もみ消し工作の年代誌

ポール・クレイマー神父B. Ph., S.T.B., M.Div., S.T.L.(Cand.)

すべての人類に真の平和をもたらすためのファチマの聖母の介入の短い歴史と平和、希望、喜びと救いの聖母のメッセージを挫折させ、沈黙させ、変造し、妨害するための進行中のキャンペーン

2001年9月11日のアメリカに対する前例のない攻撃、そしてイスラム教テロリストたちが生物・化学兵器ならびに核爆弾を獲得したという信頼すべき報道はただちにファチマの聖母の警告(p.3のファチマに関する差込み記事を見よ)を思い起こさせる。すなわち、もしロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されないならば、「さまざまの国が絶滅させられるであろう」、そしてただ奉献という手段によってのみ世界は現代において真の平和を達成することができるという警告を。

ファチマの聖母が最初に御出現になって84年以上も後に、聖母のロシア奉献の要求は実現されないままであり、聖母の警告は無視されたままである。

そして依然として、世界が最終的な黙示録的出来事へとますます近づいているのに、ヴァチカンにおけるある一団は、そのことを主張し続けている人々を迫害する一方で、これまで以上にファチマ・メッセージを過去へと引き渡す決心をしているように見える。

5000人以上の生命を奪い、全世界を茫然とさせた9月11日のテロリスト攻撃のたった1日後、--たったの1日だ!--ヴァチカン報道局はニコラス・グルーナー神父と彼のファチマ使徒職を非難し、誰もファチマ・メッセージを通じての世界の平和に関する使徒職の会議(2001年10月7日--13日に予定)に参加してはならないと宣言する声明を出した。

これらヴァチカンの職員たちは世界テロリズムよりもファチマをそれ以上に恐れているのであろうか? 彼らは--油断なく警戒して--世界中で教会を傷つけている異端やスキャンダルに関心を持つより以上にローマにおけるファチマ会議に関心を持っているのであろうか? 明らかにこれらのヴァチカン職員たちは世界の状態、彼らが統轄している教会の状態についてのあらゆるバランス感覚を失ってしまったのだ。

ここにわれわれは大きなそして恐るべき逆説の長い歴史における鍵となる出来事:現代における真の平和のための神の御計画の実現を抑圧し、抑圧しそして挫折させようと、カトリック教会それ自身の内部で活動している少数の人々の努力、を提示する。

1929年から1964年まで

1929年6月13日--ファチマにおける聖母の最初の御出現の12年後、そして1917年7月13日のファチマでの聖母の御約束を果たされるために、ファチマの聖母はスペイン、トゥイでシスター・ルチアに再び御出現になる。聖母は十字架上の聖母の神なる御子イエズスの側に雲の上に立たれ、こう言われる:

「神が教皇に、世界の全司教に教皇と一致して、そして同じ時に、私[聖母]の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにさせ、そして命じるようにお求めなる時が来ました。--祈りと世界的な償いのこの日のゆえにロシアを回心させることを約束なさりながら--」

1931年8月--われらの主御自身がシスター・ルチアに言われる。ロシアの奉献に関して、主は彼女にこう告げられる:

「私の代理者たちに、私の命令の実行を遅らせることにおいてフランス王の例に彼らが従うならば、彼と同じように彼らが彼に従って不幸に陥るだろうということを知らせなさい。」

1935年1月21日--シスター・ルチアは彼女の告解聴聞司祭ゴンサルヴェス神父に対して、彼の質問に答えて、こう書いている:「ロシアの問題に関して、私は、もしあなたが教皇様を主のお望みに従わせるために働かれるならば、われらの主をたいそう喜ばせることでしょう。...[あなたは訊ねておられます]あなたが司教様と共に主張なさるべきだと私が考えているかどうかを。私はそのことはわれらの主をたいそう喜ばせるだろうと思います。あなたが何かを修正すべきかどうかを? 私はそれは正確に、われらの主がそれをお求めになった通りであるべきだと思います。...」

1936年5月--われらの主はシスター・ルチアに再びお話になる。そして彼女にロシアの回心はすべての司教たちと一緒に教皇によってその国[ロシア]が汚れなき御心に荘厳にそして公に奉献されるときにのみ起こるであろうと告げられる。別の機会に、聖母はシスター・ルチアに、ロシアは、「あの可哀想な国」の回心が奉献によってあらかじめ手に入れられていないならば、世界の懲罰の道具となるはずだと告げられる。

1942年10月31日および12月8日--教皇ピオ十二世は単独で汚れなき御心に世界を、しかし、ロシアではなく、奉献される。数週の後、ウィンストン・チャーチルは「運命の蝶番」が変わったと述べる。そして連合軍はヒットラーの軍隊に対する彼らのほとんどの戦闘において勝利し始める。1943年春、われらの主はシスター・ルチアに戦争は短くされるであろうが、世界平和はこの奉献からは結果しないであろうと告げられる。第二次世界大戦はさらにあと2年続くであろう。

1943年9月--シスター・ルチアは重い病気になる。ファチマの司教は彼女が死に、ファチマの第三の秘密(p. 3を見よ)を墓の中へ持って行くことを恐れる。彼は彼女がそれを書き留め、封印した封筒の中へ入れることを示唆する。彼女はそのようなイニシアティブは彼女にとってあまりに大きすぎる--しかしもし司教が彼女に公式的に命じることによってその責任を引き受けるならば、そのとき喜んで従うであろうと答える。

1943年10月--1ヶ月の祈りと熟慮の後にファチマ司教、ホセ・ダ・シルヴァ閣下はシスター・ルチアに第三の秘密を書き留めるよう公式の書面の命令を与える。シスター・ルチアはすぐに従うように努力するが、2ヶ月以上もの間神秘的な仕方で、第三の秘密を紙に書き留めることができない。

1944年1月2日--聖母がシスター・ルチアに再び御出現になり、彼女に1917年7月にファチマで彼女に託された秘密の第三の部分--これは単純に第三の秘密として知られるようになる--を書き留めるようにお命じになる。聖母は第三の秘密が遅くとも1960年には世界に明らかにされるように要求なさる。後になって、第三の秘密はなぜ1960年までには明らかにされなければならなかったのかと問われて、シスター・ルチアはこう述べる:「祝せられたおとめがそれをそのようにお望みになっているからです」、そして「それ[第三の秘密]はそのときより明らかとなるでしょう」と。

1944年1月9日--シスター・ルチアはファチマの司教に、そうすることができなかった数ヶ月の後に、そして司教にそのように長い間待たせた後に、第三の秘密を書き留めるようにという司教の命令に最終的に従うことができたと手紙をする。

1944年6月17日--シスター・ルチアが司教以外の誰にも、第三の秘密における聖母の言葉を含む1ページの手紙を持って行くことを許そうとしないので、この日までそれはファチマの司教には与えられなかった。この日一人の司教がトゥイの修道院の近くを訪問する。それでシスター・ルチアは秘密をその司教にゆだねる。司教は今度はそれをその同じ日にファチマのホセ・ダ・シルヴァ司教に与える。ファチマの司教はその秘密をすぐに自由に読むことができるが、しかしそうしないことを選ぶ。

1946年7月15日--ウィリアム・T. ウォルシュ(William T. Walsh)からの質問に答えて、シスター・ルチアは聖母が(1942年に教皇ピオ十二世によってなされたように)世界の奉献をお求めになったのではなくて、ただ特殊的にロシアだけの奉献をお求めになったのだと指摘している。「もしこのことがなされるならば」とシスター・ルチアは言う、聖母は「ロシアを回心させ、そしてそこには平和があるでしょう」と約束なさっていると。

1952年7月7日--教皇ピオ十二世はロシアを特殊的に奉献なさる。しかし教皇は世界のすべてのカトリック司教によって参加されていない。なぜなら、彼はこのことが必要であるということを彼らに忠告することなく、彼らに参加するように求めなかったからである。朝鮮における戦争が続行し、他の諸々の戦争がその後に続く。

1952年9月2日--シュヴァイグル(Schweigl)神父がシスター・ルチアにポルトガル、コインブラにある彼女の修道院で第三の秘密について質問する。彼は教皇ピオ十二世によって特別の使命を与えられてそこに送られた。ローマのルッシクムに帰ってから、シュヴァイグル神父は同僚の一人にこれを漏らしている:「第三の秘密に関してファチマで私が学んだことを何か明らかにすることはできないが、それが二つの部分を持っていると言うことができる。すなわち、一つは教皇に関する部分であり、もう一つは--私は何も言ってはならないが--論理的に、ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょうという言葉の続きであるだろう。」

1955年5月17日--ヴァチカン聖省長官オッタヴィアーニ(Ottaviani)枢機卿はピオ十二世によって秘密の内容についてシスター・ルチアに質問するためにコインブラにある修道院に遣わされた。オッタヴィアーニ枢機卿の質問の後に第三の秘密のテキストがヴァチカンへ移されるようにという命令が来るであろう。

1957年3月--それがヴァチカンに移される直前に、ジョン・ヴェナンシオ(John Venancio)司教は第三の秘密が入っている封筒を強力な電灯の下で照らしてみた。彼は、その秘密はおよそ25行の長さであり、両側に4分の3センチのマージンを取ってある1枚の紙に書かれているということを注意深くメモしている。

1957年4月16日--元の封筒の中に封をされ、そして外側の封筒の中にさらに封をされた第三の秘密のテキストはヴァチカンに移される。そのテキストはパリ・マッチ(Paris-Match)という雑誌の写真において示されているように、教皇住居の中の金庫の中に置かれる。

1957年12月26日--フエンテス神父がシスター・ルチアにインタビューを行う。彼女は彼に、地の表から多くの国々が消滅するということについて、また聖母のメッセージを無視する結果として地獄へ行く多くの霊魂について告げる。

1958年--フエンテス神父はシスター・ルチアとのインタビューを公表する。それは広く読まれるが誰もそれが真正のものであることを疑義をはさまない。

1958年10月9日-- 教皇ピオ十二世死去。

1959年7月2日-- フエンテス神父のシスター・ルチアとのインタビューが突然、コインブラにある司教公文書保管所からの匿名の報告において欺瞞的なものであると非難される。40年以上も後の今日に至るまで、いかなる当局者もこの報道に対して責任を取っていない。

1960年2月8日-- シスター・ルチアに対する聖母の明白な御要求、そしてファチマ司教およびリスボン枢機卿総大司教からの繰り返された約束にもかかわらず、ヴァチカンにおける無名の人々が、第三の秘密は公表されないであろう、そしておそらく「永遠に絶対的な封印の下にとどまるであろう」と匿名で公表する。この公表は(A.N.I.報道機関を通じての)第三の秘密のテキストを以下のように記述している。

