ファチマの聖母マリア

中国におけるカトリック教会--迫害と混乱--

The Fatima Crusader, Issue 65, Autumn 2000より

ジョゼフ・M.C.クン

1999年7月5日、われわれは一つの新聞発表を行った。一人の地下潜行のローマ・カトリックの神学生ワン・チン(Wang Qing)が1999年5月に逮捕された。彼は拷問を加えられ、3日間踵が地面につくかつかないかのところで両手でつり下げられた。彼はひどく殴打された。彼は広い範囲にわたる傷害を受けた。加えるに、彼は重大な胃腸疾患とひどい下痢を引き起こす不潔な液体を強制的に飲まされた。3日後に彼は何らの医学的世話もなく放免された。

5月13日に別の地下潜行司祭、ヤン・ウェイピン(Yan Weiping)神父はあの「幸福者」ではなかった。ヤン神父はある秘密のミサを捧げるために北京へ行った。彼は政府保安部隊によってミサの間に逮捕された。その後間もなく、彼は同じ日の夜8時に北京の路上で死んでいるのを見つけられた。彼はわずか33歳であった。検死が行われなかったので、ヤン神父の死の状況は決定され得なかった。多くの地下潜行のカトリック教徒はヤン神父が殺された後に窓から投げ出されたという一致した意見に達した。

9月13日にわれわれはもう一つの新聞発表を行った。3人の司祭と1人の司教が逮捕された。リン・シリ(Lin Xili)司教は9月7日に逮捕される前7ヶ月間逮捕状の下にあった。彼は81歳である。

あなたたちのうちの何人かは2ヶ月前のクン枢機卿の記念祝賀会のことについて聞いたかもしれない。7月31日にコネティカット州スタンフォードにおいてクン枢機卿閣下は中国における宗教的迫害50周年記念を挙行された。同時に彼はまた彼の98歳の誕生日、司祭職70年周年記念、司教として50年そして枢機卿として20年の記念をも祝った。8月3日に逮捕された司祭たちのうちの一人はチュー(Chu)神父であった。彼はまた自分の小教区の人々に簡単なうどん皿を単純にごちそうすることによって上海でクン枢機卿の誕生日を祝った。中国ではうどんは長寿を象徴する。このうどんのお祝いを聞き知って、中国保安局はその不快感をチュー神父に示した。3日後彼は逮捕された。彼は2日後に釈放された。それから、彼の居住区は徹底的に探索され、くまなく捜索された。13日後に彼は再逮捕された。彼が誕生日のうどんの単純な祝いの後に最初にたったの3日間逮捕されたという事実は、地下潜行教会における信徒が逮捕とクン枢機卿の誕生日の彼の祝賀とが密接に関連しているということを信じることへ導いた。あなたは中国では1枚の単純なうどん皿さえ持つことはできないのだ。

中国で最も有名なマリア聖堂の一つはフーバイ(Hebei)省のドンルー(Dong Lu)の聖母聖堂である。この聖堂は100年以上前に建立された。毎年、宗教迫害にもかかわらず、数万人の巡礼者たちが5月の月の間この聖堂を訪れるのが常であった。

1995年4月23日に3万人の巡礼者たちによって目撃され、地下潜行の教区司教によって証言されたように、ファチマで起こったのと非常によく似た太陽のある壮観な変化が、4人の地下潜行司教と110人の司祭たちによって共同で捧げられたミサの間に起こった。1年後の1996年4月あるいは5月に、十数台の戦車とヘリコプターによって支援された5千人の兵士たちがドンルーと呼ばれるこの小さな村を封鎖した。彼らは祝せられたおとめマリアの像を押収した。彼らはこのマリア聖堂の司教、スー・ジミン(Su Zhimin)司教を、彼の副司教、彼の多くの司祭たちそして平信徒と共に、逮捕した。彼らのうちの多くの者は今なお監獄にいるか、隠れているか、あるいは自宅監禁されているか、あるいは厳重な監視の下に置かれているかである。

どうかこのことを思い浮かべてほしい:5千人の兵士、戦車、ヘリコプター、殴打と逮捕--すべて非武装で無防備の村人たちに対してである。そのことはそれがあたかも、一つの小さな区域、あの小さな村でふたたび繰り返された天安門広場のごときものであるかのように響かないであろうか? 唯一の違いはそこには報道者たち、そしてカメラが無かったことである。

