涯の訴訟沙汰は判決を下され、我等の未來の決定的宣告は公にせられるであらう。この日は過去、現在、未來のあらゆる時代を包含し、世界はその存在の清算をするであらう。あらゆる時代を通じて、積りに積った天の怒りは茲に發せられるであらう。世の始から、人々の犯した罪に對する怒りと憤りの流れを、かくも多くを受け入れ給うた天主の御怒りの河はいかに烈しく流れることであらう。
 第二に、この日に先立つ恐ろしき兆を見よ。
救世主がのたまうたやうに、その日の來る前に「日、月、星、最後には天と地とのあらゆる被造物に兆が顯れるであらう。總ての者はその最後に到らぬ先にその最後を識る。彼等は惱み、まだ倒れないうちに戦きはじめる。救世主が言ひ給うたやうに、人々はおそろしい海の轟きを聞き、騒ぎ立てる浪と嵐を見、またこの恐ろしい兆によって、この世に對して豫言された大なる災と不幸とを

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豫期して、怖ろしさに惟悴(やつ)れるであらう。彼等は膽をつぶし、また恐れおののくであらう。その皮膚は黄ばみ、その顔は醜くなり、その死の前にすでに死し、審判に先立って審かれ、その恐怖によって、その危険を測り、各人はおのれのことばかり心を用ゐて、他の人の事を顧みるものはない。父さへも、子を顧みないであらう。人は自分自身のことにさへ事足りない。まして誰も人のことに役立たないであらう。
 第三に、審判者に先立つ普きこの火の洪水を見よ。
審判に臨むため、この所に集れと、全世界に呼び掛けようとして、大天使の吹き鳴らすラッパのおそろしい響を聽け。殊に、來らんとしたまふ審判者のおそろしさ、御靈威を見よ。
 次に各人に關してなされる清算のいかにきびしいかを考へよ。ヨブは「人いかで神の前に義しかるべけんや。よし人は神と言争ふとするも、千の告發に對

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して、一をも身の潔白を明かにすること能はざるべし」と言ってゐる。天主の御審(しら)べを蒙り、天主がその内心に語って、「惡しき者よ、茲に來れ。汝はかくも我を輕んじてわが敵の陣營に過すとは、我を何と考へるぞ。我は汝をわが像に象(かたど)りて創り、汝に信仰を與へ、汝をキリスト信者とし、汝をわが血をもて贖ひたりき。汝のために、我は斷食し、旅し、夜を徹し、勞働し、血の汗を流したりき。汝のために、我は迫害を蒙り、頬を打たれ、惡口雑言され、辱められ嘲笑され、恥を與へられ、苦しめられ、終に十字架の死すら受けたり。この十字架、この釘こそその證據なれ。わが肉に殘れるこの足と手の傷こそその證據なれ。わが苦しみし以前の天地こそ、その證據なれ。汝は我が血をもって贖ひたる汝の靈魂をいかになせしや。ああ、愚かにして姦惡なる世よ、何故、汝は、悦びの中に汝の贖主にして、創造者たる我に仕ふることをせずして、勞苦の中に汝の敵に仕へようと欲するか。我は幾度も汝を呼びたるに、汝は一

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語も答へざりき。我は汝の戸を叩きたるも、汝は毫も醒めざりき。我は、我が手を十字架に擴げたれど汝はこれを顧みざりき。汝は我が勸め、またわがなしたる總ての約束、また威嚇も輕んじたりき。天使よ、今語れ、審判者よ、我とわが葡萄の樹とを審判せよ。わがなすべくしてなさざりしものありや」と語り給ふ時、惡しき人々はおのおの何と感ずるであらうか。
 惡しき人々、天主の事を輕んじ、善德を嘲笑し、單純を輕んじ、天主の律法よりも人の律法を好み、彼の總ての聾[ママ=入力者→聲]に耳を聾し、彼の總ての靈示に無感覺になり、彼の總ての命令に逆ひ、彼の總ての懲戒、また惠の前に不滿を表し、且つ頑固なる人々は何と答へるであらうか。天主を信ぜざるが如く生き、おのが利益より外に、他の律法を識らない者のやうに生きた人々は、何と答へるであらうか。イザヤは言ふ。「なんぢら懲しめらるる日きたらば、何をなさんとするか。敗壞とほきより來らん時、何をなさんとするか、なんぢら逃れゆきて、

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誰にすくひを求めんとするか。また何處に汝の富を殘さんとするか」と。
 第五に、審判者が惡い人々に對して、大聲に發し給ふ恐ろしい宣告、それを聞く耳をひきつけさせる、かのおそろしい言葉を考へよ。イザヤは言ふ。「その唇はいきどほりにみち、その舌は焼きつくす火の如し」と。「詛はれたる者よ、我を離れて惡魔とその使等とのために備へられたる永遠の火に入れ」といふこの言葉のやうに、焼きつくす火は他にあるであらうか。
 これらの言葉の一つ一つに表はされてゐる感じと、思の深さよ!別離よ、詛ひよ、火よ、仲間よ、殊に永遠よ。

 金曜日 -- 地獄の苦罰

 今日は、地獄の苦罰を默想しよう。
この默想は、まづ靈魂のうちに、天主を畏れ且つ罪を恐れる心を、固くするで

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あらう。
 聖ボナヴェントゥーラは言ふ。この苦罰は、聖人達が我々に敎へた肉體的の形象、また象徴をもって想像しなければならない。地獄を、受刑者と犠牲者の叫びと嘆息、また永遠の悲しみと、齒ぎしりのみ響く、地下の暗い湖のやうに、火焔の溢れる深い井戸のやうに、あるひは全く焔に輝りかがやく惱ましい暗の村のやうに、想像するのも適當であらう。
 この不幸な住居は、二種の主な苦痛を與へる。即ち、感官の苦痛と、永遠の罰の苦しみである。
 どんな外的、また内的感官にも、それぞれ苦罰があることを思へ。惡い人々は、實際、そのすべての肢、また、そのすべての感官をもって、天主に逆ひ、罪のために總てを裝うたのである。それで、各人は、その受くべき苦罰を受けその負債をはらふべきであらう。ここでは、色情に燃える正しくない眼が、お

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そろしい惡魔の幻に惱むであらう。かしこでは、虚僞と卑猥とに傾けた耳は、天主をけがす言葉と永遠の齒ぎしりを聞くであらう。ここでは、芳香や官能的な香の友である嗅覺は、堪へられぬ惡臭に滿たされるであらう。かしこでは、様々な馳走や暴食を樂しんだ味覺は、激しい飢渇に惱まされるであらう。ここでは、呟き、また天主を涜す舌は、龍の膽汁のやうに苦くされるであらう。かしこでは、優しみと愛撫の友である觸覺は、ヨブの言ったやうに、コキテの凍る水、また火の熱と焔の中を泳ぐであらう。ここでは想像は、眼前の苦惱のおそれに惱み、記憶は過ぎ去った快樂の思出に苦しみ、悟性は未來の苦惱の像に心痛み、意志は惡い人々が、神に對して抱く最大の憤怒に苦しむであらう。最後にかしこには、想像し得るかぎりのありとあらゆる禍と苦しみが、束を成してあるのを見出すであらう。聖グレゴリオは言ふ。「かしこには堪へ難き寒氣、消えざる火、不死の蟲、堪へられぬ惡しき臭、手にも觸れられるやうな厚き黒

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暗、死刑執行者の加へる毆打、惡魔の幻、罪惡の亂脈、また總ての富を失へる絶望があるだろう。」
 今、我に語れ、總てこれらの苦痛の極く僅かを、極めて短い時間、苦しむことさへも、かく堪へがたいものである。まして、そのあらゆる四肢、またその内的及び外的感官に於いて、そのあらゆる苦痛を同時に堪へ、しかも一晩、あるひは千晩の間ではなく、限りなく永遠に堪へることはどんなものであらう。いかなる感官がこの現實に堪へ、またいかなる言葉、いかなる措辭が、これを言ひ表すことが出來るであらうか。
 これこそ、地獄に落ちた總ての人々の普く惱む苦罰である。更にその罪の性質に應じて、各人に特有なるものがある。傲慢の苦しみあり、嫉妬の苦しみあり、貪慾の苦しみあり、好色の苦しみがあり、またその他の苦しみがある。苦痛はその犯した罪に應じ、混亂は、自惚と傲慢の程度に相應じ、また、剥ぎ取

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られることは過度と潤澤の程度に相應じ、飢渇は、昔の快樂と貪食の程度に相應ずる。
 總てこれらの苦痛に、その苦痛の印章、または鍵である苦惱の永遠性が結び附いてゐる。終局があるならば、實際、總ては堪へ易いものである。終局のあるものは、決して大なるものではないからである。然しながら、終局もなく、慰藉もなく、輕減もない苦惱、またこの苦惱を課する者にも、この苦惱を受ける者にも、終局の望のない苦痛、眞正の逐謫、また決してはがれる事のない永久の衣等、かうしたことは心を留めてこの事を考へる人の精神を挫折させる。
 この苦痛は、人がこの不幸の場所に於いて惱む苦痛の中で、もっとも大きいものである。それは、この苦痛を、千年とか十萬年とか、限られた時間堪へ忍ぶのならば、あるひはある博士の言ったやうに、千年間に一滴呑み下しながら、大海の水を全部飲んでしまった後に、終局を見る望みがあるのなら、これは彼

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等にとって絶えざる慰めとなるであらう。然しさうではないのである。その苦痛は、天主の永遠性を有する。その不幸の期間は、天主の榮光の期間である。天主が生き給ふかぎり、死は存するであらう。天主が存在をやめ給ふとき、地獄に落ちた人々は存在をやめるであらう。
 わが愛する兄弟よ、願はくは、この永續、この永遠に眼を注ぎ、反省せよ。清い者として、汝みづからこの事を靜思せよ。永遠の眞理は、その福音の中に「天地は過ぎ去らん。されどわが言葉は過ぎ去ることなし」と敎へ給ふ。

 土曜日 -- 天國

 汝の心がこの世を嫌って、天國の交りを願ふに到るため、今日は、淨福の人々の榮光を考へよう。  この善がどんなものであるかを明かにするため、そこに見出される次の五つ

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の事を考へよ。即ち、その場所のすぐれていること、その交りの淨福であること、天主に咫尺し奉ること、肉身の榮光を得ること、そして最後に總ての善が全く一に歸することがこれである。
 第一に、その場所のすぐれたこと、殊にそれが妙に壯大なことを見よ。我々は權威ある著者の書物の中に、一つ一つの星が大地よりも大きいこと、即ち、その九十倍以上にも相當する程、非常に廣大であるといふことを讀んだことがある。天に眼を放つならば、我々は、無限の空間に投げ出された、實に多數の星を見出す。そこから、いとも多くの物が落ちて來るかもしれない。それで我々はこれをおそれるであらう。然しながら、天の無限、またこれを創造し給うた天主の無限を見る時、どうして驚き且つ膽をつぶさないでゐられようか。その美しさは言葉を以って、これを説明することが出來ない。この涙の谷、この逐謫の地に、天主は妙なる事物、また總ての美を創造し給うたのである。

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その榮光の御座、その莊嚴の玉座、その靈威の宮居、その思の宿、その總ての甘美な物の樂園である此所に、彼が創造し給はなかったものがあらうか。
 この所のすぐれたことについて、人のあらゆる想像に餘るその住民の高貴なこと、その數、その聖性、その富、その美を考へよ。
 聖ヨハネは選ばれた人々の群は、數へ切れぬ程多いと言ってゐる。聖ディオニシウスは天使の數は、地上の物質的事物の數にも比べられる程、多いと斷言してゐる。聖トマスもこの意見に同意して、天の莊嚴は、地上のそれに比較にならぬ程すぐれ、同様に、榮光ある靈魂の群は、地上のあらゆる物質的事物にも勝ると敎へてゐる。これに勝って感嘆すべきものを考へることが出來ようか。よく考へてみれば、これだけでも、確かに總ての人々を驚かすに充分である。
 更にこの淨福なる靈魂の各々は、たとへ彼等のうちいと小さき者でさへも、

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この可見の世界の總てに勝って、見るに美はしい。かくも多數の莊麗なる、靈魂を見、その完德とその各々の役目を見たら、どんなものであらうか。天使は音信をもたらし、大天使は奉仕し、權天使は凱旋し、能天使は喜び樂しみ、主天使は命令し、力天使は輝き、座天使は光明を放ち、智天使は輝き、熾天使は燃え、總て天主の讚美を謳(うた)ふ。善き物と相共に在り、且つこれと相交ることが心を惹き、且つ甘美なものとすれば、かしこにて淨福の人々と語り合ひ、使徒等と言を交へ、預言者等と話し合ひ、また總ての殉敎者及び選ばれた人と相交はることは、どんなであらうか。
 もしも善いものと共にあることに、このやうに樂しむべき榮光があるとすれば、暁の諸星が讚ふる者と共にあり、且つその聖前に在ることは、どんなであらうか。星と月とはその美を讚へ、その功績の前に、天使と總ての優れたる靈魂は跪く。その中にこの世の總ての善と全世界とを含むこの普遍的な善、また

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單一にしてしかも普遍であり、單純にして同時にあらゆる完德の綜合にてまします者を見奉ることはどんなであらうか。それこそ、サロモン王が見、且つ聽きし大なる事である。サバの女王は「汝の御前に生き、汝の智慧を樂しむ者は幸なるかな」と言った。かのサロモン王、かの永遠の智慧、かの無量の美、かの無限の善を見て、常にこれを樂しむことは、どんなであらうか。これこそ諸聖人の本質的な榮光であり、またわれらのあらゆる願望の最後の目的地である。
 次に肉身の榮光を考ふるならば、これは、靈質、迅速、不朽、及び光明の四つの特質を有してゐる。この光明はいとも大であって、天父の國に於いては、各々は太陽の如く輝く。もしも、天の眞中にある唯一の太陽でさへも、全世界を照らすに充分であるとすれば、かくも光り輝く、かくも多くの太陽と燈火とは、天の高い所に於いていかなることをなすであらうか。
 さて、天に於ける他の總ての善はどんなであらうか。そこには、病なき健康、

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奴隷なき自由、汚れなき美、腐ることなき不死、缺乏なき豐富、心配なき安息、恐怖なき安定、誤謬なき認識、不味なき滿腹、悲哀なき喜悦、何人も等しく認める榮譽がある。聖アウグスティヌスは我々に言ふ。
「そこには眞の榮光があって、何者も誤りや追從に讚美されないであらう。そこには眞の榮譽があって、これはふさはしい者には與へられるが、ふさはしくない者には與へられぬであらう。そこには眞の平和があって、人はおのれによっても、他人によっても惱を受けないであらう。善德の報いは、善德を與へ、その報ひとして己自身與へんと約束し給うた「者」であらう。人は限りなくこれを見奉り、これを愛し奉って飽くことなく、これを讚へ奉って疲れることがないであらう。そこには、廣大にして美はしく、光り輝く確かなる宿がある。そこには卓越せる、快適な交りがある。そこには不變の時があって、夕となく、朝となく、全く純一な永遠の繼續である。それは、聖靈のすがすがしさと、氣

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息を有する永遠の夏である。總ては喜悦の中にあり、總ては常にその仁慈をもって彼等を生かし、且つ支配し給ふ至高の仁慈の主を讚美し奉る。ああ、天の都よ、確かなる宿よ。甘美の地よ、幸福にして憂なき人々よ、太平の住民よ、缺乏を知らざる人間よ。ああ、わが戦ひの日が終れば、そのときこそ、わが逐謫の最後の日である、何時その日は來るであらうか。何時、我は、わが天主の聖前に出ることになるであらうか」と。

 日曜日 -- 天主の御恩惠

 今日、天主の御恩惠を考へよう。天主に感謝をささげ、更に汝にかくも多くの善きことをなし給うた者の愛のうちに身を投ぜよ。
 その御恩惠は數へることが出來ない。しかし少くとも、五つの主なことを考へよう。即ち、創造、保持、贖罪、召命、最後に個人的な隠れた御恩惠が、こ

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れである。
 第一には、創造の恩惠である。
 汝が創造される前にあった有様、天主が汝のためになし給うたこと、また汝が全くそれに價しないさきに、汝に與へ給うたものを注意深く思ひめぐらせ。即ち、それは肉體とその四肢、また五官であり、またこの卓れた靈魂と、その高尚な機能、悟性、記憶及び意志である。この靈魂を汝に與へ給うたのは汝に一切を與へ給うたのであることを善く心に留めよ。それは、人間は人源流に、唯一つの被造物の完全さを有してゐるのである。この賜物を我々に與へ給うたことは、從って一度に全世界を與へ給うたことである。
 保持の惠について考へよう。いかに汝の全存在は、天主の御攝理によることであらう。それがなければ、汝は一時も生き、また一歩もすすむことは出來ないであらう。「彼」は世界の總ての存在を、汝の用に供するため創造し給うた

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のである。海も、地も、鳥も、魚も、動物も、植物も、また天の使も。「彼」は汝に健康力、生命、滋養、またあらゆる他の現世の助けを與へ給うたのである。殊に他の人々が毎日陥り、汝も、天主がその御惠をもって汝を支え給ふのでなければ、陥るべき不幸と災難をば、眞面目に吟味して考へよ。
 贖罪の惠について考へよう。二つの事を考へよ。第一に、彼が、その贖罪の聖寵によって、我々に與へ給うた數々の御恩澤と、その壯大を考へ、第二に、我々にこの賜物を得させんがため、彼が、そのいと聖き肉身と靈魂に於いて惱み給うた數々の苦惱を考へよ。
 天主が我々のために苦しみ給うたことに對して、我々が天主に負ひ奉る所を更に深く悟るために、彼の聖なる苦難の、四つの主な點を考へよ。即ち、誰が苦しみを受け給うたか。誰のために苦しみ給うたか。何のために「彼」は苦しみ給うたか、といふことである。誰が苦しみ給うたのであるか、天主である。

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どんな苦しみを受け給うたのであるか。人のかつて受けたことのない大なる苦痛と恥辱とである。誰のために、彼は苦しみ給うたのであるか。極惡非道にして憎むべく、そしてその業によって惡魔にさへも似てゐる被造物のために苦しみ給うたのである。何のために彼は苦しみ給うたのであるか。彼の利益のためでもなく、我々の功績のためでもなく、その無限な愛、その御仁慈の聖心によるのである。
 召命の惠を考へよ。まづ汝をキリスト信者とし、洗禮によって汝を信仰に招き、且つ汝をして他の祕蹟にも與からせ給ふ天主の御慈悲のいかに大なるかを見よ。そしてこの御招きの後に、汝が無垢を失ったならば、彼は汝を罪から引き出し、聖寵の中に汝を戻し、そして汝を義の状態に復し給うたのである。かうした御惠のためにも、いか程彼を讚へても、充分とは言へない。かくも長い間汝を守護し、かくも多くの罪を赦し、かくも多くの靈の慰めを汝に送り、ま

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た同じ状態にある他の人々を斷ち給うたやうに、汝の生命の絲を斷ち給はなかった彼の御哀憐は、どんなであったであらう。汝を死から生命に甦らせ、汝の眼を光明に開き給うた彼の御聖寵は、どんなに力強いものであったであらう。汝の回心後、汝が再び罪に還ることなく、その敵に打ち勝ち、且つ善の中に留るやう、汝にその聖寵を與へ給うた彼の御哀憐はどんなであったであらう。
 これは公けで、人のよく識ってゐる御惠である。更に祕密で、それを戴いた者だけが識ってゐるもの、またこれを戴いた者は識らないで、これを與へ給うた「者」のみが識り給ふ程に祕密なものがある。汝は、その傲慢や、怠慢や、忘恩のために、他の多くの人々のやうに、天主に棄てられることこそ應はしいことが、一體いく度あったことであらう。しかも彼は、さうなし給はなかったのである。聖主は敵の網を破り、その通路を斷ち、その惡計また勸めを妨げ給うて、その御攝理の中に、どんなに禍と罪の機會を豫防し給うたことであら

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う。いくたび、彼は、聖ペトロに宣うたことを、我々のために繰り返へし給うたことであらう。 「看よ、麥の如く篩はんとて、サタン誘惑を以って汝を求めたり。然れど我、汝の為に、汝が信仰の絶えざらんことを祈れり」と。天主の外、誰がこの祕密を識ることが出來よう。積極的な御惠は、おそらく人がこれを識ることが出來るやう、然しながら我々に善を與へ給ふのではなく、我々を惡より救ひ出し給ふといふ消極的な御惠は、誰がこれを識ることが出來よう。他の御惠ばかりではなく、かうした御惠のためにも、我々は聖主に感謝すべきである。我々は我々が負うてゐるものを辨濟する力のない者であり、我々の負債はこれを辨濟しようとしても、全く辨濟の手段ない[ママ=入力者]程であることをよく識らなければならない。

