基礎神学講話

第1講話


パウロ・フィステル著


中央出版社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


序言

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本書はカトリック基礎神学の若干の主要問題を取り扱う。基礎神学(護教学)とは、カトリック信仰の必然的与件、いわゆるpraeambula fideiすなわち、カトリック信仰の価値および義務を論証する諸根拠を、学問的に論述しこれを確立することを意味する。

多くの敬虔なカトリック信者は詳密な学問的な探究の道とは別の道から、彼らの信仰に関する確実性に到達する。教会の実存そのものがその宗教的生活の豊富性をもって、彼らにその信仰の真理性に対する充分な保証を与え、教会の内に現れる神の権力と救世の恩寵とを彼らに証明する。多くの真理探究者にとってもまたカトリック教会の教理の崇高さ・その宗教的生活の成果・その全人類への福祉に充ちた感化よりカトリック信仰を受け容れる決定的動機となった。

それにしても、哲学的・歴史的な証明によって、カトリック信仰の意義と必然性とに関する諸論拠を統合的に示すことはやはり必要である。なぜなら、カトリック教会が真に宗教的真理の神より委託された保持者であり告知者であること、およびそれゆえに、その教理は無条件的信仰において受容されねばならぬことは、ただこの方法によってのみ真に客観的かつ普遍妥当的に示され得る

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からである。

また例えば自己自身の信仰体験の分析によるごとき別途の方法により信仰に関する確実性にまで到達した人々も、かかる総合的証明法により彼らの信仰の与件を再検討し確立することを断念してはならない。このことは何も、この認識からしてすでに必然的に信仰が結果することを意味するのでは決してない。信仰は元来人間の神への自発的奉献を意味するものである。しかしカトリック教理の絶対的真理性とそれから生ずる信仰の倫理的価値とを悟るためには、信仰の諸与件の客観的および普遍妥当的検討が必要であることを意味するのみである。この検討は人間の自然的理性の認識範囲の裡に行われ、主として哲学的歴史的説明法を使用している。そのために基礎神学において聖書および聖伝から証拠が取られるとき、その歴史的資料としての価値のみが認められる。

信仰の諸根拠についてのこの理性的再検討が個々人の性能や教養の程度および生活環境に従って一様でないことを看過してはならない。とにかく個々の信者はカトリック教会の教理の無制約的受容にまで彼を動かすところのある種の客観的および普遍妥当的な根拠を発見することができなければならない。教養あるカトリック教徒に対しては、しかし、この客観的および普遍妥当的な信仰与件を学問的形式によって示すこともまた不可欠である。

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カトリック信仰の最も重要な与件に、まず、自発的な愛から人間を創造し、これをある永遠の目的に適合せしめる創造者にして主なる神の正しい観念が属する。それゆえにまず最初に神に対する人間の関係、したがって宗教の本質的意義と使命とを明確にしなければならない。

カトリック信仰の与件としてこれに次ぐものは、無限の神がある特別の超自然的啓示--いわゆる天啓--によって人間に宗教の諸真理を教示したという事実である。従って天啓の歴史的事実および超自然的性格が確実に明示されねばならない。

この天啓は殊にキリストによってもたらされ、彼によって完成されたゆえに、そしてまた、すべての人間に対して神の規定した真の宗教はキリスト教によって確立されたがゆえに、神より遣わされた者としての・神の子としての・そして救世主としてのキリストが、これに続く基礎神学の検討の主要対象をなす。

基礎神学はキリストから進んで必然的に、キリストの事業を継承し、彼の教説を告知し、彼の救いの恩寵を人間に伝達するところの教会へと発展する。それゆえにまずキリストによる教会の創立および創立者から教会に与えられた本質的な構成を明示することが必要となる。

次にはキリストが彼の教会に賦与した特徴を取り扱うべきである。この特徴を所有するがゆえにカ

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トリック教会はあまたのキリスト教的宗教団体の間にあってキリストの真の教会であること・救霊の確実な道であることが、示される。

次にキリストが使徒ペトロおよびペトロの後継者、すなわち、ローマ教皇(法王)を最高の牧者として定めたことが、特別の注意に値する。信仰の最高にして不可謬なる教師であり、すべての信者の霊的指導者である教皇は、必然的にカトリック教会の構成に所属するがゆえに、そして他方、彼の職能の真の性格はカトリック以外の他の人々から容易に誤解されるがゆえに、使徒ペトロおよび彼の後継者たる教皇の最高牧職に関する説明は、カトリック基礎神学の構成にとって不可欠の部分を成すものである。

最後にカトリック教会の教理の源泉およびその源泉に帰する特殊の超自然的性質を解説しなければならない。また、その源泉に基づいて教会の教理はいかにして有機的に展開するかということもまた主要な研究対象である。従って、聖書・聖伝および教義の展開に関する論証は基礎神学に属するのである。

本書の個々の論文は内容的には基礎神学の諸教科書の叙説に従ったものであるが、それよりも比較的自由な説明法を選んだ。また最近ヨーロッパにおいて刊行されたカトリック信仰の基底に

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関する多くの著書を渉猟し、部分的にはこれを利用したところもある。本論文は決して全基礎神学の完全な輪郭を提供するものではない。むしろこの教科の種々なる主要問題を取り扱ったため、段階的順序においてカトリック信仰受容のための決定的与件を説示し、従ってカトリック教徒のみならず、それ以外の人々にとっても精密な検討の対象たるものを提供している。