わが友人たちよ、世界中の数千万のカトリック教徒がクリスマス、復活祭そして毎日曜日のミサを祝っている一方で、中国のいたるところでは地下潜行のローマカトリック教会のためにのいかなる公的なミサもないのである。今日でさえローマカトリック教徒は、彼らが非合法であり、地下潜行であるがゆえに、中国において公開の教会はないということはあなたにとって一つの驚きかもしれない。聖なるミサ、祈祷礼拝集会、そして死者のための祈りさえ、もしそれが政府の許可なしになされたならば、すべて破壊活動と見なされるのである。

地下潜行教会にとっては宗教礼拝はただ個人の家庭あるいは人通りのない野原で秘密でのみ行うことができる。中国政府はローマカトリック教徒のこれらの私的な集まりを非合法なもの、公認されていないもの、破壊的なもの、そして法外な罰金、留置、自宅監禁、監獄あるいは労働キャンプによって罰せられ得るものだと考えている。

50年前中国におけるこの宗教迫害の始まり以来、数百人のカトリック平信徒、司祭、修道女、神学生、修練者そして司教たちが今なお監獄あるいは労働キャンプにいる。なぜなら、彼らはわれわれの教皇を断念することを拒否しているからである。それは中国中で、村々で、主要諸都市で、北部でも南部でも、起こっている。

中国政府は明らかに、地下潜行のカトリック教徒による宗教的祝祭行事を阻止するために一つのテロリスト的な政策を採用してきた。このテロリスト的な政策は、野蛮な殴打、重い罰金、拘留、子供たちに対する学校登校差し止め、農地の没収、そして家庭への水や電力供給の差し止めを含むが、しかしそれらに限られない。地下教会で一緒に祈っているところを見つかったどの5家族も今では非合法集会の罪を負わせられるべきだとされる。一緒に集まっているのを見つけられた3家族は罰金刑あるいは水と電力供給の停止の刑を受ける。これらはある地方役人たちの権力の乱用の孤立した事例ではない。これらは中国政府の政策の結果なのである。

1997年1月に地下潜行のカトリック教会をどのように撲滅するかその手続きを詳細に述べている中国政府の内部文書が中国からこっそり持ち出された。そしてクン枢機卿財団によってメディアに公開された。

その文書は非常に長いものであった。しかし、他の諸宣言の中に「地下のカトリック教会の非合法的な諸活動を根絶するために...」指導層に「断固たる、決定的なそして組織化された手段」を採用するように強く迫るものであった。すべてを白か黒に割り切ったものである。

宗教的自由

中国は宗教的自由があると主張している。にもかかわらず、地下潜行のカトリック教徒が犯罪者として扱われているという事実はそうでないことを強く示唆している。もし中国政府が真に宗教的自由を支持しているならば、そのとき政府は上に言及された野蛮な諸事件を詳細に取り調べ、それらの責任者たちを法律によって罰することによってこの決意を証明すべきである。政府の役人たちのそのように恐るべき行動が告発され罰せられない限り、これらの野蛮な行為が国家に支援されあるいは許容された、中国における宗教的諸活動に対するテロリズムである、そして中国政府は中国における宗教的自由および宗教的諸権利についてのその政策に関して国際社会に明らかに嘘をついていると結論しなければならないことは当然である。このことについて話しているのは私独りではない。

9月5日に合衆国政府国務省は宗教的自由の「特に重大な」侵犯国として7カ国のリストを公表した。それらの国の中に中国が入っている。

クン枢機卿とは誰か?

中国における迫害についてのどんな説明もクン枢機卿閣下についての少しばかりの言葉なしには完全ではない。

クン枢機卿(注:この論考は1999年10月の司教会議においてなされた講演から採られている。クン枢機卿は今年2000年に亡くなった。)は1901年に上海に生まれた。彼は現在98歳である。中国ではすでに99歳である--1歳上、というのはわれわれ[中国人]は妊娠の日付からわれわれの歳を数えるから--。彼は上海における唯一の正当な司教としてとどまっている。彼はまた中国における900万人の地下ローマカトリック教会の霊的指導者である。

クン枢機卿は19歳のときに彼の神学校の勉強を始めた。司祭に叙階されたのは29歳の時であった。彼は50年前の、共産主義者たちがすでに中国を引き継いだ後の、ロザリオの聖母の祝日の最後の週に、司教に叙階された。彼はその時48歳であった。彼は1917年に78歳で、彼が独房での終身刑の刑期を務めていたとき、彼自身知ることなしに枢機卿(Cardinal in Pectore)に挙げられた。12年後に、クン枢機卿は彼の赤い帽子[=枢機卿が被る帽子]を受け取った。

