トマス・アクィナスの『アリストテレス霊魂論注解』IIIL10

三上 茂


はじめに

 アヴィセンナは、人間知性から分離した完全な実体であり、第一知性存在者から発出してその階梯を下り、第十の知性存在者に至った能動知性(intelligens agens)が、自らのうちに持っている可知的形相を与えることによって、可知的なものに関して絶対的な可能態にある人間知性を現実態における知性へと変えるということが人間の認識の実態である、と考えた。つまり、人間知性は可知的形相の宝庫たる人間の外部に存在する分離した能動知性からその可知的形相を注入されることによって、知性的認識を達成するというわけである。アヴィセンナが考える能動知性は人間の外部にあって分離されたもの(choristos)であり、その本質からして、不受動、不死、永遠の現実態である*1。このように考えるアヴィセンナが拠って立つ典拠はアリストテレスの『霊魂論』である。このアリストテレスの『霊魂論』を注解する書物をトマスも書いたが、そこではトマスの能動知性(intellectus agens)についての受け取り方はアヴィセンナの上述のような理解とはかなり異なっている。以下において、まずこのトマスの『アリストテレス霊魂論注解』の能動知性に関わる部分のテキストを挙げてその翻訳を試み、その後にこれらの部分について若干の考察を加えたい。

I. 『アリストテレス霊魂論注解』IIIL10のテキストと翻訳

 トマスの『アリストテレス霊魂論注解』の第3巻第10講義(Liber Tertius Lectio X)が能動知性について述べた部分である。この箇所はトマスが能動知性を明瞭に問題にした最初のものであると言われており、1271年の終わり頃に著されたと考えられている。トマスはアリストテレスの『霊魂論』のテキストを、ギリシャ語の原文*2即してではなく、ムエルベケのグイレルムスのラテン語訳に即して解釈した*3。最初にトマスが注解のために用いたアリストテレス『霊魂論の』ラテン語訳とその日本語訳を挙げておきたい。

Quoniam autem sicut in omni natura est aliquid, hoc quidem materia unicuique generi, hocautem est potentia omnia illa, alterum autem causa et factivum, quod in faciendo omnia, utars ad materiam sustinuit, necesse et in anima has esse differentias. Et est intellectus hic quidem talis in omnia fieri, ille vero in omnia facere, sicut habitus quidam, et sicutlumen. Quodam enim modo, et lumen facit potentia existentes colores, actu colores.
Et hic intellectus separabilis, et impassibilis, et immixtus, substantia actu ens. Semper enim honorabilius est agens patiente, et principium materia.
Idem autem est secundum actum scientia rei; quae vero secundum potentiam, tempore prior in uno est. Omnino autem neque tempore. Sed non aliquando quidem intelligit, aliquando nonintelligit.
Separatus autem est solum hoc, quod vere est. Et hoc solum immortale et perpetuum est. Non reminiscitur autem, quia hoc quidem impassibile est; passivus vero intellectus, est corruptibilis, et sine hoc nihil intelligit anima.

 しかるに、自然全体においては、あるものはそれぞれの類の質料であって、これは可能態においてそれぞれの類のすべてであるように、他のものは原因であり、またすべてのものを作ることにおいて作出因であって、ちょうど技術が質料に対して果たすような役割を果たしているから、霊魂においてもまたこれらの差異がなければならない。そして、知性は、一方ですべてのものになることにおいて[質料のような]そのようなものであり、他方ですべてのものを作ることにおいて[技術のような]そのようなものである。後者はある種のハビトゥスのようなものであり、また光のようなものである。なぜなら、ある仕方で光もまた可能態において色として存在するものを現実態における色に作るからである。

 そしてこの[能動]知性は分離可能、不受動的、混合されないもの、現実態において存在する実体である。なぜなら、能動的なものは受動的なものよりも、原理は質料よりも称賛すべきものだからである。
  しかし、現実態に従っての知識は事物と同一である。だが可能態に従っての知識は一人の人間においては時間的に先なるものである。しかし、全体として見れば時間的にも先なるものではない。それ[知性]がある時には認識しているが、ある時には認識していないということはない。

 しかし、真に存在するこのものだけが分離されたものである。そしてこのものだけが不死であり、永遠である。
 しかし、それは記憶しない。というのは、これ[能動知性]は不受動だからである。それに対して受動的知性は可滅的である。そしてこれ[受動的知性]なしには、霊魂は認識しない*4。

 以下にトマス・アクィナスのこの部分の注解を挙げ、その日本語訳を試みる。

728. - Postquam Philosophus determinavit de intellectu possibili, nunc determinat de intellectu agente. Et circa hoc duo facit. Primo ostendit esse intellectum agentem, praeter possibilem, et ratione, et exemplo. Secundo ostendit huius intellectus naturam, ibi "Et hic intellectus". Ponit ergo circa primum talem rationem. In omni natura quae est quandoque in potentia, et quandoque in actu, oportet ponere aliquid, quod est sicut materia in unoquoque genere, quod scilicet est in potentia ad omnia quae sunt illius generis. Et aliud, quod est sicut causa agens, et factivum; quod ista se habet in faciendoomnia, sicut ars ad materiam. Sed anima secundum partem intellectivam quandoque est in potentia, et quandoque in actu. Necesse est igitur in anima intellectiva esse has differentias: ut scilicet unus sit intellectus, in quo possint omnia intelligibilia fieri,et hic est intellectus possibilis, de quo supra*5 dictum est: et alius intellectus sit ad hoc quod possit omnia intelligibilia facere in actu; qui vocatur intellectus agens, et est sicut habitus quidam.