 第三章 默想の時とその成果

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 キリスト信者よ、ここに、汝が、一週の間、毎日考へ、汝の思ひを凝らすことが出來る、七つの最初の默想がある。それは、汝が他の事に心を留め、他の日を他の反省に當てることは出來ないと言ふ譯ではない。前に述べたやうに、我々の心を天主を愛し且つこれを畏れ、その誠を守るに到らせる總ての事は、默想の材料である。然し我々が語った事については、人の注意を喚起する必要がある。一面に於いてそれは本性上我々を更に善く導く我々の信仰の主なる玄義である。他面に於いて乳を必要とする初歩者は、ここに默想すべき事が噛み碎かれ、消化されてゐるのを見出すことになる。彼等は、異國に於ける巡禮者のやうに進み、また不安の地を走るのではなく、一個の主題を選んで、他を拒け、一つ一つに留ることを要しない。
 またこの默想は、すでに言ったやうに、人が天主に還った回心の初めにふさはしいものであることを識らねばならない。そこで、善德の第一階段である罪

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惡の悲嘆と嫌惡、天主の畏れとこの世の嫌惡に、我々を推しやるこれらの主題から始めるのは適當である。從って初心の人々は、善德と愛の中に確乎たる地歩を得るために、しばらくこれらの事を考へ續けねばならない。

 第四章 御苦難の七つの默想とその默想の仕方

 今度はキリストの御苦難、御復活、及び御昇天の七つの默想について考へよう。なほ彼のいと聖なる御生涯の他の主なる事柄についても、附言することが出來る。
 キリストの御苦難には、六つの默想すべき事があることに留意しなければならない。即ち、御同情申すべき彼の大なる御苦惱、その原因であって、我々が嫌ふべき我々の罪惡の重さ、感謝すべき御仁慈の無限、我々に彼を愛せざるを

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得ないやうにさせる、そこに輝く天主の御恩惠と御慈愛の卓越、感嘆すべき玄義の適合、模倣すべき光り輝くキリストの御德の數々がこれである。
 これに從って、默想をするに當り、直ちに我々の心をキリストの御苦惱の同情に向けよう。これはその肉體が感じ鋭くまします故に、あるひはその御愛の大なる故に、また前述のやうに、何の慰めもなく惱み給うたが故に、この世に於ける最大の御苦惱である。あるひは我々の罪惡の苦惱の動機をそこに汲み取らう。それは、それこそ、彼が惱み給ふ數々の重い苦惱の原因であるからである。あるひはそこから、彼が我々に示し給うた愛の無限と、彼が、彼のため、またかくも有利に我々のために、かくも物惜しみすることなく、かくも高價に我々を贖うて、我々に與へ給うた大なる御仁慈とに對する愛と感謝の動機を引き出さう。あるひは眼を擧げて、天主が我々の不幸を癒やし、我々の負債を辨濟し、我々の缺乏を補ひ、我々にその聖寵を得させ、我々の傲慢を挫き、且つ

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我々を、この世の嫌惡、また十字架、清貧、悔悛、損失、及びその他のあらゆる德にかなひ、正しい、行為の愛に導き行くがために取り給うた手段の適當なことを考へよう。
 あるひは更に、彼のいと聖き御生涯とその御死去のうちに、また彼の寛厚、忍耐、從順、憐憫、清貧、慈悲、謙遜、寛大及び愼みの中に、また彼の御業と御言葉の中に、天の星よりも輝く他のあらゆる德のうちに光り輝いてゐる德の模範に眼を向けよう。また、「彼」から授けられた聖寵の靈が空しく過さないやうに、彼のうちに我々が認めたものに少しづつ倣ひ、かくて彼によって、彼の御許に赴かう。
 このような模倣による仕方こそ、最高で、最も有益なキリストの御苦難の默想の仕方である。それは、模倣こそは、我々を變へ、かくて我々は使徒と共に「それ我は活くと雖も、最早我にあらず、キリストこそ我に於いて活き給ふな

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れ」と繰り返へす[ママ=入力者]ことが出來る。
 また總てこれらの玄義に於いて、キリストを我々の眼前に現存させ奉り、彼が惱み給ふ時、彼の眼前にあると信ずるのは適當なことである。御苦難の全體をではなく、一つ一つの場合を、特に次の四つの場合を考へよ。
 即ち、誰が惱み給ふか。誰のために惱み給ふか。どんなに惱み給ふか。また何のために惱み給ふか。 誰が惱み給ふか。全能にして宏大無邊の天主である。誰のために惱み給ふのであるか。この世の最も忘恩の徒のために惱み給ふのである。どんなに惱み給ふか。いとも大なる謙遜と、慈愛と、寛大と、寛厚と、仁慈と、忍耐と、愼みとを以って惱み給ふのである。何のために惱み給ふのであるか。彼の利益のためでもなく、また我々がそれにふさはしいためでもない。然し、その無限の仁慈と哀憐の心からである。

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 そして外的苦惱のみに滿足せず、更に内的な苦痛をも考へよ。彼の御苦惱、彼の御情愛また思を感得せんがためには、キリストの肉體よりも靈魂のことを靜思すべきである。
 これを序曲として、御苦惱の祕義を繰返し、且つ順序を立てて述べることにしよう。

  御苦難に關する七つの默想

 月曜日 -- 洗足と御聖體の制定

この日には、十字を切り、適當な準備をすました後に、洗足と聖體の制定に移らう。
 我が靈魂よ。この場合に於いて、優しく善美にましますイエズスを考へよ。
食卓から立ち起って、その弟子の足を洗いつつ、汝に授け給うた謙遜の高價な

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模範を見よ。ああ、甘美なるイエズスよ。何故、御身の靈威は、かくも謙り給うたのであるか。わが靈魂よ、これらの人々、またユダの足許に跪き給うたイエズスを見て、汝は何と感じたであらうか。殘酷なるかな。かかる無限の謙遜は、汝の心をどうして和げないであらうか。この大なる寛厚は、汝の心を碎かないのか。このいと甘美なる「羔」を賣り奉らうと、汝が決心したとは、一體有り得ることであらうか。この模範を前にして、汝は同情を懷くことが出來なかったのであらうか。ああ、白き美しき手よ、汝はどうして、かほどまで汚れた忌むべき足に觸れ給ふことが出來たであらうか。ああ、潔き手よ、どうして汝は旅の塵にまみれ、汝の血のにじんだこの足を洗ふことに嘔吐を催し給はなかったか。ああ、福(さいはい)なる使徒よ、かかる過度の謙遜を見て、どうして汝等は戦き慄へなかったのであるか。ペトロよ、汝はどうしてゐるのか。御靈威の天主が、汝の足を洗ひ給ふことに平氣で同意し奉るのであるか。聖主がその前に臥

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しまろび給ふのを見て驚き、聖ペトロは「主よ、我が足を洗ひ給ふか」と言った。汝は生ける天主の聖子にましまさずや。汝はこの世界の創造主、また天のいと高き所に於いては、天の美、天使の樂園、人間の救、聖父の光榮の輝き、天主の智慧の根源にて在まさずや。しかも、汝は我を洗はんと欲し給ふのであるか。かかる榮光と御靈威の主にまします汝が、かくも卑しき務を果さうとし給ふのであるか。」と言ひ出す。
 また足を洗ふことをすまし給うた後、その帯び給うた聖い布片でこれを拭ひ給うたことを考へよ。汝は、靈魂の眼を以って、贖罪の玄義の姿を見ることが出來るであらう。いかに彼は、この布片を以って汚れた足のあらゆる汚穢を除き給ふかを、心に留めて考へよ。その足は清くなった。しかしこの務を果した布は全く汚れ垢じみた。
 罪の中に孕まれた人間よりも汚れた者があらうか。聖靈によって孕まれ給う

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たキリストよりも、無垢で美しい方があらうか。「花嫁」は言ふ。「わが愛する者は白く、また赤し、彼は、千人の間より選ばる」と。われらの魂の汚れと汚染とを身に負はうとし給ふのは、かくも美しく、かくも清きイエズスである。彼は魂を清く、且つ自由にし給ふ。然し、彼はその靈魂等と共に恥づべき、嫌ふべき十字架に現れ給ふ。
 最後に、救主が、これを行ひ給うた時の聖言を考へよ。「汝、彼等に例を示したるは、我が汝等になしし如く、汝等になさしめん為なり」と。この玄義、この謙遜の例のみならず、キリストの御生涯の總ての行動に、この聖言を當てはめよ。それはその御生涯は、總て善德、殊にこの玄義に於いて我々に示される善德のいとも完全な鏡であるからである。

  御聖體の祕蹟の制定について

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 この玄義を少しでも理解するがため、まづ人間の舌はキリストがその敎會に對して有し給ひ、從って彼の花嫁なるが故に、聖寵の中にある一人一人の靈魂に對して有し給ふ、御愛の大いさを言ひ表はすことが出來ないと言ふことを識れ。
 そこで、この世を去り、その花嫁なる敎會から離れゆかうとしたまふ時、この不在が忘却の原因とならないやうに、この美はしい花婿は、敎會に紀念としていと聖き御聖體の祕蹟を殘し給ひ、彼みづからそのうちに留り給うた。彼は彼とその花嫁との間に、彼自身以外に、彼を思ひ出すべき他の記念のあるのを欲し給はなかったのである。花婿は、その永い留守の間にも、その花嫁が唯一人にならないやうに、一人の伴侶を殘し給うた。彼は、彼みづからの留り給ふこの祕蹟を彼女に殘し給うたが、これは、彼女の有することの出來る最もよい伴侶である。

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 彼は、その花嫁のため、死の苦しみを耐へ忍び、その血の價を以ってこれを贖ひ、且つ富まさうと欲し給ふのである。それで彼女に思ふがままに、この寳を樂しませるため、彼はこの祕蹟の中に、その鍵を彼女に殘し給うたのである。それは聖ヨハネ金口は、我々に語ってゐる。「我々がこれに近づく毎に、我々はその口をキリストの脇腹にあて、その貴き血を飲み、我々も彼みづからに與へねばならない。」
 この天の花婿は、花嫁が大なる愛をもって愛されることを願ひ給ふ。かうした動機から、彼は、この祕蹟をば、これを正しく拝領する者が、その愛に觸れて傷けられるやうな言葉をもって祝せられた食物となし給うたのである。
 彼はその花嫁に榮光の幸福なる所有を保證して、その希望をもって、この世のあらゆる勞苦、また轉變を悦んで耐へ忍ばしめようと願ひ給ふのである。そして「花嫁」がこの恩惠の希望は確かなものと考へるやうに、彼は彼女に、そ

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の希望する總てのものに相當するだけの、言ふに言はれぬ寳を保證として殘し給うたのである。このやうにして彼は、彼女が肉に於いて生きているこの涙の谷に於いても、彼女にこれを拒み給はなかったから、彼女が靈に於いて生くべき榮光に於いて、天主が彼女に總てを與へ給ふことの望を失ふには及ばない。
 イエズスは、またその臨終に際して、一つの遺言をなし、花嫁に、彼女を強めるために、一つの賜物を殘さうと欲し給うた。彼は、彼女に、最も貴く、もっとも利益ある遺物を殘したまうた。それは、彼は、この賜物に於いて天主を彼女に殘し給うたからである。
 最後に、彼は、われらの靈魂に充分なる貯へ、また生くるために食物を與へ給うた。そは、靈魂は、肉體がその肉的生活のために、特別の助を必要とすると同じやうに、その靈的生活のために、特別の助けを必要とするからである。そのためにこそ、人間弱點の諸様相をよく識り給ふこの賢き醫師なるキリスト

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はこの祕蹟を設けて、これをその食物となし給うたのである。またこの制度の形式はその働の結果、我等の肉體が適當な滋養を必要とするやうに、われらの靈魂が必要とする物を我々に示す。

 火曜日 -- 園に於ける祈祷 救主の祈祷、アンナの家に入り給ふこと

 まづ、この神祕的なる晩餐の後、その御苦難の戦に入り給ふ前に、祈祷をしようとて、その弟子達と共に橄欖山に赴き給うた次第を考へよ。これは、あらゆる勞苦またこの世の誘惑に於いて、我々が、聖なる錨として、常に祈祷に訴ふべきを我々に敎へるためである。その力によって、我々は、困難の重荷を除かれ、あるひはそれに打ち勝つ力を與へられるが、これは更に大なる惠である。
 イエズスは、愛する弟子、聖ペトロ、聖ヤコボ、及び聖ヨハネと共にその道を進み給うた。彼等は彼の光榮ある御變容の目撃者であった。彼等はこの幻に

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於いて、かくも榮光ある姿を示し給うた者が、人間に對する愛のために、いかに異なる姿を取らうとしたまふかを、その眼で見るであらう。そして彼等はイエズスの靈魂の内的苦惱は、外觀に見えるものに劣らないことを識ってゐたので、彼は、彼等に向って「我が魂死ぬばかりに憂ふ。汝等此處に留りて我と共に醒めて在れ」とのたまうた。この言葉の後、聖主は少しその弟子達を離れ、忝しく平伏して祈祷をはじめて、「我父よ、もし能ふべくば、この杯我より去れかし。されど我意の儘にとにあらず思召の如くなれ」と言ひ給うた。彼はこの祈祷を三度繰り返し給ひ、三度目には、彼はその御體中より血の汗を流し給うて、それが絲のやうに地に流れた程に、大なる苦しみに入り給うたのである。
 かくも悲しみに充ちたこの玄義の中に聖主のことを考へよ。彼がその受けんとしたまふあらゆる責苦を、いかに心に描き給うたかを見よ。彼は、總ての肉

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體の中に於いても、最も感じの鋭い肉體のために備へられた、いとも嚴しい苦痛を明かに見給ひ、自分が眼前に、苦しみの原因であるこの世のあらゆる罪惡、またこの惠を感謝もせず、この貴い高價な醫薬を利用もしない、多數の靈魂の忘恩を眺め給ふ。彼の靈魂は痛く惱み給ひ、またいとも感じ鋭いその感官と肉體も痛く苦しみ給ひ、果てはその肉體の諸々の力と諸要素は張り切って、彼の聖い肉體の總ての部分が開き、地上にまでも溢れしたたる血の汗を流し給うたのである。
 もしも肉體が、間接にかうした苦惱をうけるとすれば、これを直接に耐へる靈魂はどうであらうか。
 次に、祈祷が終り給うたとき、僞の友が極惡なる仲間を伴ひ來た次第を考へよ。彼は使徒の職務をすて、惡魔の軍勢の長、また大將となったのである。彼が鐵面皮にも總ての人々の先頭に立って、聖主の許に進み來て、僞の平和の接

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吻をもって彼を賣り奉った次第を考へよ。この時聖主は、彼を捉へに來る人々に言ひ給ふ。「汝等は強盗に向ふ如く、劔と棒とを持ちて我を捕へに來りしか。我日々、汝等と共に神殿に在りしに、汝等我に手を掛けざりき。然れど今は汝等の時なり。黒暗の勢力の時なり」と。これこそ驚くべき玄義である。天主の聖子が罪人のみならず、受刑者の姿さへ取り給うたことに勝って、不思議なことがあらうか。「これぞ汝等の時なり、黒暗の勢力の時なり」である。この聖言から推測されることは、この時、このいと汚れなき「羔」は、惡魔の使の加へるあらゆる暴戻とあらゆる殘酷をうけるため、黒暗の王、惡魔の勢力に渡され給うたことである。惡魔の勢力に渡されるといふ禍中の最後のものに身を委せ給うたのであるから、この至高者が、汝のため、どれ程まで、自らを卑下し給うたかを考へよ。これは、汝の罪が正に受くべき苦痛である。彼は、汝をこれより救はうとて、みづからこれを受けようと欲し給ふのである。

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 この聖言の後、飢えた狼の群は、この美しい「羔」を捕へ奉ったのである。人々はあるひは彼の右脇、あるひは彼の左脇とそれぞれ出來るだけ彼を掴んだ。ああ、彼の人々はなんとむごたらしく、彼を取扱ひ奉ったことであらう。彼等はどんなに彼を、侮辱し奉ったことであらう。彼等は、どんなに彼を打擲し、手荒い事をしたことであらう。どんな叫び、どんな怒號が起ったことであらう。人は餌食をくはへた勝利者のことを語るが、丁度そのやうに、彼等はかつて多くの奇蹟をなし給うた聖なる御手を捕へ、その腕の肉は引き裂かれ、血は流れ出る程に、わさ結びになった索をもって、彼を強く縛り、かくて侮辱の限りをつくしつつ、大道を通って彼を引き立て奉ったのである。その弟子達に別れて、敵に伴はれ、御面持は變り果て、餘りに道を急いで、その御顔を赤くほてらせ、呼吸あへぎつつ、一歩一歩、この道を進み給ふ御姿をつくづく眺めよ。彼の御身に對するかうした不正な取扱の中にあって、なほ平靜にましま

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す御姿、その眼の重々しさ、また世の侮辱の唯中にあっても、なほ少しも曇ることのない彼の神々しい御容貌を見よ。
 聖主と共にアンナの許に赴け。大司祭がその弟子と敎へとに就いて「彼」に問うた質問に對して、何と彼が丁寧に答へ給うたかを見よ。立會った一人の下役が、彼の頬を打ち「汝、大司祭に答ふるに斯くの如きか」と言へば、救主は親切に答へて「我言ひしこと惡しくば、その惡しき所以を證せよ。もし善くば何の為ぞ我を打つや」と言ひ給うた。されば、我が靈魂よ、寛厚なるその御答ばかりでなく、更に打擲に傷けられ、赤らんだ御顔、これ程まで穏(おだや)かなまなざしのこの節度、これ程まで落ち著いたこの顔を見、また内的には、かくも謙遜にして、下手人が要求すれば、悦んで更にその頬を差出し給ふいと聖き靈魂を見よ。

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 水曜日 -- カイファの家に於いてペトロの否み及びイエズスの打擲

 今日、大司祭カイファの面前にまします聖主、その夜の責苦、聖ペトロの否み、圓柱の下のイエズスの打擲について考へよ。
 まづアンナの家から、大司祭カイファの許に、聖主が導かれ給うた次第を考へよ。彼の後に從ひゆけ。見よ、義の太陽は蝕して、天使等が觀奉らんと欲したこの聖顔は唾を吐きかけられ給うたのである。見よ、聖主は聖父の聖名によって切願すれば、この願に適當に答へ給ふ。然しかうした氣高い應答を戴くにふさはしくないこの人々は、このやうな大なる光のために盲目となった者である。彼等は、猛獣のやうに彼に向って來て、その總ての憤怒を吐き出す。彼等は、競うて彼を打擲し、その極惡な口を以って、聖顔に唾を吐きかける。彼等は細紐をもってその眼を覆ひ、平手を以って聖顔を打ち、彼をからかって「預

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言せよ、汝を打てるは誰なるぞ」と言ふ。ああ、天主の聖子の妙なき謙遜よ。ああ、天使達の美よ。この聖顔に人が唾したのである。人は唾を吐かうとする時は、もっとも汚い隅の方に向ってする習慣がある。この大なる宮殿の中に聖顔より外に、唾すべき汚い場所がないのか、ああ、地よ、塵よ、この模範の前にどうして汝は謙らないのか。
 次に、この惱ましき夜を通じて救主の耐へ給うた責苦を考へよ。聖ルカは我々に傳へている。彼の番人である兵士等は彼を嘲笑し、御靈威の聖主を愚弄し、且つからかふ。ああ、わが靈魂よ、見よ、いかに汝の美はしき花婿が、人の彼に向って放つ矢、また打擲、平手打の標的となり給うたかを。ああ、むごたらしい夜よ、凌ぎ難い夜よ、わがイエズスよ、汝は眠り給はず、また汝を責めようとする者も、最早眠らない。夜のつくられたのは、總ての被造物が休息を得一日の勞働に疲れた官能や四肢が疲勞を癒やされるためである。しかもこの時

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惡しき者は汝の肉體に傷をつけ、汝の靈魂を惱まし、汝の手を縛り、汝の顔を打ち、汝に唾し、汝の耳を傷めて、汝の官能と四肢に責苦を與へ、汝が休むべき時、汝を苦しめようとて、これを利用するのである。この朝の歌は、同じ時に天使達が天に於いて汝に唱ふ歌とは、いかに異ってゐることであらう。そこでは、「聖なる者よ。聖なる者よ」と唱えるが、こちらでは「彼を殺せ、彼を殺せ、十字架に釘けよ、十字架に釘けよ」と叫ぶ。天國の天使よ、汝はこの二つの聲を聞く。汝が天に於いてそのやうに敬ふ者が、地上に於いてこれほどまで虐待されるのを見て、汝等はどう考へるか。彼に惱を與へた人々のために、この苦惱を堪へ給ふ天主を見て、汝はなんと考へるか。汝に死を與へる人を死から救はうがために、死の苦しみをするこのやうな愛の行を識る者があるか。
 この惱ましい夜の責苦は、聖ペトロの否みによって更に増し加へられた。御變容の榮光を見るために選ばれ、且つ、敎會の頭として總ての人々に敬はれた

