世界の奉献とロシアの奉献

もしロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されないならば、「さまざまの民族が絶滅させられるであろう。」ただこのロシアの奉献によってのみ、世界は真の平和を達成するであろう。

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以下は、Fatima NetのChronology of a Cover-up by Father Paul Kramer, B. Ph., S.T.B., M. Div., S.T.L.(Cand.)を土台として、私が世界とロシアの奉献に関する部分を適宜取捨選択して構成し、説明、意見を加えたものです。


1929年6月13日:

1917年7月のファチマでの御出現の際の約束を実現するために、聖母は12年後のこの日、スペイン、トィイでルチアに御出現になりました。1917年7月の約束とは次のことです。

「−あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。−

このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。−

−最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。−

−ポルトガルでは信仰の教義が常に保たれるでしょう。........(ここに第三の秘密と言われる部分が来ますが、この部分はいまだに公開されていません。)このことを誰にも言ってはいけません。フランシスコには、ええ、言ってもよいです。−

−ロザリオの祈りを唱えるとき、各玄義の後にこう言いなさい。おお、わがイエズスよ、私たちの罪を赦し、私たちを地獄の火から守ってください。すべての人々、ことに最も御憐れみを必要としている人々を天国へ導いてください。− 」

1929年6月13日に起こったことを述べながら、シスター・ルチアはこう言っています。

「それから、聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に、この手段によってロシアを救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました』と。」

1931年8月:
キリスト御自身が、ロシアの奉献に関して、内的語らいという仕方で、シスター・ルチアに次のように語られました。

私の命令の遂行を遅らせることによって、私のしもべたちがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、不幸に陥るだろうということを、彼らに知らせなさい」。

フランス王へのこの言及は何のことでしょうか? フランス王ルイ十四世は1689年6月17日に、イエズスの聖心によってフランスを聖心に奉献するように命令されました。そしてフランスの王たち(ルイ十四世、ルイ十五世、ルイ十六世)は100年間にわたって、この聖心へのフランスの奉献を拒絶し続けました。その命令は聖心によって聖マルガリータ・マリア・アラコックに与えられ、そしてフランス王ルイ十四世に伝えられていたのです。ついに1789年6月17日、100年後のちょうどその日に、フランス王ルイ十六世は第三階級によってその権力を奪われ、そして4年後に公衆の前でギロチンによって処刑されたのです。

私の命令の遂行を遅らせることによって、私のしもべたちがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、不幸に陥るだろうということを、彼らに知らせなさい」。これらの言葉は恐るべき言葉です。それは一つの脅威であり、そして一つの予言です。我らの主は、もしそれが重要な問題ではなかったならば、そして、ファチマに献身していると主張している人々の間にさえ一般に広められている、彼らは従わなければならないことはないという嘘にもかかわらず、もし彼らが従う義務を負わせられていなかったならば、教皇や司教たちに対するそのように恐ろしい懲罰を予言されなかったでしょう。

1942年10月31日および12月8日:
教皇ピオ十二世は一人で、聖母の汚れなき御心に世界を奉献しましたが、特にロシアを奉献することはしませんでした。1943年の春にわれらの主はシスター・ルチアに、戦争は短縮されるけれども、この奉献によっては世界の平和は結果しないと言われました。

1946年7月15日:
ウィリアム・T.ウォルシュ教授の質問に答えて、シスター・ルチアは、聖母がお求めになったのは、(1942年にピオ十二世がしたような)世界の奉献ではなくて、ロシアだけの、そして特殊的にロシアの奉献です、と指摘しています。「もしロシアの特殊的な奉献がなされるならば、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう」と彼女は言っています。

1952年7月7日:
教皇ピオ十二世はロシアを特殊的に奉献しました。しかし、教皇は、全カトリック司教たちに共にこの奉献に参加するように求めませんでしたので、すべての司教の参加はありませんでした。--そのことが必要であるという忠告を受けていなかったからです。--したがって、このロシアの奉献は「世界の全司教と一致して」という聖母マリアの要求なさった条件が欠けていました。朝鮮戦争や他の戦争が続いています。

