ファチマの聖母マリア

「嵐の前の静けさ」(3)

The Fatima Crusader, Issue 58, Autumn 1998より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

この論考はミネソタ州セント・クラウドでグルーナー神父によって行われた講演に基づくものです。

蛇の頭を踏みつぶす創世記3:15の女性は彼女の汚れなき御宿りの最初の瞬間から悪魔に対して勝利された祝せられたおとめマリアです。われらの主は十字架の上から「女」として祝せられたおとめに言及されました。(ヨハネ 19:26)われわれはまた黙示録の第12章において語られた「女」を持っています。創世記第3章においてはこう書かれています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

「彼女はお前の頭を砕く」

起源約430年頃に亡くなった聖ヒエロニムスは今でもなお偉大な聖書学者です。彼は聖書を原典の霊感を受けたギリシャ語とヘブライ語からラテン語--今日ヴルガタと呼ばれている版--へと翻訳しました。ヴルガタには教義上の誤りはないと教えているのはトレント公会議です。聖ヒエロニムスは、今日の聖書学者とは違って、ヘブライ語原典のテキストを持っていました。聖霊諸教父たちのうちの初期の教父の一人はユダヤ教の改宗者で、彼の父親はラビでした。彼はラビたちが旧約聖書のテキストを変えたと指摘しています。それは非常に容易なことです。もしあなたがヘブライ語を読んだこと、あるいは見たことがあるならば、そう言えます。ヘブライ語は子音の間には母音の間にあるようなしるしがほとんどありません。それでヘブライ語においてはその言語のゆえにテキストを変えることは非常に容易です。そしてこの学者が言ったことはユダヤの学者たちが、キリストの死後百年あるいは二百年頃に、聖書のテキストを変えたということです。というのは、諸々の預言がナザレトのイエズスがメシアであるということしか意味しえないということがますます明白となったからです。イエズスはキリストです。そしてそれゆえに、自分たちの民に対して支配力を維持するためにユダヤの学者たちはテキストそのものを変えたのです。こう言っているのはその父親がラビであった一人のユダヤ教からの改宗者です。聖ヒエロニムスはテキストを損ないませんでした。そして彼はそのほかにももはや利用できないテキストを利用することができました。それらは時間が経つにつれて拭い去られました。そして聖ヒエロニムスは「彼女はお前の頭を砕くであろう」と言うことによって、その節を翻訳しました。その意味は女が砕くであろうということです。そしてそのように、ファチマの聖母が「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」と言われるとき、ある意味において、神でさえわれわれを助けることがおできにならず、「ただ私だけが」助けることができると言っておられるのです。それがほとんど冒涜のように聞こえる、そして確かにプロテスタントの人にはそのように聞こえるでしょうが、しかし私はそのことをあなたたちに説明しましょう。

ある特別の恵みはただ聖母を通してだけ来る

聖アウグスティヌスはわれわれにこう言っています。神がその愛と憐れみにおいてわれわれに与えようと望まれるある種の好意、ある種の恵みがある。しかし、神はわれわれがそれらに相応しくないということを知っておられる。そして神はまた、われわれがそれらに値する、ないしそれらを自分で獲得すると考えて非常に高慢になることもあるということをも知っておられる、と。われわれにとってそうすることは非常に容易です。私はこの考えは非常に理解しやすいと思います。そしてわれわれは、自分たちはある特別の賜物--よりよい知性、あるいは見栄えのよさ、魅力、体育上の能力、話す能力等々のような--を持っているために他の人々よりも優れた者として自分自身について考える傾向のある他の人々(おそらくわれわれはそれを自分たち自身のうちにさえ認めました)を見ました。われわれの賜物について気づいたり知ったりすることは間違いではありません。しかしわれわれがこれらの能力を、あたかも前もって神から得たのではないかのように、それらをわれわれ自身に帰するとき、それは間違いです。聖パウロが指摘しているように、もしあなたが最初にすべてのものを神から受け取ったのでなかったならば、なぜあなたはあなたが持っているものに栄光を帰するのですか。しかしわれわれは不遜で高慢な人々を見出します。そしてそのようにそれは非常に一般的な感情です。

 そのように、神はわれわれがこれらの特別の恵みを得るとき、われわれがそれらを自分自身に帰するだろうということを知っておられます。それで神は一つのジレンマを持たれるのです。神はこれらの恵みをわれわれにどのように与えようとなさるのでしょうか。神はわれわれに与えることを望まれます。そしてなおそれらの恵みがわれわれにとって高慢の機会となったり、われわれが実際あるよりもよいと考えることへと導いたりすることがないようにされます。もしわれわれがこの高慢に陥るならば、われわれはぜひなんとかしてよりよくなろうとする試みを止めるでしょう。というのは、われわれは「ああああ、私は何をしたことだろう」それで「われわれはよくあるためにもっと辛いことをする必要はない」と独り言を言うでしょう。ですから、神はここで一つの問題を持たれるのです。神はなおその大きな恵みをわれわれに与えたいと望んでおられます。聖アウグスティヌスは神が一つの道を見出されたとわれわれに告げています。神がただ諸聖人の功績と取りなしを通じてだけお与えになるある種の好意、ある種の恵みがあります。他の道はありません。ですから、われわれがそのような大きな恵みを得るとき、われわれは容易にこの高慢の罪に陥ることはありません。