テロと戦争に反対するわれわれの唯一の希望
ファチマのメッセージ

ファチマの聖母の御出現とメッセージはわれわれの騒然とした世界に対する希望、喜びそして平和の燈台である。メッセージへのわれわれの従順は、以下にあなたたちが見るであろうように、世界平和およびテロからの自由に対するわれわれの唯一の希望である。

神はメッセージ全体が神から来るものとして真正のものであることが実際に保証されている一つの確実な証拠として1917年10月13日に偉大な太陽の奇跡を働かれた。

この預言的なメッセージは教皇ベネディクト15世--そのときまでの大戦争における恐るべき苦しみの3年の後に--が大きな悲しみのうちに1917年5月5日の非常に公的な祈りにおいて祝せられたおとめに、彼と人類に平和への道を示してくださるよう願うために嘆願した第一次世界大戦の間に始まった。彼は人間の努力だけでは十分でないということを知っておられ、また認めておられた。

いともやさしいおとめは、教皇ヨハネ・パウロ2世が言われるように、「あらゆる人類に向けられている」ファチマでのメッセージを与えることによって8日後にお答えになった。

聖母はこのメッセージを3人の羊飼いの子どもたち、ルチア、ヤチンタ、フランシスコを通じてお与えになった。聖母は5月13日から10月13日までの各々の月に一度御出現になった。聖母はシスター・ルチア--唯一の生き残りの羊飼い--に1925年12月10日に戻って来られた。そして1929年6月13日に世界平和に対する要求を説明し完成させるために戻って来られた(上述の年代誌における1929年の出来事を見よ。)

また1917年7月13日には聖母は、後に教皇にそしてすべての信徒に明らかにされるはずの一つの秘密をシスター・ルチアに打ち明けられた。この秘密は世界平和への鍵を含んでいる。この秘密は三つの部分に分けられる。最初の二つの部分は1941年にシスター・ルチアによって明らかにされた。第三の部分は、われわれがこの小冊子において見るであろうように、後に明らかにされるはずであった。

聖母は約束された。「もし私の要求が聴き入れられるならば、多くの霊魂が救われ、平和があるでしょう。」しかし、聖母はそのメッセージを無視する愚かさを指摘なさった。聖母は言われた。「もし私の要求が聴き入れないならば、善人たちは殉教し、教皇は多く苦しみそしてさまざまの国が絶滅させられるでしょう。」

神は1917年のロシア革命--それはロシアから神を排除し、至る所で神と神の信奉者たちと戦う陰謀を働いた--によって公的に侮辱を受けられたがゆえに、ファチマ・メッセージにおいて神に対するこの罪を償う一つの公的な行為を要求なさった。1929年6月13日にファチマの聖母はいとも祝せられた三位一体の現前なさる前で神がマリアの汚れなき御心にロシアを奉献することを求めておられると説明なさった。(上述の年代誌において述べた1929年6月13日、そして次に1931年、1935年そして1936年の出来事を見よ。)

神が国家によって課された無神論の罪に対する償いの行為として強くお求めになっているのはこの行為である。さもなければ、われわれの罪は恐るべき背教、異端、世界を飲み込む悪徳と罪という結果を刈り取るであろう。従順のこの行為は戦争とテロから救われるわれわれの唯一の希望であり、世界平和のためのわれわれの唯一の希望である--この行為が非常に困難であるからではなく、それが非常に容易であるからである。そしてこのようにして人々は結果として得られる平和が完全に神といと祝せられたおとめの取り次ぎによるということを見るであろう。

神はファチマ・メッセージにおいて、われわれが平和およびテロと戦争からの自由を手にするのはただ「この手段によって」だけであるということを強調なさる。なぜなら、神は多くの罪人たちが地獄に行くことから救うために世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられるからである。

「非常に信頼できるヴァチカン筋において、手紙は決して公開されないであろうということが最もあり得ることであるとたった今発表された。その手紙の中で、シスター・ルチアはコヴァ・ダ・イリアの3人の小さな羊飼いたちに一つの秘密として聖母が打ち明けられた言葉を書き留めた。」

1960年-- シスター・ルチアは第三の秘密について話すことを公式に禁止される。そして近い親戚そして彼女が長い間知っていた人々以外にはいかなる訪問者も受けることができない。多年の彼女自身の告解聴聞司祭、アパリシオ神父はブラジルから戻るが彼女に会うことは許されない。

1961年-- フエンテス神父は、メキシコ首座大司教枢機卿および彼自身のピオ・ロペス大司教によって擁護されているにもかかわらず、匿名の1959年7月2日コインブラ報道に基づいてヤチンタとフランシスコ列福訴訟の要求者としての役職からはずされる。

1962年10月-- 第二ヴァチカン公会議開催の直前に、ヴァチカンは、公会議がソビエト・ロシアあるいは共産主義一般を非難しない、それと引き換えに2人のロシア正教会のオブザーバーが、教皇ヨハネ23世によって望まれたとして、公会議に参加するということでモスクワと同意する。この同意はオストポリティク政策を開始するが、その政策はヴァチカンが共産主義を名指しで反対することを抑制し、またカトリック教徒を迫害している共産主義政権をヴァチカンが非難することを妨げる。新しいヴァチカン政策は共産主義者たちとの「対話」と交渉に賛成している。この政策は共産主義を非難し、それに公然と反対し、キリストとその教会に対する彼らの戦争を進めるために常にそのような協同を食い物にしている共産主義者たちとのいかなる協同をも慎む教会の義務に関する諸教皇ピオ12世、ピオ11世、ピオ9世、聖ピオ10世、レオ13世の教えから離れるものである。

1964年11月21日-- 教皇パウロ6世は第2ヴァチカン公会議の第3セッションの閉会式の間に再び世界を奉献された。オスト・ポリティクを保持することによって、共産主義者たちを不快にしないように、ロシアについては言及されない。世界平和は捕らえどころがないままである。ベトナム戦争は1970年代まで続く。

1965年から1983年まで

1965年12月8日--第2ヴァチカン公会議閉会

1966年--第2ヴァチカン公会議の直後の時期にファチマ司教モンシニョール・ホアン・ヴェナンシオ(Mgr. Joao Venancio)は進歩主義者たち--近代主義者のイエズス会のダニス(Dhanis)神父のすべての弟子たち--の不誠実な攻撃に対して聖母の真正のメッセージを擁護する必要性と緊急性を理解するようになる。修正主義者たちに対してファチマのメッセージを守るために、司教は1966年に学識豊かなクラレティアン会の司祭、ホアキン・アロンゾ神父を、ファチマの啓示の完全に批判的な歴史を確立するように委託する。10年後にアロンゾ神父は「ファチマの諸テキストと批判的研究」(Fatima Texts and Critical Studies)という著作を完成する。そのファチマ御出現の始まりから1974年11月12日までに及ぶ5,396の文書を提供している。アロンゾ神父の草稿は、それらに情報を求めているアベ・ルネ・ローランタン(Abbe Rene Laurentin)によれば、「非常によく準備された」ものであった。

1966年11月15日--教会法法典における新しい改訂は教会における誰もが出版認可の必要なしに、ファチマの御出現を含むマリアの諸々の御出現について出版することを許可する世界における10億のカトリック教徒の中でただルチアだけ--ファチマのメッセージを受けたまさにその人間--が、遅くとも1960年までには秘密が教会と世界に明らかにされるようにと聖母がご自分の意志を表明されたにもかかわらず、ファチマの秘密を明らかにすることを今なお禁止されている。シスター・ルチアは今日まで沈黙の命令の下にとどまっており、ヴァチカンからの特別の許可なしにはファチマについて自由に話すことができない。

1967年--シスター・ルチアの回想録が出版される。その中で彼女はロシアの奉献を聖母が1929年に求められたことを明らかにしている。ロシアを奉献するように教皇に求める数千の署名の収集を伴う公的キャンペーンが始まる。

1967年2月11日--ある記者会見において、第三の秘密を読んだオッタヴィアーニ枢機卿が秘密は1枚の紙に書かれているということを明らかにする。

1967年5月13日--シスター・ルチアは教皇パウロ6世がファチマを訪問されている間に公共の広場で教皇に会う。100万人の巡礼者のいる前で、彼女は教皇と話をすることを懇願する。教皇が彼女を拒絶され、彼女に「あなたの司教に話しなさい」と言われるとき、彼女は泣く。少なくとも一人のファチマ専門家によれば、シスター・ルチアは教皇パウロ6世に第三の秘密を明らかにするように嘆願したが、教皇は拒絶された。

1975年--ファチマ文書研究の10年後、アロンゾ神父は、フエンテス神父の1957年に出版されたシスター・ルチアとのインタビューはファチマのメッセージの内容に関する彼女の陳述の真の正確な報告であったと公に宣言する。

1975年--各巻800ページのアロンゾ神父の24巻[の書物]の出版準備ができる。ファチマ・メッセージに関するこの記念碑的な著作は少なくとも5,396の文書を含んでいる。アロンゾ神父の10年の研究は公衆に届くことを妨げられて、ファチマの新司教、モンシニョール・ド・アマラル(Monsignor do Amaral)によって文字通り出版を止められる。24巻のうち2巻はゆくゆくは出版されるであろうが(1992年および1999にそれぞれ)しかし厳しく編集された形においてだけである。

1978年10月16日--教皇ヨハネ・パウロ2世が選出される。教皇スポークスマン、ホアキン・ナヴァロ-ヴァルスによるアソシエイテッド・プレス(2000年5月の)への声明によれば、彼は選出後数日以内に第三の秘密を読む。ナヴァロ-ヴァルスによる声明は信仰教義聖省のモンシニョール・ベルトーネによって否定されるであろう。モンシニョール・ベルトーネは、教皇は1981年7月18日までは第三の秘密を読んだことがないと主張するであろう。二つの矛盾対立する声明は第三の秘密を全体として in toto 構成する二つの異なったテキストの存在を示唆する。教皇は1957年に教皇住居の中の金庫の中に置かれた秘密の同じテキストを読んだと思われる。

1980年--たった3年間でヨシフ・スリピ(Josyf Slipyj)枢機卿によって後援された拡大キャンペーンにおいて、ロシア奉献を求める公的請願は300万以上の署名を集め、それはヴァチカンで受け取られる。

1981年5月13日--教皇ヨハネ・パウロ2世ファチマの聖母の最初の御出現のちょうど記念日に狙撃される。狙撃は一人の少女のセーターにピンで留められた聖母の御絵を教皇が振り返って見たちょうどその瞬間に行われる。弾丸は的をはずれる。教皇は自分の生命を救うためにファチマの聖母が介入されたことを認める。