1962年10月:
第二ヴァチカン公会議開催直前に、ヴァチカンはモスクワと、公会議がソビエト・ロシアあるいは共産主義一般を断罪しない、その代わりにロシア・オーソドックス教会のオブザーバーが公会議に参加するという取り決めを行いました。これはヨハネ二十三世の望みだったとされています。この「東方政策」は以後、ヴァチカンが共産主義に対して名指しで反対したり、共産主義政体を非難するこができないようにするものでした。新しいヴァチカンの政策は共産主義に対して「対話」と交渉という道を選ぶものでした。しかし、これは従来の諸教皇、ピオ十二世、ピオ十一世、聖ピオ十世、レオ十三世、福者ピオ九世が取った共産主義に対する断罪、共産主義者との協働の拒否という政策から離れるものでした。

1964年11月21日:
教皇パウロ六世は第二ヴァチカン公会議第三会期の閉会式の間に、再び世界の奉献を行いました。「東方政策」を守って、共産主義者たちを怒らせないために、ロシアが言及されることはありませんでした。ベトナム戦争が70年代へと続きます。

1965年12月8日:
第二ヴァチカン公会議が閉幕します。

1978年10月16日:
ヨハネ・パウロ二世が教皇に選出されました。

1981年5月13日:
教皇ヨハネ・パウロ二世の暗殺未遂事件が起こりました。この日はファチマの御出現の最初の記念日でした。教皇が少女のセーターのファチマの聖母の絵を見るためにかがんだために、弾丸は急所をはずれました。教皇はこれはファチマの聖母の介入のおかげだと認めました。

1981年6月7日:

教皇は回復の途中で、世界を聖母マリアの汚れなき御心に奉献しましたが、ロシアの奉献はなされませんでした。

1982年3月21日:
シスター・ルチアは聖母の要求なさった有効なロシアの奉献について、教皇使節、他の司教、ラセルダ博士に報告しています。その報告は教皇使節によって教皇に全部は伝えられませんでした。使節に同伴した司教が奉献に世界の全司教が参加しなければならないという条件に言及しないように、使節に告げたからです。

1982年5月12日:
教皇ヨハネ・パウロ二世のファチマ訪問の夕べ、教皇直属の新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」はサレジオ会司祭、ウンベルト・マリア・パスクアーレ神父がロシアの奉献に関して、シスター・ルチアと行ったインタビューや、彼女から受け取った手紙についての論考を掲載しています。インタビューの中でパスクアーレ神父はシスター・ルチアが、ファチマの聖母が要求なさったのは、世界の奉献ではまったくなくて、ロシアの奉献であると明確に、また強調して語った、と述べています。

パスクアーレ神父は1939年以来シスター・ルチアを知っており、1982年までに157通の手紙を彼女から受け取っていました。「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙で彼は、こう述べています。

「私は情報源に頼ってロシアの奉献の問題を明らかにしたいと思い、1978年8月5日、コインブラのカルメル会で、ファチマの幻視者、シスター・ルチアとの長時間のインタビューを行いました。機会をとらえて、私は彼女にこう言いました。『シスター、ひとつ質問したい。答えることができなければ、それでよい。でも答えることができるならば、とても感謝しますよ。というのは、多くの人々にとって明らかでないと思われる一点を私のためにあなたが明らかにすることになるからです。....聖母はご自分の汚れなき御心への世界の奉献についてあなたに話されたことがありますか? 』『いいえ、ウンベルト神父様!一度もありません!1917年にコヴァ・ダ・イリアで聖母は約束なさいました。私は、ロシアが世界中にその誤りを広めることを阻止するため、また、いくつもの民族の戦争、教会に対する迫害を阻止するために、ロシアの奉献を求めに[もう一度]来るでしょう、と。....以前[1917年]に約束なさったように、1929年トゥイにおいて、聖母は私に、あの(ロシア)の奉献のために教皇に求める時が来た、と告げるために、戻って来られました。』この会話の後、パスクアーレ神父はシスター・ルチアからこのことを宣言する書面を貰いたいと考えて、『聖母はご自分の汚れなき御心への世界の奉献についてあなたに話されたことがありますか? 』という質問に答えるよう要求しました。以下はパスクアーレ神父が1980年4月13日にシスター・ルチアから受け取った書面での答えの翻訳です。

 ウンベルト神父様
 あなたの御質問に答えて、明らかにしましょう。ファティマの聖母は、その御要求の中で、ただロシアの奉献にだけ言及されました。--コインブラ、1980年4月13日 署名 シスター・ルチア」』」

