アウグスティ−ヌスの『教師論』

三上 茂


 アウグスティ−ヌスの『教師論』1)は389年、彼がタガステに滞在中に息子のアデオダートゥスとの対話をもとにして書いた1巻14章46節からなる小篇である。しかし、小篇とはいえ、この対話篇は、その影響によって後にボナヴェントゥ−ラが『すべてのものの唯一の教師キリスト』2)という説教を書き、トマス・アクィナスが『真理論』の中で同名の『教師論』3)を書くことになった重要な著作である。

 以下の小論においては、まずこの対話篇の議論の進展を辿って、アウグスティ−ヌスが対話を進めていく際に持っていた意図を明らかにし、採用した方法の教育的な意味を探りたい4)。そして次に、『教師論』における主題ともいうべき「内的教師」説、「内的照明」説について若干の考察を加えたい。

I.『教師論』における教育的な意図と方法

 対話はなんの前置きもなく、すぐ話ないし語ること(loqui)の目的がなんであるかということから始まる。アデオダートゥスの答えは、それは「教えることか学ぶことかのいずれか」(aut docere aut discere)だというものである。アウグスティ−ヌスはすぐさま、「学ぶこと」は「質問すること」 (interrogare)を介しており、「質問すること」は自分の質問したいことを相手に「教える」のだから、「学ぶこと」は「教えること」の一種に還元できるという。語ることの唯一の目的が教えることだとすれば、歌の場合はどうか。その反論に対して、アウグスティ−ヌスは歌における「リズム」(modulatio)と「ことば」(uerba)を区別し、ことばには「想起させること」(commemoratio)という役割があるという(1節)。

 語ることの目的は「教えるためか想起させるためかのいずれか」(aut docendi aut commemorandi causa)である。しかし、アデオダートゥスは祈りの例を挙げて、われわれが神に教えたり、想起させたりすることはありえないと主張する。議論の末確認されたことは、祈りのことばは神に向けられるのではなくて、人々に向けられるということである5)。アウグスティ−ヌスは、キリストが弟子たちに祈ることを教えたとき、ことばを教えたのだということに注意を促すが、アデオダートゥスは、キリストが弟子たちにことばによって教えたのは、ことばではなくて、事柄それ自体である6)と正しく答えている。アウグスティ−ヌスの適切な示唆と質問によって、アデオダートゥスは彼自身の力で「ことば」と「事物・事柄」(res)の区別にすでに気付いているのである。アウグスティ−ヌスはこのことに関連して、われわれが精神の内奥において語る(nos intus apud animum loqui)7)ことも、ことばがそれの記号(signa)であるところの事柄それ自体を想起させる役割を果たすのだということを付け加えている(2節)。

 以上、1,2節で語ることの目的が教えることと想起させることであるということが確認された後、以下3節から30節まで、ことば、記号について長い議論が重ねられ、やがて「記号なしにはなにも教えられない」(nihil sine signis doceri)8)という結論に到達する。

 ことばは記号であり(uerba signa esse)9)、記号はなにかあるもの(aliquid)を表す。したがってことばは事物・事柄の記号であるという定義をアウグスティ−ヌスはウェルギリウスの詩句の中の三つのことばに即してアデオダートゥスに検討させる。"si"(もし~ならば)と"nihil"(なにも~ない)に関して、アデオダートゥスはそれらが表しているものを見出すことができない(3節)。

 "ex"(~から)については、彼はそれを"de"(~から)に言いかえる。しかしながら、問題はいずれもそれらが表示している事柄・事物を示すことにあるのである10)(4節)。

 そこで問題は記号なしに示しうるものがあるかということに移る。まず、例えば、壁は指で指し示しながら、ことばを用いずに示すことができる11)。手近にある物体的事物(corpora)、もっと正確には、可視的事物(visibilia)12)がそうである。さらに、聾唖の人々やパントマイム俳優は身振りによって(gestu)いわば会話することができる(5節)。

 しかし、指で指し示すことも身振りも記号である13)。では歩くこと(ambulare)はどうか。そこで、一般に、行為している最中にその行為について問われる場合には、記号によらないではその行為を示すことはできないが、質問のすぐ後で行為できることについては、その行為によって、記号を用いずに、それを示すことができるといえる14)。ただし、語ること、教えることは、その行為の最中でも行為によってそれを示すことができるから例外である16)(6節)。

 以上の議論を整理して、アウグスティ−ヌスは三つの区分(tripertita distributio)16)を提示する。すなわち、1)記号が記号によって示される場合、2)事柄が質問の後にそれを行為することによって示される場合、3)事柄が、それによって注意が向けられる記号を与えることによって示される場合の三つである17)。1)の記号が記号によって示される場合をもう少し詳しく見ると、イ)ことばによってことばが指し示される場合と、ロ)ことばによってことば以外の他の記号(例えば身振りや文字)が指し示される場合があることがわかる(7節)。

 1)のロ)について簡単に言及されて、議論はすぐに1)のイ)の検討に入る。この8節から18節までは「名詞」(nomen)、「ことば」(uerbum)、「名辞」(uocabulum)、「名詞」(onoma)などのことばの相互関係が論じられる。「名詞」はロムルス、ローマ、河、徳のような「聴きうる記号の聴きうる記号」である18)(8節)。

 しかし、また「名詞」はことばであるからことばは名詞の記号である19)。名詞とことばの関係は馬と動物の関係に等しい20)(9節)。

 それが他の記号を表示している記号のなかには、同時にそれ自身をも表示する記号がある。例えば記号は他の記号を表示すると同時にそれ自身をも表示している。ことばについても、名詞についてもそのことが妥当する21)。それに対して、「接続詞」はそれ自身名詞であるが、それが表示するものは名詞ではない(10節)。

