カトリック思想史

第 III 篇


文学博士 姉崎正治・山本信次郎 監修

ヨゼフ・フービー 編

前駐日仏国大使 ポール・クローデル 序

天主公教会司祭 戸塚 文卿 訳


中央出版社 刊

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


p. 1

目次

序説

第I 篇 新約時代
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 イエズス(p. 1)

共観福音書(p.1)
善き道 山上の垂訓(p.10)
比喩的説教 善き音信(p. 12)
特殊の弟子 イエズス派(p.15)
イエズスの人格(p.20)

2 弟子らの信仰(p.34)

ペンテコステ以前(p. 34)

p. 1

12使徒の説教 原始的教会(p. 40)
聖パウロの説教(p. 48)
聖ヨハネ福音書(p. 56)

第II 篇 初代キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 第2世紀および第3世紀(p. 69)

キリスト教の統一性ならびに多面性(p. 69)
教会に内在するキリスト(p. 70)
教会と国家 迫害(p. 75)
キリスト信者の生活 友愛(p. 81)
智慧と信仰 理性に内在する御言(p. 87)
グノーシス派異端(p. 93)
御言による世界の支配(p. 96)

p. 3

可見的教会(p. 97)
アレキサンドリア思想家(p. 100)

2 第4世紀および第5世紀(p. 104)

この時代の意義(p. 104 )
天国の玄義(p. 108)
道徳的理想(p. 112)
ギリシアキリスト教徒(p. 113)
ラテンキリスト教徒(p. 117)
修道生活(p. 120)
聖アウグスチヌス(p. 127)
ローマ支配の終局 ラテン教会およびギリシア教会(p. 131)

第III 篇 中世キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

p. 4

1 中世紀におけるキリスト教精神(p. 144)

教会と蛮族(p. 144)
西欧の修道者 聖ベネヂクトゥス(p. 145)
教会と神の国(p. 148)
キリストの教の外面的発展(p. 160)
中世紀における心霊生活(p. 166)
聖ベルナルドゥス(p. 170)
聖フランシスクス(p. 176)
『イエズス・キリストの模倣』(p. 182)
スコラ学派 聖トマス・アキナス(p. 184)

2 反キリスト教、反カトリック教、中世紀の終末(p.192)

異端との闘争(p. 192)

p. 5

中世紀の終末(p. 198)

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教
アレキサンドル・ブルウ ピエール・ルッスロ

1 宗教改革(p.213)

異教的人文主義(p. 213)
ルーテル(p. 214)
カルヴィン(p. 219)

2 教会の反動改革(p.223)

カトリック教会の覚醒(p. 223)
聖イニゴ・デ・ロヨラ(p. 230)
聖女テレザ(p. 238)

p. 6

3 第17世紀フランスにおけるカトリック教会(p.243)

第17世紀フランスにおける教会の偉観(p.243) 聖フランソワ・ド・サル(p. 249)
尚古主義(p. 252)
ガリカン教会主義(ガリカニスム)(p. 255)
ジャンセニウス異端(p. 258)
尚古主義の敗北(p. 262)
カズイスト(p. 266)
ポール・ロアイアル修道院派の敬虔(p. 269)
静観派の敬虔(p. 273)
聖心の信心(p. 275)

4 第18世紀(p.278)

p. 7

哲学主義(p.278)
カトリック教会の防衛(p. 285)

第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教
レオンス・ド・グランメーゾン ピエール・ルッスロ

1 第19世紀における神の国の思想(p.289)

第19世紀における思潮の一般(p. 289)
カトリック教会の統一(p. 295)
教会と社会問題(p. 299)
教会と世界平和(p. 311)
教会と布教事業(p. 314)

p. 8

2 カトリック教理に関する論争(p.317)

ローマン主義(p.318)
科学的主理主義(p. 323)
不可知論的主情主義ならびにモデルニスム(p. 330)

3 カトリック的敬虔および教会の内的生命(p.347)

カトリック社会事業(p.347)
カトリック修道生活(p. 350)
教皇 巡礼 奇蹟(p. 352)
宗教美術及び文学(p. 356)
カトリックの信心(p. 360)

4 現代(決論)(p.362)

附録 年表
人名索引


第III 篇 中世紀キリスト教

ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

p. 143

第III 篇 中世紀キリスト教

中世紀の教会史、思想史を通覧すれば、この期間のキリスト教の発展を支配してゆく三の著しい事相を発見するであろう。その一は教会はもはや、一家族、一国民の分裂の原因となる小団体の宗派ではなく、またキリスト教に無関係にすでに出来上がっていた大きな古いローマ帝国という建物の中に仮に棲んでいる外来人でもなく、キリスト教の信仰の影響は深さと広さとを増して、当時のあらゆる制度、すなわち家族生活を始め、若い国家の社会組織の中にまで浸み込んでいたということである。その二はキリスト教の信仰がもっと人間味を帯びて祭典はますます盛大となり、信者の心には聖人や聖母やキリストの人性に対する新しい感情が湧いて来たということである。その三はスコラ学者の手により教理がますます精密に定義され、かつ組織立った科学的系統になって来たということである。中世紀におけるこの三大特徴は互いに相関連している。ゆえにスコラ神学の憎悪、教会権威の否定、霊の信仰の名の下にカトリック的敬虔の軽蔑、この三傾向がキリスト教国の大部分において勝利を占むる時、ここに中世紀は終わるのである。

p. 144

1 中世紀におけるキリスト教精神

教会と蛮族

中世紀の特徴は人間の結社性が一般に完成したことである、とオーギュスト・コントは言ったが、この一般的な各種の社会的結社が出来上がって、今日の欧州を作る下地を構成したことについてはもとよりキリスト教がその功を独占すべきではない。しかしこれに教会の貢献を悉く否定するのはさらに甚だしい偏見である。いわゆる蛮族の侵入に対してローマ帝国が有効に防衛していた間は教会は帝国に忠誠を尽くしていた。聖アウグスチヌス、聖アムブロジウス、ノラの司教聖パウリヌス(S. Paulinus, 354?-431)の著書には明白に愛国心が燃えている。また詩人プリュデンシウス(Prudensius, 348-405)は霊感に満ちてキリストとローマとの一致結合を謳った。殉教者の光栄の誇りによって過去の迫害の悩みを忘れた教会はその行政組織を確立させ、また宗教会議を開く可能性を与えたローマの平和、統一を感謝した。それゆえに蛮族侵入の最初にあたっては、教会のローマ帝国に対する愛着の念は揺るがなかった。ダニューブ河を超えて入り来る蛮族の間に入り込んだ宣教師らは神

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の国を拡むると共に、ローマの文化を紹介し、ダシア人の地におけるレメシアーナの司教ニセタスに倣って『ローマ人の心をもってキリストのために謳う』ことを教えたのである。

西ローマ帝国がアラリック(Alaric)のために遂に滅亡の運に会するや、キリスト教的ローマは自然に帝国ローマの後を継ぐようになった。教会はローマ政府の常識と、その統治的才能と、およびしばしば行政的区画に至るまでこれを継承した。自由市(civitas)の代わりに司教座ができ、ローマの県の代わりには大司教座(メトロポリタン)によって統率される教県が出現した。かくのごとくにして教会は蛮族諸邦の動揺、混乱の裡に厳存する一定の制度を支持して、後の統一の原動力となり、規律と伝統との守護者となったのである。

また司教は名義上はともかく、多くの場合において、実際上の都市の防御者となって、外来の蛮民と帝国の市民との仲介者となり、両者の融合の機となった。修道院は古代文芸の粋を破滅より救い、かかる不安変動の際においても、よく新しい修道精神を生み出すを得た。

西欧の修道者、聖ベネヂクトクス

西欧の修道生活はその原始時代においてはエジプトにおけるものの模倣であった。イタリーにおける

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最初の修道生活もそうであったが、聖マルチヌスがガリアで創建した修道院(その最古のものはおよそ360年頃)の生活もそうであった。エジプトにおける修道生活の讃美者なるカシアヌスについては前篇に述べるところがあった。フランスの南部の古修道院中最も有名なレレン(Lerins)修道院の生活も、トゥールの聖グレゴリウスによって紹介されたフランス中部の修道者の生活も皆エジプト風であった。ケルト人の修道生活の起源についての議論は別として、アイルランド人およびガリア人が実行したのもエジプト風の修道生活であった。

この間に出て西欧の民族性にもっと適合した新しい修道生活を教えた者が聖ベネヂクトゥス(S. Benedictus, 480?-550)である。

イタリアに移植されたエジプト風の修道生活は、そのままではとうてい実行され難く、最初の盲目的熱情は須臾にして消失し、落胆、怠惰、堕落がこれに次いだ。聖ベネヂクトゥスは極めて厳格な隠遁生活を体験した後、おのが許に集った修道士には『適当な衣服、充分な食事、およそ8時間の睡眠を規定し、祈祷時間を短縮し、修道的冒険を禁止した。』(ドン・バットラーDon C. Butler, The Lausiac History)彼は砂漠で超人的苦業をした大隠遁者に深甚の敬意を払い、おのれはその不完

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全な追従者であって、その規則は『初心者のための小さき規則』に過ぎないと言っている。しかし彼の謙遜な新しい理想は教会に夥しい大聖人を生んだ。彼の規則は教団に対する謙遜、忠実なる一致を求め、この一致によって社会生活に必要なる最も貴い徳性を涵養し、またすべての過激な熱情を抑制して真の信心を養成した。『聖ベネヂクトゥスの規則は修道生活およびその義務に関する完全なる法典である。彼は修道院の組織を定め、修院長の職務、日課祈祷の分配、時間の用法、修道的および一般キリスト教的徳の習練、祭式礼典、過失の懲罰等を規定し、また崇高かつ謙虚なる精神生活に関する教えを垂れた。....修道士は常に聖堂の斉唱席、食堂、寝室、労働時に一同打ち揃いて真の一家族をなし、またある時は学び、ある時は労働して極めて勤勉なる生活を営んだ。日課祈祷の斉唱には長時間を要した。殊に夜間は長かった。日課祈祷はローマ日課祈祷書が今日まで保存している順序に分かたれていた。』(ドン・ベッス Dom Besse)

ベネヂクトゥスが与えた規則の智慧の証拠はその結んだ果の豊かにしてかつ変化あることである。彼の子らは開墾者たり、詩人たり、宣教師たり、写本家たり、説教者たり、神秘家たり、貧者の恩人たり、王侯の顧問であったりした。その修道院は附近の地方に宗教的感化を与えると共に、その

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内部にては美術の傑作を模写し、また古代の知識を保存して、静かな豊満な生命を有していた。ベネヂクト会に属する偉大なる人々の名は数え尽くすことができないであろう。英国の使徒なるアウグスチヌス(Augustinus, +604)ドイツ国の使徒ボニファチウス(Bonifatius +735)もその内にいる。学者としては聖会博士の称号を有するベーダ(Beda +735)あり、またアムブロジウス・アウトペルト(Ambrosius Autpert +778-781)は聖ベルナルドゥス以前のラテン教会の最大の聖母学者である。その他詩人にして神学者なるワラフリード・ストラボ(Walafrid Strabo +849)フルダの修院長にしてマインツの大司教なりし神学者ラバヌス・マウルス(Rabanus, Maurus +856)神学者パスカジウス・ラードベルトゥス(Paschasius Radbertus, +865)等あり、中世紀の前半は実にベネヂクト会の天下であって、その高名な人の半ば以上は聖ベネヂクトゥスの子である。しかしその中でもベネヂクト会の偉大さを最も体現したのが教皇聖大グレゴリウスであった。

