基礎神学講話

第3講話


パウロ・フィステル著


中央出版社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


序言

p. 1

本書はカトリック基礎神学の若干の主要問題を取り扱う。基礎神学(護教学)とは、カトリック信仰の必然的与件、いわゆるpraeambula fideiすなわち、カトリック信仰の価値および義務を論証する諸根拠を、学問的に論述しこれを確立することを意味する。

多くの敬虔なカトリック信者は詳密な学問的な探究の道とは別の道から、彼らの信仰に関する確実性に到達する。教会の実存そのものがその宗教的生活の豊富性をもって、彼らにその信仰の真理性に対する充分な保証を与え、教会の内に現れる神の権力と救世の恩寵とを彼らに証明する。多くの真理探究者にとってもまたカトリック教会の教理の崇高さ・その宗教的生活の成果・その全人類への福祉に充ちた感化よりカトリック信仰を受け容れる決定的動機となった。

それにしても、哲学的・歴史的な証明によって、カトリック信仰の意義と必然性とに関する諸論拠を統合的に示すことはやはり必要である。なぜなら、カトリック教会が真に宗教的真理の神より委託された保持者であり告知者であること、およびそれゆえに、その教理は無条件的信仰において受容されねばならぬことは、ただこの方法によってのみ真に客観的かつ普遍妥当的に示され得る

p. 2

からである。

また例えば自己自身の信仰体験の分析によるごとき別途の方法により信仰に関する確実性にまで到達した人々も、かかる総合的証明法により彼らの信仰の与件を再検討し確立することを断念してはならない。このことは何も、この認識からしてすでに必然的に信仰が結果することを意味するのでは決してない。信仰は元来人間の神への自発的奉献を意味するものである。しかしカトリック教理の絶対的真理性とそれから生ずる信仰の倫理的価値とを悟るためには、信仰の諸与件の客観的および普遍妥当的検討が必要であることを意味するのみである。この検討は人間の自然的理性の認識範囲の裡に行われ、主として哲学的歴史的説明法を使用している。そのために基礎神学において聖書および聖伝から証拠が取られるとき、その歴史的資料としての価値のみが認められる。

信仰の諸根拠についてのこの理性的再検討が個々人の性能や教養の程度および生活環境に従って一様でないことを看過してはならない。とにかく個々の信者はカトリック教会の教理の無制約的受容にまで彼を動かすところのある種の客観的および普遍妥当的な根拠を発見することができなければならない。教養あるカトリック教徒に対しては、しかし、この客観的および普遍妥当的な信仰与件を学問的形式によって示すこともまた不可欠である。

p. 3

カトリック信仰の最も重要な与件に、まず、自発的な愛から人間を創造し、これをある永遠の目的に適合せしめる創造者にして主なる神の正しい観念が属する。それゆえにまず最初に神に対する人間の関係、したがって宗教の本質的意義と使命とを明確にしなければならない。

カトリック信仰の与件としてこれに次ぐものは、無限の神がある特別の超自然的啓示--いわゆる天啓--によって人間に宗教の諸真理を教示したという事実である。従って天啓の歴史的事実および超自然的性格が確実に明示されねばならない。

この天啓は殊にキリストによってもたらされ、彼によって完成されたゆえに、そしてまた、すべての人間に対して神の規定した真の宗教はキリスト教によって確立されたがゆえに、神より遣わされた者としての・神の子としての・そして救世主としてのキリストが、これに続く基礎神学の検討の主要対象をなす。

基礎神学はキリストから進んで必然的に、キリストの事業を継承し、彼の教説を告知し、彼の救いの恩寵を人間に伝達するところの教会へと発展する。それゆえにまずキリストによる教会の創立および創立者から教会に与えられた本質的な構成を明示することが必要となる。

次にはキリストが彼の教会に賦与した特徴を取り扱うべきである。この特徴を所有するがゆえにカ

p. 4

トリック教会はあまたのキリスト教的宗教団体の間にあってキリストの真の教会であること・救霊の確実な道であることが、示される。

次にキリストが使徒ペトロおよびペトロの後継者、すなわち、ローマ教皇(法王)を最高の牧者として定めたことが、特別の注意に値する。信仰の最高にして不可謬なる教師であり、すべての信者の霊的指導者である教皇は、必然的にカトリック教会の構成に所属するがゆえに、そして他方、彼の職能の真の性格はカトリック以外の他の人々から容易に誤解されるがゆえに、使徒ペトロおよび彼の後継者たる教皇の最高牧職に関する説明は、カトリック基礎神学の構成にとって不可欠の部分を成すものである。

最後にカトリック教会の教理の源泉およびその源泉に帰する特殊の超自然的性質を解説しなければならない。また、その源泉に基づいて教会の教理はいかにして有機的に展開するかということもまた主要な研究対象である。従って、聖書・聖伝および教義の展開に関する論証は基礎神学に属するのである。

本書の個々の論文は内容的には基礎神学の諸教科書の叙説に従ったものであるが、それよりも比較的自由な説明法を選んだ。また最近ヨーロッパにおいて刊行されたカトリック信仰の基底に

p. 5

関する多くの著書を渉猟し、部分的にはこれを利用したところもある。本論文は決して全基礎神学の完全な輪郭を提供するものではない。むしろこの教科の種々なる主要問題を取り扱ったため、段階的順序においてカトリック信仰受容のための決定的与件を説示し、従ってカトリック教徒のみならず、それ以外の人々にとっても精密な検討の対象たるものを提供している。

2年前に現れた初版には、当時の不利な情勢により種々な欠陥が認められたので、この改訂版においては、それらの不備欠陥を能う限り是正し、さらに第7講話を附加した。

それゆえに本論稿がカトリック信仰の確立にとってきわめて重要な諸問題の正しい知識と判定とを増進せんこと、敬虔なカトリック信徒のみならず宗教的真理の探究者である読者に、カトリック信仰が絶対妥当的な与件の上に立ち、従って真に"rationabile obsequium"すなわち、理性に適ったかつ理性の要求する神に対する奉献であるという認識へ寄与せんこと、これ著者の願いである。

1946年9月、東京において

著者


目次

第1講話 宗教の本質(p.1)

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底(p.4)
キリスト教的・カトリック的な宗教観(p.12)
理性と信仰(p. 17)
カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成(p.23)

第2講話 天主の啓示の史的現実性と超自然的性格(p.31)

史的事実としての超自然的啓示に関する認識の可能なること(p. 32)
新約の天啓の歴史的基底(p. 36)
非キリスト教側の証言(p. 37)
新約聖書の報道内容の真正さと確実さ(p. 40)
新約聖書の諸書の歴史的価値(p. 50)
天啓の超自然的性格(天啓の認識--奇蹟に関するカトリックの見解)(p. 54)
カトリック信仰の絶対的確保(p. 64)

第3講話 新約のキリスト(p. 67)

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性(p. 69)
新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素(p. 74)
メシアとしてのイエズス(p. 74)
天主の子としてのイエズス(p. 80)
キリストの神性に関する初代教会の証言(p. 84)
キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性(p. 89)
キリストの奇蹟(p. 100)
キリストの復活(p. 110)

第4講話 教会の起源と制度(p.126)

旧約における天主の国の理念(p. 127)
イエズスの宣示し創始した天主の国(p. 129)
キリストの創始した宗教的共同体の聖職位階制度(p. 132)
教会の制度に関する非カトリック的見解(p. 142)
教会の普遍的持続と活動(p. 150)

p. 3

「教会の外に救いなし」(p. 154)

第5講話 キリストの教会の本質的記標(p.159)

キリストの教会の一体性(p. 160)
キリストの教会のカトリック性(p. 167)
キリストの教会の使徒伝来性(p. 170)
キリストの教会の聖性(p. 172)
カトリック教会のみこの四記標を悉く所有すること(p. 180)
カトリック教会の一体性(p. 180)
カトリック教会のカトリック性(p. 185)
カトリック教会の使徒伝来性(p. 188)
カトリック教会の聖性(p. 192)

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ(p.204)

福音書による使徒ペトロの首位権(p. 205)
ペトロの首位権についての使徒行録の証言(p. 214)
ローマにおけるペトロの滞在と死(p. 216)

p. 4

ペトロの後継者としてのローマの司教(p. 221)
使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 223)
ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 232)
古代教会における教皇の首位権の行使(p. 238)
教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義(p. 253)
教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立(p. 258)

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開(p.265)

カトリック教理の源泉(p. 265)
カトリック教理の源泉としての聖書(p. 266)
神感の事実(p. 268)
神感の本質(p. 271)
神感によって成りたる結果としての聖書の無誤謬性(p. 275)
教会の教職による聖書に関する証明と註釈(p. 280)
カトリック教理の源泉としての聖伝(p. 288)
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格(p. 288)

p. 5

教会の聖伝の最も重要な証人(p. 298)
聖書と聖伝との相互関係(p. 303)
カトリック教理の展開(p. 306)
教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fideiの展開における教会の進歩(カトリック的意味における教義の進歩(p. 311)


p.67

第3講話 新約のキリスト

新約聖書の諸書が信憑するに足る歴史的文書であり、その著作の時期がキリストの最初の弟子たちの時代であるということは、上述のごとく学問的研究によって一般的に認容された事実である。ゆえに、この諸書がメシアにして天主の御子なるキリストについて報ずるところもまた信ずるに値するものであり、かつ、歴史的現実に相応するものでなければならない。まことに新しい救世制度の創始者たるキリストは新約聖書全体の中心であり、彼の生涯および彼の教説についての記録こそ、新約聖書の内容の本来の核心をなすものである。されば教会は主としてこの記録から救い主についての教理を汲んでいる。この救い主は人々を新しい天主の国において統合し、彼らに恩寵と聖性と永生とを恵賜するのである。新約聖書がわれわれに伝えるところのイエズス・キリストの姿はよく統一し完結している。この容姿の本質的な諸要素は一個の雄渾なる生気溢るる全体を構成している。新約聖書のキリストの容姿そのものを破壊してしまうことなしには、これらの要素のどれひとつをも

p. 68

拒否しもしくは変形することはできない。新約聖書の諸書の一致して報ずるところは次のごとくである。すなわち、キリストは彼の公生涯の全部を通じてあらゆる明確さと断固さとをもって、約束されたるメシアとして、新しき完全なる救世制度の建設者として、天主自身から委託された自己の独異的使命を証言したこと、そしてまた、疑義の余地なきほど明白な方法において自己自身に神的諸属性および神的本質を帰したこと、しかして最後の、自己および自己の使命に関するこの証言をば生涯の聖性により・彼の多くの奇蹟により--しかして特に、赫々たる復活の奇蹟により--立証したこと、これである。新約聖書はわれわれにかかるキリストの姿を示す。この姿こそカトリック教会の信仰の対象であり、使徒たちの時代から現代に至るまでこの聖なる姿は傷つけられることなく保持され、伝承されている。この教会の伝統に伝えられたキリストの姿のみが新約聖書の諸書中に証されている歴史的諸事実に相応するものであり、この姿をもってしてのみイエズス・キリストの無比の人格は単一・完全なる説明を見出すのである。キリスト教の伝統および教会の信仰の伝えるものと相違したキリストの姿を歴史的資料に基づいて組み立てようとする唯理主義的なる近代研究家たちのすべての試みはそれゆえに失敗に帰したのである。

p. 69

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性

あらゆる超自然的なるものを否定し、あるいは少なくとも、その偏見的な立場に基づいてこれを確固たる事実と認めまいとするかかる研究家たちが、教会の伝えるキリストの姿と容易に一致し得ないのは明白である。彼らは一面においては、キリストのこの姿がその主要点において歴史的に立証されていることを認容せざるを得なくされているが、しかも彼らは、この中に含まれている超自然的要素を拒否し、その代わりに純自然的な説明および解釈を見出そうとしている。プロテスタント側の研究家アルベルト・シュワイツェルはその著『イエス伝研究史』註1)において、唯理主義的なる著述家たちの樹てたこの各種の学説ないし仮説を詳細に記述した。しかし彼は最後に、これら唯理主義的批評家たちの主張する諸見解は歴史的事実を一致させることができず、かつ自己矛盾に陥っており、その結果何らの恒久性を獲得せず、かつ相互に抹殺し合うほかなきに至ったとの判定に到達している。