 728. 哲学者は可能的知性について決定した後に、今度は能動知性について決定する。そして彼はこのことに関して二つのことを為す。第一に、彼は可能的知性の他に能動知性が存在するということを論拠と例によって示す。第二に、彼はEt hic intellectusの箇所で、この[能動]知性の本性を示す。それゆえ、彼は第一の事柄に関して次のような論拠を示している。ある場合には可能態にあり、ある場合には現実態にあるすべての自然においては、ある一つの類において質料のようなものである何かあるもの、すなわち、その類に属するすべてのものに対して可能態にあるものと、能動的原因、そして作出因のようなものである他のもの、すべてのものを作る場合の、質料に対して技術のような関係にあるものを措定しなければならない。ところで、霊魂はその知性的な部分に関して言えば、ある場合には可能態にあり、ある場合には能動態にある。それゆえに、知性的霊魂のうちには次の区別が存在しなければならない。すなわち、一つはそこにおいてすべてのものが可知的なものとされることができる知性であり、これは既に以前に述べられた可能的知性である。そして、他の知性はすべてのものを現実態における可知的なものとすることができることへと向けられており、これは能動知性と呼ばれる。そしてこれはある種のハビトゥスのようなものである。

729.- Huius autem verbi occasione, quidam posuerunt intellectum agentem idem esse cum intellectu qui est habitus principiorum. Quod esse non potest: quia intellectus, qui est habitus principiorum, praesupponit aliqua iam intellecta in actu: scilicet terminos principiorum, per quorum intelligentiam cognoscimus principia: et sic sequeretur, quod intellectus agens non faceret omnia intelligibilia in actu, ut hic Philosophus dicit. Dicendum est ergo, quod habitus, sic accipitur secundum quod Philosophus frequenter consuevit nominare omnem formam et naturam habitum, prout habitus distinguitur contra privationem et potentiam, ut sic per hoc quod nominat eum habitum distinguat eum ab intellectupossibili, qui est potentia.

 729. しかし、この言葉の機会によって、ある人々は能動知性は諸原理のハビトゥスである知性と同一であると主張した。これはそうであることはできない。というのは、諸原理のハビトゥスである知性は現実態において既に知性認識された何かあるもの、すなわち、それの知解によってわれわれが諸原理を認識する諸々の用語を前提するからである。そしてこのようにして、ここで哲学者が言っているように、能動知性はすべての現実態における可知的なものを作るのではないということが帰結するであろう。それゆえに次のように言うべきである。ハビトゥスは哲学者がしばしばすべての形相と本性を、ハビトゥスが欠如や可能態に対して区別されるがごとく、ハビトゥスと呼び慣わしていたことに従って理解される、と。このようにして、彼は能動知性を可能態である可能的知性から区別するために、ハビトゥスと呼んだのである。

730.- Unde dicit quod est habitus, ut lumen, quod quodammodo facit colores existentes in potentia ,esse actu colores. Et dicit "quodammodo", quia supra ostensum est*6, quod color secundum seipsum est visibilis. Hoc autem solummodo facit lumen, ipsum esse actu colorem, inquantum facit diaphanum esse in actu, ut moveri possit a colore, ut sic color videatur. Intellectus autem agens facit ipsa intelligibilia esse in actu, quae prius erant in potentia, per hoc quod abstrahit ea a materia; sic enim sunt intelligibilia in actu, ut dictum est*7.

730. それゆえに、彼はそれ[能動知性]は光としてハビトゥスである、と言うのである。光はある仕方で可能態において存在する色を現実態において色のあるものとする。そして彼は「ある仕方で」と言う。というのは、上に示されたように、色はそれ自体で可視的だからである。しかし、光はこのことをただ、透明な媒体を現実態において存在するようにするかぎりで為す。その結果、透明な媒体は色によって動かされることができ、このようにして色は見られるようになる。ところで、能動知性は以前には可能態において存在していた可知的なものそれ自身をそれらを質料から抽象することによって、現実態において可知的なものにする。そしてこのようにして、既に言われたように、それらは現実態において可知的なものである。

731.- Inducitur autem Aristoteles ad ponendum intellectum agentem, ad excludendum opinionem Platonis, qui posuit quidditates rerum sensibilium esse a materia separatas, et intelligibiles actu; unde non erat ei necessarium ponere intellectum agentem. Sed quia Aristoteles ponit, quod quidditates rerum sensibilium sunt in materia, et non intelligibiles actu, oportuit quod ponere aliquem intellectum qui abstraheret a materia, et sic faceret eas intelligibiles actu.

731. ところで、アリストテレスは可感的事物の本質が質料から分離されたものであり、現実態において可知的であると主張したプラトンの見解を排除するために能動知性を導入している。プラトンにとっては能動知性を措定する必要はなかった。しかし、アリストテレスは可感的事物の本質は質料のうちに存在していて、現実態において可知的ではないと主張するから、質料から抽象し、そしてそのようにしてそれらを現実態において可知的なものとする何らかの知性を措定しなければならなかった。

732.- Deinde cum dicit "et hic"
Ponit quatuor conditiones intellectus agentis: quarum prima est, quod sit separabilis: secunda, quod sit impassibilis: tertia quod sit immixtus, idest non compositus ex naturis corporalibus, neque adiunctus organo corporali; sed in his tribus convenit cum intellectu possibili: quarta autem conditio est, quod sit in actu secundum suam substantiam; in quo differt ab intellectu possibili, qui est in potentia secundum suam substantiam, sed est inactu solum secudum speciem susceptam.

732. 次に、彼はet hic....と言うとき、能動知性の四つの条件を挙げている。それらのうちの第一の条件は、それが分離可能であるということである。第二は、それが不受動であるということである。第三は、それが混合されていない、すなわち、物体的な諸本性から構成されていないし、また身体的器官に結合されていないということである。ところで、これら三つの条件において能動知性は可能的知性に一致する。しかし、第四の条件は、能動知性がその実体に従って[本質的に]現実態において存在するということである。この点において能動知性は、その実体に従って[本質的に]可能態において存在し、ただ受け取った形象に従ってのみ現実態にある可能的知性とは異なる。

733.- Et ad has quatuor conditiones probandas, inducit unam rationem, quae talis est. Agens est honorabilius patiente, et principium activum, materia: sed intellectus agens comparatur ad possibilem sicut agens ad materiam, sicut iam dictum est*8. ergo intellectusagens est nobilior poosibili. Sed intellectus possibilis est separatus, impassibilis et immixtus, ut supra ostensum est*9: ergo multo magis intellectus agens. Ex hoc etiam patet, quod sit secundum substantiam suam in actu; quia agens est nobilius patiente, non nisi secundum quod est in actu.