教会と神の国

もとより中世紀におけるあらゆることが司教もしくは修道士の手によって成った訳ではない。新社会を造り上げたのは単独な『宗教感』ではない。当時の人心に溢れていた感情が相互間の義務、慣例、

p. 149

やがて相互の権利を作ったのであるが、しかしこの『感情』はまったくキリスト教の浸潤を受けていたのである。すなわち当時の人々の心にあったこの『結社性』とも言うべき本能的感情は、キリスト教の教える愛と無関係でない。愛あるところにはまた信も望も存していた。保護の聖人を戴いていたのは単に教区や、教会や、市町のみではない。職業組合が生まれればやはり各自の保護の聖人を戴き、またその組合に特別な信心を定めた。武士にはまた特殊の元服式があり、聖堂の夜を守り、ミサを拝聴し、祝福と共に剣を受けて、武士道と神秘的のキリスト教思想とを結合した。かつてはテルチュリアヌスが両立するを得ずと考えた、この武士道と修道的精神とを合体したものは武士修道院であった。克己、清貧、忍耐、規律、勇気は聖伝武士団の戒律の理想である。大学も、病院も、社会救済事業も教会の仕事であった。国家それ自身が宗教的基礎を有した。西欧中世紀の帝国および王国という政治形式も教会を離れて成立したのではない。神聖ドイツ帝国とローマ教皇座との間に存した密接な関係はあまねく人の知るところである。ガリアにおいてはアリウス派異端を奉ずる民族の敗北は教会とフランク人との共同の勝利である。かくてピピン(Pipin)が王として注油され聖別されて以来、フランスの王権は宗教的(神的および教会的)色彩を帯びることとなった。国家もまた教会

p. 150

を自己の立法および規約の作製に関与させた。司教と侯伯とが相会してカロロ大帝(Charlemagne)の勅令(Capitularia)の編纂に当たったのはその顕著なる例である。中世紀封建時代において、戦闘中の両軍に神の名における休戦を命じ、もって好戦君主の暴力にある程度の牽制を加えたのも司教の業である。かくのごとき社会のキリスト教化がまったく何らの弊害なく行われ、野蛮の遺風も残留することなく教会に対する俗権の干渉もなく、万人の心が福音の理想に感激して、すべてが美しい愛と理解とによって成就したと信ずるは余りに無邪気な期待である。しかしやむを得ざる人性の弱点は別として、キリスト教が中世紀の偉大なる社会組織に与えた影響を無視するのはなお盲目と言わねばならぬ。

この顕著なる結社性の運動を前にしては、なんぴとといえども、この時代に『教会』の観念が絶えず明瞭となり、信者の宗教的意識の中で漸次に重要なる位置を占めて来た事実を怪しまぬであろう。もとより、ここに教会の観念と言うことは教会に関する神学の意味ではない。この神学の部門が系統的に研究されたのは、中世紀が終局を告げ、プロテスタント教が生まれ出でて、教会に関する原則が否定された以降である。今日においてさえ教会に関する神学は例えば三位一体、あるいは聖体に関す

p. 151

る神学よりも遙かに不完全でかつ一定していない。されば今ここに論ずるのは中世紀の全体、すなわち聖職者、修道士、殊に一般民衆の活きた実際的キリスト教思想の中における教会の意義についてである。この意義は極めて重大であった。『教会の他に救済あることなし』(1215年第4回ラテラン公会議定義)。人々はただ教会によってのみキリストに属するという意識があった。異教徒はいくほどかの除外例の他は悪の中にかたくなとなりて滅亡に入るべきである。ペトロの牧杖に随わぬと称するギリシャ人およびその他はキリストの羊ではない。霊権は俗権の範囲内においてこれに代わるべきものでないが、しかし俗権を裁く権能を有している。

[註] 厳密に言えば中世に教皇がある侯の領土を没収し、または人民の忠誠の誓いを解く時も、教皇は侯をもっておのが臣下と見なしてするにあらずして、その犯せる罪を断ずるのである。(イノセントゥス3世の言葉)。王も信者としては教会に服従すべきがゆえに、もし罪を犯せば外面的の刑罰を受けて、例えば巡礼とかその他の公の贖を命ぜられるのである。王侯の位の剥奪はその最も重い刑罰であった。非常な大罪を犯したために破門の宣告を受け、霊的社会より切り離された者は、当時の社会組織上、当然俗的社会よりも同時に切り離されるから、この結果を見るのである。しかし実際上には教皇が領土を有していたから、かかる地方にては教皇は俗的君主としてその領土内の侯伯を直接に刑罰することもでき、またコンスタンチヌ

p. 152

ス帝が教皇シルヴェストルスに西ローマを譲ったという伝説もあったので、教皇の中には一般の王侯に対してまであたかも君主の態度を取った人もあったのである。

以上述べたごとく教会は中世紀にとって文字通り地上の天国であったが、そのために信者は来世の天国を忘れたであろうか。否、実にこれに反して彼らが最後の審判としてのキリスト再臨(パルジア)を信ずることの切実なるは、決して上代キリスト教に遜色はないのである。紀元一千年をもって世の終わりの期なりして世人が非常な恐怖に襲われたという物語は、時としてやや誇張して伝えられた趣がないでもない。しかしこの思想は愚夫愚婦の一時の迷信的病的恐怖ではない。実に教皇聖グレゴリウスより、下りて聖ノルベルトゥス(S. Norbertus, 1089-1134)説教者聖ヴィンセンシウス・フェレリウス(S. Vincentius Ferrerius, 1350-1419)に至るまで世紀末の徴を確かに見たと思いなした聖者も決して少なくないのである。また到るところの諸都市の壮大なるゴシック大聖堂には、最後の審判の光景が彫刻されて、司祭にも信者にも恐ろしき日を想起させた。左に掲げるのはミサ祈祷書中のディエス・イレー(Dies irae)の歌の翻訳である。この歌は聖フランシスクスの伴侶の一人なるトマヂ・チェラノの作として伝えられている。(第13世紀)

p. 153

怒りの日よ、かの日
世は猛火の裡にとけなん期(とき)
ダヴィド、シヴィラのうたえるごとく

さばく者来りまして
各自の魂を究め給わん時
恐れに人の心は萎えん

この日、ラッパひびき渡り
国々の墳墓をふるい
人々を裁きの庭に呼ばん

この裁きに応(こた)えんため
死せるもの蘇るとき
死も自然(よ)も共に驚くべし

p. 154

世のさばきの
ことのよし すべてしるせる冊(ふみ)
大王(おおきみ)の前にあり

裁主(さばきぬし)の御座(みくら)のまえに
隠れたるなべては知られ
さばかれぬ端ぞなからん

義人さえ戦慄(おのの)くときに
あな、われ何をか答え
たれをかよびたのむべき

稜威(みいず)あふるる大王よ
人々を無償(ただ)に救い給えば
慈悲の泉、われをも救い給え

p. 155

やさしきイエズスよ わがために
この世に来ませることを憶い給え
かの日にわれを滅(めっ)し給うなかれ

われを索(もと)めんとて旅に疲れ
また十字架上にわれをあがない給いぬ
これらのこと、むなしからんや

復讐の正しき裁主(さばきぬし)
清算のかの日の前に
わが罪のゆるしを賜え

われ罪人、なげき叫び
はじにわが面は赤し
神よ、願う者をゆるしたまえ

p. 156

なればマリアの罪をきよめ
盗人の祈祷をきき
またわれに希望をたまいぬ

わが祈りは、げに相応(ふさ)わざれども
いつくしみの、善き御主(みあるじ)よ
われを永遠の火より救い給え

羊の群にわれを数え
山羊の群よりひき出し給え
右手のかたえに列(なら)ばしめたまえ

呪われしもの、はじにまみれ
はげしき日に入らんその時
祝されし者と共にわれを呼び給え

p. 157

わが心は灰のごとくなえくだけ
祈りねがいまつる
わが終期(おわり)をたすけたまえ

罪の人さばきを受けんと
塵のうちより起きいずる
かの日はなげきの日なるかな

されば、神、御主(みあるじ)
やさしきイエズスよ、彼をゆるし
彼らに永遠(とわ)の休息(やすみ)を与え給え アメン

(最後の二節は後人の附加であるらしい)

地上の天国、教会のゆえをもって、天上の故郷を忘れて、クロヴィス王(Clovis)がレンスの洗礼池におけるがごとく、教会すなわち天国を信ずるを得るためには、人の心はあまりにも現実の罪悪と災禍と

p. 158

に眼醒めていた。マテオ福音書第25章の10人の処女(おとめ)の喩えに関する聖グレゴリウス教皇の説教の1ページに言う。『しばしば聖書に天国とあるは現世の教会のことである。....悪人は善人と混じ、棄てられる者は選まれし者と共にいる。教会が賢き処女と、愚かなる処女とに比せられたのは、実にこれによるのである』と。教会が善悪の種類の魚を満たす海に張られた網に比べられるのもそのためである。修道者や司祭の堕落、教会中にはびこる弊害の摘発も、中世紀の宗教文献にとっては珍しからぬところである。しかし教会はその堕落の極点に達し、腐敗が骨髄にまで及んだと思えるような時代においても、決して悪をさして善なりと言ったことはない。これがやがて自らその内部的廓清を行うことができたゆえんである。改革に志した教皇は、その義務を尽くすためにはしばしば超人的の忍耐を要した。第11世紀には、前世紀中の悪例を贖うために、教皇等は実に言うべからざる苦闘を続けた。カノサ城の勝利の劇的場面を有する聖グレゴリウス7世とドイツ王ヘンリー4世との争いはその最も代表的な事件である。しかし聖職者の妻帯禁止の徹底的実行は歴史に喋々されていないが、その実最も困難な事業であったかも知れぬ。なぜならばその理想とするところの極めて高遠なるに対して、この弊害はむしろ一般に拡まり、かつ聖職者は富裕強大なる一種の階級を作らんとして

p. 159

いる時であったからである。しかもこの改革に完全に成功したことは宗教史上特筆に値せねばならぬ。クリュニ(Cluni)、クレルヴォー(Clairvaux)等の修道院は、金銭によって高位に上った司教、枢機官に自由と清貧の尊さを教えた。また敢えてその長上者に真正の義務を説いた聖人も輩出した。聖ベルナルドゥスの著書中最も有名なものの中に教皇ユゥジェニウス3世に上った De Consideratione 『反省論』というのがある。彼は教皇に苦言を呈して、教皇の地位は教会中最上の地位であるが決して唯一の地位ではない、また教皇たりといえども圧制をしてはならぬと戒めた。230年の後にシエナの聖女カタリナが時の教皇に上ったのも優しい言葉であるが内容は真剣であった。『愛すべき父よ、世間は堪え難く思っています。悪は到るところにはびこり、殊に聖会の庭の中なる人々に甚だしいのであります』と。彼女に言わせれば、司教等は『狼か、または人間の姿をしている悪魔で、美食と、華麗の宮殿と、豪奢を極めた伴廻りのことをしか』思っていないのである。聖女はこの手紙の末に『教皇様の御心をやわらげるために5顆の黄金色のオレンジを差し上げます』と書き添えた。教会は中世紀の人々に、巧妙なやさしい言い廻しから、聖き憤怒に到るまでの、あらゆる純朴にして真率なる感情の対象となったのである。

p. 160

キリスト教の外面的発展

外面的宗教は中世紀を通じて、未だ霊的に幼稚な国民を養う豊かな乳汁であった。

キリストの霊による世界の支配は電光の天の東より西に閃くがごとく一瞬に成就すべきものでない。教会の膨張は、あたかも三斗の粉の中に隠せるパン種の働きにも似て、極めて徐々であらねばならぬ。さればこの期のキリスト教においていくらかの粗野、いくらかの児戯の感があり、またわれら近代人の繊緻(デリケート)な感情を痛めるような出来事があり、または地方的な異教の迷信の残滓があっても敢えて怪しむに足らないのである。