2年前に現れた初版には、当時の不利な情勢により種々な欠陥が認められたので、この改訂版においては、それらの不備欠陥を能う限り是正し、さらに第7講話を附加した。

それゆえに本論稿がカトリック信仰の確立にとってきわめて重要な諸問題の正しい知識と判定とを増進せんこと、敬虔なカトリック信徒のみならず宗教的真理の探究者である読者に、カトリック信仰が絶対妥当的な与件の上に立ち、従って真に"rationabile obsequium"すなわち、理性に適ったかつ理性の要求する神に対する奉献であるという認識へ寄与せんこと、これ著者の願いである。

1946年9月、東京において

著者


目次

第1講話 宗教の本質(p.1)

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底(p.4)
キリスト教的・カトリック的な宗教観(p.12)
理性と信仰(p. 17)
カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成(p.23)

第2講話 天主の啓示の史的現実性と超自然的性格(p.31)

史的事実としての超自然的啓示に関する認識の可能なること(p. 32)
新約の天啓の歴史的基底(p. 36)
非キリスト教側の証言(p. 37)
新約聖書の報道内容の真正さと確実さ(p. 40)
新約聖書の諸書の歴史的価値(p. 50)
天啓の超自然的性格(天啓の認識--奇蹟に関するカトリックの見解)(p. 54)
カトリック信仰の絶対的確保(p. 64)

第3講話 新約のキリスト(p. 67)

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性(p. 69)
新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素(p. 74)
メシアとしてのイエズス(p. 74)
天主の子としてのイエズス(p. 80)
キリストの神性に関する初代教会の証言(p. 84)
キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性(p. 89)
キリストの奇蹟(p. 100)
キリストの復活(p. 110)

第4講話 教会の起源と制度(p.126)

旧約における天主の国の理念(p. 127)
イエズスの宣示し創始した天主の国(p. 129)
キリストの創始した宗教的共同体の聖職位階制度(p. 132)
教会の制度に関する非カトリック的見解(p. 142)
教会の普遍的持続と活動(p. 150)

p. 3

「教会の外に救いなし」(p. 154)

第5講話 キリストの教会の本質的記標(p.159)

キリストの教会の一体性(p. 160)
キリストの教会のカトリック性(p. 167)
キリストの教会の使徒伝来性(p. 170)
キリストの教会の聖性(p. 172)
カトリック教会のみこの四記標を悉く所有すること(p. 180)
カトリック教会の一体性(p. 180)
カトリック教会のカトリック性(p. 185)
カトリック教会の使徒伝来性(p. 188)
カトリック教会の聖性(p. 192)

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ(p.204)

福音書による使徒ペトロの首位権(p. 205)
ペトロの首位権についての使徒行録の証言(p. 214)
ローマにおけるペトロの滞在と死(p. 216)

p. 4

ペトロの後継者としてのローマの司教(p. 221)
使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 223)
ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 232)
古代教会における教皇の首位権の行使(p. 238)
教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義(p. 253)
教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立(p. 258)

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開(p.265)

カトリック教理の源泉(p. 265)
カトリック教理の源泉としての聖書(p. 266)
神感の事実(p. 268)
神感の本質(p. 271)
神感によって成りたる結果としての聖書の無誤謬性(p. 275)
教会の教職による聖書に関する証明と註釈(p. 280)
カトリック教理の源泉としての聖伝(p. 288)
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格(p. 288)

p. 5

教会の聖伝の最も重要な証人(p. 298)
聖書と聖伝との相互関係(p. 303)
カトリック教理の展開(p. 306)
教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fideiの展開における教会の進歩(カトリック的意味における教義の進歩(p. 311)


p.1

第1講話 宗教の本質

人類の歴史は、宗教があらゆる民族の精神生活における一つの本質的な構成部分であることを示している。多数の著述家たちがすでに古代において、神を崇敬しないいかなる民族もいかなる都市も存在せず、宗教的信仰なくしていかなる人間的共同体も存立せざることを強調している。註1)キリスト教的・カトリック的な宗教観の偉大な宣明者であるアウグスチノは、人間にとって神を認識することは智慧を、神を愛することは道徳を、神を所有することは至福を意味すると言っている。註2)そして近代の知名の一思想家は宗教が人間の天性に深く根ざしていることを次の言葉で表している。「人間的人格の核心にはその最も深いところに、われわれ自身を越え、一切有限なものを越えて、絶えずわれわれを神的なものにまで高め導くべく常に活動しているところの、あの驚嘆すべき発条が存在している」と。註3)

註1)Plutarch, adversus Coloten, 31; Cicero, de natura deorum, I, 16; de legibus I, 8; tuscul., I, 13;

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Seneca ep. 117, 6; Aristoteles, de caelo, I, 3 参照。
註2)de beata vita, 4, 32, 34, 35; de natura et gratia, 70, 84; de doctrina christiana, I, 7, 7 参照。Gilson, Der heilige Augustin, 独訳 Bohner編 1930, p. 6以下、p. 240以下参照。
註3)Scheler, Vom Ewigen im Menschen, Leipzig 1921, I, S.279参照。

勢力のある思想家たちが宗教的な諸問題から免れようとした時ももちろんあった。すなわち、知るに値するものおよび欲求するに値するもののすべては直接可視的な世界と人間自身の中に含まれており、そして神と被造物との間・精神と物質との間の大きい存在上の差異なるものは、元来存在してはいないのであるという命題をもって人間を安心せしめんとした。一元論の種々なる体系は、唯物論的・機械論的なものにせよ、観念論的・精神的なものにせよ、すべて何らかの意味においてこの基礎命題を主張したものであり、これをさまざまの方法で叙述し構成しようと試みたものである。

