カトリック思想史

第 II 篇


文学博士 姉崎正治・山本信次郎 監修

ヨゼフ・フービー 編

前駐日仏国大使 ポール・クローデル 序

天主公教会司祭 戸塚 文卿 訳


中央出版社 刊

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


p. 1

目次

序説

第I 篇 新約時代
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 イエズス(p. 1)

共観福音書(p.1)
善き道 山上の垂訓(p.10)
比喩的説教 善き音信(p. 12)
特殊の弟子 イエズス派(p.15)
イエズスの人格(p.20)

2 弟子らの信仰(p.34)

ペンテコステ以前(p. 34)

p. 1

12使徒の説教 原始的教会(p. 40)
聖パウロの説教(p. 48)
聖ヨハネ福音書(p. 56)

第II 篇 初代キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 第2世紀および第3世紀(p. 69)

キリスト教の統一性ならびに多面性(p. 69)
教会に内在するキリスト(p. 70)
教会と国家 迫害(p. 75)
キリスト信者の生活 友愛(p. 81)
智慧と信仰 理性に内在する御言(p. 87)
グノーシス派異端(p. 93)
御言による世界の支配(p. 96)

p. 3

可見的教会(p. 97)
アレキサンドリア思想家(p. 100)

2 第4世紀および第5世紀(p. 104)

この時代の意義(p. 104 )
天国の玄義(p. 108)
道徳的理想(p. 112)
ギリシアキリスト教徒(p. 113)
ラテンキリスト教徒(p. 117)
修道生活(p. 120)
聖アウグスチヌス(p. 127)
ローマ支配の終局 ラテン教会およびギリシア教会(p. 131)

第III 篇 中世キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

p. 4

1 中世紀におけるキリスト教精神(p. 144)

教会と蛮族(p. 144)
西欧の修道者 聖ベネヂクトゥス(p. 145)
教会と神の国(p. 148)
キリストの教の外面的発展(p. 160)
中世紀における心霊生活(p. 166)
聖ベルナルドゥス(p. 170)
聖フランシスクス(p. 176)
『イエズス・キリストの模倣』(p. 182)
スコラ学派 聖トマス・アキナス(p. 184)

2 反キリスト教、反カトリック教、中世紀の終末(p.192)

異端との闘争(p. 192)

p. 5

中世紀の終末(p. 198)

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教
アレキサンドル・ブルウ ピエール・ルッスロ

1 宗教改革(p.213)

異教的人文主義(p. 213)
ルーテル(p. 214)
カルヴィン(p. 219)

2 教会の反動改革(p.223)

カトリック教会の覚醒(p. 223)
聖イニゴ・デ・ロヨラ(p. 230)
聖女テレザ(p. 238)

p. 6

3 第17世紀フランスにおけるカトリック教会(p.243)

第17世紀フランスにおける教会の偉観(p.243) 聖フランソワ・ド・サル(p. 249)
尚古主義(p. 252)
ガリカン教会主義(ガリカニスム)(p. 255)
ジャンセニウス異端(p. 258)
尚古主義の敗北(p. 262)
カズイスト(p. 266)
ポール・ロアイアル修道院派の敬虔(p. 269)
静観派の敬虔(p. 273)
聖心の信心(p. 275)

4 第18世紀(p.278)

p. 7

哲学主義(p.278)
カトリック教会の防衛(p. 285)

第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教
レオンス・ド・グランメーゾン ピエール・ルッスロ

1 第19世紀における神の国の思想(p.289)

第19世紀における思潮の一般(p. 289)
カトリック教会の統一(p. 295)
教会と社会問題(p. 299)
教会と世界平和(p. 311)
教会と布教事業(p. 314)

p. 8

2 カトリック教理に関する論争(p.317)

ローマン主義(p.318)
科学的主理主義(p. 323)
不可知論的主情主義ならびにモデルニスム(p. 330)

3 カトリック的敬虔および教会の内的生命(p.347)

カトリック社会事業(p.347)
カトリック修道生活(p. 350)
教皇 巡礼 奇蹟(p. 352)
宗教美術及び文学(p. 356)
カトリックの信心(p. 360)

4 現代(決論)(p.362)

附録 年表
人名索引


第 II 篇 初代キリスト教

ピエール・ルッスロ ヨゼフ・フービー 共述

p. 69

第 II 篇 初代キリスト教

1 第2世紀および第3世紀

キリスト教の統一性ならびに多面性

キリスト教がユデア教とまったく分離して、かつて一度もユデア教会堂の門を潜ったことのない信者が増えてくるに従い、最初からキリスト教の中に潜んでいたその多面性が表れて来て、新しい宗教は非常に複雑にして変化に富む外観を呈するに至った。バルナックも言う通り『その多面相の一々がまた実に重要なる意義を蔵して世界に対する新しい啓示であった。キリスト教は一面において全能なる父なる神、御子にして主なるイエズス・キリスト、肉身の復活、永遠の生命の宗教であり、また救世主による世界万民の救済、新たなる人類の創造、人間の神化(divinisation)の宗教であり、また博愛と慈善の宗教であり、また霊の宗教、かつ意志の宗教で、倫理と聖徳との宗教であり、また権威と絶対信仰の宗教であると共に、理性と明智との宗教、かつ秘蹟の宗教であった。キリスト教

p. 70

はぜんぜん新しいメシア王国の国民の誕生を告げるのであるが、この国民はその実世界開闢(かいびゃく)の期から潜在していたのである。キリスト教はまた聖典の宗教でもあった。宗教と称し得べきあらゆるものを含み、人間の要求するあらゆる宗教的内容を抱有していた』。(ハルナック『キリスト教の布教ならびに伝播』)

キリスト教の豊富なる複雑さは実際不思議なほどであるが、それにもまして驚くべきは、かかる多面性の宗教が信者の宗教的意識の中において『イエズス』によって完全に統一されていたことである。例えば聖典の宗教としてのキリスト教が聖書の中に求めしかして発見するは預言とその実現としてのイエズスである。聖書を開いてイエズス以外のものを求めるのは見るを欲せず、また解するを欲せざるの徒である。イエズスをおいては聖書は空虚である。また博愛、相互扶助の宗教としてのキリスト教が存在するのはその兄弟にイエズスの面影を見るからである。その他すべてがイエズスに基づき、イエズスを中心としている。かくて聖パウロのいわゆる『主は近くましますなり』(フィリッピ書 4:5)の一句は世界終末光栄裡のイエズス再臨の期待よりも、キリスト教会内における霊的神秘的存在を意味する言葉として信者に意識されるようになっていった。

教会に内在するキリスト

p. 71

信者の熱望にもかかわらずキリストの還り来り給うこと遅く、ここに第四福音書出でて世界終末のキリストの再臨は畢竟(ひっきょう)人々の心に内在し給うキリストの公然の顕現に他ならぬ理由を明らかにし、キリストは不在のごとく見えてその実は潜在し、遠きがごとく見えてその実はわれらと共にましますことを教えた。使徒時代直後期(subapostolic age)において、キリスト再臨の期待は、その潜在の意識となる。教会はキリストの体である。イエズスは教会の内、特に教会の首長なる司教らと共にまします。またイエズスはその兄弟なる信者の群の中にましまして彼らを教え導き給う。以下聖イグナチウスおよびヘルマスの二人を借り来って、キリスト内在のこの二様式に関する意識を説明する。この二人を挙げるのは単にキリスト教著者としてでなく、各自独特の個性を有すると共に、しかもその生活の環境の代表者、すなわち教会全体の心理を共通に有していた人としてである。

聖イグナチウス(S. Ignatius)は使徒聖ペトロを筆頭とする第三番目のアンチオキアの司教で、第2世紀のごく初期にトラヤヌス皇帝の迫害時に捉えられ、円形劇場において猛獣に投ぜられて殉教した人である。彼は実に熱情に燃ゆる司教および殉教者の典型であった。『それわれ活くといえどももはやわれにあらず、キリストこそわれにおいて活き給うなれ....立ち去りてキリストと共のあらんことを

p. 72

望む』(ガラチア書 2:20、フィリッピ書 1:23)との聖パウロの言葉通りに活きた人である。彼がローマに護送される途上で書いた数々の書簡は無数の殉教者精神の発露として極めて有名である。

『汝らに願う。願わくばわれに誤れる愛情を注ぐことなかれ。われをして猛獣の餌食たらしめよ。われはこれによりて神に到るを得ん。われは神の小麦なり、猛獣の歯牙の磨臼によりてキリストのいと潔(きよ)きパン粉となるを得んかな、猛獣をしてわが墓たらしめよ、これわれ死したる後肉体を残さずしてなんぴとをも煩わさざらんためなり。世がわが肉体を見ざるに至る時、始めてわれはキリストの真の弟子たらん....われはわれらのために死に給いし者を尋ね、われらのために復活し給いし者を求む。....われをして明光に至るを得しめよ、この時われは真の人たらん。われをしてわが神の受難にあやからしめよ。キリストをその身に奉ずる者あらば、その人こそわが心の熱望を知りて、わが願うところを解しわれに同情すべけれ。』(ローマ人に贈る書 4:1, 2, および6:1, 2)

すなわち信者はその身に神を奉ずる者なれども(イグナチウスの各書簡の冒頭に、『神を捧持する(theophorus)イグナチウス』の句あり)神と離れているのは肉身のためであって、この肉体の滅ぶ

p. 73

時はすなわち神を完全に所有する時であり、至純なる明光裡に至る時である。死はキリストの許に往くことである。しかし地上においてはキリストは教会の内にある。教会とはすなわち教階制度である。『司教を主のごとく見倣すべきはもちろんなり』『イエズス・キリストが天父に従い給いしごとく、すべての司教に服従せよ、使徒に聴くがごとく司祭に従え、助祭をば神の戒律のごとく尊敬せよ』『司教を敬う者は神に敬われん、司教に隠匿して何事かを行う者は悪魔を祀(まつ)るなり』(エフェゾ人に贈る書 6:1、スミルナ人に贈る書 8:1、9:1)。さればイエズスが全教会の中心たるがごとく、司教は地方教会の中心であり(スミルナ人に贈る書 8:2)その指導者であって、その職務は使徒伝来の教えの純粋を護ることにある(マグネシア人に贈る書 13:1)。また司教は地方教会の規律を正すべき首長なると同時に、ミサ聖祭、洗礼、愛餐を司るべき祭典の長である。司教より独立せる異端者の執行するミサ聖祭は不正である。『そはわれらの主イエズス・キリストの御肉は唯一、御血の聖杯は唯一、司祭助祭を率ゆる司教はただ一人にして、祭壇は唯一なればなり』(フィラデルフィア人に贈る書 13:1)と言っている。婚姻が肉慾のためにあらずして主において行わるるためには、司教の認可を得るを要す。キリスト即教会、教会即司教、イグナチウスはこの信念を抱いて死んだので

p. 74

ある。

ヘルマス(Hermas)はローマの司教(聖クレメンス?  聖ピウス1世?)の兄弟で、第2世紀の半ば以前に『牧者』(The Shepherd)という本を書いた。ヘルマスは多少の欠点は持っていたが、多くの美徳を具えていた好信者である。また『牧者』は道徳の勧めで比喩の形式をもって書かれている。ヘルマスはイグナチウスに比すれば幸福なる終焉の点にはあまり着目せず、主としてキリスト教の倫理的方面に筆を向けている。『彼、その家に坐して律を黙想し、その美しく強く悦ばしく光栄に充ち人を救うの力あるを悟る』(比喩第6、1:1)。痛悔の天使はすなわち教えを説く牧者である。--キリスト再臨の遷延のために信者が落胆したようなさまは、イグナチウスにもヘルマスにも現れてはいない。もとより信者の中には冷淡な人も、欠点の多い人もいる。しかし大体においては、彼らは熱心に協力して神の国のために働いている。家の主人はいつ帰来するやも図りがたい、しかし下僕らはそれが非常に遅れるかもしれぬとの予想の下に建築に従事している。教会は一日ヘルマスに幻の中に示された塔の建築に似ている。『美しき石材をもって築かるる高き塔を見ずや。数千万の人々、あるいは海の深みより、あるいは地底より石を運びて、これを六人の青年

p. 75

に渡せば、青年らはこれを受けて建築に従事す。海の深淵より得たる石は直ちに建築に用いられて、塔の全体はあたかも唯一の巨巌より成るがごとく、継ぎ目も分からぬほど互いによく適合せり』(幻影第3)あるいはすでに削られた石もある。あるいは曲がり、あるいは裂けたるために、建築に用いられぬものもあり、また側方に転がり、または火の中に落ちる石もある。かくのごときは不義の子、富の奴隷、肉慾の囚人なる悪しき奉教志願者である。また一度塔の建築に用いられても再び取り外して研磨(みが)き直さねばならぬ石、またはとうてい用にたえぬために全然棄て去られる石もある。これらは悪き信者である。教会は常にかかる道徳的頽廃を嘆き、悔悛の義務を説き、絶えず成長、進歩を続けるのである。