 さらに、お互いに他を指示し合う記号がある。例えば、名詞とことばはいずれもことばであると同時にいずれも名詞であるから、葬儀に指示し合う記号である22)。アウグスティ−ヌスは、それゆえ、ことばである記号の中に他のものを表示すると同時に自分自身を表示するものとお互いに他を表示する相互的なものという二種類の特異な記号がある点に注意を喚起しているのである。しかし、アデオダートゥスは、名詞−ことば、馬−動物に認められた比例関係を思い出して異議を唱える(11節)。

 アウグスティ−ヌスは、ことばと名詞については、語源的に、ことばが「打つ」(uerberare)ことに、名詞が「知る」(noscere)ことに由来するゆえに、異なった意味をもつことを除けば、すべてのことばは名詞であるという関係をもつことを、以下四つの点から論証する(12節)。

 1)いくつかの接続詞、例えば、「そして」(et)、「また」(que)、「しかし」(at)、「そのうえ」(atque)について、「これらのものはすべて」(haec omnia)と言いうるから、すなわち、代名詞によって一括できるからそれらの接続詞は名詞である(13節)。

 2)パウロの句「『然り』がキリストのうちにあった」('est' in illo erat)における「然り」は「然り」と呼ばれるもの、「然り」と名付けられるものに他ならず、名付けられるものは名詞である(14節)。

 3)権威を離れて推論によっても、すべての品詞について、それらが名付けられ、呼ばれるものであるかぎり、名詞であると論証できる(15節)。

 4)命題は名詞と動詞とによって構成され、動詞が三人称のとき名詞の格は主格となる。ところが、あらゆる品詞は、それが命題の主格になりうるから、名詞である(16節)。

 名詞と名辞(uocabulum)は相互に指示し合う(sese inuicem significare)記号である。ただし、名辞は、他の品詞を含まない八品詞のうちの一つとしての特別な意味での名詞と相互に指示し合うのではなくて、一般的な意味での名称(nomen)と相互に指示し合う(17節)。

 ラテン語のnomen(名詞)とギリシャ語のonoma(名詞)は音の区別以外にはなんの相違もなく、それら自身を相互に指示し合う完全な例である(18節)。

 アウグスティ−ヌスにこれまでの議論の要約を求められて、アデオダートゥスは明らかになった点を正確、かつ簡潔に述べる(19,20節)。ここでアウグスティ−ヌスは要約させることによって、アデオダートゥスが内容をどのように、どこまで理解しているか、こみいった論理の筋をどの程度まで整理して辿れるか、記憶の力によってどれだけ正確に、理解したことを想起できるか等の点を知ろうとしている。彼の意図はそれゆえにまさに教育的だということができる。この要約は精神の緊張を和らげる休憩の意味も含んでいようが、議論の一段落した中間点だと見倣すことはできない。

 アウグスティ−ヌスは言語に関する議論が「遊びのためでなく、精神の力と鋭敏さを訓練するため」23)であることを理解させようとする(21節)。

 対話が続けられ、今度は7節で区分された三つの事例の第三、すなわち、表示されうるもの(significabilia)を表示する記号について論じられる。「人間は人間であるか」24)というアウグスティ−ヌスの問いに対して、アデオダートゥスは、その問いは「音節の面から」25)と、「意味の面から」26)の両方によって答えうるという。しかし、そのとき、彼はこの問いの「人間」だけについて両方の意味から考えており、「~は~であるか」についてはそれをただ意味の面からだけ受け取っている。というのは、さもなければ、彼はそもそも答えるべきだとは考えないであろうから。したがって、「ことばによって表示されるものの側面からでなければ、質問に答えるべきではない」27)のである(22節および23節前半)。

 話す人の口からライオンが跳び出してくるという冗談は、アデオダートゥスによって、「話す人の口から出てくるものは、表示されているものではなくて、それによってそのものが表示されているところの記号である」28)という論拠によって正当に拒けられる(23節後半)。

 人間は名詞であるかという問いに対しては、その問われている意図に応じて、名詞であると答えうるが、端的に人間とは何かと問われるならば、「記号を聞けば注意力が直ちにその記号によって表示されている事物へ向かうという言語の自然的規則に従って」29)、われわれは、人間は動物である、もっと正確には、死すべき理性的動物であると答える(24節)。

 表示されている事物は記号よりも価値がある。なぜなら、記号はそれによって表示される事物のために存在するからである。アデオダートゥスはこれに対して、汚物という名詞はこの名詞によって表示される事物よりもすぐれていると反論する(25節)。

 アウグスティ−ヌスは汚物の知識(cognitio caeni)はその名詞よりもすぐれているということを、記号が知識のために存在するという論拠によって主張する。そのようにして、食べるために生きるのでなくて、生きるために食べるべきであるのと同じように、語るために教えるのでなくて、教えるために語るべきであるから、教えることは語ることより価値があり、語ることはことばより価値がある。それゆえに教育(doctrina)はことばよりもはるかにすぐれている(26節)。

 事物の知識の方が記号の知識よりもすぐれているということについて、アデオダートゥスは同意をしぶる。名詞が事物より時としてすぐれていることがあるとすれば、なぜ名詞の知識が事物の知識よりもすぐれていていけないのかというのである(27節)。

 アウグスティ−ヌスはペルシウスの悪徳についての詩句を取りあげて、悪徳という名詞の知識は悪徳そのものの知識よりも価値が低いと主張する。いずれにしても、事物の知識が記号そのものよりもすぐれているということで十分である(28節)。

