キリシタン史年表

1540(天文9)
・明人、五峰王直、通商のために福江に来航、領主純定と会う

1542(天文11)
・松浦隆信、明の王直を平戸勝尾岳東麓に住まわせる。

1542(天文12)
・明国船(船主・五峰王直)が種子島に漂着。ポルトガル人、鉄砲を伝える。

1546(天文15)
・ヤジロー、ジョージ・アルバレスの船で山川港を出航。

1548(天文17)
・ヤジローと二人の日本人ゴアで受洗(5/20)
・ヤジロー、ゴアのコレジョに入学、ローマのイエズス会創立者メストレ・イグナシオ・ロヨラに書簡を送る。

・フランシスコ・ザビエル神父、マラッカから、ポルトガルのシマン・ロドリゲス神父にヤジローら三人の日本人のマラッカ着を報じ、日本布教の有望なことを知らせる。

1549(天文18)
・フランシスコ・ザビエル神父、日本布教長コスメ・デ・トルレス神父、ジョアン・フェルナンデス修道士、日本人ヤジローらを伴いゴアを出発、日本に向かう(4/18).コチン寄港(4/21)マラッカ着(5/31)海賊船に乗り日本に向かう(6/24)。
・フランシスコ・ザビエルの一行鹿児島に上陸(8/15)。
・フランシスコ・ザビエル、伊集院の一宇治城で、島津貴久に面接(9/29)。
・フランシスコ・ザビエル、平戸に旅行(11/12)。

1550(天文19)

・フランシスコ・ザビエル、再び平戸に行く。
・フランシスコ・ザビエル、鹿児島に帰り、伊集院と市来に行く。
・フランシスコ・ザビエルの一行平戸に行き、京へ向かう。
・ポルトガル船、初めて平戸に入港。
・松浦家の重臣、籠手田左衛門受洗。
・フランシスコ・ザビエル、京へ向かう途次博多に立ち寄る。
・大友義鎮(後の宗麟)21歳のとき父義鑑が家臣に討たれ、父の後を嗣いで領主となる。

1551(天文20)

・ドゥアルテ・ダ・ガマの乗ったポルトガル船が豊後日出の浦に入港。
・フランシスコ・ザビエル、ジョアン、ベルナルド、マテウス、ロレンソ(皆日本人)など数人を伴って、山口で大内義隆に会い、布教の許可を得、後山口から豊後に到着、大友義鎮に面接、布教の許可を得る。
・陶隆房謀反を起こし、大内義隆自殺。
・フランシスコ・ザビエル、インドへ行くため日出の浦を出航、途中種子島の赤尾木浦(西之表港)に寄港、慈遠寺に数日滞在する。
・大友義鎮、インド総督へ使を送る。

1552(天文21)
・大内義長山口大道寺建立を許可。
・バルタザール・ガーゴ神父とアルカセヴァ修道士来日、府内に着く。

・ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)初めて来日。
・フランシスコ・ザビエル、上川島で病没する(12/3)。

1553(天文22)
・豊後府内にイエズス会レジデンシヤ、聖堂が建つ。府内のキリシタン、700人に達する。

1555(弘治1)
・ルイス・デ・アルメイダ豊後府内に育児院を建てる(10/23)。
・バルタザール・ガーゴ神父、平戸で布教。

1556(弘治2)
・周防、山口の教会堂兵火にかかる。
・鹿児島福昌寺の忍室死去。
・コスメ・デ・トルレス神父、山口から豊後に移る。
・バルタザール・ガーゴ神父、博多で宣教開始。
・ルイス・デ・アルメイダ、コスメ・デ・トルレス神父によりイエズス会に入会を認められる。
・ポルトガル船2隻府内、平戸来航。

1557(弘治3)
・毛利氏、大内義長を滅ぼす。
・生月の籠手田一部の重臣受洗。
・秋月文種、自害。 ・ルイス・デ・アルメイダ修道士、大友氏の援助で豊後府内に病院を建てる。
・大友義鎮、イエズス会に地所、会堂を寄進。
・臼杵に教会堂建つ。
・ガスパル・ヴィレラ神父来日。

1558(永禄1)
・木下籐吉郎、織田信長に仕える。
・バルタザール・ガーゴ神父に代わりガスパル・ヴィレラ神父、ギリエルメ・ペレイラ修道士と共に平戸布教を担当する。ドン・アントニオ籠手田安経といっしょにその領内(度島、生月、平戸島の春日、獅子、飯良)を巡り、集中伝道を行ない、約1500人に洗礼を授ける。
・平戸において仏教徒とキリシタン対立。肥州松浦隆信ガスパル・ヴィレラ神父に退去を命じる(2/28)。
・ポルトガル船2隻平戸、豊後入港。

1559(永禄2)
・博多、筑紫惟門の軍勢に破壊され、教会も焼かれる。
・大友義鎮、豊前、筑前、筑後各国の守護職に補される。

・織田信長上京し、将軍義輝に謁する。
・11月ガスパル・ヴィレラ神父、日本人ロレンソ、ダミアン両修道士と共に京都布教を開始。
・ポルトガル船2隻入港。

1560(永禄3)
・1月ガスパル・ヴィレラ神父、将軍より布教許可を受ける。6月頃四条坊門姥柳町に定住、そこを教会とする。
・6月桶狭間の合戦(織田信長、今川義元[駿河、遠江、三河領主]と戦い、この奇襲によって義元敗死)。
・ポルトガル船2隻来航。

1561(永禄4)
・平戸において、宮の前事件起こる(日葡人の衝突)[フェルナン・デ・ソウザら14人のポルトガル人]。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、籠手田左衛門尉安経の保護により、生月島、渡島に布教。
・島津貴久、耶蘇会教区長パードレに神父派遣を懇請する。
・島津善久、インド副王に書簡を送る。
・泊にマノエル・デ・メンドーサの船入港。
・阿久根にアルフォンソ・バスのジャンク入港。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、メンドーサとともに阿久根、京泊、市来を経て鹿児島へ行く。