[註] 例えばかの神明裁判(Ordeal)のごときもの、例えば争論の場合熱湯の中に手を入れて、正しき人ならば火傷せず、罪人は火傷を受くるというがごとき類は、第8、第9世紀頃には地方的の教会で認められていたが、ようよう教会より退けられ、俗的裁判官の前に行われ、後にアレキサンドル3世、セレスチヌス3世、ホノリウス3世等によりまったく禁止さるるに至った。

この中世紀の間を通じて徐々にカトリックキリスト教の特徴なる霊と物との微妙なる混交が行われて完成されて行った。

秘蹟に関する教理もますます精密に研究された。秘蹟の数が七と明瞭に認められたのは第12世

p. 161

紀以前である。蛮族時代において各種の罪に対して相当の贖いを命じた状は、種々の悔悛式書を見れば明らかである。第11世紀においては罪の赦しを与うる際、これまでの祈願体の句を使用していたのが命令体に変じた。すなわちこれまでは悔悛の秘蹟を授くる際、司祭が神に『痛悔者の罪の赦されんことを』と願ったものであるが、(今日なお東教会においてしかるごとく)この頃に至って痛悔者に向かって『われ、汝の罪を赦す』という言葉に変わった。これは秘蹟における人的要素に重きをおき、教会の有する『天国の鍵の能力』をいっそう明らかにした訳である。悔悛の秘蹟に関する二三の教理上の論争もまた同じ意味の結果を生んだ。結婚もまた教会法理家の論争の題目となった。聖体の秘跡もまたしかりである。躊躇と、模索と、異端との後に、キリスト実在と聖変化との定理(ドグマ)が確定された。聖変化の定理とは外観色彩味感等の偶性(Accidents)を遺留してパンの実体(Substance)がキリストの肉に、ぶどう酒の実体がその血に変化するということである。ミサの犠牲以外においても、特殊の信心をもってキリストの聖体を尊ぶことが始まった。また、一般に秘蹟は単に受ける人の信仰を刺激する象徴に止まらずして、神がこれに附与し給いし特殊の能力により、それ自身に聖寵の道具となることが認められた。これがすなわち秘蹟自身が有する能力(ex opera operato)に関する定理で、これは

p. 162

すでに古代より嬰児に洗礼を施す習慣によって黙認されていた原則に他ならないのである。しかしもとより大人が秘蹟を受ける場合には聖寵はこの人の覚悟に関するところが多いので、ある場合にはまったく効果のないこともある。

中世紀にはまた外面的敬虔の行業が盛んであった。聖人の遺骨に対する尊敬や、聖地巡礼が盛んに行われた。聖遺物に関してはラテン人はやや盲信的であったから、ギリシャ人がこれを利用して巧みに偽物を作成したものである。巡礼地として著明なるは、エルサレム、ローマ、およびコムポステラ(スペイン)における使徒聖ヤコボの墓を第一とし、これに次いでトゥール(フランス)の聖マルチヌスの墓、カンタベリー(英国)における聖トマス・ベケットの墓、マインツ(ドイツ)における聖ボニファチウスの墓も有名であった。十字軍は聖戦なると共に、巡礼であり、また贖宥を獲る方法であった。贖宥(indulgence 一般に免罪符と誤訳せらる)とは罪を犯す免許ではない、罪それ自身、すなわち神の聖寵の喪失の赦しでもない。たとえ罪は痛悔と悔悛の秘蹟とによって、赦されても罪に附随する罰は残る。贖宥とはこの罰の全部あるいは一部の赦免であって、善業によって教会から与えられるものである。喜捨もまた善業の中に含まるるがゆえに、この贖宥の実際に多少の

p. 163

弊害の生じたのは見易い道理である。

中世紀信仰の驚くべき外面的表現は宗教的芸術、殊に建築と聖劇とである。司教座たる大聖堂の入り口を飾る彫刻は、民衆の聖書、また神学書で、旧約、新約の物語や、教理の重要な点は皆ここに表されていた。それを研究すればするほど、ますます聖堂を建て、これに装飾を加えた芸術の理知性ならびに民衆性に驚くであろう。その他の諸教会、町村の小教会、修道院の聖堂も小規模ながら同一の役目をしていた。聖劇が各地の人民に愛好されたことも周知の事実である。特に注意すべきは、どれほどこの方法によって聖書物語が観客にとって親しく容易(たやす)いものとなったかということである。そこでは無邪気な象徴法が行われて、一目で霊的の真理を解るようにした。例えばイエズスの磔刑を演ずるに際しては、イエズスと『善き盗賊』とには白いシャツを着せて、悪い盗賊には黒いシャツを着せた。これではなるほど一目瞭然である。また聖劇を見る人々に、劇中の人物が彼ら自身の日常生活に入り込んでいる感を与えた。例えばラザルが鷹を拳にして狩りに出かける状を見たり、また英国でヘロデ王や宮廷の侍臣が、当時英国王宮での通用語なるフランス語をしゃべるさまを見たりすれば、観客は抽象世界や神話の国に連れて行かれた気はしなかったであろう。

p. 164

イエズスの生涯と彼らの生涯との間には、あの学者めいた『パレスチナの地方色』とか『東洋的色彩』とかが挟まっていなかった。聖書物語に対するこの心安さが彼らに容易い信仰と、かつ活き活きとした敬虔とを与えたのである。またこれが時として粗野な自由に堕したこともある。しかし悪魔の滑稽化はさておき、聖母および聖人に対するこの自由は不信の徴でなくして、その実は子どもらしい、反省を欠いた、不謹慎の信仰なのであった。

中世における聖人の伝記類もまたほとんど全部民衆教育的の芸術で、その代表的なものとしては『黄金物語』を挙げることができる。これはドミニコ会の修道士で後にジェノア市の司教となった福者ヤコブス・デ・ヴァラジネ(Jacobus de Varagine 1228-1298)の筆になり、民衆の教化を目的として綴られ、本来の書名を『聖人物語』(Legenda Sanctorum)と言う。この書は中世紀を通じて非常に愛読されて、当時のあらゆる国語に翻訳され、すべての人に読まれたものである。現今見るところの欧州中世紀建築の大聖堂の装飾彫刻や色窓ガラスに残っている聖人伝説は、皆この書の忠実なる絵画化なのである。『黄金物語』は子どものような単純さに溢れ、超自然は奇蹟となってその中に織り込まれている。『魅惑的な不思議な世界である。神様や、聖母や、天使や、悪魔や、聖人や、悪人

p. 165

が互いに言葉を交わし、天国と地上世界との距離がなくなっている』とある批評家は評した。

この類の伝記はもとより歴史的価値を云々すべきではないが、またこれを単に無邪気な伝説として微笑をもって片づけてはならぬ。まさに宗教的芸術で、時代の人心に相応しい教化の資料であったのである。『その描写の中では、聖人らは地上における最も偉大な者で、物質世界および人間の悲惨の境涯をまったく超越して、国王も彼らを尊敬し彼らの忠告を聴き、民衆と共にその遺物に接吻し、その保護を希求する。聖人らはすでにこの世において神の友である。神は彼らに慰藉と共にその大能の幾分かを頒ち与える。しかし彼らがこの能力を使用するのは他人に善を施す時だけである。人々は霊魂と肉身との不幸を逃れるために彼らの許に集い来る。聖人は柔和、慈悲、敵の赦し、苦業、克己、その他の徳を超人的に実行して、これらの徳の愛すべきゆえんを示し、これを実践することを信者に勧める』(ドルヘー(Delehaye)『聖人伝説論』)

以上の公平な批評家の言も、中世紀の聖人伝記類、および聖人に対する信心の中に混ずる多少の滑稽や弊害の全部を看過させる訳にはゆかぬが、大体において素朴単純の中世紀の人々の眼に映じた聖徳をよく説明している。『黄金物語』に現れるキリストは使徒パウロがコリント人に

p. 166

書き贈って『キリストにおける小児に語るがごとくにして乳を飲ましめ、堅き食物を与えざりき』(コリント前書 3:1-2)とあるそれである。

中世紀における心霊生活

上述のキリスト教の外面的発達は中世紀の敬虔の全部でもなく、その主要部でもない。いたずらに外表をのみ見て、中に蔵された霊魂の運動、精神的進歩を見ざる者は中世紀を理解せざる者と言わねばならぬ。歴史の上に起こった変化が内的にして心の奥底の事件なる時はこれを発見することは困難になる。しかしその実今日の文明人の鋭い理性はスコラ哲学の訓練を経たもので、また近代人の繊細なる感情は中世紀人の情操が長い間に洗練されたものである。

この時期における人々の内的生活上に生じた注意すべき変化はキリストに対する考え方の変化であった。

第12世紀および第13世紀において最も美しい信心の花を開いたこの霊的運動を育んだのはやはり修道院である。すなわちベネヂクト会殊にクリュニ(Cluni)修道院に属する系統の重大な影響があって、すでに第11世紀の前半頃からそこにこの黄金時代の前駆現象がみられた。

p. 167

[註] 古代のベネヂクト会修道院の敬虔は荘厳、切実であった。しかし元来祭典的(liturgical)であったから、個人的と言わんよりもむしろ集団的で、吾人が今ここに述べようとする敬虔とはまったく異なっていた。しかしベネヂクト会修道士聖アンセルムス(S. Anselmus, 1033-1109)は新時代の最初の師であろう。彼には救世主に対する劇しい喜悦の念がある。さりながらアンセルムスにはベルナルドゥスやフランシスクスにあるイエズスに対する人間的の愛情はこれを求め難い。アンセルムスの『黙想』は神学に満ち、むしろ祈祷を伴う思索であった。

かつて聖アウグスチヌスは真理と完徳との獲得の事業を各個人と神との間の秘密なりと観じて、神を人の心に内在せしめたが、イエズスを内在せしむるまでには行かなかった。キリストの人性は彼の思想の表面には現れなかった。これに反して中世紀の信心の新しさ、その大なる功績はキリストの人性に対する理解と愛とである。肉となり給いし御言葉、人なるキリスト・イエズス(Homo Christus Jesus)は単に模倣すべき亀鑑、従うべき指導者たるに止まらずして、われらの霊魂に内在してこれを照らす永遠の光明である。その人性より見てもキリストはわれらに内在する。彼は霊魂の裡に宿り霊魂と共に行為するその配(つま)、その友である。人々の心に生じたこの大いなる変化を詳細に研究するのは極めて興味の深い仕事であるが、吾人はこの書においては聖ベルナルドゥス、

p. 168

聖フランシスクス、および『キリスト模倣』の著者を中心にして簡単にその大体を叙してみよう。聖パウロ、あるいはキリストの最愛の弟子なる聖ヨハネの心の中にイエズスが生き給いしはもとよりその所であるが、しかし中世紀の神秘家のイエズスに対する心持ちにはまた異なる新味がある。一例を挙ぐればこの意味が明瞭になるであろう。下に掲げるのはよく聖ベルナルドゥスの全集の最後ページに印刷する長い詩の数節である。

