祝せられたおとめマリアの鑑

ザクセンのコンラート

三上 茂訳

これは"The Mirror of the Blessed Virgin Mary"を翻訳したものです。テキストはEWTN Libraryからのものです。EWTN Libraryのテキストでは作者はSt.Bonaventureとなっています。英訳者と原典を探して昨年来苦労しましたが、先日アメリカの"Franciscans of the Immaculate"のRev.Fr. Peter Damien Mary, FI, STDから以下のことを教えていただきました。長い間聖ボナヴェントゥラの作だとされてきたこの「祝せられたおとめマリアの鑑」は実は聖ボナヴェントゥラと同じ時期のフランシスコ会の少し年長の修道士、ドイツ、ニーダーザクセンのコンラート(Fr. Conrad of Saxony)によって書かれ、その原題は"Speculum Salutatio Beatae Mariae Virginis"であるということ、そして英訳は1932年にSr. Mary Emmanuel, OSBによってなされたということでした。ここに記してDamien師に感謝の意を表します。原文のラテン語テキストが見つかれば、改めてそれから翻訳したいと考えています。聖書の引用には日本聖書協会『聖書 新共同訳』を使用させて頂きましたが、場合によってはテキストの英語からのわたしの翻訳を使った個所もあります。

目次

序言

  1. 天使の挨拶について

  2. 現実的な罪の三重の禍い、本来的な悲惨の三重の禍い、永遠の罰の三重の禍いからのマリアの自由

  3. マリアという御名の意味

  4. 祝福されたマリアの御名はすべての悪徳から自由であり、あらゆる徳に満ち溢れている

  5. 祝福されたおとめマリアの恩寵は真であり、広大であり、多様であり、非常に有益である

  6. マリアにおける四重の恩寵−賜物の、話の、特権の、報償の恩寵

  7. マリアにおける九つの充実−それは栄光における天使たちの九つの合唱隊を表している

  8. マリアはすべての賜物を主と分かち持たれる

  9. 「主おんみと共にまします」

  10. 神の娘、母、許嫁、はしためであるマリア

  11. マリアはマリア自身のために、またわたしたちのために適切に曙に比較される

  12. 若枝あるいは幹、花咲く幹であるマリア

  13. 王と共に宮殿に入る女王に比較されるマリア

  14. マリアは恩寵の充溢、御子の威厳、慈悲の多さ、栄光の大きさのゆえに祝福されておられる

  15. マリアは七つの主要な悪徳に対する七つの徳によって祝福されておられる

  16. 祝福されたマリアの胎内の御子は誰であり、何であったか

  17. 祝福されたマリアの胎内の御子は誰に属するか、御子は誰に帰せられるか

  18. マリアの胎内の御子の諸結果、その十二の利益は誰に必要であるか

序言

 聖ヒエロニムスが指摘しているように、わたしたちの祝福された御母について立派に言われるものは何であれ、神の称賛と栄光をまったく高めるということは疑いない。
 それゆえに、わたしたちの主イエズス・キリストの栄誉と栄光のために、主のいとも栄光ある御母の称賛へ向かうであろう一つの作品を作ることを望みながら、わたしはわたしの論文の主題のために祝福された御母の最も甘美な崇敬を取り上げることが相応しいと判断した。しかし、わたしはそのような試みにとってわたしがまったく不十分であることを認める。第一に、主題の崇高さのゆえに。第二に、わたしの知識の貧しさのゆえに。第三に、わたしの言葉の無味乾燥さのゆえに。最後に、わたしの生活の価値のなさとわたしが歌おうと望んでいる方の至高の栄光と賛美に値することのゆえに。
 なぜなら、聖ヒエロニムスが次のように語ることを躊躇しないあの主題を不可解であると考えない者が誰かいるであろうか。「自然が所有せず、習慣が用いず、理性が欠落させており、人間の精神が理解することができず、天を震えさせ、地がものを言わせず、天のすべての住人を驚かせるもの、このすべてのことがガブリエルによってマリアに神的に告げられ、キリストにおいて実現された。」
 それゆえに、わたしはそのような、またそのように偉大な一人のヒロインについて語る値打ちが自分にないことを告白する。わたしは再び言う。アンセルムスの照明された精神がその仕事の提示において失敗するときに、わたしのわずかの知識とわたしの鈍い精神がマリアに相応しい賛美を考えるに十分であることができようか。なぜなら、アンセルムスはこう言っているからである。「貴婦人よ、わたしの舌は衰える、なぜなら、わたしの精神は不十分だからである。貴婦人よ、わたしの内部にあるすべては、わたしがあなたのそのように大きな好意に対してあなたに感謝を捧げるように燃える。しかし、わたしは相応しい賛美を考えることができない。わたしは相応しくないものを持ち出すことを恥じている。」

 聖アウグスティヌスはマリアに宛ててこう言っている。「才能においてこのように貧しいわたしはあなたについて何と言おうか? 何であれわたしがあなたについて言うことがあなたの偉大さに値するよりも少ない賛美しか言わないときに。」

 さらに、人々のうちで最も雄弁であったアウグスティヌスが次のように言うとき、わたしの訓練されていない舌、わたしの貧しい解釈力がマリアの賛美において失敗しないことがどのようにして可能であろうか? 「わたしたちのすべての肢体が舌になるとしても、わたしたちの内の誰もマリアを賛美するに相応しくないときに、このように小さい、このように弱いわたしたちはマリアの称賛において何を言おうか。」(注1)

 さらに、罪人の口からの賛美が相応しくないものである(シラ書15.9)とするならば、そのような価値のある人であるヒエロニムスが躊躇するということを聞くときに、哀れな罪人であり、最も相応しくない生活の人間であるわたしは、どのようにマリアの賛美を敢えて公言するであろうか? なぜなら、彼はこう言っているからである。「わたしは、わたしが相応しくない賛美者であることを証明しないように、わたしがあなたの期待を実現することを望んでいる間中恐れ、震える。なぜなら、わたしのうちには祝福された栄光ある乙女を相応しく賛美する聖性も雄弁もないからである」(注2)。

 さらに、「わたしはなぜ海に小さなコップ一杯の水を加えるべきなのか? なぜ山に一つの石を加えるべきなのか。マリアがすでに人々と天使たちの舌によって非常に適切に賛美されてきたから、わたしたちの取るに足りない努力、特にわたし自身の努力をこれらに加えることができるのか?」

 最後に、聖ヒエロニムスはマリアについて語りながら次のように言っている。「もしわたしが真理を語るべきであるならば、何であれ人間的な言葉において表現され得るものは天によって与えられた賛美よりは小さいものである。なぜなら、マリアは神的および天使的使者によって優れた仕方で説かれ、賛美されてきたし、預言者たちによって予告され、太祖たちによって予表と象徴において予め示され、福音史家たちによって述べられ記述され、天使たちによって相応しく、公式に挨拶されたからである。」(注3)。

 これらの事柄をまじめに考量したとき、敬虔な読者よ、わたしは何であれ、わたしのこの書物における不十分さであれ、技術の欠如であれ、それらに対してあなたの赦しを願わなければならない。そのように不十分なわたしがマリアのユニークな、熱心な賛美者である聖ベルナルドゥスの前でこの仕事においてどのようにして資格ある者として成功するであろうか? なぜなら、彼はこう言っているからである。「乙女である御母の栄光について説教することよりも大きな喜びをわたしに与えるものは何もない。」この喜びの理由を述べながら彼はこう続けている。「なぜなら、すべての人々は相応しいものである最も大きな愛情と献身をもってマリアを称賛し、抱き、受け取るからである。しかし、そのように語り得ないほどに至高な方について言われることは何であれ、それが言葉にされるというまさにその事実によって、相応しくなく、喜ばしくなく、受け入れがたいのである」(注4)。

 しかし、聖ヒエロニムスは次のように言いながらわたしを勇気づけ慰める。「マリアを賛美するに相応しい人は誰一人見出されることはできないけれども、しかしそれでも、罪人でさえその全力をもってマリアを賛美することを思いとどまることのないようにさせよう(注5)。

 聖アウグスティヌスは神の御子が御母に対して多産の賜物を与えられたが、しかしにもかかわらずマリアから生まれることによってマリアの統合性を取り去られななかったその仕方について語りながら、他の事柄と並んで、こう言っている。「そのように取るに足らないわたしたちは神のそのように大きな賜物について十分に語ることはできない。にもかかわらず、わたしたちは沈黙したままでいることによってわたしたちが恩知らずであると思われることがないように、マリアを賛美する声をあげることを強いられる。確かに、二枚の銅貨で神をそのように喜ばせる捧げ物をしたあの貧しいやもめは彼女がそれ以上を与えることができなかったゆえに、その捧げ物を思いとどまるべきであったのではない。むしろ、彼女にできることをすることによって彼女は神をいたく喜ばせたのである」。

 それゆえ、才能において非常に貧しく、同様に知識と雄弁に欠けているわたしがそのように偉大な女王に対してこのわたしの貧しい書物を敢えて捧げたということである。その中で、言ってみれば、一つのぼんやりした鏡においてのように、この偉大な女王を愛する単純な者たちがある不完全な仕方でその方が誰であり、どのように偉大であるかを知るべきであるということである。この論文は、言わば、マリアの生活、恩寵、栄光を反映する一種の鏡であり、「マリアの鑑」と名付けられているのは不適切ではないのである。それゆえに、おお、わたしの最も親切な貴婦人かつ御母よ、あなたを愛する貧しい者によって捧げられたこの小さな贈り物を寛大に受け取ってください!なぜなら、この取るに足らない贈り物、あなた自身の挨拶についてのこの小さな作品によってわたしはあなたを賛美するからである。膝を屈め、頭を垂れ、心と唇でわたしはあなたを賛美する。わたしはあなたに神の恵みを願う。めでたしマリア....

1.St.Augustine, "De Sanctis," CCVIII, n.5.
2.St.Jerome, "Epist. ad Paulam et Eustoch."
3."Epist.cit."
4."Serm. de Assumpt. B. Mar.," IV
5.St.Jerome I. c.

第1章 天使の挨拶について

 めでたし聖寵充ち満てるマリア、御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子も祝せられ給う。

 聞いてください、おお、いと甘美なるおとめマリアよ、新しい、驚くべき事柄を聞いてください!おお、娘よ、聴いてください、そして見給え、あなたの耳を傾けてください!栄光の使者、ガブリエルに聞いてください!あなたの多産の驚くべき仕方であるものを聞いてください!実りある同意にあなたの耳を傾けてください。御父なる神による一つの確実さとしてあなたに告げられたことを聞いてください!いかなる仕方で神の御子があなたに受肉された者と成られるかを見給え!あなたのうちでまさに働こうとされている聖霊にあなたの耳を傾けてください!なぜなら、あなたは聞く耳を持っておられるからである!

 そしてあなたが始めて聞かれたこれまで聞いたことのないこの挨拶を聞いてください。

 めでたしマリア。マリアというこの御名はここでガブリエルによって挿入されたのではなく、聖霊によって霊感を受けた信者の信心によって挿入されたのである。最後の文章、御胎内の御子も祝せられたまう、はその挨拶においてガブリエルによって発せられたのではなく、エリザベトによって預言の精神において発せられたのである。わたしたち各々すべてが、めでたしマリア、と言おう。おお、真に恵み深く、また尊敬すべき者よ、おお、真に輝かしく賛嘆すべき挨拶よ!ベーダが言っているように、「それが人間の経験においては聞かれたことがない限りで、それはそれだけ多くマリアの尊厳になっている」。

 この挨拶の最も甘美なものの中で五つの甘美な節が取り出される。そこにはおとめの五つの甘美な特権が含まれている。おお、これらの称賛がいかに甘美にほのめかされていることか!なぜなら、ここには祝福されたおとめマリアがいかに最も純粋であるか、いかに最も充実しているか、いかに最も堅固で安全であるか、いかに最も尊敬すべきか、いかに最も有益であるか、ということが意味されているからである。マリアは、そのうちにすべての欠陥をも持たれないがゆえに、最も純粋である。マリアはそのうちにおける恩寵の充溢のゆえに、最も充実しておられ、充溢しておられる。マリアはその内部での神の現前のゆえに最も堅固であり安全である。マリアは人格の尊厳のゆえに、最も尊敬すべきである。マリアは御子の卓越性のゆえに最も有益である。そのうちにおけるすべての悪の欠如のゆえにマリアがいかに純粋であられたかということはアヴェという言葉によってよく表現されている。アヴェという言葉がマリアに宛てられていることは正しい。マリアは罪のヴァエ(woe=悲しみ、悩み)から全く完全に免れておられた。このように、聖アンセルムスが証言しているように、それは神の母であることに相応しいことであった。「神人の懐胎が一人の最も純粋な母の懐胎であるということ、神の下でそれより偉大なものが何も存在しない童貞母の純粋性が、神御自身のみ心から、神御自身に等しいものとして神が生み給うた神の御独り子をその方に神が与えることを計画されたマリアのものであるべきだということ、それゆえ神が同時に神の子および人の子であるために御子をマリアに与えられたということは相応しいことであった」。

 さらに、賜物の豊かな充溢によってマリアがいかに恩寵に充ち満ちておられたかということは、それがマリアに言われたときによく表されている。「恩寵充ち満てる」。聖アンセルムスが最も敬虔に次のように言うときに証言するように、真に充実し、永遠に充実しているのである。「おお、恩寵に満ち、満ち溢れた女、その充溢によってすべての被造物は生き返り、再び新たにされる」。さらに、神の現前によってマリアがいかに安全で堅固であるかということは「主御身と共にまします」という言葉によってよく表されている。主がマリアと共におられるとき、マリアはまさしく安全で確実である。なぜなら、主、父なる神、御子、聖霊がマリアと共におられ、その結果マリアは一つの特別の仕方で最も密接に神と結びつけられておられるからである。聖ベルナルドゥスは次のように言うときこのことを示しているのである。「あなたがあなたの肉をまとわせた御子なる神だけでなく、またそれによってあなたが懐胎された聖霊なる神、あなたが懐胎された方を生み給うた父なる神もまたあなたと共におられる」。

 さらに、その人格の尊厳のゆえにいかにマリアが尊敬すべき方であるかということは「御身は女のうちにて祝せられ!」という言葉においてマリアが挨拶されたときによく表現されている。なぜなら、そのような祝福によって尊敬すべきものとされて、マリアの人格が最も尊敬すべきものではないということはあり得ないからである。それゆえに、聖アンセルムスは驚きに圧倒されてこう叫んでいる。「おお、祝福された、永遠に祝福されたおとめよ、あなたの祝福によってあらゆる被造物がその創造主によって祝福されるばかりでなく、創造主が被造物によって祝福される!」さらに、御子の卓越性によってマリアがいかに有益であるかということは、「御胎内の御子も祝せられ給う!」という言葉によってよく表現されている。なぜなら、マリアは救いの最も優れた、最も強力な実をもたらして、世を救う役に立たれたからである。それゆえに、敬虔な聖アンセルムスはこう言うのである。「あなたの実り豊かさによって、おお、貴婦人よ、汚れた罪人は義とされ、有罪を宣告された罪人は救われ、追放された者は呼び戻された。おお、貴婦人よ、あなたの御子は捕らわれた世を贖い、病人を癒やし、死者を生命へ上げられた。」

 それゆえに、愛する者よ、あなたは、どんな仕方でマリアがその罪からの免れのゆえにアヴェによって挨拶されることが正しいことかを見るのである。恩寵の豊かさと広大さのゆえにマリアが恩寵充ち満てる者として挨拶されることは正しいことである。マリアの内部での神の現前のゆえに、我らの主との親密性のゆえに、マリアは「主御身と共にまします」と言われるのである。人格の尊厳と尊敬のゆえに、マリアは正当に「女のうちにて祝せられ」と挨拶されるのである。御子の卓越性と有用性のゆえに、「御胎内の御子も祝せられ給う」と言われるのは相応しいことである。わたしたちは今これらの点の各々について順番に論じることにしよう。

第2章 現実の罪の三重の禍いからの、原罪の悲惨の三重の禍いからの、永遠の罰の三重の禍いからのマリアの自由

 めでたし聖寵充ち満てるマリア。わたしたちは皆このよい、甘美な言葉アヴェを声に出そう。それによって永遠の禍いからのわたしたちの贖いが始まったのである。わたしたちの一人一人がそれを口にするようにさせよう、とわたしは言う。すべての者がそれを最も敬虔に声に出すようにさせよう。アヴェ・マリア、アヴェ、アヴェ、繰り返し千回もアヴェ!と言いながら。見よ、アヴェはいかなる過ちからもマリアが絶対的に自由であるゆえに、最も聖なるおとめマリアに対して言われるのである。その完全な無垢と生活の純粋さのゆえに、アヴェはマリアの挨拶のまさに最初に、実際アヴェ、わざわいなしに(a vae あるいはabsque vae)と言われるのである。

 わたしたちはマリアがそれから完全に自由である"vae"あるいは禍いは三重であるということを考察しなければならない。罪、悲惨、地獄の禍いが存在する。現実の罪の禍い、原罪の悲惨の禍い、地獄の罰あるいは苦しみの禍いが存在する。これら三つの禍いについてわたしたちは黙示録のうちに読むことを不適切に理解してはならないであろう。ヨハネはこう言っている。「一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。」これらの禍いがそれぞれ三回繰り返されているが、その結果わたしたちは全部で九つの禍いを持つことになるということを見よ。それに対してアヴェはマリアに対して言われるのが正当である。なぜなら、この禍いのうちには三つの過ち、三つの悲惨、三つの地獄があるからであり、それの不在に対してマリアは正当にアヴェによって挨拶されるからである。

 第一に、罪の禍いは三重である。すなわち、心の罪の禍い、唇の罪の禍い、行いの罪の禍いである。これら三つの禍いのために三つの「不幸だ」が言われるであろう。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち!」それゆえに、心の罪のゆえに、イザヤ書において言われているように、罪人たちに禍いがある。「心の底から、主の忠告から隠れる者は禍いだ。」実際、心の底から悪へと向かう者には禍いあれ。なぜなら、心の底から悪を為す者たちは悪魔の巣窟であり、悪徳の汚れで一杯になった墓だからである。それゆえに、聖マタイ福音書において言われているように、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れに満ちている」。おお、聖ベルナルドゥスが言うように、マリアの最も無垢な心はこの禍いからどれほど遠いことであろうか。「マリアは彼女自身のどんな過ちをも持たれなかった。後悔は彼女の最も無垢な心から遠かった。」マリアの心は、彼女が罰に値するどんなことをも心の中に入れることを決して許されなかったとき、何について後悔することができたであろうか? それゆえに、彼女の純粋な心は悪魔の巣窟ではなく、悪徳の墓ではなかったのである。むしろ、それは雅歌の言葉によれば、聖霊の庭であり天国であった。「閉じられた庭はわたしの妹、わたしの花嫁」。--聖ヒエロニムスはこう言っている。「あらゆる徳の種子が蒔かれ、徳の香水がかけられた喜びの庭」と。マリアは罪のこの禍いから遠かったゆえに、彼女に対してアヴェと言われることは正当である。

 さらに、イザヤ書において言われているように、唇の罪のゆえに罪人たちに禍いあれ。「悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ者に禍いあれ」。詩編において言われているように、彼らに禍いあれ、唇によって罪を犯すすべての者に禍いあれ。「まむしの毒が彼らの唇の下にある」。おお、マリアの最も無垢な口はこの禍いからいかに遠いことか!それゆえに、聖アンブロシウスはこう言っている。「マリアの目には悪いものは何もなかった。彼女の言葉には冗長なものは何もなかった。彼女の行為のうちには出しゃばったものは何もなかった」。マリアの唇には胆汁の苦さや悪魔の毒は何もなく、雅歌の言葉に従えば聖霊の蜂蜜とミルクがあった。「わたしの花嫁よ、あなたの唇は密のしたたる蜂の巣のようである。蜜とミルクはあなたの舌の下にある」。マリアは彼女が最も簡素な「主のはしためを見よ」という言葉を発せられたとき、彼女の唇にこの最も純粋なミルクを持たれなかったであろうか? 唇の罪の禍いがマリアからそのように完全に欠けていたので、それゆえに彼女はアヴェでもって挨拶されるのが正しいのである。

 さらに、シラの書において言われているように、彼らの行為の罪のゆえに罪人たちには禍いがある。(II,14)。「二心、邪悪な唇、悪を為す手は禍いだ」。心の罪のために二心は禍いだ。唇の罪のために邪悪な唇は禍いだ。彼らの行為の罪のために悪を為す手は禍いだ。おお、マリアのあらゆる行為、彼女の生活の全体はそのような禍いからいかに離れていたことか!それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「おとめたちの女王が、罪から完全に自由な生活を送られるという聖性の唯一の特権によって、死と罪の滅ぼし手に仕えられ、すべての者のために生命と正義の賜物を獲得されるということは相応しいことである」。

 彼女が思い、言葉、行いのいずれにおいてもほんのわずかのよごれも決して持たれなかったということに注意せよ。その結果、主は本当に彼女にこう言うことがおできになったのである。「おお、わたしの愛する者よ、あなたはすべて公正であり、あなたのうちにはいかなるしみもない」と。それゆえに、最も無垢で聖なるマリアは思い、言葉、行いにおいて禍いを持たれなかった。それゆえに彼女に対してはアヴェと言われるのである。

 第二に、わたしたちはマリアが現実の罪の三重の禍いから自由であったばかりでなく、原罪の悲惨の三重の禍いからも自由であったということを考察しなければならない。すなわち、生まれる者の悲惨から、生む者の悲惨から、死ぬ者の悲惨から自由であった。

 生まれることの悲惨の禍いは欲望の弱さの禍いである。生む者の禍いは陣痛の苦しみの禍いである。死ぬ者の禍いは塵と灰へと還元されることの悲惨である。これら三つの禍いのゆえに地上の住人たちには、「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上の住人たち」と言われるのである。生まれる者たちの禍いはわたしたちのうちに生まれる罪の燃料の禍いである。それによって、わたしたちの元々の堕落に従って、わたしたちはそのように善に対して弱く、そのように悪へと傾くのであり、その結果各人は罪の薪と共に生まれ、このことによって弱く、傷ついているのである。エレミヤと共に真にこう言うことができるのである。「ああ、禍いだ。わたしは傷を負い、わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病、わたしはこれに耐えよう。』」(エレミヤ x,19)。しかし、悲しいかな!生まれる者たちのうちには単に成人になったとき、現実の罪へ彼らを傾けさせる弱さと悲惨さばかりでなく、また小さな幼児のときでさえ神の怒りの下へ彼らをもたらす汚れと罪の禍いも存在する。それゆえに、使徒はこう言うのである。「生まれながらに神の怒りを受けるべき者である」(エフェソII,3)。おお、生まれる者たちのこの禍いからマリアの最も聖なる生まれはいかに遠かったことか。彼女は単に原罪から自由であったばかりでなく、またそれが罪へ導く限りで、悲惨の燃料からも遠かった。なぜなら、彼女は汚れなしに孕まれたからである。マリアの生まれがこの禍いから遠ざけられていたがゆえに、彼女はアヴェによって挨拶されるのである。

 さらに、生む者たちの悲惨はエヴァに対して告げられたあの原罪の呪いである。「お前は苦しんで子を産む」(創世記III,16)。この禍いのために産むすべての者たちに主が彼らのうちのある者に言われたことが言われるであろう。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」(マタイxxiv,19)。おお、マリアが懐胎され、産まれたとき、聖アウグスティヌスがこう言いながら証言するように、いかにこの禍いから遠かったことか。「おお、汚れなく純粋さ[そのものたる御子]を懐胎され、苦痛なしに癒やし[そのものたる主]を産まれたかの御母はいかに祝せられた方であることか」。そこまで産む者たちのこの禍いから遠かったがゆえに、マリアはアヴェをもって挨拶されるのである。

 さらに、死ぬ者たちの悲惨は罪人に対して次のように言われたとき、人間に課された塵への分解の禍いである。「汝は塵である。塵に帰るべし」(創世記III,19)。それゆえ、生まれ、死ぬ者たちについては集会の書の次の言葉が語られ得るのである。「神なき人々よ、いと高き主の律法を棄てるお前たちに禍いあれ、もしお前たちが生まれるなら、お前たちは悪事において生まれ、もしお前たちが死ぬならば、悪事のうちにあることがお前たちの分け前であろう」(集会の書,XLI,11f.)。

 確かに正しい者も不義な者も共に欲望の呪いの下に生まれる。塵へ還元される危険のうちにある。にもかかわらず、不敬虔な者にのみこの呪いは特に向けられている。なぜなら、彼らの欲望はよりいっそう致命的であり、彼らの塵への分解はよりいっそうおぞましいからである。邪悪な者にとっては彼らの悪しき傾向は正しい者よりもよりいっそう有害であり、彼らの未来の分解の記憶はよりいっそう苦い。おお、マリアの身体は、わたしたちが普遍的に信じているように、この分解からいかに遠かったことか。なぜなら、この身体は神の最も聖なる箱船であり、それには腐敗は不似合いであって、御子の似姿に従って、腐敗の何らかの汚れがそれを汚染することができる前に再び復活するからである。「主よ、立ち上がり あなたの憩いの地にお進みください あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も」(詩編CXXXI,8)。この箱船は不朽の木からできている。なぜなら、マリアの肉は決して腐敗しなかったからである。それゆえに、聖アウグスティヌスは次のように言っているがもっともである。「天は地よりもそのように輝かしい宝を保存するのによりいっそう相応しかった。正しく不朽性は統合性に従ったのであり、いかなる分解や腐敗にも従わなかった。」マリアが完全に生まれる者たちの悲惨から自由であったように、また彼女は死ぬことの禍いからも自由であった。彼女は正当にアヴェによって挨拶されるのである。

 第三に、わたしたちはマリアが現実的な罪の三重の禍いから、原罪の三重の禍いから免れておられたばかりでなく、また地獄の三重の苦しみから免れておられたということを考えなければならない。この三重の禍いは罰の大きさ、多さ、持続に存する。

 それゆえに、地獄に落とされた者、地獄に落とされるであろう者たちは、彼らの苦しみの大きさ、多さ、持続のゆえに禍いである。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち!」第一に、エゼキエルがこう言っているように、苦しみの大きさが存在する。「災いだ、流血の都よ。わたしもまた、薪の山を大きくする」(エゼキエル、XXIV,9)。流血の都は不敬虔な者たちの群衆である。地獄に落とされた者たちの大火においてはひとつの巨大な篝火が彼らから作られるであろう。おお、マリアの恩寵と栄光の大きさは苦しみの大きさのこの禍いからいかに遠く離れていたことか。彼女のためには地獄の悲しむべき苦しみの代わりに、神によって天におけるそのように大きな栄光が用意されていた。彼女は偉大であり、功績を纏っていたので、報償において偉大である。彼女自身はそれについて次のように言われているあの偉大な王座である。「ソロモン王もまた一つの大きな象牙の王座を作った」(列王上X,8)。マリアは恩寵と栄光において偉大なソロモンの王座である。聖ベルナルドゥスは次のように言っているがもっともである。「マリアが地上で他の誰よりも遙かに大きな恩寵を得られたように、彼女は天において非常に大きな唯一の栄光を得られた。」それゆえに、彼女には正当にアヴェと言われるのである。同様にまた地獄の苦しみの多さが存在する。イザヤはこう言っている。「彼らの霊魂は禍いだ。なぜなら、悪しき事柄が彼らに与えられるからである」(イザヤIII,9)。彼は悪しき事柄ども、と複数形で言っている。というのは、地獄においては悪を為す者たちに多くの、否、無限の悪しきことどもが与えられるからである。しかし、地獄において落とされた者たちに用意されていた多くの悪しきことどもとは反対に、マリアには神は天において多くのよきことどもを用意された。いかなる天使もいかなる聖人も、格言の書がこう言うように、天上的なよき事柄の多さと累積において彼女に匹敵することはできない。「多くの娘たちは富を一緒に集めた。あなたは彼らすべてに優った。」もしわたしたちがこれらの娘たちが人間の霊魂あるいは天使の知性であると理解するならば、彼女自身がおとめたちの最初の実り、証聖者たちの鑑、殉教者たちのバラ、使徒たちの支配者、預言者たちの神託、太祖たちの娘、天使たちの女王であるとき、彼女はおとめたち、証聖者たち、殉教者たち、使徒たち、預言者たち、太祖たち、天使たちの富に優らなかったであろうか? これらすべての富のうちの何が彼女に欠けているのか? 聖ヒエロニムスはこう言っている。「もしあなたがマリアを念入りに眺めるならば、彼女のうちに輝いていないいかなる徳も、いかなる美もいかなる輝きあるいは栄光もないのである。」

 ところで、地獄の苦しみもまたそれらの永遠性に存する。聖ユダの書簡にはこう言われている。「彼らは禍いだ、なぜなら、彼らはカインの道をたどり、バラムの迷いに陥り、コラの反逆によって滅んでしまう」(ユダ、I,11)からである。少し先のところではこう言われている。「彼らには永遠に暗闇が待ち設けている」。彼が、永遠に、と言っていることに注意せよ。いかなる終わりもないであろうこれらの苦しみと暗闇の持続がいかに大きいかを考えよ。しかし、地獄におけるこの永遠の暗闇の反対に、主はマリアのために天国における永遠の光を用意された。その結果、罪ある霊魂、悪魔の王座が奇跡的に永遠に暗闇であろうように、マリア、仲介者、キリストの王座は次の詩編の言葉に従って驚くべき仕方で永遠に輝くであろう。「彼女の王座はわたしの前に太陽のように、満月のようにとこしえに立つ」(詩編LXXXVIII,38)。

 それゆえに、このようにいと祝せられたおとめマリアが地獄の三重の禍いから、否、九つすべての禍いから自由であったように、彼女にアヴェが言われることは正当なのである。わたしたち各人にアヴェをもって彼女に挨拶させよう。彼女自身の甘美なアヴェを通じて、彼女がその御子我らの主イエズス・キリストによってすべての禍いからわたしたちすべてが救われるように祈ってくださるように彼女に嘆願して頂こう。

第3章 マリアという御名の意味

 アヴェ・マリア。わたしたちが上に述べたように、この御名はここでは天使によって挿入されたのではなくて、信者の信心によって挿入されたのである。祝せられた福音史家ルカは意味深くこう言っている。「そのおとめの名はマリアといった」(ルカI,27)。この最も聖なる、甘美な、価値ある御名はそのように聖なる、甘美な、価値ある一人のおとめにすぐれて相応しいものであった。なぜなら、マリアは苦い海、海の星、輝けるものあるいは照らす者を意味するからである。マリアは悪魔たちにとって苦い海である。人間たちにとっては彼女は海の星である。天使たちにとっては彼女は照らす者である。すべての被造物にとっては彼女は貴婦人である。

 マリアは「苦い海」と解釈される。このことは悪魔たちに対する彼女の力に申し分なく適している。マリアがいかなる仕方で海であるか、いかなる仕方で彼女が苦いか、彼女がどのように同時に海でありかつ苦いかということに注意せよ。マリアは恩寵の豊かな満ち溢れによって一つの海である。マリアは悪魔を水中に沈めることによって苦い海である。マリアは実際、御子の満ち溢れる受難によって海である。マリアは悪魔に対する彼女の力によって苦い海である。その中に悪魔はいわば沈められ、溺れさせられるのである。

 第一に、マリアが恩寵の豊かさのゆえに海と呼ばれるということを考えよ。集会の書にはこう言われている。「すべての川は海に流れ入る」(I,7)。川は聖霊の恩寵である。それゆえに、イエズスはこう言われる。「わたしを信じる者は、....その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。このことをイエズスは、彼らが受けようとしている聖霊について言われたのである(ヨハネ、VII,38)。すべての川は海に流れ入る。というのは、すべての聖人たちの恩寵はマリアの中へと流れ入るからである。なぜなら、天使たちの恩寵の川がマリアの中へ入り、太祖たちの恩寵の川がマリアの中へ入り、使徒たちの恩寵の川がマリアの中へ入り、殉教者たちの恩寵の川がマリアの中に入り、証聖者たちの恩寵の川がマリアの中に入り、童貞女たちの恩寵の川がマリアの中に入るからである。すべての川は海に入る。すなわち、すべての恩寵はマリアの中へ入るのである。それゆえに、彼女は何にもまして次の集会の書の言葉を言うことがおできになるのである。「わたしのうちに道と真理のすべての恩寵がある、わたしのうちに生命と徳のすべての希望がある」(XXIV,25)。その方を通じてそのような恩寵がすべての者の上に流れ出るマリアの中へすべての恩寵が流れ入るならば、それは何とすばらしいことであろうか!なぜなら、聖アウグスティヌスはこう言っているからである。「マリアよ、あなたは恩寵に充ち満ちておられる。それをあなたは主と共に見出されたのであり、全世界に注ぎ出すに値する方だったのである。」。

 第二に、御子の御受難において悲しみの剣が霊魂を貫いたとき、マリアが苦さで満たされたということを考えよ。そうなのだ、彼女はルツと共にこう言うことがおできになったのである。「どうかナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせた(苦さで満たした)のです」(ルツ、I,20)。同時に美しくかつ苦い者であったナオミはマリアを意味している。実際、聖霊の聖化によって美しく、しかし、御子の御受難によって苦かったのである。

 マリアの二人の息子たちは、神性において神人であり、人間性において人間である。マリアは身体において一人の息子の御母であり、霊においてもう一人の息子の御母である。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「あなたは王の御母である。あなたは追放者の御母である。あなたは神、審判者の御母、神と人間の御母である。あなたは両者の御母であるから、あなたの二人の息子たちの間の不和に耐えることがおできにならない」。聖アンセルムスはこう叫んでいる。「おお、祝せられた信頼よ、おお、安全な逃れ場よ、神の御母にしてわたしたちの御母よ!」マリアの二人の息子たちは御受難において両者とも殺された。一人は身体において、他の一人は精神において。一人は十字架の苦い死によって、他の一人は精神の不信によって。それゆえに、マリアの霊魂は、聖アウグスティヌスが次のように言って証言しているように、極端な苦さによって満たされたのである。「苦痛の強さで泣き出し、その弱った胸を打ちながら、かの愛すべき御母は体とすべての肢体とを非常に疲れさせられたので、歩行において躓きながらキリストの葬儀にほとんど歩を進めることがおできにならなかった」。あなたは今マリアがいかに聖霊の海であったかを見るのである。あなたはいかなる仕方で彼女がその御子の死において苦い海であったかを見るのである。

 第三に、紅海がその中に沈まされたエジプト人たちにとって苦かったように、マリアが悪魔にとって、悪魔によって圧迫された天使たちにとって苦い海であったということを考えよ。エジプト人たちについてわたしたちは出エジプト記のうちにこう読む。「主は海の水を彼らの上に返された」(出エジプト記、XV,19)。おお、この海はエジプト人たちにとっていかに苦く、恐怖に満ちたものであろうか!おお、このマリアは悪魔たちにとっていかに苦く、恐怖に満ちたものであろうか!それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「見える敵は、空の勢力がマリアの名前、保護、実例を恐れるようには、戦闘隊形における軍隊の大群をそれほど大きく恐れない。悪魔たちは、彼らがこの聖なる名前の頻繁な想起、マリアの敬虔な祈願、彼女の熱心な模倣を見出す所ではどこでも、火の前の蝋のように流れ、溶ける。あなたは今、マリアがいかなる仕方で溢れる恩寵の豊かさによって海であるか、彼女が主の御受難の強烈さによってどのように苦いか、マリアが彼らを押さえるために持っておられる力によって悪魔たちにとってどのように苦い海であるかを見るのである。

 今やわたしたちはマリアがどのように「海の星」と解釈されるかを考察しなければならない。この名前はマリアに最も相応しい。なぜなら、彼女は一つの星が海において船員たちにとって果たす役目を果たされるからである。船員たちは、遠い土地へ航行しようと企てるとき、その導きの光によって彼らの望んでいる土地へ彼らの道を迷わずに導いてくれる一つの星を選ぶ、ということをわたしたちは読むが、それは真実である。確かに、そのようなことがわたしたちの星であるマリアの役目である。彼女は純潔あるいは償いの船に乗って世間の海を航海する人々を天上の国の岸へ導かれるのである。そうだ、それゆえに、純潔な者はこう言うのである。「いかなる援助によって船は祖国の岸までそのように多くの危険の間を通って行くことができるのか?」彼は答える。「確実に、主として二つのものによって、木によって、また星によって、すなわち、十字架への信仰によって、また海の星、マリアがわたしたちのためにもたらされた光によってである」と。彼女の純粋さ、彼女の輝き、彼女の有益さのゆえに、マリアが海の星と比較されるのは非常に適切である。彼女は最も純粋に生きることによって最も純粋な星である。永遠の光をもたらすことによって最も輝く星である。わたしたちの真の故郷の岸へわたしたちを導くことによって最も有益な星である。

 第一に、マリアが純粋に、罪なしに生きることによって最も純粋な星であるということを考察せよ。それゆえに、知恵の書は彼女についてこう言っている。「彼女は光よりも太陽よりも美しい。とりわけ星たちのすべての配列である。そして光と比較されると彼女はよりいっそう純粋だと見られる」。ある人々はここに「よりいっそう純粋」の代わりに「の前に」を読む。しかし、いずれの句もわたしたちの星には相応しい。なぜなら、マリアは実際より先、あるいは前だからである。すなわち、彼女は最も価値があり、最も偉大だからである。マリアは太陽、星々、光よりも純粋である。なぜなら、尊厳さと純粋さの両方において彼女は太陽、星々、光を越えておられるからである。否、あらゆる霊的で天使的な被造物をさえ越えておられる。それについてこう言われている。「神は光を闇から分けられる」、すなわち、堅く立つ天使たちを堕ちた者どもから分けられるのである。マリアはこの天使的な光よりも先であり、純粋である。それゆえ、聖アンセルムスはこう叫んでいる。「おお、女のうちにて祝せられた方、純粋さにおいて天使たちにまさり、敬虔さにおいて聖人たちにまさる方よ!」見よ、マリアがいかにその生活の純粋さによって最も純粋な星であるかを。

 第二に、マリアが永遠の光を放つことによって、神の御子をもたらすことによって最も輝く星であるということを考察せよ。なぜなら、彼女は民数記において次のように言われるかの星だからである。「一つの星がヤコブから昇るであろう。一つの若枝がイスラエルから生え出るであろう」。 その若枝は神の御子であり、彼はわたしたちの星マリアの光線である。これはその方について次のように歌われているあの光線である。「一つの星の光線のように」。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「一つの星からの光線はその輝きを減らさない。またおとめの御子は御母の処女性を減らさない」。おお、最も真に祝せられた、おお、最も真に輝く星、マリア、聖ベルナルドゥスが言うように、彼女の光線は世界だけでなく、また天をも、そして地獄さえ貫いた。「彼女はヤコブから起こったあの輝く美しい星であり、その光線は全世界を照らし、その輝きは最も高いところにも輝き、地獄の中へさえ貫く」。マリアが最も純粋に生きることによって最も純粋な星であるように、彼女は神の御子をもたらすことによって最も輝く星である。

 第三に、マリアがわたしたちを天上の故郷へ導かれることによって天国の門へ導かれるように、御子の墓へこの世の海を渡ってわたしたちを導かれることによって、一つの最も有益な星であるということを考察せよ。彼女はマギたちを最も確実にキリストへ導いたあの輝く星のようなものである。マリアは現在の生活の波の中でわたしたちにとって最も必要であるあの星である。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「もしあなたが嵐によって圧倒されたくないならば、この星の輝きから目を逸らしてはならない。もし誘惑の風が起こるならば、もしあなたが誘惑の岩、苦難の岩に突き当たるならば、その星を見上げ、マリアを呼べ」。それゆえに、あなたがこの世の海において沈まないようにするためにその星に従い、マリアを模倣せよ。聖ベルナルドゥスが言うように、彼女に従うことが最も安全な道である。「彼女に従うならばあなたは迷わない。彼女に祈るならばあなたは決して絶望しない。彼女について考えるならばあなたは決して誤らない。彼女があなたを支えるならばあなたは倒れない。彼女の保護の下ではあなたは恐れることはない。彼女があなたの導き手であるならばあなたは疲れることがない。彼女の好意があればあなたはあなたの目的に達するであろう。そのようにしてあなた自身のうちにあなたは「そしてそのおとめの名はマリアであった」ということがいかに真に言われたかということを経験するであろう。

