基礎神学講話

第7講話


パウロ・フィステル著


中央出版社

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


序言

p. 1

本書はカトリック基礎神学の若干の主要問題を取り扱う。基礎神学(護教学)とは、カトリック信仰の必然的与件、いわゆるpraeambula fideiすなわち、カトリック信仰の価値および義務を論証する諸根拠を、学問的に論述しこれを確立することを意味する。

多くの敬虔なカトリック信者は詳密な学問的な探究の道とは別の道から、彼らの信仰に関する確実性に到達する。教会の実存そのものがその宗教的生活の豊富性をもって、彼らにその信仰の真理性に対する充分な保証を与え、教会の内に現れる神の権力と救世の恩寵とを彼らに証明する。多くの真理探究者にとってもまたカトリック教会の教理の崇高さ・その宗教的生活の成果・その全人類への福祉に充ちた感化よりカトリック信仰を受け容れる決定的動機となった。

それにしても、哲学的・歴史的な証明によって、カトリック信仰の意義と必然性とに関する諸論拠を統合的に示すことはやはり必要である。なぜなら、カトリック教会が真に宗教的真理の神より委託された保持者であり告知者であること、およびそれゆえに、その教理は無条件的信仰において受容されねばならぬことは、ただこの方法によってのみ真に客観的かつ普遍妥当的に示され得る

p. 2

からである。

また例えば自己自身の信仰体験の分析によるごとき別途の方法により信仰に関する確実性にまで到達した人々も、かかる総合的証明法により彼らの信仰の与件を再検討し確立することを断念してはならない。このことは何も、この認識からしてすでに必然的に信仰が結果することを意味するのでは決してない。信仰は元来人間の神への自発的奉献を意味するものである。しかしカトリック教理の絶対的真理性とそれから生ずる信仰の倫理的価値とを悟るためには、信仰の諸与件の客観的および普遍妥当的検討が必要であることを意味するのみである。この検討は人間の自然的理性の認識範囲の裡に行われ、主として哲学的歴史的説明法を使用している。そのために基礎神学において聖書および聖伝から証拠が取られるとき、その歴史的資料としての価値のみが認められる。

信仰の諸根拠についてのこの理性的再検討が個々人の性能や教養の程度および生活環境に従って一様でないことを看過してはならない。とにかく個々の信者はカトリック教会の教理の無制約的受容にまで彼を動かすところのある種の客観的および普遍妥当的な根拠を発見することができなければならない。教養あるカトリック教徒に対しては、しかし、この客観的および普遍妥当的な信仰与件を学問的形式によって示すこともまた不可欠である。

p. 3

カトリック信仰の最も重要な与件に、まず、自発的な愛から人間を創造し、これをある永遠の目的に適合せしめる創造者にして主なる神の正しい観念が属する。それゆえにまず最初に神に対する人間の関係、したがって宗教の本質的意義と使命とを明確にしなければならない。

カトリック信仰の与件としてこれに次ぐものは、無限の神がある特別の超自然的啓示--いわゆる天啓--によって人間に宗教の諸真理を教示したという事実である。従って天啓の歴史的事実および超自然的性格が確実に明示されねばならない。

この天啓は殊にキリストによってもたらされ、彼によって完成されたゆえに、そしてまた、すべての人間に対して神の規定した真の宗教はキリスト教によって確立されたがゆえに、神より遣わされた者としての・神の子としての・そして救世主としてのキリストが、これに続く基礎神学の検討の主要対象をなす。

基礎神学はキリストから進んで必然的に、キリストの事業を継承し、彼の教説を告知し、彼の救いの恩寵を人間に伝達するところの教会へと発展する。それゆえにまずキリストによる教会の創立および創立者から教会に与えられた本質的な構成を明示することが必要となる。

次にはキリストが彼の教会に賦与した特徴を取り扱うべきである。この特徴を所有するがゆえにカ

p. 4

トリック教会はあまたのキリスト教的宗教団体の間にあってキリストの真の教会であること・救霊の確実な道であることが、示される。

次にキリストが使徒ペトロおよびペトロの後継者、すなわち、ローマ教皇(法王)を最高の牧者として定めたことが、特別の注意に値する。信仰の最高にして不可謬なる教師であり、すべての信者の霊的指導者である教皇は、必然的にカトリック教会の構成に所属するがゆえに、そして他方、彼の職能の真の性格はカトリック以外の他の人々から容易に誤解されるがゆえに、使徒ペトロおよび彼の後継者たる教皇の最高牧職に関する説明は、カトリック基礎神学の構成にとって不可欠の部分を成すものである。

最後にカトリック教会の教理の源泉およびその源泉に帰する特殊の超自然的性質を解説しなければならない。また、その源泉に基づいて教会の教理はいかにして有機的に展開するかということもまた主要な研究対象である。従って、聖書・聖伝および教義の展開に関する論証は基礎神学に属するのである。

本書の個々の論文は内容的には基礎神学の諸教科書の叙説に従ったものであるが、それよりも比較的自由な説明法を選んだ。また最近ヨーロッパにおいて刊行されたカトリック信仰の基底に

p. 5

関する多くの著書を渉猟し、部分的にはこれを利用したところもある。本論文は決して全基礎神学の完全な輪郭を提供するものではない。むしろこの教科の種々なる主要問題を取り扱ったため、段階的順序においてカトリック信仰受容のための決定的与件を説示し、従ってカトリック教徒のみならず、それ以外の人々にとっても精密な検討の対象たるものを提供している。

2年前に現れた初版には、当時の不利な情勢により種々な欠陥が認められたので、この改訂版においては、それらの不備欠陥を能う限り是正し、さらに第7講話を附加した。

それゆえに本論稿がカトリック信仰の確立にとってきわめて重要な諸問題の正しい知識と判定とを増進せんこと、敬虔なカトリック信徒のみならず宗教的真理の探究者である読者に、カトリック信仰が絶対妥当的な与件の上に立ち、従って真に"rationabile obsequium"すなわち、理性に適ったかつ理性の要求する神に対する奉献であるという認識へ寄与せんこと、これ著者の願いである。

1946年9月、東京において

著者


目次

第1講話 宗教の本質(p.1)

近代における非キリスト教的宗教観とその哲学的根底(p.4)
キリスト教的・カトリック的な宗教観(p.12)
理性と信仰(p. 17)
カトリシズムにおける人間の宗教的な態度と完成(p.23)

第2講話 天主の啓示の史的現実性と超自然的性格(p.31)

史的事実としての超自然的啓示に関する認識の可能なること(p. 32)
新約の天啓の歴史的基底(p. 36)
非キリスト教側の証言(p. 37)
新約聖書の報道内容の真正さと確実さ(p. 40)
新約聖書の諸書の歴史的価値(p. 50)
天啓の超自然的性格(天啓の認識--奇蹟に関するカトリックの見解)(p. 54)
カトリック信仰の絶対的確保(p. 64)

第3講話 新約のキリスト(p. 67)

新約聖書に現れたキリストの姿についての唯理主義的批判の無力性(p. 69)
新約聖書におけるキリストの姿の本質的な諸要素(p. 74)
メシアとしてのイエズス(p. 74)
天主の子としてのイエズス(p. 80)
キリストの神性に関する初代教会の証言(p. 84)
キリストの人間的容姿、そのあらゆる方面における完全性と独自の聖性(p. 89)
キリストの奇蹟(p. 100)
キリストの復活(p. 110)

第4講話 教会の起源と制度(p.126)

旧約における天主の国の理念(p. 127)
イエズスの宣示し創始した天主の国(p. 129)
キリストの創始した宗教的共同体の聖職位階制度(p. 132)
教会の制度に関する非カトリック的見解(p. 142)
教会の普遍的持続と活動(p. 150)

p. 3

「教会の外に救いなし」(p. 154)

第5講話 キリストの教会の本質的記標(p.159)

キリストの教会の一体性(p. 160)
キリストの教会のカトリック性(p. 167)
キリストの教会の使徒伝来性(p. 170)
キリストの教会の聖性(p. 172)
カトリック教会のみこの四記標を悉く所有すること(p. 180)
カトリック教会の一体性(p. 180)
カトリック教会のカトリック性(p. 185)
カトリック教会の使徒伝来性(p. 188)
カトリック教会の聖性(p. 192)

第6講話 キリストの教会における最高牧者ペトロ(p.204)

福音書による使徒ペトロの首位権(p. 205)
ペトロの首位権についての使徒行録の証言(p. 214)
ローマにおけるペトロの滞在と死(p. 216)

p. 4

ペトロの後継者としてのローマの司教(p. 221)
使徒ペトロの首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 223)
ペトロの後継者としての教皇の首位権に関する古代教会伝統の証言(p. 232)
古代教会における教皇の首位権の行使(p. 238)
教皇の最高牧職およびその不可謬性についてのカトリック教義(p. 253)
教皇職の純粋霊的性格(全教会の最高牧者としての教皇の政治的独立および中立(p. 258)

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開(p.265)

カトリック教理の源泉(p. 265)
カトリック教理の源泉としての聖書(p. 266)
神感の事実(p. 268)
神感の本質(p. 271)
神感によって成りたる結果としての聖書の無誤謬性(p. 275)
教会の教職による聖書に関する証明と註釈(p. 280)
カトリック教理の源泉としての聖伝(p. 288)
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格(p. 288)

p. 5

教会の聖伝の最も重要な証人(p. 298)
聖書と聖伝との相互関係(p. 303)
カトリック教理の展開(p. 306)
教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fideiの展開における教会の進歩(カトリック的意味における教義の進歩(p. 311)


p.265

第7講話 カトリック教理の源泉とその展開

前章までにおいて、カトリック信仰の基礎ならびにいかなる仕方においてそれが形成されたかについて反復説明した。けれども新たに一章を設けて、特に、カトリック教理の源泉とその展開だけを統一して通観することは無駄ではない。かくて、従来為されている種々なる論及・確証をその全体としての意義とそれら相互間の関連とを容易にこれを理解し得る。ゆえに以下の論説においては、1、いかなる究極的源泉よりカトリック教理は汲み取られたか、2、いかにしてそれは組織的に成長し展開したかを示さねばならぬ。この二つの題目を論述する裡に、すでに、天啓と教会とについて説明したところを、幾多の観点より補足するであろう。