[註1] Albert Schweitzer, Geschichte der Leben-Jesu-Forschung. Tuebingen 1921, p. 631。この書は

p. 70

"Von Reimarus zu Vrede"の改訂増補第2版である。

カトリック側ではなかんずくH. フェルデルが唯理主義的イエズス批判の各様の試みを詳密に検討して、それらが完全な失敗に終わっていることを確認した。註2)

[註2] H. Felder, Jesus Christus, 2. Aufl. Paderborn 1920, I巻、p. 80-102、--Jesus von Nazareth, ein Christusbuch, 2. Aufl. Paderborn 1939, p. 48 以下参照。

この失敗に帰したものは、まず前世紀の唯理主義者たちの次のごとき諸学説である。そのある者は新約聖書の内容を純粋に自然的事象と解釈せんと試み(例えばハイデルベルク大学教授パウルスおよびフランスのキリスト小説家ルナンのごとき)、ある者はイエズスの生涯における超自然的要素をミュトスまたは古潭と見なそうとし(ダヴィド・シュトラウスのごとき)、ある者は福音書のイエズスの姿をもって初代教会内に行われていたと論者の主張する各種の相反する傾向の折衷であるとする(例えばフェルディナンド・クリスチアン・バウルおよびいわゆるチュービンゲン学派の彼と同精神の学者ら)。これらの学説は新約聖書の著作をほしいままに古代キリスト教の伝統が示しているよりも遙か後の時代に置き換えている理由だけで、すでに廃説と見なしてしかるべきものである。近時の研究は--前

p. 71

章においてすでに詳述したごとく--古代教会の伝統の正当さをますます多く認容し、反対の諸説の支持すべからざることを立証した。いわゆる『歴史的・批評的学派』(その最有力なる代表者はA.リッチルおよびA.フォン・ハルナックであった)はそれゆえにその歴史的事実の重要さを認めることを躊躇しなかった。しかしてこの学派が非常な科学的精密さをもって遂行した検討は、キリストに関しかつ彼の宗教の初期に関する新約聖書の記事の真正さおよび史的確実性をきわめて精確に明示するのに貢献するところが多かった。けれどもこの方向の代表者たちは--彼ら自身の世界観的先入観の結果--新約の諸書の超自然的構成部分を歴史的部分として認めず、かえって、これを初代キリスト教会の信仰ならびに宗教的感激の所産と主張しようと試みるゆえに、彼らもまた真の歴史的イエズスの姿にまで到達することができないのである。彼らの方法をもってしてはイエズスの人格の明確なる表示にさえも達しなかったことは、彼ら自身も承認している。註2)

[註2]  Felder, Jesus von Nazareth, p. 66、Harnack, Wesen des Christentums p. 2 参照。

これよりも一層消極的な結果に到達したのがいわゆる『様式史派』である。この学派はごく最近『歴史的・批評的』学派から発展したもので、現代の有力なプロテスタント側の神学者たちがこれに

p. 72

属する(例えば K. L. Schmidt, M. Dibelius, R. Bultmann, G. Bertram)。この学派は新約聖書を使徒時代の一種の通俗文学として取り扱い、この文学が当時の宗教的・社会的諸情勢において発生する際に則ったところの形態なるものを提示せんと試み、すなわち、新約聖書におけるイエズスの生涯および活動に関する最初の歴史的伝統はこの形態に従って発達し、超自然的・奇蹟的なものの光輝をもって変装されてしまったのであるという。かくしてイエズスの歴史的容姿そのものを『直接近寄り得ず』となし、それに関する明瞭なる学問的に確認されたる知識には到達し得ざるものとしてあきらめている。註1)

[註1] Bultmann, Jesus, Berlin 1926, p. 12、Bertram, Neues Testament und historische Methode, Tuebingen 1928, p. 41、Felder, Jesus von Nazareth p. 65 参照。

唯理主義的イエズス批判の結果はかくてまったく消極的であり、相互に抹殺し合うものである。一方において、殊に、近世の唯理主義的批評家たちは、イエズスならびに彼の事業に関する新約聖書の記録の真正性と歴史的確実性とをその本質において認容しなければならなくなった。しかし他方において、彼らは新約聖書におけるイエズスの姿と最も緊密に関連する超自然的要素を拒否し、純

p. 73

粋に自然的なイエズスの姿に到達せんと試み、かくて『信仰のイエズス』に対し『科学のイエズス』を対置せんとする。註2)この企図が完全に失敗したことは唯理主義的批評家たちの中の指導的著述家自身公然と認容しているところであって、そのためカトリック側で『唯理主義的イエズス批判の崩壊』を云々したのも当然である。註3)

[註2] ピオ10世の回勅"Pascendi"中の言葉参照。Denzinger, 2096 参照。

[註3] 前出 Schweitzer p. 396 以下、前出 Felder p. 66 以下参照。

イエズスの教説と彼の使命とを理解し得んがためには、それゆえに、われわれは新約聖書の歴史的文書がわれわれに伝えているイエズス・キリストの姿を、その生気溢るる統一において受容しなければならない。この生気溢るる・現実的なる・そして全体的なるキリストに関する知識こそ使徒たちの時代より現代に至るまでのキリスト教会の信仰の基底である。この基底がなかったら、1900年来教会の歴史においてわれわれに提示されているキリスト教の信仰は決して可能ではなかったであろうし、いわんや若干の現代批評家の誤って主張したごとく信仰が信仰内容を創り出すことなど、夢にもできないことである。

p. 74

新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素 メシアとしてのイエズス

新約聖書のイエズスの姿にはなかんずくメシアとしての彼の使命に関するイエズス自身の明確な証言が属する。註1)すなわち、天主の約束し給うた、徹底的に完全にしてかつ全人類のために定められた救世制度の創始者としての独自の使命である。メシア使命に関する彼のこの自証はキリストの生涯ならびに活動の全体と最も緊密に関連している。この自証は、ガリレアおよびイエルザレムにおけるイエズスの最初の出現の際にすでに現れており、註2)次いで彼の公的活動の頂点においていっそう完全な明確性をもって顕れ、註3)同じくその受難と死とに際しての彼の言辞ならびに態度の中に毫末も濁らずに表れている。註4)

[註1] メシアとはヘブレオ語で聖油を注がれた者、すなわち、神的使命を委託せられた者の義、キリストとはこのギリシャ語訳に他ならない。
[註2] マテオ 4:17 以下、5:17 以下、ルカ4:16以下、7:22以下、ヨハネ 1:49-51、3:1 以下、4:26 参照。
[註3] マテオ 11:4 以下、13:16 以下、16:13 以下、ルカ 19:10、ヨハネ 11:25以下参照。
[註4] マテオ 26:62 以下、ルカ 23:42 以下、ヨハネ 18:33 以下参照。

p. 75

イエズスが若干の機会において、メシアとしての彼の尊厳性を公示するに際して、一種の留保的態度を取ったことと、註5)時の至らぬ前にこれを宣明することを許容しなかったこととは、確かである。キリストの時代においてユデア民族およびその指導者の間にはメシア理念は、主として、政治的・民族的な色彩を帯びており、しかして多くの人々は政治的変革および国民的勃興の徴候としてメシアの出現を期待していたのであるから、この点を考慮すれば、キリストが彼のメシアとしての使命を公示する際に一種の留保的態度を取ったことは容易に理解できる。そしてまた彼が、まず彼の弟子たちおよび初代の信徒らを徐々にメシアならびにメシアの宗教的・霊的使命の真の理念の把握にまで教導することを目指したことは当然である。註6)

[註5] マルコ 1:43 以下、8:30、ルカ8:56、ヨハネ6:15参照。
[註6] マテオ Felder, Jesus von Nazareth p. 186 以下、p. 208 以下参照。

それゆえに彼はまた、旧約聖書に記されているメシアの種々なる称号のすべての中から、当時の現世的・政治的な期待とほとんど関係のない一つの称号、従ってメシアの霊的なる理念を表現すべく他のどの称号に比較しても最も適合している称号を、自己のために使用した。『人の子』なる称

p. 76

号、これである。この称号は旧約聖書のダニエル書においてはすでにメシアの意味に使用されており、註7)また当時の聖書以外のユデア人の著書中にもメシアの称号として使用された。註8)

[註7] ダニエル 7:13,旧約聖書の他の箇所ではこの称号はいっそう広い意味にも使用されている。民 23:19,詩編 8:5 以下参照。

[註8] 例えばエノク書のごとき。なお、Kalt, Bibl. Reallexikon, 2. Aufl. 1938, 2巻 p. 146 参照。

キリストはこの称号を特に使用し、しかして許多の宣明をもって彼はこの称号の真の内容およびそれと同時にメシアとしての彼自身の使命をも明示した。すなわち、人の子は天より、天主より来たれる者であり、註9)罪を赦す権能を有し、註10)永遠の生命を施与する。註11)彼は失われたる者を探してこれを救うためにこの世に来り、註12)多くの人々の賠償として彼の生命を捨てる者註13)、それゆえに罪人の手に渡され、受難し、死し、しかる後燦然として復活する者、註14)彼は人間とこの世とを審く権能を有し、そのために彼は世の終りに天主の権能と栄誉とにおいて再び来たるべき者である。註15)

[註9] ヨハネ3:13、6:62以下参照。
[註10] マテオ9:6,マルコ2:20、ルカ5:24 参照。
[註11] ヨハネ6:27以下、6:53以下 参照。
[註12] ルカ5:32、19:10 参照。
[註13] マテオ20:28、マルコ10:45 参照。
[註14] マテオ17:12および22、20:18以下、26:2および24および45、マルコ9:12および30、10:33以下、14:21および41、ルカ9:44、18:31以下、22:22および48、24:7、ヨハネ8:28 参照。

p. 77

[註15] マテオ10:23、19:28、16:27、24:30以下、25:31以下、26:64,マルコ8:38、13:26以下、14:26,ルカ9:26、21:27、22:69 参照。

かくてキリスト自身は人の子としての彼に課されたメシアの使命と、天主の永遠の救世計画に従うその真の霊的内容とを、疑義の余地なく明白に宣明した。註16)

[註16] 前出 Felder p. 215 以下、p. 235 以下、前出 Koesters p. 127 以下、前出 Pruemm I巻 p. 169 参照。

旧約聖書の預言ならびに象徴においてさまざまに予示されていた天主のこの永遠の救世計画を実現し成就するためにキリストは天主の委命をもって、この世に降った。人間の永遠的・超自然的な救いについての天主のこの計画はキリストの眼前に常に全体として映じた。そして彼は彼自身の生涯においてこれを基礎づけること、世界史中にこれを続けることおよび世の終りにこれを完成することを、彼自身の大事業と見なした。ゆえに彼の救世使命および彼の国についてのキリストのさまざまの説示は、その有機的統一においてこれを見かつ理解するを要する。若干の批評家はメシアの国の告知に関するキリストのある特定の言辞を根拠として純終末論的(eschatologisch)解釈を与えんと試みた。註1)

[註1] 例えばLoisy、Schweitzer、しかしてある意味においてはHarnackもそうである。この終末論的解釈によ

p. 78

れば、メシアがこの世の終りに天主の国を建設し、世の終りがメシアの降臨と同時に来たることを意味する

これに対しイエズスの多くの明白な宣言は、この世における彼の国が徐々に発展してかつ永続することを強調し、この発展が最後の審判およびキリストの再臨に先んずべきものであることを強調していることを特筆しなければならない。すなわち、新しい天主の国はユデア人から異邦人へと移行し、しかして異邦人のもとにとどまり、果を結ぶという。註2)最後の大完成が来たる前に地上の全民族に宣伝されるのであるという、註3)その完成、すなわち、キリストの再臨の時点は--キリストの明確に主張するところによれば--全知なる天主のみ知ろしめすところにして、何人にも啓示されておらぬのである。註4)

