シェアン大司教の

護教


シドニー補佐大司教シェアン著

木内藤三郎譯


札幌教区長 長瀬野勇認可(札幌において 昭和21年9月15日)


光明社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


教皇レオ13世以来、代々の教皇は機会あるごとに根本的な宗教教育の必要を繰り返し強調し勧告している。実によき宗教教育はいつの時代にも必要ではあったが、現代のように言論著作による反対者の種々の攻撃に答えねばならない時にあってはわけても必要なのである。それがためには、われわれが信ずべきこと、守るべきことの一般的な知識だけではなく、われわれの宗教の教える真理の証明をも確実に把握している必要がある。なかんずく、高等教育を受けた人々、現にうけつつある人々にとってこの種の教育は特に重要である。本書は、シドニー大司教、シェアン司教の著であるが同司教の好意ある許可のもとに木内神父の訳出したものである。教科のためにも個人研究のためにもよき参考書となると思う。言うまでもなく本書は個人研究の場合にも教科書として用いられる場合にも単に読み流すだけでなく、よく説明され、深く考察されてこそ始めてその真価が発揮され、信仰を堅固にし、愛徳を増し反対者の攻撃を却けるに大いに役立つものとなる。英語国民の間では非常に普及され愛用されている本書が幸いにもわが国において好意をもって迎えられ、天主の祝福を得て多くのよき果を結ぶよう私はひたすら願うものである。

昭和22年8月4日

札幌にて ヴェンセスラウス・キノルド


目次

緒言 護教学の目的、その証明法(p.1)
護教学の定義、教義の関係(p.1)
教会の神的権威の樹立(p.4)
第1項 神は不可思議な一致をもってカトリック教会が神の教会なることを証明する(p.7)
第2項 神はおのが教会に神的刻印をほどこす(p.10)
第3項 神は教会に強固なる永続性を賦与しておのが教会の神性を証し給う(p.15)
論旨の総合(p.20)

第I篇 自然護教学(p.25)
第I章 純理性によって知られる神の存在証明(p.25)
第1項 神の存在(p.25)
神の存在に関する詳論(p.36)
第2項 理性によって知られ得る神の性質について(p.74)
第3項 無神論(p.82)
第II章 純粋理性に認識せられる人間の霊魂(p.88)
A 霊魂の霊性について(p.88)
B 霊魂の不滅(p.100)
第III章 自然宗教と天啓の可能性について(p.103)
I 自然宗教とは何か、個人的並びに社会的義務について(p.103)
II 自然宗教の完全明瞭なる知識は事実上純理性によっては到達し得ない(p.107)
III 天啓の可能性(p.109)

第II篇 キリスト教護教(p.111)
キリスト教における天啓は神よりの啓示である(p.111)
第IV章 天啓の印しなる奇蹟と預言(p.114)
第V章 福音書、使徒行録、パウロの書簡に関する歴史的価値(p.126)
A 福音書の歴史的価値(p.129)
B 使徒行録とパウロの書簡の歴史的価値(p.138)
第VI章 イエズス・キリストは自ら神なりと主張している(p.142)
I 1 3福音はキリストが自ら神なりと主張している事実を確証している(p.142)
2 ヨハネ福音書に見られるキリスト自身の言葉(p.145)
II キリストの業績(p.147)
III 使徒並びに弟子たちの確信(p.149)
第VII章 真の神なるイエズス(p.149)
I イエズスの「われは神なり」との主張がまさに事実であることは奇蹟並びに預言によって確証される(p.150)
II キリストの復活は彼の神性の確証である(p.159)
III キリストは自身を神なりと主張しているが、キリストの人格、自然宗教の教師としての風格を省察すれば、その主張の真実であることが立証される(p.170)
附記I キリスト教の敏速な普及と殉教者たちの堅忍不抜な勇気から見たキリストの神性の証明(p.189)
附記II 生きた力としてのキリストとキリストの神性(p.195)

第III篇 カトリック護教(p.197)
序 キリスト教天啓に関する不謬の教師なるカトリック教会(p.197)
第VIII章 教会の創設(p.197)
A キリストの使命(p.199)
B 使徒の使命(p.201)
C 教会の創設(p.205)
第IX章 キリストの創設になる教会の特徴(p.208)
I 不易と使徒伝承(p.209)
II 唯一と普遍性、可視性と聖性(p.212)
III 不謬性(p.221)
第X章 キリストの教会の鑑定(p.223)
I 真の教会の具有すべき特徴(p.223)
II 偽キリスト教会(p.224)
III 真の教会の全特徴を有するカトリック教会(p.241)
IV 質疑応答(p.250)
第XI章 キリスト教会の統治と首位権について(p.254)
I 法王の首位権(p.257)
II 法王の不謬権(p.265)
III 質疑応答(p.271)
IV 教会と社会組織との関係(p.280)
結語(p.289)


p.1

緒言 護教学の目的、その証明法

要旨:護教学の定義、教義と護教学との関係。護教学研究の義務。教会の神的権威の樹立。カトリック教会は、その全貌において神的起源を有す。

護教学の定義、教義との関係

護教学はカトリック教義の擁護を取り扱う学である。護教学の目的は、カトリック教会における神的権威の確立にある。そしてそれは相関連せる諸真理の研究によって、現世における唯一無二の信仰指針を与え得るものは、ひとり、聖にしてかつ不謬のカトリック教会であるという結論に到達する。

護教学の用務を一言に約すれば、それは人々をして神の家の扉の前に導き、その中に入るようしむけることにあると言い得る。

なお、すでに信仰を持っているわれわれカトリック者は、護教学を学ぶことによって、教義の合理性とその

p.2

擁護法を知り、ますます信仰の基礎を固めることができる。と同時に神に対して大いなる感謝の心と決定的従順を深めるにいたる。

われわれは護教学を研究するに当たって、虚心論拠を追求すべきであって、どんなことがあっても内心に主観に基づく、特に疑惑と敵意を蔵していてはならない。教会の声明に疑問を投げるどんな理由があるであろうか。堅固な神与の信仰を有するわれわれは、あらゆる恩寵の慈母なる教会に愛と尊敬を表すのにいささかの逡巡もあるべきではあるまい。加えて天主とキリスト、キリストの教会に対する無知と、無知に由来する敵意に充ちている現代に生をうけているわれわれは、護教学の論証を深く研究する義務があるのである。すなわち、天与の信仰がいかに合理的であり、また堅固であるかを悟り、無神論者あるいは教外者の指摘するいわゆる難問なるものが、護教学の研究を怠る者にのみ難問となり、真理を体得するということが蒼穹に呼吸する健康者の味わうごとき心の自由と明朗を思わせることをも確信するに至るべきなのである。

不信の息吹が醸し出す悪のただ中に生活しつつゆるぎない信仰をかざしてあらゆる誘惑と戦って行くのも、われわれの義務である。

また、道を求める真摯な人々に満足な解答を与え得る充分な知的準備を怠らないこと、これも真理をうちに有する者の当然なつとめであることを知らなければならない。

p.3

聖ペトロが「常に汝らにある師の希望のゆえんにつきて、問う人ごとに満足を与うる準備あれよ」(1ペトロ 3:15 )と初代教会信徒に警告しているこの言葉はそのままわれわれにも語られているのである。この種の研究は実際有益であるばかりではなく、たのしいものである。

それは学それ自体が宗教という人間にとって最重要な問題、興味深い事柄にふれているばかりでなく整然たる論理の上に打ちたてられる推論は理性の錬磨にも益し、理性の力を駆って全人格をたかめるからである。

護教学において用いられる証明法とその性質。

初心者は証明といえば数学、科学以外にはないものと思いたがるが、これは大変な間違いである。精密な数学の計算や経験以外の世界には絶対確実性は得られないという偏見を改めてかからなねばならない。ちょっと考えてみるだけでも、結果からの推論によって、りっぱな真理が樹立し得られることが分かる。一例を挙げると、法律が存在するという結果的事実から律法者とその知的能力を知ることができ、またすばらしい彫像から作者ミケランジェロを知り、特異なある軍略からナポレオンその人を知ることができるであろう。このように、たとえ数学的にあるいは経験に現れない事柄でも結果からその原因を確実に証明することができるものである。しかしかかる証明は確実ではあるが強制的ではない。すなわち、合理的疑いを完全に

p.4

除去するが、結論の真理性を強制的に認めしめるほどのものではない。というのは何かの先入見をもっている者、あるいは真面目さを欠いている人々にはどうしても確信を与えることができないという意味で強制的ではない、と言わねばならないのである。注意して聴こうとしない人々、矛盾と知りつつ、それをいこじに固持する人々にいくら賢明に論証しても、それは時間の浪費に過ぎない徒労である。例えば、文学的大作を文字の偶然集合なりとし、窃盗、酒乱を善なりと主張する者共には策の施しようがない。愚者とは理解能力のない者を言い、先入観に固執する者は理性の破壊者であり、理性本来の力を故意に阻止する者共である。それゆえいかに完璧を期した証明であっても、これらの人々を納得させることは不可能である。

価値あるものすべてが必ずしも受け入れられるにあらず、とは、この場合にも当てはまるであろう。

教会の神的権威の樹立

教会における神権は二方面から証明できる。

1 約聖書の研究

p.5

新約聖書は単に人間的な著書と見ても信頼に値する書であって、著作中の人物、人間イエズス、イエズスの言行は忠実に描き出されていることを認めねばならない。

すると、

A. 聖書中に次のごとき史的文献を認めねばならないことになる。

(1)キリストが彼自身に神の権威を強調していること。

(2)キリストはこの主張が真実であることを奇蹟と預言とによって証明していること。

B 同様に、

(1)キリストが彼の聖業と教義宣布のゆえに世の終末まで不易なる教会を設立したこと。

(2)キリストは彼の教会に万代に至るまで真の教会として万人に認められる特徴を賦与していること。

こういう準備が終わったならばこんどは、現存しているいわゆるキリスト教会を調べてみる。そしてキリストの賦与した特徴はいずれにしてもカトリック教会だけに保続されているという結論に達するのである。

以上のごとき論旨に従う研究は本論で取り扱うつもりである。ここに忘れてならぬことは真摯な学的態度である。これらは教養あるカトリック者ならば、誰もが保有していなければならない知識であるから真面

p.6

目に研究しなければならない。キリスト者中にも宗教的事柄に関しては聖書の権威なしには五分も動かぬと主張する人々がずいぶんあるが、こういう人々のために、この証明は特に有力である。またこの種の研究は救世主の人格とその聖業に関する知識を不知不識の間に深めしたがって救い主に対する愛と誠を捧げしめずにはおかない熱情と意思とを喚起する点から次の証明に勝ると言い得るかもしれない。

2 第二の証明法はカトリック教会に関してわれわれが持っている一般的な知識を再考察することから結論される方法である

この方法によると、教会それ自体を全般にわたって観察し、そこに、神的起源と神の特別加護の特徴を証明し得る事実を指摘すればよい。であるから教会の神的権威ははなはだ容易に証明できることになる。教会はあまたの特徴を持っているが、ことに統治、信仰、祭儀における唯一性がなかでも顕著である。また教義と道徳律の結果として自然に現れる聖性も看過できない特徴であり、内外の敵に対して不倒ゆるぎない、時代を超えた不変のすがたは神の冥助と聖業とを明白に物語っている。以下詳細に各特徴を検討してみよう。

p.7

第I項 神は不可思議な一致をもってカトリック教会が神の教会なることを証明する

1 統治における不思議な唯一性

人間本来の弱さをまったく無視して、ゆがめられた民族の偏見から引き上げ、あまたの人々を一心同意所定の目的に向かって一致前進せしめ、しかも各人を有機的に和合協力させながら唯一の統治権下に安住せしめて悠然邁進してゆく教会は、内に何か人智を超えた力を予想させずにはおかない。

まことに、カトリック教会にあっては教養を異にした各階級にまたがる雄大な信徒群をみるが彼らは剣の力によるのでもなく、虚傲な民族精神に繋がれているゆえでもなく、富に対する欲望からでもなく、敢然として唯一の統治権を認め、恭順これつとめているのである。他の点においてまったく対立的な立場にありながら、聖ペトロの後継者に対するまったき服従ということに関してはことごとく一致するのはなぜであろうか。

国籍と民族とを問わず、教養、言語、風習のいかんを問わず、教会は日に日に信者の数を加えながら万難を踏み超えて前進して行く。しかもペトロの至上権は淡々として春の野を駆ける若駒のように、その雄

p.8

姿を衆目にさらしているが、これこそ世の為政者と統治者が羨望しておかない事実なのであって、観点を換えればこれこそ教会における神の教導と支持とを絶叫する強固なる特徴に他ならないのである。

2 信仰における不思議な一致

教会の子らはことごとく唯一不変の信条に従う。ここにもまた奇蹟的な一致が認められる。その信条たるや人間性の低い情欲に迎合するていのものではなく、かえって人間の脆弱性に真っ向から挑戦する犯し得ぬ教義なのである。しかも宣揚する真理が、寸毫も歪められることを認めず、それでいて教会はその教義に関するかぎり、百万人の耳を傾けさせ得る唯一の指針となっている。

浮薄な人の心は、日毎に見解を変えてそのゆくところを知らない。一は他に、ここの主張は他方の否定であり、今日の支持は明日の拒否となる。かくのごとき、思想界と自然界の流転と離反のうちに、教会の子らだけは不変の信条のもとに立っている。時に私見を強揚せんとする自然性の欲望に駆られることがあっても彼らは虚心慈母たる聖会の声明に従う。

内包の理解困難な玄義のごとき理性の埒外に出る教義があれば、彼らは勇敢に教会の命に従い、深奥なる玄義をよろこんで固持するを常とする。こういう一致と言い、信条に対する心服といい、神の直接な

p.9

る冥助なしに説明することはどうしてもできないのである。

3 祭儀における唯一性

教会の信仰が一にして不変であると同様、祭儀もまた一にして不変である。すなわち、その本質は洋の東西を問わず不変であって、地の果てに至るまで教会の子らは一なる祭壇を仰ぎ、十字架の犠牲の再現である至聖なるミサの犠牲を捧げる。

救世主がたえしき遺産として教会に委託し給うた聖寵の運河なる七つの秘蹟はどこにても授けられる。教会は学者をも無学者をも、富者をも賤民をも等しく聴罪司祭の前に跪かせ、良心の奥深い罪の告白を命ずる。人間は本来自己擁護の権化であるが、こういうことは好むと好まざるとにかかわらず、私心をまったく滅却しなければできない仕事である。人に知られない罪悪を告白するというようなことは、人間お互いの髄まで滲み込んでいる嫌悪に打ち勝ち、まったく神の望み給う方法をとらなければならないのであるから人間的に考えたならば至難なことに違いない。かかる現象についてこれを見ればどうしても人間的な説明のみでは解決できるものではないであろう。

以上教会における統治、信仰、祭儀に関する不可侵の唯一性は神よりの奇蹟にこれを求める外はない。

p.10

第II項 神はおのが教会に神的刻印をほどこすために、絶えずその子らの多くに英雄的聖徳への恩寵を与う

歴史的に見ても教会の聖性は単に自然的な原因のみによっては説明し得られぬていの比類なく、しかも顕然たるものであって、神の権能と至善の具現なりと見るのが最も当を得た解答であると言わざるを得ない。聖徳は何かと言えば、まず神をわれらの父とし、友として、内面的に神に帰依し一致することを意味しているのであるから、神の本性に背反する罪悪の泥沼から何よりも先に解脱しなければならないのである。しかしこれのみでは聖化の第一段を踏み出したに過ぎないのである。昔から、世には慈悲の権化と歌われ、仁義の誉れ高いいくたの模範的な人物があったに違いない。とは言え、彼らの生涯にことさらとりたてるほどの欠点がないとしても、その全生涯の記録中になお空虚な陰影がひそんでいるのはなぜであろうか。それは教会の聖者に見られる神に対する熾烈なる愛、これが欠けているからである。

霊魂を罪悪からもぎとって情欲の飽くなき欲求と戦いつつ、世俗の埃にまみれない生活は決して消極的な仕事ではなく、偉大な業であるには相違ないが、罪よりの離脱のみでは、われわれがここに英雄的聖徳と名づける徳の観点からするなら、むしろ最下級の第一段階でしかないのである。道徳的な行為だけでは

p.11

聖者とはなり得ないのである。この意味でキリストを、彼の高い道徳行為のゆえに賞揚したとしてもそれは彼の真の姿を言いあてたことにはならないのである。人間キリストを正しく言い表すには「彼は比類なき聖者なり」と言わねばならないのはそのためである。

論を進める目的でここに教会の懐をよそに生まれ死んだ高徳の人々が等しく聖者だったと一歩譲ってみても取捨選択をしたならばその数が非常に少なくなるに違いない。

他方教会史を繙けば各時代と国々を飾る群星にも似た聖者群が社会の各階級に、職場と性格と才能とを云々することなく輩出しているのに驚くであろう。まことに教会は人の世に聖者を産む唯一の肥沃なる聖野、神の地上に残し給える国であるとの実感を惜しげなく発揮しているのである。しからば、教会が聖徒を駆って競わせる花吹雪、生命と美と聖徳の花は、どこよりのものであろうか。

原因を教義の完璧にのみ求むべきであろうか。あるいは歴史的に老練な教会の規定する生活指導原理にその原動力を求むべきであろうか。そのいずれも完全な原因ではない。なぜかと言えば、教義といい法規といい、それは何者にまれ、たやすく模倣し得るものであって事実模倣されて来たのであった。

