アレクサンドレイアのクレメンスにおける「教育」について

—『教育者』第一巻を中心にして—

三上 茂


はじめに

 アレクサンドレイア(Alexandreia)のクレメンス(Clemens 215年頃没)はアテナイ生まれのギリシャ人で、生年は150年頃ではないかと言われている(注1)。アレクサンドレイアは彼の活躍の地で、ロ—マのクレメンス(30年頃-101年頃)と区別してその名を冠せられている。パンタイノス(Pantainos 200年以前没)の弟子として彼が創設したと言われる問答学校(didaskaleion tes catecheseos=catechetical school)に関係し、オリゲネス(Origenes 185 年頃−253/54年)の師となった。アレクサンドロス大王によって創設されてその名を得たアレクサンドレイアはヘレニズム世界の中心地であり、産業・貿易だけではなく、学術・文化の中心地であった。代々のプトレマイオス家の学術の保護・育成は知的な中心である二つの大図書館—Museion 図書館とSarapeion 図書館—の数十万巻の書物の収蔵をもたらした。フィロン(Philon 前30年頃−後45年頃)はこのアレクサンドレイアでクレメンスより一世紀以上も前に、ギリシャ的教養をユダヤ的信仰のうちへ統合しようと試みた。同じこの地で、Titus Flavius Clemens はキリスト教信仰とギリシャの哲学的伝統という二つの普遍的世界を統一しようと努力したのである(注2)。

 以下に取上げる『教育者』Paidagogos(注3)は『プロトレプティコス』Protreptikos(ギリシャ人に対する勧告の書)および『ストロ—マテイス』 Stromateis(絨緞の意。『雑録』とも訳される)とともに彼の三部作trilogiaを構成するものであり、その第二番目の作品に当る。『教育者』は全三巻の著作であるが、今回は第一巻のみを主たる考察の対象とした。「教育者」の概念とそれに対応する「子供」の概念がいかなる内実を持っているかを検討し、クレメンスにおける「教育」の目的と方法について考察したい。

I:「教育者」の概念

 クレメンスは「教育者」paidagoogos (注4)の概念と「教師」didaskalos(注5)の概念を区別している。もちろん、その両者は一人の人間において両立し得るものである。しかし、この教育者の働きpaidagoogeinと教師の働きdidaskeinとはかなり明確に区別されているのである。『教育者』第一巻の冒頭に近いところで、クレメンスは次のように言っている。「教育者は促進的proaktikos(注6)であって、方法的methodikosではない」(I,i,1,4)。このことは、「教育者」である限りの者は、彼が関わる相手に対して、理論的、体系的に事柄を教示する者なのではなくて、相手を実践、行動へと促す者だということである。彼は更に続ける。「教育者の目的は魂をよりよくすることbeltioosai teen psycheenであって、教えることdidaxai ではない。そして、教育者は有徳的な生活soophronos bios に導くのであって、認識の生活pisteemonikos bios へ導くのではない」(I,i,1,4)。彼は「性格形成」 eethopoia という概念を提出している(I,i,2,1)。「教育者」の仕事は性格形成であるというのがクレメンスのの主張である。

 彼は第一巻の冒頭で、アリストテレスに倣って、人間のうちにeethos、praxis、pathos(注7)を区別する。一応は習慣、行為、情念と訳されようが、eethosは習慣であるとともに性向、性状disposition 、性格character 、特に道徳的性格を意味する(注8)。これらはいずれも、人間の基本的な在り方に関わる概念である。「教育者」はこのような人間の状況、状態に関わる限りでの指導者だと考えてよいだろう。よい習慣づけをしながら立派な性格を作り上げ、正しい行為へと促し、情念を正すこと、とでも言えるのであろうが、結局のところ、その善さとか正しさが何であるかが問題として残るであろう。われわれはそのことを余り深く考えないが、クレメンスはこの教育の善さ、正しさはその根拠をどこに据えているのかを究明しているのである。方法の問題については後に取上げたいと思うが、クレメンスは勧告protreptikos logos、説得hypothetikos logos、奨励paramuthetikos logosによって「教育者」の仕事が遂行されると考えている。これらはいずれもlogos を介するものである。つまり、「教育者」が道徳的形成、「子供」の実践的生活に関わるといっても、結局のところ、logos を介して関わる以外のありようはないのである。クレメンスにおいては、このロゴスに深い意味が篭められている。ロゴスそのものが教育するのだと言ってもよかろう。

 クレメンスはこの「教育者」を神的ロゴスに帰しているのである。教育者たる神、教育したもう神あるいは「神の教育」paideia theou 、これが彼の主題である。これは今日のわれわれにとって奇妙に響くかも知れないが、西欧の思想においてはひとつの大きな伝統である(注9)。

 さて、神的ロゴス自身は、同時に勧告のロゴスであってわれわれのeethosを形成し、説得のロゴスであってわれわれの行為を指導し、奨励のロゴスであってわれわれの情念を癒す。唯一の神的ロゴスは様々の働きをするのである(I,i,1,2)。この神的ロゴスは同時に教授するロゴスdidaskalikos logosでもある(I,i,2,1)が、クレメンスはここではその点には深く立入らない。神は「教育者」であり、「教師」didaskalosなのである(注10)。「実践的なことに関わる教育者はまず、性格形成を推進するようにとeis diathesin eethopoias勧告し、今度はまた、諸々の義務の活動へeis teen toon deontoon energeianへと招く」(I,i,2,1)。性格の形成、義務の実践そして情念の治癒iasis toon pathoonは「教育者」の仕事として、知識gnoosis を獲得する学習matheesis に関わる「教師」の仕事よりも先行しなければならない、とクレメンスは考えるのである。従って、彼にとって、「教育者」は情念の混乱や性格の歪みから生ずる魂の病気nosos を治療する医師iatrosとして活動するのである。そしてその後にeita初めて、魂を真理の知識へと導く「教師」がその仕事を開始するのである。クレメンスは同じ考えを次の第二章でも述べている。「それゆえに、われわれの教育者は、忠告によって自然に反する魂の情念を癒すロゴスlogos dia paraineseoon therapeutikos toon para physin tees psychees pathoon である」(I,ii,6,1)。要するに、「人間を愛するロゴスphilanthroopos logosはまず、説得しprotrepoon、次に「教育者」として訓育しpaidagoogoon、最後に教授するekdidaskoon」(I,i,3,1-3)のである(注11)。