[註2] マテオ 21:43、8:11参照。
[註3] マテオ 24:14、26:13、28:18、マルコ 13:10、14:9、16:15,ルカ 24:47、使徒行録 1:8参照。
[註4] マテオ 24:36、マルコ 13:32参照。

また天主の新しい国を静かに成育して大きく茂る芥子種、徐々に粉を脹らますパンだね、および広い畑に蒔かれ、毒麦と共に収穫の日まで育ち稔る麦に喩えたるキリストの比喩も、天主の国が世界史において徐々に有機的に成長することを暗示している。註5)

p. 79

[註5] マテオ 13:1以下、マルコ 4:30以下参照。

もちろんイエズスは常にまた永遠にして不可変的な決定を伴うところの来たるべき大審判をも明白に見、この最終の事件を絶えず記念しかつ救いを確保すべきことを弟子たちに対して深い真剣さをもって戒めている。註6)

[註6] マテオ 24:37以下、マルコ 13:33以下、ルカ 21:36以下参照。

しかして彼は新しい天主の国の階層のすべてを、一つの大きい現実と見、この現実が彼--天主より遣わされ、約束されたるメシア--においてすでに開始され、世の終りにおける大完成に向けられているのであることを認めた。註7)

[註7] Felder, Jesus von Nazareth p. 229 以下、 Karl Adam, Jesus Christus,第6章 p. 175 以下、Grandmaison, Jesus-Christ, Paris, 1928 第2巻 p. 454 以下参照。

天主のかかる全救済計画およびその現世と来世とにおける実現に関するイエズスのこの独異的な知識は真のかつ本質的なる天主の子としての彼の自意識と最も密接に連関している。

p. 80

天主の子としてのイエズス

キリストが不動の明確さをもって自己の内に所有し、これを弟子たちに啓示したところの、天主の子としての自己意識こそはじめて、キリストの人格ならびに彼の事業の意義に関する大問題について究極的な・最も深い・完全な解答をわれわれに与えるものである。唯理論的なるイエズス研究家たちは天主の子たるのキリストのこの意識を認容せず、その意識内容を充分に評価せんとはしないので、まさにそのゆえに、彼らは総じて真の歴史的キリストを理解することができず、彼らのイエズス叙述に当たっても何らの妥当性も恒久性も有し得ない半途な断片しか創造しなかったのである。註1)

[註1] 前出Adam 第6章 p. 194 参照。

イエズスは天主の子たる自己が天主と一体であるとのこの意識を多くの方法をもって啓示した--直接に、間接に。新約聖書に表示されている彼の言辞と行動とをわれわれの眼前に髣髴しさえすれば、到る処でこの自己意識の啓示に出会う。まずイエズスは彼以前のすべての大いなるものおよび聖なるものを遙かに越えて高くあることを自覚していた。すなわち、旧約の預言者および天主の使者註2)・神

p. 81

殿および安息日註3)・天使註4)以上であることを自覚していた。次に彼は彼の全活動に伴いかつ彼の弟子たちも敵人にも抹消し難い印象を与えたところの、大いなる奇蹟的天主の業を、自己の名および自己の力において完成し、その際、天主にのみ属するところの被造万物に対する権能を所有していることを自覚していた。註5)イエズスはまた彼の名において使徒および弟子たちにもこの権能を付与した。註6)そのほか彼はおのが天主自身の与えた旧約の掟の上にあるものであることを自覚し、掟を本質的な諸点において改革する権威を自己に認めた。註7)実に彼は天主にのみ帰すべき人間の罪を赦す権能をもって出現した。註8)そして--昔から専ら天主にのみ属するものとされていた--最後の大審判を行う職能を自己に帰した。註9)

[註2] マテオ 12:41以下、21:33以下、ルカ11:31以下参照。
[註3] マテオ 12:6および8、マルコ 2:28参照。
[註4] マテオ 13:41、24:31,26:53,ヨハネ 1:51参照。
[註5] マテオ 8:16以下および25以下、9:6以下、17:14以下、マルコ 1:41、5:41、ルカ 7:14参照。
[註6] マテオ 10:1以下、マルコ 3:15、16:17以下、ルカ 9:1以下参照。
[註7] マテオ 5:21以下および27以下および38以下、19:3以下参照。
[註8] マテオ 9:5以下、ルカ 7:48、ヨハネ 20:21以下参照。
[註9] マテオ 7:22以下、24:30以下、25:31以下、マルコ 13:26以下、ルカ 21:27参照。

キリストがあらゆる明確さと決定さをもって自己を新約の救いの教説の中心に置き、彼の弟子たち

p.82

および信徒たちから絶対完全なる服従を要求したことも、これと関連する。すなわち、彼は彼自身彼の使命および彼の教説への不動の信仰と、この信仰を世界の前に大胆に告白することを要求した。註1)しかして十字架を共にするまで心と愛と生命とを残りなく奉献することを要求した。註2)福音書もまた一致してキリストに神たるの本質的特性を帰し、父なる天主との存在の一体性を明瞭に力説する。共観福音書は、キリストの父に対する独異的な関係、および、父とのキリストの存在的同一性に関する深い洞察を与えるような顕義的証言を含んでいる。マテオ福音書およびルカ福音書に記されてある讃美の辞において彼は弟子たちの選択および召命について父に感謝しているが、弟子たちに与えられた超自然的な能力が最も完全な方法において彼自身に存しており、これが究極的には彼と父との間に存立するところの、認識と存在との独特的な一致に基礎づけられていることを強調している。子のみが父を知るごとく、父のみが子を知る、世の救い主たる子が人間の恵与するところの天主の特殊的恩寵によらずしては、いかなる人間も天主のこの超自然的認識に到達することはできないという。註3)同じく共観福音書に記されているこの外の多くのキリストの言辞は、彼の神性に関するこの証言と合致するものであって、それらの言辞をもって彼は天主に対する彼の独異的関係を啓

p. 83

示し、自己をもって天主と同質にして天主の永遠の子なりと表白している。註4)この表白をキリストは受難の日に彼の審判者等の前に不動不抜の断固さをもって反覆し、そのために彼の死の宣告を受けたのであった。註5)しかして彼が復活の栄光において彼の弟子たちに現れた時、彼は再び明確なる言辞をもって『わが父』と『汝らの父』とを差別した。註6)しかして万民に教え、これに洗礼を施すために使徒たちを派遣するに際し、彼は彼らに示した洗礼方式において自己自身を洗礼の超自然的有効性の神的本源として、父および聖霊と同列に置いた。註7)共観福音書のこの宣言はこの上もなくヨハネ福音書によって確認されている。ヨハネ福音書はイエズスが永遠の天主の子であり本質的に天主と一致するものであることに関し数多の明確かつ深刻なる証言を記している。そこでキリストは多くの機会において彼の神としての永遠的存在性を強調している。註8)その活動と註9)存在とにおいて註10)彼と父なる天主が一体たることを強調している。しかしてその生涯の終結に当たってキリストは彼の使徒たちに対して、自己と父なる天主との存在が永遠に一体なることを人間の悟性に解明し得る限りの究極的・玄義的深遠さにおいて顕示した。註11)そして彼自身が天主の子としての自己の尊厳を立証したごとく、彼はまた他の人々からも彼のこの尊厳の告白を歓んで迎えた。註12)かくてヨハネ福音書全体が真

p. 84

の永遠の天主の子としてのイエズス、世の創始以前から天主と共にあり、時の満つるや『御言は肉となりて、われらの中に宿り給え』る天主の御言としてのイエズスを示している。註13)天主の懐に在す『父の独り子』としてのイエズス、天に在す父について人間に説明したイエズスを示している。註14)

[註1] マテオ 10:32以下、マルコ 8:38、ルカ 12:8以下、マテオ 11:6、14:31参照。
[註2] マテオ 10:35以下、16:24以下、マルコ 8:34以下、ルカ 14:25以下参照。
[註3] マテオ 11:25ないし28、ルカ 10:21および22、なおFelder, Jesus von Nazareth p. 276以下、前出Adam p. 207以下、前出Grandmaison II巻p. 60 以下参照。
[註4] ルカ 2:49、マテオ 16:16および17参照。後者は内容的にマテオ 11:27と大なる近縁を示し、この箇所によりいっそう明瞭にされる。ペトロはキリストをメシアかつ天主の子なりと認める恩寵を天主から与えられたゆえに幸いなりと称ばれている。...なおこれについて前出Koesters p. 133以下、Grandmaison II巻p. 62以下参照。
[註5] マテオ 26:63ないし65、マルコ 14:61ないし64、ルカ 22:70および71、ヨハネ 19:7参照。
[註6] ヨハネ 20:17参照。
[註7] マテオ 28:19参照。
[註8] ヨハネ 3:13、6:63、8:40ないし59、17:5および24参照。
[註9] ヨハネ 5:17以下、8:18以下、14:19以下参照。
[註10] ヨハネ 5:18、10:33ないし39、12:45以下、14:7以下、17:10および21参照。
[註11] ヨハネ 17:5ないし24参照。
[註12] ヨハネ 11:27、20:28以下、マテオ 16:17参照。
[註13] ヨハネ 1:14参照。
[註14] ヨハネ 1:18参照。

キリストの神性に関する初代教会の証言

p. 85

キリストの神性に関する彼自身のこの自覚に対し、使徒たちの説教と初代教会の信仰とが相応する。使徒たちがその福音の説教において救い主イエズス・キリストに神的性質を賦与したことは、彼らの書簡にも、使徒行録にも明白に現れている。例えばペトロがすでに聖霊の降臨の直後においてイエズスを生命の創造者・天主の子として宣言している。註1)

[註1] 使徒行録 3:15ないし26参照。

パウロはイエズスを永遠に讃むべき神なりと称し、彼に真実かつ現実の意味における神性の宿ることを強調している。註2)

[註2] ロマ 9:5、テトス 2:13、フィリッピ 2:5ないし7 参照。

彼はまた『主』(Kyrios)なる称号をキリストに冠しているが、これは旧約の宗教的文献および当時の一般的語法において--ユデア教の内部においても外部においても--神名として使用されていたものである。註3)すなわち、この称号は、すでに、旧約聖書の70人ギリシャ語訳においてもまた天主の名として使用され、ギリシャ・ローマの世界においてはしばしば種々なる宗派の敬意を捧げる神性に対して適用されていた。

p. 86

[註3] Felder, Jesus von Nazareth p. 300 以下、前出 Pruemm I巻 p. 219以下参照。

確かに『主』なる語はそれ自身としてはこれより外の意味も許される。しかしパウロが使用し転用している方法は、この語を真正の天主の名を意味するものと解釈せんと欲したことに寸毫の疑いもない。何となればこの『主イエズス』は使徒パウロおよび総じて人間の生活に対する命令者であり、あらゆる事象の操作者であり、これに向かって祈祷を献ぐべき者であるからである。註4)主イエズスが課したところの使命および委嘱は、この使徒の全生涯および全労働の規準であり、彼が生き、しかして死するのはこの規準の成就のためであった。註5)主イエズスは父の右に坐し、天主の最高の権力と無限の栄光とに参与する者である。註6)イエズスはまた人間のための救いと超自然的恩寵との源泉である。註7)しかしてこの意味において使徒パウロは絶えず繰り返して『われらの主イエズス・キリストの恩寵』について語る。註8)イエズス・キリストを主と告白することはそれゆえに、パウロに従えば天主を崇敬しこれに光栄を帰することであり、最高の神的計画の成就を意味する。註9)