世界平和は絶対的にただマリアの汚れなき御心を通じてだけ来るでしょう

ファチマにおいてわれわれは世界の平和はマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられています。ですから世界における平和は聖母の功績と恵みを通じて、そして人類によるその同じことの承認以外の他の仕方で起こらないでしょう。ですから、聖母は真実にそして文字通り「私だけがあなたたちを救うことができます」と言うことができるのです。彼女は実際御自身について、この場合に第三人称で話されました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」しかし、彼女はロザリオの聖母について話されていました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」

なぜ彼女はそう言うことがおできになるのでしょうか? それはわれわれがこの恵みを彼女の取りなしを通じて以外には、彼女の功績を通じて以外には、そして彼女の信用を得ることを通じて以外には得ることができないからです。

ファチマは最初の聖書の預言の実現です

そしてそのように今われわれは、神が人類の始まりのときに「彼女はお前の頭(悪魔の頭)を砕くだろう」(創世記 3:15)と約束なさったことをもっとよく理解することができます。もちろん、祝せられたおとめがなさることは何でも神の力によって為されます。それにもかかわらず、神は彼女を蛇の頭を砕くための一つの道具として用いておられます。もしあなたが聖書における女についての最初の預言、創世記3:15「彼女はお前の頭を砕くだろう」について考えるならば、あなたは、彼女がわれわれの世紀に約束なさっている聖母の勝利が起こるときに、その預言が実現するだろうということを見ることができます。彼女は蛇の頭を砕かれるでしょう。そしてわれわれの最初の両親[アダムとイヴ]に約束された勝利はわれわれの時代に実現されるでしょう。

聖書において女について話された第二の時はカナの婚宴においてです。祝せられたおとめはその祈りによって一つの恵み、予定されていなかった一つの奇跡を得ておられます。それは彼の時ではありませんでした。しかし彼女の要求でイエズスはそれを彼女にお与えになりました。あなたたちはファチマのメッセージのうちに恵みと憐れみを見ます。われわれはこの恵みに値しません。われわれはこの憐れみに値しません。聖母の祈りにおいてそれは達成されるでしょう。しかし彼女でさえ、勝利が来るとき信用がそれに属するところに与えられるために何が問題であるかを人々に理解させるためにわれわれから何かあるものを必要とされます。しかしそれは恵みと憐れみを通じてであって、われわれの側での功績を通じてではないでしょう。ですから、人々がわれわれに必要なものはただより多くの祈りです、われわれはもっと多くのロザリオを必要としている、われわれはこのことをもっと多く持たなければならない....などと言うとき、われわれがそれをもっと多く持つべきであるということに、私は同意します。しかし、われわれがこの特別な恵みを得るのは、これらすべてのことを為すわれわれによってではないのです。それはわれわれのうちの誰かが為すことができるどんなこと、そしてわれわれ皆が一緒に為すどんなことをも超越しています。

聖アルフォンソは、一人の人間、一人の男あるいは一人の女にとって、彼ら自身の魂を救うために彼ら自身のよい業と神との協同によって十分な恵みを得ることは偉大なことであるとわれわれに告げています。それは彼が言っている偉大なことです。彼はある人が単に彼自身の魂を救うばかりでなく、彼の兄弟たち、姉妹たち、隣人たちの魂を救うために十分な恵みを得たときはそれはなお一つのもっと偉大なことであると言っています。そして彼の言っていることは聖人たちがしていることです。しかし、彼はすべてのことの中で最も偉大なことは一つの被造物、一人の人間が全人類を救うために十分な恵みを得るときであり、そしてそれをしたのはただ祝せられたおとめだけである、と言っています。

彼女はすでにこれらの恵みを得られました。しかし、それらの恵みを適用するために、神は彼女が信頼を得られるまではそれらの恵みを適用させられないでしょう。ですから、それは教皇が公的に荘厳に(カトリックの全司教と一緒に)特別にロシアをマリアの汚れなき御心に奉献するという従順と信仰のこの行為に取って置かれているのです。ですからわれわれは他のどんな仕方でも平和を持つことはないでしょう。われわれはそれに値しません。しかし、神はそれをわれわれに与えようと望んでおられます。神は祝せられたおとめが信用を得られることを望んでおられるのです。ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。1930年代半ばにシスター・ルシアがそれを得ようと試み、そして教皇たちがそれに注意を払わなかった七年後に、彼女はイエズスに、なぜ奉献のその行為を通じて以外の仕方でイエズスがロシアを回心させ、世界に平和をもたらされないのか、と尋ねました。イエズスは娘よ、あなたは誤解しているとは仰いませんでした。それらは実際条件ではありません。それは本当は必要ではありません。彼はそれについては何も言われませんでした。彼が言われたことはこうでした。「後になって教会が私の聖心への信心につけ加えてこの汚れなき御心への信心を建てるように、マリアの汚れなき御心の勝利として、私の全教会があの奉献を認めることを私が望んでいるからだ。」言葉を換えて言えば、イエズスはこう言っておられるのです。「あなたは正しい。」「あなたは私を正しく理解している。」「われわれは世界の中に平和を持たないであろう。」「教皇が奉献をされないかぎり、そして奉献されるまでは、われわれはロシアの回心を持たないであろう。」「私はまさに、この恵みが人類に与えられるのは汚れなき御心の功績と取りなしを通じてであるということを全教会が認めることを望んでいるから、この恵みを取って置いている。」ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。あなたたちはそのことをシスター・ルシアの著作のうちに見るでしょう。あなたたちはそれをフレール・ミッシェルやフレール・フランソワの著作のうちに見るでしょう。