しかしながら人間はこれらの一元論的諸体系をもっては決して完全に満足することはできなかったのである。これらの諸体系によっては人生の最大の諸問題は解決されないこと、また人生の真の現実は把握されないことを、人間は痛感している。殊に現代においては、前世紀に広い範囲にわたって主潮をなしていた一面的に唯理論的・機械論的な存在観からの断固たる転向・精神の諸問題と

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諸価値とへの復帰等が現れている。科学的分析と数量的計算とのみをもってしては自然の事象およびその諸原因を完全に把握することができず、さらに有機的なものおよび精神的なものの存在範囲はそれぞれ独自の構成と法則性を有していることが、一般に認容されている。かくて人間をその精神的な全体・精神的な構造において把握し規定しようとする努力も現れ、形態心理学・性格研究および価値論がこの努力をなしたのである。このことは必然的に、人間に特有な究極の諸原因および諸目的、人間の生活と行為とを規定する最高の諸規範等を探究するように導いた。換言すれば、過去の機械的・科学的な宇宙観の超克とともに人々は自然的にふたたび形而上学・世界観および宗教の諸問題に戻ってきたのである。人々はこれらの諸問題が自然科学の諸問題とはまったく別個の領域を占めていることと、究極的には、これらの諸問題によってのみ人間生活の意味が完全に示され得ることとを、ふたたび認容するに至った。今世紀において人類の遭遇した大きい事象と強い震撼ともまた、人間をして以前にもまして永遠的なものおよび神的なものへ心を向かわしめ、彼らの生活の諸問題の究極的な解決と彼らの生活の運命の意味とを宗教のうちに見出そうと努めしめるのに、少なからず貢献したのであった。註1)

p. 4

[註] Schelerの前出の著書参照。

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底

われわれの時代においても過去の大きい精神的な危機の余波はすこぶる顕著である。殊にわれわれの精神が存在の究極的な永遠的な原因に関して明瞭な絶対妥当的な認識に到達し得るや否やの問題に直面するとき、このことが明白になる。古代および中世の大思想家たちはこの問題を断断固として肯定するのにいささかも躊躇しなかった。存在・真理・認識はプラトンおよびアリストテレス、アルベルト、トマスおよびボナヴェントゥラにとっては互いに分離できない関係にあり、ひとつの総括的な秩序の中にあった。批判主義と観念論との遺産を継いだわれわれの時代においては、そうではない。殊に世界観および宗教の諸真理は合理的・学問的な思考によって把握できず、むしろ意志することと行動することによって確保できるものであるというカントの命題は、多くの近代思想家には依然として規準的なものとなっている。その結果として、彼らのうちのあるものは有限的な偶有的な(コンティンゲント)存在の観察だけに限局し、そのために存在の有意義性についての究極的な解明と絶対的真理への到達

p. 5

とを放棄してしまった。註1)宗教の諸価値を固執しかつこれを確保せんと欲する他の人々は、カント的な思潮の影響の下に、宗教の絶対的妥当性を充分に基礎づけることができなかった。従って宗教の諸真理と諸価値とはいくぶん相対的および恣意的に表示されるのを免れなかった。

[註1] この方向の代表者としては殊にニコライ・ハルトマンおよびマルティン・ハイデッガーの両哲学者が知られている。

従って宗教的なものおよび聖なるものの諸価値に関する認容にもかかわらず、もはや、人間の合理的な性質と宗教との間の正しい統一性は見出し得ず、むしろ宗教を主観的に制約された・合理的な思考とは異なる宗教的な精神や体験、もしくはこれと類似した意味における直観に依存させようとした。註1)ここから次の結果が生ずる。すなわち、世界観的な問題の解決の場合における主要事は、あらゆる時代および民族の人間に妥当する真理である--これキリスト教的な観念が常に主要問題としたところである、カトリック教会がいつも断固として主張してきたところである--のではなくて、むしろ、人間生活に根底と規範と使命とを与えるところの、あの神秘的な諸力ならびに諸目的の象徴が主要問題となっている。この象徴は合理的な思考の到達しがたいものであり、ただ直接的感覚と体験とに対してのみ自己を顕示するものである。

p. 6

[註1] Otto, Das Heilige 参照。

カント自身は--人間の合理的思考に対し超越的な神と究極的かつ形而上学的な存在根拠との認識を否定した後--神および宗教を行為および意欲の要請としてその絶対的妥当性において確立しようとした。しかしながら神の確実な認識への諸与件が否定されてしまったゆえに、宗教の真の本質がますます非理性的なもの・情緒的なものおよび主観的なものの範囲に移され、ために宗教の普遍妥当的な客観的な真理内容が放棄されざるを得なかった。すでにシュライエルマッヘルは、宗教の本質を人間の無限なるものおよび永遠なるものへの依存の特殊的な感情以外の何ものでもないとし、この感情の体験はあらゆる理性的な思考形式の外部において行われるから、これを思考形式によって示すことはできないと強調した。彼に従えば、宗教的な諸概念および教義は人間がその宗教体験を知性的に省察したものの表現に過ぎずその最も深き内容を把握することが決してできるものであはない。そして彼が、哲学は知らんと欲する人々を共同的な知識の下に総合せんと努むるの対し、宗教は信ぜんと欲する人々を一つの信仰および一つの感情の下に総合せんと努むるものに非ず、と強調しているのは、彼の観念における大なる特徴である。註1)

p.7

[註1] Schleiermacher, Reden ueber die Religion, Leipzig , p. 42 参照。

かくして宗教とは、本質的には存在と行動と生命と生命の神的な根源との連繋の感情、この体験以外の何ものでもなく、この体験は主観の内的欲求から発生するものであり、本質的に主観の個人的あるいは民族的な生活条件に規定されるものであるという、今日広く普及している見解が生じた。ベルグソンの宗教観もこの意味において広く影響を与えている。何となれば彼にあっては宗教の本来の現象は--これがいかなる段階、いかなる種類においても--絶えず本能の範囲に、生命的な体験の範囲に、限定されているからである。註1)