教義と道徳律との他にこれに内的生命を与える何物かがある。これこそ教外者が窺知し得ない、どうしても模倣し得ないいわゆる奥義なのである。神が教会に与える隠れたる冥助がそれであって、かかる冥助は教会

p.12

のふところにおいてのみ得られ、教会の子らの魂を養い、比類なき聖徳の輝きが望む人々にのみ潤沢に与えられるのである。教会を外観的組織法則にのみ見るならば多くの宗教団体は教会の外的相を理想的に取捨し得るのではあるが、そこにはどうしても肖像画に生命がなく、絶縁されたラジオと同様の欠点は脱れ得ないのであって、似て非なる形骸たるに過ぎない。

それゆえにこそ宗教の神秘性があり、人為宗教の不備が強調されるゆえんである。

いわゆる宗教革命より今日に至るまでの偉大なる聖者群を一瞥してみよう。彼らの少なからぬ名声は等しく、精神的に覚醒せる人士にも非信仰的立場を固持している人々にも知られ、カトリック者の有するそれらに劣らない敬慕と愛を非カトリック者の中にもかち得ている。

聖女、アビラのテレジアの天使的聖徳を知らぬ者があろうか。また聖女と時代を同じくし意を互いに通じていた十字架の聖ヨハネ、忠実なる民衆の牧者カロロ・ボロメオ、軍服の聖者イグナシオ・ロヨラ、貧者と苦を分かったキリストにおける友ビンセンシオ・ア・ポーロはあまりにも有名である。

現代において純潔と英知、優雅とが、「イエズスの小さき花」をもって世に知られている若くして逝きしリジュの聖テレジアはその自叙伝をもっていかに多くの人々によき感化を与えていることであろう。しかしこれらは数百の中の一二にすぎないので、あまたの聖者は、われわれが今なお見るごとく、修道会の創設者とな

p.13

り、また自らの犠牲をもって全徳を現世に残している。キリストがかつて彼らのうちに住み給いしごとく、彼らもまたおのが霊的伴侶の中に生きていると言うことができよう。

人々は教会が勝手に聖者と崇め、それを宣伝するかに思い違いをするかも知れないが、聖人の称号がそう容易に加せられるのではないことをお知らせするために少しく列聖調査の様子を記してみよう。

教会が信者の一人に聖者称号を宣言するに至る審査過程の厳格さは世俗のどんな審査にも増して苛酷を極めるものなのである。まず教区の審査員が選出されて、候補者に関する限り、それが有利であろうと致命的なものであろうとお構いなく、一切の資料を集め、書簡等に関してはそれがどんな意図で書かれたものかなどは考慮せず悉く集められる。それがすむと適当な時期をおいて、この事件がローマに送られる。ここでまた全体の審査が吟味され、全生涯が極めて苛酷な試問に付せられるのである。吟味の対象とならぬものは一つもない。ここでは告白の秘密を除けばどんな言行も秘められたまま残されることなどないと思わねばならない。一般の信者は教会法の命ずるところによって列聖調査に問われている人に関する奇蹟並びに聖徳についての見聞を進言する義務がある。

特にも候補者が持っていた対神徳、枢要徳に関して、その各々は聖徳に達した者と否とに決定する大切な事柄であるだけに特種な審査を受けなければならないことになっている。

p.14

こういう所定の審査を終えた後も教会は列聖調査に満足したのではない。人間的な方法をすべて尽くしてしかも全般が諾に傾いて後、さらに要求するのは神の与え給う確証である。

神が列聖されようとしている信者の名において奇蹟、それも疑偽の余地ない奇蹟をもって調査に答え給うた時、調査に着手して後始めてこれこそ聖者の列に連なるに相応しい者なりと宣言する。前100年間に人々の目から聖人に列せらるべしと見えた人の中、300人以上は福者とされ、称号を拒否された者が78名に達すると言われている。

教会外にもその偉大なる業績に対して敬意を惜しまない聖なる人があるのを否定するものではないけれども、叙上のごとき調査の第一階段の審査にも無傷で通過し得るやははなはだ疑問とする。いわんや死後における神的保証の奇蹟にいたってはかつて耳にしたためしがない。

こういう意味で教会は、現世に姿を現した時から聖者を産む母胎であった。教会こそは、生涯が奇蹟だった多くの徳高き人々を産んだ慈母なのである。カトリック教会はそ死後神御自身直接その成徳を保証し給いし聖者群の母であり、これまた悠久なる神の冥助の刻印であろう。

神がおのが教会の子らに賜う奇蹟の不断の継続のみを考えてみてもそれ自体すでに神的権威の十全なる確証であるに違いない。これらあまたの明らかな奇蹟はいかなる偏見をもってしても論旨を否定できない性質のもの

p.15

ではないであろうか。列聖調査廷においては、挙げられた奇蹟の一々に関して種々異なった角度から手落ちなく検討されるのである。それぞれ科学の専門家が奇蹟事実の鑑定にたずさわり、ただ一つの欠陥から全体が放棄されることは珍しくないのである。

第III項 神は教会に強固なる永続性を賦与しておのが教会の神性を証し給う

カトリック教会の確乎不抜の存在はそれのみで教外者を唖然たらしむるに充分である。単なる人の建設であるなら確かに致命的であったに違いない数々の危険をきり抜けて、牢固たる存在を保っているのは神の御手の業によるとしか考えられない。異端に砕かれ、離教に腐蝕されようとしたことは教会史上稀な出来事ではなかったではないか。教会は死神に付かれ死相を示す瀕死の病人に比せられたことがしばしばだった。ところがそれは外面だけのことで実際は神的生命に養われ、支持されていて、その都度疾患を外衣のごとく脱ぎ去り、少壮と熱意に若返るのが常だった。

教会は、キリストが福音書中に語り給う堅固なる家に比せられる。「雨降り河溢れ風吹きてその家を衝きたれども、倒れざりき、そは磐の上に基したればなり。」(マテオ 7:35)と。

p.16

時として、今こそ教会は死のあがきに瀕しているとの勝ち誇った悪魔の嘲笑を耳にした。とは言え、台風一度去って黎明至れば衆人の前に依然として群敵の波乱をしりめに勝利に輝いて屹立する旧きペトロの教会を見るのであった。

プロテスタントの著作者マッカウリーはこの点に言及して、「過去現在を通じて、ローマ・カトリック教会ほど試問研究に値する偉大な存在はない。教会史は実に人類文化の二大画期(エポカ)を融合した。

連綿と続く法王権の継承に比較したなら、豪放を極めた王家は実に昨日の存在でしかない。法王位を遡るならばその不破継承の線上に、19世紀のナポレオンを戴冠した法王を見、8世紀にペピンに王位を授与した法王、さらに進んではアウグスト朝時代まで遡ることができるのである。...ベネチア共和国は共和国最古のものであるが、法王位にこれを比すれば新しい存在たるを脱れない。若いベネチア共和国は亡び、旧法王位は残った。法王位が残ったと言っても滅亡を脱ぬがれたと言うのではなく、また単に残骸を止めているというのでもない、かえって溌剌とした精神と少壮の意気を保ちながら、発展し続けているのである。

カトリック教会は今日もなお、その昔ケントにアウグスチノを先頭に上陸した熱烈な宣教師と少しも劣らない宣教師等を世界の各地に派遣し、アッチラ王に対しても信仰を宣言するになんら怖れることを知ら

p.17

なかった卓越した精神を今も持ちつづけている。

われわれは今日といえども法王位の実に長年月にわたる支配権が終極に近づいたことを徴す兆候をどこにも認めることができない。カトリック教会は現存する一切のキリスト教の創始を悉く見ているが、同様にそれらすべての教会の終極も見ないと断言できるであろうか。

1799年には世の聡明なる観察者すら、遂にローマカトリックの衰亡期が来たと観じねばならなかったほど世の中が乱れていた。無神主義的権勢の勃興、法王の俘囚中の逝去、フランスの赫灼たる高僧たちがプロテスタントの異端にからくも余命をつなぎ、前代の施与にして神の家に聖別せられた崇高なる建物は、凱旋の神殿、社会交際場裡のホールと化したほどだった。しかしそれが最後ではなかった。...無政府主義がおのが日を見、混乱の中にも新たなる秩序が表れ、新興主権、法律が渦を巻いて起こった。そして千変万化止まるところを知らない転換のただ中に旧い宗教は依然として屹立していたのであった。アラビヤ人はピラミッドを非常に誇りとしている。ピラミッドは大洪水前の王が建造したもので人間の残した物のうち大洪水の災害を過ぎて来た唯一の建造物であると誇る。法王位の遭遇した運命もピラミッドのそれに劣らぬものではなかったであろうか。大洪水に襲われたこともいくどだったかも知れない。けれどもその深い基礎は不沈のまま耐えたのであって、一度洪水去るや、世の一切が過去の遺物となって、そ

p.18

の残骸を曝したただ中に、忽然と不破の雄姿を表した。ポーランド共和国滅び、ゲルマン王国逝き、ベニス最高議会影を没し、スイス同盟、ブルボン家、フランス貴族政治はすでに姿を消し、欧州は若き創始に再出発した。フランス王国、帝国イタリー、ライン同盟等、かかる変遷は単に領土問題政治外交界にのみ止まると考えるのは早計である。私有財産の分配、社会相の変革は精神界、思想界に多大な影響を与え、カトリック教国を根本的に置き換えるかに見えたのであったが教会は依然として不変であった。云々。」と。以上は法王権の外的危険を述べたものであるが、内組織、すなわち教会の内部から起こるさらに厄介な問題を見逃している。教会は選挙君主政体であるが選挙君主政体は明らかに政治形態のうちで最も不安定な形式であるとされている。法王首位権は全世界の教会の野望の的となり得るし、事実中世紀には一時的とは言え主権が対立し、法王権獲得の策謀に鎬を削ったこともある。かくのごとく法王位は二重の悪に脅かされ得るのである。一は世俗権への惧れであって他は法党分裂への恐怖である。

しかし結果はいかんと言えば事実相応しからぬ法王と言われる者は僅少であった。陰険極まる離教は時と共に興ったのであるが、これら離教と言い、法王と言い、そのいずれもがもしも世の王朝の間に興り、また王位に即き、その王がその職責に相応しくなかったならば、いかに勢力のある王朝といえども、ついには失墜してしまったであろう。教会はこれらの不幸に会いつつも、なお不断に存続し、発展し続けて来たのである。

p.19

法王権はこの種の危険よりももっと怖ろしい他の危険に曝されている。最高牧者たる法王も所詮人間である以上、万人共通の欠点ももっている。それゆえ天与の賜である不謬権を運用しない場合、普通人としての誤謬に陥り得るに違いない。聖ペトロは、ユデア教からの改宗者に誤れる寛容の態度を取ったゆえに、真っ向から聖ポーロの譴責を受けている。聖ペトロの後継者中にも、善意をもって実行したにもかかわらず、不思慮のゆえにかえって教会に害毒を流した法王をも認めないわけにはいかない。法王位の長い歴史には、聖権を世俗権の干渉にまかせるごとき結果となった政治的な愚挙をあえてしたと見られる法王をも指摘し得るのである。しかしこれら法王の犯した偶発的な失敗はかえって、信仰の土台のあるところを示し、教会は神の支持し給うものなりという明らかな証明を与え給う神の御意であると見るのは誤りであろうか。聖ポーロは「かえって智者を辱めんとて、神は世の愚なるところを召し給い、現にあるところを亡ぼさんとて、神は世の卑しきところ、蔑ろにせらるるところ、無きところをば召し給いしなり。これ何人も御前において驕らざらんためなり」(1コリ 1:27-29)とこの消息を明らかにしている。何者といえども神の事業において自己に信を置くことは許されない。また、士師書を繙けば、主がゲデオンに宣うた記録を見るであろう。曰く「汝と共にある民余りに多ければ、われその手にミデアン人を付さじ、おそらくはイスラエルわれに向かい、誇りて言わん、われ、わが手をもっておのれを救えり、と。さらに主はゲデオンに命じて3万2千の中、3百の手勢を留

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め他を去らしめよと。ゲデオンその命を奉じて敵の大軍を粉砕せり。」(士師記 7章)小勢よく大敵を打ち破ったゲデオンの凱旋に、神の御業が厳として被うべからざる事実であるごとく、聖ペトロの教座に即位した二三の法王が犯した失敗と暗愚はかえって、法王権継承における神の大業を明白に示すものと言わねばならない。

論旨の総合

1、教会の基礎たる法王位は、大ローマ帝国以来全欧州の統治、生活、社会政治における震天動地の変遷、革命をよそに残存した唯一の構創である。

2、法王位はあらゆる迫害、政治的な策動に打ち勝って存続し、教義内容に関する異端、離教にも少しの動揺もなく、法王中における不適人材、突発的な愚挙、世俗精神の横行にもかかわらず不変であった。

法王位は単に外的形式において旧体を残しているのではなく、灼然とした不破の内的精神に生きているのである。

かかる不可思議な存在は、これを支持し給う神の聖業を明示する。

以上のごときカトリック教会の有する特徴は、そのいづれを俎上にのせて見ても広義の意味における奇蹟

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すなわち神の特異なる支持を証拠だてる奇蹟なりと見て差し支えないと思うが、それらの総合は反駁の余地のない決定的な証明となるであろう。

かくして教会は偏見に歪められていない霊魂に、神的派遣の不動の確信を与えるのである。この意味において、教会は死の蔭に坐す人々を声高に呼ぶ王旗を万民に向かって高く掲げる。

[註1] カトリック者の信仰内容を吟味してみると、カトリックのみが神の唯一の宗教であって無二の教会であり、この信仰がまことである理由は神がこれを証明し給う、というにある。神は種々の方法をもってこれを証明し給うのであるが、殊に神の教会のみが具有し得る特徴、すなわち全世界における教会の奇蹟的な普遍と一致、聖性、奇蹟の賜、教会不破の存在などがその主なるものであろう。

[註2] カトリック護教と信仰。
カトリック護教学と信仰の立場との差異を明らかにするためにここに一言述べておこう。公教会は神が、地上におのが代理としてこれを創始し給える教会なることを信ずる。この信仰の理由は神の聖言である。これが信仰の立場である。
ではいかにして神の聖言、あるいは啓示を認め得るかと言えばそれは神が教会に与え給う不断の奇蹟にこれを求める。かかる支持は神御自身の名において人に語り給うと等しい宣言であり、その支持と意義とに

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関する知識を与える学がカトリック護教学なのである。

[註3] ヴァチカン公会議[第一]は護教学的論旨を非常に簡明に次のごとく述べている。

真の信仰を懐擁し、その信仰を堅固に保持する義務を遂行し得るために、天主は御独り子によりて教会を創始せり。しかして教会が天啓の教師、指針たることを一切の人に認めしめんため天主はこれに明白なる神的起原の特徴を付加せり。かかる特徴はカトリック教会においてのみ見られる。これに加え、教会は嘆賞に値する宣原と、比類なき聖性、善業における窮みなき業績、普遍にして唯一、不抜なる永続性等によって神的起布の確実なる刻印を具有し、教会の存在それ自体が信仰のゆるぎなき根拠であり、神的派遣のいく久しき証拠である。かつ、かかる自明性は最も高きところよりの賜である。なぜかなれば、慈悲深きわれらの主は「真理の認識に至らしむる」(チモテオ 2:4)ために恩寵によりて誤謬を犯す者を援け給うのみならず、暗黒より「おのが妙なる光へ」(1ペトロ 2:4)召し給うた者等を堅固にし、信仰において自己を保持し得る力を与え、彼らが主を捨て去らぬ限り主は決して彼らを捨て給うことがない。ゆえにひとたび天与の賜なる信仰をうちに享け、真理につくことを得た者は、人間的見解の影響のもとに、誤れる宗教につく者等とはいかにしても比較され得ない。なぜかなれば、前者は教会の教導の下に真理を懐擁したのであって、彼らには信仰を変え、信仰を疑問に付する正当ないかなる理由もあり得ないからである。云々と。

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ヴァチカン公会議が決議文を発布し、法王庁が破門に該当する命題を列挙した時、これに刺激されたグラドストンは憤激しかつ嘲笑裡に、「錆びついた武器を磨かんとするかローマよ」と問い、「現代における教会破門に神の報復権という甲冑を希求するのか」と糾弾した時、ニウマンは次のごとく言った。「中世にはカノッサの積雪中にゲルマン国王ハインリッヒに跣足停立の苦業を命じた法王があったが、摂理の妙と言おうか、19世紀には皇帝ナポレオンに『雪の償』を加したいま一人の法王が来た」と。

プロテスタントの歴史家アリソンの記憶すべき語を引用すると、

「1807年7月皇帝ナポレオンは法王エウジェニオに言った。『法王はいかなる目的をもって余を破門に付すと言うのか。法王は世界が千年逆行するとでも考えているのか。それとも余の忠勇なる兵隊の手から武器が剥奪され得るとでも妄想しているのか』と。
この注目すべき言葉が書き下されてから、2年を出でずして、法王領徴発の返礼に、時の法王はナポレオンに破門を宣告した。その後4年を経ず、ナポレオンの軍隊は文字通りその手から武器を放棄するにいたっている。彼の召集した明らかに勝算なき軍隊は厳寒の冬風に四分五裂となり、曠野に残骸を曝し出した。
露国退却記の一節にニセオールは記して『武器は硬化した兵隊の腕に耐えられぬ重荷と見えた。いくどと