1982年5月12日:
シスター・ルチアは1982年5月12日付けの手紙の中で教皇に次のように警告しました。
「秘密の第三部は聖母の次の言葉、すなわち、『もしそうでなければ、[ロシアは]戦争と教会への迫害を引き起こしながら、全世界にその誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は大いに苦しみ、さまざまの国が絶滅させられるでしょう』(13-VII-1917)、に言及しています。」
「あなたたちがそのように知りたがっている秘密の第三部は、メッセージそのものがわたしたちに要求していることをわたしたちが受け入れるかどうかによって条件づけられた、メッセージのこの部分に言及している、一つの象徴的な啓示です。すなわち、『もしわたしの要求に心が留められるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和が来るでしょう。もしそうでなければ、ロシアは全世界にその誤謬を広めるでしょう、等々』」
「わたしたちは、このメッセージの訴えに心を留めなかったので、それが実現されたこと、ロシアがその誤謬をもって世界を侵略したことを見るのです。そしてたとえわたしたちがこの預言の最後の部分の完全な実現をまだ見なかったとしても、わたしたちはそれに大股で近づいているのです。」

1982年5月13日:
教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマで世界を聖母の汚れなき御心に奉献しましたが、しかしロシアの奉献はしませんでした。世界の司教たちはこの奉献に参加しませんでした。

1982年5月19日:
「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙で、教皇はロシアを特殊的に奉献しなかった理由について、自分は「具体的な諸状況の中で、可能なあらゆることを為そうと努めた」と説明しました。

1982年7月/8月:
ブルー・アーミーの雑誌Soul Magazineは、シスター・ルチアとのインタビューなるものを公表しましたが、その中で彼女が、1982年5月13日の奉献の儀式によって、ロシアの奉献が達成されたと主張している、と述べています。

1982年/1983年:
シスター・ルチアは、友人たちや親戚に対する私的なコメントの中で、繰り返し、ロシアの奉献がなされたということを否定しています。1983年初頭にそのことを公式に言うべきであると求められたとき、シスター・ルチアはジョゼフ・ド・サント・マリー神父に、そのような声明をする前に「ヴァチカンからの公式の許可」を貰わなければならないのだと、言っています。

1983年3月19日:
教皇の要求で、シスター・ルチアは再び教皇使節、ポルタルピ大司教、ラセルダ博士と会いました。このときにも、メシアス・コエリョ神父が同席しています。この会合の間に、シスター・ルチアは、 ロシアの奉献はなされなかったと確証しています。なぜなら、ロシアは奉献の対象として明確に表現されなかったし、また世界の司教たちの参加もなかったからです。彼女が以前に公にそのことを言うことができなかったのは、ヴァチカンからの許可が得られなかったからだ、と説明しています。

1983年5月-10月:
カイヨン神父とグルーナー神父は1982年7月/8月のブルー・アーミーの雑誌Soul Magazineに載ったシスター・ルチアとのインタビューが虚偽のものであることを暴露する数編の記事を公表しました。

1984年3月25日:

教皇はローマで25万人の人々を前に、再び世界を聖母の汚れなき御心に奉献しました。その直後に、教皇は予め用意されたテキストから離れて、こう祈られました。「あなた御自身がその奉献と信託とを待っておられる人々を特に照らしてください。」教皇はこのように、ファチマの聖母がロシアの奉献を今なお待っておられるということを公式に認めておられるのです。

1984年3月26日:

教皇直属の新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙は3月25日の教皇の祈りの言葉をそのまま報道しました。

1984年3月27日:
イタリアのカトリック司教たちの新聞Avvenire紙の報道によれば、教皇は聖ペトロ大寺院での世界の奉献の3時間後に、「あなた御自身がその奉献と信頼とを待っておられる人々」を祝福してくださるよう聖母に願いました。

1984年
ファチマの専門家であるメシアス・コエリョ神父は、ロシアの奉献が今なお果たされていないと公式に主張しています。彼はこのことを1989年夏にその態度を変えるまでは一貫して主張していました。