[註4] 2コリント 12:7ないし9、1コリント 4:19、テモテ 4:17以下参照。
[註5] ロマ 14:8以下、フィレモン 3:10以下参照。
[註6] ロマ 8:34以下、コロサイ 3:1以下、ヘブライ 1:3、8:1以下、10:12以下参照。
[註7] 1テサロニケ 5:

p. 87

9以下、テトス 3:4以下参照。
[註8] ロマ 16:24、1コリント 16:23、1テモテ 1:14参照。
[註9] フィリッピ 2:11参照。なお、コロサイ 45:24参照。パウロはここで旧約聖書における神名をキリストに冠称している。....これに関し前出 Felder p. 345以下参照。

以上のごとき意味でイエズス・キリストを主なりと証言する点において、他の使徒たちおよび新約聖書の著者たちもパウロと一致している。福音記者の中ではなかんずくパウロの忠実な随伴者ルカがその福音書においてしばしばこの表現を使用している。註1)ルカがこの点において、初代教会における最古の伝統に従ったのであることは疑いを容れない。使徒行録においてルカは、初代のキリスト教徒らが主イエズス・キリストの告白に関して一致していたことを示している。註2)ペトロも種々の箇所においてキリストを『われらの主かつ救い主』と呼んでいる。註3)そして新約聖書の終結たるヨハネ黙示録の終末には、主イエズスが天主の栄光において審判し、彼の事業の徹底的完成のために再臨すとの約束への敬虔かつ憧憬に溢るる祈りが現されている。註4)

[註1] ルカ 7:13、10:1、13:15,24:34参照。
[註2] 使徒行録 1:6,4:33、7:58、9:17、10:36、11:20、15:11および26、16:31、19:5、20:21および24および35、21:13、22:8および10、23:11,26:15、28:31参照。
[註3] 2ペトロ 1:11、3:18参照。 [註4]

p. 88

黙示録 22:20参照。

初代教会教会のこの一致した告白の内容を正しく評価するためには、キリストの最初の弟子および彼の教説の宣伝者が厳格なる一神教において教育された人々であることと、この一神論的神の観念を寸毫でも傷つける可能性のある一切に対しては真に嫌悪を持った人々であることを、考慮すべきである。ゆえに彼らがイエズスを天主の子として告白するのはこの一神論的神の観念の内部において可能であったためであって、これと不離の関係にあることが顕わされている。従ってこの告白は、すべての多神論的ならびに自然主義的な神の観念に根ざす古代のギリシア・ローマ世界の宗教的ミュトスとは、本質的に相異なりかつこれから毫も影響を受けていないのは明瞭である。註1)イエズス・キリストを天主の子として認容することおよび彼を主として崇敬することは、初代教会においては、一神論的神の観念ならびに礼拝の独自の完成を意味した。これが根拠の究極するところは真正唯一の天主がその内的本質と生命とに関しキリストを通じて人間に告示した啓示に基づく。使徒以後の時代(第2世紀初頭以後)の著述家たちはそれゆえに、すべてのキリスト教徒の宗教的生命の基底として、唯一無限なる天主およびこれと同質なる御子にして救い主なるイエズス・キリストへの信仰を絶えず反

p. 89

覆して強調する。註2)教会自身ももの信仰の純潔性と無毀損性とを熱心厳格に監視し、これが保持を危殆ならしむる可能性ある一切に対しては断固たる態度をもってこれを拒否した。註3)従ってキリスト自身の言ったごとく、『血肉』によらず天の父のみが啓示するところの真理、註4)唯一の父を知り、父を人間に知らしめるところの子、註5)従って彼自身自己について『われは道なり、真理なり、生命なり、われによらずして、父に至る者はあらず』と宣言したところの子、註6)この子を通して啓示される真理が問題であることを、教会は熟知しているのである。

[註1] 前出 Adam p. 194以下、前出 Pruemm I巻 p. 225以下参照。
[註2] AntiochiaのIgnatius, Ephes. 7,2, Magnes. 8, 1,(Rouet de Journel, Enchiridion Patristicum, ed. 10-11, 39, 45), Justinus Apol. 1, 24(R 117)参照。
[註3] これに関する教会の多くの信仰宣言、すなわち、ニケア公会議(325年)とそれに先んずる教皇庁の宣言 Denzinger 49, 54からピオ10世(1903-1914)のいわゆる近代主義者(モデルニスト)に対する信仰宣言まで参照。(Denzinger 2027, 2096)。
[註4] マテオ 16:17参照。
[註5] マテオ 11:27、ルカ 10:22、ヨハネ 1:18参照。
[註6] ヨハネ 14:6参照。

キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性

p. 90

若干の近代批評家たちは唯理論的偏見からして、イエズスの生涯における超自然的要素を拒否する。福音書の記事全体と最も密接に関連しているキリストの証言、すなわち、彼の神的本質ならびに父との存在的同一性に関する彼の証言は、これら批評家たちにとってはとうてい理解し得るところではない。そのため彼らのある者は、イエズスについて異常な精神状態を確認せんとさえするに至り、彼の証言の超自然的内容を幻覚および忘我に帰さんと試みるに至った。註1)けれども新約聖書の史的源泉においてわれわれに示されているキリストの全姿は真正面からこれに矛盾する。聖書においてイエズスは絶えず旺盛なる生命の横溢した力を示している。彼の体躯は健康強壮にして、遍歴と説教との苦難に満ちた生涯が彼に課したところの高度の要求によく耐え得た。倦むことを知らず彼は遠い山地をあまねくめぐり、弟子たちを教え、群衆に説き、病める者を慰め、疾患を医し、しかして一日の重い労苦の後、夜を徹して祈祷の中に過ごすこともしばしばあった。註2)イエズスの精神生活の崇高さは、なかんずく、彼の思惟の明晰さと深遠さとにおいて、彼の意志の強固さと耐久力とにおいて顕れている。彼はその出現の当初から、天主が彼に課した大使命を識っていた。彼はこの使命の成就が彼および彼の信徒たちにとって何を意味するかを知悉していた。彼は世界と人類とに係る天主の計画および現世と

p. 91

永遠とにおけるその成就を、驚異的正確さをもって見ていた。註3)福音書はイエズスの精神生活のきわめて微細な動きをも多くこれを記している。例えば、彼がある感覚にいかに捉えられたか、いかに同情に動かされたか、いかに心から歓んだか、いかにその心において愕き懆いだか、等。しかし彼が何らかの判決を下すのに躊躇したとか、問いに対する答えを遷延したとか、ある事柄を熟考しつつ探究したとか、宣明したことを訂正したり改善したりしたことは一度もない。彼の判断を混濁ないし逡巡させるような驚愕も不明確をも示したことはかつてない。そして彼が問いを発する時は、それが彼自身のためにあらずして他者のために発せられたものであるとの印象を起こさせる。彼の説話は崇高なる平静と明確性と確実性とに溢れている、そして人々が永い間しかも苦心して獲んと努めた問題の解答をさえ、彼は数語をもって徹底的に与えてしまう。註4)同時に彼は崇高な諸真理をあらゆる教養とあらゆる時代との人々に示ししかも抹消し難き印象を与えることができた。註5)イエズスの中にはこの明確かつ総括的な知識と共に、天主から彼に委ねられた使命に属するすべてのことを為し遂げ

p. 92

る意志の強固さが見出される。同時に彼は弟子たちからも同様な決意を厳格に要求している。それゆえに彼は父の思念に反し、その実行を妨げる可能性のある一切のものを拒否した。註6)一切においてまったく父の委命を実行することを常に反覆して彼は断言する。註7)そしてこの心構えをもって彼は遂に自ら進んで苦難に踏み入り、註8)これを完遂するまで固く執って動かなかった。註9)彼はまた同じ断固さをもって、彼に従わんと欲するすべての人々から、天主の委命への全的かつ純粋なる献身を求めた。ゆえに彼の語に従えば、天国とはこれが獲得のために他の一切を放棄すべき宝であり、貴い真珠である。註10)彼は彼に従わんと欲する者に対してはその生命を永久に確保せんがためにかえってこれを犠牲に供すべき必要を強調し、註11)後を顧みまたは後退することは許されないと強調し、註12)従って犠牲--放棄と十字架--を辞せざる強固さがなければならないことを強調した。註13)しかして彼は、人にしてその霊魂を救い、罪を避け、天国を獲んがためにには、あらゆる犠牲を覚悟すべきことを強い言辞をもって反覆訓戒している。註14)

[註1] 例えばJoh. Weiss, R. Otto, Oskar Holtzmann等。なおFelder, Jesus Christus II巻 p. 60以下、前出 Grandmaison II巻 p. 123以下参照。
[註2] マテオ 3:13以下、4:1以下および23、8:20、14:23、

p. 93

15:21および32、17:1、19:1以下、20:17、マルコ 3:20以下、6:31ないし54、ルカ 6:12以下、ヨハネ 4:1ないし42、5:1以下、11:1以下参照。
[註3] ルカ 2:49、19:10、マテオ 16:13以下および24以下、20:28、マルコ 10:35以下および45以下、ヨハネ 3:14、10:10以下、17:1以下参照。
[註4] Reatz, Jesus Christus, Freiburg 1925, 2.u.3. Aufl. p. 111以下参照。
[註5] マテオ 5、マテオ 13、マテオ 18:21以下、25:1、マルコ 2:19以下、12:17、ルカ 15、ヨハネ 8:10以下参照。
[註6] マテオ 16:21ないし23参照。
[註7] ヨハネ 4:34、8:29以下、10:18参照。
[註8] マテオ 20:17以下、26:39、マルコ 10:32以下、14:36、ルカ 18:31以下、22:42、ヨハネ 14:31参照。
[註9] ヨハネ 19:28ないし30参照。
[註10] マテオ 13:44ないし46参照。
[註11] マテオ 10:39、ルカ 9:24参照。
[註12] ルカ 9:62参照。
[註13] ルカ 14:25ないし33参照。
[註14] マテオ 5:29以下、16:24以下、マルコ 9:43以下参照

メシアという大使命のためにその全力と全生涯とを賭したにもかかわらず、イエズスは常に高度の慎慮と精神の濁りない平静と明確なる現実感とを保持していた。彼の思考と説話と行動とには絶えず均斉が保たれている。註1)弟子たちが彼らの主に対する熱心のあまり、賢明ならざる言動に趨るようなとき、彼は彼らを抑え、彼らを是正している。註2)イエズス・キリストの全人格の上には驚嘆すべき調和が横たわっている。彼の正確はあらゆる方面にわたって完全に円熟し、均衡を保ち、かつ最も優れたる人間でさえも免れ得ざるところの人々を種々なる類型に区別する一面性なるものがまったくな

p. 94

い。人間的な精神生活のさまざまの相貌はイエズスにおいては驚嘆すべき調和的な全体性の中に統合されている。『燃ゆるがごとき熱心と測り知れざる寛宏・高貴な激情と慎重な平静・聖なる真摯と明朗なる快活・孤独愛好と社交性・王者のごとき威厳と最も深い謙虚さ・不屈の断固さと最も柔和な温容・強力な実行力と平静なら慎慮・罪人への最も親密なる愛と罪に対する克服し難き憎悪・溢るるばかりの同情心と厳粛を極むる正義心・圧倒的な快適と不動の公正・清廉なる真実さと極度の寛大・柔と剛・恭順と清冽・ダイヤモンドの堅さと母性のやさしさ・休むことなき外的活動と観照的なる内面性・天主に対する幼児のごとき信頼と堂々たる自己意識。人間の有するいかなる純真なる相貌も彼の崇高なる容姿において見出されざるはなく、いかなる相貌も彼の本質の驚くべき完璧さと均斉とを妨げるものはない。これが彼の個性なのである。』註3)

しかして人間的性格の一面性なるものを超越していたごとく、イエズスはまた時間的ならびに国民的限局性をも超越していた。むろんイエズスの外的生活過程はユデア民族の史的事実と結びついており、内面的にはこの民族の裔であることを自覚しており、この民族の特殊なる宗教的使命を純粋のイスラエル人としての内的確信をもって肯定していた。しかも彼は同時に天主の全人類を救わんとす

p. 95

る計画と、これを成就すべてき彼の大使命とを常に意識していた。さればこそ彼はまた、ユデア民族主義がメシアの国に賦課せんとしたあらゆる制限と限界とを断断固として却けたのであった。註4)かくのごとくイエズス・キリストの精神的容姿はその調和と総括性とにおいて真に人類史上独自な現象である。ゆえにキリストは全人類に属する者・あらゆる民族あらゆる時代の人間に属する者なのである。

