カトリック思想史

第 V 篇


文学博士 姉崎正治・山本信次郎 監修

ヨゼフ・フービー 編

前駐日仏国大使 ポール・クローデル 序

天主公教会司祭 戸塚 文卿 訳


中央出版社 刊

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]


p. 1

目次

序説

第I 篇 新約時代
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 イエズス(p. 1)

共観福音書(p.1)
善き道 山上の垂訓(p.10)
比喩的説教 善き音信(p. 12)
特殊の弟子 イエズス派(p.15)
イエズスの人格(p.20)

2 弟子らの信仰(p.34)

ペンテコステ以前(p. 34)

p. 1

12使徒の説教 原始的教会(p. 40)
聖パウロの説教(p. 48)
聖ヨハネ福音書(p. 56)

第II 篇 初代キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 第2世紀および第3世紀(p. 69)

キリスト教の統一性ならびに多面性(p. 69)
教会に内在するキリスト(p. 70)
教会と国家 迫害(p. 75)
キリスト信者の生活 友愛(p. 81)
智慧と信仰 理性に内在する御言(p. 87)
グノーシス派異端(p. 93)
御言による世界の支配(p. 96)

p. 3

可見的教会(p. 97)
アレキサンドリア思想家(p. 100)

2 第4世紀および第5世紀(p. 104)

この時代の意義(p. 104 )
天国の玄義(p. 108)
道徳的理想(p. 112)
ギリシアキリスト教徒(p. 113)
ラテンキリスト教徒(p. 117)
修道生活(p. 120)
聖アウグスチヌス(p. 127)
ローマ支配の終局 ラテン教会およびギリシア教会(p. 131)

第III 篇 中世キリスト教
ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

p. 4

1 中世紀におけるキリスト教精神(p. 144)

教会と蛮族(p. 144)
西欧の修道者 聖ベネヂクトゥス(p. 145)
教会と神の国(p. 148)
キリストの教の外面的発展(p. 160)
中世紀における心霊生活(p. 166)
聖ベルナルドゥス(p. 170)
聖フランシスクス(p. 176)
『イエズス・キリストの模倣』(p. 182)
スコラ学派 聖トマス・アキナス(p. 184)

2 反キリスト教、反カトリック教、中世紀の終末(p.192)

異端との闘争(p. 192)

p. 5

中世紀の終末(p. 198)

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教
アレキサンドル・ブルウ ピエール・ルッスロ

1 宗教改革(p.213)

異教的人文主義(p. 213)
ルーテル(p. 214)
カルヴィン(p. 219)

2 教会の反動改革(p.223)

カトリック教会の覚醒(p. 223)
聖イニゴ・デ・ロヨラ(p. 230)
聖女テレザ(p. 238)

p. 6

3 第17世紀フランスにおけるカトリック教会(p.243)

第17世紀フランスにおける教会の偉観(p.243) 聖フランソワ・ド・サル(p. 249)
尚古主義(p. 252)
ガリカン教会主義(ガリカニスム)(p. 255)
ジャンセニウス異端(p. 258)
尚古主義の敗北(p. 262)
カズイスト(p. 266)
ポール・ロアイアル修道院派の敬虔(p. 269)
静観派の敬虔(p. 273)
聖心の信心(p. 275)

4 第18世紀(p.278)

p. 7

哲学主義(p.278)
カトリック教会の防衛(p. 285)

第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教
レオンス・ド・グランメーゾン ピエール・ルッスロ

1 第19世紀における神の国の思想(p.289)

第19世紀における思潮の一般(p. 289)
カトリック教会の統一(p. 295)
教会と社会問題(p. 299)
教会と世界平和(p. 311)
教会と布教事業(p. 314)

p. 8

2 カトリック教理に関する論争(p.317)

ローマン主義(p.318)
科学的主理主義(p. 323)
不可知論的主情主義ならびにモデルニスム(p. 330)

3 カトリック的敬虔および教会の内的生命(p.347)

カトリック社会事業(p.347)
カトリック修道生活(p. 350)
教皇 巡礼 奇蹟(p. 352)
宗教美術及び文学(p. 356)
カトリックの信心(p. 360)

4 現代(決論)(p.362)

附録 年表
人名索引


第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教

レオンス・ド・グランメーゾン ピエール・ルッスロ共述

p. 289

第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教

1 第19世紀における神の国の思想

第19世紀における思潮の一般

第18世紀の末期ほど非常に複雑なる外観を具えて、しかもその実、人々の精神、希望、教説が一致した時代はあまりない。倫理および宗教哲学の世界では、プロテスタント個人主義は論理的結果に到達してその代表的偉人を生んだ。ルーテルのドイツにおいて、エマヌエル・カント(Emmanuel Kant, 1724-1804)の三大批判、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』が公にされたのは、各1781年、1788年、1790年である。前者の批判哲学の導くところは個人の権威の上に立つ道徳である。宗教はこれによって利するところなく、かえって無用のものとなる。後者の主情主義

p. 290

も宗教の基礎たるべき理性の確実性を滅ぼす結果となった。カントもシュライエルマッヘルも共に徹底的に宗教改革の精神に忠実に、一定の教義、不可謬的判断権、秘蹟の本質的効力、教階制度等、すべて個人の霊魂と神との間に横たわる万事を否定した。なお両者は各異なる立場から、あるいはその道徳の一切の綱要たる最高規範として、あるいは無限物の直観または感覚の主体として、一個人の個性の尊重を讃えた。政治的、社会的の方面を顧みれば、ルソーの主張に心酔した大革命の精神は、万人平等の信念と、個人の権威尊重との大旗をかざして、フランスを風靡し、やがてその影響は世界各国に及んだ。あらゆる制度、あらゆる伝統的権威、あらゆる自然的または歴史団体がその価値を疑われ、次いで論議され、震撼されて、遂に崩壊し去った。従来の制度から解放された人民は自由を得たと思いこんだ。理論の上ではなんぴとでもいかなる高位にも上ることができる。一国の主権者となることも不可能ではない。コルシカ島出身の一士官はナポレオン皇帝(Napoleon)となった。主権を獲得した彼は従来の国王より、もっと自分と人民とを引き離して、皇帝というしかめつらしい名称を冒した。ルソーの考えでは、人民は単に権威者を指名するのみでない、すべての権威の発生そのものが社会契約によるのである。しかしこれでは成立した権威者は過古に

p. 291

何らの伝統的根底を有せず、またこれを選んだ民衆の意志もいつ変化するか知れぬので、とうてい永続的の施設のできるはずがない。またかかる権威者は単に自己に権威を附与した民衆に対してのみ責任を負えばよい。すなわち(自己が権威者として存続している限りは)自己に対してのみ責任を負えばよいのであるから、自然権威を濫用する弊が生じ易い。さて、非常に特殊の状況の下に、社会の力を自己薬籠中のものとするに成功したナポレオンも、この力を利用し、自己の地位を保つためには、これを大々的の軍国主義に転換し、かつかの呪詛すべき無政府的少数政治に代えて、彼一人の専制政治を出現させねばならなかった。事実上、一人の専制政治も、悪の蔓延したその時代には、人民に一時の幸福をもたらしたのであった。この挿話的事件にもかかわらず、矛盾のようであるが第19世紀の曙は、歴史上今までになかった個人の覚醒の中に来たのである。

この趨勢は必然的に、信者と不信者とを問わず、あらゆる思想家、政治家、社会学者を相対峙する数群に分けた。

カトリック教会以外にあって、第18世紀の偉大なるプロテスタント思想家の主理的、あるいは敬虔的個人主義以外に出ようとする哲学者は、反動的にこれまでと反対の極端に走った。彼らは個人

p. 292

の当然有する価値も認めない。彼らにとっては、一人の人は、潜在が実在に、無機が有機に、一個の原子が超人に進化する。存在の巨大な鎖の一環、あるいは推移の一現象に過ぎない。ヘーゲル(Hegel, 1770-1831)以来、あらゆる思索家に影響を与えた変化、流転の思想、およびそれより出発した各種の進化論は、無限の過古の財宝の相続者たる今日の人も、未来の理想人の憐れむべき種子にしか過ぎぬと説くのである。

また他の一群の思想家は、以上の大がかりの思索を喜ばず、もっと狭くとも、一定にして堅固、かつ具体的の、すなわち彼らのいわゆる実証的の基礎の上にその哲学を築こうとした。彼らは一切の実験以外に出づる好奇心を断ち、彼らの思想、彼らの希望の自然の飛躍を不自然的に圧服した。かくして作り上げた彼らの社会観には矛盾がない。そしてこれは明らかに誇張に近いまでに大胆な非個人主義であった。オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)は『個人は一の(非実在的)抽象に過ぎず』と言い放った。これに反して『人類』は相対的、すなわち認識し得らるるすべての存在の最大なるものとして、礼拝の的に立てられた。

哲学から社会学へ眼を転ずれば、ここにもまた同じ現象がある。社会主義は独立の存在と共に、

p. 293

その信奉者に完全なる人生観を与え得るだけの深い内容を有する唯一の社会学説である。しかもこの社会主義学説も個人の権利と、それが承認した国家の無限の権力とを調和させるために、各種の努力を尽くしたが、これもただ混乱を増すのみで失敗に終わった。人類を社会主義が約束せる楽園に導く役目の国家--腕も百本、頭も百個ある--は所有者であり、雇用主であり、万人の摂理である。その中に各人の権利を定めるのは神話的小説である。さてこの国家はひとまずこれに服従する人間にすべてのものを提供することを要求する。しかし社会主義国家はその約束する将来の非個人的幸福に対して現在において人民にいかなる担保を渡してくれることができるのか。

プロテスタント思想から生まれた徹底した個人主義は社会的方面には経済上の自由主義となる、--およびこれに対して程度の差違こそあれ、個人を人類の中に没却する進化論、実証哲学ないし社会主義的反動。これが第19世紀における動揺せる非カトリック思想の両極であった。かかる状態の下において、キリスト教の内部においても、神の王国の社会観が、まず第一に人々の注目の焦点となり、『教会』に関するカトリック的観念がますます重要となり、深く思索され、完成されたのも怪しむに足らぬ。教会こそ個人と集団との理想的関係を示すもので、教会の中における各個人の

p. 294

人格は単に一個の物品となり終わらず、しかも各別の、独立した無政府的のそれ自身における目的ともならぬ。教階制度はあらゆる人々にその義務の遂行を要望し、同時に各個人の権利を保証するのである。

社会的キリスト教、すなわちイエズス・キリストの社会的王国の観念は、時として人の信ずるがごとく第19世紀の終期に生まれ出たのではない。すでに革命時代よりして、ド・メストル(de Maistre, 1753-1821)ド・ボナール(de Bonald, 1754-1840)等のいわゆる反動思想家は社会的キリスト教を力説したが、不幸にも大多数の冷淡と利己主義とのために主張の貫徹を妨げられた。この観念はまた一派の善良な信者の『自由観念』とも衝突した。しかしこれらの反対や争論により、社会的キリスト教の観念はようよう明瞭になり、堅固の度を増して行った。今日未だ無条件にこの観念が教会内に確立したとは言えないが、しかしローマ聖座から出た数篇の公文書はその主要なる主張を力強く裏書きしている。

公平の観察者が現在見逃し能わざる事実は、第19世紀における思潮の変遷の裡に、どこでも問題となったのはこの思想であったという事実である。『キリストの教会とは何であるか。教会と社

p. 295

会との関係はいかに』というのが最もしばしば生じた疑問であった。そしてこれはその実『キリストとは誰であるか、キリストと人類との関係はいかに』という永遠の疑問が、現代の欠陥、進歩、誤謬、希望に適応された新しい形式に過ぎないのである。

カトリック教会の統一

『カトリック教会とは何ぞや』、この問題に対して第19世紀におけるカトリック教会の思索と生命とは、正確な答を作り上げるために非常に役立った。信者の心に教会の観念は明瞭となり、愛着は強くなり、その宗教的思索の中でキリストの配(つま)(教会)に関することが重要視されるようになったのである。革命の流血の悲惨事の後始末をする頃、復旧のために努力した人々も、多くは現在の皮相における妥協に止まってしまったが、真に具眼の士はプロテスタント的宗教改革の個人主義精神が悪の根本で、これが宗教界のみならず、ルソーによって政治界にも勝利を占めたのがフランス大革命であると看破した。ボナールは、社会は人間本来の性質より出でし必然的の結社であるから、人間と社会とを切り離して考えることはできぬと言った。この言の反響のごとく、瞑想的な深遠なるドイツの神学者アダム・メーレル(Adam Moehler, 1796-1838)は、宗教に

p. 296

おける個人と社会とを別々に、すなわち信者と教会とを無関係に考えてはならぬと教えた。プロテスタントの聖書主義に反対して、原始キリスト教を説明するにあたり、彼は下のごとく書いた。

『何ゆえにキリスト教は原始時代に聖書をもって伝えられざりしか。何ゆえにイエズス・キリストは聖書を引用して弟子たちに教え給わざりしか。何ゆえに数世紀にわたりてキリスト教の布教は教師の説教によりたりしか。--これ弟子はその師に、個人は全体に愛着せざるべからざる原理を示さんがためなりき。これによりて個人は全体を無視する時、虚無なりとの感は必然に起これり。かくして人文が一般化して、個人主義思想が培われ、これにある完成を見るに至りし以前に、キリスト教はすでに一の教会となり、文字も精神に打ち克つ能わず、個人の利害の打ち克つ能わざるほどの、堅固なる全体となりたりき』(『教会の統一』)と。

メーレルは教会はキリストの身体なりと言うパウロの教えを了解し、可見的教会のカトリック的思想と、聖ヨハネが高唱した『御言葉』の御托身の玄義とを結びつける。いわく、

『教会の見ゆべきものたる最後の理由は、神の御言葉の御托身に存す....宗教と教会との別つべからざるは、イエズス・キリストが人となり給いたるによるなり....キリストによるわれら各個

p. 297

の真の(神との)和解、およびキリストとの一致は、実際上、また本質上一切の贖われたる者の一致と附随し、二者は同一にして分離すること能わず、....教会は神の御言葉の永続的の御托身なり。まったく相異なる神性と人性とがイエズス・キリストにおいて堅く結合せるがごとく、その教会においても救主の全体がこれによりて継続せらるるなり。教会はキリストの永続的の表現にして同時に神的かつ人的すなわちこの二性の結合なり。すなわち教会は人の外形の中に隠れて、労役する仲介者(Mediator)なり。すなわち教会は必然的に人的方面を有す。かくのごとく、極めて密接なる関係を有するがゆえに、この二性は相互に混淆し、相依り相扶けてその能力を致すものなり。』(教理提要 Symbolik)