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なく兵隊は雪中に倒れ、そのたびごとに兵器は地に投げ出され、遂に寒風にもぎとられた。兵隊が武器を放棄したのではなく、飢餓と疼痛とが兵隊の手から武器を掠奪したのである。云々』と。」

アリソンはさらに「かかる不可思議な符合は、偶然の出来事を超えた何者かを示唆するものではないか。プロテスタントの歴史家といえども、将来への観察に何らかの反省あってしかるべきことを観ずる。世代は千年前に逆行し得ないには違いないが、千年が一日であり、一日が千年である存在が現として存在することを忘れてはならない。云々」と。

かかる存在こそは1707年に法王グレゴリオと共に在ったごとく、1812年には法王ピオと共に在り、未来の幾百人の法王と相共に在すであろう。そして彼らの全能なる武器が未だその力を失ってはいないことを、神を敵に廻す人々に示し給うのであろう。


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(2004/05/08)

第I編 自然護教学

第I章 純理性によって識られる神の存在と性質

第I項 神の存在

以下、われわれは生ける人格的なる神、すなわち智恵と自由意志を有し、万象の最終原因にして、万有より峻別されている神の存在を立証する。

小論

I

--自然界における法則と秩序よりの証明--

自然界の動きにおいても、人間の仕事と同様、秩序あるいは、法則のある働きは必ず知的意匠を要求する。

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1、カメラは、光線を誘導する小開閉孔のある箱であって、光線がレンズを透して感板に影像を写し出す仕組に出来ている。

今、人工になったカメラに対して自然に出来たとされている人間の眼をとりあげて考えて見ると、瞳孔がカメラの光線透射孔に相当し、水晶体がレンズに、網膜が感板に相当していることが分かる。

これら二者はいずれも、感板あるいは網膜に明瞭な影像を写し出すために種々異なったものがそれぞれ結合され、組み合わされているという点で一致していると思われる。

ではそれぞれ違った性能をもつものが偶然に結合構成されたのであろうか。もちろんそうではなくて特異機能を有する材料を組み合わせたのは一に製作者の知的意匠に由来するという外はない。カメラは人間の作ではあるが人間の眼は実在する製作者、不可視ではあるが、知的存在の創造に原因するのである。

カメラ製作者の仕事を考えてみると、職工がまず必要な部分品を揃える。それからそれらを組み合わせるためにとぐこともあろうし、削ることもあろう。こうしてすばらしいカメラが出来上がるのである。

カメラの出来栄えを感心しないものはないが、言うまでもなく、練習いかんによっては誰にも同じように出来ないことはない。

しかし、人間の眼という不思議なものは理論的に言えばカメラと相通ずるところはあっても、眼球の組

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織のみを考察してみてすら、完全に理解することができないのだそうで、模作することなど及びもつかないものだという。眼球の作者は極く微細な筋肉の部分を幾万となく組み合わせて行って、鋭敏にし、各機能を完全に働かす原動力を裡において全体を完成していったに違いない。

こういう微細な材料をかくまで立派に配列することができた作者の智恵と能力は人間の窮知し得ないほどの存在であって、これこそ自然をその手中に蔵めている宇宙の支配者であるべく、われわれが跪坐して神と呼び奉る宇宙の本源なのである。

2、自転車製作所を訪れる者が、まず目をみはるのは、それぞれの部分品が類に応じて山積されていることである。

鋼鉄管の山、スポーク、車輪、ペダル、ハンドル、ネジ等々、数時間を出ずして、これらの部分品は目を晦すような新車となって行く。それぞれの部分が一分のくるいもなくぴったりと組み合わされた自転車は見ごとなものでこれこそ秩序の標本なりと賞めたくなるものである。実際に組立て作業を見ないものでも熟練工の知的意匠とうでまいを感心するであろう。

ところが、今目を転じて、自転車を組立てている人の手に注意して見給え。これはまた何と驚嘆すべき

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存在でろう。人の手、文明は手から産まれたと言われる手はいかに巧妙に動く場合でも表現は冷たいかも知れないが、それは皆、繊細な骨の交互作用、柔軟な筋肉の縮小あるいは弛緩、繊維状腱の伸縮作用なのである。

手は少なくとも19の骨組からなっており、その中の8個は種々の形状をもって手首の関節をなし、強さと伸縮性を与えるのである。

こういう繊細な、しかも複雑極まる組織、骨格、筋肉、腱、動脈が組み合わされて全体が統一されている手という体組織が自然に出来上がった、とかたづけられては閉口する外はない。偶然の所産でないとするなら、この調和はどこよりのものであろう。自ら生育し発展して行く人間自体にその原因を求め得ないことは明白である。

かかる驚くべき機能の支配者は何者であろうか。何者がかかる組織にまで発展せしめ、かかる効果を得せしめるために異なった部分を発展せしめ全体を造り上げたたのであろうか。

これこそ小は人間の手より、大はわれわれの住む宇宙の驚異にいたるまで、その一切を創造し給うた全能なる神を措いて何者に原因を求め得よう。

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--自然界に見られる法則よりの証明--

自然は法則に支配されている。天文学、自然科学、化学は、口を揃えて、大は天の星辰より小は塵埃の微細にいたるまで、一切の無機物はみな一定の法則に支配されていることを教えてくれる。有機物の世界においてもまた、植物、動物、人間に至るまで、種に応じて生長し、発育し、進歩し、法則に従って行動する。全宇宙はこうして錯綜した全体となっていて驚嘆すべき部分よりなる一大機械の観を呈していると見るのは決して誤りではあるまい。

悠久なる天体の運行、生物の組織形態とその機構、感覚、視覚、聴覚における、下等動物とされている昆虫の本能、鳥どもの作巣作業における天才、人間の諸学における偉大なる建設、文学、芸術界にあってすら、あらゆる驚異は一としてその根拠を自然の法則に置かないものはない。

かくも広範にわたる結果の原因をなすもの、すなわち、微細の部分における規律的な単一性の計画が偶然にできたものとし、何と命名しようとも、それがもう目的な偶然に帰拠させるとすれば愚者の誹りは脱れ得まい。

この種の法則はそのかげに、組織全体を自家薬籠中に置きかつ、おのが意図する業を目的に誘導し得る律

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法者を必然的に要求するものであって、ここには高き叡智がいづれにせよ存在しなければならない。そして人間に自由意志を与えた叡智の律法者が、自らも自由意志を有しているはずで、われわれ人間の量り得ない権能と力を有していなければならないのである。

ニウトンは、天体運行の法則を発見した時次のような記録を残した。「太陽系と星辰に顕れている美の極致は、最高の智慧と能力の権化なる存在の計画と許可なしに出現することはでき得なかった。[中略]こういう存在を宇宙の魂と言ってもそれは適当では言われまい。実に彼は万象の支配者、宇宙の大君なのである...われわれは彼の完全性にまず驚嘆し、驚嘆はさらに畏敬を産み畏敬はさらに宇宙の大君なる者を礼拝させずには措かない。」

II

--運動よりの証明--

万有が運動している事実は何者もこれを認めねばならない。ところが、可視の世界において全然自分の力だけで動き得るものはない。運動するには必ず他からの援助が必要なのである。

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無機物には、もちろん自ら動く力はない。無機物が静から動へ移るには必ず他から動かされねばならないのである。

無機物と違って有機物、特に生物は一見、自分の力だけで動くと思われがちであるが、これとて外界との交渉なしには動くこと不可能なのである。というのは、、エネルギーのもととなる食物を他から摂取しなければならないのであって、食物がまったく絶たれたならば生きていくことすらできなくなってしまう。

こういうように、可視の世界における一切はその運動の原因を必ず多から求めねばならない。では、世界にはいかにして運動が生じたのか、これを説明するには、万象以外に運動を与えた存在があるという事実を認める外はない。次に当然起こってくる問題は、この運動を与えた存在が他から運動を受けついだのかそれとも自己自身が最初の動的原因であるかいずれかでなければならない。後者なればわれわれが神と名づける存在である。

もしも宇宙に運動を与えた存在も、その運動の原因を他に求めるとすれば、運動の原因は何かという問題はそのまま残されるのである。

われわれが第一原因と称する動かされずして動かす者に到達したときに始めて、運動の問題が満足に解かれ得るのである。運動の第一原因をわれわれは神と名づける。

p.32

実際の例について説明すれば、この辺の消息がいっそう明らかになると思う。地球はどこからその運動を得たかと自問してみ給え。物理学者は言う。地球はその運動原因を太陽に受けた。太陽が螺状転回して地球を他の星と共に破片のように弾き出したのであると。では太陽はその運動をどこより受けたのかと進めて行くと、ある者は、太陽がより大なる天体の一分であったとき、それが二つに分裂して運動が起こったのだと称し、また他の人々は二つの星が衝突して太陽を形成したとき運動を惹起したと言う。いずれの説をとっても、より大なる天体と言い、二個の星と言い、その運動の原因をどこかに求めなければならぬではないか。こうして科学はこの種の問題に満足な解答を与え得なくなる。たとえ何らかの釈明を提供したとしても、それは同じ疑問を曳きずって行くだけで、われわれは相変わらず問題の出発点に取り残されているのである。地球の運動はどこよりという問題の解答からますます遠ざかって行くに過ぎない。

ではわれわれに満足を与え得る解答は何であるかと言えば、地球の運動は、直接であるかはたまた間接であるかは別として「動かされずして動かす者」にその原因を求めるまでは未解決である。

III

--因果律よりの証明--

p.33

一切は行為する前に存在しなければならない。であるから、自己を創造するということはできない相談なのである。もし、前になかった何かが現れたならば、それを作った何者かがほかにいるということになる。

この場合、存在に現れたものが結果で、存在させたものを原因と言うのである。

今、ある結果の原因を求めるにあたって、その原因自体、他の結果であるならば、未だ完全な原因を見つけたということができない。例えば夜半突然室が明るくなったと仮定してみ給え。これは何かの結果ではあるが原因は何であろう。室が明るくなった原因は電灯がひとりでに点いたのではあるが、電灯がつくには何かの原因があるはずであるからこれは他の結果である。さて、最後に到達することができた原因がかりに発電機であるとする。発電機それ自体一つの結果であるから、原因探求を進めていながらもなお問題の中心はそのまま、出発点に置かれている。すなわち一つの結果事実の前にわれわれが依然立っていることは前と何ら変わりがない。

以上の事柄を抽象して、考えて見ると次のようになると思う。われわれが見る個々のものを「イ」とし、それを説明する原因となるものを一般に「ロ」とする。すると「イ」は結果であって「ロ」は原因である。

しかも、「ロ」もまた「ハ」の結果であり、「ハ」も「ニ」の結果であるとすれば、どこまで行ってもきまりがつか

p.34

ない。こうして「イ」の説明は結局把まれないことになる。

それで、結果でない原因、言葉を換えて言えば、「他に原因のない原因」に到達して始めて「イ」の完全な説明ができることになろう。こういう原因を「第一原因」といって、上に述べた原因結果の進展において、それを完全に説明し得るものはこの第一原因以外にはあり得ないのである。逆に言うならば、第一原因はその性質から言って、自己以外に原因のないしかも一切の原因たるべき存在である。

ここからも神の存在の証明ができる。

IV

--万物における従属性よりの証明--

(偶有性よりの証明とも言われる)

宇宙に存在するものを一顧すれば、万象はすべてかつて存在しなかったときがあったことを物語っている。地表を飾る生物、それは植物、動物、人間にいたるまで、それぞれ存在しなかった過去があった。そしてまた、今こうして溌剌としていても次の瞬間にはその存在を失ってしまう。無機物も同様、存在し始

p.35

めた時があったと見ねばならないのであるが、比較的不変であるこれらの世界においてすら、有為天変は世の慣いであって、詩人が「不破の巌」と名づけたものがあっても所詮、噴火とか地質の変化、水浸力によって出来上がったもので、遅かれ早かれ、その雄姿を失う時があろう。地上いかなるものも自らの中に存在の鍵を握っているものはない。一切は自ら存在するのではなく、存在しなければならない性質を持っているのでもない。けれども実際に存在しているのはなぜであろうか。こういう存在はその存在を確かに他から与えられたに違いない。こういう存在様式を他に依存する、または他に従属していると言うのである。この意味で万物はみな他に従属しているのである。

「従属しない絶対的な存在がなければならない。」

生物は同種の他の生物から生じ、生ぜしめた他の生物といえども、前生の生物から出て来たのであるから、同じく従属的なものであった。幾百万年遡ってみても時間は原則を変えることなく、従属性の存在に遭遇するばかりである。無機物であっても同じことで、他に従属している存在に従属している。同様に他に従属を与えてもいるであろう。かくの如くわれわれの見るものはまったく相対的なものばかりなのである。

こういう事実から出て来る結論は何かと言えば、それは他に従属しない絶対必然的な存在、換言すれば、自らの裡に存在理由をもっていて、他から存在を受けないものに到達しなくては、前述の現象を

p.36

何一つ理解することができないということである。この絶対必然的な存在とはわれわれのいう神であり、万物はその存在を神より受ける。神は自ら永遠に存在し、無始、無窮であって、本来の言葉でわれわれは天主と呼び奉るのである。

神の存在に関する詳論

注意・研究者の便宜を考えて以上論旨を簡単に述べたが、以下同じ問題をより根本的に検討して、研究者の理解に資することにする。

--根本原則--学の根底には学の原則を為す自明の真理がある。エウクリドによれば、これは推論の核心となるもので、いわゆる公理といわれる。そこでさしあたり当面している問題における公理は何かと言えば、

1、人間理性並びに感覚的な把握は信頼に値する。

2、いかなるものであっても、存在し始めたものはすべて、自己以外のなにものかからその存在を受けた、という2原則である。

(因果律の法則)

p.37

--宇宙の秩序並びに自然界の法則--

A. 自然界における秩序よりの証明

今日一般に愛用されているカメラは、これを分解してみると一つの暗い箱なのである。そして一方には感板、その反対側に少なくとも一つのレンズが据えられている。感板は影像を写し出す化学的なカラクリのあるガラスの板であって、レンズは対象物を明瞭に把んで感板に正しい影像を置く作用をする。カメラ内部は常に暗黒であって光線が必要な場合にのみシャッターで光線を入れるようになっている。これ以上くどい説明はいらないと思うが、カメラの主な構成要素は、

  1. 暗黒な箱。

  2. 必要な光線をうけ入れるシャッター。

  3. 特種な局面を有しているレンズ。

  4. 感光板。

    p.38

  5. 焦点器。

などを挙げることができる。こういうものは皆、立派な影像を画き出す目的で総合的に、組合わされているのである。換言すれば所定の目的に向かって異種の材料が特徴に応じてそれぞれ排列されているのであるから、疑いなく、秩序と意匠の好例であると思う。

さて、人間の眼がカメラの構造に大変似ていることは前記したところであるが、主な共通点を記してみると、

  1. 箱に相当する眼球。

  2. シャッターに相当する瞼。

  3. レンズに相当する水晶体。

  4. 感光板に相当する網膜。

  5. 焦点距離器の作用に相当する水晶体湾曲面の変動等がある。

人間の眼をその生産といえば語弊があるであろうが出来上がったものとして見るならここにも秩序と整頓の具体化を見逃すことができないのである。すなわち、一定の目的のために部分が他の部分と協力し、各部が特有の性能を働かして、はじめて刻明な影像を網膜に画き出しているのである。

p.39

--秩序は智慧を要求する--

カメラ製作における意匠と智慧に疑いを投げる者のないことは、解りきってはいるが、人間の眼という不思議なカメラについて言うならば、われわれはこの種のことがらをつきつめて考えることに馴れていないので、どう解決してよいか判らぬ状態にあるかもしれない。とはいえ偶然の所産なりと決定してしまう訳にも行かない。偶然の結果でないとすればどうしても智的意匠の具現なりという結論になるので、これこそ当然の結論なのである。

--人間の眼の作者は間違いなく、限り無い智慧と能力とを持っていなければならない--

カメラの部分品が台の周囲に置かれてあるとする。そしてそれらの部分品がひとつひとつ立ち上がって次から次へと組立られたと想像して見給え。こんな偶然はあるはずがなく、組立てる人の手先が見えないからと行って、直ちに偶然なりと早合点できない訳であって、かえって作者の智慧と能力とを驚嘆するであろう。さらにもう一歩進んで、暗箱、感板、レンズなどが粉々の破片となって床に雑然としいると仮定してみる。こんな破片の中からそれぞれ必要品を探し出して、各部分品を造り上げ、立派なカメラが

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出来上がった場合、やはり偶然のせいなりとしてよいであろうか。確かに前の場合よりも幾倍も勝れた作者の智慧と能力とが必要であることが解るであろう。

さて、ここにもう一つの仮定を許して頂きたい。机の上に何かしら塵埃がうづ高くなっているとする。今その粉末の一つが動き出して、他を糾合して2倍となり、4倍となってだんだん大型になって行き、しまいに内部の暗黒なケースが出来上がって行く、同時に他のものが同じようにして、数学的に正確な曲面を持ったレンズが出来上がりながら、そしてケースの中に坐り込む。いつの間にか感板も出来上がり、焦点距離器も、シャッターも組立っているという。何と面白い仮定であろう。このような仮定を、常識を持つ人ならば誰でも否定するであろう。一粒の塵に増大することも、何かの形になることも、またその一つ一つが立派な機械になることをも、可能になし得る何者かがあるならいざ知らずという理由で反対するであろう。