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この親しい友こそ、眞先に、救主の面前で、一度ならず、三度までも、彼を識らず、彼の何人たるを識らずと誓ったその人である。ああ、ペトロよ、そこにいるこの人はこれを識ってゐることを恥としなければならない程、そんなに惡い人であったのか。彼こそ、大司祭の前に於いて彼を責むべきその人である。然るに汝はみづから彼を識るのは恥ずべきことであるのを人に識らせたのである。これより大なる侮辱があらうか。
 救主は振り返って、ペトロを見給ふ。彼は失はれたるこの羊に眼を留め給ふ。ああ不思議な力ある一目よ、ああ、默してゐるけれども、いとも意味深い一目よ。ペトロは、その言葉とこの一目の意味する所を理解した。鷄鳴は彼を醒すに充分ではなかったが、この一目はこれをするに充分であったのである。キリストの御眼は單に何物かを物語るばかりでなく、更に力ある働をする。ペトロの涙こそ、その證據である。それこそ、唯にペトロの眼からばかりでなく、キ

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リストの眼からも流れた涙である。
 この侮辱の後、救世主が、圓柱の側で打擲され給うたことを考へよ。それはその裁判官が、かくまで惡い群衆の怒を靜めることが出來ないとみるや、これほどまで殘忍な心の怒を滿足させようとて、イエズスにおそろしい鞭打を與へ奉る決心をしたのである。それに滿足して、下手人は彼を離れて、彼を死に會はせなかった。ああ、わが靈魂よ、では今、ピラトの法廷にはいったことを考へよ。汝がその所に行って、且つ聽かうとしてゐる事のために、必要とあれば汝は思ふ存分涙を流す用意をせよ。見よ、いかに、この殘忍で惡い下手人等は救世主の衣をはぎとり、またいかに「彼」は口をも開かず、この侮辱に一言も答へず、謙遜に彼等のはぐに委せ給うたかを。見よ、いかに、彼等は、手當り次第、彼を傷け奉らうとし、その聖なる御體を圓柱に縛り上げ奉ったかを見よ、いかにこの殘忍な下手人の間に、諸天使の主なる彼が、彼に味方し、彼に同情

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の眼を注ぎ奉る保證人も保護者もなく、獨りゐ給ふかを。見よ、彼等はやがていかに限りなく殘忍に、この感じ鋭い肉に鞭または紐を下し始めるかを。彼は打擲を加へられ、傷の上に傷を負はされ給ふ。間もなく、汝は、このいと聖き肉體が打傷に鉛色になり、皮膚が裂け、血は體中から川の如くほとばしり流れるのを見奉るであらう。殊にはげしく打たれ給うた肩の眞中に開かれたこの大なる傷を見奉ればどんなであらう。
 鞭打が終って、次いで衣を纏はうとし給ふ聖主を見奉れ。彼は法廷を進んで、この殘酷なる下手人の面前でその衣を捜し給うけれども、一人として彼を世話し、彼を助け奉る者はなく、またこんな傷に覆はれた人々に普通するやうに、彼に飲物あるひは清凉水を與へ奉る者もない。總てかうした玄義は、心から我等の愛を注ぎ、感謝を捧げ、且つ默想するにふさはしいものである。

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 木曜日 -- 茨の冠 「看よ、人を」 十字架を負ひ給ふイエズス

 この日、茨の冠、「看よ、人を」乞食のやうに十字架を負ひ給ふ救世主を考へねばならない。
 このやうに、惱み溢れるこの玄義を考へるに當り、聖なる花婿は、雅歌の中の言葉をもって、我等を勸め給ふ。「シオンの女子等よ、出で來り、サロモン王を見よ、かれは婚姻の日、心の喜べる日にその母の己にかうぶらしし冠冕を戴けり」と。  汝は何をなすや、ああ、わが心よ、ああ、わが魂よ、汝は何を考へるや。わが舌よ。いかに汝は默せしや。ああ、わが美はしき救世主よ、われ眼を開き、我が眼前におかれたる、かくも惱みに滿てる繪を見るとき、心は苦痛にくづほる。救世主よ、さきの打擲、來らんとする死、また流血すらも、なほ汝には不

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足であるのか。鞭打に殘された血を御頭より引き出すためには、更に無理に、この茨をつきささねばならないのか。この惱みに充てる玄義を多少でもさとるがためには、ああわが靈魂よ、汝の眼の前に、この聖主の最初の御姿、その卓れた御德をまづ思ひ浮べ、次いで彼が今ゐたまふ状態を見よ、見よ、彼の美の莊嚴さ、彼の眼のしとやかさ、その聖言の美はしさ、その權威、その寛厚、その明朗、また尊敬を促す特別なる御形容を。
 かうした完全なる御姿を見、且つ味った後で、嘲笑の赤の衣を纏ひ、手には王笏として葦を持ち、頭にはおそろしい冠を戴き、その眼は盲ひ、顔には死相が表はれ、その御顔は血にまみれ、人の吐きかけた唾に汚され給うた者に、今汝の眼を向けよ。内から、また外から苦惱に貫かれた御心、傷痕に滿ちた御體を考へよ。彼は弟子達に見棄てられ、ユデア人には追ひ拂はれ、兵士には嘲笑され、大司祭には、侮辱され給うた。彼は惡しき王によって送り返され、不正

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に告發さえ、あらゆる人間的恩惠を奪はれ給うた。これを過ぎ去ったことと思ふな。現在に見よ、これは他人の苦しみではない。汝みづからのものである。
 汝みづから、この惱み給ふ者の立場になって、考へてみよ。頭のやうな感じ易い所で、汝が感ずることを顧みよ。骨にまで突き通る程、多くの尖った茨の刺を身に受けよ。その刺は、どんなであらうか。わづか一本の刺すらも、汝には殆んど耐へることが出來ないのである。それならば、かくも續けざまに責苦に會って、かくも感じ易い頭は、どんなに苦しみを受けることであらう。
 茨の冠を御頭に冠せられ嘲笑され給うた後、救世主は、裁判官に手を引かれ虐待され給うた。かうして彼を猛り狂ふ人々の前におき、「看よ、人を」と言った。あたかも、それは「汝等が彼の死を願ふのは、嫉妬によるのであるならば、今の彼は、羨まれるよりも、憐まるべきではないか。汝は彼が王になるのを心配してゐる。殆んど人とはみえない程に、醜くなった彼を見よ。この縛ら

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れた手が、どうしておそろしからう。この鞭打たれた人に、汝は何を求めるか」と言ふかのやうに。 裁判官は、敵の心を鈍らすには、この姿をこのやうに曝らすだけで充分であると考へたのである。ああ、わが靈魂よ、救世主の御姿のどんなであるかをこれで想像することが出來よう。汝は、キリストの御苦痛に對してキリスト敎的同感を懷かないのは、どんなに申譯ないことであるかを理解することが出來る。
 この裁判官の考によれば、このやうな殘忍な彼等の心をなだめるがためには、それらの苦しみを示せば充分であると思ったのである。
 然しながら、ピラトは、この苦痛も、イエズスの敵の憤怒をなだめるに足らないことをみるや、再び官廳に入り、裁判席に坐して、最後の宣告を與へようとする。十字架はすでに、門に用意されてあった。空にはすでにおそろしい旗が現はれて、救世主の頭をおびやかしてゐる。殘酷な宣告は發せられた。敵は

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殘忍に殘忍を重ねた。彼等は、傷つき裂けた彼の御肩に打擲を加へながら、十字架を負はせ奉る。優しき聖主は、我等の總ての罪を負へるこの重荷を、拒み給はず、われらに對する聖い愛のため、無限の慈悲と從順とを以ってこれをいだき給ふ。
 罪のないイザアクはかほどまで弱々しい肩に、かほどまで重い荷を負ひつつ犠牲の場所に進み給ふ。人々や信心深い女の群は、彼に從って涙を流しながら彼の跡を追ふ。これほどまでの重荷を負うて、御膝は震へ、御體は傾き、その眼はつつましく、その御顔は血にまみれ、御頭にかの冠を戴きつつ、このやうに恥づべき號叫の間を進み給ふ天使の君を見て、涙を流さない者があらうか。
 ああ、わが靈魂よ、この殘忍な光景からしばし眼をそむけよ。呼吸せき切り、呻きつつ、眼には涙を湛へ、足を速めて聖母の家に到れ。而して彼女に會ひ奉れば、その足許に跪き、悲しみの調子を以って彼女に語り始めよ。ああ、

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諸天使の聖母よ、天の元后よ、天國の門よ、世の辨護者よ、罪人の避難所よ、正しき者の救ひよ、諸聖人の悦びよ、善德の師よ、純潔の鏡よ、貞潔の徴(しるし)よ、忍耐の龜鑑よ、完德の完成よ、聖寵よ、ああ、われらの聖母よ、何故わが眼はこの時まで保たれしや。わが今見來りしものを見ては、どうして生きることが出來よう。まづ理由は、我は汝の獨子、わが主を後にし、彼を苦しめ奉る十字架と共に彼をわが敵の手に殘し奉った」と。
 その時、聖母の御悲嘆はいかばかりであるかを、誰が了解することが出來よう。その靈魂は氣絶し、その御顔、またその潔き御體は、もし天主が最大の殉敎、最大の榮冠のため、その生命を保ち給はなければ、その生命を絶ち奉るにたる程の死の汗に覆はれてゐたまふ。
 そこで聖母は、その聖子に會ひに行き給ふ。聖子に會はうとの願ひは、悲嘆のために失はれた力を再び彼女に取返す。彼女は遠くから、物具の音、人々の

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わめき、布告を傳へる傳令使の叫びを聞き給ふ。彼女は、やがて空中に現はしてゐる槍や、鉞槍の穗先を見給ふ。彼女は、他の導きなくとも聖子の進みゆき給うたことを、彼女に示すに足る血の滴や痕を路上に見出し給ふ。彼女は一歩一歩その愛する聖子に近づき給ふ。彼女は悲嘆と死の影に曇った眼を擧げて、出來得れば、これ程までその魂を愛し給ふ者を見ようとしたまふ。
 ああ、マリアの心の愛よ、またおそれよ、一方では彼女は彼を見ようとし給ふが、他方ではこの悲しむべき姿を避けようとしたまふ。終に彼女は、彼を見得る所まで來給ふ。この二つの天の光に互に眼を合せ給ひ、その眼はその心の底までも見通し、その視線はその同情のこもった魂を痛ましめ奉る。彼等の舌は唖となった。しかし、マリアの心は語り、そのやさしき聖子は言ひ給ふ。「わが懷しき愛する母君よ。何故汝はここに來り給へるや。汝の悲嘆は我が悲嘆を増し、汝の苦痛は我を苦しむ。懷しき母君よ、汝の家に歸り給へ。人殺や盗賊

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と共にゐたまふは、汝の廉恥心とつつましやかさにふさはしからず」と。
 この言葉、また他の感動すべき言葉こそ、かくまで同情深いこれらの心が語り給うたものである。かくして十字架まで、その困難な道を進み給ふ。

 金曜日 -- 十字架と七つの聖言

 今日は、十字架の玄義と、救世主の七つの聖言を考へねばならない。わが靈魂よ、今、覺醒せよ。そして禁斷の樹の、有毒の實の禍を除く實を結んだ、聖十字架の玄義をまづ思ひめぐらせ。
 まづ刑場に達し給うた救世主を見よ。邪惡な敵は、彼の死に更に恥辱を與へ奉らうとて、御衣をはぎ、更に上より一つに織った縫目のない下衣までも奪ふ。見よ、彼を虐待する人々に對して彼は口も開かず、一語も發せず、いかに寛裕にこのいと潔き「羔」は御衣のはがれるのを看過し給ふかを。彼がその御

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衣のはがれ裸形の恥を忍び給ふのは、我々が、罪のために陥ってゐる裸の姿を無花果の葉にも勝るものを以って、覆はんとの御善意によるのである。
 ある博士達は言ふ。「聖主より下衣を奪はんがため、彼等は、彼の御頭より殘酷にも、茨の冠を取り去り、そして裸となりたもうや、再びこれを冠らせ奉り、次いで腦天に茨を無理につきさして、更に大いなる苦痛を與へ奉った」と。その御苦難の門を通じて、後に加へられたあらゆる殘虐、また更に奇怪なことなどの間に、かかる殘虐なことがキリストに加へられたことは、確かであると信ぜられる。聖福音史家は、彼等が思ふままのことを彼になしたことを、我々に傳へてゐる。その下衣はすでに鞭の傷にこびりつき、また上衣にくっついてゐたが、この無慈悲な下手人は、これをさっと非常な勢ではぎとったので、鞭の傷は殘らずその傷口を開いてその傷を新にし、その御體は到る所裂き開かれまたはがれて、體全體が一つの傷のやうになって、その傷口からは血が溢れ出

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るやうになった。
 ああ、わが靈魂よ、天主の御惠みと御憐憫の大なることを、ここに思ひめぐらせ。彼は、この玄義の中にかくも明かに照り輝き給ふ。天を雲をもって裝ひ野を花や美はしき物をもって纏ひ給うた者は、總てのその衣をはぎ取られ給うたのである。御衣のみならず、皮膚さへも寸斷され、裸かにされたこの聖き御體の惱み給ふ寒さを想像せよ。その御體は傷に開かれた門にすぎない。聖ペトロは前夜衣服を纏ひ、火の前にあってさへ、寒さに苦しんだのである。まして總てをはぎ取られ傷に覆はれ給うた、この感じの鋭い御體の苦しみはどんなにひどかったことであらう。
 更に十字架に釘けられ給うた聖主、またこの大きな、曲った釘がその御體の中で、最も感じの鋭い部分に突き刺された時、主が感じ給うた御苦痛を考へよ。この聖なる御體の肢々に、次々に下されるこの殘酷な打擲を、その眼を以

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って見、その耳を以って聽き給うた聖母を見よ。實にこの槌打と、聖子の手を貫くこの釘とは、更に御母の心を傷め奉る。
 見よ、やがて彼等は十字架を立て、これを備へられた孔に打込みにゆくのを。また、この殘酷なる下手人が彼を起し奉る時、もう一度なぐり倒し、かくてこの聖なる御體全體は、空に打ち震ひ、釘の傷は大きくなり、堪へ難き苦痛に惱み給ふ。
 ああ、わが救世主よ、贖主よ、いかに岩のやうな心でも、かうした苦痛にあづかることが出來るであらうか。この日には岩さへも、汝が十字架上に苦み給ふ様を見ては打ち碎かれる。「主よ、死の苦しみは汝をかこみ、總ての風、海の波は汝を沈め奉る。汝は深き淵におちいり、汝を支ふべき何物も有し給はず。汝の聖父も汝を棄て給ふ。聖主よ、汝は人に何を期待し給ふや。汝の敵は汝に逆ひて叫び、汝の友は御心を傷ましめ、汝の靈魂は、我を愛する愛のため

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に苦しみ給へど、慰めを得給はぬ。確かにわが罪は數へ切れぬ。汝の贖ひはこれを宣明し給ふ。ああ、わが主よ、我はこの板に釘けられ給へる汝を見奉る。
 汝は、ただ三つの鐵の釘によって支へられゐたまふ。その釘だけが聖き御體を支へて、他に力附け奉るものとてはない。汝その御體を足の上に休ませようとし給へば、却って汝は、その足を貫く釘のため、その傷をより大きくなし給ふ。汝、その御體を手の上に休ませようとし給へば、全體の體の重さで、その手の傷を更に大きくしたまふ。茨の冠のために痛められ、弱められてゐる汝の聖なる御頭は、いかなる枕がこれを支へ奉るであらう。ああ、いと心穏やかにまします聖母よ、ああ、汝の腕はその務めをよく果し給うた。然し、汝の腕もここでは少しも用をなさない。そこにあるのは、十字架の腕である。彼は休まうとし給へば、その上に御頭をよらせ給ふ。而も慰めと思はれるものは、却って刺を頭に押し込むに過ぎない。

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 また聖母の來り給うたことは、益々聖子の苦しみを増し奉った。聖母の御來場は、イエズスの御心とその聖き御體を、内外から傷め奉る。ああ、良善なるイエズスよ。今日、汝には、二つの十字架がある。一つは肉體、一つは靈魂、一つは御苦難、一つは苦難の共感である。その一つは、鐵の釘をもって御體を貫き、一つは、苦痛の釘をもって、汝のいと聖き靈魂を貫く。ああ、善良なるイエズスよ、十字架の汝の側に聖母が寄り添ひ給へるを、汝はよく識りゐたまふ。御母の聖なる靈魂の御苦惱を汝に示し給ふ時、汝が感じ給うたことは、何人がこれを語ることが出來よう。何時、汝はかくも善なる魂が、苦痛の劔に突き刺されるさまを見給うたか。何時、汝は血にまみれた眼を聖母に向け、叉聖母も死の苦しみに覆はれた御子の御顔を仰ぎ給うたか。何時、汝は死にも近い、否、死にもまさる御母の靈魂の苦惱といと潔きその眼から流れ出る涙の川を觀給うたか。一方何時、聖母はかくも大なる苦しみの重荷を負ひ給うた御子

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の聖なる御心から出る御嘆きを聞き給うたか。
 次に、十字架上に於いて、聖主の發し給うた七つの言葉を考へよう。
第一は、「父よ、彼等はなす所を知らざる者なれば、これを赦し給へ」である。第二は、強盗に言ひ給うた「今日、汝、我と共に樂園にあるべし」である。第三は、聖母に言ひ給うた「婦人よ、これ汝の子なり」である。第四は、「我渇く」である。第五は「我が神、我が神、何ぞ我を棄て給ひしや」である。第六は「成り終れり」である。第七は「父よ、我が靈を御手に託し奉る」である。
 ああ、わが靈魂よ、考へよ。彼はいかなる御仁慈から、この言葉をもって、その敵を聖父に依頼し給うたを。いかなる御憐憫をもって、彼をみとめた強盗を受け入れ給うたかを。いかなる御心をもって、彼は、敬虔な御母を、その愛する弟子に託し給うたかを。いかなる渇望と熱心をもって、彼はその救ひの願をあかし給うたかを。いかなる悲しみの聲をもって、彼はその祈願と、その

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苦痛を御靈威の前に表はし給うたかを。いかに、最後まで聖父に全く、從順にましましたかを。最後には、いかに、彼は、その靈魂を聖父に託し、その御手に委ね給うたかを。
 この御言の各々は、善德の敎訓を含む。第一は敵に對する愛を、我々にすすめる。第二は、罪人に對する憐憫を、第三は、兩親に對する孝心を、第四は、隣人の救ひに對する願望を、第五は、困難と天主に棄てられた時の祈願を、第六は、從順と忍耐の德を、第七はわれらの總ての完德の完結ともいふべき、天主の御手に全く委せ奉ることを、我々にすすめるのである。

 土曜日 -- 槍に刺され十字架から下され給ふイエズス、マリアの御悲嘆。イエズスの御埋葬

 今日は、槍にて刺され十字架から下ろされ給うた救世主と、聖母の御悲しみとイエズスの御埋葬とを默想せよ。

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 救世主がすでに十字架上に死に給うて、その死を見ようと欲した殘忍な敵の願望を果し給うたことを考へよ。彼等の怒の焔はそのために少しも和(やわら)がない。彼等は更に復讐することを求め、この聖なる遺物を得ようと熱中する。彼等は彼の御衣を分ち、またくじ引し、槍をもってその聖き胸を突き刺す。ああ、殘忍なる下手人よ。ああ、鐵の如き頑な心よ、この生ける御體の御惱みも尚ほ足らずとし、死し給うた後も、これを赦すまいとするのであるか。目の前に敵の死んだのを見て、憤怒と敵慨心を和げない心があるであらうか。すこしく汝の荒々しい眼を擧げ、この死者の面影、この瞑目し給うた御眼、この青ざめ給うた御顔、この苦味、この死の蔭を見よ。さうすれば汝は、鐵や金剛石よりもなほ堅いのであるか。汝みづからこれを見て、心和がないのか。
 兵卒は槍を手にして進み行き、力をこめて裸の救世主の胸に、これを突き刺し奉る。その槍の勢に、十字架は空中にて打震ふ。彼は世の罪を癒さんがた