この内的体験に関する知性の省察を、何らかの方法で概念的思考において表すことが、知性の使命とされてはいるが、知性が生命の諸現象を適当に把握し得ないはずであると同様に、宗教的な諸体験の内容を明確に規定された概念的な諸形式によって表現することも、殊にこの諸体験が人間の生活条件とともに必然的な諸変化の下に置かれてあるがゆえに、不可能なはずである。ある民族の歴史の過程において確認することができるさまざまの宗教的な観念や教義は、この見解に従えば、宇宙の存在と諸民族の生活の基礎になっているところの、あの究極的な神秘的な存在原理および生

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命源泉の内的体験および感情上の把握に対して常に更新される表現形式である。

[註1] Bergson, Les deux Sources de la Morale et de la Religion 参照。

世界観と宗教とは結局ミュトスに帰するという見解は、これと密接に関連している。実証論者がミュトスをただ幼稚な世界観・世界とその諸原理との科学的な把握の準備に過ぎないものと見なしたに対し、近時に至りミュトスはふたたび人間的知識の必然的な補足として認容されるに至り、若干の人々により人間的存在の基礎づけと指導と統一とがミュトスの使命として指定されるに至った。ニーチェおよびそのほかの唯理論的世界観の反対者一派に従えば、ミュトスは人間にその存在と生命との最も深い根底を顕示するものであり、従って純粋科学がそれ自身からだけでは決して為し得ないところのこと、すなわち、生命の根底とその保証とを与えることができるものであるという。しかしこの顕示はただ象徴と比喩とにおいてのみ行われ、理性的・論理的な思考に向かっては行われ得ないものであるという。ミュトスの示す永遠的な諸勢力および諸原因は、実にあらゆる人間的な存在と理解とを超越するものであり、ただ象徴的にのみ表現され得るものであるという。またこのミュトスにとって本質的であるのは、ミュトスは人間を絶えず人間と民族共同体との連繋において

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示し、人間の生活意義と生活内容とを絶えず共同体の運命の立場からのみ見、かつ考えようと努めるということである。かくてミュトスは諸民族の歴史的変遷および発展にも依存し、従ってこれを不可変的・教理的な形式に導くことはできないのである。ミュトスが諸国民の生活に対して有する事実上の価値については、古代から現代に至る諸民族のあまたの芸術上の遺物がわれわれに証明している。詩と音楽・絵画と彫刻・これらは繰り返し繰り返しさまざまの民族ミュトスから人間生活の最も深い諸問題ならびに諸現実に表現を与えるべき、そしてそれによって人間の心の内に強大な作用を誘発すべき新しい刺激を汲み出している。ゆえにまた、キリスト教的な神観念および宗教観念の外に立つところの若干の近代思想家たちが、ミュトスの象徴的な表示のうちに人間生活の究極的な宗教的な意味を探究し、これにおいて人間にその存在の究極的な確保を与えようと企図したことも、理解されるのである。このことはニーチェの場合には確かに的中している。彼はキリスト教を拒否した後、民族にその形而上の意義を開示しかつその諸体験に永遠価値を賦与する使命をば、民族の生活諸力から発現したミュトスに帰しているのである。註1)

[註1] Nietzsche, Die Geburt der Tragoedie, Leipzig 1930, p. 180 参照。

p.10

これによって彼はこのミュトスなるものに宗教の性格を与えた。ニーチェ自身は理性的な諸科学のみを崇拝する時代に生活していたが、彼の思想はヨーロッパの精神世界に深く徹したのであって、唯理論を超克した現代においてまさに広範囲において取り上げられ、敷衍されている。殊に宗教を主観に局限してしまうことは、人間的な精神の先天的に有する形而上学的説明への努力を決して完全には充足し得なかったゆえに、唯理論の全盛時代に勢力を有していた宗教的主観主義もまた、これによってある意味において超克されたのであった。

もちろんこの見解においては、宗教ないしその確定された教義の普遍妥当的な客観的な真理内容なるものはもはや問題ではあり得ないことも、確認されなければならない。ある民族の歴史の経過中に確認されるさまざまな宗教的観念や教説は、それゆえ常に、宇宙の存在および諸民族の生活の基底に横たわっているところの、あの神秘的な存在諸原理および生活諸源泉の活々した把握に対する新しい表現形式である。

宗教をかく解するとき、位格的・超越的な神の概念--これはキリスト教的な宗教の根底をなすものであるが--はもはや固持することができないことと、従って、神の本質をほかの方法で解

p.11

釈せざるを得ないこととは、自明の理である。事実、古来すでに汎神論のさまざまな方向は神と世界との存在的一体性および本質上の同一性を説いてきた。そして超世界的・位格的な神を理性的に認識することの可能性が否定されてしまった後、必然的に、神を世界および世界の存在のうちに見出ださんとするに至った。カント自身はそれほどまでには進まず、依然としてキリスト教的伝統の神概念を固持していた。しかし彼に続いたドイツ観念論はすでに世界における神的存在の自己発展および自己充足を論じており、シュライエルマッヘルに従えば、実に、人間は宗教的感情によって人間と永遠的なもの・無限なものおよび全体的なものとの同一を体験するのであるという。註1)最近の生の哲学の神観念はこれに類するものであって、この哲学は世界における生命の本来のエネルギーを神において認め、この生命の根源との同一において人間を構成すべき使命をば宗教に課している。註2)これに類する神概念は近頃のミュトス的な宗教観においてもその基底をなしている。その主張者たちは神と自然との間、あるいは神と人間との間には何らの隔離も存在せず、むしろ神は自然と人間と民族とにおいて絶えず新たに自己を創造する者であると強調している。註3)