「女」の勝利

そしてそのように「女」は十字架の上から語られました。「女よ、あなたの子を見なさい。」「息子よ、あなたの母を見なさい。」聖書の「女」は祝せられたおとめマリアにほかなりません。彼女はマリアだと同定されています。創世記3:15の「女」は十字架でイエズスの弟子たちの御母マリアと同定されています。彼女は聖書の「女」です。彼女は黙示録12:1の「女」です。彼女はローマにおける1946年の承認された御出現においてご自身を明らかにされました。そして彼女は「私は黙示録の女です」として御自分の名を与えられました。彼女はどのようにもっとはっきりと明らかにされることができるでしょうか? 彼女は買ったばかりの七インチのナイフを持った、そして教皇の心臓をそれで刺そうとしていた一人のプロテスタントに御自身を明らかにされました。そして彼女は彼を回心させられ、御自身の身元を明らかにされました。彼は教皇を反キリストと見ていた原理主義的プロテスタントでした。この男は今日もまだ生きていると思います。彼は八十歳台です。彼の名前はブルーノでした。そしてそこには一つの小さな聖堂、黙示録の聖母の聖堂があります。教皇パウロ六世は1967年にファチマに行かれたとき、私が世界中に持ってまわっている聖母像を祝福されました。1967年5月13日ファチマに到着された日に、彼はSignum Magnum--「大いなるしるし」という意味ですが--として知られている彼の回勅を発表されました。彼の回勅は「私は太陽をまとった一人の女を見た」という言葉で始まっています。それは啓示を意味するギリシャ語であるアポカリプス(黙示録)から取られています。彼の回勅は、ファチマの聖母が「太陽をまとった女」という聖書の預言の実現にほかならないということを明らかに示しています。あるいは最も少なく見積もっても、明らかにそれを暗示しています。それは非常に短い回勅で、教皇が書かれた最も短い回勅のうちの一つです。私はあなたたちにその最初の一節のためだけにでもその回勅を読むことをお勧めします。

第三の秘密 -- 信仰は危機に瀕している

ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密は聖書のうちに含まれているとわれわれに告げておられます。シスター・ルシアはある日こう言いました。「もしあなたたちがその秘密を知りたいならば、それは黙示録第八章から第十三章のうちにあります。」

教皇パウロ六世はファチマの聖母は太陽をまとった女についての聖書の預言の実現であるとはっきりと示唆されています。そしてそのように、あなたたちがこのすべてを一緒に結びつけるとき、われわれが背教の時代に生きているということは明らかです。

われわれは「信仰に関する報告」というラッツィンガー枢機卿の書物の内容を「信仰は世界中で危機に瀕している」というこの一節によって要約することができます。書物の残りはただそれが何からなっているかを説明しているだけです。

聖省の長官である枢機卿が信仰が世界中で危機に瀕していると言っている書物を書いたということは1540年聖省の創立以来現在に至るまで決して知られたことはありませんでした。ラッツィンガー枢機卿は1984年にそうしました。彼は1984年にインタビューに応じました。短い版が1984年に公表され、書物は1985年に出版されました。

われわれはここでもう希望がないとあなたたちに告げているのではありません。しかし、われわれはここでまたあなたたちに誤った希望を与えてはなりません。あなたたちは事実をありのままに見るべきでしょう。

歴史的展望

われわれのうちの多くの者はただ一日一日を生きているだけですから、われわれを助けてくれる歴史の展望を持っていません。ときどきわれわれの住んでいる時代を認識することはわれわれにとって困難です。しかし私がインドにいたとき(私はインドにはこれまでに五回行きました)、一人のインドの医師と話したことを覚えています。ところで彼女はパウロ六世が「フマネ・ヴィテ」(Humanae Vitae)を書かれたとき、その委員会に属していました。彼女は教会の教えに同意していた委員会の少数派の一人でした。そして教皇は最終的に彼の回勅「フマネ・ヴィテ」においてその委員会に従われました。彼女は異教徒のインド人たちでさえ中絶の罪を犯さないということを指摘しました。それは中絶する人が絶対的に誰もいないと言っているのではありません。しかし、中絶はそのように自然に反するものです。それは神が人間の心の中にお定めになった法に反しています。啓示は確かに助けてくれますが、しかしあなたたちはそれが悪であるということを知るために啓示を必要としません。現在インドに住んでいる九億の人々のことを考えてみるならば、彼らが一人当たり中絶によって殺すそのわずかの人数において、われわれを恥じ入らせます。