教会の統一性、その無上の権威について、神学者がますます深く思索を続けて行くと同時に、他方にはこのことについて一般の信者の有する観念もようやく切実になって来た。彼らの眼界に、無形容詞の『教会』、すなわちカトリック教会、霊的都市、『ここに至りては、異邦人も、ユデア人も、ギリシア人も、夷もあることなき』霊魂の都市の姿が明らかになって来るに連れ、またその国家による支持が希薄になるに連れて、限局的にしてかつ必然的に『肉的』の自治体なる国家的教会(national churches)はだんだんと勢力を失って来た。フランスのガリカン教会は崩壊してしまった。ナポレオンは教皇ピ

p. 298

ウス7世と計ってその再興を企てたが、このために教皇は新『協調』(concordat)を承認するを肯んぜなかった36人の司教を罷免するのやむなきに至った(1801年)。フランス政府の希望は従来のガリカン教会主義の復活であったが、それには教皇のこの断固たる処置が必要となり、その結果として予期に反して教皇の権力の伸張を見たのである。王政への復旧に際しても、また同様の画策があった。が、しかしこのたびも賢明な聖職者と、自覚した信者とをローマに惹き寄せる運動を速めたに過ぎなかった。ジョゼフ・ド・メストル(Joseph de Maistre, 1753-1821)の『教皇論』(Du Pape, 1819)は機運の出発点よりも、むしろ獲得した行程の標示である。

ちょうど同時代に、カトリック教会への復帰運動はイギリスにも、ロシアにも起こった。種々の国に発生したカトリック教会の迫害も、信者をよりカトリック、よりローマ的にするばかりであった。ドイツのいわゆる文化戦争(Kulturkampf, 1873年)、フランスの反聖職者主義運動(anticlericalism)もその通りであった。最近に一英国通信員は、従来国王の支持によって、あまりローマ的でなかったポルトガル教会について、同一の予想を書いている。

第19世紀の一般の人心は反対の方向に動いていたから、かかる結果はますます注目に値すると

p. 299

言わねばならぬ。ヴォルテールの時代の世界主義(コスモポリタニスム)に代わって、どこにも偏狭な国家主義が熱情をもって勃興した、かかる国家観念の旺盛な時代に、教会のみは国家を超越して、カトリック的一致に帰らんとしたのである。

教会と社会問題

上に述べたごとき、教会の一致に帰らんとする趨勢が第19世紀におけるカトリック教会の社会化の傾向を示す唯一の事実ではない。今や教会は、キリストに一致する唯一の方法がおのれと一致することであると宣言するに止まらず、次いで自己がこの地上における動揺する社会の基礎を堅固ならしむる唯一の能力なりとの自覚に到達した(これは非常な、またある意味で新しい事実であった)。『真のキリストの精神はわれにのみ見るべし、われこそ福音の唯一の正当なる継続者なれ』と言うに止まらずして、『わが唯一の管理者たる福音の原理を他にして、強固に建てらるる社会はあることなし』と言う。また『各個人が永遠の救済に到る道は、われを措きてあることなし』と高唱するのである。

この原理を憂き世の真情に駆られて明晰の論理、光彩奕々の文章をもって宣言したのは、かの大

p. 300

師父、大教皇レオ13世(Leo XIII, 1810-1878-1903)の不滅の誇りである。その教書イムモルターレ・デイ(Immortale Dei)に教えていわく『教会の本来の目的は直接霊魂の救済なり。しかれど教会は、地上の幸福に関する方面においても、自然に偉なる貢献をなす。仮りに教会が地上の生命の繁栄を主目的となしても、おそらくはこれに勝る効果を挙ぐるを期待する能わざるべし』と。彼はすべてに超えてこの思想を愛した。また彼の観察と精神とをこの一句よりも、さらに適切に言い現すことはできないであろう。またその教書タメトシ・フツーラ(Tametsi futura)の中に教えていわく、『社会はおのれ自らにて足れりと言う人あり。いかにも、悪人を罰し、人民の風俗を和め、賢明なる法律によりてあらゆる手段を尽くして罪悪を防止することなど、皆優れたることにして、また必要事なり。しかれどこれにて充分なりと言うことを得ず。民衆を癒すべき泉はなお深きにあり。これには人々の霊魂に触るる超人的の能力を要す。....この能力はかつて一度過古において大なる宿悪によりて疲弊したる一世界を救済したり。すべての障害の除去せられて、キリスト教的精神の国家の中に開花せんことを、この時国家は癒ゆべし。....これこそ公衆の救済のための焦眉の急なり。決して棄つまじかりし御者(キリスト)、道にして、真理にして、かつ生命なる御者に復帰するを要す。ただに個人

p. 301

のみならず、実に人類社会の全部の復帰を要するなり。願わくばキリストの、おのが家に主人として社会に帰り来り給わんことを。法律、制度、教育、家庭、富者の邸宅、職工の工場等、社会組織のあらゆる隅々までも、キリストのもたらせ給える生命の充ち渡らんことを。なんぴとも謬るべからず、文明は主としてこれに関すればなり』と。レオ13世はキリスト教的国家構成の根本原理を示すのみに止まらなかった。彼は経済問題の範囲においても、正義と愛との名によって語ったのである。彼は富者とプロレタリア、資本と労働との両者の遵守すべき権利および義務を明示した。賃金の決定、婦人および小児の保護、日曜日の休息、一日の労働時間、国家の干渉の範囲、結社権の使用、これらすべてについて、1891年の教書レールム・ノヴァールム(Rerum Novarum)はキリスト教的原則の壮大な光明を投じている。労働者保護のための国際的規定の計画を世界のすべての君主中、最初に支持したのもまたレオ13世であった。彼の後継者もまた同一の精神をもって行動した。ピウス10世の名においてカルヂナル・メリー・デル・ヴァル(Cardinal Merry del Val)が1904年に労働者の保護を目的として国際会議が開かれた時に送った書簡には『労働者の不幸を減少し、各人の能力、年齢、性別に従いて労働を公平に分配し、日曜日の休息を得しめん

p. 302

がため、またその他労働者の人格と道徳的生活、ならびに家庭的生活を無視するすべての弊害を除かんとする努力に対して』援助を惜しまざる旨が記してあった。しかし引照を増加するのが本書の目的ではないから、読者はよろしく直接にレオ13世の教書を研究せられたらよかろう。これらの教書はその発表の際いずれも人目を聳動したもので、今に至るまで社会問題の解決に苦心する人々の熟読に値するものである。

Diuturnum illud, 1881 政治的権力について
Immortale Dei, 1885 国家のキリスト教的組織について
Libertas praestantissimum, 1888 人間の自由について
Rerum Novarum, 1891 労働問題について
Tametsi futura, 1900 救主なるイエズス・キリストについて

等々である。レオ13世とピウス9世とは国家が『国家』として唯一の真正なる教会に対する義務に関して同じ見解を有していた。もとより両者共各々愛好する見方がある。ピウス9世が『われらは汝の尊敬を受くる権利を有す』と言うとすれば、レオ13世は『汝はわれらを必要となす』

p. 303

と言う。もとよりこの二の宣言は同一の真理の二の見方であるから、ピウス9世が権威的で、レオ13世が自由的であるとは言えぬ。俗権がその権威の範囲内で、独立自由なるべきを説いたのはレオ13世であっても、彼はまたイエズス・キリストが人間社会の救主にして、主君たるべきを極力教えて倦むところがない。この思想がキリスト教において『キリスト論』『救世主論』『教会論』等の神学の部門にいかなる将来の進歩の発端となるか、それを予想しようとするのではない。ただ新しい方角を暗示すると思われる二の事実を述べよう。1900年、第20世紀の初頭にあたり、レオ13世は全人類をイエズスの聖心に奉献せんと思い立ったが、全人類の中には、水の洗礼をもってしても、あるいは希望の洗礼をもってしても、未だ教会に属しておらぬ無数の人間がいる、かかる人々のためにも聖心の保護を願うということが神学上差し支えないものであろうか、という疑問が生じた。しかしこの疑問は研究の後に肯定的に解かれた。1899年5月25日の教書が、聖トマス・アキナスの教えた『キリストはたとえ未だその権利をまったく行使し給わずといえども、法理より論ずれば万物悉くキリストに隷属せり』(神学大全、第3部、第59問、第4項)の説を公然と裏書きしたのである。また1910年8月25日ピウス10世はフランスの諸司教に書簡を与えて『文明の

p. 304

改革に努力するは宗教の極めて重要な任務なり。いかんと言うに道徳的文化なきところに真の文明なく、真の宗教なきところに、真の道徳的文化なければなり』と言われた。この文書は要するに社会と教会との関係についてレオ13世が常に教えたところを繰り返して力説したに過ぎない。しかしこの文書は確乎たる原則、明晰なる論理、偉大なる見識によって、教会が社会の自然法および神法をいかに解するかということの明瞭な概念を伝えるに足りるのである。

革命の原則とキリスト教の原則との関係いかんという問題は、第19世紀の信者には重大なる問題で、二の相異なる解釈がこれに与えられた。今ここに革命の原則と称するはかの『自由、平等、友愛』の三文字のプログラムである。ある一派のカトリックはこのプログラムの理論上の欠陥、およびその実行に際して生じた多くの錯誤と弊害とを無視した訳ではないが、しかもこれを福音の教訓の善い摘要と信じた。彼らは非理不法、かつ残忍暴戻の革命に洗礼を授けようとしないまでも、革命運動の主要な傾向に洗礼を授けてこれをキリスト教化しようとした。否、むしろ革命の原則と自称するものはその実、カトリック的キリスト教原則であって、これに加え、革命家はその解釈と実行とにおいて誤謬に陥ったのである、と考えた。

p. 305

かかる解釈に対して、もっと核心に触れる考え方をする人々は『自由、平等、友愛』の三標語の第一を曖昧、第二を積極的の誤謬としてこれを退けた。『自由』についてはエクァアトール国の愛国者、大統領にして非命に斃れたカトリック政治家ガルシア・モレーノ(Garcia Moreno, 1821-1875)はこれを『悪および悪人を除きては、万事につき万人のための自由』と訂正した。すなわち真正の自由とは、あらゆる権利行使の自由で同時に誤謬および不正の禁止が伴わねばならぬ。もしまた実際上、この禁止が、さらに大なる悪結果を生むおそれある時には、一定の範囲内で、一時的にこれを黙過することもできる。かく精密に限定した上で、初めて『自由』を受け容れることができるのである。『友愛』とは霊的には聖パウロの教え(キリストの肢、例えばコリント前書第13章)がそれであるが、社会的には、厳重なる正義を伴う熱烈なる博愛である。しかしかの厚顔、無恥の『平等主義』に至っては、吾人の尊むべき自由、真正の正義博愛の名においてこれと戦わねばならぬ。平等主義は過去に獲得せる財宝の浪費であり、各人の異なる能力、価値、徳行を無視し、優秀の人物、正当の権威、および人間経験の価値を機械的に破壊する真に唾棄すべき空想であるから、これを葬るのが吾人の義務である。

p. 306

今述べて来た二種類の論者は、洞察力に多少の差こそあれ、いずれも誠意をもって自己の所信を主張した。この間に処して教会はいかなる態度を執ったかと言えば、逡巡遅疑するところなく、党派、政府に超越しつつも、原則として、理論としての第二の説に賛成した。

そもそも教会がこれに正解を下し、曲解を防止する任務を有する福音の原則は進歩と生命との無限の原動力で、社会に秩序、人民には平和と繁栄と喜悦とを与える力を具えている。しかしこれは決してフランス革命の『信条』(ドグマ)を敷衍し、あるいはこれを改良して得られるものではない。むしろわれらはかかる曖昧、不正にして濫用を招き易き原則に替うるに、これと正反対なる真の性法(自然律)ならびに神の律法をもってせねばならぬ。

1903年ピウス10世は労働問題に関するレオ13世の各種の公文書の中から要を摘み、精を選んで、キリスト教的社会運動の要領を発表した。特に初三項は、いかなる点において吾人は平等であるか、いかなる点において吾人は平等ではないか、教会の見るところを率直に説き、ここに参照に値するのである。(序文略)

1、神の建設したまいたる人間社会は、あたかも人体が異なる肢によりて成立せるがごとくに、平等な

p. 307

らざる分子より構成せらる。ゆえにこれを全部平等たらしむることは不可能にして、社会それ自身の破壊となるべし。

2、社会各分子の平等は、すべての人が創造主なる神より出で、イエズス・キリストに贖われ、各自の功徳あるいは罪悪に応じて、神に裁かれて、賞せられ、あるいは罰せらるるの点にあり。

3、されば人間社会に主権者と臣民、雇い主と被傭者、富者と貧者、学者と無学者、貴族と平民と存するは、神に規定せられたる秩序なり。されば各人、愛によりて結ばれ、天における人生の最終の目的、および地上における物質的および道徳的幸福に到らんがためによろしく相扶け相救うべきなり。

4、人間は地上の物件につきて獣類のごとくこれを使用する権利あるのみならず、使用に際して消耗する物も、共にこれを所有する永久の権利を有す。

5、私有財産は労働、勤勉、譲渡、贈与の結果にして、これを各人欲するがままに合理的に処分することを得るは、疑うべからざる自然の権利なり。

6、富者とプロレタリアとの争論を和するためには正義と愛徳とを分かつべし。すべて一方が正義に

p. 308

反したる場合を除きて、他方に要求の権利なきものとす。

7、プロレタリアおよび労働者の正義より出づる義務は次のごとし。自由かつ正当に契約せられたる労働は悉く忠実に尽くすべし。雇傭主に身体的および財産的損害を与うべからず。おのが権利を擁護するに際しても、暴行を避け、かつその要求を騒擾化すべからず。

8、資本家および雇傭主の正義より出づる義務は次のごとし。労働者に正当なる賃銭を支払うべし。あるいは強制により、あるいは欺瞞により、あるいは明白なるあるは隠蔽せられたる高利の方法によりて、労働者の正当なる貯蓄を奪うべからず。彼らに宗教的義務を遂行する自由を与うべし。彼らを不道徳的影響および悪模範の危険より保護すべし。彼らの家族的精神ならびに貯蓄心を損なうべからず。体力に応ぜず、あるいはその年齢、性別に適当ならざる労働を命ずるべからず。

9、富者および所有者が貧者および窮乏者を福音の命令に従いて救うべきは、愛徳より出づる義務なり。この義務は極めて重大にして、キリスト自身がのたまいしごとく(マテオ福音書第25章)審判の日にこの義務を遂行せしや否やを特に吟味せらるべし。

10、貧者はおのが欠乏を恥ぢず、また富者の慈善を軽蔑せざるべし。彼らはよろしく富貴の家に生

p. 309

るるを得給いしも、自ら貧窮を選み、これを高め、甚大なる功徳をもってこれを富ましめ給いし救主イエズスのことを思い奉るべきなり。

11、資本家および労働者は相共に労働問題の解決に向かって努力するを得べし。すなわち窮乏の裡にある者に時宜に応じたる扶助を与え、また双方の階級を相近づけ、相一致せしむることを目的とする種々の施設これなり。例えば相互扶助組合、種々の私設保険、小児保育所、および殊に各種の職業組合等のごとし。

12、『キリスト教社会運動』は各種の事業を遂行して、上述の目的を達せんことを努むべし。しかれどもこの運動はかつて教会によりて規定せられたるがごとく、かのいわゆる社会主義運動とはまったく異なりて、カトリック信仰および道徳の原則を基本とし、私有財産の侵すべからざる権利に対し、いかなる形式をもってしてもこれを否認するがごときことあるべからず。