クン司教は逮捕される前に、上海の司教および他の二つの司教区の使徒的管理者としてわずか5年間しか持たなかった。まさに5年の短い期間にクン司教は中国共産党員たちの最も恐れた敵の一人となった--国の300万人のカトリック教徒の配慮と信仰を指揮する人、そして彼らの生命を神に捧げるために数千人の人々を鼓舞した人--であった。

カトリック愛国協会への公然たる反対において、クン司教は個人的にレジオ・マリエを管理した。結果として、多くの会員たちは彼らの神の名において、彼らの教会の名において、そして彼らの司教の名において逮捕される危険を選んだ。多くの学生たちを含む数百人のレジオ・マリエ会員たちは逮捕され、10年、15年、20年あるいはそれ以上の重労働の刑を宣告された。私自身の妹、マーガレットは24年間にわたる重労働刑に服した者たちのうちの一人である。

迫害の最中に、クン司教は1952年を上海におけるマリア聖年として宣言した。その年の間上海の全小教区を巡ったファチマの聖母像の前で途切れることのない毎日24時間のロザリオの祈りが行われた。聖なる像は最後に王たるキリスト教会に到着した。そこはわずか1ヶ月前に司祭たちの主要な逮捕が行われた教会であった。クン司教はその教会を訪れ、個人的に武装警官が見守っている間ロザリオの先唱をした。ロザリオの終りに会衆を先導しながら、クン司教は祈った:「聖母よ、われわれはあなたに奇跡を求めない。われわれはあなたに迫害を止めてくださるように懇願しない。しかし、われわれは非常に弱いわれわれを支えてくださるようにあなたに懇願する。」

彼と彼の司祭たちが間もなく逮捕されるであろうことを知って、クン司教は彼の逮捕後に彼の司教区を引き継ぐように数百人のカテキストを訓練した。中国におけるローマカトリック教会が生き残ったのは、神の恩寵と共に、これらのカテキストたち、そして他の勇敢な信徒たちの努力と殉教を通じてであった。クン司教はまた、共産党員たちが彼から情報を引き出すために彼の歯痛問題あるいは[喫煙の]禁断症状の苦痛を利用することができないように、彼が監獄へ送られる直ぐ前に彼の歯科医に彼のすべての歯を抜歯するように命じ、そして彼の1日2箱の喫煙の習慣を止めた。

上海のカトリック青年たちは彼らの司教に対する新年挨拶の中でこう言った:「司教様、暗闇の中であなたは私たちの道を照らされます。あなたはわれわれの当てにならない旅の途上で私たちを導かれます。あなたは私たちの信仰と教会の伝統を守られます。あなたは上海におけるわれわれの教会の基礎です。」

1955年9月8日、クン司教は200人以上の司祭たちや教会指導者たちと共に逮捕され、そして5年後後に終身刑を宣告された。

彼が裁判にかけられる前の晩、主任検察官はクン司教に教皇を非難し、共産党が創った愛国協会の教会と協同するようもう一度求めた。彼の答はこうだった:「私はローマカトリックの司教である。もし私が教皇を非難するならば、単に私は司教でないばかりか、カトリック教徒でさえないであろう。あなたは私の首をはねることができる。しかしあなたは私の義務を取り除くことは決してできない。」

クン司教は30年間獄中に消えた。世界はほとんど彼を忘れた。1985年に、彼は、彼を裏切り、彼の司教区を引き継いだ愛国協会の司教たちの監督の下にさらに10年の自宅監禁の刑を勤めるために監獄から釈放された。彼の監獄からの釈放の直後のある記事の中でNew York Timesは、中国の新しい諜報部の曖昧な言葉遣いが、司教ではなくて、当局者たちが態度を軟化させたであろうことを暗示していた、と言った。しかしながら、彼が2年半の自宅監禁の刑を勤めた後で、彼は公式に釈放された。反革命的であるという彼の罪は決して赦免されなかった。私は合衆国で適切な医学的世話を受けさせるよう中国から彼に付き添うために2度中国へ行った。そして彼は今もここにいる。