 三つの区分の第二の場合、すなわち、それ自身によって示される事柄について検討される。「質問された後にすぐに行うことができることは記号によらずに示される」30)かということをよく吟味してみれば、語ることと教えることを除いては、記号なしに教えられるものはなにもないことがわかる。なぜなら、例えば歩くこととは私が相手に教えるために歩いてみせる距離だけ歩くことではないからである(29節)。

 例外とされた語ることと教えることについて考えてみれば、語ることと教えることは別の事柄であり、教えることと表示する(significare)ことも別の事柄である。「われわれは教えるために表示する」31)。そして、教えることがなんであるかは表示することによって教えられる。語ることも他のことと同時に自己自身を表示するが、それ自身も記号である(30節)。

 それゆえに、「記号によらずに教えられるものはなにもない」32)。ここで、これまでに見出されてきたことを要約した後に、アウグスティ−ヌスは、これらの結論がもはや疑いえないものかどうかという重大な疑問を提出する(31節)。記号によらずにはなにも教えられないという結論は以下の議論の中でまさに180度転回してしまうことになる。

 鳥刺師は記号を用いずに、行為そのものによって自分の技術を観察者に示すことができる。アデオダートゥスは、「歩くこと」を記号によらずに示す場合に生じた困難がこの場合にも起こるのではないかと考えるが、アウグスティ−ヌスは「もし観察者が彼の見ているものからこの種の技術の全体を推論するほどに聡明であるならば」33)という条件によってこの困難は回避されるという。この段階では、「ある人々がある事柄について記号によらずに教えられうる」34)ということで十分である(32節)。

 記号が与えられる場合に、それがどの事物の記号かを知らなければ、その記号は私になにも教えないし、またその事物を知っていれば、その記号によって私はなにも学ばないから、結局「その記号によって学ばれるものはなにもない」35)のである。アウグスティ−ヌスは「サラバラ」(sarabarae)の例を挙げて、「サラバラ」という「記号が与えられることによってそのもの自体が学ばれるというよりは、むしろその事物が認識されることによって記号が学ばれる」36)のだという(33節)37)

 「頭」(caput)についても同様である。それは音(sonus)と意味(significatio)の両方を含む記号である。「音は耳によって、そして意味は表示されている事物を見ることによって知る」38)。それゆえ、「ことばと呼ばれる記号によってはわれわれはなにも学ばない」39)。なぜなら、「われわれはことばの力、すなわち、音の中に隠された意味を表示されている事物そのものを認識することによって学ぶのであって、記号に表示によって知るのではない」40)からである(35節)。

 「サラバラ」は、身振りによって指し示されるか、描かれるか、似たものが示されるか、それともそのもの自体が示されるかするが、そのいずれの場合にも、私がその事物について学ぶのは、いわれたことば、あるいはそれによって注意を喚起させる身振りや他の記号によってではなくて、その事物を見ることによってである(35節)。

 結論としていえることは、ことばの機能は「事物を探求するようにわれわれに勧めるだけであって、それを認識するように示すのではない」41)ということである。「ことばが発せられるとき、われわれはそれがなにを意味しているかを知っているか、あるいは知らないかのいずれかである。もし知っているならば、学ぶというよりは想起するのであり、知らないのならば、想起するのでさえなく、恐らく探求するように勧められるのである」42)(36節)。

 ダニエル書の中に「燃えるかまどの中の三人の少年」の物語43)はわれわれに信仰と知識との間の相違を考えさせる。この物語に出てくる「三人の少年」、「かまど」、「炎」、「王」等々のことばがなにを意味しているかをわれわれはすでに知っていたが、そこで起った事件をわれわれは知る(scire)というよりも、むしろ信じる(credere)のである44)(37節)。

 以上が第一部の言語に関する議論であり、以下第二部、「内的教師」のテーゼが提出され、論証される。

 「われわれが理解するすべてのものについてわれわれは外部に声を響かせる語り手に相談するのでなくて、内部において精神そのものを支配する真理、すなわち、内的人間のうちに住みたもうキリストに相談する−おそらくわれわれが相談するように勧められるのはことばによってではあるが−」45)(38節)。

 アウグスティ−ヌスはこのテーゼを証明するために、感覚的認識と知性的認識を区別した上で、両者の平行関係に説き及ぶ。

 まず、認識対象の一つは可感的なもの(sensibilia)である46)。可感的対象について問われる場合に、もしそれが目の前にあるならば、われわれが感覚知覚しているものをわれわれは答えるであろう47)し、問うている人がそれを見ていないならば、彼はわれわれのことばを信じ、あるいは信じない48)。彼が見ているならば、彼はわれわれのことばによって学ぶのではなく、事物それ自体と彼の感覚によって学ぶのである49)。また、可感的対象が目の前になくて、過去に感覚知覚したものであるならば、われわれが語るのは事物そのものではなく、記憶に刻印されたその事物の心象(imagines)である50)。そのような対象に関しては、もし彼がそれを感覚知覚したことがあるならば、われわれの聴き手はそれを心のうちに観想する(contemplare)51)。この場合、彼はそれをわれわれのことばによって学ぶのではなく、想起しているのである。もし彼がそれを感覚知覚したことがないとすれば、彼は学ぶというよりはむしろわれわれのことばを信ずるのである52)(39節)。

