基礎神学講話

第6講話


パウロ・フィステル著


中央出版社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


序言

p. 1

本書はカトリック基礎神学の若干の主要問題を取り扱う。基礎神学(護教学)とは、カトリック信仰の必然的与件、いわゆるpraeambula fideiすなわち、カトリック信仰の価値および義務を論証する諸根拠を、学問的に論述しこれを確立することを意味する。

多くの敬虔なカトリック信者は詳密な学問的な探究の道とは別の道から、彼らの信仰に関する確実性に到達する。教会の実存そのものがその宗教的生活の豊富性をもって、彼らにその信仰の真理性に対する充分な保証を与え、教会の内に現れる神の権力と救世の恩寵とを彼らに証明する。多くの真理探究者にとってもまたカトリック教会の教理の崇高さ・その宗教的生活の成果・その全人類への福祉に充ちた感化よりカトリック信仰を受け容れる決定的動機となった。

それにしても、哲学的・歴史的な証明によって、カトリック信仰の意義と必然性とに関する諸論拠を統合的に示すことはやはり必要である。なぜなら、カトリック教会が真に宗教的真理の神より委託された保持者であり告知者であること、およびそれゆえに、その教理は無条件的信仰において受容されねばならぬことは、ただこの方法によってのみ真に客観的かつ普遍妥当的に示され得る

p. 2

からである。

また例えば自己自身の信仰体験の分析によるごとき別途の方法により信仰に関する確実性にまで到達した人々も、かかる総合的証明法により彼らの信仰の与件を再検討し確立することを断念してはならない。このことは何も、この認識からしてすでに必然的に信仰が結果することを意味するのでは決してない。信仰は元来人間の神への自発的奉献を意味するものである。しかしカトリック教理の絶対的真理性とそれから生ずる信仰の倫理的価値とを悟るためには、信仰の諸与件の客観的および普遍妥当的検討が必要であることを意味するのみである。この検討は人間の自然的理性の認識範囲の裡に行われ、主として哲学的歴史的説明法を使用している。そのために基礎神学において聖書および聖伝から証拠が取られるとき、その歴史的資料としての価値のみが認められる。

信仰の諸根拠についてのこの理性的再検討が個々人の性能や教養の程度および生活環境に従って一様でないことを看過してはならない。とにかく個々の信者はカトリック教会の教理の無制約的受容にまで彼を動かすところのある種の客観的および普遍妥当的な根拠を発見することができなければならない。教養あるカトリック教徒に対しては、しかし、この客観的および普遍妥当的な信仰与件を学問的形式によって示すこともまた不可欠である。

p. 3

カトリック信仰の最も重要な与件に、まず、自発的な愛から人間を創造し、これをある永遠の目的に適合せしめる創造者にして主なる神の正しい観念が属する。それゆえにまず最初に神に対する人間の関係、したがって宗教の本質的意義と使命とを明確にしなければならない。

カトリック信仰の与件としてこれに次ぐものは、無限の神がある特別の超自然的啓示--いわゆる天啓--によって人間に宗教の諸真理を教示したという事実である。従って天啓の歴史的事実および超自然的性格が確実に明示されねばならない。

この天啓は殊にキリストによってもたらされ、彼によって完成されたゆえに、そしてまた、すべての人間に対して神の規定した真の宗教はキリスト教によって確立されたがゆえに、神より遣わされた者としての・神の子としての・そして救世主としてのキリストが、これに続く基礎神学の検討の主要対象をなす。

基礎神学はキリストから進んで必然的に、キリストの事業を継承し、彼の教説を告知し、彼の救いの恩寵を人間に伝達するところの教会へと発展する。それゆえにまずキリストによる教会の創立および創立者から教会に与えられた本質的な構成を明示することが必要となる。

次にはキリストが彼の教会に賦与した特徴を取り扱うべきである。この特徴を所有するがゆえにカ

p. 4

トリック教会はあまたのキリスト教的宗教団体の間にあってキリストの真の教会であること・救霊の確実な道であることが、示される。

次にキリストが使徒ペトロおよびペトロの後継者、すなわち、ローマ教皇(法王)を最高の牧者として定めたことが、特別の注意に値する。信仰の最高にして不可謬なる教師であり、すべての信者の霊的指導者である教皇は、必然的にカトリック教会の構成に所属するがゆえに、そして他方、彼の職能の真の性格はカトリック以外の他の人々から容易に誤解されるがゆえに、使徒ペトロおよび彼の後継者たる教皇の最高牧職に関する説明は、カトリック基礎神学の構成にとって不可欠の部分を成すものである。

最後にカトリック教会の教理の源泉およびその源泉に帰する特殊の超自然的性質を解説しなければならない。また、その源泉に基づいて教会の教理はいかにして有機的に展開するかということもまた主要な研究対象である。従って、聖書・聖伝および教義の展開に関する論証は基礎神学に属するのである。

本書の個々の論文は内容的には基礎神学の諸教科書の叙説に従ったものであるが、それよりも比較的自由な説明法を選んだ。また最近ヨーロッパにおいて刊行されたカトリック信仰の基底に

p. 5

関する多くの著書を渉猟し、部分的にはこれを利用したところもある。本論文は決して全基礎神学の完全な輪郭を提供するものではない。むしろこの教科の種々なる主要問題を取り扱ったため、段階的順序においてカトリック信仰受容のための決定的与件を説示し、従ってカトリック教徒のみならず、それ以外の人々にとっても精密な検討の対象たるものを提供している。

2年前に現れた初版には、当時の不利な情勢により種々な欠陥が認められたので、この改訂版においては、それらの不備欠陥を能う限り是正し、さらに第7講話を附加した。

それゆえに本論稿がカトリック信仰の確立にとってきわめて重要な諸問題の正しい知識と判定とを増進せんこと、敬虔なカトリック信徒のみならず宗教的真理の探究者である読者に、カトリック信仰が絶対妥当的な与件の上に立ち、従って真に"rationabile obsequium"すなわち、理性に適ったかつ理性の要求する神に対する奉献であるという認識へ寄与せんこと、これ著者の願いである。

1946年9月、東京において

著者


目次

第1講話 宗教の本質(p.1)

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底(p.4)
キリスト教的・カトリック的な宗教観(p.12)
理性と信仰(p. 17)
カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成(p.23)

第2講話 天主の啓示の史的現実性と超自然的性格(p.31)

史的事実としての超自然的啓示に関する認識の可能なること(p. 32)
新約の天啓の歴史的基底(p. 36)
非キリスト教側の証言(p. 37)
新約聖書の報道内容の真正さと確実さ(p. 40)
新約聖書の諸書の歴史的価値(p. 50)
天啓の超自然的性格(天啓の認識--奇蹟に関するカトリックの見解)(p. 54)
カトリック信仰の絶対的確保(p. 64)

第3講話 新約のキリスト(p. 67)

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性(p. 69)
新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素(p. 74)
メシアとしてのイエズス(p. 74)
天主の子としてのイエズス(p. 80)
キリストの神性に関する初代教会の証言(p. 84)
キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性(p. 89)
キリストの奇蹟(p. 100)
キリストの復活(p. 110)

第4講話 教会の起源と制度(p.126)

旧約における天主の国の理念(p. 127)
イエズスの宣示し創始した天主の国(p. 129)
キリストの創始した宗教的共同体の聖職位階制度(p. 132)
教会の制度に関する非カトリック的見解(p. 142)
教会の普遍的持続と活動(p. 150)

p. 3

「教会の外に救いなし」(p. 154)

第5講話 キリストの教会の本質的記標(p.159)

キリストの教会の一体性(p. 160)
キリストの教会のカトリック性(p. 167)
キリストの教会の使徒伝来性(p. 170)
キリストの教会の聖性(p. 172)
カトリック教会のみこの四記標を悉く所有すること(p. 180)
カトリック教会の一体性(p. 180)
カトリック教会のカトリック性(p. 185)
カトリック教会の使徒伝来性(p. 188)
カトリック教会の聖性(p. 192)

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ(p.204)

福音書による使徒ペトロの首位権(p. 205)
ペトロの首位権についての使徒行録の証言(p. 214)
ローマにおけるペトロの滞在と死(p. 216)

p. 4

ペトロの後継者としてのローマの司教(p. 221)
使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 223)
ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 232)
古代教会における教皇の首位権の行使(p. 238)
教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義(p. 253)
教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立(p. 258)

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開(p.265)

カトリック教理の源泉(p. 265)
カトリック教理の源泉としての聖書(p. 266)
神感の事実(p. 268)
神感の本質(p. 271)
神感によって成りたる結果としての聖書の無誤謬性(p. 275)
教会の教職による聖書に関する証明と註釈(p. 280)
カトリック教理の源泉としての聖伝(p. 288)
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格(p. 288)

p. 5

教会の聖伝の最も重要な証人(p. 298)
聖書と聖伝との相互関係(p. 303)
カトリック教理の展開(p. 306)
教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fideiの展開における教会の進歩(カトリック的意味における教義の進歩(p. 311)


p.204

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ

既述したごとく、註1)キリスト自身の確立した教会制度の本質的要素に属するものとして、使徒ペトロに委託され、その正統の後継者たるローマ教皇において世の終りまで存続すべき聖職首位性が必然的に存在する。古代キリスト教の大著述家ヒエロニモはすでに第4世紀において教皇ダマソ宛ての書簡においてペトロおよびその後継者等の聖職首位性に関するカトリック的見解を次のごとく表明している。『私はキリスト以外の何人にも随従しようとは思わぬ。ゆえにペトロの座たる聖下と結ばれている。この磐の上に教会が立てられていることを私は知る。この家以外で過越の羔(こひつじ)を食する者は何人といえど異邦人である。聖下と共に集めない者は散らす者である。』註2)教皇のこの最高の職能をカトリック教会の子ら全部が共通に認めている。この態度によってカトリック教徒は他の宗教団体から明確に区別される。カトリック教会の統一的普遍的組織およびカトリック教会内においてのみ実現されている一体性と普遍性との結合は実にこれに基づく。それゆえにこの教皇の指導から

p. 205

離脱することはキリスト教のさまざまの部分において、また、普遍的教会からの離脱、および、多様な団体への変転を意味した。これらの団体はその教説と制度との点において個々の国々および民族の外的環境の変転に強く影響され、従って真の一致とカトリック性を喪失したのである。

[註1] 第4講話 p. 133 参照。
[註2] ヒエロニモ書簡15(Rouet 1346)参照。

使徒ペトロの最高牧者たることおよびこれに基づく教皇の首位権に関するカトリック的教説は新約聖書と古代教会からの伝統とに含まれており、あらゆる明確さをもって立証され得るものである。このことはすでに古昔からカトリック著述家および神学者によってさまざまに指示され、殊に、離教および異端との論判の時代において特別の注意が払われたのであった。カトリック信仰の基底および予件に関して論説するいわゆる基礎神学においては常に詳密に示されている。以下においてこの証明の主要思想を簡単に述べ、同時に、ペトロとその後継者たるローマ教皇とがキリスト教会に対して有する聖職首位権の真の意味と内容とを説述しようと思う。

福音書による使徒ペトロの首位権

p. 206

使徒ペトロが主キリストによりすべての弟子の中からいろいろの意味で特権を与えられていたことは、新約聖書の記述が一致して立証している。最初の会合の際にすでに主は首位性を象徴する新しい名を与えた。註1)公生活の間主は彼を常に側近に置いた。註2)彼を使徒たちの代表者および指導者として認めた。註3)復活の日に主は他の弟子らに先んじて、最初に彼に現れた。註4)従って使徒名録において、ペトロは常に第一位に置かれている。註5)のみならず使徒の全団を単に『ペトロと十一人』と称している。註6)新約聖書の多くの箇所においてペトロは使徒たちの指導者かつ代表者として現れ、すべての者の間にあって特別に救い主に近接している。このことは召命の時間的優位によっても、註7)あるいはペトロの何らかの個人的長所によっても註8)説明できず、キリスト自身が自由なる選択によってペトロに委命した聖職首位性を指示するものである。