教会と国家、迫害

教会は試練の裡に成長した。ローマ帝国政府は最初の間こそキリスト教とユデア教とを混同したが、間もなくその区別を解し、ユデア教には寛容、キリスト教には憎悪をもって対した。後者が皇帝崇拝を認容しなかったのがこの迫害の主因である。ローマにおける皇帝偶像化の起源は外来的のものでさほど古いものはなく、ジュリウス・ケーザルのあたりに発する。これがちょうど死滅しかかっていた古い神々に対する信仰に代わって、国民の愛国心、国民的自覚の基礎となり、あるいはその表

p. 76

徴となっていた。それゆえ偶像の破壊と共にキリスト教が皇帝の礼拝を禁止した時、為政者はキリスト教を目して国家存立の基礎を危うくする反逆的危険思想と解したのである。しかしその実はキリスト教は『セザルの物はセザルに帰し、神の物は神に帰せ』とのイエズスの教えを正直に実践したばかりで、キリスト教の中に根本的に国家思想と相容れぬものがあったのでは決してない。教会の対国家の争闘はまったく防衛的の戦いであった。黙示録第18章の恐るべき呪詛は教会の国家に対する態度が常に必ずしも祝福あるいは諦めの服従でないということを示している。しかしその聖憤が除外例的の態度なることは明白である。すでに使徒聖パウロがギリシャ、ローマ文明の謳歌者であったことは前篇に記した。彼がローマ人に贈った書の中に現れてくる思想、『人各々上に立てる諸権に服すべし。けだし権にして神より出でざるはなく、現にあるところの権は神より定められたるものなり、ゆえに権に逆らう人は神の定めに逆らい、逆らう人々はおのれに罪を得。....されば服従することは汝らに必要にして、ただに怒りのためのみならず、また良心のためなり云々』(ロマ書 13:1-7)、また同じく聖パウロがその愛弟子チモテオに教えたところ、『しかればわが第一に勧むるは衆人のため、帝王等およびすべて上位にある人々の為に(神に)懇願し、祈祷し、請願し、かつ感謝せら

p. 77

れんことなり。これわれらがまったき敬虔と正直とにおいて、安らかに静かなる生活を営まんためなり』(チモテオ前書 2:1, 2)とは彼一人の教訓ではなかった。『たとえしばらくは種々の試みに悩まさるべきも、汝らは喜びにたえざるべし至愛なる者よ汝らを試みんとする火のごとき苦を新奇なるものの到来せるがごとくに怪しむなかれ、かえってキリストの苦に与るものとして喜べ....汝らもしキリストの御名のために侮辱せらるることあらば幸いなるべし....もしキリスト信者として苦しめられなば恥ずることなく、かえってこの名に対して神に光栄を帰し奉るべし』と迫害せられつつある信徒に書き贈った聖ペトロは、同一の書簡中に『汝ら王のためにすべて人の制定したるものに服せよ、すなわち主権者として帝王に服し、また悪人を罰して善人を賞せんために帝王より遣わされたるものとしてすべての官吏に服せよ....すべての人を敬い、兄弟らを愛し、神を畏れ奉り、帝王を尊べ』(ペトロ第一書)と教えている。かくのごとくキリスト教は君主に忠実、服従を命令する宗教である。また実際について見ても、前に掲げた通り円形劇場において致命すべく小アジアからローマに護送さるる途上、筆をとったイグナチウスの数篇の書簡のいずれを閲(けみ)しても、皇帝に対する反逆、主権に対する不平、憎悪のごとき感情は寸毫もこれを発見することができない。迫害の下に殉教するキリスト教徒の全体がこの通りであっ

p. 78

たのである。

いわゆる第2世紀の『護教家』(apologists)の著書を読んで得るところもまた同じ印象である。彼らはキリスト教の真理はすべての善の友であると言い、キリスト教がその中に発展し成長することを得たローマ帝国の平和的統治を讃美し、帝国を愛し皇帝を尊敬し、キリスト教を利用して友に社会の幸福を増進せんことを提言するのである。彼らは革命家でも不平的分子でもない、政府に喜んで服従する徒である。『彼らの服従心はよくその護教論にあらわれ、社会秩序の愛好家なるを知らしむるに足るものあり』とボスュエ(Bossuet)も批評している通りである。リオンの司教聖イレネウス(S. Irenaeus)はローマ人につきて『世界が平和を楽しみ、われらが海陸を心を安んじて旅行するを得るはこれ彼らの賜物なり』と率直に思うところを述べ、オリゲネス(Origenes)は『護教家』と共に、ローマの統治はキリスト教の弘通のための神の摂理なりと認めている。僅少の例外はあっても、信者は大体において喜んで兵役につきまた種々なる国家的義務を尽くすに吝(やぶさ)かでない。たとえ圧制を嘆き、泣血の声を洩らすようなことがあっても、忠君愛国の道にそむくようなことはなかった。それゆえ、国家と教会との間にはりっぱに妥協の余地があったのである。

p. 79

かくのごとくキリスト教はローマ統治に好意を抱き、友誼的態度を示していたにもかかわらず、主権者側にはコンスタンチヌス大帝以前に、キリスト教発展の大勢を察して、これを握手する政策をとるだけの高邁(こうまい)な識見を有する皇帝はなかった。王冠を戴ける賢者、おのが神性に関して何らの疑念をも抱いていなかったストア哲学者のマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)も新宗教については何の理解もなく、キリスト教徒は偏執と衒気とのために死を軽んずる狂信の徒であると考えて(マルクス・アウレリウス 瞑想録 11:3)彼らを猛烈に迫害した。アレキサンドル・セヴェルス(Alexandre Severus)半自由主義帝国も人心に寛恕を教えるほどの力なく、13年間の平和の後には、マクシミヌス・デシウスの迫害が起こり、さらにヂオクレチアヌスの下に狂暴極まる大迫害を見た。コンスタンチヌス帝によって国家と教会との和睦が成立するまでに、実に120年間の比較的平和時期に対し、129年間の迫害時期を見るのである。これを世紀によって分類すれば、第1世紀には6年、第2世紀には86年、第3世紀には24年、および第4世紀の初頭13年間が教会が堪え忍んだ迫害の期間である。

かくのごとき数字を前にしては、当時のキリスト教徒が『光より遁(のが)るる人』(gens lucifuga)と呼ば

p. 80

れて臆病な、他人を恐れる徒であったというのも怪しむに足らぬ。むしろ驚嘆すべきは彼らがこの迫害の裡にありてなお生命に執着し、征服心を有し、思索を愛好する余裕があったということである。なお注意すべきは以上の時期を通覧するに迫害期には一般に教会の活気も横溢し、これに反して第3世紀の迫害の終焉と共に惰気が現れ始めた事実である。おのが殉教の予想あるいは他の殉教の光景は信者の心にかつてなき犠牲克己の緊張を生んだ。奴隷までがその社会上の地位に対して反逆の念を抱かず、かえってキリストにおいて自由人の感情を獲得する。かのかよわきブランヂナが獄卒の拷問をものともせず、おのれ一人のみならず他の殉教者の勇気を奮い起こすさまを見ては、誰か彼女の卑賤の出であるということに思い及ぼう。『門地高き母が、その子らを励まして勝利の光栄を得しめ、彼らを王の間近にはべらせせし後、おのれもまた同じ戦闘の場に進むがごとく、彼女は満足と喜悦とに充ちて彼らの許に急ぎ行きぬ。婚宴の席に招かれし人のごとくにして、猛獣に投げ与えらるる餌食には似ざりき』(ユーゼビウスEusebius 『教会史』 5:1)。貴族もキリスト教徒たる名を棄てざらんがためには、財産の没収も爵位の剥奪も厭わない。幼きセクンダのような12歳の小娘が86年をキリストに仕えたスミルナの老司教ポリカルプス(Polycarpus)と等しく刑罰にたじろ

p. 81

がぬ。

殉教者はあらゆる年齢、あらゆる階級にわたり、その多数は単によく教義の一般をわきまえていた『熱心な信者』というだけで、神学的思索などしたこともない人々である。しかも彼らの信仰の堅固なると共に、その信仰の一定せること--厳格なる一神教、父と子と聖霊とに対する礼拝--ならびに永遠の幸福、キリストの許における不死の確乎たる希望はすべて驚嘆に堪えぬところである。

キリスト信者の生活、友愛

殉教者の死は初代キリスト信者から『王なる主に対する類なき愛情』(聖ポリカルプスの殉教 17:3)の徴として、そのために特に尊敬され紀念された。しかしキリストのためにあるいは猛獣の餌となり、あるいは海中に沈められ、火焔に焼かれ、あるいは剣手の斧の錆となる等の他に、当時のキリスト信者の日常生活がすでに多くの犠牲と苦痛とを伴っていたのである。毎日のように平凡な事件の裡にも信仰を保ってゆくためにはおのが生命を棄てねばならぬ場合が起こるかも知れぬ。この生活の不安は多くの信者にとっては死そのものより苦しかったであろう。古代の生活には国民的かつ同時に宗教的行事が極めて濃厚に織り込まれていた。闘技の見物、演劇、市勢調査、神々の祭典などは皆

p. 82

市民生活の一部として義務的の祝日であったから、主義としてこれらに参与せぬということは市民生活ののけものとなるに等しかった。その他家庭生活においても伝統的の行事や習慣に信者の信仰と道徳とに相容れぬ事柄が極めて多くあったので、ここにも無数の衝突が醸(かも)された。テルチュリアヌス(Tertullianus)の言葉を借りれば、家庭の一員がキリストの信仰を抱くようになれば『かつて不貞にして、今貞淑となれる妻は夫に逐われ、不幸児を認容せる父は今従順となりし子を廃し、今まで慈悲深かりし主人は忠実となりし奴隷を放逐する』(護教論 3)のであった。個人の霊魂にも激烈なる争闘があった。彼らはしばしば洗礼の水に洗われて、キリストにおいて再生する以前には、不義の波浪に漂い(オリゲネスの言)、聖パウロがコリント人に書き贈ったように多少の程度において、私通者、偶像崇拝者、姦淫者、云々の罪人であった(コリント前書 6:9 以下)かかる人々がいったん洗礼によりて聖霊の神殿となれば、あらゆる不道徳と肉慾とに飽和した世の中に棲みつつ、その汚れに少しも染まってはならないのである。

過去の哲学にこの偉大なる道徳的改革力なくキリスト教にこれありしはそもそも何ゆえであろう。その教えが単なる自然的理性の権威に基づく倫理にあらずして、信仰であり啓示であったからである。もと

p. 83

よりキリスト教道徳が全部新しい独創であった訳ではない。さもなくば哲人セネカ(Seneca)と聖パウロと関係があるなどとの説が生まれるはずもない。超自然は決して自然を破壊するものではない。当時プラトン学派哲学者のセルスス(Celsus)がキリスト教に他の諸派の哲学と同一の道徳律が存在すると言って攻撃したのは見当違いの議論であった。しかし人間の良心に自然に認識される最も簡単の人間の義務もイエズスの教えの中に入れば新しい意義を獲得する。倫理がイエズスの宗教の体系の中にその地位を占め、彼の言葉で説明され、彼の模範的生涯の中で具体化され、その恩寵により実現を容易にされるからである。すでに聖パウロのキリスト教を述べる際に、完徳とはイエズス・キリストの模倣に他ならぬ由を記した。自然的倫理道徳さえもこれに宗教的の意義を附して見る傾向は使徒的教父(自ら使徒に親炙し、あるいは使徒と同時代の人の弟子、すなわち使徒時代直後の教父をかく称す)においても極めて顕著である。福音の教えが彼らの言葉に熱と真摯とを与えるのである。聖クレメンス、聖イグナチウス、聖ポリカルプス、『コリント人に贈るクレメンス第2書簡』の筆者は絶えずイエズスの教えの権威を引用する。善く活きるとはキリストに相応しく振る舞うこと、すなわ

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ち御子によって人々に示された御父の御旨を行うことである。模範も脅迫も勧告も皆イエズスの生涯と教えとから出発する。『主イエズスの御言葉を想起せん』(クレメンス書簡 13:1)これが最後の議論で、この言葉の前にはあらゆる異論が消える。神に対する礼拝、主権に対する服従、友愛、潔徳すべてこれらの道徳の義務が新約の教えに基づいている。新約の教えはすなわちキリストの霊体なる教会の教えで、その肢たる信者は汚れに染まってはならぬ。また信者は同じ天父の養子である。ゆえに父なる神と極めて密接な関係があり、また十字架上に贖われて洗礼によりキリストの体の一部分となりし人々の間には、新しい兄弟の関係が生ずるのである。