では何が事実かと言うと、今行を追うているわれわれの眼、これが断固としてこの事実を強調して少しも譲らないのである。眼は物質の一分子から始まり、見えない作者によってこの分子が幾百万倍加され、まったく異なった眼球、網膜、水晶体とそれを支配する筋肉、また瞳孔に造り上げられたのである。その他のことは言わずもがなである。この隠れた作者こそは、われわれの想像もつかない智能の所有者でなくて何者

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であり得よう。

--人間の眼の作者は神である--

人間の眼の創造者は霊的な存在である。霊の事柄に関して一言するならば、不可視であって理性を有っているものが霊的実在であって、彼には不可能ということがない。こういう存在をわれわれは神、または天主と言うのである。

--神の智慧とその能力--

1、人間の眼が一片の物質から出来ていることはすでに述べた。ところが人体を構成している、筋肉、血液、骨、四肢、内臓諸器官等についても同様なことが言えるのである。人体は生きた細胞から始まり、それが倍加作用をもって各部を造りながら全体を完成する。細胞は顕微鏡的存在ではあるが、人工のどんな精密機械もとうてい及ばない、不思議なものであると科学者は口を揃えて教えている。

時計の動きについては説明しようと思えばそのカラクリの始めから終わりまで解き明かすことができよう。しかし、有機細胞がどういう風に働くのかを説明することはまったくできないと言われている。

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なぜならそれを造った者の計画が人間の予測を許さぬほど深遠だからである。この種の不思議は単に細胞の働く状態に止まるものではなくて、その働きから生ずる結果についても同様である。ちょうど、一粒の種子から幹、枝、葉が茂り出し、花、果実ができるのと同様に、人間の驚くべき能力、視覚、聴覚、その他の感覚はこれ皆細胞の働きなのである。機械の精巧緻密は作者の偉大な叡智と能力とを物語る。しからば何物にも比較され得ない細胞の作者については何を言うべきであろう。

人間に巧妙な機械を作らせ、科学と芸術にその妙を嘆ぜしめる人間の能力を可能にするのは細胞である。その細胞の発展に顕われる能力は実に叡智を見るに等しいと言われている。

2、われわれはある特定の例を挙げて自然界に顕われた秩序から神の存在の立証を試みたのであるが可視界におけるいかなるものからも同様に神の存在は確証し得ることを特記する必要があると思う

われわれが散歩の途上何気なく踏みつけて行く一塊の小石も、手に取ってその結晶を科学的に調べる人があるとすれば、そこには勝れた創造者の叡智の意匠を感ぜずにはいられない。

さる人が、神の存在を否定せよと迫られたとき、彼は停止して黙然と足もとから一本の藁を拾い上げてこう言った。「友よ、もしも世の中にこの一本の藁より外に自明の理が何もないとしても、わが輩は神の在すという真理を否定する訳には行かぬ」と。

p.43

まことに、風に吹かれながら、なよやかな茎が最小限の質量をもって稔った穂を支えている不思議なすがたを想えば、忘れられている一本の藁も創造主の叡智を強調してやまないという意味なのであろう。

--自然界における法則よりの証明--

自然界における一切は法に随がっている。自然科学の根底となるものは、一切が法に支配されているという真理なのである。

1、まず無機物の世界を眺めると、天文学においてニウトン、ケプラーの法則が示すように、天体はまったく機械的不変の法則に支配されていて、一見変則的に思われる日蝕、彗星の回帰等は確実に予測されるほどである。物理学の世界においても同様、音、熱、光線、電流その他は悉く一定法則の支配下にあるから、数学的にその結果を前もって算出できるのである。化学においては、所定の法則に随がって確定されている吸引力、親和力、化合の法則によって、物体は法則通りに化合するのである。その他の科学のいずれの分野においても、同様の法則は厳として守られ、いずれも、同一原因は同じ条件で常に同じ結果を産むのである。

2、有機物の世界においても同様である。一切の有機物は栄養、生長、生殖における特定の法則を有

p.43

っている。植物、動物、人間はいずれも単有機細胞から生長するのであって、人間にあっては、生きた細胞が幾万倍となく倍加して、人体の複雑な諸器官を造り出しているのである。すべての生物は一様に病気を克服する力を裡に蔵している。学者に下等動物と言われているものの世界では、同種属の個々は、食物の追求、生命保持、子孫繁栄というような事柄に関してはまったく一律の自然傾向--有利な嗜好と習性--有っている。すなわち、真、善、美を追求する精神的欲求に駆られて、科学を産み、道徳の花を咲かせ、文学、芸術の殿堂をうちたてる、人間精神は、その行動において、思惟の法則という一定法則に随がっているのであり、これは、ちょうど、一粒の種が地に落ちて生長の法則に随がい、茎を生じ葉をつけ、花を咲かすのと同じに見ることができようと思う。

3、有機物は無機物の法則にも支配され、同時に保護を受ける。

生物一般には無機物的な法則がある。すなわち、栄養作用、生育その他は化学の法則と一致して営まれて行くし、重力、エネルギーの法則は無機物界におけると同様、有機物界をも支配するのである。例えば木は太陽の熱を吸引するが、枯れてもやされると、今度はその熱を放射する。有機物は無機物的な法則の保護を受ける。例えば地球と太陽との間を引力がとりもって、一切の有機物に必要なまた適当な光線と

p.45

熱を供給してくれる。空気はその78%の窒素、21%の酸素を含有し、各々はまた0,04の炭酸と僅少のアンモニア、その他の要素、それから常に増減する水蒸気を含んでいる。窒素だけでは人間が窒息してしまうし、酸素だけでは燃え上がってしまう。炭酸ガスがなければ植物の生命が保たれない。植物は酸素をはき出して炭酸ガスを呼吸するのに反して、動物は酸素を吸って炭酸ガスを吐き出す。こうしてお互いに生命を保護し合っているのである。

大洋から蒸発した水は雲を起こし、その雲は高峰につきあたって雨となり、井戸に水を供給し渓流となっては緑土を潤す。物体は気温が降ると収縮するが、水は気温が摂氏4度以下になると膨張する。そので氷は水より軽く、冬期沼沢が凍っても、伝導性の法則によって水底から全部氷り上ることなく、メダカはおかげで助かるわけである。

4、以上述べた事柄を総合すれば、万象は法に支配されていてどこにも秩序があるという結論が間違いないということが証拠立てられる。

--自然界における法則は、偶然、あるいは盲目的な原因、換言すれば単なる偶発現象の結果ではない--

偶然が法を産むかもしれないと考えている人があるとしたら、これは大変な間違いなのである。元来

p.46

法則と偶然とは対照的なもので互いに相容れない立場に置かれている。法則は一定不変というのがその本来の相であるに反して、偶然は変転するのがその特徴である。

四本の棒をめくらめっぽうに空に投げ上げたとすると、四本の棒きれは何百回に一度くらいなら地面に四角形を画き出すかもしれない。しかしこういう偶然はきわめてまれであって、言うまでもなく、百回投げて百回とも同じ形を作ることはない。

最後の場合が法則であって、法の根本を教えるものである。

もしも偶然がこんな簡単な法則すら産み出すことができないとすれば、どうして現在宇宙を支配しているような複雑な法則、動植物の繁殖を導く規定、生物の発育と生殖を支配する法なるものを、産み出し得よう。わけても、動物の本能に見られる、蜂の労働、鳥の作巣作業、または人間の理智の法則のごとき、これらすべて偶然の結果なりという論を支持することはまったく望み得ないと言わざるを得ない。

--自然界における法則は立法者の所為である--

1、以上われわれは自然界における法則をどうしても偶然の所産に帰着させ得ないことを述べた。そしてその名が自然であろうと偶然であろうと、非理性的原因に求め得ないことをも立証したつもりである。

p.47

つまり、法は万象から独立したある偉大なる叡智にのみその原因を求めねばならなくなる。端的に言うならば、法はあるすばらしい立法者によって定められたというのが当面の結論である。しかも、国家がある目的のために法律を制定すると同様、宇宙の立法者も自己の望む目的のために、自ら法を定めるのであるし、またそれゆえこの法則は意志より出でたものであって、立法者の計画、あるいは意匠の具現である。

2、以下二三の例をもって、自然界の法則樹立に、智的立法者がどうしても必要であることを見ようと思う。

水と燃料との動力で活動する蒸気機関の構成には特種な設計才能と熟練した技術が必要である。しかし、大地の懐から鉄鋼を産み出す作者があるとすれば、その作者の叡智と能力とは比較にならぬほど偉大なあるものであるはずである。鉄を熔解し、適当の硬度を保たせるのも、またその鉄でエンジンを作るのも、またそのエンジンを用いて水を貯えたり、石炭を掘ったりするのも、また故障が起こると、それを直すのも、偉大な智慧と能力とを必要とする。しかしこういうことは生物の器官の中では極く普通の出来事なのである。機械製作者に智能が必要であるように、生命のない自然力を誘導して驚嘆すべき結果を生むためには、いかに勝れた叡智が要求されることであろう。一般に下等動物と言われている動物の世界に現れる不思議な秩序には一種畏敬の念すら起こさせられることがある。これらの動物中には一定の目的に向かって倦まずたゆま

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ず立派な技術をもって困難な作業を遂行しているものが多い。これはまた変わった昆虫で学名をアンモフィラ・ヒルスタ(アラメヂガバチ)とうヂガバチの一種があるが、この蜂は後に幼虫の餌食となる毛虫を殺してしまわず、運動中枢を刺してまったく麻痺させてしまう。それからその幼虫の側に置き、さてていねいに全体に土をかけて置く、この種の蜂は専門家もびっくりするほど巧妙に大きい毛虫の九つの神経を外科医的正確さをもって刺す大仕事をやってのける。

この大仕事を彼は教えられもせず、また自分で実験することもなく体得しているのである。なぜなら「アラメヂガバチ」の生きているのは一季節に過ぎないので、幼虫が孵った時は、すでに親蜂は死んでいることになる。それで親蜂から教えられることは不可能である。「アラメヂガバチ」の巧妙な業は遺伝によるものでもあり得ない。この場合、遺伝とは何を意味するかと言えば、虫の先祖のあるものが偶然にも毛虫の九つか十の中枢神経をうまい具合に刺して虫を麻痺させた。そしてこの偶然の成功を子孫に伝えたということになるのである。しかし他のあらゆる偶然行為をよそに、この一偶然行為のみが種属全体の習性をつくったと言うのはまったく愚にもつかぬことではないであろうか。毛虫を刺す場所は非常に広いのであるから、九つの中枢神経を刺すチャンスというものは、いわばゼロに等しいと見ねばならないのである。

では、この不可思議な行為--不思議なまで巧妙な技術は--蜂の理智によって得られたのであるかと言

うに、これまた不可能なことなのである。まず理性の力は、もしそれがあったとしても、それだけでは行為に巧妙さを与え得ない。同種の蜂がまったく同じ方法をもって働くところから推して考えても、一匹一匹がそれぞれの思考力によって得た作業でないのは明らかである。一方こういう一事にたけた昆虫ではあるがちょっとした障害に遭うと、それを征服し得ず同じことを何度も繰り返すのを見ても、自分で発見した仕事ではないと見きわめをつけるより外はない。こういう巧妙な外科医的行為は蜂自身の発案したものではなく必然的に、まさに動物の本能と言われるものであり、神がその巧妙な技術を与え、蜂は無意識に神の計画を遂行していると見るわれわれの主張が確実である証拠となろう。

人類といえども自然の所産ととしてこれを見るならば、蜂、あるいは花のそれと何ら選ぶところがない。歴史に現れた文化、科学、芸術に見られる幾世紀にもわたる労作及び建設は、いずれも自然の法則に従って始めて成就し得たという意味で、蜂の蜜窩、あるいはバラの芳香と相通ずると見られるであろう。

今仮に、これらの自然法則が、智的存在者の計画でないとすれば、人間それ自身はもちろん、人間の営む偉大な仕事が皆、盲目的な非生命的な原因から生まれたと言わなければならなくなり、最も非合理的な非科学的な結論に到達するであろう。(2004/05/10)

p.50

--律法者は神である--

彫刻家は自分の彫った彫像ではない。というのは、すべて物の充足原因が常に結果外の存在でなければならないということである。万象に法則を与えた立法者があれば、それは万象並びに万象の法則以外の存在であるべきなのである。

昔から名だたる学者が、生涯を賭して研究した結果、かろうじて自然法則の一つ二つを発見し得たに過ぎない。しからばかかる一切の法の主権者はいかに驚くべき叡智と能力を所有する存在であろうか。

かかる存在は自由意志を持っていなければならぬ。でなければ、人間の有する自由意志の説明ができなくなるし、なぜ自然の法則が今あるごとくであって他の様式ではないのかがどうしても解らない。

すなわち叡智の存在がおのが望むっまに自由に選んだのでなければ説明がつかない。こういう完全性を有する存在をわれわれは神と言うのである。

II

--運動よりの証明--

p.51

可視界における実在は悉く運動の存在を立証している。ところがいかなるものもそれ自身の力では動かない。必ず自己以外のものからの助けを必要とする。今、推論を容易にするために、万象を有機物と無機物との二つに分けて考えて見ることにしよう。

無機物は他から力が加えられなければ決して運動しない。子どもたちの大好きな遊びに用いられるオハジキは指の力で弾かれるし、空中に投げられたボールは地球の引力で落下する。汽船はエンジンの力で航海する。それで、動いている無機物を見れば量の大小を問わず、われわれはその物以外の力で動いていることを認めなければならない。

では有機物の領域ではどうかと言えば、これも同じく他からの援助なしには動かないのである。生物は自分の力で動いているではないか、と異議を申し立てる人があるかも知れないがそれは早計と言うものである。植物であっても動物であっても、必ず栄養が必要であってこの栄養こそエネルギーのもとであり、栄養がなければ生物の命が絶たれてしまうのである。生命、あるいは生命の本源は物質微粒子の運動のごときものではない。生命はエネルギーではなくてエネルギーを駆使するものなのである。植物、動物の生存中に有するエネルギーの総量は、--その死滅の瞬間に保有しているものをも含めて--すべて外界から獲得したエネルギーの総和とまさに同量なり、とされている。そしてそれがいかに浪費されようとも

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いつもその総量は等しい。生命、あるいは生命の本源は外界からの刺激を受けなければ決して自ら動にうつることはない。一例を挙げると、地に落ちた種は発育に必要なある諸条件、すなわち適当の温度と湿気とが与えられない限り、決して生長し始めない。しかしわれわれ人間の自由意志はどうであろう。自ら動くではないかと一応考えられる。しかし、自由意志といえども他からの干渉なしには決して動にうつることはない。意志の働きというのは二者の中いずれかを選ぶにあるのだから、その選択の対象となるものを智性が提供してくれなければ意志は選択という動的態度に出ることができないのである。智性にしても同じことで感覚が外界から材料を集めてくれなければ思想を把握することができないし、人間の感官はまた外界からの刺激を受けなければ、常に受動的状態に止まるのである。

--宇宙を超越した何者かによって与えられない限り、宇宙には運動があり得ない--

宇宙には自ら動くことができる性質のものは何一つなく、また一切のものが動くためには他からの援助が必要である以上、運動を与えた存在が宇宙の万象以外に存在しなければならないという結論が自ら誘導されるのである。仮に今絶対服従を誓う五人の子どもがいて、五人ながら他から話しかけられない限り絶対に話さないという約束で一室に閉じ込められたとする。するとこの室には室外から誰かが話しかけない限り、いつまでも沈黙が続くであろう。宇宙における運動も、これと同じ理由で、宇宙以外のある存在から動かされない限り、絶対に運動を起こさないのである。

われわれは宇宙というものを、今日われわれの知っている宇宙と同様に、常に生物も無生物も、非常に多く存在していたものであると考えたがる。しかし自然科学の教えるところによれば、大昔の地球は、回転する火の球であり、太陽のまわりを回転していた。地球には生物というものが皆無であったのである。それはともあれ、ではその地球の運動はいかにして起こったか。科学者はそれを説明して、太陽から受けた力によると教える。すなわち太陽が旋回運動をしている中に、いくつかの断片をほうり出した、これらの破片が星であり、地球であるという、ではその太陽の旋回運動はいかにして起こったか、というと、一説では、太陽がかつて属していた天体が分裂作用を起こしたとき、その運動を受けたのであると言い、また他の説では、二個の星が衝突して太陽を作り出す時に起こったと説明する。しかし天体の分裂といい、星の衝突といい、いずれにしても、運動の原因は何かという問題の中心にふれてはいない。宇宙は運動する物によって形成されている。では何者がこういう運動を与えたのであろう。虚心に論を進めてゆくならばどうしても次の結論に到達する外はない。宇宙に運動を与えた者は、宇宙外に存在し、宇宙の部分ではない存在であ

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って、別な言葉で言うならば、第一原因と称する存在である。

--運動の第一原因は神である--

もしも最初に運動を与えた存在もその運動を他の存在から受けたものとすれば、第一のものは第二のものから、第二のものは第三のものからという風に無限に遡るだけであって、運動の原因という問題は依然としてそのまま残されるであろう。

ちょうど、時計の指針が歯車の作用で動き、その歯車が第二の歯車の力で動き、第三、第四の歯車と歯車の数を無数に重ねて行っても、それだけでは絶対に針は動かず、結局問題は解決されはしない。運動の第一原因は静止物体の総和ではないのである。もしも、宇宙に運動を与えた存在が、その運動を他の何者から受けたとすれば、それは第一原因ではあり得ない。彼は非物質的存在で、霊であらねばならない。彼は人間のごとく、肉体に束縛されない。もし物質に支配されるならば、彼の知識は外的な刺激に依存することになり、かくて第一原因たり得ない。彼はその智識においても始めがなく、全智の存在なので