カトリック教理の源泉

かくて、ここでは、カトリック信仰が汲み取られた究極の源泉が問題となる。カトリック信者が

p. 266

直接に信仰の教理を受け取った源泉はキリストの委命と権威とによってこの教理を弘布する教会の教職である。教会の教職がそこから啓示された真理を受け取り、これを一定の形式に表現して、信者に信仰の対象として提示するに至ったところの究極の源泉は聖書と聖伝とである。

カトリック教理の源泉としての聖書

人間に対する天主よりの啓示は、まず聖書において具体的形態をもって記され、表現された。キリストが新約の啓示を人間に伝えた時すでにそれ以前より久しい間、旧約聖書の諸書が成立していて、その中に、その当時より以前の天主よりの啓示が書き記されている。キリスト自らも、旧約聖書を天主の言として、これに絶対的妥当性を認め、常にそれに基づいて証明を行った。註1)キリスト以降、旧約聖書の上に、さらに、新約聖書の諸書が加わり、そこに使徒たちおよびその弟子たちが聖霊の指導の下に新約の啓示を表現した。旧約新約聖書の諸書の中に天主の人に対する啓示は記録として示され、この毫も変更されることなしに今日まで存続している文献註2)の中から、教会の教職は、彼らが人間に伝えるところの信仰の真理を汲み取った。そこでトリエントの公会議はその活動の開始

p. 267

に際し、悉く誤れる説明より保護され、その純粋性を保持すべきイエズス・キリストの真実の救いの教えは、聖書の書巻と使徒より発した聖伝との中に含まれていること、従って、旧新約聖書の全巻はこれを畏敬の念をもって拝受することを布告し、この布告に基づき次に、これらの聖書の諸書の目録が附加された。註2)同様の布告をヴァチカン公会議もまたその教令の冒頭において反復し、聖書もしくは聖伝に含まれ、教会の教職がそれを信仰の真理として伝えたことの一切はカトリック信仰の対象であると判然と断言している。註4)

[註1] マテオ 5:17 以下、ルカ 4:21、24:27および44、ヨハネ 3:14 以下参照。
[註2] 第2講話における関係箇所引用参照。
[註3] Denzinger 783 以下参照。
[註4] D 1787/1792 参照。

この二つの公会議において、なにゆえに教会がまず第一に聖書をその信仰の源泉とするかについても力説された。すなわち、聖書が確実な歴史的文献として天主の啓示を誤りなく保持しているという理由からのみでなく、さらに、これらの諸書が天主の積極的・超自然的協力、いわゆる神感(インスピラチオ)の下に書かれ、従って、真実の意味において天主自ら編纂したものと見なすべきである註1)との理由の下に、これを信仰の源泉と見るのである。聖書の諸書が書かれたる天主の語であるとの超自然的性格につい

p. 268

てここに説明を下そう。

[註1] Denzinger 1787m 783 参照。

書かれた天主の言としての聖書の超自然的性格(神感の事実とその本質)

聖書の諸書に特殊の超自然的性格を帰することは、すでに、キリストおよび使徒たちの聖書に対する取り扱い方、ならびに、証拠を聖書に求めたことによって明らかにされている。キリストは旧約聖書に記されてある数多の証言を、自らの使命に関する論駁し難き証明と為し、註1)聖書の預言をもって自身の生涯の出来事、ならびに、キリストの聖国、すなわち、教会の発展に関し論駁し難き規範とした。註2)キリストもまた聖書の著者が聖霊の特別の指導の下にあったことを特に力説した。註3)使徒たちは天主、すなわち聖霊が聖書の著者を通じて語り、ゆえに、聖書は天主の言であると語っている。註4)ここにおいて注意すべきことは、キリストならびに使徒たちが旧約聖書の全書を一個の統一の下に見、従って、すべてに同一の権威を帰していることである。註5)在俗ユデアの著述家たちもまたこのキリストおよび使徒たちの証拠に一致した言明を為し、旧約聖書の諸書の天主より発していることと、それの絶対的権威とを主張

p. 269

している。註6)旧約聖書の諸書の超自然的権威およびそれが天主に起源することに関しては、信者たるユデア人の共通の解釈があり、キリストはこの解釈に承認を与えかつそれを確証した。新約聖書の諸書については、使徒ペトロが使徒パウロの書簡を聖書の書巻として取り扱い、註7)ヨハネ黙示録は明らかに預言とされている。註8)使徒パウロはルカの福音書を聖書に加算しているかのごとく思われる。註9)聖書の二三の書においては、さらに、天主がいかにして著述家に著作を委託し、著作の際に著者に助力を与えたかを記してあり、註10)著述家が著作に従事している間、天主の超自然的影響の下にあったために、著述家は預言者と呼ばれた。註11)特にペトロとパウロの両使徒は、聖書の諸書の神感について明瞭に強調している。ペトロは聖書の著述家は、註12)単に人間の力をもってするのみならず、聖霊の推進力と指導との下に著述したことを判然と語る。註13)パウロは聖書の諸書を天主より与えられたもの(theopneustos)であるから、これを読む者に対し大いに救いをもたらすと記している。註14)

[註1] ヨハネ 5:39 参照。
[註2] マテオ 4:4 以下、21:42 以下、26:24および31および54、ルカ 18:31、24:25 以下、ヨハネ 15:25 参照。
[註3] マテオ 22:43 参照。
[註4] 使徒行録 1:16、4:25、ロマ 1:2、3:2 参照。
[註5] マテオ 5:18、ルカ 24:44 以下、ロマ 3:2 以下参照。他の使徒たちの順位が記事によって異なり、背叛者ユダが常に最後に記されているのを見る時、ペトロの第一位の意味はいっそう明白になる。なお、マルコ 5:37、ガラテヤ 3:16 参照。
[註6] Philo Alexandrinus, De monarchia 9; de fuga 30; Josephus Flavius, contra Apionem 1, 8 参照。
[註7] 2ペトロ 3:16 参照。

p. 270

[註8] 黙示録 22:9 以下参照。
[註9] 1テモテ 5:18の引用文『働く人はよろしくその酬いを得べし』は旧約聖書申命記 24:15の意味に倣ったものであるが、そこに、パウロによって引用された語はルカ 10:7のみである。
[註10] 出エジプト 17:14 以下、申命記 31:19、イザヤ 8:1、30:8、エレミヤ 30:2、36:1 以下、集会 44:3 参照。
[註11] サムエル下 23:1 以下、集会 44:3 参照。
[註12] pzopheteia はここでは聖書一般について適用すべきであろう。
[註13] 2ペトロ 1:21 参照。
[註14] 2テモテ 3:16 参照。

聖書そのものの上述したごとき証拠は、さらに、古代教会の伝統の無数の証言により保証され補足された。補足されたというのは、古代の信者たる著述家たちは、教会の承認した聖書の諸書の目録を正確に承知していたから、これらの諸書について一様に神感を認めたとの意味である。そこで、すでに、ローマのクレメンス、註1)イレネオ、註2)オリゲネス註3)は聖書の諸書が聖霊により著述されたことを主張し、またオリゲネスはこれを教会の教理の対象であると記した。註4)アウグスチノは聖書を『尊敬すべき聖霊の書』註5)とも、『天の故郷よりわれわれに宛てて送られた書簡』註6)とも呼んだ。

[註1] コリント人への書簡 45:2(Rouet 22)参照。
[註2] Adversus haereses 2, 28, 2;(R 203)参照。
[註3] Comment in Psalm 1, 4(R 483)参照。
[註4] Peri archon, Praefatio 8,(Migne PG 11, 120)参照。
[註5] Confessiones 7, 21 参照。
[註6] Ennarratio in Ps 90, 2(R 1479)

p. 271

参照。

聖霊の指導の下に聖書の諸書を著述した人の役割を、古代教会の著作家たちが問題とし説明している。アテナゴラス(Athenagoras)、註1)テオフィロ(Theophilus)、註2)第3世紀に成立した Cohortatio ad gentes 註3)およびヒエロニモ(Hieronymus)註4)は聖書の諸書を起草した人たる著述家は、いわば、天主の手に動かされた道具であると言い、アウグスチノによれば、福音記者は、いわば、手であり、キリストは頭として聖書の起草に当たりその手を用いたのであり、註5)教皇グレゴリオ(Gregorius)1世は聖書を著述した人をペンに喩え、聖霊が真実の著述家として聖書の起草に際し、そのペンを使用した、註6)と言っている。

[註1] Legatio pro Christianis 9(Rouet 163)参照。
[註2] Ad Autoricum 2, 10(R 179)参照。
[註3] Cap. 3(R 149)参照。
[註4] Tract. in Ps 88 参照。
[註5] De consensu Evangelistarum 1, 38(R 1609)参照。
[註6] Moralia, Praef 1, 2(R 2302)参照。

神感の本質

神感の本質は、かくて、以下のごとき仕方で説明される、すなわち、天主の著述家に対する直接的・超

p. 272

自然的作用にして、著述家をして特定のことを記述せしめ、これを正しい仕方で表現するように著述家に助力する。従って、あらゆる誤謬を避けるために天主が保護したというだけが問題になるのではなく、いわんや、教会が後からこれらの諸書を承認したことだけは問題ではないのであって、これら二個の説明法は、ヴァチカン公会議において不充分なりとして拒否された。註1)神感とは、むしろ、著述家の精神的能力に対する天主の積極的・直接的・超自然的な作用であり、その作用により著述家は、教父たちの教えたごとく、また、トマス・アクィナスがそれに倣って説明したごとく、真正なる意味の道具として天主の手に握られ、天主自らが第一のそして本来の発動者たることに変わりはないのである。註2)教皇レオ13世は、このことを次の語で表現する。すなわち、『天主は超自然的力をもって著述家を感動せしめて著述に従事せしめ、著述に当たっては天主が彼らに命じたことを悉く、そして、そのことだけを正しく彼らの精神に把握し・忠実にこれを書き記し・適切な仕方において、誤ることなしにこれを表現するように援助したのである』註2)と。もちろん、この天主の超自然的作用は、人たる著述家独自の活動を排除するのではなく、著述家はむしろ、天主の超自然的作用の下に彼の意識・自由ならびに著作の構成および叙述における独自性を保持し、聖書の全書において、この