教理が信者の生活にどのような力と熱とを与えたかは彼らの間に成立した兄弟的愛の社会を見ればわかる。致命の危険を冒す英雄的勇気の背後にはこれを支える力が必要である。この力は信者の兄弟的愛であった。アンチオキアの聖イグナチウスは教会をさしてアガペすなわち愛と称(よ)んだ。かつてイエズス自身教会の実現せしむべき理想を教えて『わが飢えしに汝ら食せしめ、わが渇きしに汝ら飲ましめ、わが旅人なりしに汝ら宿らせ、裸なりしに着せ、病みたりしに訪い、監獄にありしに来りたり』(マテオ 25:35 以下)と言われた。第2世紀および第3世紀のキリスト教徒はこ

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れが空言でないことを立証した。『信者の唇頭の新しき言は愛の言であった。しかしこれは単なる言ではなく事実であり、力であった。信者らは事実上兄弟姉妹と信じその通りに振る舞ったのである。』(ハルナック)貧民、孤児、寡婦、病人、奴隷、鉱山の囚人の救済、飢饉その他非常時における救護、教会費の負担、貧民に少なくとも最後の眠りの土地を与えるための葬儀組合、就職紹介等の事業が信者間の兄弟愛に発芽した。この愛は単に一地方の一教会にとどまらぬ、巡礼および旅人の接待、教会の交通、非常時における扶助等の形式をもって、各地の教会は互いに連絡し、信者は全教会を廻る生命の流れを自覚した。

しかし古代の世界に新たに輸入された兄弟愛の福音が社会に急激の変化をもたらし、今まで圧制されていた人々がにわかにキリスト教において反逆の原理を発見したと考えてはいけない。あくまでも現実感の強い教会はいたずらに旧制度を破壊する革命家の態度を取らず、一歩一歩新理想の樹立に近づいていった。その好適例は奴隷解放に対する方法である。一片の宣言が数世紀の慣習を破壊するを得ると考える革命家は、教会の態度を生ぬるいと思うであろう。しかし教会の取った手段は真に歴史を理解する具眼の士にとっては賞讃に値するのである。教会は破壊の廃址の上に均整を

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欠く新社会の建築を始めたのではない。今までそこにあった古代社会の建物を人の気づかぬ間に徐々と造り替えていったのである。教会は奴隷には服従、主人には愛憐を教えると共に、主人をも奴隷をも共に秘蹟に与らせ、共に聖職者に採用し(教皇カリストゥスは実にローマにおける一キリスト教徒の家の奴隷出身である)社会を指導して暴力を用いることなく奴隷廃止の機運を作るに至った。

キリストは各殉教者の裡にあって迫害に堪える力をかし、天国の光栄の希望を与える。またキリストは信者の群の中にあって、彼らを一致せしめ、潔め、聖とする。これが新宗教に多くの人を惹き寄せる魅力であった。もしも新しい信者の一人ひとりにその改宗の動機をたずねたならば、おそらくはその多数が信者の実生活を見て感動したからであると答えたであろう。信者の生活は神において隠れたる生活であるが、心ある人には福音の中に潜む神の能力を悟らせるに充分であった。彼らは異なる国、異なる言語の人ではない。衣服にも、住居にも、食物にも、職業にも別に他と異なる点がない。しかもある意味で他の市民とまったく異なった生活を営んでいる。人々は最初この現象を訝(いぶか)り、やがて彼らの生活に心を惹かれていったのである。

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『彼らは普通の人のように結婚して子を挙げるが、決してその児を棄てるようなことはない。食事を共にし共同の食事をしても、臥床を交えることがない。肉の中に生きているが、肉に従って生きていない。地上に棲んでも天国の市民である。法律を遵守するがその為すところは法律の要求以上に出づる。万人を愛して、万人に迫害される。....恥辱を受けても、これが彼らの光栄である....人々に侮られ、しかも人々を祝福する。暴力を加えられても礼儀を失わぬ。善をなして悪人のごとく罰せられ、罰せらるるもこれをもって新たなる生命を得たるかのごとく喜ぶ。ユデア人は敵に対するがごとく彼らを憎み、ギリシャ人は彼らを追及する、しかも彼らを憎む人もその憎悪の理由を知らぬ。....主を否ませんがために猛獣に与えらるるも彼らの勇気は阻喪せず、刑罰に比例して彼らの数は増える。すべてこれらは人の業にあらずして神の力である。けだしパルジア(神の内在、パルジアはまたキリスト再臨をさす術語である)の証拠である』(ヂオゲネトゥス(Diogenetus)に贈る書 5および7より抜粋、アリスチデス(Aristides)護教論参照)

智慧と信仰、理性の内在する御言葉

これらの神の内在の徴も当時のあらゆる人に同じように感じられるわけにはゆかなかった。殉教者

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の平和も、一般信者の気高い生活も、新しいキリスト教に対する偏見を全部滅ぼしてしまうわけににゆかなかった。哲学者や弁論家の眼には、新宗教はたとえ道徳教として多少の価値はあるにせよ、要するに無学者の宗教としか映じなかった。その創立者が文芸の初歩さえも解せぬ漁夫や収税吏であった宗教が学者に何の用があろう(セルススの反キリスト教論)。キリスト教の最初の学者たりしパウロ自身、人間の知恵とキリスト教の信仰との間に相容れざるところあるを説いているではないか。

この時代にあって弁論家や哲学者が非常に尊敬されていただけ、この議論は重大な影響があった。第1世紀の終わり頃ディオン・クリソストームス(Dion Chrysostomus)の演説は蛮族に対する勝利よりも人気があった。キリスト教徒の中にも、いつの世にもあることであるが、極端論者がいてギリシャ文明との矛盾を誇張した。『彼らに弁証法を教えたる憐れむべきアリストテレスよ、建設も転覆も巧妙なれば、その命題も曖昧、憶測もでたらめで、議論にはうま味なく、苦心して研究の結果自ら困難を作出し、充分に論じ尽くすこと能わざるを恐れて全部を疑うに至る。....アテーネとエルサレム、アカデミーと教会とに何の通ずるところかある....われらにとりてはキリスト・イエズスの後に好奇心を要せず、福音書の後に研究を要せず』もっともテルチュリアヌスがこの叫びをあげ

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たのはキリスト教とグノーシスとの区別を力説したのである。しかしこのような攻撃的態度は新奇で一の除外例に属する。シリアのタチアヌス(Tatianus)もカルタゴのテルチュリアヌスのように人間的智慧を憎んだ。しかし一般には第2世紀におけるキリスト教学者は学問と信仰との調和を計り、ギリシャ哲学の中に埋もれている真理を顕わさんと 努めた。彼らはこの努力において聖パウロの示した道筋をたどったのである。自ら足れりとするがゆえに世の智慧を斥けたパウロも(コリント前書 1:17 以下)人間の理性に神および道徳法を認識する能力あるを認めたではないか(ロマ書 1:18 以下)。古代の哲学の中に真理の破片が散在し、鉱滓の中に宝石が交じっているのを大切に拾い取らねばならぬ。『すべて真なること、....すべて正しきこと....いかなる徳も、いかなる誉れも』取り入れることを勧めた使徒の言に応ずること(フィリッピ書 4:8)これがキリスト教を偶像教徒に示説せんとした『護教家』と称せられる人々の共通の態度であった。

彼ら護教家(apologists)は使徒的教父(apostolic fathers)とまったく異なる一群である。後者に属するアンチオキアの聖イグナチウスは神秘家(ミスチック)で、ローマのヘルマスは倫理学者である。しかし彼らは学者ではない。彼らには聖パウロのロマ書に見ゆる深い思索もなければ、聖ヨハネの

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ロゴス神学の発展もない。第2世紀の護教家はこれに反して思索的であり、神学的である。彼らの説明は未だ幼稚であるが、それだけ宗教は当時の教養の低い一般の人々にとってさえ、心情の慰藉たると共に宇宙人生の解釈を与えねばならなかったということを事実の上に立証している。自分の能力でおのれの信仰の立脚点を書き連ねることができぬ人々も、才知すぐれたる兄弟や、有名な改宗者によってその理由が述べられているのを見ることが衷心よりの満足であった。

聖ユスチヌス(S. Justinus, 100?-165?)がユデア人を目的にして書いた護教論には--例えば『トリフォンとの対話』--旧約の預言の成就がキリスト教の真理の有力な論拠であるが、異教徒を目的として書いた護教論はこれに加えて、主としてキリスト教を人知の完成として取り扱っている。キリスト教徒は理性によりその宗教を説明することができる唯一の人々である。皇帝チベリウスの時代に降生された『御言葉』の啓示は、自然の理性によって絶えず人々を照らし給うものの最後の完成に過ぎずして、イエズスの生誕以前にあっても理性の言を聴く義人の霊魂は『御言葉』により完成されたのである。それば古ギリシャにおける真の賢人、例えばヘラクリトスやソクラテスはその実キリスト以前のキリスト教徒である。理性に従って活きた彼らは『御言葉』と共に活きたので

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ある。こう書いて来ると聖ユスチヌスの考えはいかにもギリシャ風である。そのためにキリスト教的啓示の独創的な部分が護教家によって中和されたと批評する歴史家もいる。もしも護教家が聖寵の概念を忘れてしまったならばこの批評はけだし正当であろう。しかし彼らは信仰を忘れなかった。彼らは信仰と聖寵とを自然化せず、かえって理性を超自然化したのである。例えば彼と同時代のストア学派の哲人マルクス・アウレリウス皇帝は人間にとってこの内在的理知の光は充分なりと考えていたが、聖ユスチヌスは、この光は(万人の心に直接に語る能力を具うるにかかわらず)実は霊魂とまったく異なり、かつ自己の存在を有する『御言葉』によって与えられたものであり、この『御言葉』はまた肉となってわれらの間に棲み給うた、と教えた。彼もまた真理を書中に求めるが、理解することは聖寵の賜物である。彼の考えではキリスト教中の神の業は人の理性の完成であるが、この完成たるや、実に人の自然力をもってしては能わざるほどの完全なる完成である。神の扶助は聖書を正しく理解するためにも、また単に人間の霊魂の不滅を証明するためにも必要である。

護教家らはかくのごとくにして信仰と理性との調和を計ったが、この説明のしかたは果たして正しいであろうか、これによってキリスト教の神秘を少しも失わなかったであろうか。第四福音書とこれ

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ら御言葉に関する新しい文書とを比べてみれば、護教家は未だまったく御言葉の奥義を悟り得なかったことが瞭然となる。『その目をもって見、耳をもって聴き、その手をもって触れたる』ヨハネは、イエズスの救世の玄義における霊肉の一致に関して聖ユスチヌスとはまったく異なる深い理解を有していた。第四福音書においては極めて抽象的なるイエズスの声明も詳細な活きた事実で表現される、そこには高遠の奥義と経験した事件との不思議な融合がある。しかし聖ユスチヌスにおいてはロゴスの教えと歴史的事実との間にこの合成がない。また秘蹟観についても同様である。例えばユスチヌスがその第1護教論65 以下に記している聖体秘蹟に関する記事と第四福音書の第6章とを比較してみるがよい。

護教家中最も有名なユスチヌスがすでにこの通りである。彼は決してキリスト教文学の巨人ではない。彼は深い思索家でも優れた文学者でもない。タチアヌスのように独特の文体(スタイル)を有してもいないし、またその引照は平凡である。

たとえユスチヌスを学者と見倣すとしても、それは当時の限られた狭い信者の世界においての学者である。このことは特筆に値する。護教家の理性的のキリスト教と一般信者の信仰との間に決して

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二種類のキリスト教があったのではない。

グノーシス派異端

宗教を理知化しようとする傾向が強くなると共に、この傾向が民衆の一般に及ぶのも自然の勢いである。けだしグノーシス派異端はその間の消息を告げる。そもそもグノーシス(gnosis)とは知識の義であって、この語はキリスト教の真理、殊にその深い理解を意味する言葉として、正統派の著書にも、また遡って新約聖書の中にも散見している。しかし使徒時代においてさえこの真のグノーシスの他に起源不明の誤れるグノーシスがあった(例えばコリント前書 1:15、12:8 に対して同 8:1 を参照)。ケリントス(Cerinthus)バジリデス(Basilides)ヴァレンチヌス(Valentinus)カルポクラテス(Carpocrates)等の第2世紀グノーシス派諸異端の起源はさらに不明である。教説は派により多少の差違があるが、各派を通じて共通の二点がある。しかもこの二点は無知な信者に魅惑力を持っていた。その一は密義教であること、その二は通俗教であることである。その意味を下に説明する。密義教という意味は、その説くところによれば、イエズスは一般群衆に対しては表面的かつ浅薄な教えを与えたが、特殊の弟子に対しては真の知識を秘密に啓示して(マルコ 4:11、マテオ 13:

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11 参照)、この秘密の啓示が聖ペトロなり、聖パウロなり、聖トマなりを経て彼らに伝わった、ゆえにこの知識は特に選まれた人々のもので、一般の『物質的』信者に隠しておらねばならぬ、と説くからである。このような密義はいつの世にも衆愚の心を迷わすに充分である。

グノーシスの内容はまた極めて通俗的であった。なぜならば、それは極めて大仕掛けな、無数の世界、無数の神的存在を含む宇宙の説話であったから。すべてが想像の目的で、何一つ冷静なる理性の対象はない。グノーシス思想の欠陥は中庸(モデレーション)を欠く点である。グノーシスが荒唐無稽の神話化したキリスト教にいくら詳細の説明を与えても、とうていその低級さ加減を隠蔽することはできぬ。365の天があって、365階級の天使があるというのは、ただ一つの天に唯一の神がましますと教えるよりも哲学的であると言えないではないか。しかしこの説話法(ときかた)は極めて深遠な真理の所持者であるという信念を衆愚に安価に与える方法である。この数字が正確なるや否やなんぴとも知ることができないからである。

それゆえグノーシス派異端について記述する時、宇宙論(Cosmology)とか救世主論(Soteriology)とかの哲学的または神学的抽象名辞を用いてはならぬ。これによってグノーシスを理性的の形而

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上学、一種のネオプラトン派哲学の前駆者と間違える恐れがあるからである。またあるいは『グノーシスはギリシャ風の二元論よりさらに一歩を進めたものである』とか、あるいは『グノーシスは東洋哲学の影響の下の最初の唯心論的一元論の試みである』とか論ずるもまた誤謬である。もとよりグノーシスの全部がギリシャ思想より出たのではない。しかし空想の跋扈、偉大を装うがための誇張は特に東洋的の色彩でなく、東西到るところにおける低級知識の慣用手段である。

グノーシスの起源は前述のごとく明らかでないが、いかにしてこれがキリスト教徒の一部分を驚かせ、有頂天とならしめたかということは悟るに難くない。けだしその派の信者はおのが空想を満足させ、また一般のキリスト教徒に比し自分は優れたる知識を有すとの誇りがあった。またある派のグノーシスでは祭式に肉感的の快楽を加味し、またある派においては手品を使ったり、またはミサ聖祭において聖爵を奉挙するとき中に深紅の液体を表したりした。(聖エピファニウス、聖イレネウスの証言)。また普通一般のキリスト教徒には善業と潔生とが必要であるが、本来『精神的』のグノーシス信者はいかなる生涯を送っても救済を失うことがないと教えたのも、(聖イレネウス)グノーシス成功の一原因であるかも知れぬ。

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御言葉による世界の支配

グノーシスの主要なる主張の一は、物質は本質的に悪なるがゆえに善なる神の創造ではないということである。カトリック教会は、この説が創世記の文字にもまた福音書の精神にも悖ることを感じた。リオン市の司教で反グノーシス論の大立て者なる聖イレネウス(S. Irenaeus, 140?-+193-211)はキリスト教の啓示者なる神と、物質世界の創造者『われらの扶養者』なる神との同一なるを力説し『物質も救済に与ることを得』と教え、物質世界も御言葉の支配下にあると説いた。

これは決して無益の空論ではなく、実際生活に多大の影響を有していたのである。たとえ他の誤謬がなくとも、この説だけでグノーシスはキリスト教を奇形化するに充分である。もしも肉体が本質的に悪ならば苦心してこれを清浄にしておく必要もなく、あるいはまたその反対にこれを極めて虐待すべき義務があるとも考えられるであろう。第2世紀ないし第3世紀の頃、あるいは純然たる異端として、あるいは教会内における一派の人々の単なる傾向として極端に肉体を憎み、これに過度の苦業を課し、あるいは正当なる結婚をも否定するに至ったものが数々あったけれども、教会は常にこの謬見を正そうと努めた。けだしチモテオ前書に(第4章)『聖霊の明らかにのたまうところによれば、末世に至り

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てある人々惑いの種々の霊と悪鬼の教えとに心を傾けて信仰に遠ざかることあらん。これ偽りを語る人々の偽善によることにして、かれらはその良心に焼き金を当てられ、めとるを禁じ、信徒および真理を知れる人々の感謝をもって食するよう神の造り給いし食物を断つことを命ぜん。そもそも神の造り給いしものは、みな善き物にして、感謝をもって食せらるるものに棄つべきはなし』とある通りである。教会はタチアヌス(Tatianus)一派の禁欲主義者(encratites)に対して結婚の正当なるを主張し、マルシオン(Marcion)(反ユデア教的かつやや理想的のグノーシスを主張した)に対しては物質世界の創造も神によることと、キリストの肉身の実在とを主張したのであった。

可見的教会

歴史上のキリストに愛着すると同一の意味において、すなわち見得べきものに対する信頼、あるいは語を替えて言えば、実際をしっかりとつかんでゆく行き方をもって、教父らは可見的(具体的)統治体としての教会の伝統的権威を高く主張した。例えば聖イレネウスはいかにして真の信仰内容を知るべきかとの問いに自ら解答を与えて、これは使徒らの後継者として天父より使徒職と共に真理を教うるための聖寵を賜りし長老らに聴くことにありと言い、(反異端論 4-26-2)また使徒伝来と

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自称して各矛盾する教説あるはいかにとの問題に対しては、司教の継承順序の正しきや否やに注意せよ、ローマ教会のペトロより当時の司教エリュテリウス(Eleutherius)までの継承は万人の知るところなれば、ローマ教会の教えに従わば真理に従うこと確実なりと述べている(同上 3-3-3)。

聖イレネウスによればローマ教会が他の教会に対する真理の定規たるは、単にそれが使徒伝来であるばかりでなく、実に聖ペトロ聖パウロ二人の首位使徒に建てられて使徒の伝統の保持者として極めて特殊の地位を占めているからである(同上 3-3-2)。

この議論は明らかに可見的教会は聖霊の不可謬的指導の下にありという信念を前提としている。

この考え方に正反対の態度をとったのは、第2世紀の終わりから第3世紀の始めにわたって勢力を得たモンタニスム(Montanism)の異端である。この異端はおよそ172年の頃フリジャに始まり、次いで各地に波及したが、特にアフリカ北部の教会を攪乱すること甚だしく、遂にかのキリスト教著者として有名なテルチュリアヌスをもその派の中に引き入れてしまった。彼らは禁欲主義的傾向を示し結婚を罪悪なりとし、世界終末の極めて近きを信じていた。しかし異端としての根本的な特徴は他にあ

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った。彼らの考えによれば、キリストの啓示の時代の次にはこれに優る聖霊の啓示の時代が来る。今やすなわちこの新時代であって聖霊の啓示を蒙れる新預言者たる彼らを、従来の教権に勝る権威を有すると主張した。しかし教会はこれら新預言に対し伝統の権威を、個人的啓示(private revelation)に対して司教の教権を主張してこれと戦い、これを征服した。ヂュシェーヌ(Mr Duchesne)いわく『第3世紀後には霊感を受けし者、預言者、放浪的学者はいなくなった。モンタニスムおよびグノーシスの失敗以来教権を覬覦する者はいなくなった』(古代教会史)と。

『物質も救済に与ることを得』の観念、可見的教会に対する信頼に関連して古人の秘蹟に対する態度が同じ精神から生まれる。聖体(ユカリスチア)におけるキリストの実在は彼らの確信である。殉教者聖ユスチヌスがユカリスチア(Eucharistia)のパンと爵と称したミサ(missa)聖祭は真実の犠牲であり、主の受難の反復かつ紀念であり、預言者マラキアにより告げられたる古の犠牲に代わるべき純真の献物である。ユスチヌスによる以上の梗概(トリフォン対話篇 41, 70, 116, 117、なお同上 28, 29 参照)は、カルタゴ司教聖シプリアヌス(S. Cyprianus, 200?-258)がさらにその書簡 63 において敷衍している。同じく聖シプリアヌスが時の教皇聖ステファヌス1世

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(S. Stephanus I)に反対して異端派の洗礼を無効として異端より帰正する者の再洗礼を要求し、この点で教皇と論争したのは、とりもなおさず洗礼の儀式が聖霊の賜なる聖寵を与えるという双方の見解が一致していたからである。またテルチュリアヌスが教皇聖カリストゥス(S. Callistus)に反対して姦通のごとき大罪は教会といえどもこれを赦す権利がないことを主張し、また背教者(Lapsi)の赦免に関し聖シプリアヌスに反対してフェリシシムス(Felicissimus)その他が殉教者あるいは証聖者の取り次ぎ書きによりてこれを赦すべしと主張し、またローマにおいては教皇聖コルネリウス(S. Cornelius)が悔悛せる背教者を赦したるに対してノヴァチアヌス(Novatianus)がこれを拒んで自ら偽教皇(Antipope)となり離教を開始したことなどは、罪人の復帰ということがどれだけ当時の教会内の大問題であったかを示している。この頃には未だ聖寵を与うる一定の儀式を『秘蹟』の名の下に他と区別していなかったが、かかる論争が漸次に後代の系統的秘蹟論を準備していたのである。

アレキサンドリア思想家

第2世紀の終わりより第3世紀の始めにかけてアレキサンドリアに二名の大思想家が生まれ出て神学の成長に異常なる貢献をした。すなわちクレメンスおよびオリゲネスである。

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クレメンス(Clemens, 150?-215?)はギリシャの真理とキリスト教の真理とは互いに相通ずるとの確信を有していた。この確信は時として善良な信者に危惧の念を抱かせた。子どもが仮面を見て驚くように彼らは哲学を恐れるのだ(クレメンス雑録 Stromata 6:10)。しかしこの危惧もまったくの杞憂ではなかった。クレメンスは完全なる正統キリスト教の有する中庸の知識ならびに伝統の精神を間々逸し去った。彼の説は一種の穏和にして教会的なるグノーシスであると評された(バチフォル(Mgr Batiffol)歴史ならびに歴史的神学の研究)。もとより彼のグノーシスは神の直接統治を否定したり、あるいは旧約聖書を不敬虔なりとして排斥するほど異端的ではない。彼が宗教的生活を理想とするグノーシスは普遍の信条の上に立ち、一般の信者と同一の道徳律を認めていた。しかしギリシャ思想とキリスト教思想との近接を証せんとするのあまり、クレメンスはあるいは誇張に走り、あるいは両者間に無理に近似点を求めたりした。しかし彼が神学を健全なる理知主義の方向に導いて行った功績は没すべくもない。

オリゲネス(Origenes, 185-254)は殉教者の遺児でクレメンスの弟子である。初代キリスト教の有した最も深い思想家の一人である。彼もクレメンスのように古代文化の熱心な同情者であっ

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た。聖グレゴリウス・タウマトゥルグス(S. Gregorius Thaumaturgus)はオリゲネスの弟子であったがその師を追憶して『われらには何ひとつ禁止された題目とてはなく、隠されているものも、触るるを許されぬものもなかった。いかなる思想、いかなる教説も、すなわち蛮民の思想、ギリシャ思想、神秘的思想、法律的思想、神的思想、人的思想の何たるを問わず自由にこれを検討することが許された』と語っている。彼が超感覚的、神秘的事物を喜び、神学においては好んで三位一体、天使、霊魂に関する思索に耽り、聖書解釈上においては歴史的事件を霊的真理の象徴として取り扱ったことなどはプラトン学派哲学の影響である。彼は後に新プラトン学派の形態をとるに至る複雑にして漠然たる時代の傾向を満足せしむるに足る要素を充分に具えていた。新プラトン派のプロチヌス(Plotinus 203-270)はキリスト教を失ったオリゲネスであると評する者さえある。しかしオリゲネスはその超感覚的、神秘的事物に対する愛好にもかかわらず、アリストテレスをも尊敬して、アリストテレスは一番人間的で、他の学派に比して、吾人の有する善き天性と最もよく共鳴するところがある(対セルスス論 1:10)と言った。この学的寛大に加えて彼は該博なる知識を所有して驚くべき多量の著述を残した。多少の文体の欠陥にかかわらず、その『対セルス