13、『キリスト教的社会運動』は決して政治に関係すべからず、一党一派のため、あるいは政治的目的のために尽力するがごときことあるべからず。その使命はここにあらず。自然の権利および福音の律に従いて、民衆の幸福の増進を目的とすべし。

p. 310

教皇は次いでこの運動に携わる人々は、聖職者にあれ、俗人にあれ、教皇と司教とに忠実に服従し、その指導に従うべきを求め、宗教および道徳に関する議論は出版前、教会の規定に従って司教の検閲を経るを要する旨を述べ、なお各人の一致、平和を勧めて最後に次の一項を加えている。

19、プロレタリアおよび貧民のために執筆するカトリック著述者は、民衆に社会の上階級に対する反感を抱かしめざるよう、言語を慎むを要す。上項に説明したるごとく、愛徳の義務に属することを述ぶる際は、特に注意してこれを正義の要求なるがごとく語るべからず。彼らはよろしくキリストが相互の愛をもって万人を結ばんと欲し給うことを忘るべからず。この愛こそ、同時に完全なる正義にして、また相互の幸福のために努力すべき義務を含むものなれ。(跋文略)

教皇が述べたのは、社会問題解決の根本原理である。もとよりこの原則だけで多年の宿弊を矯正し、人間の反抗心を去り、対峙する二階級の相異なる利己的利害関係を調和する訳にはゆかない。しかしこの原則を無視すればせっかくの改革も一時の彌縫に止まり、社会改良家の熱心な努力も水泡に帰してしまうであろう。そしてこの原則こそ中世のキリスト教的社会秩序の基礎であったのである。

p. 311

レオ13世はかくのごときキリスト教的社会秩序を、ヨーロッパおよび全世界の唯一の救済と認めて、その実現を衷心から希望していた。しかしまた彼の考えでは、この秩序は、多くの欠陥、不足、不徹底のために、完全の美果を収めることができなかったが、とにかく、ある程度において第16世紀のプロテスタント宗教改革(第18世紀の誤謬の哲学の母)に至るではヨーロッパに存在していたのである。レオ13世のこの信念はその数々の教書の中に現れている。ピウス10世も、また同じ意見であった。『文明は新たに発見する必要はない。新しい都市は雲の上に建てるのではない。かつて存在し、また今日現に存在する。すなわちキリスト教的文明、カトリック都市がこれである。吾人はこの文明、この都市をその自然的および神的基礎の上に絶えず回復するを要するのみである』と。

教会と世界平和

1914年の戦乱が世界を敵味方の二陣に分けた時に、教皇ベネヂクトゥス15世はこの機会に教会の常に教えるところを公に宣言することができた。すなわち、国家も個人と等しく、個人主義であってはならぬ。民族の間にも社会的の連鎖は存在すると。目下各国政府がその実現に努めている国際連盟の観念は、実に教会のものである。教会は常に各民族を社会的の存在と見なして

p. 312

来た。一国民が孤立政策により他の人類社会からまったく絶縁することができると考えるのは愚かなる夢想に過ぎぬ。各国民間には必ず接触があり衝突がある。一部分の行動が全部に影響と反動とを及ぼすものであるから、正義を守護し、調和を保証し、世界各国民の共同の幸福のためにある法規を作ることができる。1917年8月に各国政府に世界戦争の終結を提議するに際しベネヂクトゥス15世は次の言葉をもってした。『最も肝要なるは、武器なる物質的暴力に替うるに、権利という道徳的威力をもってすることである。ゆえに各国は一定の規則と、一定の保証とに従い、各自の安寧秩序を保つに必要なだけに、各国同時に、かつ相互に軍備を縮小せねばならぬ。次いで軍隊に替うるに、仲裁裁判所をもってし、この裁判所は世界の平和を第一の目的として、種々の法規を規定し、また国際問題をこの仲裁に委託するを肯んぜず、あるいはその決定に服従せざる国家に対してある種の制裁を加うる権利を有せねばならぬ』と。

平和の王たるキリストに建てられた教会は、列国間の正義と愛との支持者である。あらゆる国際間の競争に無関係にして、列国の利害得失に超然たる唯一の権威は、カトリック教会なる幾億人の精神と心情との集合する『高間』(使徒行録 1:13)を措いて他にない。国際法規の遵守をカト

p. 313

リック教会に勝る道徳的権威をもって支持し得るものはどこにあろう。国際連盟の憲法にして、教会の原理を認め、教会の援助を乞わざる限り、真の権威と真の平和の確保とを有することは不可能であろう。

以上説明した神の国の概念の従来と異なるゆえんは、教会が福音書にいわゆる『この世』についての社会的使命の深い自覚を持つようになったことである。しかし、これとてもその実は古来の伝統を離れ、まったく新奇なる概念を作り上げた訳ではない。教会は昔から人類歴史の最後に『世界の粉々に壊け散る』以前に、キリストの光栄裡の再臨あるを信じ、『死者の復活と、来るべき世の生命を待つ』と誦え、また『御国の来らんことを』と祈る際、『御旨の天におけるがごとく地にも行われんことを』と附加していたのである。

しかしながら一方に教会の社会的使命の意識が明らかになって来るにつれ、他方に将来に対する希望と、現実の苦痛、闘争の悲哀と、相俟ってここに、最近において、一部の熱心な信者にミレナリスム(millenarism)に似た夢想を生じた。ミレナリスムとは世界の終末、および人類の公審判前に、光栄のキリストの再臨ありて地上に一千年間の黄金時代を現出するとの、聖書の誤れる

p. 314

解釈に基づく古い謬説である。往古においてしかりしごとく、この度も夢想の人に今世と来世との境界が模糊として、来世を飾るべき光輝が今世に期待された。その一例として、フランスで多数の信者が、1870年、教皇領なるローマがイタリー王に奪われた頃に、『大教皇、大帝王』が出現して、奇蹟的に栄光裡に万事が回復されると期待したようなこともあった。この期待が預言の調子を帯びて、社会の安寧秩序に危険の恐れありと認められる著書等は、いち早く禁止されたが、しかし精神的に、すなわち聖寵の賜の地上に注がれ、聖霊の奇蹟によりて世界の民族が教会の門を潜るという期待は、ローマは決して禁止していない。レオ13世のごときも『一の檻、一人の牧人』のキリストの御約束が地上において成就する日のあるべきを信じていた。かかる楽天観が一の理想に止まることは、あるいは聖書の言、あるいは過去の歴史がこれを証しているかも知れない。しかしでき得る限り、その実現に努力するは、聖書と歴史とが吾人に慫慂するところである。

教会と布教事業

『一の檻、一の牧人』の理想としての神の王国の実現を計らんとする精神は、異教諸国におけるカトリック布教事業の大発展となって顕れた。フランス、イタリー、スペイン、ベルギー、オ

p. 315

ランダ、南ドイツのカトリック教徒は、アメリカ、オーストラリア、北アフリカの若い教会を扶けるため、またはアフリカ内部の黒人や、日本、シナ、インドシナ、インドなどの古代文明国に宣教師を送るために、莫大な金と、人間と、殉教者の鮮血とを拠出した。殊に信仰宣布会(Propagation of the Faith, 1822)聖嬰会(Holy Infancy, 1843)等の創立は、無数の信者が組織的に宣教師を後援する手段を開き、布教事業そのものの必要も種々の小冊子、雑誌、その他の宣伝方法によって非常に広い範囲の信者の注意を惹くようになった。これが欧州諸国において一般信者の使徒的精神を養い、カトリック的精神の振興に資したことは非常なものである。いかに多くの人々が、いつかその生涯の一時期に、殉教者や、宣教師や、あるいは『シナに行く修道女』の物語に胸を踊らせ、福音書の崇高な理想に興奮を感じたことであろう。

第19世紀の布教事業は、中古の布教に比べれば確かに進歩が遅い。これは以前のように布教事業が国家的背景を有せず、政府に支持されないためもある。むしろ布教が各国の政治的あるいは経済的野心の衝突に禍されている実状である。その他ヨーロッパ諸国政府の無宗教主義、在留欧人の示す悪模範もこれに劣らぬ躓きである。しかしかかる障害と困難とにかかわらず、布教事業は非常に忍

p. 316

耐と努力とをもって遂行されて、強固な組織を作り上げた。今日地球上に宣教師の足跡の印せられざる隅はない。洗礼を受けた正式の信者は未だ多数を占めていなくとも、布教事業中至難にして、最も努力を要する草創時代すなわち播種の時代、暗中模索の時代は、すでに各地方において終了したと言ってよい。今や収穫の時代に入らんとして、改宗の機運が顕著なるは一国、二国に止まらぬ。さらになお吾人の意を強くするは、新附の信者が堅実にして、教理をよく弁えている点である。すでに初代キリスト教の殉教者伝に劣らざる壮絶なる殉教者も現れた。

なお注意すべきは布教事業が教会の統一に有力な因子となったことである。従来の布教事業の大障害であった分立主義は廃されて、今日は布教聖省(Propaganda)の指導の下に、より能率の高いカトリック(公)主義が実行されるようになった。すなわち無益な競争をして相互に妨害することを防ぎ、されど同時に相刺激し、また必要に際しては相互の扶助のできるように、布教地方は多くの管区に分かたれて、各国の種々の修道会ないし宣教会が、相隣接する管区内に立て籠もって布教に奮発しているのである。

東教会に対するローマの態度は、決して無意味な画一主義をもってこれに臨まず、かえって統一の

p. 317

中に多種の様式の変化の調和を希望し、従って東教会独特の儀式、習慣、言語を廃させる意志はない。されば近年に至るまで猜疑嫉妬の情、古い先入主の誤解、錯綜せる政治的関係、教理上の口実等のために、東西両教会の一致が妨げられていても、決してローマ教会の責任ではないのである。

しかしここに局面は急変して新しい天地が開けた。頑固にロシアからローマの影響を遠ざけていた専制帝政は覆滅して、ポーランドは再び古の熱烈なカトリック国として生まれ出た。ロシア本国は未だに布教の地となるべく、余りに混沌の状態にある。しかしペトロの後継者が奇蹟的漁業(すなどり)の大網を投げかける日も早晩来るであろう。すでに迫害の下に喘ぐロシア教会が教皇ベネヂクトゥス15世に救済保護を求めた事実がある。これに次いで光明を求めんとローマに来る日もあるいは遠くあるまい。

2 カトリック教理に関する論争

カトリックキリスト教は第19世紀においても、その過去におけるがごとく、唯一の絶対的真理なりとの主

p. 318

張を曲げることをしなかった。便宜上この期間を三期に分けて叙述しよう。すなわちローマン主義、科学的主理主義、および不可知論的主情主義と実用主義の各自に対するカトリックの理智的態度がすなわちこれである。

ローマン主義(Romantism)

フランス大革命の終息した直後においては、知識階級に対する教会の将来は非常に有望らしかった。教皇がローマに凱旋して、久しく革命と帝政との混乱の間に逼塞していた学問と芸術との一種の文芸復興の気運を作った当時などは殊に光輝に充ちていた。フランスにおいてはまずシャトーブリアン(Chateaubrinad, 1768-1848)の『キリスト教讃美論』(Genie du Christianisme 1802)が現れた。ヴォルテールの流行は廃り、シャトーブリアンの美文はルソーの魅力を宿して、ルソーが教会に敵対した代わりに教会のために尽くしたのである。バナールは当時『今日フランスでは宗教、名誉、忠誠は古代の事物に共通なる威力と、新奇な事物との魅惑とを兼ね有していた』と書いた。ドイツでもオーストリアでも著明な帰正が続出して、単に文学芸術の徒とのみ言わず、ゼルマン民族の頭脳が悉くカトリックとなってしまいそうな勢いであった。その中には詩人のブレン

p. 319

タノ(Brentano, 1778-1842)ウェルネル(Z. Werner, 1768-1823)シュトルベルク伯(Graf zu Stolberg, 1750-1819)等があった。また、著述家ゴェルレス(Goerres, 1776-1848)は特にカトリック教会のためには百万の軍隊に勝る味方であった。その他カトリックの境界まで来ていて立ち止まっていた者や、ヘーゲルの哲学にキリスト教と近世哲学との一致点を発見せんととの謬った考えで種々画策していた者もあったが、これらは皆宗教的の心情を有して、不安と希望との裡に闘っていた人たちである。ともかくも彼らはゲーテ(Goethe, 1749-1832)のギリシア異教精神より遙かにキリスト教的であった。イギリスでは英国教会をカトリックに帰正せしめんとのオックスフォード運動(Oxford Movement)の機運がニューマン(Newman, 1801-1890)その他の人々によって醸されている間に、サー・ウォーター・スコット(Sir Walter Scott, 1771-1832)は中世紀風の詩を復活させた。イタリーのマンツォニ(Manzoni, 1785-1873)の『キリストに献ぐる歌』に、フランスではラマルチン(Lamartine, 1790-1869)が唱和する。スペインでバルメス(J. Balmes, 1810-1848)の哲学が名声を博すれば、フランスにはラムネー(Lammenais, 1782-1854)がその天才の光輝に人目を眩まして、彼の裡に包蔵した禍機は未だこれを看破する人が少なかった。希望の日、詩の

p. 320

日、されど幻覚の日よ。人々の語り合うは『宗教の慰安』にあらずばその『美しさ』である。青年は古代異教の芸術に、中世紀ロマンティックキリスト教芸術を対抗させた。この時、新しい、豊富な栄光の世紀の曙と見られたのである。

しかし黄金時代は遂に来なかった。待ち焦がれていたカトリック思想の復興も実現しなかった。なぜあのように有望な播種が豊かな収穫をもたらさなかったのであろうか。もし今日この疑いに応ずる真実の解答を与え得る人があれば、今後に対する極めて有益な教訓であろう。ラムネーはフランスにおいては指導者の拙劣な熱心、およびガリカン教会主義を奉ずる徒の不完全なカトリック主義が禍して、黄金時代の代わりにヴォルテールおよびルソーの著書の新流行をもって示さるる無宗教的精神の勃興となったと言った。しかしラムネーが暗示したもう一つの解答がある。これをフランスばかりでなく、一般ヨーロッパ諸国に及ぼして、この美しい黎明が輝ける白日とならなかった罪は、教会側において、哲学および神学の研究が浅薄皮相に止まったからである、と言ったらば、あるいは正鵠に近いであろう。焦眉の急にのみ心を奪われて、弊害の淵源に遡らなかったのが根本的錯誤であった。当時においては指導の地位にある者といえども伝統的神学を充分に知悉しなかった。まし

p. 321

てこれをもって近代思想に対抗せんとは思いもよらぬ。本当に有力な護教学は堅固なる宗教哲学に根底を有し、信仰の源泉に涵養された神学と、組織的に充分に研究された歴史との知識を要するのであるが、未だこの実力の素養ができていなかったので、美辞麗句や、天才的直観や、体裁のよい新学説などで、一時を糊塗するより他にできなかった。第一流の護教家も、あるいは平信者にあらずば、未だ充分に宗教学の研究を積まぬ司祭で、彼らの有り余る熱誠も学識の不足を補う由がなかったのである。自由思想の世界の中で、新機軸を出して、多少の弟子を集めるには才能だけで足りるであろう。しかし一定の教義に人心を繋ぎ、権威の宗教を護り、大なる伝統の河床を清め広げるには、それでは不充分である。