・博多の教会、再建される。

1562(永禄5)
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、鹿児島に到着(1月)、島津貴久に面接。各地で布教、5月市来港から乗船。
・アルフォンソ・バス、阿久根で殺害される。
・大村純忠、ポルトガル人のため横瀬浦を開港し、教会堂を建てる。
・大友義鎮、剃髪し、名を宗麟と改める。
・有馬義貞(大村純忠の兄)、口之津を貿易港として開港。

1563(永禄6)
・三河一向一揆起こる
・コスメ・デ・トルレス神父生月島に着き(1/3)、ジョアン・フェルナンデス修道士、ルイス・デ・アルメイダ修道士と共に司牧を行なう。
・結城山城守忠正(エンリケ)、高山飛騨守(ダリオ)、高山右近(ジュスト)ら受洗。
・6月大村純忠、コスメ・デ・トルレス神父より横瀬浦で受洗。洗礼名バルトロメオ。最初のキリシタン大名。
・7月6日に3隻のポルトガル船横瀬浦入港。ルイス・フロイス神父来日横瀬浦に上陸。(それまでは司祭としては西九州にいるコスメ・デ・トルレス神父と五畿内にいるガスパル・ヴィレラ神父だけであった。)
・長崎甚左衛門、受洗。洗礼名ベルナルド。
・ジョアン・フェルナンデス修道士、生月島に十字架を建てる。1000人の信者参加。

・ルイス・デ・アルメイダ修道士、有馬義貞の許可により、口之津に布教、250名受洗。教会堂建設。
・横瀬浦、後藤貴明に奇襲され、焼討にあい壊滅する。
・壱岐島のキリシタン500名。

1564(永禄7)
・家康、三河一向一揆を平定。
・小西隆佐(ジョーチン)、小西行長(アゴスティニョ)受洗。
・8月14日ベルショール・デ・フィゲイレド神父(1530-1597)、ジョアン・カブラル神父、バルタザール・ダ・コスタ神父来日、横瀬浦に入港。
・ポルトガル船、横瀬浦より平戸に戻る。

・ドゥアルテ・ダ・シルヴァ修道士、大友宗麟の特許状を携えて熊本川尻へ赴く。コスメ・デ・トルレス神父が居た高瀬に移されそこで病没。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士コスメ・デ・トルレス神父により布教事情視察のため五畿内へ派遣されることになり、豊後を出発。
・松浦隆信、平戸におやどりのサンタマリア--天門寺と称する教会堂の建設とイエズス会レジデンシヤの設置に許可を与える
・宇久純定が横瀬浦に居たコスメ・デ・トルレス神父の所へ医師の派遣を要請。

1565(永禄8)
・正月元旦ルイス・フロイス神父、ガスパル・ヴィレラ神父とともに将軍足利義輝に謁見。義輝殺され、ヴィレラ神父等京都を逐われ堺に逃れる。
・ポルトガル船、平戸を避けて大村領福田港に向う。
・松浦隆信、大村純忠と福田沖で海戦、松浦氏敗北する。

・福田港開港。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、五島で布教。
・大友宗麟、イエズス会に土地を寄進、臼杵に教会堂を建設。
・コスメ・デ・トルレス神父、口之津を本拠に布教。
・11月平戸で教会が落成、「無原罪の聖母の御孕り」教会と名づけられる。司祭はバルタザール・ダ・コスタ神父とジョアン・カブラル神父。

1566(永禄9)
・ポルトガル船福田港入港。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士とロレンソ(日本人修道士)が五島福江に上陸して布教。

・宇久氏の重臣25人、福江で受洗。
・福江島の奥浦に教会堂建設。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士に代わって豊後からモンチ神父が福江に来島。福江に教会堂建設。
・宇久純定の子純堯受洗、洗礼名ルイス。舅も受洗、洗礼名バプチスタ。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、天草志岐に布教。志岐城主、志岐麟泉受洗、洗礼名ジョアン。

1567(永禄10)
・7月織田信長、足利義昭を迎える。
・ジョアン・フェルナンデス修道士、平戸で死去。

・ルイス・デ・アルメイダ修道士、長崎で初めて布教を開始。
・ポルトガル船、長崎に来航。
・ポルトガル船、口之津に入港。
・秋月種実、休松の大友軍を急襲する。

1568(永禄11)
・信長、足利義昭を奉じて入洛する。
・筑前立花城主立花鑑載、大伴氏に背く。
・吉川・小早川両軍、豊前国に上陸。

・イエズス会士、初めて長崎の地におもむく。
・宇久純堯ルイスの夫人、侍女、家臣とともに受洗。洗礼名ドナ・マリー。
・アレッサンドロ・ヴァラレッジオ神父来日、ジャコベ・ゴンサルヴェス修道士を同伴し五島福江に布教。
・コスメ・デ・トルレス神父、大村に着き、大村純忠を訪ねる。
・コスメ・デ・トルレス神父、天草島志岐に布教。
・口之津のキリシタン1200人。

1569(永禄12)
・信長、ルイス・フロイス神父に京都居住を許可し、布教を許す。

・長崎にトードス・オス・サントス教会を建設(現春徳寺)。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、天草河内浦に布教。

1570(元亀1)
・6月信長、姉川の役で浅井長政、朝倉義景を降す。
・長崎開港協定成立。
・外海地方にフランシスコ・カブラル神父、ベルショール・デ・フィゲイレド神父、ダミアン修道士ら布教。
・大村喜前受洗、洗礼名サンチョ。
・フランシスコ・カブラル神父、志岐、河内浦で布教。