[註1]  『落ち着いた、均斉のとれた、一切を唯一目的に向けた沈思が、彼を支配する。--彼以前のいかなる預言者も所有していなかったような、極度の緊張の真唯中における精神の内的自由および明朗--高度の平静と不動な確実性の一証』。Harnack, Wesen des Christentums, 1905, p. 23.
[註2] ルカ 9:55以下、ヨハネ 18:11参照。
[註3] Felder, Jesus von Nazareth, pp.80-82.
[註4] ヨハネ 4:21ないし24、10:16、12:32、17:2 参照。

上述せしところから充分明白であるごとく、イエズスの場合に異常的精神状態を云々することなどは、不当の極みである。このような状態はなかんずくそれがさまざまの種類の幻覚に存する意味においては、われわれがキリストの精神的容姿において確認した性格特徴の正反対を意味する。異常的精神状態とはすなわち、内的・精神的均衡の重大なる阻碍、強迫観念および妄想観念、現実感および自由なる精神的活動性の喪失を意味する。その他いわゆる宗教的恍惚の諸現象をいかように解釈しようとも、この諸現象

p. 96

もまた、人格的・精神的なる行動の自由性の喪失、神的印象受容の体験状態への陥没等を意味するものであって、新約聖書のわれわれに伝えるイエズスの姿とはおよそ似ても似つかぬものである。註1)もちろん唯理論的批評家たちは彼らにとって不可解なるイエズス・キリストの諸性質を以上のごとき諸現象をもって説明せんと試みつつあるにもかかわらず、これらの諸現象をいっそう詳密に表示し定義することを蔑ろにしている。註2)彼らの曖昧朦朧たる記述を見よ、それは新約聖書のイエズスの姿の明確現実なる風貌に対比して蔽うべくもあらぬ対立を示す。新約におけるキリストを見よ、それは精神および肉体のあらゆる性能を完全無碍に所有し、精神的なる自由と調和と崇高さとを明示し、完璧の聖性において燦乎として輝いている。この聖性はまず第一に父に対する彼の関係において顕現する。イエズスの全生涯と全行動とには天父の意志への完全なる従順と、天父の委命に対する心からなる準備があり、これに導かれている。このことをキリストは繰り返し繰り返し彼の弟子たちおよび全民衆の前に強調している。註3)この表白を彼は彼の受難と死との間際においてすら不動の堅固さをもって反覆している。註4)彼はこれを彼が復活の栄光において彼の弟子たちに現れたときにも再び宣言している。註5)彼は天父の完全性と神聖とについて人々に深い感動をもって語っている。註6)同じく天父の善と摂理とに

p. 97

ついて、註7)天父の慈悲について、註8)天父の正義について、註9)しかしてなかんずく人間に対する天父の愛について註10)溌剌たる感動をもって語っている。

[註1] 前出 Adam 第4章 p. 118、Felder, Jesus Christus II巻 p. 60以下、Grandmaison II巻 p. 126参照。
[註2] 前出 Felder, II巻 p. 62 参照。
[註3] ヨハネ 4:34、5:19、8:29、マテオ 11:25以下、18:14 参照。
[註4] マテオ 26:39、マルコ 14:36、ルカ22:42、23:46、ヨハネ 14:31、17:4 参照。
[註5] ヨハネ 20:21、使徒行録 1:7 参照。
[註6] マテオ 5:45ないし48、ヨハネ 17:11および25 参照。
[註7] マテオ 6:6および26、ルカ 11:13、12:22以下参照。
[註8] ルカ 15 参照。
[註9] マテオ 6:4ないし6、ルカ 1、マテオ6:25以下参照。
[註10] マテオ 11:25以下、ヨハネ 14:20以下参照。

彼は天父と不断の祈りによって交通した。この祈祷は彼の全生涯を貫き、彼の公的活動の全行為ならびに全企図を隈取っている。彼は独りで朝あるいは夜祈る、彼は弟子たちの前で、そして殊に民衆の前で祈る、常に生気溢るる畏敬と燃ゆる愛と深き感動とにおいて。註1)模範と言葉とをもって彼はすべての人々に祈ることを訓え、『絶えず祈ること』を訓え、註2)『完全なる祈り』を訓えた。註3)これは天父が霊であり、天父には霊と真実とをもって祈ることが適わしいから、これは天父の当然要求するところである。註4)しかして彼は弟子たちにあの崇高なかつ驚嘆すべき祈祷『天に在すわれらの父よ....』を遺した。この祈りにおいて主にして父なる天主に対する敬虔なるキリスト教徒の内的態度が完

p.98

全な表現を見出しており、全キリスト教界の普遍的な祈りとなっている。註5)

[註1] マルコ 1:35、ルカ 6:12、9:28、22:39ないし41、マテオ 14:23、26:39、ルカ 23:34、および46、ヨハネ 11:41、17:1以下参照。
[註2] マテオ 7:7以下、マルコ 11:24以下、ルカ 11:9以下、18:1以下参照。
[註3] マテオ 6:5以下、ヨハネ 14:13以下参照。
[註4] ヨハネ 4:23以下参照。
[註5] マテオ 6:9以下、ルカ 11:2以下参照。

天父の完全性について彼は幾度も証言しているが、この完全性は人間に対するイエズスの関係にも反映している。すなわち、弟子たちに対する繊細でしかも強い愛において・註1)民衆および小児に対する彼の懇篤において・註2)病める者および悲しめる者への深い同情において・註3)罪人に対する憐憫において・註4)敵に対する寛容と威厳とにおいて・註5)傲慢と不誠実とに対する峻厳において・註6)天主の審判および究極的決定を預言するに際しての比類を絶した崇高さにおいて註7)反映している。イエズスは罪の危険とその怖るべき結果とについてしばしば語り、人間はその罪のゆえに天主の憐憫を是非必要とすることを強調している。註8)しかし彼は自己の罪感に関する意識を一回も示したことはなく、いつも彼は自己を罪人およびおよそ罪なるものから明確に隔離している。註9)そして彼はおのが天父の意志を完全に成就し、その嘉尚を享有していることを自覚している。註10)そしてこの意識を彼はその受難と死との最後の時に

p. 99

おいてもなお完全に保持していた。註11)絶対に罪なきことを自覚すると同時に彼はまたおのれが贖罪者であり罪の審判主であることをも自覚していた。註12)イエズスと親しく接触しあるいは少なくともイエズスの生活の直接的証人と交わった弟子たちおよび最初の信徒らは、皆彼らの師の絶対的無罪ならびに聖性の大いなる、活き活きしたる印象の下に立ち、倦むことなくこれを公然証言した。註13)イエズスのこの独自的聖性は同時にまた、あらゆる人間的自然的能力および努力を遙かに超越するものであり、彼自身ならびに彼の使命に関する彼の宣明の否み得ざる証明でもある。

[註1] ルカ 22:15ないし27、ヨハネ 13ないし16、20:17 参照。
[註2] マテオ 9:36以下、15:32以下、マルコ 10:13以下参照。
[註3] マルコ 1:41、マテオ 20:34、ルカ 7:13以下、ヨハネ 11:33ないし45 参照。
[註4] マテオ 9:2以下および13、ルカ 15:1ないし32、7:36以下、19:1以下、ヨハネ 8:1以下参照。
[註5] マテオ 22:18以下、26:50、ルカ 23:34 参照。
[註6] マテオ 7:15以下、12:22以下、23、ルカ 16:15 参照。
[註7] マテオ 24ないし25、マルコ 13、ルカ 21 参照。
[註8] マテオ 6:14以下、18:6以下、マルコ 9:41以下、ルカ 13:23以下、17:1以下、ヨハネ 8:7以下、9:21、マテオ 18:23以下参照。
[註9] ヨハネ 8:46、マテオ 26:45 参照。
[註10] ヨハネ 4:34、8:29、14:31、17:4 参照。
[註11] ルカ 23:43および46、ヨハネ 18:11、19:28および30 参照。
[註12] マテオ 20:28、26:28、マルコ 10:45、14:24、ルカ 24:47、ヨハネ 5:22以下、マテオ 7:22以下、マテオ 25:31ないし46、26:64、ルカ 13:27以下参照。
[註13] 使徒行録 3:14以下、10:38以下、1ペトロ 2:23以下、3:18、1ヨハネ 2:1以下、3:5以下、2コリント 5:

p. 100

21、ヘブレオ 4:15、7:26以下参照。

キリストの奇蹟

イエズスの教説が人間に対する天主の啓示であることは、なかんずく、奇蹟によって立証される。この奇蹟とはイエズスがその公的活動の間に行ったもので、彼がこれを繰り返し憑拠としたところのものである。この奇蹟の真理と事実性とはまず第一に、既述したごとく新約聖書の歴史的確実性によって証明される。何となればキリストの奇蹟に関する記述は福音書の全内容と最も緊密に結びついており、これと不可分的に織り込まれており、もしもこれを分離せんとすれば、福音書のキリストの全容姿が破壊されてしまうからである。註1)福音書中には一般的なる多数の患者救癒の場面11回と並んで、各種の奇蹟行為が40回記録され、キリストの生涯における他の諸事件と同一の素朴顕然たる方法で記載されている。福音記者は直接の見証者としてあるいは少なくともかかる見証者の報告に依拠してこれらの奇蹟を記録している。しかもイエズスと時を共にした人--敵も味方も--の多数を含む読者のために記したのである。本質的な一致にもかかわらず、各福音記者の記事の間に

p. 101

見出される記述の軽微な差異は、著者たちがきわめて現実に忠実であり、彼らの見たそのままあるいは初代キリスト教会の直接的見証者から聞知したままを記録したという事実を示す。奇蹟的事象そのものはその大部分は白日の下に行われたもので、民衆と弟子と信徒と無関心者との記憶に鮮やかに残った。ゆえにこれをイエズスの信奉者たちの主観的錯覚に帰するごときは、決してできるものではない。これらの事件の歴史的事実性はそれゆえにキリストの弟子たちおよび初代教会の意識内に厳然として存立し、註2)最も古いキリスト教的著述家たちもキリスト教を弁護するに当たり、キリストの教説を天主自身がよってもって証したところのこれらの事象に依拠した。註3)他方において、当時キリストおよびその教会の公然たる反対者、すなわち、ユデア教のタルムドならびに異教の哲学者ケルスス(Celsus)・ポルフィリウス(Porphyrius)およびヒエロクレス(Hierocles)のごときもイエズスについて記されている奇蹟の歴史的事実性を毫も疑わず、ただこれを魔法として処理せんと努めているのみである。註4)福音書において奇蹟を記述したことをさまざまの一方的傾向およびミュトス的伝説の所産と見なさんと企図したのは近世の唯理主義的批評家が最初である。彼らは、その際、歴史科学的考量に導かれず、かえって世界現象への天主の異例的関与を根本から否定する経験論・唯理主義および批判主義の哲学

p. 102

的前提に導かれていた。註5)ゆえに彼らは当然の結果として福音書の記事の歴史的確実性を--少なくとも全体として--否定し、福音書の成立をできるだけ遅く、第2世紀に転置するの外なきに至った。しかるに最近の歴史的研究はその正反対を立証し、ために最近の唯理主義的批評家たちは、福音書の記す奇蹟につき--少なくともその要点に関し--ある程度の歴史的価値を認容せざるを得ざるに到っている。しかし彼らは奇蹟の報道を無力ならしめんがために、奇蹟に対しさまざまの自然的説明を与え、もって自然以外の原因の関与を否定せんとしている。例えばハルナックのごときは、奇蹟を次のごとく分類する。1、自然的な、印象深い現象の昂揚から生じた奇蹟、2、説話ならびに譬喩から、あるいは内的現象を外界へ投射することによって成立した奇蹟、3、旧約の記事が成就したと認めたいとの関心から生じた奇蹟、4、イエズスの精神力による奇蹟的疾患医癒、5、探究し難きもの。註6)若干の批評家がイエズスの奇蹟に関する叙述に関してハルナックの見解に従う。その中のある者は、なかんずく、他の人々とその身心の病患とに与えるイエズスの異例的--しかし自然的--な精神力を指示する。註7)しかしてまた他の者はイエズスに対する信仰が暗示的に医癒したと仮定している。註8)これに対して確認せざるを得ないのは、新約聖書がわれわれに示すキリストの奇蹟を自然的現象とし

p. 103

て説明することは不可能であるということである。ゆえにハルナックが『探究し難き』事象なる一群を残置し、自然的に把握すべからざるかかる事柄のゆえをもって福音書の確実性に疑惑を抱くに至らざるようにと門下生らに勧告しているのはもっともな次第であるといわねばならぬ。註9)