あわれ世のすくいよ
イエズスよ
汝がクルスに われをもつけてよ
事のよしは 汝ぞしりたまう
わがねがいを さしゆるしたまえ

真紅のおんきず
ふかき 釘あとを
わが心にも しるしたまえ

p. 169

汝をば いくえにも愛しまいらせて
汝にあやかり奉らんため

クルスのうえより
われをながめて(ああわが愛する者よ)
われを おんみに 回らせたまえ
『癒えよ』とのたまえ
『すべてをゆるす』と。

いま 汝の愛のために
われはじながら 汝を抱擁(いだ)き
汝にすがりまつる
そのわけは 汝ぞしろしめす
さあれ ただ見逃したまえ

わが行為 みいかりに触れず

p. 170

ここに そそぎ 流るる御血
つみびと いたつきの人
われを癒し われを洗えかし
つみのけがれの 残らざるまで

言うまでもなく、これは『新しき頌歌』であった。この調べとプリュデンシウス、聖アムブロジウスとの距離はヴィルジリウスとの距離と異なるところがない。人の腸に迫るこの深い謙遜と、単純にしてかつ熱烈なるキリストに対する愛とをかくのごとく一致させたものは決して上代に見ないのである。人性の腐敗を感ずることかくのごとく切に、十字架に磔(かか)り給う者のおのが神にして、かつおのが兄弟なるを思うことかくのごときものはかつてなかった。感情の単純なると相俟って詩体もまた素朴である。

聖ベルナルドゥス

上掲の数句は聖ベルナルドゥス(S. Bernardus, 1090-1153)の遺した詩と散文との中からほとんど手当たり次第に取り上げた一節である。彼の代表篇としては『雅歌についての説教』を挙げねばな

p. 171

らぬ。しかし彼とその弟子らのキリストに対する濃かな愛の心持ちを詳細に味わうには、この有名な説教のほかなお他の諸篇および彼の友人や弟子らの書いたものを読んでみる必要がある。彼の影響は聖ボナヴェンツラ(S. Bonaventura, 1221-1274)によって聖フランシスコ会に及んだ。

ある批評家(リッチュル)は聖ベルナルドゥスの心はまったく人としてのキリストに対する愛に充たされて、そのためにキリストの神性はほとんど言葉ばかりの肯定に過ぎなくなっている、と言うが、この批評はぜんぜん当を得ていない。聖ベルナルドゥスおよびその他のキリストに対する愛の新酒は、決して古代敬虔の酒を忘れさせたのではない。彼らは決して三位一体の神を忘れなかった。彼らが人としてのキリストを愛するのは、神が弱きわれらの能力に叶うようにおのれを卑しめられたのを思うからである。

[註] 『われ、わが束縛を脱して、神のわが魂の配(つま)なるを見奉らんと願う。しかれど神を直観することは言わずもがな、神の本性を知ることさえもわれらに能わざるなり。(かく言いながらわれ流涕を禁ずること能わず。)聖父に等しく、聖徳の光輝の裡に暁に先立ちて生まれ給いし聖子の御姿は、天使らの常に見奉らんと願うところにして、神の許なる神にまします。人なるわれは人々に、せめて人なる彼につきて語り奉らん』(説教第24、『神の霊を見奉るを得ざるがゆえに(キリストの)肉に養われ奉る』(説教第20 )

p. 172

前時代からの修道院の伝統の中に著明であった修道者の心理解剖もこの人々の筆に上って精細を極めている。例えば『説教』第24は修道士の犯す誹謗の罪を戒め、同30においては修院長の心得を説くなどである。

彼らのような神秘家の信心と、当時の一般民衆の信心とを比べてみれば、そこにはやはり同じものがある。彼らもまた民衆のように死と審判とを恐れ、イエズスの友たるにもかかわらず、一度死に想い至る時心の底から戦慄するのである。

[註] 『われは地獄を恐る。審判主の憤怒の御面は天使といえども敢えて仰がじ。全能者の憤怒と、その劇しき御面と、宇宙の崩れ落つる大音響と、諸原素の火焔と、大暴風と、大天使の声と、最後の宣告の厳しき御言葉とを想像すれば、われは戦慄を禁じ得ざるなり。底なき渕の地獄の獣、かの餌食をあさる獅子の牙を想えば恐れにわが胸は塞がり、死ぬことなき虫の群、猛火の滝、煙と、暗黒の気と、硫黄と、旋風と、外の闇とに思い至れば物狂わしく感ずるなり。....われは禍なるかな。わが母よ、悲と苦、永遠の憤怒、絶えざる嘆きの子たるべきわれを、なにゆえに生みしや、火中の薪となりて燃ゆる運命のわれをなにゆえに汝の膝に抱き、われに汝の乳房を吸わしめしや。』(説教第16)

彼らはまた聖人を崇め、聖母を愛する。時としてルーテルの宗教を彼らの敬虔の系統なりと

p. 173

見なす批評家もあるが、聖母および聖人に対する信心の点では正反対である。中世紀の神秘家が御子の愛に、御母の愛を添えるのは極めて自然で、同じような心持ちなのである。フランシスコ会のある人は『われは御母の乳汁を御子の血しおと混じ、これをもって甘味なる飲料(のみもの)を作らん』と言った。聖ベルナルドゥスも『御母の讃美は御子に帰す』と言った。実に聖人の最も甘美な説教は聖母につきて語る時である。中世紀において人々の心の中で御子と御母に対する愛が一つに融け合っていたことを知りたければスタバト・マーテル(Stabat Mater)の歌を読むがよい。この歌の作者は諸説あるが、おそらくは教皇イノセントゥス3世(+1216)またはフランシスコ会修道士詩人ヤコポネ・ダ・トディ(Jacopone da Todi +1306)であろう。

御子の磔られたまえるや、悲しめる母は涙に咽(むせ)びて、十字架の下に佇(たたず)めり。

嘆き憂い悲しめるその霊魂は、鋭き刃(やいば)にて貫かれたり。

天主のただひとりなる御子の尊き母が、憂い悲しみ給えるは、ああいかがぞや。

p. 174

尊き御子の苦しみを見給える慈しみ深き母は悲しみに沈めり。

キリストの御母のかく悩みに会い給えるを見ては、誰か涙を注がざらんや。

キリストの御母のかくその御子と共に苦しみ給うを見ては、誰か悲しまざらんや。

聖母はイエズスのおのれが民の罪のために、むちうたれ、責めらるるを見給えり

また最愛の御子の、息絶えだえに悶え悩み、やがて死に給うを見給えり

慈しみの泉なる母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え

ああ聖母よ、十字架に釘づけられ給える御子の傷をわが心にふかく貫かせ給え

わがためにかく苦しみ、傷つけられ給いし御子の苦痛をわれにも分かち給え

p. 175

わが命のあらん限り汝と共に涙を流して、磔られ給いしイエズスを労るを得しめ給え

われ十字架の傍に、汝と共に立ちて相共に嘆かんことを望む

童貞のうちいと優れたる童貞、われを退け給わずして、共に嘆くを得しめ給え

われにキリストの死を負わしめ、その苦痛を共にせしめ、その傷を思いめぐらしめ給え

御子の傷をもってわれを貫き、その十字架と血とをもってわれを酔わしめ給え

聖なる童貞女よ、地獄の火に焼けざらんために審判の日にわれを守り給え

ああキリストよ、われがこの世を去らん時に、御母によりて勝利の冠を得しめ給え

肉身の死して朽ちるとき、霊魂には天国の永福を蒙らしめ給え

彼らが聖人を愛するは、いわば同一家族の感情より出る。聖人はわれらと同じくキリストの肢

p. 176

で、同じ身体に属するから、たとえ光栄の裡にいても、常にわれらの悲しみを感じて、彼らとわれらとの間に一致の成立せざる限り、その幸福に欠陥を覚えるのである。聖ベルナルドゥスが聖人らの祝日にした説教はほぼこの意味の敷衍である。その聖人に対する敬愛の念は、霊的かつ崇高なると共に、一般民衆の信心のように情熱的である。彼は聖人らを彼らに光栄を賜う神およびキリストにおいて愛するのである。

聖フランシスクス

中世紀のキリスト教の特徴をある者は社会幸福の増進、教会に対する奉仕に求めて、その代表的な聖人として聖ドミニクス(S. Dominicus, 1170-1221)や聖ヴィンセンシウス・フェレリウス(S. Vincentius Ferrerius, 1350-1419)のような使徒的熱誠に燃えた人を挙げたり、またはこれをキリストの人性に対する霊魂の劇しき愛に求めて、聖ベルナルドゥスのような神秘家をその代表者とする。これはそもそも論者の偏見を表すもので、その実はこの二の愛が決して相矛盾しない証拠である。多くの歴史家が中世紀を通じての最大の聖人、ある批評家は実にイエズス降生以来、キリスト教歴史を通じての最大の人物と認めているアシジの聖フランシスクス(S. Franciscus, 1181-1226)

p. 177

はこの二つの愛を一身に集めた人である。

伝説のアシジの貧者(ポヴェレロ)はさて措き、歴史のフランシスクスも彼を研究すれば、研究するほど、山上の垂訓のイエズスと似通う面影がある。彼の単純は、彼を新しい被造物にした。彼は堕落以前のアダムのように、一切の自然に対する無邪気な愛と、新鮮な同情とを持っている。彼は小鳥に説教し、神に創造を感謝する。彼はすべての人を小児のように信頼する。ある日屠られんとする小羊を贖った時、これをどうしてよいかわからなかった。彼は『この時兄弟なる伴侶の教えをきき、すべて売りたる人にこれを返し、命じて再び売りまたはいたむることなからんようにこれを守り、もれを養い、注意してその世話をすべきことを依頼せり。』

数人の盗賊がある兄弟らの施し物のパンを強奪したのを聞いた時、彼はその兄弟らに盗賊の跡を追わしめ、これを発見せし時、きれを地上に敷き、その上にて食事せんことを乞い、次いでへりくだりてこの後なんぴとにも悪をなさざらんことを願えと命じた。福音書にある通り、彼はなんぴとをも師と呼ばず、なんぴとをも善と呼ばなかった。兄弟らの棲む家も、もしこれを欲する人あらば喜んでこれを譲るべしと教え、また獣にまで抵抗せず、兄弟火をして食せしむべきことを命じた。

p. 178

福音の文字をそのまま生かすフランシスクスのかくのごとき生涯は、上古の教父らが繰り返して教えた中庸の道と離れたのであろうか。そして彼の信心はかの中世紀に時々現れた小さな異端者の不健全な熱情の亜流であったろうか。否、福音的勧告、殊に清貧を超人的に厳格に守ったフランシスクスは、また文字より霊を重んずる超自然的智慧を有していた。かつて兄弟らに教えていわく『善業は理解をもって行わねばならぬ。文字は殺せども霊は活かすと使徒も言われた』と。中世紀の異端の多くはこれと反対に文字のために霊を殺し、『福音』(彼らのいわゆる福音とはマテオ聖福音書第10章に記された生活様式を主として指す)を『教会』よりも重んじた徒であった。賢き中庸は教会の規律の特徴である。これを軽んずるは離教的の態度に他ならぬ。彼ら中世期異端者は極端な文字実行主義と一種の神秘的アナルキスムとを結合して、すべての教会階級制度を否定し、またあらゆる権力は、その政治的なると宗教的なるとに関せず、これを帯ぶる者が有徳の人でない場合には正当な権力でなくなると唱えたのである。(フス(Hus, 1369-1415)ウィクリフ(Wyclif, 1324-1384))