 「教育者」がこのように人間に対して特別の配慮をするのはなぜなのか。換言すれば、神に似せて造られた人間はなぜ教育を必要とするのか。クレメンスは、それは「われわれの罪のゆえに」dia tas hamartias heemoon (注12)と言う。彼にとっては、人間の「情念と病気からの解放」hee toon pathoon kai noseematoon apallageeほどに急を要することはないのである(I,ii,4,2)。

 先に少し触れたが、「教育者」は人間を愛する者philanthrooposである。クレメンスはそのことを第三章の表題にしている。そして第七章の「誰が教育者であるか」という問に対して次のように述べている。「われわれの教育者は聖なる神、イエスであり、全人類の導き手たるロゴスである。この人間を愛する神ho philanthroopos theos 御自身がわれわれの教育者である」(I,vii,55,2)。クレメンスにとって、人間は被造物の中でも特に神御自身の似像として創造された、選ばれた者haireton、歓迎された者asmeniston、愛された者phileeton(I,iii,8,1)であり、その神の愛に対して、愛を返すことantagapan(I,iii,9,1)を義務づけられているのである。クレメンスのこの考えを一般化して言えば、教育関係は愛の関係でなければならない、教育者の愛Liebe に被教育者の愛Gegenliebeが相応ずるという関係が成立しなければならないということであろう。

 クレメンスはepistatees(注13)に関係する語を用いて「教育者」のことを表現することがある(cf.I,vii,56,3)。epistateesは「近くに、あるいは側に立つ者、長、指揮官、訓練の監督(Platon,Resp.412a)、管理者」(注14)を意味する。クレメンスは創世紀のヤコブの天の梯子の夢(28,12-17)を念頭に置きながら、「教育者」がヤコブとともにいて、彼がどこに行くにも彼を守ると約束されたことを指摘する。更に彼は「教育者」がヤコブと組打ちをされた箇所(32,22-32)に言及しながら、「教育者」がaleiptees 、すなわち、油を塗る者、競技のトレ—ナ—としてヤコブを訓練し、彼と組打ちをされたことに注目する(I,vii,56,3-57,3)。クレメンスは聖書を引用しながら、見事に「教育者」のあり方を摘出しているのではないだろうか。「教育者」は「子供」の側にいて、彼がどこに行くにも彼を守る者として立てられている。しかし、これはわれわれ人間にとってどんなに難しいことであろうか。側にいることができずに、すぐに逃げ出すことが多いのではないか。また、「教育者」は「子供」のトレ—ナ—として、彼を厳しく訓練する者でなければならない。側にいて油を塗り込んでやらなければならない。しかし、競技をするのはトレ—ナ—ではない。彼は競技者の競技の勝利のために助言、忠告し、生活の管理をし、監督しなければならない。神的ロゴスがヤコブと組打ちされたように、「教育者」は「子供」と真剣に格闘しなければならない。ヤコブが神に勝ったように、「子供」が「教育者」を打負かすことだってあるだろう。子供と真剣に勝負するどころか、諂い、阿る者、にも拘らず、というかそれだからと言うべきか、子供からの衝撃を真剣に受けとめようとしない者は教育者の名に値しないのであろう。クレメンスは、しかし、この厳しさと先に指摘した愛とを分離しない。彼自身の言葉を使えば、「そこには、側に立つ者の友情のパ—トナ—シップがある」Philias entautha epistatikees esti koinoonia(I,vii,56,3)。クレメンスにとって、教育関係は厳しさを伴った友愛関係でもある。

 医師や競技のトレ—ナ—の他にクレメンスは将軍strateegos、水先案内人kyberneetees(いずれもI,vii,54,2-3)、馬の調教師poolodamnees(I,v,15,3)、判事、審判員(I,vii,58,2)、農夫、園丁(I,viii,66,4)を「教育者」に並ぶ比喩として用いているが、これらの人間に共通することは、自分の為にではなくて、自分に託されている者のためにまず配慮し、その者のためにどんな場合に何を為さなければならないかを適確に判断できる専門家たることである。聖書に固有のものである羊飼、牧者poimeen の比喩にも言及されている(I,iv,11,2;vii,53,2;ix,83,3-4;etc.)が、失われた羊を探すよき牧者のことを考えてみても、上と同様のことが言えるのではないだろうか。

 上に「教育者」と並ぶ他の比喩という言い方をしたが、それはどういう意味なのか。クレメンス自身がそれを自分の著書の表題としたのだが、「教育者」もまたある意味で比喩なのである。神的ロゴス、キリストがよき牧者であるように、彼はまた「教育者」であるというのがクレメンスがこの著書で言いたいことなのである。

 「教育者」と訳したpaidagoogos はLiddle & Scott:Greek-English Lexiconによれば、slave who went with a boy from home to school and back againである。彼は奴隷、あるいは解放奴隷であって、主人の息子を学校に送り届け、また家まで連れ帰ることがその役目であった。学校の中には、正規の教師の授業がすむまで、彼らが少年を待つpaidagoogeion と呼ばれる部屋があった。(注15)彼らパイダゴ—ゴスはギリシャ世界で、そしてその文化を継承したロ—マ社会で子供の教育に関わる仕事の一部を分担した、歴史的に特殊な人々であった。クレメンスはこのことを十分に承知した上で敢えて『パイダゴ—ゴス』をその表題として選んだのである。