[註1] ヨハネ 1:42、マルコ 3:16、マテオ 10:2、ルカ 6:14 を参照。やはり特別の天主の召命を示す名称は旧約の中にも見出される。創世記 17:5、30:24、35:10 参照。
[註2] ペトロの漁舟からの説教、ルカ 5:3 以下。ペトロの家における滞在、マテオ 8:14 以下。ペトロと主とのための納税、マテオ 17:23 以下。波上のペトロの奇蹟、マテオ 14:29。特別の奇蹟の証人への選び、ルカ 9:28、受難前の心痛の場面の証人への選び、マテオ 26:37 以下参照。
[註3] マテオ 16:16 以下、18:21、19:27、マルコ 8:29、ヨハネ 6:68 以下参照。
[註4] ルカ 24:34、1コリント

p. 207

15:5 参照。
[註5] マテオ 10:2 以下、マルコ 3:16 以下、ルカ 6:14 以下、使徒行録 1:13 以下参照。他の使徒たちの順位が記事によって異なり、背叛者ユダが常に最後に記されているのを見る時、ペトロの第一位の意味はいっそう明白になる。なお、マルコ 5:37、ルカ 8:51、マテオ 17:1 以下、マルコ 9:1 以下、ルカ 9:28、マテオ 26:37、マルコ 14:33 参照。
[註6] 使徒行録 2:14 参照。
[註7] 他の使徒はペトロの前にキリストへの道を見出した。ヨハネ 1:35ないし42 参照。
[註8] 新約聖書がこれに関しては何の記述もなく、むしろ、種々なるペトロの個人的短所を報じている。

キリストがこの首位権を使徒ペトロに明白に約束し委命したことを記している新約の箇所は、まったく疑義の余地なく一致している。明白と威厳とを有する主の語、それが発せられた時の事情、これらは新しい普遍的な天主の国における最高牧者たることの確実な証言である。かつてのガリレアの漁夫たりしペトロは天主の自由なる・測るべからざる聖旨によりこの聖職首位に昂げられたのであった。まずマテオ福音書第16章17節--19節に記されているフィリッポのカイザリアにおけるキリストの約束において、このことが当てはまる。原文のこの箇所の純正さはカトリック側の研究者からも非カトリック側の研究者からも一般的に認められている。しかして若干の批評家がこれに反して提出した疑惑は無根拠であることが立証された。註1)この約束の内容は三度キリストの用いた象徴的なる語辞から即座に了解される。これは聖書中普通なる用語法に従って理解し、解釈

p. 208

しなければならない。

ペトロが使徒の名において、イエズスをメシアにしてかつ天主の子なりと認める信仰を厳粛に告白した時、キリストは彼をまず幸いなりと賞し、この信仰が天主の特別の愛と選びの贈り物であることを強調した。続いてキリストはペトロを磐としてその上に教会を建てることと、地獄の敵勢力も註2)この教会に勝つ能わざることを約束した。『磐』(ケファ)との言葉の位置も、この語の二回の使用も、註3)キリストがこの約束を直接ペトロにのみ向けたものであり、これを教会の不動の基礎と定めたものであることを証明することはまったく明白である。このことは最高の霊的指導の権威を意味するのであり、教会の一体性と堅固性とはこれによって維持される。註4)続いて救い主はペトロに天主の国の鍵を約束した。この表現も聖書的語法に従って解さるべきものであって、すなわち、鍵を委ねるとは権威と職務とを賦与することを意味するのである。註5)キリストはここに彼自身が救い主として創始した天主の国における最高の支配権をペトロに約束したのである。註6)第三の比喩においてはキリストはペトロに結び解く権能を約束する。この語法もまたユデアにおいては一般に用いられていたのであって、義務を課しあるいは廃する全権を意味する。註7)この全権はここにはペトロのみに制約なしに与えられてお

p. 209

り、ペトロの決定がそのまま天主の承認を受けるものであることを確約したものである。前の句との関連において、この場合にもキリストの教会におけるペトロの至上権のみに関するものであることは明白である。註8)キリストのこの教旨全部はそれゆえに明白かつ一義的な意味を有する。常に特別にされた使徒ペトロ、すべての使徒たちの名においてキリストがメシアであり天主の子であることを厳粛に表白したペトロ、このペトロを今キリスト自身がその教会の基礎とし、この教会における最高なる職能を約束し、その実施に対し無制約的かつ超自然的妥当性を認めたのである。キリストは、この荘厳なる約束を弟子らがすでに彼に対する信仰を堅めかけた時期において、ペトロに与えたのであって、もはやあまり遠からざる受難と死と復活とを前にしてこれらの事象の惹起すべきことを彼らに示しはじめた時においてである。註9)

[註1] このキリストの言葉は、すべての古代の写稿および訳文に記されており、また古代の多くのキリスト教著述家たちによって引用されている。Koesters, Die Kirche unseres Glaubens, Freiburg 1938, 103, 209; D'Hergbigny, Theologica de Ecclesia, Paris 1927-29, II, 325 以下、Dieckmann, de Ecclesia, Freiburg 1925, I, 287 以下参照。
[註2] ハーデスの門という表現が、死の権能を意味することは不可能ではない。この場合にも、教会の不滅性の意味が含まれている。しかし、新約の普通の用語法では、「ハーデス」は天主の国に敵対する悪魔および地獄を意味

p. 210

する。(マテオ 11:3。ルカ 16:23。黙示録 1:18。20:13 参照)従ってここでは、この敵に対する教会の勝利が意味される。
[註3] アラメア語においては同一の語が2度用いられ、ラテン語およびギリシア語においては人名(Petrus--Peetros)は男性、磐という語(Petra)は女性であるから完全に訳出することは不可能である。
[註4] 基礎としてのキリストに関する類似の箇所参照。マテオ 7:24 以下、1コリント 3:11。
[註5] イザヤ 22:15ないし22(ダヴィドの家の鍵)、黙示録 1:18(救い主キリストは死と地獄との鍵を持つ)。この語の聖書以外の用法もこれに一致する。Cicero, Pro domo 10, 25 参照。すなわち、穀倉の鍵とは穀物管理の職を意味する。種々の民族の間に存する『都市の鍵を君公に渡す』という習慣も同様である。
[註6] 天国という表現については第4講話p. 127 註1参照。
[註7] マテオ 5:17ないし19、18:17および18、23:4 参照。同じく Josephus Flavius, de bello Judaico I, 5, n 2.
[註8] マテオ 18:18 における全使徒へのキリストの類似の約束は、彼らがその首長たるペトロと協同してかつペトロの指導の下に彼らの職能を実施すべきであるとの意味に解すべきである。なぜならばマテオ16章では明白に、ペトロ一人に教会の最高の権能を全部無制約的に委託している。
[註9] Kalt, Biblische Reallexikon, 2. Aufl., Paderborn 1938, I, 892 参照。

ルカ福音書第22章31節--32節にあるごとく、キリストが受難の直前、晩餐の折にペトロに向かって発した語は先の約束の明らかなる是認を意味する。告別しつつキリストは弟子たちに謙遜と忠誠とを訓戒し、彼らに与えらるべき永遠の報酬を指示している。次いで彼は再びペトロ一人に向か

p. 211

い、サタンが使徒たちに重い誘惑を設けること、ペトロがそのために信仰を失わざるようペトロのために祈ったことを厳かに確言している。ゆえに主を否定するという一時的過失から改心した後、註1)兄弟たちを堅固にすべきことを明確に委命している。これらの従えばペトロに天主の特別の選びと委嘱との課せられたことは明らかである。彼はすべての兄弟を堅固にし彼らの信仰の不動の礎石と成らねばならない。彼が人としての弱さにもかかわらずこの使命を果たし得るようにと、キリストは父に祈求したのであって、天主の子のこの祈りは絶対的に有効である。ルカ福音書のこの原文はある意味においてマテオ福音書の原文の補足を意味しており、マテオの記した教会におけるペトロの至上権が特に信仰に関わるものであることを示している。そはこの信仰こそキリストの創始した天主の国の基底であるからである。註2)

[註1] ギリシア語の語韻および前後の関係がこの意味を要求している。弟子たちを堅固にするようにとの荘厳なる委命の場合にペトロの一度の弱点はまったく場所を得ている。弟子および兄弟に対して後に至りその信仰を堅立することはペトロ個人の力によらず、キリストの祈りに応ずる天主よりの助力による。マテオ 18:18および第4講話中に引用されている原文参照。
[註2] D'Herbigny, 前出I巻p. 308 以下参照。

約束されたる最高職能がペトロに徹底的に委命されたことをヨハネは彼の福音書の最終章に記

p. 212

している。註1)復活の日にすでにすべての使徒に先んじてペトロに現れたキリストは、註2)ゲネザレト湖畔の奇蹟的なる漁獲の後、他の使徒たちの前において再びペトロだけに語る。三度キリストはペトロからの愛の表白を望み、もって受難の前夜の三回にわたる否定を清算された。そして三度彼はペトロに彼の羊群を牧すべき全権と委命とを厳かに与えた。この語の内容は聖書の許多の箇所から明白に了解し得る。すでに旧約において天主の任命した指導者と司祭と王とはイスラエルの民の牧者と称された。註3)同一の表現は約束されたるメシアにも用いられた。註4)しかり、天主自身にさえ用いられた。註5)新約においてはキリストが自身を善き牧者と称し、すべての羊--ユデア人ならびに異邦人--を一つの檻に集めねばならぬことを示した。註6)そして使徒たちは彼を畏敬をもって『最高の牧者』註7)と呼び『霊魂の牧者にして司教』と呼び、註8)『死より甦りたる大なる牧者』と呼んでいる。註9)パレスチナ地方および隣接地方の住民にとっては、牧羊は最も重要なる生計の一つを意味し、羊群の牧場を常に配慮した。彼らにとっては善き支配者および善き上長の自然的象徴であった。また古代における他民族にあってもこの思考法および語法は普通であった。註10)キリストがペトロにキリストの羊群を牧うこと

p. 213

授職したのはそれゆえに、彼がキリストの教会における最高の霊的支配者たることを意味する以外のものではない。救い主は受難前、この職能をペトロに厳かに約束したが、犠牲死を果たして昇天するに先立ち、キリストはこの聖職をば彼の選んだ使徒に明確に賦与した。註11)そして後に殉教の死を遂ぐべきことを明らかに暗示しつつ、彼はペトロに最高の牧職を約束すると同時に十字架の死においても聖跡を踏むべきことを心得させた。註12)それゆえにキリストがペトロを全羊群の最高の牧者に任命した語がローマの聖ペトロ大聖堂、すなわち、かつて彼がネロ帝の下に殉教死を遂げた場所に建てられたこの使徒の墓標に大文字で記されているのは当然である。この文字こそあらゆる時代に対してキリストが使徒ペトロに賦与した聖職首位権を宣明するものであり、同時にその首位権の真正かつ超自然的なる本質を示すものである。すなわち、キリストの教会のすべての子らに対する最高の霊的指導権という超自然的職能とは教会そのものがこの世のものではないと同様にこの世のものではない職能なのである。註13)

[註1] ヨハネ 20:15ないし17。この章が著者自身その福音書に附加したものとして純正であることは、カトリック側からも非カトリック側からも等しく認められている。Koesters 前出p. 209、Gaechter, Summa Introductionis in N. T., Innsbruck 1938 参照。
[註2] ルカ 24:34、1コリント 15:5 参照。
[註3] サムエル上 5:2、イザヤ 63:

p. 214

11、エレミヤ 2:8、23:1 以下、ザカリア 11:4 以下参照。
[註4] エゼキエル 34:23 以下、37:24 参照。
[註5] 創世記 48:15、詩編 22:1 以下、76:21、79:2、(ラテン訳)イザヤ 40:11 参照。
[註6] ヨハネ 10:11ないし16 参照。
[註7] 1ペトロ 5:4 参照。
[註8] 1ペトロ 2:25 参照。
[註9] ヘブレオ 13:20。
[註10] Kalt, 前出I巻p. 811 参照。この表現はホメールにも見出される。
[註11] Prat, Jesus-Christ, 6. ed., Paris 1933, II, 455 以下参照。
[註12] ヨハネ 21:18および19 参照。
[註13] ヨハネ 18:36 参照。

