基礎神学講話

第5講話


パウロ・フィステル著


中央出版社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


序言

p. 1

本書はカトリック基礎神学の若干の主要問題を取り扱う。基礎神学(護教学)とは、カトリック信仰の必然的与件、いわゆるpraeambula fideiすなわち、カトリック信仰の価値および義務を論証する諸根拠を、学問的に論述しこれを確立することを意味する。

多くの敬虔なカトリック信者は詳密な学問的な探究の道とは別の道から、彼らの信仰に関する確実性に到達する。教会の実存そのものがその宗教的生活の豊富性をもって、彼らにその信仰の真理性に対する充分な保証を与え、教会の内に現れる神の権力と救世の恩寵とを彼らに証明する。多くの真理探究者にとってもまたカトリック教会の教理の崇高さ・その宗教的生活の成果・その全人類への福祉に充ちた感化よりカトリック信仰を受け容れる決定的動機となった。

それにしても、哲学的・歴史的な証明によって、カトリック信仰の意義と必然性とに関する諸論拠を統合的に示すことはやはり必要である。なぜなら、カトリック教会が真に宗教的真理の神より委託された保持者であり告知者であること、およびそれゆえに、その教理は無条件的信仰において受容されねばならぬことは、ただこの方法によってのみ真に客観的かつ普遍妥当的に示され得る

p. 2

からである。

また例えば自己自身の信仰体験の分析によるごとき別途の方法により信仰に関する確実性にまで到達した人々も、かかる総合的証明法により彼らの信仰の与件を再検討し確立することを断念してはならない。このことは何も、この認識からしてすでに必然的に信仰が結果することを意味するのでは決してない。信仰は元来人間の神への自発的奉献を意味するものである。しかしカトリック教理の絶対的真理性とそれから生ずる信仰の倫理的価値とを悟るためには、信仰の諸与件の客観的および普遍妥当的検討が必要であることを意味するのみである。この検討は人間の自然的理性の認識範囲の裡に行われ、主として哲学的歴史的説明法を使用している。そのために基礎神学において聖書および聖伝から証拠が取られるとき、その歴史的資料としての価値のみが認められる。

信仰の諸根拠についてのこの理性的再検討が個々人の性能や教養の程度および生活環境に従って一様でないことを看過してはならない。とにかく個々の信者はカトリック教会の教理の無制約的受容にまで彼を動かすところのある種の客観的および普遍妥当的な根拠を発見することができなければならない。教養あるカトリック教徒に対しては、しかし、この客観的および普遍妥当的な信仰与件を学問的形式によって示すこともまた不可欠である。

p. 3

カトリック信仰の最も重要な与件に、まず、自発的な愛から人間を創造し、これをある永遠の目的に適合せしめる創造者にして主なる神の正しい観念が属する。それゆえにまず最初に神に対する人間の関係、したがって宗教の本質的意義と使命とを明確にしなければならない。

カトリック信仰の与件としてこれに次ぐものは、無限の神がある特別の超自然的啓示--いわゆる天啓--によって人間に宗教の諸真理を教示したという事実である。従って天啓の歴史的事実および超自然的性格が確実に明示されねばならない。

この天啓は殊にキリストによってもたらされ、彼によって完成されたゆえに、そしてまた、すべての人間に対して神の規定した真の宗教はキリスト教によって確立されたがゆえに、神より遣わされた者としての・神の子としての・そして救世主としてのキリストが、これに続く基礎神学の検討の主要対象をなす。

基礎神学はキリストから進んで必然的に、キリストの事業を継承し、彼の教説を告知し、彼の救いの恩寵を人間に伝達するところの教会へと発展する。それゆえにまずキリストによる教会の創立および創立者から教会に与えられた本質的な構成を明示することが必要となる。

次にはキリストが彼の教会に賦与した特徴を取り扱うべきである。この特徴を所有するがゆえにカ

p. 4

トリック教会はあまたのキリスト教的宗教団体の間にあってキリストの真の教会であること・救霊の確実な道であることが、示される。

次にキリストが使徒ペトロおよびペトロの後継者、すなわち、ローマ教皇(法王)を最高の牧者として定めたことが、特別の注意に値する。信仰の最高にして不可謬なる教師であり、すべての信者の霊的指導者である教皇は、必然的にカトリック教会の構成に所属するがゆえに、そして他方、彼の職能の真の性格はカトリック以外の他の人々から容易に誤解されるがゆえに、使徒ペトロおよび彼の後継者たる教皇の最高牧職に関する説明は、カトリック基礎神学の構成にとって不可欠の部分を成すものである。

最後にカトリック教会の教理の源泉およびその源泉に帰する特殊の超自然的性質を解説しなければならない。また、その源泉に基づいて教会の教理はいかにして有機的に展開するかということもまた主要な研究対象である。従って、聖書・聖伝および教義の展開に関する論証は基礎神学に属するのである。

本書の個々の論文は内容的には基礎神学の諸教科書の叙説に従ったものであるが、それよりも比較的自由な説明法を選んだ。また最近ヨーロッパにおいて刊行されたカトリック信仰の基底に

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関する多くの著書を渉猟し、部分的にはこれを利用したところもある。本論文は決して全基礎神学の完全な輪郭を提供するものではない。むしろこの教科の種々なる主要問題を取り扱ったため、段階的順序においてカトリック信仰受容のための決定的与件を説示し、従ってカトリック教徒のみならず、それ以外の人々にとっても精密な検討の対象たるものを提供している。

2年前に現れた初版には、当時の不利な情勢により種々な欠陥が認められたので、この改訂版においては、それらの不備欠陥を能う限り是正し、さらに第7講話を附加した。

それゆえに本論稿がカトリック信仰の確立にとってきわめて重要な諸問題の正しい知識と判定とを増進せんこと、敬虔なカトリック信徒のみならず宗教的真理の探究者である読者に、カトリック信仰が絶対妥当的な与件の上に立ち、従って真に"rationabile obsequium"すなわち、理性に適ったかつ理性の要求する神に対する奉献であるという認識へ寄与せんこと、これ著者の願いである。

1946年9月、東京において

著者


目次

第1講話 宗教の本質(p.1)

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底(p.4)
キリスト教的・カトリック的な宗教観(p.12)
理性と信仰(p. 17)
カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成(p.23)

第2講話 天主の啓示の史的現実性と超自然的性格(p.31)

史的事実としての超自然的啓示に関する認識の可能なること(p. 32)
新約の天啓の歴史的基底(p. 36)
非キリスト教側の証言(p. 37)
新約聖書の報道内容の真正さと確実さ(p. 40)
新約聖書の諸書の歴史的価値(p. 50)
天啓の超自然的性格(天啓の認識--奇蹟に関するカトリックの見解)(p. 54)
カトリック信仰の絶対的確保(p. 64)

第3講話 新約のキリスト(p. 67)

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性(p. 69)
新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素(p. 74)
メシアとしてのイエズス(p. 74)
天主の子としてのイエズス(p. 80)
キリストの神性に関する初代教会の証言(p. 84)
キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性(p. 89)
キリストの奇蹟(p. 100)
キリストの復活(p. 110)

第4講話 教会の起源と制度(p.126)

旧約における天主の国の理念(p. 127)
イエズスの宣示し創始した天主の国(p. 129)
キリストの創始した宗教的共同体の聖職位階制度(p. 132)
教会の制度に関する非カトリック的見解(p. 142)
教会の普遍的持続と活動(p. 150)

p. 3

「教会の外に救いなし」(p. 154)

第5講話 キリストの教会の本質的記標(p.159)

キリストの教会の一体性(p. 160)
キリストの教会のカトリック性(p. 167)
キリストの教会の使徒伝来性(p. 170)
キリストの教会の聖性(p. 172)
カトリック教会のみこの四記標を悉く所有すること(p. 180)
カトリック教会の一体性(p. 180)
カトリック教会のカトリック性(p. 185)
カトリック教会の使徒伝来性(p. 188)
カトリック教会の聖性(p. 192)

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ(p.204)

福音書による使徒ペトロの首位権(p. 205)
ペトロの首位権についての使徒行録の証言(p. 214)
ローマにおけるペトロの滞在と死(p. 216)

p. 4

ペトロの後継者としてのローマの司教(p. 221)
使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 223)
ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 232)
古代教会における教皇の首位権の行使(p. 238)
教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義(p. 253)
教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立(p. 258)

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開(p.265)