p. 273

著述家の独自性は何らかの形で示されているし、同一の対象を記述した個々の福音書相互間における多くの差異は、この点に起因するものである。神感によって聖書の諸書を著述した人たる著述家は、決して、極端なる解釈、--なかんずくユデア人一派--の採用するごとく、天主の動かす機械となったのではなく、教皇ベネディクト15世の説明するごとく、著述家たちは、素材の排列、表現の仕方に彼ら独自の技倆と素質とを、あたかも別個の著述家であるかのごとくに、適用したのであった。註4)著述家たちはかくて、天主の手に握られた道具であったが、しかも、生きた精神的に活動する道具であり、その活動は天主の特別の超自然的影響の下にあり、この影響の下にすべてのことを為しかつ完成したのである。天主のかくのごとき影響は聖書の著述家がその著述に関して天主の特殊の啓示を与えられた時に、よくこれを意識していたとの意味であり、それ以外の場合にも神感を意識していたか否かということは必ずしも必要なことではない。一方においては人間の個人の人格的活動を除去せず、しかも、他方においては一切を指導するところの天主のこの直接的・超自然的影響のその深き本質は、人間の悟性によってこれを理解し能わざるものであるがゆえである。神感が人たる著述家の全活動を捉えかつ規定しながらもなお、著述家の個人的・人間的特性を除去せず、しか

p. 274

も、神感は聖書の全内容に拡がって、何らの制限も例外も容れないのである。神感の作用を聖書のある特定の部分、もしくは、聖書の内容のある対象(例えば厳密な意味における宗教的事柄のごとき)に限定せんと欲する解説は、誤謬なりとして教会によって却下された。註5)しかしこの際注意すべきは--先にも引用したごとく--神感の作用の下に人間たる著述家がその人格的素質や性向を展示することができ、従って、著述家の人格的特性とその特殊な著述家としての素質とから、聖書の個々の書における多数の特性が説明されるのである。神感の超自然的影響が以上説明して来たごとき仕方で聖書の全巻に溢れていることは、すでに、先に引用した使徒ペトロの語と教父たちの語によって示されている。教父たちには、その最も唯理主義的な批判者でさえが白状しているように、註6)聖書の神感による部分と神感によらぬ部分との区別は認められず、常に、その全内容が神聖なる天主の言と見られている。例えばニッサのグレゴリオは、『いやしくも聖書の語るところは、聖霊の言である....霊の力によって神感された者は、天主によって駆使された者(hoi theophoroumenoi)である。天主の鼓舞による教説であるがゆえに、各書は天主によって神感されたものと言われる』註7)と語った。ナチアンツのグレゴリオは曰く、『聖霊の効験がいとも微細な個々の点にまで及んで

p. 275

いるがゆえに、著述家が些細な事態を理由もなしに記述し、それが今日まで保持されていることをわれわれは承認し得ない』註8)と。同様のことをヨハネス・クリゾストモが言った。すなわち、『われわれは価値少なしと思われるがごとき聖書の内の文章でさえもこれを看過すべきではない。何となれば、それでさえも、聖霊の恩寵より発しているがゆえに』註9)と。

[註1] Denzinger 1787 参照。
[註2] Quodl. 7. a. 14, ad 5; a 1 参照。
[註3] Encycl. Providentissimus(D 1952)参照。
[註4] Encycl. Spiritus Paraclitus, Herder, S. 19 参照。
[註5] Leo XIII, Providentissimus(D 1950 以下)参照。
[註6] Loisy, L'enseignement biblique 1893, 4 参照。
[註7] Contra Eunomium 3, 4, 13(Migne PG 45, 744)参照。
[註8] Oratio 2, 105(Rouet 979)参照。
[註9] Ad populum Antiochenum homil 1, 1. 参照。

神感によりて成りたる結果としての聖書の無誤謬性

聖書の諸書にとって神感が何を意味するか、および、その神感により成ったことからいかなる結

p. 276

果が生ずるかは容易にこれを了解し得る。神感によって聖書の諸書は天主の絶対的真理の確実なる伝達、教会の教理の絶対的妥当性を有する源泉となった。地上の爾余の書籍に対しては、それが人間の仕事であり、人間の精神力が局限されているので、誤謬の危険を免れ得ざるがゆえに、これに、聖書に帰するがごとき権威を附与することはできない。聖書においては誤謬があったとしても、それは終には天主に帰せられるべきであり、しかも天主に誤謬があるはずがないから、そんなことはあり得ないという結果になる。かかるがゆえに、教父たちは聖書の無誤謬性を最も明確に表現している。アウグスチノがこの点に関して、ヒエロニモに書き送った次の語は周知に属する。すなわち、『正典(カノン)として示されている聖書の諸書に対してのみ、その著述家たちが著述に際し何ら誤謬を犯さなかったと確信するところの畏敬の念を表すべきことを学んだがゆえに、もしも、私がかかる書巻の中に真理に矛盾すると思われるがごとき節を見出した時には、書写に誤りがあるか、翻訳者が語の意味を正しく表現しなかったか、私がそれを理解し得ぬかのいずれかであることを疑わない』註1)と。聖書の無誤謬性を何らかの意味において制限しもしくは緩和せんとする一切の企図は、近時の教皇たちによって断固として斥けられた。註2)聖書の絶対的無誤謬性に関するカトリックの教説を正し

p. 277

く理解せんがためには、以下のことを注意すべきである。まず第一に、神感を受けた著述家がその思想を表現するのに使用した文学的表現形式を重視すべきである。著作家はこれを歴史的叙事の形式において、ないしは、比喩もしくは詩の形式において現している。比喩もしくは詩の形式は、全般的には、歴史的叙事のごとくに、歴史的事実を表現するものでないことは明瞭であるから、著述家が歴史的事実を叙述せんと欲する部分と、命令・警告その他のごとき別個の目的を追求している部分とを、原典の充分なる検討によって確定しなければならぬ。また、聖書の、--特に旧約聖書の--著述家が天主および天主の活動を叙述するに当たり、しばしば擬人的語法を使用して、大衆に、唯一の天主および創造者の存在と、その絶対的崇高性と全能なる活動性とを理解し易からしめんとしたことは明瞭にこれを認め得る。かくのごとき場合においては、従って、著述家が伝達せんと欲する本来の内容とこの叙述の外的形式とを区別すべきである。さらに、神感を受けた著述家が自然現象について語る際、民衆の仕方と同一の方法に従い、当時の人たちの一般的表現方法に従ったこともまた明瞭である。かかる表現方法は、普通、自然現象の外的な・眼に映ずる点の記述に止り、科学的な定義や説明を問題としているのではない。(このことは、聖書編纂の時代についてのみ言われる

p. 278

ことではなくして、今日、多くの自然現象の科学的説明が遙かに進歩し、民衆の間にも広く普及しているにもかかわらず、同様に適用される。)聖書の著述家は、正しくその著述の目的である大多数の人間の理解を容易ならしめんがために、この表現方法を採用しなければならなかった。科学的に自然現象を説明することは、従って、彼らの仕事の目的範囲の外にあり、その著作を著述するに際し、天主の超自然的指導の下に追求したところの目的は、専ら、人間に宗教的な教えを伝えること、すなわち、人間を天主に関する正しい知識と救いの道とに導くことであった。すでにアウグスチノも力説するところであるが、聖書の著述家を通じて語る聖霊は、救いへの到達に何の関係もないところの穹窿の形態その他のごときについて人間に教えんと欲したのではなく、註3)先にも述べた教皇レオ13世の回勅およびベネディクト15世の回勅は、聖書の中に自然現象の科学的説明を求めんとするのは、聖書の諸書の本来の宗教的性格に対する誤解を意味することを力説している。註4)

[註1] Epist. 82, 7(Rouet 1421)参照。
[註2] Leo XIII, Providentissimus, Denzinger 1952; Benedictus XV, Spiritus Paraclitus, D 2186 以下参照。
[註3] De Genesi ad litteram 2, 9, 20(R 1687)参照。
[註4] Denzinger 1, 47, 2187 参照。

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最後に、聖書の著述家がその著作の中に、文献もしくは口頭により伝えられた民間伝承を採用し、それらの伝承の記載において、かような伝承は広く流布されるのが常であるから、数もしくは日時がある場合には不確かのまま完結し、不明瞭に示されていることもまた注意しなければならぬ。註1)しかし、これは、叙述において各微細な点にまでわたって完全なる厳密性を要求するがごとき種類のものではないから、聖書の真理性と権威とを少しも毀損することにはならない。むしろ、その反対に、著述家は、種々なる不完全でさえある史料を利用してその事業を完成し、その際、天主は著述家を超自然的に指導し支持したという、天主と人たる著述家との共同事業に適応したことであり、ある微細な点の記述においては不充分さを残すにもかかわらず、聖書の諸書は絶対的真理性と無誤謬性とを有し、超自然的権威によるものであるから、教会にとっては、絶対に確固たる天主により啓示せられ、教会に委託された教理の一つの源泉たるを失わない。註2)

[註1] ヒエロニモが特に創世記 46:26について力説している。(In Genes. 46)
[註2] 神感そのものと同様に、聖書の無誤謬性はまず、著述家が神感の影響の下に書き下ろした原本に関してのみ適用されるのである。写本および翻訳についての無誤謬性は、それが原本と一致する限りにおいて適用される。第2講話において説明した通り、聖書の現行テキストと原本との一致は主要事項および本質的な点において確立されている。教会で使用されているラテン語のいわゆる「ヴルガタ」訳は

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トリエントの公会議で、信仰および道徳の問題に関しては原本と一致していることを明瞭に主張した。(Denzinger 785/6 参照)このことはしかし、写本および翻訳の起草に際し若干の点に関して誤謬、もしくは不明瞭性のまぎれ込むことがないと言うのではなく、今日においては、そのような点を原本について確かめることは困難である。(レオ13世の回勅 Providentissimus, D 1950 の説明参照)しかし、この際問題になるのは、若干の微細な点についてであり、聖書に関する記録の本質的内容については何ら問題にはならないのである。