聖フランシスクスはこのような離教的精神を抱いていなかった。彼の弟子たちが熱情に駆られ

p. 179

て教会規律の羈絆を脱する危険を防止するには、やはり教会に対して同程度の熱情が必要である。聖フランシスクス自身教会に対する服従の意志を、彼がその花嫁なる清貧に対する愛と同じように劇しい甘美な言葉をもって述べている。『ローマ聖教会の規定に従って生活する司祭ら』に対しては『余は天主の御子を彼らの裡に見る。彼らはわが主の君なり』と言い、また『たとえ彼らが余を迫害することありとも、余は彼らに向かいて救いを請う手を延べん』とも言った。しかし言葉よりも彼の行動はなお雄弁である。托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会その他)がローマ教皇の支配下に直属し、司教の権威以外にあること従前の修道院に比してなお徹底的であって、これによって教皇の権利拡張に貢献するところ多かりしは人の知るところである。しかしなお注意すべきは修道者の服従について聖フランシスクスがカトリック教会内に新形式を作ったことであろう。彼の弟子らは修道会の規則の文字に束縛せらるることなく、すべて霊魂の利益に関する事柄について、教皇に服従せねばならなかった。彼らの服従はこの意味において古来の修道院の服従よりなお広い範囲に及びかつ完全である。この事実はフランシスコ会に属する以外の人々に対しても教会の権威の重きことを悟らせる手段となって、一般の教会行政上に聖座の有力な支持者とな

p. 180

った。

この教会の権威に対する服従が最後の完成を見るに至ったのはおそらく第16世紀であるが、(これが実に今日のカトリック精神の特徴である)この大勢を馴致したのが神秘家なる聖フランシスクスの仕事であった。

およそフランシスクスを語るほどの人は、神のすべての被造物の兄弟たる彼をのみ知って、教会の侍臣たる武士、義務と規律との人、ローマ教皇の謙遜な協力者たる彼を知らねば、そのフランシスクス観は不充分たるを免れぬ。

しかし彼の真に偉大なる面目は他にある。彼は実に何よりも第一にイエズスの友であったのである。聖ボナヴェンツラは彼の聖痕の不思議な物語をするにあたって『キリストの友(フランシスクス)は、十字架に磔けられしイエズスにまったく似奉らんがためには肉体の殉教よりもむしろ霊魂の燃焼が必要なることを知っていたはずであった』と記している。アヴェルノ山の物語は福音歴史とまったく異なる趣を有す。しかしこの二の物語の読者に残す印象はいかにもよく調和しているではないか。第13世紀の神秘的観想家(Complatives)が主の御受難の信心を特に愛して『悲しみの裡の法悦』

p. 181

『聖なる十字架における心の快感』を書いているのはアシジの聖痕者に教えられたのである。

[註] 例えば聖ボナヴェンツラの Officium de Passione Domini (御受難の聖務日祷書)を見るがよい。『天の快楽の源....精神の快楽は十字架にあり』と『キリストの模倣』も言う(第2篇第12章)『中世紀末期における宗教芸術』の著者マール(Male)氏も第13世紀における理知的敬虔に第15世紀の感情的敬虔を対比して、その源をアシジに求めている。しかしマール氏も第13世紀における御受難の表現について言っている通り、フランシスコ会における御受難の敬虔は本来歓喜であり法悦である。この人間的の歓喜は次の時代には悲しみと変ずる。第14,第15世紀の観想家の敬虔は悲痛の調べを帯びて写実的になる。例えばスェーデンの聖女ビルジッタ(S. Birgitta, 1303-1373)はイエズスの打たれ給う鞭の数を数え、ノルウィッチの聖女ジュリアナ(S. Juliana of Norwich, 1342-?)は御面を流るる鮮血の暗黒色に凝固するを見た。これらは聖アウグスチヌスの説教に表われる御受難に関する深い思索と非常なる差異である。

降誕節にまぐさおけを作ったフランシスクスは、また救主を単純な、人間的な、地上的な親しみをもって遇することを人々に教え、聖ベルナルドゥスのイエズスに対する甘美なる愛ともまたさらに異なる特色を示したのである。

[註] 聖ボナヴェンツラの作と伝えられる一篇の詩において、幼きイエズスに対して

p. 182

O quam libens balneum ei praeparassem
御風呂を立ててあげたかった
という句がある。前出、マール氏によれば『キリスト伝の黙想』は『玄義』を通じてキリスト教芸術に深い影響を及ぼし、また古代の象徴的解釈法が衰えると共にどこにも人間的の情味が窺われると言う。聖ベルナルドゥスの条下に記したと同じくフランシスコ会にても、キリストの肉身に多くの心を惹かれるのはわれらの性情の弱きに基づくので、神の観照に進むがさらに貴いことであると信じている。フォリニョの福者アンジェラが神の奥義の観照を許された時、彼女は『聖フランシスクスの棲みし地域の上に出たり』と感じたと言う。

イエズス・キリストの模倣

この書の著者は人としてのイエズスをあまり説いていない。この中に聖母マリアの御名もほとんど現れない。しかし中世紀を通じてこの本ほど内部的な書物、またわれらの霊魂に棲み給うイエズスを語る書物はないのであろう。ただに中世紀とのみ言わず、いかなる時代を通じても、またこの本ほど人間の本性を写して、時代の特殊の影響を離脱した本はないであろう。中世紀の文学は、人間の永遠の通有性を描写する古典の傑作の面影がない、という非難は時折耳にするところであるが、『キリスト

p. 183

の模倣』は聖トマスの Contra gentiles (破邪論集)と共にこの非難を覆すに充分である。創造られし人の心の奥底の不安、愛情を要求する必然性、押さえても押さえても避け難い利己心の発現、これが極めて単純に、正確に、もったいぶらずに書かれている。例えばその第2篇第8章『愛情がイエズスと善き信者との間に作る親睦』(De familiari amicitia Jesu)第3篇第5章『神の慈愛の霊妙なる効験』(De mirabili effectu divini amoris)の美しさは一度これを読む者の決して忘れ能わざるところである。Si quis amat, novit quid haec vox clamat 『なんぴとかもし愛する時は必ずこの声の言うことを聴く。』この一節においてはア・ケムピス(a Kempis)のラテン語は、その階調の他に一種の至純なる自然の光輝を有して、いかなる翻訳もこれに及ばざるを覚えるのである。

著者は万事に超えて内的生活、世間の蔑視、禁欲をキリストとの一致結合に欠くべからざる条件として力説する。聖ベルナルドゥスはわれらにイエズスの愛と聖母の愛とが極めて自然に融合することを示し、聖フランシスクスは最高の神秘状態も教会に対する忠誠と矛盾せざることを教えた。今われらは『キリストの模倣』によって完全な内的生活が秘蹟の尊重ならびに使用とまったく調和するという事実を学ぶのである。『キリストの模倣』の第4篇は全部聖体の秘跡に関することで、しばしば聖体

p. 184

を拝領すべきこと、悔悛の秘蹟をもってこれに準備すべきこと、司祭職の高貴なることが書いてある。『ああ霊妙(ふしぎ)なる機密なるかな、司祭の品位は高大なるかな、天使に与えられざりしものは彼らに与えられたり。何となれば聖会において有効に授品せられたる司祭のみ、独りイエズス・キリストの聖体を祝成(つく)り、これを奉祭(まつ)る権利を有すればなり。(第4篇第5章)汝は誰なるやを考え、汝は司教の按手によりて誰の使臣(つかい)となりしやを凝思(おも)うべし....それ聖服を着たる司祭は、おのれを全ての人民のために謙遜して神に祈祷(いの)るイエズス・キリストの代理なり(同上)。常にイエズス・キリストの聖体を観望(み)る司祭の目はいかに質朴、潔白なるべきぞや、間断(たえま)なく天地の創造主に接触(さわ)る手はいかに無垢にして高く天に挙揚(あ)げらるべきぞや(同上第11章)』と。『鬱結(ふさ)ぎたる情と散乱(みだ)れたる心』(第1篇第20章)の人性の弱さを知る彼は、これを癒すに聖体の秘蹟に勝る薬剤(くすり)を知らないのである。著者が秘蹟に対する信頼の内的生活に交渉を有するさまを描くことはあたかも聖ヨハネの面影がある。

スコラ学派、聖トマス・アキナス

中世の精神生活を研究せんと欲する者はとうていスコラ学派を除外することはできない。スコラ学

p. 185

派の歴史は元来哲学史、神学史、教理史の範囲に属すべきものであるが、中世紀において宗教思想がいかに人生の全体に深く影響したか、という点を明らかにするためにここにも簡単にこれを述べる必要がある。

スコラ学派の時代は熱情的理知主義の時代であった。『この時代ほど人類の知識が推理する必要を感じ、またこの必要を満足させるために妨害を受けなかった時代はない』とホーレオー(Haureau)が評した。しかしアルクイン(Alcuin)(Albinus 785?-804)等のカロリンガ朝神学の創始時代にはこの評言は当てはまらない。アリストテレスの哲学書のラテン西欧における紹介は(第13世紀初頭)中世思想に截然たる二時期を画している。以上の評言はこの二時期全体にわたって一様に適切でもない。ただ第12世紀(すなわち前期の終わり)および第13世紀(後期の始め)にのみ妥当である。

第12世紀における思想界は主として聖アウグスチヌスの影響の下にあった。そしてこの時代の思想の進歩は、まったく外面よりの影響を受けぬ、純然たる西欧キリスト教の仕事である点において甚だ興味に富むのである。この代の著明な思索家としてはアベラルドゥス(Abelarudus, 1079-1142)ペ

p. 186

トルス・ロムバルドゥス(Petrus Lombardus, 1100?-1164?)フーゴー・ア・サンクト・ヴィクトーレ(Hugo a S. Victore, 1096-1141)リカルドゥス・ア・サンクト・ヴィクトーレ(Ricardus a S. Victore, ?-1773)等がある。しばしばこの四人の前二人を主理主義者として、後二人を神秘家としてしまうけれども、実際にはアベラルドゥスのような主理主義者もカトリックの教義を心の底から信じていたし、またリカルドゥスのような神秘家も理性に対して劇しい熱情を有して、三位一体を理性の必然性をもって証明しようと企てていたほどである。しかしこれも要するに前世紀の偉大なる思索家アンセルムス(S. Anselmus, 1033-1109)の後蹤を追うたに過ぎない。『第12世紀の神学的思索は不信的理知主義の上に立ったのではなく、むしろ第二の天性と化した信仰に基づくのである、....信仰は彼らにとって極めて当然になっていたので、その超自然的性質を忘れてしまし、また教義は深く彼らの理性の中に受け入れられていたので、理性それ自身より発しているかのごとく思ったのである』(レーニョン Regnon 三位一体に関する歴史的神学研究)。第13世紀はこの熱情を盛るに目醒めたる理性をもってした。聖寵と自然、理性と信仰とは同一でない、しかし人々はその間に調和(区別、一致、主従)があることを発見してスコラ学派全体の機運を作り出した。『聖

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寵は自然を滅ぼさず、かえってこれを完成す。』『信仰は自然的理性の認識より出発すること、聖寵が人の自然的天性およびその能力を予想するがごとし』(聖トマス)。第13世紀に至っては、キリスト教信仰に到達する以前、以後とも、信条の真理をそれ自身による理由によって証明することの可能性を認めなくなった。吾人は『神の御言葉』の権威のためにこれを信ずるのである。神は確実なる徴(奇蹟、預言、教会史)をもってその御言葉を保証し給いしがゆえに、この信仰は合理的である。すなわち『もし吾人にして信ぜざるべからざるゆえんを見しにあらずば、吾人は決して信ぜざりしならん。』(聖トマス)