カトリック教理の源泉(p. 265)
カトリック教理の源泉としての聖書(p. 266)
神感の事実(p. 268)
神感の本質(p. 271)
神感によって成りたる結果としての聖書の無誤謬性(p. 275)
教会の教職による聖書に関する証明と註釈(p. 280)
カトリック教理の源泉としての聖伝(p. 288)
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格(p. 288)

p. 5

教会の聖伝の最も重要な証人(p. 298)
聖書と聖伝との相互関係(p. 303)
カトリック教理の展開(p. 306)
教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fideiの展開における教会の進歩(カトリック的意味における教義の進歩(p. 311)


p.159

第5講話 キリストの教会の本質的記標

キリストが彼の教会に与えた構造から、必然的にこの教会にのみ属する一定の本質的記標が生ずる。この記標は教会の内的および外的発達にとっても、信徒らの宗教生活にとっても、非常に重要なものである。この記標は教会の特殊な性質に応ずるもので、教会の存在と生命とを示し、教会において神的および人的なるもの・永遠的および時間的なるもの・超自然的および自然的なるものが特異的に結合していることを示す。この記標はまた、教会の生命の横溢を示すものであり、教会の真の本質をいっそう深く理解せしむるものである。従って、この記標は教父註1)(教父とは古代教会においてカトリックの教理の解説およびカトリック信心生活にすぐれていた教会著述家たちをいう)ならびに神学者の周到なる研究と深遠なる叙述との対象であり、初代以来、信経註2)にも取り入れられている次の言葉によって表現されているものである。『一にして聖、公(カトリック)使徒伝来なる教会』。キリスト教神学の教科書中にはそれゆえにこの四記標が個別的にも相互関係においても詳密に論ぜ

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られている。註3)これらの記標の内的連繋をいっそう詳細に示すために、ここにまずキリストの真正の教会の一体性とカトリック性と使徒伝来性とを叙示しよう。そしてしかる後に教会の聖性を叙述しよう。

[註1] 教父に関する詳細なる説明は第7講話参照。
[註2] いわゆるニケア・コンスタンティノープル信経の中にあり。
[註3] Koesters, Die Kirche unseres Glaubens, 3. Aufl. 127; Dieckmann, De Ecclesia I, 497 以下、Billot, De Ecclesia Christi, q. 2; D'Herbigny, Dogmatica de Eccl., n. 212 参照。

キリストの教会の一体性

キリスト自身が新しい天主の国の一体性を幾度も明確に強調している。キリストに従えば教会は唯一の群であり、彼はこの群の善き牧者として天主のすべての羔(こひつじ)たちを統一するものである。註1)そして最後の晩餐の後、受難に入る直前、彼の使徒およびすべての信徒のための荘厳なる祈りにおいて、彼らの超自然的な完全な一致のために祈求し、それが最聖なる三位一体の内在的生命の一体性の模型を現示すべきであるとした。註2)この一体性は、天主の恩寵により実現され保持さるべきである。ゆえにこの一体性は教会の内的生命から湧出すべきであり、外面的には全世界の前にキリストの教えへの真理について徴標として出現すべきものである。註3)これをキリストは自己に確実に与えらる

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べき栄光として父に祈求しているのである。

[註1] ヨハネ 10:16 以下参照。
[註2] ヨハネ 17:11ないし20 参照。
[註3] ヨハネ 17:21 および23 参照。
[註4] ヨハネ 17:1ないし5、13:32 以下参照。

キリストが彼の教会のために祈求した一体性はこの教会の中に必然的に存在しなければならない。この一体性は正しく最深の意味において、超自然的生命ならびに天主の愛の一体性であり、しかも信仰と統治と礼拝との一体性として現れざるを得ないものである。

教会が天主の啓示と、この啓示に応ずる信仰とに基づく超自然的な救世制度であることから、信仰の一体性は導かれる。ゆえに、信仰は教会の全生活の基礎であり、信仰の一体性は教会の内的および外的一致の予件である。そしてその教えの内容が天主自身の頒与した真理であるから、この真理は教会の協同体によって全的かつ不可分的に受容せらるべきである。ゆえにキリストの真の教会の内部においては教理および信仰のいかなる相違も存在し得ない。そして信仰箇条の中には主要なものとしからざるものとの間のいかなる区別も存在し得ない。前者は普遍的に義務を負うべきもの、後者はしからずというごとき若干のプロテスタント著述家の考えるごとき区別は存在し得ない。註1)そ

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はすべての信仰箇条が等しく天主の啓示に基づき、従って天主の最高権威に対する一様な服従をもって受容されなければならないものであるからである。このことをキリストの言葉もまた立証している。彼は使徒を世に遣わすに当たり、彼の教説を世の終りに至るまで全的かつ不可変的に宣明させ、それに対して彼の変わらざる助力を約束している。註2)そしてまたキリストは天主の頒与した真理を誤謬なしに保持することを聖霊が助力するであろうと確言している。註3)

[註1] 例えばJurieu(1686没)およびいわゆる分肢説(Branch Theory)の代表者たち。キリストの真の教会が若干の分肢から成るものであり、この分肢が重要でない教義に関して相互に異なっているというこの見解は現在においても若干のプロテスタントによって主張されている。
[註2] マテオ 28:18 以下参照。
[註3] ヨハネ 14:26 参照。

教会の外的統治の一体性と教理の一体性とは密接なる連関においてある。なぜなら教会の支配は信仰を基底とする宗教生活における権威による指導を意味するからである。キリストは新しい天主の国を聖職制度による協同体の形式において構成されたのであるから、かかる教会の職権により教理の一体性および教会の支配の一体性が実現されねばならない。そのためにキリストは教会における支配権能を使徒たちに委ねた。註1)そしてこの権能を特に使徒の首長ペトロに委託しこの上

p. 163

に彼の教会を建設した。註2)そしてペトロをあらゆる信徒の牧者と定めた。註3)教会の支配はそれゆえに統一的でなければならない。そして教会が外的構成において相互にまったく分離している若干の部分に分かたれているということは、キリストの意向と一致し得ないものである。

[註1] マテオ 18:18および第4講話中に引用されている原文参照。
[註2] マテオ 16:18 参照。
[註3] ヨハネ 21:15 参照。

最後に礼拝の一体性は信仰の内的一体性と司祭的聖職権の内的一体性とを表示する。そしてまたこの職能を彼の使徒らに委託したことにより、キリストはこの一体性を基礎づけた。註1)教理と統治と礼拝とのこの三種の一体性はそれゆえにまた使徒の時代以来キリストの真の教会の失うべからざる記標と見なされた。

[註1] マテオ 28:19 以下、ルカ 22:19 以下、ヨハネ 20:21 以下、1コリント 11:23 以下参照。なお第4講に引用されている原文参照。

使徒行録に示されているごとき初代教会の形態がすでに、教理ならびに信仰・支配ならびに統治・礼拝ならびに祈祷の点において一致している協同体をわれわれに示している。註1)使徒パウロは彼の書簡におい

p. 164

て教会の破壊すべからざる一致を詳細に論じており、この一致を頭首たるキリストとの超自然的結合から導き、信仰と愛と礼拝と、それからさまざまの聖職権能およびカリスマ的な賜物の一致として表している。註2)彼と使徒ヨハネとはキリストの真の教会の信仰の点において完全に一致することの必要性を明確に強調し、註3)そしてパウロは「信仰の遺産」depositum fidei(教会の保持に託されたキリストの天啓の全体)を毀損せずに継承すべき義務を強調している。註4)この意味における教会の一体性を初代教会の最も傑出した著述家たちも力強く断固として主張している。例えばすでにローマのクレメンスも第1世紀の末頃コリントの諸分派に分裂している教会宛の書簡の中でかく主張している。すなわち、彼は教会の一致の原則としてキリストの愛と正統的教会の聖職への服従を示したのである。註5)そのほかアンチオキアのイグナチオは第2世紀の初め頃に認めた書簡の中で、教会の教理と行政と礼拝との壊つべからざる一致を強調している。註6)また第2世紀の中頃にできた悔悛の書 Pastor Hermae の著者も、その第9譬喩においてあらゆる信徒を結合する信仰と愛との一致を叙述している。註7)最後に第2世紀の末頃イレネオはその異端駁撃の大著において真の教会のすべての子らの信仰が完全に一致すべきことを詳密かつ深遠に示し、分離および異端から防護すべきこの一

p. 165

致の原理として司教たちの使徒的職権継承を指摘し、同時にローマ教会の首位性を特筆している。註8)キリストの真実の教会において、教理と信仰とが完全に一致することを指摘したイレネオの語は有名である。すなわち、『教会はこの宣布とこの信仰とを受け容れたので、註9)熱心に全世界に向かって、教会があたかも唯一の家屋に居住しているかのごとくに、これを確保し、あたかも唯一の心霊と心情とをもってするかのごとくにこの真理を信じ、あたかも唯一の口をもってするかのごとくに、この真理を伝えかつ教えている。何となれば、この世に別個の言葉が行われるとしても、教会の聖伝は同一にして変わらない。ドイツの諸教会は、スペインの教会において・ケルト族の間において・東方において・エジプトにおいてそしてリビアにおいてとまったく同一のことを信じかつ伝えているのは、太陽が天主により創造され、全世界に同一であるのと同様に、真理の伝達という光線は、到るところ万人に光被して、真理の認識に達せしめんとする』註10)と。それ以後の時代において教会の一致に関する教父たちの詳論はその数を増大して行った。彼らはこの一致を特に信仰と、聖職との一体性として表示している。註11)そして第4世紀においてキリスト論的論争の始まった後は、当時のカトリック教会の偉大なる代表者たちによって力強く弁護されている。註12)