[註1] Schleiermacher, 前出の著書p. 50以下参照。
[註2]Bergson, Les deux Sources...6版p. 226 参

p. 12

照。
[註3]W. Hauer, Deutsche Gottschau, Stuttgart 1934, p. 153参照。

キリスト教・カトリック的な宗教観

以上の諸見解と厳密に区別されるのが、神および宗教に関するキリスト教的・カトリック的な観念である。キリスト教的な宗教の基底をなすものは実に超越的かつ位格的な神に関する教説である。この神は無限の崇高性と霊的な自由性とにおいて世界に対立し、この世界を無から創造した者であり、これを支持しかつ全能と愛とをもってその究極的目的にまで導くところの者である。この神概念はすでに世界と人間とにおける存在および秩序の究極的諸原因の理性的究明から生ずるものであり、またキリスト教的観念に従えば人間に与えられた神からの自由な告示を意味する啓示に対する信仰によって確立され深化される。神認識のこの二つの道をカトリック的な思考は、確乎として堅持する。第一の道に関してカトリック的思考は、人間的知性は創造された世界から超越的・位格的な創造者についての明確な認識を獲得し得るという立場を主張している。すでにアウグスチノがプラトンを起点として示し、トマス・アクィナスがアリストテレスと連繋して示したごと

p. 13

く、神は人間的な思考に「全存在秩序の根源として、あらゆる真理の光として、幸福の源泉として」自己を顕示するのである。註1)

[註1] Augustinus, De Civitate Dei VIII, 10, --神の存在の証明については拙著「カトリック世界観序論」第3章第4章を参照。

人間的な知性に対して自然的な神認識の性能を疑わしめんとしたすべての命題は、キリスト教的な思想家たちおよびカトリック教会から断固として拒否された。ただにカントの批判主義ならびにこれと関連せる形而上学的な不可知論の諸主張の場合にしかるのみでなく、教会自身の中に発生した信仰絶対論および伝統主義の諸方向においてもまたしかりである。信仰絶対論(Fideismus)および極端伝統主義(Traditionalismus)は人間的精神の弱点を一面的に強調する結果、人間のあらゆる確実な神認識の基底として神自身の側からの直接的な告示を要求したものであった。カトリック教会はただにかかる教説をいくどもいくども公然と反駁したばかりでなく、被造世界からして創造者および主としての神を認識する人間的精神の自然的性能を固執することをヴァチカン公会議の厳粛な教義決定によって、すべての信徒の守るべき義務とした。註2)

p. 14

[註2] Denzinger, Enchiridion Symbolorum, ed. 21-23, 1785, 1806 参照。

現代のカトリック思想家たちも、人間的な神認識の仕方に対しその知性的な性格を否定し、その代わりに、生命的・主観的な体験により、理性的思考と対立する直観により神認識を基礎づけようとするところのさまざまの見解に対しても、まったく同じ態度を取っている。これは何もカトリック観念に従う神認識が直観的要素を少しも含んでいないというのではない。その反対に、カトリック著述家たちの説明は、神認識がアウグスチノ・プラトン的な方法で説明されようと、あるいはトマス的・アリストテレス的な方法で説明されようと、いずれにもせよ神認識における一つの本質的な使命を直観に課しているのである。とにかく、究極的な存在関係および存在原理の直感的把握は人間精神が創造者にして主なる者にまで上昇するために必要であるという点において一致しているのである。註1)

[註1] Rosenmueller, Religionsphilosophie, 2. Aufl. Muenster 1939 参照。

しかしながらカトリック観念に従えば、これら直観的要素も人間の知性的な認識能力に属し、その知性的な天性から発生するものであって、非理性的な諸本能および諸機能から発生するものでは

p. 15

ない。かくて神および宗教に関するキリスト教的・カトリック的な観念は前述の非キリスト教的な思惟方法と比較すると次のごとくに相違している。すなわち、非キリスト教的な思惟方法においては神は主観的・宗教的な発展の帰結点であり、いわば成果であるのに対し、カトリック的観念に従えば、神は創造者の理性的な客観的な把握から出発して人間生活をこれに準拠せしめるところの宗教の冒頭に立つものである。それゆえにカトリック的な意味における宗教とは、人間生活を、諸真理ならびに諸義務の知性的に把握された客観的かつ絶対妥当的な秩序の中へ組み入れることであって、非理性的な主観的な生活欲求の充足ではないのである。諸真理ならびに諸義務のこの客観的な絶対妥当的な秩序の中に神に対する人間の関係が含まれかつ指示されているのであって、この関係の正しい遵守こそ宗教の実践を意味するのである。

かくてカトリック的な思惟もまた、神の超越的な、位格的な完全な存在の概念を厳密かつ純粋に確保している。カトリック教徒は、神において存在とエネルギーと生命との宇宙内的な源泉を認めているのではなく、むしろ霊的自由において宇宙と人間とを創造し、智慧と正義と愛との諸計画に従ってあらゆる被造物を保持し指導して彼らの究極目的へと導くところの、超世界的な・無限に

p. 16

完全な創造者を認めているのである。西洋精神史上にこの神概念の純正さを危うくする思潮が出現した都度、カトリック教会はあらゆる確乎さをもってこれに反対の立場を取ってきた。かくて先頃も繰り返してヴァチカン公会議は厳粛な形式において、宇宙および人間における神的存在の必然的な自己発展についてのあのような観念は、カトリック・キリスト教徒の精神的態度とは融合し得ないものであり、カトリック信仰共同体からの離脱を結果するものであると宣明している。註2)