しかしこの態度は神学、すなわち信仰の科学の存在を許さぬものでない。信条の一々を厳密に証明することはできなくとも、哲学の扶助をかりて、その意味を系統的に説明することができる。すなわち一の思想体系を作り、類推により、および適合を論じて信条の本質的真理を説明し、その結論を帰納して異教徒の非難の不当を示すことができる。哲学以外の学問もまた教会に導かれて、聖書に含まれたる天啓の真理をよりよく理解するに資することができる。聖トマスはこの意味を言い現して『すべての科学は聖なる科学(神学)の侍者である』と言った。

理性と信仰との完全なる一致の確信はスコラ学派の出発点である。そしてすべての真理が整然

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と組織立って調和するを見る時の精神の平和はその勝利である。アヴェロエス(Averoes, アラビアの哲学者1126-1198)学派が互いに矛盾する二真理説を唱えて、神学における真理は哲学においては誤謬たるを得と教えたのは、実にその正反対の立場であって、スコラ学派の根本思想の否定である。教会はこの所説を禁止すると共に、爾来あらゆる神学系統中、アヴェロエス派学説と最も正反対の体系たる聖トマスの神学を奨励するを止めないのである。

光輝あるスコラ哲学者、神学者の群の中に一しお大なる光明は聖トマス・アキナス(S. Thomas Aquinas, 1225?-1274)である。彼の天才は平衡、清澄、明徹、誠実であり、アウグスチヌスとアリストテレスとを一の体系に綜合するだけの大なる精神的包容力を具えている。彼は極めて理知的であって、決して論理の代わりに想像を許さない。彼の理性は極めて平静である。彼と同時代の伝記者(トッコ Tocco)が彼を評して『その敵手を反駁する態度はあたかも弟子を教えるようである』と言った。また彼の著作の平易なるについては『各人その力量に応じてその著書より学ぶことを得べく、一般の信者さえこれを読まんと願う』『その教説の平易なるがために彼を衆人の博士と称す』と言われている。しかし平易なると同時に、彼の教えは一遍の読過これを尽くすことを

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得ざる底のものである。読者は繰り返し繰り返し読書し、思索してゆく間に、彼の思想の深遠、豊富、整然たるを悟るに至り、真と美とを兼ね備えて古今の最大詩人の列に入るべきを発見するであろう。彼は同時に鳩のような無邪気さを持っていた。トッコの伝うるところによれば、彼が食卓につく時、しばしば天上の真理に思い耽っていたので、間違ったものを食さぬように、何人かが食事の世話をしなければならなかったと言う。また彼が臨終の時にした告白はあたかも五歳の小児の告白を聴くようであったそうである。また彼は常に美しい楽天観を抱き、人間的のものに深い愛好を有していた。聖フランシスクスの流れを汲む信心のいかなるものかを知っての後、聖トマスの教える倫理と、その精神生活の教えとを聴けば、まったく異なる味わい、まったく異なる音調(アクセント)を発見するであろう。神こそ最も愛すべきものである。しかしわれらはおのがか弱きによって人たるのキリストの玄義に心を惹かれるのであるというその説は、中世紀にあってはむしろ 一般的の教えであるが、聖トマスにあってはそれが心の底からの真実の叫びとなってほとばしる。かれの『破邪論集』(Summa contra gentiles)の清貧および潔徳に関する章(3:130以下)を読めば、そこには聖フランシスクスの心を躍らした万物の脱離の熱情、悩めるイエズスにあやからんとの渇望はない、その代わりに神の観想と平和

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とに対する大いなる愛があって、これを得るために何が妨害をなすか(家庭の煩累、財産の所有、外面的行為に関する懸念)ということが示されている。霊的生活の最後の目的は神との一致である。福音的勧告はそれ自身において完徳ではない。むしろ神の掟、殊に神に対する愛の掟をより完全に守るを得んための手段、道程にすぎない。されば最も完全なる清貧とは肉体的に最も大いなる窮乏を指すにあらずして、神との一致に到達せしめんために、霊に最大の自由を与うる清貧を指すのである。『観想的生活とは霊魂の自由を言う。』『愛徳の最も確実なる徴は神を観想することなり。』このような考え方は一見キリスト教的すなわち福音的でないようにも思えるが、『われ、汝らの思い煩わざらんことを望む』(コリント前書 7:32)と書いた聖パウロは他事を教えたのではない。世の思い煩いを棄てよとはまた山上の垂訓でもあった。

実際、聖トマスの教説は、豊かな霊的生活の果を結んだのである。いわゆる『愛すべき聖トマス、師、輝ける大いなる光』(ヘンリー・スーソー)はドミニコ会の初期神秘家に荘厳、高尚、理性的かつ男性的の霊的生活を与えた。エックハルト(Johann Meister Eckhart, 1260-1327)は時として正統神学を出でし憾みがあるが、しかし彼の思想の最も暗示に富める部分は天使的博士より

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出たのである。ヘンリー・スーソー(Henri Suso, 1295-1366)は中世紀の二大受難者で、また最も神に接近した驚くべく単純な霊魂であるが、神智の恋愛者、福者スーソーは、存在、第一原因、三位一体のペルソナの『出発』(processions)についてのトマス学派の理念を究めて、神の観想に入る。聖女カタリナは神学に対して無智なるにもかかわらず、極めて単純なる筆致をもって、最も純粋なる聖トマス思想の芳香を放つ敬虔な思念を述べている。『汝の智慧の眼が汝自身を見て、汝の虚無を認知すれば、いかに劇しき愛によりて、神は汝に存在を与え給いしかを悟るであろう。』この種の言葉は聖女の書いたものの到る所にあるのである。−−タウレル(Tauler, 1300?-1361)には多少の危険があり、スーソーのものさえも警戒を要する点が絶無ではない。しかしかかる神秘家が想像性に富める人々に与える害毒に対する最良の薬剤は、実に聖トマスの優れて甘美なる平衡に存するのである。

[註] 聖トマス以外にも、その前後に独創的の豊かな才能を有する学者が輩出した。彼らももとより特殊の研究に値する人々である。しかし『学園の天使』聖トマスと比較すればだいぶ逕庭がある。一流の思索家

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として例えば第13世紀には聖トマスの師なりしドミニコ会のアルベルトゥス・マグヌス、フランシスコ会のロージャー・ベーコンおよび聖ボナヴェンツラ、やや遅れて同じくフランシスコ会に属するドゥンス・スコートゥスを数えることができる。大アルベルトゥス(Albertus Magnus, 1266-1280)はその広汎なる知識と自然科学に対する愛好とをもって知られ、ロージャー・ベーコン(Roger Bacon, 1214-1294)は実験学の鼻祖として有名である。聖ボナヴェンツラ(S. Bonaventura, 1221-1274)は論理の正確と精神の透徹力および平衡の点において聖トマスに劣るも、彼の文体は流麗甘美で繊細なる霊魂の表現である。半ば思索的、半ば神秘的の彼の著作のある物は(例えば『霊魂の神に到る道程』は聡明なる単純と神韻とを具えた傑作である。鬼才ドゥンス・スコートゥス(Duns Scotus, 1270?-1308)は極めて鋭い推理家で聖トマスその他の学者の反駁者として有名である。中世哲学史家ド・ウルフ氏(de Wulf)は彼の仕事を目して、先進学者の批判的評論であると言っているが、けだし哲学者としてのスコートゥスの功績範囲に対する適評であろう。しかし彼の『御言葉』に関する神学説は聖母の無原罪懐胎説と共に彼をキリスト教教理史家の逸すべからざる者としている。

2 反キリスト教 反カトリック教 中世紀の終末

異端との闘争

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今日聖トマスを読んで、その一切の著作に漂う平和な理知主義の空気の中にひたる時、また都市の生命の中心なるゴシック式大聖堂の厳粛にして大胆なる建築美を味わう時、吾人は第13世紀に教会がこの霊魂の征服を成就し、これを支持してゆくために、いかなる闘争をしなければならなかったかを危うく忘れかけるのである。ドイツ皇帝の野心よりも、キリスト教国民の心の中に巧妙に潜入する異端の方が恐ろしい。第10世紀の頃より、東邦からはいって来た新マニ教(Neo-manichaeism)はブルガリアおよびマセドニアにおいてボゴミリ(Bogomili)派を生み、第11世紀の始めにはイタリー、ドイツ、フランスにその姿を現した。しかしこれがカタリスム(Catharism 清浄派の意)の名称の下に非常な発展をしたのは第12世紀および第13世紀である。

この派の教職者の一人の記録によれば、およそ四千人のカタリがあったそうである。この人は1240年頃、すなわちこの派の衰微に向かった頃以上の記録を残している。なおこの記録におけるカタリとは受戒者の意味である。信者、すなわちこの派に多少従属していた者の数はなお遙かに夥しかった。例えばエスクラヴォニアの教会では、第12世紀末に、125名の受戒者に対して一万人以上の平信徒があったと言う。

カタリスムの発展は南ドイツ、北フランスにあっては教会を使徒時代のキリスト教に回復すると称した『使徒教会派』(apostolici)により、南フランスにおいてはピエール・ド・ブリュイ(Pierre

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de Bruye)ヘンリー・ド・ラウザンヌ(Henri de Lausanne)およびその徒の異端により準備されていた。かくしてやがてカタリ派はドイツ、ベルギー、スペイン、南フランスにはびこり、タルン(Tarn)県のアルビ市(Albi Albiga)を中心としたのでアルビジョア派(Albigeois, Albigenser)と称せられるに至った。この派は普通にキリスト教の異端として取り扱われているが、その実そうでない。カタリスムは特殊の世界観および人生観から出発し、特有の道徳および儀典を有し、ローマ教会とまったく相反する教階制度を備えたる全然別種独立の宗教である。キリスト教は実在した一個のイエズスに発し、イエズスを否定すればその存在の意味がなくなる。しかしカタリスムはこれに反しマニ教およびグノーシス派等の東洋の古代宗教および神学より転化した一の思索体系である。彼らはマニ教より、共に永遠にして独立する善悪二神の二元論を借り来って、マニ教の影響を受けた初代キリスト教徒のある者と等しく、これにエオン(aeon)に関するグノーシス説をとり入れた。すなわちイエズスは神より放出する無数の霊体(エオン aeons )の一に過ぎずと言い、また御托身と救霊の玄義とを説明するには古の仮体異端、ドセチスム(docetism docesis=外観)と同様に、キリストの肉体は実在せずしてただ存在するかのごとき外観を有したのであると教え、聖寵、秘蹟、十字架を始

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め、聖人、聖像および聖遺物に対する尊敬を否定し、ミサ聖祭を廃し、新約聖書を志願者の頭上に按じて霊の洗礼を授けるコンソラメントゥム(Consolamentum)と称する儀式を行った。平信徒に対する道徳的要求はむしろゆるやかであったが、この儀式を受けた完全者(受戒者 Perfecti)は魚類の他、一切の肉食を断ち、終生童貞を守る他、虚言および宣誓を許されず、その派に対する絶対の忠実を要求された。これらの中、結婚の罪悪視は物質を本来悪と見るマニ教の思想より出で、宣誓の禁止はマテオ書5:37 のごとき新約聖書の奴隷的直解より出でたのである。(彼らは悪神の作として旧約聖書を廃棄した)。

カタリスムの興味はマニ教とグノーシスと禁欲主義とを合成したのがその全部でない。カタリスムとほとんど同時代にヴォードア派(Vaudois)の異端に現われ、また第14,15,16世紀の諸異端に存する二の傾向がカタリスムにもある。