p. 166

[註1] 使徒行録 2:42 以下、4:32 以下、15:23ないし29、16:4 参照。
[註2] 1コリント 1:12 以下、12:12ないし30、ロマ 12:4ないし5、エフェゾ 4:1ないし6 参照。
[註3] 2テモテ 2:16ないし18、2ヨハネ 10 参照。
[註4] 1テモテ 6:20 参照。
[註5] Clemens Romanus, epist. ad Cor. 42-54(Rouet 20-22)参照。
[註6] エフェゾ人宛てのイグナチウスの書簡9-1(R 56)、マグネシア人宛ての書簡6-1(R 44)、トラリア人宛ての書簡3-1(R 49,50)、フィラデルフィア人宛ての書簡3-4(R 93)、スミルナ人宛ての書簡7-1、8-1(R 64, 65)参照。
[註7] Pastor Hermae, Sim. 9, 17, 4(R 93)参照。
[註8] Irenaeus, Adv. haer. I, 10, 1-3(R 191-192)参照。
[註9] イレネオの叙述により、受け容れたとの意味である。(R 192)参照。
[註10] Adversus haereses I, 10, 2(R 192)参照。
[註11] Origenes, Periarchon I, 1, 2(R 443); Cyprianus, de catholicae Ecclesiae unitate(R 555-557)参照。
[註12] Hiralius, de Trinitate 7, 4(R 865); Optatus Milevitanus, Contra Parmenianum Donatistam 2, 2(R 1242)ここにはペトロの座が教会的一致の中心として表示されている。そしてなかんずくアウグスチノはキリストの神秘体としての教会の本質から信仰と聖職との一致をの必要を導出している。ep. 267, 4, 4,(R 1523), de symbolo sermo I, 6, 11(R 1535)参照。

これら古代キリスト教の著述家たちの証言は、伝承されている最古の典礼(ルトゥルギー)的原文とも一致する。この典礼には、なかんずく、聖体の秘蹟が教会の完全な一致の象徴として示されている。註1)かくして信仰

p. 167

と教会統治と礼拝との一致の絶対的必要性と不可壊性との意識は教会の創始以来常に自覚せられ、最近世の教皇たちは荘重な教書においてこの点を繰り返し強調している。註2)

[註1] Didache, 9, 4(R 6), Anaphora Serapionis 等参照。
[註2] 例えばレオ13世の1896年の回勅 Satis cognitum(Denzinger 1954 以下)およびピオ11世の1928年の回勅 Mortalium animos 参照。

キリストの教会のカトリック性

上述のごとき意味における教会の一体性は、教会のカトリック性と緊密に連関している。このカトリック性とは教会が内的にも外的にも統一を保ちつつ全世界に普及するとの意味である。この意味においてギリシャ語のkatholicos(公的--普遍的)がキリストにより建てられた教会に適用される。カトリックであるゆえに、教会はもはや旧約的宗教のごとくに特定の一民族とのみ特別に結ばれず、むしろ、あらゆる民族の信徒たちを新しい、完全な天主の国に統合する。すでに旧約の約束があらゆる民族をメシア的な天主の国に採り入れるべきことを宣明している。註1)キリスト自身は彼の国の普遍的性格をあらゆる明確さをもって主張し、註2)使徒たちをあらゆる国民へ派遣するに際してもその使命

p. 168

実現のための天主の援助を約束した。註3)使徒たちもキリストのこの委命に従って行動した。彼らはあらゆる人々をキリストの救いの恩寵にまで召命することを宣明し、彼ら自身すでにこの恩寵をあらゆる国の人々に伝達した。註4)ゆえに彼らの死ぬ頃には新しい天主の国の普遍的性格はすでにある程度まで実現していた。初代キリスト教の著述家たちはすでに第2世紀の初め頃からキリストの真の教会をカトリック教会と称しており、註5)第4および第5世紀の偉大なる教父たちはこのカトリック性を感激的言辞をもって説明しており、これをキリストの真の教会の紛うかたなき特徴と見なしている。註6)ここに真の教会の紛うかたなき記標として要求されるカトリック性なるものは、ただに数量的集団の意味、すなわち、真の共通の結合を為さずとも何らかの意味において合致している信徒の多数を意味するのではなく、註7)キリストの教会が一体の宗教団体として人類の大部分に普及し、しかもその内的および外的一致と可見的な聖職的構造とを確保することを意味する。キリストの教会は、従って、救い主自らと同様な方法で、あらゆる民族と時代との人々に属する。教会は、従って、その教理とその組織とにおいて、個々の民族に特別な仕方で定められているのではなく、必然的に全人類に対し同一であり、キリストより教会に与えられた形を示すものでなければならぬ。教会は、常に、天主より与えら

p. 169

れた万人に対する使命を銘記しなければならず、聖霊の庇護の下に常に天主の国を万民の間に拡大するために働かなければならぬ。キリストの救いの業が普遍的であるごとく、キリストの教会もまたこの普遍的性格、『カトリック性』の徴表を失うことなく、正しくそれを目標として、常に救世主によって建設されたものとして認識されなければならぬ。この意味において、アウグスチノは先に引用した箇所において「われわれはキリスト教の信仰とカトリックであり、カトリックと呼ばれているところの教会との一致を守らなければならない。すなわち、その教会は信徒からのみならず反対者からも『カトリック』と呼ばれている」と言っている。註8)

[註1] 創世記 12:3、18:18、22:18、詩編 21:26ないし29、71:7ないし11(ラテン訳)、イザヤ2:2 以下、11:10 以下、60:1 以下、エレミヤ 3:17、ダニエル 2:44、7:13 以下、マラキア 1:11 参照。
[註2]  マテオ 8:11、13:38 以下、24:14、26:13および28、マルコ 13:10、14:9および24,ルカ 13:29、ヨハネ 10:16,12:32 参照。
[註3] マテオ 28:18 以下、マルコ 16:15 以下、ルカ 24:47、使徒行録 1:8 参照。
[註4] 使徒行録 2:21ないし39、4:12、10:34ないし43、15:7 以下、ロマ 10:12 以下、エフェゾ 2:11 以下、コロサイ 1:6および第4講話(p. 147)初代教会におけるユデア系キリスト教徒ならびに非ユデア系キリスト教徒の地位に関する説明参照。
[註5] イグナチオのスミルナ人宛ての書簡8-2(Rouet 65)、ポリカルポの殉教に関する記事(R 77)、いわゆる『ムラトリ断片』(R 268)、アレキサンドリアのクレメンス著 Strom. 7-17、チプリアノ著前出(R 555以下)、書簡45-

p. 170

1 参照。
[註6] Cyrillus Hieros, Katech. 18, 23-26;(R 838, 839); Pacianus は言った『キリスト信者はわが姓、カトリック信者はわが名、カトリックと呼ばれるがゆえにわが民は異端者と区別される』(書簡1-4、R 1243)。そして最後にアウグスチノはカトリック性によって教会の真理を証明し、カトリックという名称が常にキリストの真の教会と結ばれていなければならないという。De vera relig. 7:12 (R 1548)、Contra epist. Manicaei, quam voc. fundam. 4,5(R 1580)参照。
[註7] 多くのプロテスタントの人々がかく考えた。
[註8] De vera religione 7:12 (R 1548) 参照。

キリストの教会の使徒伝来性

さて教会の第三の本質的記標としての一体性およびカトリック性に加うるに使徒伝来性がある。そしてこれはある意味においては前二記標から要求される。すなわち、使徒伝来性とは教会における聖職制度の諸権能が間断なく妥当的かつ正統的に使徒たちから教会の現在の頭首たちへ伝達されているという意味である。このことは品級権が有効的典礼によって授与されたことと、聖職権全部、すなわち、品級権および裁治権が正統なる方途においてかつ教会のカトリック的一致の内において伝達されていることを意味する。これにより、使徒たちから委命された聖職の権能と対立しており、かつ、カト