・コスメ・デ・トルレス神父志岐に没す。
・オルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父来日。
・天草鎮尚受洗、洗礼名ミゲル。
・天草久種受洗、洗礼名ジョアン。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、秋月に来て秋月種実に面接。24名受洗。

1571(元亀2)
・9月信長、延暦寺を攻撃。
・ガスパル・ヴィレーラ神父離日、ガスパル・コエリョ神父来日。

・フランシスコ・カブラル神父、オルガンティノ・ニェッキ・ソルド京都に行く。
・スペイン人、マニラ占領。
・長崎に新しい町建設。岬の町に、被昇天の聖母教会建設(サン・パウロ教会)。
・福江にアレッサンドロ・ヴァラレッジオ神父に代わって日本人イルマン、パウロ来島。
・島津貴久死去。

1572(元亀3)
・フランシスコ・カブラル神父、岐阜に行き信長に謁見。
・セバスティアン・ゴンサルヴェス神父来日、平戸に赴任。

1573(天正1)
・信長、将軍義昭を放逐。室町幕府滅亡する。
・フランシスコ・カブラル神父、博多・山口等に布教。
・天草沖ナオの難破、教会に打撃を与える。

1574(天正2)
・義昭、家康らとともに信長討伐を計画。
・ポルトガル船4隻入港。

・ガスパル・コエリョ神父、大村で集中的に宣教。

1575(天正3)
・6月信長、家康と三河長篠に武田勝頼を破る。鉄砲隊威力を発揮。
・8月京都四条坊門姥柳町に南蛮寺、すなわち被昇天の聖母教会建立、献堂式が挙行される。

1576(天正4)
・3月信長安土城に移る。
・アルフォンソ・ゴンサルヴェス来日。

・有馬義直受洗。その後没す。京都教会堂竣工。

1577(天正5)
・ミゲル・バス修道士、薩摩に行き義久に面接。
・田原親虎、臼杵でフランシスコ・カブラル神父について受洗、洗礼名ドン・シマン。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、バルタサル・ロペスと鹿児島へ。鹿児島から山川へ。

1578(天正6)
・荒木村重、信長に謀反。信長、オルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父に命じて、村重の家臣高山右近を説得させる。

・ポルトガル船ナオ号、壱岐印通寺に寄港。乗船していたイエズス会宣教師アルフォンソ・デル・ルセナ神父ら8人ミサをたてる。
・大友宗麟、正妻奈多氏を離婚し、ジュリアと再婚。フランシスコ・カブラル神父について受洗。洗礼名フランシスコ。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士、薩摩を出て、豊後に行く。
・日向の耳川戦で大友軍、島津軍に大敗する。

1579(天正7)
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父巡察師として来日、口之津に上陸。布教活動の方針をたてる。
・オルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父、安土に会堂建設、この頃キリシタン約10万人と言われる。
・龍造寺隆信有馬領を攻略。アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父有馬軍を援ける。

・五島領主純堯死去。嫡子純玄宇久氏から五島氏に改名。
・五島純玄、大叔父盛重実権を握り、キリシタンを迫害。
・五島領主純堯の弟玄雅ルイス、重盛らの迫害に抗し長崎に亡命。

1580(天正8)
・柴田勝家、加賀一向一揆を平定する。
・信長、安土城下に教会堂の敷地を与える。
・スペイン、ポルトガルを併合(--1640)。
・3月有馬晴信、夫人(ジュスタ)とともに口之津で受洗、洗礼名プロタジオ。領内受洗者4000人。

・大村純忠、長崎、茂木をイエズス会に寄進。
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父によって、臼杵にノビシアード、府内にコレジヨ、有馬にセミナリヨ設立。
・ルイス・デ・アルメイダ修道士マカオでカルネイロ司教により司祭に叙階され、長崎に戻る。
・イギリス船、平戸に来航。

1581(天正9)
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父入京、信長に謁見。
・アントニオ籠手田安経死去。
・龍造寺隆信イエズス会宣教師ガスパル・コエリョ神父と会見。

・由布院にレジデンシア建設。宣教師ラベロ神父、修道士マチヤス着任。
・大友宗麟の要請で宣教師フランシスコ・カブラル神父、修道士ビセンテ由布院到着。
・由布院の三人の豪族と、その親類20余人、その後300人受洗。
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父、豊後から日向、薩摩に寄港、天草に向かう。防津から島津義久と、手紙を交わす。
・大友勢、日向において島津勢に大敗。日向地方、島津の麾下となる。
・大友宗麟臼杵に新教会堂を建設。

1582(天正10)
・ローマ教皇グレゴリオ十三世改暦。

・イエズス会宣教師マテオ・リッチ神父広東に上陸。
・6月21日本能寺の変、信長死去。7月2日山崎の戦い。
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父、遣欧少年使節団を伴って長崎港を出航。
・ガスパル・コエリョ神父副管区長就任。
・ルイス・デ・アルメイダ神父、鹿児島へ。島津義久に面接。反対運動によって鹿児島を去る。
・フランシスコ会のファン・ポブレ修道士来日。

1583(天正11)
・賤ヶ岳の合戦。

・秀吉、オルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父に大阪城下に教会堂敷地を与える。
・ルイス・デ・アルメイダ神父、鹿児島に来て義久の許可を得て住院を建設。義久宣教師を放逐。
・由布院のキリシタン1500人。
・10月ルイス・デ・アルメイダ神父、天草河内浦において病没。
・長崎にミゼリコルジア(慈悲)の組が創立。

