ボナヴェントゥラの教師論

−『すべての者の唯一の教師・キリスト』−

三上 茂


 ボナヴェントゥラ(Bonaventura)[1217 -1274]はトマス・アクィナス[1225-1274]と同時代の人で、小さき兄弟会(フランシスコ会)に所属し、ドミニコ会にいたトマスとともに、1257年、パリ大学での神学教授の地位を得たが、同じ年に修道会総長に選ばれて、その職務に専念するため、大学での教授活動は行わなかった。しかし、修道会総長、司教、枢機卿などの激務にあって、後進の指導に当りながら、厖大な量の著作を残した。その中で有名なものは、『ブレヴィロクィウム』(Breviloquium)、『ソリロクィウム』(Soliloquium)、『魂の神への道程』(Itinerarium mentis in Deum)、『諸学の神学への還元』(De reductione artium ad theologiam)、『命題集注解』(Commentarius inquatuor liblos Sententiarum)『六日の業に関する講義』(Collationes in Hexaemeron sive illuminationes ecclesiae)等である。

 以下に取上げる、『すべての者の唯一の教師・キリスト』(Christus,unus omnium magister)は説教(sermo)の一つであるが、その著作の年代、事情などは明らかではない。クヮラッキ(Quaracchi)版全集(1883)で、わずか8頁の小論である[(第5 巻)567-574 頁]が、簡潔な表現の中には豊かな思想が盛り込まれていて、内容的には決して小論ではない。 ボナヴェントゥラには、アウグスティヌスやトマスのように、『教師論』(De magistro)と題された著作はないが、この説教の他に『キリストの教師性の卓越性』(De excellentia magisterii Christi)という小論もある。キリストこそ、われわれの唯一の真の教師であるという確信は、聖書の中のキリスト自身のことばにその根拠を見出すが、アウグスティヌスやトマス、そしてボナヴェントゥラに共通する、いわばキリスト教の根本理念であろう。「神の教育」(paideia theou)の思想がまず第一に、神ご自身の人間にたいする教育を問題にすることは当然のことであるが、そのことはまた、われわれの教育の問題を考察するに当たって、われわれに大きな示唆を与えるはずである。以下、ボナヴェントゥラの『すべての者の唯一の教師・キリスト』の論旨に沿って、考察を進めたい。

 『マタイによる福音書』23,10 には「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われている。ボナヴェントゥラはこの福音書のことばを、『ヨハネによる福音書』14,6のキリストの「わたしは道であり、真理であり、命である」ということばに結び付ける。道であるキリスト、真理であるキリスト、生命であるキリストは三重の認識の教師である。すなわち、道であるキリストは信仰の、真理であるキリストは知識の、生命であるキリストは観想の教師であ る。信仰、知識、観想は三つのレヴェルの異なった認識である。

 ボナヴェントゥラはそれら三重の認識の様式を以下のように規定する。第一は、敬虔な同意を伴う信頼による(per credulitatem piae assensionis)認識、第二は、正しい理性が行う承認による(per approbationem rectae rationis)認識、第三は、秩序正しい観想によって得られる明瞭性による(per claritatem mundae contemplationis)認識である。第一の認識は信仰(fides)であり、徳のハビトゥス(habitus virtutis)を目指している。第二の認識は知性認識(intellectus)であり、賜物のハビトゥス(habitus doni)を目指している。第三の認識は心の秩序正しさ(munditia cordis)であり、至福のハビトゥス(habitus beatitudinis)を目指している。第一は信仰による認識(cognitio creditiva)、第二は論証による認識(c. collativa)、第三は観想による認識(c. contemplativa)と言われる。ボナヴェントゥラは、これら三重の認識の原理(principium)、原因(causa)はキリストである、と言う。これらの様式を順次、もう少し詳しく検討していくことにしよう。

 「道(via)であるキリストは信仰による認識の教師であり、原理である。この認識は二つの方法によって得られる。すなわち、啓示によって(per revelationem)、そして権威によって(per auctoritatem)である。」啓示と権威の関係について、ボナヴェントゥラはアウグスティヌスの『信の効用』2 から次の句を引用する。「われわれは、理解するものを理性に、信ずるものを権威に負っている。」そして、こう言う。「しかし、もし啓示が先行しなかったならば、権威は存在しないであろう。」啓示と権威は同列に並ぶものではなくて、権威が権威たるのは神の啓示による、換言すれば、権威がその上に揺るぎなく建てられる土台は啓示であるということであろう。預言者のことばの権威も聖霊の息吹を受けて語ったことによるのである。信仰による認識に到達するのに啓示と権威の二つの力が必要であるが、これは与え手たるキリストによる(per Christum datorem)以外には不可能である。キリストは「精神への到来に従ってす べての啓示の原理であり、肉への到来に従ってすべての権威の土台である。」(qui est principium omnis revelationis secundum adventum sui in mentem, et firmamentum omnis auctoritatis secundum sui adventum  sui in carnem)

 キリストが精神への到来に従ってすべての啓示の原理であるというのはどういう意味であろうか。まず精神への到来(adventus sui in mentem)というのは、「すべての預言者たちの視力、視野を照らす啓示の光として」(ut lux revelativa omnium prophetalium visionum)キリストが人間の精神へと来られたということである。つまり、キリストは受肉によってこの世に来られる以前に、既に預言者を照らす光として、人間の精神へと来ておられたのである。ボナヴェントゥラは「キリストは神的知恵の光である」(lux divinae sapientiae, quae Christus est)と言う。『ヨハネによる福音書』8,12で、キリストは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩」くことがないと言っておられる。この光は預言者の精神を照らすだけでなく、預言者の声を聴くわれわれの精神をも照らす光である。ボナヴェントゥラは、「この光−−すなわち、キリスト−−なしには、誰も信仰の秘義へと入って行くことはできない」と言っている。このように、啓示の光は信仰による認識の源である。キリストご自身が光であって、すべての人を照らすことによって、啓示の与え手となり、啓示を伝える力を預言者に与え、啓示を聴きそして信じる力をすべての人に与えるのである。ボナヴェントゥラは、ここで、信仰の次元での認識=照明説を述べているのである。精神へのキリストの到来は世界を照らす太陽の光、暗闇に輝く灯として、隠されたものを現し、われわれの心を開かせるのである。彼は『知恵の書』9,10を引いて、神から知恵が下されないかぎり、神のはからいを知る者がいるだろうかと問い、「精神へのキリストの到来によるのでなければ、確実な信仰の啓示へ達することはできない」と結論する。