部分出産中絶がそうである残酷な殺人についてあなたが読むとき、もしあなたが部分出産中絶が何であるかを知らないならば、赤ん坊が吸引機によってその脳を吸引されたことによって処置される以前にはその子供は、おそらく一インチの頭部が母親の内部に残されていることだけを除けば、完全に生まれるのです。

今はわれわれにとって何らかのわれわれの無感覚を失う時期であり、われわれの周りを見ることを止め、ただ他のすべての人がそれを受け入れているがゆえに、他のすべての人がOKであるとして受け入れているものを受け入れることを止める時期です。今はわれわれにとってわれわれが一つの危機である歴史的瞬間に生きているということを理解する時です。それは危険でもあり、同時にまた機会でもあることを意味します。われわれにとっては、われわれがこれらの事柄に同意しないとしても、もしわれわれが何もしないならば、われわれの両手にこれらの子どもたちの血を持つというとてつもない危険が存在します。ただわれわれの声を上げないことだけによって、他のすべての人がそれをそのように受け入れているから、今あるように、すべてが正常であるかのように選挙を行うことによって、おそらくわれわれの両手に彼らの血を持ったことの受領証が来るでしょう。

最も異常な奇跡

聖母はわれわれが異常な時代にいるということをわれわれに警告しておられます。世界の始まり以来一つの奇跡が三ヶ月も前に予告されたことはかつてありませんでした。ファリサイ派の人々が天における一つのしるしとして自分たちに与えることをわれらの主に求めたその奇跡をわれらの主は彼らに与えることを拒否されました。彼は彼らに、あなたたちはヨナのしるしを見るであろうと言われました。しかし、ファリサイ派が求めたまさにそのしるしは聖母がわれわれの時代にわれわれに与えられたしるしです。それは以前には決して為されなかったことです。

それはわれわれが異常な危険にあるからであり、時代が異常であるということ、われわれがファチマのメッセージにおいて神がわれわれに与えられた大きな憐れみを理解しなければならないということです。

われわれのとてつもなく大きな責任

われわれはまたそれは一つのとてつもなく大きな責任であるということを理解しなければなりません。もしわれわれがこのメッセージとその憐れみを受け入れないならば、われわれの罪はそれだけよけいに大きなものとなるでしょう。われらの主はカファルナウムとベツサイダの町々に言われました。「そして今カファルナウムよ、そして今ベツサイダよ、おまえたちは天にまで上げられると思っているのか。否、おまえたちはよみにまで落とされるであろう。」そしてなぜわれらの主はカファルナウムとベツサイダについて言われたのでしょうか? 彼は御自分ですぐに説明されました。「というのは、もしソドムとゴモラがあなたたちのうちに為されたしるしを見ていたならば、彼らは悔い改め、回心して、きょうまで残ったに違いない。」

われわれは、神が絶対的に正しくそして公平であられるけれども、均等ではない方であるということを理解しなければなりません。神はすべての人に同一の恵みをお与えになりません。神は御自分がカファルナウムとベツサイダにお与えになった恵みをソドムとゴモラにはお与えになりませんでした。そして神がお働きになった奇跡を見た後に、彼らが信じなかったので、神は彼らの罪はもっと重い、神が彼らの真ん中で行われた大きな奇跡を受け入れず、それに反応しなかったためによみにまで落とされるだろうと言われました。

ところで、カファルナウムとベツサイダにいるすべての人があれらの奇跡を見たのではありません。しかし、これらの奇跡が実際に起こったということを友人や隣人から知っていた十分な証人、十分に正直な人々がいました。そしてその照会を拒否し、その信仰に反応しなかったためにカファルナウムとベツサイダはよみにまで落とされなければなりませんでした。

もしそのことがこれら二つの町について真実であるならば、そのとき七万人の証人を持ち、過去八十年間私たちの目の前で実現されてきたファチマの預言を持つ二十世紀についてわれらの主は何と言われるでしょうか? そしてわれわれは、他の誰も何もしないから、坐りこんで何もしないのです。それとも、誰かが何か小さなうわさ、あるいは嘘、あるいは何であれあることを広めているからでしょうか。そしてロシアは回心しつつあるということをわれわれに告げているからでしょうか。あるいはグルーナー神父は悪いやつだから耳を傾けてはいけないのでしょうか? あなたが私を偉大な人間である、あるいはそうでないと考えるかどうかは問題ではないのです。私のような人々のことを考えることはよいことです。しかし重要なことはあなた自身で作品を調べて見て、どこかで私がファチマ・メッセージをその実質において誤って伝えたかどうかを見ることです。もし私がそうしたならば、どこでそうしたかをどうか示してください。もしそうしなかったのであれば、どうぞあなたたち自身でメッセージを広めてください。