 ところで、パイダゴ—ゴスの役割、性格について、Marrouは次のように述べている。「彼の役目はその若い主人を助けること(その小さな鞄を持つことなど)にあったが、しかし、特に街路の危険、身体的秩序の危険、なかんずく道徳的危険からその若い主人を守ることにあった…以上のことから、小さな生徒の振舞を監督し、正しくて相応しい振舞を彼に要求する使命が出てくる…子供の礼儀、正直、良い作法、単純な監督から容易に性格の、そしてより一般的に道徳性の形成へとそれは移行していったのである…ロ—マ帝国の下では、教育者の保護paedagogorum custodia は両親や教師の行為と並んで、教育の構成要素の一つを成している。教育者は家庭においてさえ子供を離れない。彼がそのことに関して能力を持っている場合には、彼はその生徒が自分の宿題をしたり、あるいは読み方を学んだりすることを助けながら、復習教師studiorum exactor の役割を楽しむことができるのである。しかし、厳密な意味での計画に関しては、彼の役割は資格のある教師の役割に常に従属していた…教育者は家庭で振舞う仕方に関して忠告を与え、生徒を学校へ連れて行く前に、日常の会話を通じて、長い道中その教授を続けるのである。」(注16)

 クレメンスは以上のような者として機能してきたパイダゴ—ゴスに神的ロゴス、キリストを譬えるのである。それは比喩である。なぜなら、ギリシャ・ロ—マ世界で父親がその子供をパイダゴ—ゴスに委ねたように、父なる神は神的ロゴスたるみことば、キリストであるパイダゴ—ゴスに人間を委ねられたからである。しかし同時にそれは単なる比喩ではない。何故なら、クレメンスにとってキリストこそ真のパイダゴ—ゴスであるから。キリストにおいてパイダゴ—ゴスはその真の意味を獲得するとクレメンスは考えるのである。ギリシャ・ロ—マのパイダゴ—ゴスが奴隷であったように、パイダゴ—ゴス・キリストも神の子供である人間を父なる神のもとへ送り届けるために奴隷の姿を取ってこの世に派遣されたではないか。クレメンスが聖書によく出てくる牧者の比喩よりもこのパイダゴ—ゴスの概念を強調する底にはこのような確信があるのではないだろうか。パイダゴ—ゴス・キリストこそが、子供である人間とともに、この世の危険、特にその道徳的危険から守りながら、救いの道を同伴するという堅い確信がクレメンスにはあったのであろう。パイダゴ—ゴスはクレメンスによってその卑しい地位から引上げられて、聖化されたのである。あるいはこうも言えようか。クレメンスはパイダゴ—ゴスからその歴史的制約を解除して、その概念が本来担うべき意味を回復したのだと。Marrouの表現をかりれば、「この古典的な概念の古い皮袋の中に、クレメンスは福音的道徳とキリスト教的救済論の新しい純粋な葡萄酒を注ぐことができた」(注17)のである。

 クレメンスにとってパイダゴ—ゴスはまず第一に神である。しかし、人間もパイダゴ—ゴスでありうるし、またなければならない。そのことはしかし、何か同次元の並列的なこととして考えられてはならないだろう。クレメンスはそのことに関して、出エジプト記32,33 を引用して次のように言う。「モ—セにパイダゴ—ゴスとして振舞うことを教えるton Mosea didaskei paidagoogein のもまた主である。なぜなら、主はこう言われるからである。『すべて私に罪を犯した者は、これを私のふみから消し去ろう。しかし、今あなたは行って、私があなたに告げたところに民を導きなさい。』それゆえに、神は教育の仕事の教師であるdidaskalos esti paidagoogias」(I,vii,57,4-58,1)。

 クレメンスは「教育の仕事は子供たちを導くことである」paidagoogia paidoon estin agoogee(I,v,12,1)と言うが、それは子供の頃からの徳へ向っての良き指導(I,v,16,1)、心遣いによって子供たちの救いに繋るような生活の規範へ指導すること(I,vii,54,2)、要するに、救いへの導きeis sooteerian agoon(I,vii,53,3)なのである。agoogee は導き、指導であるとともに、方向づけ、訓練でもある(注18)。そのようなものとしての教育の仕事を神自身が行うと同時に、モ—セに代表される人間に教えるdidaskeiのである。前述のように、神はpaidagoogos であるとともにその自らのpaidagoogia の教師didas-kalos なのである。それゆえに、クレメンスにとって神こそがまず第一に教育者そして教師であり、人間は「神の教育」の模倣者として初めて教育者であり、教師であり得るのである。

 「神の教育」を模倣するとはどういうことであるのか。人間は誰も教育という行為において自らを最終的な根拠として立てることができないということではないか。自らを越えたところを例えば社会であるとしてみたところで、問題は変らないであろう。ある個人、あるいは社会ないし国家が自らを最終的根拠として人を教育することはできないし、これまでにもそういう仕方では教育は行われてはこなかったのではないか。人は何らかの形で人間を越える超越者を立てて、それを最終的根拠としてきたのである。従って、問題はそれが真の超越者であるか否かの一事に尽きる。名指されている名前によって何が理解されているのかを問題にしなければならないであろう。で

II: 「子供」の概念

 「教育者」に対置される概念としてクレメンスが提出するのは、「子供」pais,paides およびそれに関連する諸概念である。既に見たように、「教育者」はまず第一に神であるから、それに対応する「子供」は当然のことながらわれわれすべての人間である。神である「教育者」と人間すべてがそれである「子供」との対応が第一に考えられている系列であり、神の教育の模倣者である人間における大人・教育者と子供・被教育者の系列は第二次的なものである。
 クレメンスは、イエスが弟子たちに対して、既に大人であり、弟子の地位に挙げられていたのに、「子供たち、食べ物はないのか」[ヨハネ、21,4-5]と呼びかけたことを取上げて、そのことにわれわれの注意を促している(I,v,12,2)。クレメンスは更に、イエスが最後の晩餐のときに弟子たちに向って、「子供たち、私があなたがたとともにいるのはそう長くはない」と言ったたこと[ヨハネ13,33]、ダヴィドが「おお、子供たち、主を誉めよ。主の御名を誉め称えよ」[詩篇113,18]と叫び、イザヤが「私と、主の私に賜った子供たちはここにいる」[イザヤ8,18]と言ったことを挙げながら、神の前ではすべての者が「子供」であることを確認する。彼自身が人間は子供であると考えているのではなくて、預言者の口を通して主が、また神のみことばであるキリスト自身がそう呼びかけるのを彼は確認するに過ぎないのである。人間が単なる被造物に過ぎない者ではなくて、神の似像としての神の子であるということはユダヤ・キリスト教の根本信条である。