 次に、キリストが肉への到来に従ってすべての権威の土台であるというのはどういう意味であろうか。キリストは、「すべての預言者の言を承認するみことばとして(ut verbumapprobativum omnium prophetalium locutionem)、肉へと来られる(venit in carnem)。」預言者たちが語ってきたすべての預言のことばは、キリストの受肉によって承認されるものとなった。「キリストはおん父のみことば(Verbum Patris)であり、このことによって神の力と知恵であるから、すべての権威の永続性がかれのうちに基礎づけられ、強固にされ、完成される。」受肉し給うたみことば・キリストは全キリスト教信仰の基礎(fundamentum totius fidei christianae)であり、隅のかしら石(summa angularis lapis)である。信仰による認識を可能にするものは啓示であるとともに権威である。権威はキリストの受肉という事実に由来する。みことば・キリストは肉をまとってこの世に来られることによって、それ以後のすべての権威がその上に築かれることになる土台・基礎となられた。権威(auctoritas)とはもともと保証人・代弁者(auctor)たることを意味する。キリストはおん父から派遣された、おん父の代弁者であり、そのことを敬虔な同意(pia assensio)によって信じることが信仰による認識なのである。権威とはまた著者(auctor)たることをも意味する。著者たる者はことばを生み出す者であるから、権威はことばに関係していると言えるだろう。ことばが人間と人間との間を結ぶ道であるように、みことばたるキリストは父なる神と人間との間に敷かれた道なのである。以上のことから、ボナヴェントゥラは「キリストは、精神への、そして肉への、その二重の到来に従って、彼が道である限りで、信仰による認識の教師である」と結論する。

 真理(veritas)であるキリストは理性(ratio)による認識の教師である。ボナヴェントゥラは知的認識(cognitio scientialis)とも呼んでいる。簡略に知識(scientia)と言ってもよかろう。ここで、ボナヴェントゥラは、知識の構造とでも言うべきものを検討する。われわれは、知識について考える場合には、知られうるもの(scibilis)と知る者(sciens)との区別を前提しなければならない。知識は可知的なものと知る者との間の結び付きにおいて成立するからである。「知識による認識(cognitio scientialis)のためには、知られうるものの側から、変化することのない真理(veritas immutabilis)が、知る者の側から、誤りえない確実性(certitudo infallibilis)が、要求される。」

 まず、第一の点から考えてみよう。ボナヴェントゥラは、「知られるすべてのものはそれ自身において必然的なものであり、知る者自身にとっては確実なものである」という。知られるものがそれ自身において必然的であるとは、それが他のようであることが不可能で、それ以外のあり方をしないということである。知られるものが変化することのない真理でありうる場合などあるのだろうか。「創造された真理は、端的、絶対的には、そのようなものではない。」すべての被造物は動的で変わり易い(vertibile et mutabile)からである。完全な不可変性(plena immutabilitas)をもつのは創造する真理(veritas creans)だけである。ボナヴェントゥラは、事物が存在(esse)を持つ仕方が三通りある、と言う。第一は、固有の種において(in proprio genere)、第二は、精神において(in mente)、第三は、永遠のみことばにおいて(in Verbo aeterno)、である。第一の存在の仕方は、事物がそれ自身においてあるあり方である。第二の存在の仕方は、事物が、それを認識する精神のうちにあるあり方である。第三の存在の仕方は、事物が、それを創造する神の精神のうちにあるあり方である。事物の存在が不可変でありうるのは、ただ第三の仕方でのみ、すなわち、永遠のみことばにおいてのみである。永遠のみことばはおん父のうちに永遠にとどまるみことばとして不可変である。事物の存在は永遠のみことばにおいてのみ、その不可変性を持ちうる。ボナヴェントゥラは、「もし神のおん子にして教師たるキリストが助力なさるのでなければ、何ものも事物を完全に可知的なものとすることはできない」と言う。

 パウロは『ヘブライ人への手紙』1,10で『詩篇』102,26を引用している。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」ボナヴェントゥラは、パウロがキリストについてこのことを言ったのだと主張し、こう付け加えている。神のおん子は「全能の神の言葉、技、理性である」(qui est verbum, ars et ratio omnipotentis Dei)と。従って、キリストは永遠の真理(veritas sempiterna)なのである。

 さらに、ボナヴェントゥラはアウグスティヌスの『自由意志論』2,12,33 を引用する。「君は不可変的に真であるこれらすべてのものを保持しながら、不可変の真理が存在するということを決して否定しないであろう。私はこれを君のもの、あるいは私のもの、あるいは誰であれ他の人のものであるということはできないのであって、それは不可変の真なるものを認識するすべての人々に共通して現前し、また自らを示しているのである。」

 理性的認識はこの不可変の真理への限りない接近の行為である。不可変の真理はわれわれの眼には完全な姿では現れないであろうが、その存在を否定すれば、われわれの理性による認識は単なる憶見の積重ねに過ぎないことになろう。理性はまた生活の規範をも認識するが、この規範が不可変的であることを同時に認識する。そのことは何故に可能なのであろうか。それは、「真理と言われるかの光の書の中に」(in libro lucis illius, quae veritas dicitur)この不可変の規範が書き記されているからである。