教皇、司教たち、そして他のすべての者のために

ある人々はこれは教皇のための問題であり、これは司教たちの問題であるとわれわれに告げます。私は百パーセント同意します。もしあなたが自分の家の抵当を支払うために二十年間働いてきたならば、もしあなたが自分の子どもたちに教育を与え、彼らを養うために二十年間働いてきたならば、そのとき私はあなたが次の数年間彼らの福祉を見ることにおいて利害関係を持つと思います。もし何かが学校においてうまく行かないとき、あなたはPTAの集まりに出かけて行って、声を上げ何かが正されるように求めるでしょう。そしてそれは正しいことです。しかし、もしそのことがあなたが為すすべてのことについて真であるとするならば、われわれがファチマの聖母が求めておられることをしないならば、これらの事柄のすべてはどちらかというと無益です。私はだからこれらの他のよいことをしてはいけないと言うのではありません。「主が家を建てられないなら、それを造る者の働きはむなしい。主が町を守られないなら、番人の警戒はむなしい。」(詩編 126:1)

われわれの国を造り上げ、われわれの社会、われわれの家庭を造り上げる際のわれわれ自身のすべての努力は、もし神がわれわれの努力を祝福されないならば、すべて無益です。そして聖母はここでそして今後われわれに起こるであろう正確な諸結果をわれわれに告げておられます。「もし私の要求が聞き届けられるならば、多くの霊魂が救われるでしょう。そして平和があるでしょう。もし私の要求が聞き届けられないならば、ロシアは戦争と教会に対する迫害を起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善人が殉教し、教皇は多く苦しむでしょう。さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

すべての人はこの情報を必要としている

これらの事柄を知ることが教会内部の一般の人々にとって重要でなかったならば、そのときファチマの聖母の敵どもがなぜ聖母が言っておられることについて嘘を広めることに固執しているのか、その間中自分たちは聖母への信心を広めているのだと偽善的に主張しながら、聖母の言葉を変え、それらを公に誤って引用することに固執しているのか、私には理解できません。この誤った情報を広めることが重要でなかったとするならば、そのとき彼らは苦にすることはないでしょう。

あなたがそれを理解しているにせよ、そうでないにせよ、あなたは戦場にいるのです。あなたはあなたの洗礼とあなたの堅信によって以外にはこの戦闘に加わることを求めませんでした。あなたの洗礼によってあなたは悪魔とその虚飾そしてその働きを断念しました。あなたはイエズス・キリストとその御母に対する忠誠を誓いました。なぜなら、われわれは敵、反キリストの支配を確立することを望んでいる敵、サタンの支配を確立することを望んでいる敵に直面しているからです。それが新世界秩序を装ってであれ、世俗的ヒューマニズムを装ってであれ、国連を装ってであれ、あるいはそれが他のどのような装いであれ、それは公にそして私的にわれわれの生活から神を排除することを望んでいます。そしてあなたはそれを支持するように求められているのです。そしてそこには中立の立場はないのです。

あなたは神に与するか、それとも神に反するか

神に与することを拒否することは悪魔の側に立つことを受け入れることです。「あなたは私に与するか、それとも反するかのいずれかである。」教会、単にあなただけでなく、教会のあらゆるメンバーは彼らがそれを理解するかどうかにかかわらず、同じ条件の下にいます。教会は攻撃にさらされています。教会は一つの選択に直面しています。この挑戦は単にマルクスによってばかりでなく、イルミナーティによって、フリーメーソンによって為されました。過去に戻ってフリーメーソンが教会をどのように破壊するかについて言ったことを読んでごらんなさい。--彼らは教会を敵と見ています--そして教皇制を破壊するために、彼らはわれわれは短剣を必要としないと言っています。スティレット(あなたが誰かの心臓を突き刺すことができる小さなナイフ)は十分ではない、それは教皇制を殺すためには十分ではない、とこの特定の文書は言っています。それは1840年代のアルタ・ヴェンディタというフリーメーソン・ロッジ運動から出ています。われわれがしなければならないこと、それはキリスト者の心を堕落させることだ、とこの文書は言っています。なぜなら、われわれがキリスト者の心を十分に堕落させるとき、教皇制はそれ自身で倒れるだろうからだ、と。

 ですから、教会を攻撃し、家庭の諸価値を攻撃するこれらの映画が金儲けにならないとしても、まったく頻繁に彼らはそれらの映画を作り続けます。というのは、目的は第一に金儲けではなくて、信者の堕落を促進することだからです。

間もなく聖母の勝利がすべての誤謬の上に

レオ十三世は1884年にフリーメーソンと共産主義は基本的に同盟している、彼らは同じ神に反する諸々の誤謬の親戚であると指摘されました。彼らは両方とも家庭に反対します。両者は離婚を権利として促進します。両者は教育に対する両親の権利は国家の権利よりも小さいと主張します。両者は神なき社会をもたらすことに賛成します。教会に対するこの戦争は共産主義ロシアの確立と共に今世紀に強化されました。教皇ピオ十二世は次のように指摘されました。1517年にルターは「神に対してイエス、キリストに対してイエス、そして教会の対してノー」と言いました。1717年にフリーメーソンは「神に対してイエス(しかし、彼らは神のことをさして言っていませんでした)、彼らはキリストに対してノー、そして教会に対してノー」と言いました。1917年にマルクス主義者は言いました。「神に対してノー」。