 もう一つの認識対象は可知的なもの(intelligibilia)である53)。この可知的対象に関しては、われわれは真理の内的な光において現にわれわれが見ている(contuemur)ものについて語る54)。われわれの聴き手が、もし同じようにそれを見ているならば、彼はそれをわれわれのことばによって知るのではなく、彼の観想によって知るのである55)。アウグスティ−ヌスは、このように、感覚的認識における太陽の光の役割と知性的認識における真理の内的な光の役割とを平行的に考えるのである。ではなぜわれわれは、知性的認識においては一挙に真理に到達しないのであろうか。アウグスティ−ヌスは、それは問題全体について、あの真理の内的な光に相談することができない識別力の弱さによるのだという56)。そこで、他の人による質問の重要性が浮かびあがってくる。質問の果たす役割は全体を一挙に認識できない者に、その部分部分について理解していくように勧めるということである57)。それでは、ことばによってはなにも教えることはできないのだろうか。アウグスティ−ヌスは聴き手がわれわれのいうことに関して取りうる三つのありようを区別する。1)彼はそれが真であるかどうかを知らないか、2)それが偽りであることを知っているか、あるいは3)それが真であることを知っているか、のいずれかである。1)の場合、彼は信ずるか、臆測するか、疑うかである。2)の場合には、彼は反対し、否定する。3)の場合には、彼はそれを確証する。このいずれの場合にも、彼は語る者のことばによっては決して学ばない58)(40節)。

 可知的対象を見ることができる人は、内的に真理の生徒であり、外的には語る人の話そのものの裁き手である59)。なぜなら、語っている人自身が自分のいったことを知らないのに、聴いている人が語られていることを知っているということが往々あるからである。このように、エピクロス派の人は魂の不滅ということに有利な真の議論を誤りであると考えている。確かに彼は自分の知らないことを教えることはないのである60)(41節)。

 同様に、嘘をつく人や欺く人はことばによって自分の考えを明らかにするのではなく、隠すのである。また、考えられた事柄に一致しないことばが用いられるということも起る61)(42節)。

 さらに、考えている事柄を他の人々が呼ぶのとは異なったことばで呼ぶことによって、論争の種を播く人がいる62)(43節)し、聴きちがえないしはあることばを他のことばとして聞いてしまうこともある63)(44節)。

 教師たちは彼らの思想(cogitata eorum)を教えるのではなく、諸々の学問そのもの(ipsae disciplinae)を教えるのだと見做されている64)。生徒は真なることがいわれているかどうかを自分自身のうちで、あの真理の内的な光に照らして考察する65)(45節)。

 ことばの効用のすべて66)に関しては他の機会に論じることが約束される。目下のところは、すべてのものの唯一の教師は天にいますからして、地上にあるどんな人をも教師と呼ぶことのないように命じている神の権威の真理を信ずるだけに満足せず、また理解するために、ことばに帰すべき以上の価値を帰さないということが問題なのである67)。33節からずっと続いたアウグスティ−ヌスの「間断のない説明」(oratio perpetua)68)に対して、最後にアデオダートゥスは、アウグスティ−ヌスのことばの勧め(admonitio)によって、ことばは学ぶように勧めるだけであって、語られたことの真理を教えるのは、外部に語る際にも、自分が内部に住んでいることを警告される御方だけであるということを学んだ、と確証する69)(46節)。

 以上、長くなるのを厭わずに対話篇の各節を追って議論の流れを辿ってきた。一見して気付くことは、本来の主題である内的教師の問題が論じられるのは対話篇の終り近く38節になってからであり、それ以前は殆んどことばや記号の問題について論じられているということである。アウグスティ−ヌスはこの書物を『教師論』と題すべきではなく、『記号論』とでもすべきだったのだろうか。否である。アウグスティ−ヌス自身、後に『再考録』の中で次のようにいっている。「....私は『教師論』という題の書物を書いた。そこにおいて論じられ、探求されそして見出されていることは、人間に知識を教える教師は....神以外にはいないということである。....」70)。主題はあくまでも内的教師の問題であるのに、そこに至る長い議論がことばや記号の問題にかかわっているのはなぜなのだろうか。

 『教師論』におけるアウグスティ−ヌスの議論の進め方は、最初に内的教師のテーゼを提出して、それを直線的に論証するというのではなくて、そのテーゼの理解の前提となる記号の理解から出発し、さまざまの段階を経て進んでいくという教育的な意図に支えられた方法なのである。ことばや記号に関する詳細な検討は、アデオダートゥスの「精神の力と鋭敏さを訓練するため」(exerceredi uires et mentis aciem)71)の不可欠の段階として設定されているのであり、しかも、それは単なる形式的な精神の訓練ではなくて、内的教師の問題と本質的な関連をもつ問題に関してなのである。

 ことばや記号に関する議論そのものも、直線的に順を追って積み重ねられていくのではなくて、すでに見たように、それまでに見出されていたことが覆され、否定されるといういわば弁証法的な経過を辿っている。最初に、語ることの目的の規定から出発し、一度記号によらずになにも教えられないという結論が出された後、この結論の正しさに重大な疑問が提出される。やがて一転して、記号によって教えられるものはなにもないということが明らかにされる。これらの経過は、アウグスティ−ヌスも認めているように、「大きな廻り道」72)、「紆余曲折」73)といいうるであろう。しかし、これをアウグスティ−ヌス自身の混乱や動揺と考えてはならない。むしろ、アウグスティ−ヌスは紆余曲折を経ながらアデオダートゥスに「教える」ということの意味の深まりを理解させ、そのことを通して内的教師の理解への準備をさせているのである。

II 内的教師と内的照明

 以上見てきたことから明らかなように、学ぶということはことばによって直接的に原因されるのではない。換言すれば、教師のことばは学ぶ者のうちに学ぶことを直接的に惹き起こすのではなくて、単に学ぶ者が自ら学ぶように勧め、促すはたらきをするにすぎない。このことをアウグスティ−ヌスは『教師論』の結論として、神以外に人間に知識を教える教師はいないといったのである。しかし、この結論にはアウグスティ−ヌス独特の知識論、すなわち、内的照明説が前提としてある。以下において、『教師論』の当該個所を中心に他の著作をも参照しながら検討してみよう。