[註2] Denzinger, 1804, 1805 参照。

神ならびに宗教に関する最も根底的な諸問題におけるこの断固たる態度により、カトリック教は総じて宗教の本質およびその最も固有な諸価値の強力な城郭であり保護者であることを示した。人類史の過程におけるあらゆる民族の宗教的観念がいかに各種各様であろうとも、宗教の本質についての基礎的な観念においてはすべての宗教的な人間の場合に注目に値する一致が現れている。すべての人間が宗教によって、神における彼らの生命を確保し完成せんと試みている。宗教とは彼らにとっては畢竟献げることを意味する。人間の自我と対者たる創造者との間の関係を意味する。宗教

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のこの基本価値は、カトリック教会の代表する明瞭な神観念において昔から最も強い保護と最も旺んな発展とを見出だしている。そして人々がこの神観念から遠ざかるほど、宗教のこの基本価値は危くされた。殊にキリスト教的思惟と不可分に結びついているところの、個々人の生活および共同体の運命を導く神的な摂理への信仰は、この神観念の場合にのみ可能である。これが確保される限りにおいてのみ、人々は人間生活の運命を神の導きと見なすことができ、この導きの実現と利用とに対し人間はその道義的行動によって協力すべきであるということが判る。この神観念が放棄される場合には、もはや運命の測りがたい勢力が残るばかりであって、人間はこれに対し、最善の場合においても、勇気と決断とをもって--それが彼に可能である間だけ--当たり得るのであり、信頼と愛とをもってこれに対するを得ないのである。人間生活の絶対的運命性の強調がそれゆえにまさに現代において、キリスト教的・カトリック的な思惟と異なる種々なる思潮の特徴となっているのである。

理性と信仰

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神から人間への超自然的な啓示が、カトリック的宗教観のもう一つの基礎的な要素をなす。世界および人間を自然的・理性的に観察することがすでに、超世界的な無限の神の認識へ、神の創造作用と摂理との認識へ、ならびに人間が神に存在的に依存するころの認識へ導く。この認識は神から人間への超自然的な直接な自己啓示によってなお著しく確立され拡大される。神から人間への超自然的な啓示の、ならびにこの啓示に相応する信仰の、およびこの信仰に仲介される宗教的知識の、それらの正しい解釈は、それゆえにキリスト教的・カトリック的な宗教観の根底的な最も本質的な構成部分に属する。この神的な啓示はカトリック教徒に対しては、主観の内面における何らかの宗教的な体験を意味するものではなく、人間に対する直接的な神の告示および教導の外的な、歴史的行為を意味するものである。神のこの告示は、創造者が自然界の秩序を通じ、また良心の声を通じて万人に分与するところの、そしてそれについて上に述べたところの、あの間接的な告示と区別するために直接的と呼ばれる。また、この告示は普通の自然現象の外部に立ち、これと必然的に結ばれた神の創造作用の外部に立つゆえに、そしてまたこの告示は人間が彼の自然的な知力のみをもってしては決して獲得されないところの知識を人間に賜与するゆえに、当然また「超自然的」とも呼

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ばれるものである。もちろん、啓示はそれ自身人間的認識力に到達不可能ではないところの種々のものをも含んでいる--例えば神の存在と摂理とに関する諸真理、あらゆる人間の宗教的な基礎義務に関する諸真理のごとき--しかしながら啓示の内容の核心をなすものは、人間にとってはこれを自然的には把握できず、ただ神の言葉を信ずることによってのみ承認し肯定し得るところの、神に関する、神の本性に関する、神の思念に関する、神の救世行為に関する、あの教義に外ならないのである。

しかしこの場合の主要問題は、主観の宗教的な立場および主観の内的な諸体験から解明さるべき盲目的な非理性的な信仰では決してない。あらゆる場合におけると同様、啓示および信仰の最も本質的な諸問題においてもカトリック教会は宗教の理性的・客観的および絶対妥当的な諸基底を厳に確保しており、ヴァチカン公会議を機会として教会は逸脱的な反対見解に抗して、信仰の霊的従順が理性と協和せざるを得ないことを強調した。註1)

[註1] Denzinger, 1790, 1797,1812 参照。

そのためには、天啓の歴史的事実、および、これによって仲介された真理の教会における保持を、

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客観的および普遍妥当的な規準をもって確認することが必要である。カトリック教義神学への緒論はそれゆえに常にいわゆるPraeambula fidei すなわち、人間の理性および知性的自尊と協和するあらゆる信仰への必然的前提に関する論議を形成する。すなわち、殊に神が歴史的に規定された時点において人類に語ったこと、神がその告示のさまざまな担当者、殊にこの神的救世の告示を完成したキリストの使命を明白かつ疑いの余地なき徴候をもって確証したこと、この神的告示がキリストによって創立された教会の裡に毀損されずに保持されていること、そしてこの教会はキリストによって示された記徴によって認識できること、これである。信仰へのこの諸前提はカトリック的観念に従えば理性的に認識することおよび--学的形式において--哲学的および歴史的論証によって確認される。ここからはもちろん信仰自身は一種の論理的帰結のごとく生まれないが、信仰の価値と義務との認識は生まれる。この洞察に従う信仰は、それゆえに、神に対する霊的従順の明白に認識された義務を果たすことを意味する。これは神の最高権威に対する霊的服従の一行為であり、高い道義的な価値および功徳の一行為である。なぜならこの信仰は、トマス・アクィナスが神学大全において説いて敷衍しているごとく、神から啓示された真理への人間的悟性の自発的な同意を意味し、その同意は結局神の権威