1981年6月7日--教皇はその傷からまだ回復中の間に、世界を、しかしロシアをではなく、奉献される。

1981年7月18日--モンシニョール・ベルトーネ(Msgr. Bertone)(彼は、上に述べたように、教皇のスポークス・マン、ホアキン・ナヴァロ・ヴァルス(Joakin Navarro-Valls)とこの点に関して矛盾している)によれば、教皇ヨハネ・パウロ2世は第三の秘密を初めて読まれる。

1981年12月12日--アロンゾ神父死去。しかし死の前に、彼はファチマに関する多くの論考と短い書物を出版することができた。ここに第三の秘密に関する彼の研究の最も重要な結論のいくつかがある。

「マリアの汚れなき御心の偉大な勝利に先行する時期に諸々の恐るべき事柄が起こるはずである。これらが秘密の第三部の内容を構成している。それらは何であろうか? もし『ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう』ということであるならば、このことから、教会の他の諸部分においてはこれらの教義が曖昧なものとなり、あるいはまったく失われてしまうということさえあるということが明瞭に推論され得る。」

「このように問題になっているこの中間的な時期に(1960年以後とマリアの汚れなき御心の勝利の前の)(第三の秘密の)テキストは教会の信仰の危機と司牧者たち自身の怠慢に具体的に言及しているということはまったくあり得ることである。」アロンゾ神父はさらに「教会のまさに内部における内的な闘争について、そして「高位聖職者階級による重大な司牧上の怠慢」および「教会の高位聖職者階級の諸欠陥」について話している。

「公表されなかったテキストは具体的な諸状況について話しているであろうか? それがこの中間期の間の教会における信仰の真の危機について話しているばかりではなく、例えばラ・サレットの秘密と同じように、カトリック教徒たちの内的な闘争、あるいは司祭や修道者たちの堕落へのより具体的な言及があるということはまったくあり得ることである。おそらく、それは教会の高位聖職者階級の諸々の不履行に言及さえしている。」ついでに言うならば、これらのうちのどれ一つも、シスター・ルチアがこの問題に関して行った他の会話にも無縁ではない。」

シスター・ルチアがアロンゾ神父のこれらの結論を決して訂正していないことは意義深いことである--彼女はファチマに関する聖職者たちやさまざまな著者たちの他の陳述を、彼らが間違ったときには訂正することを決して躊躇しなかったにもかかわらず--。アロンゾ神父は諸文書とシスター・ルチア自身へのアクセス権を持っている。このように、彼の証言は非常に重要なものである。

1982年3月21日--シスター・ルチアは教皇使節、他の司教そしてラセルダ(Lacerda)博士に会い、ファチマの聖母の要求に従ったロシアの妥当な奉献の諸要件について彼らに知らせる。シスター・ルチアの完全なメッセージは使節によって教皇に伝えられていない。使節は彼に同伴した司教によって、世界の司教たちが奉献に参加するという要件に言及しないよう告げられている。

1982年5月12日--教皇ヨハネ・パウロ2世のファチマ訪問の夕方、オッセルヴァトーレ・ロマーノ--教皇自身の新聞--はウンベルト・マリア・パスクアーレ(Umberto Maria Pasquale,S.D.B.)神父による、ロシアの奉献の主題に関するシスター・ルチアとの彼の会話の一つおよびそれに続く彼女の彼への手紙について一つの論考を公表している。このインタビューの中で、パスクアーレ神父は、シスター・ルチアが彼に、ファチマの聖母は世界の奉献を決して要求なさらなかったのであり、ただロシアの奉献だけを要求なさったと、明瞭にまた強調して彼に告げたということを世界に明らかにしている。パスクアーレ神父はまたこの点に関して彼らの会話を証明するシスター・ルチアによる手書きのメモの写真複写されたコピーをも公表している。

著名なサレジオ会司祭であるパスクアーレ神父は1939年以来シスター・ルチアを知っている。1982年までに彼は彼女から157通の手紙を受け取った。ここにオッセルヴァトーレ・ロマーノにおいて公表されたものとして、彼自身の証言がある。

「私は典拠に頼ってロシアの奉献の問題を明らかにしたいと思った。1978年8月5日にコインブラのカルメル会においえ私はファチマの幻視者、シスター・ルチアと長いインタビューをした。ある時に、私は彼女に言った。『シスター、あなたに一つの質問をしたいのだが。もし私に答えることができなければ、それで結構!しかしもし答えることができるなら、あなたにとても感謝するでしょう。なぜなら、多くの人々にとって明らかとは思われない一つの点を私のためにあなたは明らかにするからです。...聖母はご自分の汚れなき御心への世界の奉献についてあなたに話されたことがありますか? 』--『いいえ、ウンベルト神父様!一度もありません!1917年にコヴァ・ダ・イリアで聖母はこう約束なさいました。世界中にロシアの誤謬が広まること、さまざまの国の間での戦争、教会に対する迫害を阻止するために...私はロシアの奉献を求めるためにやって来るでしょう。...1929年にトゥイにおいて、聖母は約束なさった通り、教皇様にあの国(ロシア)の奉献を求める時が来たということを私に告げるために戻って来られました。』...」

この会話の後、バスクアーレ神父はシスター・ルチアからの書かれた宣言を貰いたいと思って、彼女にこの要求を次のように書いて送った。「聖母はあなたにご自分の汚れなき御心への世界の奉献について話されたことがありますか?」パスクアーレ神父はその後1980年4月13日づけのシスター・ルチアからの一通の書かれた返答を受け取った。コピーは上に再現されている。

ここにシスター・ルチアの手書きのメモの訳がある。

「ウンベルト神父様、

「あなたのご質問に答えて、私は明らかにします:

ファチマの聖母はその御要求の中でただロシアの奉献にだけ言及なさいました。」...

「コインブラ、1980年4月13日」

(署名)シスター・ルチア

1982年5月12日--シスター・ルチアは「教皇に宛てた」と申し立てられている一つの手紙を書いている。2000年6月26日のヴァチカン文書はこの手書きの手紙の写真複写を提供し、それが教皇ヨハネ・パウロ2世に宛てられたものであると主張するであろう。しかしながら、手書きのポルトガル語のテキスト(一部が下に示されている)とヴァチカンによって準備された版(英語、イタリア語およびポルトガル語)との綿密な比較は、この手紙が教皇に宛てて書かれたものではあり得ないという決定的な局面が三つの版すべてから落とされていたということを明らかにしている。

ヴァチカンによって準備された英語版における対応するテキストは以下に示される。

さっき言及したシスター・ルチアの手紙から取られた以下の陳述において、太字にされたテキストがヴァチカンの印刷された版からは意図的に落とされている。すなわち、そのテキストはこうである。"A terseira parte deo segredo,que tanto ansiais por conhecer,e uma revelacao simplica..."その訳は「あなたがそのように知りたいと切望しておられる秘密の第三部は象徴的な啓示です。...」

この落とされた文言は、教皇ヨハネ・パウロ2世が--1978年に、(ホアキン・ナヴァロ-ヴァルスによれば)教皇になって数日以内に、あるいは(モンシニョール・ベルトーネによれば)1981年7月18日に、のいずれかに--すでに秘密を読んでいたのに、受け取り手が「[秘密を]知りたいと切望している」と述べている。教皇は1981年までには第三の秘密をすでに読んでいたのであるから、それが1982年に含んでいたことをなぜ教皇は「知りたいと切望する」であろうか? さらに、教皇は望む時にいつでもヴァチカン文書館(あるいは教皇住居にある金庫)からテキストを手に入れることができたときに、その教皇が秘密を知りたいと切望しているということをシスター・ルチアはどのように述べることができたであろうか?

同じ手紙はこう述べている。「たとえ私たちがこの預言の最後の部分の完全な実現をまだ見なかったとしても、私たちはそれに向かって少しずつ大股で近づいているのです。」(ラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネが後に2000年6月26日に主張するであろうように)もし預言が1981年5月13日の教皇の生命に対する未遂の試みですでに実現されていたとしたら、第三の秘密の預言がまだ実現されていないと、シスター・ルチアはなぜ1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世に告げたのであろうか?

1982年5月13日--教皇ヨハネ・パウロ2世はファチマで世界を、しかしロシアをではなく、奉献された。世界の司教たちは参加しなかった。

1982年5月19日--オッセルヴァトーレ・ロマーノにおいて、教皇は、「具体的な諸状況の中で可能なすべてのことをなそうと努めた」と述べながら、なぜロシアを特殊的に奉献しなかったかを説明される。

1982年7月/8月--ブルー・アーミーのソウル・マガジンSoul Magazineはなされたと主張されているシスター・ルチアとのインタビューを公表する。その中で、彼女はロシアの奉献は1982年5月13日の儀式によって果たされたと主張しているとされている。

1982年--1983年--友人たちや親戚の人々への私的なコメントの中で、シスター・ルチアは奉献がなされたということを繰り返し否定している。1983年にそう言うように求められたとき、シスター・ルチアはジョゼフ・ド・サント・マリー神父に、そのような陳述をすることができる前に、「ヴァチカンからの公式の許可」を得なければならないと告げている。

1983年3月19日--教皇の要求で、シスター・ルチアは教皇使節ポルタルピ(Portalupi)大司教、ラセルダ博士に再び会う。そして今回はメシアス・コエリョ(Mesias Coelho)神父とも会う。この会合の間にシスター・ルチアは、ロシアの奉献は、ロシアが奉献の対象として明確に現れていない、そして世界の司教たちが参加しなかったゆえに、なされなかったと確証する。彼女はヴァチカンの許可を得ていなかったので、そう公に言うことはできなかったと説明している。

1983年5月--10月--カイヨン(Caillon)神父とグルーナー神父は1982年7月/8月のソウル・マガジンのインタビューを偽りとして暴露するいくつかの論考を公表する。

1984年

1984年3月25日--教皇はローマで25万人の人々の前で再び世界をマリアの汚れなき御心に奉献される。すぐその直後に、教皇はその準備されたテキストから離れ、「特にあなたご自身がわれわれの奉献と信頼を待っておられる人々を照らしてください」と祈られる。教皇はこのように、ファチマの聖母がロシアの奉献を今もなお待っておられるとうことを公に認めておられる。

1984年3月26日--教皇自身の新聞オッセルヴァトーレ・ロマーノは上述の言葉を、教皇がそれを話された通り正確に、報じている。

1984年3月27日--イタリアのカトリック司教の新聞アッヴェニーレにおいて報じられたように、教皇は世界を奉献された3時間後に、聖母が「あなたご自身がわれわれの奉献と信頼とを待っておられる人々」を祝福してくださるよう求めて聖ペトロ大聖堂で祈られる。