ペトロの首位権についての使徒行録の証言

福音書に記されているキリストによるペトロの選抜と賞揚とは、使徒行録に記されている初代教会におけるペトロの活動によって肯定される。ペトロは初代教会において最高の頭首たる職能を行使した。彼は使徒の先頭に立つ。註1)彼は若い教会の最も重要なる諸事項を指導する。註2)彼は真っ先に民衆に説教し、彼らに教会に入るための条件を宣明する。註3)彼はユデア衆議所の前にキリスト教会を代表する。註4)彼はまた特別に超自然的なる力と奇蹟力とを賦与される。註5)平穏の時に彼は増大してゆくキリスト教会を各地に訪れる。註6)そして迫害に際しては教会は共同して彼の釈放を嘆願する。註7)かくて使徒行録の前半において教会の成立はペトロという人物と極めて緊密に結ばれている。続

p. 215

いて異邦人間における使徒パウロの活動が叙述されていることは、註8)ペトロがキリスト教会における最高の牧者であることと完全に調和する。もちろんパウロは主として異邦人の救いのためにと定められている彼の使徒職が直接キリストから委命されたものであることを厳かに強調し、この職を彼の反対者に対して擁護する。註9)同時に彼はまた、彼の使徒的活動の始めに当たりイエルザレムに赴き、ペトロと交誼したことを報じている。註10)そしてまた、後に至ってもペトロおよび他の使徒らとの交誼を持続せんと欲したことを報じている。註11)確かに彼はアンチオキアにおけるペトロの態度を非難した。この時ペトロは旧約の伝統を守るに熱心なるユデア系キリスト教徒に対する顧慮から非ユデア系キリスト教徒との交わりから身を退いたのであった。註12)しかし--すでにクリソストモも言っているごとく--この機会におけるパウロの断固たる行動こそ、パウロがペトロその人およびペトロの与える模範にどれほどの意義を賦与していたかを示している。註13)

[註1] 使徒行録 1:13、2:14および37、5:29 参照。
[註2] 例えば使徒マチアの選びのごとき、使徒行録 1:15。異邦人の受容のごとき、使徒行録 10、11 以下、15:7 以下。悪人の処罰のごとき、使徒行録 5:1 以下、8:18 以下参照。
[註3] 使徒行録 2:14 以下、3:12 以下参照。

[註4] 使徒行録 4:8 以下、5:29 以下参照。
[註5] 使徒行録 3:1 以下、5:15 以下参照。
[註6] 使徒行録 9:32 以下参照。
[註7] 使徒行録 12:1 以下参照。
[註8] 13章から。

p. 216

[註9] ロマ 1:5、ガラテヤ 1:1 以下、1テモテ 1:11、2:7 参照。
[註10] ガラテヤ 1:18 以下。ヒエロニモ、クリソストモのごとき傑出したる教父等はこの箇所の説明において、ここに教会内におけるペトロの首位についての明白なる指示があると主張している。またいわゆる使徒の会議の際に非ユダヤ系キリスト教徒の問題が取り扱われた時、ペトロの指導は全教会において承認された。使徒行録 15:7 以下参照。
[註11] ガラテヤ 2:1 以下参照。
[註12] ガラテヤ 2:11 以下参照。
[註13] Chrysostomus, Homilia in illud: in faciem restiti, 5, 17; Migne Patrologia Graeca, 51, 384 参照。

既述したごとく、使徒行録においては最高の指導者としてのペトロはまずイエルザレムの若き教会の中心人物として活動した。ヘロデの迫害--ほぼ紀元42年--の際の奇蹟的救出の後にはじめて彼は旧約の聖都を去った。註1)

[註1] 使徒行録 12:17 参照。

ローマにおけるペトロの滞在と死

ペトロが後にローマにおいて使徒職を実践し、ネロ帝の迫害の時に註1)殉教の死を遂げたことは、明らかに立証された歴史的事実である。彼がイエルザレムを立ち去った後にローマ以外のどこで活動

p. 217

したか、註2)彼のローマ滞在がいつから始まったか註3)に関しては未だ確定するに至らない。しかしペトロがローマに滞在しそこで、活動し、殉教の死を遂げたことは、許多の貴重な歴史的証言によって反駁できないほどに証明されており、従ってカトリック側からも非カトリック側からも一般的に認められている。註4)ペトロ自身はアジアの信徒への彼の第一書簡においてバビロンという名の下に彼の滞在の場所たるローマを指している。この語法は当時のユデア人およびキリスト教徒に慣用されていたのである。註5)彼の第二書簡から彼が常時使徒パウロとも近くあったことが判る。パウロの生涯の晩年におけるローマでの活動もやはり確定している。註6)ローマのクレメンスは第1世紀の末以前に認めたコリント教会宛の書簡において、ペトロおよびパウロの両使徒の殉教を報じており、両者およびローマ教会における最初の迫害の際他の多くの殉教者の遺した偉大な模範について語っている。註7)第2世紀においてはまずアンチオキアの司教殉教者イグナチオがローマにおける両使徒の活動を挙げており、註8)彼の後には同一事をヒエラポリスのパピアス(Papias)註9)、コリントのディオニシオ(Dionysius)、註10)ムラトリ断章、註11)および大著述家にしてリヨンの司教なるイレネオが註12)挙げている。若干の偽経書で第2世紀にできたものの記述もこれらの証言と一致する。この偽経書は当

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時の若干の伝承の証言としてある程度の史的価値を持つものである。註13)

[註1] 67年あるいは64年。
[註2] 古代教会の伝統はアンチオキアを指示している。Eusebius, H. E. 3. 22 以下参照。
[註3] 古代キリスト教の著述家たちの伝える報道によれば、ペトロはおよそ25年間ローマに滞在したはずである。Eusebius, Historia Eccl. 3, 13; Epiphanius, haeres. 27, 6; Catalogus Liberianus 等参照。

[註4] Koesters, 前出 p. 118 以下、Lietzmann, Petrus und Paulus in Rom, 2. Aufl., 1927; Marucchi, Pietro e Paolo a Roma, ed. 4, Torino 1934; Barnes, The Martyrdom of St. Peter and St. Paul, Oxford 1934; Harnack, Die Chronologie I, 244; Batiffol, L'Eglise naissance et le Catholicisme, Paris 1909, Le Siege Apostolique, Paris 1942 参照。
[註5] 1ペトロ 5:13 参照。この語をこの意味に解する者としてはすでにエウセビオがあり、エウセビオ以前にパピアスがる。Eusebius, Historia Ecclesiastica, 2, 15; Migne PG 20, 17; またこの意味はユデア偽経書のなかにも現れ、新約聖書中ヨハネ黙示録中の若干の暗示、例えば14:8、16:9などによって肯定される。
[註6] 2ペトロ 3:15 参照
[註7] クレメンスのコリント教会宛の書簡5ないし6、Rouet 前出11 参照。
[註8] ローマ教会宛の書簡、4, 6 参照。Kirch, Enchiridion fontium historiae ecclesiasticae, Freiburg, 1923, 26 参照。
[註9] Eusebius, Hist. Eccl. 2, 15; Migne PG 20, 171 による。
[註10] Eusebius, 2, 25; Kirch 60 による。
[註11] ローマ教会の公認した正経の目録。Rouet 268, Kirch 157 参照。
[註12] Adversus haereses 3, 1, 1; 3, 3, 1; 3, 3, 2; 3, 3, 3;(R 208, 210, 211)参照。
[註13] 例えばペトロ行録、パウロ行録その他

p. 219

など。Hennecke, Neutestamentliche Apokryphen, 2. Aufl. 1924 Dieckmann 前出第I巻p. 421 参照。

3世紀には許多の傑出したキリスト教的著述家がさまざまの著書においてローマにおけるペトロの活動と殉教との事実を等しく一致して認めている。例えばアレキサンドリアのクレメンス、註1)テルツリアノ、註2)ヒポリト註3)(Hippolytus)、オリゲネス、註4)チプリアノ註5)などである。かくて当時ローマはすべてのキリスト信徒から使徒ペトロおよびパウロの殉教の地とし、彼らの墓の所在地と見なされていた。註6)そして皇帝コンスタンチノがミラノ勅令によりキリスト教の自由なる遵奉を許可した後、註7)皇帝自身が両使徒の墓の上に聖堂を建立させたのであった。使徒ペトロおよびパウロの墓によりローマは全キリスト教会の聖地となった。第2世紀の末からの証言としてローマ司祭カイオ(Caius)の言葉が伝わっている。カイオはローマの両使徒の勝利の記標として(tropaia)ヴァチカンにおけるペトロのそれとオスチア街道の傍のパウロのそれとを指示している。註8)これら初期の墓所から使徒たちの遺骨はヴァレリノ帝の迫害の時、註9)後に聖セバスチアノ(Sebastianus)の名に因んで称えられるに至ったアッピア街道の傍の地下墓所(カタコンブ)の中へ安全のために転置された。ここには今日なお許多の墓銘が両使徒を記念している。この迫害の後に遺骨は旧の墓所へ戻されたが、後日そこ

p. 220

に広大なバシリカが建てられ、全世界から無数の信徒が巡礼するに至ったのである。この外にもなおローマには両使徒の紀念が多く存在しており、殊にペトロの紀念が多く、そのあるものは遠く初代教会にまで遡るものである。例えば最古のペトロの祝日、地下墓所および石棺上にこの使徒に関する数多の表示があり、教会における彼の傑出した地位が明確に記されている。註10)

[註1] in 1 ep. Petri, Kirch, 150 参照。
[註2] De praescriptiones 36, 1 f(Rouet 297), Adversus Marcionem 4, 5, 2;Kirch 210 参照。
[註3] Philosophumena 6, 20; Migne PG 16, 3226 参照。
[註4] Eusebius 前出 3, 1; Kirch 428 参照。
[註5] 書簡 55および59(R 575, 580)参照。
[註6] アレキサンドリアのペトロの書簡(Kirch 347)参照。
[註7] 紀元313年。
[註8] Eusebius, 2, 25による。Kirch 137 Migne PG. 20, 207
[註9] 3世紀の半ば頃。
[註10] Koesters 前出p. 216。Wilpert, La fede della Chiesa nascente, Citta Vaticana 1938.