その一例は伝説を過重に尊んで、人間の理性の価値を卑しむに至った一派である。革命の思想が個人の理性の全能を唱えて、ほとんどこれを神とした。その反動として、ボナール、ラムネーを始めとして、多くのカトリック思索家は事実としての人類の精神の一致のより高い原理を探究して、これを古代より世々に伝わって来た原始的の神の啓示に求め、あるいはルソーのいわゆる社会契約に近似した人類一般の同意に求めんとした。教会はかかる理性の軽視を承認せず、伝説主義(traditio-

p. 322

nalism)はいかなる形式においても容れられなかった。しかしラムネーの弟子なりし人々には、後々までこの説の中の何物かが残っている。何物かとは衆の自由意志から出た規約(数)を法理上および事実上に重要視せんとする一の傾向である。

ラムネーは最初実に熱心に教会のために働いたが、残念なことには終わりを全うすることができず教会を離れ去ってしまった。シャルル・ド・モンタラムベール(Charles de Montalembert, 1810-1870)ハンリー・ラコルデール(Henri Lacordaire, 1802-1861)はラムネーの弟子であったが、その棄教には従わなかった。両人共当時一流の大雄弁家で、社会を指導し、カトリック精神の振興のために大なる功績を残した。しかしそれだけではない、弁論以外にも前者の歴史的研究、後者の講演集は、彼らの高潔なる生涯の模範と相俟って、後々までも人々を啓発し、人々の心を動かした。そして高尚な思望と、模範的な徳行とを身に帯し、かつしばしば優れた才能を有する多数の教養ある人士が、彼らの影響を後代に伝えて行った。

この自由カトリック派の影響(ここに派という文字を用うるのは極めて漠然たる意味においてであるが)は今日にも及んで、その主唱者たちのロマンティック幻想の幾分かはなお残っている。例えばファ

p. 323

ルウ(Falloux, 1811-1886)、コシン(Cochin, 1823-1872)、ドシャン(A. Dechamps, 1807-1875)、アルベール・ド・ブロイ(Albert de Broglie, 1821-1901)、勇敢で敬虔なるオルレアンの司教ヂュパンルウ(Dupanloup, 1802-1878)は言わずもがな、優れた思索家であったグラトリー霊父(Gratry, 1805-1872)にさえもその影響は認められるのである。

科学的主理主義

やがてローマン時代の理想家に代わったのは、事物の正確、精密の研究を愛し、科学の基礎に立って宇宙を探ろうとする人々である。当時、あらゆる方面での科学の新発見が相次ぎ、時も時、あたかも進化論の思想が生まれて、両々相俟って科学的主理主義の運動は無敵将軍の進むがごとき面影があった。形而上の真理を追うべき人間の理性は勇気を沮喪し、種々の哲学体系は疲労倦怠に悩んでその熱情を失い、科学主義は凱歌を奏して、ここに実証論者(positivists)に言わせると『人知の及ぶ限りのもの』の最後の理解に到着したと信じられた。形而上学の廃墟の中に、科学のみ独りルナンのいわゆる『真理のささやかなる鋼鉄の建物』として残っていて、上へ、上へと伸びて行った。しかし何と言っても、あらゆる抽象的思索を排斥し、感覚の経験を唯一の知識の対象

p. 324

とする実証論(Positivism)には物足らぬ節がある。ましてその主唱者たるオーギュスト・コント(August Comte, 1798-1857)は独特の教義、祭司、祭典を具うる、奇怪なる『人類教』と称する新宗教を創造したので、これを好まぬ人々は、人知の範囲以外に『知られざる神』の祭壇を設け、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)のごときも、一方に見ゆる世界の説明を進化論に求むると共に、他方には『不可知者』を拝するに至った。あるいはまたスピノーザの汎神論を種々の色彩の下にわがものとした者もある。テーヌ(Hippolyte Taine, 1828-1893)より、『科学的』あるいは『詩的』一元論者たるヘッケル(Haeckel, 1834-1919)ギュイヨー(Guyau, 1854-1888)ニーチェ(Nietsche, 1844-1900)のごとき者に至るまで皆その亜流である。

その熱心なる支持者の一人、トーマス・ハクスレー(Thomas Huxley, 1825-1895)が『科学の宗教』と称したこの科学主義に直面して、教会は少しもたじろがなかった。第19世紀の前半には、教会の護教家もまた科学の立場まで下りて、敵の武器を奪って闘おうと試みた。彼らの失敗は、未だ価値の充分に定まらぬ方法、仮定に過ぎぬ結論に、余りに重きを置いた結果である。特に聖書の解釈上で主理主義に対した護教家の多数は『一致論』(Concordism)を唱えた。一致論とは

p. 325

宗教の真理を証明するために、聖書と近代的科学との一致を示すのである。例えば創世記の天地創造の日数を地質学上の時期にあてはめようと試みるがごとき類である。一致論者の原理は正しかった。すなわち信仰と理性とは相反すべからざるものであり、聖書は宗教的真理のみならず、また歴史的真理である。しかし批評眼の精しくなかった結果として、聖書記者の意味せんと欲するところと、その文学的表現との区別を謬り、しかのみならず日進月歩の科学の進歩に伴い、聖書の解釈を一致させようとする対象が必然的に変化して来るので、最初に一致論者が期待しただけの好果は得られなかった。これに加え、彼らの失敗は反対にある一部の人々に聖書の歴史的価値を疑わしむるに至り、反動として異端的非理知的のモデルニスム(Modernism)の聖書解釈を生むに至った。しかしこれとは別にカルヂナル・ワイズマン(Cardinal Wiseman, 1802-1865)、オーギュスト・ニコラ(Auguste Nicolas, 1807-1888)のごとき卓越した一致論者は聖書解釈以外の領域において永続的好果を収めたのである。

なかんずく教皇ピウス9世の下に、サン・セヴェリーノ(San Severino, 1811-1865)、クロイトゲン(J. Kleutgen, 1811-1883)リベラトーレ(M. Liberatore, 1810-1892)シェーベン(J. Schee

p. 326

ben, 1835-1888)等によって行われた、スコラ哲学の復興は極めて特筆すべき運動で、諸教皇の保護の下に夥しい好果を結んだ。このスコラ哲学的思索の復興と期を同じうして歴史的神学の完全な組織と材料とに基づく新研究が行われた。例えば第一巻の編集者ボランド(Bolland, 1596-1665)の名称を冒すボランヂスト(Bollandists イエズス会)の『聖人行録』(Acta Sanctorum)の復活、ミンニュ(abbe J. P. Migne, 1800-1875)のギリシャおよびラテン教父集の出版、マルドナード、ペタヴィウス、セン・モールのベネヂクト会修道士の著書の復刻の他に、ヘーフェレ(Hefele, 1809-1893)フレッペル(Freppel, 1827-1891)ロッシ(J. B. de Rossi, 1822-1894)ドェリンゲル(Doellinger, 1799-1890)カルヂナル・ピトラ(Cardinal Pitra, 1812-1889)カルヂナル・フランツェリン(Cardinal Franzelin, 1816-1886)の歴史的、考古学的研究がそれである。思索と研究と両者相俟って、この前代未聞の神学の盛運を来して、ここにヴァチカン公会議における教義規定(Constitutiones Dogmaticae, 1869-1870)が生まれた。第19世紀におけるカトリック教の特徴をこれよりも明らかに表現するものはない。しかしヴァチカンの教義規定は新しい教理の進歩と言うよりも、むしろ過去のものの集成である。議論と研究との結果ではなく、権威の積極的断

p. 327

定である。これに従事した個人の独創と才能とはもとより優れたるに相違ないが、(モンセニョール・ピイ(Mgr. Pie)カルヂナル・ドシャン(Card. Dechamps)モンセニョール・コンラッド・マルチン(Mgr Konrad Martin)フェスレル(Fessler)フランツェリン(Franzelin)等)これらは教会の大なる権威の背後に隠れて、『規定』は無名の集合的事業である。ここに語るは教会の声である。教会が冒すべからざる権威をもって、主理主義者の否定に対してその態度を宣言するのである。従来の公会議は異端者の謬説に対してキリスト教教義の一点を明らかにするに止まっていたが、今回は始めて宗教の基本として、人間の自然の理性の到達し得る第一原理を詳細に敷衍した。いわく、

『われらの母たる聖会は、人間理性の自然の光明をもって、あらゆる存在物の根源にして終局なる神を、被造物を仲介として確実に認識得べきことを支持し、かつ教うるものなり。そは世界の創造以来、その(神)見えざる完徳は、造りなし給いしものを仲介として人間の知識に顕れたればなり。--われらの創造者にして主なる唯一の真神を、人間の理性の自然の光明によりて、確実に認識すること能わずと言う者あらんか、この人は呪詛(のろ)われよかし。』

『カトリック、使徒伝来のローマ聖教会は、天地の創造者にしてその主、全能、永遠、無辺、不

p. 328

可知悉にして無限の智慧と意志とあらゆる善徳とを具えたる、唯一の活ける真神の存することを信じ、かつ公言す。(神は)唯一の霊的実体にして、絶対的に単一、無変にましますがゆえに、宇宙とは真実に、本質上まったく異なるものと言うべく、おのが裡に、またおのれによりて至福にして、その(神)以外の一切の存在物および可能物に優れたること言語に絶したり。--見ゆるもの、見えざるものの創造者にして、主なる唯一の真神を否定する者あらんか、あるいは物質以外に何物をも存在せずと主張して赤面せざる者あらんか、あるいは神と万物との実体あるいは本質は同一なりと称する者あらんか、あるいは有限の有形物および霊体、あるいは少なくとも霊体は神の実体より放出したるものなりと言う者あらんか、あるいは神の本質がその顕現あるいは進化によりて万物となると教うる者あらんか、あるいはまた神は普遍的不定存在にしておのれを規定しつつ、万物の全体および種類の区別を生ずと支持する者あらんか、この人は呪詛われよかし。』

『神は確実に理性の自然の光明によりて認識せらるるを得れども、その御智慧、御善慈は、自らおのれを啓示するをよしとし給い、その御意志の永遠の命令は(自然の道の他に)他の道をも選み給いぬ。この道は一の超自然的道にして、使徒の「神は昔預言者等をもって幾度にも幾様に

p. 329

も先祖らに語り給いしにこの末の日に至りて御子をもってわれらに語り給えり」と言えるがごとし。なお神は聖霊の内的助力に加うるに、その啓示の外的証明たる超自然的事実、--殊に神の全能と全知とを明証して、極めて確実にして万人の知識に相応する徴によりて、神の啓示を認識せしむるに足る奇蹟と預言、--をもってし給いき。--神につき、また神に献ぐべき礼拝につきて、人間が神の啓示によりて教えらるること能わずと言い、あるいはこれを事の宜しきに適わざるものなりと言う者あらんか、あるいは神の啓示は信ぜらるるを得んがために、外徴をもって証明せられずとなし、ひいて人間が信仰に到達するは、単に内面的、個人的経験、または個人的霊示にのみよると言う者あらんか、この人は呪詛われよかし。』

われらが真の信仰に到り、その中に常にとどまるべき義務を尽くすを得んがために、神はその御独り子をもって教会を制定し給い、教会が(神の)啓示の御言葉の管理者たることを万人に認めらるるを得んがために、これにその御制定の明徴を与え給いぬ。キリスト教信仰の信ずべき理由を明らかにせんがために、神の為し給いしこれら多数かつ顕著なる徴は、ただカトリック教会にのみ属するものなり。なおまた、その驚くべき拡張、優れたる聖徳、あらゆる善業の尽きざる豊富、カトリック的一致、

p. 330

いかなる障害にも打ち克つ不動の安定によりて、教会は、自らおのれのよりて信ずべきを示す偉大なる永続的の信仰の理由にして、神の使命の拒むべからざる確証たるものなり。かくのごとく教会は諸国民の前に高く掲げられたる大旗幟のごとく、未だ信ぜざりし者を招き集い、またおのが子らには彼らの把持する信仰の確乎たる根底の上に立つことを保証するなり。云々。』

不可知論的主情主義、ならびにモデルニスム

前項に記した雄大なる信仰告白は、主として当時流行の主理主義的否定に対抗したものであるが、同時にプロテスタント的主情主義に対するカトリック教会の態度を明らかにしたものである。主情主義に対する警戒は実にこの頃より始まる。

ルーテルの創めた原理から、論理の鉄則によって、自由プロテスタント教なる教義信条なき宗教、およびモデルニスム(Modernism)と称するプロテスタント化したカトリック教に至る道程を説明するには、カント(Kant, 1724-1804)まで遡らねばならない。主情主義的傾向を説明するに、かの三大批判の著者たる主理主義者のカントの影響をもってするは、一種の矛盾である。第18世紀の空気の中に成長して、『狂信』の臭味あるあらゆるものの敵であったカントは、宗教

p. 331

を感情的に理解することができなかった。しかし少年時に受けた敬虔派の教育の遺残と、彼の主理主義とは両者相俟って彼を『プロテスタント教の哲学者』としたのである。すなわち彼はプロテスタントの排理智主義に理智的根拠を与え、その排信条主義に理由を附したのである。それゆえにこの消極的立場から見て、カントの仕事はシュライエルマッヘル(Schleiermacher, 1763-1834)ヤコービ(Jacobi, 1749-1819)等と同じ傾向の下にあったと言える。(ただしもとより彼らが正統キリスト教における信条(ドグマ)に代えるために提出したものはその間に全然差違があるが。)

ルーテルは信仰を理性の明悟からではなく、信頼の感情から出発させた。カントが『信仰』と称する神および霊魂に関する確実な認識の土台としたものも理智的思索でなく、道徳的意志であった。この『信仰』は神の啓示の権威によって信ずるのでもなく、また事物の真理に関する内的理由に基づくのでもない。彼の肯定は実践的理性の要求の必然によるからである。彼が神の存在を認めるのは、道徳と幸福との間の一致を安定ならしむるためには、神が必要であるからである。カントの本来の希望は種々の既成宗教の信条(ドグマ)が消え失せて、単純の自然的宗教(Natural religion)に帰ることである。

p. 332

彼は一定の信条と祭式とを有する既成宗教の存在は、自然的宗教の成立の前提であると考えた。既成宗教から自然宗教へと遷る推移が神の国の実現である。あらゆる既成宗教は偶有的のもので変化すべきものである。ゆえに現在の信条そのものは人間を束縛することができない。神の意志の立法が純然たる道徳的立法たるべきは毫も疑いを容れる余地がない。ゆえに進歩の到達点に出現すべき自然的信仰は実践理性の命ずるがままのもので、あらゆる宗教的真理はその中に含まるべきはずである。