 理性的認識のために、知る者の側で要求されるのは誤ることのない確実性である。ボナヴェントゥラによれば、われわれの理性は創造された知性である。創造された知性の光 (lux intellectus creati)は誤りうるもの、暗まされうるものである。それに対してキリストは創造されざる知恵(Sapientia increata)であって、その光はまことの光、誤ったり、暗まされたりすることが決してない光である。

 『ヨハネによる福音書』1,9 では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われている。それゆえに、ボナヴェントゥラは次のように言う。「何であれある事物の確実な理解のためには、永遠のみことばの光なしには、創造された知性の光はそれ自身では十分ではない。」と。  さらに、ナヴェントゥラはアウグスティヌスの『ソリロクィア』1,8,15を引用する。

「この太陽においては何か三つのものに注意を向けることができる。すなわち、太陽が存在すること、太陽が輝くこと、太陽が照らすこと、である。それと同様に、あの最も秘められた神においても、何か三つのものが存在する。すなわち、神が存在すること、神が認識したもうこと、神が他のものを認識されるものとなしたもうこと、である。」そして、その箇所の少し前のところを引いて結論としている。「大地が光によって照らされなければ、見られえないのと同じように、学問の教える論証にしても、誰でもがこれを理解し、その極めて真なることを全く疑わずに認めても、それが何かそれ自身太陽のようなものから照らされるのでなければ、理解されえないと考えざるをえないのだ。」

 この段階でもまた、ボナヴェントゥラは照明説をとるのである。太陽が存在し、自ら輝き、他を照らす。そのことがなければ、われわれがものを見ることは不可能である。太陽は視角の働きを可能にする根拠である。知性認識も同様のことが言えるというのが、ボナヴェントゥラの考えである。神が存在し、自ら認識し、他の知性的存在者の認識を可能ならしめる。照明とはこのことである。もちろん、太陽の光に照らされた事物を見るために、肉眼に視力が与えられていることが必要である。同様に、神の照明を受けて、可知的事物(res intelligibiles)を認識するために、知性的精神(mens intellectualis)に視力が与えられていなければならない。人間は神の似姿として創造されて、この力を本性的に与えられている。しかし、太陽の照明がとどかない暗闇の世界で視力を働かせることができないのと同じように、神的照明のないところでは、理性による認識も不可能である。キリストはわれわれの知性認識の根拠(ratio intelligendi)である。従って、ボナヴェントゥラは世を照らす光であるキリストが、ただひとりわれわれの教師であると結論するのである。

 生命(vita)であるキリストは観想的認識の教師(magister cognitionis contemplativae)である。ボナヴェントゥラは『ヨハネによる福音書』10,9を引用する。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」キリストは生命の門である。魂(anima)は二重の仕方で訓育される。あるいは二重の魂の養育(pastus)がある。第一は神性における内的な養育(pastus interioris in Deitate)であり、第二は人間性における外的な養育(pastus exterioris in humanitate)である。このことに従って、観想の様式(modus contemplandi)も二重である。入る様式(modus ingressivus)と出る様式(modus egressivus)である。ボナヴェントゥラは、キリストによらないでは、このいずれの観想へも到達することはできないと言う。

 入ること(ingressus)によって何が意味されているのであろうか。ボナヴェントゥラは、創造されざるみことばであり、天使たちの食物であるキリストへの魂の方向転換(ad Christum secundum quod Verbum increatum et cibus Angelorum)について語っているのである。『ヨハネによる福音書』1,1 「初めに言があった」を引用しながら、ボナヴェントゥラは、みことばがおん父である神のうちに永遠にあって、おん父と内的に一致しておられることを、われわれに注目させる。「わたしは…喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り…(ingrediar)。」(『詩篇』42、5 )この 「入って行くこと」(ingressus)が観想の一つの様式と言われているのである。創造されざるみことばであるキリストによって導かれるのでなければ、誰もこの観想へ到達することはできない。

 「出ること」(egressus)は、こどもたちの乳である受肉したみことばへと向かうことである。ボナヴェントゥラは『ヨハネによる福音書』1,14を引用する。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」更に、彼は『雅歌』3,11を引く。「いでよ(egredimini)、シオンのおとめたちよ ソロモン王を仰ぎ見よ。 その冠を見よ。 王の婚礼の日に、喜びの日に 母君がいだかせた冠を。 ボナヴェントゥラは、この冠について、「この冠は…汚れなき肉(caro immaculata)であり、…婚約の冠と言われる。…この婚約の冠によって、神は聖にして母なる教会と婚約したもうた。…この冠によって、教会のすべての位階は聖化され、照明され、完成される。それは、いわば、全教会を生かす牧草 (totius Ecclesiae pastus vivificus)のごときものと考えられるべきである。」と言っている。受肉したキリストが教会を養う食物であるということは、『ヨハネによる福音書』6,56で、次のように言われている。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、…」以上のことから、生命であるキリストのもとへ赴いて生かされることが、観想的認識の「出る様式」(modus egressivus)だと考えてよいように思われる。