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彼は実に彼自身、運動の原因であり、霊であって宇宙の支配者であり、神である。

[註] 神においては知性と知性の対象とは一つである。すなわち神における知性は神の本質であり、その対象も神の本質なのであって、神は自己の完全認識によって被造物の完全な認識を具有する。この意味が明らかになれば、神の智慧には始めがなく永遠であるという理由がおのづから明瞭になるであろう。

III

--因果律よりの証明--

個物といわず、その変化といわずまたは出来事であっても、それと直接ないしは間接に帰着させねばならない第一原因の存在に到達して始めて、万象の唯一完全な説明を得ることになるという事実をこれから調べてみよう。

ここに何か手近かなものをとって「イ」とし、「イ」の存在理由を探してみることにする。すると直ちに「イ」の存在原因が「ロ」であること、「ロ」はまた「ハ」の結果であり、「ハ」は「ニ」から出ていることが分かる。「ニ」が仮に最終原因と見られるものであるとしてもこれまた他のものの結果であるとするならば、未だ「イ」に関する完全な説明を得てはいないのであって、その存在が他のものから引き出されないところの原因、結

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果でない最終原因に到達してこそ、始めてわれわれの心に満足が与えられるのである。他の結果ではない最終原因を第一原因と名づけるとすれば、こういう存在は自己の存在を他の何者からも受けず、独立絶対の有であるべきことが解決されるであろう。ところがちょっと考え方を変えると次にような場合も考慮され得るかもしれない。

それは「イ」が「ロ」の結果であり、「ロ」が「ハ」の結果事実であることは前同様であっても今度は「ハ」がまた「イ」の結果であるという、いわゆる循環過程にある場合であるが、これとて理論的に追求してゆけば簡単に真理を把み得るであろう。

1、もしも「イ」の原因が「ロ」であり、「ロ」の原因が「ハ」であるならば、結局「イ」の原因が「ハ」であることに間違いはない。--間接ではあるが--。であるから、「イ」の原因が「ハ」であるとすれば「イ」は「ハ」の原因であることができない。

2、もし、「ロ」が「イ」の原因であるとすれば「ロ」は「イ」以前に存在しなければならず、「ハ」が「ロ」の原因であるとすれば「ハ」は「ロ」よりさきに存在しなければならない。つまり、「ハ」は「イ」以前にすでに存在しているのであるから「イ」は「ハ」の原因ではあり得ない。

以上述べた因果律の関係は虚心これを眺める人々を必然的に、自己の原因を持たない第一原因へと導

p.57

びいてくれる。原因を持っていない存在、それは、他からの力によって存在し始めたのではなく、悠久に存在する自立絶対の存在なのである。こういう存在は、それ自体の充足原因であるばかりではなく、他のいかなる相対的存在をも完全に説明するのである。

さて、可視界におけるあらゆる存在は、自分がなぜに存在するのかという疑問を発せずにすむ物はないという事実から推して、これに説明を与える原因、すなわち絶対的存在は本質上万象から区別され、万象を超越し、悠久なる実在であるということになろう。

可視界における個物は必ず存在の説明を要し、直接にそうでなければ終極的に第一原因の裡にそれを見出す外はない状態にある。万象を総合して全体的に眺めても、存在の充足原因を有していないのであるから、やはり存在理由の説明が要求される。すなわち一切は自己充足的ではなく、それ自体万物の完全な説明とはなり得ないのである。

宇確かに多くの構成要素からなり立っているが、その中の一つ--これをXとする--の行動はX自体の性質と他から加えられた影響とによって説明できるであろう。また第二の要素Yも同様の方法で説明し得られるし、その他のいずれのものについても同じ方法で説明され得るであろう。しかし、これだけでは十分ではない。なぜかと言えばまず、構成要素Xが存在するのはなぜか、またなぜZ、K等々がXに

p.58

働きかけたか、そしてなぜ他の多くのものがそれに影響しないのかなどは解かれてはいない。かくのごとく、宇宙全体を総合的に考えてみても個物の場合と等しく、何ら十分な理由を裡に蔵していないばかりでなく、宇宙以外に自然界を超越した存在、すなわち裡に存在の充足原因を有し、しかも他の一切の充足原因となる第一原因をしきりに要求して措かないことが分かる。

こういう存在は、万有秩序の主権者であって人間の知性と意志の創造者であるから、自己の裡に限りなき知性と意志とを有していなければならない。常に原因は結果の完全な説明的存在であるから。

[註] 物理的原因、すなわちその作用がわれわれの感官で把握できるような原因は決してその結果に対する充足理由とはならない。例えばこの印刷物の原因を探してみると、その物理的原因は活字、インク、紙の吸収性、職工の指先、目などであるが、こういう原因はこのページがなぜ印刷されたかを説明していない。真実の原因というものは物理的なものの中にはなく印刷者の自由意志にある。

以上の考察をわれわれの周囲に起こる運動に当てはめてみると、物理学者は機関車の動くのはピストンの力であると言い、ピストンの力を蒸気の膨張に求め、蒸気の膨張力を石炭から生ずる熱によって、また圧搾された植物に他ならぬ石炭のエネルギーに、石炭のエネルギーを太陽の熱と光とに、太陽の熱と光をか

p.59

つて太陽が属していたという星雲に求める。こうして物理現象をいくら長々と並べてみても結局問題が解決されていないことを認めない訳には行かない。星雲の運動は機関車の運動と同様にその説明を要求しているのである。

[註] ウァードは「有神論哲学」という著書の中で、この問題を面白く取り扱っている。彼はピアノの中に閉じこめられた二十日ネズミを想像する。このネズミはなかなかの哲学者である。ネズミは楽の音が悉く弦の振動によるものだという一大発見をする。そして弦の振動はハンマーを打つことによって起きるということも知る。そこで、ネズミ曰く。「私はやっと私の研究を完成した」と。哲学者ネズミは、いとも愉快げに語る。「私には、スッカリ明白になった。音というものは外部から受ける力によって出るものではない。定まった法則の型通りの作用によって出るものだ。この法則は智慧あるネズミによって探求されなければならなかった。私はこの探求に一生をささげたのだ。」このネズミは同族の古い信仰を打破したと思っている。またピアノ弾きなぞ、いないのだと思いこんでしまったのである。云々

こういう理由が明らかになれば、以上なみなみならぬ忍耐をもって、物理現象の説明を、宇宙とは別個な全能なる存在の「意志」の中に求めた理由が釈然として来ると思う。

p.60

IV

--万物における従属的現象よりの証明--

(偶有性よりの証明)

--偶有と必然とは相容れない関係にある--

「天気晴朗なり」。「全体はその部分より大なり」という二つの命題をその例にとってみれば、前者は偶有的、あるいは相対的な真理であるのに反して、後者は絶対的真理である。わかりやすく説明すると、天気晴朗なりが真であるためには、種々な条件が必要であって、空に太陽の光線を遮るものがないことがまず要求される。従って、今真であっても一分後にはそれがどう変わるかわからないし、以前に真でなかった時もあったろうが、今は真であるかもしれない。しかし常に真理ではあり得ない。それに反して、全体はその部分より大なり、という命題が真であるためには、外的などんな条件をも必要としない。常に真なのである。これを絶対的真理または必然的真理と言う。さて、この概念が明らかになったなら今度は存在一般に考察を移して考えてみよう。

真理に偶有的真理と必然的真理とがあるように存在にもこの二つがある。ある物が絶対的存在であるか、

p.61

偶有的存在であるかを調べるには前述の概念をそれに当てはめてみれば自然明らかになると思う。すなわち、ある物が必然的存在であるためには、それが必ず存在しなければならない本質をもっていなければならない。そして偶有的存在とは、存在する必然性のないもの、つまり、その存在が、他の何物かに依存しているものを指している。

では必然的存在というものが実際あるであろうかという問題が起こってくるのであるが、以下それを考えてみよう。

--万象は悉く偶有と的な存在である--

もし、今は存在するが、かつては存在しなかったものがあるとすれば、それは確かに必然的存在ではない。すなわち、自己の裡に存在する力を持っていないのだから偶有的存在なのである。すべて存在し始めたものは他の力によって存在するという鉄則を思い出して頂きたい。こういう存在はわれわれの周囲にいくらでも見出すことができる。植物にせよ、動物にせよ、人間にいたるまで、いずれも存在しなかった過去を持っている。これら一切は他の何者かによって存在せしめられたことは疑いない。無機物の領域においても同じことであって、万象は極まりない変転を続け、新しいものが生まれ、また滅亡して他がこれに代わるという

p.62

有様である。

[註] われわれの地球のことだけを、例に上げて考えてみよう。1、陸と海との割合は、われわれには気がつかないけれども常に変化しつつある。2、地球の旋回運動はごく徐々にではあるが、おそくなりつつある。それは月の引力によって起こされる潮汐による摩擦のためであるとされ、百年間に約千分の一秒の割で一日の長さが延びている。3、また太陽の周りを回転する地球の公転運動は、流星の屑とかたまりとの摩擦によって、次第に遅くなりつつある。そのため地球は常に太陽の方へ引きつけられているのである。ゆえに長年月の間には非常に大きな変化となるのである。

自然科学の教えるところによれば、われわれが、今住んでいる地球は、灼熱した一巨塊あるいは雲状がす体からの長い変化過程における一時代であると見ることができると言う。生成と滅亡という言葉の存在を始める、または存在が終わるという風に広義に考えるならば、それは生物も無生物をも共に支配する鉄則なのである。こう見てくると世界には存在という一事に関して完全な鍵を自己の裡に保持しているものはないという結論に到達しなければならない。従ってわれわれの手に触れ眼に見るものは皆、偶有的な存在なりということが明瞭になるのである。そしてまたこういう偶有的存在は、必然的に存在するのではなく、そのうけた存在を、必然的に持続しなければならないというのでもない。

p.63

--偶有的存在の説明には、どうしても必然的絶対的存在を肯定しなければならない--

前述のごとく、現今宇宙に在るものはいずれも偶有的な存在であって、時間的にいかに過去に遡ってみても偶有的な存在ばかりである。その結果はどうなるであろうか。結論は、自ら存在して他に存在を与える、必然的存在、絶対の存在を肯定しない限り、現今宇宙に存在する一切を完全に説明し得ないということになる。この結論を認めない限り、世界を支えているのは象であり、象を背負っているのは亀で、亀を支えているのは無であると力説するインディアンの愚昧を笑う資格がないことになる。

--必然的存在は神である--

一切の偶有的存在が、最後にその存在の依存を求めなければならない存在は必然的絶対的存在でなければならない。

こういう存在は自立的でしかも存在しないことができない実在すなわち神である。

注意1、神の存在の立証のためには少なくとも何か一つの依存物、あるいは偶有物があれば十分なのであって、こういう存在から自立絶対、すなわち神の存在を確実に証明できるのである。

p.64

注意2、宇宙における運動の法則、因果律、従属性法則からの立証は非常に相似しているかに思われるのであるが、事実これらは、神なる至上存在のそれぞれの観念をわれわれに与えてくれるのである。

運動よりの立証においては、神が他より動かされざるものなりとの観念を与え、
因果律よりの立証においては、他の存在するものの結果的存在ではないこと。
偶有性からの立証では、神が必然、絶対的存在であって他からその存在を受けたのはないという観念を与える。

以上の外に神の存在に関する証明はまだいろいろある。例えば宇宙美の完全に根拠する美学からの証明、良心の声に土台をおく人間道徳からの論証、または神に関する人類全般の普遍なる信念からの立証等がそれである。

質疑、応答

質疑1。--人生における災難、自然界における欠陥は神の叡智に反するのではないか。--

神の御業に欠陥があるという考えは、神の御計画の不完全性から、それが生ずるのではなくて、われわれが神の御計画を完全に知り得ないことから生ずるのであるということをまず注意しなければならない。

われわれが万物を司り給う神の御計画をすべて認識し得るものと考えるならば、それはとんでもない間違いである。神

p.65

の御摂理はわれわれに常に明白ではない。

A.われわれは往々にして人生における雑多な事件の中に神の叡智の閃きを見出し得ないばかりではなく、かえって悲惨な面を感じ過ぎる。そして人はなぜかくも多くの災難がこの世になければならないのか、困苦が多いのであろうかと考える。しかし、もしもこういういわゆる、困苦も災禍もまったくないとすれば、高尚な哀憐の情も犠牲の精神も、人間の高貴な情操も皆無となってしまうであろう。ともあれこの問題を完全に理解し得るためには天啓の教示を必要とする。天啓は人類の堕落とその結果とをわれわれに明示してくれる。(信仰の部、第7章を見られよ)

B.また、自然界に現れる浪費に驚いて、なぜこういう不必要なものが世の中には多いのだろうと思うことがある。有害無益な蠅どもを何ゆえに神が造り給うたのであろうかと。

この点について、昔の聖人が「もし中世紀に棲息していたラビリントドンがものを言うことができたなら、彼らはおびただしいシダの繁茂にまかせ給う神の摂理について強硬な抗議を申し込んだに相違ない。ところがこれら繁りに繁った植物があったればこそ、現在人間は石炭という有り難い燃料を頂いている。小鳥のひなが巣立つ前に死んでしまうことがあっても、この幸いな死骸はずいぶん種々な善を残すものである。例えば、小さな虫を沢山養うし、また植物の得がたい肥料となる。こうして成長した植物はまた他の動物の養いとなる。バクテリアは、無機物を虫やその他の生物の餌食となるものに変え、これら動植物はさらに高等な動植物、人間の福祉に資することは周知の事実である。どんなことが起ころうとも、第一原因の意図するところが決して狂うことのないように、自然界というものはまったくよく出来ているのだ」と。

p.66

Nature and thought: St. George Mirvart.

われわれの論証の真理性を主張する上に、目に映ずる一切の事物における神の意匠を証明する必要は毛頭ないであろう。これ以上神の計画がすべての点において完全であるということを証明する必要はさらにないと思う。完全であろうと不完全であろうと、計画があるという事実は計画者の存在を強調していることに何ら疑うところがないのである。手機織りはその機構がいかに不完全であろうとも設計者を予想する点においては、蒸気で動く織機と何ら異なるところがないからである。

質疑2。--自然の法則は物質それ自体に内在する盲目的な力に帰すべきであはないか。--

こういう物の考え方は唯物進化論に見られるのであるが、まずこれらの人々が支持する論旨を明らかに述べる必要がある。

この説に従えば、物質以外にはいかなるものも存在せず、また存在しなかった。ここに言う物質とは広がりをもっていて感覚把握の対象となるものを指すのであるが、これら物質以外には何物も存在しなかったと主張するのである。

また世界はかつて灼熱のガス体であったので、こういう天体の分子に化学的な力と物理的な力が内在していて作用と反作用を起こすことによって漸次多様の物体を造り出し、現今見るような有機物や無機物の世界を産んだ。それゆえ、生物なるものも所詮精巧なる時計以上の何物でもなく、思想、意志のごときも物質の運動に過ぎないというので

p.67

ある。

[註] カトリック者はいずれも唯物史観が天啓に背反することはよく承知のはずである。ここではそれが理論の上からも理性に相反することを指摘するのである。

こういう仮説はそのままこれを見逃すわけにはゆかない。われわれがすでに見た論証中にも一応は取り上げられてはいるが、さらにその一つ一つを吟味するならば、論拠の不合理とその矛盾がいっそう明らかとなるであろう。

ものにはすべて、そのものの充足原因があるということは前にも述べておいたが、結果を生ぜしめた一切の原因はその結果を生ぜしめる能力を完全に、裡に有していなければならない。こういう原理の前には唯物進化論者の主張は瓦解してしまわねばならない。彼らの主張する宇宙の完全なる説明なりとなす原因は、それを詮じつめれば、ミレーの名画が絵筆と色具の結果なりと主張するのと何ら選ぶところがない。

賢明な読者は、現今世界に存在する生物、無生物とその秩序正しい体系が旋回していた灼熱の巨塊から進化したいうのは余りにもとっぴであると気づかないではいまい。物理現象あるいは物質が秩序を産み出すと言うことは宇宙の神秘の説明としてはとにかく不合理極まるということをわれわれはすでに検討してきた。原始天体の分子相互間の化学的あるいは物理的な作用、反作用が、世界を造り出すことはもちろん、生物と無生物、感覚的存在と非感覚的存在、また理性的存在と非理性的存在との明瞭な区別をいかにしてつくり得たのであろうか。生命は物質のたくみな結合からは生じては来ないし、思考、意志の働きは物質の運動ではあり得ない。主要な点をそれぞれ考察して見ると、

p.68

A、唯物論を支持する人々は生物が無生物から出て来ると簡単にかたづけているが、この一事すらうけとり難い。生命は生命よりという原則は現代外科施療における偉大な役割を演じているではないか。すなわち、細菌が患部に附着しない施療をすれば、そこは絶対に化膿しないという事実は何のためであろうか。

生物学が進歩するにつれて、支持され難いこういう仮説の真相がますます明らかになって来ている。しかも唯物論に関しては科学の分野から次々と不利な立証が提出されているのである。例えば有機細胞については随分深い研究が進められているが、それによるとかかる一分子、あるいは原子の働きというものはわれわれが知る最も精巧な機械とも本質的に異なった機構を持っていることが知られている。