1584(天正12)
・有馬晴信、浦上をイエズス会に寄進。
・有馬と島津の連合軍、島原で龍造寺軍を破り、隆信戦死。

・ドン・ジョアン天草久種、鹿児島で幽閉される。
・黒田孝高(如水)、高山右近の勧めで受洗、洗礼名シメオン。
・8月マニラに戻っていたフランシスコ会ファン・ポブレ修道士、ディダクス・ベルナール修道士と共に再来日。
・イエズス会副管区長ガスパル・コエリョ神父、9月11日にフィリッピン総督に宛てて、日本布教活動のためにフランシスコ会士の派遣を要請。

1585(天正13)
・1月教皇グレゴリオ十三世、日本布教を東廻りポルトガル・イエズス会士に限定する小勅書を出す。
・イエズス会副管区長ガスパル・コエリョ神父、1月24日にマニラ司教に宛てて、日本布教活動のためにフランシスコ会士の派遣を要請(ヴァリニャーノ神父はこれに異議を唱えている)。
・秀吉関白となる。

・秀吉、高山右近を播磨明石に移す。。
・蒲生氏郷受洗、洗礼名レオ。
・遣欧使節ローマに入り教皇に謁す。
・島津軍、大村領、内海と外海を占領。
・イエズス会、日本教区が独立し本部を設置。
・志賀親次、府内でペトロ・ゴメス神父について受洗、洗礼名ドン・パウロ。

1586(天正14)
・秀吉太政大臣となる。

・ガスパル・コエリョ神父大阪城で秀吉に面接。
・有馬直純受洗、洗礼名ミゲル。
・毛利秀包受洗、洗礼名シモン。
・黒田直之(秋月)受洗、洗礼名ミゲル。
・織田信秀(美濃、揖斐郡)受洗、洗礼名ペトロ。
・平戸に初めてイスパニア商船入港。
・由布院に聖ミゲル教会堂完成。新たに550人受洗。
・島津軍豊後に侵入。
・アントニオ・ロペス神父、薩摩訪問。

・大村純忠、内海、外海を奪回。
・神浦にレジデンシア設置。
・府内のコレジヨ、臼杵のノビシアード山口に移転。

1587(天正15)
・日本司教区独立認可。
・秀吉、高山右近に棄教を勧告、右近棄教を拒み追放される。
・秀吉、島津征伐のため、九州に西下。
・遣欧使節、ゴアに到着。コレジヨで歓迎会、原マルティノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父に謝辞を述べる。

・ガスパル・コエリョ神父神父、2度秀吉に会見。
・ポルトガル船五島に漂着。フォルラネッティ神父来島し布教。
・大友宗麟の正妻奈多氏、臼杵にて病死。
・大村純忠、坂口館で死去。
・大友義統受洗、洗礼名コンスタンチノ。
・島津軍由布院に乱入し、教会堂を破壊。宣教師妙見に避難する。
・島津義久、川内にて秀吉に降伏。
・黒田如水の長男長政受洗、洗礼名ダミアン。
・7月秀吉箱崎にて伴天連追放令発布。

・生月島山田に、山口にあったコレジヨとノビシアード移転。ミヤコ、シモのセミナリヨ有馬に合併移転。
・大友義統棄教。キリシタン弾圧を始める。
・天草島の大矢野種基受洗、洗礼名ジャゴベ。
・大友宗麟、津久見で死去。
・黒田如水、中津城主となり、ゴメス神父を招待し復活祭を催す。
・立花宗茂、柳川城主となる。
・毛利秀包、久留米城主となる。

1588(天正16)

・スペインの無敵艦隊イギリスの艦隊に敗れる。
・小西行長、宇土城主となる。
・西郷純信(諫早)受洗、洗礼名不詳。
・秀吉、茂木、長崎、浦上の地をイエズス会より没収。鍋島直茂に長崎の管理を命ずる。
・有馬のセミナリヨ八良尾に移転。
・生月島山田のコレジヨ、長崎→千々石→有家に、ノビシアードは長崎→有家→天草に移転。

1589(天正17)
・秀吉、耶蘇教を厳禁し、宣教師を長崎に追放、京都南蛮寺を焼く。

・由布院のジョチン30名に洗礼を授ける。その後殉教。
・ヒル・デ・ラ・マタ神父、薩摩の片浦港へ。
・八良尾のセミナリヨ加津佐に移転。
・天草のノビシアード大村に移転。
・小西・加藤の連合軍、天草島の志岐氏、天草氏を攻める。
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父、鍋島直茂に招かれて佐賀に行く。

1590(天正18)
・秀吉小田原城を攻略。北条氏滅ぶ。

・5月7日イエズス会副管区長ガスパル・コエリョ神父死去。ペドロ・ゴーメス神父が副管区長職を継ぐ。
・7月21日天正遣欧少年使節が巡察師兼インド副王使節アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父とともに長崎に帰着。金属活字、印刷機を持ち帰る。
・志岐にキリシタン代官日比屋平右衛門着任。
・天草上島の上津浦種直受洗、洗礼名ホワロン。
・宗義智(対馬)受洗、洗礼名ダリオ。
・島津義弘、イエズス会に山川港寄進を申し出る。
・中浦ジュリアン、イエズス会に入会。
・有家のコレジヨ、加津佐に移転。

1591(天正19)
・秀吉、朝鮮征伐を命じる。
・秀吉、ポルトガル印度総督に耶蘇教の禁止を伝え、貿易を求める。
・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父、遣欧使節一行と聚楽第で秀吉に謁見し、印度総督の書簡を渡す。
・加津佐のコレジヨ、大村のノビシアードを天草河内浦に移転。同時に印刷機も移転、出版を始める。
・志岐(有馬)諸経受洗、洗礼名不詳。
・宣教師アレハンドロ神父、小倉に布教。
・加津佐のセミナリヨ八良尾に移転。