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に基づくものである。註1)

[註1] Summa Theologica, II-II, 2, 9 参照。

それゆえに認識と意志とが、悟性と心情とが信仰の成立に参与している。ゆえに使徒パウロが信仰の従順を語っているのは当然である。註1)しかしてまたヴァチカン公会議が、神の啓示に対し人間の側からは悟性と意志との完全な服従が相応ずる、と言っているのも当然である。註2)

[註1] ロマ 10:16, 2テサ 1:8 参照。
[註2] Denzinger, 1789 参照。

神の最高権威への人間のこの霊的服従は人間の理性と完全に合致するものである。まず第一に人間の信仰の理性的基礎および与件を把握するからであり、次にはまた天啓によって--人間の自然的把握力を超越してはいるが--決してこれに対抗するものではないところの、崇高な、新しい認識が彼に賦与されるからである。なぜなら、三位一体の神の内的生命と永遠のロゴスの人間となりしことと人間の超自然的昂揚とに関する信仰のあの奥義の場合においても、人間は啓示された真理の意味を合理的に理解し得るからであり、その内的な有意義性と美とに深く入り得るからである。その際に人間にはその究極的な深さ(すなわちその内的構成と必然性)にまで達し得ぬ

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のはもちろんである。なぜなら有限なる悟性力は決して神の無限性を把握し得ないからである。教父時代から現代に至るカトリック神学者らの偉大な努力と業績とは、カトリック宗教観を支配するところの、理性と信仰との調和、神の超自然的啓示による自然的・人間的な知識の完成、それらに対する反駁しがたい証明である。天啓と信仰とが人間の精神をいかに照明し、人間の心をいかに幸いするか、そのことを右の努力、業績が比類を絶した方法において示している。このことを前世紀の最大の神学者の一人であるマティアス・シェーベンが彼の『キリスト教の玄義』への序論において、次の言葉をもって適切に表現している。「自然的方法によってとうてい到達できないかかる諸真理がわれわれに啓示されるならば、....われわれの内心には驚くべき光明が照り始める、天国的な世界の曙光がわれわれに照り初める、しかしてかかる状態にして初めてわれわれを取り巻いていた、しかして今も取り巻いている暗黒が真に意識されるのであるが、しかも輝き出でたより高い光の一線はよくわれわれに感激を溢れしめるに足るのである。」註1)

[註1] Matthias J. Scheeben, Die Mysterien des Christentums, Mainz, 1931, p. 4 参照。

しかしてヴァチカン公会議の宣明において教会は、人間の自然的な悟性力が一面には信仰の諸前

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提を確保すべきであること、そして信仰に導かれて天啓の内容へのきわめて価値ある洞察を獲得し得ることを強調した。他面にはしかし人間の自然的な悟性力は神的な玄義を自然的な諸真理同様に理解することは決してできず、そのゆえに人間がこの地上の生活の後に神の直観に達するまではあの最高の諸真理は依然としてある程度の暗黒に覆われたままであることを強調している。註1)あの神の直観の内に人間の悟性のあらゆる真理探究と人間の心のあらゆる幸福追求とがその究極かつ永遠の完成を見出す。かくして人間の理性的な性質が存在的に指向しているところのあの究極的絶対的な目的が達成されるのである。

[註1] Denzinger, 1796 参照。

カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成

神と宗教とに関するこのキリスト教的カトリック的な観念は、それによって人間がその存在を確保し完成し得るところのある究極的な絶対者に到達することを、人間に可能ならしめる。ここから生ずる宗教的・道義的な態度--キリスト教的なエトス(倫理)--はそれゆえに天主と

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天主の摂理とへの自由な服従、そしてそれにより自己の運命の構成および完成を意味する。このエトスは「歴史の指導者であり、歴史におけるあらゆる個人的な事象および運命の指導者である神によって規定されているところの必然性なるものを知っている。この必然性に対してはまた人間が同意を表明せざるを得ないものである。運命はかかる信仰においては摂理となり天意となる、しかしてこれに対する道徳的態度は人間の手に委ねられている。かくて人間は彼の運命の構成に参与する。超越的神の権能としてのこの運命への究極的な心構えの宗教的な真摯さにおいて、このキリスト教的な運命観は他の追随を許さない。その神律(Theonomie)は歴史の中に織り込まれている人間の自己存在、および人間の存在の具体的に歴史的な生活の現実における彼の深い純なる自己決定、この両者の確保である。....神への個人的な責任は自己自身の存在への責任に、隣人の存在への責任に、自然および歴史の世界内在的な局部への責任に逃れられない真摯さを与えた最初のものである」註1)超世界的にしてかつ位格的なる神において、人間は、人間独自の現存と人間を取り囲む世界とに対し絶対的に妥当する規範を見出し、この神の前では人間は人間の運命と人類の歴史とに意味のあることを肯定することもできる。人間にとって運命は人間を無力な状態に放置する盲目的な

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力ではなく、むしろ、凡百の出来事を自己の意志せる目標に導き得る全能にして賢明なる神の摂理を、人間は運命の裡に認める。かくて人は、自己の運命と世界の運命との形成に関して、神の計画に基づいて協力すべきであり、協力すべき責任のあることをも人間は理解する。人間は神、すなわち、正義にして全能なる者の前に責任のあることを自覚するゆえに、同胞と周囲の世界とに対する人間の責任もまた変更し得ざる効力と宗教的価値とを保有するに至る。かくて人間の宗教的態度は、神に対する人間の関係を意味するのみではなくして、必然的に人間の人格的生活と人格的存在の悉くと同胞および周囲の世界とに対する人間の関係悉くを意味するに至る。超世界的位格なる神に錨を下ろしている宗教は、かくて、人間の諸々の関係と義務との悉くを含む全生活に対して、絶対的に確固たる指導者となるのである。