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リック教会の秩序と一致とを毀損するような職能の可能性は排除されてしまう。この意味における使徒伝来性の必然性はすでに聖職の権能からも総じて教会の性質からも結論されるのである。なぜなら教会は超自然的組織であり、そこに存在する職能は超自然的性格を有し、キリスト自身が使徒たちに委命したものであり、使徒たちからその正統的継承者に伝達されたものであるからである。またその聖職制度をもって教会は世の終りまで継続しなければならない。ゆえにこの職能はその正統な所有者からの委命によってのみ保持され、何人といえどもこれを他の方途によって獲得することはできない。このことはキリスト自身が最初にこれらの権能を使徒たちに委命した時の言葉からも明らかに判り、註1)使徒たちの明白な証言からも行動からも承認される。註2)同一の見解を古代教会の著述家たちも一致して主張している。例えばすでにローマのクレメンスもコリント教会宛の書簡において司教の職能が使徒の制定によるものであることを強調し、従って司教たちのみが教会における正統的職能を有することを結論している。註3)またイレネオはその異端排撃論において、正統的なる使徒的継承によってのみ教会の教義の真理性と教会に約束された天主の助力とが保証されることを強調している。註4)チプリアノも、註5)アウグスチノも註6)同様である。そして現代の教会もまた同じようにその聖

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職権能を正統的に使徒たちより継承せることに基づくものと見なし、註7)これによってまた教会の霊的な、あらゆる民族と時代とを包括する統一性が保証されると見ている。

[註1] ヨハネ 20:21 以下、4:32 以下、マテオ 28:19 以下、ルカ 22:19、1コリント 11:24 参照。
[註2] ロマ 10:15、1コリント 4:1 以下、2テモテ 1:6、テトス 1:5,使徒行録 14:23、1ペトロ 5:1 以下参照。
[註3] コリント教会への書簡 1-42および44(Rouet 20, 21)参照。
[註4] Adversus Haereses 4, 26(R 237)参照。
[註5] 教皇コルネリオの正統的継職についての書簡 69(R 589)参照。
[註6] ローマのペトロの座の継職については Contra epist. Manicaei, fundamenti 4, 5(R 1580)参照。
[註7] ヴァチカン公会議 4-3(Denzinger 1828)レオ13世の回勅 Satis cognitum; 教会法 218条および329条参照。

キリストの教会の聖性

最後に聖性ということがキリストの真の教会の本質的かつ失うべからざる特徴をなしている。教会はまずキリストの救世事業を人類の中に継続しかつ天主における超自然的かつ聖善なる生活を人間に受け伝えるべき使命を委命されているゆえに聖である。教会のあらゆる職能、礼拝・典礼も、その目的とするのは、ただ天主の啓示した真理の認識、キリストの超自然的な聖なる生命への

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参加にまで導くということである。すなわち、教会の誤謬に陥ることなき教職はキリストの真の教説への確実なる認識を信徒に与えるのである。牧職は彼らを宗教的生活の正しい道に導き、司祭職の実施する典礼は天主の聖なる超自然的なる生命を恵賜するのである。すなわち、秘蹟により罪の妨げが除かれ、信徒を直接救い主キリスト、すなわち、聖人の協同体の頭首と結合せしむる。聖性の神的起源たる聖霊はそれゆえに教会協同体に属するすべての人々の中に超自然的にはたらき、従って当然教会の霊魂と呼ばれる。この意味においてアウグスチノは曰く、『霊魂の人間の肉体に対するのは、聖霊がキリストの体、すなわち、教会に対するのと同じである』註1)と。キリスト自身この新しい天主の国における聖かつ超自然的なる生活と、その偉大なる実とについて繰り返し語った。註2)そしてパウロは、教会のすべての職能がひたすら信徒の聖性およびキリストと彼らとの完全なる結合をもたらすこと、およびキリスト自身が彼の犠牲をもって教会を聖かつ完全に形成したことを、詳細に叙述している。註3)彼はまた教会をキリストの体と称し、この体が頭首たるキリストから聖かつ超自然的生命を享け、従ってキリストと不可分的協同の下にあり、キリストの聖性に与ることを述べた。註4)諸民族の使徒パウロのこの教えは教父たちに受け継がれ、殊にアウグスチノによって敷衍され、教会の全生

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活に適用された。註5)中世の神学者らはアウグスチノに従い、そしてトマス・アクィナスは頭首キリストと彼の『神秘体』たる教会との一体性の思想を救い主と教会と秘蹟との各教義に対する解説の中心にした。註6)この首たるキリストと教会および教会のすべての職能と制度との存在的一致は、教会が人間において完成すべき聖性の大業の基底である。註7)教会に課せられたこの使命は無効に終わるはずがない。この使命はむしろいかなる時代にも超自然的なる徳行と聖性とを教会の信徒らの中に豊かに生ぜしめるものである。

[註1] ”Quod est anima corpori hominis, hoc est Spiritus Sanctus corpori Christi, quod est Ecclesia.”Sermo 267, 4; Migne PL 38, 1231.
[註2] ヨハネ 3:3 以下、15:1 以下 参照。
[註3] エフェゾ 4:12 以下、5:25 以下参照。
[註4] 1コリント 12:27 以下、ロマ 12:5、エフェゾ 1:10および22 以下、4:11ないし16、コロサイ 11:8ないし24、2:18および19 参照。
[註5] Mersch, Le Corps Mystique du Christ, Louvain 1933, 11, 34 以下参照。
[註6] 古典的な標語”tota Ecclesia, quae est mysticum corpus Christi, computatur quasi una persona cum suo capite, quod est Christus.”Summa Theol. III q. 49, 1 参照。なお Grabmann, Die Lehre des hl. Thomas v. Aquin von der Kirche als Gotteswerk, Regensburg 1903 参照。
[註7] Juergens-

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meier, Der mystische Leib Christi als Grundprinzip der Aszese, 6. A., Paderborn 1936 参照。

それゆえにすでに旧約聖書の約束は新しい天主の国における義を叙している。註1)キリスト自身も繰り返しあらゆる明確さをもって、天主の国に属せんと欲するすべての人々から真の完徳の結実を要求した。註2)そして受難を前にして木たる自己に信者の連なること枝のごとくにして、霊的生命の多くの実を結ばんことを約束し、註3)彼らの天主における一致と聖化とを祈った。註4)使徒たちは初代信徒がキリストにおける新生命に召されているゆえにこの生命の実を結ばなければならないこと、光の子として歩むべきことを、繰り返し指摘している。註5)

[註1] イザヤ 2:2 以下、60:21、エレミヤ 31:33 以下、エゼキエル 36:26 参照。
[註2] マテオ 5:48、7:16 以下、7:21 以下、13:23、25:34 以下および24 以下、マルコ 4:20、ルカ 8:15、ヨハネ 13:34 以下、15:8および12 参照。
[註3] ヨハネ 15:1 以下。
[註4] ヨハネ 17:17 参照。
[註5] ロマ 12:1 以下、ガラテヤ 5:16 以下、エフェゾ 5:8 以下、1テサロニケ 4:3 以下、1ペトロ 1:13 以下、1ヨハネ 3:1 以下参照。

行動の聖性はそれゆえにすでに初代キリスト教会の特徴であった。註1)そして古代教会の著述家たちは天主の恩寵により教会がその構成員の中に完成した全生活の改革および聖化を感激をもって指摘し

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た。それによって教会は全世界の前に天主の業として信ぜられたことも指摘している。註2)このことは教会の聖性がその全構成員の中に絶対的に実現したという意味ではもちろんない。現世における天主の国においては聖性の結実の外、人間的弱さと道徳的損傷とも存在すること、そしてこれらは世の終りに至って完全に排駁されることが、キリストおよび使徒らの言葉から明白に判る。註3)教父らも彼らの当時の種々の異端者に対して同様のことを強調している。これら異端者は偏執的厳正主義において罪人全部を教会から排斥しまた聖職者においてその個人的罪のために彼らの聖職権を否認せんとしたのであった。註4)かかる偏執的傾向は各時代の非カトリック的宗派の中に現れている。また初期プロテスタント的見解に従っても、教会(すなわち、本来の不可見的教会)は聖人もしくは予定されたる人々の協同体である。註5)いわゆる『弁証神学』は罪人の可見的教会と聖人の不可見的教会とを区別している。この両教会の対立は除くべからざるものであり、教会の弁証的性格を表現すると言っている。註6)他方においてプロテスタント側はただ信仰のみによる外的義認の教説と教会の恩寵機関の否定とにより、教会の真の聖性を放棄してしまった。

[註1] 使徒行録 2:42、4:32、1ペトロ 4:4 参照。
[註2] Justinus, I. Apologia 14(Rouet 118), Orige-