733. そしてこれら四つの条件を論証するために、アリストテレスは次のような論拠を導入する。能動的なものは受動的なものより、そして活動的原理は質料よりも優れている。ところで、すでに言われたように、能動知性は可能的知性に対して、能動的なものが質料に対してあるような関係にある。それゆえに、能動知性は可能的知性よりも優れている。しかし、上に示されたように、可能的知性は分離したもの、不受動なものそして混合されないものである。それゆえ、能動知性はなおさらそうである。そしてこのことからも、能動知性はその実体に従って現実態において存在するということは明らかである。というのは、能動的なものは現実態にあるものに従ってのみ受動的なものよりも優れているからである。

734.- Occasione autem horum quae hic dicuntur, quidam posuerunt intellectum agentem, substantiam separatuam, et quod differt secundum substantiam ab intellectu possibili. Illud autem non videtur esse verum. Non enim homo esset a natura sufficienter institutus, si non haberet in seipso principia, quibus posset operationem complere, quae est intelligere: quae quidem compleri non potest, nisi per intellectum possibilem, et per intellectum agentem. Unde perfectio humanae naturae requirit, quod utrumque eorum sit aliquid in homine. Videmus etiam, quod sicut operatio intellectus possibilis, quae est recipere intelligibilia, attribuitur homini, ita et operatio intellectus agentis, quae estabstrahere intelligibilia. Hoc autem non posset, nisi principium formale huius actionis esset ei secundum esse coniunctum.

734. しかし、ここで言われた事柄の機会によって、ある人々は分離した実体としての能動知性を措定し、それが実体に従って可能的知性とは異なると主張した。しかし、このことは真であるとは思われない。なぜなら、人間は、自分自身のうちにそれによって知性認識するというはたらきを完成することができる諸原理を持っていないならば、本性的に十分に構成された者ではないだろうからである。すなわち、知性認識のはたらきは可能的知性と能動知性によるのでなければ完成され得ないのである。それゆえに、人間本性の完成はこれら両方の知性が人間のうちに存在することを要求する。可知的なものを受け取ること[がその役目]である可能的知性のはたらきが人間に帰せられるように、可知的なものを抽象すること[がその役目]である能動知性のはたらきもまた人間に帰せられるということをわれわれは見る。しかし、このことはこのはたらきの形相的原理が結合された存在に従って人間に存在しないならば不可能であろう。

735.- Nec sufficit ad hoc, quod actio attribuatur homini per hoc quod species intelligibiles factae per intellectum agentem, habent quodammodo pro subiecto phantasmata,quae sunt in nobis; quia ut supra diximus*10, cum de intellectu possibili ageretur, species non sunt intelligibiles in acut, nisi quia sunt abstractae a phantasmatibus: et sic eis mediantibus actio intellectus agentis non posset nobis attribui. Et praeterea intellectus agens comparatur ad species intellectus in actu, sicut ars ad species artificiatorum, per quas manifestum est, quod artificia*11 non habent actionem artis: unde etiam dato, quod species factae intelligibiles actu, essent in nobis, non sequeretur, quodnos possemus habere actionem intellectus agentis.

735. また、能動知性によって形成された可知的形象がわれわれのうちに存在する表象像を何らかの仕方でその基体として持っているということによってその行為が人間に帰せられるということも不十分である。というのは、可能的知性について論じられた際に、上にわれわれが述べたように、形象はそれらが表象像から抽象されるのでないならば、現実態において可知的ではないからである。そしてこのように、表象像を媒介にすることによっては能動知性のはたらきはわれわれに帰せられることはできないであろう。そしてさらに、能動知性は現実態における知性の形象に対して、技術が技術の産物に対するような関係にある。そのことから明らかなことは、技術がそれを通してはたらく技術の産物は技術のはたらきを持たないということである。それゆえに、現実態において可知的とされた形象がわれわれのうちに存在するということが認められるとしても、われわれが能動知性のはたらきを持つことができるということは帰結しないであろう。

736.- Est etiam praedicta positio contra Aristotelis intentionem: qui expresse dixit, hasdifferentias duas, scilicet intellectum agentem et intellectum possibilem, esse in anima: ex quo expresse dat intelligere, quod sint partes animae, vel potentiae, et non aliquae substantiae separatae.

736. 先に述べられた立場もアリストテレスの意図に反する。彼はこれら二つの異なったもの、すなわち能動知性と可能的知性が霊魂のうちに存在すると明確に述べた。そのことによって彼はそれらは霊魂の諸部分、あるいは能力の諸部分であって、何らかの分離された実体ではないということを明確に理解させている。

737.- Sed contra hoc videtur esse praecipue, qod intellectus possibilis comparatur ad intelligibilia, ut in potentia existens ad illa; Intellectus autem agens comparatur ad ea,ut ens in actu: non videtur autem possibile, idem respectu eiusdem posse esse in potentia et in actu: unde non videtur possibile, quod intellectus agens et possibilis conveniant inuna substantia animae.

737. しかしこれに対して特に以下の反対論が出されると思われる。すなわち、可能的知性は可知的なものに対して、可能態にあるものとして関係しているのに、能動知性は現実態にある存在として関係している。ところで、同じものが同じ観点において可能態にあり、かつ現実態にあることができるということが可能であるとは思われない。それゆえに、能動知性と可能的知性が霊魂の一つの実体のうちに共に見出されるということが可能であるとは思われない、と。

738.- Sed hoc de facili solvitur, si quis recte consideret, quomodo intellectus possibilis sit in potentia ad intelligibilia, et qoomodo intelligibilia sunt in potentia respectu intellectus agentis. Est enim intellectus possibilis in potentia ad intelligibilia, sicut indeterminatum ad determinatum. Nam intellectus possibilis non habetdeterminate naturam alicuius rerum sensibilium. Unumquodque autem intelligibile, est aliqua determinata natura alicuius speciei. Unde supra dixit*12, quod intellectus possibilis comparatur ad intelligibilia, sicut tabula ad determinatas picturas. Quantum autem ad hoc,intellectus agens non est in actu.