教会の教職による聖書に関する証明と註釈

かくて聖書は天主より啓示された救いの教えとしての絶対的に確固たりかつ有効なる源泉である。しかし、キリストにより設立された教会の教職は、聖書の超自然的性格を証明し、聖書の真正なる内容に対し権威ある註釈を加えねばならない。まず第一に教会の教職は聖書の諸書の超自然的性格を証明しなければならぬ。聖書の神感の神秘的にして超自然的なる事実は、超自然的権威によって確定されねばならぬ。人間理性の探求と努力とだけでは不充分である。すなわち、すでに説明した仕方で天主自ら聖書の著述に協力したという事実は、天主自らの与える啓示によってのみ知り得るのである。この神感の事実に別個の事柄が緊密に連関している。すなわち、天主は神感による書籍の

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保持と利用とを教会に委任したということである。従って、使徒たちが神感の影響の下に、私的性格を帯び、教会に保存されないごとき著書を著作したということは、あり得ないこともない。註1)そこで教会は聖書の諸書について、これは『聖霊による神感の下に天主自ら著述し、著述者たる天主から教会に委譲された』註2)と語る。このことは、これに関連するキリスト自身の示教、ないしは、聖霊によって使徒に与えられた啓示によってのみ認識し得る。教会の、誤謬に陥ることなき教職により保存され存続されている使徒たちの教説は、従って、いかなる書巻を神感によるものと見なすべきであるかについて、最後的決断を下さざるを得なくなる。

[註1] 例えば使徒パウロのコリント人へ宛てたある書簡(1コリント 5:9 において触れている)およびラオデキヤ人に宛てた書簡(コロサイ 4:16 参照)に示すがごとく、(もし後者がエフェゾ人に宛てた書簡と同一視すべきでないとすれば)。
[註2] Denzinger 1787 参照。

すでに注意したごとく、聖書そのものの中にも、聖書の神感に対する多くの証拠が挙げられているのではあるが、しかし、この証拠は旧約聖書の全巻個々については明瞭ではなく、註1)新約聖書についてはその点はよほど少なくなっている。そこで教会の教職は、キリストによって伝えられた救いの教

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えを誤謬なく保持して人間に取り次ぐことをキリストから委託されたので、教職には、キリストの救いの教えへの真正の超自然的源泉を示し、これを誤れる源泉から区別する責任が帰せられる。教会の教職はこの責任を、特に、神感による聖書の書巻のいわゆる正典を公式に確定し、およびいろいろな所で聖書の中に数え込んでいたが、真実には神感による超自然的性格を持たない、いわゆる偽経註1)を排除することによって果たした。

[註1] なかんずくいわゆる『第二正典』(libri deuterocanonici すなわち、トビア、ユディト、智書、集会書、バルク、一および二マカベ書、エステル 10:4 以下、ダニエル 3:24-90,13-14)はキリストの時代にはアレキサンドリアのユデア人には神感によるものと認められていたが、パレスチナのユデア人には認められていなかった。これは70人訳ギリシャ語旧約聖書に載せられているのであり、使徒たちは説教の内でこれを利用し、使徒の書簡の中にも、それからの引用が二三あり、(ロマ 1:19、智書 13、ヘブレオ 1:3、智書 7:26、ヤコボ 1:13、集会書 15:11 以下)キリスト時代の初期には一般には聖書と見なされていたが、第4世紀・第5世紀の教父たちの中にはそれらの神感を疑い、もしくは否定した者もあるが、しかし、教会はその実際的活動において、これらを常に聖書として取扱い、これを使用し、この古来の伝統に基づきトリエントの公会議はこれらを神感による書巻の中に数えたが、(Denzinger 784 参照)プロテスタントではこれらの大部分を聖書とは見なさない。
[註2] 第2講話において本体に関して説明してある箇所参照

すでに第2世紀以降、教会の教職は聖書の正典を確定し、註1)この古来の聖伝に従ってトリエントの

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公会議は、神感せられたものとして教会によって承認された書物の目録を告知し、これを天主の啓示とカトリック教理の源泉として公布した。註2)教父たちの中には、聖書を確定することは教会の権限であり、敬虔なる信徒はカトリック教職のこの決定を遵守すべきことを説いた者もある。例えばイレネオは、聖書は教会の司教の下で読まるべく、また、使徒の教職を継承する司教により聖書は保持され説明されると語り、註3)イエルサレムのキリロは洗礼志願者(カテクーメン)を誡めて、旧新約聖書中の書巻がどれであるかを教会から学ぶべきであり、教会において使徒および司教の聖伝に基づいて聖書なりと承認されたもののみを読むべく、偽経書を読むべきではないと言った。註4)アウグスチノは終に、同一の内容を周知の語により典型的に表現した。すなわち、『カトリック教会の権威によって動かされないとしたら、私は福音を信じないであろう』註5)と。

[註1] 第2世紀より第5世紀に至る間の証拠は、例えば Fragmentum Muratorianum(Rouet 268); Melito Sardens, Frag.(Eusebius Hist. eccl. 4, 26 R 190); Irenaeus A. H. 3, 1, 1(R 208); Origenes in Psalm 1(R 484), in Mat. com. 1.(R 503), Eusebius, H. e. 3, 25(R 656);Athanasius, epistula festalis,(R 791); Cyrillus Hierosol., Cateches. 4, 35(R 819); Augustinus De doctrina christiana 2, 8(R 1585); Innocentius I(Denzinger 96)参照。
[註2] D 784 参照。
[註3] A. H. 4, 32,

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1. および33, 8(R 242)参照。
[註4] 前出(R 819)参照。
[註5] Contra epistulam Manichaei, quam vocant fundamenti, 5, 6(R 1581)参照。

教会の教職の権威を承認しないプロテスタントは、聖書の諸書の超自然的性格を判定すべき充分なる規矩を与え得ない。彼らの内には、新約聖書の諸書に関しては、使徒に附与せられる職権を主張する者もあるが、しかし、そういう職権が神感をも意味するということは決して判明せず、いわんや、新約聖書中には使徒自身によってではなく、その弟子の手によって著述されたものもあるにおいておやである。他の者の意見に従えば、聖霊は神感の事実を、内的に信者の裡に現すべきであるというが、しかしこの提言は証明し得ないし、また、プロテスタントの間において、聖書の書巻に関する意見の相違が成立している事実によっても覆えされる。さらに最後の者としては、聖書の崇高なる内容と印象強き叙述法を指して、主張する者もあるが、これは聖書以外の書籍にしてキリスト教の崇高なる真理を印象強く叙述しているものにも適用され得るがゆえに、これに基づいて聖書の神感を承認するのは充分なる理由ではない。かくて、キリストにより建てられ、誤謬に陥ることなき教会の教職のみが、信者に対して、聖書の諸書の神感に基づく超自然的性格について、絶

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対に確固たる証明を与え得るのである。シェーベン(Scheeben)は適切にもこのことを次のごとく表現した。すなわち、『もしも聖書が、聖書の証明する使徒後継者の権威から引き離されて、信仰の唯一の規準を設定するとすれば、聖書は、論理的に言えば、信仰の規準として存立することも適用することも不可能となる。....聖書の正典としての作用はカトリックの制度の内においてのみ主張される』註1)と。

[註1] Scheeben Dogmatik 1, 126 参照。

聖書の諸書の神感を確かめることがキリストによって建てられた教会の教職の権限に属すると同様に、聖書の意味と内容とを説明することもまたその権限に属する。聖書に含まれた天主の救いの教えの正しい認識はすべてのキリスト教信者にとって重要である。しかも、聖書には少なからず意味の不明瞭で理解の困難な箇所があり、そのことに関しては、すでに使徒ペトロが使徒パウロの書簡について述べている。註1)聖書の諸書の著述された時代の信者について言われたことは、聖書を単に写本もしくは翻訳を通じて知るのみであり、原本とその意味とを徹底的に究明する上に必要な学問的教養を持たぬ今日の多数の信者にいっそう当てはまる。プロテスタントは、聖書の解釈を聖霊に導かれた

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信者の個人的判断に委ねたために、聖書の解釈をすこぶる多様ならしめ、かつ不確定たらしめて、註2)遂に挫折したのであるが、この混乱を少なくとも外面的に抑制せんとしてプロテスタントの団体の内には、--プロテスタント教の原理とは全然矛盾するのであるが--信仰と教理とに関し主観の外に立つ規準、なかんずく、教理宣言書の制定ならびにそれに類する文書を再び採用せんとする者が現れた。カトリック教会においてはそれに反して、聖書に関しては教会の教職により、権威ある解釈を下すという教説が早くから確立し、実際に行われていた。すでにイレネオはこのことをキリストの真正なる教会の信者に対する根本規準であると主張し、註3)また、レリンのヴィンチェンティオ(Vincentius)は第5世紀に彼の有名なコンモニトリウム(Commonitorium)において、右のことを次の仕方で表現した。すなわち、『聖書の規準が完全でありかつ完全に具定しているならば、なにゆえに聖書について教会による説明の権威が附加されねばならぬのかと訊ねる者があるかもしれない。聖書の崇高性が万人に同一の意味において理解されるとは限らないし、むしろ、聖書の種々な事柄についての陳述が種々なる意味に解釈されるがゆえに、--そのゆえに種々なる誤謬を生ずるという大なる危険があるので、預言者や使徒たちの書をカトリック教会の教範に従って探求することが、常

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に必要である』註4)と。教会の教職によって聖書を解釈するという古代キリスト教の全伝統が固持するところの原則はトリエント公会議およびヴァチカン公会議において厳粛に次のごとく告知された。すなわち、『カトリックの信仰および道徳に関することにおいては、聖なる母たる教会が真と認めるところの聖書の意味を真なりと確信すべく、聖書の真の意味と真の解釈とに関する裁定は教会の権限に属し、従って、何人も、この解釈に違反し、または教父等の一致せる教説に違反して聖書の解釈を行うべきではない』註5)と。

[註1] 2ペトロ 3:16 参照。
[註2] これについての典型的実例はプロテスタント側における御聖体の制定の辞の解釈の多数にして程々相違していることが示す。
[註3] すでに引用せるA. H. 4, 33, 8(Rouet 242)参照。
[註4] Commonitorium 2(R 2168)参照。
[註5] Denzinger 786 および 1788; Scheeben, Dogmatik I, 131 のこれに関する詳細なる説明参照。Pius XII, Enc. Divino afflante spiritu 参照。