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nes, contra Celsum 1, 26(R 516); Lactantius, Divinae Institutiones 5,10 以下;Augustinus, de moribus Ecclesiae Cath., 62 以下、7:21 以下参照。
[註3] マテオ 24:10ないし13、13:41 以下、1コリント 5:1ないし13、11:27ないし30、黙示録 2:4および14、3:1および15 参照。
[註4] 反駁は Cyprianus ep. 51, 3; 52, 25; Augustinus, sermo 264, 5; Brev. Collationis cum Donatistis, Col. 3, c 10 n. 20 参照。
[註5] Confessio Augustana および Catechisum. Genev. 参照。 [註6] Karl Barth, Die Theologie und die Kirche, 1928, Muenchen; Roemerbrief 5. Aufl. 1929; Feuerer, Der Kirchenbegriff der dialektischen Theologie, Freiburg 1933 参照。

しかしキリストの真の教会の中に聖性の結実がいつの世にも著しく現れねばならない。一般的には信徒多数の宗教的生活において、またキリストの示した完徳と聖性との理想の異例的かつ英雄的なる成就の範例において、キリストの超自然的恩寵は真の教会において遺憾なく発揮されなければならず、忠誠熱心なる霊魂の中に完徳の最高の果実を生じなければならない。これにより教会は全世界の前にキリストの創立した新約の恩寵の協同体として立証されるのであって、キリストはその約束に従い、教会の中に世の終りまで働くのである。最後にキリストの教会内には異例的な賜物(カリスマ)も奇蹟も決して欠けていてはならない。なぜならキリストは天主の助力の

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この奇蹟的徴候を普遍的にかつ無制限に約束しているのである。註1)パウロは奇蹟的な賜物を聖霊のはたらきと見なし、聖霊が常に教会にありて活動するであろうと言っている。註2)そしてキリスト教徒は心していつの世にも、かかる奇蹟的事象の事実性と高い意義とを認めている。

[註1] マテオ 21:21 以下、ヨハネ 14:12 以下、マルコ 16:17 以下参照。
[註2] 1コリント 12:4ないし11、ヨハネ 14:16 参照。

以上の四特徴がキリストの創始した教会の性質から必然的に生ずることは、以上の叙述から明らかである。この四特徴は教会をその特殊性と正統性とにおいて明確に認めさせるのである。特徴そのものは容易に認識され、何らの困難なしに確認される。この確認は非カトリック的著述家たちによりしばしば与えられたごとき記標においては、このことは適用されない。そこでプロテスタントの著述家たちは、福音の正しき伝達と秘蹟の正しき実施(秘蹟はプロテスタントの解釈によれば信仰の外的徴であり、恩寵をもたらす効験ある機関ではない)を指示している。キリストの真正なる教会において福音の教説は誤ることなく保持され伝達されねばならず、キリストにより定められたる秘蹟の実施は正しい方法で行われねばならないが、福音の真の教説と秘蹟の本来の意味およびその正

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しき実施とに関しては歴史の経過の裡に著しい意見の相違を生じ、ただにカトリック教会とプロテスタント団体との間のみならず、むしろプロテスタント団体内においてさえも種々の異なった教説の体系と秘蹟の実施が相並んで行われている。従って真実の教会に関する明瞭性に到達するためには別個の認識記標が必要である。正教会の著述家たちは古代教会、なかんずく、最初の7回の公会議(最後のものは787年に開催された)の教理との一致をもってこれが記標となそうとする。これに対して教会の教理は、今日においても、かの古代の公会議に一致せざるを得ないことは確実に証明できるのであり、後代において教会の教理は絶えず有機的に進歩しているのであるから、註1)古代教会の状態のみを念頭に置いていては、現代の教会を確実に認識し判断するのには不充分である。昔時から一般に認められている記標たる一体性・カトリック性・使徒伝来性および聖性は教会の本質と極めて密接に関連しており、従ってこの四徴標はいつの世にも真正の教会の中に認めらるべきものであり、その教会を明白に示すものでなければならない。このことはすでに古代の信徒らも認めており、その信経において教会を一にして聖公使徒伝来なる教会と称しており、この意識はあらゆる時代を通じて変化せずかつ近代においても教皇ピオ9世のこれに関する説明により明確に表現さ

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れているのである。

[註1] さらに詳細は第7講話にあり。
[註2] Denz. 1686 参照。

カトリック教会のみがこの四記標を悉く所有すること

さてわれわれが現代のキリスト教界の諸団体について教会のこの本質的記標を検討するとき、この記標がカトリック教会に高度かつ独一的に賦与されていることが、即座に判る。

一体性

まずカトリック教会のみが既述の意味における内的および外的の一体性を所有する。すなわち、教理の一体性、統治の一体性および礼拝の一体性、これである。この一体性はローマ教皇および教皇と結ばれた諸司教の教職および牧職によって実現される。ゆえにカトリック教会はいつの世にも、信仰と宗教生活とに関する諸問題を統一的かつ徹底的なる方法において決定することができる。最近代の教会史--ヴァチカン公会議から現代に至る--もこの事実を承認する幾多の実例を提供している。註1)従ってカトリック教会のあらゆる信徒は--その所属する国民、階級、および教養程度がいかな

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るものであろうとも--彼らの信仰と宗教生活とにおいては完全に一致している。もちろんカトリック教会の内部にも学問的方向を異にする学派が存在して、研究に際しての個人的意見の自由が高度に保たれている。しかし教会の教理および教会の法規に関するあらゆる点においては、完全なる一致が存在し、もしもある問題に関して学問的意見の相違が存する時は、同時に教会の教職が当該問題を裁決した場合には、これに完全に服従する用意が存在するのである。かくして教会の教理の真に有機的な進歩が可能にされ、確保されるのである。註2)教会へのこの服従がそれゆえにすべてのカトリック神学者の必然的記標である。註3)教理と同様に、教会の統治と管理とは全世界に共通なものであり、統一的な聖会法は到るところ同一に適用されており、その規範に従ってカトリック司教たちは世界の各国において担当教区を霊的牧者ならびに使徒の後継者として統治している。註4)

[註1] 例えば特に近世の哲学的方向を顧慮した宗教および神認識の根本問題に関するヴァチカン公会議の教理決定(1870年)いわゆるモデルニスムスに対するピオ10世の措置、および聖体秘蹟の使用に関する彼の勅令、信仰および道義の諸問題に関するローマ聖庁の幾多の布告など。
[註2] 教理の展開に関しては第7講話において詳述する。
[註3] これについて特記すべきは最大のカトリック神学者と言われる聖トマス・アクィナスの死の直前に発した言葉である。『私は一切を聖ローマ教会の校訂に委ね、これに服従して私は世を去る』。Grabmann, Die Lehre des hl. Thomas v. A.

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von der Kirche als Gotteswerk, Regensburg 1903, 4. 参照。
[註4] Codex Juris Canonici 参照。前出 Koesters 128 参照。

以上のごとくカトリック教会の一体性は決して枯死した文字および法的要文の一体性ではなく、キリストのもたらした宗教的生命の一体性であり、これが教理および宗規の一体性においておよびキリストに立てられかつ聖霊に導かれる聖職の権能の下に信徒が完全に服従することにおいて必然的に示される。ペトロの後継者としての教皇の首位権は教会の統一を絶対的に確保するものである。教皇の最高指導の下に全世界のカトリック教会は、いつでも、教理と信仰と宗教生活の管理とにおいて完全に一致している。教理と宗教生活とにおけるこの一致は全世界到る所で同一に行われるカトリックの礼拝においてもその表現を見出す。註1)この一致がカトリック教会の内部においてのみ維持されること、カトリック教会から分離したキリスト教の団体の歴史、なかんずく、プロテスタント団体の歴史が明らかに示している。プロテスタント主義は信仰の規準を宗教的主観の内部に置き、教会の権威ある教職を否定するがゆえに、必然的に、種々の異なる信仰解説を採用し、しばしば本質的な点において甚だしく相違するところの多様なる団体に分裂する。キリストにより建てられた聖

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職位階制度を拒否する結果、教会の一体的・外的組織を放棄し、組織を時代により制約された情勢に応じて個々の国に制定し、情勢の交替により組織を変更せしめる。プロテスタント主義は、その種々異なった分派の裡に特定のキリスト教的原理を保有することは確かであるが、しかし、教理・信仰・宗規および礼拝の共同体はプロテスタント主義には成立し得ない。近時多くの熱心なプロテスタントの間に、信仰と教理とを現在以上に団結せしめんとする努力が現れたが、プロテスタントの合同会議の歴史は、プロテスタント関係者の善良なる意志にもかかわらず、信仰の真実の一致に対する基本的条件を欠き、これを見出し得ない状態を示している。註2)

[註1] この礼拝の一致はラテン式典礼・他の典礼(ビザンチン式・シリヤ式・アルメニア式等)の存在しているのを排除するものではない。しかし、全カトリック教会には同じミサ聖祭が行われ、同じ秘蹟が授けられるのである。
[註2] これに関しカトリック側ではPribilla, Um kirchliche Einheit, Stockholm-Lausanne-Rom, 1929、非カトリック側ではHeiler, Im Ringen um die Kirche, Muenchen 1931 参照。