1592(文禄1)
・秀吉、朝鮮出兵の指令を発す。小西行長、先鋒の将として渡鮮。6月漢城(京城)占領。
・秀吉、名護屋に向う。
・野津(豊後)のキリシタン5,6000人。
・マニラからドミニコ会士、ファン・コボの使節京泊に入る。
・伊東義賢、壱岐島沖合で病死。芦辺に埋葬される。

1593(文禄2)

・5月小西行長、沈惟敬の和議をいれ休戦。
・フィリピンのマニラ総督使節ペトロ・バウティスタ来日、名護屋で秀吉に謁見。
・河内浦のコレジヨを一時、大江久玉に移転。
・大友義統、山口に幽閉される。

1594(文禄3)
・この頃よりイエズス会と他会派の対立表面化する。
・8月27日、フランシスコ会士アウグスティノ・ロドリゲス神父、ヘロニモ・デ ・ヘスス神父、マルセロ・デ・リバデネイラ神父の3人平戸に到着(もう一人のアンドレアス・デ・サン・アントニオ神父は旅行中に客死)。

・五島領主純玄、朝鮮で戦死。叔父玄雅が継承。

1595(文禄4)
・八良尾のセミナリヨ、有家に移転。
・8月20日豊臣秀次自殺。家康ら、秀頼に臣従を誓う。
・宇喜多左京(津和野)受洗、洗礼名パウロ。
・織田秀信(岐阜)受洗、洗礼名ペトロ。
・織田秀則受洗、洗礼名パウロ。

1596(慶長2)
・明との和議敗れる。
・8月14日ポルトガル人イエズス会士、ペドロ・マルチネス司教来日。
・9月4日、マルチネス司教長崎にイエズス会士を会議のために招集し、その席上、フランシスコ会士の国外退去を求める方針を決定する。
・スペインの三本マスト帆船サン・フェリペ号、土佐浦戸沖に漂着する。領主長曽我部元親乗客、乗員を抑留し、積荷を押収する。
・秀吉、キリシタン弾圧実行
・明石掃部受洗、洗礼名ジョアン。
・寺沢広高(唐津)受洗、洗礼名アゴスティニョ。

1597(慶長2)
・オランダ船初めて平戸港に入港。
・松浦法印、キリシタンを禁止する。度島のキリシタン誅滅。
・ルイス・フロイス神父、長崎で病死。
・二十六聖人、長崎西坂で殉教(日本暦慶長1年12月)
・籠手田氏、生月山田を追われ、井上宗円の支配となる。
・有家のセミナリヨを長崎のトードス・オス・サントスその他に移転。
・天草のコレジヨと、ノビシアードを、印刷機とともに長崎に移転。

1598(慶長3)
・秀吉没す。
・8月アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父、3度目の来日。
・長崎(岬の教会)にセミナリヨを移転。
・家康、ヘロニモ・デ・ヘススを引見、フィリピンとの交渉開始を依頼。

1599(慶長4)
・フランシスコ会、江戸に会堂を開き関東布教開始。

・籠手田安一(エロニモ)、平戸、生月、度島にいた一族600人とともに長崎に逃れる。
・松浦鎮信、嗣子久信夫人松東院メンシアに棄教を迫る。
・島津義弘、イエズス会の宣教師に甑島に行くよう申し入れる。
・久留米地方のキリシタン4000人。

1600(慶長5)
・関ヶ原合戦。
・小西行長処刑。
・神浦(外海)に教会堂建設。

・久留米にレジデンシア(伝道所)、教会堂建設。
・オランダ船リーフデ号豊後に漂着。イギリス人、ウイリアム・アダムス来日。
・小西行長の重臣、八代城主ディオゴ小西美作、1500名の家臣と川内に亡命。
・小西行長の弟隼人、宇土城を死守、後、熊本で自害。遺児鹿本と人吉に匿われる。
・鹿本に小西行長の供養塔建てられる。
・12月教皇、イエズス会以外の日本布教公認。
・セルケイラ司教着任。

1601(慶長6)

・家康、宣教師の京長崎居住を許可。
・宇喜多秀家、山川に敗走。島津義弘これを迎えて中根に置く。
・五島に二人のイエズス会士が来て布教、1500人受洗。
・長崎のセミナリヨ有馬に移転。
・島津家久、ディオゴ美作に、江口で600石を与える。年末美作死去。
・田中吉政、柳川城主となる。400人受洗。
・島津家久、マニラのドミニコ会に甑島行きを招待。
・木村セバスチァン、日本人として初めて司祭となる。
・中浦ジュリアン、伊東マンショ、マカオに留学(3年後帰国)。

1602(慶長7)
・ディオゴ小西美作の遺骸、長崎に運ばれる。
・ルイス・ニアバラ、薩摩へ行き、家久に面接。追放されていた八代のキリシタンとともに二ヶ月を過ごす。
・甑島にドミニコ会士到着。
・細川忠興、小倉城主となる。小倉キリシタン400名、司祭1名、修道士2名。

1603(慶長8)
・3月徳川家康征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。

・京泊にドミニコ会の駐在所を建設。
・博多の妙典寺においてイルマン旧沢と僧日忠との宗論が行われる。
・8月、マニラ総督派遣のディエゴ・デ・ベルメオ神父、ルイス・ソテロ神父らフランシスコ会士来日。

1604(慶長9)
・細川忠利、中津城主となりキリシタンに理解を示す。
・イエズス会、博多で黒田如水の盛大な葬儀を催す。

1605(慶長10)

・長崎が幕府の直轄地(天領)となる。
・長崎甚左衛門、長崎を退去。
・小倉のキリシタン2000人。
・甑島に教会堂建設。台風により二週間後倒壊。ドミニコ会京泊に移る。