これらすべての証言から、使徒の首であり教会の最高牧者であるペトロがローマに活動したこと、その活動を--主の約束通り--註1)殉教の血をもって彩ったことが絶対的確実性をもって判明する。これらの証言の多くはまたローマにおけるパウロの使徒的活動と殉教とをも挙げている。しかし必ずペトロが第一位に置かれている。註2)そしてローマの司教職がペトロの職として、ローマの司

p. 221

教座がペトロの座として繰り返し記されている。註3)

[註1] ヨハネ 21:18 参照。
[註2] 例えばイレネオ、前出 3,3,1ないし3。(Rouet 209-211; Epiphanius, Adversus haerese, 27, 6(R 1092)参照。
[註3] 例えばTertullianus, de praesciptione 32(R 296); Cyprianus, epist. 55,95(R 575, 580): Eusebius, Chronicon, 2, 2058; Kirch 421; Optatus Milevitanus, Contra Parmanianum Donatistam, 2,2,(R 1242); Augustinus, epist. 53(R 1418), Sozomenos, Historia Ecclesiastica 4, 18; Kirch 925 参照。

ペトロの後継者としてのローマ司教

カトリックの教えにより、キリストがペトロの委命した最高の牧者の地位はローマ司教座と結ばれていたのであって、その正統なる所有者により世の終りに至るまで遂行さるべきものである。この職権がペトロの死と共に消失すべきものでないことは、その本質および、キリストによる委命から明らかである。それは教会の一致とその教理における不可謬性と敵の攻撃に対する強靱性の保証として立てられたものである。ゆえに天主の摂理により、この職権がキリストの立てた形式のままで存続し、一般的に可見的にして公認された担当者によって実行されるように保証され

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た。このことはローマ司教にのみ該当するのであって、ローマ司教のみが昔からペトロの正統の後継者と見なされているのである。教皇レオ1世が註1)彼の職権について次のように言ったのは至当である。『ゆえに真理の秩序は存続し、聖ペトロは彼に委命された磐の堅固さを堅持し、彼は委任されたる教会指導を放棄しなかった。われの企図し決定することは彼の業であり彼の功績である。彼の首位権は存続すべく、彼の権能はここに輝く。』註2)またヴァチカン公会議はペトロの後継者としての教皇の首位権についてのカトリックの教えを次のように表現している。『最高の牧者たる主イエズス・キリストが使徒ペトロにおいて教会の永続的利益のために立てしものは、世の終りまで磐上に存続する教会の中において主の佑助の下に永続する。使徒の首、信仰の柱、カトリック教会の基礎たる使徒ペトロが、人類の救い主、われらの主イエズス・キリストより彼の国の鍵を享けしことは、いつの世にも知られている。彼は彼の後継者すなわち、彼の創始し、彼の血をもって聖とせるローマの聖座の司教等において、今に至るまで、永久に生きかつ支配する。この座においてペトロに続く者は誰人といえども、キリストの決定により全教会の上にあるペトロの首位権を享有する者である。』註3)

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[註1] 440年より461年まで。
[註2]  マテオ 8:11、13:38 以下、24:14、26:13および28、マルコ 13:10、14:9および24,ルカ Sermo 3(Migne PL 54, 145)参照。
[註3] Concilium Vaticanum, 4, 2(Denzinger 1824)参照。

ヴァチカン公会議は教皇の最高牧職に関する宣明において、明白に教会の古い信仰と教父たちの教説とに依拠している。註1)それゆえに以下において、ローマ司教座におけるペトロの後継者としての教皇の最高牧者たることが教会史の最初より存立し、公認されていたこと、そのほか教皇に関するカトリックの教えが、聖書および教会の伝統の証言の下に漸次発展し、ヴァチカン公会議の宣明したような教理方式に到達したことを、示そうと思う。

[註1] Concilium Vaticanum, 4, 1-4(Denzinger 1821, 1822, 1826, 1832, 1836)参照。

使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言

ペトロとその後継者との首位権に関するキリスト教の古代における証拠を正しく判定するためには--カトリックの教えの爾余の多数の点と同様に--この真理の認識と叙述とに進歩が示されていることを念頭に置くことが必要である。キリスト教の初代においては、キリスト教は次第

p. 224

に異教の世界に地歩を占め、外部からの迫害に悩まされたのであるから、全教会の最高頭首としての教皇の地位は未だそれほど明確には現れ得なかった。教会の組織が次第に強固となり、キリストの教えが次第に弘布するに従って、ペトロの後継者としてのローマの司教に附与された最高の牧職も次第に顕著となり、首位権も強力なものとなった。そこで聖霊の導きの下に、キリストによって基礎を据えられた教会の組織も展開を見るに至った。しかし、古代教会の無数の文献は、ペトロとローマ司教座の地位にあるその後継者の首位権に関する意識は全キリスト教界に、常に存在したことを立証し、この文献はこのことを大なる明確性と確固性とをもって立証する。古代教会の重立った著述家および教師たちは重ねてペトロを教会の基礎、天の鍵の所有者、使徒の首かつ柱、キリストの羊の全群の最高牧者と称し、種々な方法で教会内における彼の首位権を強調している。主キリストが教会内における最高牧者としてペトロの首位権を約束し、これを委命した時の言葉を、彼らは詳しく解明し、教会の磐とし、使徒たちの首、キリストの羊の全群の牧者としてのペトロの容姿は繰り返し彼らの記述の対象となった。その際、西方の大教父たちおよび教会叙述家たちと東方のそれらの人々との間には大いなる一致が現れている。

p. 225

例えばポアティエのヒラリオ(Hilarius 366年没)は、天の鍵がペトロに委ねられたことを、彼の判決が天国において無制約的効果を有することと讃美している。註1)またミレヴェのオプタト(Optatus 370年没)はペトロがすべての使徒の首位にあり、かつ彼のみ天の鍵を享有したことを、強調している。註2)ミラノのアンブロジオ(Ambrosius 397年没)はペトロを教会の基礎と呼んでいる。註3)そしてまた救主が遺した彼の愛の代表者と呼んでいる。註4)そして最後に彼はペトロに関する彼の教旨を次の名高い言葉に要約している。『この者がペトロである。主は彼に言い給うた、「汝はペトロなり、この磐の上にわれはわが教会を建てん」と。ゆえにペトロのある所に教会がある。教会のある所には死なく、永生がある。』註5)ヒエロニモ(419年没)は記している、『分裂の危険を除かんがためペトロはすべての使徒たちの首長に定められたのである。』註6)そしてアウグスチノ(430年没)は言う、『ペトロは自己において全教会のペルソナを担っている。註7)そしてかつてモイゼが旧約のシナゴグの指導者であったごとく、ペトロは教会の牧者となった』と。註8)教皇レオ1世(461年没)は同一のことを次の語で表現している。『全世界よりペトロのみ選ばれてすべての使徒と教会の指導者たちとの首位に置かれた。そして天主の民の間には多くの司祭と牧者とが存在

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するといえども、ペトロが真にすべてを指導し、正しくキリストが彼らを指導するのである。』註9)そしてラテン教父らの時期の終りに当たり、グレゴリオ1世(604年没)は記している。『ペトロに全教会を支配することと最高位とが委命されている』と。註10)

[註1] In Matthaeum, c. 16, 7(Migne PL 9, 1009)参照。
[註2] De schismate Donatistarum, 7,3(Migne PL 11, 1087)参照。
[註3] de fide, 4,5,56(Migne PL 16, 628)参照。
[註4] Expositio Evangelii Lucae 10, 175, 176(Migne PL 15, 1848)参照。後の伝統において慣用されるに至ったVicarius Christi(キリストの代理者)というような言い方が最初にここに用いられている。
[註5] Ennarratio in Psalm 40(Rouet 1261)参照。
[註6] Adversus Jovinianum 1, 26(R 1379)参照。
[註7] Sermo 295, 2, 2(R 1526)参照。
[註8] Contra Faustum, 22, 70(Migne PL 42, 446)参照。
[註9] Sermo 4, 2(R 2191)参照。
[註10] Ad Mauritium epistula(Migne PL 77, 7, 46)参照。

東方教会の有名なる著述家および教師も等しく一致してキリスト教会内におけるペトロの独一的首位権についての一般的信仰を証言している。例えばオリゲネス(255年没)、註1)バジリオ(Basilius 379年没)、註2)ニッサのグレゴリオ(Gregorius 394年没)、註3)イエルザレムのキリロ(Cyrillus 386年没)註4)およびヨハネス・クリソストモ(Johannes Chrysostomus 407年没)がペ

p. 227

トロを教会の礎石として讃称している。クリソストモは若干の箇所において、ペトロが全教会の牧者かつ教師、他の使徒たちの首長かつ指導者に定められていることを、あらゆる明確さをもって強調している。註5)そして感激に充ちてペトロを次のごとき称号をもって呼んでいる。『使徒団の柱、家庭の首長、教会の礎石』。註6)アレキサンドリアのキリロもペトロの首位権を強調し、それに関する聖句を彼独特の深さをもって説明している。註7)ギリシャ教会のこれらの大教師はシリア教会のそれらと一致する。このシリア教会ではアフラアテス(Aphraates 345年没)註8)およびエフレム(Ephraem 373年没)註9)の証言が特に明確である。すなわち、エフレムは聖週間についての第四説教において救主をしてペトロに次のごとく言わしめている。『シモンよ、わが弟子よ、汝をわれは聖教会の礎石となした。われが汝をペトロと名づけた。そは汝がわが全家を担うがゆえに。汝は地に教会を建つる者の監視人である。汝はわが教えの源泉である。われは汝を通じてこれを万人に呑ましめんと欲する。汝はわが弟子の頭首である。われは汝にわが国の鍵を与えた。われは汝をわが全財宝の監理者に高めた。』註10)

[註1] In epist. ad Romanos, 5, 10(Migne PG 14, 1053; In Exodum 5, 4(Rouet 489)参照。
[註2] Contra Eunomium, 2, 4(Migne PG 29, 578)参照。
[註3] Laudatio S. Stephani(Migne

p. 228

PG 46, 734)参照。
[註4] Catecheses 11, 3; 17, 27(Migne PG 33, 694; 997)参照。
[註5] In Johannem homilia 88, 1(Migne PG 59, 478); Adversus Judaeos 8, 3(Migne PG 48, 931); de poenitentia 5, 2,(Migne PG 49, 308); de sacerdotio 2, 1(Migne PG 48, 652)参照。
[註6] Homilia in illud hoc scitote(Migne PG 56, 275)参照。
[註7] in Matth. 16, 18(Migne PG 72, 423); in Lucam 22, 23(Migne PG 72, 915)参照。
[註8] Sermo 4 de Domini passione, demonstratio 7, 15(Patrologia Syria, ed. Parisot 1, 966, 344, 451)参照。
[註9] S. Ephraem Syri hymni et sermones, ed. Lamy Malines 1902, IV, 532参照。
[註10] ed. Lamy, I, 412(R 706)参照。

このように古代キリスト教の伝統の大いなる証人は教会の基礎としての、天国の鍵を持つ者としての、キリストの全羊群の牧者としてのペトロについて繰り返し語っている。若干の教父がマテオ福音書第16章18節に記されているキリストの約束を種々の意味に解釈し、ペトロの表白したところの信仰、すなわち、キリストの神性への信仰を教会の不動の基底として考えるとの異論が非カトリック側の著述家から提出されたこともある。それに対して種々のカトリック著述家たちが主に、アリオ派の異端を反駁する時代において同様の比喩的解釈を用いたことを認めねばならない。しかしかかる著述家たちはこれにより決してペトロに向けられたキリストの約束の直接文字通りの

p. 229

意味を否定したのではなかった。彼らのある者はこの意味を同時に明確に肯定し説明した。註1)そしてすでに引用した文面から明らかであるごとく彼らは皆一致して教会における聖ペトロの首位権を承認している。初代教会のこの伝統はただに常にカトリック教会内に生き生きと保持されたばかりではなく、後に至ってカトリック教会から分離し、ペトロの後継者の首位権の承認を放棄したキリスト教団体の中でも公認されていることがある。例えばギリシャ教会がローマ教会から分離しはじめた頃のコンスタンティノープルの総司教フォチオ(Photius 898年没)の著述などには、キリストの教会内におけるペトロの首位権に関する数多の明白なる指示が見出される。彼はペトロを使徒の柱・教会の礎石・天の鍵の所有者と呼んでいる。註2)同様に明確なる証言が、10世紀のビザンチン著述家の著作中にも見出される。フォチオの弟子、パフラゴニアのニケタス(Nicetas 910年没)のホミリエの編纂者はペトロおよびその後継者たるローマ教皇の首位権についてのこのギリシアの著述家の表白は正当かつ明確で、あるカトリック神学者のごときはこの表白にじきに署名し得たほどであると言っている。そしてこの表白が数世紀の間ビザンチンの信徒の表白した信仰の反響であると彼が言っているのはもっともである。註3)

p. 230

[註1] 例えばヒラリオは文字通りの意味で in Matthaeum 16, in Psalm. 131, 4, in Psalm. 141, 8; 比喩的の意味で de Trinitate 6, 36 解している。アンブロジオは文字通りの意味に In Lucam 4, 70; de virginibus 16, 105; de fide 4, 5; 比喩的の意味に de Incarnatione 5, 34 解している。アウグスチノは文字通りの意味に in Joh. 14; in Psalm. 30; in Psalm. 103, 2. in Psalm. 138, 22 解している。Retractationes 1,21 においては彼は文字通りの説明の外に比喩的の説明をも許している。しかしこれはアラメア語の誤解に基づくものである。上に引用した箇所で文字通りの意味を附するオリゲネスは、マテオ16章の注解において比喩的説明をしている。
[註2] Photiou logoi kai homiliai, ed. Aristarchis, I, 481; Jugie, Photius et la Primaute de Saint Pierre et du Pape, 1921参照。(フォチオはこれによりビザンチン教会の伝統に従った訳である。彼より約150年前そこで総司教ゲルマノスはキリストがペトロに委命した全使徒の上の首位権を明白に宣明している。Sermo 3. in Dormitionem Deiparae(Migne PG 98 367参照);Jugie, de B. Petri Apostoli Romanique Pontificis Primatu in libris liturgicis Ecclesiae byzantinae aperte consignato, Angelicum, Roma VI(1929)47; Gazarin, Les Staroveres, l'Eglise russe et le Pape, Paris 1857; De Maistre, Du Pape, I, 10 参照。
[註3] Vogt, Deux discours inedits de Necetas de Paphlagonie, Orientalia Christiana, Roma, n 71(1931)17, 20, Gordillo, Compendium Theologiae Orientalis, Roma 1937, 87 以下参照。