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め、水と血とをほとばしらせ給ふ。ああ、樂園より出で、地の全面にその流を溢れしむる河よ、ああ、槍の穗先にはあらず、人間の愛のために傷つけられ給うた御脇の傷よ。ああ、天の門よ、樂園の入口よ、避難所よ、塔よ、堡よ、正しき者の聖所よ、巡禮の墓よ、無邪氣な鳩の巣よ、花薫るサロモンの花嫁の床よ、救よ、貴き御脇の傷よ、正しき者の心を傷ましめる傷よ、言葉に言ひ表はし難き美のバラよ、量り難き價の紅玉よ、キリストの御心の入口よ、彼の聖愛の證(しるし)よ、永遠の生命の保證よ。
 次いで同じ日の夕方、聖い二人の人々、ヨゼフとニコデモが、その場に來たことを思へ。兩人は十字架に梯子を架けて、その腕にいだいて救世主の御體を下し奉った。聖母は、御苦難の責苦が終って、その聖き御體が地に觸れるのを見給ふや、彼女はその御腕の中に、確かなる避難所を彼のために備へ給ひ、十字架の腕から彼女の腕に彼を受け給うた。そこで、彼女はいと謙遜にこの貴き

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人々に頼み給うた。彼女はその聖子に別れの言葉を述べ給ふことが出來ず、またその御死去の際、十字架上に於いて、彼から最後の抱擁をうけることも出來なかったので、人が、彼女が今彼に近づき給ふのを妨げて、この上彼女の悲嘆を増し奉ることをせず、敵が彼女の聖子を生けるまま殘し奉らなかったとしても、友等が死に給うた彼を、彼女に委せ奉ることを願ひ給うたのである。
 聖母は、その腕に彼を抱き給うた。いかなる舌が彼女の御心情を言ひ表はすことが出來よう。ああ、平和の天使よ、聖母と共に泣け、天よ泣け、天の星よ泣け、汝、地の總ての被造物よ、マリアの御悲嘆に心を合はせまつれ。
 聖母はその聖子の裂かれた御體を抱き、かたく御腕に抱きしめ給ふ。彼女はもはやかうするより外力もなく、聖き頭の茨の間に、その聖顔を入れ、聖顔と聖顔を相接し給ふ。いと聖き御母の御姿は、聖主の血にそまり、聖子の御顔は聖母の御涙に濕はされる。ああ、甘美なる聖母よ。これこそ、誠に、汝のいと

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甘美なる御子ではないか。これこそ、汝が、かくも榮光を以って宿し、またかく悦びを以って育て給うた御子ではないか。汝の過ぎ去った悦びはどこに今あるであらう。汝がおんみづからを見給ふこの美の鏡はいづこにあるであらう。
 居合せた人々は皆泣いてゐた。聖女達も泣いてゐた。貴き人々も泣いてゐた。天地も泣いてゐた。總ての被造物も聖母の涙に合せて泣いてゐた。聖福音記者も泣き、その聖主の御體を抱いて言った。ああ、良善の主よ、ああ、わが主よ、この後誰が我を敎へ給ふであらう。誰が我に天の祕密を分ち與へ給ふであらう。それにしても何と異常なる御變化であらう。昨夜、汝は、汝の聖き御胸に我を倚らせ、我に生の悦びを與へ給うた。しかも今は、死に給うた汝を我に倚らせ奉って、我はこの大なる御惠に報い奉らうとする。これが、タボル山に於いて御變容になった御顔であらうか、これが、眞晝の太陽にもまさって輝き給うたあの

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御姿であらうか。
 聖マグダレナも泣き、救世主の御足を抱いて言ふ。「ああ、わが眼の火よ、わが靈魂の癒しよ。汝、わが罪に疲れたるを見給ふとき、誰が我を迎へ、わが傷を癒し、我に代って答へ、且つファリザイ人より我を辨護し給ふであらう。ああ、我が汝の足を洗ひ奉り、汝は跪きて我を迎へ給うた時、御足は全く今とは異なる様であった。ああ、わが心の愛しまつる者よ、汝と共に死ねと誰が我に言ひ給ふであらう。ああ、わが靈魂の生命よ、我は生き殘り、汝はわが眼の下に死したまふからには、いかにして我は汝を愛し奉ると言ふことを得よう。」
 かくの如く、この總ての聖人達は泣き悲しんで、その涙で聖き御體を潤し洗った。いよいよ埋葬の時が來たとき、彼等は聖い御體を白い布で包み奉り、御頭を骸布で覆ひ、担架に乗せ奉って、墳墓の地に赴き、そこにその貴き寳をおろし奉った。墳墓は石を以って閉され、マリアの御心は悲しみの厚い雲におほは

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れ給うた。
 そこで、彼女は再びその聖子と別れ、新に孤獨を感じ始め給ふ。そこで彼女はその富を奪はれ給ふ。彼女の御心はその御寳の在るその所にともに葬られてゐたまふ。

 日曜日 -- 救世主の古聖所下り、聖主の御顯現と御昇天

 今日は聖主は古聖所に下られたこと、叉聖母と聖マグダレナ及び御弟子への御顯現、次いで榮光の御昇天の玄義を考へよう。
 第一の點に關しては、古聖所に於いて、聖なる太祖達がその開放者の訪問を受け、これに咫尺し奉ったこの日の悦びのいかに大きかったかを見よ。かくも願ひ望んだこの救のために、彼等は、いかなる感謝、いかなる讚美を彼に捧げ奉ったことであらう。印度からスペインに還って來る人々は言ふ。「彼等は、

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再び地を踏むときに味ふ悦びがあればこそ、航海の全ての時日を好く過ごした日と認める」と。もしも一二年の航海、あるひは逐謫の後でさへかやうであるならば、三千年あるひは四千年の逐謫を蒙った者が、かかる御救ひに會ひ奉って、生ける者の國の港に入ることになったならば、その悦びは譬へるものもないのではなからうか。
 またこの日、復活し給うた聖子の訪れを迎へ給ふ聖母の御悦びを思へ。確かに御苦難の苦痛を最も感じ給うたのは、彼女であったが、また彼女こそ御復活の悦びを最も喜び給ふ方である。その御前に、共に復活した總ての聖なる太祖達を伴ひたまふ生ける榮光の聖子を見給へる時、彼女はいかに感じ給うたであらうか。彼女は何を為し、何を語り給うたであらうか。彼女の抱擁、彼女の接吻、また彼女の憐み深い眼から流れた御涙はどんなであっただらう。ああ、御惠みさえ與へられたならば、いかに聖子と共に行かうと願ひ給うたことであら

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う。
 御墓に行った聖なるマリア達の悦びを思へ。殊に、その魂の愛し奉る者を待ち望みながら墓畔で泣きやまず、せめて死んだままの彼を捜し、これに會ひ奉らうと願ったのに、今やその御足許に跪き、生きてゐ給ふ復活の彼と語るに至った彼女の悦びを思へ。そは、彼女こそいよいよ彼を愛し、いよいよしのび、いよいよ嘆き、いよいよ心を碎いて彼を求めたからである。もしも汝が同じ涙と同じ配慮を以って天主を求めるならば、汝も亦彼と語り奉ることは確かである。
彼が、旅人の姿で、エンマウスに赴く弟子達に顯はれ給うた次第を考へよ。
 どんなに慇懃に、彼はおのれを彼等に示し、いかに親しく彼等と連れ立ち、いかに優しくおのれを隠し、次に、いかに愛をもっておのれを顯はして、彼等の唇に蜂蜜の甘味を殘し給うたかを見よ。願はくは汝等の會話が、彼等のそれ

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に似んことを。彼等の語り合ったこと、即ち、キリストの苦痛と責苦をば、悲嘆と共感をもって語れ。そして汝も彼の記憶を常に失はないならば、彼の御臨在と彼の伴侶を缺くことはない、と確信せよ。  御昇天の玄義に關しては、まづ聖主が、四十日間、天に昇り給ふのを延ばして、その間、弟子達に度々現はれ給ひ、彼等を敎へ、彼等に天國について語り給うたことを考へよ。
 人が、靈に於いて、彼と共に天に登ることが出來るやうになった後に、はじめて彼は昇天し給ひ、彼等から遠ざかり、彼等を離れ給うたのである。これによって汝は、キリストの肉體的御臨在、即ち、信心の官能的慰めが靈に於いて高く飛翔して、危険から自分自身を安全にすることが出來る人々を、しばしばはなれ給ふ理由を了解するであらう。
 そこに、天主の御攝理と、時機に應じてその被造物を取扱ひ給ふ方法とが不思

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議に輝いてゐる。彼は弱い者はこれを引き立て、強者はこれを鍛へ、總て幼き者はこれに乳を與へ、大なる者はこれには乳離れをさせ給ふ。ある者はこれを慰め、他者には試みを與へ給ふ。かくの如く、彼は各々をその進歩の程度に應じて取扱ひ給ふのである。然し寵愛を蒙った者は、少しも傲慢を起してはならない。寵愛は彼の弱きことの證據である。また失望してもならない。それこそ、しばしば力の徴であるからである。
 イエズスは、弟子達がこの玄義の證人となるやうに、その眼前で昇天し給うた。そして經験によってこれを識ってゐる者にまさって、天主の御働きの善き證人はないのである。もしも汝が、天主がいかに善にましますか、いかにその屬するもに對して優しくましますか、またその御聖寵、御愛、御攝理、また御慰藉の德と力とを眞に識らうと思へば、これを經験した人々に尋ねよ。彼等は汝に全き證明を與へるであらう。

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 救世主がその弟子達に、御昇天を見させようと欲し給うたのは、彼等がその眼を以って、またその靈に於いて彼を見送り奉り、彼の御出發を識り、彼のもはやいまさないことが、彼等にとって孤獨となるためであった。それは、そのことこそ、彼の聖寵を受け奉るための、最上の準備であるからである。エリシアがエリアにその精神をたづねた時、この善き敎師は答へて「我が汝を立退くとき我を見るならば、汝は汝の要求したものを得るであらう」と言った。
 キリストの靈を受け嗣ぐ者は、キリストを愛することが深い故に、彼等を離れ給うたことを、泌々と感ずる人々、彼のゐまさぬことを深く惱む人々、その逐謫の間に、喘ぎつつその御臨在を要求する人々である。これこそ、「汝は、我が慰め主にましまししも、我に別離を告げ給はなかった。汝は路すがら汝に屬する者共を、祝福し給はなかった。天使等は汝の御歸還を約束したのに、我はこれにつきて、少しも聞く所がなかった」と言ったかの聖人の心持である。

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 そして、聖母、愛する弟子達、聖マグダレナ、及び總ての使徒の孤獨、苦痛悲嘆、また彼等の心を全く捉へてゐたまうた者が、その眼前より消え給ふを見るときは、どんなであらう。然し彼等は、彼を深く愛し奉ったから、大なる悦びをもって、イェルザレムに還ったと傳へられてゐる。彼等をして、別離を泌々感ぜしめたかの愛は、他面、彼等をして、彼の榮光の原因を悦ばしめたのである。そは眞の愛はおのれを求めずして、その愛する者を求めるからである。
 今、この貴き勝利者が、至高の都へ迎へられ給うた榮光、喜悦、及び讚美を見よ。人は彼のためにいかなる祝祭、いかなる歡迎をしたであらう。人々、また天使等は一つになって、貴き都へと向ふ。彼等はかくも永い年月の間棄てられてゐたこの所に住みに行く。いと聖い人性は總てのものの上に擧げられ、聖父の右に坐さうとしたまふ。茲に多くの考へるべきことがある。天主の愛のために忍んだ勞苦がどんなに有用であるか、また自ら謙って、總ての被造物より

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も惱んだ者がいかに大にして、總てのものの上に擧げられるかが見られる。かうして眞の榮光の愛好者は、それに達するため、彼が取るべき道、即ち、上らんために下り、總てのものに服すべきことを悟るのである。

  第五章 正しい念祷に到る六つの順序

 キリスト信者たる讀者よ、これこそ汝が、一週間に修業することが出來る默想であり、叉反省の材料に汝は缺くことはない。然しながらこの默想はこれに附隨した他の行為を、前後に伴はなくてはならないことに注意すべきである。
 第一に、默想に入る前、丁度竪琴を弾く前に、弦を調律する者のやうに、この聖き修業の前に心を準備する必要がある。
 この準備の後に、すでに示した順序に從って、その日に默想すべき主題を讀

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むのである。この事は最初の中、即ち、人がその默想すべき事を識るまでは、必らず必要である。 默想の後に、人は、その授かった御恩惠に對する感謝と、この同じ御恩惠に對して、わが全生命と、われらの救世主キリストの御生命の奉献をすることが出來る。
 最後の部分は、正しく念祷と稱せられる祈願であり、その念祷に於いて我々は、我々にふさはしい總てのこと、我々の救ひ、隣人の救ひ、また全敎會の救ひを祈願するのである。
 この六つの行為は、念祷の中にも介在することが出來る。それらは他の諸靈益のうちにあって、人に默想すべき潤澤な材料を與へる利益を有する。それらはまた、人に種々異なる滋養物を與えへるので、人はあるひはこれを食ひ、あるひはあれを飲むことが出來る。そしてもし彼が一點で默想の連絡を失ふならば

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直ちに他の事が默想のために提供される。
 私はこの行為、またこの順序が、總て、必ずしも常に必要でないことを承知してゐる。然しそれらは、初歩の者には、一定の順序を追ふため、原理に從って進むため、端緒を得るために役に立つ。また私がこれまで言った事を、總て一定不變の法則、また一般的規則とするのではない。私の意志は法則化しようとするのではなく、この道に新味を導き入れようとするのである。一度そこに入ったならば、習慣、經験、更に聖靈が殘餘の事を彼等に敎へ給ふであらう。

  第六章 念祷の前に要する準備について

 今、この種々な部分の一つ一つについて、叉まづ總てのものの中の最初である準備について、語るのが適當である。

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祈祷の場所に入って、跪き、あるひは立って腕を十字に組み、あるひは出來るならばひれ伏し、あるひは坐して、まづ十字をしるせ。汝の想像を集中し、この世の總てのものから引離し、汝の心を高く上げて、われらの聖主が、汝を凝視し給ふと考へよ。汝は彼の御臨在を實際見てゐるかのやうに、注意と敬意を以って身を振舞へ。もしこれが朝の念祷であるならば、汝の罪の總痛悔をなせ。そして告白の祈をなせ。もし夕の念祷であるならば、汝の思、言葉、行為疎略について、またわれらの主を忘れ奉ったことについて汝の心を糺明せよ。この日の過失、また過ぎた日々の總ての過失を後悔せよ。汝がおかれた天主の御靈威の前に謙って、聖なる太祖のこの言葉「我は塵と灰なれども、敢へて我主に言上す」と言へ。
 次いで詩編の唱句を言へ。
 天にいます者よ、われなんぢに向ひて眼をあぐ。見よ、僕とその主の手に眼を

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 そそぎ、婢女その主婦の手に目をそそぐが如く、われはわが神エホヴァに目をそそぎて、その憐みたまは んことを待つ。ねがはくは、我等を憐み給へ。エホヴァよ、われらを憐み給へ。そは、われら輕侮に覆はれ ぬ。願はくは聖父と聖子と聖靈とに光榮あらんことを、と。
 そして、我々が何事かを、自分から思ふことが出來るのではなく、我々が思ふことが出來るのは天主によってゐるやうに、何人も聖靈によらなければ、イエズスの聖名を應はしく呼び奉ることも出來ないもののやうにして唱へよ。
 聖靈來り給へ。天より御光の輝きをはなち給へ。貧しき者の父、惠みの與へ主、心の光にます御者來り給へ。いと優れたる慰め主、靈魂の甘美なる友、心のなごやかなる樂しみ。つかれたる時の憩ひ、暑き時の凉しさ、憂ふる時の慰め。いたって幸なる光よ、主を信ずる者の心に來り充ち給へ。
「唱」-- 主よ、聖靈を遣はし給へ、しかして萬の物は造られん。
「答」-- 地の面は新にならん。
祈願 主なる聖靈、我等の上にも降りて我等の心を充し、新になして、天主に對し、人に對しすべてにおいて正しき道を歩ましめ給へ。アーメン、と言はう。
 このやうに誦へて後、この至高なる御靈威の前に、相應はしい畏れと、敬ひの心を以って、注意深く且つ敬虔に、靜肅に留まることを得る惠みを與へ給ふやう我等の主に祈れ。そして新なる力を得て、あらゆる主の御用に立たんとの心持になるやうこの祈の時をすごせ。けだしこの果を結ばない祈は不完全であって、殆んで價値のないものであるからである。

  第七章 靈的讀書について

 準備が終ったならば、直に念祷に於いて默想すべき主題を讀むことである。

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 これは急いで一氣呵成にせず、注意深く落ち著いてしなければならない。讀むことを理解するために、その智慧を用ひるばかりでなく、了解したことを味得するために、殊にその意志を用ひねばならない。そして心に觸れる章句に達したらば、これを更によく會得するため、しばらく留まれ。讀書は餘り長くなりすぎないやうにせよ。それは、默想は物事を更にゆっくりと、更に愛を以って默想し、且つ洞察するがためのものであるから、更に有益な默想に、更に多くの時間を與へるためである。  然しながら心が散漫で、念祷に入ることが出來ない時は、更に讀書を續け、あるひは讀書と默想を交へ、一點を讀んでその事を默想したりして、同様な事を續けてもよい。このやうに讀書の言葉に執着しゐる精神は、自由にして執着ない精神の時のやうに、たやすく種々なる方面より遠ざからない。然しながら最も善いのは、輕侮をもってこの散漫と戦ひ、ヤコブが終夜したやうに、念

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祷の骨折の中に戦ひ續けることである。最後に戦ひは決せられて、勝利が獲得され、われらの聖主は、我等に信心、あるひは忠實に戦ふ者に決して拒み給はない更に大なる恩惠を與へ給ふであらう。

  第八章 默想について

 讀書の次に來るのは、今讀んだばかりの章句の默想である。
 その主題には、キリストの御生涯、御苦難の全般の事情、最後の審判、地獄天國のやうに、想像をもって心に描くことが出來るものがある。また、神の御恩惠、その慈愛、その憐憫、あるひは他の完德の考察のやうに、むしろ理解と想像に屬するものもある。
 後の默想は智的と稱され、前のは想像的と稱される。この二つの修業に於い

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て、事情に應じて、それぞれを利用するのが、我々の慣しである。
 想像的默想に際しては、各々の事物の在り方、あるひはその經過を想像し、それが我々のゐる同じ場所に、我々の兩面にある積りでゐなければならない。事物のかうした想像こそ、その玄義の考察と感得とを、生々とさせるものである。なほそのことが我々の心の中に起ると想像するならば、なほよろしいであらう。村々、また國々もそこにあり、況んやこの玄義もそこに示されるのである。これは、靈魂を自分のうちに沈潜せしめ、集中せしめるのに、大變役に立つであらう。(恰も蜜房にある蜂蜜がそれより蜜の菓子をつくるやうに)それは、イェルサレム行きを心に描き、その地に起る玄義を默想することは、普通人の頭を疲らし、痛くするものである。また同じ理由から、餘りに考へつめて、本性を疲らさないやうに、人は、その考へることに餘り想像をたくましふしてはならない。

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  第九章 感謝について

 默想に感謝が來る。靈魂は、この玄義によって、我々に給うた御恩惠を感謝するため默想を利用しなければならない。もしも、御苦難について默想したのならば、かかる責苦によって、我々を贖ひ給うたことについて、我等の聖主に感謝を上せなければならない。もしも、罪が主題であったならば、かくも長く我等の痛悔を待ち給うたことについて、感謝しよう。もしも、この世の苦痛に關するならば、それより我々を救ひ給うたことを、もしも、臨終に關することならば、危険を取除き、我々の痛悔を待ち給うたことを、もしも、天國の榮光に關するものならば、それをかくも完全に造り給うたことを、感謝しよう。そしてその他の事も同様にするのである。

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 この御恩惠に加へて、我々が高く評價する他の御恩惠、即ち、創造、保持、贖罪、召命の御恩惠等がある。例へば、靈魂は、これを彼の御姿に似せて造り給ひ、彼を見出すために記憶を、彼を認識するために悟性を、彼を愛するために意志を與へ給うたことについて、われらの聖主に感謝するであらう。靈魂はかくも多くの苦痛、危険及び大罪から、また罪の中にある時は、死から護らんがため、即ち、永遠の死から靈魂を救ふために、天使を與へ給うたことについて、感謝するであらう。また人性を取って我々のために死し、我々に、信者の兩親、洗禮、その聖寵を與へ給ひ、我々に榮光を約束し給ひ、養子として受け容れ給うたことについて、イエズスに感謝するであらう。なほ、堅振の祕蹟に於いて、惡魔とこの世と肉とに戦ふべき武器を與へ、ミサに於いて、御自身を與へ給ひ、また大罪のため失はれた聖寵を回復せしめる、悔悛の祕蹟を與へ給うたことについて、彼に感謝しよう。最後に彼が今まで、常に我々に送り給ひ、