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ス論』は所論の公平、反駁の正鵠により今に至るまでキリスト教の有する最良の護教論の一つである。彼が心理的または道徳的の議論を巧みに操り、熱烈なる確信をもってあるいは教会の聖なること、あるいは福音史家の真率を証するあたりは読んで非常な愉快を覚える。彼の『六行聖書』(ヘクサプラ)は各語の聖書を6行に書き並べて相対照し、批評的テキストを決定せんと努めた科学的聖書研究の最初の試みであった。『諸原理について』という彼の浩瀚な著述は聖書と聖伝とに基づく神学の方法を定めたのである。不幸にして彼の思索は時として方向を誤り教理に相反していたこともある。『彼の書いたものは系統というより? ? である。一定の定理でなくむしろ研究と希望との原理である』という批評家(ウエストコットWestcott)の言は確かに正しいが、例えば霊魂の未生前存在説のごときは伝統的キリスト教の範囲外である。かくのごとくにして後世にてはオリゲネス派と言えば一の異端となるのであるが、正統派がこの異端を屈服させることができたのも、オリゲネスが残した神学的方法を利用したのが与って力があった。この偉大なるオリゲネスは単に空前の大学者であったばかりでなく、また英雄的な信仰の持ち主で、『殉教のすすめ』を書くにとどまらず、--これは当時にあっては珍しいことではない--自ら迫害の裡に勇気を示した。実に最も天才的のギリシャ教父は、同時にキリ

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ストに対する不変の忠実を示した最も偉大なる信者の一人である。

2 第4世紀および第5世紀

この時代の意義

前章に取り扱った第2世紀第3世紀は聖い情熱の燃え上がった時代、将来の豊かな思想が発芽した時代として興味が深かったけれども、キリスト教を全体として通覧すればニケア公会議よりカルセドン公会議におよぶ125年間(325-451年)はもっと重要な期間であったと言わねばならぬ。この時代の精神の無理解は恐るべき誤謬を生むであろう。この時代においては、劇しい教理上の論争の裡に、三位一体およびキリストに関する信仰の内容が漸次に明瞭に表現され、正確な言葉をもって定義され、これが今日に至るまでカトリック教会、ギリシャ諸教会、英国教会、ならびにプロテスタント諸派の中においても最も宗教的なる各教会の信仰となった。アリウス(Arius)派およびマケドニウス(Macedonius)派の否定に対して、教会は御言葉および聖霊が神なる父と同質(consubstantialis, Homousios)なることを宣言し、三位一体を信条として確定したのである。

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『これすなわち公教(カトリック)の信仰なり、われらは三位における唯一の天主、一体における三位の天主を礼拝す。ペルソナを混同せず、また神体を分かつことなし。父のペルソナ、子のペルソナ、聖霊のペルソナは各々異なれども、父と子と聖霊とを通じて神性は唯一にして光栄を等しくし、稜威は共に永遠なり。....各ペルソナの神にして主なるを宣言せしむるは、これキリスト教の真理なり、それど三神あるいは三主を云々することは公教これを禁ずるところなり。父は何のペルソナによりても成らず、創造されずまた生まれず、子は父より生まれしも、成りしにも創造されしにもあらず、聖霊は父と子とより出でしも、成りしにあらず、創造せられしにあらず、また生まれたりしにあらず』(いわゆるアタナジウスの信経と称せらるるもの、しかし実はその手に成ったものでなく第5世紀ないし第6世紀の作である)。

ネストリウス(Nestorius)はキリストは単一なるペルソナ(個体)にあらずして、その裡には神のペルソナと人のペルソナとあり、すなわち肉をとり給いし神にあらずして神その裡に宿り給う人である、マリアは神の母にあらずしてキリストの母である、と主張した。ユーチケス(Eutyches)はその反対の誤謬に陥ってキリストの裡には神性と人性と並び存することなく、その人性は神性中に失われてしまったと説いた。ユーチケスはネストリウスに対する無理解の反動である。教会はこの二

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の異端に対して、キリストは単に御言葉により摂取され、霊感を与えられ、聖化されし一個の人間にあらずして、実に神の御言葉が人性をとり、この際神性は毫も変化することなく、御言葉のペルソナに人性を加えたのである、と定義した。すなわちキリストは一のペルソナにして、神性と人性とを兼ね備えているのである。カルセドン公会議にいわく、

『聖なる諸教父の伝うるところによりて、われらは衆口一致次のことを教うるものなり。すなわち、われらは唯一にして同じ御子イエズス・キリスト。すなわち完全なる神性と同時に完全なる人性とを有し。真の天主にして同時に霊魂と肉身とよりなる真の人。神性によれば御父と同質なれども人性によればわれらと同質にして罪を除きてはわれらと悉く似。神性によれば世紀の以前に御父より生まれ、また近くはわれらのため、はたわれらの救済のために、人性よりする天主の御母童貞マリアより生まれ給いたる唯一にして同じキリスト。相混同せざる二性を有する御子にして主を宣言し奉るべきなり』と。

諸公会議の定義の文字により指導せられ、また異端者と論戦するに当たりて、用語と思想内容とを定義する必要に迫られて、第4世紀および第5世紀の教父らは基本的教義に従来よりも明確精密

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なる説明を与えるに至った。前時代における思索にはよき麦に多くの毒麦が混じていた。クレメンスはまったき信頼を置き難く、オリゲネスは最初は預言者のように崇まれたが、後には一転して異端の怪物のように遠ざけられた。しかしこの時代の聖アタナジウス、聖バジリウス、ナジアンズの聖グレゴリウス、聖ヒラリウス、聖イエロニムス、聖アウグスチヌスは真に教会博士の名にそむかぬ人々であって、後代の神学者の思索の灯明台となったのである。

この世紀はかくのごとくにして正統神学の時代なると共にキリスト教的霊的生活の指導者を産した時代である。聖アントニウスは聖アタナジウスと等しく教父と呼ばれて差し支えないはずである。聖バジリウス、聖アウグスチヌスは神学の指導者たると同時に霊的生活の指針である。

またこの時代において教会と国家との間に親密な関係が生じ、教会は社会生活に影響を及ぼし、俗権に対して一定の態度を取るに至った。この習慣は今日に至りても未だまったくぬけ切らない。かくのごとき種々の意味において、この時期は極めて重大な期であるにもかかわらず、近代の歴史家の多くが、その最も鋭く優れたる史眼を有する人々でさえ、この時代に同情し、その精神をつかむことのできぬのは不可思議なる現象と言わねばならぬ。

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天国の玄義

この時代の正統神学にとっては、天国とはすなわち『永遠の生命』である。『永遠の生命』という福音書的言辞は、しばしば『不朽』『神化』『不滅』の同意語を有している。神化(Deification)の教えに関してはいずれの公会議も特にこれを定義したことはないが、しかしこの期間のすべての教父に共通である。特にギリシャ教父に広く行われたが、聖アウグスチヌスもしばしばこれに触れている。聖イレネウスに次いで聖アタナジウスおよびアレキサンドリアの聖シリルスが特にこのことを力説した。

彼らの解するところによれば、神の奥義、キリスト教の中心真理は下のごとくである。すなわち天父と同質なる御子が、われら人間にアダムの罪によって失われたる不滅と神性の参与とを回復せんがために人性を享け、肉をとり給いしことこれである。『キリストの人となり給いしはわれらを神となさんがためなり』(聖アタナジウス、『御言葉の托身につきて』)。神の御子が人となり給いしはわれらが聖寵の生命を得て神となることと照応するのである。これがカトリック教の中心である。これが天啓の真理の両面、神的および人的の両面を照らす原理である。

『神の業なる人間は完全に造られたりしが、おのが過失によりて堕落し、おのが死によりて死した

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り。神の業がかくのごとく不完全となり終わることは誠にふさわざるなり....そのゆえに神の完全なる御言葉は不完全なる肉を取り給えり。けだしわれらに代わりてわれらの債務を払い、御自らをもって人に足らざるところを完成せんと欲したまいしなり。人に足らざるところとはすなわち不朽と楽園に到る道となり。』(聖アタナジウス、『反アリウス異端論』 2:66)

これが聖アタナジウスの教えである。彼は聖イレネウスに倣い、われらに真理の確実なる知識を与え得るは独り肉となりし御言葉あるのみ、御言葉なればこそその教え給うところに誤謬なく、肉なればこそこれをわれらに人間的に教えて下さることができる(聖イレネウス反異端論 5:1、聖アタナジウス托身論 14:16、45、46)、と言った。またわれらに聖寵の生命を得しめ、われらを神の子となし得るもまたその力である。もし神自ら人とならずして、一片の命令をもって人性の腐敗を癒し給いしならば、聖寵はわれらの内部に入らず、われらを改造せず、単に外面的のものとなる、しかるに神、肉となり給いしがゆえに『われらは肉の縁によりて救われたのである』(反アリウス異端論 2:68、69)。聖シリルスいわく『彼がとり給いし肉によりて彼は全人類をその裡に有し給う』と(対ネストリウス論 1:1)。

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もしも御言葉が真に神でなかったならば、奥義は消失し、われらに天国は失われ、福音は異なる意味を持つようになる。ニケア公会議で定義された御言葉の神性については、正統派は神学的議論よりもむしろ聖書の権威を引用してこれを支持したのであったが、聖アタナジウスが論争に際して利用した上述の考え方は、かの有名な『同質』(Consubstantialis)という言葉がキリスト教徒の宗教生活にいかに重大なる意義を有するかを示すのである。

聖霊の神性に関する論争の際にもこれと同様の議論が用いられた。われらを聖化しわれらの心の中に宿りてわれらに神的生命を頒つは聖霊である。しからば聖霊を被造物に過ぎずとなす者は、われらが神の家に真実の世継ぎとなったことを否定し、われらが真実に聖化され、真実に救われたということを否定する徒である(聖アタナジウス『セラピオンに贈る第一書簡』24)。

エフェゾにおいてネストリウスの破門に終局した(431年)論争ほど嘆くべき神学的論争はない。しかしキリストのペルソナが単一なりという教義ほど宗教的価値の明らかなる教義はないであろう。神の子たるイエズスが同時にまたわが兄弟なりと信ずるところにこそ、われらの信仰の喜悦、その偉大があるのではないか。童貞マリアより生まれ、十字架にかかりしその肉体が神の肉体なれ

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ばこそ、われらが無限の愛に愛されていることの証拠になるのではないか。もしも生まれてしかして死せるキリストが神でないとしたならば『すべての神の奥義は消失する』と聖シリルスは言ったが(『キリストの単一性につきて』)、真にその通りである。

かくのごとくこれらの教義はわれらの慰安である。しかし万事をこの見地のみより判断する人には教父の信仰を正しく理解することができぬ。三位一体の神、両性を具うるキリスト等の『神学的産物』を、古代の預言者あるいは最初の殉教者の信仰の的なるイスラエルの活ける神、アンチオキアの聖イグナチウスのキリストと対照させてみるのは近代の流行である。近世人は一概に、当時の人は『宗教的経験』を『その正反対なる正統神学』と交換してしまったと、言って第4世紀の教父を片づけてしまう。すなわちこれは近代の主観主義による判断である。彼らは人間の理想のもっとも有力なるもの、すなわち真と善との一致協力が定理的宗教(Dogmatic religion)に(第13世紀あるいは第20世紀におけるごとく第4世紀においても)どれだけの力を与えるかを知らないのである。しかしわれらの同時代人にも、当時の人が正統信仰に対して有していた鋭敏の感情を、本当に知らしむることができる一方法がある。近代人も『学的良心』に関しては極めて敏感でありたい

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と願っている--これは誠に当然なことであって、彼らはこの義務を神聖にして犯し難い義務と考えている。しかるに、正統信仰とは神の事物に関する学的良心に他ならぬ。教父らにとっては異端は虚偽であった。すなわち異端者とは心の中に神を欺き、良心にそむいて聖霊の賜なる天来の光明を棄て、肉的感覚の諂諛の微光を選んだもので、異端は光に反するがゆえにあらゆる罪の中最も重い罪である。異端者は冒涜者である。エルサレムの聖シリルスは『冒涜の不敬虔を犯す時、潔く活くるとも何の益かあらん』と言い、聖アタナジウスは『罪は律法に背くことなり、されど冒涜は神に逆らい奉ることなり』と言った。

第4世紀の歴史を読んで、政略が教会に侵入し、教会が諸派に分かれ、集会、狡計、妥協、卑怯、呪詛を繰り返すのを見るは、誠に心苦しいことである。キリスト論の論争に敵手を圧倒するためにその優良な人々さえも執った手段には遺憾に堪えぬものがある。しかしアタナジウスあるいはシリルスのごとき人々の情熱は、真理を万事に超えて愛好するにあるを悟って後、始めてこの時代を本当に理解するようになるであろう。