かくのごとくにしてカントが宗教の範囲から放逐した教義および理智的分子の代わりに、シュライエルマッヘルが加味したのは感情の分子である。彼はカントの冷静な道徳教を本能的な、溌剌たる、深遠な活力に変化したのである。さればその教説はローマンティック形式の排信条主義である。彼の考えでは宗教の本質は『全体』すなわち『宇宙』すなわち『神的コスモス』に対する絶対的従属の感情であってこの感情に伴う確実性がすなわち信仰である。ただし彼のいわゆる従属とは道徳的従属の意味ではない。われと宇宙との交感の経験が独創的(オリヂナル)な場合には、必ずそれは宇宙がわれに与うる一の啓示である、この時われは『仲介者』となる。キリストの宗教的経験は最も『神的』であった。ゆえに彼

p. 333

は仲介者中の最も偉大の人物である。しかしキリストは決して唯一の仲介者ではない。キリスト自身決してそう考えていなかった。

純然たる感情のみの彼の宗教、まったく信条がなく、キリストさえもほとんどない彼のキリスト教は、宗教的憧憬を有する人々の心を長く惹き附けておくことができなかった。ヘーゲル(Hegel, 1770-1831)の門弟中の極端な一派は原始キリスト教に関してヘーゲルの思想を適用し、ストラウス(Strauss, 1808-1874)バウル(Baur, 1792-1860)らと共に、人たるイエズスならびに福音時代の歴史を破壊して、その結果純然たる主理主義に走ることも辞せなかったが、なおキリスト教徒としての存在を続けたいと願った他の一派は、カントに始まり、神秘の感情をもって詩化された不可知論を、一の積極的な、歴史的、かつ福音的な因子(エレメント)でもって補おうとした。この種の試みの中に最も有名で、大いなる影響を有したのはリッチュル(Ritschl)の説であった。リッチュルの説は極めて巧妙かつ複雑である。しかし要するに彼の考えでは、宗教問題は一の生命の問題であり、実際の問題である、決して思索の対象ではない。ゆえに宗教的霊魂を導くべき判断は哲理の判断でなくして、価値の判断である。もし注意して歴史を研究すれば、吾人は事実としてのイエズスの人格

p. 334

ならびに教説に関して、ある価値の判断を下すことができる。かかる研究をする方法を知れる人にはイエズスは神的価値を有している。これがわれらの言える全部である。これ以上を言わんと欲する者は、カントによって限定された吾人の認識の境界線以外に出づることとなる。

[註] リッチュル派を時として自由プロテスタント派と混合することが、フランスではしばしばあるが、厳重に言えば、この二傾向間にはかなりの距離がある。例えばウィルヘルム・ヘルマン(Wilhelm Herrmann)と、トレルチュ Troeltsch を比較すれば、両者間の共通点は、従来の『形而上学的』信条に絶対の価値を認めない、ということだけになる。リッチュル主義者は、歴史上のイエズスに対する自己の信仰を事実として肯定するが、さらに一歩を進めてこれを理智的に証明しようとしない。彼らの考えは理智的思索は信仰の冒涜であり、無理解であるのである。自由主義者はまったく正反対の過程を取り、自己の信仰を一の宗教哲学の基礎に建て、歴史的キリストを他の宗教開祖と比較して、その価値を計る。前者はむしろルーテルに近似し、後者の方法はシュライエルマッヘル、あるいはヘーゲルの流れを汲む。しかしその実リッチュル派と言い、自由プロテスタント派と言い、要するに二の傾向であるから、その間の移行型は無数で、また一派から出て他派に走るものも少なくない。トレルチュはリッチュルの門下であった。以上の関係についてはウェルンレの著書 Wernle, Einfuuehrung in das theologische Studium を参照されたい。

プロテスタント的思索がこの点にまで達して、プロテスタント知識階級の一部を征服した時に、

p. 335

この思想はカトリック教会内に侵入しようとした。すなわち元来の理智的不可知論が、宗教的の実際上の要求によりやや鈍磨し、世界に内在する神秘の感情に捕らわれ、イエズス・キリストの唯一の深い宗教的経験の追憶と、今日までも人の心に働きかけるその大なる力とによって生命を得て(自由プロテスタント教の思索がここまで発展して来た時)、カトリック教会との接触が生じたのである。

しかしプロテスタント思想がカトリック教会内に入って来るに必要な前提が一つある。カトリックの『教義不変』の教義が変わらない限り、そのプロテスタント化は望めない訳である。これが用意周到のカトリック思索家をしてボヘミアの一司祭アントン・ギュンテル(Anton Guenther, 1783-1863)の所説に警戒を発させた理由であった。進歩発展の法則はすでに多くの他の事実について立証された。また歴史を調べればある意味において(そのいかなる意味においてであったかは後年の研究を必要としたのであるが)カトリックの教義にも同一原則が適用されるのが当然である。それゆえにかつてレッシング(Lessing, 1729-1781)の創見にして、カントもまたこれを踏襲した思想、すなわち啓示は神の人類に対する一の教育方法であって、他日理性が真実を発見するに至る

p. 336

までの一時的の補足である、という思想から出発して、ギュンテルは教義の価値を便宜の価値と考えた。すなわち信条とは将来の研究によって始めて闡明せらるべき真理の、最善の近似を教えるものである。そしてある一定の時期にこれを受ける信者民衆の便宜のために仮にこの形式で与えられたものである。信経の字義は教会内信仰の一致の便宜のためで、過渡的のものである。されば同一の伝統的表現の下に、浄化された、新規な、異なる意味が、最初の意味に代わって来るのが当然である。

かくのごとくにしてボヘミアにおいてギュンテルがそのまったく正統的な意志にかかわらず、不知不識の間にカトリック教の肝要の一点を破壊して、宗教的相対論(relativism)を唱えていた間に、イギリスでは一人の著明の英国教会牧師がカトリック的解答を書いた論文を携えて教会の門を潜った。この人こそニューマン(Newman, 1801-1890)である。ニューマンはこの進化論は未だ一個の仮説に過ぎず、とこの書の冒頭に断って、そしていかなる条件の下に、神の啓示の価値を傷つけることなく、この仮説を承認することができるかと研究した。彼は一般の宗教教義の進化の総則を記載し、次にキリスト教

p. 337

の進化が、他の一般の宗教教義の進化といかなる点で異なるかを研究し、キリスト教進化の性質、方向、その優越性を示すに足る種々の特徴を述べた。ニューマンの播いたこの種子が発芽するまでには長い年月を要した。その理由は一方にギュンテルの所説の反動(これは遂にヴァチカン公会議の教義規定に加えられた)でもあったが、他方には30年間、欧州大陸方面において、ニューマンが自由主義者と認められていたのが禍して、たとえ未完成品であるにしても、真に独創的、かつ天才的の彼の見解が一般に承認されなかったのである。

カルヂナル・ニューマンは自由主義者だったろうか。果たしてしかりとしてもその意味は決して彼が政治上の自由主義を奉じたということではない。彼自ら『余は頑冥なる保守党員(トリー)なり』と言明している。また彼の自由主義は定理的キリスト教に対する自由キリスト教の意味での狭義上の自由主義でもない。ニューマンはかかる自由主義に対しては畢生争闘を辞さなかった。しからば敵味方にかかわらず、人が彼を目して自由主義者としたのはいかなる理由によるのであろう。この一般の印象は誤謬にして、何物のこれに応ずるものもないのであろうか。

否、しからず、そこにある物がある。ここでわれらは本論に帰る。ニューマンおよびその一派は神学上で

p. 338

は本能的に独断説から遠ざかり、宗教問題に主理主義の侵入を極端に恐れ、また同時に普通一般の護教論および伝統的神学に対しては密かに軽蔑を混ずる敬遠的の態度を執った。この傾向がニューマンの一派とその他一般の教会神学者との間にかつて横たわり、かつ幾部分は今なお存在する長年間の誤解の原因である。もとよりニューマン個人としてはその正統的信仰に少しの疑惑がないが、彼を遠眼で観察したり、あるいは彼の所論の二三の結果から判断すれば、その巧緻な排理智的思索は彼を一種の教義上の自由主義の色彩で包むのである。

もっとも上に簡単に記載したこの傾向は、独りニューマンのみに限らない。欧州大陸においても、彼の天才に及ばずして、彼の傾向を頒ったものも少なくない。

しかるに他方面において、一部の神学者に、スコラ哲学に関する無知あるいは無理解から、少しでも自由主義的に見える異なる思索を、蛇蝎視する主理主義への第一歩と思いなしたものがある。また他の一部に、哲学的不可知論の雰囲気中に成長して、教義よりも道徳的結果を重んじ、理論よりも事実に杞憂し、一見誠意の士が教会を疎んじ離れ行くことに不安を感じた者がある。これらの原因が相錯綜して彼らはまずパスカル(Pascal)に対し、次いでニューマンを知るに及んで、

p. 339

彼に対して警戒の声を発した。しかしまた一面には、かの第17世紀の深刻なる思想家との間に存する相似点のために、(二人の間の種々の深い差違にかかわらず)彼を非常に愛した人々も多かったのである。

新思想に対する警戒はまったく無意味でもなかった。しかしオレ・ラプリュンヌ(Olle-Laprune, 1839-1898)のごとき卓越せる哲学者、ブリヌチエール(Brunetiere, 1849-1906)のごとき帰正せる一流の文芸評論家をその中に数え得るこの新思想は決して呪詛すべきではない。彼らによってカトリックの真理の幾方面は世人に明らかにされた。学者と哲学者とを含む社会の有識階級にかくのごとき人士によって始めてキリスト教的思想が尊敬をもって迎えられるようになったのである。また、教会内部においても新思想は、新疑問を生み、これが種々論議せられ、種々に解答せられ、解答のあるものは廃棄せられ、あるいは修正せられ、他はそのまま採用せられて、神学の進歩を促した。パスカルの犀利の文章もまた世にもてはやされようになって、読者を刺激し、あるいは一種の不安を与え、彼と見方を異にする人にさえ、少なくとも彼の信仰を尊敬する念を起こさせた。またニューマンの精細な心理解剖はこれまでと異なるキリ

p. 340

スト教の信ずべき理由を示して、古い真理に導く新しい道を開いた。ニューマン、その他の人々の示した新思想はここに述べたような大なる功績がある。しかしながらある意味で、自由プロテスタント思想のカトリック教会内に侵入して来る下地を作ったことも否めないのである。

当時はあたかもヘーゲル門下極端派の創めた、原始キリスト教の主理主義的批評によって人心に動揺を来した頃である。この機会に乗じて自由プロテスタント思想は社会に非常な流行を来した。フランスにおいてはストラウスの著書はリットレ(Littre, 1801-1881)によって翻訳されたが、特にエルネスト・ルナン(Ernest Renan, 1823-1892)がそれに基づいて巧みな芸術的な筆致で原始キリスト教を書き直してから、これが世界的に広く一般に行われて無数の版を重ねた。カトリック護教家は以上の原始キリスト教に関する主理主義的解釈、ならびにロイス(Reuss, 1804-1891)に始まりキューネン(Kuenen, 1828-1861)ウェルハウゼン(Wellhausen)がこれを継承した旧約聖書の主理主義的批評に対して、同じく科学的批評の立場からこれを弁駁することを得たが、残念なことにはしばしば立ち後れの気味でかつ不慣れのために充分の効果を得ることができなかった。

[註] 英国教会ではオックスフォード、ケンブリッジ両大学の究学の精神が旺んであったために、特に新約聖

p. 341

書の護教家としてライトフート(J. B. Lightfoot, 1823-1889)ホルト(Hort)ウェストコット(Westcott)などの優れた学者を有することができた。

比較宗教歴史学の方面では、幸いにド・ブロイ(abbe de Broglie, 1834-1895)の業績は、主理主義的著者の浅薄かつ独断の所説を覆すに充分であった。その他種々の方面に、カトリック学者の研究の発表があり、フランスにおいてはカトリック大学の創立があり、ドイツ、ベルギーでも知名のカトリック学者が輩出し諸国の神学校においてはスコラ哲学が盛んに研究された。またモンセニョール・ヂュルスト(Mgr d'Hulst, 1841-1896)の提唱によってカトリックの国際学術会議も開催された。かくのごとくキリスト教的文運は大いに進んだが、翻って一般社会の大勢を見れば、何と言ってもいわゆるドイツ系統の学問の流行は凄まじいもので、そして歴史家、聖書学者、哲学者、博言学者にしてこの系統に属する者の大部分は、公然あるいは暗々裡に自由プロテスタント思想を奉ずる徒であった。リッチュル、あるいは英仏においてこれに類似する学説を奉ずる者は、あらゆる新説に迎合し、主理主義的傾向と、僅微に残存するキリスト教的感情との間に試みられたすべての妥協的仮説を採用するを恐れず、かくして上記の如く自由プロテスタント主義が思想界を風靡するに至ったので

p. 342

すでに一般思想界の趨勢がかくのごとき以上、たとえヴァチカン公会議における明白なる教義規定ありといえども、カトリック教会内にいつとなくこれと同一方向の思想運動が現れたのも深く怪しむに足らぬ。すなわち一種の知的不安、ならびに一世の代表的学者や思想家が、近世哲学の主潮と、おのが宗教的情操とを融和させようとする種々の試みに対する諦視、および暗々裡の共鳴がこれである。人間の思想が科学の進歩に伴って変遷すべき性質を有すること明白なる以上、この運動の発生もまたやむを得ざるものと言わねばならぬ。

他方に前世紀の終期20年間ほどに、科学的主理主義があまりに窮屈であり、またその科学万能主義が皮相の見解に過ぎぬことなどが、哲学者にも科学者にもようようと解って来た。これはカトリックの主張の勝利を示すものであるから、カトリック学者の中にほとんど前後の分別もなくこの極端の反動の渦中に身を投じた者ができた。この新しい傾向では、あらゆる理智的態度は危険視され、あらゆる定義は事の真実性を減少するものと考えられ、あらゆる精密な議論は事実の破壊と思われるようになった。科学は不完全に相違ない。しかしたとえ科学は絶えず進歩し、その

p. 343

所説は変化することあるとも、科学の根本的原理は確実であり、かつ過去に獲得した不変的の真理も少なくない。しかるに今人々はこの科学に替うるに、哲学的進化論をもってしようとした。この新しい考えによれば、宇宙の真相は進化にあり、その本態は不可知である。人間はこれに対して仮説を発し、模索的、かつ象徴的な素描を作るに過ぎない。真とは従来のごとく、表現と実際との客観的一致でなく、ある学説が矛盾撞着なくある事柄を説明し、あるいは有益なる時、それをすなわち真と謂うのである。

かくのごとき内在論、進化論、観念論、実益論的傾向に、自由プロテスタント思想が極めて接近しているのは明らかである。すでに歴史的に見ても、宗教的情操とかかる思想傾向との融和がその派の人々によって試みられていた。それゆえ、自由プロテスタント教はまさにこの混沌たる傾向に神学を供給すべき立場に立ったのである。宗教的要求を抱く新人が覓ねる指導者は当然自由プロテスタント神学者なるを要する。オーギュスト・サバチエ(Auguste Sabatier, 1839-1901)は実にこの要求を充たす人であった。彼の『宗教哲学概要』(Esquisse d'un Philosophie de la Religion 1897)は真率にして敬虔なる感情をもって、極めて巧みに新思想派の宗教哲学の要点を伝えたもの

p. 344

である。1906年頃からカトリック教会内でモデルニスム(Modernism)と称した傾向の大小書巻の--聖書の研究にあれ、小説にあれ(フォガツァロ(Fogazzaro)の『聖者』は邦訳されている)論文にあれ--主張の精髄はみなサバチエのこの書に発見することができる。