738. しかし、このことは、可能的知性がどのような仕方で可知的なものに対して可能態にあるか、そして可知的なものがどのような仕方で能動知性に関して可能態にあるかを正しく考察するならば、容易に解決される。思うに、可能的知性は可知的なものに対して、決定されていないものが決定されたものに対して可能態にあるような仕方で、可能態にある。なぜなら、可能的知性は可感的事物の何らかの本性を決定された仕方で持っていないからである。しかし、各々の可知的なものは何らかの種の何らかの決定された本性である。それゆえに、上述されたように、可能的知性が可知的なものに対する関係は[描かれていない]画用紙が決定された[描かれた]絵に対する関係に等しい。この点に関しては、能動知性は現実態にはない。

739.- Si enim intellectus agens haberet in se determinationem omnium intelligibilium, nonindigeret intellectus possibilis phantasmatibus, sed per solum intellectum agentem reduceretur in actum omnium intelligibilium, et sic non compararetur ad intelligibilia ut faciens ad factum, ut Philosophus hic dicit, sed ut existens ipsa intelligibilia. Comparatur igitur ut actus respectu intelligibilium inquantum est quaedam virtus immaterialis activa, potens alia similia sibi facere, scilicet immaterialia. Et per hunc modum, ea quae sunt intelligibilia in potentia, facit intelligibilia in actu. Sic enim et lumen facit colores in actu, non quod ipsum habeat in se determinationem omnium colorum. Huiusmodi autem virtus activa est quaedam participatio luminis intellectualis a substantiis separatis. Et ideo Philosophus dicit, quod est sicut habitus, vel lumen; quod non competeret dici de eo, si esset substantia separata.

739. なぜなら、もし能動知性がすべての可知的なものの決定を自らのうちに持っているならば、可能的知性は表象像を必要とせず、ただ能動知性のみによってすべての可知的なものの現実態へともたらされるであろうからである。そして能動知性が可知的なものに対する関係は、哲学者がここで言っているような、作る者が作られる物に対する関係ではなくて、[能動知性と可知的なものが]いわばそれ自体可知的なものとして存在するのであろう。それゆえに、可知的なものに関して[能動知性が]現実態にあるものとして比較されるのは、それが何かある活動的な非質料的な力であるかぎりで、他のものを自らに似たものにする能力、すなわち、非質料的な能力だからである。そしてこの仕方で能動知性は可能態において可知的であるものを現実態において可知的なものとするのである。このように、光は、それ自身はすべての色の決定を自らのうちに持たないで、色を現実態におけるものとするのである。しかし、このような活動的な力は分離した実体からの知性的な光のある種の分有である。そしてこのゆえに、哲学者は能動知性をハビトゥスあるいは光のようなものであると言うのである。このことは、もし能動知性が分離した実体であったならば、相応しい言い方ではないであろう。

740.- Deinde cum dicit "idem autem" Determinat de intellectu secundum actum. Et circa hoc duo facit. Primo ponit conditiones intellectus in actu. Secundo ostendit conditiones totius partis intellectivae, secundum quod differt ab aliis partibus animae, ibi, "Separatus autem". Circa primum tres ponit conditiones intellectus in actu: quarum prima est, quod scientia in actu, est idem rei scitae. Quod non est verum de intellectu in potentia. Secunda conditio eius est, quod scientia in potenita in uno et eodem, tempore est prior quam scientia in actu; sed universaliter non est prior, non solum natura, sed neque etiam tempore: et hoc est, quod Philosophus dicit in nono Metaphysicae*13, quod actus est prior potentia natura, tempore vero in uno et eodem potentia prior est actu, quia unum et idem prius est in potentia, et postea fit actu. Sed uviversaliter loquendo, etiam tempore actus est prior. Nam quod in potentia est, non reducitur in actum nisi per aliquod quod est actu. Et sic etiam de
potentia sciente, non fit aliquis sciens actu, inveniendo, neque discendo, nisi per aliquam scientiam praeexistentem in actu; quia omnis doctrina et disciplina intellectiva fit ex praeexistenti cognitione, ut dicitur in primo Posteriorum*14.

740. 次に、彼がidem autem....と言うとき、彼は現実態に従っての知性について決定する。そしてこのことに関して彼は二つのことを為す。第一に、彼は現実態における知性の諸条件を措定する。第二に、彼はSeparatus autem....において、霊魂の他の諸部分とは異なる知性的部分全体の諸条件を示す。第一の問題に関して彼は現実態における知性の三つの条件を措定する。その条件の第一は、現実態にある知識は知られた事物と同じだということである。このことは可能態にある知性については真ではない。その第二の条件は、可能態にある知識は一つの同じ事物において現実態にある知識よりも時間的に先なるものであるが、しかし、普遍的にはそれは本性においてばかりでなく、時間的にも先なるものではないということである。そしてこのことは、アリストテレスが『形而上学』第9巻において述べたことであって、現実態は本性的に可能態よりも先であるが、しかし時間的には一つの同じものにおいて可能態は現実態よりも先である。というのは、一つの同じものは可能態にあり、そして後に現実態になるからである。しかし、普遍的に言うならば、時間的にもまた現実態の方が先である。なぜなら、可能態にあるものは何かある現実態にあるものによってでなければ、現実態へともたらされないからである。そしてこのように、現実態において先在する何かある知識によってでなければ、発見によってであれ、教授によってであれ、可能的に知る者から現実態において知る者は生じない。というのは、『分析論後書』第1巻において言われているように、すべての知性的な教授と学習は先在する認識から生ずるからである。

741.- Tertia conditio intellectus in actu, per quam differt ab intellectu possibili, et intellectu in habitu, est quia uterque quandoque intelligit, et qunadoque non intelligit. Sed hoc non potest dici de intellectu in actu, qui consistit in ipso intelligere.

741. それによって可能的知性から、そしてハビトゥスにおける知性からも異なる現実態にある知性の第三の条件は、前二者は時に知性認識し、時に知性認識しないということである。このことは現実態における知性については言われ得ない。現実態における知性は知性認識それ自身のうちに存する。

742.- Deinde cum dicit "separatus autem"  Ponit conditiones totius intellectivae partis. Et primo ponit veritatem. Secundo excludit obiectionem, ibi, "Non reminiscitur". Dicit ergo primo, quod solus intellectus separatus est hoc, quod vere est. Quod quidem non potest intelligi neque de intellectu agente neque de intellectu possibili tantum, sed de utroque, quia de utroque supra*15 dixit quod est separatus. Et patet quod hic loquitur de tota parte intellectiva: quae quidem dicitur separata, ex hoc quod habet operationem suam sine organo corporali.