 まず39-40節で触れられた知性的認識と感覚的認識との平行関係から見ていこう。アウグスティ−ヌスは次のように述べる。「われわれは色彩については光に相談し(lumen....consulimus)、身体を通じて感覚知覚するその他のものについてはこの世界の構成要素、すなわち、われわれが感覚知覚する物体に相談する。また、これらのいずれについても、このようなものを認識するために精神が解釈者として用いる感覚器官に相談する。しかし、知性認識されるものについては、われわれは理性によって、内的な真理に相談する」74)。もう少し先のところでは、「われわれが認識する(percipimus)すべてのものを、われわれは身体の感覚によって認識するか、精神によって認識するかのいずれかである」75)と述べられている。アウグスティ−ヌスは前者を可感的なもの(sensibilia)、後者を可知的なもの(intelligibilia)と呼んでいる76)。これら両認識の平行関係について、『秩序論』では、「精神にとって理解することは、感覚にとって見ることに相当する」77)といういい方でいわれている。われわれは可感的なものを肉眼で見ることによって知るように、可知的なものを「魂の眼である精神」(mens nostra,quae est oculus animae)78)で見ることによって知るのである。

 次に、可感的なものに対比されている可知的なものについて検討しよう。『教師論』においては、それは「知性認識されるところのもの」([ea], quae intelleguntur)79)、「精神によって、すなわち、知性と理性とによってわれわれが見つめるところのもの」([ea]quae, mente conspicimus, id est intellectu atque ratione)80)だといわれている。しかし、この規定は、可知的なものがなにによって把握されるかの面を述べているだけで、可知的なものがどのようなものであるかについては触れていない。可感的なものが物体的・形体的なものであるのに対して、可知的なものは物体的なものではない。前者はたえず変化しているのに対して、後者は「自らを常に同じ様態に維持している」(eodem modo semper sese habent)81)。アウグスティ−ヌスは、プラトンに倣って、それを「永遠不変の理性」(rationes sempiternae atque incommutabiles)と呼ぶ82)。それは神の知性のうちに含まれているイデアであって、可感的なものがそれの模像である真の存在である。換言すれば、可知的なものとはそれに従って神が可感的な世界を創造したもうところの永遠の理性(rationes aeternae)である。アウグスティ−ヌスは『三位一体論』において、「可知的なものは、ちょうど物体が場所において身体の感覚に可視的であり、かた可触的であるのと同じように、非物体的な本性において精神の視覚に現前している」83)と述べている。

 以上、見られるものとして精神の視覚に現前している可知的なものの本性について検討したが、それに対応する見る能力について次に考察してみよう。可知的なものについて検討した際にすでに言及されたように、可知的なものを見る能力は精神(mens)、理性(ratio)、知性(intellectus)と呼ばれている。『教師論』の先の個所では、「精神、すなわち、知性と理性」といわれているので、精神は知性と理性を含む人間の理性的霊魂84)(anima rationalis)の高次の能力であると考えることができる。理性は「学ばれるものを分離したり、結合したりすることができる精神の運動」(mentis motio, ea quae discuntur distinguendi et connectendi potens)85)であり、「精神の視向」(mentis aspectus)86)である。つまり、精神は可知的なものを見るのであるが、それを一挙に把握するというよりは、むしろ部分部分を結合したり分離したりしながら、一つの真理から他の真理へと移っていくというしかたで把握するのである。知性は、それに対して、理性よりすぐれた見る能力、神的光によって直接照明される直観(visio)の能力である。

 以上、知性的認識において見られるものとしての可知的なもの、見るものとしての精神、知性、理性があり、見られるものが見るものに現前しているということが明らかにされた。しかし、アウグスティ−ヌスはさらに、見られるものが見るものによって現実的に見られうるためには、見るものの眼に見ることを可能ならしめる光がなければならないという。

 『ソリロキア』において次のようにいわれている。「....大地にしろ光にしろ可視的なものであるが、大地にしても光に照らされなければ見られない。それと同じように、学問の教える論証にしても、だれもがこれを理解し、そのきわめて真なることをまったく疑わずに認めても、それが何かそれ自身の太陽のようなものから照らされるのでなければ理解されえないと考えざるをえないのだ」87)。われわれは、太陽の光においてはじめて可知的世界を見ることができるのと同じように、真理の光においてはじめて可知的世界を見ることができる。これが照明説の基本的観念である。

 このことに関して『教師論』においては、「われわれが知性認識するすべてのものについて、われわれは内部において精神そのものを主宰する真理に相談する」88)とか「知性認識されるものについては、われわれは内的な真理に相談する」89)といわれている。「内部において精神そのものを主宰する真理」、「内的な真理」はさらに「真理の内的な光」90)といい換えられている。内なる真理、内なる光に照らされてはじめてわれわれは可知的世界を見ることができるのである。『教師論』においては、この真理、「この光によって、内なる人(homo interior)と呼ばれるその人自身が照られる」91)と述べられて、それが他者から来るのではなくて、学習者自身の内面の出来事であることが強調されている。しかし、もちろん、ここでいわれている「真理」とか「光」は学習者自身であるはずはなく、アウグスティ−ヌスによって、「内なる人に住むといわれるキリスト、すなわち、不可変の神の力、永遠の真理」92)と同一視されている、いわば内的超越者である。この真理は個々の真なるもの(uerum)ではなくて、むしろ他のすべての個々の真なるものがそれによって真でありうるところの真そのもの(ueritas)である。