 マリアはまた照らす者あるいは光の与え手であると解釈されている。なぜなら、このおとめは黙示録の次の言葉に従えば、主の現前によって驚くべき仕方で照らされておられたからである。「わたしは、大きな権威を持っている別の天使が、天から降って来るのを見た。地上はその栄光によって輝いた」。神の御子は偉大な忠告の天使である。神の栄光によって照らされた地はマリアである。彼女は世界における神の恩寵によって照らされたので、今や天において神の栄光によって照らされておられる。すなわち、このように照らされたので、彼女は世界と天において一人の光の与え手となられる。それゆえに、わたしたちは照らされた者であるマリアが彼女の実例、彼女の利益、彼女の報償によって光の与え手であるということを考えなければならない。彼女は彼女の生活によって、彼女の慈悲の利益によって、彼女の栄光の報償によって光をお与えになるのである。

 マリアは彼女の最も輝かしい生活の実例によって光の与え手である。なぜなら、輝かしい生活によって世に光を与えられるのは彼女だからである。彼女はその輝かしい生活がすべての教会を照らす方である。彼女は、彼女によって教会が世界の暗闇に抗して照らされるというまさにこの目的のために神によって火を灯された教会のランプである。それゆえに、教会が祈るようにならんことを。忠実な霊魂が祈るようにならんことを。「なぜなら、あなたはわたしのランプを照らされるからです。おお、主よ、わたしの神よ、わたしの暗闇を照らしてください」。主はこのランプを最も輝かしく照らされた。この光によって主はわたしたちの霊魂の暗闇を逃がされた。聖ベルナルドゥスは次のように言ったときにこのことを感じたのである。「おお、マリアよ、あなたの徳の気高い実例によって、あなたはわたしたちをあなたに倣うように刺激された。このようにしてわたしたちの夜を照らされるのである。なぜなら、あなたの道に歩む者は暗闇を歩まず、生命の光を持つからである」。

 第二に、マリアがその恵み深い憐れみの恩恵によってどのように光の与え手であるかを考察せよ。次の詩編に従えば、イスラエル人が昔火の柱によって照らされたように、それによって多くの人々がこの世の夜に霊的に照らされるのである。「あなたは雲の柱において彼らを前へと導かれた」。マリアはわたしたちにとって雲の柱である。なぜなら、彼女は神の怒りの火のような熱から雲のようにわたしたちを守られるからである。彼女はまた、これも詩編において、「彼は雲を広げた」と言われているように、悪魔的な誘惑の熱からわたしたちを守られるのである。

 マリアは火の柱である。もしわたしたちがそのように明るいランプ、そのように光輝く柱を持たなかったならば、そのように暗闇に満ちているわたしたち惨めな存在はどうなったであろうか? 太陽なしには世界はどうなったであろうか? 聖ベルナルドゥスはこう言っている。「この明るい物体、太陽を取り去ってみよ。何が世界に光を与えるだろうか、昼はどこにあるだろうか? マリアを、この海の星を取り去ってみよ。そうすれば覆う雲、死の影、最も濃い暗闇以外に何が残るだろうか?」あなたはマリアが彼女の最も超越的に明るい生活によってどのように光の与え手であるかを見た。あなたは今や彼女の最もまばゆい憐れみによって彼女がどのように照らす者であるかを見るであろう。

 第三に、マリアがまたその最もまばゆい栄光によってどのように照らす者であるかを考察せよ。その栄光は、集会の書の次の言葉に従えば、太陽が世界を照らすように、天の全体を照らすのである。「光輝く太陽は万物に目を注ぎ、主の業はその栄光に満ちている」(集会の書、XLII,16)。主の業はその栄光に満ちている。主の最も優れた業はマリアである。この業は、それがこの世界において主の恩寵に満ちていたように、天において主の栄光に満ちている。それゆえこのように、その栄光によって光を与えるマリアは万物に目を注がれる。というのは、すべての天使たち、すべての聖人たちを通じて彼女はその栄光の照明を広げられるからである。もし全世界をもまた照明されるマリアの現前が天の全体を照明するならば何とすばらしいことであろうか? なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「マリアの現前は全世界を照らし出し、まさに天上の国それ自身があのおとめのランプの輝きによって照らされることによってよりいっそう輝かしく輝く」。それゆえ、あなたはマリアがどのようにその光を与える生活によって、またその輝かしい栄光によって照らす者であるかを見るのである。

 今やわたしたちはマリアがどのように「貴婦人」と解釈されるかを考察しなければならない。そのようなタイトルは天の住人たち、地上に住む者、地獄に住む者たちのまさに実際に至高の貴婦人であるそのように偉大な女王となるのである。彼女は天使たちの貴婦人、人間たちの貴婦人、天国における貴婦人、地上の貴婦人、地獄における至高の貴婦人である、とわたしは言う。

 第一に、マリアが天使たちの貴婦人であるということを考えよ。なぜなら、貴婦人エステルによって予め示されたのは彼女だったからである。エステルについてはわたしたちは彼女が侍女の一人に優雅に寄りかかったこと、他の侍女が女主人の衣服の裾を持ち上げながら女主人に従ったということを読む。女王エステルによってわたしたちはわたしたちの女王マリアを理解する。彼らの貴婦人がわたしたちの女王マリアである二人の侍女はすべての被造物、人間たちと天使たちである。おお、わたしたち哀れな人間たちにとって、天使たちが彼らの主と彼らの貴婦人を持っているのはわたしたち人間たちの間からであるということは何という喜びであろう。マリアは真に天使たちの女王である。聖アウグスティヌスは彼女に宛てながらこう言っている。「たとえわたしがあなたを天と呼ぶとしても、あなたはそれよりも高い。たとえわたしがあなたを諸国民の母と呼ぶとしても、あなたはこの称賛を越える。たとえわたしがあなたを神の類型あるいは形式と呼ぶとしても、あなたはこの名前に値する。」ところで、人間の霊魂はこの世においてその貴婦人、マリアに従う侍女である。霊魂は貴婦人の衣服の裾を持ち上げながら、すなわち、マリアの徳と実例を集めながら、彼女に従う。しかし、天使的知性は、彼らの貴婦人マリアがいわば天において彼らに寄りかかる侍女である。彼女は彼らと親密に交際しながら、彼らに寄りかかる。彼女は彼らにおいて楽しむことによって最も優雅に彼らに寄りかかる。彼女はその充溢において天使たちに対して彼女自身を伝えることによって最も十分にそして完全に彼らに寄りかかる。彼女は彼らに命令することによって最も力強い者として彼らに寄りかかる。マリアはその力によってすべての天使たちに寄りかかる。聖アウグスティヌスは言っている。「おお、おとめよ、天軍の王子であり指導者であるミカエルはそのすべての奉仕する精神をもって、身体において防御することによって、信者の諸霊魂を受け取ることによって、特におお、貴婦人よ、夜も昼もあなたに自らを委ねる人々をあなたに提示することによってあなたの命令に従う」。

 今やマリアがどのようにこの世において人々の貴婦人であるかを考えよ。この貴婦人について詩編においてこう言われている。「侍女の目が女主人の手の上に注がれるように...」貴婦人マリアの侍女はあらゆる人間の霊魂である。否、普遍的教会である。この侍女の目は常に女主人の手の上に注がれるべきである。なぜなら、教会の目、わたしたちすべての者の目は常にマリアの手を見、その結果彼女の手によってわたしたちが何かよいものを受け取るように、わたしたちがその同じ手によってわたしたちが為す何であれよいものを主に捧げるようになるためだからである。なぜなら、聖ベルナルドゥスが次のように証言しているように、わたしたちが所有している何であれよいものをわたしたちが持っているのはこの貴婦人の手によってであるからである。「神はマリアの手を通して手渡されないものは何もわたしたちに得させようとはなさらなかったであろう。」聖ベルナルドゥスが次のように言って、勧めているように、この貴婦人の手によってわたしたちはまたわたしたちが為す何であれよいものを神に捧げるべきである。「あなたは何とわずかしか捧げないことだろう。もしあなたが拒絶されたくないのであれば、最も喜ばしくそしてすべての受容に相応しいあの手、マリアの手にそれを委ねるように心せよ。愛する者よ、わたしたちにとってよいことである。わたしたちが、わたしたちのためにそのように自由な手を持っていること、わたしたちのすべての者が安全に彼女に近づくように、御子と共にわたしたちにとってそのように強力であるそのような一人の貴婦人を持っていることはよいことである。」敬虔なアンセルムスはこう言っている。「おお、偉大な貴婦人よ、正しい者の喜びに満ちた大群はあなたに感謝を捧げ、悪を為す者の怯えた群衆はあなたのもとへ逃れる。おお、まったく強力で憐れみ深い貴婦人よ、一人の不安な罪人であるわたしはあなたに依り頼む」。

 第三に、マリアがどのように地獄における悪魔たちの貴婦人であるかを考えよ。彼女はそのように力強く彼らを征服されるので、わたしたちは彼女について詩編100で言われている次のことを理解するのである。「主はその力の鞭(若枝)を繰り出される」。力の鞭(若枝)はおとめマリアである。彼女は処女性によって花開き、多産性によって実り豊かなアアロンの若枝である。彼女はイザヤにおいて次のように言われている若枝である。「イェッセの幹から一本の若枝が生え出るであろう」。この若枝はおとめマリアであり、地獄の敵どもに対する力の若枝である。彼女はその偉大な力によって彼らを支配される。そのように大きな力の持ち主であるそのように偉大な貴婦人はわたしたちによって愛され、わたしたちによって称賛され、彼女がわたしたちの敵に対してわたしたちを守られるように、わたしたちによって祈られるに相応しい方である。聖アンセルムスはこの貴婦人に対して次のように語りながら、言うとき、わたしたちに実例を与えている。「おお、そのように非常に偉大である貴婦人よ、わたしの心はあなたを愛そうと望み、わたしの口はあなたを賛美しようと望み、わたしの精神はあなたを崇敬しようと望み、わたしの魂はあなたを探し求める。というのはわたしの存在の全体があなたの御保護に身を委ねているからである。」

 今やあなたはマリアがどのように天において天使たちの貴婦人であるか、この世界において人間たちの貴婦人であるか、地獄において悪魔たちの貴婦人であるかを見る。またマリアがどのように苦い海であるか、海の星であるか、光の与え手であるか、貴婦人であるかを知っている。マリアは回心した人々にとって海の星である。彼女は忠実な天使たちにとって光の与え手である。彼女はすべての被造物を支配される。

 祈ろう、最も敬虔にマリアに祈り、こう言おう。「おお、マリア、苦い海よ、わたしたちが痛悔の苦い海の中へ沈められるようにわたしたちを助けてください!おお、マリア、海の星よ、わたしたちがこの世の海を渡って正しく導かれるように、わたしたちを助けてください!おお、マリア、光の与え手よ、わたしたちが栄光のうちに永遠に照らされるように、わたしたちを助けてください!おお、貴婦人マリアよ、あなたの支配と帝国によってわたしたちが子として支配されるようにわたしたちを助けてください。我らの主、イエズス・キリストによって、アーメン。」

第4章 祝せられたマリアの御名はすべての悪徳から自由であり、あらゆる徳で輝いている

 めでたしマリア。この最も甘美で愛情に満ちた御名、そのように恩寵に満ち、そのように高貴な、そのように輝かしく、そのように相応しい御名はわたしたちの貴婦人にすばらしくよく似合っている。なぜなら、そのように愛すべきおとめは最も相応しくマリアと名づけられたからである。なぜなら、彼女はそのうちにいかなる悪徳も存在しないマリアだからである。彼女はマリアであり、彼女は七つの大罪から完全に自由であった。彼女は高慢とは反対に最も謙遜であり、ねたみとは反対に寛大さによって最も愛すべき方であり、優しさによって怒りとは反対に最も柔和であり、勤勉さによって怠惰とは反対に不撓不屈であった。マリアは清貧によってどん欲からはかけ離れておられた。大食とは反対に彼女は節制によって最も飲酒を慎む方であった。肉欲とは反対に彼女は処女性によって最も貞節であった。わたしたちはこれらすべての事柄を、その中にわたしたちがマリアの御名が書かれているのを見出す聖書から集めることができる。

 第一に、マリアは最も謙遜であった。彼女は聖ルカがその方について次のように言っているマリアである。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです』」(ルカ、I,38)。おお、マリアのすばらしい、そして深い謙遜よ!大天使がマリアに語るのを見よ!マリアは聖寵充ち満てる、と呼ばれた。聖霊が覆うということが告知された。マリアは神の御母とされた。マリアはすべての被造物の前に置かれた。マリアは天と地の貴婦人とされた。それにもかかわらず、彼女は次のように言いながら、謙遜に深く地に伏された。「わたしは主のはしためです」その通り、それゆえにベダはこう言うのである。「マリアは天の賜物のゆえに決して得意になられなかった。彼女が天の神秘をより深く知れば知るほど、彼女は大天使に『わたしは主のはしためです』と答えながら、彼女の心を謙遜のうちにより堅固に固定された。これは、名誉と富において、諸々の恩寵や徳においてマリアとキリストと共に謙遜にならずに、エヴァやルチフェルのように高慢でますます得意になる多くの人々に対する一つの手本である。しかし、マリアの謙遜は最も確実に単に言葉においてだけでなく、また行為においても現れている。彼女の公式の返答の言葉においてだけでなく、律法の清めへの彼女の従属の事実において現れている。それによって彼女が一人の従順なはしためとして自らを低くされた言葉においてだけでなく、またそれによって彼女が罪ある者、一人の罪人として自らを低くされた行為においても現れている。なぜなら、彼女は聖ルカにおいて次のように言われているマリアだからである。「彼女の清めの日が達成された後に....」おお、無情な、不幸な誇りよ!おお、罪人の高慢で不幸な頑固さよ!すべての罪を持たないマリア、清めの律法に自ら服従されたマリアを見よ。罪に満ちた哀れなあなたは満足の法に服しないのだ。」

 マリアが慈愛によってどのように最も愛すべき方であったかを見よ。なぜなら、彼女は聖ルカが次のように言っているマリアだからである。「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」。彼女はエリザベトを訪問し、挨拶し、仕えるために出かけられたのである。マリアのこの訪問がどのように慈愛に満ちているかを見よ。その訪問の記述においてマリアは4回御名を挙げられた。神に対する彼女の愛とその隣人に対する彼女の愛は最も完全に宣言されている。わたしたちの隣人に対する愛は心、言葉、行いにおいて保たれ、涵養されるべきである。マリアは隣人に対する愛を彼女の心のうちに持っておられた。それゆえに、マリアは立って、急いで山里へ出かけられたのである。彼女の心の中に燃えていた愛以外に慈愛のこのつとめにおいて急ぐように彼女をせき立てたものは何であっただろうか? わたしたちは羊飼いたちが急いでまぐさおけに来たということ、マリアが奉仕をするために急いで出かけられたということ、ザケオが降りて来て自分の家に主を受け入れるために急いだということを[聖書の中に]読む。それゆえに、慈愛の仕事においてぐずぐずする人々は禍いである!さらに、マリアは言葉において隣人への慈愛を大切にされた。彼女は次のように言われているマリアである。「エリザベトがマリアの挨拶を聞いたとき」。わたしたちの隣人への挨拶における慈愛、慈悲に富んだ話の他のあらゆる機会における慈愛は育てられるべきである、とわたしは言う。天使はマリアに挨拶する。マリアはエリザベトに挨拶された。マリアの御子は墓から出て来られたとき出会った人々にこう言って挨拶された。「ようこそ、皆に平安!」憎しみあるいは嫌うことから、隣人に丁重な挨拶を拒否する人々は禍いである。「ようこそ、先生!」と言いながら、ユダのように、隣人に欺いて挨拶する人々は禍いである。おお、マリアはどのように甘美に挨拶する仕方を知っておられたことであろうか!おお、マリアよ、あなたの恩寵によってわたしたちに挨拶をして下さらんことを!もしわたしたちがアヴェ・マリアをもって彼女に喜んで挨拶するならば、最も確実に、彼女は恩恵と慰めによって喜んでわたしたちに挨拶されるのである。マリアは単に心と言葉において慈愛を持っておられるばかりでなく、また慈愛に満ちた行為を自ら実行された。なぜなら、彼女は「マリアは三ヶ月の間、彼女[エリザベト]と共にとどまった」と言われているその同じマリアだからである。彼女はエリザベトに仕え、彼女を慰めるためにとどまられたのである。それゆえに、聖アンブロシウスはこう言うのである。「慈愛から出て来た彼女は彼女の位置にとどまられた」と。マリアがすべての事柄において隣人に対して慈愛を持っておられたように、すべての事柄にもまして彼女は神に対する愛を持っておられた。なぜなら、彼女は「わたしの魂は主をあがめる」と言われたその同じマリアだからである。魂は愛するもの、喜びを見出すものをあがめる。それゆえに、マリアの魂は、彼女がそのように熱心に神を愛されたがゆえに、最も適切に神をあがめ、最も安全に神に喜びを見出されたのである。この愛について師であるサン・ヴィクトルのフーゴーは次のような素晴らしい言葉を述べている。「彼女の心のうちには聖霊の愛が燃えていたがゆえに、聖霊の力は彼女の肉体のうちで驚くべきことをなし給うたのである。」

 第三に、マリアがどのように優しさによって最も柔和であり、あらゆる敵対において忍耐強かったかを見よ。なぜなら、彼女は聖ルカによれば、「そして彼(シメオン)は母親のマリアに言った。御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。−そしてあなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言われたその同じマリアだからである。この剣は苦い受苦と御子の死を象徴している。物質的な剣は魂を殺したり傷つけたりすることはできない。それゆえ、キリストの鋭い御受難は同情によってマリアの魂を貫いたけれども、決してそれに致命的な傷を与えなかった。なぜなら、マリアは憎しみによって御子の死刑執行人たちを決して殺されなかったし、また彼らを我慢できない心によって傷つけられなかったからである。ところで、もし他の殉教者たちが彼らの身体的な殉教において最も我慢強かったとするならば、我らの殉教者マリアは霊的な殉教においてどれほどそれ以上に我慢強かったことであろうか? 彼女の高貴な殉教について聖ヒエロニムスはこう言っている。「おお、マリアの驚くべき我慢強さと柔和さよ、彼女は御子が彼女の目の前で十字架につけられておられた間、最も我慢強かったばかりでなく、御子が聖マルコの福音書において言われたように、次のようにののしられておられた間、十字架の前でも最も我慢強かった。『これは大工の子、そしてマリアの子ではないか? 』少し先の方で、『彼らはイエズスをののしった』と。」キリストは真に一人の大工であった。しかし、キリストの手になる作品は太陽と曙である。ああ、彼らの隣人たち、同僚たち、仲間の職人たちを苦しめる程にそのように気むずかしく、そのように忍耐心がなく、そのように怒りっぽい人々はマリアの恩寵からどれほど遠いことか。

 第四に、彼女のよい仕事においてマリアがどのように疲れを知らない、勤勉な方であったかを見よ。なぜなら、彼女は「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒行禄I,14)と言われているマリアだからである。マリアは、根気強く祈りに励むことによって、それに従うことがわたしたちの義務であり、わたしたちを弱気にしない一つの実例を与えられたのである。もしマリアが地上においてそのようにうむことを知らずに祈られたのであれば、天においてわたしたちのために最も熱心に祈ってくださらないことがあろうか?

 それゆえに、聖アウグスティヌスは次のように言いながら、わたしたちにこう忠告しているのはもっともである。「あらゆる熱心さでマリアの御保護を嘆願しよう−わたしたちが地上で嘆願の熱意をもって彼女に仕える間に、彼女が熱心な祈りによって天上からわたしたちを助けてくださるように。」しかし、我らのマリアが唇の祈りにおいてうむことを知らずまた勤勉であられたばかりでなく、また心の聖なる瞑想において最も熱心であられたということを見よ。なぜなら、彼女は聖ルカの福音書において「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ、II,19)と言われているその同じマリアだからである。マリアは決して怠惰あるいは無精ではなかった。それゆえに、彼女は単に精神を聖なる瞑想に費やされたばかりでなく、手をよい仕事に費やされたのである。

 マリアがエリザベトと共に三ヶ月間を過ごされたのはこのようにしてであった。何の目的のために? ベダはこう答えている。「おとめは彼女の年老いた親戚に勤勉に奉仕するためである。」ああ、心、手、舌がそのようにしばしば功徳を欠いているみじめな怠け者はいかにマリアに似ていないことか!

 第五に、マリアがいかに貧しさによってとらわれることがなかったかを見よ。なぜなら、彼女は「彼ら[羊飼いたち]はマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(ルカ、II,16)と言われているその同じマリアだからである。貧しい羊飼いたちは貧しい御母マリアを貧しいよごれの中に、貧しい幼児を輝かしい華麗さの中にではなく貧しい飼い葉桶の中に探し当てた。しかし、もし御母が貧しくなかったならば、彼女は実際相応しい歓待を見出したであろう。あなたはこれらの事柄を精出して考察している間に、それについて聖ヨハネ・クリゾストムスが次のように言っているマリアの貧しさがどのように大きなものであるかを理解するであろう。「マリアの貧しさの大きさを見よ。貧しいものは誰でもそこから大きな慰めを受けるであろう」。

 神のために喜んで、自由に貧しい者、あるいは必然的に貧しいが、しかし忍耐している者は誰でも最も確実にマリアの貧しさ、イエズス・キリストの貧しさによって大いに慰めを受けることができる。非常に異なった事柄を探す豊かな人々はこの慰めから遥かに遠い。それゆえに、我らの主はこう言われるのである。「富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ、VI, 24)。

 しかし、富んでいる者は絶望してはならない。というのは、貧しい羊飼いたちばかりでなく、また富んでいる王たちもまた、聖マタイ福音書において言われているように、貧しいマリアと貧しい御子を見出したからである。「家に入ってみると、彼らは子どもを見出した....」(マタイ、II, 11)。それゆえ、贈り物を携えて来たこれらの富んだ者たちもまた彼らを見出した。貧しい者は貧しさによってこの慰めを見出し、富んだ者は物惜しみしないことによって慰めを見出す。貧しい者が貧しさによってキリストへ一致させられるのに対して、富んでいる者は物惜しみしないことによってキリストの似姿へ作り変えられる。

 第六に、マリアが節制によっていかに節度ある者であったかを見よ。なぜなら、彼女は「恐れるなマリア、なぜなら、あなたは恩寵を見出したからである」(ルカ、II, 30)と言われているそのマリアだからである。「あなたは恩寵を見出した」と言われていることに注意せよ。もし恩寵が飲食においてマリアが節度ある者であるということを見出さなかったならば、マリアは決して恩寵を見出されなかったであろう。なぜなら、恩寵と貪食は両立しないからである。恩寵によって神を喜ばせる者であり、かつ同時に貪食によって神を喜ばせない者であるということは不可能である。それゆえに、恩寵を求め、貪食を避けることはよいことである。なぜなら、聖パウロはこう言っているからである。「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」(ヘブ、XIII, 9)。こう言われていることに注意せよ。「あなたは身ごもるであろう」(ルカ、I, 31)。マリアはもし貪食に道を譲っておられたならば、御胎内に神を身ごもられなかったであろう。飲食においてそのようにしばしばしかるべき節度を越える人々はマリアの恩寵からいかに遠いことであろうか!

 第七に、マリアが処女性によって最も貞節であったということを見よ。なぜなら、彼女は「おとめの名はマリアといった」(ルカ、I, 27)と言われているそのマリアだからである。わたしたちはマリアの輝かしい貞節の証人として福音史家、マリア御自身、天使を持っている。なぜなら、彼女は、福音史家が次のように言って証言しているように、処女の身体において貞節であったからである。「そしておとめの名はマリアといった」(ルカ、I, 27)。処女の精神においてマリアは、彼女自身証言しておられるように、よりいっそう貞節でさえある。なぜなら、彼女は天使にこう言われたからである。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ、I, 34)。すなわち、わたしは男の人を知るつもりはない、ということである。しかし、マリアは、天使が証言しているように、処女の身体においてすべての者のうちで最も貞節であった。天使は彼女について聖マタイの福音書の中でこう語った。「ダヴィドの子、ヨセフは恐れなかった....」(マタイ、I, 2)。なぜなら、おとめマリアが聖霊によって神的に覆われたときから、彼女の処女性は決して暗くされることはなく、神的な、真に驚くべき仕方で輝かせられたからである。御子によって彼女は是認され、御子によって彼女は高貴にされ、御子によって彼女は豊かにされた。おお、マリアよ、御子によってあなたの処女性は授けられ、与えられ、聖化された。それゆえに、聖アウグスティヌスがこう言うのはもっともである。「わたしたちは真にマリアがおとめと母の両方であると公言する。なぜなら、真の多産性は彼女の処女性を輝かし、汚れのない処女性は彼女の真の多産性を輝かすからである。彼女の処女性は彼女の多産性によってより栄光あるものとされた。彼女の多産性は彼女の処女性によって栄光あるものとされた。」ああ、貞節でない者たち、貞節の敵である者たちはいかにマリアの恩寵から遠いことか!

 ところで、マリアの甘美な名前はわたしたちが説明したようにそのように恩恵を持つものであるので、わたしたちは、聖ベルナルドゥスの次の言葉に従って、彼女にこう呼びかけることは正当である。「おお、寛容な女王よ、あなたの御子イエズス・キリストがマリアの甘美な名前に呼びかけるあなたのしもべたちの上に恩寵の賜物を注いでくださるように。−イエズス・キリストは父と聖霊と共に生き、神は永遠に支配し給う。アーメン。」

第5章 祝福されたおとめマリアの恩寵は真であり、広大であり、多様であり、非常に有益である。

 めでたし、聖寵充ち満てるマリア。マリアが生活の純粋な無垢のゆえに、アヴェ[という言葉]によって挨拶されることがいかに正当であるかは上に示された。わたしたちは今や、彼女が恩寵の豊かさによっていかに「聖寵充ち満てる」という挨拶に相応しい方であるかを示さなければならない。愛する者たちよ、この恩寵、マリアの恩寵、この称賛すべき恩寵を考察せよ。マリアの恩寵の真理、広大さ、多様さ、有益さを考察せよ。なぜなら、マリアの恩寵は最も真なる恩寵、最も広大な恩寵、最も多様な恩寵、最も有益な恩寵だからである。

 第一に、マリアの恩寵の真理を考察せよ。このことについてガブリエルはこう言っている。「あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ、I, 30)。その恵みは真理である神と共に見出される真なるものである。彼は「神と共に」と言っているのであって、悪魔と共にとは言っていない。なぜなら、悪魔は、人がよりいっそう自由に罪を犯すように、悪しき繁栄の恵みを提供するからである。悪魔を示しているホロフェルネスはこう言う。「さあ、飲んで一緒に楽しむがよい。なぜなら、あなたはわたしの前に好意を見出したからである」(ユディト、XII, 17)。彼は世と共にとは言わず、「神と共に」と言う。というのは、世と共に、すなわち、世間的な人々と共に、誤った恵みと誤った悔恨が見出されるからである。それゆえに、集会の書には次のように言われるのである。「すべての人にあなたの心を開くな、彼があなたに悪を返さないように、またあなたに対して非難がましく語らないように」(VIII, 22)。彼は、人々と共にとは言わずに、「神と共に」と言う。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言う。「恵みを探そう、しかし、神と共なる恵みを探そう。なぜなら、人々と共なる恵みは欺くものだからである」。さらに、彼は言う。肉と共にではなく、「神と共に」と。なぜなら、肉の恵みあるいは好意は、身体の美やそのようなものと同じように、誤りだからである。ソロモンはこう言っている。「好意は欺きに満ち、美は空しい」(箴言、XXXI, 31)。なぜなら、そのように聖寵に満ちたおとめマリアは世の恵み、肉の恵み、悪魔の誤った恵みを咎められたからである。それゆえに、彼女は真の恵み、純粋な恵み、いかなる低い混合によっても汚されていない神と共なる恵みを見出されたから、その結果彼女は集会の書と共に真にこう言うことがおできになったのである。「わたしの香りは混ぜもののないバルサムのようである」(集会の書、XXIV, 21)。マリアのバルサムは最も多量に彼女に振りかけられた恵みの聖なる油である。それゆえに、聖ベルナルドゥスは「聖霊があなたの上に来られるように」というテキストについて語りながらこう言っている。「あの貴重なバルサムがあなたの周りすべてに豊かに溢れるほどにそのような完全さと豊かさをもってあなたに注がれた」。バルサムは通常混ぜられており、それゆえに蜂蜜あるいは油で割られている。しかし、マリアにおける聖霊のバルサムは混ぜられていない。なぜなら、それは肉欲や世間的慰めの蜂蜜によっても、称賛やへつらいの油によっても割られていないからである。しかし、マリアがそのように真で純粋であられたその恵みのゆえに、聖ヒエロニムスが彼女についてこう言っているのはもっともである。「マリアにおいて為されたことは何であれ、天から見渡したすべての純粋さ、単純さ、すべての恵みと真理、すべての憐れみと正義であった」。それゆえに、誰であれマリアと共に真の恵みを見出すことを望む者はあらゆる望み、あらゆる熱心、あらゆる待望熱をもって、使徒が次のように言ってヘブライ人たちに励ましているように、その恵みがその方と共に見出されるマリアと共に神へ近づかなければならない。「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ、IV, 16)。誰であれ見出そうと望む者は探さなければならず、誰であれ探そうと望む者はひれ伏さなければならないということに注意せよ。誰であれマリアと共に真の恵みを見出そうと望む者は真の謙遜においてマリアと共にひれ伏すべきである。なぜなら、集会の書にはこう言われているからである。「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、あなたは神の前に恵みを見出すであろう」(集会の書、III, 18)。マリアは、真に自らへりくだられたがゆえに、「神はわたしの謙遜をみそなわし給うた」と言われているように、真の恵みを見出されたのである。

 第二に、マリアが「聖寵充ち満てる」と呼ばれていることのゆえに恵みの広大さを考察せよ。彼女がそれに満たされている恵みは確かに広大であった。巨大な器は、また満たされるものと共に広大であるのでなければ、満たされることはできない。マリアは一つの広大な器である。というのは彼女は諸天よりも大きい神を包むことがおできになったからである。諸天よりも大きな方とは誰であろうか。? 明らかにソロモンが次のように言うその方である。「もし天が、諸天の天があなたを入れることができないならば、わたしが建てたこの家はどれほど小さいものであろうか?」(列王記上,VIII, 27)。 ソロモンが建てたのは本当は家ではなかった。しかし、彼女は神を入れることができたそのようなタイプの家であった。それゆえに、おお、最も広大なマリアよ、あなたは諸天よりももっと許容力のある方である。というのは、諸天が入れることができない神があなたの胎に生まれ給うたからである。あなたは世界よりも許容力がある方である。というのは、全世界が入れることができない神が人と成られ、あなたの内部に包まれ給うたからである。もしマリアの胎がそのときそのような広大さを持たれたとすれば、彼女の心はそれよりもどれほどの大きさを持たれたであろうか? もしそのように広大な許容力が恵みに満ちていたならば、そのように大きな許容力を満たすことができた恵みは同様にまた広大であったはずであるということは相応しいことであった。誰がマリアの広大さを測ることができるだろうか? 集会の書において言われていることを見よ。「天の高さ、地の広さ、深淵の深さを誰が測っただろうか?」(I, 2)。マリアは一つの天である。その理由は彼女が天上的な純粋さ、天上的な光、他の天上的な諸徳に満ち溢れておられたからであり、また彼女が、預言者が次のように言っているように、神のいと高き王座であられたからである。「主は天に御座を固く据えられた」(詩編、CII, 19)。マリアはまた、同じ預言者が次のように言っているあの実をわたしたちのためにもたらされた地であった。「大地は作物を実らせた」(詩編、LXVI, 7)。マリアはまた善と最も深い憐れみにおける一つの深淵である。それゆえに、彼女は、あたかもそれが一つの深淵に呼びかける一つの深淵であるかのように、わたしたちのために御子の憐れみを得られるのである。マリアは地である。マリアは深淵である。単に恩寵と栄光においてばかりでなく、そのように高く、そのように広く、そのように深い憐れみにおいて彼女を創られた神以外に、誰があの天の高さ、あの地の広さ、あの深淵の深さをかつて測ったであろうか? それゆえに、ベルナルドゥスが次のように言うのは特に彼女の憐れみについてである。「おお、祝せられた方よ、誰があなたの憐れみの長さ、広さ、深さ、壮大さを探ることができるだろうか? なぜなら、あなたの憐れみの長さは最後の日まで彼女に依り頼むすべての者を助けるだろうからである。その広さは全世界を満たし、その結果地は彼女の憐れみで満たされる。あなたの憐れみの壮大さは天上の都市の再建をもたらすであろう。あなたの憐れみの深さは暗闇と死の影のうちに坐す彼らのための贖いを獲得した」(『被昇天についての説教』、4)。

 第三に、マリアの恵みの多様性を考察せよ。彼女について集会の書は次のように言っている。「わたしはテレビンの木のようにわたしの枝を広げた、そしてわたしの枝は栄誉と恵みに満ちていた」(XXIV, 16)。プリニウスと注解書によれば、テレビンの木はシリアの大きな木で、それは多くの広く広げた枝を持っている。雄の木は実をつけず、ただ雌の木だけが実をつける。この実は赤と白の二重の色であり、快い香りを持っている。シリアに育つこの美しい木は祝せられたおとめマリアである。なぜなら、「シリア」は灌漑されたという意味であり、真にマリアの全生涯は恵みによって灌漑されていたからである。なぜなら、彼女は彼女の母の胎内から恵みという健康によい湿度の中で成長されたからである。湿度なしにはあらゆる種子がしおれるときに、マリアが恵みの湿度の中で成長されるとしても何か驚くことがあろうか? そのことから、聖ルカの福音書においては種子について次のように言われている。「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」(ルカ、VIII, 6)。この木の枝、栄誉と恩寵の枝はマリアの諸徳、実例、恩恵である。枝は多い。栄誉と恩寵の枝、豊富な恵みの功徳の枝、多くの徳とよい実例の枝、多くの恩恵と憐れみの枝である。これらの枝には天上の鳥たちが、すなわち、聖なる魂たちが喜びに溢れて住み、その結果、ダニエル書においてわたしたちが見出すものは彼らについて言われ得るのである。「その枝に空の鳥は巣を作り....」(IV, 9)。おお、あの祝せられた木、おとめマリアの枝はいかに広く広げられ、いかに高いことか!人々に対していかに広く広げられ、天使たちに対していかに長く、神に向かっていかに高いことか!彼女が恵みと憐れみのすべての枝をいかなる仕方で広げられているかを聖ベルナルドゥスは次のように言いながら述べている。「すべての者が彼女の完全さを受け取るようにマリアは彼女の憐れみの胸をすべての者に開放された。捕らわれ人の救出、病人の癒やし、悲しむ者の慰め、罪人の赦し、正しい者の恵み、天使の喜び、祝せられた三位一体の栄光、人間の肉の実体たる御子のペルソナ!その木の実は『御胎内の御子は祝せられ給う』と言われるところのものである」。その実は血において赤く、死において白かった。それゆえに、神の配偶者、すなわち、聖なる霊魂は次の雅歌においてこう言われる。「わたしの愛する者は白くそして赤い」(雅歌、V, 10)。この実は同様にまた敬虔な霊魂にとって快い香りを持っている。使徒ヨハネは彼が主に対して次のように言ったとき、この香りを念頭に置いていたのである。「あなたの香りはわたしのうちに永遠の激しい欲望を引き起こした」。おお、霊魂よ、おお、霊魂よ、お前はこの実の憐れみの香りを経験しないのか? おお、もしお前がそれを吸い込んだならば、お前は雅歌において次のように言われているように、それを追い求めるのではないだろうか? 「わたしたちはあなたの軟膏の香りを求めて走る」。実をつけるのは雄のテレビンの木ではなくて、雌の木であるということに注意しなければならない。それゆえ、生命の実、イエズス・キリストは男によってではなく、女によって、おとめによって生まれたのである。それゆえに、聖アウグスティヌスが次のように言うのはもっともである。「欲望なしに懐胎され、男なしに男を産まれた一人のおとめである母が選ばれた」。

 第四に、マリアの恵みの有益さを考察せよ。こう言われている。「美しい女は名誉をわがものとするであろう」(箴言、XI, 16)。美しいマリアの恵みの有益さを見よ。それは永遠の名誉の発見である。マリアの恵みは彼女自身とわたしたちの両方にとって最も有益であった。マリアの恵みは彼女自身にとって最も有益であった、とわたしは言う。なぜなら、恵みはマリアを喜びに満ちた者、奇跡的な者、栄光ある者としたからである。彼女の魂において喜びに満ちた者であり、御子において奇跡的な者であり、彼女の王国において栄光ある者であった。マリアは確かに彼女の霊的な精神において喜びに満ちており、彼女の処女の子において奇跡的であり、彼女の永遠の冠において栄光ある者であった。それゆえに、恵みはマリアの精神と霊魂を霊的な喜びをもって喜びに満ちたものとした。それは生ける神の霊的な楽園のようなものであって、集会の書の次の言葉のようであった。「恵みは祝福に満ちた楽園のようなもの」(XL, 17)。真に彼女は多様な霊的喜びの祝福に満ちた神の楽園であった。そのことについて聖ベルナルドゥスはこう言っている。「多産の賜物、謙遜のしるし、慈善のしたたる蜂の巣、憐れみの鉢をもった処女性の美しさの喜び、恵みの完全さ、唯一の栄光の特権についてわたしは何を語ろうか?」同様にまた恵みは御子においてマリアを奇跡的な者、懐胎と出産においてマリアを奇跡的な者とした。おとめは奇跡的に出産され、より奇跡的に懐胎され、神を産まれたのである。

 それゆえに、彼女について次のように言われるのももっともである。「あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ、I, 30)。この名前について、聖ベルナルドゥスはマリアに語りかけながらこう言っている。「賢明なおとめよ、あなたの約束された御子から、あなたが神と共に見出される恵みはいかに大きくいかに特別であることか」。恵みは同様にまたマリアを栄光ある者とした。それゆえに次のように言われるのはもっともである。「美しい女は名誉をわがものとするであろう」(箴言、XI, 16)。おお、真に幸せな発見者、マリアよ、あなたはこの世界においてそのように偉大であり、天においてそのように偉大である!いかなる純粋な被造物もこの世界のうちにそのような恵みを、天上にそのような栄光を見出さなかった。確かに彼女は主と共に恵みと栄光の両方を見出されたのである。なぜなら、詩編にはこう言われているからである。「主は恵みと栄光を与えられるであろう」(詩編、LXXXIII,)。