教皇ヨハネ・パウロ2世がクン枢機卿に彼の赤い帽子を1991年6月29日にヴァチカン枢密会議での儀式の中で贈ったとき、クン司教は車椅子から立ち上がって、彼の杖を脇へ投げ、教皇の足下に跪くために歩を進めて歩いた。明らかに感動して、教皇は彼を抱え上げ、枢機卿に赤い帽子を与え、それからクン枢機卿が前例のない7分間も続く大喝采の鳴り響く中を彼の車椅子に戻るまで辛抱強く立っていた。

クン枢機卿の物語は一人の英雄、そして一人の牧者の物語である。コネティカット州、フェアフィールドにある聖心大学から名誉学位を受けたとき、クン枢機卿は悲惨な個人的諸結果にもかかわらず神と神の教会とを放棄することを拒否した人、数百万の彼の同国人を彼の模範に従い、共産主義国家におけるらローマカトリック教会を守るように鼓舞した人、30年間独房に監禁されてさえ信仰を守った人、すべての国々における人権のための彼らの戦いにおいて世界の指導者たちに対する一つの象徴となった人として特徴づけられた。

1957年、彼のMissionという雑誌の中で、フルトン・シーン(Fulton Sheen)司教はこう書いた:「西側はそのミンゼンティ(Mindszenty)を持っているが、しかし東側はそのクンを持っている。神はその聖人たちにおいて栄光を帰される。」

迫害は増加している

ローマカトリック教徒の迫害は明らかに古代の歴史ではない。迫害は続いており、そして中国が重要な経済的進歩をしている時に、そして中国が国際社会の重要な一員となる方向へ向かって働いている時に、一段と悪くなっている。なぜか? それを理解するために、われわれはこれらの現在の出来事を展望の中へ置かなければならない。

中国は1949 年に共産主義国に変わった。ほとんど直ぐに新しい共産党政府はカトリック教会を圧迫し始めた。1953年までに多くの中国の司祭たちや平信徒たちは逮捕され、監獄で死んだ。これらの初期の殉教者たちの例はただカトリック信仰と忠誠を鼓舞し、強化しただけであった。カトリック教会を根絶することに失敗して、中国政府は1957年に「中国カトリック愛国協会」と呼ばれるそれ自身の教会を創った。

愛国協会を創る共産主義者たちの目的はローマカトリック教会に取って代わることそして政府によって完全に教会を支配することである。そうすることにおいて彼らは単に聖霊の力を過小評価したばかりでなく、また教会の種子である殉教者たちの血の力をも過小評価した。破壊される代わりに、中国におけるカトリック教会の人口は1950年代初期の300万人から現在の900万人から1000万人へと増加した。

状況がどうであろうと、ローマカトリック教徒たちは彼ら自身の信仰とローマカトリック教徒としての地位を放棄することなしに一つの代用品としての他のいかなる教会をも受け入れることはできない。中国におけるこれら900万人のローマカトリック教徒は、それゆえに、たとえ迫害の危険にさらされようようとも、彼らの信仰を保ち、そして同時に教皇の至高の権威を拒否するために彼らの政府の教えに従うことはできないのである。教皇に忠実であり従順であり続けることによって、そして教皇および普遍的教会との完全な親しい交わりの中にとどまることによって、ローマカトリック教会は中国においては非合法化されている、そして「公認されていない」教会あるいは地下教会として知られているのである。1996年12月3日の演説の中で教皇は地下教会を誇らしげに「カトリック教会の一つの貴重な宝石」だと宣言された。

政府がスポンサーになっている愛国協会が1957年に創られるとすぐに、ローマカトリック教会のすべての財産は没収された。後に1980年に中国が門戸開放したとき、多くの教会や財産は--元の所有者、ローマカトリック教会にではなく--政府に支援された愛国協会へと移された。結果として、ローマカトリック教会はひどく貧乏なままであり、教会堂なしのままである。

あなたたちの多くは中国に行ったことがある。あなたたちの多くは上海にあるカテドラル、北京にあるカテドラル、そしていたるところの他の教会堂に行かれたであろう。しかしながら、あなたたちが理解していないであろうことは、あなたたちがローマカトリック教会に行かれたのではないということである。あなたたちは愛国協会に所属している教会に行かれたのである。これらの教会はカトリックだと見える。祭服は同じ、祈りや聖歌も同じである。しかしそれらはカトリックではない。なぜか? 説明してみよう。