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また今なほ送り給ふ、あらゆる善き靈の勸め、また祈り且つよく働いて、はじめた善行を續けるやうに、與へ給ふその御助けを、彼に感謝しよう。この御恩惠に、汝がわれらの聖主から戴いたことを識っている他の一般的また特殊的な御恩惠を加へよ。それらのことのため、また公なること、祕かなることのために、能ふ限り多くの感謝をなし、天地のあらゆる被造物を招いて、この務を達成する助けとせよ。この精神を以って、汝はその欲するままに、次の歌をうたふことが出來る。
 ああ、聖主の總ての業よ、聖主を祝し、彼を讚え、その讚歌をうたひ奉れ。
また詩編は言ふ。
 わが靈魂よ、エホヴァを祝しまつれ、わが中なる總ての者よ、その聖き御名を敬ひ奉れ。
 わが靈魂よ、ああエホヴァを祝し奉り、その御恩惠の思ひ出を失ふなかれ

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 彼は汝の總ての惡を赦し、汝のすべての弱さを癒し給はん。
 彼は、汝を、死より贖ひ、その御憐みと御同情を以って我に冠を戴かせ給ひぬ。

  第十章 奉献について

 一度、聖主に對して、總ての彼の御恩惠を感謝し奉るや、その心には、預言者ダビドの次のやうな心持が、ほとばしり出るであらう。
 我いかにして、その賜へるもろもろの恩惠をエホヴァにむくいんやと。
 このやうな望みを滿たすため、人は、ある方法で、彼が有し、且つ献げ得る總てのものを、進んで天主に献げ奉る。

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このために、まづ彼は、自分を永遠の奴僕として献身し、天主の御手に自分を委ね奉って、今も、後も永遠限りなく、天主がその欲し給ふところを、なし給ふやうにしなければならない。同時に、總てが、その聖き御名の榮光と譽れとなるやうに、言語、行動、思ひ、働き、またなし且つ惱む總てのものを天主に献げよ。
 第二に、聖子の御功德と御奉仕、また聖父に從順ならんがため、馬槽から十字架に到るまで、彼がこの世に於いて、受け給うた總ての苦患を、聖父に献げまつれ。それこそ、彼が、新約に於いて、我に傳へ給うたわれらの富、また、われらの遺産であって、彼は、これによって、我等を、この大なる財寳を嗣ぐ者となし給うたのである。また、このやうに聖寵によって、自分に與へられたものが、自分のものの具によって、獲得せられるものと同様に、わが權限内にあるものではないやうに、彼が我に與へ給うた功德と權利とは、たとへ自分が

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汗を流して働いた末に、これを得たとしても、決して自分の權限内にはない。また人は、彼といふ聖き御生涯の、この總ての御奉仕と御働き、また總ての御善德、御從順、御忍耐、御謙遜、御忠誠、その御慈愛、その御憐憫、その他すべてを、一つ一つ、自分のものと考へて、第一の献物と同じやうに、この第二の献物を献げることが出來る。これこそ、我等が彼に献げ得る最も富める最も貴き献物である。

  第十一章 祈願について

 このやうに豐かな献物を献げた後、我々は、直ちにその報酬を期待することが出來る。
 第一に、我等の聖主に對する愛に出る大いなる愛と、その榮譽とに對する熱

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心をもって、世界の總ての人々、國民が、その唯一にして、眞の天主、また主として、彼を識り、彼をほめ、且つ彼をたたへて、その心の底より、預言者の言葉、
 「エホヴァよ、願はくは、總ての民は汝を識り、汝はその民を識り給はん事を」と言ふに到るやうに祈願しよう。
また、聖會の頭、即ち、敎皇、樞機卿、司敎、また他の總ての司牧者及び長上のために、聖主が、彼等を導き、且つ照らして、總ての人々に、その造物主を識ることとこれに從ふ道を傳へしめ給ふやう祈らう。また、聖パウロが勸めてゐるやうに、我等は、王、また權力を持つ總ての人々のために祈って、その政治によって我々が靜かな、落ちついた生活をすることが出來るやうに祈願しよう。これは總ての人々が救はれて、眞理を知るやうになることを望み給ふ、我等の救主なる天主の御心に適ふことである。

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 また、その神祕體の總ての肢のために祈って、義人を保ち、罪人を改心せしめ、御憐みをもって死者をすべての苦惱より救ひ、永遠の生命の休みに導き給ふやう祈願しよう。
 また、總ての貧しき人々、病人、囚人、また捕虜などのために祈らう。願はくは天主、その聖子の功德によって、彼等を助け、惡より救ひ給はんことを。
 われらの隣人のために祈願した後、また自分のために祈らう。われらの願ふべきことは、おのれをよく識ってさへゐれば、我々各自に、その個人的要求が自ら敎へるであらう。然し、更にこの敎をたやすくするため、次の惠みを祈願することが出來る。
 第一に、聖主の功德と苦難によって、總ての罪の赦しとその償ひを願はう。特に、我々がもっとも傾き誘はれやすい總ての情慾と惡德にする助けを願ひ、天の醫者に、すべての傷を示して、全癒と聖寵塗油をもって、これを手當し給

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ふやうに願はう。
 第二に、總てのキリスト敎的完德の頂である、信德、望德、愛德、畏敬、謙遜、忍耐、從順、犠牲を成就する力、貧しき心、厭世、賢德、清き良心、などのいと高く、いと貴き善德、また、この靈的建物の頂にある、他の同様なる善德を祈願しよう。信德は、總てのキリスト生活の根本である。望德は、この世の誘惑に對する杖であり、薬である。愛德は、キリスト的完德の終局である。天主を畏れるのは、眞の智慧の始であり、謙遜は、總ての善德の基礎である。忍耐は、敵の打撃と、衝突に對する鎧であり、從順は、おのれを犠牲として天主に献ぐる人の、好ましい献物である。賢德は、魂を照らして、そのあらゆる道に於いて、魂を導く靈魂の眼である。力は、彼がその總ての業をなす腕である。純なる意向は、われらのすべての行動を、天主に歸し、彼に導くものである。

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 第三に、それ自身はもっとも重要ではないが、かの、諸德の番人の役をする他の善德を祈願しよう。それは、飲食の節制、言葉の愼み、外なる人の質實にして威儀ある態度、他人に對して寛容にして、善き模範を示すこと、自己に對してはきびしきこと、その他の同様な善德を言ふ。
 かうして、最後に、天主の愛を祈願せよ。多くの時をこのために費せ。深き思ひと、願ひとをもって、この善德を聖主に求めよ。愛德にこそ、總ての善はあるのである。汝は次の如く祈ることが出來る。

 天主の愛を求める特別なる祈願

 主よ、これらの總ての善德の上に汝が我に命じ給ふ如く、心を盡し、魂を盡し、力を盡し、精神を盡して汝を愛するやう、汝の聖寵を我に與へ給へ。ああ、汝、わがすべての望よ、わがすべての榮よ、わが唯一の避難所よ、またわが悦びよ、愛する者のうちにて最も愛さるる者よ、花の如き花婿よ、美しき花婿よ、

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蜜に溢るる花婿よ、ああ、わが心の樂しみよ、わが靈魂の生命よ、わが精神の悦ばしき休み所よ、ああ、明るく美はしき永遠の日よ、わがうちなる明朗なる光明よ、わが心の花かほる樂園よ、ああ、愛すべきわが根源よ、また最高のわが充足よ、備へ給へ。主よ、汝の聖言の約束に從って汝、我がうちに來りて、我がうちに憩ひ給ふやう、わがうちに、汝のために、ふさはしき住家を。わがうちなる聖心に適はざる總てのものを殺し、我を、汝の御心に適ふ者となし給へ。主よ、わが靈魂のいと深き所を、汝の愛の矢をもって傷け給へ。汝の全き愛の酒をもって、醉はしめ給へ。ああ、いづれの時にか、その時は來らん。いづれの時にか、われは總てのもののうちに汝を樂しまん。いづれの時にか、我がうちに、汝に逆ふものは死なん。いづれの時にか、我は我たらざるに到らん。いづれの時にかわがうちに、汝の外、何も生きざるに到らん。いづれの時にか、我はいと熱く汝を愛するに到らん。いづれの時に

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か、汝の愛の焔は我を燃やさん。いづれの時にか、我は汝のいと力ある甘美に全く溶かされ、我を忘るるに到らん。いづれの時にか、汝はこの貧しき乞食に、戸を開き給はん。いづれの時にか、汝は、わが心のうちにあり、しかも、汝の總ての富をもって、汝みづからであり給はん。汝のいとも美はしき國を、彼に露はし給はん。いづれの時にか、汝は我が心を奪ひ、我を引き上げ、我を没我の境に運び、我を、汝御自身の中に隠し給ひ、もはや、おのれ自身を見ることなからしめ給ふや。然れば、いづれの時にか一度、この障碍、この鎖をはなれて、汝からもはや離れることなきやう、我を、汝の心に一致させ給ふや。
 ああ、わが靈魂の愛し奉る最愛なる者よ、ああ、わが心の樂しみよ、主よ、わが功德によらで、汝の限りなき御惠みによりて、我に耳を傾け給へ。我を敎へ、我を照らし、我を導き、汝の眼に適はしからぬことは、少しもなし且つ言ふことなきやう總ての事に我を助け給へ。ああ、わが天主よ、我が愛する者

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よ、我が心よ、わが靈魂の財寳よ、ああ、わがうましき愛よ、ああ、かくも大なるわが甘美よ、我が力よ、我を助け給へ、我が光よ、我を導き給へ。
 ああ、わが心の天主よ、いかで汝は、汝みづからを、貧しき者に與へ給はざる。汝は天地に充ち給ふ、しかも、わが心は空し。汝は、野の百合を裝ひ、小鳥に餌を與へ、蚯蚓を養ひ給ふ。いかで、汝は、汝のために、總てを忘れたる我を忘れ給ふや。無限の慈愛よ、我は、汝を識ることいと遅かりき。かくも古くして、かくも新しき愛よ、我は汝を愛すること遅かりき。汝を愛せざりし時は悲し。我、汝を識ることなかりしは悲し。盲目なりし我は、汝を見ることなかりき。汝はわがうちにゐましたるに、われは汝を外に求めゆきぬ。我、汝を見出すこと遅かりしとて、汝の聖なる寛大をもって、汝を見棄つる我をさし置き給ふ勿れ。汝にもっとも適ひ、汝の心のもっとも關心を有ち給ふものの一つは、汝を觀奉ることを得る眼を有することである。主よ、汝を崇むるために、

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この眼を、即ち、單純なる鳩の眼、純潔無垢の眼、謙遜にして愛に溢るる眼、敬虔と涙に充つる眼を、また汝の意志を識りて、これを為し遂ぐるため、注意深くして愼みある眼を、我に與へかし。この眼をもって見奉り、願はくは汝がかつて聖ペトロを見て、その罪に泣かしめ給ひし汝の眼、またかの放蕩息子が歸り來るや、これを迎へて平和の接吻をし給ひし時、彼を見たまひし汝の眼、また天をも敢へて見上ぐる能はざりし収税吏を顧み給ひ、マグダレナが御足をその涙をもって洗ひ奉りし時、彼女を顧み給ひ、また最後に、汝が雅歌の花嫁に「わがつまよ、ああうるはしきかな、なんじの眼は鴿の如し」と言ひ給ひつつ、彼女に向け給ひし汝の眼をもって、見ることを得しめ給へ。わが靈魂の眼と美を嘉みして、我をして常に汝の眼に美はしく見えしむるこの飾り、この德、またこの恩惠を我に與へ給へ。
 ああ、いと高く、いと寛容にしていと惠み深き三位一體よ、聖父よ、聖子よ

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聖靈よ、唯一の眞の天主よ、我を敎へ、我を導き、萬事に於いて我を扶け給へ。ああ全能なる父よ、汝の無限の力の威力をもって、汝のうちに、我が記憶を捉へおきて、これを聖き敬虔なる思に溢れしめ給へ。ああ、いと聖なる聖子よ、汝の永遠なる智慧によりて、わが理解を清め、これを汝の至高の眞理と我が卑賤の極みの認識とを以って飾り給へ。ああ、聖靈よ、聖父と聖子の愛よ、汝の測り難き御惠によって、わがうちに汝の聖意を通ぜしめ、いかなる水も消す能はざる汝の愛の大なる焔をもって我を燃やし給へ。ああ、聖三位一體よ、わが唯一の天主、わが總ての善よ、ああ、願はくは、天使が汝を讚へ、汝を愛するごとく、汝を讚へ、且つ愛することを得しめ給へ。ああ、我は心より總ての被造物の愛を汝に献げて、汝のうちにおき奉れば、我に總ての被造物の愛を有たしめ給へ。しかも、これは汝に相應はしく、汝を愛し奉ることにはならず。汝のみ汝を讚へ給ふに相應しく、また汝を愛し給ふに相應はし。そは、

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汝のみ汝の測り難き御恩惠を識り給ふ。されば汝のみ、それに相應はしく、それを愛し、また汝の全く神的なる胸のうちに於いてのみ、愛の義が保たるるやうそれを愛するを得たまふ。
 ああ、マリアよ、マリアよ、マリアよ、いと聖き童貞よ、天主の母よ、天の元后よ、この世の元后よ、聖靈の至聖所よ、純潔の百合花よ、忍耐のバラよ、甘美の樂園よ、貞潔の鑑よ、天眞の模範よ、この貧しき逐謫の身、また巡禮の身のため祈りて、汝のいと豐かなる愛のパン屑を我に與へ給へ。
 ああ、汝、至福なる聖人、聖女よ、汝の造物主の愛に燃ゆる汝、至福なる天使よ、殊に汝の愛をもって、天地をもやす汝、熾天使等よ、この貧しき、あはれむべき心を棄て給ふことなく、イザヤの唇の如く、すべての罪より潔め給へ。またこの心は、聖主のみを愛し奉り、汝のみを求め奉り、且つ永遠に彼のうちにのみ、休み、且つ留まり奉るやう、汝の燃ゆる愛の焔をもって我が靈魂

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を燃やし給へ。

  第十二章 この聖なる修業に於いて守るべき若干の心得

 これまでに述べて來たことは、總てこの念祷の業の、主要部分の一つである考察の材料を供するに役立った。實際、この考察といふことを、充分重んずる人々は尠い。かうして主題を缺くために、人は、この聖なる修業に於いて失ふ所が多い。
 今、我々は、實行することの出來るやり方、方法を、總體的に述べよう。この事に於いて、主なる指導者は聖靈である。然しながら、經験は適當な案内の必要を、我々に示してゐる。そは、天主に到る道は嶮はしくて、案内者を必要

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とし、これなくば、大いに時間を費して道に迷ふのである。

 第一の心得

 第一の心得は、我々が、必要な場合、必要な修業をもって、上記の諸點の一を考察する時、その一つのみに執着し過ぎて、他の點に心を向ける方が、信心の甘美、利益を得ることがで出來るのにも拘わらず、さうしては惡いと考へてはならない。實際、我々の努力の目的は信心である。その目的に役立つものこそ、我々にとって最上のものである。然し、それは輕い動機からではなく、明かな効果を得るためになさるべきである。
 同様にその念祷、あるひは默想の章句のうちに、他にまさって、甘美と信心を感ずるならば、靜思の時は全く過ぎても、その感じが續くかぎり、それに集中せよ。すべての目的は信心であるとは、既に言った通りである。であるから

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われらが確實に手中に収めてゐるものを、覺束ない希望をもって求めるのは間違である。

 第二の心得

 第二の心得は、人は、この聖なる修業に於いて、餘りに、思辨を逞ふすることを避けよといふことである。この事柄を、論辨及び思索をもってよりも、むしろ感情と意志力をもって、取扱へといふのである。神的玄義を瞑想するための念祷に於いて、説敎のために研究するかのやうな方法を取るならば、必らず道に迷ふ。それは心を集中させないで、むしろこれを散漫させ、自己を内に省みさせるよりも、寧ろ外に導くに役立つのである。かくて念祷が終っても、人は潤ひなく、信心の念を缺き、以前のやうにあらゆる輕薄に陥り易いといふことになる。更にかかる人は祈ったのではなく、語り且つ學んだのであって、

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念祷とは全く異った事柄である。かかる人々は、この修業に於いて、我々は語ることよりも、耳を傾けることが必要だといふことを考へねばならない。
 この事に成功するため、人は、無智にして、謙遜な老婆の心、更に進んでは、天主の事柄を識り、これを愛さうとの意志をもって臨むべきであって、總てをさぐり求めようとする醒めた、注意深き心をもって臨んではならない。それは、識らんがため研究する人々に相應はしいものであって、泣かんがために、天主に祈り、天主に想いを馳せる人々には、ふさはしくないものである。

 第三の心得

 前の心得は、理解力を鎮めて、總てのことを意志に委ぬべきことを我々に敎へた。ここでは、その意志の働きが過度であって、激越にならぬやうに、意志にその規則と節度を附することである。

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 我々が到達しようとする信心は、(ある人の考へるやうに)腕づくで得られるものではないことを、識らねばならない。過度の努力、また強ひられた、作り悲しみをもって、救世主の御苦難を考へつつ涙と憐憫を得るに到ることがある。しかし、それは普通、まづ、心を枯渇させて、カシアノの敎へるやうに、心を救世主の御訪れに不適當にする。更にかうした方法は絶えず肉體の健康を損じて、遂にはおそらく、精神をしてその感じた不快を非常におそれしめ、そのうけるあらゆる苦痛を經験によって識ってゐるから、再び、この聖なる修業を始めるのを、躊躇するに到らしめる。それで、人は、その人の本分をよくすることをもって、滿足すべきである。即ち、優しく、同情深く、しかも聖主が彼に與へんと欲し給ふあらゆる感情に對して備へがあり、且つ彼のために苦しみをうけようのとの用意ある心をもって、聖主の御苦難の前に出で、これを單純にして穏やかなる眼をもって見奉ることである。彼は強ひて愛情を起さうとする

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よりも、主の御憐憫をもって與へんとしたまふ愛情を、受け容れる心を有つべきである。そしてこれが濟めば、天主が何も與へ給はなくとも別に悲しむべきではない。

 第四の心得

 すでに述べたことから、我々は、念祷の際に我々がもつべき注意の仕方はどんな風にするかを結論することが出來る。この際、打ち萎れた弱々しい心ではなく、生々とした、注意深い、昂然たる心を有つべきである。然しながら、かく注意深く、かく心を集中することが必要である一方、他面、この注意は節度と中庸とを失はず、健康を損ひ、敬虔を妨げることがないようにしなければならない。すでに述べたやうに、その思ひに專心せんがためにする過度の努力によって、實際頭を疲らす人々がゐる。またこの不利を避けるため、無氣力、怠

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慢で、全く風のままに動かされ易い他の人々がある。
 この兩極端を避けるために、中庸に留まることはふさはしいことである。過度の注意を以って頭を弱らすな。また思ふままに慢想に耽けるほど、不注意且つ怠慢であるな。
 我々は悍馬に乗る人に對して、轡をしっかり握れと言ふのを慣としてゐる。即ち、その馬が後退せず、無事に進むことが出來るやうに、硬ばりすぎもせず、また弛るやかすぎもしないことである。そのやうに、我々の注意は適度であって、強いられるものではなく、思慮深くあるが、退屈で、悲觀的であってはならぬ。
 特に、默想の初めに於いては無理な注意のため、頭を疲らさないやうにすることを汝に勸告しておきたい。その譯は、さうすれば、旅の初めに餘り早く進んだ時に、旅人に力が不足するやうに、我々は餘力を缺くやうになりがちだか

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らである。

 第五の心得

 この心得の中で、主要なることは、祈祷する者は即座にその憧れる信心の甘美を感じないからと言って、心を惱まさず、またこの聖なる修業をやめないことである。辛抱と忍耐をもって、聖主の御來臨を待つことが必要である。彼の御靈威の榮光、われらの卑賤な身分、また我々が取扱ふ事の高遠さは、我々がいく度も待ち、その聖なる宮の門に番人をおくことを要求する。
 そして、かうしてしばらく待った後に、聖主の御來臨があれば、その御來臨を感謝せよ。もし御來臨がなささうならば、彼の前に謙って、汝が與へられないのは、これを享けるに適はしくないことを識れ。汝自身を捧げ、汝の意志を棄て、汝の慾望を十字架に釘け、惡魔及び汝自身と戦ひ、汝の出來る僅かな事