東欧の正教会は、それに反して、カトリック教会から久しい間分離しているが、教理・礼拝・宗規の一致を大規模に確保している。このことは、正教会が外的可見的聖職位階組織の教会に対するカトリック的見解を固持していることと関連する。しかし、教皇の首位権を否定する結果、全

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教会に対して絶対的権威を有する最高教職機関を失うに至り、正教会の見解に従えば、公会議は一個の機関たるべきであるが、ローマ教会から分離した結果、開催が不可能となった。信仰上の疑問は、従って、正教会において、全信徒を服従せしむる権威により絶対的に決定することができなくなった。教会の統治は正教会において一体的・位階的に組み立てられているが、ここでもまた、最高の普遍的な統治権を欠くがゆえに、個々の教会は、民族および国家により個々独立に組織せられ、相互間の緊密なる連繋を欠いている。ゆえに、正教会が原則として固執するところの教理と統治との一体性は、カトリック教会からの分離の結果として、不完全にしか表現されず、カトリック教会への復帰によってのみキリストの教会の一体性を完全に所有し得るに至るであろう。カトリック教会は分離したキリスト教団体を真正の教会の一致に引き戻すために努力している。しかし同時に教会の真の一致が信仰の一致を前提とし、また、天主から啓示された真理を譲歩および妥協の対象と為すべからざることをも主張する。従って、この理由の下に、カトリック教会は非カトリック教徒の開催した合同会議に参加し得なかった。しかし、分離したキリスト教徒との一致のために絶えず祈り努力しまた、天主がその努力に酬ゆべきことを確信している。註1)

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[註1] Leo XIII, Satis Cgonitum 回勅・Pius XI, Mortalium Animos 回勅・Pribilla 前出参照。

カトリック性を有するカトリック教会

カトリック教会における一致と同時に真のかつ完全なる意味におけるカトリック性も実現されている。すでに信徒の数によってカトリック教会は他のキリスト教的諸団体を遙かに凌駕する。これら信徒はさまざまの国民と文化圏とに属しているが、共通の信仰と共通の教会組織とによって結合し宗教的・超自然的一致を為している。カトリック教会は一定の国民あるいは時代にその使命を束縛されることがない。かえってキリストの委命によりあらゆる国民と時代との人々のために建てられたことを自覚している。ゆえにカトリック教会は抹消し難き拡張力および不動の布教意志を有し、布教の純宗教的かつ神聖なる性格は近代の教皇らの厳粛なる宣明により繰り返し主張されている。註1)全人類に対する使命を意識してカトリック教会は、いつの時代においても無数の宣教師を、地上のあらゆる国々に派遣し、全民族にキリストの教説を伝え、万人をして霊的・超自然的一致性に結合せしめんとする。ゆえにまた個々の民族の文化を原則として尊重し聖なるものとして保持し、キリスト

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の国の精神との生ける調和において融和している。キリストの教説と共に外的文化をも伝達されたところの国民においてすら、カトリック教会は彼らの精神的特異性を確保し、これをキリスト教的精神によって昂揚せんとする。このことは教皇グレゴリオ1世(590-604年)がアングロ・サクソンへ派遣された宣教師に与えた指示が示している。文化国民の場合にはカトリック教会はキリストの教説を彼らに特有の文化形式と結合しかつこの形式において生き生きと表現すべく努力して来たのである。まずギリシア・ローマの文化圏に入った後にそれが示された。すなわち、彼らの文化形式を大規模においてキリスト教会の教理と礼拝と全宗教的生活との表現に利用することに成功したのであった。しかしこれによって一面的にこの文化圏に制約されたのではない。東アジアの文化諸国民における最大の宣教者たちはこれらの諸国民の文化形式において教会の教理と生活とに適当なる表現を与えることを自明の義務と見なした。註2)西洋の文化諸国民においてカトリシズムは--信仰と教会統治との完全なる一致にもかかわらず--特殊の、そして個々の民族の特性に従って定められたる形体を保持した。個々のキリスト教国民および種族、ローマ種族・ゲルマン種族・スラヴ種族その他における教会的生活の若干の慣習および教会的芸術と音楽の諸作品がこのことを

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確証している。かくしてキリストの真の教会の本質から要求されるカトリック性は生き生きと実現されるに到っている。それはあらゆる民族を同様に包括しあらゆる民族の精神的特徴をキリストの国に採り入れるところの真の普遍性を示してる。同時にまた、信仰と教理、宗教的生活と教会的統治との真正完全なる一致をも示している。すなわち、教会はキリストの普遍的かつ唯一の羔群である。かくてカトリック教会は一民族に特別な仕方で属するものではなく、一民族の民族的・政治的構成に依存するものでもなく、カトリック教会は、むしろ、全人類に対し同一の仕方で属し、万人は教会の内で同一権利を持つ。ゆえにこの教会をカトリックと呼ぶのは正当であり、全世界において、特殊な宗団・民族的教会から区別してこれをカトリックと称するのである。

[註1] これについてはベネヂクト15世の回勅Maximum illud(1915)およびピオ11世の回勅Rerum Ecclesiae(1926)参照。
[註2] 例えばインドにおけるNobili、支那におけるRicci, Shall, Verbiest、日本におけるValignano。なお後者についてカトリック大辞典1巻p. 248。なおアダム著『カトリシズムの本質』吉満義彦教授訳の序文参照。

プロテスタント団体はその設立以来強く民族的特色を帯び、今日においても、なお、部分的には

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民族あるいは国家に応じて組織されている。彼らも確かにキリスト教の信仰と生活とに関する根本原則を共通に所有し、近時に至り、非キリスト教民族に対する強い伝道意志を示してもいるが、プロテスタント相互間において、教理に関し宗規に関し礼拝に関し大きな差異が示されているために、たとえ、キリストの理念を全世界に普及せしむることに貢献があるとしても、しょせん、本来の意味におけるカトリック性を実現することはできない。近時多くの熱心なるプロテスタントの間にカトリック性への強い憧れが見られるが、それはプロテスタント独特の根本原理たる宗教的主観主義と相容れないから、カトリック教会との結合によってのみ実現されることである。

東欧の正教会はカトリック教会からの分離以来関係ある民族(なかんずくギリシャ種族とスラヴ種族)に限定され、その点において真の普遍性を欠いているが、正教会にとってもまたカトリック教会との結合により完全なるカトリック性を回復し得る。

使徒伝来性を有するカトリック教会

使徒伝来性は完全にカトリック教会に帰する。そはその聖職が使徒たちから、直線的、中断なき

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かつ完全なる継承によって生じたものだからである。換言すれば、使徒たちは--既述したように--教会の司祭と教師と牧者としての聖職を彼らの任命した初代司教たちに委命し、この司教たちからこの聖なる権能は中断なき順列において現代のカトリック司教に至るまで持続している。ローマ聖座における使徒ペトロの最高にして普遍的なる牧職も同様に256人の後継者の系列により現代の教皇に至るまで不変的かつ徹底的に保持されている。これによりキリスト自身の創始した教会の構造は、これに属する聖職制度と共に使徒たちから現代のカトリック教会に至るまで伝達されている。この伝達は常に正常に、換言すれば、教会の伝統との完全なる一致において、教会団体とその正当なる権能者との一致において、何ら中断することなく変化することなく行われ、叙品の秘蹟はいつでも有効的方法で授けられ、裁治権もいつでも正統的権能者より伝達された。ゆえに神聖なる職責の全権は、キリストより使徒に譲渡されたごとく、今日に至るもなおこの教会に行われているから、この意味においてカトリック教会は使徒伝来的と言える。この意味においてカトリック教会は『使徒伝来的』であることを自覚し、自称している。すなわち、その聖職およびその権能において使徒の教会と同一のものである。プロテスタント側の宗団は以上の意味における使徒伝来性を

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主張せず、そはその創始者らが初代教会より伝達された聖職制度の理念を放棄するかあるいは本質的に変化してしまったからである。本来のプロテスタント制度においては、古代キリスト教的およびカトリック的伝統の意味における聖職制度なるものは認められていない。なぜなら--プロテスタント主義がその原始的教義に従って主張するごとく--キリストの立てた可見的典礼および恩寵機関による人間の真の聖化なるものは存在せず、--現世にある限り罪のままにとどまる--人間の義認は専ら天主の言葉に対する信仰によってのみ生起するものであるとすれば、カトリック聖職制度の存在と機能とはその基底を喪失してしまう。せいぜい天主の言葉の宣明者--説教師--として許容されるのみであるが、しかしその聖職もプロテスタント側の教説とは一致し得ない。何となればプロテスタントが主張する内的信仰規定(聖書の意味を各信者に解説する聖霊の内的指導)のみある場合には教師の外的活動はまったく不必要になるからである。次いで宗教改革者たちが総じて外的事情の影響の下に若干の点において一つの外的・可見的教会秩序および教会管理を再び導入したことは、彼らの教説とその原理とに一致し得ざるものである。註1)しかしまた司教制教会組織を固守するプロテスタント宗団は--エピスコペリアンのごとき--正統的・使徒的なる聖職継