 しかし、マリアの恵みは彼女自身にとって最も有益であったばかりでなく、またわたしたちにとって、全人類にとっても最も有益であった。なぜなら、マリアの恵みは邪悪な者を拾い上げ、善を育て、太らせ、すべての者を救うからである。それは罪人たちを罪から拾い上げ、恵みによって彼らを太らせ、彼らを永遠の死から解放する。それゆえに、わたしはマリアの恵みは霊魂たちを憐れみへ拾い上げ、悪を為す者たちを教会へ集めると言う。このことはルツがボアズに次のように言ったときに、刈り入れをする人たちによって残された落ち穂を集めていたときに見出した好意においてよく表されている。「わたしは主の目の前で好意を見出した」(ルツ、II, 12)。「ルツ」は「見ること」あるいは「急ぐこと」と解釈される。彼女は祝せられたおとめマリアを象徴している。マリアは真に観想における見る人であり、仕事において速かった。なぜなら、彼女はわたしたちの悲惨をごらんになり、憐れみをわたしたちの上に速やかに与えられるからである。ボアズは「強さ」と解釈され、詩編において次のように言われている人を象徴している。「主は偉大であり、その強さは偉大である」(詩編、CXLVI.)。それゆえに、ルツはボアズの目の前で、マリアは主の見ておられる前で、彼女が刈り入れの人々が残した落ち穂を集めた、すなわち、霊魂たちが彼女によって赦すために集められるという、この恵みを見出されたのである。教師たち、牧者たち以外に誰が刈り入れ人であろうか? おお、真に大きなマリアの恵みよ!マリアの恵みによって彼らの司祭たちや牧者たちによって望みがない者として見捨てられた多くの者が救われ、憐れみを見出すのである。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「マリアよ、あなたは母の愛情をもって全世界から軽蔑された罪人を抱擁される。あなたは彼を大事にされ、彼が恐るべき審判者と和解するまで彼を決して見捨てられない」。同じように、マリアは恵みの脂肪をもって善人を養われる。それゆえに、集会の書において次のように言われているのである。「勤勉な女の恵みは彼女の夫を輝かし、彼の骨を太らせる」(XXVI, 16)。マリアは実際ベダがこう言っている勤勉な女であった。「マリアは神の秘密について沈黙しておられた。しかし、彼女はそれを彼女の心の中で熱心に考えおられた」。この勤勉な女の夫は誰であったか? 彼女が御胎内に包んでいた方以外の誰であろうか?  その方についてエレミヤはこう言っている。「主は地の上に一つの新しいものを創造された。一人の女が一人の男を産むであろう」(エレミヤ、XXXI, 32)。この男の骨は教会、すなわち彼の身体において強いすべての人々である。これらの骨は、マリアの恵みの援助によって、恵みの塗油によって太らせられる。それらは聖霊の脂肪によって太らされるとわたしは言う。それによって「わたしの魂が髄質と脂肪でもって満たされよ」と言う者は豊かにされることを望んだのである。おお、誰が、マリアの助けによっていかに多くの霊魂が養われ、恵みによって太らせられるかを数えることができるだろうか?  実際、誰がそれによって数百万の魂が養われる恵みのこの脂肪がマリア自身においていかに大きいかを計算することができるであろうか? すべての徳と恵みの住まいであった彼女に何が欠けていたであろうか? 聖ヨハネ・ダマスケヌスはこう言っている。「主の家の中に植えられ、実り豊かなオリーヴの木のように、霊において太らせられたマリアはあらゆる徳の住まいとされた」。同じように、マリアはすべての人々を永遠の死から解放される。このことはエステルにおいてよく象徴されている。彼女についてわたしたちはこう読む。「王はどの女にもましてエステルを愛し....彼女の頭に王妃の冠を置いた」(エステル、II, 17)。それゆえに、わたしたちはエステルが王と共に持っていた恵みにおける二重の有益さがあるということを読むのである。一つは彼女が王の冠を得たということであり、もう一つは彼女が死を宣告された彼女の民を救ったということであった。それゆえ、わたしたちのマリア、わたしたちのエステルは永遠の王と共に、それによって彼女が単に彼女自身王冠へ達されたばかりでなく、死へ宣告された人類を解放されたそのような恵みを得られたのである。それゆえに、聖アンセルムスはこう言うのである。「わたしはどのように我が主と神の御母を相応しく称賛しようか。彼女の多産性によって捕らわれ人であるわたしは贖われ、御子によってわたしは永遠の死から救われ、御子によって、失われていたわたしは永遠の至福の故郷へ悲惨の放逐から回復され、連れ戻されたのである」。おお、恵みの御母よ、わたしたちを恵みの子らとしてください。あなたの最も真なる恵みによってわたしたちが罪の赦しのために集められ、献身の精神によって養われ、永遠の破滅の死から解放されるようにしてください!我らの主、イエズス・キリストによって。

第6章 マリアにおける四重の恩寵−賜物、言葉、特権、報償の恩寵

 めでたし、聖寵充ち満てるマリア。わたしたちは最も甘美なるマリアの恩寵についてなおいくつかのことを言わなければならない。わたしたちは今や彼女の賜物、彼女の言葉、彼女の特権、彼女の報償の四重の恩寵を考察するであろう。

 第一に、マリアにおいて聖霊の賜物の恩寵を考察せよ。マリアは感謝を捧げながら、集会の書の次の言葉をこの恩寵に適用することがおできになるであろう。「道と真理のすべての恩寵がわたしのうちにある」。もし彼女自身が、「恩寵と真理に満ちた」方であった神の御母である生命と真理に満ちた恩寵であるならば、何という驚きであろうか? もし若枝のうちに聖霊の賜物の非常に大きな豊かさが、花のうちに聖霊が、賜物のそのような豊かさと共に休らっていたならば何という驚きであろうか? マリアは若枝であり、マリアの御子は花である。御子についてはイザヤ書において次のように言われている。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」[イザヤ書、XI, 1-3]。この花の上には聖霊の大いなる豊かさがあった。それは全教会に溢れた。それで福音史家ヨハネはこう言うのである。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」[ヨハネ、I, 16]。ところで、恵みのそのような豊かさがこの花から庭園全体へ溢れたのであるから、花の若枝あるいは幹において、マリア自身においてはそれはどれほどそれ以上に多いことであろうか? それゆえに、マリアはまったく安全にこう言うことがおできになるのである。「道と真理のすべての恵みはわたしのうちにある」。確かに、道と真理の恵みは上述した聖霊の七つの賜物のうちに存する。道と真理の恵みがマリアのうちにあったのは上述した七つの賜物によってであった。真理の恩寵はマリアを彼女自身以上の、彼女自身以下の、彼女自身における、彼女自身なしの真理において秩序づける。わたしは真理の恩寵は知恵の賜物によってマリアを彼女自身以上の秩序へ、思慮の賜物によって彼女自身以下の秩序へ、識別の賜物によって彼女自身における秩序へ、知識の賜物によって彼女なしの秩序へ置くと、言う。真理の恩寵はマリアの霊魂を彼女自身以上の真理へ、すなわち、享受されるべき事柄の最も賢明な観想へ秩序づけ、彼女自身以下の真理へ、すなわち、避けられるべきである事柄の先見を感じることへ秩序づけ、彼女自身における真理へ、すなわち、信ずべきものの彼女の確実な知識へ秩序づけ、彼女自身なしの真理へ、すなわち、彼女が為すべきすべてのものに関する最も道理にかなった識別へ秩序づける。彼女の生活の恩寵はマリアを悪魔に関して、彼女の隣人に関して、神に関してよき生活へ秩序づける。わたしは、生活の恩寵はよい生活へマリアを秩序づけ、剛毅によって悪魔に対するよい生活へ、敬虔の賜物によって彼女の隣人に対するよい生活へ、畏れの賜物によって神に対するよい生活へ秩序づける、と言う。生活の恩寵はマリアを悪魔に対する最も強い抵抗において、彼女の隣人に対する最も愛すべき親切において、神に対する最も敬虔な尊敬において秩序のうちに置く。このことは聖霊の七つの賜物である七つの柱を持った知恵そのものがそれ自身のために建てた家によって最も相応しく聖霊によって表された。それゆえに、誰であれ彼自身の内部において聖霊の賜物に対する欲求を感じ始める者はこの家におけるこれらの柱の形を見出すことができる。彼は大きな熱意と多くの祈りをもってこれら七つの柱を欲求すべきである。同様に、聖霊の七重の恩寵を望む者は若枝における聖霊の花を探し求めなければならない。若枝あるいは幹によってわたしたちは花に達するのであり、それゆえ花に基づいている霊に達するのである。マリアによってわたしたちはキリストに近づき、キリストの恩寵によってわたしたちは聖霊を見出すのである。それゆえに、聖ベルナルドゥスはマリアに宛ててこう言うが、もっともである。「あなたによってわたしたちはあなたの御子に近づく。おお、恩寵の祝せられた発見者、生命の母、救いの母、あなたによってわたしたちに与えられたお方があなたによってわたしたちを受け入れてくださらんことを」。

 第二に、マリアにおいて唇の恩寵、あるいは話の恩寵を考察せよ。それについて詩編の中でこう言われている。「恩寵はあなたの唇において外へ注がれる」。そのようなものが彼女がユディトによって優れた仕方で前表されることができたマリアにおける唇の恩寵である。ユディトについてこう言われている。「地の果てから果てに至るまで、これほど美しく、しかもこのような洞察に満ちた言葉を語る女はいまい」(ユディト、XI, 20)。真に、その輝かしい生活において、純粋な良心の美しさにおいて、最も巧みな舌の言葉の感覚においてマリアがそうであったようなそのような他の女はこの地上にはいないし、かつていたこともないし、また決してこれからもいないであろう。わたしたちは、もし福音書のうちに記録されているような彼女の唇の言葉を勤勉に集め、黙想するならば、マリアにおける唇の恩寵を明らかに見るであろう。わたしたちは福音書のうちに、雅歌において次のように言われているように、マリアの唇からしたたり、彼女の唇の蜜のしたたる恩寵を優れて示している蜜よりも甘美な七つの文章を見出す。「あなたの唇は[蜜の]したたる蜂の巣のようである」(IV, 11)。天使に、神に、人間たちに語られたマリアの七つの言葉は蜂蜜の七つの井戸のようである。天使に対してマリアは貞節の言葉と謙遜の言葉を語られた。マリアは彼女が天使に次のように言われたとき、貞節の言葉を唇にのせられた。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」これは、唇の上に貞節な言葉ではなく品位のない、肉的な言葉をのせる不貞な人々に対する一つの教訓である。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言われたとき、謙遜の言葉を天使に語られたのである。これは、自分自身について謙遜に考えることも語ることもせず、唇の上に自慢と得意の言葉をのせる尊大で傲慢な者に対する一つの教訓である。さらに、マリアは人々に愛の言葉と真理の言葉を語られた。すなわち、挨拶において愛の言葉を、教授において真理の言葉を語られた。マリアは、彼女が先触れ[洗者聖ヨハネ]の母に非常に愛情に溢れて挨拶され、それでその母の胎内の子さえ喜んだとき、愛の言葉を語られたのである。このことは、単に隣人たちに愛情をこめて語らないばかりでなく、まったく彼らを軽蔑して話す憎しみを抱いている者に対する一つの教訓である。マリアは、結婚式で葡萄酒が切れたときに召使いたちに「彼[イエズス]があなたたちに言うことは何であれしなさい」と言われたとき、真理の言葉を語られたのである。このことは、隣人たちによい言葉を語らないばかりでなく、彼らに悪い行いを強いる人々に対する一つの教訓である。さらに、マリアは三度主に語られた。彼女は天使たちあるいは人間たちによりも多く神に語られた。なぜなら、彼女は天使たちに二回、人間たちに二回語られたが、神に三回語られたからである。彼女は賛美の言葉、愛する不満の言葉、同情の言葉を神に語られた。すなわち、彼女自身に与えられた恩恵のための賛美の言葉、御子の失われたことに対する愛する不満の言葉、葡萄酒の切れたことのための同情の言葉である。マリアは神が彼女の身分の低さに目を留められたことに感謝して次のように言われたとき、唇の上に神への賛美の言葉をのせられた。「わたしの魂は主をあがめる。」これは悲しいかな、神の恩恵に対して神にそのようにわずかしか感謝せず、時にはまさにこれらの恩恵によって神に対して思い上がる恩知らずの人に対する一つの教訓である。マリアは、三日間イエズスを見失われた後に御子に「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言われたとき、唇の上に神に対する愛する不満の言葉をのせられた。ここには、信心をやめることによってイエズスを何日間にもわたって見失ったときにも、悲しんでイエズスを捜さない不信心な者に対する一つの教訓がある。マリアは[カナの]婚宴において御子に「彼らには葡萄酒がありません」と言われたとき、同情の言葉を神に語られた。ここには他者の困窮によって同情へ動かされず、隣人を助けもしなければ神のもとへ連れて行きもしない無慈悲な者に対する一つの教訓がある。ところで見なさい、おお、マリアよ、わたしたちの擁護者よ、わたしたちにとってあなたがわたしたちのために御子に、わたしたちの多くが葡萄酒を持たないということを言ってくださることがなお必要である。わたしたちは聖霊の葡萄酒、悔恨の葡萄酒、信心と霊的慰めの葡萄酒を欠いている。そのことについて聖ベルナルドゥスはこのように語っている。「おお、わたしの兄弟たちよ、あなたたちの涙にかきくれた不満の後に、あなたたちが葡萄酒を持っていないということを御子に言ってくださるように憐れみの御母に懇願することがわたしにとっていかにしばしば必要であることか!愛すべき彼女は、もし彼女があなたたちによって敬虔に懇願されるならば、あなたたちの必要に対して欠けることはないであろう、とわたしは言う。なぜなら、彼女は慈悲深い方であり、慈悲の御母だからである。なぜなら、もし彼女が客である人々の恥に同情されたとするならば、もしあなたが熱心に彼女に懇願するならば、彼女はそれ以上にあなたに同情されるであろう。」わたしたちが言ったことから、マリアが唇の恩寵のゆえに王たちの王と共にいかなる力を持っておられるかをよく考えよ。なぜなら、箴言の書にはこう言われているからである。「清い心を愛する人は唇に品位があり、王がその友となる」(箴言、XXII, 11)。

 第三に、マリアにおいて特権の恩寵を考察せよ。この恩寵についてこう言われている。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエズスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」ガブリエルがマリアが恵みをいただいたと主張しながら次のように言ってその恩寵が何であるかを直接的にどのように特殊化しようとしているかを見よ。「見よ、あなたは身ごもるであろう」。おお、一人のおとめが身ごもり、いと高き方を産まれるということがいかに偉大なことであり、いかに全世界中で聞いたこともないことであろうか。わたしたちはマリアのうちに七つの特権を、神によってマリアだけに与えられた広大な恩寵に満ちた特権を見ることができる。

 マリアの第一の特権は、彼女がすべての人を越えて、罪から解放されそして最も純粋であったということである。なぜなら、彼女は、ほんのわずかの程度でも最も軽微な小罪への傾きも全然なかったと信じられるほどに豊かに彼女の母の胎内において恩寵によって聖化されておられたからである。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「おとめたちの女王が聖性の例外的な特権によって、あらゆる罪から解放された生活を送られ、その結果彼女が罪と死を滅ぼす方を産まれ、生命と正義のすべての賜物を手に入れられることは相応しいことであった。」

 マリアの第二の特権はすべての人に優って恩寵に満ちた方であったということである。聖ヒエロニムスはこう言っている。「恩寵は他の人々には一定量与えられた。しかし恩寵の全体的充実はマリアの中へ注ぎ込まれた。」それゆえに、この同じ博士はマリアの恩寵を天使の恩寵と比較し、マリアの恩寵の方を選びながら次のように言っている。「輝かしいおとめマリアが徳のより大きな特権に値され、天使たちによって賛美された恩寵を受けられたとわたしたちは信じるべきである。」

 マリアの第三の特権は彼女だけが母であり、同時に汚されていないおとめであるということであった。聖ベルナルドゥスはこの特権を賛美しながらこう言っている。「マリアは彼女自身のためによりよい方の部分の選ばれた。明らかによりよい部分である。というのは、婚姻上の多産性はよいものである。しかし、処女的な貞節はよりいっそうよいものである。しかし、最善のものは処女的な多産性あるいは多産的な処女性である。マリアの特権は他の人には与えられないであろう。というのは、それはマリアから取り去られないからである。」

 マリアの第四の特権は彼女だけが御子の言い様のない御母、神だけがその御父である御子の御母であるということである。一人の被造物にそのように大きな特権が与えられたということは比較を絶した驚くべきことである。この特権について聖ベルナルドゥスはこう言っている。「これはわたしたちのおとめの例外的な栄光である。彼女がその御子を御父である神と共通に持つに値されたということはマリアの優れた特権である。」

 マリアの第五の特権はすべての被造物を越えて彼女だけが身体において神と最も親密であったということである。なぜなら、他のいかなる被造物にも決して与えられなかったし、これからも永遠にわたって再び決して与えられないであろうことであるが、−彼女はその胎内に九ヶ月間神を懐胎されたからであり、天に満ちた彼女の胸から神に栄養を与えられたからであり、多年にわたってわたしたちの主を甘美に養育されたからであり、彼女に従う神を持たれたからであり、聖アウグスティヌスが言っているように、彼女の神を純粋な抱擁において手に取り、抱かれたのからであり、また優しい親密さをもってキスされたからである。「マリアよ、天において支配し給う神がかたじけなくもあなたと共に喜び給うということは驚くべきことではない。神があなたからお生まれになって幼児であられたときに、あなたは地上でそのようにしばしばキスされたのである」(Serm. de Sanct., XXV, CCVIII, n. II, appendix.)

 マリアの第六の特権はすべての被造物を越えてただ彼女だけが神と共に最も強力であるということであった。聖アウグスティヌスはこう言っている。「彼女は救世主の母であるに値された。」彼はまたこうも言っている。「わたしたちが求めるもののために願ってください、わたしたちが恐れるものを免除してください。というのはわたしたちはあなたよりも功徳においてより強力な方を誰一人決して見つけることはないでしょうから。あなたは救世主の御母、審判者の御母であるに値されたからです。」聖アウグスティヌスが次のように宣言するように、彼女が神と共に、すべての聖人たちよりも強力であるということは一つの大きな特権である。「 それによってすべての者が解放された値[であるキリスト]を産まれた彼女が他のすべての者に優って聖なる解放の投票権を[買い取る値を]支払うことがおできになるということは何の疑いもない。」しかし、もし彼女がわたしたちのために何の配慮もされなかったならば、マリアにとってそのような大きな力を持たれることはわたしたちに何の役に立ったであろうか? それゆえに兄弟たちよ、わたしたちは、彼女が神と共にすべての聖人たちよりも大きな力を持っておられるように、また彼女が神の前でわたしたちのためにすべての聖人たちよりもより多く気遣ってくださるということを確かなものとして主張しなければならないし、またこのことに対して絶えず感謝しなければならないのである。次のように言ってこのことをわたしたちに教えているのは同じアウグスティヌスである。「おお、マリアよ、わたしたちはあなたがすべての聖人たちを越えて聖なる教会のために気遣われるということを知っている。−あなたは罪人たちが彼らの誤りを捨てるように痛悔する時間を彼らのために獲得されるのである。」

 マリアの第七の特権は彼女がすべての聖人たちを越えて栄光において最も優れておられるということである。聖ヒエロニムスはこう言っている。「至る所で神の聖なる教会は、(マリアの)功徳がすべての天使、大天使の功徳を超越するということを、聖人たちのうちの他のいかなる人についても信じることがいかに不法なことであるかと、歌っている。この特権は、いわば、本性に属するものではなくて、恩寵に属するものである。それはおとめマリアに属するのである。」神に次いで栄光において最も傑出しているというマリアの栄光の特権がいかに輝かしいかを見よ。マリアの栄光の輝かしい特権は、何であれ神に次いで最も美しいもの、何であれ最も甘美であるもの、何であれ栄光においてより快いもの、それがマリアのものであり、マリアのうちにあり、マリアによってあるということである。神に次いで、わたしたちの最も大きな栄光、わたしたちの最も大きな喜びがマリアのゆえにであるということが完全にマリアの輝かしい特権である。「おお、マリアよ、神に次いであなたを眺めること、あなたにすがりつくこと、あなたの保護の守りのうちに住むことはわたしたちの最大の喜びである。」

 それゆえに、これらがそれによってわたしたちが恩寵の生活を得るマリアの七つの特権である。それゆえに、わたしたちは、アブラハムが次のようにサラに嘆願したように、マリアに嘆願するであろう。「どうか、わたしの妹だと言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたの恩寵によってわたしの魂は生きるでしょう」(創世記、XII, 13)。おお、我らのサラであるマリアよ、あなたのゆえにわたしたちにとって神と共に幸いになり、あなたの恩寵によってわたしたちの魂が神のうちに生きるように、あなたがわたしたちの妹だと言ってください。おお、わたしたちの最も愛するサラよ、そのような妹のために、エジプト人たち、すなわち、悪しき霊たちがわたしたちを尊敬するように、そのような妹のゆえに、天使たちがわたしたちのために戦ってくれるように、そしてとりわけ、そのような妹のために、父と子と聖霊がわたしたちを憐れんでくださるように、あなたがわたしたちの妹だと言ってください。

 第四に、マリアにおいて報償の恩寵を考察せよ。そのことに関してわたしたちはすでに彼女の第七の特権について語った際に触れた。次の集会の書の言葉はこの恩寵に適用され得る。「貞節で聖なる女は恩寵に恩寵を重ねる」(XXVI, 19)。すべての女を越えて貞節な女はマリアである。すべての女を越えて聖なる女、彼女のうちには恩寵を越える恩寵、道の恩寵を越える栄光の恩寵、この世における功徳の恩寵を越える天上における報償の恩寵がある。マリアの至福のこの恩寵は身体と霊魂の七つの賜物に存する。栄光に入ったあらゆる身体は四つの輝かしい賜物を持っている。すなわち、驚くべき明瞭性の賜物、驚くべき霊妙性の賜物、驚くべき軽快さの賜物、驚くべき通過不可能性の賜物である。もしあらゆる栄光化された身体がこれらの賜物を持っているとするならば、すべての身体を栄光化する者である方を産んだ身体はどのようにそれ以上にそうであることであろうか? たとえ彼女の明瞭性の賜物が天上において最も明るいとしても、何の驚くことがあろうか? 彼女は聖性の賜物によってこの世においてそのように光り輝いておられ、聖ベルナルドゥスは彼女についてこう言っている。「しかし、あなたは罪人たちの間で生活されたが、あなただけが永遠の王の栄光に近づくに値されたほどの聖性をもって神の前に輝かれた。」さらに、たとえ霊妙性の賜物によって彼女が最も霊妙であるとしても、何の驚くことがあろうか? 彼女は謙遜の賜物によってこの世において最も霊妙であった。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「あなたが地上で謙遜によってすべての人々の下に身を低められなかったならば、あなたは決して天使たちのすべての合唱隊を遙かに越えて上には昇られなかったであろう。」さらに、たとえ軽快性の賜物よって彼女が天上において最も速い者であるとしても、何の驚くことがあろうか? 彼女は親切を愛する賜物によって地上ではそのように速かったのである。なぜなら、愛の務めにおいて彼女は急いで山里に向かわれたからである。彼女の速さについて聖アンブロシウスはこう言っている。「もし急いで山里へ向かわれなかったならば、今や神に満たされた彼女はどこに向かわれたであろうか? なぜなら、聖霊の恩寵はのろい遅延を知らないからである。」さらに、たとえ通過不可能性の賜物によって彼女が天上において通過不可能であったとしても、なんの驚くことがあろうか? 彼女は忍耐と平静さの賜物によってこの世においてそのように通過不可能であったので、彼女自身の魂を剣が貫いたときもほんのわずかの我慢のなさあるいは憎しみをも決して感じられなかったのである。なぜなら、わたしたちはマリアのうちにかつてほんのわずかでも我慢のなさのしるしが現れたということを読まないしまた信じないからである。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「あなたの精神の中で福音書の物語の全体を根気よく思いめぐらしなさい。そしてもしあなたがマリアのうちにほんのわずかでも非難、堅さ、あるいは怒りのしるしを見出すならば、そのときあなたは他の事柄における彼女の徳を信じること、彼女に近づくことを躊躇してもよいであろう。」

 もしそのようなことがマリアの身体の栄光であるならば、彼女の魂の栄光はどんなものであるとあなたは考えるか? この祝せられた魂は三つの至福の賜物−すなわち、驚くべき愛の賜物、驚くべき知識の賜物、驚くべき結実の賜物、あるいは、もっと現代的に言えば、見、味わい、経験する賜物−を持っておられる。しかし、どんな仕方でマリアの賜物が表現されようとも、これらの賜物が他のすべての人の賜物を凌駕していることは確かである。なぜなら、もし天国においてすべての祝せられた魂たちがこれらの賜物を与えられているとするならば、この世界にすべての魂たちを至福にする方の魂を産んだ彼女の魂がどれほどそれ以上のものであることだろうか? 聖ベルナルドゥスはこう言っている。「彼女は信じられることができるものを越えて神の知恵の最も深い深淵を貫かれた。そして一つの被造物の条件が可能である限りで、彼女はあの近づき得ない光に結びつけられておられた。」さらに、たとえマリアの霊魂が多産の愛のうちに浸されているとしても、たとえ彼女がすべてに越えて愛すべき方であるとしても、何の驚くことがあろうか? 彼女はすべての者を越えて愛される方である。真に、すべてに優ってそうである。なぜなら、聖アウグスティヌスはこのように彼女に向かって述べているからである。「王たちの王は、あなたを真の御母また配偶者としてすべてに優って愛しながら愛の抱擁においてあなたに結ばれる。」さらに、たとえ彼女の胎のいと祝せられた実[キリスト]によって養われたマリアの魂が最も喜びに満ちた結実のうちに浸されるとしても、何の驚くことがあろうか? 聖アウグスティヌスはこう言っている。「マリアは魂の輝きにおいてキリストと彼の栄光の抱擁を享受される。彼女は常に現前しながら、常に彼を眺めながら、常に彼を見ることに渇きながら、彼によって誤りなく養われる。」それゆえに、最も輝かしいマリアが道の恩寵そして功徳の恩寵においてすべての聖人たちを凌駕しておられるように、そのように彼女は栄光の恩寵、報償の恩寵においてすべての聖人たちを凌駕しておられるのである。それゆえに、彼女は女王エステルによってよく象徴されているのである。エステルについてはわたしたちは、アッシリア王の婚姻の部屋に招き入れられて、彼女がすべての女に優って彼の前に恵みと憐れみを見出し、彼は彼女の頭に王国の冠を置いたということを読むのである。このことは優れてマリアに相応しい。マリアについて聖ヒエロニムスはこう言っている。「彼女はその心のすべての望みをもって愛し、望んだ救い主の美と顔を見るように、天使たちの合唱隊を越えて高められた。」この女王エステル、祝せられたおとめマリアは彼女の被昇天においてアッシリアの王、永遠の王の花嫁の部屋へ導き入れられた。聖アウグスティヌスはそれについて付随的にマリアに向かってこう言っている。「女王マリアは永遠の安息の花嫁の部屋に導き入れられて、アッシリア王の好意と恩寵、すなわち、真の王の恩寵をすべての女に優って、すなわち、すべての天使的知性存在者たちに優って、すべての至福とされた魂たちに優って所有される。その結果、マリアのうちにはすべての祝せられた者の恩寵を越えた恩寵が存在すべきであった。まさに真理において王たちの王は彼女の頭の上に王国の冠を、そのように輝かしく、そのように驚くべき一つの真に値段のつけられないほどの王冠を置き、その結果いかなる舌もそれについて適切に語ることはできず、またあらゆる知性にとってそれは理解不可能である。

 それゆえに、今や、愛すべき者よ、あなたたちはマリアがいかに大きな賜物の恩寵をもって、いかに大きな唇の賜物をもって、いかに大きな特権をもって、いかに豊かな報償の持参金をもって、豊かにされたかを見てきた。それゆえに、彼女がわたしたちの主イエズス・キリストを通じて神と共に恩寵をわたしたちに見つけさせてくださるように この恩寵の発見者に嘆願しよう。アーメン。

第7章 マリアにおける九つの充溢、それは栄光における天使たちの九つの合唱隊を表す

 めでたし、聖寵充ち満てり。大天使にとってマリアの恩寵をただ称賛するだけでは不十分であった。彼はまた「聖寵充ち満てり」と言ったとき、その完全性を大いに強調することを望んだ。おお、真に完全な、完全に完全な聖寵よ!ガブリエルはまだ「見よ、あなたは身ごもるであろう」と言わなかった。彼はまだ「聖霊があなたの上を覆うだろう」とは言わなかった。それゆえに、もし聖霊が彼女の上に降る前に、神の御子の懐胎の前にマリアが(聖寵に)満ちておられたならば、その後にはどれほどもっとそうであったであろうか? それゆえに、アンセルムスは彼女の完全さについて、彼女の感謝の完全さについて適切に次のように言っている。「すでに千倍も(聖寵)に充ち満ちておられる彼女は天使によって挨拶され、聖霊によって満たされ、神の充溢によって息を吹きかけられた。」その通り、それゆえに、マリアは知恵の照明、恩寵の流出、よき生活の豊かさ、憐れみの塗油、敬虔な子の多産、教会の完成、正当な名声の芳香、神的光栄の華麗さ、永遠の嬉しさの喜びに満ちておられると言われるのである。マリアにおけるこれら九つの充溢を考察しよう。それらは光栄における天使的秩序の九つの充溢を表す。

 第一に、マリアが知恵と理解の照明に満ちておられるということを考察しよう。彼女は箴言の書において次のように言われていることによって適切に象徴されている。「夫は家にいないのです、遠くへ旅立ちました。手に銀貨の袋を持って行きましたから、満月になるまでは帰らないでしょう」(箴言、VII, 19 f.)。この男はエレミヤ書がそれについて語っている人である。「主は地の上に新しいものを創造された。一人の女が一人の男を包むであろう」(XXXI, 32)。その女はマリアである−堕落における女ではなく、実際に性における一人の女、わたしたちの主をその胎内に包み、わたしたちの本性で彼を纏わせた徳の母である。この男は−もし実際、ヨセフスが言うように、彼を一人の男と呼ぶことが法に叶ったことであるならば−、三つの家を持っている。宮殿の中に三つの邸宅、すなわち、応接室、食堂、寝室を持つことは皇帝陛下に属する[権限である]。応接室は会話と議論のための場所である。食堂は食事のための場所であり、寝室は休息の場所である。それゆえ、風と海を支配するわたしたちの皇帝は彼の応接室、すなわち世界を持つ。彼はその元気を回復する部屋−すなわち、現在ではそれは教会であり、昔はシナゴーグであったが−を持つ。彼はその休息の場所、すなわち、人間の理性的霊魂、を持つ。しかし、悲しいかな!この男、客たちの主人は世界の彼の家から、シナゴーグの彼の家から、霊魂の彼の家から非常に遠く離れていた。なぜなら、「救いは罪人たちから遠い」(詩編、CXVIII, 155)からである。この男はエレミヤが次のように訴えたとき、彼の家にいなかった。「わたしはわたしの家を捨て わたしの嗣業を見放し」(エレミヤ、XII, 7)た。彼は彼の憐れみの宝と彼の恩寵の宝を世界から隠したとき、金の袋を取り出し携えた。しかし、見よ!この男は満月の−雅歌の中で言われているあの月の−日に帰って来た。「月のように公平な」。それゆえに、この月はマリアである。満月は恩寵に満ちたマリアである。なるほどマリアは月に比較される。とうのは永遠の太陽によって彼女は知恵と真理の光で完全に照らされるからである。それゆえに、マリアという名前は照らす者あるいは照らされた者と解釈されてよい。なぜなら、わたしたちの月でありわたしたちのランプである彼女は主によって照らされたからであり、彼女は「なぜなら、あなたはわたしのランプを灯される」(詩編、XVII.)という預言者の言葉に従えば、世界を照らす者だからである。この月が満ちたとき、男は彼の家に帰って来た。それはキリストが肉においてこの世界に来られたときである。おお、この月の真に驚くべき完全さよ!見よ、もしマリアが、彼を懐胎する以前に、永遠の太陽から彼女が受けた知恵の光で満たされておられたとするならば、そのように驚くべき仕方でこの太陽を懐胎され、そのように完全に彼を彼女自身の内部に受け入れられたときには、彼女はどれほど遙かに完全であったことであろうか!それゆえに、聖ベルナルドゥスがマリアの知恵の完全さを称賛するときこう言うのはもっともなことである。「天上の知恵は彼自身のためにマリアのうちに一つの家を建てた。なぜなら、彼女の精神のまさに完全さから彼女の肉が多産となるほどに彼は彼女の精神を満たされたからであり、おとめは最初に純粋な精神のうちに懐胎された肉の衣服で纏われた同じ知恵を一つの例外的な恩寵によって産まれたからである。」

 第二に、マリアが愛情において恩寵の流出に満ちておられるということを考察しよう。なぜなら、そのようなことが「海とそこに満ちるものよ、とどろけ」(歴代誌上、XVI, 32)という言葉に従えば、彼女は満ちている海と呼ばれてしかるべきであるほどに、マリアにおけるその深さと大きさがそのように偉大である恩寵の洪水であったからである。海の中に水の集合があるように、マリアの中には恩寵の集合がある。それゆえに次のように書かれているのである。「水の集まった所を海と呼ばれた」(ヴルガタでは「彼は呼んだ」となっている)(創世記I, 10)。またコヘレトの言葉においてはこう言われている。「川はみな海に注ぐ」(コヘレトの言葉、I, 7)。すべての川は知恵の書の次の言葉によれば、マリアの中へ入って行った恩寵の賜物である。「道と真理のすべての恩寵はわたしのうちにある」(集会の書、XXIV, 25)。この海はいかに満ちていることか、マリアはいかに恩寵に満ちてられることか、聖ヒエロニムスはこう言いながら宣言している。「真に満ちている、というのは他の人々にはそれはただ部分的にのみ与えられているが、しかしマリアには恩寵の全体的な充溢が同時に注がれたからである。」それゆえに、この海は満ちているので、悪徳に対してそれがとどろくのを聞こう。それゆえに、海とそこに満ちるものよ、とどろけ。満ちた海、満ちたマリアよ、とどろけ。贅沢に対してとどろけ。貞節を述べ、そして言え。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」また次のように言って謙遜によって高慢に対してとどろけ。「わたしは主のはしためです。」感謝を捧げてこう言いながら恩知らずに対してとどろけ。「わたしは主のはしためです。...わたしの魂は主をあがめます」。この海の充満について同じように、詩編においてこう言われている。「海とそこに満ちるものよ、動かされよ。」海よ、動かされよ、マリアよ、動かされよ、わたしたちのため息と苦行によってマリアよ、動かされよ。わたしたちの涙と祈りによって彼女よ、動かされよ。わたしたちの施し物と他の崇拝の行為によって彼女よ、動かされよ。彼女がその充満からわたしたちに注がれるように、完全に動かされよ、とわたしは言う。聖ベルナルドゥスが彼女について語る際に言っていることに注意しよう。「液体で一杯になった器が動かされるならば容易にこぼれ、その内容を滴らせる。そのように祝せられたおとめマリアは、もしわたしたちの祈りによって動かされるならば、わたしたちの上に恩寵を注がれるのである。」

 第三に、マリアがまさに真理においてよい生活の豊かさに満ちておられるということを考察しよう。この充溢についてわたしたちは真にこう言うことができる。「地は主のものである。」地によって表されているのはマリアである。その方についてわたしたちはイザヤ書のうちにこう読む。「地よ、開け、救い主を生え出させよ!」地よりも低いものがあるだろうか? 地よりも有益なものがあるだろうか? わたしたちは皆足の下に地を踏み、そこからわたしたちの生活の糧を引き出す。地から以外に、地の充満から以外にどこからわたしたちは食物と衣服、パンと葡萄酒、羊毛と糸、アマ、すべての生活必需品を得るのか? それゆえに、地よりももっと低いもの、もっと有益なものは何であろうか? 同様に、マリアよりももっと低いものは何であり、もっと有益なものは何であろうか? 彼女は謙遜によってまさにすべての者のうちで最も小さい者であり、恩寵の充満によってすべてのもののうちで最も有益である。なぜなら、わたしたちはわたしたちの霊的生活のために必要なすべてのものをマリアを通じて持っているからである。それゆえに、聖ベルナルドゥスがこう言うのはもっともである。「信心のいかに大きな深さで、マリアのうちにすべての善の充満を置かれた方がマリアが尊敬されることを望んでおられるかということをもっと深く眺め、見るようにしよう。その結果もしわたしたちが希望に対する、あるいは救いに対する何らかの根拠を持っているとするならば、わたしたちはそれはそれを湧き出させる彼女からであるということを知るべきである」("Serm. de Aquaeductu.")。ところで、詩編作者の言葉を聞こう。「地とそこに満ちるものは主のものである。」地の充満は詩編作者によれば、諸々の果実とさまざまな富に存する。「地はあなたの富で満ちている。」この最も充満した地たるマリアの果実と富はマリアのいと聖なる生活の仕事、実例、さまざまの功徳である。主はそのような富と次のように言われているそのように大きな賜物とでマリアを満たされた。「主は地の上を眺められ、それを彼のよきもので満たされた。」(集会の書、XVI, 30)聖ヒエロニムスはこの充満について語りながら、こう言っている。「おとめがそのような賜物をもって保証を与えられたということ、天に栄光を与え、地に神を与え、平和を回復し、諸国民に信仰を与え、悪徳を終わらせ、生活に秩序を取り戻し、作法に規律を与えられた彼女が恩寵に満ちた方であるということは相応しいことであった。」

 第四に、マリアが憐れみの軟膏と敬虔の油に満ちておられるということを考察しよう。それゆえに、彼女は、彼女の家の扉を閉め、彼女のすべての容器の内部に一緒に集めたあの女によって表されてもよいであろう。それら[の容器]はエリシャがこう言いながら彼女に預言したことに従って奇跡的に油で満たされた。「それらが一杯になったときに脇に置くのです」(列王下、IV, 4)。この女はマリアである。彼女は聖ヨハネの福音書において御子によって「女」と呼ばれた。そこではわたしたちはこう読む。「女よ、あなたの子を見よ」。この女の容器は彼女の愛情と彼女の行為、彼女の望みと彼女の恩恵であり、それらはマリアにおいてはすべて憐れみの油で一杯である。それゆえに、聖ベルナルドゥスがこの油についてこう言うのももっともである。「貴婦人よ、もし聖所があなたの心の憐れみの油でそのように豊富に塗油されているならば、神がわたしたちの救済において永遠から予定されていたあの測り知れない憐れみの仕事が世界の造り主によってまず何よりもあなたのうちに成就されたとき、そのことは何ら驚くに当たらない。それゆえに、マリアに言おう。『あなたの油からわたしたちにください』と。わたしたちが審判において無益に求めることがないように、この世において彼女の憐れみの油を願おう。」そこで容器が満たされていた家が同様にまた閉じられていたということは見事にマリアに適合している。彼女の霊的な閉鎖についてエゼキエルはこう言っている。「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。誰もここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。」(エゼキエル、XLIV, 2)マリアの門は処女性の鍵によって閉じられていた。誰も婚姻の抱擁によってそこを通らなかった。神なる主が一つの例外的な誕生の仕方によって彼女を通過された。しかし、確かに油の増加のために多くの容器が隣人たちから集められたがゆえに、これらの容器によってマリアの憐れみに与ったすべての人々が表されてもよいであろう。聖ベルナルドゥスは次のように言うときそのことを宣言しているのである。「マリアはすべての人が彼女の充満から受け取ることができるように、彼女の憐れみの胸をすべての人に開かれた。すなわち、捕らわれ人に救出を、病人に癒やしを、悲しむ人に慰めを、罪人に赦しを、正しい人に恩寵を、天使に喜びを、要するに、三位一体全体に栄光を、御子のペルソナに人間的肉体の実体を開放されたのである。」