 神の子として「子供」であるというのは何の謂か(注19)。前節でみたように、人間を愛する神philanthroopos theosの愛し子phileeton であるということが人間たる「子供」の根本性格である。人間たる「子供」の在り様について、彼はまた次のように述べる。「しかし、聖書が言うように、『あなたがたの教師はただひとり、天におられる方である』eis didaskalos en ouranoisとすれば、それに同意して正当に言い得ることは、地上にあるすべての者は学習する者だmatheetai ということである(注20)。完全さは常に教えたもう主とともにあり、子供と幼児であることto paidikon kai neepion は常に学習するわれわれとともにある、ということがまさに真理なのである」(I,v,17,3)。この節については、多くのことが言われなければならないが、今はそれを措いて、クレメンスが「子供」であることと幼児であることを並べていること、そして「子供」、幼児であることは決して無知であること、学習から免除されていることamathia を意味するものだとは理解していないことに注目しておきたい。「常に学習するわれわれ」heemin aei manthanousin というクレメンスの表現はしかし、すべての人間に既に与えられている状態ないし事実ではなくて、むしろ果たすべき課題なのであろう。クレメンスは「真理に関わるすべての者は神の前で子供である」pantes hoi peri teen aleetheian kataginomenoi paides para too theoo と言う(注21)。

 クレメンスは更に、洗礼を受けた者を「子供」として理解している。人は洗礼を受けることによって新たに生まれるから幼児neepios なのである。彼は「われわれは洗礼を受けて照明され、照明されて子とされ、子とされて完全な者とされ、完全な者とされて不死の者とされる」(I,vi,26,1)と言う。この洗礼の働きergon は恵みcharisma、照明phootisma 、完成teleion 、洗浄loutron などの名で呼ばれる。クレメンスにとって洗礼は罪を洗い清められ、無知の暗闇を照明され、神の恩寵の完全な賜物を得ることによって完成されることなのである。従って、彼にとって、子供、幼児という呼び名が初歩の知識の教授 toon protoon matheematoon didacheen を示すとか、学識の子供っぽさや軽蔑すべき性格paidarioodes kai eukataphroneeton tees matheeseoosに結び付くと考えるのは誤りである(I,vi,25,1)。照明されていることは神を知ることepignoonai ton theon(ibid.)なのである。クレメンスは聖パウロが「あなたがたはかつて暗闇であったが、今は主にあって光である」[エフェゾ5,8]と言ったことに関連して、だから人間は古人によってphoos と呼ばれた(注22)のだと言い(I,vi,28,2)、「暗闇skotos、それは無知agnoiaである。無知によってわれわれは真理に関して目を曇らされて、罪hamarteemaに陥ったのである。知識gnoosis は照明であって、その照明は無知を取去り、明瞭な視力dioratikonを与える」(I,vi,29,4)と解釈する。

 その「子供」、幼な子はまた集団的な存在として把握されている。「幼な子の集り」choros neepion(I,v,19,4)とクレメンスは呼んでいるが、彼らは、神を父とし、キリストを「教育者」とし、教会を母とする(cf.I,v,21,1)幼児の集団なのであり、「正義と人間愛の神の人間すべてに対する公平さとパ—トナ—シップ」isotees kai koinoonia tou dikaiou kai philanthroopou theou pros pantas(I,vi,30,2)を享受しながら、その神を称えて歌いかつ踊るコロス、つまり歌舞団なのである。クレメンスはその集団を同時に「新しい民」kainos laos とも呼んで、彼らを古い世代、老年の民presyteros laos とは反対に、新しい善を学んだ青年neoiだと言う(I,v,20,3)。「この老年を知らない青春はわれわれにとって人生のうちで最も実り多い時期であり、その青春において、われわれは知識へ向って常に絶頂に達し、常に若く、常に温和で、常に新しいのである」(I,v,20,3)。

 ギリシャ・ロ—マの伝統的な考え方に従えば、「教育者」に委ねられる「子供」は6,7歳から15,6歳にかけてのいわゆる学齢期の少年を指すのであるが、上に見たように、クレメンスはそういう年齢の枠や男女の区別(注23)を取外してしまっている。「教育者」についても同じことが言えたのであるが、クレメンスがいかにヘレニズムの伝統の枠を越えて、福音書の精神において自由に考えているかが分かるであろう。

 聖書にはたびたび、イエスが幼な子、いと小さき者を話題にする場面が出てくるが、クレメンスはこのことを繰返し取上げる。そこで使われる概念はpaisの指小辞であるpaidion やneepios であるが、これはもともとラテン語のinfansにあたる語で、little child who is not able to speak を意味する。しかし、クレメンスは、上に見たように、「子供」であることが直ちに教養の欠如を意味するとは解さないのであるから、そしてイエスが子供を引合いに出すのは称揚するためであって、非難するためではないことを承知しているのであるから、paidion やneepios の良い、積極的な性格を問題にするのである。それは何か。