 アウグスティ−ヌスはさらに、この光が自然本性的なものとしてすべての人の内面を照らすものであることを次のように述べている。「ちょうど肉眼がこの物体的な光において囲繞しているものを見る−この光の力は肉眼に適合するものとして造られている−ように、知性的な精神の本性は、自然本性的な秩序によって(naturali ordine)可知的なものに結びつけられ、それをある特有の非物体的な光において見るように、創造主の計画によって造られている」93)。したがって、この光はアウグスティ−ヌスによって、決して超自然的なものと見做されているのではない。この点は『教師論』においても「すべての理性的な魂はその[光]に相談する」94)といわれている。

 アウグスティ−ヌスは『教師論』において「相談する」(consulere)といういい方を感覚的認識についても、知性的認識についても用いている。肉眼が可感的なものを見るために太陽の光に相談するように、魂の眼である精神−知性や理性は可知的なものを見るために内的な真理の光に相談する。もともと「相談する」とは、ある事柄についてそれを教える権能のあるひとのところへ赴いて、そのひとから助言を求めることだと解される95)。それゆえ、知性的認識に関して、「真理に相談する」とは、われわれの内面に立ち帰って、われわれが探求している事柄について、それを教える権能を持つ真そのもの(ueritas)に助言を求め、それに耳を傾けることであろう。そのことによって当面する問題の真理(uerum)がわれわれに開示されるのである。

 しかし、この「内的な真理の光」は人間の知性を無用のものとするのではなくて、それを前提するのである。ただ、アウグスティ−ヌスはわれわれの知性的認識が現実的に成立するときには必ずこの「内的な真理の光」への依存があるというのである。『ヨハネ福音書講解』において彼は次のように述べている。「それゆえ、次のことに注意しなさい。照明する光と照明されるものとは別のものである。....魂の眼であるわれわれの精神は、それが真理の光によって照射されなければ、そして照明する御方から照明され、驚くべきしかたで明るくされるのでなければ、知恵にも正義にも到達することはでいない」96)

 ところで、以上概観してきたアウグスティ−ヌスの内的照明説は次のような事実に対する彼独自の説明のしかたなのである。すなわち、われわれは実際に変化しえない真理をもっているが、しかし最初にはそれをもっていなかったという事実がある。この事実についての一つの有力な説明のしかたはプラトンの想起説である97)。前世においてわれわれの魂はイデアの可知的世界と直接に交渉していてそれらの真理を知っていた。しかし、魂が身体と結合することによって、この知識は暗くされ、忘却された。知識の獲得は、われわれの魂の内部にすでに潜在しているが、しかし忘却されてしまったこの知識を想起することのうちにある。以上が『メノン』におけるプラトンの学習想起説のごく簡単な説明である。

 アウグスティ−ヌスはこの想起説の代りに内的照明説によってさきの事実を説明するのである。彼も想起説と取れる説明をしたことはあるが、『教師論』においては、明らかに照明説を主張している。『ソリロキア』の『再考録』においては、はっきりと想起説を拒ぞけて次のように言っている。「同様にわたしはある所で、(二、二、35)、『自由学科によって教養を身につけた人々は、自分の胸のうちで、疑いもなく忘却に埋もれている知識を学ぶことによって掘り返している』と言った。だがこの言葉もまたわたしは拒否する。そういう学問について無教養な人々でさえも、うまく質問された場合に、その学問の真なるものについて答えることが、信じられるとすれば、それは、彼らがそれを把握する限りにおいて、永遠の理性の光(lumen rationis aeternae)が現存しているからである。彼らはそこでこれらの不変の真なるものをみつめている(conspiciunt)のだ。それは、プラトンや彼の仲間たちがそう考えたように、それらの真なるものを、ある時知っていてそれを忘れたから[思い出す]というのではない」98)

 以上でわれわれは知性的認識の成立のための要因として、見るものとしての精神、見られるものとしての可知的なもの、そして見られるものが見るものにとって見られうるための真理の内的光という三点について簡単に考察してきた。そこで最後に残っている問題は、ではなぜ知っている者と知らない者の相違が出てくるのか、つまり、可知的なものが内的な真理の光においてすべての精神に現前しているとすれば、なぜすべての人が同程度に知る者であるということにならないのか、ということである。この理由は、一言にしていえば、見るものとしての精神をもつすべての人がすべて見るとは限らないという点にあるといえるであろう。換言すれば、能力は活動させられなければならないのである。ここでも、感覚的認識との類比はそのまま妥当する。見る眼をもっている人に可感的なものが現前し、可感的なものを照らす太陽の光が輝いていても、眼の力が弱かったり、眼が可感的なものの方へ向けられないならば、その人は見ないのである。可感的なものについてさえ、よく見るためには眼を訓練しなければならない。可知的なものについてはなおさらである。真理の内的な光が照っていて可知的なものが精神の眼に現前していても、その精神の眼が弱かったり、見るべき方向に向けられていないときには見るというはたらきは起らないのである。アウグスティ−ヌスが『教師論』において、あのように長い考察をことばや記号について試みたのも、まさにこのようの観点においてであったといわなければならない。アデオダートゥスはアウグスティ−ヌスのことばの勧めによって、見る眼を訓練し、見るべき方向に眼を転向させて、彼自身の内部に真理の光に照らされて彼に明らかとなったものを自分自身で見たのである。

 それゆえに、アウグスティ−ヌスは「神以外に人間に知識を教える教師はいない」99)といい、アデオダートゥスは「言われたことが真であるかどうか」(utrum uera dicta sint)を内的な真理に教えられて、それを確証したのである。

 しかし、アウグスティ−ヌスは人間の教師を無用だと考えているわけでは決してない。むしろ、人間の教師の役割を生徒自身の学習の援助に見、教育の可能性の条件を厳密に考察しているというべきである100)


  1. Augustinus, De magistro.引用テキストはCorpus Christianorum, Series Latina, XXIX, Trunhorti, 1970. Cura et Studio K.-D. Daur pp.139-203を使用。Bibliotheque Augustinienne, Oeuvres de Saint Augustin 6 pp.14-121をも参照。邦訳 『アウグスティヌス著作集』2 初期哲学論集 (2)茂泉 昭男訳 『教師』pp..199-278.