ロシアの奉献によって逆転させられるであろうのはこれらの「ノー」です。われらの主が言われたように、教会は主の花嫁です。あなたはそのことをエフェソ人への手紙の中に見出します。われわれはルターが教えたように、キリストに賛成して、彼の教会に反対することはできません。われわれは神に賛成して、キリストに反対することはできません。われらの主がファリサイ派の人々に言われたように、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちは私を受け入れたであろう。というのは、私は私の父の似姿だからである。私と父とは一つである。否、あなたたちの父は悪魔である。」子なる神は父の似姿です。「フィリッポよ、あなたは私と父とが一つであることを知らないのか。あなたは私を見た。あなたは父を見たのである。」そしてそのようにある意味において、マルクスは神に対して「ノー」と言うことによって、キリストに対する「ノー」と彼の教会に対する「ノー」のうちに内在している論理をまさに実現していたのです。しかし、これらの事柄のすべてはロシアの奉献と回心によって逆転させられるでしょう。紀元1054年に教皇首位権を否定した正教会の「ノー」でさえ逆転させられるでしょう。

この戦闘において、教会は百年以上も前に出発した組織された戦闘的無神論に直面させられてきましたし、いまも直面させられています。キリスト教世界およびカトリック教会に対するこの全体的な、文化的、霊的、物理的、経済的そして政治的な戦いは(ときには軍事的な戦争と同様に)歴史においてその頂点に達しようとしており、そしてわれわれは頂点の瞬間にいるのです。数年前TANはイーヴ・デュポンによる一冊の書物を出版しました。その中で彼は来るべき懲罰について語りました。彼は紀元300年、紀元400年、紀元500年からの、事実過去1700年間のカトリックの列聖された聖人たちを引用しています。彼らは皆カトリック教会にとって、そして事実全人類にとって、最大の危機の瞬間としての二十世紀最後の四半世紀に注意を向けています。それはただいまわれわれが生きている時代です。

紀元二千年以前の勝利

これらすべての事柄は次の数年に集中しています。われわれはキトの聖母について、彼女自身の仕方で戦いは二千年までに終わるでしょうと私たちに告げておられる幸運の聖母についての預言を持っています。彼女は十九世紀の終わりの部分と二十世紀の大部分にわたって異端に屈する教会について話しておられます。しかし、異端は二十世紀全部を支配しないでしょう。

聖ヨハネ・ボスコの預言は勝利が勝ち取られるのは二千年以前であるとわれわれに告げています。彼は平和の支配が始まるのは二つの満月を持つ花の月が終わる以前であるとさえわれわれに告げています。あなたはこれらの預言についての説明を『悲劇と勝利』という書物の終わりのところに見出すでしょう。ある人に従えば、これは1999年3月のことでしょう。

困難の一部はわれわれにとって歴史的展望を得ることです。それは絵の上にあなたの鼻をくっつけて見ようとするようなものです。あなたがそのように絵に近づきすぎて、ただ一点しか見ないときには絵の残りの部分を見ることは非常に困難です。われわれの同時代人の多くがいるのはそのような場所です。というのは、彼らはわれわれ自身の時代に余りにも近すぎて、そのようにしてわれわれが非常に異常な時代にいることが認識できないのです。ですから、あなたが最終的に反応することができるように、この展望を得ることはあなたにとって大切です。もしあなたが今なお麻痺させられているならば、少なくとも、他の何もないならば、もっと熱心に、もっと頻繁にあなたのロザリオを祈りなさい。そして他にあなたのすることが何であれ、毎日ロザリオを祈ることを抜かしてはいけません。

説明された教会の唯一の真の選択

私はここで一つの考えで終わりたいと思います。われわれはマルクスと他の仲間の旅行者たちによって教会に対して宣言されたこの戦いの中にいます。教会は三つの選択肢を持っています。第四の選択肢は降伏してそれを忘れ、そしてあなたが勝った、われわれはあなたたちに加わると言うことです。もちろん、もしわれわれがそうするならば、それは背教です。ですから、もし神に忠実であることを望むならば、われわれは紙の上では三つの選択肢を持っています。第一の選択肢は私たちが迫害者たちから逃げることができるというものです。第二の選択肢は私たちが迫害者たちと戦うことができるというものです。そして第三の選択肢はわれわれは交渉することができるというものです。

ハンター(狩人)氏と未来のヴィクティム(犠牲者)氏の例を取ってみましょう。もしハンター氏がヴィクティム氏に「私はあなたを殺すつもりである」と言うとします。(未来の)ヴィクティム氏は、三つの選択肢を持っています。彼は逃げることができます。彼は戦うことができます。あるいは彼は交渉することができます。それが彼が持っているすべての選択肢です。そしてそれが教会が持っているすべての選択肢です。ただし、われわれはどこにも逃げることができません。というのは、教会に対するこの戦闘的無神論者の陰謀がそうであるのと同じように、教会は全世界に広まっていますから、教会は逃げることができないのです。そのことはわれわれに戦うか、それとも交渉するかのいずれかの選択肢を残します。そしてこれは決定的なことです。バチカンは交渉することの方を選択しました。バチカンは一つの協定、バチカン・モスクワ協定を結びました。聖母はあなたたちはその仕方では勝利することはできないと言っておられます。あなたたちはただ私があなたたちに与える武器で戦うことによってだけ勝利することができると言われるのです。そしてそのことがロシアの奉献についてのこのすべての混乱が関わっていることです。