 第五に、マリアが神の御子の多産性に満ちておられるということを考察しよう。この充溢についてはわたしたちはイザヤの次の言葉を理解してもよいであろう。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。そして地は主の威光に満ちていた」(イザヤ、VI, 1)。その御座の上に主が座しておられたあの家は、その精神の御座の上に主が休まれた祝せられたおとめである。おお、列王記上において言われているように、真に祝せられた、堅固な御座よ。「いつの世にもとどまっていただける聖所を」(列王記上、VIII, 13)。このいと高き御座は情念の上に上げられた知性のうちにある。それは同様にまた人々越えて上げられた人々の上に最も高い所にある。それゆえに、マリアのこの御座の上に、わたしは彼女の精神の御座の上にと言うが、主は座しておられたのである。彼女の身体の家は受肉した御言葉の威厳に満ちていた。この言い表しがたい充満について聖アンブロシウスはこう言っている。「彼女だけが恩寵に満ちたと言われてもっともである。彼女だけが恩寵の与え主で満たされているという他の誰もがかつて持たなかった恩寵を得た。」おお、そのように幸せな多産性に満たされた真に幸せな家よ!なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「処女性の恩寵を保ちかつ多産性の栄光を獲得するという恩寵に彼女は満たされておられた。」それゆえに、主は恩寵によってマリアの精神の御座のうえに座し、彼の受け取った本性によって威厳をもって彼女の身体の家を満たされたのである。それゆえに、列王記上においてこう言われているのである。「主の栄光が主の神殿に満ちた。」(VIII, 11)次にソロモンはこう言う。「主は密雲の中にとどまる、と仰せになった。」(ibid., 12)それゆえに、主の家であるマリアは神によって引き受けられた人間性の雲−それについてわたしたちが集会の書において次のように読むあの雲と、わたしは言う−によって神の威厳の栄光で満たされたのである。「雨雲はすべてを速やかにいやし」(XLIII, 22)。さらに、「雲の中心における朝の星のように」。なぜなら、雲の中の星のように、は主によって引き受けられた肉における御言葉だからである。

 第六に、いかなる仕方でマリアが普遍的教会の完成に満ちておられたかを考察しよう。教会はそのさまざまの諸聖人において多様な、驚くべき完成と恩寵を持っていたし、また持っている。マリアはその充満のうちに住んでおられ、集会の書の次のような言葉を真に発せられたであろう。「わたしの住まいは諸聖人の完全な集会のうちにある」。真にマリアの住まいは諸聖人の充溢のうちにあった。一方、彼女自身の驚くべき完成において諸聖人の完成の充満は彼女に欠けていなかった。聖ベルナルドゥスが次のように言うとき宣言しているように、「彼女の住まいは正当に諸聖人の充満のうちにあった。彼女には太祖の信仰、預言者の精神、使徒の熱意、殉教者の志操堅固、証聖者の真面目さ、おとめの貞節、結婚している者の多産性が欠けていなかったし、否、天使の純粋性も欠けていなかった。なぜなら、集会の書にはこう書かれているからである。「そして聖なる集会において称賛されるであろう。」(XXIV, 3)このことのゆえに、マリアの住まいは不敬虔な者の充満のうちにではなく、諸聖人の充満のうちにある。というのは、マリアは不正に満ちている者たちと共にではなく、聖性に満ちている人々と共に喜んでとどまられるからである。彼女は諸聖人の充満のうちに住まれるばかりでなく、彼らの充満が小さくならないように、諸聖人と共に充満のうちに住まれる。彼女は諸徳が逃げないように、諸徳を掴まえられる。彼女は功徳が滅びないように功徳を掴まえられる。彼女は悪魔が害を為さないように、悪魔を掴まえ、彼らをつなぎ止めておかれる。彼女は御子を、彼が罪人たちを打たないように、掴まえておかれる。マリアの前では、イザヤが次のように言いながら証言しているように、このように主を敢えて掴まえることができた者はこれまで誰もいなかった。「あなたの名を呼び、立ち上がり、あなたを掴まえる者は誰もいない」(イザヤ、LXIV, 7)。

 第七に、マリアがどのようにすばらしい名声の香りに満ちておられるかを考察しよう。野原がさまざまな花の香りに満ちているように、マリアは香りを撒き散らすもののすばらしい名声に満ちておられる。彼女の充満についてわたしたちは創世記において読む次のことを理解してもよいだろう。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」(創世記、XXVII, 27)。この野はマリアである。彼女の中には天使たちの宝物、否、真に父なる神の宝全体が隠されている。「持っているものを全部売り、その野を買う人」は幸いである。この充満した野の充満した香りはマリアの充満した公平な名声、彼女の充満した名誉である。このことについて聖ヒエロニムスはこう言っている。「彼女が諸徳の多くの香りで満たされておられたがゆえに、天使の霊を喜ばせる最も甘美な香りが彼女から発散した。」この香りについて彼女自身は喜びながら集会の書の次の言葉を使うことがおできになったであろう。「わたしは肉桂や芳香性樹脂のようによい香りを漂わせた」(XXIV, 15)。マリアのよい香りは彼女の会話の外観において外的に肉桂のようであり、彼女の献身の塗油によって内的に芳香性樹脂のようであり、彼女の苦難の苦さにおいて没薬のようであった。マリアのよい香りは同様にまた彼女の行為において肉桂のようであり、彼女の観想において芳香性樹脂のようであり、彼女の苦しみにおいて没薬のようであった。おお、彼女は他の芳香に加えて、真に豊かに、並外れて豊かに聖霊の芳香を放つ樹脂に満たされておられたことであろう。聖ベルナルドゥスは「聖霊があなたを覆うであろう」という言葉について語りながらこう言っている。「貴重な芳香性樹脂があなたのまわりすべてに最も豊かに溢れるほどのそのような潤沢さと充溢さをもってあなたの上に注がれたのである。」そうなのだ、それゆえに、父なる神はこう言うことがおできになったのである。「見よ、我が子の香りは盛りの野の香りのようである。」これはあたかも神がこう言われたかのようである。「見よ、我が子の香り、我が子の名誉はその母の名誉と名声から来る」と。聖ヒエロニムスはこう言う。「母の名誉は彼女から生まれた彼の名誉である。」

 第八に、マリアがどのように省察、あるいは、集会の書[の次の言葉]に従えば,いわば神の栄光の表現たる光彩に満ちておられたかを考察しよう。「主の作品は主の栄光に満ちている」(XXIV, 20)。とりわけ、主の最も驚くべき作品はマリアである。彼女について集会の書にはこう言われている。「いと高き方の御業はなんと驚嘆すべきものか」(XLIII, 2)。真にそれは驚嘆すべき作品である。なぜなら、それに似たようなものは決して見出され得ないからである。それゆえに、それについてはこう言われている。「どの王国においてもそのような作品が作られたことはなかった」(列王記上、X, 20)。実際、天の王国においても、地の王国においても、また地獄の王国においても一つもなかった。なぜなら、そのような作品は天国にも、地上にも、地獄においても決して存在しなかったからである。なぜなら、この作品は主の栄光に満ちているからである。というのはこの栄光はすべての純粋な被造物[天使たち]を越えたマリアにおいて最も完全に輝くからである。なぜなら、御言葉によって引き受けられた人間性の後には、マリアにおいてほど神の栄光のためのそのような余地がその中に存在するいかなる作品、いかなる被造物も存在しないからである。なぜなら、主はマリアを通じて天においてもたらされた回復のゆえに栄光を、世界において達成された贖いにおける栄光を、地獄において鍛えられた解放のために栄光を持っておられるからである。−この栄光を主はマリアにおいて恩寵の充満のうちに持っておられる。それゆえに、聖アンセルムスが次にように言うのはもっともである。「貴婦人よ、わたしはあなただけに言う。世界はあなたの恩恵に満ちている。それらの恩恵は地獄を貫き、天を凌駕した。なぜなら、あなたの恩寵の充満によってリンボ[天国にも地獄にも行かない洗礼を受けなかった幼児やキリスト降臨以前の善人などの霊魂のとどまる所]にいた人々が彼らの解放において喜び、世界の上にいた人々が彼らの回復において喜びを持つからである。」それゆえに、主の栄光に満ちているのは主の作品たるマリアである。というのは、イザヤにおいて言われているように、「地は彼の栄光に満ちている」(イザヤ、VI, 3)からである。実際、全地は神の栄光に満ちており、マリアは神の栄光に満ちておられる。神の栄光は彼女において最も完全に輝いている。上述されたすべてのことに優って彼女は正当に恩寵に満ちておられると言われる。。彼女は、聖ベルナルドゥスがめでたし聖寵充ち満てりという言葉について語りながら次のように言うときに示しているように、恩知らずでないすべての人々にとって最も快いのである。「そうだ。彼女は神にとって、天使たちにとって、人々にとって快いがゆえに、完全に快いのである。人々にとって快いのは彼女の多産性によってであり、天使たちにとって快いのは彼女の処女性によってであり、神にとって快いのは彼女の謙遜によってである。」

 第九に、マリアがどのように永遠の幸福の喜びに満ちておられるかを考察しよう。彼女が御子が次のように語られた人々に属しておられるということを誰が知らないであろうか? 「あなたたちの喜びが満たされるように求めなさい、そうすればあなたたちは受けるであろう。」それゆえに、もし神と共に支配しているすべての人々の中で使徒たちの喜びが満たされているとするならば、神の御母の喜びはどのように遙かにそれ以上に満たされ、完全であるだろうか? この充溢について聖ヒエロニムスはこう言っている。「実際恩寵に満ち、神に満ち、諸徳に満ちている彼女は永遠の輝きの栄光を最も完全に所有される以外にはなかった。」そのとき、地上での彼女の追放の身分において充ち満ちて溢れる恩寵を持っておられた彼女が天国において充ち満ちて溢れる喜びと栄光を持たれるということに何の驚きがあるだろうか? 天と地上の両方において、その充満からあらゆる被造物が生命を得る彼女の充満があらゆる被造物の充満を越えていたとしても何の驚きがあるだろうか? そうだ、それゆえに、御父なる神はこう言うことがおできになったのである。「見よ、わたしの子の香りは地全体のにおいのようだ」。それはあたかも神がこう言われたかのようである。「見よ、わたしの子の香り、わたしの子の名誉は彼の御母の名誉と名声から来たのである。」聖ヒエロニムスはこう言っている。「母親の名誉は彼の名誉である。彼は彼女からお生まれになった。」そのとき、地上において追放の身にあってさえ恩寵に満ち、満ち溢れておられた彼女が王国において喜びと栄光に満ち、また満ち溢れておられるとしても、何の驚きがあろうか? 彼女の充溢からあらゆる被造物が生命を得ている方のその充溢が天国と地上の両方においてあらゆる被造物の充溢を越えているとしても、何の驚きがあろうか? それゆえに、聖アンセルムスはこう言うのである。「おお、その方の充溢の溢れからあらゆる被造物が新しい生命を得る、恩寵に満ちそして満ち溢れた女よ!」

 このように、あなたはマリアのうちに、照明する知恵の充満、溢れる恩寵の充満、実りある生活の充満、援助する憐れみの充満、教会の完成の充満、よき名声の充満、神の栄光の充満、永遠の喜びの充満を見る。それゆえに、今、おお、聖寵充ち満てるおとめよ、そのように空虚なわたしたちを、最後にはわたしたちが永遠の充満に達することができるように、あなたの充満に参与させてください。我らの主、イエズス・キリストによって。....

第8章 マリアはすべての賜物を主と分かち持たれる

 「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。」上にマリアが彼女の生活の純粋さのゆえにどのように正当にアヴェによって挨拶されるかを示した。同様にまた、彼女の恩寵の豊かさのゆえに、彼女がどのように正当に「聖寵充ち満てり」と呼ばれるかを示した。わたしたちは今や彼女の内部での神の最も特別な現前のゆえに、彼女に対して「主御身と共にまします」とどのように正当に言われるか、ということを示さなければならない。しかし、おお、偉大なガブリエルよ、あなたはいかなる尺度において偉大なる神からの偉大なるマリアへの偉大なる事柄の情報をもたらすのかをわたしたちに告げよ!しかし、どんな尺度で神がどのようにマリアと共におられるのか、をわたしたちに告げよ。聖アウグスティヌスが、いわばその答えがガブリエルの人称にあるかのようにして、この問いに答えているのを見よ。「主御身と共にまします。しかしそれはわたし[ガブリエル]と共に、ということ以上のことである。主御身と共にまします。しかし、それは主がわたしと共にましますようなものではない。なぜなら、主はわたしのうちにましますけれども、主はわたしを創造されたからである。しかし、あなた[マリア]によって主はお生まれになった。」それゆえに、主よ、おお、マリアよ。しかし、この主は誰なのか。どのように偉大な方なのか? それは大地の主、一般に万物の主、特に人類の主である方である。おお、マリアよ、その方は例外的な仕方であなたの者である主、理性的被造物の特別の仕方における主である。おお、マリアよ、その方は特別にあなたの処女の宮廷の主である。それゆえに、わたしたちは御身と共にましますこの主は、一般にすべての被造物の主であると考えなければならない。ユディトはこう言っている。「天の主、水の創造主、そしてすべての被造物の主」(IX, 17)。また賢者はこう言っている。「万物の主は彼女を愛される」(知恵の書、VIII, 4)。それゆえに、その方は普遍的には万物の主であり、すべての見得るものと見得ざるものの主である。万物のこの普遍的な主は、彼女を万物の普遍的な貴婦人−わたしは天の貴婦人、世界の貴婦人と言う−としたそのような仕方でマリアのうちにおられた。聖アンセルムスはこう言う。「天の女王、世界の貴婦人、世界を清め給う主の御母に対して、わたしはわたしの身体が極めて汚れているということを告白する。」しかし、見よ!この万物の普遍的な主は最も力強い主、最も賢明な主、最も豊かな主、最も無尽蔵な主である。力のない主人、知恵のない主人、富のない主人、永続性のない主人は最も不完全な主人であろう。弱い主人、貧乏で生彩を欠いた主人、あるいは彼の立場を保つことができな主人はほとんど尊敬されないであろう。しかし、わたしたちの主は普遍的であり、最も力強く、最も賢明で、最も豊かである。その永遠性は絶えることがない。

 第一にマリアと共にまします普遍的な主は意志において最も力強いということに注意せよ。主について次のように言われているのはもっともである。「....すべての深淵において主は何事をも御旨のままに行われる」(詩編、CXXXIV, 6)。それゆえに、天においても、地においても、すべての地獄の深淵においても、モルデカイが次のように言いながら証言しているように、誰もそのように力強い主の御旨に抵抗することはできないのである。「全能の王である主よ、万物はあなたの支配のうちにあり、誰もあなたの御旨に反抗することはできない」(エステル、XIII, 9)。見よ、マリアよ、御身と共にまします主はいかに偉大であり、いかに力強いことか!それゆえに、あなたは主と共に、主によって、主を通じて最も力強い。その結果、あなたは「わたしの力はエルサレムにある」(集会の書、XXIV, 15)と真に言うことがおできになるのである。エルサレムは天上の勝利の教会を表している。それはまた地上の戦闘の教会を表している。なぜなら、真に天と地の両方において創造主の御母は力を持っておられるからである。アンセルムスは次のように言うとき、彼女がどのように非常に力強いかを認めているのである。「愛する方よ、わたしたちの言うことを聴いてください。わたしたちと共にいてください。わたしたちに恩恵を与えてください。最も力強い方よ、わたしたちの精神が汚れから清められ、わたしたちの暗闇が照らされるようにわたしたちを助けてください。」それゆえに、おお、最も力強いマリアよ、主御身と共にまします。

 第二に、マリアと共にまします普遍的な主が真理において最も賢明な主であるということに注意せよ。なぜなら、彼は詩編においてこう言われている主だからである。「わたしたちの主は大いなる方、御力は強く、英知の御業は数知れない」(詩編、CXLVI, 5)。おお、主はいかに賢明であることか。その英知を何ものも欺くことはできず、何ものもその英知から隠されることはできない。というのは、主はすべての事柄を知っておられるからである。よいものも悪いものも両方わたしたちのすべての業を、よいものも悪いものも両方わたしたちのすべての言葉を、よいものも悪いものも両方わたしたちのすべての思いを、よいものも悪いものも両方わたしたちのすべての望みを、主は知っておられる。それゆえに、聖ペトロはこう言うのである。「主よ、あなたはあらゆる事柄を知っておられる。」見よ、マリアよ、御身と共にまします主がいかなる種類の主であるか、いかに最も賢明であることか。そして最も賢明な主が最も賢明にあなたと共におられるがゆえに、あなたもまた主と共に、主を通じて最も賢明なのである。あなたは次のように言われているアビガイルによって象徴されておられる。「彼女は最も賢明で最も美しかった。」マリアはそのように賢明でそのように美しかったので、聖アンセルムスは彼女についてこう言うことを躊躇しない。「知恵と知識のすべての宝がマリアのうちにある。」それゆえに、おお、最も賢明なマリアよ、主御身と共にまします。

 第三に、マリアと共にまします宇宙の主が、預言者が次のように言いながら証言しているように、所有において最も豊かな方であるということを考察せよ。「地は主のもの、そこに住むすべてのものは主のもの。」単に地とそこに満ちるものが主のものであるだけでなく、天とそこに満ちるものもまた主のものである。なぜなら、おお、主よ、天はあなたのものであり、地はあなたのものだからである。というのは「諸天の天は主のものだ」からである。あらゆるもの、天と地、物体と霊、あらゆる自然、あらゆる恩寵、あらゆる天の栄光はすべて主御自身のものである。それゆえに、使徒がこう言っているように、主は最も豊かな方である。「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(ロマ、X, 12)。見よ、マリアよ、御身と共にまします主は何と豊かで、何と偉大であることか!最も豊かな主がそのように豊かに御身と共にましますがゆえに、あなたは主と共に、主のゆえに最も豊かである。その結果、あなたについては真にこう言うことができるのである。「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」(箴言、XXXI, 29)。娘アグネス、娘ルチア、娘たちカタリナ、セシリア、アガタ、他の多くの聖なるおとめたちや正しい魂たちは徳と恩寵、功徳と報償の豊かさを一緒に集めたが、しかし、おお、マリアよ、あなたはあなたの普遍的な豊かさによって彼らすべてを凌駕された。おお、困窮においてそのように豊かであったマリアは栄光においてどのように豊かであることか!この世においてそのように豊かであった彼女は天においてどのように豊かであることか!聖ベルナルドゥスでさえこう叫ぶほどに彼女の身体においてそのように豊かであった彼女はその魂においてどのように豊かであることか!「おお、すべてにおいてすべてを越えて豊かなマリアよ、あなたの実体から小さな部分を取るだけで、全世界の負債を支払うのに十分であった!」それゆえに、おお、最も豊かなマリアよ、主御身と共にまします。

 第四に、マリアと共にまします宇宙の主が永遠の絶えることのない主であるということを考察せよ。それゆえに、わたしたちは出エジプト記に次のように読むのである。「主は永遠にそしてそれを越えて支配される。」また詩編にはこう言われている。「しかし、おお、主よ、あなたは永遠にとどまり給う。」見よ、おお、マリアよ、御身と共にまします主はいかに偉大な主であることか、いかに絶えることのない主であることか!主はあなたと共に絶えることがないがゆえに、あなたもまた主と共に永遠に絶えることがないのである。なぜなら、あなたはあの絶えることのない王座、あの永遠の王座、神の御子の王座だからである。御子について御父は預言者によってこう言われる。「彼の王座はわたしの見る前で太陽のようであり、とこしえにそして真に永遠に完全な月のようである。」それゆえに、わたしたちは真理と共にただ「あなたは、おお主よ、永遠に持続し給う」としか言うことができない。しかし、わたしたちはまた真にこう言うこともできる。「おお、貴婦人よ、あなたはとこしえに 持続される」と。マリアの恩恵でさえ彼女のしもべたちのうちに永遠にとどまるとき、マリアが御子のうちに永遠にとどまられるとしても、何の驚くことがあろうか? なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「おお、マリアよ、あなたのうちに永遠に、天使たちは喜びを、正しい者は恩寵を、罪人たちは赦しを見出す。」それゆえに、おお、決して絶えることのないマリアよ、主御身と共にまします、喜べ!見よ、最も力強い主は、あなたが主と共に最も力強い者であるそのような仕方であなたと共にまします。最も豊かな主は、あなたが主と共に最も豊かであるそのような仕方であなたと共にまします。決して絶えることのない主は、主と共にあなたが決して絶えることがない、あるいは欠陥ある者ではないそのような仕方であなたと共のおられる。

 それゆえに、今や最も力強い貴婦人よ、そのように無力であるわたしたちの助け手となってください!今や、最も賢明な貴婦人よ、愚かであるわたしたちにとって援助者そして相談相手となってください!おお、最も豊かな貴婦人よ、貧しい者であるわたしたちにとって恩恵の与え手となってください!おお、最も絶えることのない貴婦人よ、弱くて絶える者であるわたしたち被造物にとってあらゆるよい行いにおいて永遠の支えとなってください!

第9章 「主御身と共にまします」

  今や、わたしたちは「主御身と共にまします」と言われているこの主がある特別な仕方で人間のような理性的被造物の主であるということを考察しなければならない。理性的被造物それ自身が詩編第八で「おお主よ、我らの主よ」と言っている。主はすべての人間たちの主である。主は特にわたしたちの主である。イザヤ書において言われているように、「主はわたしたちの審判者であり、主はわたしたちの立法者であり、主はわたしたちの王である」(イザヤ、XXXIII, 22)。主はこの世においてわたしたちの立法者である。主は最後の審判においてわたしたちの審判者である。主は天においてわたしたちに冠をかぶらせるであろうわたしたちの王である。この特定のわたしたちの主は、主が同様にまたマリアをわたしたちの特別の貴婦人とされたそのような仕方でマリアと共におられた。聖ベルナルドゥスは次のように言うときそのことを認めた。「我らの貴婦人、我らの仲介者、我らの擁護者、わたしたちをあなたの御子と和解させ、あなたの御子にわたしたちを委託し、あなたの御子の前にわたしたちを引き合わせてください。」しかし、見よ、わたしたちのこの主は最も愛すべき、最も正しい、最も確実な最も名声のある主である。審判において正しいが恩恵において愛する者でない主人、約束において真であるが民の間で名声のない主人はそれほど高く評価されないであろう。しかし、我らの主は気前の良さにおいて最も愛すべき方であり、公正さにおいて最も正しく、誠実さにおいて最も真であり、名声において最も有名である。

 それゆえに、第一に、わたしたちはマリアと共にましますわたしたち自身の主が無限の憐れみにおいて最も愛すべき方であるということに注目しなければならない。なぜなら、主は、預言者がこう言っている主だからである。「主よ、あなたは甘美で柔和である。あなたに嘆願する者たちに大きな憐れみをかけられる」(詩編、LXXXV, 5)。主は多くのこの世の恩恵において、また霊的、永遠の恩恵においても大きな憐れみを持たれた主である。主は大きな憐れみから恩恵をわたしたちにお与えになられた。そして与えることを決して止められない。そのように大きな憐れみに対してわたしたちが恩知らずでない者でありますように!そのように憐れみ深い主に対してわたしたちが、次のように言っているイザヤがそうであったように、大いに感謝を捧げる者でありますように!「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを」(イザヤ、LXIII, 7)。見よ、マリアよ、主は何という方であろうか、何と愛すべき方であろうか、何と慈しみ深い方であろうか、御身と共にまします主は。この最も慈しみ深い主は御身と共にそのように慈しみ深い方であり、それゆえに、御身は主と共に最も慈しみ深い方である。そして御身について真に次のように言うことができるのである。「王座が慈しみをもって立てられ、その上に、治める者が、まことをもって座す」(イザヤ、XVI, 5)。神の慈しみの王座はマリア、慈しみの御母であり、彼女のうちにすべての者は慈しみの慰めを見出す。なぜなら、わたしたちは最も慈しみ深い主を持っているのと同じように、最も慈しみ深い貴婦人を持っているからである。わたしたちの主は主に嘆願するすべての者に大きな慈しみをかけられる。わたしたちの貴婦人は彼女に嘆願するすべての者に大きな慈しみをかけられる。それゆえに、聖ベルナルドゥスは特にこう言うのである。「おお、祝せられたおとめよ、困窮の中で慈しみを嘆願し、欠乏においてそれを見出した者に慈しみの主題に関して沈黙させてください。」それゆえに、おお、最も慈しみ深いマリアよ、主は御身と共にまします。

 第二に、マリアと共にましますわたしたち自身の特別の主は、詩編においてこう言われているように、最も正しい公正の主である。「主は正しく、正義を愛される」(詩編、X, 8)。さらに、「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きはまっすぐです」(詩編、CXVIII, 137)。再び、詩編において「主の道はことごとく正しく....」(詩編、CXLIV, 17)と言われているように、主はそのすべての裁きにおいて、すべての訴訟において、そのすべての業において最も確実に正しい。主は正義のあらゆる道においてそのように正しいので、誰に対しても主は正義の道から逸れられることはないであろう。それゆえに、こう言われるのはもっともである。「神はいかなる人間の人格をも除外されず、いかなる人間の偉大さをも畏れ敬われることはない。なぜなら、主は小さき者と偉大な者を造られたからであり、主はすべての者を等しく配慮されたからである。」おお、マリアよ、見よ、御身と共にまします主は何という方であろうか、何という正しい主であることか!主は御身と共に最も正しい方であるがゆえに、御身は主と共に最も正しい方なのである。なぜなら、あなたはまっすぐで直立している花咲き実り豊かなアアロンの若枝だからである。正義と公正によってまっすぐで直立しており、処女性によって花咲き、多産性によって実り豊かである。なぜなら、もしアアロンの若枝がまっすぐでなかったならば、誰がまっすぐな若枝あるいは幹であり、直立した若枝あるいは幹であろうか? もしマリアが正しくないとするならば、いかなる魂が正しいであろうか? これが聖ベルナルドゥスが次のように言う理由である。「正義の太陽がその方から出た正しいマリアでないとすれば、誰が正しいのか?」それゆえに、おお、最も正しいマリアよ、主は御身と共にまします。

 第三に、マリアと共にましますわたしたち自身の特別の主が、預言者が「主はそのすべての道において誠実である」と言いながら証言しているように、誠実さにおいて最も確実であり、確実性において最も誠実であるということに注目せよ。エゼキエルが次のように証言しているように、主の言葉を考えよ。その中で主は正しい者に冠を、邪悪な者に地獄を約束された。誠実な主がその言葉を誠実に守られることを知れ。「主なるわたしは告げた。わたしはそうする」(エゼキエル、XXX, 12)。最も誠実な主は、主御自身が福音書において言われているように、その言葉を最も誠実に守られるであろう。「天と地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は過ぎ去らない....」おお、マリアよ、見よ。御身と共にまします主は何という主、何という誠実な主であることか!最も誠実な主は誠実に御身と共にましますがゆえに、御身は主と共に最も誠実である。なぜなら、あなたは最も誠実なノアの鳩であり、いと高き神と霊的な洪水の中に水没させられた世界との間の仲介者として最も誠実に立たれたからである。カラスは誠実でなかったが、鳩は最も誠実であった。そのようにまたエヴァは誠実でなかったが、マリアは誠実であった。エヴァは誠実でない破滅の仲介者であった。マリアは救いの誠実な仲介者であった。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「マリアは誠実な仲介者であって、男たちと女たちの両方のために救いの解毒剤を準備された。」それゆえに、おお、最も誠実なマリアよ、主は御身と共にまします。

 第四に、マリアと共にましますわたしたちの特別の主が名声において最も有名であるということに注目せよ。主は、聖ヒエロニムスが次のように言いながら証言しているように、偉大な御名を持っておられる。「おお、主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります」(エレミヤ、X, 6)。主の御名は実際大いなる名声のあるものであり、王の預言者が次のように証言しているように、すべての民の間で大いに賛美されるものである。「地の王たち、そのすべての民、君主たちと地のすべての裁判官たち、青年たちやおとめたち、老人と青年、あなたたちは皆主の御名を賛美せよ!」(詩編、CXLVIII, I 1-12)。神の御名の賛美と名声は、次のように言う同じ預言者からも明らかなように、あらゆる民に広がっただけでなく、あらゆる時代に広がった。「主の御名はこれ以後、現在そして永遠に祝せられよ。」同じように、主の御名の名声と賛美はあらゆる民とすべてのライムに広がっただけでなく、同じ預言者がこう言っているように、あらゆる場所に広がった。「日の昇るところから日の沈むところまで主の御名が賛美されるように」(詩編、CXII, 2)。おお、マリアよ、見よ、御身と共にまします主はいかに偉大であることか、何と有名な主であることか!そのように有名な仕方で御身と共にまします主は名声のある主、有名な主であるがゆえに、御身は主と共に最も有名なのである。なぜなら、御身は次のように書かれているルツによってよく前表されているからである。「あなたがエフラタで徳における模範となり、ベツレヘムで名をあげられるように」(ルツ、IV, 11)。おお、最も有名な御名のマリアよ、どのようにしてあなたの御名が世に知られたものでないことがあり得ようか? それは何かよいことがその人に来ることなしに誰かある人によって敬虔に発せられることはできないのである。聖ベルナルドゥスは次のように言いながらこのことを証言している。「おお、偉大な、おお、愛すべき、おお、最も称賛に値するマリアよ、あなたはあなたを愛する人々の愛情を新たにすることなしには、御名を呼ばれることさえできず、また考えられることもできないのであって、あなたは愛を燃え立たせるのである。あなたはあなたから神的に分かち得ない甘美さをあなたと共にもたらすことなしには愛する記憶の前庭に入ることさえできない。」それゆえに、マリアは次のように言われている有名な女、ユディトによってよく前表されている。「そして彼女はすべての者の中で大いに有名であった。というのは彼女は深く神を畏れる人であったので、だれも彼女を悪く言う者はなかったからである」(ユディト、VIII, 8)。マリアは実際、徳と称賛に値する模範のゆえに有名であった。しかし、彼女は慈しみと語り得ないほどの恩恵とのゆえにもっと有名でさえある。恩寵と驚くべき特権のゆえになおもっと有名であった。なぜなら、処女たる母であること、神の御母であることよりももっと驚くべきことが何かあろうか? 人間に与えた一つの恩恵のためにそのように有名であるマリアが彼女の慈しみのそのように数多くの恩恵から世界において有名であるとしても、何か驚くことがあろうか?  聖ベルナルドゥスはこう言っている。「あなたの最高の好意の名声はあなたによって回復された神を愛する魂に与えられたものである。」それゆえに、おお、最も有名なマリアよ、主は御身と共にまします。喜べ、喜べ!見よ、最も愛すべき主は、御身がまた最も愛すべき方であるそのような仕方で、御身と共にまします。最も正しい主は御身が主と共に最も正しいそのように御身と共にまします。最も有名な主は御身がまた主と共に最も有名であるそのような仕方で御身と共にまします。おお、最も愛すべきマリアよ、御身の慈しみ深い、愛すべき親切によってわたしたち不敬虔な魂を救ってください!おお、最も正しいマリアよ、御身の正しい公正によってわたしたち不正な魂を救ってください!おお、最も誠実なマリアよ、御身の誠実によってわたしたち不実な魂を救ってください!おお 、最も有名なマリアよ、御身の甘美な名声によってわたしたちを救ってください!

第10章 主の娘、母、配偶者、はしためであるマリア

 わたしたちは今や「主御身と共にまします」と言われているこの主が単に一般的な意味においてあらゆる被造物の主であるばかりでなく、単に理性的被造物の主であるばかりでなく、また最も特別の意味において、最も聖なる御母の処女の宮廷の主でもあられるということを考察しなければならない。マリアは身体と霊魂の両方において、例外的に主の宮廷、神の最も聖なる家である。詩編においてこう言われている。「おお、主よ、聖性はあなたの家に相応しい。」おお、そのように例外的に主を持つことに独り値した祝せられた家よ。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「あなただけが主の王座から来られて、王たちの王、主たちの主があなたの処女の宮廷において、人の子らの間に主の最初の住まいのためにあなたを選び給うたことに相応しかった。」マリアのこの例外的な主は、主が彼女を貴婦人としたそのような特別な仕方で彼女と共におられた。その結果、彼女以前にもまた彼女以後にも彼女のような方は決して存在しなかった。なぜなら、彼女はある驚くべき例外的な仕方で主の娘、主の母、主の配偶者、主のはしためとなられたからである。もしわたしたちが神の各々のペルソナへの彼女の関係を記述しようと望むならば、マリアと共におられる主は御父たる主、子たる主、聖霊たる主、三位一体であられる主であると言うことができる。その方は御父であり、主である。マリアはその方の最も高貴な娘である。その方は御子であり、主である。マリアはその方の最も相応しい御母である。その方は聖霊であり、主である。マリアはその方の最も正しい配偶者である。その方は三位一体の主である。マリアはその方の最も従順なはしためである。確かにマリアはいと高き永遠の娘であり、いと高き真理の母であり、いと高き善の配偶者であり、いと高き三位一体のはしためである。

 それゆえに、第一に、そのように例外的にマリアと共にましますこの主が、マリアがその最も高貴な娘である主であるということに注目せよ。この主とこの娘についてはボアズが次のように言っていることであると理解され得る。「わたしの娘よ、あなたは主から祝福されています。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさって優っています」(ルツ、III, 10)。それゆえに、マリアは主によって祝福された娘である。わたしは、いと高き主によって、と言う。彼女はその方の娘である。おお、多様な栄光でもってそのように豊かに内的に飾られた最も高貴な王の真に高貴な娘よ、「王の娘のすべての栄光は内部から輝く」(詩編、XLIV.)ということは真にあなたについて言われ得ることである。それゆえに、マリアは、王の最も真なる娘として、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら証言しているように、王国へ最も豊かに招かれた。「繊細な娘、あらゆる恩寵に満ち、あなたの喜びにおいていたく愛されたあなたはあなたの美しさへ愛のしるしとして招かれる。」この祝福された娘は後の親切によって彼女の先の親切を凌駕した。なぜなら、マリアの慈しみは彼女がこの世においてなお一人の追放者であったときに大きかったが、それは彼女が天において支配している今は遙かに大きいからである。今は彼女の無数の恩恵によって彼女は人々にもっと大きな慈しみを示している。なぜなら、彼女は今はもっとはっきりと人類の語られない悲惨を見ているからである。彼女の先の慈しみの輝きのためにマリアは月のように公正であった。しかし、彼女の後の慈しみのために彼女は太陽に似ている。なぜなら、太陽がその輝きの大きさにおいて月より優るように、マリアの後の慈しみはその大きさにおいて先の慈しみを凌駕するからである。太陽と月がその人の上に照らないような人が誰かいるであろうか? マリアの慈しみがその人の上に注がれないような人が誰かいるであろうか? 聖ベルナルドゥスがこのことについて考えていることを聞きなさい。「太陽が善人にも悪人にも分け隔てなく照るように、マリアは請願を受けられるとき請願者の功績を論じないで、聞く準備ができている自分を示される。すべての者に最も慈しみ深く、最後には彼女は最も豊かな愛をもってすべての者の悲惨に同情される。」それゆえに、おお、マリアよ、主は、最も高貴な娘と共にいる父親のように、御身と共にまします。

 第二に、そのように例外的にマリアと共にまします主が、マリアがその最も相応しい母であるその主であるということに注目せよ。この主とこの母についてエリザベトはこう言った。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう?」主の御母、おとめにして御母は最も相応しい母である。彼女はそのような御子に最も似合っておられる御母である。彼女はそのような御子が最も似合っておられる御母である。彼女は唯一であり、彼女より偉大なものを神は造ることがおできにならなかった。神はもっと大きな世界を造ることがおできになったであろう。神はもっと大きな天を造ることがおできになったであろう。しかし、神は神の御母より偉大な母親を造ることはおできにならなかった。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「ひとりのおとめ以外の他のどの母親も神と成らなかったし、また神のほかいななる子もひとりのおとめと成らなかった。」母親たちの中でマリアより偉大な者は生まれることはできなかったし、また息子たちの中でイエズスよりも偉大な者は生まれることはできなかった。それゆえに、この母は慈しみの花、正義の太陽の母、知恵の泉の母、栄光の王の母である。彼女はその慈しみがわたしたちを愛へ導き、その正義が畏れへ導き、その知恵が知ることへ導き、その栄光が希望へ導く方の母である、とわたしは言う。それゆえに、マリアは実際、慈しみによってわたしたちの愛であり、正義によってわたしたちの畏れであり、知恵によってわたしたちの知識であり、栄光によってわたしたちの希望である方の母である。その結果、彼女は真にこう言うことができるのである。「わたしは公正な愛の母、畏れの母、知識の母、聖なる希望の母である。」(集会の書、XXIV, 24)。しかし、マリアはキリストだけの母であるのか? そうではない、最も喜ばしいことには、彼女は単にキリストの御母であるばかりでなく、また信者すべての御母でもある。聖アンブロシウスはこう言っている。「もしキリストがすべての信者の兄弟であるならば、キリストを産んだ彼女はすべての信者の母ではないか?」おお、深く愛する者よ、わたしたちは皆喜んでこう叫ぼうではないか。「その方によってマリアがわたしたちの母である兄弟は祝せられよ。その方によってキリストがわたしたちの兄弟である御母は祝せられよ。」聖アンセルムスはこう言っている。「その方によってわたしたちがそのような一人の兄弟を持っている貴婦人にして御母よ、わたしたちはあなたにどんな感謝、どんな賛美を払おうか?」それゆえに、おお、マリアよ、神は最も相応しい母と共なる一人の息子として、御身と共にまします。

 第三に、そのように例外的にマリアと共にましますこの主が、その最も美しい配偶者がマリアであるその主であるということに注目せよ。この配偶者に対してと同様に、この主に対してわたしたちはホセアの言葉を適用することができる。「わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる」(ホセア、II, 21-22)。美しい配偶者、正義において、彼女の見ることにおいて美しい配偶者、彼女の隣人たちを見る際の同情と慈しみにおいて美しい配偶者、神を見る際の信仰において美しい配偶者を見よ。実際、彼女の生活の正義において、彼女の良心の判断において美しく、慈しみにおいて、愛情において、彼女の行為における同情において美しい。彼女は信仰において美しい。それによって彼女は彼女を越えて信じられるべきすべてのものを信じた。それによって彼女は、次のような言葉によれば、彼女のうちに為されるべきであったことを信じた。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ、I, 45)。しかし、見よ、マリアよ、聖霊の配偶者よ、彼女が会話において最も美しいように、また美しかったように、彼女は雅歌において「[蜜の]滴る蜂の巣のように....」と言われているように、彼女の話しかけにおいて最も甘美である。おお、マリアのあの甘美な唇は何という蜜の流れる言葉をしばしば滴らせることであろうか!彼女は実際、彼女がガブリエルに話しかけたあの二つの甘美な言葉において、彼女の舌の下にミルクと蜂蜜を持っていなかったであろうか? マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ、I, 34)と言われたとき、彼女の舌の上にミルクを持っておられなかったであろうか? 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というあの蜂蜜のように甘美な言葉を発せられたとき、彼女はその舌の上に蜂蜜を持っておられなかったであろうか? この言葉の甘美さから、全世界を通じて、天は蜂蜜を滴らせたのである。マリアは神に対する彼女の雄弁な言葉において彼女の舌の上に蜂蜜を持っておられた。彼女は隣人に対する彼女の快い話において彼女の舌の上にミルクを持っておられた。至高の慰め主のあの配偶者は何という大きな甘美さと美の持ち主であることか!というのは、聖アウグスティヌスがこう言っているからである。「聖霊が彼女のところへ来てくださるほどに聖であるこのおとめは誰であるか? 神が配偶者として彼女を選ばれるほどに美しいこのおとめは誰であるか?」それゆえに、おお、マリアよ、主は愛する配偶者と共なる花婿として御身と共にまします。