742. 次に、彼がSeparatus autem ....と言うとき、彼は知性的部分全体の諸条件を措定している。そして彼は第一に真理を措定し、第二に、Non reminiscitur autem以下において反対論を排除している。それゆえに、彼は第一に、分離した知性だけがそれが真に知性であるものであると言う。このことは能動知性だけ、また可能的知性だけについて理解されることはできないのであって、両方の知性について理解されなければならない。というのは、先に両方の知性についてそれは分離したものであると言われたからである。そしてこのことが知性的な部分全体について語られていることは明らかである。すなわち、それが身体的器官なしにそのはたらきを持つということから、それは分離したものであると言われる。

743.- Et quia in principio huius libri*16 dixit quod si aliqua operatio animae sit propria,contingit animam separari; concludit, quod haec sola pars animae, scilicet intellectiva, est incorruptibilis et perpetua. Et hoc est quod supra posuit in secundo*17, quod hoc genus animae separatur ab aliis, sicut perpetuum a corruptibili. Dicitur autem perpetua, non quod semper fuerit, sed quod semper erit. Unde Philosophus dicit in duodecimo Metaphysicorum*18, quod forma numquam est ante materiam, sed posterius remanet anima, non omnis, sed intellectus.

743. そして、彼がこの書物の初めのところで、もし霊魂の何かあるはたらきが霊魂に固有のはたらきであるならば、その霊魂が[身体から]分離されるということは起こると言ったから、この霊魂の部分、すなわち、知性的な部分だけが不滅で永遠であると結論するのである。そしてこのことは、アリストテレスが先に第2巻において言っていたこと、すなわち、霊魂のこの種類[知性的部分]は、永遠的なものが可滅的なものから分離されるように、霊魂の他の諸部分から分離されるということである。しかし、永遠的なものが語られるのはそれが常に存在してきたということではなく、それが常に存在するであろうということである。それゆえに、哲学者は『形而上学』第12巻において、形相は質料以前には決して存在せず、霊魂は後に存続するが、しかし、全体ではなく、ただ知性だけが存続する、と言うのである。

744.- Deinde cum dicit "reminiscitur" Excludit quamdam obiectionem. Posset enim aliquis credere, quod quia pars intellectiva animae est incorruptibilis, remanet post mortem in anima intellectiva scientia rerum eodem modo quo nunc eam habet: cuius contrarium supra dixit in primo*19, quod intelligere corrumpitur, quodam interius corrupto; et quod corrupto corpore non reminiscitur anima, neque amat.

744. 次に、アリストテレスがreminisciturと言うとき、彼はある種の反対論を排除している。なぜなら、ある人は、霊魂の知性的部分が不滅であるから、死の後に知性的霊魂のうちにはそれが現在持っているのと同じ仕方で事物の知識が残る、と信じることができるだろうからである。彼は第1巻においてこの反対のことを言った。すなわち、内的な何かあるものが滅びるとき、知性認識も滅びる、そして身体が滅びると、霊魂は記憶したり愛したりすることはない、と。

745.- Et ideo hic dicit, quod reminiscitur, scilicet post mortem eorum, quae in vita scivimus, quia "hoc quidem impassibile est", id est ista pars animae intellectivae impassibilis est, unde ipsa non est subiectum passionum animae, sicut sunt amor et odium, reminiscentia et huiusmodi, quae ex aliqua passione corporali contingunt. Passivus vero intellectus corruptibilis est, idest pars animae, quae non est sine praedictis passionibus,est corruptibilis; pertinent enim ad partem sensitivam. Tamen haec pars animae dicitur intellectus, sicut et dicitur rationalis, inquantum aliqualiter participat rationem, obediendo rationi,et sequendo motum eius, ut dicitur in primo Ethicorum*20. Sine hac autemparte animae corporalis, intellectus nihil intelligit. Non enim intelligit aliquid sine phantasmate, ut infra dicetur*21. Et ideo destructo corpore non remanet in anima separata scientia rerum
secundum eundem modum, quo modo intelligit. Sed quomodo tunc intelligat, non est praesentis intentionis discutere.

745. そしてそれゆえに、彼はわれわれがこの世において知った事柄を死後には想起することはないと言う。というのは、「これは不受動である」からである。すなわち、知性的霊魂のこの部分は不受動であり、それゆえにその部分は愛や憎しみ、記憶そして身体的なある受動から生じるそのようなもののような、霊魂の諸情念には従属しない。実際、受動的知性、すなわち、今挙げた諸情念なしには存在しない霊魂の部分は可滅的である。なぜなら、それらは感覚的な部分に属するからである。それにもかかわらず、霊魂のこの部分は、『倫理学』第1巻において言われているように、それが理性に従い、理性の運動に続くことによって、何らかの仕方で理性に参与するかぎりで、知性と言われ、理性的と言われる。しかし、霊魂のこの身体的な部分なしには、知性は何物をも知性認識しない。なぜなら、後に言われるように、知性は表象像なしには何かあるものを知性認識しないからである。そしてそれゆえに、身体が滅びるならば、分離した霊魂のうちにはそれが[滅びる以前に]知性認識しているのと同じ仕方では、事物の知識は残らない。しかし、そのとき、分離した霊魂がどのような仕方で認識するかということは、現在の議論の意図ではない。

II. 若干の考察

 以上が、アリストテレスの『霊魂論』の能動知性に関する部分に対するトマスの注解である。以下、順を追って見ながら、若干の考察を加えたい。

 トマスはまず、728節において、人間の霊魂の知性的部分はある場合に可能態にあり、ある場合に能動態にあるから、可能的知性と能動知性が存在しなければならないことの根拠と例をアリストテレスが示しているということを指摘する。生成変化の根源にある可能的・質料的原理と活動的・規定的原理の区別は人間知性にも適用されなければならないからである。人間霊魂における可能的・質料的原理としての可能的知性は「ある類における質料のようなもの」(sicut materia in unoquoque genere)であり、「その類に属するすべてのものに対して可能態にあるもの」(quod est in potentia ad omnia quae sunt illius generis)だと言われている。技術がそれに働きかけて作品を完成させるそれ、すなわち、素材のようなものとして可能的知性は規定されている。素材は技術の働きかけによってあらゆるものに成る可能性を持っている。技術とそれが働きかける素材との関係のように、能動知性と可能的知性との関係が考えられている。これに対して能動知性は人間霊魂の知性的部分における活動的・規定的原理であり、「能動的・作出的原因のようなもの」(sicut causa agens, et factivum)、「素材に働きかける技術のようなもの」(sicut ars ad materiam)である。