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をなしたことで滿足せよ。もしも望ましい、具象的な拝禮をもって、聖主を拝しなかったとしても、彼が望み給うたやうに、靈と眞とをもって拝しただけで充分である。
 我が言ふことを信ぜよ。このことは確かである。そこにこそ、この航海の最も危険な海峡があり、眞の信者が試みられる場所があるのである。もしもこれをうまく逃れるならば、殘りは立派に行くのである。
 最後に、念祷を續けて、徒らに頭を疲らすことが時間の浪費と思へるならば、汝の出來ることをした後、信心の書を取り、念祷と靈的讀書を交へるのも不都合ではないであらう。然し、その讀書は性急にしてはならない。むしろ落ちついて、その讀むところに對する感情にみちているものでなければならない。しばしば、念祷と、靈的讀書を交へよ。この方法は、どんな種類の人々にも、この道に於ける最も素撲な、最も不慣れな人々にも採用しやすく、有益で

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ある。

 第六の心得

この心得は、前と異なるものではない。しかし天主の僕が、念祷の中に於いて味ふことの出來る、僅かな情味に滿足してはならないことを、なほ言っておかねばならない。ある人は、少し涙を流し、あるひは少し甘美な心持を感じれば、この修業を充分成し遂げたと想像することがある。これは、我々の求める目的にとっては充分ではない。地を肥沃にするためには、塵を靜め、地の表面を濕ほすに過ぎない少しの水では足りない。地の底まで通って、多くの物をみのらすことが出來るのには澤山の水が必要である。同様に、我々の善い業に善い結果を與へるには、潤澤なる天來の露と水とが必要である。また、この聖なる修業のために、出來るだけ長い時間を費やすやうにせよと、勸告しよう。

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短い時間の二度よりも、一度の長い時間を當てる方が勝ってゐる。それは時間が短ければ、想像を落ちつかせ、心を靜めるために總ての時が過されて、心が落ち著いて、正にこれを始めるべき時に、我々はこの修業をやめることになるのである。
 特に、この時間を制限しようとすれば、一時間半、あるひは二時間以下の時間は、短い念祷の時間と思はれる。しばしば半時間は、心の調子を整へ、所謂想像を落ちつけるために費やされて、殘りの時間全部で念祷の成果を味はねばならなくなる。實際この修業が、朝課とか、御ミサの後とか、靈的讀書、あるひは口祷の後とかのやうに、他の修業の後になされる時は、心は更によくその心持になっており、渇いた木のやうに、いと速かに天火に燃えるのである。また、朝の時間はもっと短くてもよい。それはその時こそ、この修業にもっとも適ふ時であるからである。

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 然し、様々な業務のために、時間の乏しい人は、神殿に於ける貧しい寡婦のやうに、その最後のものを捧げることをやめてはならない。怠惰でさへなければ、必要と天性に應じて、總ての被造物に賜物を下し給ふ者は、汝にも等しく與へ給ふのである。

 第七の心得

 精神は同じだが、更に他の同様な心得がある。それは、念祷中に、あるひは念祷以外の時に、靈魂が特に聖主の訪ひを蒙るならば、これを徒らに過してはならない。與へられたこの機會を利用しなければならない。確かに人は、風なしに長い間航海するよりも、風を受けて、一時間航海する方が、多く航海することが出來るからである。
 聖フランシスコは、このやうに行動したと言はれてゐる。聖ボナヴェントゥ

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ーラの傳ふる所によれば、彼はこの點を非常に心にかけてゐたので、彼が歩む道すがら、聖主が特に彼を訪ひ給へば、彼はその伴侶を先に進ませて、天から彼に來ったこの食物を再嚼し、且つ消化してしまふまでは立留ったと言ふことである。
 このやうに行動しない人々は、一般にこのやうな苦痛を以って罰せられる。即ち、彼等は天主を捜し求めて、天主を見出さないのである。そは、彼が彼等を捜し給うたとき、彼等を見出し給はなかったからである。

 第八の心得

 最後の主要な心得は、この修業に於いては、默想と觀想とを一緒にするやうに努めねばならないといふことである。一方の階段を通って、他に上って行かなければならない。そのために、默想の務めは、神的事物に對する感情を、我

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々の心のうちに喚起するがために、これらの事物を、注意と、專心とをもって思ひめぐらし、その各々を推論することであると識らなければならない。即ち、火花を發するに、燧石を打つやうなものである。觀想はすでにこの火花を發してゐるのである。即ち、それは、すでにその求める感情を有し、これに憩ひ、默然とこれを樂しみ、もはや様々な悟性の推論や、思辨はないのである。それは、唯だ眞理の直觀である。それで、聖ボナヴェントゥーラは言ふ。「默想は努力を以って有効に語るが、觀想は努力なくして有効に語る」と。一は求め、他は發見する、一は食物を再嚼するが、他はこれを味ふ。一は論じ、且つ考察をするが、他はただそのものの觀想に滿足する。それは、すでに愛を有して、これを味ってゐるからである。最後に一は手段であり、他は目的である。一は道、また運動であり、他は、この道、この運動の終局である。
 そこから、靈的生活の總ての巨匠によって敎へられながら、これを讀む人々

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によって餘り、理解されてゐない、極めて普通な一事が推論される。即ち、一度目的が達せられると、もはや手段の必要がない。一度、港に到達すれば、航海は終るのである。同様に、人は默想の努力によって、觀想の憩ひと味に到達するならば、敬虔で骨の折れる探求はやめるべきである。あたかも、現在の彼を見奉るかのやうに、天主の御來訪、及び思出に滿足して、與へられたこの愛情、愛、憐憫、喜悦及びその他の類似の感情を樂しむべきである。この心得の理由とする所は、この事の目的は悟性の思索よりも、むしろ意志の愛に存するといふことである。意志がこの愛に捉へられるとき、我等は能ふかぎり、悟性のあらゆる論議と思索とを棄て、我等の魂が全力をつくしてこの感情に結びつき、他の力の働きによって逸らされないやうにしなければならない。ここに、一人の博士の次に勸めも出て來るのである。即ち、人が天主の愛に燃やされると、この論議、この思索はいかに崇高に見えても棄てなければならない。それ

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はそれらが惡いからではなく、その時には、それらは、更に高い善の妨げとなるからである。そして、その事は、一度目的に達して運動をやめ、觀想の愛によって默想を棄てることに過ぎない。  そのことは、すでに前に示したやうに、總ての修業の末、天主の愛を請求した後にすることが出來る。一面に於いて、實際、人は、念祷の終ったときには天主に對する愛情が多少生ずると想像することが出來る。賢者は言ったではないか。「念祷の終りは、その始めよりも善し」と。他面に於いて默想と念祷の業の後に少しばかりその精神を寛がせ、それを觀想の腕に休ませるのは至當なことである。 であるから人は起って來る想像をすて、悟性を休ませ、記憶を鎮め、これを我等の主の中に留めよ。彼の眼前に於いて自らを省みよ。もはや天主について特殊の事を考へるな。信仰によって彼に關して有する意識を以って滿足せよ。

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意志と愛とを働かせよ。それは、愛のみがこれを抱き、總ての默想の成果を所有するからである。悟性は、天主を識るためには、殆んど無に等しい。そして意志は多くを愛することが出來る。であるから人は自分自身のうち、天主の御姿の住み給ふその靈魂の中心に閉じ籠れ、高い塔から語る人に耳を傾けるやうにし、あるひはあらゆる被造物の中に、「彼」と彼の魂と唯二つしかないもののやうに、「彼」に心を留めよ。自分自身とそのしたことを忘れよ。何となれば、一人の聖敎父は言ふ。「完全なる念祷とは、祈ることさえ思ひ出さないで祈ることである」と。
 そして修業の終りに於いてのみならず、またその最中に於いても、まさに悟性がさながら意志に眠らされて、この靈的休息が我々を捉へた或る所に於いても、我々はこの休息をし、その恩惠を樂しみ、その食物を消化し、且つ味った後にのみ、我々の仕事に還るべきである。園丁は花壇に水を撒くときには、か

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うするのである。即ち、それに水を充たした後、水の流れを止め、その受けた水を殘らず乾いた地の中に吸ひ込ませ、浸み込ませる。そしてそれが濟むと、地が水を更に受け入れて、更によく潤はされるやうに、噴水器の栓を再び開くのである。
 然しながら、その時、靈魂の經験すること、その享ける光明の享樂、滿足、愛、平和は、到底言葉を以って説明することは出來ない。それこそ、あらゆる感情を絶する平和、またこの世に於いて得ることの出來る至福である。
 天主のことを思ひ始めるやいなや、「彼」の甘美な聖名の思出が、その心を溶かす程に、天主の愛の燃やされる人々がある。かかる人々は、あたかもその子あるひは夫のことを語るとき、彼らの思出を樂しむ母あるひは妻のやうに、天主を愛するために、論議も考察も殆んど必要としないのである。  また念祷の修業中のみならず、それ以外の時にも、天主のために、萬物と自

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分とを忘れてしまふ程、天主に潜心して進む他の人々がある。もしも烈しい、曲なる愛に於いてさへも度々かうした事をすることが出來るならば、まして無限の美の愛は、更に多くのことをすることが出來るであらう。聖寵は、自然また過誤よりも力ないものであらうか。そんなはづはない。  であるから靈魂がこの感情を經験する時は、念祷のどんな部分に於いても、あたかも念祷の時が全く過ぎ去ってしまったものやうに、これを拒むやうなことをするな。やむを得ない外は、祈祷、あるひは默想を固定的なものとするな。それは、聖アウグスティヌスは、「口祷が敬虔の妨げとなる時は、これをやめねばならぬ。同様に默想が觀想の支障となるときは、これを棄てねばならぬ」と言ってゐるからである。
 なほ、極めて重要なる他の忠言がある。もしも「少」より「多」に登らうとして、感情のため、默想をやめるのが適當であるとすれば、同様にこの反對

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に、默想のため感情を棄てることも、おそらく適當であらう。それは、感情は長く續けば、健康を損ふ心配があるほど烈しくなることがあるからである。しばしばこの勸めを識らず、神的甘美の力に引きづられて、この修業に身を委ね、愼重を缺くやり方をする人々にかういふことが起るのである。このやうな場合、よい療法は、その心を慰撫し叉輕くするため、キリストの御苦難、あるひはこの世の罪惡と不幸とを少し默想して、少し心にこれへの共感を起させることであると、ある博士は言った。

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    信心論

 第一章 信心の性質について

 念祷に從事する人々が苦しむ、最大の苦痛は、度々信心の不足を感ずることである。それは、これを缺くことがなければ、祈祷ほど甘美で、容易なものはないからである。それで、念祷の材料と、その方法を論じた後、信心を助けること、その妨げとなること、信心深い人々に最も普通な誘惑、また、この修業に必要な若干の心得について語るのは適當である。
 しかしながら、まづ第一に、我々が得ようと争ふ寳が何であるかを、まづ識らうとすれば、信心とは何であるかを、ここに宣明しなければならない。

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 聖トマスは、信心とは、人を總ての善德に急がせ、叉これに心を向けさせ、彼を感奮させ、善をたやすくさせるものであると言ってゐる。
 この定義は、明かにこの德の必要と、大なる効能を示すものであって、そこには思ふにまさる多くの事柄が含まれてゐる。
 實際、我々が善い生活を送るために、最大の障碍をなすものは、罪惡の結果、我々に來る天性の惡化であることを識らねばならない。これが、我々の有する惡に對する傾向と、善に對する眞の困難と、鈍感の原因である。この二つの障碍は、我々が善德の道を歩むことを非常に困難にする。この德そのものはこの世に於いて最も甘美で、美はしく、最も愛すべく、最も尊むべきものである。この困難と鈍感に對して、天主の智慧は、善德と信心の援助といふ極めて適當な療法を見出し給うたのである。南風が雲を追ひはらって、空を晴朗にするやうに、眞の信心は、我々の靈魂から、この重々しさと困難を打ちはらっ

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て、靈魂を有能にし、自由であり、且つあらゆる善をする用意があるものとするのである。それは、この德は、それ自體が、また、聖靈の特別の賜物、天の露、また念祷によって得られた天性の御援助、また御來臨であるところの一つの德である。そしてその性質は、この困難、この重々しさと戦ひ、この冷淡を追拂ひ、機敏さを與へ、靈魂を善い願望をもって滿し、知性を明かにし、意志を強め、神愛に燃やされ、惡い願望の焔を消し、この世を厭ひ、罪をおそれる心を起させ、人間の中に善をなすために、新しい熱心、新しい精神、別の力、また熱情を注ぐものである。サムソンが毛髪を有してゐた時は、世の總ての人々に勝る力を有してゐた。而して彼がそれを失った時、彼は他の人々より弱くなってゐた。信心を有するとき、キリスト信者の靈魂も同様である。それを有しないとき、その靈魂は弱い。
 これこそ、聖トマスが、その定義に於いて、我々に指示しようとした所であ

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る。これこそ、人がこの善德についてなし得る最大の讚辭である、それは、それだけで、總ての善德の刺戟物である。かうして、善德の道を進まうと眞に願ふものは、この拍車なしにはゆくな。これなしには、人は、困難から、この惡馬を引き出すことは決して出來ないからである。
 ここから眞實にして、本質的な信心の性質が明かとなる。善をしょうとの敏活さと熱心とがなければ、祈る人々がしばしば感じる、かの優しき心根、あるひは慰藉は、決して信心ではない。聖主がその徒を試み給ふとき、しばしば一方を缺いてゐることがある。實は、この信心、また敏活さから、この慰藉は生れるのである。また、他面、この慰藉と靈的感得は、善への敏活と熱心を本質とする正銘の信心を増すものである。それで、天主の僕達は、正しくこの悦びと慰藉を願望し、且つ要求することが出來る。しかもこれは、ここに於いて彼等の經験する樂しみの故ではなく、預言者が『汝、我が心を擴くし給へると

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き、我は汝の誡命の道を歩みたり』と言ったやうに、ここにこそ、我々をして善をなし易くさせる信心の原因があるからである。即ち、それはわが輕快の原因である汝の慰藉の悦びである。
 最後に、我々は今、この信心を得るための方法について論じよう。この善德は、天主と特別の親近を有する。あらゆる善德に一致してゐるのであるから、從って、かうすることによって我々は完全なる念祷、及び觀想、聖靈の慰藉、天主の愛、天の智慧、また總ての靈的生活の目的であるわが靈と天主の一致を得る方法を論ずることになる。最後に我々はこの世に於いて、この天主を所有する、--ここにこそ、この聖福音の寳は存し、且つこれこそ賢き商人で、これを得んがため悦んで總ての財寳を賣拂った貴重なる眞珠であるが--方法を論ずることにする。
 であるから、これは崇高な神學であるやうに思はれる。それは、そこに、最

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高善に到る道が敎へられ、この世に於いて得られるかぎり、天の淨福の成果を得るため一歩一歩梯子が立てられるのである。

第二章 信心に達する助けとなる九つの事柄について

 信心の助けとなるものは種々様々である。第一に、眞面目に雄々しく、しかもいかに骨が折れて困難であっても、この貴い眞珠を得るに必要な、總てのことにその身を捧げる斷乎たる心をもって、この聖なる修業をすることが、極めて重要である。確かに偉大なるものに、困難でないものはないが、この事に關して、少くとも初心者に對しては同様である。また、その心を警戒して、無為にして、空しき、あらゆる思ひ、あらゆる怪しき感情及び愛、また、あらゆる熱狂的動亂と、動きから遠ざかれ。そは、明かに、これらのことはみな、信

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心の妨げとなるものであって、祈祷し、且つ默想するためには、弾ずるために竪琴を調整するやうに、心を調しなければならない。
 更に五感、特に眼、耳及び舌を警戒せよ。それは、舌によって、心は消耗され、眼と耳とによって、靈魂の平和と休息とを亂され、また種々の想像に充たされるものである。それである人が、觀想は「言はず」、「見ざる」、「聞かざる」でなければならないと言ったのも道理ある次第である。心が外部に向って消耗されることが少なければ少ない程、自分自身に、いよいよ集中されるのである。  同様に孤獨を愛せよ。孤獨は感覺をして、放心の機會を、心をして罪惡の機會をはなれさせるばかりでなく、更に天主と自分自身と交はるために、人を招いて、更に自分自身のうちに生かしめる。それは、人は、ここに於いて、この孤獨の機會によって助けられるか、あるひは人はその孤獨以外の伴侶を認めな

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いのである。
 更に靈的の敬虔な書物を讀め。それは考察の資料を提供し、心を集中させ、信心を起し、善意の人をして、彼が甘美に味得したものを考へさせるやうにする。それは、その心に溢れるものが、常に、まづ、その記憶に浮び出るからである。
 天主について絶えざる記憶を保ち、常にその聖前にあって進み、そして聖アウグスティヌスが、射祷と稱した短い祈祷を用いよ。それは心の家を守り、上述したやうに、敬虔の熱を保つ。かくして自分が、いつも念祷を始める用意あるを見る。それこそ、靈的生活の主要點の一つであり、念祷に耽る時と、場所とを有たない人に取っては、最良の救濟法の一つである。常にこの射祷を心掛ける人は、少しの時間で、多くの利益を得ることが出來る。
 その上、一定の時また場所に於いて、特に、聖書が我々に敎へるやうに、念

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祷にもっとも適した時間、即ち夜と朝に於いて、この善き修業を絶えず續けることにせよ。
 肉體の苦業と節制とをなせ。即ち、貧しい食卓、固い寝臺、毛シャツ、鞭を用ゐよ。總て、これらのものは信心から生れ、また、それらのものが出て來る根を生ぜさせ、これを保ち、且つこれを増し加えるのである。  最後に慈善業に訴へよ。これ等は、天主の御前に苦しむために、我等に安心を與へ、われらの念祷に對しては、潤ほいのない祈願とはもはや言ひ得ない豐な貢献をするのである。それらは、憐みある心から出る我等の念祷が、憐みを以って受け容れられるやうにする功德を有する。

第三章 信心の妨害となる十の事について

p.171  信心を助成するものもあるが、またこれを妨害するものもある。
 後者にあっては、第一に罪がある。大罪のみならず小罪も含まれる。勿論小罪は我々を愛から離しはしない。然しそれらは殆んど信心と同じものである愛の熱を奪ひ去る。從ってそれらは、それが我々に害をするからではなく、むしろそれらが我々から大なる富を奪ふから、心してこれ等を避くべきである。
 他の妨げは、この罪惡に發する過度の良心の呵責である。それは、この場合には靈魂を不安にし、これを打挫き、またおそれさせて、すべての善い修業をする力をなくする。
 小心も、同じ理由で妨げとなる。それは棘のやうなもので、靈魂が天主に在って休むことも、眠ることも出來なくし、また眞の平和を樂しむことも出來なくする。
 苦悶も、不快も、また悲嘆に暮れることも亦妨げとなる。かういう場合、人

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は善い良心と、靈的喜悦の味ひと、甘美さを餘り樂しむことが出來ないからである。
 過度の心勞も亦妨げとなる。それこそエジプトの蠅のやうなものであって、靈魂に不安を與へ、念祷のなかに於いて味はれる、かの靈的睡眠をとることを得なくさせる。それこそ、他に勝って靈魂を不安にし、善い修業をやめさせるものである。
 過度の多忙も亦妨げとなる。多忙は、その時間の餘裕を奪ひ、人の精神を窒息させ、天主と交るための自由も心もないものとする。
 美味と官能的慰藉も、これに過度に耽るときは妨げとなる。「この世の慰藉に餘り 過度の飲食、殊に長い食事も亦妨げとなる。それは、靈的修業及び聖通夜の

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ためには、極めて惡い苗床である。食物に重苦しくなっている體をもっては、精神は高く翔るに、もっとも準備が惡いのである。
 官能及び悟性、好奇心の惡德も亦妨げとなる。あらゆる種類の事物を見、且つ聞かうと求め、立派な、面白い手の掛った物を欲することは、總て時間の餘裕を奪ひ、官能を混亂させ、靈魂を不安にし、これを諸方面に散漫させ、かくて信心を妨げる。
 最後に、信心上、あるひは正當の必要があるのでなければ、この聖なる修業を中絶することも妨げとなる。それは、ある博士が言った通り、信心の精神は極めてデリケートなものであって、一度去ればもはや歸らず、あるひは歸るにしても非常に困難である。樹木が水を要し、人體が普通の食物を必要とし、もしこれを缺けば、弱って死ぬるやうに、考察といふ水と食物を缺くときに、信心も同じやうになる。

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 總てこれらの事は、記憶に便ならしめるため、概括的に述べられたが、その眞實なことは、この修業を大いに經験しようと欲する人には、明かになるであらう。

第四章 念祷に從事する人々を、普通疲らす最も普通な誘惑とその救濟法

 今こそ念祷に從事する人々の、普通の誘惑とその救濟法を論ずることは應はしきことである。
 これらの誘惑は、しばしば次のやうなものである。即ち、靈的慰藉の缺乏、うるさひ思ひの闘争、冒涜と不信の思ひ、過度の恐れ、過度の睡眠、狐疑、進歩したとの自慢、過度の知識慾、他人の完德のためにのみする思慮なき熱中などがそれである。