シェーベン(Scheeben)は教会の教職による聖書の権威ある解釈の意味を次のごとくに述べる。すなわち、『聖なる原典の保存と管理とが教会の全所属者に直接にではなく、専ら、教会の教職の手に委ねられているにもかかわらず、聖書はまさに、この状態の結果として、真に公開的な、換言すれば、

p. 288

教会のすべての所属者に対して、その利用を特定の共有財産、その全内容と価値とを活用し得る共有財産たらしめたのである。何となれば、1、管理者は聖なる原典を私有財産ほどにも所有していないから、その代理権の性質は、聖書を教会のすべての所属者に役立たしめんと欲する天主の意志を確認し、かくて、各所属者それぞれに、その能力の許す範囲において聖書を利用する権能を保証する。2、この代理権の行使により、教会の全所属者をして、もしもそれがないとすればとうていそれほどには把握できない聖書の真義を、平易に確実に純粋にかつ充分に習得せしめるからである。聖書の使用ならびに解説を教会の所属者各人の恣意に委ねないということは共有財産の束縛ではなく、いわんや、共有財産の概念の破壊を意味しないのはもちろんであり、むしろ、共有財産ということから生ずる必然的な帰着である』註1)と。

[註1] Scheeben, Dogmatik I, 131 参照。

カトリック教理の源泉としての聖伝
聖伝の本質と啓示の源泉としてのその性格

p. 289

聖書の外に、カトリック教会がその教理を汲み取るもう一つの源泉として聖伝がある。聖書の外には別個に啓示された教理の源泉は存在しないとするプロテスタントの立言に対し、カトリック教会はその立場を、トリエント公会議において次のごとく表現する。すなわち、『聖なる公会議は(キリストによって啓示された)この真理は、聖書の諸書の中と、文書には認められない聖伝の中とに含まれていることを確認する。この聖伝はキリスト自身から使徒たちに伝達された、ないしは、使徒たちが聖霊により教えられたものであり、いわば、使徒たちの手を経てわれわれに伝達されたのである。ゆえに公会議は、天主を原作者とするところの旧新約聖書の諸書の悉くと、キリストもしくは聖霊によって教えられ、カトリック教会に中絶することなく保持されている聖伝は、--信仰と道徳とに関し、--同様の敬虔と畏敬とを捧げてこれを承認する』註1)と。すでにこの説明によって、カトリックの意味するところの啓示された教理の源泉としての聖伝の何たるかを理解し得る。聖伝とは、すなわち、新約の啓示であり、言い換えれば、キリスト自身から、もしくは聖霊から使徒たちに教えられ、使徒たちから、口頭の説教を通じて教会に伝えられ、さらに、教会自身において説教と訓育とを通じて、傷つけられることなく保存され普及されたものである。聖書が書かれた天主の言(Verbum

p. 290

Dei scriptum)と呼ばれるごとく、聖伝は伝承された天主の言(Verbum Dei traditum)である。この聖伝の保持と普及とは、聖霊の支持の下に行われ、聖霊自身がこの聖伝の純粋性と無毀損性と、この聖伝と使徒の教説との一致を保護している。確かに聖伝は過去における教会の教理とキリスト教徒たる者の信仰に対する純粋に歴史的な証拠とも見なし得るので、事実、教会の教理の発展を叙述せんとする非カトリック的研究家によっても問題にされる。しかしカトリック信者にとっては、聖伝はそれよりももっと多くの意味を持つ。信者にとって聖伝は超自然的性格を帯びた機関であり、この機関を通じて天主は、啓示された教理を教会に譲渡し、教会において毀損することなくこれを保持し、万人に頒たしめたのである。ここで教会という時、まず第一にキリストにより建てられた教会の教職を意味する。すなわち、教職には聖霊の指導の下に、聖伝の内に含まれる天主の啓示を保持し、教職の正当にして中断することなき系列を為して相互に連繋している代表者を通じて、すべての民族、あらゆる時代の人間に伝える使命が附与されている。シェーベンはこのことを正しく指摘して曰く、『教会の聖伝は、天主自らによって組織され、天主の霊により生かされかつ導かれ、常に成長し続ける教会の協同体により正式に実施される。従って、1、その証明が完全に

p. 291

発揮されるのは、人間の証明としてではなく、聖霊の証明としてであり、2、この証明の効力を完全に発揮するのは大衆や個々人の自然的重要性の程度によって制約されるのではなくて、かえって、教会組織内における証明の荷担者の地位と役目およびその荷担者の聖霊に対する関係によって制約されるのである。3、証明の全権性と無誤謬性とは、教会の聖伝の流れの任意の時点において、たとえ、発足点に近かろうが遠かろうが、同一である』註2)と。またある意味において、教会の教職への依存性により、信者の団体が教会の聖伝の荷担者である。何となれば、伝承されたる啓示の教えの教会の教職による普遍的宣布は、全カトリック団体のあらゆる時代を通じ、統一的・不可変的信仰意識に適応し、従って、聖伝の真実の内容が、全カトリック教徒の共通の信仰において、その表現を見出した。かくて、モョーレル(Moehler)は正当にも聖伝について、『教会の内に存し、教会を通じて後世に伝えられたキリスト教の心意』『信者の胸の中に生きている言』そして客観的に見れば、『全世紀を通じて歴史的な証明を経て外面的に現れる教会の信仰の全体』註3)と呼んだ。

[註1] Denzinger 783 参照、ヴァチカン公会議は同一の説明を反復する。(D 1787)参照。
[註2] Dogmatik

p. 292

I, 145.
[註3] Symbolik 38.

聖伝を教会の教理の超自然的源泉とするカトリックの解釈が唯一の正当なる立場であることが、まず、キリストおよびその使徒たちの言と行動とから明らかにされる。キリストは自身口頭の説教により天主の人間に対する啓示を伝え、またその使徒に対しても口頭の説教により彼の教えを全人類に伝播すべく委託した。キリストが使徒ならびに使徒の後継者に分与した使命は、新約の救世の教説を口頭により告知する使命であったので、註1)使徒たちはその時以来、その職責を『言葉に対する奉仕』註2)と見なした。使徒たちの解釈に従えば、救いをもたらす信仰は天主の言の説教註3)によって与えられ、従って、使徒もまたその本来の任務を説教にありと見ていて、使徒中の若干の者のみがその説教を文書に書記したに過ぎない。この際注意すべきことは、この文書は、特別の機会に特定の目的をもって著述されたのであり、啓示された教理の普遍的な全体的な説明ではないということである。新約聖書の一部がすでに存在するに至ってからも、使徒パウロは常に使徒の説教と使徒の説教の内容の口頭による伝達とを最も主要なる信仰の源泉であると指摘した。そこでパウロはチモテオに書き送って曰く、『汝われに聞きし健全なる言の法を守るに、キリスト・イエズスにおける信仰

p. 293

と愛とをもってし、委託せられし善きものを、われらに宿り給う聖霊によりて保て』註4)と。他の箇所においてパウロは聖伝を特に書かれた示教より先に記し、この両者をキリスト教教理の規準として同格に取扱っている。すなわち、『されば兄弟らよ、毅然としてわれらのあるいは談話、あるいは書簡によりて習いし伝を守れ』註5)と。また使徒およびその弟子たちに起源する聖伝荷担者の中絶することなき順列を指示して、パウロは次のごとく語る、すなわち、『しかして数多の証人の前にわれより聞きしことを、他人に教うるに足るべき忠実なる人々に託せよ』註6)と。

[註1] マテオ 28:19、マルコ 16:15、ルカ 24:47 参照。
[註2] 使徒行録 6:4、20:24 参照。
[註3] ロマ 10:17 参照。
[註4] 2テモテ 1:13 参照。
[註5] 2テサロニケ 2:14 参照。
[註6] 2テモテ 2:2 参照。

この聖書の証明と古代教会の教旨ならびにその実践が完全に一致する。第2世紀初頭のパピアスの証言から、われわれの知り得ることは、パピアスが最古の伝統目撃者、すなわち、使徒たち自身と個人的に交際し、その教説を聞いた者との交際の裡に、細心の注意をもって教訓を探したのであった。そしてその結果、彼は確然と語って曰く、『書籍の閲読からは生存している目撃者の口頭による教訓ほどの利益を引き出し得ないと信ずる』註1)と。イレネオは異端者に対抗して、使徒たちに起源し、正当なる

p. 294

カトリック教会の司教により伝えられた聖伝が、キリストの教えの真実の、誤謬に陥ることなき源泉であることを詳細に説明した。記して曰く、『使徒の聖伝は全世界に周知であり、真理を見んと欲する者は何人もどこの教会においてもそのすべてを見ることができ、使徒によって立てられた司教と、その今日に至るまでの後継者とが、異端者によって主張されるごときことは何も教えなかったし、知りもしなかったということを教え上げる[ママ]ことができる。....かかる証明が与えられた以上、もはやわれわれは、容易に真理を与えて呉れる教会以外の所で真理を探す必要がなくなった。使徒たちは教会に、豊富な宝庫のごとく、真理に属する一切のものを悉く搬び込んであるから、欲する者は何人も、教会から生命の水を汲み取ることができる。教会は生命への門戸であり、その他は悉く<強盗と盗人>である。ゆえにこれらの者を回避しなければならず、そしてその代わりに、教会に属することは悉くこれを心から愛して真理の聖伝を受容しなければならぬ。もしも些細な問題について意見の相違が生じた場合には、使徒が働いていた所の最古の教会にまで立ち帰り、そこにおいて論争問題に対する明瞭にして確然たる決定に到達しなければならない。使徒たちが記録を全然残していないとしても、まさに、使徒が教会の主宰者に伝えたところの聖伝に従うべきである。』註2)

p. 295

と。同様にテルテュリアノも古代教会のこの見解を確信して、キリストにより啓示せられ、使徒たちが説教したことを確定するのは、使徒によって築かれ、そして使徒自らが口頭の示教と書簡とによって説教した教会において行われねばならぬ、註3)と書いた。また、オリゲネスによれば、真の信仰の規準は使徒よりその後継者の系列を通じて伝えられている教会の説教である。註4)ニュッサのグレゴリオはオイノミオに反対して、カトリックの三位一体の教義を説明して曰く、『われわれの解説の証明としては、教父以来われわれに与えられたところの聖伝を、使徒よりその神聖なる後継者に伝達されている遺産と同様に所有しているだけで充分である』註5)と。