1984年--ファチマ専門家メシアス・コエリョ神父は奉献がまだなされていないと公に主張している。彼はこの立場を1989年夏までは首尾一貫して維持している。

1984年9月10日--ファチマの司教、アルベルト・コスメ・ド・アマラル司教はオーストリア、ウィーンの工業大学の大講堂 aula magna における質疑応答時間の間に、次のように宣言する。「その(第三の秘密の)内容はただ信仰にのみ関わっている。...一大陸の信仰の喪失は一国家の絶滅よりももっと悪い。そして信仰がヨーロッパにおいて絶えず減少しつつあることは本当である。」彼の所見はメンサヘム・デ・ファチマ Mensagem de Fatima の1985年2月号において公表されている。

1984年11月11日--ラッツィンガー枢機卿は聖パウロ女子修道会の出版物、雑誌イエズス Jesus においてインタビューを公表している。そのインタビューのタイトルは「ここに信仰が危機に瀕している理由がある」となっており、枢機卿の明白な許可を得て公表されている。そのインタビューの中でラッツィンガー枢機卿は、信仰の危機が世界中の教会に影響を及ぼしていると述べている。この文脈の中で彼は自分が第三の秘密を読んだということ、そして秘密は「キリスト教徒の信仰と生命、そしてそれゆえに世界の生命を脅かす危険」に言及しているということを明らかにしている。

枢機卿はこのように、秘密が教会における広範囲の背教に関係があるというアロンゾ神父の主張を確証している。ラッツィンガー枢機卿は同じインタビューの中で、秘密はまた「ノヴィッシミ[終りの時/終りの事柄]の重要性」に言及している、そして「もしそれが、少なくとも今のところ、公表されないとすれば、それは宗教的な預言を興味本位と混同することを避けるためである...」と言っている。枢機卿はさらに、「この『第三の秘密』の中に含まれている事柄が聖書において告知され、他の多くのマリア御出現、なかんずくファチマの御出現において繰り返し言われてきたことに一致する...」ということを明らかにしている。

上の写真において示されているインタビューのテキストの部分において、枢機卿は第三の秘密が「興味本位のことを求めることと[それが]混同されることを避けるために」明らかにされることはできない「宗教的な預言」を含んでいると言っている。にもかかわらず、2000年6月26日には、同じラッツィンガー枢機卿は第三の秘密がすでに起こった(1981年の教皇暗殺未遂において絶頂に達する)出来事にのみ言及し、未来に関するいかなる預言も含んでいないと言う。ラッツィンガー枢機卿に彼の以前の証言を変えさせる何が起こったのか? なぜ彼は2000年6月26日に第三の秘密はシスター・ルチアの想像の結果だけであり得ると暗示するのであろうか? 彼は本当にファチマのメッセージを信じているのか? もしそうでないならば、ファチマのメッセージについての彼の個人的な解釈は信用され得るであろうか?

1985年--1988年

1985年6月--イエズスにおける1984年11月のインタビューがラッツィンガー報告というタイトルの一冊の書物において出版される。第三の秘密の内容に関するインタビューにおける鍵となる言及は不可解なことに書物から削除されてしまった。この書物は英語、フランス語、ドイツ語そしてイタリア語で100万部以上印刷出版されている。第三の秘密に関する啓示は検閲されてしまったけれども、その書物はアロンゾ神父が第三の秘密において予告されているとわれわれに告げている信仰の危機がすでにわれわれの上にあり、そしてそれが全世界を取り巻いているということを認めている。

1985年9月--(スペインのブルー・アーミーの友の出版物である)雑誌ソル・デ・ファチマ Sol de Fatima におけるあるインタビューの中で、シスター・ルチアはロシアの奉献は今なおなされていない、なぜなら、ふたたびまだロシアが1984年奉献の明白な対象ではなく、世界の司教団が参加しなかったからだ、と主張している。

1985年--ガニョン(Gangon)枢機卿はカイヨン神父とのあるインタビューの中で、ロシアの奉献は今なおなされていないということを認める。

1986年--マリア・ド・フェタル(Maria do Fetal)は(彼女のいとこ)であるシスター・ルチアがロシアの奉献はいまなおなされていないと言っていると、公にその言を引用している。マリア・ド・フェタルはシスター・ルチアがこのことを彼女に告げたと1989年7月までは一貫して主張するであろう。

1986年--1987年--ポール・レオナード・クレイマー(Paul Leonard Kramer)神父は「聖母を沈黙させる陰謀」(1986年6月)と「(合衆国)ブルー・アーミー指導部はファチマ・メッセージを曲げて伝える意図的政策に従った」(1987年4月)という題の続編を書く。二つの論考は1982年ソウル・マガジンの偽のインタビューと聖母によって要求された奉献についてのアメリカ合衆国ブルー・アーミーのそれに続く故意の誤報を暴露している。

1987年7月20日--選挙投票の間に外ですばやくインタビューをされて、シスター・ルチアはジャーナリストのエンリコ・ロメロ(Enrico Romero)にロシアの奉献はなされなかったと確証する。

1987年10月25日--十数人のカトリック指導者たちとの謁見において、マイエル(Mayer)枢機卿は奉献が聖母の特殊的な要求に従ってなされなかったということを公式に認める。

1987年11月26日--ある私的な会合において、シュティックラー(Stickler)枢機卿は、奉献は教皇が司教たちの支持を欠いているのでなされなかったと確証する。「彼らは教皇に従わない」とシュティックラー枢機卿は言う。

19887年--ガニョン枢機卿は奉献がまだなされていないという彼の1985年声明のカイヨン報告を公表したという理由でグルーナー神父を攻撃する。ガニョン枢機卿はカイヨン神父に話したことを認める。しかし彼の報告の真実性を否定しなかった。しかしそれは公表を意図したものではなかったと言う。

1989年--1990年

1989年--350人以上のローマ・カトリック司教たちが、ファチマの聖母によって要求されているとして教皇と共にロシアを奉献する彼らの快諾を確証して、グルーナー神父からの手紙に返事を出した。

1989年--1980年以来、控えめに見積もっても総計100万の署名が、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するよう教皇と司教たちに求める請願としてヴァチカンによって受け取られた。

1989年7月--ファチマにあるホテル・ソラル・ダ・マルタで三人の証人たちの列席する中でメシアス・コエリョ神父は、シスター・ルチアがヴァチカン当局の確定できない人々からの匿名の「指示」を受けたということを明らかにする。その「指示」は、ロシアは決して言及されず、また世界の司教たちは参加しなかったのに、シスター・ルチアと彼女の同僚の修道者たちは今はロシアの奉献が1984年3月25日の儀式において果たされたと言わなければならないと述べている。

この新しい事態の後に、さまざまの証人たち--シスター・ルチア自身も含まれると主張されている--は奉献はなされなかったという彼ら自身の以前の陳述を否認し始める。これらの証人たちは、ロシアに言及していないこと、および世界の司教たちの参加を得ていないことのゆえにファチマ・メッセージにおいて要求されたものとしてロシアが奉献されたということはあり得ないと以前にははっきり述べていた。このようにして、聖母の要求をロシアの奉献から世界の奉献へと「修正する」プロセスが始まる。同時にヴァチカン当局内部から強力な勢力がグルーナー神父と彼の使徒職を抑圧のターゲットにし始める。

1989年7月--ポルトガル教皇使節が交替させられる。ヴァチカン当局内部からの匿名の「指示」と一致して、その後間もなくマリア・ド・フェタルが突然、立場を逆転させ、彼女のいとこ、シスター・ルチアは奉献が果たされたとは考えていないという趣旨の彼女のすべての以前の陳述に矛盾することを言う。マリア・ド・フェタルは今やシスター・ルチアが1984年の世界の奉献がファチマの聖母の要求を満たしたと信じていると主張する。

1989年7月10日--グルーナー神父は1989年5月29日付のアヴェリーノの新司教に丁重に返事を出し、アヴェリーノの前司教、パスクアーレ・ヴェネツィア(Pasquale Venezia)司教からカナダにいる許可を書面で得たことを指摘する。

手紙がグルーナー神父に届くのになぜ1ヶ月もかかったのかの説明は何もない。手紙は国務省枢機卿がファチマのメッセージを促進するグルーナー神父の仕事--それは特にファチマの聖母によって要求されたものとしてのロシアの適切な奉献の促進と第三の秘密の完全な開示の要求を含む仕事である--について「憂慮した信号」を送ったということを明らかにしている。

新しい司教は彼の前任者がグルーナー神父に、彼のファチマ使徒職に従事する間アヴェリーノ司教区の外で生活する許可を与えたことに気がついていないように思われる。

1989年7月24日--インノチェンティ(Innocenti)枢機卿はカナダにおける教皇使節と共に訪問する「招待」を拒否したという理由でグルーナー神父を非難する手紙を書く。使節はグルーナー神父に彼に会う命令を出したことはなかった。インノチェンティ枢機卿は、もしグルーナー神父がカナダにおいてincardinateされるか、それとも1989年9月30日までにアヴェリーノに戻るかのいずれかでなければ、職務停止があり得ると神父を脅迫する。

1989年8月9日--incardinationについての求められていない申し出が突然カナダにおけるフルトン(Fulton)司教によってグルーナー神父に発せられる。しかし、グルーナー神父がファチマのメッセージを促進する彼の仕事をやめるという条件においてのみ、ということである。incardinateするというこの申し出は明らかに、アヴェリーノの司教にその問題をフルトン司教へ引き継ぐように促す国務省枢機卿によってアヴェリーノの司教に適用された圧力によるものである。

1989年8月21日--グルーナー神父は、枢機卿が、アヴェリーノの司教はその問題における彼自身のいかなる命令も与えなかったので、干渉する権利は持たないと指摘する、1989年7月24日付のインノチェンティ枢機卿の手紙(グルーナー神父は8月14日後までそれを受け取らなかった)に対して返事をする。グルーナー神父は自分が教会の法の内部で働いているということを指摘する。グルーナー神父は次にインノチェンティ枢機卿の権威の乱用に反対して教皇に訴える。その後、枢機卿はグルーナー神父に答えず、返事も書かない。枢機卿は彼の事務局の誰もグルーナー神父の名前を彼に再び言わないように命令する。

1989年9月1日--ファチマ・クルーセイダーはファチマ・メッセージについての真理を公表するあらゆる司祭の権利を指摘する。したがって、グルーナー神父の10ぺーじのインノチェンティ枢機卿に対する返答がファチマ・クルーセイダーのこの号において公表される。

1989年8月下旬--9月初旬--モスクワにおけるいわゆる「クー・デタ」。その中で共産主義体制は西欧を欺くことを意図した一つの脚本に従う。この計画は、1958年の計画会議にいたKGB離脱者アナトーリ・ゴリツィン(Anatoly Golitsyn)によって1958年に部分的に書かれ、1984年に公表された。彼の著書New Lie for Oldは西欧の戦略的欺瞞のためのロシア共産党の計画に関する148の予言をしている。1993年までに彼の予言の139が真実となるであろう。