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 これこそ、この道に於けるもっとも普通な誘惑であるが、その救濟法は次のやうなものである。

 第一の心得

 第一に、靈的慰藉を缺く人にとって、救濟法は次のやうである。即ち、その念祷の修業が、汝にとって無味乾燥であって、効果少なくみえても、そのために念祷の修業をやめず、責むべき、罪科ある者のやうに、天主の聖前に出でよ。汝の良心を糺明し、汝は思ひ掛けなくも、汝の過失によって、聖寵を失ったのではないかを見よ。全き信頼をもって、聖主に御赦しを乞へ。彼に逆ふことしか出來ない人を赦し給ふ「彼」の忍耐と彼の憐憫の測りしれない富を、彼に繰り返へし言へ。同じやうに、人は、自分の總ての罪を見て、更に謙遜し、御赦しの無限を見て、更に天主を愛し奉るための機縁として、その枯渇を利用

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するであらう。この修業に甘美を味はなくても、決してやめるな。それは、有益なものが、必ずしも快適である、とは限らないからである。これは、人がその出來るだけのことをよくしながら、少しばかりの注意と配慮をもって念祷を續ける度毎に、少くとも經験によって認められる所であって、最後に、彼はそのなし得るかぎりのことをなしたのを見て、心慰められ、悦びに溢れながら、これを脱する。その為し得る限りのことをした人は、たとへそれがわづかであらうとも、天主の御眼には多くをなしたことになる。われらの主は、人の富よりも寧ろその力、その意志を顧み給ふのである。多くを與へようと欲する人、その有っている總てを與へる人、少しも自分のことを顧みない人は、多くのものを與へるのである。慰めの利益があるとき、念祷を續けることは大したことではない。信心の念に乏しく、しかも念祷の長いとき、更に謙遜な心と、忍耐をもって、更に善業を續けることこそ、大したことである。

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 またこの時、自分を警戒し、注意深くその思念、言語、及び行動を糺明しながら、他の場合より、もっと大きな注意と配慮に滿されることは、必要なことである。その時、われわれの小舟の主であり、櫂である、靈的喜悦が我々に缺けているので、惠みに缺ける所を、配慮と熱心をもって補はなければならない。汝が、汝自身を次のやうに見るとき、聖ベルナルドが言ったやうに、汝を護る番兵は睡り、汝を防ぐ壁が倒れてゐることをよく注視せよ。また、汝の救ひの總ての望は、汝の武器にある。もはや汝を防ぐ壁はない。汝には汝の劔、汝の能力、戦闘力があるのみである。ああ、このやうな戦ひ、楯もなく自衛し、武器もなく戦ひ、力なくして強く、唯一人戦に臨み、自分の大膽と勇氣の外に、伴侶もない靈魂の榮光はいかなるものであらう。
 救世主の善德を模倣し奉ることに勝って、大なる榮光はこの世にない。その主な善德の一つは、その御靈魂のうちに、少しの慰めをも許さないで、彼のう

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け給うた惱みを惱み給うたことである。それで、同じやうに惱み、且つ戦ふ人は、自分に何の慰めがないとき、いよいよキリストに倣ふものになるのである。これこそ、清純にして、他の飲物を交へない、從順の杯を飲み奉ることである。これこそ、その友が眞の友であるかどうかを識るために、友のこまやかな心を試す試金石である。

   第二の心得

 普通、念祷中に我々を襲ふ、様々なうるさい思の誘惑に對する救濟法は、雄々しく、忍耐強くこれ等と戦ふことである。然しながらかうした抵抗は、過度の心勞と懊惱をもってすべきではない。それは精力の問題ではなくして、むしろ聖寵と謙遜の問題であるからである。それで人がこのやうな状態にあるとき、狐疑し、懊惱することなく、天主に向って歸りゆくべきである。それは決

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して彼の落度ではない。あるひは落度があるにしても、極めて僅少である。謙遜に且つ敬虔に言へ。「わが主よ、汝は、わがいかなる者なるかを見そなはし給ふ。この糞尿に等しき者より、惡臭こそ正に豫期さるべきものである。彼は汝の詛ひ給ひしこの地より茨と鞭より外に、何を期待するであらうか。主よ、汝がこれを淨め給はなければ、これこそ、この地が産出する果實である」と。かう言って、前のやうに念祷を續け、謙遜な者を決して裏切り給はない聖主の訪れを忍耐して待ち奉れ。然しながら、様々の思がなほも汝に不安を與へても、汝が忍耐をもってこれに抵抗し、その全力をつくすならば、汝は、汝が甘美のただ中にあって、天主を樂しむ場合よりも、この抵抗の中に更に多くの地を得ることは確かである。

   第三の心得

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 冒涜の誘惑に對する救濟法は、どんな種類の誘惑もそれより困難ではなく、また危険の少ないことを識ることである。その救濟法は、この誘惑を輕んずることである。罪は感情の中にはなく、同意し、これを樂しむことにある。しかるに茲には、かうしたものは少しもないのである。であるからそれは過失といふよりも、むしろ苦痛である。人は、この誘惑の樂しみを受け容れて、罪を犯すやうな氣は少しもない。それでその救濟法は、すでに言ったやうに、この誘惑を輕んじ、恐れないことである。人がこれを極度におそれるとき、その恐れはその誘惑を呼び醒まして、その勢をあほりたてることになる。

   第四の心得

 不信の誘惑に對する救濟法は、次の通りである。一面、人はその人間的弱少を思ひ起すと共に、他面天主の偉大を思ひ出せ。天主が彼に命じ給うたことを

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考へよ。そして天主の業の多くは、われらの智慧に餘るものであることを見て、これを探り究めようとの好奇心を起すな。天主の業のこの聖所に入ろうと望む者は、大なる謙遜と畏敬の心を以って、ここに入れよ。蛇のやうな惡しき眼を上げず、單純な鳩のやうな眼を上げよ。無謀な裁判官の心ではなく、弟子の心を持て、天主は嬰兒にその祕密を敎へ給うが故に、嬰兒のやうになれ。天主の御業の理由を識らうと求めず、また理性の眼を閉じて、信仰の眼を開け。それは、信仰の眼こそ、天主の御業を探ることの出來る道具だからである。人間の業を見るのに、理性の眼は結構である。然し天主の御業を見るためには、これより不適當なものはない。
 然しながら、普通、この不信の誘惑は、人間にとって極めて困難なものであるから、その救濟法は、前の場合と同じく、これを輕んじることである。それは過失というよりも寧ろ苦痛である。すでに言ったように、意志に反する物ご

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とに於いて、人は過失に陥ることはあり得ないのである。

   第五の心得

 夜、獨りで、祈祷するとき、大なる恐怖や、想像に襲はれる人々がある。この誘惑の救濟法は、我慢して、この修業を續けることである。逃げれば恐怖が増し、戦へば勇氣が増し加へられる。またわが聖主の御許しがなければ、惡魔もまたいかなる力も、われらの亡びのために何もすることが出來ないことを考へることも有益である。なほ、我等は、殊に念祷の時には、自分の側に守護の天使がゐると考へることは有益である。それは、天使は我々を助け、われわれの祈祷を天に運び、我等を敵から護って、敵がわれらに惡をすることが出來ないやうにするため、そこにゐるからである。

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   第六の心得

 過度の睡眠に對する救濟法は、睡眠は必要な場合に起ると考へることである。そして、その救濟法は、肉體に必要なものを拒まないで、靈魂に必要な物を妨げないやうにすることである。然しそれは病氣から起ることがある。かうした場合には、それは落度ではないのだから、これを氣にしてはならぬ。また念祷なくしては、われわれはこの世に於いて安心も、眞の喜悦も有することがないのであるから、全く念祷が失はれないやうに、素直に出來るだけのことをしないで、これに全く打ち負かされるやうなことがあってはならない。
 最後に、睡眠は怠惰、あるひは我々を怠惰に導く惡魔から來ることがある。かうした時、その救濟法は斷食であって、葡萄酒を飲まず、少量の水を飲み、腕を十字に組み、何ものにも身を倚せずに跪き、あるひは立ち、鞭で自分を打

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ち、あるひは肉を憊困させ、これを刺す他の苦業をせよ。

   第七の心得

 狐疑や反對の惡德である自惚に對しては、種々な救濟法が必要である。
 狐疑に對する救濟法は、この事は、聖寵がなければ、汝の力だけでは、決して成功しないと考へることであって、この聖寵は人が自分の力を信ぜず、萬事かなひ給ふ天主の唯一の御惠に委せ奉ると、直ちに得られるのである。
 自惚に對する救濟法は、人が、自分は目的に近いと考へる程、その人がその目的より遠いことを示す明かな指標はないと考へることである。これは、この道に於いてはまだ得ていないが、希望の眼をもって多くの土地を見出した人々は、その有たない物を出來るだけ多く見ようとして急ぐからである。また彼等は、その憧れ求めるものにくらべて、今有っているものを物の數とも考へな

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い。それで鏡に對するやうに、諸聖人、及びなほこの世に住んでゐるすぐれた他の人々の生涯を考へ、彼等の前に在っては、汝は巨人の前にゐる小人のやうであることを見よ。さうしたら汝は自惚れなくなるであらう。

   第八の心得

 過度の知識慾、及び研究慾に對する第一の救濟法は、善德は知識にはるかに卓れ、天主の智慧は、人間の智慧よりはるかに大なることを考へることである。さうしたら、人は、後者よりも前者を得るために、いかに勉むべきかを、充分悟ることが出來る。この世の智慧の榮と、その望む偉大さを考へよ。この榮は、遂には生命と共に消え失せるものである。かくも、骨折って、しかも樂しむことの出來ないものを得ることにまさって、みじめなことがあらうか。汝が識り得ることは、無に等しい。然しながら、もしも、汝が天主の愛のうちに

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於いて、修業するならば、汝は、速かに、天主を見るやうになり、そして、彼のうちに在って總てを見るであらう。審判の日に、我等は何を讀んだかとは問はれない。然し、何をなしたかと、問はれるのである。我等が語り、また説敎したことではなく、我等が實現したことである。

 第九の心得

 思慮の淺い布敎熱に對する主なる救濟の道は、自分の不利にならないやうに、隣人の進歩のために精を出すことである。我々は自分の良心の問題をかへりみる餘裕を失はない程度に、他人の良心の問題をかへりみねばならない。かかる餘裕こそ人をして、その心を常に信心の中に保ち、その心の集中を失はせないものである。何となればこれこそ聖パウロが、「おのれに於いて歩むよりも、天主に於いて歩め」と言ったやうに、靈に從って歩むことであるからであ

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る。そしてこれこそ、われらの總ての善の根幹であるから、われらの總ての努力は、常にわれらの心を集中し、これを敬虔に保つに足る程、大なる深い念祷に達することであらねばならぬ。そのために、どんな潜心及び念祷でもよい譯ではない。それはもっとも廣い、もっとも深いものでなければならない。

   第五章 念祷に從事する人々に必要な二三の心得

 この世に於いて最も困難なことの一つは、天主に到り、彼に親しく接し奉る道を識ることである。また人は、道に迷はないやうにしようと思へば、善い先達、また若干の忠言なしには、この道を進むことが出來ない。それで、その若干を例の通り簡潔に指示することは、必要であらう。

p.188 第一の心得

 これらの心得の中に於いて、第一は、われらが、この修業に於いて志すべき目的に關するものである。
 この天主との交りは、賢者も言ったやうに、いとも快適で甘美なものであるから、多くの人々は、言ひ盡くせない。(ママ=入力者)この甘美さに心惹かれて、この妙なる甘美の欲求こそ、彼等を天主に導いてゆく主なる目的であるかのやうに思ひ、そこに見出される大きな甘美さのために、天主に憧れ、あらゆる靈的修業、即ち靈的讀書、念祷及び祕蹟に與ることがある。これは極めて普通な過ちであって、これに陥る者が多い。われらの總ての業の主要目的は、天主を愛し、天主を求めることでなければならない。にも拘わらず、茲では更に自分を愛し、自分

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を追求する。即ち、哲學者が、その觀想の目的として提示する所の自己滿足である。これは、ある博士が言ったやうに、一種の貪慾、贅澤、また靈的貪食であって、肉的貪食と同じやうに危険なものである。
 更に惡いことは、この過ちに劣らぬ他の過ち、即ち各々人は、天主を味ふ程度の多少に應じて完德の多少を有するのであると信じて、この味得、この感じによって、自他を審くといふ過ちが生ずることである。これこそ一つの深い過ちである。この二つの過ちに對して、茲に一般的な、一つの心得また、規則がある。即ち、この總ての修業、また總ての靈的生活の目的は、天主の掟に從順であり、天主の意志を遂行することであることをよく了解することであって、このやうに、自分の意志に逆ふ神的意志に生き、且つそれによって自分が支配されるためには、我意の死が必要である。  そして大勝利は、天主の大なる寵愛と御惠なくしては、獲得出來ないやうに

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殊にそんな理由から、この企圖に成功しようとすれば、この寵愛を得、またこの惠を感じるために、念祷の修業に携はらねばならない。かうした遣り方をもって、このやうな目的のために、人は前に述べたやうに、念祷の甘美を求め、且つ得ることが出來る。ダビドは、「なんじの救のよろこびを我にかへし、いと甘美なる靈をもって我を保ち給へ」と言って、これを要求した。これに從って、人は、彼がこの修業に於いて持つべき目的を理解し、何によって、自分及び他人の進歩を判斷し、且つ測るべきかを理解するであらう。即ち、彼が、天主から授かる感得を基とするのではなく、彼が、自分の意志を輕んじて、天主の意志を行ふに當って、天主のために苦しむべきことを基とするのである。  これが、われらのすべての靈的讀書、また念祷の目的でなければならないといふことに關して、この神的祈祷、即ち「おのが道をなほくして、ヤーヴェの法律をあゆむ者は幸なり」の詩篇(第百十八篇)以外の證據を必要としないの

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である。この詩は百六十七節を有し、詩篇の中、もっとも長いものであって、天主の意志と、その律法の遵守について述べない節は一つもない。聖靈が、かくあることをみ給うたのは、人が、それによって、總ての念祷と默想は、全くこの目的、即ち、從順と天主の律法の遵守、といふことに律せられねばならない、といふことを識るためである。これ以外のものは總て、敵のもっとも巧みで粧飾した手段の一つであって、敵は、それをもって、人は無であるにも拘らず、何物であるかの如く、人をして信ぜしめるのである。また聖人達が、人間を眞に試すものは、念祷の甘味ではなくて--勿論、念祷並びに念祷のうちに見出される甘美と慰藉は、大いに有益なものであるが--艱難に堪へ、自己を放棄し、天主の意志を行ふことであると言ったのはもっともなことである。
 天主のこの道に、どれ程進んだかを見ようとする人は、この原理に從って、彼が内的また外的に謙遜に於いて、いか程成長したかをかへりみるべきであ

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る。人が彼に與へた損害を、いかに堪へたか、他人の弱みをいか程赦したか、隣人の窮乏をいか程助けたか、他人の缺陥に對して、怒ることなく、いか程同情したか、艱難の時はいか程、天主を望むことが出來たか、いか程その言語を愼んだか、いか程その心を監視したか。いか程その肉を、その慾望及び官能と共に制禦したか。いか程艱難及び繁榮を利用することが出來たか、いか程あらゆることに於いて重厚に、また愼重に身を處したか、殊に名譽と快樂と、この世の愛に死んだかどうかを見よ。そして、これらのことに於いて進んだか、どうかによって自分を審き、天主を感じたか感じないかによって審くな。また常に一方苦業に、他方念祷に對して、その眼を開かなければならない。それは、この苦業も念祷の助けなしには、決して全ふされないからである。

 第二の心得

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 もし我々が、單に靈的慰藉と、甘美のうちに留まるがためにのみ、これ等を求めずして、それが我々に致す利益のためにこれを求めねばならないのであるならば、まして幻や啓示や脱魂状態やまた謙遜に根を下さない人々にとって危険な、同じやうなことを望むべきではない。人は、その點に於いて、天主に不從順ではないかと心配してはならない。彼が何ものかを啓示せんと欲し給ふとき、人間が隠れれば隠れるほど、益々天主はかの言葉を確かにしたまひ、人がこれを疑はうとしても、疑ふことが出來ないやうになし給ふのである。

 第三の心得

 同じやうに、人は、われらの聖主が我々に與へ給うた恩顧と、賜物とを、われらの唯一人の靈的の師以外に、隠すやうに工夫しなければならない。これぞ聖ベルナルドが「わが祕密は唯だ我にのみ」といふこの言葉こそ、敬虔なる人

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が、その私室に於いて持たねばならないものであると言った所以である。

 第四の心得

 人は、また、出來るだけ謙虚に、またうやうやしく、天主と交はる工夫をしなければならない。靈魂は、いかに天主に充され、寵愛されていても、その眼を自分に向け、自分の無價値なることを考へ、その翼を収めて、かく大なる靈威を有し給ふ天主の御前に謙れ。あたかも、聖アウグスティヌスが「彼はおそれをもって、天主の聖前に樂しむことを學んだ」と言って、さうしたやうに。

 第五の心得

 我々は、前に、天主の僕は、天主と交はるために、その時間を定めるやうに工夫しなければならないと述べた。毎日のこの普通の修業の外に、彼に全く靈

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 的修業をなして、その靈魂に、豐かな滋養を與へ、その助けにより、月毎の過失によって失ったものを補ひ、更に進むための、新しい力を得るため、あらゆる業--たとへそれが聖なる業であっても--から解放されるべきである。そして、このことは他の時に為さるべきであるが、特に一年中の主なる祝日、艱難の日、長い旅行の後、また心を再び集中させるために、これをなすべきである。

 第六の心得

 天主と共に歩むとき、その修業に於いて、心の平衡と、思慮とを缺く人がある。かうした人々にとっては、繁榮そのものも危険の機縁と變る。この惠みが充分與へられたと、多くの人に思はれ、彼等は聖主との交りを、いと甘美なことに思ひ、全くそれに身を委せ、肉體がその務めを續けることに耐へられな

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い程に、念祷の時間、徹夜、肉體の苦業を増し加へ遂に共に地に落ちてしまふ。
 かうして、多くの人々は、その胃や頭を過度に苦しめて、單に、總ての外部的肉體的の勞働ばかりでなく、念祷の修業さへも出來なくする。
 それでこのことには大いに氣轉を利かす必要がある。殊に熱心や慰藉が多くそして、經験と愼重さが足らないときは、中途で弱らないやうに前進するために必要である。
 これと反對の他の極端は、愼重を裝って肉體の勞働を避ける弱い人々のすることである。これは總ての人々にとって危険なことであるが、殊にこの修業を始めたばかりの人々にとって、更に危険なことである。そこが、聖ベルナルドの言のあるところである。「修練者でありながら、すでに謂ふ所の賢德に充されている人は、修道生活に長く留ることが不可能である」と。かういう人は、初めから賢からんと欲し、新進且つ年少でありながら、すでに老人のやうに、

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身を處し且つ自愛する人である。
 ジェルソンが巧みに言ったやうに、無思慮は不治であるといふこと以外、この兩端のどちらが危険の度合が大きいかを判斷することは、容易ではない。肉體が健全である間は、これを救濟する望があるが、肉體が無思慮のためにそこなはれれば救濟することはむづかしい。

 第七の心得

 念祷の道にはなほ、他の危険、おそらくは、前の總てのものに勝って、大きい危険がある。多くの人々は、おそらく念祷の測りしられぬ德を經験し、且つ靈的生活の全協音がいかに念祷によっているかを經験によって識った後に、これのみが總てであり、これのみが、彼等を救ふために充分であると想像し、他の德を忘れ、他の總てを疎かにするやうになることがある。そこで、他の總て

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の德は、念祷の助けとなるのであるが、もし根據を失へば、その建物も亦倒れることになるのである。同じやうに、人がこの德にのみつとめれば、つとめる程、これに成功することが出來なくなるのである。
 このため、天主の僕は、唯一の德のみを顧みずして、總ての德に眼を注がねばならない。竪琴は他の弦も鳴らなくては、一つの弦だけで協音を出すことは出來ない。同様に、他の總ての德が反響することがなくては、一つの德のみが靈的協音を生ぜしめることは出來ない。一點に狂ひが生じてゐる時計は、全體が狂ふのである。そのやうに、靈的生活の時計は、唯一つの德が缺けるなら、全體が狂って來る。