[註1] Fragmentum, apud Eusebium, Hist. Eccl. 3, 39;(Rouet 94)参照。
[註2] Adversus haeeses 3, 3, 1; 3, 4, 1(R 309, 213)参照。
[註3] De praescriptione 21(R 293)参照。
[註4] Peri archon 1, 2(R 443)参照。
[註5] Contra Eunomium 1, 4(R 1043)参照。

古代教会の教師は、反復、使徒の教説はその一部だけが聖書に含まれているに過ぎず、一部はしかし、教会の聖伝の中に見出されることを強調している。そこで、オイセビオは明言して曰く、『使徒たちはキリストから受けた教説の一部だけを文書に書き残し、一部は文書ではなしに、書かれ

p. 296

れざる掟の形で保持すべく命じた』註1)と。アウグスティノは、改宗せる異端者を洗礼を須いずして教会と和解せしむるカトリック教会の慣例について次のごとく言う。すなわち、『私の信ずるところによれば、この慣例は使徒の聖伝に基づくものであり、使徒の文書にも後世の公会議の記録にも見出されない他の多くの事柄と同様に、その事柄が全教会の裡に守られるとの理由の下に、これを使徒により伝えられ勧められたものと見るべきである』註2)と。同様にまた、彼は幼児の洗礼の慣例を使徒の聖伝によって説明して曰く、『幼児の洗礼に関する母なる教会の慣例はこれを軽視すべきでなく、いわんや、断じて不要なりと見なすべきではない。われわれはこれを使徒の聖伝に基づいて信ずべきである』註3)と。エピファニオ(Epiphanius)は典礼における死者のための祈りを使徒の聖伝より導き、これについて曰く、『聖書からはすべてのことを覗い知り得ないがゆえに、聖伝を使用すべきである。聖使徒たちは一部をその書簡より、一部を聖伝を通じてわれわれに残し伝えた』註4)と。古代教会の公会議の解説もまた、教父たちを通じて伝えられた使徒の聖伝が教会の教理の誤謬に陥ることなき源泉であることを説明した。註5)

[註1] Demonstratio evangelica 1, 8(Migne PG 22, 75)参照。
[註2] De baptismo 2, 7, 12

p. 297

(Rouet 1623)参照。
[註3] De genesi ad litteram 10, 23, 39(R 1705)参照。
[註4] Adv. haereses 61, 6(R 1098)参照。
[註5] コンスタンティノープル第2公会議の宣明(Denzinger 212)、ニケア第2公会議の宣明(D 302, 308)参照。

実践においてもまた古代教会は、信者の宗教生活に重要であるが聖書に含まれていない問題は、伝統に基づいてこれを決定する(--この種の問題としては、例えば、幼児の洗礼・註1)異端者の洗礼の有効性・註2)聖像崇敬・註3)安息日の代わりに日曜日を主日として祝すること等がある--)という同様の原理に従っている。特にカトリックの教職の聖伝を天啓の源泉とするとの立場は、聖伝に基づいて教会が聖書の読書の正典(カノン)を確定したことに現れている。註4)すでに説明したごとく、聖書はそれ自身では、神感による神の言としての超自然的権威を充分には証明し得ない。その証明を得るためには教会の教職の誤謬に陥ることなき判定が必要であり、この判定は、聖伝の証明に基づいて下されたものである。ゆえにプロテスタントのごとく、教会の教職の判定と聖伝の証明を拒否する場合には、聖書の使用に対する客観的に妥当する規範を失い、従って、神感によりて成りたる書巻の巻数とその内容とに対して種々なる見解が成立する。まさに、聖伝とは別個な天啓の源泉として、使徒より

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伝えられた聖伝に基づいて、聖書を確認し、その内容を説明する教会の教職の任務との関するカトリック解釈を通じて、始めて、天啓の源泉としての聖書の客観的にして絶対的なる妥当性は保証されるのである。

[註1] Denzinger 102 参照。
[註2] D 46, 47 参照。
[註3] D 302 参照。
[註4] D 783 参照。

教会の聖伝の最も重要な証人

すでに説明したごとく、教会の聖伝の真正なる内容について権威をもって判断するのは、教会の教職である。一般の公会議および教皇による教理決定ならびに教会の信仰宣言において、聖伝は第一番に現れる。

これと並んで、聖伝を神聖なる遺産として代々伝承し、その内容をますます展開し説明して来たところの証言があり、これは、教会の教職による公式の宣言という性格を帯びていなくても、その証言をもまた観察しなければならぬ。それは何かといえば、なかんずく、教父たちと神学者たちによる証言である。--教父とは古代教会における教師、著述家にして、その生活の聖性と教説の正当性とが教会の側か

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ら顕著に承認されている者を意味する。彼らは使徒たちの時代に近接していたので、その証言は、使徒たちに由来する聖伝に対して特別の価値を有する。註1)この教父たちの中の多くの者は教皇もしくは司教であり、従って、教会の教職に属していたし、この教職の地位を得なかった者もあるが、註2)教会の教職の委任の下に、もしくは、少なくともそれの同意の下に著述に従事し、その著述によって教職の執行に奉仕し、遂に、彼らは悉く、啓示された教えの証人として何らかの形で教会によって承認された。註3)従って、教父たちが異口同音に一個の教説を天主より啓示された真理であると指示する時、この証拠はカトリックの解釈に従えば、絶対的妥当性を有し、換言すれば啓示された真理に関する教父たちの共通の誤謬は、必然的に教会および教職そのものの誤謬という結果になる。この意味において、古代教会の文書は、教父たちの教説を公会議と同位に置き、註4)同じくトリエントとヴァチカンとの公会議において一致して、教父の見解を、聖書解釈に際しての毀損すべからざる規矩なりと公示し、註5)終にピオ10世によって、いわゆる近代主義(モデルニスムス)の謬説に反対して教父たちの権威を使徒伝来の聖伝の証拠として明瞭に確定された。註6)かくて、キリスト教の古代において、すでにアウグスティノは、異端者ユリアノを駁した書の中で、有名な語により典型的に主張した。すなわち、『聖な

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る司教イレネオ・チプリアノ(Cyprianus)・レティジオ(Reticius)・オリュンピオ(Olympius)・ヒラリオ(Hilarius)・アムブロシオ(Ambrosius)・グレゴリオ・イノチェンティオ(Innocentius)・ヨハンネス クリソストモ(Johannnes Chrysostomus)・バジリオ(Basilius)さらに私は司祭 ヒエロニモ(Hieronymus)を附加し、この際存命者には触れずこれを看過するが、以上の人たちは汝に反対意見を表明する。彼らは教会の中に見出したものを固執し、教父たちから受容れたものを子孫に伝達した。....彼らは誤謬の饒舌に対して真理を最も断固として防衛した博学・真率・聖なる司教であり、その智慧と教養と自由な胆力(この三者を汝は裁判者において要求する)に反対して汝は何物をも主張し得ない。全世界の司教会議が開催せられるとしても、かくも多数の卓越せる代表者を見出すことはできぬであろう。彼らは同一時代に生きていたのではないが、天主は種々な時代と種々な場所とにおいて、その忠実なる奉仕者を御思召しの下に起用した。汝はこの者が東西にわたり、種々なる場所において、特定の場所のみではなく、彼らの著書の裡においてもまた、発見する。汝がカトリック信仰を保持する時は、彼らは汝のためにますます望ましき裁判者となり、汝がカトリック信仰に反対する時はますます怖ろしき裁判者となるであろう。何となれば

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この信仰を彼らは母乳と共に呑み、食物として喰らい、同時にまた、牛乳として固形食として、大人小人を問わず、これを他人にも与え、堂々と力強く敵に対して、当時は未だ生存するに至らず、今日ようやく日の光に浴するに至りたる汝らに対してさえも、これを防衛している。彼らの栽培者・灌水者・建設者としての、牧者および保育者としての働きにより、聖なる教会は、使徒たちの時代より成長して来ている』註7)と。

[註1] 神学者たちの見解に従えば、通常、教父時代はラテン教会においては教皇グレゴール1世(604年没)で終わっている。
[註2] 例えばヒエロニモ、エフラム、ダマスクスのヨハネ等。
[註3] 例えば、あるものは顕義的に、アウグスチノの恩寵に関する教説はカトリック教会の教説として教皇に認められたごとく(Denzinger 128, 173a 参照)、また他のものは彼らの解説が教会の公けの文書に採用されたことによって。
[註4] コンスタンチノープルの第二公会議およびニケアの第二公会議の宣明(D 213, 302)ならびに教皇マルティノ2世およびアガトの宣言(D 270, 288)参照。
[註5] D 786, 1788 参照。
[註6] D 2145, 2147 参照。
[註7] Contra Julianum 2, 10, 33, 37(Rouet 1900 部分的に;Migne PL 44, 37)参照。これら本来の意味における教父たちの他に、われわれに価値ある著述を残したが、彼らの教説の若干の点において誤謬に陥っていたため、(オリゲノ、オイセビオのごとき)もしくはカトリック教会から分離して、分離者の一派ないし異端者の一派に帰属したため(テルテュリアノ・ノヴァティアノのごとき)その聖伝の正式な証人としては認められなかった者がある。彼らはかく

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のごとく、聖伝の正式な証人としては通用しないが、彼らの著述はそれにもかかわらず、古代教会の教理および伝統の歴史的証拠を有するので、この意味で注目されねばならぬ。

教父たちの他にまた、それ以後の神学者が聖伝の証人として役立つ。このことは神学者たちが教会の教職の監督の下に、もしくは、その同意を得て、天主により啓示せられた真理を一致して説明した限りにおいてのみ適用される。何となれば、神学者たちは教父たちの教説の財宝を彼らの学校に取り入れてその内容を学問的に処理したからである。そこで中世の偉大な神学者は、その著作の抜粋(Catenae Patrum)を手本とした。神学者中の最大者たるトマス・アクィナスは彼の最も整然たる著書(例えば神学大全 Summa Theologica)において東西の教父たちの著作と緊密に結合し、重要な問題については教父たちの言辞と定理とをくまなく引用している。かくて神学者は教会の教職の委託と監督との下にカトリックの教理を説明し、彼らの説明に基づいて信者に、信仰と道徳に関する指示が為されているから、彼らは天主によって啓示された真理の説明に際してすべて共通に、誤謬に陥ることなく、従って教会は何回も繰り返して、天主によって啓示された真理と教会の聖伝とに対する