 可能的知性は「それにおいてすべてのものが可知的なものとされることができる知性」(intellectus, in quo possint omnia intelligibilia fieri)である。このことによって意味されているのは、まず第一に、すべてのもの(omnia)は可能的にのみ可知的なものであって、まだ現実的に可知的なもの(intelligibilia)とはされていない認識の対象であるということ、第二に、その認識の対象は現実態において可知的なものとされるべき、いわば場としての可能的知性を必要とすること、そして第三に、そこにおいてすべてのものが認識可能とされる(fieri)、すなわち、すべての対象が現実的な可知的対象へと作られる(fieri)、ということである。

 これに対して、「もう一つの[能動]知性はすべてのものを現実態において可知的なものとすることができることへと向けられている」(alius intellectus sit ad hoc quod possit omnia intelligibilia facere in actu)と規定されている。能動知性は認識の対象としての可能的に可知的なものを現実的に可知的なものにする(facere)、あるいは可能的に可知的なものから現実的に可知的なものを作る(facere)という役割を果たすものと考えられている。このことをトマスは730節では、能動知性が質料から抽象する(abstrahere a materia)ことによって為す、という言い方で表現している。トマスはアリストテレスによって能動知性が「ある種のハビトゥスのようなもの」(sicut habitus quidam)として規定されていることを指摘してこの節を終えている。

 次の729節において、トマスはこの「ある種のハビトゥスのようなもの」ということが何を意味しているかについて説明する。彼は、ハビトゥスのようなものである能動知性と、[第一]諸原理のハビトゥスである知性とは根本的に異なるから、これを混同してはならないと言う。ここで言われている諸原理(principia)は「ある種の知識の種子」(quaedam scientiarum semina)*22、「自明的な共通の原理」(principia communia per se nota)*23、「生得的な原理」(principia innata)*24とも言われる「可感的なものから抽象された形象を通じて能動知性の光によって直ちに[可能的知性に]認識される」*25基本命題のことである。これらの原理は「証明不可能なもの」(indemonstrabilia)*26であり、[可能的]知性はこれらの原理を「自然本性的に」(naturaliter)*27、「端的に」(simpliciter)*28に認識する。従って、「諸原理のハビトゥスである知性」(intellectus, qui est habitus principiorum)とはこのような基本命題を可能的、種子的な仕方で持っている知性のことを指すのであり、「現実態においてすでに知性認識された何かあるもの、すなわち、それらの知解によってわれわれが諸原理を認識するところの諸原理の用語」(aliqua iam intellecta in actu: scilicet terminos principiorum, per quorum intelligentiam cognoscimus principia)を前提にしている[可能的]知性のことである。 トマスにとってそれらの諸原理を構成している用語・観念は諸原理の把握に先立って把握されている必要があるが、それらは感覚的表象に由来するものとして、まさに能動知性によって照明されるべきものである。

 ある種のハビトゥスのようなものである能動知性と諸原理のハビトゥスである知性が同一視されるならば、そこから帰結することは、能動知性はすべてのものを現実態において可知的なものとするものではないということである。もしそうだとすれば、人間は能動知性に依存せずにアプリオリにある種の知識を持ち得るということになろうが、そうであることはできないというのがトマスの考えである。トマスは、アリストテレスが能動知性をある種のハビトゥスと呼ぶのは、能動知性を可能態である可能的知性から区別するためであると解釈するのである。能動知性がある種のハビトゥスのようなものであると言われるのは、アリストテレスが形相(forma)や本性(natura)を欠如(privatio)や可能態(potentia)に対して区別するためにハビトゥスと呼んだ、その意味においてである。

  次に730節において、トマスは能動知性がアリストテレスによって「光のようなもの」(ut lumen)と言われている点を説明する。光は「ある仕方で」(quodammodo)可能態において存在している色を現実態における色とする。この類比は、能動知性が可能態において存在している可知的なものを現実態における可知的なものとする働きを行うものとして、照明の機能を果たしていることを明らかにしようするものである。能動知性自身が光のようなものであり、それによって照らされて可能態において可知的である対象が現実態において可知的である対象とされる。可能態において可知的である対象とは 「表象像」(phantasmata)のことである。個物のうちに存在する「可感的形相ないし形象」(forma sive species sensibilis)はそれが外部の質料のうちにあるかぎりでは、まだ人間との関わりを持たない。人間がこの外なる個物を感覚の対象として外部感覚器官によって受け取り、内部感覚によって統合するとき、それは人間霊魂のうちにある可感的形象となる。この人間の内部に受け取られた形象が表象像と呼ばれる。これはまだ質料的諸条件を伴っているので、そのままでは可能的知性によって 受け取られることはできない。従って、それは能動知性の照明によって可能的知性が受け取ることのできる「可知的形象」(species intelligibilis)とされる必要がある。能動知性は光のようなものとして表象像を照明することによって、ちょうど太陽の光が可能的に可視的である色を照明することによって現実的に色のあるものとするように、可能的に可知的である対象を現実的に可知的である対象とするのである。そのことをトマスはまた能動知性が質料的条件の下にある「表象像から可知的形象を抽象する」(abstrahere a phantasmatibus species intelligibiles)と言うのである。

 このようにアリストテレスは先の人工的な技術の類比に続けて、自然的な現象である光の類比を能動知性の説明のために用い、トマスもこれを承認する。ここで注意しなければならないことは、能動知性の光との類比は上述したようにいわゆる照明説とは違うということである。いわゆる照明説は人間知性を照らす働きをするのは人間を超越する外なる神あるいは分離された「能動知性」(intelligens agens)だと考えるが、トマスはアリストテレスの考えによれば、照明するのは人間自身の能動知性だと解釈するのである。もちろん、739節で言われるように、人間のこの能動知性の光は神の光の分有であるとトマスは言うのであるが。