 第八の心得

 ここに我々は信心を助けるため、今まで述べて來た總てのことは、聖寵に備

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へるための、人間の準備であることを語らねばならない。これらのことは、熱心にしなければならないが、然し、それらのことに信頼せずして、天主にのみ信頼せよ。
 余がこのことをいふのは、これらの規則また心得を、一の技術と見做す人があるからである。一つの業を心得てゐる人が、適當な規則をよく守れば、この規則の御蔭でこれを早くすることが出來るやうに、これらの注意をよく守ればそれによって、その望む所のものをすぐに得ることが出來ると、かういふ人々には思はれるのである。人は聖寵を技術と見做し、聖主の純粋の賜物、また御慈悲であるものを、人間的規則、また手段に歸すべきであると考へてはならない。
 またこのことを技術の業として取扱ってはならない。むしろ聖寵の業として取扱ふべきである。このやうに考へるならば、人はこの目的に對する主要な手

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段は深い謙遜、自己の不幸の認識、天主の御慈悲に對する大きな信頼であることを識るであらう。この二つの源から、常に絶えざる涙と念祷が生ずるのである。人はそれらのものと共に謙遜の門から入り、謙遜によってその望む所のものを得、その修業の方法、あるひは自分に出る何ものにも頼ることなく、謙遜をもってこれを維持し、謙遜を以ってこれを樂しむのである。(念祷の書終り)

 聖主に仕へ始めようとする人々のための簡單な訓誡

 總ての人間は技術には、その原理、また彼等がそれを始めるに當って則るべき「いろは」となる要素がある。技術中の技術であり、またわれらの全生活の目的である天主の道に於いても同様である。そこでこの道に入らうと欲する人々のために、簡單にその原理について注意を喚起することは適當と思はれる。物事の初めは常にもっとも容易なるものであるから、まづもっとも成し遂げ易

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い、靈的食物の乳ともいへる靈的修業を指示することは正當である。丁度、魚が水中に保たれるやうに、靈的生活は靈的修業のうちに保たれるのである。
 まづ第一に、人は天主に仕へ奉らうとの決心をなし、この世を棄て、次いで即刻、過去の生涯のあらゆる過失の總告白をしなければならない。この目的をもって人は、まづ、その過去のあらゆる時期と、天主の誡律の總てを調べ、天主と隣人と自分に對して言ひ、なし、且つ考へたことを、悲しみ痛む心をもって糺明し、適當な聽罪司祭に告白するために、數日間留保しておき、更にその記憶の弱さを補ふためにペンを用ゐなければならない。
 そしてこの際、一人の善き靈的敎師は、その弟子に對し、糺明をさせ、告白の準備をさせ、また總告白、並びに更に細目に亘る普通の告白をする方法を敎へなければならない。それは、この問題に關する勸告や敎示を受けなくては、自分を識り、且つ有効に告白をすることは困難である。

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 第二の修業は、次いで前述の默想、殊に、この時期にもっと適當な、第一週の默想に從事することである。そのために、罪惡をおそれ悲しみ、天主を畏れこの世を棄てることに、心を向けるべきである。この時が、敎師が念祷と默想の修業について説明し、前に示したあらゆる注意を實現するに適しい時機である。そして卓れた敎師の手から善く敎育された弟子が出て來る様に、その食物を與へるには、嚴然たる態度を採り、よくこれを敎へる術を識らねばならぬ。
 第三の修業は、いかに恭しく、且つ敬虔深く、聖體拝領前の一兩日を準備しなければならないか、また、いかなる畏れと戦ひをもって、これに近づかねばならないか、次いで戴ける聖主を抱き、その御足許に跪き、かかる訪れ、かかる御惠を感謝するため、いかに、敬虔深く内省しなくてはならないかを考える(ママ=入力者)ことである。またその日及び前の日は、いかに心を集中し、且つ落ち著くべきか、またいかなる讀書、默想、及び念祷に從事して、この祕蹟のため準備をし

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て、そこから靈益を得べきかを識らねばならない。
 第四に、あらゆる場所、またあらゆる外的な業に於いて、いかに、身を處すべきかを人に語るがいい。例へば、いかなる節制と禮儀をもって、食卓に就くべきか、また、まづ祈祷と潜心をもって準備をし、全力を擧げて殊に我々を襲ふ敵、うるさい想像と戦って、いかに注意深くまた敬虔に溢れて、聖務日課にあづかるべきか等を。
 なほ、改宗者に對して、そのあらゆる行動に於いて、どうしたらよいかを敎へよ。即ち、その眼はつつましく、その言葉には節度があり、その笑に自制あり、長上の前には謙り、幼き者には親切であり、同等の者には慇懃であり、貧しい者に對して人情深く、病める者には優しくし、何事に於いても、輕率且つ無思慮でないやうにすべきことを敎へよ。
 また、常にその眼前に、天主をその生涯の裁判官、また證人として有し、同

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時に汝の前に、天主を有する時に汝がなすと同じ信仰をもって、總てをなして天主の聖前に進むべき次第を敎へよ。
 同様に、その心の中に閉じ籠もり且つ隠れて生き、またあらゆる場所、あらゆる時、あらゆる事柄に於いて、その心を隠して、短い念祷によって、これを天主にまで擧げ、そのため汝が見聞するあらゆるものを利用すること、あたかも蜜蜂が、その蜜を作るため、あらゆる花の上で、何物かを取るやうにせよ。特に、聖バルトロメオに倣って晝夜しばしば跪き、あるひは立ち、あるひはおのがなし得る姿勢をなして、天主に祈り、手を合せて、自分とその總ての願望を聖主にささげ、使徒信經を一二回しかし誦える時間しかない時に、彼によって彼の御愛と、聖寵とを求めることは、極めて賞讚に價する決心である。かかる敬虔から、しばしば思ひに勝る靈益が生ずる。それは、わが心の祭壇に、火を保つのに役立つ。即ち、人は、信心と、神愛の食物である敬虔な思ひと言葉を

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つくして、この火を掻き立てるのである。もしも、思ひが混亂するならば、恰も慣れてゐる者のやうに、苦しまず、骨折らず、しかも愛と敬虔をもってこれを集中せしめ、内的に導かねばならない。そは聖愛の火には、使徒が言ったやうに總ての怠慢は散らされ、焼きつくされるのである。こういう時、人は、自分に向って優しく言ひ直して「ああ良善なるイエズスよ、汝は何故我を遠ざかり給ひしや。ああわが魂よ、汝はいづこに逃れしや。放心と冷淡以外に何を汝は逃れしや。聖主は、心を集中する人々と共にあり、その心を遠ざかる人々より遠ざかり給ふことを識らないか」と言ふことが出來る。
 總ての場合に、人は能ふかぎりに心を碎いて、心を集中すべきことは、當然であるが、殊に朝、目醒めたときに、あらゆる地上的な思ひに戸を閉じるやうに努むべきである。彼は、その家を聖主の思出を以って充たし、彼にその日の初穗を捧げるやうにしなければならない。次いで、三つのことをしなければな

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らない。第一に靜かなる夜を給ひ、幻影や敵の穽より救ひ、創造、保持、召命、贖罪の如き、他の總ての恩惠を給うたことを感謝せよ。第二に、この日を、そのあらゆる行動、苦惱、及び働き、そのあらゆる足取り、そのなすあらゆる修業と共にささげて、總てが、天主の光榮となり、天主が、御自身の財のやうにその聖旨に從って、これを處理し給ふやう、自分自身を捧げよ。第三に、天主の御靈威に逆ってこの日何事をもすることがないやう、御聖寵を乞へ。即ち、主として我々を誘ふあらゆる惡德に對して御惠を要求し、強き決心と周到さをもって、これらに對して武裝し、主祷文、天使祝詞をゆるやかに、しかも恭々しく誦へよ。
 夜、寝床に入る前、汝自身を糺明せよ。この日、汝が、天主の掟に逆ってなし、語り、また考へたこと、また汝の務めに於ける怠慢と冷淡、また天主を忘れ奉ったことを數え上げよ。恭々しく、告白の祈をなし、主祷文と天使祝詞と

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を誦へ、なした惡業の赦しと、汝を正すべき聖寵を祈願せよ。
 一度休むや、あたかも、汝の墳墓にはいるやうに、その寝床に入り、汝の體が有すべき位地を少し考へ、死者に對するやうに、自分自身に對して、追唱、あるひは主祷文及び天使祝詞を誦へよ。  汝が、夜中に目醒めた時は、常に榮誦、あるひは「イエズスよ、我が贖よ」あるひは他の同じやうな祈祷を誦へよ。時計が時を告げる都度「われらの主イエズス・キリストの生れ、且つ我がために苦しみ給ひし時に祝福あれ。主よ、わが臨終に我を思ひ出し給へ」と誦へよ。然る後、汝なほこの世に少しく時を有し、一歩一歩その旅を終らうとすることを考へよ。 汝が食卓にある時、天主は汝に、食物を與へ給ふ者であり、天主は汝の用に供するため、萬物を創造し給うたことを考へよ。彼が、汝に與へ給ふ養ひを感謝せよ。汝が、豐かに有するこの物がどんなに乏しく、また、彼は、他の人々

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がこんなにも、骨折と危険を敢へてした上で得た物を、いかに、たやすく汝に與へ給うたかを見よ。汝が敵に試みられる時、最上の救濟法は、急いで十字架の許に走って行き、傷におほはれ、やつれはて、弱り、血を流し給へるキリストを仰ぎ奉ることである。彼が、その所におかれ給へる主なる理由は、罪を毀たんがためであることを思ひ起さなければならない。彼が、汝の心の中に、かくもいまはしいものが支配することを許し給はずして、骨身を碎いて、これを毀ち給ふやうに熱心に、嘆願しなければならぬ。
 かくして心をつくして、彼に申し上げよ。「主よ、汝は、我に罪を犯させざるやうそこに身をおき給ひぬ。しかも、それは我を罪より遠ざくるに足らず、主よ、この聖き御傷の名によって、これを許し給ふなかれ。わが天主よ、我を棄て給ふなかれ。われは汝に來る。われはこれに勝りてわが逃れ場、また癒やさるべき良き港を見ず。汝もし我を棄て給はば、我はいかになるであらう。我

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はいづこに行かう。誰が我を護らう。わが主なる天主よ、我を扶け給へ、我をこの惡龍より守り給へ。我は、汝なしには何事をもなし能はず」と。
 もし、人に氣付かれないやうにすることが出來れば、再三繰り返して、胸に十字架の印をすることは非常によいことである。このやうにして誘惑は、更に大きな冠を得、また一日中、しばしば汝の心を天主に上げる機縁となるであらう。かうして、言はば毛を刈らうとて來る惡魔は、自分が却って毛を刈られて歸ることになるのである。
 讀者諸君よ、これこそ初心の乳である。これこそかのすべての靈的敎理の總締めである。

 少い時間に大いに進もうとする人々のすべき三つのこと

 少い時間に大いに進歩しようと望む人は、聖主の聖寵をもって三つの警戒を

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しなければならない。
 第一に、肉の苦行、謙遜、また飲食、榮養、寝臺、その他の慣習に於ける苦行と節制、また祈祷中、跪きあるひは立ち、あるひは胸に手を十字に組み、あるひは平伏すること、身を鞭打ち、毛シャツ叉苦行帯を纏ふこと、斷食すること、殊に徹夜して貴い念祷に從事することである。總てに於いてその肉を苦しめ、おのれに充たされず、肉體の健康を損はないやうにつとめることである。このためには、靈的指導者があれば、その人に相談し、もしなければ、他の極めて禁慾的且つ極めて模範的な人に相談すべきである。そして完德はこれを實行しなければ、理解する者が極めて少いのであるから、もし、この助けがないならば、肉の知識に基をおかずして、われらの主に基をおく汝の最上の賢德をもって、汝みづからを助けよ。天主の恩寵を蒙る人は、愼重を必要とする。彼は物事に實際に當ってゆくべきである。そして、經験と念祷と、純粋な意向

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は、終には人のなすべきことを明かにする。
 第二の、しかも更に重要な警戒は、人は自分と、その食慾、及び肉的傾向を内的に抑制し、また神意、及び服從すべき長上、また靈的敎師の意志を行ふために自意を棄てることに大いに努めねばならない。必要に應じ、隣人あるひは自分に對する愛に促され、あるひは、命令によって強ひられなくとも、われらの主が内的に招き給ふままに、内的及び外的の善德の修業に努めねばならない。
 第三に、絶えざる念祷に從事しなければならない。實際、われらの肉を十字架に釘けることは不可能である。ましてわれらの主の聖寵がなければ、内的苦業、自己抛棄及び我等の本性を超える德の修業は、尚更不可能である。彼が我等自身のうちにあって、我等の天性の總てに働き掛け給ふことは容易なことであり、もし我等が彼に乞ふならば、直ちにこれをなし給ふであらう。我等は貧

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しく、働く力を持たない。もしも、我等が天の賜物に富まうと欲するならば、決して乞ふことをやめない人には、絶えずこれを與へ給ふ御者に必らずこれを求むべきである。この賜物に富み、殊に妙なる聖寵によって、天主を所有しようと欲するならば、その時を祈祷のために保留し、あるひはこれを擴げて、すでに説いたやうに、聖主の御前に常に進まねばならない。
 この三つの點は、天主の僕が、その燔祭の至純完全なるを欲するならば、必らず、追求せねばならない主要なものである。この三點を警戒するならば、人は、實際、そのあらゆる部分、即ち、精神、靈魂、肉に於いて、全く改善されるのである。斷食と肉體的苦行によって人は肉を潔める。あらゆる欲望の抑制また抛棄によって、人は靈魂を潔める。祈祷と觀想によって人は精神を全ふし、天主と結合し、彼と一つにされる。これぞ、最高の完德である。
 然しながらこの燔祭の全からんために、二つの事が不足してゐることに注目

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しなければならない。即ち、肉體には五感があり、靈魂には想像と思考があるのであるから、上述の三點に更に二つを添加せねばならない。五感、即ち、眼と耳殊にすべての鍵である舌の警戒、また自分が欲するままに疾驅しないで、常に聖なる思索に留まるやうその心情と想像の警戒がこれである。聖ベルナルドが言ったやうに、「敬虔なる人は、その感情を抑制するのみでは充分ではない。その想像を抑制し、且つ集中しなければならない。」
 要するに、罪から遠ざかった人の心は、果を結ぶに地が必要であるやうに、それが善く働くために助けが必要である。それは、地上に於いては二つのことを必要とする。即ち、天の水及び露と人間の働きと開發とである。これなくしては地は唯だ荊蕀を出すに過ぎない。このように、われらの心は、罪に陥った後は、自らこの荊蕀のみしか出すことが出來ないことを理解しなければならないのであるが、これに關して聖パウロは「肉の業は顯なり、即ち、私通、不潔、猥

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藝、憤怒云々」と言ってゐる。しかし、汝が永遠の生命の成果を得ようと欲するならば、汝の額に汗して働き、また、天の水、及び露を受けなければならない。第一のもののために、肉の苦業、五感の警戒、慾望の抛棄、想像の集中が必要である。それは靈的開發または戦闘のやうなものである。然し第二のもののために、祕蹟と念祷が有用である。それは、祕蹟は、聖寵といふかの天の水を我等に與へる力を有ってゐるし、念祷はこれを要求し且つ報いとしてこれを得る務をするからである。
 このやうに總てのものは天主から來るから、我々の働きも聖寵に事缺くことがないので、天主の參與と人の働きとによって、この詛ひの地は、祝福の果を結ぶのである。
 從って、眞實にして、完全なるキリスト信者の生活は、約言すれば、念祷と絶えざる業である。それで、この道を進むのに二つの足が必要である。業と、

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念祷とである。人は、天主にみづからを委せ奉り、しかも、無分別に天主に頼り過ぎて、おのれを醉生夢死に陥らしめるのでもなく、また、餘りに自分の業に頼り過ぎて、ペラギウス異端の如く、聖寵の助けを輕んじるのでもなく、天主が自ら助ける者を助け給ふといふ諺に從って、その愛を變へることなく、業をなすべきである。
 そこで、キリスト信者の生活は、絶えざる十字架、また絶えざる念祷に過ぎないことが理解される。余が、十字架と言ふとき、凡ての人が、その各々の肢の十字架であることを理解せよ。そは、總ては罪のため不具になってゐて、總ては矯正の劔を必要とするからである。かくの如く、肉體に對し、眼に對し、また舌に對し、更に感情と欲望、また想像に對して、十字架が必要である。これらの十字架は總て必要である。それこそ、第一のアダムに死んで、第二のアダムの生命に生きんがため、われらの靈魂が選び、且つ採るべき苦痛であり、

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また死である。この十字架なしにはわれらの總ての念祷は、更に誤謬に生きる以外には、何の値打もないのである。そは、業は、念祷なければ、永續しないから、我々に益なきものであり、また、念祷は業なければ、實りのないものであるから、何の値打もないのである。
 この二つの德をもって、我々は二つの聖所、即ち、犠牲と念祷の聖所を有する天主の宮となるであらう。この二つのものをもって、即ち、念祷の甘美と、苦業の苦味によって、我々は没薬の山、また乳香の丘に登りゆくであらう。

附録

一、 アルカンタラの聖ペトロは、彼に問うて、彼より敎を受けようとした、彼の若い兄弟達に答へた。
 「わが子等よ、天啓、奇蹟、異常事を求めないで、聖主が、あの聖福音の中に語り且つ敎へ給ひ、ローマの聖會が、汝に宣明したことを求めよ。しばしば異常事の中には、惡魔が光の天使に身を變へてゐる。獨居と、心の專一を愛せよ。そこにて、内的に天主と語れ。汝の心を裸かにして、彼の御前におき、總てを彼の御手に委ねまつれ。從順の道を踏みて、念祷と天のおもひにふけれ。汝がこれを以って進むかぎり、汝は確かなる道を歩み、天主は汝を助け給ふであらう。見よ、わが子等よ、念祷は、修道士にふさはしい德である。それは靈的で、有德な生活のために、きはめて大切な修業である。念祷に應じて、普通

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善德と仁慈とは結びつけられる。人が念祷の靈魂であればあるだけ、いよいよ天主の聖旨にもとる傾向が少くなる。念祷は、誡命とわれらの規則との遵守を確保する保證である。汝、罪より遠ざからうと欲するならば、その救濟法は、祈ることである。これは、念祷が總ての善德であるといふ譯ではない。他の物がなければ、それは一つの靈魂を義とするのに充分ではない。しかしながら、それはある聖人が言ったやうに、總ての善德と義の原因であり、天主から光明を得るための機縁である。それは、あらゆる善德を生ぜしめ、靈魂を高め、その理解を明かにするものである。成聖に有用なもので、念祷によって靈魂に來らないものはないのである。人が聖人、また天主の友であればある程、益々念祷に從事し、これに留るのである。」
 二、 アルカンタラの聖ペトロは、その臨終に際し、その子等に、成聖を勸めた後、念祷を説いた。「念祷を汝の日課とせよ。我はこれを汝に命ずる。こ

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れこそ汝が行はねばならない他の善德の基礎である。これに、汝の總ての注意を注げ。これを忠實になせ。すると、それは汝を養ふであらう。我はこれを經験によって話すのである。わが希望が聖主におかれる時、これは決して無駄にはならぬ。汝の選んだ生活の困難におそれるな。汝が從ひゆく十字架の道は、困難ではない。天主のために、困難を忍ぶやうに勵めよ。神は汝を助け給ふ。痛悔に慣れよ。フランシスコ會の戒律を、汝の行動の鑑とせよ。あらゆる艱難に際して、われらは大なる事を約束した。更に大なる事は、我々に約束せられた」と勸める我等の熾天使的聖父、聖フランシスコの言葉によって慰めを受けよ。
 三、 一六○六年、この「小論」はフランス語に翻譯された。翻譯者はその名を隠して、R.G.A.G.といふ頭文字だけを記した。その書は、一六○六年パリのギョーム・ド・ラ・ヌー書店から出版された。博士達の認可と國王の

p.220
允許は、一六○一年の日附である。同じフランス譯が、最初の數ページを除いて、一六一三年、パリのドニ・ラングロア書店から再版された。同じ一六○六年に、聖フランシスコ・サレジオは、ブルラール夫人に、「アルカンタラは念祷のために非常に適當である」といふ言葉を書き送ってゐるが、これは我々も特筆大書したい所であり、且つ聖テレジアの寳の垂飾となってゐたものである。


奥付

昭和二十七年四月二十日  印刷
昭和二十七年四月二十五日 發行
定價 百二十圓

譯者  八巻 頴男
發行者 東京都新宿區若葉一丁目五
   グイド・パガニーニ
印刷者 東京都港區赤坂一ツ木町三六
   前田俊郎
印刷所 東京都港區赤坂一ツ木町三六 
聖パウロ學園工藝高等學校
發行所 中央出版社
   東京都新宿區四谷一丁目二
電話 四谷(35)一八二一番
振替 (東京)六二二三三番

(以上アルカンタラの聖ペトロの念祷の栞 終わり)

作成日:1999年11月16日

最終更新日:1999年11月23日

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