古代教会のこの共通の伝統はその典礼において表現されている。ローマ教会の典礼のみならず、註1)

p. 231

現在なおロシアおよびバルカン諸国のローマ教会から分離したキリスト教会諸団体に普く使用されているビザンチン教会の典礼も、すこぶる明確に聖ペトロの首位権を立証している。ここでは殊にペトロの祝日に際してペトロに関し例えば次のような称号および讃歌が見出される。『教会の磐、使徒の基底、キリストの立てたる牧者、全使徒の牧者にして教師にして指導者』など。註2)また、シリア教会に由来する景教(ネストリヤン)の典礼には使徒聖ペトロと聖パウロの祝日に次のような讃美が書かれている。すなわち、『シモンよ、汝は幸いである。そは汝は財宝の管理者にして御国の鍵を有し、汝の上に聖なる教会は基礎を置く。汝は堅固なる巖である。主が汝を各教会の基礎と為し、汝の職責によりすべての人々が疑いを容れぬ真正な信仰を表白せんがために』と。註3)このようにペトロの首位権に関する古代教会の教えは最大の史的価値を有する多くの文献により明確に証言されている。すなわち聖ペトロは古代教会において到る処で等しく使徒の首・真の信仰の基礎・天の国の鍵を持つ者・キリストの信徒全部の最高牧者として崇敬されている。

[註1] 例えば6月29日および2月22日のペトロ祝日の典礼文で、これはすでに3世紀に祝われていたことが証明されている。Koesters 前出p. 216 参照。
[註2] この題目は多くの著述家により詳しく論ぜられている。Tondini,

p. 232

La Primaute de Saint Pierre prouvee par les titres que lui donne l'Eglise russe dans sa Liturgie, 1867; Jugie 前出参照。
[註3] Gordillo 前出p. 210 参照。

ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言

ペトロの最高牧者たる職権とそれがローマ教皇の首位権によって継続されることについては、古代教会の伝統がすこぶる明確にこれを証言している。キリスト教の最も古い時代においてすでに、ローマ司教の首位権は幾重にも現れており、ペトロの後継者としての教皇の最高牧職に関するカトリック教への本質的要素は、すでに夙にいろいろの機会においてキリスト教界の意識に現れている。第2世紀の始め、司教殉教者イグナチオはローマ教会に対する特別の崇敬を表明し、それを『愛の共同体の頭首』と呼び、註1)その首長として使徒ペトロおよびパウロを置き、註2)その指導にシリアの教会を委託した。註3)第2世紀の終りには偉大なる教会著述家イレネオが異端反駁の著書において、ローマ教会の首位権を明確に証言している。彼は異端の教師らに反して、使徒たちの教説がいかにして純正誤謬なく伝承されて来たかを示そうとしている。彼はまず使徒たちの創始した各所の教会における司教

p. 233

たちの正統なる継職を指摘し、これによって使徒たちの宣明した教説の正しい保持と伝承とが保証されたことを指摘した。しかしこれらすべての教会について探究するのは余りにも多岐であり至難でもあるがゆえに、使徒ペトロおよびパウロの創立したローマ教会の教理を確認すれば充分であるとした。すなわち、この教会の首位のゆえに他のすべての教会はこれに一致しなければならず、この教会との結合により到る処使徒たちの正しい教説が保持されたのであるとなした。註4)この偉大なる教父はその青年時代に小アジアにおいて使徒の弟子たちと個人的に交誼して、註5)教会の最古の伝統を精しく識っていたのであるから、彼のこの言葉には特別の意義があり、カトリック側および非カトリック側の研究者らによって詳細に註解されたのであった。註6)他のキリスト教会に対するローマ教会の首位性はこれにより明白に表現されている。ローマ教会のこの首位性はイレネオに従えば、実に、使徒の教説がローマ教会において特別に保持されることの理由であり、他のキリスト教会が信仰および教理の点においてローマ教会を規準にしなければならないことの理由である。イレネオの意見ではこの首位性がローマ教会の司教に帰すること、この司教によってのみ正しく実施されることも、同様に確定している。彼が一般的に司教を教会の正統なる頭首と見なし、使徒たちの真正の教説を宣明すべく天主

p. 234

から委命されたる人と見なしたごとく、註7)彼はまたローマ司教をローマ教会の首位性の本来的かつ独占的所有者と見なし、使徒ペトロおよびパウロの死後のローマ司教の順列を詳しく示しているのである。註8)

[註1] ローマ教会宛の書簡、表題(Rouet 52)参照。
[註2] 同 4, 3(R 210)参照。
[註3] 同 9, 1(R 55)参照。
[註4] Adversus haereses, 3, 3,2(R 210)参照。
[註5] フロノリ宛の書簡(R 264)参照。
[註6] Koesters 前出 p. 120, 217 参照。Dieckmann II巻p. 107 参照。
[註7] Adversus haereses, 4, 26, 2(R 237)4, 33, 8(R 242)5, 20, 1(R 257)参照。
[註8] Adversus haereses, 3, 3, 3(R 211)参照。

第3世紀にカルタゴのチプリアノはローマ司教座をペトロの座(Cathedra Petri)と名づけ、教会およびその司祭制度の一体性がペトロの座との共同により創始され保持されることを明白に主張した。註1)第4世紀以来カトリック神学の樹立に協力した大なる教父たちにおいては、ペトロの正統なる後継者としてのローマ司教に帰属する首位権に関し許多の重要なる証言が見出される。例えばミレヴェのオプタートは(紀元370年没)すべての使徒の頭首なるペトロによりローマに第一の

p. 235

司教座が創立され、この座により全教会の一致が確保され、この座から分離する者は離教者と見なさるべきであることを主張している。註2)ヒエロニモが375年頃教皇ダマソに宛てた書簡において、ペトロの後継者としてのローマ司教の首位性を強調している言葉は、この講話の冒頭においてすでに引用した。註3)アウグスチノは曰く、ローマ教会の中に使徒の座の首位は常に存在していた、と。註4)そして彼がマニケア派に反対して、彼がなぜカトリック教会にとどまるか、それがなにゆえに真理であるかを証明する理由として、彼はまた、主がその復活後にその羊群を委ねたところのペトロの座にある司教たちの継承ということを引用している。註5)彼も詳しくローマ司教座におけるペトロの後継者の系列を示している。註6)ペトロ・クリソロゴ(Petrus Chrysologus 450年没)は異端者エウティケス(Eutyches)宛の書簡において、ローマ司教の首位権に関する彼の見解を次の言葉で表現している。『ローマ教皇の書面に対して従順を表明するように誡める。なぜならその司教座に生きかつ支配する聖ペトロは、信仰の真理を求むるすべての人々にこれを与えるからである。ローマ司教の同意なしにわれわれは信仰の問題を決定することはできない。』また、彼に教皇レオ1世の教権に服従することを勧告しているのである。註7)ペトロがローマ司教座上の後継者において

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永存し支配することを教皇レオ1世もこの時代に明言している。註8)同じことを教皇使節フィリッポはエフェゾ公会議(431年)においてそこに集まった東方教会の司教たちの前に宣明している。註9)同様の宣明がヴァチカン公会議において、教皇の首位権の本質および内容に関する宣言の中に採り入れられた。これはこの公会議が古代教会の教えを参照し得ることを明確に示した。註10)上述のペトロ・クリソロゴとほとんど同時に東方教会の著述家キルスのテオドレト(Theodoretus 458年没)が教皇レオ1世宛の書面において、ペトロおよびその後継者の首位権に対する信仰を次のように表白している。『真理の宣明者パウロがペトロを訪れて、律法の問題に関して判断に迷っているアンチオキアの人のためにペトロの指示を仰ごうとしたのであるならば、われわれはいっそう謙遜に聖下の座に馳せて、救癒手段を受けねばならない。聖下にこそ全教会の首位権がある』と。註11)コンスタンティノープルの総司教で東方の全教会から崇敬されている聖フラヴィアノ(Flavianus)は、キリスト単性説(Monophysitismus)の異端に対し、死をもって真正の信仰を擁護した人であるが(449年)、レオ1世宛の書簡において、教皇には信仰問題に関する最高の判定を下す権能のあることを主張し、教皇の決定によってのみエウティケスおよびその信奉者によって惹起された信仰論争

p. 237

が解決され、全教会の平和が再建されねばならないことを強調している。註12)かくローマ司教座におけるペトロの後継者の最高牧職に対する尊敬は東方教会にも深く根を下ろし、広く普及した。そしてビザンチン教会がローマ教会から解離する誘因をもたらしたフォチオよりも数十年前、東方のもう一人の偉大なる教師シトゥデオンの聖テオドル(Theodor)は、この尊敬を明白に唱え、異端者との論争問題は教皇の権威によって解決せらるべきであることを強調した。註13)そして教皇パスカル1世に宛てて彼は次のごとく記した。『使徒的頭首・キリストの羔の牧者・天国の門番・カトリック教会の礎石にして信仰の磐たる汝、聞け、何となれば、汝はペトロにしてペトロの教職を行う者である。狼が羊の檻に闖入し、地獄の門が主の羊に荒れ狂う。われらの主なるキリストは汝に語った、「汝の改心の後汝の兄弟を強くせよ」と。時代と機会とを見よ。われらを援助するために来れ。天主は汝をそのために任命した。汝は最高牧職にあるがゆえに、汝はこれを為すべき権力を天主より与えられている。汝による天主の語をもって異端の凶行を斥けんことを汝に請願す』註14)と。

[註1] 書簡 48(Rouet 574)、書簡 55(R 575)、書簡 59(R 580), de catholicae Ecclesiae unitate 4(R 555)参照。
[註2] Contra Parmenianum Donatistam, 2, 2(R 1242)参照。
[註3] 書簡1

p. 238

5、2(R 1346)参照。
[註4] 書簡 43 "in qua semper apostolicae cathedrae viguit principatus"(Migne PL 33, 163))参照。
[註5] Contra epistolam Manichaei, quam vocant fundamenti, 4, 5; "tenet me ab ipsa sede Petri apostoli, cui pascendas oves suas post resurrectionem Dominus commendavit, usque ad praesentem episcopatum successio sacerdotum."(R 1580)参照。
[註6] epist. 53(R 1418)参照。
[註7] Kirch p. 891(Rouet 2178)参照。
[註8] Sermo 3(Migne PL 54, 145)参照。
[註9] Denzinger 112 参照。
[註10] Concilium Vaticanum, 4, 2(D 1824)参照。
[註11] Mansi, Sacrorum Conciliorum nova et amplissima collectio, VI, 36; Migne PG 83, 1311 参照。
[註12] Mansi, V, 1355 参照。
[註13] 書簡 33(Migne PG 99, 1018)参照。
[註14] Migne PG 99, 1152 参照。