 731節でトマスはアリストテレスが能動知性を措定したのは「プラトンの見解を排除するため」(ad excludendum opinionem Platonis)であったと言っている。プラトンは「可感的事物の本質」(quidditates rerum sensiblium)が質料から離れて現実的に可知的なものとして存在すると主張したとされる。プラトンのように考える場合には、能動知性を措定する必要はない。しかし、アリストテレスは可感的事物の本質は質料のうちにあり、そして現実的に可知的なものではないと考えたから、可感的事物を質料から抽象し、現実的に可知的なものとするある知性を措定しなければならなかったのである。

 可感的事物はわれわれの感官によってわれわれのうちに表象像として受け取られるが、その表象像は個別的であり、質料的諸条件の下にあってそのままの形では知性認識され得ないというのがアリストテレスの考え方であり、トマスもその考え方を受け入れる。プラトンのように超越的なイデアを立て、それが一方で事物に存在を与え、他方で知性に認識を与えると考えるならば、われわれはイデアの写しである事物をイデアに与るものとして直接的に知性認識できるから、能動知性なるものを措定する必要はないであろう。しかし、アリストテレスによれば、可感的事物の形相は質料を離れて自存するものではなく、質料のうちに可能的にのみ可知的なものとして、すなわち、現実的には可感的なものとして存在するから、可感的事物をそのまま知性認識することは不可能であり、感覚が受け取る可感的表象像から可知的形象を抽象するために能動知性の光が必要となるのである。

  トマスは次に732節において、アリストテレスが挙げている能動知性の四つの条件について論じる。1)それは「分離可能」(separabilis)である。2)それは「不受動」(impassibilis)である。3)それは「混合されたものではない」(immixtus)、すなわち、自然的物体から構成されていないし、また身体的器官に結びつけられていない。これら三つの条件は可能的知性にも当てはまる。4)能動知性にのみ特徴的なことは、能動知性が「その実体に従って現実態にある」(esse in actu secundum suam substantiam)ということである。それに対して、可能的知性の方はその実体に従って可能態にあり、ただその受け取った形象に従ってのみ現実態にある。

 アリストテレスの挙げた四つの条件をどのように解釈するかによって、能動知性論は大きく分かれてくると思われる。ところで、ムエルベケのグイレルムスが分離可能(separabilis)と訳している箇所はギリシャ語ではchoristosであり*29、Patrick Leeはseparabilisという言葉よりはabstracusあるいはseparatusの方がchoristosの正しい訳であると指摘している*30。トマスは次の節では、可能的知性についてであるが、separatusという言葉を用い、能動知性にもその条件は当てはまると言っている。分離された(separatus)能動知性ということで、アヴィセンナは、アリストテレスのこの言葉を、人間知性とは別に、人間知性から分離された高次の知性存在者(intelligens)が存在するという意味で理解した。「人間の霊魂は最初は可能態において知性認識する者(intelligens in potentia)であり、後に現実態において知性認識する者(intelligens in effectu)となる」*31。人間の霊魂を現実態において知性認識する者とするためには、すでにそれ自身が現実態にある「能動知性」(intelligens agens)が存在しなければならないのであって、この能動知性は人間霊魂とはまったく異なった一つの分離した実体であり、人間霊魂を知性認識する者とする原因である、というのがアヴィセンナの解釈である。そしてこの人間霊魂から分離された実体としての能動知性は、アヴィセンナの理解によれば、第一の知性存在者(intelligens)が第二の知性存在者を発出し、第二の知性存在者が第三の知性存在者を発出し、という仕方で順次に降ってきて、ついに月下の世界に関係づけられた最後の第十の知性存在者なのである。アヴィセンナにとってこのような能動知性によって可能態から現実態へと変えられるのは人間の霊魂、もっと詳しく言えば、人間の可能的知性である。常に現実態にある能動知性はその持っている形相を常に可能態にある人間の可能的知性に与える、ないし刻印することによって、人間のうちに知性認識を原因するというわけである。ただ、人間が分離された能動知性から形相を刻印されるためには、能動的知性存在者の影響を受け取ることができるように態勢づけられている必要がある。この態勢づけをするものが感覚的表象像を保存する想像力やそれらの比較・検討・考察を行う思考力であり、個人によってその態勢づけは異なると考えられている*32。 アリストテレスに倣って、トマスが可能的知性と共通する三つの条件、「分離し得る」、「不受動である」、「混合されていない」を能動知性にも帰しているのに対して、第四の条件、「その実体に従って現実態にある」は、可能的知性にはない条件である。「その実体に従って現実態にある」とはどういう意味で言われているのであろうか。「実体に従って」(secundum substantiam)はアリストテレスの言葉ではtei ousiaiであり*33、本質において、本質的にという意味である。能動知性は可能的知性とは異なり、本質的に現実態にある。トマスは『神学大全』I,79,4 ad 4において、「霊魂はそれが現実態において非質料的であるかぎりで、それによって質料の個別的諸条件から抽象して現実態における非質料的なものとするある種の力を持っており、この力が能動知性と呼ばれる」*34と言い、このような知性の非質料性は一方で可能的知性において可能態にあるが、他方で能動知性において現実態にあり、その本質において可知的なのだと、考えるのである。

 733節では、トマスはアリストテレスがこれら四つの条件が能動知性に妥当するものであるということを論証するために挙げている理由について説明する。「能動的なもの」(agens)は「受動的なもの」(patiens)よりも優れ、「活動の原理」(principium activum)は「質料」(materia)よりも優れている。ところで、能動知性の可能的知性に対する関係は能動的なものが質料に対する関係に相応する。能動知性は可能的知性よりも優れている。しかるに、可能的知性は「分離したもの」(separatus)、不受動、混合されないものある。従って、可能的知性に当てはまるこれらの条件は能動知性にはなおさら当てはまるはずである。トマスは能動的なものは現実態にあるものに従ってのみ受動的なものよりも優れているということから、能動知性はその実体に従って現実態にあるということも明らかである、と言う。