[註] しかしモデルニストも始めからカトリック教をプロテスタント化する意志をもって出発したのではない。ロアジー(Loisy)が『福音と教会』の一篇を公にしたのも、実にハルナックの『キリスト教の本質』を反駁するためであった。チレル(Tyrrell)の書いた最後の『十字街頭のキリスト教』もやはり同じ感情に充ちている。おそらくはモデルニストの真意は、彼らが伝統的の意味における教義を支持するは不可能なりと思惟し、しかも一面、第19世紀思想界においてプロテスタントの宗教的個人主義がまったく失敗した事実に深く心をうたれ、カトリック教の形而上学(メタフィヂック)を犠牲にしても、その心理および社会的方面を支持しようと努めたのではあるまいか。--しかしモデルニストのいかなる巧妙な努力も、カトリック教においては教義的原理と社会的原理とはとうてい不可離の関係にあるを立証するに過ぎなかった。モデルニストの弁明にかかわらず、また彼らの最初の意志にかかわらず事実はいかんともしがたい。彼らの所説はサバチエの思想である。それゆえ、教会は教書 Lamentabili において『今日のカトリック教は、これを非信条主義的キリスト教、すなわち広義自由プロテスタント教に変化するにあらずば、真正の科学と一致すること能わず』との主張がモデルニスムの本態であると認定して、これを断然破門したのであった。

p. 345

かくのごときキリスト教の変化は教会がこれを認容すべき限りでない。ヴァチカン公会議の教義規定によって、教会の立場およびその理由は自ずから明白である。

聖書学上執るべき態度に関しては、すでにレオ13世は1893年に教書 Providentissimus Deus を発してカトリック学者の研究方針を明らかにし、またカルヂナル・ギボンス(Cardinal Gibbons)に宛てた教書 Testem benevolentiae において修徳に関する正しい原則を教え、カトリック信者に危険な新説について警告が与えられてあった。その後も聖座は実に手を変え品を変えてその防止に努めた甲斐もなく、新傾向はますます蔓延の兆しを示したので、教皇ピウス10世は教書 Pascendi (1907)を発して遂に最後の破門宣告を下すに至ったのである。教会のこの態度はあるいは苛酷と見られ、あるいはこれを全然意外に感じた人もあったが、これは極めて巧妙で魅力に富む、多方面のモデルニスム的傾向が(実際それはまとまった学説と言うよりも、むしろ漠然たる傾向であった)特に青年聖職者の間に密かに無信仰の種子を播いていたからである。またこの危険なる幻覚を破らねばならぬと決心した善牧者なる教皇の不安、憤怒が時として筆端に迸ったからである。

この教書について注目すべきは、その直截の文章と、教義上の安らかな肯定とである。吾人は

p. 346

神を識り奉ることができる。神は人格的、賢くして善慈である。神は智慧であり、慈悲であり、第一原因にして究極因、純粋の存在である。神はその御子イエズス・キリストを通じて人間に語り給うた。キリストの統治は永遠にして、その御言葉は移らない。人類全体としても、各個人としても、救済はキリスト以外にない。この救済の教え、聖寵の生命、不朽の希望は、ただローマ・カトリック教会によってのみ常則として頒け与えられるものである。教会は神の教えの保管者であるから委託された教えを変更することを得ぬ。キリストの配(つま)であるから最初よりキリストを了解していた。神の分配者であるから教会の裡に棲み給うキリストの霊の示し給うに随って、必要に応じてその教えを分配するのである。

以上の教書 Pascendi によってピウス10世は危険を防止し、すべての忠実なカトリック信者に進むべき路を示し、指導的地位にいた主なモデルニストはあるいは破門され、あるいは自発的に教会を去った。かくのごとくしてモデルニスムを中心とする劇しい論争の幕は閉じたが、その後といえども教会は引き続いて警戒を弛めず、カトリック思想の正しい進路を示している。

p. 347

3 カトリック的敬虔および教会の内的生命

カトリック的敬虔および教会の内的生命について述ぶべきことは、『第19世紀における神の国の思想』の条下で叙したことと密接に関連している。すなわち敬虔および内的生命についても、神の国の思想におけるがごとく、社会的傾向が著しく現れているのである。もとより極めて複雑にして多岐にわたる現象を、二三の項目に分けて記述するのは無理であるが、本篇においてはこれの大体の共通的傾向を窺うこととする。

カトリック社会事業

第一に述ぶべきは第19世紀におけるカトリック社会事業の盛観である。これは教会を愛する者も、教会を憎む者も、すべて眼ある人は必ずこれを認めざるを得ない事実である。いわゆる霊的および肉体的慈善事業のために注がれた(現在もまた注がれつつある)努力、犠牲、献身、同情、活動的博愛はそもそもどれほどであろう。例えばフランスにおいてはフランス学士院が調査の上、公衆に発表する『徳行表彰』の報告を読めばこの点は一目瞭然である。報告者のエルネスト・ルナンなると

p. 348

ピエール・ロチなるとにかかわらず、また政府が反宗教的傾向を著しく抱いているにかかわらず、カトリック慈善事業を無視することは許されないのである。否、プロテスタント慈善事業、人道的団体慈善事業、中立慈善事業は政府の奨励と、差別待遇と、巨額の資金とにかかわらず、純然たるカトリック事業中に伍して興味ある異種として人の注意を惹くに止まる状態である。

第19世紀中、新たに教会の中に建てられた諸種の修道会の多数が、社会的伝道を目的としているのも同じ傾向の表現である。創設の最初は会員の救霊ならびに個人的完徳を主としていた修道会も漸次に社会的活動を主とするようになった。また昔の信者には、この上なく大切であった『善き臨終の会』のごときは、本世紀においてはその発展極めて遅々たる有様である。

これに反して、あらゆる方面における布教伝道の事業はその成功誠に驚くべきものがある。その主要のものさえもとうてい列挙し尽くすことはできぬが、その概念を示すために、二三代表的のものを述ぶれば、知識的伝道事業として、フランスには健全なる図書の出版および普及を目的とする Bonne Presse, Societe bibilographique, Oeuvre des Bona Livrees 等があり、ドイツには Goerres Gesellschaft 、オーストリアには Leogesellschaft 、イギリス、アメリカには Catholic Truth Society

p. 349

等がある。諸聖人の通功の教義の上に立つ霊的伝道事業としては『祈祷の使徒会』その他がある。純然たる慈善的伝道事業には貧民の友たるを期するオザナム(Ozanam)の『聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会』や、キリスト教的結婚の奨励を目的とする『聖フランシスコ・レジス会』等の他に、ドイツにおいてはアドルフ・コルピング(Adolf Kolping, 1813-1865)の『カトリック徒弟組合』(Gesellenverein)があり、イタリーにはドン・ボスコ(Dom Bosco, 1815-1888)の徒弟学校があり、コトレンゴ(Cottolengo, 1786-1842)のあらゆる廃疾者を収容する慈善病院がある。一般社会の少青年の信仰保護を目的とする事業のごときは、各市に無数と言ってよい(青年会、研究会、公教要理会)。そして特に注目すべきは昔のキリスト教世紀におけるがごとく、聖職者以外のいわゆる平信者に、かかる種々の事業の主要人物を多数に発見することである。そして『カトリック事業家』なる一種の型も出来上がった。その中には超人的完徳に達した者も少なくない。既述『聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会』の創始者、パリ大学教授フレデリック・オザナム(Frederic Ozanam, 1813-1853)のごとき、『良書出版会』の創始者にして、リル市公教大学の建設者たるフィリベール・ヴロオ(Philibert Vrau, 1829-1905)のごとき、その一二例に過ぎぬ。

p. 350

カトリック修道生活

聖パウロのいわゆる『家庭の義務に心を分けられざる人々』すなわち修道生活に入る人々も夥しい。古来の修道会も再び旺盛となった。ただし肉体的救療を主要なる目的とする会はやや発展が遅かった。これは社会状態の変化と共に、慈善事業の環境、事情、形式が変化して来たからである。しかし個人主義的利己心によって、社会の悲惨はますます深刻となった今日、これを覆うための公共的救療事業は単に物質的であり、しかも非常に高価にしていたずらに社会の負担を重くするに過ぎず、またそこでは貧民の人格は忘れられ、人情は氷のごとく冷である。この時にあたってカトリック教会は、社会の悲惨に赴くこと、あたかも咲き匂う花園へ飛来する群蜂のごとき、純潔、謙遜にして、人に隠れて献身的生活を営む無数の童貞女を送ったのである。

『いと小さき者の一人になしたるところは、事ごとにすなわちわれになししなり』とのキリストの御言葉は、不幸に悩む者をキリストの像(すがた)とする。童貞女らはあらゆる社会の逆境に赴く。おのが罪悪の酬に病み、あるいは社会の不正、生活の無情に泣く寄る辺なき老人を世話するは Petites Soeurs des Pauvres (貧者の姉妹)である。不治の疾病の悪臭をも意に介せざるは Dame du Calvaire(カルヴァリオの婦人)

p. 351

である。労働者の家庭の不幸(母の不在、小児の放置、疾病、失業)を慰めるは Petites Soeurs de l'Assomption(聖母被昇天の姉妹)である。貧しき娘に真の幸福を教えるのは Societe de Marie Auxiliatrice(扶助なるマリアの会)の仕事である。貧民の奉仕によって勝ち得る功徳を幽冥界の悩める霊魂に譲るは Auxiliatrices du Purgatoire(煉獄援助の会)である。社会の最悲惨なる境遇に沈める醜業婦の霊魂と生活との救済のために働くのは Soeurs du Bon Pasteur(善牧者の姉妹会)である。以上はもとよりカトリック童貞女の活動の一部分を挙げたに過ぎない。

本書の本来の目的はかかるカトリック事業の発展進化を叙することではない。吾人は外面的活動の内部に潜むその精神を調べて見たいと思う。もっともこの場合においては、資金とか、政府の保護とか、個人的影響とかの人間的理由の比較的薄弱なるにもかかわらず、実に驚くべき好果を収めている不可思議な現象に留意すれば、どうしてもその深い原因を尋ねねばならなくなる。第19世紀および第20世紀のカトリック信者が種々の事業に従う精神は、真の社会奉仕の精神である、言い換えればキリストとその教会との愛である、さらに正確に言えば教会に内在するキリストに対する愛で

p. 352

ある。司祭あるいは男女の修道者がその召命に応ずる理由は、おおむね『教会に尽くさねばならぬ』『教会のために献身せねばならぬ』『主のために霊魂をかち得ねばならぬ』『人々を救ってイエズスにあやからねばならぬ』『世の人のために生きねばならぬ』等の類である。自己の救霊の願い、完徳に進まん願望はもとよりある。しかし多くの場合においてそれは召命を決定する動機ではない。また程度の差違こそあれ、一般の信者青年が、時間と労力との大部分を割いて、伝道を扶けるに至る動機もほぼ同一である。

教皇、巡礼、奇蹟

以上に述べた熱烈なる布教精神の糧となるものは旺なる敬虔の習慣である。神聖なるものに対する畏敬主義、前時代のジャンセニウス異端の遺せる厳格主義は、最近において多種多様の信心の裡に滅亡した。ジャンセニウス派がしばしば主の聖体に近づくを憚り恐れたのと反対に、信者の聖体拝領はますます頻繁となる風を生じ、やがて毎日の聖体拝領が奨励されるようになった。

しかし教会に対する忠誠の念に由来する第19世紀の特殊の信心は、いわゆる『教皇に対する信心』であろう。インノセントゥス11世(1676-1689)や、ベネヂクトゥス14世(1740-1758)

p. 353

時代の人々にはこの言葉は不可解であったろう。教皇に対する信心は教会の中央集権の実がようようと挙るにつれて自然に生じて来た。大革命時代に処したピウス6世(1775-1799)、ナポレオンに幽閉されたピウス7世(1800-1823)らの薄命、ガリバルヂーにローマを簒奪されたピウス9世(1846-1878)の不幸とその愛すべき人格、および教義上におけるウルトラモンタニスムの勝利も、この傾向の発生ならびに成長に与って有力である。

最近の数教皇に対する信者の感情を省れば、各教皇についてかなりの相違が見受けられる。これがまた信者の教皇に対する愛敬の念の本態を明らかにするであろう。

ピウス9世に対する愛着は、熱血の士を駆ってローマにおける教皇の兵士たらしめた。彼は純カトリック的の面影を具え、その性格には信仰と勇気とが交錯し、快い晴れやかな心情と単純素朴の敬虔とがあった。当時の第一流のフランス著述家ルイ・ヴィヨ(Louis Veuillot, 1818-1883)の不幸なる教皇に献げた崇敬の情は彼の書簡およびその他の著書に溢れている。教皇レオ13世(1878-1903)は高貴にして寛裕なる精神を宿して、古の厳格な伝統的教養と、時代の要求対する深い理解とを兼備し、当時代にカトリック知識的運動の中心であった。教皇ピウス10世(1903

p. 354

-1914)は理性の擁護者、教階制度、統一ならびに豊富なる内的生命の原理の回復者として敬愛された。思想界の混乱を恐るる思索家には、ピウス10世は真に摂理の人であり、また一般信者には彼は規律と信仰の教皇であり、またキリストの聖体を恰く信者に頒け与えた忘るべからざる慈父であった。世界大戦に処した次の教皇ベネヂクトゥス15世(1914-1921)は、精神界における彼の権威をもって世界の正義と和親とのために貢献するところ多大なるものがあった。彼の発言で捕虜、避難民、占領地住民の不幸はしばしば緩和された。交戦国民の利益関係を超越せる教皇の声は、永久の平和の原則として『正義の尊重、国民の正当なる要求の顧慮、列国勢力の均衡のための努力および法規の絶対的遵守によって(もし必要ならば多少の犠牲を払っても)世界の調和的秩序に参与せんとの念願』が必要なるを教えた。教皇の権威の価値は、交戦国の両側で彼を味方にしようと試みたことで分かるが、その信者の父としての不偏不党の公平の態度は、時折り両側の不平を買ったことでわかる。現教皇ピウス11世は1921年に即位して以来、使徒的精神に燃ゆる布教事業の教皇として、神の国の実現に努むる信者上下の愛慕の中心である。1925年の聖年にいかに全世界の彼の赤子が、彼を見んと欲してヴァチカン宮殿に集まったかは、未だ吾人の

p. 355

記憶に新しい。

かくのごとく、ローマ教皇は、カトリック信者の信心の中心となり、人々は光明と慰安と希望とを求めてローマに赴き、カトリック教会以外の人々も、その帰正の前提として、あるいはその直後に教会の心臓を尋ねるようになった。しかしもちろんこれがカトリック信心の全部ではない。キリストの生涯を追憶するための聖地巡礼は別としても、古来の聖蹟はさらに名声を失わず、加うるに第19世紀間に、新たに神の超自然の大能の顕現によって、信者の巡礼の中心となった地点も少なくない。例えばフランス国リオン市の近傍アルス(Ars)という小村には、古聖人伝が今さらの世に繰り返された。貧しい司祭ヴィアンネー(Jean-Baptiste Marie Vianney, 1786-1859)の聖徳を慕って、フランスからばかりでなく、大陸はもとより海の彼方から尋ねて来る人があった。数十万の人々が彼の声を聴き、その奇蹟を見た。