古代教会における教皇の首位権の行使

古代教会の多くの偉大なる著述家の証言の外、なおまた、キリスト教の古代において教皇たち自身が彼らに帰属する首位権を行使したこと、そしてこの行使が教会により受容されたことも、注目すべきである。上述せるごとく初期の弘布および迫害の時代においては、ローマの座におけるペトロ

p. 239

の後継者の首位権は、教会組織が諸所の国々においてすでに著しく発達したのに比してそれほど明瞭に行使されるに至らなかった。けれども教会史の最古時代にすでにローマ教皇等が天主から賦与された首位権を自覚し、他教会の諸事件に権威をもって関与し、最高にして徹底的なる決定の権能を示したことを、われわれは認めるのである。そのほか教皇たちは全教会に対して重要性を有する諸問題を彼らの判決によって解決することを自己の使命と見なした。またローマ司教のこの関与がさまざまの機会に正当のものとして認められ、教皇の判決が従順に採諾されたことも、同様に確認されている。すでに1世紀の末に、ローマ教会に帰せられた特別の権威はペトロの第三後継者たるクレメンスの書簡にも現れている。クレメンスはコリント教会が分裂のために紛糾しているのに関与し、そこに正しい秩序を再建せんと努めたのであった。彼の書面は権力と威厳とに充ち、天主から享けた高い権威の自覚が表現されている。註1)コリントの司教ディオニシオは第2世紀の中頃、クレメンスのこの訓戒の書面がコリント教会においてすこぶる高く評価されそこで特定の時に朗読されたことを証言している。註2)同時にディオニシオはローマ司教ソテル(Soter)の配慮をも挙げており、ローマ教会がキリスト教の創始時代から他教会に対し、多くの助力と善行とを頒与した

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ことを強調している。註3)イレネオもローマ教会の特殊の首位権に関するすでに引用した叙述の後に、クレメンスのこのコリント教会関与について述べており、この教会の秩序の再建について報じている。註4)イレネオの時代に教皇ヴィクトル(Victor 189-198年)は復活祭をすべての教会において統一せんとし、小アジアの教会に対し種々異なる習慣を放棄すべきことを要求している。註5)イレネオ自身は復活祭に関する教皇の立場に賛同しているが、ヴィクトルに対し小アジアの諸教会を有利に仲介し、これらの教会に対して旧来の習慣を遵守することを許可するように教皇に願い出た。註6)しかし事実上は教皇の主張が一般に普及し、全教会における復活祭祝日の統一が成就した。イレネオと同様、他の諸教会の有力なる代表者もローマに旅行しそこの教会の事情とその教理とを識らんとした。註7)

[註1] Rouet 11-29; Migne PG 1, 217; Koesters, 120, 217 参照。
[註2] ローマ人宛の書簡 4-23(Rouet 107)参照。
[註3] Eusebius, Hist. eccl. 4, 23(Kirch 61)参照。
[註4] Adversus haereses, 3, 3, 3(R 211)参照。
[註5] 第4講話 p. 137 参照。
[註6] Eusebius, Hist. eccl. 5, 24; Migne PG 20, 498; Koesters 121, 217 参照。
[註7] 例えばヘゲシッポ(Eusebius, Historia ecclesiasica

p. 241

4, 22; R 188 参照)、ユスチノ(Eusebius, H. e. 4. 11 参照)、アベルチオ(R 187 参照)、オリゲネス(Eusebius, H. e. 6, 14 参照)、ヒエロニモにより、オリゲネスが教皇に対して書簡をもっておのが著作の弁明を行ったことが証されている。(epist. 84, 10; Migne PL 22, 751 参照)。

全教会に対し高い意義を獲得するに至った第3世紀の教皇たちの教権行使の中、殊に挙ぐべき価値のあるものは、異端者から授けられた洗礼の有効性の公認であって、この問題は種々の教会において論争されていたのであった。カルタゴのチプリアノ、カイザリアのフィルミリアノなどのごとく傑出した司教たちの反抗にもかかわらず、教皇ステファノ1世(254-257年)は異端者の授けた洗礼の有効性を固執し全教会にそれを認めることを命じ、回宗した異端者に再び洗礼を授けることを禁止した。またその際ステファノは自己の権威が聖ペトロの首位権によることを主張した。この教皇の決定は次第に全教会において採用されるように至った。註1)そのほか教義史上すこぶる意義ある、三位一体および托身の玄義に関する教皇ディオニシオ(259-268年)の教書がある。これはアレキサンドリアの司教の教説を訂正し、後に至って公会議において宣明されたカトリック教義の本質的要素をも明らかに解説していた。註2)当時ローマ教会と他教会との交誼もすこぶる活気あるも

p. 242

のであった。司教会議の重要なる決定はまずローマ司教に報告された。註3)そしてカトリック教徒および異端者から教皇の判決に訴えて来るものは無数であった。註4)

[註1] 教皇ステファノの書簡(Denzinger 46, 47 nota 1);チプリアノの書簡 71, 73(Rouet 592 a., 593, 600); フィルミリアノの書簡(R 602)参照。チプリアノは一方においては教皇を教会的一致の中心と認め、(p. 234 参照)他方においては異端者授洗の問題に関し教皇の首位権の意義を充分に評価していない。
[註2] Denz. 48-51; Pohle-Gierens, Lehrbuch der Dogmatik, 9. Aufl. I, 347 参照。
[註3] Eusebius, Hist. eccl. 7, 30, 1; Migne PG 20, 710 参照。
[註4] チプリアノの書簡 59(R 580); Eusebius, H. e. 6, 43; Migne PG 20, 615-636; Harnack, Die Mission u. Ausbreitung des Christentums, 1915, III, 352 以下参照。

次いで迫害の終わった後、教会聖職制度がいっそう自由に発達し得るに至った時、教皇の首位権の行使もますます明確になった。ギリシア教会の有名なる史家も証言しているように、註1)教皇ユリオ1世(337-352年)は聖アタナシオ(Athanasius)をローマに招致し、アリヨ(Arius)派が彼に対して提起した訴訟を検討し、彼の教説に関する最後的判決を下した。この教皇ユリオ(Julius)1世は東方の諸司教宛の書状において、信仰に関する事項を最高の権威をもって決断するローマ司教の権能を公然と主張し、その際聖ペトロから享けた委命に公然憑拠している。註2)その頃サルデ

p. 243

ィカ(Sardica)の司教会議は(343-344年)諸司教の間の論争問題が使徒聖ペトロに対する崇敬に基づき教皇の判決によって決定さるべきことを規定した。註3)そしてこの会議は教皇ユリオ宛の書面において、教会諸管区の事件が『頭首、すなわち、使徒ペトロの座』の前に提出さるるを要することを主張している。註4)教皇ダマソ(Damasus)1世(366-384年)は380年のローマの司教会議において三位一体の教義に関し重要なる教義決定を与えた。註5)この教皇に暫時忠言者かつ秘書として仕えたヒエロニモは、当時東方および西方の諸会議の照会に回答を与えねばならなかったと報じている。註6)

[註1] Epiphanius, Adversus haeres. 72,(Migne PG 42, 381;)Socrates, Historia eccl. 2,15(Migne PG 67, 211); Sozomenos, Hist. eccl. 3, 8(Migne PG 67, 1051); Theodoret, Hist. eccl. 2,3(Migne PG 82, 995)参照。
[註2] アンチオキア教会宛の書簡 (Migne PL 8, 906); Denzinger 57a(一部分)参照。
[註3] D 57b 参照。
[註4] D 57e 参照。
[註5] D 58 以下参照。
[註6] 書簡 123(Migne PL 22, 1052)参照。

教皇ダマソの後継者シリチオ(Siricius)1世は385年の書面において彼に帰する首位権を次の語をもって説明している。『キリスト教のための配慮は他のすべての人々よりも以上にわれに課

p. 244

せられている。われはすべての人々の重荷を負うている。むしろ聖ペトロがわれの裡にあったこの重荷を負うている。彼はわれを彼の職能の継承者として守護し擁護する。』註1)異端教師ヨヴィニアノ(Jovinianus)の判決に関しミラノのアンブロジオはこの教皇に次のように書いた。『聖下の判決した者はわれわれにおいても聖下の判決通りに判決されている』と。註2)インノチェンチオ(Innocentius)1世(401-417年)、ゾシモ(Zosimus 417-418年)およびボニファチオ(Bonifatius)1世(418-422年)の諸教皇は教会諸管区宛の書面において、古代教会の伝統に従えば教会のあらゆる事件に関する最高の判決は『使徒の座』註3)に属し、この判決はすべての教会から徹底的決定として採受さるべきであると主張している。註4)そして当時ペラギオ(Pelagius)の異端に関するアフリカ司教たちの判決が教皇から承認された時、アウグスチノはこれを彼の信徒らに次の有名な言葉によって宣明している。『この件に関しては二つの会議議決が「使徒の座」に遣られた。使徒の座からも回答が来た。これにより論争は終了した(causa finita est)。これにより誤謬も終結せんことを。』註5)そして他の所で彼は、教皇聖インノチェンチオの書面によりこの件に関する一切の疑義は除去された、と言っている。註6)

p. 245

[註1] Denzinger 87 参照。
[註2] Ad Siricium epistula(Migne PL 16, 1128)参照。
[註3] この表現は当時すでに確立していた。
[註4] D 100, 109, 110 参照。
[註5] Sermo 131, 10, 10,(Rouet 1507)参照。
[註6] Contra 2 epistulas Pelagianorum, 2, 3, 5(R 1892)参照。

当時の大きい司教会議においても教皇の権威が示された。東方において開催された公会議は大いに皇帝に依存していたことは確かである。そはこれらの会議はただに教義上の論争の解決のみならず国内の平和の再建をも目的としたものであったからである。けれども教皇の使節がエフェゾ(431年)およびカルケドン(451年)の公会議を主宰し、彼らのもたらした教皇チェレスティノ(Coelestius)1世およびレオ1世の教書が集会に出席した司教たちに採諾された有様は、教皇がペトロの後継者として認められていたことを明白に物語る。註1)例えばエフェゾ公会議に出席した教皇使節は『使徒の頭首、信仰の柱、カトリック教会の基礎である使徒ペトロが、救主イエズス・キリストから天国の鍵を享け、その後継者の中に生き、判決を下す』ことを宣明した。註2)そして集まった司教たちは彼らの共同の宣明において、教皇の関与についての彼らの同意を表明した。註3)レオ1世はカルケドン公会議への書面において、司教たちに彼が聖フラヴィアノ宛の書状において与えた信仰規

p. 246

定を無制約的に採諾すべき義務を負わせた。註4)司教たちは共同の回答において教皇を聖ペトロの声の伝達者と呼び、レオがその使節において公会議の議長として全員の上に立っていると主張した。註5)教皇の決裁を享受する際に次のように言った。『ペトロはレオを通じて語った』。註6)公会議文書の署名の際にも同様に教皇使節の名が全司教の冒頭に置かれ、ペトロの座としてのローマの首位が表現された。註7)また教皇レオ1世と皇帝マルチアノ(Marcianus)との間に交わされた書簡の中にもやはり教皇の首位が表現されている。註8)東方におけると同様、西方においても、教皇レオ1世の教義決定は徹底的かつ確実なる信仰規範と見なされた。このことはガリア(フランス)教会会議の教皇宛書簡にも明らかに現れている。註9)