  2. Bonaventura: Sermo "Christus unus omnium magister", Quarrachi, Colleg. S. Bonaventurae, 1833, pp.73-86.

  3. Thomas Aquinas, "De magistro" in "De veritate", q. XI.

  4. Coulven Madec, "Analyse du De magistro", Revue des Etudes Augustiniennes, 1975, XXI, pp.63-71が非常に参考になった。

  5. "non ut Deus, sed ut homines audiant".以下、引用は Corpus Christianorum 版の頁と行で以下のように示す。CC, p.159, 59.

  6. CC, p.159, 67-68. "non....uerba, sed ipsas eos uerbis docuit."

  7. CC, p.159, 73-74.

  8. CC, p.189, 49.

  9. CC, p.189, 78.

  10. CC, p.161, 52-72.

  11. CC, p.162, 8-9.

  12. CC, p.162, 24-25.

  13. CC, p.163, 43-45.

  14. CC, p.164, 73-79.

  15. CC, p.164, 79-83.

  16. CC, p.164, 12.

  17. CC, p.164, 7-10.

  18. CC, p.166, 78."audibile signum....signorum audibilium."

  19. CC, p.167, 92.

  20. CC, p.167, 116-117.

  21. CC, p.168, 139; p.169, 150.

  22. CC, p.169, 9.

  23. CC, p.180, 20-21."non ludendi gratia, sed exercendi uires et mentis aciem."

  24. CC, p.181, 27."utrum homo homo sit."

  25. CC, p.182, 71."ex ea parte...,qua syllabae sonant."

  26. CC, p.182, 71."ex ea.... parte, qua significatur."

  27. CC, p.182, 90-92."....non respondendum esse interrogationibus, nisi ex his rebus, quaeuerbis significantur."

  28. CC, p.183, 106-108."...non...res, quae significantur, sed signum, quo significatur, loquentis ore procedit."

  29. CC, p.184, 149-150."ea...regula, quae naturaliter plurimum ualet, ut auditis signis ad res significatas feratur intentio."

  30. CC, p.188, 1-2."quae interrogati mox agere possumus, sine signo posse monstrari."

  31. CC, p.189, 26-27. "nos significare, ut doceamus."

  32. CC, p.189, 49. "nihil sine signis doceri."

  33. CC, p.191, 94-96. "si ille intellegens esset, ut ex hoc quod uidit totum illud genus artis agnosceret.

  34. CC, p.191, 96-97. "de quibusdam rebus... quosdam homines doceri posse sine signo."

  35. CC, p.192, 114-115. "nihil... quod per sua signa discatur."

  36. CC, p.192, 132-133. "magis signum re cognita quam signo dato ipsa res discitur."

  37. この33節以下終りまでは、対話形式が取られずに、アウグスティ−ヌスの「間断のない説明」(oratio perpetua:CC, p.203, 40)が続き、アデオダートゥスが最後にそれを確証するという形式が取られる。

  38. CC, p.193, 142-144. "sonum... percipimus,,...aure pulsata, significationem...re, quae significatur, aspecta."

  39. CC, p.193, 154-155. "per ea signa, quae uerba appellantur, nos nihil discere."

  40. CC, p.193, 155-157. "potius... uim uerbi, id est significationem, quae latet in sono, re ipsa, quae significantur, cognita discimus, quam illam tali significatione percipimus."

  41. CC, p.194, 173-174. "admonent tantum, ut quaeramus res, non exhibent, ut nouimus." テキストでは最後の語は norimus になっているが、これは nouimus の誤りと思われる。B.A.版では noverimusである。

  42. CC, p.194, 14-18. "cum uerba proferuntur, aut scire nos quid significent aut nescire; si scimus commemorari potius quam discere, si autem nescimus nec commemorari quidem, sed fortasse ad quaerendum admoneri."

  43. Daniel, 3, 19.

  44. cf. CC, p.195, 33-34.

  45. CC, p.197, 44-p.198, 46. "De uniuersis..., quae intellegimus, non loquentem, qui personat foris, sed intus ipsi menti praesidentem consulimus ueritatem, uerbis fortasse ut consulamus admoniti."

  46. CC, p.196, 8.

  47. CC, p.197, 11.

  48. CC, p.197, 13-14.

  49. CC, p.197, 15-16. "ubi iam non uerbis, sed rebus ipsis et sensibus discit."

  50. CC, p.197, 17-20.

  51. cf. CC, p.197, 17-22.

  52. cf. CC, p.197, 27-29.

  53. CC, p.196, 9.

  54. cf. CC, p.197, 30-32.

  55. cf. CC, p.197, 33-p.198, 35.

  56. CC, p.198, 42-43. "...fit hoc imbecillitate cernentis, qui de re tota illam lucem consulere non potest."

  57. cf. CC, p.198, 43-45. "quod ut partibus faciat, admonetur, cum de istis partibus interrogatur, quibus illa summa constat, quam totam cernere non ualebat."

  58. cf. CC, p.199, 63-72.