[註1] Steinbuechel, Die philosophische Grundlegung der Katholischen Sittenlehre, in Handbuch der katholischen Sittenlehre, heraugegeben von Tillmann, 2. Auflage, Bd. I/I, SS. 163-164 参照。

宗教が非理性的・ミュトス的に解釈され一面的主観体験に依存するものとされるときには、人間は偶有的・被造物的および世界内在的なものの限界を踏み越えることは決してできず、究極絶対の

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存在原理にまで推進することは決してできない。人間がその生活を確保完成せんとするあらゆる秩序は、同一の偶有性・制約性および流転性に捉われている。究極的なものはどこまでも不可解・不解明の運命のままである。これは宗教の最も固有な価値と目的とを危うくするものである。宗教とは結局すべての宗教的人間にとりその存在の絶対的真理および至上善における確保および完成を意味するものである。

カトリック宗教観においてはこれに反し、宗教のこの基礎価値が確保され、その主要目的が達成される。なぜなら人間の理性的性質そのものの中におのれの存在・真理および善の究極絶対の原理への秩序が認められているからである。天啓によって神自身が人間に神の存在と彼の救世意図とを絶対的な明確さをもって顕示している。かくて人間は、彼の創造者保持者および終局目的としての神に直接に相対している。彼は彼の制約されたかつ現世の偶有性に取り囲まれた存在が究極的には神において確保され完成されるのを認める。アウグスチノはこのことを次の言葉で表現している。すなわち「ゆえに神は残る。われわれは神に従う限り善い生活をする。そしてわれわれにして彼に到達するならば、善なるのみならず浄福でもある」と。註1)

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[註1] De moribus Ecclesiae catholicae, I, 6, 10 参照。

神へのこの到達はもちろん彼岸においてはじめて、神的存在の直接的観照および神的生命への参与によって、完成するものである。しかしある意味においてはこの到達はすでに地上の宗教的生活において、キリストおよび教会との協同によって実現される。

キリストを通して実に無限永遠の神は自己を人間に顕示し、人間に超自然的な諸真理を告示し人間に超自然的生活の恩寵を恵与した。そしてキリスト、その大いなる救いの業を完成するために歴史の一定の時点において世界に現れたキリスト、彼は彼の教会において世の終りに至るまで生き続け、働き続ける。教会の協同体内においてなおまたキリストの救いの業が実行され、神は自己を人間に告示し、人間は神に到達する。この協同体の内に宗教の客観的内容と絶対的妥当性とはつつがなく保存される。神とキリストと教会との権威がこれを保証する。ゆえにここで宗教の主要課題であるところの、人間と神との結合が、完全に実現され得るのである。すなわち、教会の生活への参与は神への個人的な献身を意味する。なぜなら神の啓示は教会の内に保存され、神の救いの恩寵は教会の内に分与されるからである。

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宗教に関するこのカトリック的な観念は、それゆえにまた、人間が宗教の諸問題を取り扱うに際して陥り易い種々の誤謬を排除する。その誤謬の一つは、汎神論・自然主義および唯理論が多く陥ったように、神の超越性を放棄し、神を自然的・世界内在的な存在の圏内に引き下ろし、それにより宗教の最も固有な諸価値を廃棄してしまう点に存する。もう一つの誤謬は、神の超越性を一面的に眺め、神と人間との間に越ゆべからざる離隔を置き、そのために宗教的信仰に際してただただ慈悲ある神の恩賜のみを顧慮し、人間の行為および人間の神への信仰を充分に評価しないようになることである。この極端な意見はいわゆる弁証法的神学に固有である。註1)

[註1] 最も名を知られたこの代表者は、Karl Barth, Brunner, Friedrich Gogarten 等である。

カトリック的な観念においては神の絶対的な超越性が保持される。神は自由な愛から自己を人間に顕示したのである。他面にはまた宗教的生活の成立への人間の参与も充分顧慮される。なぜなら人間は彼の自然的な精神力により信仰の必要および義務に関して核心を持ち、霊的自由において信仰の行為を決意し、ついに神の創立した教会において彼の信仰への客観的規範を見出し、彼の宗教的生活のための恩寵を伝達する機関を見出す。かく神への彼の献身は一面から言えば彼の

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行為・彼の功徳であり、他面から言えば神の啓示および救世恩寵の客観的現実によって支持され確保されているのである。神自身は無限であり、あらゆる被造物の上に高く在るが、しかもキリストおよびその教会において自己を人間に顕示し、限りなき愛により人間を自己と結合するのである。それゆえに最近のカトリック著述家の最も傑出した一人が次のように言い得たのは、当然なのである。「宗教としてのカトリシズムは神的器官をもって人間的なものを把握すること、および地上的なものを克服することである。最も近きもの、世俗的なもの、人間的なものさえ、それが神のものであるゆえに、宗教的になる。なぜならわれわれはキリストおいて神に接し、教会においてキリストに接し、地上的な歩み得る道において、可視的かつ可握的な徴標において、日常生存する人間において、教会に接するからである。」註1)

[註1] Lippert, Die Weltanschauung des Katholizismus, Leipzig 1931, 3. Aufl. p. 101 参照。

作成日:2004年05月21日

最終更新日:2004年05月21日

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