1985年9月:
スペイン・ブルー・アーミーの雑誌Sol de Fatimaでのインタビューの中で、シスター・ルチアは、ロシアの奉献はいまなお為されていない、なぜなら、ロシアは1984年の奉献の明白な対象とはなっていないし、世界の司教団も参加しなかったからだ、と主張しています。

1985年:
ガニョン枢機卿はカイヨン神父とのインタビューの中で、ロシアの奉献はまだ為されていないと主張しています。

1986年:
マリア・ド・フェタル(シスター・ルチアのいとこ)は、ロシアの奉献はまだ為されていないとシスター・ルチアが言っていると公式の場で述べています。彼女も、1989年7月にその態度を変えるまでは、シスター・ルチアが彼女にこのことを告げていたと一貫して主張していました。

1986年-1987年:
ポール・レオナード・クレイマー神父は「聖母を沈黙させようとする陰謀」"The Plot to Silence Our Lady"June 1986およびその続編「アメリカ合衆国ブルー・アーミー指導層はファチマ・メッセージを誤り伝えようとする意図的な政策に従った」"The(USA)Blue Army Leadership Has Followed a Deliberate Policy of Falsifying the Fatima Message"(April 1987)を書きました。二つの論考は1982年7月/8月のSoul Magazineの虚偽のインタビューとアメリカ合衆国ブルー・アーミーが、聖母によって要求された奉献についてその時以降一貫して歪曲を行ってきたことを暴露しています。

1987年7月20日:

選挙のため外出したシスター・ルチアとの短いインタビューの中で、ジャーナリストのエンリコ・ロメロに対して彼女は、ロシアの奉献はまだ為されていないと確証しています。

1987年10月25日:
十数人のカトリック指導者たちとの公式会見において、マイエル枢機卿は、聖母の特殊的な要求にしたがった奉献は為されていないと公式に認めています。

1987年11月26日:
ある私的な会合において、スティックラー枢機卿は、教皇が司教たちの支援を欠いているがゆるえに奉献はまだ為されていないということを確証しています。

1988年:

ガニョン枢機卿は、奉献がまだ為されていないというカイヨン神父の1985年のレポートを公表したことに対してグルーナー神父を攻撃しました。ガニョン枢機卿は、カイヨン神父に話したことを認め、また彼の報告の真実性を否定はしていませんが、それは公表を意図していなかったものだと言っています。

1989年:
350人以上のローマ・カトリック司教が、ファチマの聖母によって要求されたものとして教皇と共に、ロシアを奉献する用意があることを確証して、グルーナー神父からの手紙に返事をしました。

1989年:
1980年以来、控えめに見積もっても、総計100万人以上の署名が、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するよう教皇に求める請願として、ヴァチカンに送られました。

1989年7月:
ファチマのHotel Solar da Martaで、三人の証人の列席の下に、メシアス・コエリョ神父は、シスター・ルチアがヴァチカン当局の身元不明の人物からの匿名の「命令」をうけたことを明らかにしました。その「命令」は、シスター・ルチアと同僚の修道女はこれからは、たとえロシアが今までに言及されてなく、世界の司教たちが参加していなかったとしても、1984年3月25日の儀式においてロシアの奉献が達成されたと言わなければならないと述べているのです。
この展開以後、多くの証人たち--その中には、シスター・ルチア自身も含まれているとされています--は、奉献がなされてこなかったという彼ら自身の陳述を拒絶し始めました。これらの証人たちは以前には、ロシアへの言及がなく、また世界の司教たちの参加を得ることができなかったゆえに、ロシアがファチマ・メッセージにおいて要求されたように奉献されたということはあり得ないと明白に主張していました。このようにして、聖母の要求をロシアの奉献から世界の奉献へと「書き換える」成り行きが始まります。同時にヴァチカン当局内部からの強力な力がグルーナー神父とその使徒職を、抑圧のターゲットにし始めます。

1989年7月:

ポルトガル教皇使節が交替させられます。ヴァチカン当局内部からの匿名の「命令」と一致して、その後間もなくマリア・ド・フェタルが突然態度を変え、いとこのシスター・ルチアが奉献は達成されたとは考えていないという趣旨の彼女の以前のすべての陳述に矛盾して、今やシスター・ルチアは1984年の世界の奉献がファチマの聖母の要求を満たすものであると信じている、と主張するのです。