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神学者たち共通の証拠の権威を強調し、かつ、擁護した。註1)

[註1] Denzinger 1576/79; 1680, 83 参照。

最後に、使徒に由来する聖伝は全世界のキリスト教信者の共通な信仰において表現されている。全体として教会の信仰は、使徒たちの時代以来、教会の教職により指導され決定されているので、あらゆる時代を通じて存続する使徒の聖伝は、キリスト教全信徒の信仰と宗教生活の中にもそれに適応する表現を見出す。カトリック全信徒のこの信仰意識は古代以来尊敬され、異端者の変更に反対する論拠として引用されて来た。そこでヒエロニモは、遺物崇敬をキリスト教全信徒の超自然的信仰意識に基づいて防衛し、註1)アウグスティノはペラギオ教徒に対し、彼らの謬説を拒否するカトリック全信徒の宗教的心意を示し、註2)信者に死者のために祈ることを勧告する際にも、同様に、到るところにおいてこの風習を遵奉している全教会の権威を援用している。註3)

[註1] Contra Vigilantium 5(Migne PL 23, 343)参照。
[註2] Contra Julianum 1, 31(Migne PL 23, 343)参照。
[註3] De cura pro mortuis gerenda 1(Migen PL 40, 593)参照。

聖書と聖伝との相互関係

p. 304

以上の叙述により、聖書と使徒に由来する聖伝とは、天主より与えられ、教会に委託されたる啓示の二個の別個の源泉であることが証拠立てられた。両者の差異は、聖書の内容は聖書の神感によって成りたる諸書の裡に書き記されてあるが、聖伝の内容は、それに反して、聖書とは独立に、使徒たちならびにその継承者の説教によって教会に伝えられている点に存する。註1)両個の源泉は、これを遡れば、究極するところは天主であり、従って、同一の超自然的威厳と権威とを有し、両者それぞれはまた、それぞれの特性と特徴とを有し、相互に緊密なる関係にある。

[註1] この解釈は、啓示された真理の大部分が各源泉にあること、また聖伝は使徒たちの時代の後に、教会の文書に記されたことを排除するものではない。
[註3] De cura pro mortuis gerenda 1(Migen PL 40, 593)参照。

聖書の大きな特徴は、何よりもまず、神感によるものであって、厳密な意味において、書かれたる天主の言である点に存する。聖伝は天主の啓示を含むことはもちろんであるが、具体的形態においては、天主の特別の協助と庇護の下にある使徒たちの説教であり、教会の説教である。たとえ、教会教理の二個の源泉が、超自然的権威と絶対的妥当性とを有するにしても、聖書には神感によって特別の威厳が附与されるのである。さらに、聖書は書かれたる原本として、キリストおよびその使徒

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たちの言を、それがいかに語られ、最初の聴取者によりいかに受容れられたかを、その最初の直接的形態において提示する。そこで、あらゆる時代の人間は、救世主の談話とその使徒たちの指導とに、それの最初の形態において接することができ、かくて、キリストおよびその使徒たちといわば直接に面接することができる。

しかし他方においてまた、聖伝には聖伝の特徴がある。聖書の編纂以前に、すでに、口頭により使徒たちが教えを説いていたのであるから、聖伝は時間的に聖書に先んずるものであり、さらに聖伝は内容の包括性において聖書を凌駕している。聖伝は、聖書には記されてあってもただほのめかす程度で、または聖書に全然言及されていない事柄をも含み、キリスト教的礼拝(クルト)とキリスト教的宗教生活の種々の慣例とを、聖書より遙かに詳細に証明している。聖書そのものはすでに指示したごとく、信仰の源泉としての充分なる証明を聖伝によって与えられている、何となれば、聖伝の助けによって教会の教職は、神感によって成りたる書籍の正典を確定したのであり、教会の教職によるこの証明がなければ、聖書が啓示の源泉たる超自然的権威は充分には証明されないのである。他方においてまた、聖書を古代教会の歴史的文書と見る限りにおいて、聖書の中に聖伝の独立

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なる啓示の源泉としての権威が明瞭に証明されているのであるが、聖伝はたとえこの証拠がなくともその価値の成立することはもちろんである。教会が聖伝の基礎の上に聖書の各書の神感による超自然的性格を確定したごとく、同様に、教会は聖書の真の意味を解釈するに際して聖伝の証拠に従う。そこでシェーベンが聖書と聖伝との相互関係について次のごとく書いたのは正しい。すなわち、『聖伝は全般的に、聖書に記された教理財(Corpus doctrinae)の権威ある生ける註釈であるが、しかし、原本より汲み取った註釈ではなくして、むしろ、独立な、聖書と共に同一の天主の啓示に起源することによる、同一の天主の権威によって担われたる、従って、聖書を証拠立てこれを補足するところの註釈である』註1)と。

[註1] Dogmatik I, 21 参照。

カトリック教理の展開
教会に委託された天啓の真理の財宝--Depositum fidei−−

教会が人間に伝えるところの教理は、天主により啓示せられ、聖書に記され、使徒たちに発す

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る聖伝の中に貯えられているので、従って、その本質的内容は完結しているから、何らかの附属物によってこれを増加せしめることはできない。キリストにより、実に、天主の人間に与えた啓示は、その最高峰と完成とに達している。註1)使徒たちがキリスト自身から、ならびに、キリストによって贈られた聖霊を通じて受取った教理は、従って、天主から人間に与えられた超自然的啓示の全体を包含する。教会の任務は、この教理を純粋に完全に保持し、全人間に対し何らの誤謬もなく伝達することである。このことはすでに、キリストがその使徒たちを世に派遣した時の言の裡に明確に示されている。註2)同様に使徒パウロがその弟子チモテオに与えた指示の裡にも明らかにされ、註3)古代の教理(Didache)の中に早くも次のごとく記されてあるのを読むことができる。すなわち、『主の掟に違うなかれ、汝らの聞きしところを、これに附加することなく、これを削除することなく保持せよ』註4)と。イレネオは異端者を反駁して記して曰く、『使徒たちは全真理を教会に搬び込んであるから、欲する者は何人も教会から生命の水を汲み取り得る』註5)と。バシリオはロマ書註釈の冒頭に記して曰く、『使徒たちは彼らの聞いたことを伝達するために派遣されたのであり、彼ら独自のものを附

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加するために派遣されたのではない。しかし、われわれは信仰しなければならぬ』註6)と。レリンのヴィンチェンティオ(Vincentius)は彼の Commonitorium において次の語をもって同様の趣旨を表現している。すなわち、『カトリック信者に対して、彼らが受容れている以外のことを伝達するのは、過去において許されなかったし、現在も許されないであろう』註7)と。かくてキリストにより啓示された真理を、教会に委託された神聖な財宝として"Depositum fidei"と呼ばれることも既述の証言と一致している。使徒パウロはその弟子チモテオに書き送って曰く、『ああチモテオよ、託せられしものを守りて、世俗の空言と有名無実なる学識の反論とを避けよ』註8)と。レリンのヴィンチェンティオはこの語を次のごとく註釈している。『託せられし財宝(Depositum)を守れ。この財宝とは何か。託せられしものにして、汝により見出されしものにあらず。汝の受容せしものにして、汝一人のみの探求の対象にあらずして、教理にして公けに伝えられたるものなり、汝はそれを生み出す者たるべきにあらずして、むしろ、これを保持すべき者なり。託せられし財宝を守れ、カトリック信仰の財宝を毀損することなくこれを守れ。汝に託せられしものは汝よくこれを保ちかつ汝によってこれをさらに広く伝うべきなり』註9)と。ヴァチカン公会議において Depositum fidei

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の解釈が次のごとく表現された。すなわち、『天主の啓示せる信仰の教理は哲学の成果のごとくに、これを完成するために人間の悟性に提供されたものではなく、むしろ、天主の財宝(Depositum)としてキリストの花嫁(教会)に託され、教会により誤謬なく保持され、宣布せらるべきものである』註10)と。

[註1] ヘブレオ 1:1 以下、ガラテヤ 4:4 参照。
[註2] マテオ 28:18 参照。
[註3] 2テモテ 1:14、2:2、3:14 参照。
[註4] Didache 4, 13(Rouet 2)参照。
[註5] A. H. 3, 4, 1(R 213)参照。
[註6] In ep. ad Roman 1, 3(R 1181)参照。
[註7] Commonitorium 9(R 2169)参照。
[註8] 1テモテ 6:20 参照。
[註9] Commonitorium 22(R 2173)参照。
[註10] Denzinger 1800 参照。

Depositum fidei に関するかくのごときカトリックの見解に対しては、唯理主義的教理研究者の立言は与し得ないのであって、彼らによれば、キリストの本来の教説は、別個の源泉、なかんずく、ヘレニズムの哲学から多数の要素を採り入れて本質的に拡大、変容されたというのである。註1)この立言は、キリストによる天主の超自然的啓示の事実、キリストにより建てられた教会の真の使命、従って、キリスト教信仰の基礎の否定を意味する。彼らは、カトリックの教理がその悉くの本質的

p. 310

な点において、教会の濫觴より今日に至るまで継続しているところの独特の事実を説明し得ずして、本来のキリストの教説が、それと本質的に無縁な別個の要素を混淆しているとの、歴史的に充分には証明し得ない多数の、そして相互に著しく相違している学説に弱り切っているのである。Depositum fidei に関するカトリックの解釈と一致し得ないものの中に、使徒たちから教会に遺された信仰の真理が、何らか実質的に附加されているとの臆説もある。グュンテル(Guenther)の見解註2)は、キリストおよびその使徒たちによって遺されたものから、教会は哲学の助力により教義の体系を樹て、その体系は、内容と形態とに関しては、人間の知識と科学との発達に依存し、それに従って変化するという学説も、それによって排除される。また、天主は、使徒たちの死後、さらに啓示を与えそれによって教会の教理の財宝を拡大したことも受容れない。たしかに天主は教会史の過程において、種々の示しを個々の信者に下し、その示しはたびたび教会の事態について指示を与えた。註3)しかし、この種の示しは常に私的性格を帯びていて、註4)教会はこれを全信者の信仰対象としては認めていない。全教会に対する公的性格を帯びた啓示、従って、全信者の信仰対象たるべき啓示は、使徒たちの死後は、もはや与えられていない。

p. 311

しかも教会が聖霊の指導の下に、キリストにより委託された信仰の真理の財宝の外面的叙述ならびに内的認識において絶えず進歩するという意味において信仰の真理の展開と有機的成長が認められている。