 ボナヴェントゥラは、更に、『魂と霊』を引用する。「魂の生命は二重である。すなわち、一つは肉のうちに生きているものであり、もう一つは神のうちに生きているものである。まことに、人間には、二つの感覚がある。すなわち、一つは内的であり、もう一つは外的である。そして、両者は、そこにおいて感覚が活気づけられる善を持っている。すなわち、内的感覚は神性の観想のうちに、外的感覚は人間性の観想のうちに、その善を持っている。何故なら、神は、すべての人が神において幸福になるため、すべての人が入ったり、出たりして、その作り手(Factor)のうちに牧場を、−救世主(Salvator)のうちに外的な牧場を、創造主(Creator)のうちに内的な牧場を−見出すために、人間となりたもうたからである。」この文章を、ボナヴェントゥラは、「この神性へと入ること(ingressus ad Divinitatem)と人間性へと出ること(egressus ad humanitatem)は、天への上昇(ascensus ad caelum)と地への下降(descensus ad terram)に他ならないのであって、そのことは、いわば梯子によってのように、キリストによってなされるのである。」と解釈する。人間が観想によって認識を得るのに、それを通ってしか出たり入ったりできない道、あるいはそれを伝ってしか昇降できない梯子、それがキリストなのである。このことを、ボナヴェントゥラは更に『創世記』28,12 のヤコブの夢の話によって確証する。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」ボナヴェントゥラは、「階段によってキリストが、天使たちの昇降によって、上昇的および下降的観想を行う人々の照明(illuminatio virorum contemplativorum ascendentium et descendentium)が意味されている」と言う。最後に、ボナヴェントゥラは『黙示録』第五章を引きながら、七つの封印をされた巻物の内側と外側に書かれた文字を内的、外的に読み解くことができるのは、ユダ族の獅子、ほふられた子羊であるキリストだけである、という箇所に注目し、その内的、外的な二重の読み解き(lectio interioris et exterioris)とは、これまで語られてきた二重の観想の様式のことだと言う。以上述べてきたように、ボナヴェントゥラは、道、真理、生命であるキリストが、信仰、知性認識、観想という三重の認識の唯一の教師である、と主張するのであるが、彼がその根拠を、主として聖書とアウグスティヌスに仰いでいることは明らかである。

 次に、ボナヴェントゥラは、われわれが知恵へと到達する順序(ordo)を問題にする。

「順序が存在するのは、信仰の堅固さから始めて、理性の透明さによって進み、観想の甘美さへと達するためである。キリストが、『私は道であり、真理であり、命である』(『ヨハネによる福音書』14,6)と言われたとき、この順序を定められたのである。」七十人訳聖書(Septuaginta)の『イザヤ書』7,9 には、「あなたたちは、もし信じないならば、理解しないであろう」とある。信仰が先で、知性の理解はその後に続き、観想が最後に来るというのが順序であろう。ボナヴェントゥラは、「信仰をないがしろにし、ただ理性にのみ基づいた哲学者たちはこの順序を知らなかったので、決して観想へと到達することができなかった」と言う。アウグスティヌスも、『三位一体論』1,2,4 で、「人間の精神の弱いまなざしは、信仰の義によって浄められるのでなければ、かくも高貴な光を凝視することはできない」と言っているが、このことをさしているのである。

 また、ボナヴェントゥラは、われわれが知恵へ到達するための指導者(auctor)、教師 (doctor)が誰であるかを問題にする。それはキリストである。キリストは「われわれの知性認識の導き手(director)、援助者(adiutor)であるが、彼が導き手、援助者であるその仕方は、すべての自然的働きにおいてそうであるように、単に一般的な仕方においてだけでなく、また恩寵のはたらきや功徳においてそうであるように、特殊的な仕方においてだけでもなくて、ある意味でその中間の仕方において、そうなのである。」

 このことを明らかにするために、ボナヴェントゥラは、被造物のうちに見出される神との一致の三重の様式(triplex modus conformitatis ad Deum)を区別する。あるものが神と一致する仕方は、まず第一に、痕跡(vestigium)としてである。痕跡として神に一致するとは、神がそのものの原因としての根源(principium causativum)であるという仕方で、神に関係づけられるということである。第二に、似姿(imago)として、あるものは神と一致する。似姿として神に一致するとは、第一の仕方でだけでなく、更にその上に、そのあるものが神を自己の運動の対象(obiectus motivus)とするような仕方で、神に関係づけられるということである。そのようなあるものとは人間のことであって、人間だけが自らを動かして神へと向かうことができるのである。人間はその認識と愛によって(per cognitionem et amorem)神との一致(conformitas ad Deum)へと呼ばれているのである。アウグスティヌスは『三位一体論』14,8,11 で、「魂は神を受け入れることが可能な者(capax Dei)であり、神に参与する者(particeps)でありうるがゆえに、神の似姿である」と述べている。先に、キリストが一般的でも、特殊的でもなく、その中間の仕方で、われわれの知性認識の導き手、援助者であると言われたのは、神の似姿(imago Dei)であるわれわれ人間に対して、そうなのであろう。第三に、あるものが神と一致する仕方は、類似性(similitudo)としてである。類似性として神に一致するとは、単に原因としての根源という仕方や、運動の対象という仕方によってばかりでなく、また更に、注入の賜物という仕方によって(per modum doni infusi)神に関係づけられるということである。これは、恩寵による注入の賜物(donum infusum per gratiam)を受けて、神との最も親密な一致を確保できるあり方であるが、選ばれた者に許された特権ではなかろうか。

 ボナヴェントゥラは、このことを被造物の働き(operationes creaturae)の三つの区別とし、それぞれの働きに神が共働し(cooperatur)たもうあり方を次のように言う。まず、自然的な働き (actiones naturales)がある。これは、被造物が痕跡である限りの働きであって、神はその働きにその根源および原理(principium et causa)として共働したもう。次に、知性的な働き(actiones intellectuales)がある。これは、被造物が似姿である限りの働きであって、神はその働きにその運動の対象および根拠(obiectum et ratio mo tiva)として共働したもう。最後に、功績の働き(operationes meritoriae)がある。これは、被造物が類似性である限りの働きであって、神はその働きに恩寵による注入の賜物 (donum infusum per gratiam )として共働したもう。ボナヴェントゥラは、以上のことがアウグスティヌスの「神は存在の原因(causa essendi)、知性認識の根拠(ratio intelligendi)そして生の秩序(ordo vivendi)である」(『神国論』8,4 )ということの意味である、と考える。