1989年8月終わり--9月初め:
モスクワにおけるいわゆる「クーデタ」、これは共産主義政府が西側を欺こうと意図した一つの脚本に従ったものです。このプランは一部は1958年に作られましたが、KGBから離反したアナトーリ・ゴリツィンによって1984年に『古い嘘に代わる新しい嘘』という書物の中で公表されました。彼は1958年の企画立案会議に列席していました。1989年のモスクワの政治的変化がファチマの聖母によって予告された汚れなき御心の勝利の一部であると信じることが誤りであるということを、この書物は示しています。

1989年8月--11月:
シスター・ルチアがタイプで打ったとされる手紙が現れました。しかし、シスター・ルチアはこれまでにタイプライターあるいはワープロを使って手紙を書いたり、手記を書いたりしたことは一度もなく、いつも手書きでした。その手紙では、シスター・ルチアが、ロシアの奉献は為されたのだという、彼女がそれ以前の50年間以上にわたって言ってきたことと矛盾する主張をしているというのです。しかもその内容の中には、シスター・ルチアが明らかにしそうもない事実上の誤り、例えば、教皇パウロ六世がファチマで1967年に世界をマリアの汚れなき御心に奉献したというような陳述が含まれています。何者かが、シスター・ルチアの名を騙ってでっち上げたものと考えざるを得ません。

1989年1月29日:
シスター・ルチアのいとこであるマリア・ド・フェタルがファチマで、ピエール・カイヨン神父に、1984年の世界の奉献はロシアの奉献に対する聖母のご要求に一致しないというシスター・ルチアの陳述を以前に報告したとき、自分は「作り話をしていたのだ」と述べます。

1990年10月11日:
シスター・ルチアの妹であるカロリナはファチマでグルーナー神父に、シスター・ルチアはタイプライターの打ち方も知らないのだから、彼女からのタイプで打たれた手紙なるものにはほとんど、あるいは全く信用は置けないと言っています。

1991年5月13日:
教皇ヨハネ・パウロ二世が二度目のファチマ訪問を行い、シスター・ルチアと30分間会合をもたれました。この会合の後には、ロシアの奉献がなされたということに関して、教皇からもシスター・ルチアからもなんのアナウンスもありませんでした。このことは、シスター・ルチアとヴァチカン当局との間に明白な不一致があることを示しています。ヴァチカン当局はロシアの奉献は為され、もう終わったことだと示唆しようとしたのでしょう。第三者がシスター・ルチアから聞いたこととして告げられていること、、あるいは怪しげなシスター・ルチア自身の手紙と言われるものを通してでなく、私たちはなぜ、直接シスター・ルチアが公開の場で、堂々と、ロシアの奉献が為されたということを聞けないのでしょうか? それは、教皇の意図というよりは、ヴァチカンの一部の高官たちの意図なのでしょう。シスター・ルチアが未だに、公に発言することを禁じられているのはなぜでしょうか?

1992年10月11日:
パチェコ神父、パディヤラ枢機卿、ミカエラッパ司教、そして運転手、カルロス・エヴァリストによる問題のあるインタビューが行われました。エヴァリストはこのインタビューを公表しましたが、それが「再構成された」ものであることを認めています。(参照→裏切られたシスター・ルチアロシアの奉献が為されたとシスター・ルチアが主張したとされる、このエヴァリストの「証明」は今日ではまったく信用されないものとなっているにもかかわらず、多くの人々はなお、ロシアの奉献が為されたとシスター・ルチアが主張したと、理解しています。エヴァリストだけでなく、既に見たように、多くの人々が間接的に--シスター・ルチア自身が直接にではなく--彼女がそう言ったと証言しているからでしょう。しかし、彼らの証言は証拠や、シスター・ルチアの以前の主張が変化した理由を何一つ提供していないのです。

2000年5月13日:
ファチマのあと二人の幻視者、ヤチンタ・マルトとフランシスコ・マルトの列福式の間に、ソダノ枢機卿は、ファチマの第三の秘密が公表されるであろうとアナウンスします。

2000年6月26日:

記者会見の席で「第三の秘密」全部であると主張されているテキスト本文が、信仰教義聖省長官ラッツィンガー枢機卿の神学的コメント『ファティマの「秘密」解釈の試み』および同じく信仰教義聖省秘書官ベルトーネ大司教のファチマ第3のメッセージ・イントロダクション『ファチマのメッセージ』と共に、公表されました。このテキスト本文はシスター・ルチアがヤチンタ、フランシスコと共に見た幻視について述べていますが、「ポルトガルでは信仰の教義が常に保たれるでしょう」の後に続くはずの聖母のメッセージの言葉「.......」を完全に無視しています。これで全部と言われてはいますが、公表されたのは聖母が三人にお与えになった幻視の部分についてのシスター・ルチアの言葉だけで、それと同時に与えられたはずの聖母御自身の言葉はやはり隠されたままだと考えざるを得ません。ベルトーネ大司教のファチマ第3のメッセージ・イントロダクション『ファチマのメッセージ』は、ロシアが適切に奉献された、そして第三の秘密に含まれているすべての出来事が今や「過去に属する」ものであると述べています。ラッツィンガー枢機卿の神学的コメント『ファティマの「秘密」解釈の試み』は、「『秘密』の結末の部分はルシアが信心の本で見たかもしれないイメージが用いられており、信仰の長年にわたる直観的知識からそれらの霊感が引き出されて」いる、そして「『今となってはファティマ第3の『秘密』の出来事は過去のことであるかのように見える』というソダノ枢機卿の言葉を肯定しなくてはならない。個々の出来事が描写することに関して言えば、過去に属している。はらはらさせるような世の終わりに関する終末的啓示や歴史の未来に関することを期待していた者は、がっかりさせられるであろう。ファティマはそのような形で我々の好奇心を満たしはしない」(参照→公開されたファティマ第三のメッセージ)と述べています。ヴァチカン当局の高官たち自身がそのように言っているのですから、わたしたち信徒は従順にそれを受け入れるべきなのでしょうか? ほんとうに、ファチマ第三の秘密で語られたことは「過去のもの」としてもう問題にされるべきものではなく、ロシアの奉献も達成されて、わたしたちはただ、聖母の御約束の実現を待っていればよいのでしょうか? ロシアの回心や世界平和の実現が起こりつつあるのでしょうか? 1984年3月25日の教皇の世界の奉献がどうしてロシアの奉献へとすり替えられるのでしょうか。「世界はロシアを含む」という議論は「人類はヨハネ・パウロ二世を含む」という議論と同じで、では人類はすべて教皇として聖別されたのか、というとそうでないことは明らかです。そういう議論は「奉献」、「聖別」ということの意味が全然分かっていない人の議論です。

2000年10月8日:
ヴァチカンでまたもや世界の奉献が行われました。しかしロシアの奉献は為されませんでした。なぜなら、奉献のテキストには、ロシアへの言及がなかったからです。ただ、このときの儀式は「奉献」(consecration)と呼ばれずに、「信託」(entrustment)と呼ばれています。1400人の司教と76人の枢機卿が列席したこの儀式では、ロシアと特定してロシアの奉献が可能であったにもかかわらず、「信託」の対象として言及されたのは、世界であり、「失業者」であり、「意味を探し求める青少年」等々であっても、ロシアではなかったのです。

2000年11月30日:
ヴァチカン寄りの雑誌Inside the Vaticanが、「教皇に最も近い相談相手の一人」と言われるある枢機卿は、教皇が、どの奉献の儀式においてもロシアに言及しないように忠告されていたということを認めていると、明らかにしています。なぜなら、このことはロシア正教会を怒らせるからです。これは「東方政策」とヴァチカンの政策がロシアの特殊的奉献を妨げているということがヴァチカンの高官によってここで確証されているということです。

2001年9月11日:
テロリストたちによってハイジャックされた2機の航空機がニューヨークの世界貿易センターの2つのビル(いわゆるツイン・タワー)に突入して崩壊させ、もう1機はペンタゴンに突入・自爆し、合わせて5000人以上が殺されました。聖母が世界に平和をもたらすと約束なさったロシアの奉献がまだ果たされていないということの明白な証明ですが、ファチマに反対する人々(ヴァチカン当局の高官たちを含む)は、それでもなお、ファチマのメッセージが1984年3月25日の教皇の世界の奉献によって達成され、マリアの汚れなき御心の勝利が現にわたしたちの上にあると主張しています。

