ファチマの聖母マリア

ブラジルにおけるロザリオの勝利

The Fatima Crusader, Isuue 75, Winter 2004より

「マリアに上げられた彼らの手にロザリオをもった100万の家庭を私にください」とヨゼフ・ミンゼンティ(Joseph Mindszenty)枢機卿はハンガリーにおいて共産主義者たちによって投獄される前に彼の最後の説教において言われた。「彼らは、他の人々に反対する軍事力ではなくて、全人類のための一つの軍事力となるでしょう...ですから、ロザリオを家庭から家庭へと手に取りましょう。ロザリオを手にすれば、われわれは自分たち自身を支配し、罪人たちを回心させ、われわれの国のために償いを果たし、そして確かにマリアの憐れみに満ちた、優しいそして慈悲深い御心を動かすでしょう。」

...The Catholic, Sept. 2003


勇気と祈りが1964年にどのようにブラジルを救ったかについてのこの説明はわれわれの時代の聖なるロザリオの力を証明している。それは現代史において最も感銘的な出来事の一つである。

常軌を逸したブラジル大統領ジャニオ・クアドロス(Janio Quadros)が1961年に辞職したとき、彼の職務はモスクワと北京への広範囲の訪問から帰ったばかりの野心的な左翼の政治家、ジョアン・グウラルト(Joao Goulart)の手に落ちた。グウラルトは職務を引き継ぐと直ちに政府の高い地位にトップの共産党員たちを指名し始めた。これらの大臣の援助で共産主義者たちはまたブラジルの最も重要な労働組合と多くのより小さな労働組合を引き継いだ。

階級の憎しみを説きながら、グウラルトの代理者たちは、大統領の「農業革命」--毛沢東からフィデル・カストロにいたるまでのよく知られた欺瞞--への呼びかけ、そしてすべてのブラジル産業の国有化への呼びかけの背後で再結集するよう小農民たちを説得しながら全国を旅行してまわった。大統領の用心深い見張りの下で彼らは学生連盟をカストロ旅行局やキューバにおけるゲリラ訓練のための募集センターとして設立、運営した。

国全体が経済的、政治的な危機の中にあった。しかし教会は強さを保っていた。勇敢なリオデジャネイロの大司教、デ・バロス・カマラ(de Barros Camara)枢機卿は毎週ラジオで、人々に政権が共産主義者たちのためにまさに権力を握ろうとしていると警告するために話した。枢機卿はブラジルの人々に、ファチマの聖母の要求を守って祈りと償いを求めた。それがブラジルを救うことができる唯一の道であると枢機卿は言った。彼の繰り返しの願いはブラジルのカトリック教徒によって聴かれ、彼らはロザリオに向かった。

この時までにグウラルト政権はかなりのところまで左に動いており、そして彼の政府は共産主義者たちにひどく潜入されていたので、改革はほとんど不可能と見えた。彼はさらにブラジルの人々を3月半ばの演説の中でロザリオを嘲ることによって侮辱した。彼は、ロザリオを唱えることによって改革への進歩の多くがなされ得ないのだ、と言った。ただ政府の支配をもっと強めることによってのみ国家は経済的崩壊と他の諸々の災難から自らを救うであろう、と。(一方で、彼と彼の部下たちは合衆国外国援助や進歩のための同盟基金で彼らのポケットに銭を詰め込んでいた。)

共産主義者たちは人々に、グウラルトの政策はブラジルにとって従うべきよい政策であると確信させようと努めながらいたるところにいた。政府の中でも最も強力な共産主義者びいきである彼の義兄弟のレオン・ブリゾラ(Leon Brizola)は一つの重要な「土地改革議会」のためにベロ・ホリゾンテ(Belo Horizonte)州へ急派された。

ブリゾラが話すことになっていた公会堂に到着したとき、彼はそれがぎゅぎゅうづめになっているのを見た--実際、そのように満員で、彼はその国の解放のために祈っている3000人の女性のロザリオの鳴る音と呟き声よりまさって自分の声を彼らに聴かせることができなかった。外に出て、ブリゾラは街路が、目で見ることができる限り遠くまで、等しく祈っているブラジル人たちで溢れているのを見出した。彼は怒りのうちにベロ・ホリゾンテを去った。

3月19日には、サン・パウロ(Sao Paulo)の女性たちは彼らの下町の街路の広い通りを、彼らが「自由へ向けての神と共なる家庭の行進」と呼んだものにおいて埋め尽くした。

祈りの本やロザリオを手に持って、600,000人以上の巨大な軍隊が反共産主義の旗印の下に荘厳なリズムで行進した。女性たちが準備した宣言はこう述べた「神の御母よ、キューバ、ポーランド、ハンガリーそして他の奴隷化された諸国の殉教した女性たちの運命と苦しみから私たちを守ってください。」

傍で見ていた人々はサンパウロの行進を「ブラジルの歴史の中で最も感動的なデモンストレーション」と呼んだ。数日後には、似たような行進がこの国の主要都市のいくつかのために計画された。彼らの勇気を挫くための政府による諸々の努力、そして彼らを打ち破ろうとする赤に支配された警察による脅迫は十字軍を結成した女性たちを止めることに失敗した。

共産主義者たちに反対する軍隊と教会によるますます強くなる支持はついに1964年4月1日にグウラルトをウルグアイに逃亡させるように強いた。彼が指名した大臣たちのほとんどは同じ日に、急いで国外に--彼らの多くはキューバに--脱出した。

無血の反共産主義革命の翌日、ブラジルの人々は実際に勝利を可能にしたもの--ロザリオ--を思い起こした。女性たちは1964年4月2日にリオデジャネイロで「自由へ向けての神と共なる家庭の行進」を計画した。一人の新政府の大臣が暴力の恐れのためにそれが取りやめられることを提案したが女性たちは拒否した--その行進は計画通りに行われるであろう。彼女らの指導者の一人が言った。それは今や「神への感謝の行進」と呼ばれるでしょう、と。彼女はこう言った。その行進は「世界に対して、これは一つの真の人民革命、真の民主主義のための行進する国民投票であるということを示す」でしょう、と。

1964年4月2日に、100万人以上の人間の大海がリオデジャネイロの広いいくつもの大通りに立ち並んだ摩天楼から舞い降りてくる細かく切った紙吹雪の中を動いた。100万人以上の幸せなブラジル人たちは彼らの国を共産主義から救われたことに対して神とその祝せられた御母に感謝するために行進した。

ファチマ・センターでロザリオ行列を先導するニコラス・グルーナー神父。あなたの地域で平和のためのロザリオ行列を組織してください。

2004/04/19 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/19

最終更新日:2004/04/19

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