 「神が知性認識の根拠である」と言われるとき、神が知性認識の唯一の、自明の、全体的な根拠(ratio sola,nuda et aperta,tota)だと考えられてはならない。「もし神が唯一の根拠であるとすれば、知識という認識(cognitio scientiae)は知恵という認識(cognitio sapientiae)と異ならないであろうし、みことばにおける認識(cognitio in Verbo)は固有の種における認識(cognitio in proprio genere)と異ならないであろう。更に、神が知性認識の自明の根拠であるとすれば、途上の認識(cognitio viae)は天国の認識(cognitio patriae)と異ならないであろうが、これは、後者が顔と顔を合せての(facie ad faciem)認識であるのに、前者が鏡を通して、謎における(per speculum et in aenigmate)認識であるからして、誤りである。というのは、われわれの知性認識は途上の状態にあっては表象像(phantasma)なしにはないからである。最後に、神が知性認識の全体的根拠であるとすれば、われわれは事物を認識するために形相(species)と受容(receptio)を必要としないであろう。このことは明らかに誤りである。というのは、一つの感覚を失えば、われわれは必然的に一つの知識を失わなければならないからである。」

 ボナヴェントゥラの以上の議論は、人間の知性的な働きが似姿である限りの働きとしてあくまでも途上の認識であることをまぬがれることができないということを言おうとしているのであろう。途上の認識は「感覚、記憶、経験を介して」(via sensus,memoriae et experientiae)生み出される。「それらから、技術と知識の原理である普遍的なものがわれわれのうちに集められる。」

 ボナヴェントゥラは、可感的世界(mundus sensibilis)と叡智的ないしイデア的世界 (mundus intelligibilis sive idalis)の区別を認め、創造された理性(rationes crea tas)に従って進む知識の道(via scientiae)と永遠の理性(rationes aeternas)に従って進む知恵の道(via sapientiae)を人間の認識の二つの在り方と考えている。「魂は永遠の法に結び付けられていて(connexa sit legibus aeternis)、その最も高次の能動知性の眼ざしおよび理性のより高次の部分に従って、ある仕方でかの光と接触している。」プラトンは知識の道を軽んじて知恵の道を強固なものとしたが、アリストテレスは、反対に、知識の道を強化して知恵の道をないがしろにした、とボナヴェントゥラは言う。「哲学者のうちで、プラトンに知恵のことば(sermo sapientiae)が、アリストテレスに知識のことば(sermo scientiae)が与えられたと思われる。前者は主としてより高次のもの(superiora)を、後者は、それに対して、主としてより低次のもの(inferiora)を注視したからである。」以上、見てきたように、知恵、みことばにおける認識、永遠の理性に従う認識が知識、固有の種における認識、創造された理性に従う認識と対比されて語られた。この二通りの認識の在り方は、人間が神の似姿として創造され、物質と感覚の世界に置かれながら、知性と愛によって神へと向かわなければならないという在り方、換言すれば、人間の旅人としての在り方(homo viator)に由来しているのではないだろうか。

 ボナヴェントゥラは更に次のように言う。「しかし、両方のことば、すなわち、知恵のことばと知識のことばが、聖霊によって、いわば全聖書の優れた解説者であるアウグスティヌスに、かなり優れた仕方で(satis excellenter)与えられた。ところが、パウロとモーセにおいては、それよりももっと優れた仕方で(excellentiori modo)与えられていた。−−モーセはいわば外形の法の奉仕者(minister legis figurae)であり、パウロは恩寵の法の奉仕者(minister legis gratiae)である−−。」外形の法の奉仕者とは何か。旧約の律法は儀式や生活の隅々に至るまで、外に現れる形式を重視する。律法を人々に教えるためには、知識のことばだけでなく、知恵のことばにも優れていなければならない。なぜなら、律法は神との関わりのなかで、神によって与えられたからである。モーセについてボナヴェントゥラが引いている聖書の箇所は、『使徒行伝』7,22[「エジプト人のあらゆる知恵をさずけられた」(eruditus in omni sapientia Aegiptiorum)]と『出エジプト記』25,40 [「山の上であなたに示された模型を見て、これに従ってしなさい」(Inspice et fac secundum exemplar, quod tibi in monte monstratum est)]である。「模型に従って」と言われるとき、その模型を示されたのは神ご自身である。モーセは神から与えられた型(figura)としての律法に奉仕する者として働いたのである。重の仕方で訓育 パウロが恩寵の法の奉仕者であるということについては、説明の要はないであろう。

 「しかし、最も優れた仕方で(excellentissime)知識のことばと知恵のことばがあったのは、われらの主・イエズス・キリストのうちにであって、キリストは第一の立法者(principalis legislator)であったと同時に、完全な旅人(perfectus viator)そして永遠の至福を得た人(comprehensor)であった。」キリストは法の奉仕者(minister ligis)ではなくて、立法者しかも第一の立法者であった。キリストは律法の中の最大の掟、神への愛(『マタイによる福音書』22,37 ・『申命記』6,5 )を命ぜられた主なる神と一体であられた。完全な旅人と言われるのは、みことばの受肉としての降誕に始まり、十字架上の死に至るキリストの生涯を見れば分る。永遠の至福を得た人ということも説明の要はないであろう。ボナヴェントゥラは「それゆえに、ひとりキリストだけが第一の師にして教師(principalis magister et doctor)である。」と結論する。この「第一の」というのは「最初の」という数的序列において一番であることを指しているのではなく、princeps、つまり、権威と尊厳において第一人者である者について言われているのである。以上見たように、ボナヴェントゥラは、キリストの教師性を、道、真理、生命であるキリストに見出し、キリストを信仰、知性認識そして観想の教師として位置づけた。聖書とアウグスティヌスに主として拠りながら、彼が取り出してくる論点は、まさに彼の考察そのものに相応して、信仰から出発し、論証を経て、至福の観想を目指していると私には思われる。