1606(慶長11)
・ドン・ルイス・セルケイラ師、日本司教として京都伏見で家康と会見。
・川内江口で、ディオゴ小西美作の夫人イサベル死去。

1607(慶長12)
・五島領主玄雅、棄教し、教会堂を破壊、宣教師を追放する。
・中津に教会堂建設。
・イエズス会、準管区長フランシスコ・パシヨ神父、秀忠・家康に謁し、大阪で秀頼訪問、また柳川に新設されたレジデンシアと領主田中吉政を訪問するため柳川に来る。柳川のキリシタン1400人。
・黒田直之、秋月に教会堂建設。秋月のキリシタン2000人。
・ドミニコ会、鹿島に教会堂建設。

1608(慶長13)

・レオン七右衛門受洗。
・ドミニコ会、佐賀に教会堂建設。
・平佐にてレオン七右衛門殉教。

1609(慶長14)
・オランダ船2隻平戸に入港。平戸にオランダ商館設置。
・京泊にてキリシタン迫害始まる。
・中津にレジデンシア建つ。この年125名受洗。
・ヤコボ小西ら追放される。

・京泊のドミニコ会追放。京泊の教会堂を破壊し長崎に引上げる。
・ガスパル西玄可(がすぱる様)、妻ウルスラ、長男ジョアン、生月において殉教(11/04)。
・加賀山隼人、小倉において殉教。
・マテウス・デ・コウロス神父、セミナリヨの院長に就任。

1610(慶長15)
・全国イエズス会キリシタン22万人。
・1月ポルトガル船(マードレ・デ・デウス号)長崎で有馬氏の攻撃により沈没(日本暦慶長14年12月)。
・1月ルイス・ソテロ神父、家康に謁す。

・中津城主細川忠利、ガラシャ夫人のために記念のミサを催す。

1611(慶長16)
・中津のグレゴリオ・デ・セスペデス神父死去。領主細川忠利、禁教に転ずる。

1612(慶長17)
・幕府重臣本多正純の家来の岡本大八事件発覚。
・有馬氏十三代晴信(十二代義貞の子)、岡本大八事件で甲斐国に流罪となり、切腹を命じられるが、自死はキリシタンの教えに背くと、切腹を退けて、家臣に首を刎ねさせる。
・9月幕府、キリシタン禁教令を発布。

・五島領主玄雅没し、盛利が継承。
・中津の教会閉鎖、天正四少年の一人、伊東マンショ神父、長崎に逃れて死去。
・佐賀にいた3名の神父、長崎に送られる。
・中津で14名殉教。
・有馬のセミナリヨ、長崎のトードス・オス・サントスに移転。

1613(慶長18)
・伊達政宗、家臣支倉常長をローマに派遣。支倉、ソテロ、ビスカイノら奥州月の浦を出帆。
・幕府、伴天連追放令を発布、キリシタン総奉行大久保忠隣上洛。

・イギリス、クローフ号初めて平戸入港。アダムス、平戸に来る。
・平戸にイギリス商館設置。

1614(慶長19)
・2月禁教令、このころキリシタン30万人という。
・2月20日ドン・ルイス・セルケイラ司教長崎で没する。
・大久保忠隣改易。
・高山右近はじめ宣教師、信者ら148人をマニラ、マカオに追放(大追放)。
・高山右近、マニラに没する。

・大阪冬の陣。
・松浦宗陽、幕府の命により、長崎の教会堂を焼く。教会堂11個所破却。
・五島盛利、キリシタン迫害を強化する。
・天草上津浦に残っていた最後の宣教師ママコス(マルコス・フェラロ)追放の時『未鑑』(未来書)を遺す。
・加賀山隼人、小倉で殉教。
・天草富岡においてアダム荒川殉教。
・博多で最初の宗門改めが行われる。
・有馬直純、日向延岡に転封。
・11月、家康、平戸殿、大村殿、佐賀殿に命じて長崎の諸教会の破壊を命じる。

1615(元和1)
・5月大阪夏の陣。6月4日大阪城落城。豊臣氏滅亡。
・支倉常長、ローマ教皇に謁見。

1616(元和2)
・6月1日家康没す
・9月18日幕府キリスト教を禁じ、唐船以外の外国船の入港を平戸、長崎に限定。
・イエズス会の一神父薩摩のキリシタンを訪問し、堅野永俊の屋敷に滞在。

1617(元和3)
・天草のキリシタン指導者14か村59名イエズス会文書に記載。

1618(元和4)
・松倉重政、森岳城(島原城)の築城に着手。
・宣教師への宿提供を禁ずる触れが出る。禁を犯した者は火刑に処し、宣教師の発見者には銀30枚を与える、とある。

1619(元和5)
・10月6日京都四条河原でキリシタン52人を火刑に処す。
・長崎代官村山等安が失脚、末次平蔵に交替。
・長崎代官村山等安の息子アンドレ徳安長崎で処刑。

1620(元和6)
・7月英蘭合同艦隊9隻、平戸入港。
・9月22日支倉常長マニラ経由で帰国。
・天草河内浦において「竹の籠の獄舎」迫害。

・アントニオ・ジャノネ、天草下島大江に潜伏。

1621(元和7)
・マテウス・デ・コウロス神父、大江、崎津で布教。
・崎津(天草下島)において伊井武左エ門ミカエル殉教。
・崎津においてコンフラリアの組織。
・長崎甚左衛門病没。

1622(元和8)

・キリシタンに対する迫害更に強くなる。
・コンスタンツォ神父、田平で火刑により殉教。
・ジョアン阪本左衛門、ダミアン出口木吉、中江島において殉教。この年中江島において殉教者多数。
・壱岐のキリシタン代表アウグスチノ太田、郷の浦で殉教。
・将軍秀忠、鈴田とクルス町の牢に投獄されているキリシタンを皆、殺すように命じ、カルロ・スピノラ神父ら55名、長崎西坂で殉教(元和の大殉教)。
・10月ルイス・ソテロ、薩摩に上陸。
・天草四郎、益田甚兵衛の子として宇土で出生(推定)。