道徳的理想

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神の御言葉は完全なる人性を自己に御取りになった。されば真実に人性に属すべきものは自然にキリスト教と共鳴すべきはずである。洗礼により更生したアダムの子らは未だまったく神化せずして、その途上にあると言える。されば人間の努力はその裡に残れる肉的部分を霊の律に従わせることに存する。第4世紀および第5世紀の道徳的理想は二重である。その一は文化的教養と信仰とを合致せめんとするもの、その二は修道者のそれである。

ギリシャキリスト教徒

『真のギリシャ人とは人々と交わる術を知る者なり。』これは紀元414年頃に死んだプトロマイスの司教シネジウス(Synesius)の言である。第4世紀および第5世紀の大聖人の中には、人々と交わる術をもっともよく解していて、この意味でキリスト教と融合したギリシャ的理想の典型となった者がある。聖ヨアンネス・クリソストーモス(金口)および三人のカパドキア教父がこれである。三人のカパドキア教父とはカイザリアの聖バジリウス、ナジアンズの聖グレゴリウス、ニッサの聖グレゴリウスで、彼らは才能においてはオリゲネスに劣るといえども、カトリック精神の代表者としては後者に優っていた。

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バジリウス(S. Basilius, 329-379)は闘争の人、かつ事業の人であった。授産場、徒弟学校、孤児院、養老院等の慈善事業はカイザリア附近においてほとんど一市街を形成していた。皇帝ヴァレンスおよび知事モデストゥスに対する彼の応答は教会の中で俗権の跳梁に反抗する司教の好例である。ナジアンズのグレゴリウス(S. Gregorius Nazianzus, 325-389)は文学的才能に富むと同時に純真なる正統神学者で、極めて鋭敏の感受性を有していた。今日の吾人はこの感受性のために彼に同情することができる。しかしその時代においては彼はこのために苦しみ悩んだのであった。ニッサのグレゴリウス(Gregorius Nyssa, ?-385)は聖バジリウスの兄弟で純朴にして謙遜な心情、華麗にして少しく不明瞭かつ奇しき精神を有していた。彼はオリゲネス派異端との論争に際して福音に背く部分と、信仰が調和し得る部分との区別を正しくしなかった。聖ヨアンネス・クリソストームス(S. Joannes Chrysostomus, 347-407)は以上の三人よりも後輩で、オリゲネス派に属するとの非難を被ったが、この批評は正しくない。彼はアンチオキア人で、教理よりもむしろ道徳的方面に意を用い、真率、熱心にして、虚栄を解脱し、かつ極めて人間的な心の持ち主であった。古代キリスト教を理解せんとする人々はこの四聖人の研究をゆるがせにしてはならぬ。聡明にしてかつ理知

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的なる彼らはギリシャ・カトリック教の最上の代表者である。四人共キリスト教を『われらの哲学』と称した。ニッサのグレゴリウスは類(Species)をもってただに論理的一体となすのみならず、また実在せる一体(Specific unity)とするプラトン哲学をもって三位一体を説明せんとし、聖体の秘跡をばアリストテレスの質(質料)(matter)と形式(形相)(form)の説を借りて解説した。彼らは神の造り給いし人性は善なりとの信念に基づいて、あらゆる古代文化を探り、異教徒の倫理の中においてさえ、人々をその創造主に導く道を求めた。聖バジリウスが青年にギリシャ文学研究の必要を説いた演説はこの点において重大な意義がある。彼が異教著者の研究を慫慂するのは美的教養のためではなく、倫理的教養のためである、彼の考えによれば聖書は初学者にとり余りに深遠なるがゆえにまず異教著者によってこれに準備する必要がある。彼が異教著者より期待するのは真理に使役されるための文章の表現法にとどまらずして、真理の下ごしらえであった。

読者はすべからくかつて修辞家リバニウス(Libanius)の弟子であったクリソストームスの演説の数篇、およびナジアンズの聖グレゴリウスの光彩陸離たる名篇のいくばくかを読んで、人心を高め、かつ拡げるキリスト教化したギリシャ文化の真味を味わねばならぬ。これらの説教は聖書の頻繁の引用、および

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リバニウスの影響とも見られる多少のアジア趣味のために、幾分か東洋風の匂いがあるが、あくまでも真にギリシャ的である。彼らギリシャ教父は最初からしてキリスト教説教の型を発見したかのごとく、今日に至るまで説教家の最善の模範となった。しかしまた説教壇の通弊なる、非現実的なおよび誇張的のあるものも幾分か源を彼らに発しているかも知れぬ。しかしもっとも重要なる特徴は、これらの教父がキリストの愛と、美的観念に飽和したる古代精神とを渾然と融合して、一の破綻をも現さなかったことである。彼らの生涯は異端者の説伏、罪人の矯正に用いられ、また彼らといえどもおのが内部の官能の反逆を圧倒することを知っていた。しかし聖イエロニムスや聖アウグスチヌスに見るがごとき全身の分裂、二の霊魂の深刻な闘争と煩悶とは彼らになかった。ギリシャは彼らにおいてキリストと和睦した。彼らは単純な心、繊細な精神を具え、教養あり、かつ修徳の努力を知る人々である。背教者ジュリアヌス皇帝がキリスト教を愚夫愚婦の宗教たらしめんために、迫害したのは実にかかる人々に対してであった。彼らはその才能と聖徳とをもって古代世界の住民である。激烈にして深い感激、不安にして変化に富む感情を有して『最初の近代人』と呼ばるる聖アウグスチヌスを産出する名誉はラテン西教会のものであった。

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ラテンキリスト教徒

ギリシャ理想は理知と美感との理想で、ギリシャは古代世界の哲学と芸術との郷土であった。ローマ理想はこれと異なり実際知識(聡明)と規律の理想で、法律的形式主義への傾向を示していた。ローマには偉大なる政治家が生まれ、優れたる法律家、実践道徳学者が輩出したが、真の形而上学的哲学者と独創的思索家とは求め難い。ラテン人のキリスト教も同じく規律の精神に富み、実際問題を取り扱って、教理的方面よりは道徳的方面に興味を有していた。クレメンスの書簡およびヘルマスの牧者篇のごとき最初のローマキリスト教文書も、ギリシャ語で書かれていたが、内容は実際的問題に関していた。その後のラテン教父も、ギリシャ人と常に接触して眼界を拡げていた聖ヒラリウス(S. Hilarius, 310?-366)と、プラトン学派哲学の影響をうけ、かつ時代と地方とを超越した大天才を有する聖アウグスチヌス(S. Augustinus 354-430)とを除いては、みなこの伝統以外に出なかった。彼らの護教論は主として倫理的あるいは法律的議論であった。その腐敗せる生活の実際を示して異教を攻撃し、あるいは純真なる道徳を論拠としてキリスト教を弁護したり、しからずはキリスト教を目して不信者または皇帝に対する不忠者なりとする攻撃に対する議論である。テル

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チュリアヌスの『護教論』中最も光彩あるはカトリック生活の描写およびローマ法律に対する議論である。彼の思想中もっとも豊富なるものの一、『良心』を定義するに際しもっとも有益なりしものの一はガイユス(Gaius)パピニアヌス(Papinianus)等の法律学者の影響の下に発生したローマ法の進化から暗示された概念である。

聖書解釈学の方面にもラテン教父はやはりこの『倫理的功利主義』を示している。彼らは特に道徳上の訓戒と、いつの世にも有益な亀鑑とを聖書の中から発見しようとする。オリゲネスが聖書の寓喩的解釈を好んだのは理知的理由によるのであるが、ミランの司教聖アムブロジウス(S. Ambrosius, 349-397)および後世において教皇大グレゴリウスがこれを愛好したのは敬虔の思念に変化を与え、実際的結論の数を増さんがためであったのである。

ラテン教会の特殊の論争も、異端者に受けた洗礼の問題と言い、罪の赦しに関する問題と言い、いずれも実際生活上の争いであって、教理には間接に触れているのみである。主として東邦よりローマに来た異端者と論争する場合にも、その議論たるや哲学的というよりむしろ法律的であって、

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聖書をあたかも決定的の法令集であるかのごとく取り扱ってこれに照らし合わせて相手を反駁したり、あるいは聖伝の継続の議論を用いて、使徒伝来なるを証明すること能わざる新説を頭から否定してしまう。最も深遠微妙なる教義の表現にまで同じ傾向がある。例えば三位一体の玄義を説くにあたり、ギリシャ人は新意義を加えたるヒポスタージスなる哲学術語を利用したが、ラテン人は法律からペルソナの字を借り来ってこれを用いた。

もとよりこのローマ的特徴を誇張してラテン教父の個性を否認することはできぬ。テルチュリアヌスは憤慨家で法律の議論を好み、旧式のローマ法律家の形式主義を彷彿させる三百代言的の理屈をこねようとする傾向がある。シプリアヌスはもうすこし心情の人でかつ現実感を有し、自ら進んで殉教のために名乗り出る信者を弁護している。ミヌシウス・フェリックス(Minusius Felix, 150-300の頃)ラクタンシウス(Lactantius, 第4世紀)はキリスト教と世俗の生活との調和に苦心した善良な信者であった。聖アムブロジウスの本領はシセロの De officiis に倣って、最初のキリスト教の倫理読本となった人間の義務に関する論説を書いた時である。聖イエロニムス(S. Hieronymus, 340-420)は、より複雑な、変化の多い天性を有し、感受性と想像力とに富んで

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普通のラテン型をやや離れている感があるが、しかしそのし遂げた仕事を見ればやはりまったく実際的方面である。彼は翻訳者として東教会の文献を西教会に紹介し、ことに聖書のラテン訳のために非常な努力を費やし、ついにいわゆるヴルガタ聖書を完成してこれが西教会の定訳となったのであるが、この他にも彼の書簡が有名である。これらの書簡中あるものは整然たる論理と人に迫る筆力とを具えたるりっぱな論説で、これによって彼はローマ貴族社会に修道生活に対する同情を輸入し、異教精神を完全に駆逐してしまったのである。しかし彼がパウラ、メラニア、ユウストキア等彼の指導を仰いだローマ貴婦人に教えた敬虔は、極めて教会的かつ社会的で、ラテンの敬虔の特性を具えていると言わねばならぬ。

修道生活

修道者(モナコス)とは一般信者の社会との交通を断って修徳の練習に専心なる者との義である。一般信者、すなわち世俗の生活の煩雑を免るる能わざるもの、およびまったく俗生活を離脱して神に仕ること専心なるもの、以上の区別はキリスト教の原始時代からすでに存していた。イエズス自ら一般の人々のために改心と天国とを教えたが、清貧と禁慾と随従とを要求されたのは特殊の人々に対してのみ

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であった。(マテオ 19:12、21)聖パウロによれば童貞生活はより優れたる生活であるが義務ではない。コリント前書第7章25節以下には、このことの理由として彼の考えが明らかに記されている。『妻なき人はいかにして主を喜ばしめんかと、主のことを思い煩うに、妻と共にいるひとはいかにして妻を喜ばしめんかと世のことを思い煩いて心分かるるなり』(同 32, 33)と。

完徳と禁慾とに志した最初のキリスト教徒は、男女とも未だ一般の信者との交際を絶つことなく単に祈祷と善業とを普通よりもしばしばかつ熱心に行っていたのみであった。今日カトリック司祭および修道士の聖務日課祈祷の淵源は実にこの時代の習慣に求めることができる。次に禁慾に遁世が加えられるようになった。聖イエロニムスは12名の伝説的人物を挙げた後に、最初に砂漠において完徳の生活を送った人として、聖パウロの美しい伝を残している。しかし真の修道生活の創始者は、おそらくアタナジウスがこれを崇拝してその伝を綴った聖アントニウス(S. Antonius, 250?-356?)であろう。アントニウスは長年月ナイル河の右岸の砂漠の中に孤独の隠遁生活を営んでいたが、やがて彼の周囲には修徳の道に関して指導を請う弟子の群が生じて来た。修道的共同生活はかくのごとくにして生まれたのである。弟子たちの師に対する服従は最初より修徳の進歩に欠くべからず

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して、かつ好個の謙遜の修練法と見なされ、清貧、禁慾、(およびその延長とも考えられる苦業)と共に服従が特殊の修道徳に数えられるようになった。

修道生活は東教会、特にエジプトおよびパレスチナにおいて隆盛を極め、次いで西教会に移った。世俗生活の悪風の畏怖、世俗生活の生む煩累の嫌忌が無数のキリスト教徒を孤独の地に去らしめたのである。女子修道院もすでに存在していた。エジプトにおける修道生活は自ら二様式をとった(主としてButler, The Lausiac History of Palladiusによる)。その一は聖アントニウス型あるいは半孤独生活型でニトリア(Nitria)およびセーテ(Scete)において盛んであった。修道者はむしろ各自の単独の修行を積むに委せられ、一群の修道者中で高徳の者が自由にその許に集い来る若い弟子に影響を及ぼすに止まって、規則的の階級制度は存在しなかった。その二は聖パコミウス(S. Pachomius, +346?)型あるいは共同修道生活型で南エジプト地方において行われ、最初より規則正しき組織と統治とを有していた。修道者の労働は分業的となり、彼らはその仕事に従って別個の家屋内に住居した。また一定の義務的の信心の勤行が決定されていたが、この最小限度の以上に出ずることが慫慂された。