愛国協会の憲章における最も重要な条項は教皇からのそれの自律性である。それは教皇の至高の行政的、立法的、および司法的な権威を認めない。神学101はわれわれに、誰もローマ教皇の至高の権威を同時に否定しているのに教皇との親しい交わりを主張することはできないと教えている。それゆえに、愛国協会は教皇との親しい交わりの中にはいないのである。教皇との親しい交わりはカトリックの基本的な教義であって、一つの規律ではない。

1995年1月マニラで開催された世界青年の日の間に、教皇は非常に明確にこう述べられた:「そういうものとしてとどまり、そのようなものとして認められることを望むカトリック教徒はペトロの後継者との親しい交わりの原理を拒否することはできない。」

そのような親しい交わりなしに、愛国協会はローマカトリックの制度であることはできないであろう。そのような親しい交わりなしに、愛国協会は一、聖、公そして使徒的教会であることはできないであろう。1996年12月3日の演説の中で、われわれの教皇は愛国協会について、「主イエズスの意志にも、またカトリック信仰にも応えていない一つの教会」として明らかに言及された。

加えるに、愛国協会の教えはカトリック教会の教えに直接違反している。一つの例として、女性の尊厳と責任に関するその司牧的書簡において、愛国協会の司教は女性たちに「女性の発展のための中国の綱領」を履行するように公然と勧告した。この綱領は産児制限、不妊手術、一人の子どもを持った後に妊娠している女性は中国政府によって胎児、2番目の子どもを中絶するように強いられる1家庭-1人の子ども政策を含んでいる。そのようなものが、愛国協会の司教たちが彼らの司牧的書簡において支持している綱領なのである。

愛国協会の司教たちは聖座によって任命されていない。彼らは中国政府によって任命されている。そして聖座の承認なしに叙階されている。彼らは違法な司教である。彼らはまた、もし彼らを叙階している司教たち自身が違法であるならば、違法であり得るだろう。役職を引き受ける前に新しい愛国協会司教はその憲章を順守することを誓う。私が前に言及したように、彼らの憲章は聖座からの自律に関する部分を含んでいる。愛国協会司教たちの叙階の間にはローマ教皇との親しい交わりは言及されることすらない。その代わりに、彼らは自律的な教会の原理を擁護し、教皇からのすべての支配を断ち切る誓約をする。

しかしながら、愛国協会は自らを「カトリック」と呼んでいる。愛国協会会員たちは愛国協会の会員であることをを明らかにすることなく、そして彼らがヴァチカンとのつながりを持たないということを明らかにすることなく、カトリック司祭あるいはカトリック司教として自己紹介する。

この欺瞞的な用語は予言可能な諸結果を産み出した。そのとき以来、われわれ自身の司教区新聞、カトリック雑誌そしてカトリック・ラジオを含むメディアにおいて、「中国におけるカトリック教会」についての多くの記事が現れた。これらの記事は実際は愛国協会教会を記述しているのである。多くの中国ツアーがメリノールの一修道女によって主宰されているチャイナ・ビューローのようなローマカトリックの制度によって組織されてきた。これらのツアーは「カトリック教会」の諸教会や神学校を訪問しなければならなかったのであるが、実際は彼らはこの事実に言及することさえなしに愛国協会の諸施設を訪問したのである。多くの会議が「中国におけるカトリック教会」のために明示的にローマカトリックの諸制度によって後援されてきたが、しかし実際には愛国協会の教会のためなのである。途中で、忠誠を尽くしている地下カトリック教会と中国政府によるその迫害は決して言及されることはなかった。その結果、これらの記事、これらのツアーそしてこれらのセミナーは大衆をひどく欺いてきたのである。

そうこうしている間に、愛国協会の司祭たちや司教たちは誠実なカトリック聖職者のように見せかけながら、世界中を旅行して周り、寄付金を懇願した。誤った情報を伝えられたカトリックの諸制度は--それらの多くは実際善い意図であり得たのであるが--、地下の忠誠なカトリック教徒たちがほとんど無一物で取り残されているのに、愛国協会に数百万ドルも寄付をした。反対に、忠誠な司教たちは世界に彼らの苦境を告げるために中国の外に旅行することを許されていない。中国においてさえ、彼らの表現は禁じられている。これがクン枢機卿財団が地下教会の苦境を世界に告げるためにここに存在している理由である。