[註1] Felder, Jesus Christus II巻 p. 397、前出 Grandmaison II巻 p.318、Harnack, Dogmengeschichte, 3. Aufl. I巻 p. 64 参照。
[註2] 使徒行録 2:22、10:37以下、2ペトロ 1:16以下参照。
[註3] 例えば紀元124年に皇帝ハドリアノに献げたクアドラト(Quadratus)の護教論のごとき。Rouet, 109 参照。皇帝A. ピオに献げたユスティノ(Justinus)の護教論のごとき、I巻 p. 48 参照。
[註4] Origenes, Contra Celsum, I, 28, 38; Hieronymus, in Genes., I, 1; Eusebius, Demonstratio evangelica 3, 4-5; Felder, Jesus Christus II巻 p. 380以下、Koesters p. 161以下参照。
[註5] 例えば Reimarus, Strausse, F. C. Bauer のごとき。なお前出 Felder、前出 Grandmaison II巻 p. 322 以下参照。
[註6] Wesen des Christentums, Leipzig, 1905 参照。
[註7] 例えば Bousset, Was wissen wir von Jesus, Tuebingen 1906 参照。
[註8] 例えば Charcot, La foi qui guerit, Paris 1893 参照。
[註9] 前出 Harnack 参照。

福音書に記されているイエズスの奇蹟行為の多様性が、すでに、まず異例的な自然力をもってする説明を不可能にする。イエズスは自然界のさまざまの事物に奇蹟を行った。註1)あらゆる種類の病者に奇蹟を行い、註2)死人を蘇らした。註3)相互に相異なるこれらの実例のすべてにおいてイエズスが奇蹟を実施

p. 104

した方法は大体同様のものであった。すなわち、単なる命令の一語、あるいはわずかに手を触れ、あるいはこれに似た簡単な徴証によってであった。これにより自然的にあの偉大なる不可思議なる力が誘発されたのであるとの憶測は、われわれが知る限りの自然力ならびに自然法則の恒久性および普遍妥当性のすべてと相容れない。それにイエズス--あの批評家たちの意見によればナザレトの一労工に過ぎざるイエズス--がかくも多くの治癒方法の知識を自然的方法に基づいて獲得し得たはずがないのである。暗示力および精神療法を持ち出して来るのもまったく不当である。なぜならこの種の治癒はある種の病例に限られており--なかんずく神経障碍およびこれと関連する心身の疾患--常に一定の時間と相応の方法とを必要とするからである。しかるにイエズスの力はかかる制約に寸毫も束縛されず、暗示的方法など毫末の影さえなく、常に彼に具備していた超自然力によって癒した。彼はその場にいる者のみならず、遠隔の地にある者をも癒した。註4)そしてその際に彼が信仰を要求する場合、それはなかんずく彼の神的使命に対する宗教的信仰であって、この信仰を癒さるべき者から求めず、病者の友人および執成人から求めたことも一再ではなかったのであった。註5)また心霊説および降神術もここでは何ら説明に役立たない。何となれば、イエズスがこの種の力に関するかくも総括的な知識と能力と

p. 105

を自然的方法により獲得することなど不可能であるという点を度外視するとしても、この種の現象と新約聖書がわれわれに報ずるキリストの奇蹟との間には巨大なる相異が厳然として存在する。前講において(第2講話)すでに記述したるごとく、かかる現象は--総じて確認し得るかぎりにおいて--一定の事象と変化とこれに伴う精神生活への影響とに局限されており、きわめて複雑な、異常な、道徳的にいかがわしい方法によって達成され、その場合、媒介者は不自然的な失神状態にまで興奮し、精神的自由と正常的精神活動とを喪失してしまうものである。イエズスの奇蹟についての福音書の記述にはこれら一切の片影さえ見出すことはできない。ここには自然と生命との領域におけるあらゆる効果が総括されており、しかもイエズスの言葉と意志とにより世に簡易に実施されている。そしてこれら奇蹟において常にイエズスの独自的な崇高さと聖性とが啓示され顕現されており、イエズスはこれをもってひたすら天父の栄光と人々の心身の治癒とを目指しているのみである。さて最後に、福音書に記されている悪霊の駆逐に関してはまず確認すべきことは、福音記者自身がこれらの事象をイエズスのほかの奇蹟行為から明確に区別していることであり、註6)しかして多くの実例において悪霊が事実的に作用することがその直接の結果の徴証とによって確証され

p. 106

ていることである。註7)かかる憑依の現象はキリストの時代にはパレスチナの内外に見られ、註8)決して珍しい事象ではなかったから、若干の唯理主義的研究家の試みるごとくに、簡単に精神病の場合と為すのは許し得ない。註9)

[註1] 水をぶどう酒に変えたこと、ヨハネ 2:1以下、奇蹟的な漁獲、ルカ 5:1以下、ヨハネ 21:1以下。2回のパンの増殖、マテオ 14:15以下、15:29以下、マルコ 6:35以下、8:1以下、ルカ 9:10以下、ヨハネ 6:5以下。水上の歩行、マテオ 14:25以下、マルコ 6:48以下。暴風を鎮めしこと、マテオ 8:23以下、マルコ 4:36以下。
[註2] 大勢の病者の治癒、マテオ 4:23、8:16、15:30以下、21:14、マルコ 3:10以下、1:32以下、6:55以下、ルカ 4:40以下、6:17以下、9:11、7:21以下、ヨハネ 6:2。個々の病者を治癒せし場合。すなわち、らい病人、マテオ 8:2以下、マルコ 1:40以下、ルカ 5:12以下、17:12以下。手足萎えたる者。マテオ 8:5以下、9:2以下、マルコ 2:3以下、ルカ 1:40以下、7:1以下。盲人、マテオ 9:27以下、20:29以下、マルコ 10:46以下、ルカ 18:35以下、ヨハネ 9:1以下。聾唖者。マルコ 7:32以下、ルカ11:14以下。水腫に疾む者。ルカ 14:1以下。血漏。マテオ 9:20以下、マルコ 5:25以下、ルカ 8:43以下。不具者。ルカ 13:10以下、6:6以下。
[註3] マテオ 9:18以下、マルコ 5:22以下、ルカ 8:41以下、7:11以下、ヨハネ 11:1以下参照。
[註4] マテオ 8:5以下、マルコ 7:29以下、ヨハネ 4:46以下参照。
[註5] マルコ 2:5、マテオ 8:8以下、ヨハネ 11:24以下参照。
[註6] マテオ 8:16、9:32、10:1および8、12:22以下、マルコ 3:10以下参照。
[註7] マルコ 3:11、5:13、マテオ 17:14ないし20 参照。
[註8] 使徒行伝 16:16、19:11 以下参照。
[註9] Felder, Jesus Christus II巻 p. 433以下等。

p. 107

以上を概括してわれわれはかく言うことができる。すなわち、新約聖書の記述をもってわれわれに示されたイエズスの奇蹟は実に無数であり、多種多様にわたり、とうてい自然的な力および過程をもって説明し得るものではなく、むしろ、そこにイエズスの掌中に存していた天主の超自然的かつ無際限なる勢力があらゆる明確さをもって白日の下に顕現したものである。註1)この奇蹟の超自然的性格については、イエズス自身もあらゆる断固さをもって、しかして彼の聖なる人格の全勢力をもって主張している。彼の使命と彼の教説との真理性についての天主の否定すべからざる証拠として、彼は繰り返し奇蹟を指摘している。この超自然的徴証こそ、彼の言葉に対して人々の信仰を固からしむべきものであり、この徴証を目睹してしかも信ぜざる者は天主の前に言い遁がるる術なきことを彼は明白に強調している。註2)キリストの弟子たちも、彼らが師のもとにあり直接奇蹟を目撃したときにも、また後に至り労苦と犠牲との下に福音を全世界に宣示した日においても、これと同一の意見を証言したのであった。註3)その上、福音書に記されたイエズスの奇蹟行為のすべてを通じて、天主の聖性と全能と慈愛とが驚くべくみごとにかつ純潔に照り出され、ためにこれらの奇蹟そのものがその起源と目的とが天主自身であることを、必然的、直接的に指示している。キリストの奇蹟行為の中には、い

p. 108

かなる不純なるもの・軽率なるもの・自己中心的なるもの--これらはきわめて容易に人間の偉大なる業績の中に潜入し得る惧れがあるにもかかわらず--も見出されず、むしろこれらの奇蹟にはキリストの宗教的使命の神聖にして超自然的なる性格が絶えず捺印されており、その目的たる天主の栄光と人間の救いとに向けられているのである。

[註1] 前出 Koesters, p. 161以下、前出 Felder p. 411 以下、前出 Grandmaison 第II巻、p. 313 以下参照。
[註2] マテオ 11:1ないし6、ルカ 7:18以下、5:23以下、マルコ 2:9以下、ヨハネ 5:36以下、10:25以下、14:11以下、15:24以下参照。
[註3] マテオ 14:33、ルカ 5:8以下、ヨハネ 2:11、3:2、使徒行録 2:22,10:38 参照。

あらゆる時代を総括する神的知識を証明したキリストの預言は、特殊の奇蹟を意味する。新約聖書中に示されているキリストの容姿に、その預言も必然的に従属し、消し難い印象を与える。イエズスはすべての人知には隠れている未来の事象をあらゆる明確さをもって看取し宣示している。すなわち、人間の自発的決意と行為とを・世界史における大事件とイスラエル民族の生活における大変動を・世の終りに至るまでの彼の教会の永続と発展とを。註1)時にはキリストは彼の弟子たちの目前に

p. 109

未来の事件を直截に明示している。註2)他の機会に彼は何らかの機縁に触れて未来に関する暗示を与えているが、しかもこの暗示たるや貴重であり内容重大なるものにして、イエズスの博大なる神的智慧を明確に示すものである。註3)天父の救世計画の中に永遠から確定されていた彼自身の生活経路は常に彼の精神の前に明らかに現立しており、その公的生活の間において、彼は自己の犠牲死による救世の玄義を弟子たちに悟らしめんとして種々努力していた。註4)ゆえにイエズスは人間の自然的知力に固有なるすべての限界を超越する神知を所有することをいろいろな意味で示している。また『彼の智慧は神の内在的な真理の泉から湧出するもので、彼の預言は彼の神的智慧の部分的顕示たるに過ぎず、この智慧の中には永遠的事実も寸時的事象も不滅の光明の中に燦いている』ことが明らかである。註5)