おそらくあなたたちは以前にバチカン・モスクワ協定という言葉を聞いたことがないでしょう。しかし、それは非常に重要なことです。アメリカの政治家たちがワシントンでこのことについて話さなかったことに私は驚きました。しかしそれは教会ならびに市民社会の裏切りです。今私は存在論的に、すなわちそれ自身において、その本質において語っています。

私はそれを締結した人々がこの裏切りの行為を悪意をもってしたと言っているのではありません。私は自分の著作において彼らの意図を正当化しさえしています。彼らの動機を判断することは私の仕事ではありません。

われわれは裏切られている

それにもかかわらず、事実はバチカン・モスクワ協定が教会を裏切り、そしてわれわれ一人ひとりを裏切っているということです。私がバチカン・モスクワ協定を記述している裏切りという言葉を最初に見たとき、「それは強い言葉だ」と言いました。私は「私がそれに同意できるかどうか、確信がもてない」と言いました。なぜなら、私は自分自身でそれを考え抜かなければならなかったからです。私はそれについて考える時間をあなたたちよりも多く持っていました。それで私はこのことをあなたたちに説明しましょう。

バチカン・モスクワ協定は非常に簡単に言えば、共産主義の諸々の誤謬を非難しないバチカンの側での同意です。この協定は1961年11月22日から交渉が行われ、1962年10月12日に締結されました。それは多くの場所で公表されています。私の著作とは独立にもしあなたがそれを読みたいならば、マラキ・マルタンの書物『イエズス会士たち』の85-88ページにそれを見るでしょう。また、ミシガン州、アン・ナーバーにあるアルディス出版から出ているフロリディ神父の書いた『モスクワとバチカン』という書物の中にそれを見つけるでしょう。彼の書物は1917年から1979年までのバチカンとモスクワの外交関係についてのものであり、彼はそこでバチカン・モスクワ協定のことを書いています。あなたはフランスの共産主義の出版物の中にそれを見出すでしょう。あなたはフランスのカトリック出版物の中にそれを見出すでしょう。あなたは1961年11月22日のデルフィ新聞の中に、概略の協定条件を見出すでしょう。その中でKGBエージェントであるモスクワの主席交渉者、ニコディム大司教はバチカンに対して彼らの同意の条件を主張しています。そしてバチカンは、1984年1月から9月までの短い期間を除いて、過去三十五年間文字通りこれらの条件を果たしてきました。その間を除いて、教会は、もっと正確に言えばバチカンは、共産主義の諸々の誤謬を非難しないというバチカン・モスクワ協定の条件を受け入れてきました。今ではそれは非常に軽い事柄のように思われます。しかし、ちょっとの間次のことを考えてみてください。第二次世界大戦の後、共産主義者たちがポーランドにおいて権力を握る前、彼らはポーランドの選挙において部分的勝利を得ていました。彼らは非共産主義政党との連立政権を持っていました。そして彼らはただ二つの事柄だけを要求しました。彼らは自分たちが内務省の仕事、すなわち警察力と軍隊を持つことを要求しました。それは彼らがその連立政権において大臣の地位を持つということです。そして彼らが要求した第二のことは共産主義が議会で非難されないということでした。そしてこれら二つの条件が受け入れられ、実践されて、1949年までに彼らはポーランドの権力を獲得していました。

お分かりのように、もし誰もロシアの、そして共産主義の誤謬を非難しないならば、しばらくすると人々は彼らについて忘れ、そして彼らは少しずつ人々を吸収し始めます。私が青年期だった頃には誰も、あなたはカトリックであり、同時に共産主義者であることができると言うことはできませんでした。もしあなたが今日カトリック大学の学生と話すならば、彼が一つの可能性としてそのことを擁護するのを見出すでしょう。もしバチカンが共産主義の危険について過去三十五年間沈黙していなかったならば、彼らは決してそのようなことはすることができなかったでしょう。

それでは私はなぜこれを裏切りと呼ぶことができるのでしょうか? それは純粋で単純な裏切りです。というのは、司教という言葉は見張り人を意味するからです。敵が近づいて来たときに叫び声を上げること以外に見張り人の目的は何でしょう。あなたが見張り人の義務を知らない場合には、神は旧約聖書のエゼキエル書にあることをわれわれに告げられます。「私はあなたを見張り人に任命した。さてもしあなたが敵がやって来るのを見るならば、そして私は見張り人に叫び声を上げるように言っておいたのだが、もしあなたが叫び声を上げないならば、私はあなたの仲間の市民たちの一人ひとりの死の責任を見張り人であるあなたに負わせる。というのはあなたは叫び声を上げなかったからである。」

見張り人を雇うこと、彼に職務の誓いをさせること、城壁で囲まれた町を見張ること、敵がやって来るのを見ること、他のすべての者が眠っている午前二時に見張りの塔から歩いて下りて来ること、そして叫び声を上げないために敵と密約を結ぶことは何の目的でしょうか? それは純粋で単純な裏切りです。