[註] ヴォードアはまた『リオン市の貧者』とも呼ばれ、マテオ福音書第10章に記された通りの使徒的清貧への復帰を主張した。しかし彼らはカタリと異なりマニ教神学はこれを承認しなかった。しかし宣誓を禁じ、教会および世俗の権威に対する服従を否定し、なんぴとといえども他人に体刑を加うるの権利なしというなどの反社会的言辞を弄するの点はカタリと同一である。

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先に記した二の傾向とは、その一は伝来の教会と離れ、独立して原始キリスト教に帰らんとの思想である。その二は権威という法律的概念を否定して、尊敬に値するのは徳行のみと主張することである。使徒時代の規律を守るとはカタリの自負するところで、また彼らの禁欲生活に驚嘆した一般のカトリック教徒のなかにもこれに関しては時として讃辞を献げる者があるようになった。『原始福音教』に帰るとの口実の下に、すべての祭式儀典は退けられ、『主祷文』がキリストの教え給いし唯一の祈祷として保存された。彼らは『すべて剣を把る者は剣にて亡ぶべし』(マテオ書 26:52)の聖言を楯に戦争を否認し、政府の死刑執行権を否認しさらに進んで『帝王に税を納めざる子らの自由』(マテオ書 17:24, 25)のために国家の権威を否認し、教会については教階は聖徳の階級ならざるべからず、すなわち司祭職は個人の徳行に比例すると主張し、理想より遠きローマ教会は悪魔の会堂(シナゴグ)に他ならずと罵倒した。

かくのごとくこの派の説くところは、社会と教会との成立の根本を危殆ならしむるものであった。それゆえに教皇イノセントゥス3世はこれを根絶するために極めて強硬の手段を取った。そして聖ドミニクス(S. Dominicus, 1170-1221)およびその門下の説教、シモン・ド・モンフォール(Simon de

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Monfort)の十字軍、および宗教裁判所(inquisition)の制度は遂にこの神秘的アナルキズムを絶滅するにいたったのである。

[註] Inquisition とは元来は accusation (求刑)denouciation(告発)に対する穿鑿の義で、取り調べの一方法を指す語である。宗教裁判所と一般に称せらるる一の制度を作ったのは教皇グレゴリウス9世(1234年頃)で、司教の権限に属する異端の取り調べを、修道会(特にドミニコか)よりなる特殊の尋問機関を設置してこれに依嘱したに源を発するのである。後継の教皇らは宗教裁判所に司教の意見を徴し、かつ聖俗よりなる専門家の諮問を経るように勧めた。この法廷において拷問を用うるを許したのは教皇イノセントゥス4世(1243-1254)である。イノセントゥス3世(1198-1216)の時代およびラテラン公会議(1215年)における異端者に対する最重刑は没収および追放であったが、後にドイツ王フレデリキ2世はこれに対して火刑を制定し、ローマ教皇の認可を得た(1224年)。しかし宗教裁判所は自ら直接に死刑を宣告するのでなく、単に何某が異端者なる事実を証し、教会はもはやこの人と何らの関係なきことを宣して、これを世俗法廷に引き渡すのである。禁錮、巡礼の命令、衣服上に十字架の印をつけること、等の軽い刑罰は宗教裁判所の権限内であった、そして実際には裁判がこの種の宣告に終わることが多かったのである。--死刑その他の刑罰は、ある異端が特に社会を破壊するとの理由によって、これに加えられたのでない。中世紀においてはあらゆる異端が社会否定であり、無政府主義と同一であった。教皇に対する服従が社会の分子を構成する

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必要条件であったから、教権に対する反逆はすなわち社会の否定となったのである。聖ベルナルドゥスは『一人の死すは統一の滅亡するに優る』と言ったが、これがすなわち宗教裁判所を制定させた精神であった。

カタリスムの滅亡と共にマニ教およびグノーシスは滅びてしまった。しかし福音教に帰らんとの思想、および徳行を欠く権威の否定、以上の二傾向はまだキリスト教世界のどこかに潜んでいて、第13世紀の強大なる教皇の威力、および聖ルイ王のごとき有力なる教会の支持がある間は外表に現れなかったが、やがて教皇の威権が失墜するに及んで再び萌芽して、神の園に毒麦が蔓延しだしたのである。

中世紀の終末

不安の時期、動揺の時期は間もなくやって来た。すでに第14世紀頃から、かの聖ルイ王の同時代人に驚異の眼を瞠(みは)らしめた偉大なる社会の均整が崩れ出した。従来一般に認められていた霊的権威の下における人々の一致、教会と俗権との協力、学術および道徳の源泉としての教会の尊敬等、従来社会組織の要素と考えられていたことに疑義が生じて、諸方で論議されるようになったのである。追々各国で重要視されるようになった法律家は教皇の主権を破壊することに努めた。

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教皇ボニファチウス8世対フランス王フィリップ4世の争い(1303年)教皇ヨハネス22世対バヴァリア王ルイの争い(1328年)はこれに絶好の機会となって反ローマ主義の小冊子が広く配布された。このフランス王フィリップ4世がボルドー市大司教を擁立して教皇の位に即(つ)かせ、クレメンス5世としてフランス国アヴィニヨン(Avignon)市に棲ませてから、聖女シエナのカタリナの奔走によってグレゴリウス11世がローマに帰るまで(1309-1377年)を教会の『バビロンの俘虜時代』(The Babylonian exile)と言う。この期間は教会の財政は紊乱し、教皇はフランス王の政略の傀儡となった趣きがあって、教会の信用はますます低下した。この時代に次ぐはいわゆる『大離教時代』(The great Schism)である。教皇はせっかくアヴィニヨンの俘(とら)われを脱したが、間もなく二名ないし三名の教皇が各独立して位に即き、真率の信者もその真偽を分かち難く、後に教会が聖位に挙げたような高徳の人々も互いに異なる教皇を支持しているというような状態になった。真率な信者は大離教をキリスト教会の腐敗、殊に聖職者の規律の弛緩、罪悪、貪婪、不潔に対する神罰と見なして、母なる教会の一致、廓清に努力したが、中には教会の分裂には無関心で破壊的改革を説き、来るべきプロテスタント教出現の機運を作ったものもあった。

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コンスタンス(Constance)の公会議(1414-1418年)はこの大離教の結末をつけて、マルチン5世を教皇に選挙し、廓清法規を制定した。しかし教会の受けた傷手(いたで)は完全には癒えなかった。なぜならばこの分裂時代の結末をつける必要上、各大学において公会議の権威は教皇の権威に勝るという説が唱えられて、マルチン5世が選挙されてからもなお引き続きこの説は有力であったからである。この説は要するに大学神学者の権威を主張し、教皇の独裁権に代うるにパリを首府とする神学者の共和政治をもってせんとするので、すなわち神学者がその本分以外の教会の牧者となろうというのである。有力なる神学者カルヂナル・ピエール・ダイイ(Pierre d'Ailly)は数回にわたって公会議において神学者は単に顧問機関にとどまらずして、決議権をを有すべきものなりと論じた。この説の結果として、バーゼル会議の第34回会議(1439年6月25日)において列席者300人の神学者がわずかに7名の司教と13名の準司教と共に、教皇ユウゼヌス4世の廃位を議決したような出来事もあった(この決議は遂に無効となったが)。歴代の教皇は主義としてはこの傾向を否認したが、実際にあたっては必ずしも常に巧妙に問題を解決したとは称せられない。例えば上述のユウゼヌス4世とバーゼル会議との長期にわたる論争や、ニコラス5世が平和のため

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に必要なりと感じて行った譲歩は、教皇の至上権を多少曖昧なものした遺憾がある。かくのごとき教皇の苦境を利用して、各国の国王もおのが領土における教皇の権威を殺ぐに努めた。フランス国ではシャルル7世が発布した勅令(Pragmatic sanction of Bourges 1438)が後々までもガリカン教会主義(gallicanism)の金科玉条となった。イギリス国でも同じ傾向が現れて島国教会を作ろうとする機運が醸された。これが諸国において遂に正教分離に終わるべき、国家主義と超国家的カトリック(公)主義との最初の衝突である。しかし愛国心とカトリックの信仰とは矛盾するものではない。その証拠はあたかもこの混乱せる第15世紀に出現して、近代のカトリック的愛国主義の最上の亀鑑となったジャンヌ・ダルク(S. Jeanne d'Arc, 1412-1431)である。吾人は彼女において近代的の熾烈なる国民精神が、教会に対する愛着、教皇に対する信頼および服従と一致するのを見る。どのようなことがあっても国王に謁えよう、と堅い決心をして田舎の家を出た愛国の少女は、また一個の善良な信者で、死に臨んで神と教会とに対する信頼を告白して『われはわが聖父、教皇聖下の裁断を希望し、聖会の信ずる万事を信ぜんと欲す』と言った。

しかしローマはもはや、イノセントゥス3世がキリスト教国の最高の裁判所と称したその権威を失って

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いたので、せっかくのジャンヌの希望も容れられなかった。教会の権威がなくなれば、異端も蔓延する。イタリーと南ドイツにおいてはフランシスコ会の内部に小兄弟派(Fraticelli)および精神派(Spirituali)の分派が生じて、清貧を誇張し、共産主義を説き、聖フランシスクスが聖職者に対して常に有した尊敬を忘れて、ローマの主権を否定し異端に堕落した。イギリスにおいてはオクスフォード大学の神学者ジョーン・ウィクリフ(John Wyclif, 1324-1384)は極めて巧妙なる説を立てて教会に関するカトリックの所説を否認し、イギリスにおける反ローマ運動を扶け、教会の土地所有を攻撃し、福音的宗教に還るべしと説教した。ウィクリフは次いで権威の根源を論じて、これを彼の所説の基礎とした。彼の思想が最も明瞭に現れている彼の最終の著書によれば、教会とは神の選民の集会で、キリストはその頭である。それゆえ、教皇が自ら神の選民の一人であるならば地上における教会の主長であるが、もしそうでなければ神の教会を牧することはできぬ。ある人が選民の一人であり、天国の子なるか否かはその人が神の戒律に従って生活しているか否かでわかる。神の戒律は福音書の裡にある。ゆえに聖職者と信徒とを問わずなんぴとも福音書を精読する義務があり、そのためには聖書を翻訳して万人に読めるようにする必要がある。ウィクリフはまた

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この原則を俗世界にも適用して、キリストの戒律に背くすべての政府は超異端であり反(アンチ)キリストであると説いた(キリスト教会論 de Ecclesia Christi 1876)その後さらに、教会には教皇も枢機官もない方がよい。教皇は俗的君主に過ぎず、アンチキリストの代官である、キリストはこの世の威権をセザルにお渡しになったのである、と言った(対話篇あるいは戦闘教会の鑑 Dialogus sive Speculum ecclesiae militantis 1361)。この言は後年のルーテルの言に彷彿たるものがあるがプロテスタント史家(Loofs, Harnack)は未だ彼をもって『改革以前の改革者』と認めていない。ルーテルの根本教義たる『信仰のみによる救済』はウィクリフの未だ知らざるところであるからである。しかし彼が聖書偏重、聖徳の光輝を有せざる一切の教階の攻撃、聖職者の独身の否認、修道会、告白(悔悛の秘蹟)ミサ聖祭における聖変化の否定などの点においてプロテスタント改革者の先駆をなしたことは明らかである。