ローマカトリックの諸制度から数百万ドルの寄付金を受け取るために、愛国協会の司教たちは彼らの海外後援者たちをローマカトリック教会に対する彼らの忠誠について確信させなければならない。そうするために、愛国協会の司教たちは、海外にいる間は、教皇に対する彼らの「心の中での忠誠」を公的に宣言することに決して失敗しない。しかしながら、これらの司教たちはまた愛国協会の幹部たちである。そして幹部として彼らはこれら二つの組織の現在の憲章を守る基本的な義務を持っている。愛国協会の司教たちが精力的に擁護するこれら二つの憲章の最も重要で基本的な条項は愛国協会の教皇からの自律性である。

普遍的教会においては、教会法の678部によれば、ある司教区において働いているすべての宗教的組織はその司教区の司教(Ordinary)から承認を受けなければならない。しかしながら、多くの宣教会は、近年中国へと戻り、さまざまの慈善事業を始めた。これらの外国宣教会は彼らのプロジェクトのために教皇から任命された地下潜行の忠誠な司教たちから許可を求めない。彼らは忠誠な教会と共に働かない。その代わりに、彼らは共産主義の愛国協会と共に働く。

最近の一つの例は、昨年4月15日の愛国協会による上海における新しい黙想センターの開所である。このセンターは102名収容の51室を備えた3階建てである。その費用は合衆国120万ドルである。その費用の3分の1はイエズス会によって寄付された。おおよそ80万ドルの残額は他の外国宣教会によって与えられた。教会法678部に従えば、イエズス会と他の外国宣教会はこの黙想の家を建てるためには上海の唯一の合法的な司教であるイグナティウス・クン司教から許可を求めるべきであろうが、しかし彼らはそうしなかった。その代わりに、彼らは上海の愛国協会の司教の許可を求めた。このプロジェクトは愛国協会教会によって自由世界からの承認のもう一つのしるしとして見られなければならなかった。

自由世界のローマカトリックの諸宣教会が彼ら自身の兄弟である司教たちを無視しているということを見ることは非常に悲しいことである。あなたは自由世界のある司教区である承認を受けていないプロジェクトを遂行するある修道会を想像することができるか? それは起こらないであろう。もしこの承認されない奉仕が自由世界で起こることができなとすれば、なぜそれが中国で起こるべきなのか? それならなぜ二重基準なのか? その理由は、これらの宣教会にとって、共産主義政府の承認が司教区の司教の承認よりも重要だと思われるからである。その理由はこれらのいわゆる社会的プロジェクトの成功が信仰の基本的な教義の擁護よりも重要だと思われるからである。その理由は、これらの宣教会にとってこれらのプロジェクトの成功が教会法に従うことより重要だと思われるからである。

これらの外国宣教会はそのように誤り導かれているように思われる。そして愛国協会との「一致」と「和解」に対する彼らの求めにそのように素朴に熱心すぎるので、彼らは「教皇との親しい交わりにある」という基本的なカトリック教義を軽視したと思われる。「正当化」を求めるためには、これらの外国宣教会は、教皇が中国における困難な政治的状況にもかかわらずペトロの後継者との親しい交わりに対する最も厳格な遵守を要求なさっているけれども、その証拠がどれほど疑わしいものであろうと、愛国協会聖職者から忠実の何らかの私的な証拠を、回心の一つの「受容可能な」証明と見なしているように見える。

教皇はその1996年12月3日の中国に対するメッセージの中でこう言われた:「司教は使徒たちがそうしたように、そしてそのように多くの他の司牧者たちが数世紀にわたって、多くの国で、そしてまた中国においてそうしてきたように、『自分の血を流す』点まで、彼が告白しそして説く信仰の最初の証人でなければならない。」

愛国協会と呼ばれる無効な教会が地下教会における彼ら自身の兄弟姉妹たちの血を犠牲にして非常に多くのローマカトリックの修道会や諸制度によって抱擁されてきたということに気づくことは非常に悲しいことである。

それゆえに、あなたがこれらの組織から、「中国カトリック教会」における彼らのプロジェクトを支持するための寄付の要求を受けられるとき、これらのプロジェクトが愛国協会教会のためのものであるか、それとも忠誠な教会のためであるかどうかをどうか決定してください。それから、あなたはどちらの教会をあなたが支持したいと望んでいるかを決断しなければならない。

2004/02/24 三上 茂 試訳

作成日:2004/02/24

最終更新日:2005/03/22

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