[註1] Felder, Jesus von Nazareth, p. 89以下、前出 Grandmaison II巻 p. 256以下参照。
[註2] 例えば彼の受難と死と復活との預言の場合のごとき、マテオ 16:21以下、20:17以下、26:2、マルコ 8:31、10:33以下、ルカ 9:21以下、18:31以下。晩餐の準備の時の事情のごとき、マルコ 14:13以下、ルカ 22:7以下。ユダの背叛のごとき、マテオ 26:21以下、マルコ 14:18以下、ルカ 22:21以下、ヨハネ 13:21以下。弟子たちの逃亡のごとき、マテオ 26:31、マルコ 14:27。ペトロの否定のごとき、マルコ 14:29以下、マテオ 26:33以下、ルカ 22:33以下。聖霊の降臨のごとき、ルカ

p. 110

24:49、ヨハネ 14:26、16:13以下、使徒行録 1:8。世の終りに至るまでの教会の拡大と永続、マテオ 24:14、28:18以下、ルカ 24:47、使徒行録 1:8。しかしてイエルザレムの没落と世の終りにおける事象との大預言、マテオ 24ないし25、マルコ 13、ルカ 21.
[註3] 天主の国に関する譬喩、マテオ 13。教会における断食、マテオ 9:15以下、マルコ 2:18以下。マグダレナの全世界における賞讃について、マテオ 26:13、マルコ 14:9。磐なるペトロの上に教会の建てられることおよびこれに反対する敵の敗北、マテオ 16:18ないし20。ペトロの殉教について、ヨハネ 21:18。他の使徒らの殉教について、マテオ 20:23、ヨハネ 16:1参照。
[註4] マテオ 16:21、20:17以下および28、26:2および28、マルコ 8:31、10:33以下および41以下、ルカ 9:21以下、18:31以下、22:15、ヨハネ 3:14,10:11以下、12:24以下、16:17以下参照。
[註5] Felder, Jesus von Nazareth p. 108 参照。

キリストの復活

キリストについて新約聖書が報じているすべての奇蹟の中、彼の死よりの復活には特殊の意義が付与される。復活は古来イエズスの神的使命につき、しかして彼の教説の真理性についての最大にして決定的なる証拠と見なされている。それゆえに特に、使徒たちの説教の対象を成しており、いつの世にも教会の教義と信仰との中心に立っていた。唯理主義的なる批評家たちもイエズスの復活が『キリスト教の心臓』であることを隠さずに承認している。註2)イエズス・キリストの全容姿ならびに

p. 111

全活動と同様に、否それ以上に、イエズス・キリストの復活は信と不信との分岐点を成している。信心深いキリスト教徒が、新約聖書の記述によって幾度も立証されているキリストの墓からの復活を歴史的事実として認容し、復活において救い主としての彼の事業の必然的完成と決定的な神的証明とを認めているに反し、唯理主義的なる批評家たちは彼らに把握し得ざるこの事実につきあらゆる手段を講じてその歴史的現実性を拒否し、キリスト教界の復活信仰を他の根源に帰着せんと努めている。その際に、彼らは、もちろん彼らの一般唯理主義的イエズス批判に際して遭遇する困難にも劣らざる困難に逢着する。彼らの提出する説明の多種多様なること・不明確なること・不確実なること等は、彼らの立脚点がいかに脆弱であり、客観的に価値ある根拠がいかに彼らに欠けているかを証示してあまりある。イエズスの復活を彼の弟子たちの欺瞞に帰そうとする拙劣な企図は、すでに福音記者が報じている。註3)この企図はなお幾度かキリスト教の反対者によって更新された。註4)しかしながらこの仮説たる、聖書の歴史的記事と矛盾することあまりに甚だしく、ために唯理主義的なるイエズス研究の近代的代表者らは一般にこれを放棄してしまっている。彼らのある者たちはそれゆえに復活者の出現をもって弟子たちおよび最初の信徒たちの主観的幻覚なりとし、死せる師への信仰と愛とがこ

p. 112

こに到らしめたのであるとする。註5)また他の者たちはいわゆる比較宗教学の立場から、キリスト教の復活信仰なるものはギリシアおよび近東における更生する繁殖神のミュトスの影響の下に生じたのであることを示そうとする。註6)ハルナックのごときは復活信仰と復活福音とを区別している。復活信仰は彼に従えば、キリストがその死後において天主の権能と栄光とにありて霊的に生き続けるという確信であり、復活福音はキリストが墓から肉体をもって復活したという報道を意味するという。復活福音は復活信仰の象徴的なる一表示と解すべきであり、復活信仰と比較しては軽少なる意義しか持たぬという。註7)また他の者たちも肉体的復活の福音が使徒たちの本来精神的であった復活信仰から発展したものであることを証示せんと試みているが、新約聖書の記述の内にはこの仮説のための拠点がほとんど見出されないことを余儀なく認めているという有様である。註8)概して彼ら批評家は、キリストの復活をもって死後の純霊的な生続であるとし、キリストが墓から奇蹟的に肉体をもって復活せりというキリスト教の本来の教義を拒否せんとする努力が明白に認められる。

[註1] 使徒行録 2:24以下、4:33以下、3:15以下、10:40以下、13:30以下、17:31 参照。
[註2] D. Fr. Strauss, "Die Halben und die Ganzen," Berlin 1865, p. 125参照。
[註3] マテオ 28:12

p. 113

以下参照。
[註4] 例えば Celsus(Origines c. Celsum 2, 55 参照)、ユデア教のタルムド(Kraus, Das Leben Jesu nach juedischen Quellen, Berlin 1902 参照)およびReimarus(Fragmente)のごとき。
[註5] 例えば B. D. F. Strauss, E. Renan, H. J. Holtzmann, A. Loisy(Koesters p. 297以下、Felder, Jesus Christus II巻 p. 531以下、前出 Grandmaison II巻 p. 409以下参照。
[註6] 例えば O. Pfleiderer, H. Gunkel, A. Drews, W. Bousset のごとき。前出 Felder II巻 p.509以下、前出 Grandmaison II巻 p. 508以下参照。
[註7] Wesen des Christentums p. 101以下、前出 Felder II巻 p.485 参照。
[註8] 例えばM. Goguel のごとき。Grandmaison II巻 p. 369, 379および417 参照。

これに対してまず確認すべきことは、キリストが十字架の上に死してより三日目に墓より真に肉体をもって蘇ったことが最古のキリスト教の伝統の主要対象であったことと、主要対象として新約聖書の歴史的記述において最も明確に立証されていることである。キリストの没後27年頃に書かれたコリント前書にパウロは、キリストが死後三日目に真に肉体をもって墓から蘇ったことを彼が自身原証人から聞きこれをコリントの人々に宣明したところの教理の一つとして、そして彼および他の使徒たちの等しく教えかつキリスト教徒の一般的に堅持していた立場として強調して

p. 114

いる。復活せるキリストが使徒たち一同の集まったところおよび信徒の大群衆の前に現れ、しかしてまたキリストが親しく交わったペトロやヤコブのごとき特に資格のある個々の使徒ならびに証人の前に現れたことを、明確に述べている。かくてパウロのこの記述は−−カール・アダムが正しく指摘しているように--初代教会全部の復活見証を含んでいる。註2)またパウロがこの復活をいかに解していたかについても、疑義の余地を与えていない。彼はキリストの復活を主の死ならびに埋葬と最も密接なる連繋において見、これを未来におけるキリスト教徒の肉体的復活の範型および保証として信徒たちに提示している。註3)そして彼は復活者の変容を強調してはいるが、それは霊魂の栄光を意味するのみではなく、キリスト自身および彼の選定した人々の肉体の超自然的改造ならびに栄化をも意味しているのである。註4)

[註1] 1コリント 15:1ないし11 参照。
[註2] Karl Adam, Jesus Christus 第7章 p. 223 参照。
[註3] 1コリント 15:12ないし28 参照.
[註4] 1コリント 15:35ないし53、フィリッピ 3:21 参照.

福音記者の記述は本質的な点においてパウロの記述と一致している。使徒たちおよび使徒の弟子たちの記したこれらの記述は、使徒たちおよび最初の信徒たちの団体において、一般に記憶されていた復活の

p. 115

事実の真に生ける姿を素朴謙虚な単純さをもって示している。これらの記事が報じているのは、復活の最初の証人たちが復活の時に体験したこと、そしてこの証人たちが主の復活の確実な事実の上にキリストの国のため彼らの全生活と全労力とを基礎づけたことだけである。副次的な事物および若干の随伴事象の叙述の中には確かに若干の差異が存する。註1)しかし本質的な大きな点における一致はこれによって寸毫も混濁されず、かえって反対に、これらの源泉の歴史的価値を強固ならしめる。すなわち、これから記者各自が互いに独立的に著作し、彼らの手にした史料を良心と精確さとをもって取り扱ったことが明らかになる。このことは普通歴史において一般に承認されており、ゆえにまた、われわれの場合においても妥当するのである。--指導的な唯理主義者自身も承認しているのである。註2)この記述を詳細に観察すれば、個々の点に関する差異は容易にこれを合致せしめ得る。殊にイエズスの出現の場所と順序とに関しては、まず、パウロも福音記者もイエルザレムおよびガリレアにおける出現を立証していることに注意しなければならない。ガリレアで出現したことに対する特別の報道は、キリストはその地において使徒たちと弟子たちとに、建設せらるべき天主の国について詳細なる指示を与えんと欲したことを意味するのみである。ガリレアの地においてはキリストの最初の弟

p. 116

子の一団は、その敵対者から大して重要視されてはいなかった。

[註1] 例えば女たちが墓を訪ねた詳しい時刻、彼女らに現れた天使の数および天使の指図、それから復活後のイエズスの出現の順序。しかしかかる差異は何らの矛盾をもたらさない。
[註2] 例えばLessing, Duplik, Gesammelte Werke, Ausg. Goeschen 9巻 p. 99。なお前出 Koesters p. 300 参照。

記録されている復活者の出現について、パウロの書簡と福音書と使徒行録とにおける出現の順序を一致せしむることは容易である。註1)すなわち、イエルザレムにおいてイエズスは墓に詣でた女たちに現れ、註2)マリア・マグダレナに現れ、註3)ペトロに現れ、註4)エマウスの弟子たちに現れ、註5)10人の使徒に現れ、註6)11人の使徒に現れ、註7)ガリレアにおいて、チベリアス湖畔で使徒たちに現れ、註8)山上で弟子たちに現れ、註9)500人の兄弟たちに現れ、註10)、使徒ヤコボに現れた。註11)しかる後イエルザレムにおいて昇天前に弟子たちに現れ、註12)最後にダマスコの郊外でパウロに現れた。註13)

[註1] 前出 Adam p. 234、前出 Koesters p. 178以下、前出 Felder II巻 p. 499、前出 Grandmaison II巻 p. 382以下参照。
[註2] マテオ 28:9以下参照。
[註3] マルコ 16:9以下、ヨハネ 20:11以下参照。
[註4] ルカ 24:34、1コリント 15:5 参照。
[註5] マルコ 16:2、ルカ 24:13 以下参照。
[註6] マルコ 16:14以下、ルカ 24:36以下、ヨハネ 20:19以下参照。
[註7] ヨハネ 20:24以下、1コリント15:5 参照。
[註8] ヨハネ 2

p. 117

1:1以下参照。
[註9] マテオ 28:16以下、マルコ 16:15以下参照。
[註10] 1コリント 15:6 参照。
[註11] 1コリント 15:7 参照。
[註12] マルコ 16:19、ルカ 24:44以下、使徒行録 1:4以下参照。
[註13] 1コリント 15:8 参照。

これらの許多の出現によりイエズスの弟子たちは彼の真の肉体的復活を完全に確信した。彼らはイエズスの死について絶対的確実性を有していた、この死は味方からも敵からも同様に見証されていたのである。註1)彼らはこの死に先んじた受難、必然的に死をもたらした受難を熟知していた。彼らは死せる師の葬られた墓を知っていた、彼の敵がこれに封印し、番兵をして衛らしめたことを知っていた。註3)それだけに復活という事変が彼らに与えた印象は大きかった。墓は空虚となっていた。註4)主は彼らに現れ、この奇蹟の現実性を初めは理解できなかった彼らから、その後は真に肉体をもって復活したことを疑う余地を取り上げてしまった。彼は彼らに受難の際に受けた傷を示し・彼らをしておのれに触れしめ・彼らと共に食し・建てらるべき天主の国に関する最後の委命と教訓とを与えた。註5)かくしてキリストが事実肉体をもって復活したことの確信は弟子たちの心に不動に樹立され、敢然として彼らは全世界の前にこれを証言したのであった。