 「子供」は、彼らのうちにある単純さen paisin haploteetaのゆえに、われわれの模倣の対象なのだeis exomoioosin parakatatithemenos heemin(I,v,12,4)。クレメンスは単純haplous,haplotees をaphelees,apheleia とも言い換えている(I,v,14,2)が、後者はもともと石や岩の多い大地phelleusが否定接頭辞a-によって石や岩のない滑かなapheleesものとなったという意味の言葉である(注24)。これはartless,not intricate ということで、大人が持っている計略、取繕った技巧、回りくどさを持たない単純、素直、素朴、率直なのである。クレメンスのペトロの第一の手紙2,1-3 とテサロニケ人への第一の手紙2,7 の対照的な引用は、上に述べたことを明かにしているように思われる。「それゆえ、あらゆる悪意kakia 、あらゆる偽りdolos 、偽善hypokrisis、妬みphtonos 、一切の悪口katalaria を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のようにhoos artigenneeta brephee 、みことばである清い乳をせつに求めなさい。それによってあなたがたが成長し、救いにいたるためです。…」(I,vi,44,1)。「それゆえに、幼な子は温和eepiosで、そしてそのようににしてより繊細mallon atalos、柔和hapalos で単純haplous 、正直adolosで偽善がなくanypokritos 、精神において真直ぐithus teen gnoomeen で率直orthosである…」(I,v,19,3)。否定接頭辞a-は何か人間における否定的なものを否定していて、それゆえに積極的な人間の在り様を指示しているのである。「子供」は悪の軛に繋れていない者azygeis kakia なのである(I,v,15,1)。

 「子供」は大人が世間的な利害によって見ることができなくなったものを見る純粋な目を持っている。クレメンスはイエスが「父よ、私はこれらのことを知恵ある者や学者に隠し、いと小さき者にお現わしになったことを貴方に感謝します」[ルカ10,21]と言われたことに関連して、「教育者であり、教師である方は、自分たちが賢いと考えて目を曇らせているこの世の智者よりも救いに適しているわれわれをいと小さき者neepioi と呼ばれるのだ」(I,vi,32,2)と言っている。

 クレメンスはまた、「明日のために心配するな。一日の苦労は一日で足りる」[マタイ6,34]というイエスの言葉を取上げて次のように述べる。「このようにして主は彼らに、この世の生活の心配を取除き、御父にのみ頼るように命じるのである。そしてこの命令を守る者は実に、神に対し、この世に対して幼な子、子供である」(I,v,17,2-3)。「子供」であること、それは純なる信頼の心を持つこと、そして、この世の事柄に対する気がかり、気苦労から解放されていることを意味するのであろう。クレメンスは創世紀26,8のイサクとレベッカの戯れ、そしてそれを王アビメレクが上から見ていたという件を挙げて、イサクは「子供」、「笑い」geloosを、レベッカは「忍耐」hypomonee を、そして王アビメレクは「超俗的な知恵」sophia hyperkosmios 、キリストを象徴すると解釈する(I,v,21,3)。この箇所のアレゴリ—は難しいが、日々の労働において忍耐を強いられているわれわれが、ひととき、「子供」の精神を回復して、笑ったり、遊んだり、喜んだり、祝祭に参加したりする、そのことを神は見守っておられるのだ、ということでもあろうか。もっと一般的な言い方をすれば、「子供」に固有的なことは信頼、感謝であり、笑い、遊び、喜びなのである。
 ところで、クレメンスはキリスト自身が「子供」paidion と呼ばれていることに注目する。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた…」[イザヤ9,6]。クレメンスは「その似像に一致してわれわれ自身が幼な子であるその幼な子はいったい誰であるのか」と問い、上のイザヤの節を続けているが、聖書にはない四つの語を自分で書き加えている。すなわち、「驚くべき助言者、力ある神、永遠の父、その教育を増し加えるtooi pleethunein teen paideian平和の君」(I,v,24,2)がそれである。イザヤは勿論キリストについて預言したのであるが、クレメンスはその幼な子キリストが教育paideia を大いに普及させる方であると言うのである。彼は続けて次のように言う。「あの幼な子である方の教育、われわれ、すべての子供たち—あの幼な子である方がわれわれの教育者の役割をしているのだが—へと拡げられる教育が、どうして完全でないことがあろうか」(I,v,24,3)。クレメンスにとっては、キリストは「教育者」であるだけではなく、また同時に「子供」である、つまり、われわれを教育する主体であると同時にわれわれをそこへと導く模範、われわれがそれに同化すべき似像としての「子供」ななのである。「神の教育」paideia theou は同時に「神への倣い」homoioosis theou(注25)である。あるいは、キリストは「子供」として「教育者」なのである。

 クレメンスは聖書の中から、望ましい人間の在り様としての「子供」、模範となるべき「子供」を取上げているが、その一方で「大人」と対比されて克服されるべき「子供」についても言及している。しかし、それは年齢を基準にしての区別ではない。彼は聖パウロのコリント人への第一の手紙を引用する。「兄弟たちよ、物の考え方ではtais phresin子供paidiaとなってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいneepiazeteが、考え方では大人teleioi (注26)となりなさい」[14,20]。「私たちが幼な子であって時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった」[13,11]。クレメンスは聖パウロにおけるこの「大人」と「子供」の対立を次のように説明する。「パウロが語っている子供は律法の下にある人々であって、彼らはちょうどお化けmormolykeiois によって混乱させられる子供と同じように、恐れによって混乱させられる人々である。他方、大人andrasと言われる人々は、みことばに従順なlogooi peithenious、選択の自由を行使できる人々autexousiousである」(I,vi,33,3)。クレメンスの言葉をユダヤ教とキリスト教の対立に関するひとつのセクト的発言だと受け止めてみても、余り得るところはないだろう。彼は「子供であることには二様の意味がある」Duo gar seemainei to neepion(I,vi,33,2)ことを認める。外形的なものに囚われて、内に潜む精神、意味を把握できないこと、恐るべきでないものをむやみに恐れることは、「子供」が持つ否定さるべき面なのであろう。情念や欲望に支配されずに、ロゴス、理性に従って判断し、自由意志を行使できることは「大人」の特性である、というように一般化して彼の言葉を受止めることも出来るのではないだろうか。

 以上、「子供」の概念についてクレメンスの言うところを辿ってみた。正鵠をえたとは言えないが、結局のところ、クレメンスが語ったのは、「教育者」が同伴すべき現実の「子供」terminus a quoではなくて、「教育者」もそれなしには相手を導くことができない到達点、目的、telos としての「子供」terminus ad quemだったのではないだろうか。確かに、彼は「われわれがそれである子供」という言い方をするのであるが、それは権利の点でde jure 言えることであって、事実の上でde factoは言えないことなのではないか。第二の系列としての大人・教育者と子供・被教育者については、クレメンスは直接には語らないが、第一の系列からその示唆を引出すことがわれわれの課題であろう。