B、仮に、生物と無生物間の大きな間隙に橋わたしができたとしても、感覚を有するものとしからざるもの、理性的存在と非理性的存在との間の深い溝をどう埋めつくしたならばよいであろうか。この問題は第二項において詳細に見るはずであるが、精神は物質と本質的に異なっているので一様にぬりつぶすことは決して許されないのである。

人間の霊魂は真美の観念からしても、正邪の判断力から見ても、物質的なものとはまったく異なった何物かであることは否みがたい事実であって、物の堆積は思考能力を産み出すことができないし、またその能力を自己の内面に発酵させることもできない。一言にしていえば物質と精神との間に介在する間隙は、どうすることもできないほどの大きな障害となるのである。

C、人間には自己意識がある。すなわち自己自身の行為、存在、自己以外の一切から独立しているという不動の観念を持っているのである。自己意識は人が物を知り、外界の認識を始めるのと同時に働き出すのである。そしてまた、この

p.69

意識はまったく各人固有のものであって、われわれが存在する以前には存在しなかったものである。それゆえ各々の自己意識が灼熱ガス体の震動中に、われわれが存在しなかった遠い過去に、それがどんな方法で存在したかは知らないが、ともかくある形式でわれわれと結び合わされていたというがごときは、どうみても正当な論とは言われない。

知的第一原因を認めることを嫌うところから、ヘッケルその他少数の科学者たちは理性の声に耳を閉じて、一切の物質は感覚と意志を有し、生命をも共に有するという空想へと堕ちて行ったのである。

[註] ヘッケルの著書「宇宙の謎」を見て科学者たちは、彼自身がその論説に確信を持っていたか否かをさえ疑っている。

ヘッケルが以上のごとき自分の論説に少しも積極的な証明を与えていないのは言うまでもないが、仮に彼の説を認めたとしても、宇宙進化の完全な説明たり得ない。彼が原始的物質に賦与している意志なるものは彼自身の主張によれば物質における「緊張を逃避する傾向」にすぎないとされ、感覚というものも、最も薄弱な力、あるいは発育不完全な感覚能力以上の何ものでもないのである。かかる意志ならざる意志、われわれの知る限りにおける最下等の感覚能力にも劣る感覚は、それ自体の力ではいかにしても現今一切の人間が意識している自由意志の説明とはならず、いわんや、偉大なる知性の成果並びに宇宙秩序の根拠を説明し得るであろうか。他からの援助なしに、自分よりすぐれたものを産み出すことは不可能であるということは、常識でもわかることであり、また哲学の動かすべからざる原則である。より優れた何ものかの支持がなければ、生命は生命を持たないものから出て来ることはできない。同様に非感覚的存在は感覚

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的な存在を産み出し得ないし、理性的存在は非理性的存在から生まれることがないのである。物理学者は宇宙が相互に密接に組合わされていて各部分が相互に助け合っているという。ではヘッケルの説に従って、宇宙の秩序を完全に説明するには、宇宙の各分子が全体の計画を理解する能力をもち、またそれ自身の構成中における役割と変動常なき他の各部分を悉く理解し、その上相互に協力してゆく意欲がなければならないことになる。こう推理して来ると、判然と主張した人があるか否かは知らないが、宇宙の各分子が神となってしまうであろう。結局数えきれない異論が出て、人間の良心と常識のいずれにも満足を与え得ない。

とまれ以上の説の骨子となるものを抽出してみよう。現在の進歩した科学者が精魂を傾けつくしても理解し得ない不可思議な過程によって、まず無機物に最初の生命が忽然として生じた。しかもこの不思議な生物が自己繁殖力を得、出所不明の法則の下に進化力を獲得して漸次高い生物へと進みに進み遂には人間にまで達した。であるから詩人、哲学者、科学者なども、また彼らの遺した労作も、共に地球の土地から発生したものであって、法則のない偶然というもののおかげで、高度の知性にまで到達したのであるということになる。こういう機械的あるいは唯物的進化論はその後一段と検討され途方もない議論なりといわれるに至った。

この説は19世紀の末葉にティンダルが高称して、非カトリック側の学者間には物質の問題を解決するものとして随分喧伝されたのであるが、今日ではそこに踏み越え難い困難があることが一般に認められ、遂に放棄されるようになった。

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仮に原始星雲から人間に至るまでの進化過程が継続的に事実として説明されたとしても、知的第一原因の存在を否定するいかなる根拠ともなり得ない。そればかりではなく一粒の種子から厖大な森林が出来上がる過程をつぶさに見極め得たと同様に宇宙の規則正しい、継続的な発展が説述し得られたとすれば、その時こそ、かえって計画者の存在、秩序の主催者、完成者の存在に関する論拠が必然的にまたより強く肯定されなければならないことになるのである。宇宙に現れる意匠が複雑多岐であればあるほど、またその秩序の相互関連が密接であればあるほど、計画者の存在がより明白になってくるのである。

原始天体なりとされている星雲にしてもこれをそのまま出発点とすることは許されまい。

仮に唯物的進化論が宇宙をあますところなく説明し得るということを認めても、原始物質は、そも何であったろうか。その運動、物理的、化学的法則、一定した分子の数、各分子相互の配置、その各々がもっている性能なるものをいったいどう説明したらよいのであろうか。その原始物質は、自分では何をも提供し得ないのであるから、どうしても計画者、立法者、第一原因の存在を要求するのである。

原始天体の運動が直線的であったか、はたまた曲線的であったかは知る由もないがともかくある一定の方向を持っていたに違いない。とすれば、それはなぜにこの方向であって他の方向ではなかったのか。その方向がある原因によって定められたものでなければならぬと理性は主張して止まない。原始天体の進化に与って力があったと仮想されている物理的、化学的法則は一定状態あるいは体系をもっていたのだが、なぜ他の体系をとらずに、この体系を造り出したの

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か。また物質が一定の結合法則に従っていたという事実はさらにその原因の説明を要求しているではないか。以上の考察はたしかに立法者の決定意向を指摘しているものでなくて何であろう。唯物進化論をそのまま受け取って見ると、原始天体は実に不可思議極まるもので、現在われわれを驚かす森羅万象を悉く、いわば萌芽の状態でその中に有していたという、まったく特異な存在であった。こういう特異な天体は一定の分子量と、一定の排列とを有していた。しかし特定の分子量でなければならないという絶対必然性がある訳でもなく、各分子の特異な排列も絶対的なものではなかったのである。今その天体の一分子あるいは最微粒子の一つを抽出して見ると、それはそれ自身についても、他の分子との関係についても何ら十分な説明をしてくれない。

この分子が現在占めている自分の位置をどうして得たか、またなぜ自分の周囲の分子が、もっと違った位置にないのか、こういう疑問が百出しても十分な解答は得られまい。その他の分子にしても同様のことが言われる。また原始天体を形成する分子の数にしても、実際にあるごとくであってなぜ他のまったく異なった数ではなかったか。

かように観察してみると原始天体といえども、決してそれ自体の説明をしていないことが明白となる。すなわち、自分自身絶対必然存在でないのであるから、自分以外の何者かに、その充足原因を求めなければならない。かくして、われわれはまたもや「他に原因を有せざる原因、宇宙の計画者、絶対的存在」へと帰りつくのである。

[註] 物理学の教えるエネルギー散逸の法則は第一原因を指摘する。熱現象は一般に不可逆的である。そしてこれに伴って、エネルギーは常に熱平衡の状態に向かわんとするものである。かつ、物体や電気の運動において、エネル

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ギーの一部が絶えず熱に変わることは避け難い事実である。ゆえにエネルギーの総量は不変であっても、常に最後の平衡状態に向かうゆえ、現象の起こる機会は少なくなるのである。ゆえにエネルギーの利用価値は減ずる、これをエネルギー散逸の法則という。

物理学の根底をなす二つの法則を挙げると、

1、宇宙におけるエネルギーの総量は不変である。

2、一定の熱となって散逸したエネルギーは有効な仕事をなし得ない。

物理学を学んだ者ならば、仕事をする時に用いられたエネルギーの一部分は一定の発散熱となって現れることを知っている。そして、この発散熱に変わったエネルギーの総量は次第に増加して行くのである。そしてついには、エネルギーによって有効な仕事がまったくなされなくなる時、宇宙は巨大な残骸の塊となるのである。ゆえに宇宙のエネルギーの総量が不変であっても、仕事に利用し得る量は次第に減少しつつあるのである。宇宙は静止状態、あるいは平衡状態に向かっている。そして、いつの日にかすべての仕事、すべての生存は不可能となるであろう。漸次、減少しつつある宇宙の価値あるエネルギーは明らかに有限であり、始めがあり、そして最後の時へ向かって減少しつつあるのである。「宇宙は火の点いているローソクに喩えられる。ともされたローソクは永遠の昔から点火されているものではないことをわれわれは確信し得る。そしてそれが燃え終わる時が来なければならない」(ケルヴィン卿)かくて宇宙は過去のどの点かで、神という、外的力によって動き始めたのである。

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第II項 理性によって知られ得る神の性質について

この項で読者は純粋理性の力だけで神の性質を探求することになる。人間理性の力というものは神の本質というような事柄に関してはおはなしにならないほど、微弱な光しか提供してくれない。理性の光が提供してくれる真理の諸相はまた、幾何学の命題のように、冷たい形式的なものに過ぎない。そして、それは神が与え給うかがやかしい啓示には比すべくもない。後章において詳しく見るのであるが、神は自身に関して自ら人類に啓示をもって覆いを除き、人類の視野に永遠に秘められたおのが完全性を顕わし給うた。神の無限と全能とは人々に畏敬の心を起こさしめると共に、おのが独り子を肉となし給うがごとき人類に対する深甚なる愛の秘義は、われわれをあくまで神への愛のとりことせずには措かない。

ベトレヘムとカルワリオとその中間に横たわる一切は、哲学的思索が与え得るものよりさらに深く、さらに価値ある神に関する知識をわれわれに与えるのである。

--神の単一性--

神は単一であって複合体ではなく、部分から構成されている存在ではない。すべて複合体は原因を予想

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する。第一原因にはいかなる原因もない。

--神の霊性--

神は物質であることができない。物質はすべて部分の結合である。神は拡がりを有していない。とは言え、あくまでも能動的でしかも知的存在であることは肯定されなねばならない。それは一切の物質、人間の霊魂の第一原因であるところから必然的に帰結される結論である。五官にふれず(拡がりを持たず)智慧を有する存在を霊と言うのであるから神は霊であることが分かる。

--神の無限性--

神は無限の存在である。すなわち一切の完全性を裡に有するという意味で神は無限であると言うのである。

世に彫刻家の才能をはかるに素材と作品との比較をもってするのは普通である。

素材と作品との距離が大きければ大きいほど、彫刻家の才能が偉大なりとされる。

では、神的彫刻家なる神は何を素材となし給うか。無である。神の創造し給う以前、神自身以外には何物も存在していなかった。無と有との距たりは無限である。無限の距たりある存在を造り出した神の行為は無限の行為であって無限の存在にして始めて可能なのである。

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われわれは「美しい」という形容詞を随分種々なものにつかう。美しいながめ、美しい彫像、美しい音楽と言うが、いずれの場合でも特に注意すべき二点がある。それはまず、われわれが普通美しいものと言うそれらはいつかその美を失うことがあるというのがその一つである。風光の美は地の変形によって損なわれ得るし、彫像の美といっても決して永久的なものではない。

第二の点は、すべて美しいものは、美そのものの一部を借用しているに止まる。あるいは美そのものの影、あるいは限定された美に過ぎない。例えば大変美しい景色があってもその美は風景に属する美であって、音楽における美ではない。もしも「美そのもの」あるいは「美それ自体」が存在するならば、表現はギコチないが永遠の美であるに違いない。そしてまた美それ自体は、美に属し得るあらゆる完全性を常に保持しているべく、美の片鱗だも失うことはない。同様に「強い」という形容詞を、人間にも動物にも無生物にも附加する。これまた美しいものについて言われたと同様、強いものどもは永久に強いのではなくて、いつかその強さを失ってしまう。換言すればある制限された強さ、あるいは強さの一部分を借用しているということになる。仮に「強さそれ自体」というものが存在するとすれば、それは毫もその強さを失うことなくまた、より劣れる強さになることもできない。「美自体」の場合とまさに等しく、「強さ自体」あるはい「能力自体」は完全なる能力を裡に有し、換言すれば「全能」の謂である。全能が存在するとすれ

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ばその能力は減少することがない。

以上、われわれは美と強さの完全性を考察したのであるが、「存在」あるいは「有」の完全性についても同様の推論を辿ることができる。

有の観念からすれば、植物は成長力を有するから無生物より高い有であり、動物は成長の外に感覚能力を具えているから植物より高く、人間は前二者能力の外に思考、自由意志を具有しているからさらに高い存在、有である。

美しいものは皆、美それ自体に参与する種々の形態であると同様、存在するものは皆、「有それ自体」に参与する様式であるということができる。人間は禽獣より、禽獣は植物より、植物は石塊より高い有を具えていることになる。とは言え、いかなるものも、「有それ自体」より高い有はあり得ない。もし、「有自体」があるとすれば、それこそ有の完成であって、完全なる意味における「存在」なのである。

前述の四つの有の形相(無生物、植物、動物、人間)はいずれも有の完成ではない。というのは、そのいずれもが有の幾分かを喪失するからであって、人間は理性を失い得るし、禽獣は感覚を、植物は成長力を失う。しからば、決してその「有」を失うことのないものがあるだろうか。ある。それはすなわち「有それ自体」である。もし「有それ自体」があるとすれば、それは美それ自体が美の完成であり、強さ

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それ自体が力の完成であるのと同様に有に属するすべての完全性を具有していなければならない。

では、完有としての「有それ自体」なるものがあるであろうかという大きな問題が残る。ここで、偶有性よりの神の存在証明における、必然的存在の一項を想起しなければならない。必然的存在はまさに「有それ自体」の別名なのであって、われわれはこれを神と称したのである。神は「有それ自体」である。

有それ自体は有に属するあらゆる完全性を具有している。有それ自体は無限である。従って神は無限である。

視角を換えて考察してみると、神が無限絶対でないとすれば、その制限は自己よりかまたは他よりかのいずれかから受けねばならない。ところが、創造以前には神以外の何物も存在しなかったのであるから、自己以外の存在に制限されるということはあり得ない。しかして、神は独立自主の存在であり、「存在の完成」であるから、自己の持ついかなるものにも制限されることはないのである。かくして神が有の完成であるという観念が明白になったであろう。

--神の唯一性--

神は無限である以上唯一でなければならない。総じて、有の完成を具有する無限の存在は唯一であっ

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て、二つはあり得ない。

もし二つの無限なる存在があるとすれば一は他の有していない何かを持っていなければ、相互に区別され得ないであろう。そしてその各々が永遠である限り、二者ともすべての「完全性」を有すべきである。同時にまた他の支配をも受けることができない。これはまったくの矛盾でその両方とも無限の存在ではなくなる。

神は有それ自体である以上唯一でなければならない。何となれば有それ自体は唯一でなければならないから。仮に二つの神が存在するとすれば、二者いずれもが有の一部分しか具有しないことになり、「有それ自体」ではなくなる。

--神の全能--

神は無限であるから全能である。一切の可能は神が為し得るゆえに可能なのである。神は自己の意志、並びに真理に背反し得ないことはもちろんである。罪が本質的に神の聖意に背反することであるのだから、神は罪を犯し得ない。また神は非合理的なることも為し得ない。例えば正方形であって同時に三角形なるものは造り得給わぬ。こういう存在はあり得ない矛盾した命題である。人間が罪を犯し、あるいは不合理なこ

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とを敢えてするのは、人間の意志と知性の不完全のゆえである。

--神の遍在と全智--

神は万有を支持しているのであるから遍在であり、その知識は無限であるゆえ全智である。

神の知識は人間におけると異なり、全然制限を知らない。唯一の知的行為によって過去、現在、未来を知り尽くし給うのである。

[註] 神の本性は確かに、全的に把握し得ない。これは取り立てて申すまでもなく、人間の本性だとてそうであるし、われわれの周囲に、介在する一切、天空の星晨より、野辺の草木に至るまで、その本性は究め難いのである。偉大な科学者ニウトンの言を引用して見ても、彼は科学する自己を「海の深さを何も知らずに、浜辺で小さな貝がらを玩ぶ子ども」に比した。
彼は学界に投じた自分の業績を認めていない訳ではないが、それとて無限に錯綜している宇宙構成の謎を解く一つ二つの鍵をみつけたに過ぎないので、残余の一切は透視することのできない暗黒の彼方にあるのを感じていたのであろう。彼の博識は彼にとってはむしろ、無知、虚無に比せられると見たのではなかろうか。ともあれ、可視界における探求が大科学者においてさえかかるたぐいなりとすれば、宇宙の創造者なる神の本質の究め難さは論をまつまでもあるまい。

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--神の完全性一般について--

1、われわれは人の完全性を表す場合、知的な人、正しい人、勇敢な人、理知に富んでいる人などと種々にこれを表現する。こうは言うもののそれは単にその人が有するある程度の完全性を褒めているのであって、完全に正義の人はいない。

ところが人間について言われるこの種の完全性を神にそのままあてはめ得るかというとそうはいかない。それらの中には、ある不完全性を予想するものがあるゆえそにままあてはめ得ないものがある。神は万有の原因を知り給うゆえに完全に叡智なりと言い得る。また、神は完全に正義にてましますと言える。