[註1] 325年にニケアで開催された第一公会議では教皇シルヴェストル(Silverster)の使節が参加し優先的地位を占めた事実がある。(Kirsch, Kirchengeschichte I.377)参照。
[註2] Mansi IV; 1295; Denzinger 112 参照。
[註3] M VI, 1298 以下参照。
[註4] M VI, 135 参照。
[註5] M VI, 147: D 149 参照。
[註6] M VI, 972 参照。
[註7] M VI, 1048 参照。
[註8] M VI, 94-100 参照。
[註9] 例えば451年のアルル教会会議のごとき。M VI, 161 以下参照。

p. 247

ヴァチカン公会議(1870年)によって表示されたローマ教皇の首位権に関する教旨の本質的要素はそれゆえにレオ1世(440-461年)の時代にすでに完成され、西と東とを問わず全教会から公認されていた。これに続く時代の諸教皇、例えばゲラシオ(Gelasius)1世(492-496年)、ペラギオ(Pelagius)2世(579-590年)、グレゴリオ(Gregorius)1世(590-604年)等の宣明はこの教えを同じ意味において証言している。註1)グレゴリオ1世はまた、教皇の首位権が司教たちの職権を強化すると主張している。第4講話に示したごとく、司教は使徒の後継者として委託せられし管区を指導し、それによりキリストの委託と使命により信徒の真正なる牧者たるのである。教皇が最高の牧者として全教会すなわち、牧者をも信徒をも統治するということは、司教の職にも破壊すべからざる一体性と、比較を絶する補強性とを附与する。それによって全世界の司教は全民族を網羅する一団に統一され、ペトロを中心とし頭首とする使徒の一団の根源的統一性は教会にとって永久に保持され存続し、教会がいかに拡大しようとも、この一団を弱体化することは許されないのである。教皇グレゴリオの言葉はヴァチカン公会議の教義決定の中へ採諾された。これは教皇首位権が司教の権限を狭めるものでなく、反対に強化し支持するものである

p. 248

ことを、明白に主張している。註2)教皇ニコラウス(Nicolaus)1世(858-867年)は教皇の首位に関するカトリックの教えをすこぶる詳細かつ力強く総司教フォチオおよび皇帝ミカエル(Michael)に説示し、次のごとく言っている。『ローマ聖座の特権は永続的である。これは天主の定めたもので、キリストから与えられ、公会議から与えられるものでなくただ承認され崇敬されるだけである。ペトロにおいてローマ教会はキリストの全羊群に関する牧職を得た。』註3)聖座の所有者たちのこの説明の間で注目すべきは、種々の異端を拒否するために教皇ホルミスダス(Hormisdas 514-523年)の著した信仰宣言書である。この中にペトロに対するキリストの言葉と関連して、(マテオ 16:18)使徒の座においていつも真正のカトリックの教理が汚されずに保持されたことと、使徒の座との共同においてのみキリスト教はその完全なる真理性と堅実性とを有するのであることとを明白に主張している。この信仰宣言書は西方のみならず、東方の司教たちからも一般に採用され、署名された。註4)第三コンスタンティノープル公会議(680年)に集まった司教たちは、教皇アガトの教書を採受するに当たり、『使徒の首はわれわれに同意した。彼の後継者はわれわれの助力者として、その書面により天主の玄義を宣明した。アガト(Agatho)を通じてペトロは語った』註5)との言葉

p. 249

をもって、この態度を示した。教皇の権能はハドリアノ(Hadrianus)1世の第二ニケア公会議(785年)宛の書面において、および集まれる司教たちによるこの書面の採受において、同じように現れている。註6)

[註1] Gelasius I, epistula 42(Denzinger 163);Pelagius II,イストリア司教宛の書簡(D 246); Gregorius I, epist. ad Eulogium 8, 30; Migne PL 77, 933 参照。
[註2] Conc. Vaticanum 4, 3(D 1828)参照。
[註3] 862年、865年の書簡 Migne PL 119, 948 以下参照。
[註4] D 171, 172 参照。
[註5] D 288, Nota 2 参照。
[註6] D 298, Mansi XII, 1086 参照。

ローマ司教座における使徒ペトロの後継者の首位権の一般的承認は典礼の裡にも現れており、東方および西方の教会において当時の種々の偉大なる教皇は聖人として典礼をもって崇敬された。ギリシア教会においてはローマから分離した後にもこの祝日は保持され、その場合に使用された典礼文は、使徒の首長ペトロの後継者としてのローマ教皇の首位に対する東方教会の古い信仰の明白なる証言を与える。すなわち、レオ1世の祝日に次のごとき言葉が記されている。『聖ペトロの後継者として、そしてその首位権を賦与されて、彼は天主の神感を受けて信仰決定を与えた。』また聖

p. 250

クレメンスの祝日には、『使徒の首ペトロは汝を最も貴い後継者として遺した。ペトロの後を承けて汝は教会をよく支配した。』ギリシア教会においても典礼的に崇敬されているシルヴェステル、グレゴリオ1世およびマルティノ(Martinus)1世の諸教皇の祝日にも類似の讃辞が見出される。註1)

[註1] Jugie, Theologia Dogmatica Christianorum Orientalium ab Ecclesia catholica dissidentium IV, Paris 1931, 375-378; Jugie, Angelicum, Roma, VI(1929)47-66; Gordillo, Compendium Theologiae Orientalis, Roma 1937, 89 参照。

ローマ司教座における聖ペトロならびにその後継者の首位権への信服はそれゆえに古代教会の宗教的生活と最も密に結合しており、教皇の首位権に関する教えが最古の伝統に根ざしていることが、上述から判明する。註1)ゆえにこの教えは決してローマ市の政治的枢要性あるいはそれに似た外的事情の結果と見なすことはできない。註2)ローマ市が--当時の世界を包括する帝国の首都として--キリスト教界の中核たり、教会の最高牧者の座を持つのに特別に適しており、かつ天主の摂理によりこれに備えられていたことは確かであって、すでにレオ1世もそのことを指摘している。註3)しかしなが

p. 251

らローマ司教の首位権の本来の理由としてキリスト教の伝統中に常に、主キリストが使徒ペトロに委命し、かつ教会の中に存続すべきものと定めた最高牧者の職能の後継がこの司教にのみ帰することが現れている。教皇たちはその首位権の行使に当たり繰り返しこの正当理由に憑拠しており、註4)この理由は教会会議において幾回か公認され、註5)ヴァチカン公会議も、教皇の首位権に関するカトリックの教えの徹底的な教義宣言に際し、この理由をその叙説の出発点としている。註6)そしてこの首位権の真正の基底と真正の内容とが誤解される恐れが現れたたびごとに、教皇はあらゆる断固さをもってこれらの謬見に対抗し、次いで全教会もこれを拒否し排除した。このことはすでに古代においてレオ1世の態度が示している。カルケドン公会議においてギリシャ地方の司教は新興首府コンスタンティノープルの司教座に優位を与え、ローマ司教の首位に次ぐ地位をこれに附与せんとして教皇の同意を求めた。すなわち、彼らはこのことに関する教皇の最高決定権を認めたのである。しかし教皇の首位についての真正の基底が少しでも歪められ誤解されることを防止せんと欲したレオ1世は、この願い出を断固却下した。そして彼のこの決定は皇帝からも、ギリシャ教会の指導者たちからも受容された。註7)次いで中世に至り殊に一時的混迷と分裂との時代において、教会内における若干の神学者およ

p. 252

び著述家が、教皇の権能およびそれと公会議との関係について誤った見解を主張した時に、その度にこれらは教皇の拒否するところとなった。註8)しかしてペトロの後継者としての教皇の最高牧者たることについての伝統的教旨は純正不変のままにとどまったのであった。註9)また後に若干の地において国教会的思潮が教皇制度の純正なる理念を混濁せんと試みた時にも、教皇たちはこれに対して措置し、ために時期の長短は別としても、かかる思潮はいつも中絶してしまった。註10)この思潮の共同の方向は全教会に対する教皇の最高の権能が天主から直接委命されたものであることを否定するに至り、むしろ教皇をもって教会の共同体の意志および規定の実行機関となし、従ってその職能の行使において教皇を多少教会に従属せしめんとしていた。

[註1] 特に東方教会については、非カトリック的著述家もそれを確認している。S.Herbert Scott, The Eastern Churches and the Papacy, London 1928 参照。
[註2] ハルナック等はローマ帝都の教会の盛況をローマ司教の首位の原因と指摘している。Mission u. Ausbreitung des Christentums, 4. Aufl. II, 800; I, 477 参照。ギリシャ正教のある著述家も同じ態度を示している。Gordillo, Compendium Theol. Orient. 74 以下参照。
[註3] Sermo I in Natali Apostolorum Petri et Pauli 参照。
[註4] 以上引用した古代教皇たちの宣言参照。中世紀教皇たちの同様なる宣言がある。Denzinger, Index Systematicus III 参照。
[註5] 以上引用

p. 253

したエフェゾ公会議、カルケドン公会議、コンスタンティノープル第三公会議宣言参照(D 112, 149, 288, nota 2)。また中世紀にローマ教会とギリシア教会の一致を目的としたリオン公会議とフィレンツェ公会議の宣言参照。(D 466, 694)
[註6] ヴァチカン公会議4-1 参照。(D 1822)
[註7] Mansi VII, 452, Migne PL 54, 901-1009; 1018 参照。
[註8] コンスタンツ(1415年)およびバーゼル(1434年)の公会議の際、Mansi 27, 590; 29, 91, 409 参照。また当時のある著述家らは例えば、ゲルソン、ペトルスダイイらはかような説を表した。これにつき教皇エウゲニオ第4世の宣言参照。(D 657, Nota 2)。
[註9] 当時の偉大なる神学者Turrecremata(1468没)のSumma de Ecclesia II, 100 参照。
[註10] フランスにおけるいわゆるGallicanismus、ドイツにおけるいわゆるFebronianismus、イタリアにおけるScipione Ricci の派らがかかる思潮を表した。彼らに対する教皇庁の宣言(D 1323, 1324, 1500, 1503)参照。

教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義

教皇の権能の性質と範囲とについてのヴァチカン公会議(1870年)の明白なる教義決定により、前記のごとき正しからざる見解は徹底的に拒否され、カトリック教会内においては行われなくなった。この会議の教旨に従えば教皇は使徒ペトロの後継者としてキリストの全教会の上に最

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高なる支配権、いわゆる、首位裁治権を有し、これに対し全信徒および全聖職者は従順に服従する義務を負う。それは信仰と道徳の問題・教会宗規と宗教生活の全般に関するものである。教皇の首位権はしかしながら使徒たちの後継者たる司教たちの各教会における牧職の遂行を傷つけることなく、むしろ、これを強化し支持し確保するものである。キリストにより立てられ委命されたこの教皇の最高牧職権は人間の思慮によって制限され妨害されることはできない。また教会内においては他のいかなる権威もこれに対立し、もしくは上位には立ち得ず、従って公会議も教会の頭首たる教皇との協同によってのみ正当性を所有し得るものである。註1)教皇の首位権に関するこの全般的なる説明の後、ヴァチカン公会議はなお特に教皇の最高教権をも詳細に表示している。使徒ペトロの後継者とし教会の最高牧者として、教皇は信仰および道徳に関する教えの最高権威を有する。言うまでもなくこの権威は使徒たちの伝えたキリストの教えを毀損することなく保持しかつ正しく説明するためにのみ天主から教皇に委託されたものである。従って教皇が信仰または道徳に関して最高の教師として全教会のために公式なる決定を下した場合には、註2)この決定は全信徒から終局的なるものとしかつ--主なるキリストの約束した助力により--誤謬なきものと見なさるべきである。註3)教皇の不可謬性に

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関する1870 年のヴァチカン公会議の宣明は、多くの国民の精神生活に個人主義的および自由主義的傾向の蔓延していた当時において、非常な注意を喚起した。註4)しかし教皇の不可謬性はキリストの立てた教会の最高牧者の首位権の表示に必然的に属するものであって、古代キリスト教において早くから認められていたのである。註5)ロシアの偉大なる著述家ウラヂミール・ソロヴィエフ(1900年没)は古代教会の伝統を研究して自ら教皇に関するヴァチカン公会議の教説を認容するに到った人であるが、次のごとき彼の語はもっともである。『ピオ9世(1846-1878年)よりも1400年前に、教皇の不可謬性の教説は決定された。聖座の権威だけで基底的・教理的問題を解決するに充分である、と聖レオは主張している。そして彼が公会議に諮問したのは、その会議が教理を決定するからではなく、この会議が教会の平和を確保せんがために教皇の与えた定義に同意するのであり、教皇は天主の権威により真正のカトリック信仰の合法的守護者である。.....ローマ聖座の首位権と最高教権とを簒奪なりもしくは迷誤なりとして排棄するためには大レオのごとき人を簒奪者なり異端者なりと言うだけでは不充分であり、カルケドン公会議をも第5世紀の全教会をも異端として訴えねばならなくなる。これがわれわれがここで読んだ確実なる証言