 それがバチカンがしたことです。バチカンは敵がやって来るのを見るときに叫び声を上げないことに同意しました。そしてバチカンは過去三十五年間そうしてきました。こう言うことのゆえに私は教皇に反抗しているのでしょうか? いいえ。全然そうではありません。私は、「私の命令の遂行を遅らせることにおいて彼らがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、彼に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」と私たちの主が言われているという単純な理由で教皇の首を救うように努めているのです。そしてそのようにあなたはこの問題を克服するために交渉を持つか(われわれは交渉が現在まで進まなかったことを知っています。そして聖母は交渉が進まないばかりでなく「善人が殉教し、教皇が多く苦しむでしょう」とわれわれに絶対的に確証しておられます)、それとも聖母があなたにお与えになる武器を取るかのいずれかです。あなたは奉献を行い、ロシアを回心させるか、それとも彼らと交渉するかのいずれかです。あなたは逃げることができませんから、そしてあなたは彼らと戦うために物理的な武器を持たなかったのですから、交渉するか、それとも聖母の武器を取るかのいずれかです。不幸なことに、これらのバチカンの高官たち、例えばカザロリ枢機卿は彼が聖母よりももっとよく知っている、われわれは交渉すべきだ、と考えるのです。共産主義が主張した交渉の条件は その誤謬に関する沈黙です。1984年におけるいわゆるロシアの奉献に対する聖母の要求の実現についての他のすべての混乱は無知によってか、あるいは悪意によってかのいずれかで、あなたがバチカン・モスクワ協定のどちらの側にいるかに関わっています。それはそのように単純です。それはそのように単純なので、人々はわれわれが教皇に反対していると考えていますが、われわれは実際反対しているのではありません。教皇御自身がロシアの奉献をしなかったことを認めておられます。教皇は自分の手が結ばれている、自分は何もできないと感じておられます。教皇が必要としておられるものは奉献のための祈りと公的な支持の両方の支持のうねりです。なぜ教皇はそれをなさらないのでしょうか。理由はひとつです。教皇は十分な数の司教たちの協力が得られないのではないかを恐れておられます。

よいニュース

そのことについて私はいくつかのよいニュースを持っています。全世界には約四千五百人のカトリックの司教がいます。過去十年間に私に手紙をくださった千九百人の司教たちのうち、81%の司教がわれわれのしていることに賛成しておられます。81%です。過去十年間にわれわれが言ったことに反対なさったのはわずか二十三人の司教、二十三人の司教と戦闘的に反対なさっている一人の司教です。長い年月の間にわれわれを支持してくださった多くの司教が亡くなられました。

今日奉献のためにわれわれがしていることに賛成なさっている六十人以上の枢機卿がおられます。それは全枢機卿のうちの45%です。司教たちのうちでわれわれはそれほど高いパーセンテイジを持っていませんが、この奉献に関してわれわれの側についておられる千二百人以上の司教をわれわれは持っています。教皇でさえそのことをまだ知っておられないと私は考えています。彼は間もなく知られるでしょう。ですから、私が公的にこれまで言ってきたことがまさに正確であるということを十分な人々が理解するようになるまで、これらの事柄を説明し続けようと考えているのです。これまでまだ誰も誤謬を見つけていません。彼らは私の人格、私の名声、私の意図を攻撃するでしょう。しかし彼らは神学的にも、また事実の上でも、私が言っていることを攻撃することができません。私が言っていることは真実ですから攻撃はないのです。

どうかあなた自身と他の人々を助けてください

目的は人々を憤慨させることではありません。目的は私がよりよいと言うことではありません。しかし、私はあなたたちに真理を告げないために害を及ぼすことになるでしょう。もし私がここにいるすべての人、どこにもいるすべての人に影響を及ぼす事柄において真理を告げないで、われわれの生命、自由そして霊魂が危険にさらされるならば、私は教皇と司教たちに害を与えることになるでしょう。私はあなたたちができる何らかの仕方でのあなたたちの継続した祈りと支持によって私を助けてくださるようお願いしたいと思います。しかし何よりもまず聖母が求めておられることをしてください。まず第一にロザリオの祈りをしてください。カルメル山の聖母のスカプラリオを身につけてください。あなたが誤解されるかもしれない事柄においてさえ共通善が危険にさらされるとき、あなたがまた無知な人あるいは狂信的な人から「カトリック以下」と考えられるために攻撃されるかもしれないとき、共通善に対するあなたの義務を含むあなたの日常の義務を果たしてください。私があなたに知ってほしいと勧めたいもっと多くのことがあります。ファチマのメッセージに関して言いたい多くのことがあります。私はあなたたちがファチマに関する優れた資料を読んで、いろいろ知り、またあなた自身の話によって、あなた自身の言葉によって、それを伝えることによって他の人々に対してあなたのできることを伝えるようにお勧めしたいと思います。

1998/12/13  三上 茂訳

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作成日:1998/12/13

最終更新日:2004/03/23

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