 第四に、そのように例外的にマリアと共にましますこの主が、彼女自身が「わたしは主のはしためです」と証言しているように、彼女がその方の最も敬虔なはしためであるその主であるということに注目せよ。マリアは父なる神、子なる神、聖霊なる神のはしためである。彼女の息子が彼の母から受け取った人間本性に従ってこの主のしもべであるとき、彼女がその種のはしためであるとしても、何の驚きがあろうか? 主御自身がそのことを詩編において告白されている。そこで主はこう言われる。「おお、主よ、わたしはあなたのしもべ、そしてあなたのはしための息子です。」おお、何とよきはしため、何とよきはしための息子であることか!悲しいかな、いかに多くの悪いはしため、悪いはしための息子がいることか。しかし、聖書は何と言っているか? 「どれい女とその息子を追い出せ。」わたしたちは創世記のうちにサラのはしためについて、彼女自身が身ごもったのを見て、彼女はその女主人を見下したということを読む。それゆえに、悪いはしためハガルは彼女の多産によって高慢になった。しかし、よいはしためマリアは彼女の謙遜によって多産とされた。あの高慢なはしためは彼女の女主人を見下した。彼女自身が「主はそのはしための謙遜を見られた」と言われるように、主はこの卑しいはしためをご覧になった。おお、主のはしためたるキリスト者の魂よ、マリアと共に、あなたが謙遜において欠けたものでないような、それゆえに、あなたがよい仕事においてあなたの多産性によって高慢にならないような、そのような仕方で多産性を育成し、卑しいはしために注目し、謙遜なマリアを眺めなさい。彼女は言っている。「わたしは主のはしためです。」聖アンブロシウスはこう言っている。「彼女の謙遜を見なさい。彼女の献身を見なさい。主の御母であるために選ばれた方である彼女は自分自身のことを主のはしためと呼ぶ。彼女はその約束によって高慢にはならない。おお、真に称賛すべき謙遜よ!どのような仕方でマリアが単に主のはしためであることばかりでなく、また主のしもべたちのはしためであることをも志されたかを見よ。なぜなら、アビガイルによって象徴されているのは彼女だからである。アビガイルは次のように言いながら、彼女がダビデのところに連れていかれるように使者を送った。「わたしは御主人様の僕たちの足を洗うはしためになります」(サムエル、XXV, 41)。祝せられたはしためマリアによっていかに多くの主の僕たち[の足]が洗われ、いかに多くの信者が彼女の祈りによって彼らの罪から清められたことか!なぜなら、彼女は、彼らの罪に対する悔恨の涙を彼らのために得られたときに、いわば彼らの足のための水を提供されたからである。それゆえに、おお、マリアよ、主は、最も敬虔なはしためと共にましますように、御身と共にまします。御父は御身と共にまします、御子は御身と共にまします、聖霊は御身と共にまします。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「御父は御身と共にまします。というのは御父はその御子をあなたのものとされたからである。御子は御身と共にまします。御子はあなたの中で一つの感嘆すべき秘密を働くために、一つの驚くべき仕方で出産の秘密の部屋の鍵を開けられ、あなたのために処女性の封印を保たれた。聖霊は御身と共にまします。聖霊は御父と一緒になってあなたの胎を聖化された。それゆえに、主は御身と共にまします。あなたがその娘−その方より誰も高貴ではない−である主、あなたがその母−その方よりすばらしい者は誰もいない−である主、あなたがその配偶者−その方より愛すべき者は誰もいない−である主、あなたがそのはしため−その方より謙遜な者は誰もいない−である主、かつてもおられなかったし、これからもおられないであろうその方の主があなたと共におられるのである。それゆえに、おお、貴婦人よ、そのように偉大な主がそのような仕方で、そのように大いにあなたと共におられるがゆえに、恩寵によって主がまたわたしたちと共にもおられるようにならんことを。

第11章 マリアは彼女自身のために、またわたしたちのために適切に曙に比較される

 「主御身と共にまします」−主御身と共にまします。あの敬虔なマリアに従う人である聖アンセルムスはこれらの甘美な言葉をほのめかしながらこう言っている。「マリアよ、わたしは、主がそれによってあなたと共におられるように望まれた恩寵によってあなたに嘆願する。同じ恩寵に従って主のために、主の慈しみをわたしに与えてくださるように、あなたの愛がいつもわたしと共にあるように、わたしの配慮があなたについての配慮であるように、わたしの必要の叫びが続く限りあなたと共にあるように、あなたの愛すべき親切がわたしが生きている限りわたしの上にあるように、あなたの至福におけるわたしの喜びがいつもあなたと共にあるように、わたしの悲惨に対する同情がわたしにとって役立つ限りあなたと共にあるように、願いを聞き届けてください。」

 おお、マリアよ、主御身と共にまします。確かに主は、太陽がそれに先駆ける曙と共にあるように、御身と共にまします。花がそれを作り出す幹と共にあるように、御身と共にまします。王が彼のところへ入っていく女王と共にいるように、御身と共にまします。なぜなら、すべての輝くものの中で最も光り輝くものである太陽、すべての花よりももっと貴重である花、すべての王たちよりももっと栄光に満ちている王はわたしたちの主、イエズス・キリストだからである。それゆえに、輝く光線と共にこの太陽に先駆ける曙、最もすばらしい開花によってこの花を生み出す幹、荘厳な行列において王のところへ入って行く女王はいと祝せられたおとめマリアである。これらすべての点について順に論じてゆこう。

 「主御身と共にまします。」確かに、太陽がそれに先駆け、その日の出に先行し、その光によって日を始める曙と共にあるように、主は御身と共にまします。真に、実際、最も例外的な仕方で永遠の太陽によって、このように驚くべき仕方で照らされて準備された世界の曙であるマリアは彼女自身、この太陽の日の出を準備される。聖ベルナルドゥスが次のように言うように、彼女は驚くべき仕方で世界のためにそのような太陽の恩寵の日を開かれた。「おお、マリアよ、非常に輝かしい曙のように、あなたは、聖性のそのような驚くべき輝きによって真の太陽[たるキリスト]の輝きを予め示されたとき、世界の中に来られた。それは真に救いの日、なだめの日、主が造られた日、あなたの輝かしい光によって始められるに相応しい日であった。」それゆえに、マリアは曙である。マリアについてはこう言われている。「これは誰であるか、誰が進み出られるのか....」彼女はわたしたちのために、また彼女自身のために、適切に曙に比較される。特殊的に彼女自身のために、一般にわたしたちのために。マリアは聖書に従えば、彼女自身のためによく曙に比較される。第一に、罪の夜を追い払うことのゆえに、第二に、恩寵の光の接近のゆえに、第三に、正義の太陽の日の出のゆえに、第四に、彼女の栄光の王座の場所のゆえに。第一に、彼女の最も完全な聖化において、第二に、彼女の最も明るい会話において、第三に、彼女の最も驚くべき御子の出産において、第四に、彼女の最も栄光に満ちた被昇天において。

 第一に、マリアが、いわば、彼女自身の聖化において罪の欠如あるいは幸福な排除のゆえに幸福な曙であるということに注目せよ。それゆえに、ヨブは「一人の男が孕まれた」と言われた夜を呪いながらこう言った。「夕べの星は光を失い、待ち望んでも光は射さず、曙のまばたきを見ることもないように」(ヨブ、III, 9)。ここで星によって、光によって、曙によって何が意味されているのであろうか? わたしは星は聖人たちの霊魂であると言う。光は聖なるものたちの聖である。曙は聖人たちの女王である。星は実際、すべての聖人たちである。彼らは道徳のよい秩序と規律、熱意とよい生活の道を決して放棄しない。それゆえ彼らは熱心に悪魔たちと戦う。これらの星について士師記には次のように言われているがもっともである。「もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った」(士師記、V, 20)。シセラは出発する者を連れ去る、と解釈される。それは神から出発する人を誰でも連れ去る悪魔を表している。彼がこう言いながら御自身を示しておられるように、光は聖なる者たちのうちの聖なる者、イエズス・キリストを表している。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩か」(ヨハネ、VIII, 12)ない。

 兄弟たちよ、暗闇を歩きながらわたしたちが罪の泥沼と地獄の穴に落ち込むことのないように、この光に従おう。次のように言われていることに従って、ためらいながら従わないようにしよう。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記、XVIII, 21)。夜がその昇るのを見ない曙は祝せられたおとめを表すのであり、彼女の誕生は現在の罪の夜によっては始められなかった。なぜなら、ヨブが呪った夜、男が孕まれた夜は原罪だったからである。その夜にわたしたちすべては孕まれた。それゆえに、詩編作者は「罪の中でわたしの母はわたしを孕んだ」と言うのである。すべての聖人たちは罪の中で孕まれたがゆえに、彼らは罪の中で生まれた。それゆえにこの夜は光を見なかったと正当に言われるのである。

 第二に、マリアが「曙のように姿を現すおとめは誰か。....」(雅歌、VI, 9)という言葉に従って、恩寵の光における彼女の幸福な進歩のゆえに、いわば幸福な曙であるということに注意せよ。なぜなら、曙の光が輝きにおいて徐々に成長することによって前進するように、マリアは恩寵とよい生活の輝きにおいて前進することによって進歩されるからである。彼女は実際普遍的にすべての徳において前進しながら、進歩される。その結果、すべての徳のすべての栄光において彼女はいわば彼女自身において、彼女の隣人たちには月のように、神に対しては太陽のように公正な昇る曙であった。彼女はまた特殊的な徳において前進することによって進歩された。それについて聖ベルナルドゥスはこのように語っている。「恩寵を求めることによって愛が彼女のうちに燃え、処女性が彼女の身体のうちに輝き、奉仕の際には彼女は謙遜において傑出していた。」これらの徳の栄光によってマリアは、いわば、彼女の輝く処女性において昇る曙であり、彼女の輝く謙遜において月のように美しく、彼女の放射する愛において太陽のように明瞭であった。マリアのこれら三つの輝き、これら三つの徳を育てる者は幸いである。それによって彼女は、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら再び証言しているように、神とすべての徳の師を懐胎されたのである。「すでに恩寵に満ちておられた彼女は恩寵を見出された。すなわち、愛において熱心であり、処女性において無傷であり、謙遜において敬虔であった。彼女は男との交際なしに懐胎され、通常の苦しみなしに子どもを産まれた。」

 第三に、マリアが、正義の太陽の幸福な日の出のゆえに、いわば幸福な曙であるということに注目せよ。なぜなら、正義の太陽、わたしたちの主キリストは彼の曙、マリアによってこの世に昇られたからである。彼の上昇は罪のいかなる雲によっても伴われていなかった。それゆえに、この曙は、次の言葉に従えば、彼女の太陽の出現において非常に輝くものであった。「太陽の輝き出る朝の光、雲のない朝の光」(サムエル下、XXIII, 4)。この朝の光はマリアの聖性であり、それによって彼女からまさに生まれ出ようとした正義の太陽が彼女を照らしてくださったのである。このことについて聖ベルナルドゥスがこう言うのはもっともである。「おお、マリアよ、あなたは正当に朝の務めを果たされた。なぜなら、あなたから彼自身まさに進み出ようとされた正義の太陽は、いわば彼自身の誕生をある種の朝の輝きによって妨げながら、彼自身の光線をあなたにふんだんに移されたからである。」この朝の光は太陽が雲なしに昇ったとき、すなわち、キリストが原罪のいかなる暗闇もなしに生まれたとき、驚くべき仕方で輝き出た。見よ、ここには太陽が雲なしに昇ったと言われている。出エジプト記のうちにわたしたちは草むらが焼かれることなしに燃えていたということを読む。ダニエル書のうちに、石が手なしに切られたということを読む。それゆえに、もしキリストでないとすれば、太陽によって、火によって、石によって、何が意味されているのであろうか? なぜなら、キリスト御自身こそが知性を照らす太陽であり、愛情に火をつける火であり、欠点に対してわたしたちを強める石だからである。わたしは、イエズス・キリストはマラキ書に従えば、知性を照らす太陽である、と言う。「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」(マラキ、III, 20)。それゆえに、もしあなたが主を畏れるならば、見よ。なぜなら、こう書かれているからである。「主を畏れる者は何もおろそかにしない」(集会の書、VII, 19)。さらに、キリストは、使徒がヘブライ人たちに言っているように、愛情に火をつける火である。「わたしたちの神は焼き尽くす火です」(ヘブライ、XII, 29)。この火は単におとめの胎のくさむらのうちにあったばかりでなく、また彼女の敬虔な心のうちにもあった。次のように言った彼らはこの火を感じたのである。「わたしたちの心の中は燃えていなかっただろうか....」。さらに、キリストは、もしわたしたちがキリストによく基づいているならば、失敗に対してわたしたちを強める石である。それゆえに、聖マタイにおいてはこう言われているのである。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ、VII, 25)。見よ、異端的な雄弁の雨も、世間的な欲望の洪水も、人間的暴力の風もキリストの岩を土台とした精神の家を損なうことはできないであろう。それゆえに、雲なしに太陽が昇り、焼き尽くされることなしにくさむらが燃え、手なしに石が切られるということは、それが真理の太陽であり、愛の火であり、堅固さの石あるいは永遠性の石であるキリストが原罪の雲なしに、肉的な欲望の火なしに、結婚の抱擁の仲介なしに孕まれ、生まれたということでないとするならば何を意味するであろうか? なぜなら、キリストの懐胎のうちに、あなたは子における罪も、母における欲望も、父の抱擁をも見出さないだろうからである。このおとめがそのように奇跡的に懐胎されたということを、聖アウグスティヌスが次のように言いながら証言しているように、この奇跡を前表する非常に多くの驚くべき事柄を予め送り給うた神は成就することがおできになったのである。「鉄なしに石の板の上に書き給うたお方はマリアを聖霊の子どもを持ったものとされた。耕すことなしに砂漠においてパンを産み出されたお方は堕落なしに処女を懐胎させ給うた。雨なしに若枝を萌え出させたお方はダビデの娘を種なしに産ませ給うた。」

 第四に、マリアが栄光における彼女の場所にゆえに、いわば幸福な曙であるということに注目せよ。このことに従ってヨブが曙について次のように言っているのはもっともである。「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか?」(ヨブ、XXXVIII, 12)。ところで、確かに、わたしたちの曙、天に高く上げられたマリアは永遠の太陽に最も近い場所を保持しておられる。わたしたちは天におけるマリアの王座が三重の偉大さを持っていると考えてもよいであろう。第一の偉大さは彼女がわたしたちの主を霊的に受けられたということである。第二の偉大さは彼女が主を身体的に受けられたということである。第三の偉大さは彼女が主を永遠に受けられたということである。マリアの三重の場所を見よ。わたしはマリアがわたしたちの主を霊的に受けられた第一の場所は、詩編作者に従えば、静かで平和に満ちた彼女の心であると言う。「彼の場所は平和のうちにあり、彼の住まいはシオンにある」。これを解釈すれば、鏡あるいは観想を意味する。神を観想しようと望む者、あるいは精神の眼で神を見ようと望む者は誰でもその精神のうちに神を平和のうちにある一つの場所としなければならない。なぜなら、心の平安なしには誰も観想の知識に到達することはできないからである。それゆえに、使徒はこう言うのである。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ、XII, 14)。おお、マリアがすべての死すべき者たちを越えた彼女自身に知られたあのすべての神秘を心の中で熱心に思いめぐらしておられた間、あのシオン、マリアの聖なる精神が日々どんな観想の中で用いられていたかを、誰が語るであろうか、あるいは誰が想像さえすることができるだろうか? このことについて聖ヒエロニムスが次のように言うのはもっともである。「もしあなたの中に敬虔あるいは慈しみの心があるならば、彼女が聞き、見たすべてのこと、彼女が知ったすべてのことを彼女の心の中で思いめぐらしておられた間に、このおとめがどんな愛をもって十字架に架けられたか、どんな望みに燃えておられたか、聖霊に満たされて、天の秘密のぞくぞくする知識に満たされて、彼女がどんな感情で動かされたかを考察しなさい。」マリアが身体的に懐胎した場所は彼女の聖なる胎である。それに適用されてもよいのは次の創世記の言葉である。「楽園から流れ出た川(おとめの胎から出たイエズス・キリスト)は園をうるおしていた」(創世記、II, 10)。特殊的な園はマリアである。普遍的な園は教会である。マリアの胎からの神秘的な川、イエズス・キリストによってこれら両方の園が潤されることは幸いである。キリストはこう言われた。「わたしは庭に水を注ぎ、花壇をうるおそう」(集会の書、XXIV, 30)。それゆえに、聖ヒエロニムスがこれらの言葉を注釈しながら次のように言うのはもっともである。「わたしは彼女が水の堤から美しく上がってくるのを見た。」「水の流れの上に」と言われているのはもっともである。というのは、主は彼女を気分をさわやかにする水の上で養われ、その上で育てられたからである。彼女から多くの川が現れ、すべての喜びの土地を潤し、楽園の上を流れる。さらにマリアが永遠に天に住まれることになったとき、主を受けられた場所は栄光の場所である。そのことについて主はヨブにこう言われた。「お前は....曙に役割を指示したことがあるか」(XXXVIII, 12)。それは主があたかもこう言われたかのようである。「お前ではなく、わたしが[指示したのだ]」と。マリアに、曙に天における彼女の場所を指示することはお前に属することではなく、わたしに属することである、と。主が彼女の場所を彼女にのみ専用のものとして、それを聖人たちの他のすべての場所から区別すると言われるのはもっともである。それゆえにわたしたちは[次の言葉を]読むのである。「祭司たちは主の契約の箱を定められた場所....に安置した」(列王記上、VIII, 6)。この場所は最も確実に天使たちのすべての合唱隊席より上である。最後に、この場所は聖ベルナルドゥスが次のように言いながら証言しているように、天において最も相応しい場所である。「おとめの胎の婚姻の部屋よりもっと相応しい場所は世界のどこにも存在しない。その中でマリアは神の御子を受けたのである。また天においてはマリアの御子が彼女を上げられた王座よりも相応しい場所はない。」マリアは曙に比較される。その理由は、第一に彼女がその最も完全な聖性において罪の夜を終わらせられたからであり、第二に、彼女の最も輝かしい会話における恩寵の光の進展のゆえであり、第三に彼女の御子の驚くべき出産における正義の太陽の出現のゆえに、第四に彼女の最も栄光ある被昇天における栄光における彼女の場所を彼女が占められたがゆえにである。

 次にわたしたちは最も光り輝くおとめが単に彼女自身のためばかりでなく、またわたしたちのゆえにも曙に比較されるということを考察しなければならない。なぜなら、聖書において彼女が曙によって表されているように、彼女はわたしたちのために、神と共に仲介者であり、天使と共に調停者であり、悪魔に対して擁護者であり、わたしたち自身に対して光を与える方だからである。

 第一に、詩編において次のように表されているように、わたしたちの曙、マリアがわたしたちのために神と共に仲介者であるということに注目せよ。「昼はあなたのもの、夜はあなたのもの、あなたは曙と太陽を造り給うた」(詩編、LXXIII, 6)。

 このように聖グレゴリウスが次のように言うのはもっともである。「昼は正しい者の生活である。しかし夜は罪人の生活を意味するものと解釈される。」それゆえに主は夜はイスラエルの子らの前を火の柱の中に、昼は雲の柱の中に進まれた。そのゆえに雲は邪悪な者を主の怒りの火から護った。主は邪悪な者を火のように焼かれる。それゆえに太陽は選ばれた者を照らし、堕落した者を焼かれるキリストを表した。キリストは時には彼らをこの世において厳しく焼かれるが、しかし最後の審判のときにはもっと厳しく焼かれる。地獄においてはすべてのうちで最も厳しく焼かれる。この三重の燃焼については集会の書の次の言葉が理解され得る。「太陽はその三倍の熱で山々を焦がす」(集会の書、XLIII, 4)。山々は高慢な罪人たちである。この説明においてわたしたちはわたしたちと正しい太陽との間に元気づけるもの、仲介者を欠いている。それゆえに、詩編作者が前に述べた節において夜と太陽の中間に曙をおいているのはもっともなことである。というのは自然の秩序においては確かに曙はこの位置を保つからである。それゆえに、曙は祝せられたおとめマリアである。マリアは夜と太陽、人間と神、不正な者と正しい神との間の最も優れた仲介者である。彼女は神の怒りの最も善い冷やし手である。聖ベルナルドゥスは次のように言いながら証言している。「人間は今や神へ近づく確実な手段を持っている。なぜなら、人間は訴訟の仲裁人として御父の前に御子を、御母の前に御子を持っているからである。御子は裸の身体、手、足、脇腹の傷を御父に示される。マリアは御自分の胸を御子に示される。そこには論駁の問題は存在し得ない。そこには非常に多くの愛のしるしが一つのものの中に現れ、それらの祈りを捧げる。」

 第二に、わたしたちの曙、マリアが、創世記において表されているように、わたしたちのために天使たちとの調停者であるということに注目せよ。わたしたちはそこにヤコブと格闘した天使が暁に彼を祝福したということを読む[創世記、XXXII, 25-32]。なぜなら、天使が「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言ったとき、ヤコブは天使が彼を祝福するまでは天使を去らせようとしなかった。朝天使とヤコブとの間に闘争が起こり、神、天使たちと人間たちの間に不和が起こった。なぜなら、人間は罪によって創造主に背いたからである。創造主に対して罪が犯されることによって、あらゆる被造物に対する違反も起こった。創造主にいっそう密接に結びつけられているマリアはどのようにそれ以上にもっと多く背かれたことであろうか!それゆえに、この闘争はおそらくその不和の比喩であった。しかし、曙がマリアの到来において現れたとき、人間たちと天使たちは平和を取り戻した。というのは、その暁に、おとめマリア自身において、人間は天使の祝福を受けたからである。なぜなら、天使はおとめにこう言ったからである。「御身は女のうちにて祝せられ給う」。おとめのこの祝福によって人間はおとめの御子における平和と救いの祝福を、使徒が次のように言うあの祝福を得るからである。「神にしてわたしたちの主イエズス・キリストの御父は祝せられよ、キリストはキリストにおいて天上の場所であらゆる祝福においてわたしたちを祝福された。」キリストが「来たれ、なんじわが父に祝せられた者よ....」と言われるとき、キリスト自身その祝福を確証される。それゆえに、ヤコブが暁が昇るとき感謝を捧げたように、わたしたちはそれによってわたしたちが天使たちと仲直りさせられたあの祝福のためにマリアに感謝しよう。聖アンセルムスが次のように言いながら意味しているように、マリアによって天使たちの消耗した群が人間たちによって加勢されたとき、曙によって、暁によって、マリアによって人間たちは天使たちと仲直りをした。「おお、驚くべき仕方で例外的な、そして例外的に驚くべき女よ、彼女によって四大は新たにされ、地獄の損害が修復され、人間たちが救われ、天使たちが回復されるのだ!」

 第三に、ヨブにおいて意味されているように、わたしたちの曙たるマリアがわたしたちのために悪魔に対して擁護者であるということに注目せよ。そこでは人殺し、泥棒、姦淫者について次のように言われている。「暗黒に紛れて家々に忍び入り、日中は閉じこもって、光を避ける」(ヨブ、XXIV, 16)。「このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。」(ヨブ、XXIV, 17)。人殺しは悪魔であり、泥棒は悪魔であり、姦淫者は悪魔である。人殺しは、彼が人の生命を取るがゆえに、泥棒は何であれ彼がわたしたちから奪うことができるよいものを奪うがゆえに、姦淫者は神の配偶者である霊魂を破滅させるがゆえに、悪魔である。悲しいかな、これらの邪悪な人々は何という悪をわたしたちに為すのか、邪悪な霊はわたしたちに何という悪を為すのか!なぜなら、時々、彼らは無知の暗闇、不分明の暗闇に紛れて、わたしたちの精神の内的な家、実際、それについて詩編において次のように言われている家に忍び入るからである。「神は彼らの家において知られる」(詩編、XLIV, 17)。疑いもなく彼らはその刺し通す誘惑によってわたしたちの魂、次のように言われた神がそこに喜んで住み給うあの家に忍び入る。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ、XIX, 5)。これらの家に忍び入った後に、実際罪への不幸な同意によって人間たちの精神に忍び入った後に、悲しいかな、これらの邪悪な者どもは殺人、窃盗、姦淫によって霊魂たちの中にいかに大きな悪をはたらくことか!わたしたちがそのようの危険を避けることができるように、曙を到来させ、マリアにわたしたちを助けるようにし向けてください!なぜなら、もし朝が突然現れるならば、もし彼女が速くわたしたちを助けに来てくださるならば、そしてもし彼女の恩寵と慈しみが引き続き現れるならば、それは悪魔たちにとって死の影のようなものであろうからである。ちょうど人間が死の影を恐れ逃れるように、彼らは震えそして逃げるであろう。聖ベルナルドゥスが次のように言うのはもっともである。「敵の軍勢は空の悪魔がマリアのまさに御名と彼女の聖なる実例を恐れるほどには武装した兵士たちの巨大な敵を恐れない。彼らはこの聖なる御名の頻繁な祈願、その記憶と模倣を見出すところではどこでも逃れ、火の前の蝋のように溶ける。」

 第四に、わたしたちの暁であるマリアが、わたしたち自身に関して言えば、善を為すようにわたしたちを助けてくださる光の与え手であるということに注目せよ。なぜなら、光線が最初に射し始めるときから職人は働き始めるからである。それゆえに、エズラ第二の書ではこう言われているのである。「仕事をしよう。わたしたちのうちの半数は朝日が昇るときから星が現れるときまで槍を握ろう」(エズラ第二の書、21)。わたしたちにとって二つの事柄が必要である。わたしたちがわたしたちのよい仕事において熱心であること、それゆえに、建築師たちが「仕事をしよう」と言うのはもっともである。この仕事が何であるか。しかしそのことについて使徒はこう言っている。「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(ガラテヤ、VI, 10)。彼らが次のように言うのはもっともである。わたしたちの代理人が仕事をするのでなく、わたしたちが仕事をしよう。他の節ではこう言われている。すべての事柄において神の奉仕者としてのわたしたちを示そう。しかし、マリアは聖アウグスティヌスが次のように証言しているように、乳母、あるいは代理人に依頼されたのではなく、常に主に対してはしためとして自分自身を示されたのである。「マリアは疑いもなく働き手であった。彼女はその胎にイエズスを懐胎し、彼が生まれたときに、彼を育まれ、彼に自分の胸から乳を与えられ、彼をまぐさおけに置かれ、彼の幼児期の間中一人の愛すべき母として彼に奉仕された。その結果十字架の死に至るまで彼女は決して彼を置き去りにされなかったのである。」「彼女は一人の息子への愛からそうされたように、単に彼女の足跡によって彼に従われたばかりでなく、主に対する尊敬からそうされたように、彼の生活の模倣によってもまた、彼に従われたのである。」わたしたちにとってよき業に即応するばかりでなく、また悪徳に抵抗することが必要である。それゆえに彼らが槍が握られるべきであると付け加えたのはもっともである。なぜなら、わたしたちは悪徳の攻撃に対して、悪魔の攻撃に対して、肉の攻撃、世間の攻撃に対して熱心の槍を握るべきだからである。これらの槍についてエレミヤが次のように言ったのはもっともである。「槍を磨き上げよ。鎖かたびらを身に纏え」。正義の鎖かたびらによってわたしたちは守られる。しかし、熱心の槍をもってわたしたちは悪を攻撃する。もしあなたがこの世において悪に対して熱心の槍を投げないならば、神は審判の日に神の熱意たる槍をあなたに対して用いられるである。それゆえに、知恵の書においてこう言われているのである。「主は恐ろしい怒りを一本の槍として研ぎ澄まされるであろう」(知恵の書、V, 21)。おお、マリアは何という戦士であっただろうか。彼女の聖なる熱意は彼女の槍であった。聖ベルナルドゥスは彼女に対してこう言っている。「あなたは恐るべき戦士であられた。なぜなら、あなたは第一のエヴァに取って代わった彼[悪魔]を攻撃する第一の男らしい方だったからである。」それゆえに、わたしたちが悪徳に雄々しく抵抗するために善き業に忠実にとどまることができるように、マリアの模範を眺め、マリアの取りなしを嘆願することがわたしたちには必要である。そのとき、あたかも朝の日の出から[照らされる]ように、マリアの模範と生活によって照らされるとき、わたしたちは働き、マリアの保護と憐れみによって照らされるとき、わたしたちは善へと鼓舞されるのである。わたしたちは星が昇るまでよく働くべきである。すなわち、わたしたちの霊魂が星のように輝くものとなって、わたしたちの身体から前進し、星へと昇って行くまで[働くべきである]。しかし、かつて現れたあらゆる星を越えて、天においてこれから現れるであろうあらゆる星を越えて、最も輝かしい星は、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら証言しているように、わたしたちの曙、わたしたちの朝であるマリアである。「あなたは神の御前にある数千の星の間で、真の太陽の最も生き生きとした似姿である。あなたはあなたのおとめの純粋さによって天において栄光に満ちて輝く」。このように、あなたはマリアがいかに適切に朝、曙と呼ばれるかを見るのである。おお、マリアよ、太陽が暁と共にあるように、主は御身と共にまします。それゆえに、おお、最も甘美な朝である貴婦人、わたしたちの貴婦人、最も甘美なマリアよ、正義の太陽、わたしたちの主イエズス・キリストがわたしたちと共にいますように。主は御父と聖霊と共におられ、永遠に支配し給う。アーメン。

第12章 若枝あるいは幹、花咲く幹であるマリア

 「主御身と共にますます。」太陽がそれに先立つ暁と共にあるように、主がどのようにマリアと共にましますかを見たので、今や、花が蕾をつけた幹と共にあるように、主がどのようにマリアと共にましますか見ることにしよう。なぜなら、マリアはイザヤ書において次のように言われている若枝だからである。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」(イザヤ書、XI, 1-3)。これらの言葉をわたしたちの精神の眼の前に置こう。そしてわたしたちの考察を最初に若枝へ、次に花へ向けよう。

 最初に、聖アンブロシウスがおとめマリアへの語りかけにおいて次のように言いながら証言しているように、この若枝、この王的な若枝がおとめマリアであるということを考察せよ。「主を生まれたあなた自身はイスラエルの土地の出である。あなたは若枝へ、エッサイの幹からの若枝へ成長された。あなたは芽生え、花咲かれた。おお、アアロンの若枝よ、あなたは花咲かれ、実をもたらされた」。なぜなら、マリアは芳香に煙る若枝、木の若枝、金の若枝、鉄の若枝だからである。マリアは初心者にとって煙る若枝、進んでいる者にとって木の若枝、完全な者にとって金の若枝、矯正不可能な者、悪魔にとって鉄の若枝である。

 わたしはおとめマリアは初心者、痛悔する者にとって煙る若枝であると言う。この若枝について雅歌の中でこう言われている。「荒れ野から上って来るおとめは誰か。煙の柱が近づいて来るかのよう。それは....さまざまの香料、ミルラや乳香をたく煙」(雅歌、III, 6)。荒れ野は罪人たちの心であり、それは実際恩寵と徳を欠いている。芳香、霊魂の甘美な香りは赦しに対する希望の渇望である。それゆえにおとめマリアは彼女の祈りによって罪人の心が赦しの煙る芳香を受けたとき、煙の柱として荒れ野から上って来られたのである。この煙は悔恨という芳香のあるミルラから、告白における芳香から、多様な満足における香料の粉末から産み出される。おとめマリアはいかなる荒れ野をも嫌われない。彼女はいかなる罪人をも軽蔑されない。しかし、彼女が通られるところにはどこでも、彼女は赦しの甘美な芳香を振り撒かれる。それゆえに、聖ベルナルドゥスはうまく次のように言っている。「罪人が邪悪であっても、もし彼があなたにため息をつくならば、あなたの赦しを求めて痛悔の心で懇願するならば、あなたはどんな罪人をも嫌ったり、あるいは軽蔑したりされない。あなたはあなたの愛すべき手で絶望の深淵から彼を引き上げられる。あなたは彼の上に希望の薬を吹きかけられ、全世界ののけ者である彼を母親の愛情で抱擁し、彼が恐るべき審判者と和解するまで彼を大事にし、彼を見捨てられない」。

 さらに、マリアは木の若枝、進んでいる人々にとって花咲いている若枝である。この若枝について知恵の書においては、木から作られたアアロンの若枝が実と花をつけると言われている。花によって表されているのは諸徳であり、それは、悪魔的な冬が過ぎ去った後に心のうちに上ってくる。雅歌において次のようにうまく言われているように、「今や冬が過ぎ去り、花がわたしたちの土地に現れた」それゆえに、冬を去らせ、慈善が冷えてしまった冬眠を過ぎ去らせよう。そうすれば、徳の花が再び現れるだろう。聖ベルナルドゥスが彼女に次のように語りながら言っているうように、おお、花咲くおとめはどんな花で満たされていることか。「あなたは聖なる香料の庭地のように、天上の香料によって植え付けられ、すべての徳の花で快く花盛りにされている。花が諸徳を顕わしているように、実は諸徳の働きを表している。これらについて次のように言われているのはもっともである。「その実によってあなたは彼らを知るであろう」。それゆえに、わたしたちが徳において、諸徳のはたらきにおいて進歩するとき、わたしたちはマリアの模範と功徳によって進歩するのである。そのとき、おとめマリアはわたしたちにとって花咲き、実り豊かな木の若枝である。

 同様に、おとめマリアは完全な者、観想的な者にとって金の若枝である。わたしたちはそのことをエステル書の中に読む。二人の下女と共にアッシリア王のところへ行き、極度の恐れから気が遠くなったとき、王は彼女を慰めるために彼女に金の王笏を差し出した。エステルは「揚げられた」あるいは「隠された」を意味し、観想的な霊魂の比喩である。神はその霊魂を観想において揚げられ、人々の喧噪から神の御顔の隠れた場所へ隠される。この霊魂は観想によって王たるキリストの中へ入る。その助けによってエステルが入る二人の下女は霊魂の二つの能力、知識の道によって進む知性と愛によって従う愛情である。このようにしてキリストの中へ入った霊魂は、それが神的栄光の近づき難い輝き、あるいは神的正義の恐るべき厳しさを認めるとき、一種の茫然自失状態によって時には気が遠くなる。金の若枝、王笏はおとめマリアである。彼女の愛によって実際、金であり、彼女の高貴さによって王的である。彼女の純粋さによって金であり、彼女の正義によって王的である。彼女の清廉潔白と処女的無傷によって金であり、彼女の支配と力によって王的である。これは幸福なおとめマリアがそのように愛すべきそして甘美であるこの霊魂の観想と献身によってその中へ入られるとき、観想的な霊魂を慰めるために情け深さで広げられる幸福な若枝[鞭]である。その結果この若枝から霊魂は神的輝きと正義の畏れに対して強められるのである。聖アンセルムスの観想的な霊魂は、彼が次のように叫ぶとき、それへ広げられるべきこの若枝を望んだのである。「おお、眺めるにうるわしく、観想するに愛すべく、愛するに喜ばしきおとめよ、あなたは心の許容範囲を超越される。おお、貴婦人よ、あなたに従う弱い霊魂にあなた自身を与えてください。」

 同様におとめマリアは悪魔たちと矯正不可能な罪人たちにとって鉄の鞭のようなものである。わたしたちは詩編の次の言葉をこの鞭に適用してもよいだろう。「あなたは鉄の鞭で彼らを支配される」。おお、完全な者にとって金の若枝、堅固な者にとって金の若枝、人々にとって金の若枝、悪魔たちにとって鉄の堅固な鞭であるマリアよ、わたしたちから悪魔を遠ざけてください。貴婦人よ、わたしたちはこのことを願います。わたしたちはそれを無垢な者と共に敬虔に求めます。」「めでたし、あなたがそれによって神の御母である尊厳性から悪魔を抑える力を持っておられる愛すべき神の御母よ、彼らがわたしたちを損なうことがないように、悪魔を抑えてください。天使たちにわたしたちを守るように命じてください。」それゆえに、このように祝せられたおとめマリアはわたしたちにとってわたしたちの会話における煙あるいは香料の若枝、わたしたちの生活における花咲く若枝、わたしたちの観想における金の若枝、わたしたちの防御における鉄の若枝である。聖ベルナルドゥスはこの若枝を称賛し、相応しく観想しながらう言っている。「おお、おとめよ、至高の若枝よ、あなたは王座に座し給う方のところへさえ、主権者の主のところまであなたの頂点をいかに高く揚げられることか。なぜなら、あなたはあなたの根を謙遜の中へ深く下ろされるからである。」

 今や、この若枝の花を考察しよう。王の若枝、四重の花たるマリア、貴重な花、処女性の花、有徳的な名声の花、奇跡的な多産性の花、栄光ある不滅性の花を考察しよう。

 この花について第一に、マリアにおいて貴重な処女性の花を考察しよう。それは処女性それ自身である。このことについてイザヤ書はこう言っている。「砂漠は喜ぶであろう。百合として花咲くであろう。」マリアは一つの砂漠であると適切に言われ得る。彼女はそのように独りでいることを喜んでおられた。彼女はその意志的な孤独において天使によって訪問された。それゆえに、聖アンブロシウスが次のように言っているのはもっともである。「誰も見ることができなかった彼女は彼女の家の内的な部分に独りでおられた。天使は仲間なしに独りでおられる、目撃者なしに独りでおられる彼女を見出した。」この砂漠であるおとめマリアがどのような仕方で喜ばれたのか、彼女自身に語っていただこう。「そしてわたしの精神はわたしの救い主である神において喜んだ。」地上のこの荒れ野は処女性によって百合のように花で覆われた。おお、天使の百合よ!おお、天上の花よ!おお、真に天上的な花よ!天の上にある蜂はあなたをそのように愛したのだ。なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「百合の間で養われ、花咲く父祖の地に住んだあの蜂はナザレト−それは花と解釈される−へ飛んだとき、あなたのところへ逃れた。あなたの永遠の処女性の甘美な香りのする花のところへ来た。蜂はその上に休んだ。蜂はそれを抱擁した。」処女性の花は、言ってみれば、処女性の諸条件と賛美のように多くの花びらを持っている。おお、マリアによってこの花の冠はいかに大いに増やされたことか!聖アンブロシウスはこう言っている。「全世界において花であるマリアはしぼまない花冠を編み、おとめたちにおいて聖性のトロフィーを掴み、おとめマリアの足跡において天上の花嫁の部屋に達するために無傷が勝利の棕櫚にいたるまで持ち堪えるまで無原罪の愛情でもって純粋さの宮廷を保たれる。」

 第二に、マリアにおいて有徳的な名声、作法、生活の花を考察し、彼女自身が言っておられることを聞こう。「わたしの花は名誉と富の実である」(集会の書、XXIV, 23)。これらについてまた次のように言われている。「わたしたちのベッドは花で一杯」。見よ、わたしたちは地上に、ベッドの中に花を見出す。大地は活動的な(霊魂)の精神である。ベッドは観想的な(霊魂)の精神である。大地はよい行いにおいて実を結ぶ精神である、とわたしは言う。しかし、ベッドは観想のうちに静けさを求める精神である。それは常に花で美しく飾られるべきである。同様にまた、誠実、名声の花である。そうだ、何らかの徳の花はいわばそれが示すべき善い、称賛に値する仕事を持っているように多くの花弁を持っているということに注目せよ。おお、大地がいかに花に覆われていることか、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら証言しているように、彼女の生活の花開く徳があらゆる徳の美において花咲いたマリアのベッドがいかに花で覆われていることか。「おお、マリアよ、あなたは、天上の香料によって集められたあらゆる徳の美しい花で喜ばしく花開いた聖なる香料の小箱だ。それらのうちで三つのものがとりわけ優れている。謙遜のスミレと貞節の百合と愛のバラである。」