 このような三重の認識の原理・原因である教師・キリストに対して、われわれにはいかなる態度が要求されるのであろうか。

 「そのような第一の教師としてのキリストは、第一に(principaliter)[すなわち、権威と尊厳において傑出した者に相応しい仕方で]尊敬され、聴かれ、尋ねられるべきである。」ボナヴェントゥラの言い方は至極当然であると言える。権威と尊厳において傑出した者がそれに相応しい仕方で尊敬され、聴かれ、尋ねられるべきであるのは当然だからである。しかし、「尊敬されるべき」(honorandus)理由が検討されねばならない。ボナヴェントゥラは、「彼・キリストに教師たることの尊厳(dignitas magisterii)を帰すためである。」と言う。『マタイによる福音書』23,8には、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」とあり、『ヨハネによる福音書』13,13 では、「あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。」と言われている。しかし、このことは単に呼称の問題だけではない。教師・キリストは「単に会話の中での呼称による仕方で(vocaliterin locutione)だけでなくて、また模倣において現実に(realiter in imitatione)も尊敬されるべきである。」『ルカによる福音書』14,27 で「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない。」と言われている通りである。今日われわれは模倣の価値を非常に低く見ているが、師を真に尊敬するということの中には師に似た者になろうとする努力も含まれているのではないだろうか。

 次に、教師・キリストは「また、権威と尊厳において傑出した者に相応しい仕方で、信仰の謙虚さによって聴かれるべきである」(Est etiam principaliter audiendus per humilitatem fidei)。信仰の謙虚さによって聴く、というのは、実際に見るとか、論証によって認めるということではなく、おのれの身を低くして相手の言に耳を傾けることではないだろうか。ボナヴェントゥラは、『イザヤ書』50,4の「主は、私が主を師として聴くように、私の耳を朝ごとに開かれる」という箇所を引用し、そこで「開かれる」ということばが二度繰返されている(Erigit mane,Mane erigit mihi aurem)意味を、次のように解釈する。「われわれの耳が服従するため(ad obediendum)にも開かれる(erigatur)のでなければ、理解するために(ad intelligendum)開かれるということは十分なことではないからである」と。『マタイによる福音書』13,43 で、「聴く耳を持つ人は聴け」と言われているのは、単に頭で理解することが求められているのではなく、聴いて従う用意をしていることが求められているのであろう。「キリストは単に言葉によって(verbo)だけでなく、また模範によって(exemplo)もわれわれを教えられる。そのゆえに、(師が言う)言葉に(自分の)理解を一致させ、(師が為す)行為に(自分の)服従を一致させるのでなければ、完全な聴き手(perfectus auditor)ではない。」ボナヴェントゥラがここで述べていることは今日のわれわれにとっていかに困難なものとなっていることであろうか。彼が言うような意味で、われわれはもはや聴かなくなったのではないだろうか。しかし、そのとき、理解ということも不十分な仕方でしか成立していないのではないだろうか。

 最後に、教師・キリストは「また彼に相応しい仕方で、学習の意欲によって尋ねられるべきである」(Est etiam principaliter interrogandus per desiderium addiscendi)。学ぶ者は学びたいという願いによって教師に質問するはずである。単なる好奇心から、あるいは試みのために質問することは教師に対する相応しい態度ではない。ボナヴェントゥラは、『マタイによる福音書』12,38 における律法学士のような試みの質問、力のしるし(signa virtutis)を求める質問を退け、『ヨハネによる福音書』3,2 のニコデモのように、真理のあかし(documenta veritatis)を求める質問をよしとしている。このことも、われわれには大きな示唆を与えるのではないだろうか。学習の意欲によって問を発するということは言うほど簡単なことではない。教授による学習は単なる教え込みの受容という受動的な働きではなくて、学ぶ者の願望・意欲に発し、真理の教授(documentum veritatis)を求めて、師に尋ねること、助言を求めることではないだろうか。以上に見たように、ボナヴェントゥラは教師・キリストに対して弟子たるわれわれが取るべき態度について述べたが、次に、教師・キリストに対して弟子たるわれわれが尋ねるべき内容を検討する。

 「しかし、この教師は知識に関わる事柄、規律に関わる事柄、善に関わる事柄について尋ねられるべきである。『詩篇』118,66に『善と規律と知識を私に教えよ』(Bonitatem et disciplinam et scientiam doce me)とある。なぜなら、知識は真なるものの会得  (notitia veri)に存し、規律は悪を避けること(cautela mali)に、善さは善きものの選択(eligentia boni)に存するからである。第一のものは真理に関係し、第二のものは聖性 (sanctitas)に、第三のものは愛(caritas)に関係する。」

 第一に、キリストは「知識の真理に関わる事柄について、試みの熱意によって(studio tentandi)ではなく、尋ねられるべきである。」悪しき意図をもって(mala intentione)質問すべきではない。第二に、キリストは「規律の聖性に関わる事柄について尋ねられるべきである。」規律は命ぜられたこと(mandata)、忠告(consilia)を守り、われわれを罪へと駆立てるものを避けることのうちに存する。第三に、キリストは「善意の愛に関わる事柄について、律法の教師の模範によって(exemplo legis doctoris)尋ねられるべきである。」キリストは「律法の完成は愛である」(plenitudo Legis est dilectio)ことを示されたのである。「それゆえに、教師としてのキリストが尋ねられるべき事柄はこれら三つのものである。」すなわち、知識の真理、規律の聖性、善意の愛に関わる事柄である。

 最後に、ボナヴェントゥラは教師・キリストに倣うべき人間の教師のあり方について次のように語る。「そして、キリストの全律法はこれらのものに秩序づけられている。それゆえに、奉仕者として教える者のすべての教え(omnis doctrina ministerialis doctoris)は、かの最高の教師の下で、教師たるの職務(officium magisterii)が相応しく遂行されるために、これら三つのものに秩序づけられなければならないのである。」ここで言われている「奉仕者としての教師」(doctor sive magister ministerialis)とは、人間の教師、あの最高の教師であるキリストの下で、神と隣人への奉仕者として教師の職務・役割・義務・責任の遂行を委ねられた人のことである。