1623(元和9)

・8月将軍秀忠が隠居し、家光将軍となる。
・12月江戸芝でキリシタン多数処刑。
・平戸のイギリス商館閉鎖。
・鄭成功、平戸に生まれる。
・フランシスコ・デ・サンタ・マリア他8名の宣教師、久志に上陸、長崎に行く。

1624(寛永1)
・スペイン船の来航を禁ずる。
・イエズス会の一神父、薩摩のキリシタンを訪問。堅野永俊の屋敷に滞在。

・ルイス・ソテロ神父ら大村放虎原で殉教。
・カリクストクエモンと福江のミゲル仁之丞、パウロ金左衛門斬首。

1626(寛永3)
・水野河内守守信、長崎奉行に就任。キリシタン禁圧が強化。
・長崎で絵踏開始。

1627(寛永4)
・長崎奉行管内キリシタン340人を捕縛。

1628(寛永5)
・7月幕府、オランダ商館を閉鎖し、船を抑留、来航のポルトガル船も抑留。
・アントニオ神父ら21人西坂で殉教。
・五島藩キリシタン迫害を強化。

1629(寛永6)
・管区長マテウス・デ・コウロス神父、天草に亡命。
・竹中釆女正、長崎奉行就任。

・天草で三宅藤兵衛、弾圧を強化。
・アントニオ・ジャノネ神父、天草下島大江、崎津に潜伏布教。

1631(寛永8)
・竹中釆女正がアントニオ石田神父、バルトロメ・グティエレス神父、ヴィセンテ・カルヴァリオ神父らを数日間にわたって雲仙地獄で熱湯責めにする。彼らはそれに堪えて長崎のクルス町の牢屋に戻されたが、翌年火あぶりの殉教を遂げた。

1632(寛永9)
・曽我又左衛門と今村伝四郎が長崎奉行となり、穴吊しの拷問を行う。この年彼らの下で18人の神父とほぼ同数の修道士が殉教した。
・7月28日ニコラオ・ケイアン福永修道士穴吊るしの拷問を受け31日に殉教。

・8月13日イエズス会ボルジェス神父と二人の日本人修道士穴吊るしの拷問を受け17日殉教。
・8月17日ドミニコ会のディエゴ・デ・サンタ・マリア神父、フランシスコ会のフランシスコ・デ・ガラサ神父が数人の同宿とともに穴にかけられ殉教。
・8月29日ドミニコ会のドミンゴ・デ・エルキシア神父と数人の協力者穴にかけられ殉教。
・9月29日イエズス会のベント・フェルナンデス神父、パウロ斉藤神父穴にかけられ殉教。
・10月4日イエズス会のジョアン・ダ・コスタ神父、シスト伊予トウクン神父と数人の修道士、伝道士が殉教。
・10月21日イエズス会中浦ジュリアン神父、長崎西坂で殉教。この時同じイエズス会の日本副管区長クリストヴァン・フェレイラ神父、ジョアン・アダミ神父、アントニオ・デ・ソーザ神父、二人のイエズス会修道士、ペドロとマテオ、ドミニコ会のルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父、フランシスコ修道士も拷問を受けたが、フェレイラ神父だけが拷問6時間後に棄教の合図をして拷問から解放され、以後20年間奉行に仕えて生きた(日本名沢野忠庵)。

1633(寛永10)
・鹿児島にて矢野主膳とその家族5名、明石小三郎、ジュアン又三郎処刑。

・管区長マテウス・デ・コウロス神父、波佐見の隠れ家で死去。

1634(寛永11)
・将軍家光、ポルトガル人収容所として長崎出島築造を命じる。2年後1636年に完成。
・カタリナ堅野永俊尼、家僕男女20人と共に種子島に追放され、大長野に住む。
・6月イエズス会副管区長セバスティアン・ヴィエイラ神父殉教。

1635(寛永12)
・7月幕府、鎖国令を出し、日本人の出入国禁止。

・寺請制度全国的に実施。
・唐船の入港を長崎に限定。
・オランダ人マカオ攻撃を幕府に進言して拒否される。

1636(寛永13)
・幕府最初の鎖国令発布。
・クトウレら琉球で捕らえられて鹿児島へ。
・長崎の出島完成。ポルトガル人家族を強制収容、後マカオに追放。
・10月徳川家光287人の混血児をマカオに追放する。続く年には平戸からも混血児がオランダ船でバタヴィアに追放される。その中の一人ジャガタラお春は有名。

・11月金鍔次兵衛トマス・デ・サン・アウグスティノ神父捕らえられ、クルス町の牢屋に入れられる。
・加賀山玄也家族15名熊本において殉教。
・島津家久、琉球のキリスト教を禁止。

1637(寛永14)
・マルセーロ・マストゥリージ、薩摩に上陸し、日向へ向かう。
・島原・天草の乱勃発。
・8月21日金鍔次兵衛神父西坂で穴吊りの拷問を受け、23日牢に戻され、再度11月6日穴吊りの拷問を受け、殉教。
1638(寛永15)

・島原・天草の乱平定。
・種子島にて皆吉永右衛門捕縛され長崎に護送。
・永俊の娘、喜入夫人と喜多村夫人離別され、種子島に追放。
・平戸で浮橋主人事件起こる(キリシタン嫌疑)。
・天草四郎ら出島で獄門。
・ジョアン・ペレイラ、2隻のガレオタ船で来日、抑留される。

1639(寛永16)
・ポルトガル船の来航禁止。

・鎖国令公布。
・イギリス、オランダ人の妻子をジャカルタに追放。

1640(寛永17)
・徳川家光、貿易再開の請願に来日したマカオ使節ルイス・パエス・パチェコとその一行61人を長崎で処刑、船を焼却。マカオでは彼らの死を殉教と認め、すべての教会で祝日が行われた。