2001年11月17日:
この日一つのインタビューが2時間にわたってタルチジオ・ベルトーネ大司教(信仰教義聖省秘書官)によって行われました。しかし、ある理由でその結果は一ヶ月以上もの間明らかにされなませんでした。オッセルヴァトーレ・ロマーノ(L'Osservatore Romano)(イタリア語版)が、「イエズスおよび汚れなき御心のシスター・マリア・ルチアとのタルチジオ・ベルトーネ大司教閣下の会合」と題された、ベルトーネ大司教の短いコミュニケを公表したのは、2001年12月21日になってからでした。その後、英語訳がオッセルヴァトーレ・ロマーノ(L'Osservatore Romano)英語版において出されたのはさらに遅れて今年2002年1月9日でした。そのコミュニケの実質は、ベルトーネ大司教によれば、シスター・ルチアが「1984年の世界の奉献はロシアの奉献のために十分でした」、そして「すべてのことが公表されました。もうどんな秘密も存在しません」と言っているということです。最初の部分の陳述はシスター・ルチアが70年間それと反対のことを言ってきたすべてのことと矛盾しています。後の部分の陳述は第三の秘密についてのある質問に対するシスター・ルチアの答えとして述べられていますが、しかし、まったく奇妙なことに、その質問の方は提供されていません。

なぜこのようなインタビューを行い、公表するかについてベルトーネ大司教は次のように語っています。「最近数ヶ月の間に、とりわけ昨年の9月11日のテロ攻撃の悲しい出来事の後、外国およびイタリアの新聞には、シスター・ルチアのだと言われている新しい啓示、教皇に対する警告の手紙の告知、ファチマのメッセージについての黙示録的再解釈に関する記事が現れた。さらに、聖座が秘密の第三部の全部のテキストを公表しなかったという疑惑が強調された。そしていくつかのファチマを信じる人々の運動は教皇がまだマリアの汚れなき御心にロシアを奉献していないという非難を繰り返してきた。この理由で...シスター・ルチアとの会合を準備する必要があると考えた。 」

このようなインタビューそのものではなくて、インタビューアーのコミュニケなるものは、果たしてインタビューの真実を伝えているのかどうか、この点については、 クリストファー・A.フェララ著『天のために証人に耳を傾けよう』を見てください。

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以上、クレイマー神父に基づいて、聖母がそれによってロシアの回心と世界の真の平和をお約束になったロシアの奉献について、1917年7月13日から今日までの推移を簡単にたどってきました。このような推移を見ても、ファチマのメッセージが1962年の第二ヴァチカン公会議の前後から、徐々に歪曲されていく経過が読みとれます。その裏にはファチマ・メッセージを単なる私的な信心の領域に閉じこめようとする意図が見えて来ます。

しかし、ファチマの預言はある人々が言うように、単なる私的預言ではなく、太陽の奇蹟によって裏打ちされた公的な預言であり、重大な結果を伴う神からの荘厳な警告です。ですからファチマの預言は単なる私的な信心への勧めにとどまるものではありません。私的な預言と考えられた聖マルガリータ・マリア・アラコックのフランス王に対する預言でさえ、100年後に不幸な結果として実現されました。それと同じことがファチマの預言について起こらないために、ロシアの奉献が世界の奉献によって為されたのだという欺瞞を打破する必要があると思います。そして、ファチマの預言がもはや過去の出来事に属するという主張も再考に値する重大な問題だと思います。シスター・ルチアの預言は彼女自身から出ているのではなく、聖母マリアから出ているのであり、聖母マリアの預言は神御自身から出ているということを考えるならば、「信じるも自由、信じないも自由」という態度をとるべきではないと思います。神はわたしたちひとりひとりの魂の救いを、誰一人地獄に行かないことを望んでおられますが、世界が、教会が一致して神の御要求を聴き容れること、すなわち、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献という公的な行為を荘厳に行うという従順を望んでおられます。

私の命令の遂行を遅らせることによって、私のしもべたちがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、不幸に陥るだろうということを、彼らに知らせなさい」。マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献は神の命令であり、「私のしもべたち」とキリストが言われたのは、第一に、わたしたちの教皇、そして枢機卿、司教、司祭、修道者、そして私たちひとりひとりの信徒です。

2002/11/16 三上 茂訳

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作成日:2002/11/16

最終更新日:2004/01/05

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