その他の巡礼地を悉く尽くすことはできなくとも、ルルド(Lourdes)のことは一言せねばならぬ。ピレネー山麓のこの一小市に、第19世紀の後半以来、集い来った人々は幾百万なるか、とうてい算数以上である。年々大群衆の生む熱烈な信心、信頼と希望との雰囲気は、多数の奇蹟的治癒に

p. 356

よって燃やし続けられる。奇蹟的治癒は極めて多数かつ多様式で、かつ夥多の医師の立証を有し、とうてい冷笑や詭弁をもって葬り去るを許されぬ。

超自然界はかくのごとくに、カトリックの日常生活と相交錯することが深い。ニューマンも言った通り、真実のキリスト教徒にとっては、天の世界は、おのが棲む地上の家およびその周囲と敢えて異なるところがない。カトリック信者は超自然の事件に慣れているから、プロテスタント神秘家に時として見るがごとき『不思議』に対する驚愕や、恐怖がない。ゆえにカトリック信者は安んじて教会の習慣を守り、単純に心易く神と語るのである。

宗教美術および文学

上述したような近代の民衆的信心が陥り易いある種の弊害に対しては、古の厳粛なる伝統的信心に復帰せよとの警告が時々発せられる。衒学的尚古主義は醜いものであるが、ある場合においては、確かにこの主張は正当と言わねばならぬ。ピウス10世は教会音楽に関する書を発して、この意味での警告を与えられた。スコラ哲学再興の機運にやや遅れて生じた、グレゴリアン音楽ないしパレストリナ(Palestrina +1594)の音楽への復帰運動は、実にこの精神に基づくものである。ドン・

p. 357

ゲランジュー(Dom Gueranger, 1805-1875)が主唱した祭典学復古の叫びの継承者なるフランスにおけるベネヂクト会修道士はこの方面での功労者である。

荘厳優美なる教会の祭式を真に理解することは信者にとって純潔敬虔なる法悦である。もよりこの理解を民衆的に拡めるためには、未だなすべきことが多い。しかし過去の業績、および殊にその機運がますます盛んになる現状を顧みれば、将来に大なる期待を抱くのも無理ではなかろう。教会音楽に関しては『聖歌学校』(Schola catorum)の他に Societe des amis de l'art liturgique, Societe des amis des cathedralae 等各地に散在して、その振興を目的とする会も少なくない。

建築、絵画、彫刻については、今日残念ながら教会音楽に比すべき盛況を認めることが不可能である。除外例的に多少の見るべきものがあるが、(例えばフランスにおいてはボッサン(Baussan)ヴォードルメール(Vaudremer)の設計になる諸教会堂、ドイツにおいてはミュンヘン、ヂュッセルドルフ、ベーロンにおける聖美術学校、イギリスにおいては新築されたウェストミンスター大聖堂、ベルギーにおいてはベチュン(Bethune)学園等)、一般的には現代の新建築、装飾、聖器等は非芸術的かつ実用的である。優秀な司祭が、実に、無趣味な立像や絵画や、彩色窓ガラスで、教会堂を

p. 358

飾り立てている状態で、芸術的教養の欠陥は今日その結果を暴露したのである。

宗教文学は伝記文駁ならびに修徳文学の両方面ともに、教会美術に比すれば、遙かに進歩した作品を産んでいる。現代的修徳文学の特徴ならびに欠陥を表わす点において代表的なのはニューマンとほぼ同時にカトリック教に帰正したフェーバー(Faber, 1814-1863)であろう。彼の敬虔は甚だ真率であるが、彼の心理解剖は精緻詳細を究めてやや煩雑に近い。モンセーニョール・ゲー(Mgr Charles Gay)の著書も有名であった。しかし彼においても内容の質実豊富なるに比して、文体が華麗誇張にすぎる憾みがある。

近世カトリックの心霊生活に、古来の修徳文学の影響が廃れたと信じたならば、大変な誤謬である。おそらくはその実、伝統的精神の貴ばれることこの右に出る部門はないであろう。いわゆる古典的修徳書、『イエズス・キリストの模倣』、聖女テレザ、ロードリゲーズ(Rodriguez, 1526-1616)、聖フランソア・ド・サルの『信心生活の入門』および書簡、ボスュエ、フェヌロン、聖アルフォンスス・デ・リゴリオは、いずれも熱心な信者の心の糧で、絶えず復刻されて愛読されている。古典的修徳書のこの非常な普及が、ことによるとこの種の優れた現代的著者の出現せぬ理由かも知れぬ。

p. 359

伝記文学は修徳文学に反して、今日昔に比べて面目を一新したかの観がある。ボランヂスト一派の厳格な批評的態度に刺激されて、歴史的研究は科学的となり、伝記著者は事実の正確を期すると共に、過去の世界の再現にいっそう意を用いるように、そのために吾人は聖人の霊魂とその生活とをなお深く理解するようになった。その中でも聖アウグスチヌス、アシジの聖フランシスクス、パドゥアの聖アントニウス、聖女テレザ、聖アロイジウス、聖ヴァンサン・ド・ポール、新しく聖位に挙げられた人では、聖女ジャンヌ・ダルク、聖ヴィアンネー、最近の人では『小さき花の聖テレジア』(1873-1897)の伝記が特に全世界のカトリックに愛好されている。聖トマス・アキナスや聖イニゴ・デ・ロヨラの伝記は比較的閑却されているが、その著書は広く読まれている。特に聖イニゴの『心霊修業』はいやしくも真面目な心霊生活を営もうとするほどの人はいずれかの形式で必ずこれを実行している有様である。

小冊子(パンフレット)運動、いわゆる文書宣伝についてもここに一言する必要がある。小冊子や、通俗雑誌、週間新聞のごとき形式の下に、聖人伝記、護教論、教理解説のごときが頒布されている数は驚くべきほどである。古昔は教会建築の装飾的彫刻や、彩色窓ガラスが民衆の宗教読本であったのが、今日で

p. 360

は粗末な紙に印刷された文章や聖絵がこれに代わって、教会を遠く離れた汽車の中、工場の門、町の隅々、田舎にまでも送り出される。カトリック教会が聖書の普及を妨げるという俗説も事実の正反対である。聖書の各国語訳、優れたイエズス伝の出版はその反証で、フランス語やイタリー語の四福音書の廉価版は数年にして数十万部を売り尽くす勢いである。

カトリックの信心

さてカトリック信者にいかなる『信心』が喜ばれているかと調べてみれば、既述したローマ教皇に対する『信心』の他に、第19世紀に入って新たに流行したのは、パドゥアの聖アントニウスに対する信心の復活(これはそれ自身に非難の余地はないが、ある場合には利己的の信心となり識者の眉をひそませることもある)の他にはあまり重要なものはない。今日も信者の心を惹くのは従来のイエズス・キリスト、聖母、聖ヨゼフに対する古い真面目の信心である。また従来信者の個人的尊敬の対象であった玄義の二三は、教会から公然と認められて、全世界が挙げてこれを祝するようになった。その最も著名なるは聖母の無原罪懐胎の玄義である(1854年)。聖心の信心は前世紀の信心の当然の発展として成長を続け、あらゆるカトリック教徒の最愛の信心となった。

p. 361

しかし最も重要にして、最も好果に富み、かつ最も正当なる信心として、現在世界的運動の中心たるは、言うまでもなくイエズスの聖体に対する信心である。パンの形色の中に隠れたるイエズスの御肉体を敬わんがために『聖体大会』(Eucharistic Congress)は世界各地で開かれ、種々の名称の下に信者の団体が組織された。世人の冷ややかなる愛を償うための『償いの聖体礼拝』、ゲセマニの園におけるイエズスを想い、かつ世の罪に対する神の正義の憤怒を和らげるための『夜間聖体礼拝』が新しい機運の準備であった。やがて1906年教皇ピウス10世はこの傾向を嘉納し奨励しかつ完成するために『頻繁あるいは毎日の聖体拝領に関する勅令』を発布して、従来の慣習を変じて(従来の慣習の不可なるに注目したのは、当時むしろ少数の霊的指導者に過ぎなかったにかかわらず)、信者が聖餐に近づくを容易にした。次いで現れたのは七歳の幼児に聖体を拝領せしむべし、との命令で、最初多少の反対意見もあったが、間もなく全世界がこれに服従した。かくのごとき聖体の信心の大勢が将来いかなる形式でいかなるところまで進んでゆくか、現在において予測することはできぬが、教会に内在し給う神の霊の導き給うところは第19世紀初頭の厳格主義の要求と正反対の方角

p. 362

である。

4 現 代(決論)

すでに1914年の世界大戦の数年以前から知識階級の中に、真率なる考察、秩序、規律、伝統の精神が動いて来て、カトリック教に対する理解、やがては改宗帰正の気運が醸されるに到った。戦争はなおこの傾向を増して、戦後の今日においては、世界の真の平和改造はキリスト教を除外してはこれを求められず、また社会の保障もカトリック教以外にないと考える人が多くなかった。

カトリック教およびその他の種々な形式のキリスト教を打って一団とした、最も広い意味でのキリスト教世界の中で、カトリック教会と自由プロテスタント主義とが相対峙する二大勢力となってゆく。現在の信者の数にかかわらずギリシャ教会、ロシア教会(正教会)、英国教会(聖公会)およびその他のあらゆる中間的形式は無限の発展の将来を期待するためには、あまりに独創力と生命とが乏しい。またカトリック教会と没教義の自由プロテスタント主義との間には妥協の余地は少しもない。宗教的要求を有する真率な人は、たとえ現在は躊躇するとも、魂の宗教的要求を棄てぬ限り、いつかはこの

p. 363

二者の間の選択をせねばならなくなる。

カトリック教会は、古今東西の人類が痛感する無限に対する憧憬、確実なる知識および献身的奉仕に対する要求を前にして、果たして何物を与えることができるか。個人および社会人としての人間の霊魂の直面する人生の大問題に、カトリック教会はいかなる解答を与え得るか。

ヴァチカン公会議が壮重雄大の辞をもってこれに答えたところはすでに記した。カトリックの解答は高貴、豊富にして脈絡相通じてその間に矛盾撞着なく、超自然は自然に交わるもその品位を失わず、信仰は確実にしてしかもその功徳を存し、人間の活動は一定の規範を賦せられてしかも独創力を奪わるるところがない。しかして公会議の教うるがごとく実に教会そのものがその説くところを真なりとしてこれを信ぜしむる理由となる。

自由プロテスタント主義は言うまでもなく、その他のプロテスタント教会といえども、あるいは古代および中世キリスト教が信じていた教義の一部分を、陳腐にして新時代に適せずとしてこれを廃棄し、あるいはその信仰を古代キリスト教の信条に限定してその後の有機的発展を無視し、両者共におのれの信仰内容を減少せしめんと努力する間に、カトリック教会は独り卑怯な態度をとらず、妥協を欲せず、信仰

p. 364

の軽減を望まない。カトリック教会は新奇を厭うが、しかし時世に応じて不変の信条に新たなる精密の規定を加うることを辞せぬ。教義が全体として増加するのではない。ただ新しい説明が付くばかりである。しかしこの驚くべき自信もカトリック教会の唯一の特徴ではないのである。

プロテスタント宗教改革運動に際して、カトリック教会の特徴の表現として掲げられた『一、聖、公、使徒伝来』の四の徴は今日においてもローマ教会の独特の所有である。この四の徴を他の現代的の言辞に言い直せば、ローマ教会は妥協を嫌悪し、英雄的で、偉大なる抱容性を有し、教階制度的であると言うに帰着する。

ローマ教会はカトリック(公)であるから抱容性に富む。マッシュー・アーノルド(Matthew Arnold)はこの事実を巧みに指示した。彼は大英博物館図書館において膨大なる『教父集』(Patrologies)に比べると英国教会、およびそれから分離した諸派の宗教文庫がいかに貧弱なるかを記している。教父集の中には、人間の仕事の全部、思索、倫理、神秘、政治、散文、韻文、歴史、小説のすべてがある。(M. Arnold, Essays in Criticism)。カトリック教会は人類と等しく大きい。カトリック教会は一時代のものでなく、一地方の宗教でない。他の教会が自己を限局して、そのために所

p. 365

属信者の愛着心を増すのとは異なる。他の教会はあるいは地理的に限局することイングランドにおける英国教会(わが国において聖公会と称す)、スコットランドにおけるプレスビテリアン教会(長老教会)、スイス国における改革教会のごとく、あるいは時間的、歴史的に限局すること敬虔派、ジャンセニウス派、リッチュル派のごとく、いずれも人類の一部分のみを目的となし、あるいはその要求する品の性質上、人類の一部分のみにしか及ぶことができないのである。

カトリック教会は極めて独特なる宗教団体で他のものと混同されることは不可能であり、かつ世に対して『躓きの印』であって、人はこれに対して中立的態度をとることはほとんどなく、愛か憎かの一方に偏せねばならなくなる。かくのごとく、独自唯一の教会であるが、不思議なことには外部よりその本態を捕捉して、これを定義するは極めて困難らしい。カトリック教会に対する非難の辞は互いに相矛盾するとは、すでに言い古されている真理である。一方でカトリック教会は人性を無視して、人間が単に霊魂のみであるかのごとく取り扱うと攻撃すれば、他方では教会はキリスト教を腐敗せしめ、霊の宗教を無視し、肉的、世俗的であると非難する。カトリック教会は現世を無視すると言う人と、教会は現世的主君たろうと努めると解する人とある。一方から教会は無知と愚昧との代表者で

p. 366

あると評されれば、また他方からは教会は信仰を理屈にし、宗教を哲学にすると罵られる。左からカルメル会やシャルトルウ会等の静観的修道会が嫌われれば、右からは教皇使節やローマ聖省が悪まれる。行き倒れて死んだ乞食巡礼の聖ブノア・ラーブル(S. Benoit Labre, 1748-1783)がある人々の躓きになれば、学校の天使聖トマス・アキナスが他の躓きとなる。実証論者の讃める点は、異端者の嫌うところで、離教者が教会の進歩を悪しざまに言えば、哲学者はカトリックに進歩がないと言う。以上は皆事実についての攻撃で、カトリック教会の特徴を非難しているのであるが、しかも互いに矛盾し、相反対して、それでカトリック教会が唯一的の独特の存在を有しているのは不思議と言わねばならぬ。カトリック教会は統一のある有機体で、決して異分子の雑居ではない。カトリック教徒はその性格がいかほど異なっていても、家族的の共通な点がある。ヴィヨ(Veuillot)の書いたものは、ニューマンの『ジェロンチウスの夢』の注釈になる。カトリック教会から出るものには共通の匂いがある。これはキリスト教の匂いである。使徒聖パウロも言えるがごとく『ある人には死の香りにして死に至らしむれども、ある人には生の香りにして生に至らしむ』(コリント後書 2:16)とあるそれである。カトリック教は複雑にして変化に富み、同時にかつ統一的で独特である。

p. 367

この驚くべき抱容性の理由を尋ねる人があれば教会は直ちに答えるであろう。メーレル(Moehler)がカトリック教とプロテスタント教との最も主要な差異と考えた一の教義上の差が抱容性の差を説明する。プロテスタントの根底が人性の悲観なるに対して(神の慈悲の信頼でも、不可知論でも救うことのできない人性の堕落)、カトリックは人性は決して罪悪のために全然悪くなり切っていないと教える。それゆえ、一度神の聖寵によりそれが癒され、高められた暁には人性はその全活動力を回復し、有効に仕事をすることができる。『聖寵は人性を奪わず、かえってこれを完成す』(Gratia non tollit naturam, sed perficit)。これがカトリックの基本的金言である。それゆえカトリックの祭式には人間に肉体があることを前提とし種々の儀式や、聖歌や、祭服や、聖像や、聖遺物や、祈祷および態度の一定形式がある。聖イレネウスはすでに『物質もまた救済にあづかる』と言った。それゆえカトリック教は社会的、階級的となる。宗教は単に霊魂だけのものでない。また一個人に止まらずして、人類全般に及ぶべきものである。人間を一個人と見れば、他人との交渉はなく、神とわれとの関係が存するのみであるが、眼を放って人類全般を見れば、人間は元来他人と没交渉であることのできぬ社会的存在である。この意味において、単独の『個人』は実在し能わざる抽象

p. 368

的存在である。

上述の金言より、さらにカトリック教の『理智主義』が生まれる。カトリック教は、人間の理智を満足せしむべき義務を有し、かつあらゆる理性的人間の同意を要求する権利を持てりと主張する。『真理』にあらずんば『救済』であり得ないと主張する。カトリック教の三大特徴なる秘蹟と社会性と教義との原則は、かくのごとくにして同一の基本概念より生まれるのである。プロテスタント教はこれに反して、人間の本性は堕落して救う由緒がないという基本概念より出発するから、全然内面的であり、個人的であり、排信条的すなわち非理智的である。