[註1] なかんずくハルナック(Harnack)とその学派。。
[註2] 1863年ヴィーンの教授にて死亡。
[註3] かかる啓示の例としてはアッシジの聖フランシスコ、ジェナの聖カタリナ(Catharina)、聖マルガレタ・マリア・アラコック(Margaretha Maria Alacoque)等の生活記録に伝えられている。
[註4] そのために私的啓示(revelata privativa)と呼ばれる。

教会に委託された信仰の真理、すなわち、Depositum fidei
の展開における教会の進歩 カトリック的意味における教義の進歩

教会は一個の生ける超自然的共同体であるから、キリストにより伝えられた超自然的信仰の真理を、あたかも死せる文字であるかのごとくに保存することはできず、むしろ教会は、聖霊の指導の下に絶えず測り難いほどに豊かなるこの財宝の内容をいっそう充分に認識しいっそう完全に叙述せんと努力する。使徒たちは彼らに与えられた聖霊の横溢により天主の啓示の内容を特に豊かに認識したので

p. 312

あるが、使徒たちがその内容を伝達するに際しては、まず、信者の宗教的生活の基礎を築くのに大なる重要性を有する主眼点に着目し、註1)その叙述も、われわれが使徒行録と使徒たちの書簡とにおいて見るごとく、たいてい単純で簡潔であり、多くは通俗な解説の形態を採り、ユデア教および異教から回宗した新しい信者の理解力に適応したものであった。後代の教会の教職には、啓示された教理の叙述をより詳細に形造ることが委任された。その際まず第一に外的表現に関する進歩が可能であり、啓示された真理はいっそう正確な概念によって理解され、いっそう明瞭な形で表現され、その結果として、信者にとってはその真理を一般的に理解することが著しく容易にされるに至る。しかしまた、教会の教職自身により、啓示された真理の内的把握に関する進歩も、啓示された真理の中に含まれている種々なる要素を次第に抽き出して、それの測り難く豊富な内容をいっそう展開し、全教会に対してこれを公開することによって行われる。概して言えば、外的表現方法における進歩は、啓示された真理の内容の展開と共に行われる。このことはカトリック的意味における教義の発展を意味する。すなわち、教義の発展は教会の超自然的生命全体と完全に調和して、これを攪乱することなしに、有機的に行われる。すなわち、かかる展開により新しく指摘される啓示の内容は、すでにそれ以前に、

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教会の教理の内に何らかの形で含まれ、信者の信仰の内に閉ざされていたものであり、従って、同一なる真理の含蓄的無意識的所有より顕義的意識的認識および表現への進歩である。註1)レリンのヴィンチェンティオは、すでに、カトリック教義のこの有機的成長を典型的な仕方で記している。すなわち、『しからばキリストの教会には何ら宗教上の進歩はないのかと言う者がおそらくあることだろう。たしかに進歩はあり、しかも非常に大きな進歩がある。何となれば、この進歩を阻まんと試みる者ほど人間に対しては嫉妬的であり、天主に対しては敵対的な者はないであろう。しかし、進歩といってもそれは信仰の進歩であり、変更ではない。自らの内に成長するということが進歩に属するのであり、あるものから他のものへと変わることは変化に属する。従って、個々人および全教会において、時代と世紀との区画に伴うところの見解・知識および智慧の成長の著しく増加されんことを。しかも本質は同一であり、教理はそのままであり、意味もそのままでなければならない』註2)と。第5世紀に書かれたこの語を、ヴァチカン公会議がカトリック信仰の解説に採り上げて、これにより信仰の真理の展開とカトリック教義の進歩に関する古代より伝承されているカトリックの解釈を厳かに宣言した。註3)

p. 314

[註1] 唯一にして三位一体なる天主および救世主とその聖業等について。
[註2] 神学者の表現に従えば fides implicita より fides explicita へである。この意味においては教義の発展は『主観的』とも呼ばれる。すなわち、啓示そのものの客観的に増大するのと相対する。
[註3] Commonitorium 23,(R 2174)参照。
[註4] D 1800 参照。

教会史は信仰の真理に関する了解と伝達との有機的成長、すなわち、fides implicita より fides explicita への過度に対する少なからぬ実例を示している。すでに使徒たちの説教には明瞭に天主の三位一体の教義が含まれていたが、天主の三個のペルソナの本質的同一性に関する解説は、漸く第4世紀の公会議において教会により確定されたのである。註1)同様に使徒たちはすでに救主キリストは同時に天主の永遠の子でありまた真実の人間であることを教えたが、しかし、神性と人性とのキリストにおける玄義にみちた結合に対する正確なる表明と、その結合から生ずる救主およびその事業にとっての結果に関する教義は第5世紀において完成した。註2)天主の子はその人性に従えば童貞マリアを母としたことは、同様に、使徒たちの説教に判然と表現されているが、童貞マリアの真実の神の母としてのこの独自の地位に関する一歩進んだ、教義としての説明は漸く第5世紀において行われ、註3)この童貞マリアの威厳に関連するところのマリアに原罪なきことに関する証明は第19世紀に至って始

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めて信仰個条に掲げられた。註4)すでに使徒たちはその説教の内で、キリストの恩寵による人間の内的純化と聖化および天主の子への高揚・天国の世嗣となることを証言しているが、しかし、この教義の徹底的に確立されたのは第16世紀に至ってである。註5)類似のことは秘蹟・教皇の首位権に関する教義その他についても言われる。

[註1] ニケアとコンスタンチノープルとの公会議において、Denzinger 54 および 86 参照。ニケアで採諾された"Homo-ousios"(同質)との用語についてアウグスチノは、それが教会の古い信仰から生まれたと言う。”fides antiqua peperit”Contra Maxim. II, 14(Migne PL 42, 772)参照。
[註2] エフェゾとカルケドンとの公会議において、(D 113 以下、148)参照。
[註3] エフェゾの公会議において、(D 111a)参照。
[註4] ピオ9世によりて、(D 1641)参照。
[註5] トリエント公会議において、(D 793 以下)参照。

教会に属する真の教理財に対する拒否ないしは曲解が、教会にとって、その教理の問題の点に関し特別の注意を払ってその意味と内容とをいっそう精密に探求し徹底的に叙述するに至る機会となることもしばしばあった。すでにアウグスチノはこのことを次のごとく主張している。すなわち、『カトリック信仰に属する多くのことは、安んずるところなき異端者によって論難される際に、これが防衛の目的

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の下に周到に考慮し明確に理解し、印象深く宣明されるので、結局は、反対者によって投げられた問題は習得の機会を提供することになる』註1)と。また、別の箇所において彼は語る、『多くのことが聖書の中に隠れていたが、異端者が現れて、天主の教会を彼らの論争問題をもって不安ならしめた時、その時、隠れたものは明るみに出され、天主の思し召しに従って理解される』註2)と。

[註1] De civitate Dei 16, 2; Rouet 1765 参照。
[註2] In psalm. 54, 2 参照。

しかしなおかつ、教義の展開とカトリック教理の進歩の最も主要な基礎は教会自体の内部に存する。教会自体の内部にはキリストにより委託された啓示をますます認識し信者の宗教生活を豊饒ならしめんとする原力が溌剌と動いている。自然の認識において人間は絶えず個々の科学の対象をますます展開し、かくのごとくにして得られた認識を統一ある全体に整理しようと努力するのと同様に、教会の内部にもまた、伝承された信仰真理の内容をますます展開させて、その認識の全体を組織的統一において把握せんとする消し難き欲求が成立する。聖霊は教会の超自然的生命の本源として、自ら信者の内に信仰内容の認識の成長に関する欲求を燃やし、この認識の進歩に際し、聖霊の超自然的援助により教会を指導する。この進歩はしかし、信者の宗教生活との最も緊密なる連関の下に行わ

p. 317

れ、聖霊によって贈られたる超自然的生命は教理によって表現され、教理の認識の成長によって力強く促進され、それがまたこの認識をいっそう進歩せしむるに役立つ。かくて、教会における超自然的生命の全体が絶えず有機的に成長し進展するごとく、天主の教会に託された啓示の内容の展開もまた不断に有機的成長を遂げる。ニューマン(Newman)はカトリック教会へ改宗したちょうどその時に、彼の有名な論文”Essay on the development of Christian doctrine”において、カトリック教会においてのみ教義の進歩が有機的に統一的に行われ、新しきものの採用が伝承的なものの保持と驚くばかり調和しているのに対し、カトリック教会から分離したキリスト教団体においては、何らかの暴力的な変革と伝承的なものに対する破壊が認められる、と印象深く叙述している。われわれの時代の一著述家が教会について一般的に語ったことは、特別な仕方で教義の展開にも適用することができる。『教会はその濫觴期においては成熟した種子であったが、その本質に従って発芽し成長し始めた。この観点の下においては、初代教会は今日の教会と完全に同一である。あたかも雛と卵とが同一の本質であるのと同じであり、樫と樫の実とが同一であるごとくである。何となれば、卵からも実からと同様に生ずるというのは、そこから生ずるものは、予めすでにその内に含ま

p. 318

れていたものである。キリストは発展すべきものを教会に授けた。キリストによって贈られた聖霊は人間の行為の中にあっても、その時が来れば展開の作用を営むのである』註1)と。

[註1] Schmaus, Kathol. Dogmatik III, 1, S. 99: Sertillanges, Das Wunder der Kirche, 81 の引用文参照。

第7講話 終り


奥付

昭和22年5月20日 印刷
昭和22年5月30日 発行
定価 75円
著者 パウロ・フィステル
東京都新宿区若葉1丁目5の6
発行者 グイド・パガニーニ
東京都文京区高田豊川町37
印刷社 長宗泰造
東京都文京区高田豊川町37
印刷所 厚徳社印刷所
東京大司教認可 出協会員1030005


発行所 中央出版社
東京都新宿区若葉1丁目5の6
振替(東京)62233番
電話 淀橋 (37)1905番


配給元 日本出版配給株式会社
東京都千代田区神田淡路町2の9

作成日:2004年06月04日

最終更新日:2004年06月04日

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