 第三に、マリアにおいて彼女の奇跡的な多産性の花を考察しよう。この花はそれについて次のように言われているおとめの御子である。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの花が生じる」。「花のように生まれ、踏みつぶされた」というあの言葉に従えば、おお、この花が罪なしに生まれてどのように美しく咲き出で、どのように悲しくそれが死ぬことによって踏みつぶされたことか。おお、この花は出て来る時にはいかに白く、傷つけられるときにはいかに赤かったことか!それは天使たちにとって喜ばしい花、人間たちにとっては生活のために最も有益であった花であるとわたしは言う。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「その花はおとめの御子、白と赤の花、天使たちが眺めることを望んだ花、香りによって死すべき者たちが再び生き返る花である」。そのような花を産み出す木は幸いである!木においてこの花を産み出す幹はもっと幸いである!それなしには幸福な木も幹も存在し得ない花はとりわけ幸いである!その方なしには誰も霊の恩寵を持つことができなかった聖霊がそのようにそこに休らった花は真に最も幸いであり。聖ヒエロニムスは次のように言いながらこのことを証言している。「人類の広大な森の中で休む場所を持たれなかった聖霊が最後にこの花の上に休まれた。その結果、キリストなしには誰も賢明であることはできず、誰も理解あるいは忠告、あるいは剛毅、あるいは学習、あるいは敬虔あるいは主の畏れを持つことはできなかった。」この花はいわばそれが奉仕と模範を持ったのと同じように多くの花弁を持っている。もしあなたがこの花を持つことを望むならば、あなたは祈りによってその幹をあなたの方へと曲げなければならない。たといその花が神性によって極めて高いとしても、その幹は愛によって柔軟である。たといその花が、天においても地においても他のものは見出されないがゆえに、最もまれなものであるとしても、それにもかかわらず、一つの庭に閉じこめられた花のようではなく、すべての通行人に開かれた野原にある花のように、最も共通のものである。それゆえにキリストが次のようにおっしゃることができたのはもっともである。「わたしは野の花である」。彼は野の花と呼ばれ得る。それは単にすべての者が見ることができるように公的にさらされているばかりでなく、また人間の文化なしに生み出されているがゆえである。このことを聖ベルナルドゥスは次のように言うとき念頭に置いているのである。「野は人間の何らの援助なしに花盛りになる。それは誰によっても種まきをされず、鋤によって耕されることもなく、肥料によって肥沃にされることもない。実際おとめの花の胎はこのようにされたのである。マリアの純潔で全体的な内面は永遠の緑の牧場のように、美が腐敗を見ず、栄光が決して衰えない神を生み出されたのである。」

 第四に、恵み深き不滅性の花を考察せよ。それについて民数記では、アアロンの若枝が同時に花と実の両方をつけたと言われている。アアロンの若枝はおとめマリアの前表である。若枝の真っ直ぐさにおいてマリアの無傷が前表されている。花において彼女の栄光化された身体の美が前表されている。実において彼女の霊魂の美が前表されている。「朝に花開き、そしてしおれる」と言われているように、青春において身体が最も美しいということは注目されるべきことである。しかし、花はイザヤ書において「草はしおれ、花は落ちる」と言われているように、死において滅びる。詩編作者に従えば、それは輝かしい復活において再び花開くであろう。「わたしの肉は再び花開いた。」身体の栄光化のこの花は、栄光化された身体が賜物や報償を持つように、いわば多くの花弁を持つ。確かに、聖なる博士たちは、祝せられたおとめが身体と霊魂を天へ揚げられた、また彼女の身体と霊魂が今は栄光のうちにあるということをあり得ることと主張し、理性の示しによって証明しようと努めたと思われるし、また信者の敬虔な感覚は常にそのことを主張してきた。聖アウグスティヌスはこう言っている。「わたしはマリアはキリストのうちに、キリストと共におられる、と主張する。キリストのうちにおられる、というのは、キリストにおいてわたしたちは生き、動き、わたしたちの存在を持つからである。キリストと共におられる、というのは彼女は栄光の中へ受け入れられたからである。」それゆえに、わたしたちはマリアが身体と霊魂の両方において言い様のないほどの喜びをもって、彼女自身の御子のうちに、彼女自身の御子と共に、喜んでおられると信じることが相応しいのである。また彼女は腐敗の棘を一度も感じられたことはない。というのはいかなる汚れも彼女の御子を産む際に彼女の無傷に伝えられなかったからであり、彼女がすべての者の全体的で完全な生命である御子を産まれたからである。彼女がその胎に孕まれた御子と共におられんことを。彼を産み、彼を養い、彼に乳を飲ませた彼女が御子と共におられんことを。マリアは神の御母であり、神のはしためであり、神の乳母であり、神に従う人である。この信仰に従えば、彼女は今こう言うことがおできになる。「わたしの肉は再び花開いた。」この信仰に従えば、彼女は同時に実と花を持たれる。花として彼女の栄光化された身体を、実として彼女の栄光化された霊を持たれる。実際、彼女の栄光化された身体の美における花を、そして彼女の霊魂の語り得ないほどの喜びにおける実を持たれる。わたしたちは上述した四重の花に従って、おとめマリアが処女性の四重の花、多産性の四重の花を持っておられるということに注目しなければならない。彼女は名声の花と謙遜の花を持っておられる。彼女は同時に御子において人間性の花と神性の実を持っておられる。彼女は同時に身体における不滅性の花と霊魂における祝福された快楽の実を持っておられる。それゆえに、処女的な若枝におけるこれらの花を識別しよう。処女性の庭からこれらの喜びの新しい花を集めよう。聖ベルナルドゥスは次のようにマリアに語りながら言ったとき、それらの花が集められ、わたしたちに推賞されたと見た。「おお、マリアよ、あなたの聖なる胎はわたしたちにとって喜びの庭である。というのはわたしたちは、精神の中でどんなに多くの甘美さがそこから全世界へ流れたかを考えるほどしばしば多様な喜びの花をそこから集めるからである。」それゆえに、最も甘美なおとめマリアよ、見よ、花がそれを生み出した幹と共にあるように、主は真に御身と共にまします。主がまたわたしと共にもましますように、そうだ、わたしたちのすべての者と共にましますように、そしてわたしたちにこの花を与えてくださいますように。主イエズス・キリストよ。アーメン。

第13章 王と共に宮殿に入る女王に比較されるマリア

 主御身と共にまします。おお、主にとって最も親愛な、主と最も親密な貴婦人よ!主御身と共にまします。おお、主に最もよくマッチした、主に最も相応しい貴婦人よ!主御身と共にまします。上に言われたことに従えば、太陽が先行する暁と共にあるように、花がそれを生み出す幹と共にあるように、王が宮殿の中に入って行く女王と共にいるように、主は最も確実に御身と共にまします。

 マリアがどのように正義の太陽を先導されながら、永遠の太陽に対する暁のようであるか、またマリアがどのように慈しみの花を生み出されながら、永遠の花に対する幹あるいは若枝のようであるかを見たので、今はマリアがどのような仕方で栄光の中へ入って行かれながら、永遠の王の女王であるかを考察することにしよう。

 マリアは入って行かれるあの女王である。彼女について、女王は大きな集団と富と共にエルサレムの中へ入って行ったと言われている(列王記上、X, 1)。真にマリアは女王である。聖アウグスティヌスはこう言っている。「わたしたちは真に彼女が天の女王であると告白する。というのは彼女は天使たちの王を産まれたからである。」わたしは説教の中でこの女王について語った。「女王が立つ....」。それゆえに、わたしは今彼女の入場について語ろう。

 それゆえに、わたしたちは、マリアが入って行かれ、出て行かれ、上って行かれ、揚がって行かれるのを見出すということを考察しなければならない。彼女の出立は自然に属するものであった。彼女の進歩は恩寵に属するものであった。彼女の入場は栄光への入場であった。彼女の登高は豊かさにおいてであった。

 彼女は生まれることによって出立された。彼女は恩寵と徳において進むことによって進歩された。彼女は到達することによって入場された。彼女は聖性によってすべてを越え出られた。彼女は罪なしに出生された。彼女はすべての模範を越えて進歩された。彼女は障碍なしに入場された。彼女は制限なしにすべてを凌駕された。

 第一に、わたしたちが無原罪の出生によって世界の中へと出立されるマリアを見出すということを考察せよ。

 第二に、わたしたちが恩寵によって比類なく進歩されるマリアを見出すということを考察せよ。それゆえに、雅歌においてこう言われている。「曙のように姿を現すおとめは誰か。満月のように美しいおとめは誰か。太陽のように輝くおとめは誰か」(雅歌、VI, 10)。これら三つの光るもの、すなわち、暁、月そして太陽にマリアは適切に比較される。なぜなら、三つの優れた完全さが彼女のうちには輝いているからである。輝く処女性は最高度に彼女の精神と心のうちにあった。彼女においては処女性は多産性を輝かし、彼女においては多産性は例外的な卓越性を輝かせている。気分を爽やかにする暁と小鳥たちにとって快い暁はマリアであった。なぜなら、彼女の処女性によって彼女は、聖ベルナルドゥスが彼女に対して語りかけながら次のように言っているように、肉の熱を冷まされたからである。「貞節の徳によってあなたはあなたの処女の肉のうちに禁じられた欲望の熱を消されたので、その御目には星でさえ純粋ではないお方はあなたの肉が御自身の神的純粋性をそれに結びつけようとされるほどに純粋であると判断された。」同様にまた、彼女はその処女性によって天の小鳥たち、すなわち、神の天使たちに快いものであった。なぜなら、聖ヒエロニムスが言っているように、「処女性は常に天使たちに結びつけられる」からである。それゆえに、わたしたちは天使が暁にヤコブを祝福したということを読むのである。ヤコブはここでは貞節な精神を表しているであろう。というのは、ヤコブは彼の兄弟、すなわち、身体、彼の身体に取って代わったからである。彼は単に天使によってばかりでなく、また彼の父によって暁に、あるいは朝に、すなわち、貞節なおとめマリアにおいて祝福された。天使はマリアに対してこう言った。「御身は女のうちにて祝せられた」。同様に、マリアは処女性の光を与える多産性において月のように美しかった。なぜなら、月の美しさはそれが太陽から受ける光に存するからである。それゆえに、あの永遠の太陽が彼女のうちに全体的に受け取られ、孕まれたとき、マリアがどんなに美しい月であったかを考えてみよ。それゆえに、マリアはあの男がそれが満ちたとき教会へ帰ったあの月である。その男については次のように言われている。「満月の日に彼は家に帰るであろう」(箴言、VII, 20)。祝せられたおとめは「めでたし、聖寵充ち満てり!」と彼女に対して言われたとき満月であった。さらにマリアは、人間ばかりでなく、また真の天使でなく、神の御子御自身が彼女のうちにその祭壇を置かれたとき、御子がマリアのうちに孕まれたとき、彼女の多産性の照らす特権における太陽として選ばれたのである。もしおとめが単なる人間を孕まれたならば、疑いもなくそれは最も例外的なことだったであろう。しかし、もしおとめが天使を孕まれらならば、それははるかに例外的なことであったであろう。おとめが神を懐胎され、産まれたということはとりわけ例外的なことであった。よろしい、それゆえに聖アウグスティヌスはこう言うのである。「祝せられたマリアはわたしたちによって特別な賛美をもって正当に褒め称えられる。彼女はそのように至高の高さへ上げられ、その結果御言葉が最初から神と共に住まれていたのに、にもかかわらず彼女が最高の天から彼女の胸の中へ御言葉を受け取られたとき、そのように特別な利益を世界に示されたのである。」それゆえに、祝せられたおとめマリアは精神と身体の称賛すべき処女性において昇って来る朝のように進歩されたのである。彼女の処女的な子どもの賛美すべき神性において太陽のように輝かしく進歩されたのである。

 第三に、わたしたちがマリアは障碍なしに天の栄光の中へ入って行かれるのを見出すということを考察せよ。なぜなら、そのように大勢の随員を伴い進んで行かれるそのように偉大な女王に何が反対できたであろうか? 彼女はシェバの女王によって前表された。彼女についてこう言われている。「彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た」(列王記上、X, 2)。これらの言葉のうちに天のエルサレムに入って行かれるマリアの栄光を考えてみよ。入って行かれる彼女の卓越性、彼女の力、彼女の富を考えてみよ。彼女がシェバの女王−それは叫びを表す−に比較される限りで、わたしたちの女王マリアの首位権の卓越性を考えてみよ。なぜなら、マリアはそこに悲嘆の叫びがある世界の女王だからである。また彼女はそこに喜びの叫びがある天国の女王でもある。なぜなら、天における住人は、黙示録において言われているように、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神なる主よ!」と叫ぶからである。そして叫びを上げる人々のこの女王は、聖アウグスティヌスが言っているように、他の人々と共に彼女自身叫びを上げられる。「おお、天の住民たちの仲間の市民たるマリアよ、天使たち、大天使たちと終わりなく一緒になって、あなたは疲れを知らない声で叫ぶことをやめられない。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!』と。」彼女は実際詩編作者が次のように言いながら記述している女王である。「女王が滑る衣服を着て、さまざまな人に囲まれてあなたの右に立つ」(詩編、XLIV, 10)。この世で彼女に忠実に奉仕したすべての者は信頼をもって王国の中へこの女王に従うことができる。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「わたしたちの女王はわたしたちの前を行かれた。彼女はわたしたちの前を行かれ、彼女の召使いたちが信頼して『あなたの後にわたしを引っ張ってください』と叫ぶことをそのように栄光に満ちて受け取られた。」同様に、わたしたちの女王の入場において彼女に伴う随員の力を考えてみよ。なぜなら、「多くの随員を伴って」とそれは言っているからである。マリアは天使の軍勢の多くの随員を伴って天のエルサレムの中へ入られた。聖ヒエロニムスはこう言っている。「わたしたちはある聖人たちの死と埋葬に際して天使たちがどのように来たかを読む。彼らがどのように賛美歌と称賛をもって選ばれた者の霊魂を天へ伴ったかを読む。」彼はこう付け加えている。「天の軍勢がそのすべての群と共に輝く光をもって彼女を取り巻いて、神の御母に会うために、祝祭の装いで喜びながら前進し、彼女を賛美と聖歌をって世界の初めから彼女のために用意された玉座へ彼女を導いた。」

 同様に、マリアにおいて、いわば貴重な贈り物の持参金においてのように、彼女の功績の富を考えよ。なぜなら、彼女は彼女の神と隣人の愛において彼女の無限の金、諸徳と賜物の貴重な宝石、よい業と模範の香料を携えて来られたからである。わたしがマリアの宝物について言うことは聖ベルナルドゥスが言っていることとはほとんど比較にならない。彼はマリアに語りかけながらこう言う。「あなたの手の中には主の慈しみのすべての宝物がある。神はあなたの手が与えることを止めることを禁じられる。なぜなら、栄光は罪人たちが赦され、義とされた者たちが栄光へ上げられるとき、減らされるのではなく増やされるからである。」それゆえに、神の御母は功績の数えることのできない富と共に天使たちの巨大な随員に伴われて、天の女王として栄光の中へ入られるのである。

 第四に、わたしたちが次のように言われていることに従って、彼女が終わりなく彼女の功績と報償の溢れるほどの豊かさにおいてすべての聖人たちを凌駕されるのを見るということを考えよ。「多くの娘たちが豊かな者として一緒に集まった。あなたは彼らすべてを凌駕された。」あなたは実際、自然において、恩寵において、栄光において彼らを凌駕された。あなたは人間たちのすべての娘たち、すべての霊魂、すべての天使的知性を凌駕された。おお、マリアよ、わたしはマリアが自然において人間たちのすべての娘たちを凌駕されたと言う。なぜなら、「見よ、ひとりのおとめが身ごもり、子を産むであろう」という言葉に従って、どんな自然が、彼女、一人のおとめが懐胎し、子を産まれたということを認めないであろうか。、一人のおとめが子を産むというこのことだけがすべての自然を越えていることではなく、彼女が神を産むということがそうなのである。それゆえに、聖ヒエロニムスはこう言うのである。「自然が所有しないこと、慣習が知らないこと、理性がそれについて知らないこと、人間精神が把握することができないこと、天が恐れること、地が驚くこと、このすべてが天使ガブリエルによってマリアに神的に告知され、キリストにおいて実現されたことであった。」同様に、マリアは恩寵において聖人たちのすべての霊魂を凌駕された。なぜなら、彼女は単に恩寵に充ち満ちておられたばかりでなく、ガブリエルが表したように、あふれ出ておられたからである。彼は最初は「恩寵充ち満てり」と言った。そして後にこう付け加えた。「そして聖霊があなたの上を覆うだろう」と。それゆえに、もし彼女が恩寵に充ち満ちているならば、何であれ聖霊が後に彼女にもたらしたものは完全な尺度以上のものであった。彼女はそのとき充満以上であった。彼女は超過的に充満していたのである。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「聖霊が来られていた間、彼女は彼女自身で恩寵に充ち満ちておられた。しかし、聖霊が彼女の上に来られたとき、彼女は充満し過ぎであった。そしてわたしたちのために恩寵で充ち溢れられた」。それゆえ、マリアは栄光においてすべての天使的知性を凌駕されたのである。なぜなら、彼女は、わたしたちがエゼキエル書において読むように、天使的な蒼穹を越えて高められているサファイアの王座だからである。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「マリアはあらゆる天上の被造物を越えて昇られた。天使たちのところまで、そしてこれらをさえ越えて昇られた。」それゆえに、マリアはそのように出て来られ、進まれ、入られ、すべてを越えられた。わたしは、彼女はこの死すべき世界の中へ来られることによって出て来られた、と言う。彼女は恩寵と特権において進歩された。彼女は天上の王国に達することによって入られた。彼女はすべての祝せられた者の栄光を超出することによってすべてを越えられた。それゆえに、見よ、おお、最も甘美なるおとめマリアよ、太陽がそれに先行する暁と共にあるように、花が花を咲かせる幹と共にあるように、王が入場する女王と共にいるように、主は真に御身と共にまします。おお、最も甘美な曙よ、正義の太陽がまたわたしたちと共にもましますように聞き届けてください!おお、最も至高の若枝よ、またわたしたちと共にも恩寵の花がありますように聞き届けてください!おお、最も力強い女王よ、栄光の王、わたしたちの主イエズス・キリストがわたしたちと共にとどまられますように聞き届けてください!

第14章 マリアは恩寵の充溢、御子の威厳、慈悲の多さ、栄光の大きさのゆえに祝福されておられる

 御身は女のうちにて祝せられ給う。マリアが生活の無垢のゆえにどのようにアヴェによって挨拶されるかということが示されてきた。また彼女が、恩寵の最も豊富な満ち溢れのゆえに、どのように「恩寵に充ち満ちて」おられたかということも示された。さらに、わたしたちの主の彼女との特別の現前のゆえに彼女がどのように「主御身と共にまします」という言葉で挨拶されるかということも示された。今や、わたしたちは彼女の人格の最も快い尊敬のゆえに、彼女がどのように「女のうちにて祝せられ」と挨拶されるかを示さなければならない。それゆえに、大天使ガブリエルが栄光あるおとめマリアに栄光に満ちた挨拶でもって挨拶することによって、「御身は女のうちにて祝せられ」と言うことによって、すなわち、すべての女よりも祝福されておられる、と言うことによって、最も適切に彼女の祝福されたあり方を言い尽くしたということを見よ。このことによって何であれエヴァによってわたしたちの本性の中へ注入された呪いはマリアの祝福によって取り去られたのである。それゆえに、ガブリエルに言わせよう。「御身は女のうちにて祝せられ給う」。あなたにおいて尊敬されるべき恩寵の充満のゆえに、祝福された、とわたしは言う。あなたによって与えられるべき慈しみの大きさのゆえに、祝福された、とわたしは言う。あなたから肉を取り給うペルソナの尊厳さのゆえに、祝福された、とわたしは言う。あなたのうちに集められるべき栄光の重さのゆえに、祝福された、とわたしは言う。

 第一に、ガブリエルが「めでたし、聖寵充ち満てり、主御身と共にまします、御身は女のうちにて祝せられ給う」と言うとき最も適切に示しているように、マリアが彼女において尊敬されるべき恩寵の充満のゆえにどのように真に祝福されておられるかを考察せよ。あなたは恩寵に充ち満ちているがゆえに、祝福された方である。あなたは神と共なる恩寵を見出された。それゆえに、あなたは主と共に祝福された。聖ベルナルドゥスはマリアのこの祝福について次のように言っているがもっともである。「おお、女のうちにて祝福された方、恩寵の発見者、生命の御母、救いの御母よ、あなたによってわたしたちは御子に近づく。」おお、マリアよ、恩寵のゆえにあなたは祝福された。心の、唇の、業の恩寵のゆえに、とわたしは言う。あなたは賜物の恩寵のゆえに心において祝福され、唇の恩寵のゆえに口において祝福され、態度の恩寵のゆえに業において祝福された。マリアは心の恩寵のゆえに真に祝福されておられる。なぜなら、彼女の賜物の恩寵は彼女の心の中にあるからである。なぜなら、彼女の心は神の最も喜ばしい楽園だったからであり、その結果この祝福について集会の書の次の言葉が理解され得るであろう。「恩寵は祝福における楽園のようなものである。」ここで注釈書はこう言っている。「異なった種類の徳において実を結ぶこと。」諸徳のこれらの幸福な程度と祝福について使徒はこう言っている。「誰がキリストにおける天上の場所でのすべての霊的な祝福においてわたしたちを祝福したのか。」それゆえに、もし恩寵が人間の精神を諸徳の祝福における神の賛美として喜ばしいものにするならば、聖霊の賜物の祝福において、神の楽園たるマリアの霊魂はどのようにそれ以上に喜ばしいことであろうか? そうだ、まさに、マリアの精神は単に神の楽園であったばかりでなく、またそれ自身の内部に生命の木、イエズス・キリストを含む彼女の胸もそうであったのだ。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「真にあなたは神の楽園である。あなたは世界に生命の木を産み給うた。その木を食するものは永遠に生きるであろう。」悲しいかな、その精神が恩寵の祝福における神の楽園ではなく、悪意の呪いにおいて悪魔たちの巣窟である者はマリアのこの祝福からどのように遠く離れていることか!そのようなことについて詩編において次のように言われている。「彼は呪うことを好んだから、呪いは彼自身に返るように。祝福することを望まなかったから、祝福は彼を遠ざかるように」(詩編、CVIII, 17)。

 さらに、マリアは、単に彼女の心の賜物のゆえにばかりでなく、詩編の次の言葉に従えば、彼女の唇の恩寵のゆえにもまた祝福されておられる。「恩寵があなたの唇へ注がれる。それゆえに神はあなたを永遠に祝福される。」おお、マリアの唇の上には、敬虔な祈りには、有益な会話にはどのように大きな恩寵があることか!おお、人間たちに対する、天使たちに対する、主に対するどのように大きな恩寵がマリアの唇の上には常にあったことか!聖ベルナルドゥスは次のように言いながら彼女の唇の言葉が神にとってどのように快いものであったかをわたしたちに告げている。「あなたがあなたの沈黙によって喜ばせた方をあなたはこれからはあなたの言葉によって喜ばせるであろう。なぜなら、その方が天からあなたにこう叫ばれるからである。『おお、女のうちで最も美しい方よ、わたしにあなたの声を聴かせてください』と。」おお、マリアの唇はどのように真実で、どのように誠実であったことか。それゆえに、神は真に彼女を永遠に祝福されたのである。おお、その唇がそのように彼女の唇と似ていない者、その唇の上に恩寵が注がれず、悪意が注がれる者はマリアの祝福されたあり方からどのように遠いことか。それゆえに、神は彼らを祝福し給わず、永遠に呪われたのである。

 さらに、マリアは単に彼女の心と彼女の唇の賜物のゆえにばかりでなく、また彼女の生活と会話の恩寵のゆえにも祝福されておられる。この祝福されたあり方については、エレミヤ書において次のように言われていることが理解され得る。「主があなた、正義の美、聖なる山を祝福されますように。」聖なる山はマリアである。彼女は彼女の生活と態度の高貴さゆえに山と適切に呼ばれる。これはわたしたちがダニエル書において次のように読む山である。「[山から]人手によらず切り出された石」(ダニエル、II, 45)。これはキリストが男の協力なしにマリアから生まれたとき[のこと]である。この山の美しさは正義の美しさである。マリアの生活と態度の美しさはそのように大きかったので、彼女については次の雅歌においてのように、正当にこう言われ得るであろう。「おお、愛する者よ、あなたはすべて美しい。」実際、彼女はその生活において美しかった。態度の規律において美しく、すべてが美しかった。疑いもなく、彼女においてすべてが美しかった。どのようにすべてか? 聖ヒエロニムスの言うことを聴こう。「何であれマリアのうちにあったものは、すべて純粋性と単純性、すべて恩寵と真理、すべて慈しみと正義であった。それらは天から見下ろしている。」まさしく主はマリアにおけるそのような美しさを祝福された。悲しいかな、「主があなたを、正義の美しさたるあなたを祝福されるように」とマリアに言われたことではなく、「主があなたを、不正の邪悪さたるあなたを呪われるように」と言われる人々はマリアのこの祝福からどのように遠くにいることか!「あなたたち、呪われた者たちよ、わたしから離れて永遠の火に入れ!」と言われるときは、おお、何という呪いであることか。見よ、最も親愛なるマリアよ、わたしたちはあなたがあなたの恩寵の充満のゆえに真に祝福されておられるということを見てきた。あなたが良心と賜物の恩寵のゆえに祝福された、舌と唇の恩寵のゆえに祝福された、あなたの生活とあなたの態度の恩寵のゆえに祝福されたとわたしは言う。

 第二に、彼女の天上の御子の威厳のゆえに、彼女の胎の祝福された実のゆえに、マリアがどのように真に祝福されておられるかを考察せよ。そのように祝福された実を産み出したあの土地は正当に祝福される。詩編作者はこう言っている。「おお、主よ、あなたはあなたの土地を祝福された。」その土地はマリアである。彼女について同じ詩編の中でこう言われている。「真理がその土地から生え出た。」真理はキリストである。彼はこう言った。「わたしは道であり、真理であり、生命である。」それゆえに、その祝福された実のゆえに、この土地は祝福される。その祝福された御子のゆえに、マリアは祝福される。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「あなたの胎の実が祝福されるのは、あなたが祝福されているがゆえにではなく、彼が甘美さの祝福においてあなたを妨げたがゆえである。それゆえに、あなたは祝福されている。」マリアはその神の御子のゆえに祝福されておられる。わたしは主によって、天使によって、人間によって祝福されておられる、と言う。その御子のゆえに、彼女は実際主によって祝福されておられる。主は彼自身彼女の祝福である。彼女は天使によって祝福されておられる。天使は彼女の祝福を告知する。彼女は人間によって祝福されておられる。彼は彼女の祝福を預言している。マリアは御自身が彼女の祝福であり、彼女に祝福を与える御子のゆえに主によって真に祝福されておられる。このことはサムエル記下においてよく表現されている。わたしたちはそこにこう読む。「主は契約の櫃のゆえにオベデドムを祝福された。」オベデドムは「血の奉仕者」と解釈される。

 彼はキリストをよく表している。キリストはわたしたちのしもべとなって、血を流されるに至るまでわたしたち哀れな罪人たちに奉仕される。わたしたちのためにキリストは奴隷となられた。キリストは御血を−鞭によって背中の御血を、荊冠によって頭の御血を、槍によって脇腹の御血を、釘によって手足の御血を−流された。このしもべの家はマリアである。彼女について詩編ではこう言われている。「わたしたちは彼の家のよいもので満たされるであろう。」その家に置かれた契約の箱はキリストを表す。なぜなら、キリストはわたしたちのしもべであり、わたしたちの生命だからである。箱の中には金の壺とマンナがあった。聖なる箱は聖なる肉である。金の壺はキリストの貴重な霊魂である。マンナは彼の神性を表している。この箱のゆえに、イエズス・キリスト、マリアの御子のゆえに、主はマリアの家を祝福された。おお、真に祝福された家よ、そこからすべてのものの生命が出て来る!聖アウグスティヌスはこう言っている。「男たちと女たちに生命をもたらされたあなたは女のうちで祝福されておられる。」

 同様に、マリアは単に彼女の祝福である主御自身によってばかりでなく、また彼女の祝福を告知する天使によっても、御子のゆえに祝福されておられる。ガブリエルはこう言う。「主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ給う。」「御身と共に」とはどのようにであろうか? 聖アウグスティヌスはこう説明している。「心において、胎において御身と共に。」それゆえに、あなたは御子と共に祝福されておられる。というのは、御子はあなたのうちに、あなたと共にましますからである。あなたと共にということは、単に創造主がその被造物と共にましますように共にましますということばかりでなく、また御子が御子を産む彼女と共にましますように、共にましますということでもある。あなたの御子のゆえに、あなたはあなたの出産の前に祝福されておられる。あなたの御子のゆえに、あなたはあなたの出産において祝福されておられる。あなたの御子のゆえに、あなたはあなたの出産の後に祝福されておられる。あなたの御子を産まれたが、その結果その誕生の前に、その誕生において、その誕生の後に、おとめとしてとどまられたあなたは真に祝福されておられる。そのゆえに、あなたは祝福された方と呼ばれるに値いされた。というのはあなたは単に単なる人間や天使を産まれたのではなく、人間たちと天使たちの主を産まれたからである。それゆえに、聖ベダがこう言うのはもっともである。「あなたは真に女のうちにて祝せられ給うた。あなたは女性の中で例のない、母の名誉と処女性の美しさのうちに喜び、一人のおとめ母となられた。あなたは神の御子に生命を与えられた。」

 さらに、マリアは主御自身が彼女の祝福であることによってばかりでなく、天使が彼女の祝福を告知したことによってばかりでなく、人間が彼女の祝福を預言したことによって祝福されておられる。エリザベトは、彼女の胎内で子どもが喜び踊ったとき、叫びを上げ、言った。「御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子も祝せられ給う。」それゆえに、あなたは実際、祝福されておられる。というのはその実が祝福されるがゆえに、野が祝福されるように、あなたの胎の実が祝福されておられるからである。マリアはそれについて次のように言われている祝福されたあの野である。「見よ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」(創世記、XXVII, 27)。聖ヒエロニムスはこう言っている。「マリアが充実した野と呼ばれるのはもっともである。というのは、彼女は恩寵充ち満てり、と言われるからであり、その胎から生命の実がすべての信者に出て来られたからである。」おお、その実のゆえにすべての野を越えた真に祝福された野よ!おお、あなたの御子のゆえにすべての母親を越えた真に祝福された女よ!聖アウグスティヌスはこう叫んでいる。「おお、男を知られなかったが、しかしにもかかわらず一人の男をその胎内に包まれたすべての女を越えた祝福された女よ!」おお、いと甘美なるマリアよ、見よ、わたしたちはあなたが、あなたの胎の祝福された御子のゆえに、神の祝福、天使の祝福、人間の祝福をもって真に祝福されておられるということを見た!悲しいかな、彼らの業の呪われた実のゆえに、神の呪い、天使たちと人間たちの呪いを招いた人々はマリアのこの祝福からどのように遠ざかっていることか。全永遠にわたって彼らは神によって呪われ、天使たちによって呪われ、人間たちによって呪われるであろう。

 第三に、マリアが慈しみの多様性のゆえにどのように真に祝福されておられるかを考えよ。彼女はルツによって表されている。彼女についてこう言われている。「あなたは主によって祝福されておられる。というのは、あなたの前の慈しみは後の慈しみを越えたからである。」マリアの前の慈しみは彼女がまだこの世において生活していた間に示した慈しみであった。後の慈しみは彼女が今天から何世紀にもわたって示してこられた慈しみである。後の祝福が前の祝福を越えた。というのは、彼女は数え切れないほどの多くの祝福によって前の祝福を超過したからである。彼女の慈しみがそれ自身において測り知ることができないほどのものであるとき、彼女の祝福された慈しみのゆえにマリアがどのように測りしれないほどにどれほど祝福されておられるかを誰が測ることができるであろうか? そのために彼女自身がそのように測り知れないほどに祝福されておられるマリアの慈しみがどのように計り知れないかを誰が測ることができるだろうか? 聖ベルナルドゥスはこう言っている。「それゆえに、人が彼女を通じて受けた多様な慈しみのためにマリアは祝福されておられる。実際、彼女によって神が人間にとって好意的な方であると説得されたがゆえに、彼女は祝福されておられる。また、彼女は彼女によって、人間が神に受け入れられ得るものとされたがゆえに、祝福されておられる。さらに、彼女によって悪魔が征服されたがゆえに、彼女は祝福されておられる。」わたしはマリアは彼女によって、アビガイルの例において示されているように、神が人間にとって好意的な方であると説得されたがゆえに、祝福されておられる、と言う。彼女についてわたしたちは読む。ダビデが怒って愚か者のナバルを殺そうと望んだとき、アビガイルは、途中で彼に会い、彼をなだめた。彼はなだめられてこう言った。「あなたの話は祝せられ、そしてあなたも祝せられよ、あなたはわたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた」(サムエル上、XXV, 33)。愚か者ナバルは罪人を表している。なぜなら、あらゆる罪人は愚かだからである。しかし、悲しいかな、集会の書に言われているように、「愚か者の数は無限である」(I, 15)。アビガイルはマリアを表している。なぜなら、その名前は「父の喜び」と解釈されるからである。おお、マリアにおいて天の御父の喜びはどんなに大きかったことであろうか。そしてマリア自身が次のように言うとき、マリアの喜びは天の御父においてどんなに大きかったことであろうか。「わたしの精神はわたしの救い主なる神において喜んだ。」アビガイルがわたしたちの貴婦人を象徴しているように、ダビデはわたしたちの主を象徴している。なぜなら、主が罪を犯した人間によって背かれたとき、ダビデは愚か者のナバルによって背かれたからである。主がマリアによって罪を犯した人間に対してなだめられ、和解させられたとき、ダビデは愚か者のナバルによてなだめられた。アビガイルは言葉と贈り物によってダビデをなだめた。マリアは彼女の祈りと功徳によって主をなだめられた。アビガイルはこの世の復讐を追い払った。しかし、マリアは永遠的であったものを追い払われた。前者は人間の剣を逸らしたが、後者は神の剣を逸らした。それゆえに、聖ベルナルドゥスが次のように言うのはもっともである。「貴婦人よ、あなたを通じてわたしたちが最初にわたしたちの神なる主の手から慈しみを受け取った神の最も愛された方であるあなたほどに自らの手によって主の剣を逸らすに相応しい者は誰もいなかった。」同様に、マリアは、単に彼女によって人間に対する神の怒りがなだめられたゆえばかりでなく、また人間が彼女の祝福のゆえに祝福されたかぎりで彼女によって人間が神に受け入れられるものとされたがゆえにも、マリアは祝福されておられる。それゆえに、イザヤ書にこう言われているのはもっともである。「イスラエルは地の真ん中における一つの祝福であろう。主人である主は次のように言いながら彼を祝福された。「わたしの民に祝福あれ....」。主が祝福された地の真ん中は祝せられたマリアであると言うことができる。詩編作者の次の言葉に従えば、彼女においてわたしたちの救いの祝福が始められた。「しかし、わたしたちの王である神は地の真ん中において救いを造られた」。この地の真ん中について聖ベルナルドゥスはこう言っている。「驚くべき適切さをもってマリアは地の真ん中と呼ばれる。なぜなら、天に、また地獄に住むすべての者、わたしたちの前に行った者たち、わたしたちの後に来る者たちは彼女の方へ、中心へ、神の[契約の]箱へ、諸事物の原因へ、世界の仕事へ向かうかのように、向かうからである。天にいる者たちは彼らが修復されるように、地獄にいる者たちは彼らが解放されるように、前に行った者たちは預言者たちが信頼に値するものであることが見出されるように、後に来る者たちは彼らが栄光を受けるように[彼女の方へ向かうのである]。それゆえに、この祝福された地の真ん中において祝福されているのはイスラエルであり、神の民が祝福されているのである。というのは、それは神の祝せられた御母によって、神に受け入れられているからである。祝せられたマリアによってあらゆる理性的な被造物が神に祝福せられ、受け入れられるものであるとしても、何の驚きがあろうか? なぜなら、彼女によってあらゆる被造物は祝福されているからである。それゆえに、聖アンセルムスはこう叫んでいる。「おお、祝せられたおとめよ、その祝福によってあらゆる被造物が祝福される−単に創造主によって被造物が祝福されるばかりでなく、被造物によって創造主が祝福される−[がゆえに]より以上に祝福された方よ。」

 さらに、マリアは単に彼女によって主が人間の方へと現れたがゆえばかりでなく、また彼女によって悪魔が人間に従属するものとされたがゆえにも、祝福されておられる。それゆえに、彼女はユディトによって表されているのである。ユディトについては次のように言われている。「主はその力においてあなたを祝福された。主はあなたによってわたしたちの敵どもを無に帰せしめられた。」わたしたちの敵は悪魔である。聖ベルナルドゥスがこう言っているように、おとめマリアは、彼女において、そして多くの他の人々において、悪魔の企みを無にされたとき、悪魔を無に帰せしめられた。「あなたは恐るべき戦士である。」さらに、「悪霊の全軍はあなたを前にして逃げ去った。」それゆえに、わたしたちは悪魔のすべての攻撃と騒乱において主の御母の保護へ皆一緒に逃れよう。なぜなら、彼女は戦闘隊形にある軍隊のように、わたしたちの霊魂の敵どもに対して恐るべき方だからである。悲しいかな、わたしたちの悲惨はなんと多様であろうか。そのためにわたしたちはマリアの慈しみと祝福を必要としている。それゆえに、次のように語っている聖ベルナルドゥスと共に、この慈しみと祝福を願い求めよう。「おお、祝せられたおとめよ、あなたの祈りによってこれらすべての好意を手に入れることによって、罪ある者に対する赦し、病める者に対する癒やし、心衰えた者に対する強さ、巡礼者に対する助けと解放を世界に示すために、あなたが神から功績として受けられたあの恩寵があなたのものでありますように。」

 おお、いと甘美なマリアよ、わたしたちはあなたがあなたの多様な慈しみのゆえに真に祝福されておられるということを見た。わたしは、あなたによって神が人間に対してなだめられ給うたがゆえに、[あなたは]祝福されておられる、と言う。あなたによって人間は神に喜ばれる者であるがゆえに、あなたは祝福されておられる。あなたによって悪魔は人間によって征服されるがゆえに、あなたは祝福されておられる。悲しいかな、神に喜ばれれない人、神の怒りがその人に対してなだめられない人、悪魔に喜んで従属しようとする人はマリアのこの祝福からどのように遠ざかっていることか。それゆえにそのような人は神から呪われるのである。第四に、エゼキエルの次の言葉に従えば、彼女の栄光の大きさのゆえに、マリアがどのように真に祝福されておられるかを考察せよ。「その場所から主の栄光は祝福される。」主の栄光は栄光に満ちた神の御母である。彼女は彼女が天においてその御子と共に休らっておられる場所から祝福されておられる。彼女は、彼女の御子が彼女と共に休らっておられる場所から祝福されておられる。これら両方の場所は、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら証明しているように、最も相応しい場所である。「マリアがその中へ神の御子を受け入れたおとめの花嫁の部屋よりももっと尊敬に値する場所は世界の中にないし、また天においてもマリアの御子がそこへマリアを揚げられた王座よりも尊敬に値する場所はない。」それゆえに彼女の栄光のゆえに、マリアは祝福されておられる。実際、彼女の最も至高の、最も貴重な、最も永続的な栄光のゆえに彼女は祝福されておられる。わたしは、尊厳性において最も至高である彼女の栄光のゆえに、彼女は祝福されておられると、言う。巨大さにおいて最もおびただしい彼女の栄光のゆえに、彼女は祝福されておられる。わたしはマリアは尊厳性において最も優れたその栄光のゆえに祝福されておられると、言う。この祝福については詩編作者の次の言葉が理解され得る。「あなたは勝利のエルサレムの栄光である。わたしは、すべての聖人たちの栄光である、と言う。あなたは神を観想するイスラエルの喜びである。わたしは、あなたはすべての天使たちの喜びである、と言う。あなたはなお巡礼の途上にあるわたしたちの民の名誉である、すなわち、あなたはこの世におけるすべての正しい者たちの名誉である。それゆえに、おお、マリアよ、あなたの豊かな祝福によって天上と地上にあるそのようによいものを与えてくださるあなたのいと甘美な御子は祝福されておられる。それで人間たちと同様に天使たちはアンセルムスと共に次のように言いながら、喜ぶことができる。「これらの大いなる贈り物は祝せられたマリアの祝せられた胎の祝せられた実を通じて来た。」