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シリア、メソポタミア、パレスチナの修道者はさらに奇怪な苦業を行った。聖バジリウスがポントゥスの荒野に逃れて弟子らを集めたのは、およそ360年頃である。彼の規則は(これが彼の手になるか、あるいはセバステのユウスタチウス(Eustathius of Sebaste, 300?-377?)の手になるか異論があるが)服従と共同生活の必要性を説き、自我心および特異を好む心を抑えることを教え、これによって修道生活にいわゆるヨーロッパ風の色彩を与えた。この規則がギリシャ修道生活の源となるのである。

修道者の不思議な物語は民衆の想像の産物なることも多いが、また英雄的聖徳に到らんとする願望は実際に修道者らを駆って驚くべき苦業を発明させた。今から見れば伝説と思えるようなことも当時には真実に存したのである。例えば柱行者と称せられる人々、すなわち、聖シメオンのごとく柱頭に地を離れて隠遁した修道者のごときも真実の歴史的存在である。

このような不思議な修道者の物語ばかり考えれば砂漠の隠者が営んだのは単に奇怪な生活に止まると信ずる人があるかも知れぬ。しかし彼らの霊魂の真の理想を尋ねれば、そこには実際的聡明すなわち健全な『常識』が潜んでいたのである。この点については修道生活の最初の福音書とも言

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うべき聖アントニウス伝(著述年代およそ360年)と、それから約60年を経て、ガリア(Gallia)国の修道者のためにカシアヌスがものした一種の修道生活大全との間に距たりはない。そればかりではない。今日のカトリック教会が教える修道学を熟知する者がこれを砂漠におけるそれと比較したならば、両者間の類似、時としては用辞の上にまで及ぶ類似に驚くであろう。これはもとより単純の暗合ではない、直接の影響である。今日の心霊生活の導師が古代の修道士の教えを受けているのである。しかももしも彼ら古代の修道士に寛裕なかつ繊細(デリケート)な精神があったのでなければとうていこれは不可能であったろう。

例えば聖アントニウスには信頼と喜悦に関して次の言葉がある。『滅びゆく者のごとく悲哀に沈むなかれ。われらは救われし者なればすべからく信頼と喜悦とに満つべし』と。彼は快活な心情を有して他人に対して丁寧であった。この大隠修士は politikos と称ばれた。また、勇気を勧めて、修徳の道において大切なるは時間にあらずして、希望と意志となり、と言った。悪魔との闘争に慣れた彼は、彼らを恐るるなかれ、彼らは常に憤怒(いか)れども弱きものなり、と言った。霊の識別は彼の最も著しい賜であったが、天使の出現と悪魔の欺瞞とを鑑別する規則を教えて、ある出現が霊魂を畏怖

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せしめ、不安ならしめ、悲しませ、兄弟なる他の修道者に対して不満を抱かしめ、漠然たる『理屈の塵埃』を立てる時、それは悪魔である。彼らは騒がしい悪少年の一団のように喧騒して霊魂に迫って来る。これに反して一瞬間の恐怖の後、霊魂が言い尽くし難き法悦に充たされ、勇気と神の愛と平和、休息とを感ずる時は、わが前なるは善天使である、と言った。東教会のこの心霊生活を、聖アウグスチヌスの宗教的経験が西教会に教えたるものに比較してみれば、その間に重要な区別がある。ペラジウスの異端と闘う聖アウグスチヌスと異なり、マニ教(Manicheism)の謬説と争った第4世紀のギリシャ教父のごとくアントニウスは人性の暗黒面よりもむしろその光明面を力説し、神の霊示よりも多く人間的活動を説き、また吾人の意志の弱さよりも人間の行為の自由、ならびに責任を教えた。アントニウスにとっては完全なキリスト教とは人性に従って活きることである。『何もむつかしいことはない、生まれたままでいればすなわち有徳なのである』とはその言葉である。しかしもとより彼のいわゆる人性とはペラジウスの異端の論争に現れる『恩寵対人性』のそれではない。聖バジリウス、ナジアンズの聖グレゴリウス、ニッサの聖グレゴリウス、金口聖ヨアンネスもこの点については同様である。彼らは未だ道徳の自然的善と超自然的善とを区別するまで精密

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に考えていない。しかし聖アントニウスと聖アウグスチヌスとの霊魂の対照を見ること肯ぜざるはまさに歴史を偽り、宗教史上重要の因子を見逃すのである。

はたしてしかりとせば、東教会の修道生活をガリアに紹介したカシアヌス(Cassianus, 360-435)がペラジウス異端に寛(ゆるやか)なりとの非難をうけたのはけだし怪しむを要せざるところである。彼は上述した心霊生活についての観念を明確にし、かつこれを敷衍した。修道の究極は心を潔くすることである。賞むべきは奇蹟にあらずして徳行である。身体に関すること(慾を満たし、あるいはこれを矯めること、例えば食と断食)はいずれも目的に到る手段に過ぎない。霊魂が必要とするだけのものを摂ればよいのである。過度の厳格は怠惰よりも危険である。峻烈(はげ)しきことは永続し難くかつ虚栄の混ずる恐れがある。例えば彼は決して食事の際に油を使用せぬと吹聴する虚栄を避けるために、食事ごとに油を一滴ずつ混ぜることを勧める。識別力--霊の識別、なすべき業の識別、判断、中庸--は修道者に欠くべからざる徳であり、また服従と教会の伝統とは極めて必要である。以上のごとき人間的、かつ常識的の心霊業の教えはなるほど霊示(インスピレーション)と聖寵とをあまり取り入れておらぬ、とも言えよう。しかしカシアヌスはペラジウスのゆに、人間は己が自力をもって聖徳に到ることができると考えていたの

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ではない。われらにしばしば神の助力を求むる祈祷の精神なくしては、完徳は不可能であるとは彼の熟知するところである。

しかしカシアヌスの優れたるはその心理描写であって、彼は人間の行為を解剖し、人間の心情の奥底までも知悉している。例えば『倦怠』の分析のごとき(共同修道生活規範につきて、10:2)快き諧謔味を交えた繊細なる心理描写の傑作である。彼の著書はたとえ彼がカトリック心霊生活の発展に重大なる影響を与えなかったと仮定しても、紀元5世紀の頃の修道生活の真相を吾人に伝える点において、また古代修道生活の原始的熱情の時代においてさえ、理性の自然的光明を忘れて霊示を高調しなかったという証拠を残している点において、再読三読する価値があるのである。

聖アウグスチヌス

ヒッポの司教聖アウグスチヌス(S. Augustinus, 354-430)はラテン教会の明星である。彼はペラジウス(Pelagius)の異端に対して神の聖寵の必要を説いた。ペラジウスは英国生まれの極めて厳格な頑固な修道者で、キリスト教修道士と言わんよりむしろストイック哲学者であった。その異端は、人間の意志は神の聖寵によって内部的に助けらるることなくとも、おのが自力によって聖

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徳に到るを得るというのである。誇張された修徳、努力と意志とを主眼とした精神生活がこの異端を生んだのである。

しかし聖アウグスチヌスは単にペラジウス異端に対する勝利者ではない。教理史上、彼の地位は極めて重要であるが(教会が採用したのはペラジウス異端に対する彼の否定で、教会は彼の神学的説明を定義に取り入れたのではないが)、彼の精神生活史中における功績はさらに重要である。聖アウグスチヌスはキリスト教を内的にした。教以後の時代に生まれたあらゆる信者は、その精神生活において彼に負うところがあるのである。

『汝は何を知らんと欲するや。神および霊魂を。それのみなるか。まったくそれのみなり。』(独語篇)彼が知らんと欲したのはアウグスチヌス自己の霊魂である。聖パウロのキリスト教も外面的の宗教ではない。しかし彼がローマ人にその苦悩を描いた彼の眼中の人は、パウロの自己と言うよりもむしろ人類の全体であった。聖ユスチヌスもおのれの真理探究の巡礼を物語ったが、これはあらゆる教説に満足を覚えること能わざりし理性の歴史である。これと異なり無限の愛がおのれに被造愛を惹き、被造愛はこの抱擁を逃れんとしつつ、しかも本能的に無限愛を求めんとしている、その歴史がすなわち聖

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アウグスチヌスの『告白録』である。

アウグスチヌスの敬虔は極めて個人的であるが、また同時に極めて理知的である。宗教とは彼にとっては、無限愛および被造愛の相愛なると共に、また弱小のわれらの霊と、無限、不変、全福の神の大霊との逢遭である。彼の敬虔は教義(ドグマに基づき、教義により生命を得る。もし教義にして滅亡せんか、彼の敬虔もまた崩壊してしまったであろう。さればもしなんぴとが不知不識の間に今日のプロテスタント教の根底に横たわる理性と感情との衝突なる先入的偏見に災いされて、アウグスチヌスの宗教はギリシャ教父の教理過重に対する反動であると解するならばこれは非常な誤解である。彼の豊富なる内生と教義の確信との間には極めて自然の結合があったのである。神われに内在し、われ自身よりもなおわが内にあるは、神が真理であるからである。彼は終生幸福と真理とを追求したが、この二者は彼にとっては要するに同一物である。『ああわが神よ、真理よ、われ汝を呼び奉る。』この叫びは真実にアウグスチヌスの霊魂の奥底より発する声である。善と、幸福と、真理とは彼にとって不可分である。道徳至上主義(道徳のための道徳、人生の終局の目的なる神を除外して道徳それ自身の裡に価値を発見せんとする説)は聖アウグスチヌスにはない、彼の『努力中心

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主義』も、これに大なる制限を加え、かつ明瞭なる解説を附して置かぬと非常な間違いの種になる。近代人の中に、獲得よりもこれに対する努力に価値を認め、終局よりも道程を重んずる傾向が広まっているが、これはアウグスチヌスの知らざるところである。彼はイエズスの有名なる一句、『われは道なり、真理なり、生命なり』との言を注釈して、『キリストは奴隷の姿において道にして、神の姿において真理なり』と言った。すなわち真理は道程よりも遙かに貴く、道徳は人生終極の目的に到る手段にすぎない。また彼は道徳のために道徳を説く人々に反して、『最上の宝を求むることは善く生くることにして、神を追求するはこれ幸福の慾望に他ならず』と言っている。彼の長いキリスト教的生涯はますますこの信念を堅固にした。無上の真理の直観は真の幸福を与える、天国においてこれが吾人の享受する幸福であり、報酬である。Visio est tota merces (神の直観、これ報酬)。われらの完成は神に与うるにあらずして、神より受くるにある。神は天国においてわれらの愛の受け入れ得る限りを超えてわれらに賜うであろう。Fons vincit sitientem(泉は涸ける者を打ち負かす)。かくのごとき彼の思想が、静観派(quietism)と相去ること甚だ遠きは敢えて論ずるに及ばない。かつて高徳の一婦人プロバが祈祷に際して何をか求むべきと彼に尋ねた時、答えていわく『永遠の生命を願え』と。

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強烈なる個人の内生がアウグスチヌスの敬虔の最も独創的かつ貴重なる一面である。しかしそれが全部ではない。プロテスタント諸学者もこれを認めているがごとく、彼の敬虔にカトリック的臭味があるのは否定することを得ざる事実である。その第一は教会に対する服従である。教会はアウグスチヌスの信仰の基本的条件である。信仰の理由を検討すれば、教会は福音書の上にある。彼は『もしカトリック教会がこれを信ずるにあらずば、われは福音書を信ぜざりしならん』と言う。聖伝に対し、宗教会議に対し、ローマ聖座に対し、彼の態度は尊敬以上、絶対の服従である。『教会の生命』に対する愛着は彼が教会に献げた著書 De moribus Ecclesiae catholicae (カトリック教会の風習について)の中では熱情を帯びている。秘蹟に対する態度、苦業および死者のための祈祷の必要、聖人を尊敬すべきこと等においても、彼はまったくカトリック伝統中の人である。要するに聖アウグスチヌスは、教会主義(教階制度および聖伝)が、霊魂の大なる内的自由と、神に対する完全の信頼とに毫も矛盾するところなきを示す優れたる模範である。