 第一に、真理に秩序づけられている「奉仕者としての教師は信仰の真理の知識を志さなければならない。」『テモテへの手紙 一』2,7 の中で、パウロはこう言っている。「わたしは…異邦人に信仰と真理を説く教師(doctor gentium in fide et veritate)として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。」また、『ペトロの手紙 二』1,16には、「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。」とある。

 第二に、聖性に秩序づけられている奉仕者としての教師は「魂の聖性の規律を志さなければならない。」『テモテへの手紙 二』1,11,12 では次のように言われている。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けている…。」また、『『箴言』19,11 は「人間の教えは忍耐によって知られる。」(doctrina viri per patientiam noscitur)と言う。ボナヴェントゥラの以下のコメントはわれわれの耳には痛い。「思うに、愚か者が知恵を教えることが相応しくないのと同じように、忍耐のない者が忍耐を教えることは相応しくなく。また規律のない者が規律を教えることも相応しくない。道徳的な事柄においては模範は言葉よりも人を動かすものである。」

 第三に、愛に秩序づけられている奉仕者としての教師は「神と隣人への愛の善意(benevolentia caritatis Dei et proximi)を志さなければならない。」『コヘレトの言葉』12,11 には、「知恵ある者のことばは刺し釘のようであり、また深く打ち込まれた杭のようなものだ。それは教師たちの集会を通じて一人の牧者から与えられたものだ。」とある。ボナヴェントゥラは、「知恵ある者のことば」とは「神の愛のことば」(verba divini amoris)のことであり、それはわれわれの「心の髄を刺し貫く」(penetrant medullas cordis)ものだと言う。「神の愛は多くの者のことば、すなわち、新約・旧約両聖書のあかしによって称賛され、説得されるであろうが、しかし、すべての者の牧場であり、牧者である唯一のみことばから息吹として発せられる(spiratur)のである。それゆえに、あのすべてのことばは同じものから出て、また同じものへと赴くのである。」神の愛のことばが「教師たちの集会を通じて与えられる」(dari per magistrorum consilium)とは、「考えを同じくする者(idem sentientium)を通じて与えられる」ということである。「そしてすべてのキリスト教的律法の教師たちは、最終的に愛の結び付き(vinculum caritatis)を目指さなければならないがゆえに、その考えにおいて心を同じくし(concordare in suis sententiis)なければならない。」『ヤコブ書』3,1 の「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち、多くの人が教師になってはなりません」ということばの意味は。「彼らに知識の伝達の賜物を禁じる」(Prohibere eos a doni scientiae communicatione)ということではなく、「さまざまな、異なった意見を持つことがないように」(ut non habeant varias sententias et peregrinas)、そして「分裂が生じないないように」(ut non sint schimata)ということである。「なぜなら、意見の対立はその端緒を傲慢に持つからである。」(Nam dissentio sententiarum ortum habet a praesumtione)『『箴言』13,10 では、「高慢にふるまえば争いになるばかりだ」と言われているが、そのような場合には混乱が生ずるのである。『テモテへの手紙 一』6,3-5 では次のように言われている。「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全なことばにも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから。ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け…」

 「それゆえに、真理の認識(perceptio veritatis)を妨げるこれら三つのもの、すなわち、心の傲慢(praesumtio sensuum)、意見の対立(dissentio sententiarum)、真理発見への絶望(desperatio inveniendi verum)が存在するがゆえに、これらに対抗して、キリストは次のように言われるのである。『あなたたちの教師はただひとり、キリストである。』と。私は次のように言おう。キリストは、われわれがその知識によって傲慢にならないように、『キリストが教師である』と言われる。心においてわれわれが不一致とならないように、『ただひとり』と言われる。キリストご自身がかの聖霊を送って、われわれを教えることを最も望み、知り、そしてできるからして、われわれが絶望しないように、われわれを助ける準備を整えて、『あなたたちの』と言われる。この最後の点は懐疑論に陥ることへの戒めとして、教育を考えるうえで大切なことではないだろうか。

            

 以上、ボナヴェントゥラの論述をかなり忠実に辿ってきた。彼の教師論をこの著作だけに求めることは適切ではないであろうが、これだけに限って言えば、彼の論述の仕方は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスのそれよりも遥かに聖書的、神学的である。それは、この著作の性格が説教であるということに起因することかもしれない。宗教的な色彩が強いことは否定できないが、彼が提出している問題は普遍的なものを含んでいると筆者には思われるのである。  ボナヴェントゥラは信仰的認識、理性的認識、観想的認識という三つの認識の在り方を区別した。これらの区別は、ある意味で人間の段階的な認識の在り方を示していると思われる。こどもは理性が発達する以前に、おとなの言うことを信じなければならない。理性的認識が可能な段階に達しても信仰的認識はなくなるわけではないが、どちらが先かといえば、信仰的認識が先行すると言わなければならない。そういう意味で人間の認識のプロセスを考えても差支えないと思われる。すべてを理性的認識に限ってしまうことは、自らの世界を狭小なものとしてしまうことではないだろうか。教授・学習の問題に限って考えてみても、教師やおとなの言うことを何も信じることが許されないこどもは果たして何かを学ぶことが可能であろうか。ボナヴェントゥラが信仰的認識について語っているのは宗教的・キリスト教的次元においてであるが、もう少し一般化すれば、知と信の問題としてとらえることもできるのではないだろうか。知の成立において信の果たす役割を無視する教育学は重大な事を見落としていると思われる。