ゴリツィンによって明らかにされた計画は、単に政治的な1989年の変化が聖母によって予告された汚れなき御心の勝利の部分であると考えるように、ファチマの聖母を信じる人々を欺くことによってうまく役立たせられるであろう。実際は1989年から2001年の間のロシアにおける諸々の変化は単にロシア社会のさらなる逸脱を示すに過ぎず、ロシアの回心を示さないであろう。

まさにロシアの戦略的欺瞞が始まるその年、1989年にグルーナー神父と彼の使徒職を沈黙させる動きを含むファチマのメッセージを抑圧あるいは修正するための一つの調整されたキャンペーン、そしてロシアの奉献がロシアに言及しさえしなかった儀式によって果たされたと宣言する、タイプを打たないシスター・ルチアからのタイプで打たれた手紙の突然の出現が始まるのはもはや偶然の一致ではない。

1989年8月--1989年11月--シスター・ルチアによって署名されたとされているコンピューターによって作られた、そしてタイプで打たれた手紙が突然現れるが、それらは奉献について50年以上にわたって彼女がしてきたそれ以前のすべての陳述とはっきりと矛盾する。これらの記録はシスター・ルチアがすることができなかった事実上の誤謬(例えば教皇パウロ6世が彼の1967年ファチマ訪問の間に汚れなき御心に世界を奉献したという偽りの陳述)や彼女が以前に用いたことがなかった表現法を含んでいる。「シスター・ルチア」はタイプライターあるいはワープロでの文通を決してしなかったし、今でも彼女の長い回想記を含む他のすべてのものを手で書き続けている。

1990年1月29日--午前8時30分ころ、マリア・ド・フェタルはファチマでピエール・カイヨン神父に、彼女が前に1984年の世界の奉献がロシアの奉献に対する聖母の要求に一致しないというシスター・ルチアの陳述を報告したとき、彼女は「でっちあげていた」と述べる。

1990年10月11日--シスター・ルチアの実の姉カロリナ(Carolina)はファチマでグルーナー神父に、シスター・ルチアはタイプの打ち方も知らないから彼女からのタイプされた手紙にはほとんど、あるいは何ら信用が置けないと告げる。

1990年10月22日--ある書面での報告において、ある高く評価されている犯罪科学の専門家は1989年11月のコンピューターで作られた手紙にあるシスター・ルチアのものとされている署名は偽造であると述べる。1990年3月にあるイタリアのカトリック雑誌によって公表されたこの手紙からの抜粋は広く読まれ、そして奉献がなされたという「証拠」として引用されている。いくつかの通信社はその話をそのイタリア雑誌から持って来てその欺瞞的な主張を世界中に広めている。

1990年11月--グルーナー神父と国際ファチマロザリオ十字軍はシスター・ルチアを彼女の30年間の沈黙の苦しい試練から解放し、ファチマの第三の秘密を公開するように教皇を励ます世界的なキャンペーンを始める。

1991年--現在

1991年5月13日--シスター・ルチアは教皇の訪問の間にファチマに行くことを丁重に断るが、しかし聖なる従順の下にそうするように命令される。教皇ヨハネ・パウロ2世は2度目のファチマ訪問を行う。そしてシスター・ルチアとの30分の会合を持つ。この会合の後、教皇もシスター・ルチアもどちらもなされたロシアの奉献に関して何らの発表もしない。--出てきたであろう発表は1989年から90年の「シスター・ルチアの手紙」が本物であったということであろう。

ロシアの奉献に関する教皇とシスター・ルチアの沈黙は最も意味深長なものである。シスター・ルチアとロシアの奉献は終り、なされたと示唆しようと努めてきたヴァチカン当局のある部分との間には明白な不一致が存在する。シスター・ルチアは、奉献が果たされたということに同意していると申し立てられているけれども、彼女は1960年に彼女に課された沈黙しているべしという命令によって縛られ続けている。そして彼女は、彼女の強いられた沈黙が続いているがゆえに、この噂に反対して公に自分自身を守ることはない。アロンゾ神父の5,396のオリジナルのファチマ文書の24巻は今なお出版を禁止されている。

1992年10月8日--ファチマ・クルーセイダーの平和会議が開催される。教会法の下では明らかに必要ではないときに、会議のためには教会の許可が要求されるということを示唆する事実に反したそして誤解を招く宣言がサンチェス(Sanchez)枢機卿とセペ(Sepe)大司教によってオッセルヴァトーレ・ロマーノにおいて公表される。同じような事実に反したことが10月7日から9日にポルトガルの新聞に公表される。それにもかかわらず、100人以上の司教が招待とファチマまでの彼らの旅行のための費用の支払いを受け入れる。65人の司教が最終的に参加するが、35人の他の司教は反ファチマ体制やヴァチカン国務省の何人かの役職者たちによって参加しないように「説得」される。

1992年10月10日--グルーナー神父がファチマ聖堂の労働者たちによって打たれてひどい目に遭う。彼らのうちの一人が後に、聖堂のレクトール、モンシニョール・ゲッラ(Msgr.Guerra)の命令で行ったことを認める。ファチマの司教、アマラル司教は4ヶ月後に退職させられるが、しかしモンシニョール・ゲッラは今も聖堂レクトールである。

1992年10月11日--シスター・ルチアの問題のあるインタビューがパチェコ(Pacheco)神父、パディヤラ(Padiyara)枢機卿、ミカエラッパ(Michaelappa)司教そして運転手カルロス・エヴァリスト(Carlos Evaristo)によって行われる。エヴァリストは後にそのインタビューの手を加えた改作版を出版する。それは「再編成された」ものであったと彼は認める。他の諸々の偽りの中に、その「インタビュー」はミハイル・ゴルバチョフが教皇の前に跪き、彼の罪の赦しを求めたという「シスター・ルチア」の陳述を含んでいる。この主張は教皇スポークスマン、ホアキン・ナヴァロ−ヴァルスによって一つの完全な捏造として非難される。パチェコ神父はそのインチキの「インタビュー」の否認を公表する。ファチマ学者フレール・フランソワ(Frere Francois)はこの「インタビュー」がロシアの奉献を求める請願を止めさせるために聖堂レクトールによって考えられたと結論している。今日、エヴァリストの完全に信用を失ったインタビューは奉献がなされたというシスター・ルチアのそう申し立てられた断定の「証拠」としてはもはや言及されない。

1992年--アロンゾ神父のファチマの批判的諸文書の最初の重厚に編集された巻が出版される。残る他の23巻は厳重に錠を下ろされたままである。

1993年7月31日--インドのある著名な司教がグルーナー神父を喜んでincardinateするとう書面での保証を与える。このようにしてグルーナー神父をイタリアのアヴェリーノに戻るように強いるヴァチカンにおける反ファチマ体制役職者たちによるいかなる努力も明らかに終りつつある。

1993年11月3日--アヴェリーノのアントニオ・フォルテ(Antonio Forte)司教は、グルーナー神父のアヴェリーノ司教区からの移動を承認することを妨げられているが、それはサンチェス枢機卿とセペ大司教がヴァチカンの聖職者聖省でそれを認めようとしないからだと、グルーナー神父に認める。サンチェス枢機卿とセペ大司教はグルーナー神父とその使徒職を沈黙させるために国務省と共に働いている。彼らの高位はアヴェリーノ司教の管轄権を侵し、そして教会法において何の根拠も持たない。カトリック教会全体のなかでいかなる他の司祭も一つの司教区から他の司教区への移動においてそのような干渉の対象とされることはない。

1994年1月13日--フォルテ司教はグルーナー神父に、自分は神父に反対することは何もないと告げる。そしてグルーナー神父が何を為すべきかを彼に訊ねるとき、司教はカナダに戻るように彼に告げる。

1994年1月14日--31日--サンチェス枢機卿、セペ大司教そしてフォルテ司教は彼らがグルーナー神父に反対して演じている「incardinationゲーム」において最終的な動きをし始める。彼らは彼に別の司教を見つけるように命令し、次に彼にアヴェリーノからのexcardinationを拒絶する一方で、他の司教たちによるincardinationを妨害する。「チェスの詰み」はグルーナー神父が他の箇所でincardinateされることに「失敗し」たので、彼は今やアヴェリーノに戻るか、それともそうでなければ司祭職から停職させられるかでなければならない、と宣言することである。

1994年1月31日--フォルテ司教はグルーナー神父に、彼がカナダからアヴェリーノに戻らなかったがゆえに、vagus(彷徨っている)司祭であるとして彼を非難する一通の手紙を送る。--フォルテ司教自身がわずか18日前にカナダへ戻るようにグルーナー神父に告げたばかりだというのに--。この信じられない行動はファチマの司祭 Fatima Priest[という書物]において説明されている。それは今日も続いており、ヴァチカン法廷において、そして教皇の前に今なお訴えられている。

1994年10月--国務省および教皇使節は世界中の司教たちにメキシコで開催される第2回ファチマ・クルーセイダーの平和会議に参加しないよう彼らに指令する手紙を送る。会議への招待を受け入れる100人以上の司教にヴィザが拒否され、他の諸々の妨害がなされる。

1995年7月12日--教皇への最初の公開書簡がローマの一流日刊新聞イル・メッサッジェロ Il Messaggero において公表される。それは1992年から1994年の時期の間の反ファチマのヴァチカン当局者たちによる地位、威勢、権力のはなはだしい乱用に公的に抗議する全2ページを使ったものである。それは2人の司教と数千人の司祭や平信徒によって署名された。教皇が公開書簡を読んだという言葉は私的には受け取られているけれども、教皇は行動していない(あるいは行動することを妨げられている)。

1996年11月--第3回ファチマ・クルーセイダー平和会議がローマで開催される。再び、すべての司教たちは全費用を支払って参加するように招待される。1992年および1994年のヴァチカンにおける反ファチマ体制の何人かのメンバーによって広げられている同じ偽りの絶えざる繰り返し--ガンティン(Gantin)枢機卿、多くの教皇使節たちそして他のヴァチカン当局者たちによって求められた会議に参加しないようにという圧力と結びついた--にもかかわらず、200人以上の司教、司祭そして平信徒が実際参加する。

1996年11月20日--サンチェス枢機卿およびセペ大司教と彼らの共謀者たちに対するグルーナー神父の教会法に基づく告訴が、Fatima Priestにおいて再現され、1998年4月2日にイル・メッサッジェロにおいて公表された写真において示されているように、教皇自身の手に置かれる。

1997年2月26日--ファチマ・クルーセイダーの編集者、コラリー・グレアム(Coralie Graham)はガンティン枢機卿に、司教たちや司祭たちが平和会議に参加するのを妨げようとする彼の不法な行為に関して7つの関係する質問を含む一通の書留郵便を送る。4年以上経った後にも彼女のまったく礼儀正しい手紙は未だに返答されていない。