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承と認めることはできない。なぜなら彼らも16世紀においてカトリック教会から分離することと共にカトリック聖職制度の本質的要素を放棄し、その諸機能をカトリック伝統に反して任意に変化してしまったからである。ゆえに近時この宗団の広範囲にわたって、彼らの聖職者たちが使徒伝来性を明示しようと努力したにもかかわらず、これは彼らにおいて認めることができない。このことはカトリック教会から明確に宣明されている。註2)すべてのプロテスタントはカトリック教会からの離脱と共に、初代教会より伝えられている聖職制度の理念を放棄しもしくは本質的に変化せしめて、使徒(伝来)性を放棄した。ゆえにカトリック教会への復帰によってのみ彼らは真の使徒伝承性を獲得することができる。

[註1] この点をドイツのカトリック神学者 J. A. Moehler がその名著 "Symbolik" において表示している。同書7版 p. 410 以下参照。
[註2] 例えば1896年アングリカン叙品に関するレオ13世の声明。Denzinger 1963 以下参照。

カトリック教会から分離した東欧の正教会の場合は、この点において異なる。彼らはカトリック聖職制度に関する正当の見解を毀損することなしに保持し、各品級の委命に必要なる叙品典礼を

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ずっと変わらずに実施して来た。すなわちキリストが使徒たちに授与した品級権能はこれらの教会の中に事実的に存在しており、そこで施された秘蹟は正当であり、カトリック教会もこの点を認めている。ゆえにこの意味において使徒伝来性がこれらの教会に認められている。しかしこの使徒伝来性には完全なる合法性が欠けている。そはこれらの教会はカトリック教会総体およびその中心たるペトロの聖座から分離し、従って聖職継承はそれゆえに全教会の首長および聖職との正統なる連結なしに行われており、またその分離の状態において、この教会の首長らには正統な教会の裁治権が認められない。この意味からして正教会はカトリック教会から分離し続ける限り使徒伝来性はただ不完全な意味においてしか認められない。カトリック教会との再結合は正教会にとっても完全な使徒伝来性の獲得を意味するのである。

カトリック教会の聖性

カトリック教会はすでにその教理のゆえに聖性の本質的記標を所有している。この教理はキリストおよびその使徒たちの教説と完全に一致しており、人間の内的更新と超自然的聖化とを目的とするも

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のである。すなわち、カトリック教会は新約の天啓がキリストの信徒に対して提出するところの高い道義的要求を堅持し、その子らすべてに信仰と愛と、祈りと悔悛と、克己と修徳とを教え、同時に天の父の摂理にまったく信頼して献身することを教える。キリストの言葉に従ってカトリック教会は天主と人間とに対する愛をカトリック宗教生活の最大の掟とし、人間社会の正義と愛とによる建設のために力を尽くしている。註1)全世界において無数の慈善事業を行っている。キリスト自身が聖なる真摯をもって語ったごとく、註2)同じ真摯をもってカトリック教会は夫婦関係と家庭生活とを聖く保つべきことを勧奨する。註3)そしてカトリック教会の最も暗澹たりし時代においてすらこの原則を抛棄するよりは最も重い打撃でも甘受することを選んだ。註4)他方においてカトリック教会はその子らにキリストが言行をもって教えたところの福音的完徳の大理想を眼前に提示し、註5)自発的な聖貧と童貞的貞潔と完全なる服従とによってこれを実現する修道生活の道を示している。そこでは信徒は確実なる方途により天主との超自然的なる愛をますます完全に獲得することができる。トマス・アクィナスは古代キリスト教の全伝統に付随して修道生活に関する彼の記述においてこのことを深遠に表示している。註6)

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[註1] Leo XIII, Rerum novarum., Pius XI, Quadragesimo Anno 等の回勅参照。
[註2] マテオ 19:3 以下、マルコ 10:2 以下参照。
[註3] キリスト教的婚姻についての1930年のピオ11世の回勅参照
[註4] 16世紀英国のヘンリ8世の結婚問題に際して等。
[註5] マテオ 5:1 以下、19:12および21 参照。
[註6] Summa theologica II-II, q. 186, 187 参照。

この教えと同時に教会はまた信徒たちにキリストの立てた恩寵機関すなわち、秘蹟をも頒与する。この機関により救い主自身が彼の神秘体に属する彼らに聖かつ超自然的生命の恩寵を施与している。すなわち、秘蹟、その効力、これによって象徴されかつ実現されているところの、教会の首たるキリストとあらゆる信徒との一致、これらはカトリシズムの最も本質的なる部分に属している。すでに教父たちもパウロの叙述に基づいてこれを詳論している。註1)トマスは神学大全の第三部においてこれをみごとに総括しており、註2)各時代のカトリック神学者は特にこの問題を取り扱っている。註2)教会の典礼はかくして信徒の全生活を囲繞し、信徒の全生活はこの方法によって教会の首なるキリストとの最も緊密なる生活協同にまで育成されるのである。

[註1] 1コリント 10:16 以下、12:13 参照。アウグスチノ、アレキサンドリアのキリロ、ヨハネス・ダマスツェノ等の記述については Mersch, Le corps mystique du Christ, Louvain 1936 参照。
[註2] Summa

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theologica III, q. 7, q. 47, q. 62, q. 80, q. 82 参照。なお Grabmann, Die Lehre des hl. Thomas v. A. von der Kirche als Gotteswerk, Regensburg 1903 参照。
[註3] Scheeben, Die Mysterien des Christentums, 3. Aufl., 314, 438; Juergenmeier, Der mystische Leib Christi als Grundprinzip der Aszese, 6. Aufl. Paderborn 1936. 参照

カトリック教会の教理と恩寵機関との効験によりこの教会の中に常に聖性の真の結実が高度に現れている。そして全世界に遍くカトリック教会の聖性が現れている。そはカトリック教会が多くの国々において巨大な数の信徒を有しており、彼らはただに外面的に生活慣習によって教会に属するのみならず、真にカトリックの教理に相応した宗教的生活をなし、もって全人類に深い感化を与えているのである。種々の民族の歴史上ある意味においてこの宗教的生活の上昇と沈下とが確認されはするが、教会史の各時期に見出されるところの、信仰を表白し信仰に生きるカトリックの大群が、比類なき現象を示している。カトリック教会はその創始および初代の弘布以来いつの世にも人間の道義的生活を--その個人の、家庭のおよび社会の生活を--最も祝福に満ちて感化した。はじめ西洋諸国において、次いで直接間接に全世界において。註1)

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[註1] これについてはキリスト教による人間および世界の動的変革に関する古代キリスト教的著述家の証言参照。例えば Iustinus, Apologia I, 14(Rouet 118); Minucius Felix, Octavius, 31(R 271); Tertullianus, Apologeticus, 38 以下(R 280 以下); Origenes, Contra Celsum, 3, 29(R 525); Augustinus, De moribus Ecclesiae catholicae 参照。

新約の聖性の特殊の成果はカトリック教会において独自的に実現されている。多くの国々においてかつさまざまの時代においてキリストに対する信仰および教会への忠誠のために生命を献げた無数の忠実なるカトリック信徒がまずこれを立証する。殉教者はすでに初代教会の喜びであり名誉であった。彼らは現在の教会においてもキリストの恩寵の最も光栄ある結実と見なされている。註1)しかし殉教者の外にもカトリック教会は各時代において夥しい数の秀れた信徒を数えており、彼らはキリスト教的完徳の理想を英雄的に実現し、ゆえに特殊の意味における『聖人』と称えられている。彼らはさまざまの国民の信徒であって、あらゆる職分階級および年齢の人々であり、彼らは主の教えに忠順であり、聖霊の指導に応えて天主とのきわめて高い一致に入り、救い主キリストとの非常なる近似にまで到達しているのである。天主は彼らをその生涯の間および死後における異例的賜物と奇蹟行為に

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より傑出させ、各時代の信徒たちの眼前に真のキリスト教的信仰生活の輝かしい模範として置いた。彼らの記念はキリスト教界の内に力強く作用し続け--世代より世代に--修徳と聖性とのすばらしい結実を生じている。彼らの多くを教会は、彼らの修徳および彼らを通して行われた奇蹟行為を詳しく検討した後、厳粛なる列聖により公けに聖人と認め、そして信徒たちの崇敬と模倣の対象として置いている。教会が重大なる内的危機に遭遇した時(例えば第13世紀および第16世紀)教会内に多くの燦かしい聖人の姿が現れた。これらの聖人を通じて教会内に絶えず繰り返し大きい改革運動が行われ、もって没落と分裂との危険が克服されたのであった。彼らはキリストの教説を英雄的に実現し、奇蹟により天主から栄光を与えられ、その中の多くの者はカトリック教会以外においてもキリスト教徒たると否とを問わず大なる崇敬と驚嘆とを受けている。註2)