 さらに、マリアは、単に尊厳性において最も至高である彼女の栄光のゆえにばかりでなく、また安定性において最も永続的である彼女の栄光のゆえにも祝福されておられる。そのことは歴代誌上において語られている家によって表されている。「おお、主よ、祝福を与え給うあなた、それが永遠に祝福されますように。」詩編において次のように言われているように、真に永遠に[祝福されておられる]。「それゆえに、神はあなたを永遠に祝福された」(詩編、XLIV.)。それゆえに、このように、おお甘美なおとめマリアよ、あなたは女のうちで、女たちを越えて、否、また男たちをも越えて、否、天使たちを越えてさえ、真に祝福されておられる。わたしは、あなたが見出された恩寵の充満のゆえに、祝福されておられる、と言う。あなたが産まれたペルソナの威厳のゆえに、祝福されておられる。あなたが示された慈しみの多さのゆえに、祝福されておられる。それゆえに、おお、祝せられた方、あなたよ、わたしたちは聖ベルナルドゥスと共に、あなたに嘆願し、あなたに祈願し、あなたに祈る。「おお、祝せられた方よ、あなたが見出された恩寵によって、あなたが値された特権によって、あなたがもたらされた慈しみによって、あなたを通じてわたしたちの弱さと悲惨を分かち持つ方となってくださった方が、あなたの取りなしによって、主の天上の栄光を分かち持つ者にわたしたちをしてくださるように願い奉る。アーメン。」

第15章 マリアは七つの悪徳に対抗する七つの徳によって祝福されておられる

 御身は女のうちにて祝せられ給う。もっとわたしたちの祝せられたおとめの祝福について語ることにしよう。それについてもっと聴くことにしよう。祝せられたマリアは幸いである。「あなたたち、呪われた者よ、わたしから離れて、永遠の火に入れ」と言われるあらゆる呪われた者は不幸である。疑いもなくあらゆる罪に満ちた霊魂は呪われている。しかし、おお、徳のあるマリアよ、あなたは祝福されておられる。世は七つの主要な悪徳によって呪いを招いた。しかし、マリアは反対の徳によって祝福を得られた。それゆえに、おお、マリアよ、あなたは女のうちで祝福されておられる。高慢に対抗する謙遜によって、ねたみに対抗する慈愛によって、怒りに対抗する柔和によって、怠けに対抗する勤勉によって、貪食に対抗する節制によって、肉欲に対抗する貞節によって祝福されておられる。

 第一に、高慢に対抗する謙遜によってマリアがどのように祝福されておられるかを聴こう。なぜなら、次のように書かれているように、高慢は呪われるからである。「あなたは高慢な者を非難された。あなたの道から逸れる人々は呪われる。」高慢のこの呪いに対して、マリアは謙遜の祝福を得られた。このように、彼女は歴代誌下において言われている谷によって表されてもよいであろう。「彼らはその場所を祝福の谷と呼んだ」(歴代誌下、XX, 6)。イザヤ書の「あらゆる谷は満たされるであろう」という言葉に従って、あらゆる謙遜な魂がいわば、神の谷であるとするならば、謙遜においてそのように深かったマリアはどのように遙かにそれ以上に一つの谷であることだろうか!彼女が諸々の谷の中の谷、謙遜な者の中の最も謙遜な方であるとしても、何の驚くことがあろうか? おお、この祝福された谷がそのように深く、そのように有益で、そのように快い彼女の謙遜のために祝福をもってどのように大いに高められたことであろうか!聖アウグスティヌスはこう言っている。「おお、マリアの真に祝福された謙遜よ、彼女は人々に主をもたらし、死すべき者たちに生命を与え、天を新たにし、世を清め、天国を開き、そして地獄から人々の霊魂を解放された。」谷が深ければ深いほど、それだけ多くそれは水を受容することができる。そのように、マリアは恩寵を受容することがおできになるのである。谷は水によって、時には上から、時には下から、その灌漑を受ける。山々から雨が降り注ぐとき、上から、その[谷の]中に水の泉があるときに、下から[灌漑を受ける]。同じようにして、謙遜なマリアは、いわば上からと下からの両方から水を受けられた。彼女は、彼女の御子の神的本性と人間的本性から恩寵のそのように大きな祝福が彼女の中へ注がれたとき、いわば、上からと下からの両方から灌漑された。これはアクサが彼女の父に「わたしに祝福をください」と言ったとき、わたしたちが師士記においえ読むあの祝福である。彼女の父は上からと下からの水利がよい場所を彼女に与えた。アクサはマリアの見本だった。マリアは天の御父からの水利のよい祝福を受けられた。なぜなら、神はキリストの神性において上から彼女に祝福を与え、キリストの人間性において下から祝福を与えられたからである。神に対する彼女の愛において上から、隣人に対する彼女の愛において下から、さらに、観想において上から、活動において下から祝福されたからである。あるいは、天の御父は、天において上から、地において下から言い尽くし難い祝福を彼女に与えられた。その結果、天においては彼女は栄光の祝福を持たれ、地においては恩寵の祝福を持たれるのである。そしてこのように、聖ベルナルドゥスが次のように言うとき、模倣するものに従えば、天と地の両方において祝福されたのである。「おお、マリアよ、その御母たるあなたを天において祝福されたキリストが十字架の呪いを耐えられたということを思い出してください。しかし、あなたは同様にまた天使によって地において祝福された。そしてすべての世代によって地上であなたは正当に祝福された方と呼ばれる。」

 第二に、マリアがねたみに対抗する愛のためにどのように祝福されておられるかを聴くことにしよう。ねたみ深い人々はねたみ深いカインがこう言われたように、呪われる。「お前は地上で呪われる。地はその口を開き、お前の手からお前の兄弟の血を受け取った。」ねたみの呪いに反して、マリアは愛の祝福を受けられた。それゆえに、彼女はサラによってよく表されるであろう。彼女について主はこう言われた。「わたしは彼女を祝福する。彼女からわたしはあなたに、わたしが祝福するであろう一人の息子を与えよう」(創世記、XVII, 16)。サラは「石炭」と解釈される。これはマリアによく適合している。彼女は石炭のように、愛の熱でもって火の上にあった。それゆえに、燃える茂みはマリアの適切な比喩である。彼女によって恩寵の祝福があらゆる忠実な魂に与えられた。申命記においてこう言われている。「茂みにおいて現れた方の祝福がヨセフの頭の上にありますように。」ヨセフは「増大」と解釈される。そして神の恩寵によって豊かにされたあらゆる忠実な魂を表す。茂みは祝福される。その受肉によって茂みの中に現れた方、その方によってそのように大きな祝福が信じる者の上にくだった方は祝福される。おお、そのように祝福された炎を生み出す真に祝福された石炭よ、そのように祝福された御子を産んだ祝福されたマリアよ。主はこう言われる。「彼女から、わたしはわたしが祝福する一人の息子をあなたに与えよう」(創世記、XVII, 16)。それゆえに、神が肉に従って彼女の御子であられるとき、マリアが神に対してどんな大きな愛を持っておられたかを考えよ。同様にまた、よい隣人が霊的に彼女の息子であるとき、彼女がその隣人に対してどんな愛を持っておられたかを考えよ。もしわたしたちが彼女の子らであるならば、わたしたちは彼女の御子の兄弟である。それゆえに、聖アンセルムスがこの祝せられた御母についてこう言うのはもっともなことである。「おお、祝せられ、高められた方よ、あなたのためだけでなく、またわたしたちのためにも、それは何であり、それはどのように偉大であり、どのように愛すべきであるか、あなたによってわたしたちのために何が起こっているか−わたしたちはそれを見る−それを見ながら、わたしは喜び、それを喜びながら、わたしは敢えて発言しないのか? なぜなら、もしあなたが、おお、貴婦人よ、神の御母であるならば、あなたの他の子どもたちは神の兄弟ではないであろうか?」

 第三に、怒りに対抗する彼女の柔和と優しさのためにマリアがどのように祝福されておられるかを聴くことにしよう。なぜなら、怒りは、創世記に書かれているように、呪われるからである。「呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに」(創世記、XLIX, 7)。怒りのこの呪いに対抗して、マリアは柔和の祝福を得られた。なぜなら、真に、彼女の柔和は単に彼女が彼女自身の怒りをまったく持たれなかったばかりでなく、神の怒りを柔和へ転じさえしたほどのそのような柔和だったからである。それゆえに、彼女はアビガイルによってよく表されている。ダビデは彼女にこう言っている。「あなたの判断[言葉]は祝福され、あなたも祝福されよ。あなたは今日わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた」(サムエル上、XXV, 32)。箴言の次の言葉に従えば、親切な言葉で背かれた者の怒りをなだめることは柔和の特質である。「柔らかな応答は憤りを静める」(箴言、XV, 1)。柔和なアビガイルは柔和なマリアを表している。あなたはマリアがどのように柔和であられたかを知りたいか? 聖ベルナルドゥスの言うところを聴け。彼はこう言う。「福音書の物語全体をあなたの精神の中で念入りに思いめぐらせ。もしあなたがマリアのうちに何か非難すべきこと、何か冷酷なもの、あるいはほんのわずかな怒りのしるしでさえ気づくならば、あなたはおそらく他の事柄において彼女を疑い、彼女に近づくことを恐れるであろう。しかし、もしあなたがすべての事柄においてむしろ恩寵と愛すべき親切さに満ち、柔和と慈しみに満ちていたということを見出すならば、そのような親切な同情であなたにそのような仲介者−あなたがその中に恐れるべきものを何も持たない−を用意されたお方に感謝せよ。」ダビデはキリストを表す。キリストはマリアの柔和によって、キリストが永遠の死によって罪人に対して復讐をしないように静められ、なだめられ給うのである。永遠の死の危険にあるあらゆる魂にその偉大な柔和におけるマリアにため息をつくことを決して止めさせないようにしよう。なぜなら、その柔和のために彼女は正当に祝福されておられるからである。それゆえに、わたしは、まさに死のうとしているあらゆる魂に聖アンセルムスと共にこう言わせよう。「おお、女のうちにて祝せられた方よ、あなたはあなたの純粋さによって天使たちを征服され、あなたの愛すべき親切によって聖人たちを凌駕された。わたしの死に行く魂がそのように大きな親切の目の前で溜め息をつき、しかしそのような輝く白さの前で赤面するようにさせよ。」

 第四に、マリアがどのように、怠惰に対抗する彼女の勤勉さによって祝福されておられるかを聴くことにしよう。なぜなら、怠惰な者は神の仕事を忠実にまた熱心に果たさないがゆえに、呪われるからである。エレミヤはこう言っている。「神の仕事をおろそかに為す者は呪われよ。」不活発の呪いに対してマリアは熱心さの祝福に値された。なぜなら、彼女は釘でシサラを殺したあのヤヘルによって表されてもよいからである。それゆえに、士師記においてこう言われている。「ヤヘルは女の中で祝福されている。」ヤヘルは「昇ること」と解釈される。これはマリアに相応しい。マリアは雅歌のあの言葉に従えば、怠惰な者のように下らずに、徳から徳へ、低い段階から高い段階へ常に最も熱心に昇られたからである。「芳香のする若枝のように、砂漠から昇って来るのは誰か?」この祝福されたヤヘルは何をしたのか? 彼女は釘でシサラを殺した。シサラは「喜びからの締め出し」と解釈される。これが悪魔を表すのはもっともである。というのは、悪魔自身は永遠の喜びから閉め出されたので、また他の人々をも喜びから締め出そうとするからである。悲しいかな、そうなのだ、人類の最初の母によって彼はわたしたちすべてを閉め出した。この排除の呪いはわたしたちの救世主の御母によって解かれた。それゆえに、尊者ベダがこう言うのはもっともである。「あなたは女のうちにて祝せられ給う。あなたの処女的出産によって最初の母の呪いは女から生まれる者たちから排除された」しかし、シサラの頭が突き刺された釘によって何が表されているのであろうか? この釘は規律の厳しさ以外の何であろうか? 怠惰な者の生活の厳しさは目を突き刺す一種の釘以外の何であろうか? 規律の厳しさはいわば悪魔を苦痛に満ちて突き通し、悪魔を鋭く傷つける一本の釘である。それゆえに、祝福されたヤヘルはシサラの頭を死を与える釘で貫いたのである。一方、祝福されたマリアは規律の厳しさによってサタンの強さを彼女自身の中で消された。それゆえに、ヤヘルは女のうちにて祝福され、マリアは女のうちにて祝福された。どのような女のうちで[祝福されたのか]? ベダの言うことを聴こう。彼はこう言っている。「あなたは単に女のうちで祝福されたばかりでなく、祝福された女のうちで祝福されたのであり、あなたはより大きな祝福によって傑出している。」

 第五に、貪欲に対抗する彼女の寛大さによってマリアがどのように祝福されておられるかを聴くことにしよう。なぜなら、聖ペトロが言っているように、貪欲な者は呪われるからである。「その心は強欲におぼれ、呪いの子となっている」(2ペトロ、II, 14)。貪欲のこの呪いに対して、マリアは寛大さと大まかさの祝福に値された。なぜなら、彼女は常に流れ、常に与える泉のようであったからである。そしてそれゆえに、次の言葉に従えば、真に祝福されておられた。「あなたの水の源は祝福されよ」(箴言、V, 18)。この世の事柄において、マリア、あの水の源はより以上に寛大であった。というのは、彼女はすべての事柄を寛大に、自由に軽蔑したからである。それゆえに、ハイモンに従えば、神の祝福された御母は、すべてのこの世の事柄を軽蔑されたがゆえに、月を足下に置かれたのである。おお、この水の源によってどのように大きな恩寵が人間たちのところに流れてきたことであろうか。それゆえに、おお、教会よ、あなたの水の源は祝福されよ。それによってそのように大きなよい賜物があなたのところに来たのである。真に高貴な水源、聖霊に満たされた水源、生命の泉である水源。マリアはわたしたちにとって救いの水源である。なぜなら、この水源によって生命の泉であるキリストがわたしたちの所に来られたからであり、その水源によってわたしたちは生命の泉であるキリストのところに来たからである。それゆえに、それは真に祝福されている。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「おお、恩寵の祝福された発見者よ、あなたによって、わたしたちは神に近づいた。生命の母、救いの母よ、あなたによって神はわたしたちを受け入れられ、あなたによって神はわたしたちに与えられたのである。」

 第六に、貪食に対抗する節制によってどのようにマリアが祝福されておられるかを聴くことにしよう。なぜなら、貪食する者たちは、わたしたちの最初の両親の貪欲さにおいて現れているように、呪われるからである。そのために彼らは二人とも、また全人類は呪いを招いた。貪食のこの呪いに対してマリアは禁欲とあらゆる種類の節制の祝福を得られた。実際、物質的な天国における貪食の呪いとは反対に節制の祝福は、集会の書の言葉に従えば、霊的な天国において豊かであった。「恩寵は祝福における天国のようなものである。」マリアにおいては恩寵の豊かさはそのように大きかったので、寛大なおとめである彼女はほとんど恩寵そのものと呼ばれてもよかった。すなわち、最も寛大なおとめマリアは祝福における天国のようなものであった。なぜなら、物質的な天国においてエヴァの貪食が罰の呪いに値したように、霊的な天国においてマリアの節制は恩寵の祝福に値したからである。それゆえに、アウグスティヌスはこう言っている。「エヴァの呪いはマリアの祝福へ転じた。」エヴァの貪食が身体においてばかりでなく、また霊魂においても呪いをもたらしたように、マリアはわたしたちのために、単に身体においてばかりでなく、また霊魂においても祝福を得られた。単に霊的な祝福だけでなく、同様に身体的な祝福を得られた。聖ベルナルドゥスが言っているように、貪欲なエヴァの呪いは苦痛において出産することになったが、節度あるマリアの祝福は苦痛なしに出産することになった。「あなたは女のうちで祝福されておられる。そこで『悲しみのうちにあなたは子を産むであろう』と言われているあの一般的な呪い、しかも同時に『イスラエルにおいて不妊の者は呪われる』というもう一つの呪いから逃れられたあなたは祝福されておられる。あなたは不妊のままにとどまることなく、また悲しみのうちに産むこともなかったという例外的な祝福を得られたのである。」

 第七に、肉欲に対抗する彼女の貞節によってマリアがどのように祝福されておられるかを聴くことにしよう。好色な者に対してこう言われている。「隣人の妻と一緒に寝る者は呪われる。すべての者はそうだ、と言うだろう。」淫乱のこの呪いに対して、マリアは、ユディト書において表されているように、貞節の祝福に値された。そこではわたしたちはこう読む。「彼らは皆心を一つにし、彼女を祝福して言った。『あなたはエルサレムの栄光、イスラエルの大いなる誉れ、我らの民の偉大なる誇り。あなたはその手ですべてを成し遂げたからである。あなたの心はあなたが貞節を愛したがゆえに強められた。あなたの夫の後には他の誰をも知らなかった。それゆえにまた主の手もまたあなたを強められた。それゆえに、あなたは永遠に祝福されるであろう』」(ユディト、XV, 10f.)。

 貞節なユディトのこの祝福において、マリアの祝福が単に表されているばかりでなく、この節によってわたしたちはより高い結論を出してもよいだろう。もしそのようなものが貞節な未亡人の祝福であるならば、貞節なおとめの祝福はどのようにそれ以上に遙かに大きいことであろうか? とりわけ、神を出産するに値されたそのようなおとめの祝福、このことを処女性を失うことのないような仕方で為すに値されたおとめの祝福はどのようなものであろうか? それゆえに、ベダが次のように言うのはもっともである。「彼女は、神的な種子の栄光を受け、処女性の冠を保つという両方のことがあるから、比較を絶して祝福されておられる。」しかしながら、聖書のうちにわたしたちは一人の祝福された妻、一人の祝福された未亡人、一人の祝福されたおとめを見出すということに注目せよ。祝福された妻はサラであった。彼女についてはトビト記でこう言われている。「祝福がトビアの妻の上にくだされた。」祝福された未亡人はわたしたちが指摘したように、ユディトであった。祝福された未亡人については同様にまた詩編においてもこう言われている。「わたしは祝福しながら、彼の未亡人を祝福する」。祝福されたおとめは、天使が「御身は女のうちにて祝せられた」と言いながら証言しているように、マリアであった。それゆえに、彼女は妻であったがゆえに祝福されておられる。彼女は未亡人であったがゆえにより祝福されておられる。彼女は処女の貞節を愛したがすべての者たちを越えて祝福されおられる。サラやスザンナのように、結婚において貞節であった彼女は疑いもなく祝福されておられる。ユディトやアンナのように、貞節な未亡人であった彼女はより祝福されておられる。マリアのように一人のおとめとして貞節であった彼女はとりわけ祝福されておられる。それゆえに、聖アウグスティヌスはこう言うのである。「わたしたちはスザンナを結婚の身分の貞節の模範として称賛する。しかし、わたしたちは彼女よりも未亡人アンナの徳を取る。そしておとめマリアの徳を遙かにそれ以上に称賛する。」これは真に当然で正しい。夫以外の他の男を知らなかった彼女が祝福されるべきであるということは正しい。夫の生きている間も夫の死後もどんな男も知らなかった彼女が祝福されるべきであるということはそれ以上に正しい。彼女自身の夫も、他のどんな男も知らず、しかもそのように至高の人[男]を孕まれた彼女がすべての者を越えて祝福されるべきであるということは当然であり、正しい。それゆえに、聖アウグスティヌスはこう叫ぶのである。「おお、男を知らず、にもかかわらずその胎内に男を包んだ女を越えて祝福された女よ!」

 それゆえに、このようにしてマリアは謙遜、慈愛、柔和、勤勉、寛大、真面目、貞節のために相応しく祝福されたのである。彼女は謙遜において最も傑出し、慈愛において最も豊か、柔和において最も忍耐深く、勤勉において最も熱意に満ち、真面目さにおいて最も節度あり、処女性においてもっとも禁欲的であった。それゆえに、そのように多様に祝福されているあなた、より以上に祝福されたマリア、あなたよ、あなたの祝福によってあなたがわたしたち惨めな者たちをあらゆる呪いから解放してくださるように、わたしたちを神の祝福に値する者としてくださるように、わたしたちの主イエズス・キリストによって祈ろう。アーメン。

第16章 祝福されたマリアの胎内の実[御子]は誰であり、何であったか

 あなたの胎内の実は祝福されておられる。上に、マリアがその生活の無垢のゆえにどのように正当にアヴェによって挨拶されるかということを示した。彼女の恩寵の充満のゆえに、どのように恩寵に満ちていると呼ばれるか、彼女との神の親密な現前のゆえに、どのように主が彼女と共におられるかということを示した。今や、わたしたちは彼女の御子の最も有益な卓越性のゆえに、どのように彼女の胎の実が祝福されたと呼ばれるか、を示さなければならない。それゆえに、おお、神の御子の祝福された御母よ、あなたの胎の実は祝福されている!これは預言者が次のように言っているあの実である。「主は慈悲を与え給うであろう。わたしたちの地はその実を結ぶであろう。」この節を注解しながら、ベダはこう言っている。「主は慈悲を与えられた。というのは、その唯一の生まれた御子がこの世に入ることによって、主は聖霊の恩寵によって処女の胎の宮殿を聖化し給うたからである。わたしたちの地はその実を結ぶであろう。というのは、彼女の身体を地から得たその同じおとめが、その神性において父なる神と等しく、しかし、その肉の実在において彼女と同一実体である御子を産まれたからである。」わたしたちは、この実が最もよく産まれた実、最もおいしい実、最も有徳的で最も豊かな実であるということを考察しなければならない。わたしは、よき生まれであることにおいて最も至高の、喜びにおいて最も望ましい、徳において最も有益な、その豊かさにおいて最も普遍的な実である、と言う。

 第一に、おとめの胎の実が最もよき生まれであるということを考察しよう。それはよき生まれである。というのはそれは王的な胎からの出だからである。それはおとめの胎から出ているがゆえに、よりよき生まれである。しかし、それが父の胎から、すなわち、永遠の御父の胎から出ているがゆえに疑いもなく最もよき生まれである。わたしは、主が詩編において次のように言いながら、彼に約束されたように、この実はそれが王的な胎から、すなわち、ダビデ王の胎から出ているがゆえに、よき生まれである、と言う。「あなたの胎の実からわたしは王座に置くであろう。」使徒はローマ人への手紙の中で、このことを証言している。「肉に従ってダビデの種から造られた方。」疑いもなく、この実はダビデ王のゆえばかりでなく、すべての高貴な王たち、彼の父祖たちのゆえに、よき生まれであり、そして高貴である。彼らによって、マタイによって記述された系図に従えば、次の知恵の書の言葉に従って、キリストはこの世に来られた。「彼は王座から出た」(知恵の書、XVIII, 15)。さらに、この実は、王的な胎のゆえによき生まれであるけれども、処女の胎のゆえによりいっそうよき生まれでさえある。そのことについてこう言われている。「あなたの胎の実は祝せられている。」アアロンの若枝によって表されているものに従えば、多産性の実と共に処女性の花を持ったあの胎の実である。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「キリストは一人の女から生まれた。しかし、多産性の実が処女性の花が落ちなかったそのような仕方で実った女からである。」処女的な実のこの高貴さは、それがより驚くべきことであるように、同様にまた、天が地より上にある限りで、前者よりもより卓越している。おお、真に驚くべき、聴いたことのない高貴さよ!おお、おとめからの真に高貴な出産よ!聖アウグスティヌスはこう言っている。「御子の高貴さは彼を生んだ処女性のうちにあった。両親の高貴さは御子の神性のうちにあった。」さらに、この実はそれを孕んだ王的な胎のゆえによき生まれである。その胎が処女の胎であったがゆえに、それはより以上によき生まれである。その父性のゆえにそれはすべてのうちで最もよき生まれである。わたしたちはこの実についてホセア書の次の言葉を理解することができる。「あなたの実はわたしからのものであることが分かっている」(ホセア書、XIV, 9.3 原文はあなたの、であるが、しかし、セプトゥアギンタは”彼女のもの”となっている。)それゆえに、父なる神がマリアにこう言われんことを。忠実な魂に、教会にこう言われんことを。「あなたの実はわたしから出ている。」おお、この実を生むために選ばれたマリアよ、あなたの実である。おお、この実を愛するために引き出された魂よ、あなたの実である。おお、この実に参与するために一緒に集まった教会よ、あなたの実である。疑いもなく身体において本性によって彼が引き受けられたあなたの実である。恩寵によって霊的にあなたの実である。御聖体によって秘跡的にあなたの実である。栄光によって永遠にあなたの実である。主があなたの実であるということはわたしから出ているからである。というのは、主はわたしの胎から生まれたからである。詩編にこう書かれている通りである。「昼の星の前にわたしは胎からあなたを生んだ。」聖ベルナルドゥスがこの実について次のように言っているように、おお、真に驚くべき、尊敬すべき高貴さよ、母親の胎の実が永遠の御父の御子であり、御父の御心の知恵であるとは。「おお、マリアよ、あなたはその御父が神である方の御母であることを望まれた。父性的な愛の御子はあなたの貞節の冠であることを望まれた。御父の御心の知恵はおとめの胎の実であることを望まれた。」この最もよき生まれの実の高貴さは尊厳性において無限の程度において第一と第二のものに先んじ、その至高性によってあらゆる知性を、天使の知性も人間の知性も、超え出ている。それゆえに、この実についてイザヤによって次のように言われるのはもっともである。「壮麗さと栄光において主の芽が出るであろう。地の至高の実が出るであろう。」壮麗さにおいてというのは、王的な尊厳のゆえである。栄光においてというのは、おとめの尊厳のゆえにである。永遠のあるいは父性的な寛大さのゆえにそれは至高であろう。

 第二に、おとめの胎の実がどのように最も喜ばしいかを考察することにしよう。それは香りにおいて喜ばしく外見においてより喜ばしいが、しかし、味において最も喜ばしい。その美は信仰のうちにあり、その香りは希望のうちにある。わたしたちはその美を信仰によって感知し、その芳香を希望によって、その味を愛によって感知する。わたしは、マリアの実はその甘美な芳香によって喜ばしい、と言う。それゆえに、この実の御母は集会の書と共によく次のように言うことができるのである。「わたしはぶどうの木のように香りの甘美さの実をつけた。」ぶどうの木の実はおとめの御子である。しかし、聖アウグスティヌスが言っているように、この実について次のように語ることは何と真に驚くべきことであり、驚くべきほどに真であることか。「万物の創造主が一つの被造物から生まれ、一つの偉大な泉が一つの小さな細流から流れ、万物の根がその幹から成長し、真のぶどうの木はそれ自身の枝の実である。」ぶどうの木の実はぶどう酒である。ぶどう酒の香りは喜ばしい。そのように、疑いもなくキリストの模範の芳香、キリストの慰めの芳香、キリストの約束の芳香はキリストを求めて渇く魂にとって最も喜ばしい。それゆえに、ぶどう酒の香りが渇く人を引きつけるように、キリストの芳香は走り、「あなたの後にわたしを引っ張ってください....」と言う人を引きつける。わたしたち惨めな者が走らずに這うということは、この実の甘美な香りをほとんど味わうことがないというしるしである。おお、聖ベルナルドゥスが言うように、そのように遠くからこの神的な実の香りを知覚したイサクの嗅覚をわたしたちが持たんことを。「見よ、わたしの息子のにおいは主が祝福された野原全体のにおいのようだ、と言った彼は甘美なにおいのするこの実の芳香を感知した。」さらに、この実は単に嗅覚に喜ばしいだけでなく、美と公正さにおいてより以上に喜ばしい。この点に関してレビ記において言われていることに注意せよ。「あなたは最初の日に最も美しい木の実を摘むであろう。」霊魂を照らす最初の日は信仰である。確かに、もしわたしたちが最も美しい木の実を食すべきであるならば、その最も美しい木はマリアである。実際、彼女の口の言葉の葉において美しく、彼女の心の花においてより以上に美しく、彼女の胎の最も美しい実において最も美しい。それについて聖ベルナルドゥスはこう言っている。「もし死の実が単に口に甘美であるばかりでなく、聖書に従えば、また『見るに喜ばしい』とするならば、天使たちが見ようと望むこの生命を与える実の生き生きとさせる美しさをわたしたちはどのようにそれ以上に求めるべきであろうか? 実際、キリストは美しい実、人間たちの息子たちを超えて形において美しい。」しかし、もしわたしたちがこの実の美しさをより十分に評価しようと望むならば、美しい木それ自身に依り頼もう。あの最も美しい御母御自身を探そう。雅歌のあの言葉を彼女に語りかけよう。「おお、女のうちで最も美しいあなた、あなたの愛する者のうちの愛する者はどのような様子なのか?」見よ、彼女は直ちにこう答えるであろう。「わたしの愛する者は数千人の中から選ばれて、白くて赤い。」彼、永遠の光の輝きは実際、神性において白いが、しかし、人間性において赤い。生活において白いが、受難において赤い。見よ、この実がどのように美しいかを!それゆえに、聖アウグスティヌスが彼について次のように言うのはもっともである。「天において美しく、地において美しく、御父における御言葉として美しく、御言葉として、肉として御母において美しい。」この最も美しい木、マリアは単に胎の最も美しい実を持っているだけでなく、また精神の最も美しい実をも持っている。これらの実について使徒は、ガラテア人たちに書きながらこう言っている。「霊の実は愛、喜び、平和、慈悲、忍耐、温厚、信仰、慎み深さ、禁欲、純潔である。」さらに、この実は単に芳香において喜ばしく、美においてより以上に喜ばしいばかりでなく、また味において最も美味である。このことは次のように言うあの聖なる魂によって感じられた。「わたしはわたしが望んだ方の影の下に坐った。彼の実はわたしの口に甘かった。」同様にまたそのように高いこの実がそのように甘いとしても、何の驚くことがあろうか? なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「実が高ければ高いほど、それはそれだけ甘い。」それゆえに、あなたひとりだけが最も甘美である。というのは、あなたひとりだけがいと高き御者だからである。しかし、その木が最も低いあの実はどのように最も高いものであることができるだろうか? しかし、疑いもなくマリアであるこの木は同時に最も高く、最も低いのである。彼女は尊厳性において最も高く、謙遜において最も低い。主の目には最も高く、彼女自身において最も低い。この仕方において彼女は低いが、彼女の実はそれにもかかわらず極めて甘い。それゆえに、集会の書においてはこう言われているのである。「蜂は飛ぶもののうちで小さいが、しかしその実は最も主要な甘さを持っている」(XI, 3)。それゆえに、もしマリアの実が芳香において、外見において、味において最もかんばしく、おいしいならば、それはそれゆえに、聖ベルナルドゥスが次のように言いながら確証しているように真に祝福されているのである。「あなたの胎の実は祝福されている。香りにおいて祝福され、味において祝福され、美において祝福されている。

 第三に、おとめの胎の実は最も力強いということを考察せよ。それは失われた者を救い、救われるべき者たちの数を増やし、この大きな数を保つ大きな力を持っている。わたしは、この祝福された実は救うために力強い、あるいは救いに対して強力である、と言う。この理由で、それは救いの実と呼ばれる。集会の書の作者はこう言っている。「主の畏れは平和と救いの実に満ちている智恵の冠である。」なぜ彼は平和と実、と言うのであろうか? わたしたちの救いとわたしたちの平和の実は両者をひとつにするお方イエズス・キリストである。確かに、主の畏れはイザヤが次のように言うように、この実、この平和を満たしたのである。「彼は主の畏れの精神で満たされた。」彼が救いの実と呼ばれるのはもっともである。次の言葉に従えば、彼なしにはわたしたちは救いを持たない。「他の誰のうちにも救いはない。」聖アンセルムスはこう言う。「おお、おとめよ、あなたが生んだ方以外には救いはない。」 それゆえに、おお、マリアよ、あなたは真に救いの木である。あなたは聖ベルナルドゥスが言うように、世界のために救いの実を生んだのである。「おお、すべてのものよりもいっそう貴重な、すべてのものよりもいっそう聖なる、真に天上的な植物よ!おお、救いの実を懐胎するのに唯一相応しかった真に一本の生命の木よ!」しかし、悲しいかな、この生命を与える実を死の実とする多くの人々が存在する。アモス書において言われているように、彼らはそのように甘いこの実をいわば彼ら自身のための永遠のにがよもぎに変える。「あなたたちは審判を苦さに、正義の実をにがよもぎに変えた。」さらに、この実は単に救う力でばかりでなく、増やす力で極めて強力である。もしわたしたちが小麦はキリストの身体であり、油はキリストの霊魂、ぶどう酒はキリストの神性であると言うならば、わたしたちはおそらくそれを次のように書かれているあの言葉によってよく説明することができるであろう。彼らの小麦の実、ぶどう酒、油によって彼らは増やされる。」わたしたちは小麦の実のうちにキリストの身体の秘蹟を、ぶどう酒の実のうちに秘蹟におけるキリストの血を、油の実のうちに聖霊の塗油を見ることができる。この実によって息子たちが教会に増やされ、教会は息子たちにおいて増やされるのである。なぜなら、教会の胎のすべての息子たちは、詩編においてこう言われているように、マリアの遺産であり、胎の実だからである。「見よ、息子たちは主の遺産であり、胎の実である。」このことについて聖ヒエロニムスはこう言っている。「おとめから生まれた主御自身は、その引き受けた人間性がこの報賞、すなわち主の子らと呼ばれる民が主の遺産であるということ、を獲得した胎の実となった。」さらに、この祝福された実は単に贖いに属する徳において強力であるばかりでなく、単に増やす力によってよりいっそう強力であるだけでなく、またその保つ徳によって最も強力である。この実についてわたしたちは箴言の次の言葉を理解してもよいだろう。「正しい者の実は生命の木である。」なぜなら、地上の楽園の中央にあった生命の木が自然の生命を保つ力を持っていたように、疑いもなく教会の楽園の中央におられる生命の木、実であるマリアの胎の実は恩寵の生命を保ち、天上の生活の楽園の中央において栄光の生命を保つからである。それは恩寵の生命を罪の腐敗から、栄光の生命をあらゆる悲惨の腐敗から保ち、そのように、ベダがうまく次のように言っているように、わたしたちがアダムとエヴァの実において失ったものをマリアの実において受け取るようになるのである。「わたしたちがアダムにおいて失った永遠の遺産の野における不滅の種の実をわたしたちが受け取った彼女の胎の実は祝福されている。」それゆえに、マリアの実が霊的に救いを与えることによって、救われるべき人々を普遍的に増やすことによって、増やされた人々を永遠に保つことによって、最も強力であらんことを。

 第四に、おとめの胎の実がどのように最も豊富であるかを考察せよ。実際、それはそのように豊富なので、豊富に霊魂を新たにすることができる。それは非常に豊富なので、すべての者のために十分であることができる。それは非常に豊富なので、失敗することは決してできない。第一にそれは豊富である。第二にそれはよりいっそう豊富である。第三にそれはすべてのうちで最も豊富である。わたしは、この祝福された実はそのように豊富なので、全世界そしてあらゆる被造物が満足させることができない理性的霊魂を飽き飽きするほど新たにすることができる、と言う。それゆえにこう書かれているのである。「あなたの業の実で地は満たされるであろう」(詩編、CIII, 13)。おお、主よ、マリアの実はあなたの業の実である。実際、それはあなたの業であり、諸存在の業、死すべき者たちの業ではなく、あなたの業である。おお、主よ、その業はそのように偉大な力の賠償である。あなたの業はガブリエルの使命である。聖霊の出来事はあなたの業である。御言葉の肉との結合はあなたの業である。おお、主よ、この実はそのようなあなたの業に属する。というのは、そのような業からこの実は、いわば花から出て来るように出て来たからである。それゆえに、これらの花は適切にナザレトに現れたのである。ナザレトは「花」として解釈される。なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言っているからである。「ナザレトにおいてキリストが生まれるということが告知された。というのは花からは実の到来が希望されるからである。」この実で満たされる地は人間本性である。それは地のように、常に有益な植物あるいは有害な植物、すなわち、思いと欲望、のいずれかを芽生えさせる準備ができている。わたしは、この地は、こう書かれているように、マリアの実で満たされる、と言う。「あなたの栄光が現れるときわたしは満足させられるでしょう。」栄光においてこの実を享受している人々が満足させられるとしても、ここ地上で悲惨のうちにある人々さえそれを信じることに満足するとき、何の驚くことがあろうか!それゆえに、カッシオドルスはこう叫ぶのである。「おお、人類を甘美な信念において満足させたあの驚くべき実よ!」それを味わわないことは罪を犯すことである。それゆえに、この実がどのように豊富であるかを見よ。それは全世界が満足させることができない霊魂を満足させることができるのである。さらに、この実、この祝福された実は単にそれが飽くことを知らない霊魂を完全に新たにすることができるほどに豊富であるばかりでなく、同様にまたそれが救われるべき人々の数全体のために全く十分であるほどに豊富である。それゆえ、それはそれについて次のように言われるあの栄光の木の実なのである。「その実は極めて多い。そのうちにはすべての人々のための食物があった」(ダニエル、IV, 9)。確かに主において生きるすべての人々、レビ記において美しく表されているように、再び立ち上がる人々のための豊富な食物があった。そこではこう言われている。「わたしはあなたに第6年目にわたしの祝福を与えよう。それは3年間の実をもたらすであろう」(レビ記、XXV, 21)。第6年目は第6の時代を表す。第7年目は第7の時代を表す。第8年目は第8の時代を表す。この第6年目は使徒に従えば、充満の年である。「しかし、時が満ちたとき、神はその御子を遣わされた....」それゆえに、この年は実を、神の御子をもたらしたのである。−そのように豊富なので、それによって、生きている者の第6年目に、死んでいる者の第7年目に、再び復活する者たちの第8年目に、わたしたちはわたしたちの霊魂のすべての実を持つそのような実をもたらした。それゆえに、その実は諸霊魂の普遍性にとって十分である。というのはすべての被造物にとって十分であるのは主だからである。これは実際、聖アウグスティヌスが次のように言いながら証言しているように、マリアの胎の実である。「このおとめは、彼女がその胎の実として主を持つという例外的な恩寵によって先導され、満たされていた。すべての事物は初めから彼を彼らの主として持っていたのである。」さらに、この祝福された実は単に、それがリフレッシュされるべきすべての魂を一杯に満たすことができるというこのことにおいて豊富であるばかりでない。それは単に、それがリフレッシュされるべきすべての魂を満足させることができるというこのことにおいてよりいっそう豊富であるばかりではなく、また、それが、エゼキエルの次の言葉に従えば、諸々の霊魂と天使を満足させることにおいて決して失敗しないというこのことにおいて最も豊富である。「その実は決して絶えることがない」(エゼキエル、XLVII, 12)。おお、無限の豊富さよ!おお、何の不足も知らない豊富さよ!この実の豊富さは決して絶えることができない。なぜなら、それは永遠に最も豊かに祝福されているからである。聖ベルナルドゥスはこう言っている。「あなたの胎の実は祝福されている。彼は永遠に祝福されている。」このように、この祝福された実は豊富である。なぜなら、それは完全な満足に至るまで新たにするからである。それはよりいっそう豊富である。というのはそれはそれで養われるすべての数の人々にとって十分だからである。それは最も豊富である。とうのはそれはそれを食する人々を決して絶やさないし、永遠にわたって決して絶やさないからである。おお、読者よ、おお聴衆よ、あなたは今、マリアの胎の祝福された実がどのように極めてよき生まれであるか、どのように極めて美味であるか、どのように極めて豊富であるかを見る。わたしは、あなたがそれが王的な胎から出ているがゆえに、どのようによき生まれであるか、それがおとめの胎から出ているがゆえに、どのようによりいっそうよき生まれであるか、その御父の起源からどのように最もよき生まれであるかを見る、と言う。あなたは同様にまた、それがにおいにおいてどのように喜ばしいか、美においてどのようによりいっそう喜ばしいか、味においてどのようにすべてのうちで最も喜ばしいかを見る。あなたはそれがどのように癒やすために強力であるか、増やすことにおいてどのようによりいっそう強力であるか、その永遠性においてどのように最も強力であるかを見る。さらに、あなたはそれが満足させるためにどのように豊富であるか、その普遍性においてどのようによりいっそう豊富であるか、その永遠性においてどのように最も豊富であるかを見る。この実のこれら十二の条件あるいは性質は、天使がヨハネに十二の実をつけた生命の木を示したという黙示録において言われているあの十二の実によって表されるであろう。この実、生命の実、生命の木はすべての人々の生命のために産み出されたのである。それゆえに、すべての人々が次の詩編の言葉においてこの実の造り主を賛美することは相応しく、正しいことである。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。大地は作物を実らせました」(詩編、LXVI, 7)。おお、この祝福された実の祝福された御母よ、同じ実、わたしたちの主イエズス・キリスト、御子によってわたしたちがこの実を永遠に楽しむことができますように。アーメン。