 III:「教育」の目的と方法

 既に第一節において「教育者」の概念について検討した際に、「教育」paidagogia,paideiaについても関連して触れたのであるが、ここでもう一度振返って見よう。

 「教育は子供たちを導くことである」paidagogia paidon estin agoge(I,v,12,1)。ギリシャ語では言葉を半分に割っただけに過ぎないとも受取れるが、むしろ事情は逆であって、「子供」を「導くこと」として「教育」が成立するということであろう。「導く」という日本語は何か同時にその行為の出発点と途中と行先を暗示していて意味深長である。われわれに目的と手段、方法を考えざるを得なくさせるからである。ともあれ、「教育」は「教育者」が「子供」を「導く」こととして規定され、前二者については一応の検討を済ませた。そこで、残る問題として「導く」ことの内実を、目的と方法という観点から既に述べたことを振返りながら検討してみよう。

 クレメンスは「教育者」の仕事として「教育」を「性格形成」ethopoiaとして規定したのであるが、目的ということから言えば、それは魂の改善、徳arete の達成、、救いsoteria の成就であった。人間はしかし、何故魂を改善し、徳を達成し、救いを成就しなければならないのか。それを問うことはもはやできないのか。そのことは、人間の本質をどう把握するかによって定まってくるのではないだろうか。人間の出自は何なのか。クレメンスは既に見たように、人間を神から出て神に帰るべき存在と看倣したのである。神に似せて造られた人間はしかし、この世の生において徳に一致し神に倣わなければならない。出たところへ帰らなければならないからである。人間は過失、罪hamartema によって絶えず神へ向う道から逸脱する。従って、繰返し悔い改めmetanoiaが必要とされる(I,ii,4,3)。クレメンスにとって、「教育」という仕事は善への促進と悪の阻止の同時的な仕事であったのである。「子供」を危険から守りつつ、徳へ向って歩ませること、それが「導く」ということなのである。「導く」とは同伴することである。共に歩くことである。それは遠隔操作ではない。自分が立止まっていて相手だけに歩かせることではない。自分も随いて行くこと、あるいは先に立って歩くことである。「導く」者は勿論行先を知っていなければならないし、何処をどう通るかを考えなければならない。相手の状態や脚力を判定し、考慮しなければならない。もうこのくらいで止めよう。クレメンスがpaidagogiaをpaidon agogeと言ったことは決して言葉遊びなのではなくて、われわれに多くのことを考えさせるものだと思う。

 目的を語るとき、ひとは目標と目的といった区別を立てて、近いものと遠いもの、当面するものと究極的なものをそれに当てる。しかし、目指されているすべての個々の事柄がばらばらのものであってはならず、すべて一点へ向って収斂してゆくべきであるというふうに今日考えられているであろうか。一応の区別はしてみたところで、結局は焦点がぼやけているような仕方でしか、目的の問題は処理されていないのではないだろうか。最終的に「子供」を何処に連れてゆくのかからないで同道し、右往左往しているのが現状であるというのは言い過ぎだろうか。

 クレメンスは「われわれはさまよっているpeplanemenoiので導いてくれる人kathegesomenosを必要としている」(I,ix,83,3)と言う。事情は今日とクレメンスが生きた時代とはさして変らないのである。変ったのは、われわれが最早導いてくれる者を求めないということ、あるいは自分で自分を導くことができると錯覚したことである。自分で自分を導くとは、つまるところ、ひとりで導きなしに歩くことではないか。クレメンスに言わせれば、「子供」であるわれわれにはひとり歩きは無理であって、「教育者」の「導き」がなければならないのである。既述のように、クレメンスにとって「教育者」は神的ロゴス、キリストであった。その導きなしに、われわれは正しい道を歩くことができず、従って、われわれ自身の子供たちを導くこともできない、というのがクレメンスの確信であった。

 従って、目的に関してクレメンスが様々のことを挙げてもそれはすべてひとつのことに収斂するのである。言い方は様々であろうが、魂の改善も徳の達成も救いの成就も結局は同じことであり、そのひとつのことに結び付くのである。超越への展望を遮断するとき、何を立ててみてもすべては相対的であり、論争しても主観の相違ということで物別れに終るであろう。

 次に方法の問題に移ることにしよう。方法は、今更言うまでもないが、ギリシャ語でmethodos=meta hodos である。hodos は既に方法という意味も担っているが、もともとは道がその意であり、それにmeta(に従って)が加わってできている語である。ついて行くことfollowing after 、追求pursuit 、探求investigation 、そしてその様式、それが方法ということのギリシャ的な理解である。「それに従って行かなければ目的地へ到達できない道」ということが方法の原意であるとすれば、目的を度外視して方法を語ることの愚かさは瞭然である。勿論、方法は一つではなくて、多岐に亙るであろう。方法の多様さに目を奪われて茫然自失しないことが肝要である。

 第一節において、クレメンスが「教育」は勧告、説得、奨励のロゴスによって行われると言いながら同時にそれらのロゴスは神的ロゴスそのものなのだと言った意味は何であろうか。クレメンスにとってその言い方は同じ事態の表明である。勧告、説得、奨励の相互関連については今は措くとして、彼がそれらのロゴス「によって」、「を介して」「教育」が行われると言うとき、第一に念頭に置いていることは、人間の「教育」がロゴスによらず、ロゴスの介入なしには在り得ないということであった。つまり、「教育」の主体がロゴスであるということである。従って、それは目的達成のための単なる方法、手段の意味を越えたところで思念されているのである。あるいは、methodosの原意を汲んで言えば、ロゴスは「それに従ってわれわれが歩かなければならない道」そのものなのである。「神の教育」にあってはその主体と目的と方法はある意味で一つである。そのことは「人間の教育」、クレメンスの理解では「神の教育」の模倣としてしか在り得ない人間が行う「教育」については当て嵌らない。人間である「教育者」は自己のロゴスを、あるいは自己自身を子供の前に立てて、それ「によって」教育してはならない。それは恣意的なものに過ぎない。人間はロゴスによって、ロゴスを介して教育される(注27)。一つは上述の意味においてである。もう一つは、人間を直接的に改変する、形成することは人間には不可能であるから、神の「言葉」を、人間の[言葉」を介して相手の「理性」に訴えることを通して、相手の性格、行為、情念をよい方向へ向けることを意味するであろう。そういった二重の意味でロゴスの介入を考慮に入れなければ、クレメンスの「教育」論は不可解であろう。