ウィクリフは教会の改革を標榜していた。バーゼル会議の目標もまたそれにあった。教会改革は当時のプログラムで、改革者と称する者には必ず追随者ができた。イギリスにおけるウィクリフの徒を Lollaads と称し、ボヘミアにおけるフス(Hus, 1369-1415)の徒を Hussites と言った。

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バーゼル会議に列席した教父らもその離教的態度にかかわらず多数の同情者を有していた。かかる趨勢に対し、かの大離教の後をうけた教階的教会は一意教勢の回復を計るべきであったが、不幸にも第15世紀の教皇らはこの廓清事業を遂行するだけの識見がなく、あるいは識見はあってもその余裕がなく、他に緊急の事件が突発したりするために、ただ断続的に廓清に手を染めるような状態であった。ユウゼヌス4世のごときも、その治世の16年間をバーゼル会議の聖座に対する越権行為についての抗争に費やし、次いでトルコ人に包囲され、占領されたコンスタンチノプル(1453年)に注意を転ぜざるを得なくなり、十字軍の準備のためにせっかくの改革案の実施を遷延するようになった。このことは教会全体の利益のためにも惜しみてなお余りある事柄である。そしてこの世紀の終期にはアレキサンドル6世等の『悪教皇』の聖座を占むるに及んで、ますます時人に危惧を抱かせるようになった。

かくのごとき教皇の手によって何で教会の廓清は行われよう。神が預言者を遣わし給うにあらざればこれはとうてい不可能である。人々のこの期待に対してサヴォナローラ(Savonarola, 1452-1498)の出現はその人なるかのごとく思えたのである。彼はまずフィレンツェ市(Firenze, Florence)

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のドミニコ会サン・マルコ(San Marco)修道院の改革に成功し、次いで民衆の喝采裡にキリスト・イエズスを市民の王と宣言した。奢侈と淫逸の市に山上の説教が文字通りに実現しそうになった。相反目する者平和の接吻を交わし、富者は不当所得を返還し、貴婦人は慎ましやかな質素の衣服をつけ、街に遊蕩な小唄は聴かれず、ユデア人はキリスト教に改宗して修道院にはいり、慣例の聖ヨハネの競馬も廃められてしまった。サヴォナローラは個人的の改心ではまだ駄目で、政治自身が福音的にならねばならぬと考えた。そして遂に自ら政治渦中に投じたのが、彼の使命の誤認であった。彼は公然と教皇と抗争し始めた。この争いは一面宗教的なると共に、同時に政治的の争いであって、サヴォナローラはフランス王シャルル8世に好意を寄せ、アレキサンドル6世教皇の選挙を非難して、公会議を召集して教皇の廃位を迫るべしと唱えた。教皇はこの修道士に服従の請願に基づいて沈黙して修道院に閉居すべしと命じたが彼は聴かなかった。サヴォナローラはかくしてその破滅に至ったのである。この争いに教皇は遂に勝利を占めたが傷手を受けた。フィレンツェの修道士の神秘的情熱は圧服されても、教会の廓清はそのままになってしまった。かくて使命に相応わざる教会の権威は衰えるばかりであった。

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教会と教皇に対する人民の帰依心が薄らぐにつれて信仰も動揺を来し不安を増した。スコラ哲学も全盛期の面影はなく、そこここには懐疑論と自由研究とが唱えられるようになった。聖トマス・アキナスの死後、スコラ哲学が急速に衰退した有様は、古えギリシャ哲学界において、プラトン、アリストテレスの死後、その大思想が直ちに群小哲学者の説のために覆われた状況を想起せしめるのである。聖トマス学派の大功績は信仰と理性との一致を説いた点であるが、スコートゥス(Scotus)になると、これにやや陰翳がさす。第15世紀の唯名論者(nominalists)になると信仰と理性との間に矛盾を説く。弁証の偏重はあらゆる理知的証明の不信を生み、ピエール・ダイイ(Pierre d'Ailly, 1350-1420)は『神の存在はただ信仰によりて知らるるに過ぎず』と言った。最も代表的な唯名論者なるオックハム(William of Ockham, 1270-1347)もまた信念論(fideism)を唱道した。オックハムは個人主義的、元子論的、現象論的傾向を有して、この意味においていかにも英国人であった。理性の価値を蔑視し、また理性と生活との間の矛盾を認める点においてもさようである。しかし当時のフランス人とてもまず同様であった。最近の歴史家(ワイス Weiss: Luhter und Lutertum)がルーテル教の由来を求めて、この時代の学者の傾向にローマ

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カトリック教の統一の破壊の責任者を発見せんとするのも当を得ていると言わねばならぬ。

かくのごとくにして社会の規律、すなわち宗教的権威の尊敬の減少と共に、人智は不安になり、人々は信仰それ自身、および論理的に信仰の基本となるべき真理の自然認識にさえ疑いを懐くようになってきた。これはキリスト教の生命が、それに不適当な社会および人智の環境の変遷につれて、ようようと衰退して遂に死滅したのであるとの説がある。古代の異教が時勢に伴わぬ単なる歴史上の記念と化した時、人々はこれに対して最初外面的に仮に尊敬を示しても内心では憐憫の微笑を投げかけた。しかしそれもやがていつとなく忘れられてしまったのである。キリスト教もまた同じ運命を辿ったのであろうか。否、キリスト教はそのまま不知不識の裡に忘れられるには、あまりに人の心に深い要求を植え付けてしまった。従来の信仰を棄てた新しい精神、カトリックの規絆を脱した新しい官能は、これに代わるべき劇しい刺激を必要とする。ある人々はこれを個人主義的人文主義(humanism)に求め得たと信じた。この人文主義はその徹底した形式においては決して古代芸術の好尚とか、または古代文化の研究の結果たる文学、芸術の新傾向とかに止まるものでない。もしそれが単にホメロスの詩を愛し、フィヂアスの芸術を賞するにありとすれば、別段教会にとって

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何らの休戚もないのである。第4世紀の頃ギリシャ教会の教父が、古典文学を愛好したように、中世紀の教皇もまた極めて寛容な精神をもってこれに対し、第15世紀の中頃までは文芸復興(ルネサンス)と教会とは手に手を携え、文学者、芸術家はアヴィニョン、ローマの教皇宮廷にその保護者を求め、ニコラス5世が教皇の位に即いた時には『人文主義が聖ペトロの椅子に坐した』と言われるほどであった。しかし具眼の士は、この時分からすでに教会と文芸復興との間に相容るる能うわざる矛盾を感じた。敬虔なるフラ・アンジェリコ(Fra Angelico, 1387-1455)にその聖堂の壁画を依頼した同じニコラス5世は、自然主義的芸術家なるブラチオリニ(Poggio-Bracciolini, 1390-1459)やヴァラ(Valla, 1405-1457)を寵偶したではないか。キリスト教的文芸復興に、今や異教的人文主義の運動が附随して発生した。これは単純の古代精神の復活ではない、実にキリスト教的規律に対する反抗を伴う異教精神の復活である。名誉の愛、美に対する情熱、自我の主張、これは今までにない人生観兼世界観である。もとよりすべての人文主義者が信仰を棄てた訳ではなく、キリスト教の信仰分子を多分に有していた人も多い。しかしある者はぜんぜん異教に走り、公然と教会に挑戦し、当時新発明の印刷術を利用して多くの小冊子を発行してその武器とした。また伝統の信仰を保有すと

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宣言はしていても、その実、不知不識の間に異教精神に囚われていた人もあった。皮肉な運命が一時フランシスコ会中に投じたあの陽気のラブレー(Rabelais, 1483?-1553? )も、おそらくはエラスムス(Erasmus, 1467-1536)も、またやや後に生まれたモンテーニュ(Montaigne, 1533-1592)もその信仰の宣言の真率いかんにかかわらず、真正のキリスト教的精神を有していたとは考えられない。

かくて自由研究、智的不安、異教復興、伝統の排斥、権威に対する憎悪、福音の裡に直接にキリストを発見せんとする無教会主義、すべてこれらのものが、コロンブスにアメリカを発見させた(1492年)第15世紀の冒険的精神に扶けられて、濁水のごとく混乱して渦を巻いていたが、これが一方角に合流した暁にこそ、大なる災禍が生ずる時であった。ルーテルは創造者でない、しかし彼はその強烈な人格でこのすべての傾向を導いて、その破壊力をもっぱらにさせたのである。カトリックの規律からおのれを解放した人文主義者、信念論に逃避する神学者、服従の軛を重荷とする聖職者、政治的宗教的独立を画するドイツの小諸候、富める修道院の財産に貪欲の眼を光らせていた郷士の群、彼らにとってルーテルは期待せる首領であった。しかし一般の信者が改革者の新説を容易に受け入れたのはなぜであろう。第15世紀は甚だしい道徳の弛緩にもかかわら

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ず、信仰は未だ信者の心をしっかりと捉えていて、不信の空気も敬虔の情を涸らし尽くしてはいなかった。フランスでは、ジャンヌ・ダルクの不思議な物語は当時の民心の機微を示すもので、宗教に対する信頼が失われていなかった証拠である。ドイツおよびオランダでも聖女リドヴィナ(S. Lidwina, 1380-1438)の物語、および当時出版された祈祷書、敬虔書、また当時の宗教画の示す、一般信者の生活は平和にして素朴なる、かつ深い敬虔にひたされていたように思える。しかしルーテルのカトリック祭式に対する攻撃や、善業を必要とせずして信仰のみによる救済の説などが、非常な成功を博したところを見れば、民衆の間にもあまりに多い外面的儀式や、または贖宥の弊害その他のために、もう少し精神的な宗教が欲しいという要求が存在していたに相違ない。しかしさらに再考すれば、カトリックの精神的生活内容はこの新しい要求を容れることのできぬほど窮屈に固定したものでない。されば宗教改革の成功の理由はむしろ民衆自身の間に権威に対する尊敬の念の薄れていたことに求むべきであろう。国民的感情が旺盛となるにつれ、国民は国王の宗教を信奉せんとする傾向が強くなり、一方に神聖ローマ帝国の分裂は、愛国心とカトリック(公)主義との協調を発見せんとする人々の間の連鎖を弱め、また他方には霊的指導者に対する信頼が失われて来た。

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教会の『大離教』、およびこれに続いた神学上の論争も民衆の間に反響を生み、演劇にまで仕組まれた。パリーではピエール・グレンゴワールは『愚人国の王と御母白痴姫』(Jeu du Prince des Sots et Mere Sotte)という外題の狂言で教皇や公会議を嘲笑し、大学神学者の反ローマ傾向を大向うに翻訳して見せた。

また各地の司教は連絡統一を欠けるために異端を抑制する能力を失い、改革者の聖職者に対する攻撃は一般に『聖徳』と『権威』との本来相異なる二個の観念を混同させた。かくて信者は聖職者の私的生活とキリストの代理者なる公的地位とを区別して考えることができなくなり、また司教の(彼らの中に同時に領土を有していた俗的侯伯であったものが多かった)俗権と霊的権威も区別されず、遂に教会制度はただに不必要なるのみならず、個人のキリストに到る妨害であるとまで見なされるようになった。これが実にすべての危機を包蔵した第15世紀の教会制度の大弱点で、この破綻からルーテルはキリスト教界の一部分を引き連れて教会の外に躍り出したのである。教会もまたこの弱点の修復に全力を注ぎ、トリエント公会議となり、またルーテルの自由主義に対しては聖イニゴ・デ・ロヨラ(S. Ignigo de Loyola)の絶対服従主義が生まれたのである。

第3篇 中世紀キリスト教 終わり

以下つづく(しばらくお休みします)

作成日:2004年06月14日

最終更新日:2004年06月14日

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