1998年4月2日--2回目の2ページの公開書簡が公表される。今回はその公開書簡は27人の枢機卿および大司教ならびに1900人の司祭および修道者そして15,000人以上の平信徒の署名を集める。それはイル・メッサッジェロにおいてイタリア語で公表される。公開書簡の数千枚のポスターが1998年の間ヴァチカンのまわりに貼られる。

一方、グルーナー神父の教会法に基づく訴訟はヴァチカン裁判制度を通じて進む。「八百長の」そしてばかばかしいほどに不正な諸訴訟手続きの詳細はFatima Priestにおいて提供されている。訴訟手続きの間にグロシェレウスキ(Grochelewski)大司教--現在訴訟における裁判長(アグストーニ(Agustoni)大司教が偏見の兆候のゆえに退任を強いられた後の)--は訴訟がグルーナー神父のincardinationに関する訴訟ではなくて、彼が言っていること(ファチマに関して)に関する訴訟であることを認める。これが、そのことは訴訟手続きの書かれた書類actsの中にはどこにも認められないけれども、グルーナー神父に対する数多くの前例のないそして不法な行動の真の理由である。自然的正義の基本原理は被告は自分自身を擁護することができるように彼に対する正確な告訴について知らされなければならないということである。真の論争点が彼がファチマについて言っていることであるときに、グルーナー神父を彼のincardinationに関する「違反」のために裁判にかけることはこの原理にまっこうから反することである。

1998年10月--グルーナー神父に反対するさまざまな嘘、あてこすりそして非難が、当事者たちの教会法上の立場のいわゆる「公平な」要約を準備するようヴァチカン当局によって指名された正義の促進者たちによって準備され発行された長文の告発文書のうちに要約されている。グルーナー神父は、彼がそれを秘密にするという誓約をしないかぎりこの「公正な」文書のコピーを持つことさえ許されないであろうと告げられる。この奇怪な要求は裁判所自身によって発せられている。(秘密を保てという裁判所の要求のコピーはそれを要求するどの司教にも利用可能である。)グルーナー神父は秘密を保つというこの要求を拒否する。彼は彼の教会法の弁護士--彼はローマからカナダへ旅行しなければならない、そしてそれからコピーを残すことなくその文書をローマへ持って行かなければならない--の列席の上で促進者の文書に目を通すことを強いられる。

1998年10月10日--促進者の文書は初めてグルーナー神父とその使徒職に反対して秘密のうちに出回っているおよそ20通の手紙の存在を明らかにする。それらの手紙は1980年代初期にまで遡る、聖職者聖省、国務省そしてラッツィンガー枢機卿の聖省さえの数人のメンバーによる故意に誤り伝えられた情報とあからさまな嘘で満たされている。

1998年12月10日--ほとんど不可能な諸々の妨害と彼の返答のために許された非常に限られた時間にもかかわらず、グルーナー神父は、そのあらゆる申し立てを決定的に論駁する80ページの促進者の文書に対する教会法上の答弁書を出す。促進者の文書は法廷によって再び言及されることは一度もない。

1998年12月--グルーナー神父は書留便によって、聖職者聖省および裁判所から彼に反対するおよそ20通の手紙のコピーを要求する。それらの手紙は決して用意されない。ファチマの聖母が警告なさっている諸国の絶滅を避けるために適切な仕方でロシアの奉献がなされなければならないということを司教たちに説得する彼の諸々の努力を大いに妨害する諸々の嘘がグルーナー神父の背後で出回り続ける。

1999年8月--グルーナー神父は、自分が別のところでincardinateされているということを証明するアヴェリーノ司教宛の新しい文書を準備する。

1999年9月3日--Apostolic Signaturaが1999年7月10日の日付に遡らせた一つの決定を出す。この決定の明白な根拠のなさは「一人の人間のための法律」(Fatima Priestにおける一つの章)において、そして1999年10月14日付けのグルーナー神父の反駁に付属する文書(これもまたFatima Priest2000年版において再現されている)によって論証されている。この付属文書に対してApostolic Signaturaは何の返答も与えていない。一方、グルーナー神父の三人目の教会法弁護士は彼に対して反対に転じるよう圧力をかけられている。(最初の二人の教会法弁護士の違法行為はFatima Priestにおいて詳細に述べられている。)Signaturaにおいては40万人のカトリック司祭を弁護するためにたった16人の教会法弁護士しか許されていない。そのことはこれらの弁護士に裁判所への彼らの受け入れの終結という脅しで圧力をかけることを容易にしている。

1999年10月12日--18日--オンタリオ州ハミルトンでの使徒職の平和会議は使徒職の以前のファチマ会議を妨害した同じパターンのいやがらせ、権威の乱用そして計算された嘘の対象とされる。司教たちや司祭たちが参加したが、しかしその数は減った。グルーナー神父とその使徒職の評判を貶めるヴァチカンのキャンペーンのために司祭や司教たちと連絡を取ることはますます難しくなった。300人以上の人々が参加するが、その大部分は平信徒である。

1999年11月22日--グルーナー神父による2回目の教会法上の告訴状がヴァチカン郵便局から書留便で教皇宛に郵送される。この告訴状はアグストーニ枢機卿、インノチェンティ枢機卿、サンチェス大司教、グロチェレウスキ大司教およびフォルテ司教の名をあげている。

1999年12月--アロンゾ神父の草稿の第2巻が最終的に出版される。しかし極端に厳しい編集を経たものである。他の22巻は、1975年に完全に準備されていたのに、25年後に未だに出版されないままである。

2000年4月20日--グルーナー神父は教会法1506条に訴える。それは名指された枢機卿たちと司教たちに対する教会法上の両告訴を受理するよう教皇に要求するものである。これらの告訴は2000年5月の最終期限を過ぎると教会法の下に受理されたと見なされる。教皇は、彼自身が公布したその法によってそうする義務を負わされているけれども、応答されない。教皇でさえ、彼が一つの新しい法を公布するその時までは、教会の現在行き渡っている法によって縛られている。

2000年5月13日--ヤチンタとフランシスコの列福式の間に、ソダノ(Sodano)枢機卿はファチマの第三の秘密が明らかにされると告知する。(国務省は以前には列福式をファチマから、他のファチマと関係のない福者たちを含むヴァチカンでの集団列福式へと変えようと努力していた。)

ソダノ枢機卿は、しかしながら、第三の秘密が「教皇が見たところ死んでいるように倒れている」一つの幻視から構成されていると主張しながら、第三の秘密について人を誤らせる説明を与えている。幻視の実際のテキスト(次月明らかにされることになっている)は教皇が殺されると述べている。ソダノ枢機卿は、第三の秘密は1981年における教皇の生命に対する失敗した試みで絶頂に達した、そして秘密の中で預言されたすべての出来事は、彼の言葉を用いれば、「今や過去に属する」と主張している、秘密についての一つのインチキの「解釈」に明白に道を開いている。

2000年6月5日--まったく根拠のない「破門」について述べたグルーナー神父を脅迫する一通の手紙はカストゥリヨン・ホヨス(Castrillon Hoyos)枢機卿によって署名されている。その手紙は6月21日午前10時に一人のヴァチカンの使者によってグルーナー神父の家に届けられる。その使者は自分は「教皇」からのよい知らせを持っていると主張することによって騙してグルーナー神父の居間の中へ入って来ている。

2000年6月26日--ある記者会見でヴァチカンは、それが第三の秘密全部だと主張する一つのテキストを公表する。そのテキストはその中で教皇(一人の「白い衣服をつけた司教」)が、死体に溢れた半分廃墟になった都市を横切った後にある丘の頂上の大きな木製の十字架の足下に跪いているときに、彼を撃ち倒す兵士の一団によって殺される、という幻視を描写している。教皇の処刑は多くの司教、司祭そして平信徒たちの処刑の後に行われる。

疑問がいっぱいある。(ファチマ・クルーセイダー第64号のアンドルー・セザネック(Andrew Cesanek)による論考を見よ。)これらの疑問の中に、ヴァチカンが1960年に秘密の抑圧を告知したときに、ヴァチカン自身が「聖母が子どもたちに一つの秘密として打ち明けられた言葉」に言及したのに、なぜ公表された幻視は聖母の何らの言葉も含んでいないのかというのがある。その幻視は「ポーランドにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」という文言--シスター・ルチアが彼女の第4回想録においてファチマの第三の秘密の統合的なテキストの部分として付け加えた文言--に言及できないでいる。ポルトガルにおける信仰の教義に関する文言は秘密に関するヴァチカンの注釈においては不可解なことに脚注へと格下げされている。そこではそれは注釈の共著者であるラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネによって無視されている。

注釈のラッツィンガー枢機卿の部分は特に彼とモンシニョール・ベルトーネがソダノ枢機卿によって与えられた「解釈」--すなわち、ファチマのメッセージ、そして特に第三の秘密はまったく今や過去に属する出来事に関係しているという解釈--に従っていると述べる。従って、ラッツィンガー枢機卿は1981年の教皇の死からの脱出は教皇が殺されるという幻視において描写されていることであると主張するのである。世俗のメディアでさえこの解釈の誤りを認めている。

幻視の公表されたテキストは1984年の雑誌イエズスにおける不可解にも検閲されたインタビューにおいてラッツィンガー枢機卿によって記述された諸要素を何一つ含んでいない。公表された幻視は

「キリスト者の信仰と生命、そしてそれゆえに世界の生命を脅かす危険」について何も言わない。「終りの時の重要性」について何も言わない。教会によって認められた「他の多くのマリア御出現の中に」含まれていることについて何も言わない。そして「聖書において告知された」諸々の預言について何も言わない。さらに、ラッツィンガー枢機卿は1984年に第三の秘密は「宗教的な預言」を含んでいると言った--教皇の生命に対する[暗殺]未遂事件の3年に彼がした陳述--のに、今やそこには預言はなくて、1981年の暗殺未遂において頂点に達する過去の出来事の記述だけしかないと言おうとしている。

さらに、ラッツィンガー枢機卿の注釈はマリアの汚れなき御心の勝利は爆弾や銃を征服する愛に他ならない、そして汚れなき御心に対する信心は各人が神の御旨を行い、そしてこのようにして彼あるいは彼女自身の「清い心」を獲得すること以上の何物でもないと主張することによって信徒をあきれさせる。ロシアのカトリシズムへの回心そしてただ一つの独自のマリアの汚れなき御心に対する信心を広めることはラッツィンガー枢機卿の注釈には言及されさえしない。