 理性的認識がボナヴェントゥラにとって人間の認識の唯一の在り方ではないことは見てきた通りである。彼が観想的認識によって人間は生命に至ると主張したとき、彼の視野は此岸を超えて彼岸にまで拡大し、人間を神から出て神へ帰る旅人として見る展望がそこには開かれている。途上にある者は目的を意識していなければ、さまよわざるを得ない。目的を意識することによって、途上の在り方を調整するのが人間的な生き方であろう。ボナヴェントゥラにとって、信仰的認識と観想的認識とは円環的に接続していると思われる。信仰的認識から出発し、理性的認識を経て、観想的認識へと至るという段階が考えられる一方で、それらは円環を成して人間の認識の三つの様式を構成しており。それらの認識によって、人間は完成される。ボナヴェントゥラにとって、これらの認識の唯一の真の教師はキリスト以外にはありえないのである。

 理性的認識に関して、ボナヴェントゥラはアウグスティヌス的な照明説をとるが、感覚、記憶、経験が認識の成立にとって不可欠のものであることを承認する点で、アリストテレス的な経験論の立場にも立つ。教育の問題、特に教授・学習の問題を考察する上で、この点は多くの示唆を与えるものであるが、紙数の関係で、今回は深く論究しなかった。

 教師・生徒関係についてのボナヴェントゥラの主張も聴くべき点が多いと思う。彼は、生徒として教師に対する態度と教師として生徒に対する態度のあるべき姿を我々に提示する。それらは権威主義的とか伝統的と言われて、現代の教育において無視ないし軽視されてきた点であるが、再考の余地があるのではないだろうか。

[注]

1) Bonaventura,Opera Omnia,tomus V,Typographia Collegii S. Bonaventurae, Quaracchi, 1891, pp. 567-574
 その他に参照したのは、Obras de San Buenaventura,Tomo I,Biblioteca De Autores  Cristianos,Madrid,1955,pp.669-701である。
2) 坂口ふみ氏は、「彼(ボナヴェントゥラ=筆者)の神学の全体が『人を神へ導く道』であり、『我々が善くなるため』のものであり、その意味でいわば教育的・実践的なものである」と言われているが、そのようなものとして、この説教の他に、『修道女たちのための生活の完成についての書』(De Perfectione Vitae ad Sorores)、『セラフィムの六枚の翼について』(De Sex Alis Seraphim)等を挙げておられる。(『教育思想史 IV 中世の教育思想(下) pp.131-155[5]ボナヴェントゥラ 上智大学中世思想研究所編 1985 東洋館出版社)
3) 以下に引用する聖書は『聖書 新共同訳』、日本聖書協会、1987を用いたが、そうしなかった場合は注記した。
4) Christus,unus omnium magiter,n.1.以下Christus magister と略す。尚、この説教はn.1-n.28に区分されている。
5) ibid.
6) Idem,n.2
7) Ibid.
8) Ibid.
9) Ibid.
10)Ibid.
11)Idem n.3
12)Ibid.
13)Ibid.
14)Ibid.
15)Idem n.4
16)Ibid.
17)Idem n.5
18)Ibid.
19)Ibid.
20)Idem n.6
21)アウグスティヌスは『三位一体論』9,12,18 において、「知は認識する者と認識されるものとの両者から生れる」(Ab utroque enim notitia paritur,a cognoscente et cognito.)と述べている。
22)Christus magister,n.6
23)Ibid.
24)Ibid.
25)Idem n.7
26)Ibid.
27)Ibid.
28)Ibid.
29)Ibid.
30)Ibid.
31)Ibid.
32)Idem n.8
33)Ibid.
34)Idem n.9
35)Idem n.10
36)Ibid.
37)Ibid.
38)Idem n.11
39)Ibid.
40)Ibid.
41)Ibid.
42)Idem n.12
43)Ibid.
44)Ibid.
45)Idem n.13
46)Ibid.
47)Ibid.
48)Ibid.
49)Ibid.
50)Idem n.14
51)Ibid.
52)Ibid.
53)Ibid.
54)Ibid.
55)Idem n.15
56)Ibid. Nisi credideritis, non intelligetis. ヴルガタ訳ではSi non credideritis, non permanebitis 「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
57)Ibid.
58)Ibid.
59)Idem n.16
60)Ibid.
61)Ibid.
62)Ibid.
63)Idem n.17
64)Ibid.
65)Idem n.18
66)Ibid.
67)Ibid.
68)Ibid.
69)Ibid.
70)Ibid.
71)Ibid.
72)Idem n.19
73)Ibid.
74)Ibid.
75)Ibid.
76)princeps=first in authority,dignity,or reputation,most distinguished,leading, chief. Oxford Latin Dictionary,ed.by P.G.W. Glare,1982,p.1458.
77)Christus magister,n.20
78)Ibid.
79)Ibid.
80)Ibid.
81)Ibid.
82)Ibid.
83)Idem n.21
84)Ibid. 「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。」(新共同訳)
85)Ibid.
86)Ibid. 「耳のある者は聞きなさい。」(新共同訳)
87)Ibid.
88)Idem n.22
89)Ibid.
90)Ibid.
91)ヴルガタ版では、Iudicium et scientiam doce me となっている。「確かな判断力と知識をもつように わたしを教えてください。」(新共同訳)
92)Christus magister,n.23
93)Ibid.
94)Ibid.
95)Ibid.
96)Ibid.
97)Ibid.
98)Ibid.
99)Idem n.24
100)Ibid.
101)Ibid.
102)Ibid.
103)Ibid.
104)Ibid.
105)Idem n.25
106)Ibid.
107)Ibid. 新共同訳では「成功する人は忍耐する人。」となっている。
108)Ibid.
109)Idem n.26
110)Ibid. 「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」(新共同訳)
111)Ibid.
112)Ibid.
113)Ibid.
114)Ibid.
115)Ibid.
116)Idem n.27
117)Ibid.
118)Ibid.
119)Ibid.

1987.09.30


『アカデミア』人文・社会科学編 第47号 pp.65-93 1988年1月から転載

トップページ

パイデイア

inserted by FC2 system