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から明白に結論されるものである。』註6)

[註1] Concilium Vatic. 4, 3(Denzinger 1826-1831)参照。従って公会議は教会の教理もしくは宗規の決定に関し教皇以上に大なる権威を有するものではないが、しかも公会議の有用性は大きい。--なかんずく、大事変とか転換とかの時代に際しては--全司教が集まって教皇と共に問題の解決に協力することは最もよく適合しているのである。
[註2] かかる決定は Ex Cathedra 決定と呼ばれる。これは教皇がその最高教権を使用しない場合と区別するためである。
[註3] Concilium Vaticanum 4, 4(D 1832-1839)参照。
[註4] ヴァチカン公会議の教説に反対する旗標の下にヨーロッパにいわゆる『古カトリシズム』が成生した。これは短時日の興隆の後、一小分派に萎縮してしまった。
[註5] 前に引用した諸教皇・諸会議および教父等の証言参照。
[註6] Solovieff, Monarchia Sancti Petri, ドイツ版 Mainz 1929, 524, 538, La Russie et l'Eglise universelle, 5. ed. Paris 1922, p. 166 以下参照。

ヴァチカン公会議がいかなる意味において教皇の教義決定に不可謬性を認めるかについても顧慮すべきであろう。同会議によれば、教皇に不可謬性が帰せられるのは、キリストがペトロを通じて教皇に約束した天主の助力によるのであり、キリストが自己の教会に不可謬性を与えんと意志したるによるのである。註1)ゆえに不可謬性は決して個々の教皇の個人的性質によるものではなく、

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教皇自身は人間としての制約下に置かれているが、彼に帰する最高の教師として、教会の最高牧者としての職能に由来するものである。教会の超自然的生活およびその聖職者たちの聖権がキリストから由来するごとく、註2)教皇の不可謬的権能もキリスト自身の智慧と助力とに由来するものである。世の終りまで教会と偕にある救主は、教会に教理と信仰との最高にして誤謬に陥ることなき規準を与える。ペトロの後継者の職に附与されるこの助力はまた、教会の教理が決して古い方式の墨守に堕しえないこと、かえって天主が教会に啓示した真理の生ける把握がますます進展することを、保証するものである。しかも教会の伝統およびカトリック的一致を確保しながら保証するのである。註3)この教理と信仰との完全なる一致こそ、カトリック教会をして他のすべてのキリスト教団体に優越せしめるものにして、統治の統一および教会の外的活動の統一もまたここに由来する。この意味においてヴァチカン公会議はキリストがペトロにおいて教会に一致の可見的根拠を与えたことと、註4)教皇と協同して教会は一人の最高牧者の下にある一つの羊群を表示していることを宣言するのである。註5)傑出した神学者たちはそれゆえに教皇の首位権に関する論説において、教会がキリストの全信徒の可見的協同体としてその内的および外的の一致を確立し確保するためには、一人の最高牧者を必

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要とすること、この牧者が不可見的かつ永遠なる牧者たるキリストの委命と全権とにおいて全教徒の頭首に立たねばならぬことを詳述しているのである。註6)

[註1] Conc. Vatic. 4, 4(Denzinger 1839)参照。
[註2] 第5講話 p. 174 参照。
[註3] 第7講話参照。
[註4] Conc. Vatic. 4(Denzinger 1821)参照。
[註5] 同、(D 1827)参照。
[註6] 例えばトマス・アクィナスはそのSumma contra Gentiles IV, 76 において。前世紀にはドイツのメーレルがその著Symbolik, 7. Aufl. S. 391において。--まあカトリック大辞典第1完p. 627 「教皇」参照。

教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立)

上述からカトリック教説に従えば、教皇の職能は純粋霊的性質のものにして、その本質的使命および権能は宗教的圏内に所属するものであることが、あらゆる明確さをもって判る。ローマ総督に対するキリストの言葉『わが国はこの世のものに非ず』註1)は、それゆえに教皇に関しても完全に妥当する。しかしキリストの教会はこの世のものではないが、この世において活き、発展し、世の人々にキリストの救いの恵みをもたらすべきであり、キリストの教えによりこの世の事情を改革する使命

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を帯びている。教会の関心が社会の関心と若干の点において接触することおよび両者の使命が相互に相補足するものであることが、必然的に結論される。キリストの教会の最高の牧者としての教皇が諸国家の政府と連繋を保ち、それらとの諒解の下に個々の国民における教会行政のさまざまの事件を決裁することも、そこから理解される。諸国家と外交関係を保ち、条約、いわゆるコンコルダートを締結するのも、この目的のためである。キリストから受けた超自然的使命を国家主権との協調の下の遂行すべきことを、教会は充分自覚している。ゆえに教会は自由主義全盛時代に大いに宣伝された教会と国家との完全なる分離を常に不当と見なし、事実的にも実行不可能なりとして、これを拒否したのである。註2)万国的教会の最高牧者たる教皇に政治的独立の地位が帰するというすべてのカトリック信徒に共通した見解の由来も、既述したところから自然に結論される。全教会の最高の牧者にして可見的なる頭首として教皇は、個々の民族および国家の国民的および政治的関心の外に立ち、あらゆる民族および国家におけるキリストの教会の超自然的関心を政治的独立と自由とにおいて平等に代表し得るものでなければならない。あらゆる国家内の熱心なるカトリック信徒は平和の時にも戦争の時にも宗教的義務観念から彼らの祖国のために立ち、従って教皇の政治的不偏性およ

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びその職位の純粋霊的性格が永久に確保されることを希望しているのはもっともである。教会史上--殊に中世において--教皇庁がヨーロッパ強国の一つとあまりに密接なる関係に陥ったたび毎に、この状態は全教会の福利を痛く害し、内的紛糾をもたらしたのであった。

[註1] ヨハネ 18:36 参照。
[註2] グレゴリオ16世、ピオ9世、ピオ10世などの諸教皇のこれに関する宣明(Denzinger 1015, 1755, 1995, 2092)参照。

教皇の政治的独立および自由は充分なる保証を有し、それが一般的にも承認せられなければならない。この保証が外面的に現れる形式は歴史の過程において変転した。中世においては教皇自身の支配した教皇領が『使徒の座』の政治的独立を世界の前に表示し確保した。教皇領はローマ教会への領土贈与から次第に成立したのであって、カール大帝の頃すでに最初の強固な形態を有し、その範囲が若干変転しかつ一時的危機に当面したにもかかわらず、註1)その本質的存立が1870年まで持続した。この年にローマは新イタリア国家の所属となり、その首府と宣言されたのであった。イタリア国家はローマ接収後直ちに教皇の独立を公認し、その後の時代においてもこれを尊重した。しかしこの問題の完全にして徹底的なる解決は1929年に至ってようやく聖座とイタリア政府

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との間に締結されたいわゆるラテラノ条約によって達成されたのであって、これにより聖座の要求した独立承認は、新しい事情に即応した形態を採ることに成功した。これによりヴァチカン都市(市国)すなわち、聖ペトロ聖堂およびヴァチカン宮殿に直接所属する地域は教皇の独立的領域として宣明され、そのほか教皇は最高の教会行政の自由なる執行に対する必要なる保証を享け、各国政府との無碍なる交通の保証を享けたのであった。ラテラノ条約締結に際してピオ11世自身が宣言したごとく、教皇の独立に関するこの新形式はキリスト教会の最高牧者の霊的・超自然的性格にまったく適応するものであって、この性格を明確に表現するものである。教皇はその際次のように言った。『物質的所有がかくも僅少なる分量に制限され、そのためかえって所有そのものが彼の担いかつ仕うべき職能の無限に崇高にして神的なる性格より、いわば霊化されたことを、予は喜びとする。』註2)

[註1] 例えば教皇の1309-1377年間のフランス滞在時代、1797年フランス革命軍によるローマの占領時代および1809年ナポレオンによるローマ占領時代。
[註2] Parole Pontificie sugli accordi del Laterano, 1929 参照。

これにより--教皇自身も同じ演説において強調しているように--現代および将来に対して、

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あらゆる時勢の下においては霊的権能と世俗的政権とのあまりに密接なる結合から生ぜざるを得ない聖座に対するすべての不快と危険とが排除された次第である。過去、殊に中世においては、領土確保のための配慮が教皇を幾度か欧州列強との政治的対立を誘致し、ために本来の宗教的使命が妨害されたこともあった。この事件を充分に理解するためには、また、欧州の大部分の国家の文化的および国家的発展が教会の指導下に行われていたこと、従って当時霊的権力が国家的社会の利害関係と特殊に接触していたことを考慮すべきである。現代における教会は--ヨーロッパにおいても全世界においても--かかる世俗的利害関係の制約をまったく受けておらず、専らキリストの与えた宗教的および超自然的使命に従っている。現在の形式における教皇の独立は同時に現世的勢力および現世的所有に対する何らの要求も意味せず、むしろキリストの教会におけるペトロの最高牧職の超自然的・純粋霊的性格を明確に表現する。

教会の最高牧者のこの聖にして霊的なる超自然的職能を全カトリック教徒が崇敬する。彼らにとっては教皇はキリストの約束の担当者であり、キリストの権能の代表者であり、キリスト自身はヴァチカン公会議の言うごとく『彼らの霊魂の最高の牧者であり、司教である。』註1)この意味にお

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いて彼らは教皇を『キリストの代理者』と呼び『聖父』と呼ぶ。そして信者がキリストの救いの業と教会の本質とをいっそう深く把握すればするほど、ますます明確かつ歓喜に充ちて教皇制度の大なる使命を肯定するのである。このことを特に示す者は、教会の進歩と内的改新とのために大事業を果たした聖人たちである。アシジの聖フランシスコがその大事業をまったく教皇の指導の下に属させたこと、そして彼が--当時教皇の私人的なる欠点が若干認められたにもかかわらず--キリストの代理者に対する畏敬と従順とに深く浸透されていたことは、カトリック側からも非カトリック側からも等しく認められている。同じことが後代のカトリック教会生活の先覚者たちについても言われる。殊に宗教改革時代においてしかりである。これに反し、教会を改革せんとして教皇制度から分離した人々は分裂と混乱を惹起し、遂に自らの目的を達せずして終わった。古代より現代に至る教会史は、教皇制度の裡に継続するペトロの首位権がキリストの教会の本質的構造に属すること、その真の一体性と不変のカトリック性とを保証するものであることを明示する。クレルヴォーの聖ベルナルド(1153年没)はその有名なる書”De Consideratione”において、かつて弟子にして後教皇と成りし人に、註1)首位権の正しい行使に関する支持を与え、教皇の威厳と使命とについて

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次のごとく語っている。

『貴下はいと高き司祭、司教らの首、使徒の後継者である。貴下はペトロの権能とキリストの使命とを所有する。貴下に鍵が委ねられている。そして羊群が委ねられている。ほかにも天の門番はあるし、羊群の牧者もおろう。しかし貴下はより高き意味においてこの両者を兼ねている。主の言葉の中から私はこのことを貴下に提示しよう。司教とは限らない、使徒たちの中の誰にかくも絶対に、かくも無差別に、羊の群が委ねられたであろう。ペトロよ、汝もしわれを愛するならばわが羊を牧せよ!どの羊を? この邑(まち)の羊ではない、あの邑のでもない、この地方のでもない、ある国のでもない。わが羊を、と主は言い給うたのである。主が若干の羊を指し給わず、全羊群を指し給うたのであることを、見落とす者があろうか。まったく差別なしにである。一つの除外もなしにである。そしてまさに他の使徒たちの臨席する前において、主はその一人にこの職権を委ね、一同が真の一致を保つべきことを、勧め給うた。唯一の羊群において、そして唯一の牧者の下において。』註2)

[註1] 教皇エウゲニオ3世(1145-1153年)。
[註2] De Consideratione II, 8 参照。

第6講話 終り

作成日:2004年06月02日

最終更新日:2004年06月02日

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