ラッツィンガー枢機卿が挙げるただ一人のファチマの「権威」は、ロシアに関するファチマ・メッセージの預言的諸要素に対して疑問を呈することに数年を費やした近代主義者のイエズス会士、エドゥアルト・ダニス(Edouard Dhanis, S.J.)神父である。ダニス神父はメッセージのこれらの要素はシスター・ルチアの敬虔な捏造であると主張した。ダニス神父は公式のファチマ公文書を研究すること、あるいは彼に利用可能とされた他の私的な文書を調べることを、彼の誤った主張を引っ込めさせないために、拒否した。ファチマを未来の諸々の出来事のいかなる預言も持たない一般的な敬虔へと縮小するダニス神父の誤りと一致して、ラッツィンガー枢機卿の注釈の部分はファチマ・メッセージに関して残るすべてのことは祈りと償いであると主張することで終わる。

ラッツィンガー枢機卿の助手であるモンシニョール・ベルトーネの注釈における驚くべき引用(ヴァチカンの冊子ファチマのメッセージから上の写真に部分的に再現された)は、モンシニョール・ベルトーネと反ファチマ体制の残りの者がどのように深く誤謬と修正主義に落ち込んだかを示している。事実は、聖母がロシアが聖母の汚れなき御心に奉献され、そしてそれによって回心したときにのみ平和の一時期が世界に与えられるでしょうと言われたときに、モンシニョール・ベルトーネはここで実際、聖母の平和の一時期の約束は第三の秘密の公開次第だったと言っている。もし印刷されたモンシニョール・ベルトーネの言葉を見なかったならば、いかなる分別のあるカトリック神学者あるいは教会当局者もファチマのメッセージについてそのようにひどい誤りの陳述を提供することができたかを疑ったであろう。世界の現在の状態を見ればモンシニョール・ベルトーネの「権力と悪を求める悲劇的な人間の欲望によって特徴づけられた」一時代の終わりについての宣言は狂気すれすれである。われわれが今日何を持っていると彼は考えているのだろうか--平和と静穏の一時期をか?

注釈のモンシニョール・ベルトーネの部分はまたロシアの奉献のこれ以上の要求は「根拠がない」とも主張している。彼はこの主張に対する彼の唯一の証拠としてある正体不明の団体に宛てられた1989年の「シスター・ルチアからの手紙」と申し立てられているものを引用している。その「シスター・ルチアからの手紙」なるものは、教皇パウロ6世が1967年にファチマへの訪問の間に汚れなき御心に全世界を奉献した--決して起こったことがない一つの出来事--と誤って述べることによって自らを覆している。シスター・ルチアは教皇パウロ6世のファチマへの短い訪問の全体に居合わせていたのだから、そのような大失敗を決してすることはできなかったであろう。

信じがたいことであるが、2000年6月26日の第三の秘密の「開示」に参加していない唯一の人間はシスター・ルチア自身である。彼女は、公衆が今やファチマのメッセージは完全に明らかにされた、そしてほかには何も隠されていないと告げられているのに、未だに話すことを許されていない。ロシアの奉献に関する彼女の決定的な証言は、ソダノ枢機卿、ラッツィンガー枢機卿、モンシニョール・ベルトーネそしてヴァチカン当局の他の職員たちがほんの数週間前にファチマにおり、その問題について彼女に話すことができたのに、聞き出されないのである。明白に信用の置けない1989年の手紙が、これらのヴァチカン当局者たちが奉献がなされたという彼らの主張のためにわざわざそれを当てにする唯一の証拠である。奇妙なことに、シスター・ルチアはこの手紙の真正性を保証するために訊ねられさえしない。

6月26日の記者会見の終わりに、ラッツィンガー枢機卿はグルーナー神父はファチマおよびロシアの奉献に関して「教導職」に従順でなければならないと主張しながら、名指しで彼に言及している。しかしながら、教皇自身が奉献は終り、果たされたと宣言したといういかなる主張もない。教皇は6月26日の記者会見あるいはラッツィンガー/ベルトーネ注釈において何の役割も演じていない。その注釈は教会の教導職(教皇あるいは彼と一致するすべての司教と一緒の教皇の真正の教える職務)の文書ではなく、そしてそれゆえに、それが主張することを信じるように誰をも縛らないのである。ラッツィンガー枢機卿自身でさえ彼とモンシニョール・ベルトーネの解釈が拘束力はないということを認めているのである。

2000年7月11日/12日--グルーナー神父はカストゥリヨン・ホヨス枢機卿からの破門という根拠のない脅迫に、枢機卿に宛てた彼の返答を公表しながら、抵抗し続ける。グルーナー神父はヴァチカン当局者からそのような直接的、公的な脅迫に曝されている唯一の司祭である。しかし同時にヴァチカンは異端を広め、あらゆる国おいて口に出せないほどに恥ずべき行動に関わっている無数の司祭たちには目をつむるのである。

2000年7月14日--グルーナー神父はカストゥリヨン・ホヨス枢機卿が世界のさまざまの[教皇]使節たちに偽りの非難でグルーナー神父を苦しめ続けるように命令していることを耳にする。例えば、フィリピン使節は、グルーナー神父が彼の使徒職のヴァチカンの是認を示唆するためにヴァチカン国務省文書を偽造しているという罪--明らかな不条理--があるという嘘を広めている。これらの嘘は使徒職の公表された宣言(Fatima Priestを見よ)によって論駁されている。カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は彼が偽造という誤った申し立てを撤回するようにというグルーナー神父の再三の要求を無視する。ホヨスは、彼のもともとの非難が一つの嘘であると認めることを拒絶しながら、その非難をただ本物の文書の申し立てられている「不適切な使用」へと変えるだけである。カストゥリヨン・ホヨス枢機卿のすべての非難は使徒職の回答において論駁されている。しかし彼は彼の誤った申し立てのどれか、そして全部を撤回することを拒否している。

2000年7月15日--ファチマ・クルーセイダーの64号がグルーナー神父によって出版される。この号は6月26日に公開された第三の秘密のテキストがおそらく不完全なものであるということを論証している。(特にアンドルー・セザネックによる二つのテキストの存在についての論考を見よ。このコピーはファチマ・ウェッブサイトwww.fatima.org.上でイタリア語、英語およびポルトガル語で見ることができる。)

2000年8月8日--10月16日--カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は彼の破門の脅迫を撤回することを拒否する。10月半ばに彼はその問題を「より高い権威」に問い合わせているのだと言う。彼は、それが明らかにヴァチカン国務省であるけれども、この「より高い権威」を同定することを拒否する。

2000年8月31日--グルーナー神父は彼の教会法上の告訴とインノチェンティ枢機卿、サンチェス枢機卿およびアグストーニ枢機卿、セペ大司教、グロチェレウスキ大司教、フォルテ司教に反対して教会法第1506条に基づく教皇への依頼に関して2回目の催促状を教皇に提出する。告訴の理由は権力の乱用と教会法上の適切な手続きの侵害である。告訴は(教皇が新しい法を公布しないかぎり、そしてそれまでは)教皇は彼がすでに公布した法によってこの訴訟に耳を傾ける義務を負っているということに言及している。

2000年10月8日--依然として世界のもう一つの奉献、しかしロシアの奉献ではない、がヴァチカンの儀式において行われる。この儀式は一つの「委託」と呼ばれる。反ファチマ宣伝者たちがロシアの奉献は不可能であると言うけれども、およそ1400人の司教たちと76人の枢機卿たちがこの日にヴァチカンに集まり、「委託」の間にロシアに容易に言及することができる。実際、多くの司教はこれがまさに彼らが行おうとしていることであると考える。委託のテキストは儀式の前日の10月7日まで公けにされない。そのテキストはロシアのいかなる言及もしない。しかし世界の「委託」、「失業者」「意味を求めている青少年」そして「委託」の他の諸対象は言及される。--ロシア以外の何か、そしてロシア以外の誰か[は言及されるのだが...]。

2000年11月30日--雑誌インサイド・ザ・ヴァチカンは「教皇の最も側近の相談相手の一人」と評されるある枢機卿が、教皇はそのことがロシア正教会を不快にさせるからいかなる奉献の儀式においてもロシアの言及をしないように忠告されていたということを認めているということを明らかにする。オストポリティク[東方政策]とヴァチカン外交がロシアの特殊的奉献を妨げていたということはここに一人のヴァチカン高位聖職者によって確証されるのである。

2000年12月20日--グルーナー神父は教会法に反する犯罪でカストゥリヨン・ホヨス枢機卿に対して教皇聖下ヨハネ・パウロ2世宛の教会法上の告訴状を書き終える。そしてしかるべき教会法の形式において、枢機卿の役職からの解任を正式に要求する。教会法第1405条、第1406条および第1452条第1項が発動される。その下では、そのような訴訟事例における唯一の法的資格を持つ裁定者は教皇であり、そして教皇はその告訴を決定することを義務づけられているということである。

2001年5月16日--数百万のカトリック教徒たちの増大する疑いを反映しながら、マザー・アンジェリカ(Mother Angelica)は彼女のライブ・テレビショーでこの日にヴァチカンが第三の秘密の全体を明らかにしたとは信じないと述べる。

「秘密については、そうですね、私はたまたま私たちが事柄全体を手にしなかったと考える人々のうちの一人ですわ。私はそう言いました!私が言っているのは、あなたはあなた自身の意見に対する権利を持っているということですわ、そうじゃありません、神父様? それが私の意見です、そうでしょ。というのはそれは恐ろしいことだと思うからです。そして私は聖座が起こっていない何かあること、起こるかもしれない何かあることを言おうとしているのだとは思いませんわ。そしてそのときもしそれが起こらないならば、何をするのですか? 私が言うのは聖座は預言をすることはできないということですわ。」

2001年8月30日--ファチマ・センターはファチマ・メッセージに照らして以下の警告を含む手紙を数千の報道機関と世界の指導者たちに送る。

「世界の『平和的な』諸地域においてさえ爆弾が爆発し始める日が、あなたたちが考えるよりも早く来るでしょう。」

2001年9月11日--テロリストたちが2機の航空機をハイジャックし、ニューヨーク・シティの世界貿易センターのツイン・タワーに突っ込み、それらを崩壊させる。別のハイジャックされた航空機はペンタゴンに突入する。5000人以上の人々が世界がこれまでに見た最も血なまぐさいテロリストの攻撃において殺される。この戦争行為は聖母が世界平和をもたらすと約束なさったロシアの奉献がなされなかった決定的な証明であった。にもかかわらず、反ファチマ体制はファチマのメッセージが1984年の世界の奉献で立派に実現された、そしてマリアの汚れなき御心の勝利がわれわれの上にあると主張している。