1641(寛永18)
・6月平戸のオランダ商館、長崎出島に移される。

1642(寛永19)
・天草に絵踏と人別帳が制度化されて実施。
・下甑の小串にルビーとその供ら上陸。捕らえられて長崎へ。
・奥州潜伏キリシタン探索。

1649(慶安2)
・永俊尼、種子島にて死去。

1651
・3代将軍家光没(将軍在職1623-)家綱4代将軍となる(在職 -1680)

1654(承応3)
・天草に切支丹宗門禁制の高札が立つ。

1657(明暦3)
・大村藩でキリシタン608人を召捕(うち牢死78人)。

1658(万治1)
・大村牢の131人、放虎原で獄門。残り280人長崎その他で処刑。

1659(万治2)
・豊後でキリシタン召捕開始。

1661
・美濃のキリシタンを捕える。

1664(寛文1)
・尾張藩内キリシタン207人を処刑。
・諸藩、代官所に宗門改役の設置を命じる。

1667(寛文7)
・尾張でキリシタン756人を処刑。

1671(寛文11)

・宗門人別改帳の作成布達。

1674(延宝2)
・宣教師訴人褒賞額を銀500枚とする。

1708(宝永5)
・ジョヴァンニ・バプチスタ・シドッチ、屋久島に潜入上陸。捕らえられて長崎より江戸に送られ、新井白石の審問を受ける。(新井白石の「采覧異言」「西洋紀聞」の材料を提供)。

1720(享保5)

・天草において宗門人別改帳の実施。

1776(安永5)
・大村領より70人のキリシタン信者五島柏村、淵之元へ移住。

1786(天明6)
・宗門人別改帳の寺社奉行提出を諸国に命じる。

1790(寛政2)

・浦上のキリシタン19人発覚。

1797(寛政9)
・五島藩に大村藩からのキリシタン農民公式移住始まる。1799年まで3年の間に約3000人以上が移住する。
・寛政年間黒崎村のキリシタン有右衛門ら家族を含め7人馬渡島に移住。

1805(文化2)
・天草下島大江、崎津、今富、高浜で5000人の潜伏キリシタン発覚。

1814(文化11)
・馬渡島のキリシタン信徒戸数13戸。

1840(天保11)
・浦上のキリシタン5人発覚。

1853(嘉永6)
・ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。

1856(安政3)
・浦上キリシタン80人発覚。

1858(安政5)
・日米修好通商条約締結。

1865(慶応1)
・大浦天主堂竣工。

・プチジャン神父と浦上の潜伏キリシタンが出会う。
・外海、出津海岸にプチジャン神父ら上陸し、潜伏キリシタンと出会いキリスト教復活。

1866(慶応2)
・五島列島に74のキリシタン集落があった。
・長崎港外伊王島のキリシタン長崎から帰島する。帰島しなかった吉富卯太郎外12人、和歌山、松山、伊勢、岡山に配流。

1867(慶応3)
・今村地区の潜伏キリシタン、浦上の信徒深堀徳三郎らと交流。当時今村地区のキリシタン500人、今村近隣のキリシタン868人。

・今村の弥吉、大浦天主堂に行き、教理を学び受洗。後今村の9人長崎で受洗。キリスト教復活。
・五島、水の浦の帳方久三郎、長崎に行き、クーザン神父と会う。

1868(明治1)
・五島、水の浦のキリシタン農民32人投獄。
・五島、久賀島のキリシタン農民200人逮捕。うち42人牢死。
・伊王島のキリシタン21名佐賀に護送され入牢。
・五島、頭カ島の住民十数人の戸主全員逮捕され拷問。
・ド・ロ神父長崎に上陸。

1869(明治2)
・浦上のキリシタン3400人余全国各地に配流(浦上四番崩れ)。

1870(明治3)
・五島、鯛の浦のキリシタン6人惨殺される。

1871(明治4)
・戸籍法改正。

・宗門人別改を廃止。
・馬渡島のキリシタン宣教師と接触。トーマス勘兵衛受洗。

1873(明治6)
・切支丹宗禁制の高札撤去。
・長崎、神ノ島の漁師、海路天草下島の大江に上陸、キリスト教を説き、道田嘉吉外長崎にて受洗。キリスト教復活。
・九州各地の切支丹宗禁制の高札撤去。
・浦上キリシタン釈放される。

1874(明治7)
・天草大江に仮説教所設置。

1876(明治9)
・ペルー神父、出津に仮聖堂建設。

1879(明治12)
・天草、大江村の信者野端辰二郎(外90余名)キリスト教で葬儀を執行したため罰金の刑を受け、それを不服として大審院長に上告する。

・五島、堂崎教会堂建設。
・天草大江に古材による教会堂建設。
・ド・ロ神父、外海地区担当司祭として着任。出津尾に仮教会堂(藁葺)建設。
・コーレ神父、今村地方布教。

1880(明治13)
・五島、奥浦の福祉事業創始。
・ソーレ神父、今村で布教、受洗者965人。
・馬渡島教会創設。

1881(明治14)
・今村に教会堂建設。

1882(明治15)
・上五島江袋教会創設。
・天草大江崎津教会にフェリエ神父着。
・ド・ロ神父、出津教会堂建設。

1887(明治20)
・フェリエ神父、今富の根引に孤児院開設(はじめは今富)。
・今村の信者1700人。

1889(明治22)
・中津に駐在所がたち伝道が開始される。

1892(明治25)

・フランス人ガルニエ神父、天草、大江崎津教会主任司祭として着任。(孤児院経営などに尽くし大江在住50年<在日57年.>、昭和7年自費で大江天主堂を建設する。)

作成日:2006/04/22

最終更新日:2006/04/22

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