  59. CC, p.199, 4-5. "Quisquis autem cernere potest, intus est discipulus ueritatis, foris iudex...ipsius locutionis."

  60. cf. CC, p.199, 12.

  61. cf. CC, p.199, 17-18.

  62. cf. CC, p.200, 22-23.

  63. cf. CC, p.200, 37-39.

  64. cf. CC, p.202, 1-2.

  65. cf. CC, p.202, 7-9. "tum illi, qui discipuli uocantur, utrum uera dicta sint, apud semetipsos considerant interiorem... illam ueritatem...intuentes."

  66. CC, p.202, 17. "de tota utilitate uerborum."

  67. CC, p.202, 18-23.

  68. CC, p.203, 40.

  69. CC, p.203, 34-38. "Ego uero didici admonitione uerborum tuorum nihil aliud uerbis quam admoneri hominem,...utrum autem uerba dicantur, eum docere solum, qui se intus habitare, cum foris loqueretur, admonuit."

  70. CC, p.154, Retract., I, 11."...scripsi librum, cuius est titulus 'de Magistro', in quo disputatur et quaeritur et inuenitur magistrum non esse, qui docet hominem scientiam, nisi deum..."

  71. CC, p.180, 20-21.

  72. cf. CC, p.180, 5. "tantis ambagibus."

  73. cf. CC, p.190, 54. "circuitu."

  74. CC, p.196, 1-5. "...de coloribus lucem et de ceteris, quae per corpus sentimus, elementa huius mundi eademque corpora quae sentimus sensusque ipsos, quibus tanquam interpretibus ad talia noscenda mens utitur, de his autem, quae intelleguntur, interiorem ueritatem ratione consulimus."

  75. CC, p.196, 7-8. "...omnia, quae percipimus, aut sensu corporis aut mente percipimus."

  76. CC, p.196, 8-9.

  77. De ordine, II, iii,10, CC, p.113, 82. "menti hoc est intellegere, quod sensui uidere."

  78. In Joan. Evang., Tract., 3; PL., t. 35, col. 1658.

  79. CC, p.196, 4-5.

  80. CC, p.197, 30-31.

  81. De immort. anim., x, 17.

  82. Retract., I, iii, 2; PL., t. 32, col. 589.

  83. De Trin., XII, xiv, 23; PL., t. 42, col. 1010-1011. "....sed in natura incorporali sic intelligibilia praesto sunt mentis aspectibus, sicut ista in locis visibilia vel contrectablia corporis sentibus."

  84. CC, p.196, 49.

  85. De ordine, II, xi,30; CC, p.124, 1-2.

  86. De Trin., XII, xiv, 23.

  87. 『ソリロキア』I, viii, 15, 清水正照訳、アウグスティヌス著作集、1,355頁.

  88. CC, p.195, 44-p.196, 46. "De uniuersis..., quae intellegimus,...intus ipsi menti praesidentem consulimus ueritatem."

  89. CC, p.196, 4-5. "De his..., quae intelleguntur, interiorem ueritatem...consulimus."

  90. cf. CC, p.197, 32. "in illa interiore luce ueritatis."

  91. CC, p.197, 32-33. "qua[luce]ipse, qui dicitur homo interior, illustratur."

  92. CC, p.196, 47-49. "qui in interiore homine habitare dictus est Christus, id est incommutabilis dei uirtus atque sempiterna sapientia."

  93. De Trin., XII, xv, 24. PL.,t.42, col.1011. "mentis intellectualis ita conditam esse naturam, ut rebus intelligibilibus naturali ordine, disponente Conditore, subjuncta sic ista videat in quadam luce sui generis incorporea, quemadmodum oculus carnis, videt quae in hac corporea luce circumadjacent, cujus lucis capax eique congruens est creatus."

  94. CC, p.196, 49-50. "quam quidem omnis rationalis anima consulit."

  95. 加藤信朗、『Consulere Veritatem(Augustinus, De Magistro XI, 38-XII, 40)−アウグスティヌスの初期照明説をめぐる若干の考察−』、中世思想研究、XVIII, 1976, pp.22-29から貴重な示唆を得た。

  96. In Joan. Evang., Tract., 35,8,3; PL.,t.35,col.1658. "Hoc ergo discernite, aliud esse lumen quod illuminat, aliud esse quod illuminatur...Mens nostra, quae est oculus animae, nisi veritatis lumine radietur, et ab eo illuminat nec illuminatur, mirabiliter illustretur, nec ad sapientiam nec ad justitiam poterit pervenire..."

  97. Platon, "Menon", 88C.

  98. Retract., I, iv, 4, 清水正照訳 『ソリロキア』、アウグスティヌス著作集、1,教文館、1979, p.452: "Item quodam loco dixi, quod 'disciplinis liberalibus eruditi, sine dubio in se illas oblivione obrutas erunt discendo, et quodam modo refodiunt.' Sed hoc quoque improbo: credibilius est enim propterea vera respondere de quibusdam disciplinis, etiam imperitos earum, quando bene interrogatur, quia presens est eis, quantum id capere possunt, lumen rationis aeternae, ubi haec immutabilia vera conspiciunt; non quia ea noverant aliquando, obliti sunt, quod Platoni, vel talibus visum est." PL., t. 32, col. 592.

  99. CC, p.154, Retract., I, 11. "magistro non esse, qui docet hominem scientiam, nisi deum....".

  100. 拙稿「アウグスティ−ヌスの『教師論』における教授=学習の成立とことばの問題」、神奈川県立栄養短期大学紀要、第3号、1971において、若干の考察を試みたことがある。

1980.09.30

『アカデミア』人文・社会科学編 第33号 pp.95-117 1981年2月から転載

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