2001年9月12日--グルーナー神父と彼のファチマ使徒職に対する彼らの奇怪な強迫観念を明らかにしながら、世界史における最悪のテロ攻撃のたった1日後に、ヴァチカン当局者たちは、グルーナー神父が司祭職から「職務停止を受け」た、そして2001年10月7日から13日までローマにおいて使徒職によって後援されているファチマに関係する平和会議に誰も参加すべきでないと申し立てる「宣言」をヴァチカン報道局が世界に公表するようにさせる。その「宣言」は「あるより高い権威からの命令」に基づいていると述べている。その文言の中に注意深く挿入された小辞「ある a より高い権威」が明瞭に、問題になっている「権威」が教会における最高の権威--すなわち、教皇--ではないということを示している。「あるより高い権威」という表現は国務長官--ソダノ枢機卿--を言うヴァチカンの言い方である。いずれにせよ、教会法の下では名前のないある人間による「命令」は無効である。

「宣言」は「職務停止」に対する何らの理由も与えていない。グルーナー神父が彼をincardinateしてくれる別の司教を見つけることに「失敗した」、そしてそれゆえに23年後にアヴェリーノへ「戻ら」なければならないというインチキの非難を越える何らの理由もないからである。これは、ヴァチカン当局が、数年にわたる一連の友好的な司教たち--彼らは皆グルーナー神父の仕事を助長したいと願っている--によるincardinationの申し出におけるその前例のない干渉を通じて工作して来た同じ「失敗」である。

ヴァチカンの発表はローマにおける会議が「教会の権威の承認を享受し」ていないと主張している。その声明は明らかに誤解させるように計算されている。なぜなら、これらのヴァチカン当局者たちは教会法(カノン212,215,278,299)--連合して教会における関心のある諸問題を議論する聖職者と平信徒の自然的権利を保障する--の下ではどんなものであれいかなる承認も要求されないということをよく知っているからである。信じられないことであるが、ヴァチカン当局者たちはカトリック教義に公然と反対する司祭、修道女そして平信徒によって教会のいたるところで絶えず開催されている無数の会議や他の集まりを中止させるためにそのような劇的な処置をしたことは一度もなかった、あるいは実際どんな対策も全然したことはなかった。その同じヴァチカン当局者たちはファチマのメッセージを今日の教会に対する最大の脅威だと見なしているように思われる。

ヴァチカンが、数千人のアメリカ人が前例のないテロ攻撃において虐殺されたそのたった1時間後にそのグルーナー神父の迫害を強めるというようなことは、疑いもなくヴァチカン当局のある一団内部からのファチマ・メッセージに対する反対の完全な邪悪さを証明している。異端の蔓延も過去40年間以上の聖職者の間での性的スキャンダルも、教会をその真の敵どもから守る義務があるこれら同じヴァチカンの一団からのそのような行動を一度も促さなかった。世界的な流血と背教のただ中においてさえ、これらヴァチカン当局者たちの最も重要な責務がファチマ・メッセージ--それによって流血と背教が避けられ得るまさにその手段--の抑圧となったということは不正の神秘である。

2001年9月13日--ファチマ・センターは、他のこともいろいろあるが、グルーナー神父が、名指しさえされない「あるより高い権威」によって特定されさえしない「違反」のために世界に向かって公式に非難された、教会の生ける記憶における唯一の司祭であると思われるということを述べて、ヴァチカン出版局によって公表された「宣言」に返答する。

2001年9月21日--大学が私的に認めていたことを受け取った後に、ヴァチカン当局におけるある者からの「教会の電話呼び出し」があったとして、ローマの聖心カトリック大学のある代理人は2001年10月7日から13日までの世界平和会議のために彼らの施設[を提供するという]使徒職との契約は守られないであろう、--そして彼らは彼らの書面での契約を守ることを拒否するということを通知する一通の手紙を送って来る。このすべてのことは会議が始まるわずか3週間前のことであり、使徒職が広告や他の準備のために10万ドル以上を支出した後でのことである。この契約破棄に対する説明を強いられたとき、聖心カトリック大学は突然その施設の「構造的検査」--使徒職の会議が開催されるばすのまさにその週の間に!--を計画したと主張する。

2001年9月30日--第三の秘密全体は公表されたというヴァチカンの主張にもかかわらず、シスター・ルチアはラッツィンガー枢機卿あるいは教皇自身の許可なしにファチマ・メッセージについて公に話してはならないという命令下に置かれたままである。そして世界が暴力そして神の喪失に急降下しているときに、ロシアの奉献はなされないままになっている。世界が戦争準備をしているときに、諸国の絶滅がどうなるか決まらず不安定な状況にある。

われわれはどこに立っているのか? 

われわれが現在立っている地点はファチマのメッセージが神の御母によって3人の幻視者たちに伝えられて後84年以上経ったこの地点である。

ロシアの国--世界ではない、失業者ではない、意味を探し求める青年ではない--がマリアの汚れなき御心に奉献されなければならないという祝せられたおとめの単純な要求は尊重されなければならない。この不履行は主の聖心へのフランスの奉献という1689年のわれらの主の御要求に対するフランス王の不履行と同じように神秘的である。しかしながら、ロシアを奉献することの不履行はフランス革命においてフランスに起こった諸結果よりも無限にもっと破滅的な諸結果をもたらすであろう。

われわれはロシアの奉献あるいは回心へのいかなる言及をも除去するためにファチマのメッセージを修正しようとする、そしてメッセージを過去の諸々の出来事の単なる年代記また個人的信心への呼びかけに縮小しようとする一つの体系的な企みの証人である。このファチマ修正主義は、ファチマは過去に属する、そしてロシアの奉献は決して再び言及されてはならないというヴァチカン国務省の「党路線」に反論する者は誰でも、その性格暗殺(character assasination)を通じてと同様に、破門の脅迫をもって、真理を否定する「従順」への呼びかけを通じて、事実上の de facto 教会からの「追放」を伴っている。

ヴァチカンにおける反ファチマ体制による第三の秘密の開示であるとされたものはそれが答えるよりももっと多くの疑問を巻き起こしている。2000年6月26日に公表された「白い衣装の一司教」についての不明確な4ページの幻視は「聖母が3人の子どもたちに一つの秘密として打ち明けられた言葉」を含む1ページの文書--さまざまの証人たちによって見られ、1984年にラッツィンガー枢機卿によってかなり詳細に記述された一つの文書--と似ている点を何も持っていない。ヴァチカンにおける反ファチマ体制による幻視の「解釈」--一団の兵士たちによる白い衣装をつけた司教の殺戮ならびに他の司教たち、司祭たち、修道者そして平信徒の殺戮がたった一人の暗殺者による教皇ヨハネ・パウロ2世に対する未遂の企てを意味しているという解釈--は明らかに信じがたいものであり、そしてファチマのメッセージは過去に属するという「党路線」を促進するために明らかに考案されたものである。

一方では、申し立てられた1984年奉献の17年以上の年月の後も、ロシアにおいては一つの出産に対して二つの中絶がある[赤ん坊が1人生まれるとき、胎児が2人殺されている=訳者]。そのロシアの人口は毎年70万人ずつ減少している。ウラディーミル・プーチン(Vladimir Putin)は赤色中国と友好条約を結んだ。ロシアは小児ポルノ生産の一つの世界センターとなった。そしてカトリック教会は不可能な法的諸制約によって閉じこめられ、改宗者を作ることを禁じられ、あるいは司祭たちや司教たちがその国で永久的な住居を持つことさえ禁じられている。(彼らは一回に三ヶ月の滞在を許されるだけである。)これらのことをしている国がマリアの汚れなき御心へのロシアの果たされた奉献を通じて回心し始めたと示唆することはばかげたことであると共に冒涜的な主張である。

ファチマ修正主義者たちがファチマは過去に属すると主張し続けているときに、地球のいたるところで戦争が荒れ狂い、そして世界はますます早く完全な堕落の深淵へと転落している。2001年9月11日のアメリカへの攻撃は世界がファチマの聖母が警告なさったさまざまの国の絶滅へとますます近づいているという差し迫った警告であり、それは聖母の奉献の要求の不履行の結果であろう。

ロシアの奉献と回心を通じての世界平和という聖母のメッセージに反対し、聖母が1917年にファチマでお与えになった警告を退けてきた人々が常に存在した。ポルトガル政府当局者たちによる子どもであった3人の幻視者の残酷な投獄の話は周知のことである。同様によく記録されているのは、ファチマ信奉者たちが世界中の共産主義およにフリーメーソンの諸体制の下で耐えてきた邪悪な迫害である。

しかしながら、ファチマ・メッセージとわれわれ自身の時代におけるその恒久的な重要性についての教会それ自身の内部での闘争はそれほど知られていない。ファチマ御出現の[教会当局による]公式承認にもかかわらず、今日聖母の完全なメッセージを抑圧するために積極的に働いている教会内部の小さいがしかし強力な集団が残っている。

しかし数百万の霊魂たちは神の御母が無駄に地球に来られたのではないということを信じ続けながら、信仰と希望をもってファチマのメッセージに注目している。一つの大きな草の根の十字軍に参加しながら、500万人以上の人々がロシアの奉献と第三の秘密の完全な公開を求めて教皇に請願した。

われわれは、それがすべてのカトリック教徒と善意の他の人々に諸々の事実を彼ら自身で判断してもらう機会を提供するであろうと希望して、この年代誌を提示した。われわれはその真正性が未解決であるいかなる支持されない証言あるいは文書をも含めなかった。

われわれは、教皇聖下と他の教会指導者たちに、シスター・ルチアを彼女の41年の沈黙命令から解放し聖母の第三の秘密をその全体において公開するよう求めることにおいて、われわれに参加なさるよう、聖母のファチマ・メッセージの救いの光を求めているすべての人々に真摯に勧める。請願の書式やさらなる情報は下記の住所で入手可能である。

われわれはこの情報をあなたの家族、友人、仲間たちに注目させてくださることを祈りのうちに求める。これ以上に大きな賭けはあり得ないであろう:すなわち、いっぽうで世界平和か、それとも他方でさまざまの国の絶滅か。数百万の霊魂の救いか、それとも数百万の霊魂の永遠にわたる喪失か。

いつもそうであるように、神は善あるいは悪の選択をわれわれの手に残される。神はわれわれに行為するための恩寵をお与えになる。しかし神は正しいことをなすようにわれわれを強制なさらない。正しいことをなすことは神の前のカトリック者としてのわれわれの義務である。われわれ自身のため、われわれの愛する者たちのため、われわれの祖国アメリカのためそして全世界のために、神が送られたファチマのメッセージを重んじながら正しいことをするようにしよう。

イエズス、マリア、ヨゼフにおいて

ポール・クレイマー神父 B.Ph., S.T.B, M.Div., S.T.L.(Cand.)

2004/01/18 三上 茂 試訳
(原文でイタリック体の箇所は日本語ではイタリック体が読みにくいので太字に変えています。)

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作成日:2004/01/18

最終更新日:2005/03/19

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