第17章 祝福されたマリアの胎内の御子は誰に属するか、御子は誰に帰せられるか

 「御胎内の御子(実)は祝せられ給う。」マリアの胎の実がいかなる種類のものであるか、いかに偉大であるかを少しばかり見た後に、わたしたちは今やそれが誰に属し、誰に帰せられるのかを見ることにしよう。なぜなら、この実は単に胎の実であるばかりでなく、精神の実であるからである。それはマリアだけの胎の実である。しかし、それは忠実な霊魂の精神の実である。すなわち、肉に従って胎の実であり、信仰によって精神の実である。それゆえに、聖アンブロシウスはこう言うのである。「肉に従って、たとえキリストの御母は唯一であるとしても、それにもかかわらず、精神に従って、キリストはすべての者の実である。なぜなら、あらゆる霊魂は、それが無原罪で悪徳から免れてさえいるならば、神の御言葉を懐胎するからである。」それゆえに、聖アンブロシウスに従えば、精神のこの実を持とうと望む者はすべての悪徳から解放されているべきである。なぜなら、キリストは有徳的な精神の実であって、悪徳を持った精神の実ではないからである。七つの大罪によって悪しき精神の実ではなくて、七つの主要な悪徳に対抗する有徳的な実である。それゆえに、この実は高慢に対抗する謙遜な者の実であり、ねたみに反対する兄弟愛を所有する人々の実、怒りに対抗する柔和な者の実、怠惰に対抗する勤勉な者の実、貪欲に対抗する寛大な者の実、貪食に対抗する節度ある者の実、肉欲に対抗する貞節な者の実である。

 第一に、この祝福された実がどのように高慢に対抗する謙遜な者の実であるかを見ることにしよう。このことに関してわたしたちは列王記において言われていることを理解してもよいだろう。「ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ」(列王記下、XIX, 30)。祝福されたおとめマリアはユダの家であった。あらゆる忠実な魂はユダの家に属する。前者は身体において、後者は精神において。前者は血によって、後者は信仰によって。それゆえに、単にマリアばかりでなく、上に実を結ぶことを望んでいるあらゆる忠実な魂は下に根を張るべきである。根先を伸ばす根は謙遜である。それは根の仕方に従って、常に最も低いところへ向かう。次の集会の書の言葉に従えば、木が高ければ高いほど、それだけその根は深くなければならない。「あなたが偉大であればあるほど、すべての事柄においてそれだけより謙遜であれ。そうすればあなたは神の前に恩寵を見出すであろう。」同様にまた、木が高ければ高いほど、もし根が大きなそして深い謙遜のうちにしっかりと固定されていないならば、高慢の風によって根こぎにされる危険はそれだけ大きくなる。それゆえに、この若枝の根がどのように深く(謙遜のうちに)固定されているかを熟考することにしよう。その若枝はそのように至高の高さにまで成長し、天使たちよりも高い実、実際聖アンブロシウスがそれについて次のように言っているあの実を結ぶに相応しかったのである。「この実はイザヤが次のように言っている若枝の花である。「エッサイの根から一本の若枝が生え出る。花がその根から昇って来るであろう。」謙遜の根を深く下ろした魂はすべて上に向かって実を結ぶに値するであろう。わたしは高い理解において、高い愛情において上に向かって、観想において上に向かって、愛において上に向かって、と言う。このようにこの祝福された実は謙遜な者の実である。それゆえに、マリアはすべての人類を越えて、最も相応しい方であった。というのはすべての者のうちで彼女は謙遜のうちに最も深く根ざしておられたからである。それゆえに、聖ベルナルドゥスが彼女について次のように言うのももっともである。「おお、おとめ、至高の若枝よ、あなたはあなたの聖なる頂上をどの高さにまで上げられるのであろうか!威厳の王座にまでさえ[上げられるのであろうか]。というのは、あなたは謙遜の根を下まで深く下ろされているからである。」

 第二に、この祝福された実がどのように神を愛し、ねたみを逃れる人々の実であるかを見ることにしよう。このことについてわたしたちは詩編作者の次のことばを理解することができる。「主の遺産、胎の実を見よ。」この節を注釈しながら聖アンブロシウスはこう言っている。「主の遺産は息子たちである。その報酬はマリアの胎から出て来た主の実である。」それゆえに、多くの息子たちは胎の祝福された実であるあの唯一の御子の報酬である。しかし、彼はどこであるいはいつその報酬に値されたのか? 疑いもなく、彼は産まれてきたこと、まぐさおけの中に横たわったことにおいて報酬に値された。彼は割礼を受けることを耐えられたことにおいて、教えることにおいてそれに値された。彼はわたしたちの救いの業を為されることにおいてそれに値された。彼は死ぬことによってそれに値された。わたしは、彼はわたしたちのために33年間奉仕されることにおいてそれに値された、と言う。そしてこのことのゆえに、彼は次のように言われながらこの報酬をまさに要求される。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え」(ゼカリア、XI, 12)。しかし、疑いもなく、胎の実の報酬である者は単に息子たちだけではなくて、最も聖なる胎のこの実は彼自身あらゆる養子の報酬である。これらの息子たちは誰か? 聴き、また聞きなさい。彼らの父を愛することは息子たちに属し、その息子たちを愛することは父に属する。それゆえに、神を愛し、隣人を愛する者たちは神の子らであり、教会の子らである。それゆえに、使徒はエフェソの人たちにこう言うのである。「あなたたちは、いと愛する子らとして、神の模倣者でありなさい。そして愛のうちに歩みなさい。」聖マタイにおいてはこう言われている。「敵を愛し、あなたたちを憎む者たちに善を為しなさい。あなたたちを迫害し、中傷するする人々のために祈りなさい。あなたたちが天にましますあなたたちの御父の子となるためである。」それゆえに、これらの人々のようなそのような息子たち、すなわち、神を愛し、人々を愛する者はこの祝福された胎の実の報酬であり、これらの人々のようなそのような人々の報酬はこの祝福された実それ自身である。それゆえに、このようにこの実が愛する者たちの実である。マリアはすべての人々を越えてこの実に最も相応しかった。というのは、彼女は慈愛において最も愛情深いからである。それゆえに、聖アウグスティヌスがこう言うのはもっともである。「マリアのすべてのはらわたが慈愛の愛の中へ移っていたということを誰が疑うことができるであろうか? というのは彼女の内部で神であるあの愛が9ヶ月の間とどまったからである。」

 第三に、マリアのこの実がどのように柔和で、忍耐強く、怒りを避ける人々の実であるかをみることにしよう。ヨブ記にはこう言われている。「神に従い、神と和解しなさい。そうすればあなたは最もよい実を得るであろう」(ヨブ、XXII, 21)。従うこと、和解することは柔和な人、忍耐強い人に属する。柔和で忍耐強い人々はまさにこれらの徳によって最良の実を得るのである。しかし、精神の最良の実は愛である。それについて使徒はこう言っている。「ところで、霊の実は....」ここで列挙されている実は実際、良い実であるが、しかしよりいっそうよい実がある。第一の実は最善の実、すなわち、愛である。それは聖アウグスティヌスが言っているように、それによって他のすべてのものがよいものである実である。胎の最良の実はキリストである。なぜなら、誰であれ胎において聖とされる者は胎の最良の実だからである。それゆえに、エリザベトの胎の実−ヨハネはよい。アンナの胎の実−マリアはよりいっそうよい。マリアの胎の実、イエズスは最もよい。兄弟よ、この実が誰であるか、いかなる地からそれは産み出されたのかを考えよ。そうすれば、あなたはそれが最もよい実であるということを見るであろう。聖ヒエロニムスはこう言っている。「その実は一人のおとめからの”おとめ”、はしためからの主、人間からの神、御母からの御子、地からの実である。」おお、幸いな人々よ、かれらはあらゆる種類の試みの訓練においてそのように忍耐強く、そのように正しくそのようによく準備された魂を持ち、その結果このことのゆえに彼らは最も正しく忍耐の実を、それについて聖パウロがヘブライ人たちへの手紙の中で次のように言っているあの最も平和的な実を刈り取るのである。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ、XII, 11)。彼らの忍耐を試された後に、彼らは、聖ルカに従って、最良の実を刈り取る。「彼らは忍耐において実をもたらす。」この祝福された実が忍耐強い者と柔和な者の実であるように、マリアはすべての人々を越えてこの実に最も相応しかった。というのは彼女はすべての者を越えて最も柔和だったからであり、その結果外観においても、言葉においても、行為においても彼女はほんのわずかの我慢できないしるしも決して示したことがなく、聖アンブロシウスがこう言っているように、最も忍耐強かったからである。「マリアの外見には何の恐ろしいところもなく、彼女の言葉には何の冗長なところもなく、彼女の行為には何の不釣り合いなところもなかった。」

 第四に、マリアの実がどのように働き、そして勤勉であり、怠惰を逃れる人々の実であるかを見ることにしよう。このことについては知恵の書に次のように言われている。「よき業の実は輝かしい。」それゆえに、この実は、蜂が蜜の実を探すように、労働によって探されるべきである。それは集会の書が次のようにいっているあの実である。「飛ぶもののうちで小さいものは蜂である。彼女の実は最初の甘さを持っている。」蜂が蜜の実を求めて、どのように庭から庭へ、花から花へ、木から木へ飛ぶかを考えよ。そのように、あなたは黙想において、欲望において、諸徳の熱心な模倣においてそうしなさい。正しい者、主として完全な者の模範についてあなた自身を訓練しなさい。わたしは、庭から庭へ、すなわち、国から国へ飛べ、木から木へ、すなわち、一つの正しい魂から他の正しい魂へ、花から花へ、すなわち、一つの徳から他の徳へ、一つのよい模範から他のよい模範へ走れ、と言う。なかんずく、その中にあなたが神的蜜の実全体を見出す花、聖アンブロシウスがそれについて次のように言っている花と実の両方であるあの花について思いめぐらせ。「マリアの花はよい木の実のように、徳におけるわたしたちの進歩のために今やわたしたちのうちに実を結ぶキリストである。」

 この実が何であれ何らかの労働の実ではなくて、ただよい業の実だけであるということに注意せよ。それは、わたしたちが知恵の書のうちに次のように読むあの労働の実ではない。「知恵と規律を拒否する者は不幸である。彼らの希望は空しく、彼らの労働は実りがなく、彼らの働きは利益がない」(知恵の書、III, 11)。このように、この祝福された実はよいものにおいて彼ら自身を訓練し、怠惰を逃れる人々の実である。それゆえに、マリアはすべての人類を越えてこの実に最も相応しかった。というのは、すべての者を越えて彼女は、ベダがマグニフィカトに関して説教するに際して次のようなことばを彼女の口から語らせるときに示しているように、よいものにおいて最も勤勉だったからである。「わたしは感謝の賛美においてわたしの魂の愛全体を捧げます。わたしのすべての生活、わたしが感じるすべて、主の偉大さを観想するに際してわたしが識別するすべて、主のおきてを守る際にわたしが採用するすべてを捧げます。」

 第五に、マリアの実がどのように、寛大であり、貪欲を逃れる人々の実であるか、−主として雅歌における次のような言葉に従えば、この実のためにすべてのこの世的な事物を断念するあの寛大な霊魂の持ち主の実であるか、を見ることにしよう。「番人たちはそれぞれのぶどうに代えて銀一千を納めます」(雅歌、VIII, 11)。注解者はこう言う。「すべてのものを捨てることによって」。さらに彼は言う。「『一千』によって完成が、『銀』によってあらゆるこの世的な事物が意味されている。」それゆえに、キリストのためにあらゆるこの世的な事物を捨てる者は誰でも、いわばこの実のために銀一千を納めるのである。しかし、すべての事物を捨てることによって一千を喜んで納めようとしない者は、少なくともこの実のために何かあるものを、彼が慈しみの実を結ぶことによって実を結ぶオリーブのようなものであるように、貧しい人を助けることによって、与えるようにさせよう。慈しみの最高の実は最高の慈しみ、すなわち、神である。それゆえに、慈しみのこの実を最も豊かに結んだマリアは野における一本の実を結ぶ美しいオリーブの木のようなものであった。聖ヨハネ・ダマスケヌスがこう言うのはもっともである。「主の家に植えられ実を結ぶオリーブの木のように聖霊によって養われたマリアはあらゆる徳の住処となった。」悲しいかな、次のように言われている貪欲な者たちのたましいは慈しみに満ちた者、この世的な事物の愛から離れた人々の慈しみのこの実からはどのように遠ざかっていることか。「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(ルカ、VIII, 14)。同様にまた集会の書においてもこう言われている。「富を愛する者はそれらからどんな実も刈り取らない」(集会の書、V, 9)。このように、この祝福された実は寛大な人に、地上的な事物を軽蔑する人々に属する。それゆえに、マリアはすべてに越えてこの実に最も相応しい。というのは彼女は、聖ベルナルドゥスが次のように言うように、この世的な事物の軽蔑において最も寛大だったからである。「彼女の民の間でマリアが持っていた名誉が何であれ、彼女の父の家の富について持つことができた何であれ、彼女はキリストを得るためにはそれをすべて糞土と考えた。」

 第六に、マリアの実がどのように節度があり、貪食を逃れる人々に属するかを見ることにしよう。この点においてわたしたちはソロモンによって言われていることに注意しなければならない。「口の言葉が結ぶ実によって人は良いものを享受する」(箴言、XIII, 2)。

 マリアの実は口の実であると言うことができる。というのは、それは単に唇の祈りによって、教えによってばかりでなく、また節制によっても獲得されるからである。この実のためにこの世的なよいものを慎む人はこの実で、霊的な事柄で満たされる。身体の飢えと渇きにおいて我慢するが、しかし、この実に対するよりいっそうの熱心さで霊的に飢え、渇く人はこの実のよいもので満たされるであろう。それゆえに、聖ベルナルドゥスはこう言うのである。「これはよい実であり、それは正義に飢え渇く霊魂にとって肉であり飲み物である。」それはこの世でこの実に対して渇く人々にとってよい。というのは、彼らは、救世主のあの言葉に従って、天においてそれで満足させられるだろうからである。「今、渇いているあなたたちは幸いである。なぜならあなたたちは満たされるだろうからである。」ここでは祝福はこの実のために節制する人のためであり、あそこではこの実を食べる人々のためであろう。それゆえにイザヤはこう言うのである。「しかし言え、正しい人にそれはよい、と。なぜなら、彼は自分の行いの実を食べるであろうから」(イザヤ、III, 10)。このようにこの祝福された実は節度があり、貪食を逃れる人々に属する。それゆえに、マリアはすべての人類を越えて、この実に最も相応しい。なぜなら、彼女は最も節度があり、貪食を恥じたからである。それゆえに、聖ヨハネ・クリソストムスがこう言うのはもっともである。「マリアは決して大食らいでもまた酒に溺れる人でもなかった。彼女は軽率でなかったし、また軽薄でもなかった。声高に話す人ではなかったし、また悪口を愛する人でもなかった。これらの事柄は常に不摂生の結果である。」

 第七に、マリアの胎の実がどのように肉欲を逃れる貞節で禁欲的な人に属するかを見ることにしよう。このことについて智者はこう言っている。「子を産めない体でも身を慎み、不義の関係を持たない女は幸いである。神の訪れのとき、彼女は豊かな実りを受ける」(知恵の書、III, 1)。わたしは、恩寵による訪れのとき、しかし、栄光による訪れのときにはよりいっそうそうである、と言う。真に、最も貞節な胎、おとめの胎の実は正当に貞節である者の実である。それゆえに、おとめの祝福された実によってすべての信者が一般に祝福されるとき、貞節な人は正当に主によって特別に祝福される。同様にまた聖ベルナルドゥスが言うように、主によって貞節な人の祝福された女王はすべての者を越えて祝福される。「あなたの胎の実は真に祝福されている。彼においてすべての民が祝福される。彼の充満からあなたはまた他の人と共に祝福を受け、また他の人とは異なった仕方で受ける。」おとめの実に参与しない快楽的な人は厄いである。おとめの実を結ぶことができる枝を持たない惨めな者は厄いである。それゆえに、姦通の罪を犯した女についてこう言われているのである。「彼女の枝は実を結ばないであろう」(集会の書、XXIII, 35)。それゆえに、この祝福された実は肉欲を逃れる貞節な人に属する。それゆえに、マリアはすべての者を越えてこの実に相応しかった。というのは、彼女は聖クリソストムスが正当にこう言うように、最も貞節だったからである。「おお、マリアの言い表しがたき称賛よ、ヨセフは彼女の胎よりも彼女の貞節によりいっそう信頼し、また本性によりも恩寵によりいっそう信頼した。彼はマリアが罪を犯すことができるということよりもむしろ一人の女にとって男なしに懐胎することが可能であると信じた。」おお、最も徳のある者として、真に神的な実に最も相応しかった最も幸いなマリアよ、わたしたちの徳によってわたしたちがこの実、あなたの御子、わたしたちの主イエズス・キリストに達するに相応しい者となりますように、助けてください。アーメン。

第18章 マリアの胎内の御子の効果、十二の利益は誰に必要であるか

 御胎内の御子も祝せられ給う[あなたの胎の実は祝福されておられる]。わたしたちはマリアの胎の祝福された実がいかなる本性、いかなる性質のものであるかについて見てきた。わたしたちはまたそれが正当に誰に属するのかをも見てきた。今やわたしたちはそれが誰のために、またいかなる効果のために必要であるかということを見なければならない。なぜなら、この実は悪に対抗する薬であり、それは善のために必要だからである。それはその六つの効果において悪に対抗する薬として必要である。それは他の六つの効果において善の達成のために必要である。なぜなら、この祝福された実は非常に有益な十二の効果、あるいは注目すべき利益を持っているからである。そのためにすべての人々は、詩編において次のように書かれていることに従って、正当にその効果を称賛する。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。大地は作物を実らせました」(詩編、LXVII, 6-7)。この実の第一の効果は大罪のあがないである。第二は最高の敵意の宥和である。第三は原罪の傷の癒やしである。第四は精神の飢えの満たしである。第五は裁き手の怒りを避けることである。第六は地獄の苦痛からの解放である。第七はこの世的なよいものの断念である。第八は理性的霊魂を豊かにすることである。第九は霊的生活の完成である。第十は普遍的教会の増加である。第十一は天上界の破滅の再統合である。第十二は永遠の栄光の永続化である。

 それゆえに、第一に、マリアの祝福された実は大罪のあがないのために必要である。このことについてわたしたちはイザヤ書においてこう言われていることを理解することができる。「これが、罪が取り除かれるための実全体である」(イザヤ、XXVII, 9)。実全体によってわたしたちは聖ベルナルドゥスが次のように言っているその方を理解してもよいだろう。「生命の実すべてが十字架にかかる。というのは生命の木それ自身が楽園の中央にあるからである。」それゆえに、あらゆる実は実全体、主の全体である。この実は人間の罪が取り去られるために与えられ、産まれ、苦しみを受けられた。なぜなら、天使が言ったように、「彼はその民を彼らの罪から救われた」からである。彼はまたヨハネがこう語った方である。「見よ、世の罪を取り去り給うた神の子羊を!」この子羊は真に世の罪を、大罪と小罪の両方を、取り除かれた。この実によって大罪から清められる者は同様にまた、次の言葉に従えば、小罪からも清められるであろう。「実を結ぶあらゆる者は、彼がよりいっそう実をもたらすように、清めるであろう。」

 第二に、マリアの祝福された実は神と人間、天使たちと人間たちの間に存在した重大な敵対関係の除去のために必要である。イザヤはこう言っている。「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも」(イザヤ、LVII, 19)。マリアの胎の実はマリアの唇の実と呼ばれてもよいであろう。というのは、「見よ、主のはしためを、あなたのお言葉の通りにわたしに成りますように」という彼女の唇から蜜の流れる言葉が溢れ出ている間に、彼女は直ちに彼女の最も甘美な実[である御子]を懐胎されたからである。雅歌において言われているように、おお、真に蜜の流れる唇よ。「あなたの唇は[蜜の]滴る蜂の巣のようである。」わたしたちの主イエズス・キリストであるこの実を造られたのは、あるいは(彼において)平和を造られたのは、御父なる神であった。わたしは、罪によって遠ざかっている人に対して、彼が恩寵によって近くなるように、平和と言う。恩寵によって近くにいる人に対して、彼が罪によって遠ざけられることがないように、平和と言う。なぜなら、使徒が言っているように、主は「両者を一つにするわたしたちの平和」だからである。この実は同様にまたこの世において遠くに離れている人間と天において近くにいる天使たちとの間を和解させられた。なぜなら、キリストは使徒の次の言葉に従えば、十字架の晒し台の上で両者を和解させられたからである。「その十字架の血によって、天にあるものと地にあるものの両方を和解させ....」。それゆえに、この実は人間から人間への平和、人間から天使への平和、神と人間との間の平和である。この実によって、神御自身、平和を与える実が神そして人間の両者であるとき、人間が神と和解させられるとしても、何の驚くことがあるだろうか? ベダは次のように言いながら、このことを証言している。「わたしたちの大地はその実を結ぶであろう。というのは、その身体を大地から得たおとめマリアは、実際神性において御父と等しい、しかしその肉の実在において彼女自身と実体を同じくされる御子を産まれたからである。」

 第三に、マリアのこの祝福された実は原罪の傷の癒やしのために必要である。なぜなら、盗賊たちの間に落ちた人間はひどく痛む傷を、否、多くのひどく痛む傷を負ったからである。一方原罪によって人間は真理に対してそのように盲目に、善においてそのように弱く、そのように悪に陥りやすくなった。しかし、これらの傷はこの実によって癒やされる。この世においては実際それらは単に部分的にのみ恩寵によって癒やされる。しかし、未来の生においてはそれらは栄光において完全に癒やされるであろう。それゆえに、黙示録において次のように言われるのはもっともである。「天使はヨハネに毎月その実を結び、木の葉が民の癒やしのためであった生命の木を示した。」生命の木は生命そのものの御母であるマリアである。あるいは生命の木は十字架の木である。あるいはさもなければ、その木は生命の創造主であるイエズス・キリストである。彼はまた生命の実でもある。これらの癒やす葉は啓発する言葉と行為である。葉でさえ癒やすものであるとすれば、実はどのようにそれ以上にもっと癒やすもの、生命を与えるものであることであろうか? それゆえに、この実によってわたしたちが癒やされるように、その木に近づこう。わたしは、マリアに近づこう、と言う。聖アンセルムスと共に祈ろう。「おお、貴婦人よ、聴いてください。罪人であるあなたのしもべの魂を、全能の御父の右に座り給うあなたの胎の祝福された実の徳によって癒やしてください。」

 第四に、マリアの祝福された実は、しかるべき栄養の欠如のために神の動物たちが滅びることのないように、霊魂の飢えあるいは飢餓の救助のために必要である。それゆえに、預言者ヨエルが次のように言ったのはもっともである。「その地方の動物たちよ、恐れるな、なぜなら、砂漠の美しい場所が花咲き、木はその実をもたらしたからである。」それは砂漠あるいは荒野である。というのはそれは耕さずに芽を生え出させ、動物たちのために食物を産み出すからである。この砂漠はマリアを意味するであろう。彼女は婚姻という耕作なしにすべての信者たちの食物である御子を産まれた。それゆえに彼女についてはこう言われ得るのである。「荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった」(エゼキエル、XXXVI, 35)。荒れ果てていたこの土地の美しい開花は天上的な望みの花、よき業の草、諸々の徳と賜物の美しい花、有益な言葉の愛すべき葉、すべての正しい者の食物であるマリアの胎の真に美しい実である。マリアは同様にまたこの実のなる木である。それについてはこう言われている。「そして木はその実を結んだ」(ヨエル、II, 22)。おお、真にすばらしい実よ、聖ベルナルドゥスがこう言うように、それによって霊魂たちの飢えと渇きは和らげられる。「飢え渇く霊魂たちにとって食物であり、飲み物であるよい実」。それゆえに、神の動物たちよ、恐れるな。あなたたちが食物の欠乏から滅びるだろうと恐れるな。というのは、あなたたちは砂漠に十分な牧場を持ち、木の上に十分な実を持ち、まぐさおけに十分な食べ物を持つからである。」なぜなら、聖ベルナルドゥスはこう言うからである。「すべての信徒たち−いわば、重荷を負った動物たち−が彼らの肉のために元気回復を見出すようにと、子どもはまぐさおけの中に横たわっている。」聖アウグスティヌスはこう言っている。「おお、その中に動物たちの食べ物が、しかしまた天使たちの食べ物が横たわっている輝くまぐさおけよ!」

 第五に、マリアの祝福された実は審判者の怒りを避けるために必要である。あらゆる正しい人がそれによって審判者の怒りを逃れるということを当然持つのと同じ仕方で、その怒りを不正な者は皆恐れなければならない。それゆえに、詩編においてはこう言われているのである。「実際、もし正しい者にとって実りがあるならば、神は実際彼らを地上において裁かれる....」彼らを、というのは不正な者のことである。なぜなら、神は不正な者を地上において裁かれるからである。一方において、審判において正しい者が空中にあるが、しかし、不正な者は地上にとどまるであろう。というのは彼らは神の代わりに地上的な事柄に這いつくばることを好み、その結果彼らは真にこう言うことができるからである。「わたしの魂は敷石に這いつくばった。」そこでは主は実際正しい者にとって甘美な実であるが、しかし不正で邪悪な者には厳格な審判者であろう。それゆえに、そのように甘美な実を、アモス書において次のように言われているように、彼ら自身のために裁きの毒草に変える者は厄いである。「お前たちは裁きを苦さに、正義の実をにがよもぎに変えた」(アモス、VI, 12)。正義の実は正しい者の実である。正しい者はマリアの実である。彼女について詩編作者は真にこう言っている。「正しい者は実を結ぶ。地はおとめである。というのは真理が地から生え出たからである。」

第六に、マリアの祝福された実は地獄の苦しみ、あるいは永遠の死を避けるために必要である。そのことに関してわたしたちは列王記下の中に見出すことを言うことができる。「わたしは....お前たちを....穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に連れて行く。こうしてお前たちは命を得、死なずに済む」(王下、XVIII, 32)。全霊をあげて彼女に回心するすべての者はマリアの地、あるいは教会の地へ連れて行かれるであろう。この地はたいそう豊沃で、パン、ぶどう酒、油、蜂蜜の実、すなわちわれらの主イエズス・キリストを実らせる。なぜなら、キリストはわたしたちにとって強めるパンの実であり、欠陥あるいは失敗を敗走させられるからである。彼はわたしたちにとってすべての完成のためのブドウ酒の実であり、知性を照明する油の実である。彼はさらにわたしたちにとってわたしたちの愛情の中に甘さをしみ込ませる蜂蜜の実である。この実によって、愛する者よ、あなたは真に生きるであろう、そして死なないであろう。この実の大地は祝福されよ。とりわけこの実そのものは祝福されよ。聖アンセルムスが次のように言うように、その実によってわたしたちはそのように多くの悪から救われたのである。「わたしはわたしの主である神の御母に相応しいどのような賛美を捧げようか? その方の豊沃によって捕虜であるわたしは自由の身とされ(贖われ)、その方の御子によってわたしは永遠の死から解放され、その方の御子によって失われた者であるわたしは追放から回復されてわたしの祖国へ連れ戻されたのである。」女のうちにて祝せられた方、彼女の胎の祝せられた実であるキリストはこれらすべてのものを洗礼の再生においてわたしに与えられた。それゆえに、この実から遠ざかっているすべての者に禍いあれ。なぜなら、こう書かれているからである。「よい実を結ばない木はすべて切られ、火の中へ投げ込まれるであろう。」

第七に、マリアの祝せられた実は地上的な善の断念あるいは軽蔑のために必要である。それゆえに、雅歌においてこう言われているのである。「人はこの実のために銀一千を与えるであろう。」すなわち、彼はすべての事物を捨てる。なぜなら、注解書が言うように、一千は完全を意味し、銀はすべての地上的な物を意味するからである。それゆえに、キリストのためにすべての地上的な豊かさを断念する人は言ってみればこの実のために銀一千を与え、また箴言の次の言葉を語りながら、この実がどのようにたいそう貴重であるかを根気よく注意する人は正当にこの実のためにすべての地上的な事物を軽蔑するのである。「わたしの実は黄金や宝石よりもよく、わたしの宝石は選ばれた黄金よりもよい」(箴言、XVIII, 20)。彼は真にこのような男らしさを持つ人である。この人はこの実のために単に持ち物や豊かさばかりでなく、また名誉や尊厳をも、次にように言いながら男らしく軽蔑すべきである。「わたしの甘くて味のよい実を捨てて、木々に向かって手を振りに行ったりするものですか」(士師記、ix, 11)。最も甘いのはキリストの実であり、愛である。森の木々は永遠の火のために用意された不毛な人々である、と注解書は言う。それゆえに、彼はこれらの最も甘い実のために、森の木々の上へ彼を押しやる最も危険な名誉を男らしく軽蔑する。彼はとりわけ祝福されておられるこの祝福された実、永遠の神のためにすべての事物を男らしく軽蔑する。

第八に、マリアの祝福された実は理性的魂が豊かになるために必要である。箴言には次のように言われている。「人は口の結ぶ実によって満たされるであろう」(箴言、XVIII, 20)。わたしたちは主イエズスが真に胎の実であるばかりでなく、また唇の実でもあると告白する。というのは、わたしたちは口あるいは唇の説教によって、唇の賛美によって、唇の祈りによってイエズスを得るからである。外的な口をもってわたしたちは秘蹟的にイエズスを受け、内的な口をもってわたしたちはイエズスを霊的に受ける。それゆえに、聖ヒエロニムスはこう言うのである。「マリアの花は、わたしたちがそれから食べるように実となった。」唇のこの実で各人は霊的豊かさの善で満たされる。わたしは諸徳と恩恵の善と言う。そのような善について使徒はこう言っている。「希望の神が、あなたがたが希望と聖霊の力に富むように、信じることにおけるすべての喜びと希望であなたがたを満たしてくださいますように。」おお、この実の真に祝福された完全さよ、それを産まれたおとめの野だけがこの実で満たされているのではなく、聖ヒエロニムスが次のように言っていることから明らかなように、またあらゆる信仰のあるキリスト者の魂もまたこの実で満たされている。「彼女は真に完全な野と呼ばれる。なぜなら、おとめマリアは完全であると言われ、その胎から生命の実そのものが信じる者たちにやって来られ、またわたしたちすべてがその方の完全さから恩寵のための恩寵を受けたからである。」

第九に、マリアの祝福された実は霊的生活の完成のために必要である。それゆえに、完全な人について詩編の中で次のように言われているのはもっともである。「そして彼は流れる水の側に植えられた一本の木のようになる。」恩寵の流れ以外に流れる水によてわたしたちは何を理解すべきであろうか。それによって人は彼の実、主イエズス・キリストを与え、あるいは産み出すのである。この実を持っている人に伴う完全な生活の三つの条件が表されている。時間を浪費しないことは完全な人に属している。それゆえに、こう言われるのはもっともである。「それはその時間においてその実を与える」また無益な言葉において溢れないことも完全さの一つのしるしである。わたしたちはそのことが次のことばにおいて表されていると理解する。「そして彼の葉は落ちないであろう。」霊魂にとって有益な事柄を抜かさないこともまた完全さの一つの特徴である。それゆえ、わたしたちは「そして彼がなすすべては栄えるであろう」ということを見出すのである。真に愛によってこの実を結ぶ人は誰でもすべての繁栄するものを見出すであろう。なぜなら、次のように書かれているように、すべての事柄は彼にとってよいことへと共に働くからである。「わたしたちは神を愛する人々にとってすべての事柄がよいことへと共に働くことを知っている。マリアが身体的にそうなさったように、時間を無益に過ごさず、無駄な言葉を発せず、徳の機会を逃さず、霊的に実を結ぶ木のようであるほどに完全にこの実を結ぶ人は幸いである。彼女について聖ベルナルドゥスはこう言っている。「おお、真に生命の木よ、それだけが救いの実を結ぶに相応しかった!」

第十に、マリアの祝福された実は普遍的教会の増加のために必要である。それゆえにこう言われているのである。「手ずから実らせた儲けで彼女はぶどう畑をひらく」(箴言、xxxi, 16)。主イエズスは、胎のうちに孕まれたから胎の実であると言われるのがもっともであるように、また口において受け取られたから唇の実であると言われるのがもっともであるように、よい仕事において手の労働によって獲得されるから、そして司祭の手によって信者たちに奉仕されるから、手の実であると言われるのはもっともである。それゆえに、この実は最も完全にマリアの実である。それは彼が最も例外的な仕方で彼女の胎から生まれられたから、真に彼女の胎の実である。彼はまた、彼女の口の実でもある。というのは彼女の口によって彼は最も甘美に伝えられたからである。彼はまた彼女の手の実でもある。というのは彼女の手によって彼は敬虔に扱われたからである。マリア、あるいは原始教会は一つのぶどう園を、すなわち、普遍的教会を開かれた。それは全世界に広まった。おお、このぶどうの木の枝、すなわち、教会の忠実な構成員たちはこの実によってどのように増やされたことか!一方教会の支配者たちはこの実が信者たちの心の中に霊的に産まれるようにさせた。それゆえ詩編において次のように言われているのはもっともである。「彼らは野に種を蒔き、ぶどう畑を作り、作物を実らせた」(詩編、CVI, 37-38)。そしてあらゆる時代の教会がこの実によって増やされてきたので、この実を産むおとめはすべての世代によって正当に祝福されたと呼ばれるのである。彼女自身が「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言われるのがもっともであるように、聖ベルナルドゥスはこれらの言葉を次のように説明している。「見よ、わたしはわたしのうちに何が起こるようになるか、どのような実がわたしから出てくるか、どのように偉大なこと、どのように多くのよいことが、わたしによって、わたしにだけでなく、すべての世代に起こるようになるか、を見る。」

第十一に、マリアの祝福された実は最高天の荒廃の再興のために必要である。わたしは最高天においてもたらされた荒廃と言う。このことに関してわたしたちは一本の高いレバノン杉の随を植えようと望まれる主が言われたことを注目してもよいだろう。「イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけるであろう」(エゼキエル、XVII, 23)。高い山はあの至高の邸宅。天使たちのあの至高の社会であり、それがイスラエルの高い山と呼ばれるのはもっともである。というのは、イスラエルは「神の幻」と解釈されるからである。そして見よ、聖マタイ福音書のうちにわたしたちが見出すように、天使たちは常に神を見ている。「彼らの天使たちは天にましますわたしの御父の顔を常に見ている。」この高い山の上に、天使たちのこの至高の社会のうちに、神はご自分が破滅の大衆からお選びになったものを植えられた。わたしはレバノン杉の随(梢)、人類の随と言う。すなわち、それはすべての選ばれた者であり、彼らのうちある者は現実において、ある者は希望においてすでに天使の山の上に植えられているのである。おお、真にすべての事物に越えて愛されるべき実よ、その方のためにあらゆる選ばれた霊魂はそのように至高の高さのところに植えられた!わたしたちはこの実を、われらの主イエズス・キリストを喜びに満ちて、結ばなければならない。なぜなら、その方のためにわたしたちはすでに希望において天使たちの間に植えられているからである。その方の恩寵によってわたしたちが天使たちの数にまでいっぱいになるこの実に常に感謝を捧げよう。それゆえにこの実の御母、マリアは喜ばれ、聖ベルナルドゥスがいわば彼女の唇によってのように語りながら次のように言っている言葉を発しておられるが、もっともである。「天使たちの世代の数はわたしの御子によって満たされ、回復される。そしてアダムにおいて呪われた人類はわたしの胎の祝福された実によって永遠の祝福された状態へ再生さる。」

第十二に、マリアの祝福された実は永遠の栄光の永続化のために必要である。それはこの実によって保たれなかったならば、永遠ではないであろう。それゆえに、箴言において次のように言われるのである。「正しい者の実は生命の木である。」この木が生命の木であると言われていることはすばらしいことである。というのは、生命の木が地上の楽園における自然的生命を保存することであったように、キリストは天上の楽園における永遠の生命を保存されるべきお方だからである。聖アンセルムスはわたしたちがマリアの祝福された実を通じて得るすべてのよいものに注目し、こう言っている。「これらすべてのよいものは祝せられたマリアの祝せられた胎の祝せられた実から来た。」

このようにあなたがたはマリアの祝福された実が、第一に大罪を償うために、第二に神と人間との間の至高の敵対をなだめるために、第三に原罪の傷を癒すために、第四に霊的頑固さを和らげるために、第五に審判者の怒りをなだめるために、第六に地獄の苦しみを逃れるために、第七に地上的な事物を軽蔑する恵みを得るために、第八に理性的霊魂を豊かにするために、第九に霊的生活を完成させるために、第十に普遍的教会を増加させるために、第十一に最高天の破滅を回復するために、第十にに永遠の栄光を保つためにどのように必要であるかを見て来た。そして見よ、この実のこれら十二の効果あるいは利点はそのすべてがマリアの胎の実のうちにある生命の木の十二の実によって表されるであろう。十二の実についてわたしたちは黙示録のうちに、天使がヨハネに十二の実がなっている生命の木を示したということを読む。

それゆえに、おお、女のうちにて祝せられた方よ、あなたの胎の実によってわたしたちがこれら十二の実の祝福を得られるように、わたしたちを助けてください。おお、実り豊かなおとめよ、あなたの実によってこれらの実においてわたしたちが実り豊かなものとされるように、これらの実によってわたしたちがあなたの実を永遠に享受するに値するように、わたしたちを助けてください!おお、甘美なる方よ、イエズス、御父と聖霊と共に終わりなく生き、世界を支配し、あなたの胎の祝せられた実の最も自由な伝達者であられるイエズスが彼の甘美さをわたしたちに享受することを許されるように、わたしたちを助けてください。アーメン。

最終更新日:1997/07/17

トップページ
みこころネット

inserted by FC2 system