[註1] これは16世紀17世紀における日本の殉教者たちにも当てはまる。彼らの多くはすでに聖人として公的に認められている。カトリック大辞典第1巻p. 835 以下参照。
[註2] 例えば中世の偉大なる英雄的容姿クレルヴォーの聖ベルナルド、アシジの聖フランシスコ、チューリンゲンの聖エリザベット等。16世紀のカトリック改革運動の指導者ロヨラの聖イグナチオ、フィリッポ・ネリ、カルロ・ボロメオおよび同時代に属する東方アジアの大使徒フランシスコ・ザヴェリオ。近時においては貧しき青年の教育者ドン・ボスコ(1888年没、1934年列聖)および無数の人々に天主の愛の模範とな

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った幼きイエズスの聖テレジア(1897年没、1925年列聖)その他である。

またカトリック教会はその聖職者に対する崇高なる道義的要求のゆえに全世界に比類なき現象を示している。またあらゆる国民における無数の聖職者はこの要求を充たしつつある。教会史上、この点においても衰落の時期があったことは確かである。しかしこれは一時的な病的現象で、さまざまの時空に制約されたる事情に依存しており、絶えず更新され、教会の内部に生起する革新および聖人の範例によって克服されて来たものである。註1)またカトリック教会がその信徒に示す修道生活の大理想は古代から現代に至るまで無数の信徒の心に力強くはたらいており、修道誓願によって引き受けた義務を忠実に守って福音的完徳を身に体現せんと努める人々は種々の修道会の内に数の測り知れぬほどに存在している。

[註1] 教皇ピオ11世回勅”Ad catholici Sacerdotii fastigium”1935 参照。

この聖性の結実のほかにカトリック教会は各時期において幾多の奇蹟的な事象を示している。この事象を通して天主は教会に特異なる助力を示し、教会の子らの信仰を強める。教会当局自身はかかる事件に対しては厳に慎重なる態度を採っている。そしてこれを詳細に検討する。その事実

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性が認容された場合でもそれらは教会の一般義務的な信仰箇条からは区別され、私的性格しか与えられない。けれどもかかる事象が教会内に存在することは否むべからざる事実である。それらは聖人の生涯において見られ、あるいはある種の崇敬場所と結びついている。それはさまざまの国々に存在する。註1)教会自身はこれらの事象の現実性について何ら一般的なる信仰義務を課さないが、無数の忠信なるカトリック教徒はこれらの事象の中に教会内におけるキリストの不断の助力と奇蹟に関する約束の成就と歓喜と感謝とをもって認めるのである。

[註1] 例えばフランスのルールドは聖母の出現および多くの立証されたる奇蹟をもって有名である。

カトリック教会から分離したキリスト教的諸団体の内部においても確かに真直なる信仰、深い敬虔および真摯なる修徳が多くの信徒において見出される。しかしこれらの諸団体はカトリック教会内に見られるごとき豊富なる超自然的生活および奇蹟的な賜物を示さない。プロテスタンティズムは本来すでに内的聖化および善業を否定、また、教会の恩寵機関の否定の教説により、キリストにおける真の内的革新についての古代キリスト教的見解を放棄してしまった。その創始者たちがすでにキリスト教的完徳の特殊的なる業の多数を否定しているのは当然の決着である。プロテスタンティズ

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ムの内部における宗教的生活はかくて貧困化する外なく、最高最美の発展を達成し得ないでいる。さて多くの敬虔なるプロテスタント教徒が純キリスト教的なる敬虔と徳行とを事実的に所有しかつプロテスタンティズムの内部においても有効なる宗教的改革運動が生成したのであるならば、これはおそらくプロテスタンティズムがカトリック教会と共有する信仰の遺産の結実である。この遺産によって敬虔なるプロテスタント教徒はキリストの真の教会と霊的に結ばれている。最近の最も有力なるプロテスタント側の改革運動において、カトリック教会のさまざまの宗教的伝統および制度への決定的復帰が見られることによっても、このことは肯定される。註1)正教会は信徒の超自然的聖化の教義においても、救世主キリストの恩寵を伝える秘蹟の施与においても、カトリック教会と一致するゆえに、そこには、カトリック教会より分離した他のキリスト教的諸団体に比較すれば高度に聖性の記標が附されている。このことは正教信徒の典礼と最も緊密に結合している深い敬虔性とによって、そしてまた、正教会に存在する異例的なる徳行と聖性との現象によって、知られる。しかし正教会におけるかかる現象が、カトリック教会に見出されるところの豊かさを示し得ず、註2)信徒の宗教生活において重要なる要素、例えば、聖体の秘蹟に対する信心においてカトリック教会が近時遂

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げたごとき進歩を示さない。カトリック教会への復帰は、従って、正教会の宗教生活を大いに豊かならしめるであろう。カトリック教会の示すような偉大なる聖人の容姿と奇蹟的なる天主の業との中断なき系列はまったくカトリック特有のものであり、この教会にキリスト教的聖性および救い主より信徒に頒与される超自然的生命の生ける中心点が含まれていることの反駁すべからざる証拠である。

[註1] このことは殊にいわゆるオックスフォード運動について言い得る。この運動は前世紀中イギリスのプロテスタンティズムに深い感化を与えたのである。またドイツにおけるいわゆる高教会運動およびプロテスタンティズムにおけるこれに類似の改革運動もそうである。
[註2] カトリック教会の最近の多数の列聖に較べると、正教会の列聖は少数である。

このことは多くの改宗者の例によっても肯定される。彼らはしばしば永い間の苦悩に充ちた探求の後、そして最大の個人的犠牲の下に、他のキリスト教的団体からカトリック教会への道を見出したのである。もちろん外的生活環境に基づく改宗もあり得る。しかし多くの傑出した改宗者の場合にはキリスト教の真理を完全に獲得せんとする努力のみがカトリック教会へ参加する理由であった。彼らはその属していた宗教団体における最善最誠の人々であり、大多数は永い間の真誠なる探求の後に、カトリック教会においてのみキリスト教の真理の全体は見出されるとの確信に到

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達したのである。彼らの中の若干は彼らの改宗の理由を詳しい論述において表示し、もっと多くの人々に母なるカトリック教会への道を示したのであった。註1)

[註1] 例えば有名なる改宗者Card. Newman, Apologia pro vita sua; Card. Manning, Why I became a Catholic; R. H. Benson, Confessions of a Convert, Joergensen, Autobiography; G. K. Chesterton, Autobiography; H. Belloc, Why I am and why I not am a Catholic; A. v. Ruville, Zurueck zur hl. Kirche; J. Vernon, One Lord, one Faith (邦訳杉田氏1930年);W. Verkade, Unruhe zu Gott; Wl. Solovjeff, Monarchia S. Petri, La Russie et l'Eglise universelle など。またLamping, Menschen, die zur Kirche kamen, 1935 参照。

かくしてカトリック教会はキリスト教の真理の全体と超自然的生命の富とを所有しつつ、あらゆる他の信仰団体からの最善最真の人々を絶えず惹きつけている。カトリック教会の特徴は一体性と聖性とカトリック性と使徒伝来性とである。これは主キリストが彼の教会に賦与したものであってこの特徴はカトリック教会においてのみ、かようなる実現に到達したものである。この実現は人力の業為を超絶し、それによって天主の恩寵の偉大なる作用が表されたもので、従って、それはまったく独自の仕方で示された奇蹟である。悪の権力と人間の弱さとは、キリストの教会のこの本質

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的記標、なかんずく、その一体性と聖性との現実化と保持とに対して無数の妨害と危険とを与えた。カトリック教会がそれにもかかわらずこの本質的記標を保持し、ますます現実化したことは、カトリック教会の内にキリストの約束に従って、天主自身が超自然的助力によって真の教会を保持し、指導し、その完成に導くことを、明らかに示している。カトリック教会はそれ自身その天主よりの使命に関する大いなるかつ否むべからざる証拠を意味するということをヴァチカン公会議が強調しているのは至当である。『教会そのもの、すなわち、その奇蹟的なる弘布、高い聖性、あらゆる善に関する汲み尽くし得ない有効性、そのカトリック性および一体性とその不動の堅固さ、それらがその天主よりの使命についての大にして恒常的なる信仰動機および反駁し得ざる証拠を示している。』註1)

[註1] Conc. Vat. III, Denzinger 1794 参照。

第5講話 終り

作成日:2004年05月30日

最終更新日:2004年05月30日

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