しかし、神は完全なる勇者なりとは言われない。勇は危険を予想し、危険はある弱点を前提とし、また生命を脅かす何かがあることを示すからである。また、神は完全に論理的なりとも言い得ない。論理は既知より未知への推移を意味し、神にあっては未知なるものがないからである。

さて以上の観察から、人間道徳に見られる完全性なるものには、絶対的な意味の完全性と相対的な意味の完全性の二種あるということが解って来たと思う。前者は裡にいかなる不完全性をも予想していないに反して後者は何らかの相において不完全性を前提としている。

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神は絶対的完全性をその本質の相(formaliter)にこれを有している。しかし相対的完全性は単に超絶的(eminenter)に、すなわち、神はそれら完全性の原因であり、神自身は完全なる存在なるがゆえに、こういう完全性を超越しているという意味で言われるわけである。

2、不可知論者は、以上われわれが述べてきた神の完全性は単に擬人的に、すなわち、人間における完全性の模倣に過ぎないと言う。

けれども、こういう考えは確かに当たってはいない。われわれが神に認める完全性は決して人間における完全性の模倣でえはない。神における完全性は被造物のそれよりも無限に高度のものである。また、被造物にあっては、智慧、善、正義等はいずれも別々な性質のものであるが、神においては、--われわれには理解し得ないほどに--それらすべてが同一であって神の本質、または本性と同じなのである。

第III項 無神論

われわれがここで無神論者と言うのは、究極的存在、あるいは万有の第一原因を否定するゆえではなく--かかる無神論者は皆無と言ってよい--人格的神、すなわち智慧と自由意志とを具えた神、人間の行為を正しく賞罰し給う神を否定する人々を指すのである。

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どんな時代にも偉大なる人物はいずれも人格的神存在への偽らざる信念を有していたという事実はこういう信念が単に文明程度の低級な、または無知無能の人々の信仰であるというある種の人々の偏見を完全に封鎖すると思う。人格的神への信仰は人類大半の信念であった。ソクラテス、プラトンのごとく、近世に非常に大きな貢献をなした古代哲学者、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニウトン、ヘルシェルのごとき天文学者の確信であった。また、ベルゼリウス、デュマ、リービッヒ、ダルトンのごとき科学者のそれであり、現代生理学の創始者シュワン、物理学者たち、オーム、アンペア、ヴォルター、マクスウェルその他の人々の所信であった。同時に細菌学に一生面を開いて学界を新展せしめたパストールの信仰でもあったのである。

ここには単に数名を列挙するに止めるが、各時代における偉大な政治家、芸術家、詩聖、教育家中にこれを求めたならば厖大な数にのぼることは疑いない。とは言え、無神論を標榜する者の数も決して少なしとはしない。

無神論を標榜する人々は主に、人格的神への信仰が自己の放縦なる欲望に対して甚だ厄介な存在となることを知っている人々の間に見られるが、そうでなければ、科学研究者で、専門の仕事に、熱中するあまり、自分の研究の材料となり、または研究に関係あるもの以外は、精神的、道徳的な事柄をすべて懐疑

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するという狭隘な考えの人々に見られるようである。

無神論と言っても種々あるがその主要なものは、

--唯物論--

古代哲学者にはデモクリトス(360 BC)があり現代においては、フランスのエンチクロペディストたち、その他フォイエルバッハ、モレスコット、ヘッケル等が挙げられよう。唯物論者は物質およびその現象以外にはなにものも認めない。唯物論に関してはすでに見たはずであるからここでは詳論しない。

--汎神論--

古代哲学者中における汎神論者の巨頭はヘラクリトス、ストイック学派等であるが、近世においては、スピノーザ、フィヒテ、ヘーゲル、シェーリング等を挙げることができよう。

汎神論は唯物論とは対照的な立場にある。唯物論が物質以外の存在をまったく否定するに反して、汎神論は、精神、絶対以外には何物も存在しないとする。ゆえに汎神論者の主張によれば、宇宙の全現象および偶有的存在は悉く神性の具現であり、万物は一にして等しいとする。こういう原則から論理的に次の事柄

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が結論される。すなわち、善と悪の差がまったくなくなり、生物と無生物、理性的なものと非理性的なもの、現在、過去、未来、すべてが神と同一なりとせねばならなくなる。かかる汎神論は、人類の共通観念と相容れないものである。

このことについて、フランツ・ポッダーはその著「自然神学」の中に言っている。「猫が、今自分の食っている鼠と同じもので、また自分の恐れる犬と同じものであり、犬猫の喧嘩に水をかける御主人もまた同じものであるとは何ともお話にならぬ愚論である。死刑場に曳かれてゆく罪人と、死刑を宣告する判事と同一存在であるとは何たる愚論であろう。さらに、神を否定し、神を冒涜するのを意としない無神論者が、あにはからんや、まったく神と同一なりということが本気で考えられるだろうか」と。

簡単ながら汎神論を反駁しよう。

汎神論は神の無限なる完全性に相反している。すなわち神においてはいかなる変化もあり得ないので、それが人間理性であろうと、物質であろうと、制限された存在と同一であることはできないのである。

汎神論者の主張は人間の自己意識に符合しない。人各々は、自分自身の心を持っていることを悉知しているし、自分の周囲に存在する一切から独立した単独の自己と自分の自由意志とを意識している。もしも、これらの自己意識のどれかに人間が欺瞞されているとするならば、一切の確実性、確信はあり得

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ず、一切の判断は無駄となる。またもし、自由意志がないとすれば、その行為に対する責任がなく、従って賞罰もない。この結論は健全な常識に反するし、とるに足らぬものである。

--不可知論--

「不可知」なる語を最初に用いたのはハクスレー(+1895)である。

不可知論の主唱者スペンサー(+1903)によれば、宇宙の最後的解決は、それより万有が生じたところのある無限にして永遠なるエネルギーに見出されるべきであり、その究極の実在は人間の思考をはるかに超絶しているゆえに不可解であり、不可知であると言う。

われわれは不可知論者の言う終極存在--われわれはこれを神という--が人間思考を遙かに超絶している点、すなわち完全にその本質を把握できないとの所論には同意する。とは言え、絶対に不可知なりとの主張はこれを容れる訳にはゆかない。不可知論を標榜する人々だとて、「不可知なるもの」「不可知なるもの」と言いながら、かかる存在が、永遠にして万有の根源なるエネルギーなりと明白に主張しているのであるから、あながち絶対に不可知なりと断言できないのではないか。

こう見て来ると、われわれの主張とは単に言語の相違となるのであろうか。しかし、もしもこのエネルギ

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ーを単に物質的にまた物理的な意味に解するならば、--彼らはこの意味に解するようである--万有の根源を物質の運動に帰着せしめることになるから、唯物論のそれと選ぶところがなくなってしまう。

--無神論に関する一般的考察--

以上われわれは無神論に対して部分的に反駁を試みたのであったが、さらに無神論一般について次のような考察をこころみよう。

人間が、与えられた能力の正当な発展を遂げ得るのは、社会生活によってのみ可能であるのだから、社会は人間にとって、必然的なものであることが解る。しかも社会組織なるものは、各人が人間道徳を遵奉しなければとうてい存在し得ない。しかして人間の集団にあっては人格的神を信じ、全能、全知にして善を愛し、悪を罰し給う神を信じない限り、道徳律は遵奉され得ないであろう。それゆえ人格的神への信仰は人間本性よりの必然的な要求であり、したがって真理でなければならない。

しかし、「生活態度に申し分のない無神論者もいるではないか」と反駁するむきもあろうが、われわれは全人類における普遍の欲求を主張しているのであって、個々の人を取り上げているのではない。なるほど、道徳的に善良な無神論者もいるであろうが、彼らといえども、信仰を持てる祖先の影響を受けており、また何

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かの宗教的雰囲気の中に育った人々であるから、それらの影響を不知不識のうちに受けているに違いない。理性的にこれを見るならば、無神論は決して道徳の根本を与えず人間を破滅に導くものである。

第II章 純粋理性に認識せられる人間の霊魂

A 霊魂の霊性について

要旨生命と霊魂の意味
霊魂は感覚を通じて形而下の知識を得、理性によって形而上の知識を得る
意志の自由、人間の意志はいかに行動するか。自由意志とは何か。
人間はいかに他の低級な動物と異なっているか。人間は理性を有するがゆえに進歩する。低級な動物は理性を有していないゆえに進歩しない。人間の意志は自由であるから、その行為は多様であるが、動物には自由意志がないゆえに、その行動は常に一様である。

結論人間の霊魂は物質に隷属しないゆえに霊的である。それゆえ、人間の霊魂は、肉体と分離しても存在することができる

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--霊魂、あるいは生命の原理--

われわれは生命のあるものと生命のないものとの一般的差異を熟知している。われわれは生きているということを、種々の様式においてすなわち、成育、感覚、行動の自由とか理解、推理等によって表される種々の活動によって知るのである。植物は成長して、葉や花をつけ、動物は感覚を有し、またきままに運動する。

人間は植物のように成長し、動物のように感覚を持ち、また行動もするが、その上思考し、推理する。

植物、動物、人間、あらゆる生物は自己の裡に活動の原理を有している。この原理を、霊魂あるいは生命の原理と言う。一面識もない人物でも、その人の言行録を読めば人物の品性がよく分かると同様、直接霊魂に触れなくとも、霊魂に起因する行動を検べることによって、霊魂の性質を、よく知ることができるのである。

--霊魂と知識との関係--

感覚によって与えられる知識について。

人間は、五つの門のある都市に似ている。その門から外界に何が起こりつつあるかを、使者が知らせてくれる。五つの門とは五官であって、各々の感覚はそれぞれの特性に応じて特種な知識を受け入れる。

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人間は外界からの知識を吸収するのに、これ以外には何らの手段をも持ち合わせていない。視覚をもって色を知り、聴覚をもって音を、臭覚によって臭いを、味覚によって味を知る。そして全身の触感、特に手の触感によって物の抵抗、硬軟その他を知るのである。

眼は見る、耳は聴く器官であり、その他の感覚もそれぞれの役目を持つ器官である。

器官は皆身体の一部分である。ただ触覚のみは全身であるけれども...。そして五官は、物体である事物、すなわち、長さ、広さ、厚さを有する具体的存在によってのみ動かされる。

眼はその網膜が震動するエーテルに刺激されなければものを見ることができないし、耳は鼓膜が空気の波によって震動を受けなければ音を聴くことができない。鼻は芳香ある微粒子が積極的に臭覚を刺激しない限り、花の香りを嗅ぐことができない。また物が直接触れなければ舌で味わうこともできず、手で感ずることもできない。

--理性によって得られる知識について--

われわれ人間は感覚を通じて獲得した知識の外に、非常に豊富な知識を持っている。二三の手近な例を挙げてみると、誰でも

p.91

「正直の頭に神宿る」と言う。この正直とはどんな意味がわれわれはよく知っているけれども、決して感覚のみによって得たものではない。われわれは多くの正直者を知っている。また正直な行為に感心することがある。とはいえ、正直そのものは見たことも触れたこともなく、いかなる感覚をもってしても掴み得ないのである。

「正直」と同様に真、善、その他の抽象的な観念についても同じことが言われる。

われわれは真の話を聞いている。善人を知っている。正しい判断に感心することもある。とはいえ真、善、正義それ自身には触れることができない。同様に「人間は理性的動物なり」と言う。

われわれの接する人々は皆それぞれ異なった身の丈、顔色、人格をもっている。しかも、「人間」と言うとき、このような相違点を少しも連想することなく、万人に共通な人間を考えて「人間」と言うのである。こういう観念はいかなる感覚によっても直接把握し得ないのである。

感覚は外界の知識を誘導する。そしてわれわれの中に内在するある能力が、感覚によって提供された個物を、より高い程度にまで、すなわち感覚それ自身では決して到達し得ない程度まで引き上げる。

この能力を知性とか、理性とか精神とかいろいろ呼んでいるのであるがそれは思惟する霊魂、または理性的霊魂の異称に外ならない。

p.92

--霊魂と意志の活動の関係--

次に自由選択に関する霊魂の働きを考察してみよう。

意志が自由であるということ、すなわち自分の権限内にある事柄に関しては自由に選択し行動することができるという自覚を持っていない者はまずあるまい。何ごとかをしょうかしまいかということには、事の軽少、重大にかかわらず、いつも逢うもので、他を捨てこれを取った場合、自分が自由に行動したことを意識し、それが失敗したときなど、もっとよい方法を選ぶことができたろうにと思う。

私は今こうして書いているが止めようと思えば直ぐにも止めることができるのである。

もしも人間の意志が自由でないならば、相談とか勧告とか命令とか、復讐、罰則などはまったく意味がないわけである。国法を犯した者を国家が罰するのは、それは、ただに彼が国法を犯したからではなくて--なぜならば彼が気狂であれば国家は彼を罰しないのだから--彼がそれを犯さないこともできたにもかかわらず敢えて犯したからである。主人の言うことをきかないからといって犬を折檻している人を見かけるが、これなど人間の場合とは違って、犬の意志が自由であるからでも、また、その行為に責任があるからでもなく、感覚を通じて犬を訓練しようとしているに外ならない。

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--自由意志はいかに行動するか--

今ここに法律家になろうか、医者になろうかと思案している学生があるとしょう。彼はこの二つの職業のどちらが自分に適しているかと考える。またそれぞれの場合における準備期間を考え、立身すべき機会を想像してみる。そして充分考え抜いたあげく、いずれかに決定する。すなわち、彼は自由意志を行使するのである。それほど考慮すべき余地がない問題に関しても、その経過はほとんど同様であると言ってよい。

まず最初に熟考し、次に比較して最後によいと思う方を選択する。しかしこの選択はあくまで自由なのであって、時には不利と思われる方をも選択できるのである。

感覚が理性に仕えることはすでに述べたが、同様に理性はまた意志に仕える。ちょうど主人の前に何か持って来る召使のように、知性は意志の前に二つの利害相反するものを提供する。すると意志がその一つを選ぶのである。

利益というものは、感覚には明瞭に把握できるものとは限らない。例えば、純粋数学を専攻するよりも、むしろ天文学を学ぶ方が精神的に利益がある、というのがその例である。それで自由意志は、「知性が、善なりと提供した二者のいずれかを選ぶ能力なり」と定義できよう。すなわち少なくとも善の一面

p.94

を有するものとして選ぶのである。

注意悪い対象も善の相のもとに(Sub specie boni)、すなわち善の仮面をかぶってあらわれてくることがあると哲学者は教えている。経験からしても実際上から言っても、悪が意志の対象となり得るためにはどうしても善の面を有していなければならない。

こういう意味で悪を悪として、悪のまま選ぶ者はない。もしも客観的に悪なるものを選ぶとすれば、それは何かの意味で「善」なりと思われるものがあるからである。

一般に善と呼ばれる範囲には、単なる肉体的な快感から、天国の至福、すなわち至善なる御者を直接見奉る喜悦にいたるまでの善の総和が含まれる。ゆえに善は感覚によって把握され得ないものであるから感覚を引きつけることはできないが、知性と同様に、非物質的なものをその対象としている意志を引きつけるのである。

意志は本質的に善に引きつけられ、悪には反発する。すでに見たごとく、「善」とは幸福をもたらすとわれわれが信ずる一切のものであり、「悪」とは不幸をもたらすとわれわれが信ずる一切のものと解し得るのである。

それでもし、直接に完全、永遠の幸福が提供されたならば、そのとき意志は自由ではなく、それを拒絶することができないであろう。そのような場合、知性も他に取るべき途を探すような愚昧を敢えてしない。

p.95

この直接、完全、永遠の幸福は、来世にしか求め得られないものではあるが、われわれはこれを完全な善というのである。

現世における善なるものは悉く不完全であって、それらはいずれも悪の従僕をひきつれている。そしてこの事実のゆえにこそ、意志がそれを受け入れることも、はねつけることもできる自由を持っているのである。

仮に医者になろうと考えている青年があるとする。彼の知性は医者はよいという。なぜなら医者は利益の多い、しかも高尚な職業であるから。しかし同時に、医者になるには、ずいぶん費用もかかるし、長い準備があり、その上、職業上の困難、危険が伴うゆえに悪いともいう。この時彼の意志は善の方に引かれ、悪には反発する。意志は、この場合、無理矢理に善を受け入れさせられない。なぜなら、その善が悪と混じっているからである。また同様に無理やりに悪を退けるを余儀なくされるのでもない。なぜなら、その悪も、善と一緒になっているから。かくて意志はいずれを取るも自由なのである。

また、神の命に従うべきか否かを熟考している人があるとする。彼の知性は神の命に従順であるのはよいことであると、意志にいう。すなわち現世における霊魂の平和と、死後の完全なる幸福を提示する。しかし同時に神の命に従うことによって、彼が直面しなければならぬ悪すなわち生活の厳格、欲情の抑制などを

p.96

告げる。その他の場合においても前述の例に見られるように、彼の意志は余儀なく善を受け入れさせられるのでもなく、悪を捨てるように強制されるのでもない。意志は自由なのである。

--人間はいかに他の低級な動物と異なっているか--

人間は理性的であるが動物は非理性的、あるいは本能的である。

人間は理性を持っている。すでに知っている事柄から、新しい真理を演繹する力、あるいは既知から未知へと辿る力を持っている。

人間は絶えず知識の国境を押しひろげてゆく。またすでに存在しているものに新しい知識を加え、科学の殿堂を打ち立ててゆく。人間は用具と機械を発明し、完成して旧を去って新につく。