 さて、クレメンスはロゴスの「教育」の様式tropos tes paidagogias tou logou(注28)について語るが、それは結局のところ、善を促進し、悪を阻止することに向けられる奨励と諫止に尽きると言ってもよかろう。是認、賞賛epainos の教育における積極的的意味については近代教育学によって高く評価されたのであるが、もう一方の非難psogos、叱責epitimesisについては低い評価しか与えられていないのではなかろうか。クレメンスの記述で精彩を放っているのはむしろ後者の方である。威嚇する、おどすapeileo とさえ言われている。クレメンスは勿論、神的「教育者」についてこのことを語っている。神の善性と厳格さがどうして両立するのかという疑問は当時既に出されていた。第八章以下はこの疑問に対するクレメンスの回答である。

 「教育者」が判事、審判者kritesでもある(I,vii,58,2)ということについては第一節で触れなかったが、ここで取上げるのがよかろう。彼は過失、罪を黙って見逃さない。彼は過失を犯した者が悔い改めるように叱責する(I,vii,58,2)。そもそもpaideia には懲罰の意味がある(注29)。クレメンスはプラトンの『ゴルギアス』からソクラテスの言葉を引用する(注30)。「罰を受けるすべての者は実際善いことを受けるのである。何故なら、正しく懲らしめられた者は魂においてよりすぐれた者となって利益を受けるのだから」(I,viii,67,1)。彼は少し先の方で再びプラトンを借用して、自由意志で罪を犯すわれわれ各人が罰を選ぶのであり、「責任は選ぶ者にあり、神は責任なし」(注31)と断じている。

 「憐れみeleos と怒りorgeは神とともにある」のであって、クレメンスは、この二つは対立するものではなくて、人間の救いのために差向けられると考える。彼はそれを「憐れみと叱責elenchosの狙いは叱責される者の救いである」(I,viii,72,2)と言う。従って、叱責や非難は相手への愛agape から出るものである(cf.I,ix,75,3)。「友人philosもそうでない者も両者ともに非難するが、敵echthrosは嘲笑して、友は親切にそうする」(I,viii,66,1)。「教育者」が医師であるということは既述の通りであるが、彼は患者である「子供」に対して、「外科手術」cheirourgia を施し、「薬剤投与」pharmacheia を行うことによって、その病気を治療するのである(cf.I,viii,64,4)。これらの方法はいずれも、患者の内にある悪しきものを摘出し、吐瀉ないしは排出させるために用いられるものである。「教育者」の非難、叱責がこれらの方法に相当することは明かである。

 「教育者」は農夫、園丁georgos でもある(I,viii,66,4)。どういう意味でそうなのか。クレメンスは聖書から葡萄の木と農夫の比喩[ヨハネ15,1-2]を引いてきて、叱責epiplexis を農夫による葡萄の木の枝の刈込みkladeia に譬えるのである。これもまた、そのことなしには、望ましい成長、結実がないから行われることは明かである。放置してただ繁らせておけばよしとするのは葡萄栽培に関しては無能であることの証拠であろう。

 第二節で「子供」の否定的な側面として、恐れるべきでないものを恐れることを挙げたが、これは同時に恐れるべきものを恐れないことに繋る。賞賛と甘やかしの「教育」は「子供」にそのことを教えないのである。それは自らが既に恐れるものを持たないと信じるからであろう。恐れというものは教育の世界においてタブ—になっているのではないか。それを暴力や憎しみと混同しない方がよい。クレメンスは恐れの種類eidos tou phobouを二つに分け、一つは奴隷がその主人に対するような憎悪を伴った恐れphobos meta misousであり、他の一つは慎み深い子供たちが父親に対して、市民が善き支配者に対して抱く尊敬を伴った恐れphobos meta aidousだとしている(I,ix,87,1)。これは「教育」に携る者にとって、非常に示唆に富む言葉ではないだろうか。前者の恐れが支配するところでは、それを和らげ、宥めるために甘やかしと迎合(kolakeia)が罷り通るのかもしれない。尊敬と訳したaidos は含蓄に富む語であって、reverence,awe,shame,sense of honour,regard for others等々の意味を持っている。因に言えば、このaidos はゼウスがヘルメスを遣わして正義dikeとともにすべての人間に与えさせたとされる根本的な在り方であり、慎み憚る心情、恥を知る心である(注32)。そのようなすべての者に与えられている筈であるaidos を伴った恐れの感情を「子供」のうちに目覚めさせ、鋭くさせる代りに、鈍らせ、麻痺させる者は彼を愛しているのではなくて、彼を駄目にしている、とクレメンスは聖書を引用しながら強調するのである。これは目的であって、そのために非難や叱責や脅かしという方法が用いられるのである。これは暴力ではない。クレメンスは「教育者」を「教育を拡げる平和の君」と呼んだではないか。「われわれが教育されるのは戦争においてではなく、平和においてである。戦争においては多くの準備が必要であり、贅沢が潤沢を求める。しかし、単純で静けさを好む姉妹である平和と愛eirene kai agapeは武器も浪費される準備も必要としない」(I,xii,98,4-99,1)。憎悪を伴った恐れが支配するところでは戦争状態が出現して無益な努力が浪費され、尊敬を伴った恐れがあるところには平和と愛が漲るということはいつの時代にも変ることのない真理なのではないだろうか。