[註1] マテオ 27:50、マルコ 15:37ないし45、ルカ 23:46、ヨハネ 19:30、使徒行録 2:23、3:15、4:10、ロマ 5

p. 118

:6、エフェゾ 2:12 以下、ヘブレオ 2:14 以下、9:12 以下、1ペトロ 1:18 以下参照。
[註2] ヨハネ 19:5 参照。
[註3] マテオ 27:57以下、マルコ 15:42以下、ルカ 23:50以下、ヨハネ 19:38以下、1コリント 15:4、ロマ 6:4、使徒行録 13:29 参照。
[註4] マテオ 28:1 以下、マルコ 16:2 以下、ルカ 24:1 以下、ヨハネ 20:1 以下参照。
[註5] ルカ 24:39 以下、ヨハネ 20:27 以下、使徒行録 1:3、10:41 以下参照。
[註6] 使徒行録 1:3、 4:33 参照。

弟子たちのこの確信が自己欺瞞とか幻覚とかいうもので説明できるものではないことは、多くの根拠ならびに考量から明らかである。第一考うべきことは、復活したキリストがかなり多くの証人の前に幾度も出現したことであって、その際新約聖書の記事そのものがかかる欺瞞ないし幻覚への異常的精神状態あるいは性向を寸毫たりとも憶測せしめないということである。反対に、これらの記述によれば弟子たちは復活の福音を信受するには相当の日時を要し、かつ容易には信受できなかった、註1)しかして彼らは遂に客観的に明白なる事実そのものによって始めて確信し得たのであった。註2)イエズスの死後弟子たちが復活を期待していたという徴候は毫末も存在していない。彼らはむしろイエズスの十字架上の死により心の底から震撼され・気落ちし・怖れ・ために、復活の日の歓ばしき告知一切に対し懐疑的かつ拒否的になっていた。註3)パウロに関しては、ダマスコ郊外において復活したキリストが出現する時までの彼は、実に、キリストとその教会とに対し意識的に不信、あまつさえ敵対的態度をすら

p. 119

持していた者であることを、考慮すべきである。註4)

[註1] ルカ 24:11および37、ヨハネ 20:9、マルコ 16:11 以下参照。
[註2] ルカ 24:40 以下、ヨハネ 20:27 参照。
[註3] マルコ 16:10以下、ルカ 24:11 以下、ヨハネ 20:9 参照。
[註4] ガラテヤ 1:13 以下、使徒行録 9:1 以下、22:4 以下参照。

その上、福音記者の描いている復活者の姿は、当時まだ弟子たちが抱いていたメシアの観念にはまったく相応しないものであった。民族的王者たるメシアならびにその地上的・政治的王国に関する当時の通俗的理念は、イエズスがそれに反対して教示していたにもかかわらず、依然としてなお弟子たちの精神にある程度まで固着していた。註1)復活者の崇高な神的な容姿と、全世界に打ち建てよと彼らに命じたところの霊的なる天主の国の理念とは、彼らのメシア理念を遙かに凌駕した。彼らは自己の力をもってしてはとうていかかる高さまで上昇し得なかったであろう。ゆえに彼らは復活以来というものは在来にもましてイエズスを彼の神性の光輝と栄光とにおいて見、彼を彼らの主また天主として崇敬するに至った。註2)復活後においていっそうよくイエズスの驚くべき高揚註3)および神的勢力を知った。註4)ゆえにイエズスが復活後40日にして天父の国に復帰した時『彼が後に遺した弟子たちは、その思

p. 120

想と願望と、その全存在とを彼の復活の奇蹟の上に据え、今や時の転機に立つ者となり、復活ならびに永生の力として以後人類に普及すべき力につき証言すべく選ばれた者であることを自覚した人々であった』。註5)

[註1] ルカ 24:21、使徒行録 1:6 参照。
[註2] ヨハネ 20:28、ルカ 24:52、マテオ 28:17 参照。
[註3] 使徒行録 2:33 以下、5:31、7:55 参照。
[註4] 使徒行録 5:30 以下、ロマ 6:4、フィリッピ 2:9 以下、3:10 以下参照。
[註5] 前出 Adam 第7章 p. 265。なお同じくp. 242 ないしp. 266 参照。また、Felder, Jesus Christus II巻 p.531ないし551、前出 Grandmaison II巻 p. 421ないし428 参照。

なおまた、キリストの当時ローマ帝国の広い範囲に拡がっていた古代的繁殖力ミュトスおよびこれと関連した密儀を持ち出して来るのも、根拠なき手段であるといわねばならぬ。まさにこの方面の最新の詳密な研究が、これらの密儀とキリスト教との相異がいかに大であるか、かかる密儀が初代キリスト教会の復活信仰に影響を与えたなどということがまったく問題になり得ないことを示している。人間の救いのためのキリストの犠牲死、彼の墓からの永生への赫々たる肉体的復活、これらキリスト教の教義と共通するようなものは、これらいわゆる『ギリシャ密儀』註1)なるものの中には寸毫も見出されない。これら密儀なるものの内容は、むしろ、その生活において、その性的行為において、そ

p. 121

の死と死後の存続とにおいて、自然と繁殖力とを象徴し、ある地方では個々の民族の政治的運命をも象徴したところの、神々および半神に関する多種多様な物語である。これと結びついている礼拝は彼らの多様にして神秘的な祭典により、罪からの潔め・疾苦からの解放・死後の生命等に関する人間の憧憬を満足させようと試みたものである。これらはこの場合、総じて、漠然とした多神論的観念・人間の目的および幸福についての現世的自然主義的解釈・多くはすこぶる弛緩した道義・時には重大な道徳的過誤・慣習および教義の多彩なる雑然性等絶え間なき変化を示している。キリスト教の本質的なる綱領・殊に復活に関するキリスト教的概念については、これらの中にはその片影さえも含まれていない。ゆえにキリスト教の復活教義がギリシアの密儀に影響されたなどということは問題にならない。その上、これらの密儀が主として栄えたローマ帝国の地方にまでキリスト教が拡大する以前に、すでに、このキリスト教教理は完全にできあがっていた。純粋なユデア教の宗教的伝統の中に成長した使徒たちおよび初代信徒たちは異邦の密儀礼拝などと接触することを一切厳重に拒否した。註2)

[註1] 最も識られていたのはエロイジス密儀・オルフィック密儀・イジスおよびオジリスの密儀・アッティスおよびキベレ

p. 122

の密儀・ミトラ密儀などである。
[註2] 前出 Koesters p. 174, 298、前出 Pruemm I巻 p. 422ないし435、前出 Grandmaison II巻 p. 510ないし532 参照。

かくのごとく、イエズス・キリストの復活に関する新約聖書の記述は人類の宗教史において独自無比なるものである。イエズスの真の肉体的復活に対する弟子らの不動の確信こそ、キリストと彼の教会とのため後日彼らが労苦と受難と死とを甘受する基底となったのであって、このことはイエズスの復活の事実によってのみ説明され得る。まことに復活こそ--全奇蹟の最大のものとして--イエズスの使命および救世事業に対する天主の徹底的・決定的・不可反駁的なる証示である。ゆえにイエズスはすでにその受難以前にこの徴証の権威を憑拠としたのであって、これこそ多くの人々の期待する『天よりの徴証』を完全にもたらすものとしたのであった。註1)そして彼が復活後弟子たちに顕れた時、昔時の預言者ならびに聖者がすでに開示し、彼らにより旧約聖書の中に暗示されていたメシアに関する天主の計画が遂に完全に成就したことを彼らに示した。註2)今や弟子たちは旧約聖書を新たなる理解をもって読み直し、そこに含まれているメシアの真の姿を理解し始めた。今までの彼らはあまりにも彼ら自身の現世的・政治的なメシア待望をこれらの諸書から読み取っていたのであっ

p. 123

たが、キリストの復活以来彼らは旧約の中に予示されているキリストの霊的かつ神的なる容姿をますます明確に、ますます善く認識し始めたのであった。そして遂に--師の約束に従い--五旬節(ペンテコステ)に際して聖霊が彼らに降り、彼らに『すべての真理を啓示した』註3)時、彼らは今や、天主が永遠から予定し・旧約聖書の中に予示し・時の満つるにおよんで人類の救いのために遣わしたところの救い主を、明確純粋に見るに至ったのであった。そして絶対的確実性をもって彼らは、天主が前の世に与えし不可思議なる預言が主にして救い主なるナザレトのイエズスにおいて成就したことを、彼らの説教と教理とにおいて立証したのである。

[註1] マテオ 12:38 以下、16:1 以下、ルカ 11:29 以下、ヨハネ 2:18 以下参照。
[註2] ルカ 24:27および44 以下参照。
[註3] ヨハネ 16:13、使徒行録 2:1 以下参照。

旧約のメシア預言の成就の指摘はそれゆえにイエズスの生涯に関する新約記事中に夥しく見出され、イエズスの生涯の主なる事象のほとんど全部を肯定している。例えばなかんずく、奇蹟的受胎とベトレヘムにおける降誕・註1)エジプトへの遁亡とナザレトへの復帰。註2)ガリレアにおける布教活動註3)およびその奇蹟行為・註4)天父の栄誉のための熱心・註5)貧者病者および罪人に対する彼の慈悲深い助力的な愛・註6)

p. 124

イェルザレム入城註7)および受難と死との個々の詳細な事柄・註8)そして特に彼の輝かしい復活註9)と全人間のための超自然的救いの事業。註10)

[註1] 前出 マテオ 1:22以下、2:5 以下参照。
[註2] マテオ 2:15 以下参照。
[註3] マテオ 4:14 9以下参照。
[註4] マテオ 8:17、11:4 以下、ルカ 7:22 参照。
[註5] ヨハネ 2:17 参照。
[註6] マテオ 12:17以下参照。
[註7] マテオ 21:4 以下、ヨハネ 12:14 以下参照。
[註8] マテオ 26:31 以下および56,27:9 以下および35および46、マルコ 14:27および49、15:34、ルカ 18:31 以下、22:37、ヨハネ 13:18、19:24および36 以下、使徒行録 3:18、13:27 以下、8:32 以下参照。
[註9] 使徒行録 2:24 以下、13:34 以下、17:2 以下参照。
[註10] 使徒行録 2:36 以下、10:43、13:47、15-15 以下、26:22 以下、28:23 参照。

これらすべての預言的聖句は旧約の信徒たちがすでにキリスト出現以前の永い年月にわたりこれを所有しかつ解釈せんと試みて来たものであるが、それが今や、驚くべき一致において、メシアにして天主の子なるナザレトのイエズスについての否定すべからざる証拠を与えたのである。使徒たちおよび初代キリスト教著述家たちが、註1)天主が新約のキリストをかくも輝かしく立証し給うたこの証拠の権威を拠所としたのはもっともな次第である。

p. 125

[註1] Justinus, Apol. I, 62; Dial. c. Tryphone 48 参照。

新約聖書においてわれわれに示されているキリストの容姿および彼の救世事業は、あらゆる地上的・人間的なるものを遙かに超越する内容の深遠さを示しており、実に天主のみよくこれを計画し実現し得るところのものである。これを純人間的・自然的な因子の所産として説明せんとするすべての試みは、それゆえに必然的に破砕されざるを得ない。かくてキリストは真に『天主からわれわれに与えられた智慧』註1)であり、しかして新約聖書中に示されたキリストの人間性こそ、われわれをして神性に到達せしむべき確実なる道である。註2)

[註1] 1コリント 1:30 参照。
[註2] ヨハネ 14:6、1:18、Augustinus, in Joh. 13, 4 参照。

第3講話 終り

作成日:2004年05月27日

最終更新日:2004年05月27日

トップページへ

第4講話へ

第1講話へ

第2講話へ

inserted by FC2 system