動物はこれに反して、ある限られた範囲に閉じ込められていて一歩も外へは出ない。蜂は今日も百年前とまったく同じである。蜘蛛はエジプト文明時代から何ら変わっていない。鳥は彼らが数百年来作ってきたと同じように今日も同じ屑やわらで巣を作る。動物仲間で、最も利口なりとされている馬や犬も、ずっと古くから人間に養われていながらも少しの進歩も示していない。動物は決して発明しない。

彼らは逃れ得ない檻の中に閉じ込められていて、いつも同じ場所に足踏みしている。これこそ動物が

p.97

理性的ではない明らかな証拠である。

[註] 昆虫学会の泰斗ファブルは種々な例を挙げて、昆虫界に見られる「知性」は昆虫自身に帰すべきものではないことを証明している。一例としてアンモフィラ・ヒルスタがあるがこれに関しては前述した。

--人間は自由である。他の低級な動物は自由ではない--

人間はその精神を無限に多様な事態に適用させ得る。そして一つの職業から他へと移ることもできる。数年前までは、労働者だった者が偉大な芸術家になった例もあり、哲学者として大成することもできる。

ところが動物はある行動のみに制限されていて、その行動は常に一つの型にはまっている。これが動物の特徴である。人間は自由意志を持ち、することなすことに多様性がある。これが人間の特徴なのである。

[註] 動物に自由意志がないことは、彼らが理性を有していないという事実から結論される。時として猟犬は二つの足跡をみとめた場合など、いずれに行くべきかを判断して決定するかに見えることがある。これは自由の証明とはならない。意志の決定をなすために要すると思われる逡巡は、二つの足跡の中どちらがより明瞭であるかがふたしかであるところから生ずるに過ぎない。要するにより強い足跡が判然しさえすれば、犬は必ずそれを追跡する。しかも犬の行為というものは必然的に他の支配を受ける。例えば人間から訓練される等。人間

p.98

はそれに反して、自由意志をもって、自らその行動を規定する。人間は自分の好みに従って、多利を捨てて少利につくこともあり得る。
犬の選択はあくまでも感覚的であり、人間の自由意志による選択とはまったく異なったものである。
種々の食物のどれかを選択する場合も、意志は知性の指図に従ってはたらく。知性はこの食物の方がうまいと教える。「うまい」という観念は「人間」という一般概念と等しく感覚だけでは把握できない概念なのである。

結論--霊魂はあくまで霊的存在である--

霊魂は活動する。しかし、その存在においても、活動においても、「拡がり」を持っていない。また存在はするが物質に依存しない。霊魂のある活動が物質とは無関係であるから霊的である。正直、真、善、人間などという一般概念や抽象概念を作る霊魂は、物質を超絶して活動すると言わなければならない。かかる概念は、感覚によっては形成され得ず非物質的な能力によってのみ形成され得るのである。もし、霊魂が物質であり、感覚のように拡がりを持っているならば、形、色、硬度などをもつ具体物の影像から一歩も超えることができないであろう。また既知の真理から未知の結論を演繹することはできず、神の知識

p.99

を得ることも、可視界の一切を越えて不可視の神を希求することもできないに違いない。

霊魂はその自由意志行使において見たごとく、自ら動き、かつ独立している。それゆえ霊的である。物質はこれに反して、その運動に関してはあくまで他の力を借りなければならない。

霊魂が肉体と結合されている間は、なるほど「知識」を抽象し得る材料を感覚から供給してもらわねばならないが、霊魂の生命とその活動に関する限り、画家が絵の具や筆を供給してくれる人に頼らないで絵を描くのと同様に、霊魂は感覚に依存しない。そして霊魂は肉体に関わらず行動し得るからこそ、肉体が亡んでも存在でき、絶えず真理を求め、善を愛し続けることができるのである。

質疑 もし脳髄が傷つけられれば、精神の活動がなくなる。ゆえに脳と精神とは一であって同体である。それで精神の行動と称するものは単なる脳の作用に過ぎない。

応答 論旨を言い換えてみると、次のようになる。もしヴァイオリンが毀れたならば、ヴァイオリニストは弾くことができない。ゆえにヴァイオリンとヴァイオリニストは一体である。それで、ヴァイオリニストの行動と称するものは単にヴァイオリンの作用に過ぎない。

脳は物質である。抽象的な理念とか推理とか自由意志などは精神的なものであるから拡がりというものを持っていない。そしてまったく物質と異なったもので、静止の場合にも、運動の場合にも、どんな状態

p.100

にあっても、物質、または物質のいかなる状態とも同一ではあり得ない。異議の結論は無意味である。人間においては、霊魂と肉体とは密接に結ばれている。あらゆる精神の行動、物質の力を超越したあらゆる行動も確かに脳の作用または活動の協力を受け、または脳の先行を必要とする。であるから、脳が甚だしく侵されるか、あるいは睡眠または仮死状態のごとく、霊魂の特種な活動がさまたげられるならば、思考が不可能となるのが自然である。しかし、だからといって思考と脳の活動とを同一となし得るであろうか。例を用いて明らかにしよう。

薄暗いガラスの角燈の中に火のついた蝋燭があると思い給え。その蝋燭は一定の明るさで燃えているのだが、われわれにはそのガラスを透して来る光しか見えない。もしもガラスが煤煙(スス)で真っ黒になっているならば光は少しも見えなくなる。蝋燭が角燈の中にあるうちは、そのもれて来る光度はガラスの透明度に左右される。しかし光は透明度と同一でないことは明らかである。

さて、霊魂は点火された蝋燭にたとえることができ、肉体は角燈に、脳はガラスに比べられよう。霊魂が肉体内にある間、霊魂は、脳が正常な状態にない限り、考えることはできないのである。

A 霊魂の不滅

p.101

結論--霊魂は不滅である--

肉体の消滅は霊魂のそれを伴わないということはすでに証明された。霊魂は肉体のように物質ではなくまた分離し得べき部分からなっていない。それゆえ、死後といえども霊魂は自分自身で消滅することはできないし、また他の被造物の作用で亡びることもできない。霊魂を亡ぼし得るのは神のみである。

完全な幸福を希求する心は、一切の人間に共通である以上、この希望は人間の本性から出てくるものでなければならず、創造者なる神によって人の心に刻印されたものに違いない。従って、神の聖意に従順な者にはこの希望が満足させられなければならない。しかしながら、この世においては真の幸福は人に得らるべきものではない。それゆえ、それが見出される来世がなければならない。

良心は善に酬い、悪を罰する最高律法者の存在を言わず語らずの中に認めている。しかし現世においては、善悪が公平に賞罰されるとはどうしても言われない。狡猾な悪人が富と地位を得ることに成功し、生涯を平穏に何の苦痛もなく終わる。これに反して、善人は骨折って働き、貧困の中に暮らし、長い苦悩の後に死んで行く。あるいは英雄的に義務を遂行して、その一生を犠牲にする。こうことはよくあることだ。ゆえに神の正義はこの不平等が賠償される未来の国がなければならぬと要求するのである。そこで死を超えた生命があるということが確かになる。

p.102

しかしながら、こういう生命が永遠に続くということが神の聖意であろうか。善人は、ある制限された期間しか幸福を与えられないのではないだろうか。または虚無へ近づくという考えによって、あきらめるだけではなかろうか。

否、その幸福は無窮につづくものでなければならない。また永遠であると知っていなければならない。そうでなければ真の幸福ではあり得ないではないか。悪人に関しては、われわれが神の尊厳と神が要求する無限の従順と神の被造物に対する慈しみとを思いめぐらすとき、また、彼ら悪人の故意の悪行、現世における恩寵の拒否を考えるならば、永遠の罰なるものが決して不当ではないことを認めない訳にはゆかない。しかし、理性による霊魂不滅の証明、特に悪人の運命に関しては、天啓の援助なしに純理性のみでは満足に解くことができないということを忘れてはならないのである。

[註] もし、罪人の意志が、あくまでも神の憎悪にとらわれていることと、その霊魂を虚無にすることが神のなし得ない不動の結論であるという事実を理解するならば、罪人が永遠の呵責に逢うという教義の理解もさほど、困難ではないと思う。
そしてこの真理を完全に理解したならば神が一つの霊魂を亡ぼすということが、ある意味において、神御自身を損なうことになることも自然に解って来ると思う。

p.103

第III章 自然宗教と天啓の可能性について

要旨
I、自然宗教とは何か、理性のみによって見出され得るその義務。人間には次のごとき義務が神より負わされている。

A、個人並びに、社会的な立場から神に対して。
B、自己に対する。
C、隣人に対する。

II、自然宗教に関する適格明瞭な知識は、事実上、天啓なしには得られない

III、神の善と憐憫とは、われわれに天啓が必要であることを啓示し給う

I

--自然宗教とは何か、個人的並びに社会的義務について--

自然宗教というのは、純理性の光のみによって確認され得る人間義務の総括である。

[註] 自然宗教に対して、超自然宗教があるが、それは、天啓によって規定された人間義務の総括であると定義される。自然宗教は純理性によって把握される神への崇敬道であり、超自然宗教は、天啓によって示された神

p.104

への崇敬道である。

すでに考察してきた数々の真理から、人間が神に対し、自己自身に対し、隣人に対して、種々の義務を負うていることを明瞭に知ることができる。

A、個人としての神に対する義務

個人としてこれを考えるならば、神が最も卓越した存在であることを認め、われわれの全存在とその持続は一瞬間毎に神に負うていることを悟り、あらゆる能力、権力、活動力を神に享け、神の扶助なしには何事も不可能であることが判る。そしてまた、正と不正との直感、善良な生活は幸福をもたらすという確固たる希望も、神に負うているのを知るのである。であるから、一言にして言えば、人間は自己の無力と、神に対する全的従属を悟ると同時に、神の絶対卓越を識り、神をおのが創造主、保持者、真の支配者と認めねばならない。また、人間には神に感謝し、恩恵の与え主、慈悲の主として、神に祈願し、一切の完全性のみなもととして神を賞讃し、また神を辱め奉った過去を想い、篤き痛恨を示さなければならない。要するにわれわれは礼拝という最大の供物を神に捧ぐべき義務を負うているのである。

--社会人として神に対する義務--

p.105

社会とは、共同目的のために共同の権威の下に結合された個人の集団である。

[註] 詳しくは第8章、教会を見られよ。

家庭は人間の生活には必然的なもので、国家は家庭の健全なる発展にぜひともなくてはならないものである。立派に統一された国家においてのみ人間文化のあらゆる発展が可能であって、その人民は労働の分担によって、より適切に国民生活に必要な物とそのもたらす善とを確保でき、また親しい交わりと、相互の教訓によって情操のこまやかな発展を促すことができるのであろう。かくのごとく、一般人間社会というものは、それが家庭から成り立っているにせよ、また国家から成り立っているにせよ、人類に必須なものである。それゆえにこそ当然社会は神の制定せられたものであると結論できる。社会は確かに神の被造物で、神より保持され、また社会が受ける恩恵もすべて神に負うているのである。社会はその統治権を通じて、考え、行動するのであるから、人間個人と同様、社会は神に対するおのが義務を識り、その責務を果たすべきなのである。

[註] 単に世俗的利益という点から見ても国家は国民に敬神の思想をふき込まねばならない。なぜかと言えば、宗

p.106

教的訓育の根底が欠けているならば、国家がその繁栄のために不可欠の条件とされている正義、共同権への忠誠を永続的に保持し得ないからである。

神への崇敬は、個人の場合はもちろん、社会としても、必然的に外部的な可視的様式を取らねばならない。それで天与の本能に従って礼拝のために鄭重な場所を設け、特別な儀式、典礼と司祭職を選定すべきである。

B、自己自身に対する人間の義務

われわれ人間には、生命というかけがえのない賜と種々の能力とが賦与されている。自然の法則によってこれらは有効に用いらるべきもので決して乱用されてはならないものである。従って人間は自己の生命に関しては常に慎重で、精神的にも、肉体的にも節制これつとめ、勤勉、潔白でなければならない。

C、隣人に対する義務

社会的生活なるものが人間に必須であり、また誠実、正義、主権に対する忠誠なしには存続し得ないゆえに、これら道徳、ないしはこれに類する道徳なるものは人間本性よりの要請であり、天与の命令でまるということが解る。

p.107

II

--自然宗教の完全明瞭なる知識は事実上純理性によっては到達し得ない--

天啓の扶助なしにかかる知識を獲得しようとするのは事実において誤りである。天啓の援助を借りなければ、自然宗教の完全な知識は実際において得られないのである。その明らかな証拠として天啓を知らない異教民族、昔時の賢哲の失敗にこれを窺知することができる。古来いくたの民族が興亡しているうちに、ユデア民族以外のものはいずれも甚だしい誤謬にうちのめされている。

彼らの信じていた神は多種多様で、それらの神々は相互に仇敵の間柄であったり、山賊虚言者の守護神であったり、時には一切の罪悪の神であったり、またその神々に公然と不道徳な祭典が捧げられたりしている。

こういう神々を信ずる人々は、善と悪との確固たる思想標準を持っていない。

そこには来世の状態についての一般的、また漠然とした信仰はあった。しかし文化の進んだ国民、殊にギリシャ人の間においてさえ善人が享け得る来世の幸福は現世のそれよりも幸福ではないという観念が優先的であったし、一方文明程度の低い民族は、死後終りない法のくびきとを想像していたの

p.108

であった。今日でも異教の国における宗教道徳一般の特徴を研究してみると、ほぼ同様の結論を得るようである。プラトンは彼の理想国において妻の共有、虚弱児、奇形児の殺戮を認めていたし、彼の高弟アリストテレスは、多くの科学を体系化した碩学ではあったが、幼児の生命保護に関しては師と等しくきわめて弛緩した見解をとっている。彼は神殿内に淫蕩な神像を安置、公開することを許し、人格の尊厳さについては何ら確固たる信念を持っていなかったようである。奴隷を普通人以下と考え、駄馬と等しくこれを遇した。ローマのストイック学派はユデア教の神感書の影響を受けたとされているが、その諸説は他に比して高尚、潔白なる点は賞揚されてよいと思う。とはいえ、学派の先駆者セネカは自殺の正当を強調している。また同学派の最後の、そして最も代表的人物、マルクス・アウレリウスは晩年の著作の中で自殺行為の善悪についてはずいぶん去就に迷っていたらしく、時には肯定し、またある時には否定している。

いずれにせよ、純理性による自然宗教の知識発見は、人類社会にとって、いかにも微々たる力に過ぎない。人間本性それ自身の要求に従って、人々は神の存在を識り、至上主権者とそれに対する責務を見出し得るであろう。しかし、自然宗教の教えるその他の真理、律法、神の唯一性と、唯一神に献げられるに相応しい崇敬、神に対する人間の義務、自己と隣人に負うている義務等はすべて、例外的な人々あるいは特異な天才でしかも余暇のある人にのみ到達し得られるものと見られるほど、非常に困難な問題なの

p.109

である。

仮に実際史上に現れなかった一つの仮定をこころみてみよう。

前述したようなある偉人がいて、自然宗教のおける一切の真理を究め、その生涯を同志の教育に献げつくした。そして彼の論説を反駁し得る者がいないと仮定する。

しかし実際に立派に成功したと見られても、権威を欠いているという点で失敗してしまうであろう。なぜなら罪悪に引きづられて負ける人間は、「かかる事柄は自分と同様間違い得る人間が規定したことなのだ。彼の推理は絶対不謬でもあるまい。彼の言うことは誤りであるに違いない」と言うごとき権威に対する不信を残し得るからである。

III

--天啓の可能性--

天啓とは神が人間に直接真理を分与し給うことである。ここに天啓は可能なりということを証明する必要はないと思う。相互に思想を頒ち合う能力を人間に賦与し給うた神は、人間に必要な真理を直接与え

p.110

得るのは当然であるから。しかし、はたして神が天啓をたれ給うたか否かは自ら異なってはいるが、これとて前述のごとく自然宗教の知識や、また人間霊魂の不滅に直面した場合のいとも哀れな人間の状態から推して、神が啓示を与え給うに違いないということは考えられる。

神の善と無量の慈悲は人類救済のために救世主の来るべきこと、何者も否定し得ない真理の言葉を彼自身語り、人間の自然的な義務を明らかにし、霊魂の不滅、死後の審判について確証を与えるであろう事実をわれわれに確信せしめる。

[註] ソクラテスは彼の死期が迫った時、病床において霊魂不滅に反対する友人たちの種々の質問疑問を説得せんとして、やさしい同情ある言葉をもって、ギリシャ排他主義を忘れること、真理探究のためにはギリシャ民族の中にばかりではなく、ギリシャ人特有の傲慢な文化の外に存在する他の民族の文化にもそれを求めなければならないとさとした。弟子の一人シミヤスは、師の言葉をうけて、「彼ら友人たちは何か神の言葉、また信頼するに足る天の啓示を待ったならば、かかる問題を解決し得るかも知れない」と言ったという。それはあたかも慈悲の主が、後世、ソクラテスの流れを汲む人々が一般に軽視していたユデア民族から、不謬の教会が誕生し、彼らの恩師の念願の達成を見るための準備に、かかる思想の飛躍を喚起し給うたものとも見るべきであろうか。(Plato, Phaedo 78 A 850)

[第I編 終り](2004/05/11)

(以下続く)

作成日:2004年05月08日

最終更新日:2004年05月14日

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