このカトリックに特殊の『聖寵と人性との関係』の教義は、その実さらに深いところから由来する。徹底したプロテスタント教が、キリスト神人両性の伝統的教義を抛棄するに至ったのもけだし偶然でない。ルーテルは『御言葉は肉となり給えり』との聖書の言葉の深い意義を解していなかった(とメーレルは評して言う)。キリストが本来何であるか、私の知ったことではない、とはルーテルの告白である。しかしカトリックにとってはこの点は非常に重大である。なぜならばキリストは真の意味で人間的のもの、『光輝ある人性』を具えておられたからである。われらの裡なる人性と同じ人性が

p. 369

神なるキリストによって最高の光栄の域に達した。教会はキリストの配(つま)である。さればキリストのごとく『すべての人を知り、また人の心にあることを知る』(ヨハネ 2:24)がゆえに人間のあらゆる要求を充たすことができる。この人性の要求を充たす教会の抱容性は、近世カトリック護教家が好んで筆にする点である。例えばシェルいわく『カトリック教は自然人のあらゆる方面を超自然的に照明する宗教である。カトリック教は根本的に権威と自由、自然と聖寵、信仰と理性、内面的信仰と外面的の救済の手段、不変と進歩等の関係を調和する唯一の宗教である』と(H. Schell, Die neue Zeit und der alte Glaube)。

教会の人性に対する深い理解は、カトリックの道徳をしてあくまでも現実に立脚させる。モデルニスムに関する議論が喧しかった直前に教会の中に修徳神学に関する論争があった。ある一部の人々は、人間の中に動物がいるということを忘れて、(この動物はたとえ霊魂が善に対する熱情の火に燃ゆる時、魅了され、完全に征服されていても、いつ反抗し出すか解らぬものである)あまり人性を楽観し過ぎて、苦業とか、誓願の絆とか、克己制慾のごとき消極的な徳行は過去の遺物で人間の桎梏であり、少なくとも来るべき霊の世界の準備作業に過ぎぬと思った。しかし教皇レ

p. 370

オ13世はこの時、過去の教会の歴史は単に霊の世界の準備でない、『消極的』の徳行を軽んじ『活動的』の徳行のみに力を注ぐことは、教会の愛し奉るキリスト、すなわち柔和にして謙遜なるキリスト、悩み蔑められしキリスト、十字架に至るまで従順の道を歩み給いしキリストを知らざるの致すところなりと教えた。

以上のキリスト教的修徳に関するレオ13世の教訓は、カトリック教会とその他のキリスト教諸派とを一見最も明らかに区別する『非妥協性』と『教階制度』との二点を論ずる機会となる。

カトリック教会のすべての特徴中、教義に関する非妥協性は、偏見の徒にあらざる限り、最も尊い性質として、観察者の眼に映ずるのである。例えばモデルニスムに関する論争の歴史を単に哲学的に観察しても、ローマ教会の智慧と、人性に関する深い理解とは、一目瞭然たるものがある。当時滔々として思想界に漲った主情主義および主意主義を目前にして、短見の便宜主義者ならば必ずこの風潮に従って、すこしく舟の舵を曲げたであろう。しかし教会は長い年月暴風雨の中で人を漁って来た。教会は老漁夫が自分の海を熟知しているようにこの世界を知っていた。一時風の吹く方向に舟を廻せば、当座多少の利益はあっても、その日の漁が空になってしまうことを知っ

p. 371

ていたのである。比喩を廃して直言すれば、モデルニスムの基礎たる不可知論的主情主義は畢竟一時の逃げ道に過ぎない。人間が道理をもって行動することは確実な真理に基づいて行動するということである。真と善とを切り離して、その一致を無限に遠い将来に期待するのは、人類に対する反逆である。科学を恐れるような宗教ならば、かかる宗教は顧慮するに足らぬ。また、宗教が自ら理性を棄て、理性以外に立脚地を求めるならば、これは宗教の自殺である。信者はこれをよく了解する。吾人は科学を信頼し、不審があれば専門の学者に質疑する。この常識は健全な常識である。宗教が吾人と吾人以上の者(神)との確実なる知識にあらざる限りその価値はゼロである。かつてアタナジウスの時代におけるがごとく、教皇ピウス10世の時代に、教会がその教義を保持して妥協することをしなかったのは、神とキリストとに忠実なるゆえんであって、それ以外に教会の存在理由はないのである。さるにしても教会がこの不撓の態度を持して、人類社会に貢献したところは多大であった、と言わねばならぬ。宗教的感情に関するあらゆる省察よりも、内面的生活に関するあらゆる議論よりも、吾人にとって最も重大なるは、果たしてイエズス・キリストが神なりや否やの一点ではないか。

p. 372

ある近代の批評家はローマ教皇について『現代において少なくとも真率の点においてこれと比ぶべきものはない』と言った。統治者かつ教師として教会はこの賞讃に値するが、カトリック教会は統治者かつ教師なるがゆえにその宗教は権威の宗教である。サバチエのごとくこれを攻撃非難する者もあり、メーレルのごとくこれを礼賛する者もあり、『教会の権威』について可否の論は絶えないが、カトリック教が権威の宗教なる事実は世人が等しく認めるところである。ただサバチエのように教会の内部に存する霊的発展の事実を無視したり、あるいは教会は権威のための権威として、すなわちそれ自身を目的として存在するというように考えるのは正しくない。権威は人間の障害でもなく、偶像でもない。権威は目的にあらずして手段である。権威はキリスト教英雄(聖者)の道を遮るものではない。神前に燃ゆる聖き灯明の器が心に吸われてゆく油を湛えているように、教会は聖者の熱情を湛ゆる器である。教会の権威は高峰の隘路を標し、絶壁を指示し、険岨を披く。人々を引き留めるがごとく見えてその実は独創を扶助する。霊のはしためなる教会は、一人の狭い眼界、偏狭な党派心、狂信(ファナチスム)の死毒を制するのである。

第一、事実は最高の証明である。聖者の自由かつ従順の霊魂は、人間の徳行の全部、その高さ、

p. 373

広さ、深さを究める。かつてアシジの聖フランシスクスの謙遜、ジャンヌ・ダルクの単純素朴を有した教会は、今日も聖徳を保有し、これをおのれの特徴に数え、安んじて聖者の人名簿に新しい名を書き加える。彼らは各その個性を有して、しかもいずれも讃美すべく、大なる精神と謙虚なる心情とを有し、厳格にしてしかも柔和に世に交わって生きてゆく。彼らは世人に迫害され、少なくもほとんど常に世人に軽蔑されるが、しかも彼らの偉大さは眼ある者これを知る。あるいは殉教者、あるいは神秘家、いずれも地上における神の証人、キリストの事業を継続する者、霊の英雄である。しかしもとより教会の子が皆聖者ではない。善良なる信者は幸いにして少なくないがその他に、教会の畑には毒麦が麦に混じって生えている。冷淡なもの、微温のもの、および多数の無知の信者がいる。その行為をもって信仰を裏切る悪信者がいる。残念なことには時々悪い司祭もいる。稀に悪司教を指摘することも不可能ではない。(この点についてはトリエント公会議以来面目を一新したといは言え。)

カトリックの信仰も人間の性質を変え、あるいは誘惑や堕落を無とするものでない。ただ信仰はこれを欲する人に誘惑に抵抗する力と、堕落を償う勇気とを与える。また微温の者にとって善徳を行う最大の動機となり、義務を遂行する最後の命令となるのが、カトリックの生活である。パスカ

p. 374

ルの言葉『真のキリスト教徒のごとく、楽しく、道理あり、徳を行い、愛すべき人はこの世になし』(Pascal, Pensees)が真実ならば教会が人類に貢献するところはすでに多大なりと言わねばならぬ。

これが現代のカトリック教会の面影である。教会はその管理する真理の不朽の(すなわち非妥協的の)保護者であり、また英雄的かつ抱容的にして、信者の利益のために堅く教階制度を守る。『わが父の家に住所多し』とのたまいしその主なるキリストのごとく(ヨハネ書 14:2)教会もまた自ら敢えて光明に眼を鎖さざる者に対しては多くの『部屋』を具えている。人種であるとか、社会上の一定の境遇であるとか、あるいは一時の仮の意見の合致とかに基づいて出来た種々の宗教団体の間に、カトリック教会はあらゆる人種、あらゆる環境の数億人の人間を共同の信仰と祭式とを通じて一団の兄弟とする。およそ人間の宗教的欲求は悉くこれを充たすのがカトリック教である。その神は人々におのれをわたし給いてもそのために減少することなく、人々におのれを頒ち与え給えども、盲目ではない。おのれを啓示し給うも神秘の高貴を失わず、罪人の祈りを聴き入れ給えどもこれを偽り欺くことはできぬ。真理、愛、父なる神。『愛と慰藉との神、その子らの霊魂と心情とを充たし給う神、彼らに内心的にその悲惨を感ぜしめ同時におのが慈悲の無限を知らしめ給う神、彼らの霊魂の最奥所に一致して彼

p. 375

らを謙遜、法悦、信頼、愛着に溢れしめ給う神、他の一切をして彼らの目的たること能わざらしめ給う神』(パスカル)。この崇高なる神の智識およびその他のキリスト教教理においてこれに随伴するすべての玄義は、悉く神の対人愛(Philanthropy)(チト書 3:4)に基づくものである。『神は昔預言者等をもって、幾度にも幾様にも先祖らに語り給いしに、この末の日に至りて御子をもってわれらに語り給えり』(ヘブレオ書 1:1 以下)。イエズスは時の満ちたる日に生まれ出で『人々にかつて見たることなき権威と柔和とを顕わし、大なる玄義を告ぐると共に、大なる模範、大なる聖寵を与え給いき』(ボスュエ Discours sur l'Histoire universelle)。また聖霊は超人的英雄的徳行を示唆し、不変の教義を人間の智識の絶えざる進歩と調和し、厳格なる道徳を人間自然の要求と和解し、各個人の無限に異なる遺伝、環境、教育、利益、独創を信仰と愛徳とにおける一致に統べ、内的の霊の礼拝を豊富なる祭式と典文との外形に調和し、かくて御父と御子との宗教を証印し給う。

これがカトリック教会の子らの受け嗣いで、所有する宏大なる遺産である。他の所にもその一部分、一小片はあるであろう。しかし全体の財宝を有するのはカトリック教会ばかりである。こ

p. 376

の財産は教会の中のただ一部の選良のみの有でない。教会は子らの中に区別の存するを容認しない。聖職にあるものはその実、信者のための教役者である。その最上のものは自ら称して『神の下僕の下僕』と書くを常とするがまさにその通りである。

冷静に世界における人類の宗教生活を観察すれば、宗教なるものが人間にとって欠くべからざる本質的要求であり、霊魂の高貴なる憧憬の対象なるを否むことを得ない。この要求あるいは憧憬は全然無意味な愚かなことであろうか、あるいはそこに一定の意義があり、対象が実在するであろうか。解答は否定かしからずば肯定である。これ以外には道がない。否定するものは宗教生活を一の不可解の謎となし、人類の全体を目的のない旅にさすらう盲目者の群となすのである。かかる結論を好まずして、人間の精神生活あるいは倫理生活を有意義にして、矛盾のないものと観ずる者は、どうしても神の存在を信ぜざるを得なくなる。

一度思索により、あるいは思索に先立つ心情の直観によって、神の存在を肯定するならば、ここに事実としてのキリスト教の存在が問題となる。少なくとも他のあらゆる宗教に比べて、キリスト教が優秀の宗教たるは煩雑なる研究を要せずして明らかである。キリスト教は実に他のすべての宗教を比較する標準

p. 377

である。もしも真なる宗教が存在するとすれば、それは霊と真理とにおいて礼拝せらるべき天父の宗教でなければならぬ。宇宙と人生とに直面する時、人間には不可解の疑問が湧く。もとより玄義と神秘とは残る。しかしこれらの疑問に対して、われらに躓きを感ぜしめざる解答を与えるものはキリスト教の他にない。また宗教に基礎を有する徳行が、洋の東西と、時の古今とを問わず、あらゆる言語、あらゆる風俗の諸民族において、献身、謙遜、友愛の英雄的(超人的)聖徳の果を最も夥しく結んだのはキリスト教である。罪悪に汚れた霊魂は潔められ、青春の若さを回復した。矛盾を悩み、分裂に苦しむ人は平和を享けた。義務の重荷を負い切れぬ疲れた意志も、ここに甘美なる律と有力なる扶助とを得た。

しかし真正のキリスト教はわれらのキリスト教である。キリストの奇蹟より、聖霊が不断に起こし給う超人的聖徳の不思議に至るまで、神の業績たる徴を有するキリスト教は、カトリック教会が敬虔をもって管理するキリスト教以外にはない。一般の通則として、御子イエズス・キリストによらずして御父に到る者はない、また事実として全的のキリストを発見するは教会以外にどこにもない。すでに第3世紀において、聖シプリアヌスは、キリスト来臨以来『教会を母とせざる者に神を父とすること

p. 378

能わず』(Habeo jam non potest Deum Patrem, qui Ecclesiam non habet Matrem)と言った。それからおよそ一千年を経て、極めて単純にして生粋のキリスト教徒、人類の最も高貴なる魂を抱いた一人(ジャンヌ・ダルク)は悪意の狡詐の係蹄の裡に陥った時に『私の考えでは救主と教会とは同一であります。むつかしいことを言うものではありません』と答えたのである。

カトリック思想史 終わり

附録 年表と人名索引 以下につづく

作成日:2004年06月24日

最終更新日:2004年06月24日

トップページへ

カトリック教会の教え・信心へ

カトリック思想史 第 I 篇へ

カトリック思想史 第 II 篇へ

カトリック思想史 第 III 篇へ

カトリック思想史 第 IV 篇へ

カトリック思想史 附録 人名索引へ

inserted by FC2 system