ローマ支配の終局、ラテン教会およびギリシャ教会

信仰生活の熱情は、時としてかつてモンタヌス異端の際におけるがごとく、離教の危険を包蔵す

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る可能性がある。修道生活は一方にこの情熱に規律を与える制度であり、他方にはキリスト教的完徳の理想を明示して、聖職者、平信者の区別なく、一般の信仰に好個の刺激を与えた。しかし修道生活がこれほどまでに発展するを得たのは血腥い迫害時代が終わったからである。教会と国家との間に和親が成立して始めてこの永続的な規則正しい制度が可能となった。3世紀にわたる教会対俗権の闘争はコンスタンチヌス大帝(Constantinus)と教皇シルヴェストル(Silvestrus)との握手によって終わりを告げた。

紀元313年ミラノの布告はコンスタンチヌスおよびリチニウスの名によって『キリスト教徒およびその他諸教徒に各自の信奉する宗教に従うことを得る自由』を与えた。この文面で見れば、別にキリスト教を国教とした訳ではなく、すべての宗教の信仰の自由が認められた訳である。しかしそれは理論で、実際はキリスト教に特殊の待遇が与えられた。また一般信者と異なる教階的教役者の団体およびその権利が承認されて、各地方の知事は、この団体に当然返還すべき財産を交付すべしと命ぜられた。コンスタンチヌスは、社会の平和的統治の保証としてのキリスト教の偉大なる能力を了解した。それゆえに彼は、大カトリック教会に好意を寄せ、異端諸派(マルシオン派、ノヴァートゥス派、ヴァレン

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チヌス派、モンタヌス派等)を棄てて顧みなかった。これに反して正統教会の教役者は、その職務上、社会の安寧秩序を維持する有力なる因子と認められて、彼らに対して種々の特典が与えられた。コンスタンチヌスは自らキリスト教に帰依するに先んじて、この賢明なる宗教政策をとったのである。

この平和は一度背教者ユリアヌス皇帝によって中断されたが、それも一過性の現象で、テオドシウス皇帝に至るまでの間にキリスト教は漸次に国教たる地位を獲得した。教会はコンスタンチヌス皇帝の多少の過失、干渉にかかわらず、教会に平和を与え、内面的および外面的にも発展の余裕を得しめた彼に、後代までも感謝するを忘れなかった。平和の賜として、各地方(アフリカ、イタリー、東欧)に宗教会議が開催され、さらに数次の公会議が開かれて、教父らは第4および第5世紀の三位一体論、ならびにキリスト論に関する諸異端説に対して、正統的信仰を擁護し、信条を定義し、また教会の規律を設けることができた。聖職者は増加し、祭典の儀式は幽鬱なる地中のカタコンブより、宏壮なる大聖堂中に現れ出でて、荘厳華麗の度を増し、教会の所有地は増加し、殊に東教会においては司教座、大司教座、主位司教座の組織が発達した。西教会では民族の動揺、遷移

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のために、その平和的施設はやや遅れたかの観があるが、しかしキリスト教は漸次に民衆の中に浸み込んで、いつとなくこれを同化するに至った。異教は最初は格別の圧迫も受けずして容認されていたが、キリスト教の発展を妬んで、ローマ貴族の一部を駆って新宗教に対して最後の闘争を試み、結局テオドシウス皇帝に禁止されるに至った。その後のキリスト教の仕事はもはや公認された他宗教との争いでなくして、数百年来の伝統として人の心情と習慣とに根を下ろしている異教精神を芟除することであった。この執拗なる戦いは今日までも続いている。

ローマ帝国は教会を保護する。教会はその代わりに公然と帝国の安寧秩序および帝王の幸福のために神佑を祷った。俗権の保護はその一面に干渉の禍機を含む。すでにコンスタンチヌス皇帝も教理上の論争に余り興味を有し過ぎた嫌いがあったが、帝は幸いにして正統信仰以外に趨らなかった。しかし帝の後継者はいずれも宗教問題に容喙する性癖を有して、コンスタンチウス帝は聖アタナジウスおよび教皇リベリウスに対し、ワレンス帝は聖バジリウスに対してアリウス派の支持者となった。

リベリウスはやや妥協的の人であった。彼はアリウス派異端を認可したとしばしば評されたが、その実ニケア公会議の定義を離れたのではない。彼が署名した信条、すなわち当時東欧教会から提出された信条は決して正統教義に背戻しなかったが、ただ惜しむらくは曖昧であった。ヂュシェーヌ(Duchesne)古代教

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会史参照。

西ローマ帝国の滅亡は西欧にては種々の弊害にかかわらず今まで大体において教会に有利なりし状勢に変化を来した。また東欧は、これのために西欧と政治的にまったく分離するに至り、さらに従来の宗教的東西分離の傾向を強めていった。東教会の離教的態度の種子はすでにローマ皇帝のコンスタンチノプルに遷都の節に胚胎されたと言って差し支えない。東欧人は、政治と宗教とを別々に考えることができなかった。彼らの考えでは新首府の建設は、新しい宗教的中心の建設であり、コンスタンチノプルは新しいローマである。かくて第4世紀の終わり頃からコンスタンチノプル対アンチオキアおよびアレキサンドリアの古来の主位司教座間に激烈な競争、暗闘があった末、遂に新都の司教が東教会の首座を占めるようになった。381年、コンスタンチノプルにおける第2回公会議規定第3条には『コンスタンチノプルは新しきローマなれば、同市の司教はローマの司教に次ぎての栄位を占むべきものなり』とある。カルセドンの公会議規定第28条は、さらにこれを敷衍して『新しきローマは皇帝の宮殿ならびに元老院を有し、旧帝都と同一の特権を有するがゆえに、宗教上にもローマと同一の利益を享受し、ローマに次ぐべきものなり』と布告した。これは宗

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教的権威はその都市の政治的価値によるという原則の宣言に異なるところがないので、ローマ(教皇レオ1世)はこれらの規定を認可しなかった。しかしユスチニアヌス第1世帝がこれを批准したので、理論はともかく、事実上ではそのようになってしまった。これが官僚的ギリシャキリスト教会の起源である。それであるからその事実上の首長はコンスタンチノプルの司教でなく、東ローマ帝国皇帝であった。皇帝は欲するがままに教会政治を左右し、教理上の論争に容喙し、その裁断者となった。最も偉大なる東ローマ帝国皇帝、ユスチニアヌス1世帝がそもそも『神学者』たる皇帝の濫觴である。彼らの『神学』は不幸にして一定せず、あるいは正統、あるいはキリスト一意論、あるいは聖像破壊論等変転きわまるところなき状態であった。彼らといえども原則としては、なおローマに対して、時には暴力に訴えてまでも反抗することが珍しくなかった。ローマは忍従して、長い間、政治的には東帝国皇帝に対して臣下の礼をとっていたが、しかし霊的問題に関しては皇帝といえども、教皇の権威に服すべき義務ありと宣言した。教皇の中にはヴィジリウス(Vigilius, 537-555)のごとく、ビザンチン皇帝の意を迎うるに過ぎたるやの憾みある者もあるが

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(彼らといえども正統的信仰を離れたことはかつて一度もない)、その大多数は迫害を凌いで皇帝の干渉に極めて強硬なる反対を試みた。第5世紀には、ローマを馬蹄に蹂躙せんと進撃して来たフンの王アッチラ(Attila)を諭して帰還せしめた教皇レオ1世(Leo I 440-461)は、エフェゾにおけるいわゆる『強盗会議』を停止し、またコンスタンチノプルの司教フラヴィアヌスに書を裁して、カルセドン公会議において、キリスト一性論者に対すべき方針を示した。第6世紀には教皇シルヴェリウス(Silverius, 536-537)はユスチニアヌス帝と意見を異にしていたために配流の身となり一孤島に客死し、第7世紀にはヘラクリウス帝のキリスト一意論に反対したために、教皇マルチヌス(Martinus, 649-655)が流罪に処せられ、また第8世紀には教皇グレゴリウス2世、同3世(Gregorius II, 715-731)(Gregorius III, 731-741)は聖像破壊論者レオ3世皇帝と抗争した。かかる際には、諸々の護教家、聖人等が教皇と協力して正統的信仰を主張したが、その最も有名なるはダマスクスの聖ヨアネス(S. Joannes Damascenus, 676-?)である。最後に挙げた聖像破壊論に対して、正統派の勝利を得るまでには、修道者の貢献も偉大なるものがあった。しかし東教会の離教的態度は遂に改まらず、絶えず抗争が反覆された結果、東西両教会間の溝渠は漸次に深くなった。

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実にコンスタンチヌス帝が323年に東ローマ帝国を創建して、787年の第7回公会議に至るまでの、464年間において、東教会の全部(エジプトおよびイリリクムを含む)またはその一部(アンチオキアおよびコンスタンチノプル両教会すなわち帝国直属教会)が、西教会に対して離教の態度をとっていたのは、203年間を下らぬのである。第4世紀および第5世紀に採用された原則はここに果を結んだ。もし各市の宗教的地位がその政治的価値に比例するものならば、コンスタンチノプルは『使徒に等しき』王者たる皇帝の都である。いかんぞ皇帝と元老院とを失って、野蛮人らの蹂躙するところとなった廃都ローマの下風に立とう。現在はローマがビザンチン人の憐れむべき臣従である。たとえ東帝国はローマを保護してやる暇はなくとも、フランク人の援助を求めるなどとは不都合千万である。驕奢の帝都ビザンチウムが生存競争に敗れたローマから光明と指導とを仰がねばならぬ理由がない。以上が東欧人の心理であった。しかしこの政治的優越感、および教理および教会規律の多少の意見の疎隔(例えば西教会が聖霊が聖父と「聖子とより」出づると主張して信経の中に Filioque の一語を挿入し、聖体に無麹パンを用い、司祭の独身を要求する等)以外になお深い東西文化の相違の感情があった。これはビザンチン人に言わせれば分明と野蛮と

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の相違であった。コンスタンチノプルは文明開化の女王である。ボスフォラス海の鏡面は黄金と宝玉とを反映する。これに比ぶれば、野蛮無趣味の西欧人よ。

かかる根本的の反感が存在する以上、たとえ表面的に東西が握手しても、要するに一時の提携に止まるべきは極めて見やすい。ビザンチウムがラテン人の援助を乞う際においてさえ、心の底ではラテン人を軽蔑する。ギリシャ人は必要に迫られて西欧人と接近しても、また一時の気まぐれから西欧の二三の風習を借り来っても、自称ローマ人(ビザンチン人)が野蛮人に対する優越感が念頭を離れず、根本的の軽侮は常に存在した。

東西教会の分離は惜しみてもなお余りがある。しかしこの分離が西教会の爾後の内容的発展にはたして禍したかそこには疑問の余地がある。西教会は自己の裡に生命と進化との原理を蔵して、これによって善についても、悪についても自己を発展させることができた。ただあるいは西教会が、もう少し深くギリシャ教父を識り、彼らの楽天的信仰がラテン人に紹介されていたならば、偏狭な聖アウグスチヌス派学説の危険(その誇張的言辞が後年のルーテル教、カルヴィン教ないしジャンセニウス派異端の発生ならびに成功に多少の関係がある)も緩和されるところがあったかもしれない。

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それよりもなお遺憾に堪えぬはアジア方面の布教が東教会の分離によってまったく中絶してしまったことである。ギリシャ人はアジア人種に地理的に近接しているのみならず、その他にも多くの近似的性格を有していたから、アジアの使徒たるはその使命であった。東洋におけるキリスト教の布教は使徒時代およびその直後に始まり、ペルシャを経、インドに及び、シナにまで来ってそこで中絶した。これは非常に不幸である。遙か後年に至って、西欧人が再び東洋の布教を開始したけれども、彼らは当然西欧的精神および方法を携えていった。日本およびシナにおいて、キリスト教が外国輸入の臭みを脱却し能わざるはこれがためである。

かくのごとくコンスタンチノプルに軽侮を受け事実上東欧と分離しても西教会は敢えて失望落胆していなかった。ギリシャ人が分明に陶酔し彼らの信仰を物質的信心と俗権に対する随従で窒息せしめ、首位司教座をブルガリア人、セルビア人、ウラコブルガリア人に頒って教会の分裂を招いている間に、西欧では潮の湧くがごとく新民族が勃興し、旧ローマ帝国の障壁を破壊し、洗い去った。旧文明の消失、ローマ貴族階級の滅亡、ローマ皇帝の権威の衰退の間に、教会のみが生命と活動力とに溢れて屹立していた。古代世界の覆滅に際して、教会は自己の重大なる任

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務を悟った。新世界の建設に有益なる旧文明の遺物を救済することがこれである。この事業に参与した教会の子の活動はめざましかった。カトリック教会が、今日、西欧諸国の文明の母、その教育者と呼ばるるゆえんは、実にここに存するのである。

第 II 篇 初代キリスト教 終わり

以下つづく

作成日:2004年06月07日

最終更新日:2004年06月11日

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