 クレメンスは「人間の本性を驚異の眼差しで眺め、真理が道を示す通りに生きなければならない」theasasthai ten anthropinen physin chrenai zen hos hyphegeitai he aletheia(I,xii,100,3)と言う。われわれが善く生きなければならないのは、真理が道を示し、真理が導くからあって、個人の思いや国家・社会の思惑が導くからではないのではないか、人間本性の真の在り様に思いを潜めることがいかに必要であるか、そのことを「教育」の方法を提示しながらクレメンスはわれわれに語っているように筆者には思えるのである。

 むすび

 クレメンスの『教育者』第一巻を手がかりにして、「教育者」が誰であるか、その目的、機能、性格が何であるか、「子供」はどういう存在であるのか、「教育」の目的と方法はどう把えられているかを検討した。ここで明かにされたことは、キリストが人類の「教育者」であり、人間は徳の訓練において救いへと導かれるということであった。これをひとつの信仰告白として受取ることも勿論可能ではあろうが、しかし、そのことを越えてわれわれはクレメンスから教育の本質についての鋭い洞察を読み取るべきではないだろうか。

 

 原典はClement d'Alexandrie, Le Pedagogue, Libre I, Texte grec, Introduction et Notes de Henri-Irenee Marrou, Traduction de Marguerite Harl, 1960:Sources Chretiennes 70を用いた。尚引用に際しては、このテキストの分け方に従い、本文中に括弧で示した。例えば、(I,i,1,4)は第一巻、第一章、1 の1 を示す。
 翻訳としては、上記のものの他、Bibliothek der Kirchervater, Des Clemens von Alexandreia, Der Erzieher, Buch I, ubersetzt von Otto Stahlin, 1934; Ante-Nicene Christian Library, The Writings of Clement of Alexandria,The Instructor, tr. by William Wilson, 1868; およびThe Fathers of the Church,Clement of Alexandria,Christ the Educator, tr. by Simon P. Wood, 1953 を参照した。

1)クレメンスの生年、生地その他詳細については正確なことは分からないようである。上記文献の序論を参照のこと。
2)cf. W.Jaeger,Eaely Christianity and Greek Paideia,Oxford Univ. Press, 1977, p.38(野町啓訳、『初期キリスト教とパイデイア』、筑摩書房、1964、46頁)。
3)教育関係の文献の中では、『教育思想史』第二巻、古代キリスト教の教育思想(上智大学中世思想研究所編、東洋館出版社1984、[6]ユスティノスとアレクサンドレイアのクレメンス、久山宗彦著)がクレメンスを取上げているが、『教育者』についてはほとんど触れられていない。
4)cf.W.Jaeger,op.cit.p.133 note 29( 野町訳、160 頁)。野町氏は「教師」と訳されたが、Jaegerの“the educator“の通 り「教育者」が適当なのではないか。本文73頁ではパイダゴ—ゴスを「教育者」と訳しておられるが、divine educator の方は「神的教師」となっている。
5)cf.Paid.I,v,17,3. クレメンスがPaidagogosに続いてDidaskalosを書く意図があったことはI,i,3,3 の勧告、教育、教授の区別から推測されている。
6)動詞proagoはlead forward or onwardとともにinduce,persuade の意味がある。
7)アリストテレス『詩学』1447a28 に舞踊と関連して、eethee,pathee,praxeis が模倣の対象として語られている。
8)増田栄、『プラトンのエ—トス論—知識・知性とのかかわりについて—』、福岡女学院短期大学紀要第19号、1983参照。
9)前掲、『教育思想史』II参照。
10)didaskalosについてはKittel,G. Theological Dictionary of the New Testament tr. by G.W.Bromiley,vol.II, pp.148-159を参照。
11)クレメンスは『プロトレプティコス』において勧告を行い、次に『教育者』において神の「教育」を論じ、最後に「教師」としての神を論じようとしていることを暗示する節だと言われている。しかし『教師』と題された著作はクレメンスにはない。
12)第二章の表題。クレメンスは原罪のことも考慮に入れている。cf.I,xiii,101,3 「最初の人間が罪を犯し、神に不従順であった時」hote hemarten ho protos anthropos kai parekousen tou theou...
13)cf.G.Kittel,op.cit.vol.II,pp.622-23:epistates.
14)Liddle & Scott, Greek and English Lexicon, p.659:epistates
15)これは後には学校を表す言葉になる。Liddle & Scott,op.cit.,p.1286
16)H.-I. Marrou, Clement d'Alexandrie, Introduction, pp.15-16.
17)ibid.p.19.
18)Liddle & Scott,op.cit.p.18.agoge
19)神の子供 pais theou についてはKittel,op.cit.,vol.V,pp.654-717 にJ.Jeremia の論文があり、ibid.,pp.636-654にpais についてのOepke の論文がある。
20)アウグスティ—ヌス(354-430)やトマス・アクィナス(1225-1274)はこのことを主題にして『教師論』De magistro を書 いた。これらの著作はクレメンスの言い方によれば「ディダスカロス論」であって、「パイダゴ—ゴス論」ではない。
21)『教育者』第五章の表題である。
22)phosは人間を、phosは光を意味するが語源的には繋りはない。
23)クレメンスは第四章で「神的ロゴスが等しく男と女の『教育者』であること」を論じている。
24)Liddle & Scott,op.cit.p.287:apheles
25)cf.I,xii,99,2: exomoioumenoi to theo.プラトンの『テアイテトス』176bには既に homoiosis theoの言葉が見られる。
26)teleioi が意味するものについては前掲、『教育思想史』II、山内一郎著「パウロス」、p.ll9 参照。
27)ロゴスによる、ロゴスを介しての教育については、拙論「対話と教育」(『生きる喜びとしての教育』第5章、福村出版、1975 参照。
28)Liddle & Scott,op.cit.,p.1286: paideia.
29)Platon, Gorg.477a.
30)Platon, Resp.617e.
31)Platon, Prot.322cd

1985.09.30脱稿

『アカデミア』(南山大学紀要)人文・社会科学編 第43号 1986.1


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