 734節において、トマスは、「ある人々」(quidam)が能動知性は「分離された実体」(substantia separata)であって、それは「実体に従って可能的知性とは異なる」(differt secundum substantiamab intellectu possibili)と主張したけれども、そのことは真であるとは思われない、と述べている。これは能動知性と可能的知性が異なるという点に対するトマスの反論ではなくて、それらが「実体的に」(secundum substantiam)異なるという点に対する反論である。その理由をトマスは次のように述べている。人間は知性認識というはたらきをそれによって完成させることができる原理を自分自身のうちに持っていないならば、「本性的に十分に秩序づけられていない」(Non...esset a natura sufficienter institutus..)ことになろう。そのはたらきは可能的知性と能動知性によって以外には完成され得ない。従って、人間本性の完成のためには両方の知性が人間のうちに存在しなければならない。また、可知的なものを受け取るという可能的知性のはたらきが人間に帰せられるように、可知的なものを抽象する能動知性のはたらきもまた人間に帰せられなければならない。しかし、このことは能動知性のはたらきの形相的原理が人間にその「存在に従って結合されて」(secundum esse coniunctum)いなければならないということを意味している、とトマスは考えるのである。

 能動知性が可能的知性から「その実体に従って異なる」(differt secundum substantiam)と主張することは人間に可知的形相を与える存在を人間の外部に求めることになるが、これは人間の知性認識の実態に即しないということを、トマスは言いたいのであろう。アリストテレスの「分離された」 (choristos)という言葉を積極的にどのように解釈するかについては、ここでは述べられていない。

 次の735節では、トマスは「能動知性によって作られた可知的形象」(species intelligibiles factae per intellectum agentem)がわれわれのうちに存在する表象像をある仕方で基体として持っているということは、人間に[能動知性の]はたらきが帰せられるということを説明するための理由としては十分ではないと考えており、表象像のみでは知性認識が成立しないことを指摘している。その理由は次の通りである。形象は表象像から抽象されたものでければ、現実態において可知的ではないからであり、そしてこのように表象像を媒介にすることによっては、能動知性のはたらきがわれわれに帰せられることはできないからである。さらに、能動知性と「現実態にある知性の形象」(species intellectus in actu)との関係は、「技術」(ars)と「それによって技術作品が作られる形象」(species artificiatorum, per quas agit)との関係に似ている。技術作品が技術のはたらきを持たないことは明らかである。それゆえに、可知的とされた形象が現実態においてわれわれのうちに存在するということを認めるとしても、そのことからわれわれが能動知性のはたらきを持つことができるということは帰結しないとトマスは考えるのである。

 736節において、トマスは「上述の立場がアリストテレスの意図にも反している」(est etiam praedicta positio contra Aristotelis intentionem)と言う。アリストテレスは能動知性と可能的知性という二つの異なった能力が霊魂のうちに存在すると明確に述べたとトマスは主張する。アリストテレスは能動知性と可能的知性が「霊魂の諸部分、ないしは能力の諸部分」(partes animae, vel potentiae)であって、「何らかの分離された実体ではない」(non aliquae substantiae separatae)ということを明確にしている、とうのがトマスの理解である。

 トマスは737節で予想される反対論について述べている。可能的知性が可知的なものに対する関係は「可知的なものに対して可能態にある存在」(ut in potentia existens ad illa[intelligibilia])という関係であるが、能動知性が可知的なものに対する関係は可知的なものに対して「現実態にある存在」(ut ens in actu)という関係である。同一のものが同一の点について可能態にあり、かつ現実態にあるということは不可能であり、従って、能動知性と可能的知性が霊魂の一つの実体に属することは不可能であると思われる、と。

 738節と739節はその反対論に対するトマスの解答である。可能的知性が可知的なものに対して可能態にある仕方、そして可知的なものが能動知性に関して可能態にある仕方がいかなるものであるかを理解するならば、上の難問は解決されるとトマスは言う。まず、可能的知性の可知的なものに対する関係は「決定されていないもの」(indeterminata)が「決定されたもの」(determinata)に対するような関係である、と言われる。可能的知性は可感的事物の本性を「決定された仕方で」(determinate)持たないのに対して、可知的なものは「決定された本性」(determinata natura)であり、比喩的に言えば、この関係は「[まだ描かれていない]画用紙」(tabula)と「描かれた絵画」(determinatas picturas)との関係に当たる*35。人間は可感的世界に生きているのであって、叡知界に身を置いているのではないから、知性は、最初から可知的なものに対して現実態にあることはできないのであり、可知的なものに対して可能態にあるものとして可能的知性であるという側面を持たざるを得ないのである。トマスは、「可知的なものは能動知性との関連においては可能態にあり」(intelligibilia sunt in potentia respectu intellectus agentis)、「現実態にはない」(non est in actu)と言っているが、そのことによって意味されていることは739節で次のように説明されている。

 能動知性がそれ自身のうちに可知的対象の決定された形相を持っているとするならば、すなわち、可知的なものを現実態において持っているとするならば、可能的知性は表象像を必要とせず、能動知性だけによって可知的なものの現実態へと変化させられるということになるが、これはアリストテレスの能動知性と可知的なものとの関係の規定(作る者と作られるものfaciens ad factum)に反し、能動知性と可知的対象を同一化してしまうことになる、とトマスは考えているようである。能動知性が可知的なものに関して現実態にあると言われる意味について、トマスはそれは、能動知性が「ある種の活動的非質料的能力」(quaedam virtus immaterialis activa)であるかぎりで、他の事物を非質料化することにおいて「自らに似たものにすることができる力を持っている」(potens alia similia sibi facere)ということだと説明する。アリストテレスが能動知性を「ハビトゥスのようなもの、光のよなもの」(sicut habitus, vel lumen)と規定するのは、「上述の活動的な能力が分離した実体からの知性的な光のある分有である」(Huiusmodi autem virtus activa est quaedam participatio luminis intellectualis a substantiis separatis)*36からであって、能動知性が人間から分離された実体と考えられているわけではない、とトマスは言う。

 740節と741節において、トマスは「現実態にある知性の条件」(conditiones intellectus in actu)を三つ挙げて説明する。第一の条件は「現実態にある知識は知られた事物と同一である」(scientia actu est idem rei scitae)ということであり、このことは可能態にある知性については妥当しない。第二の条件は可能態にある知識は同一事物においては現実態にある知識よりも時間的に先であるということである。しかし、普遍的に言うならば、可能態にある知識は現実態にある知識よりも、時間的にも本性的にも先ではない。同一事物は確かに最初は可能態にあり、後に現実態になるが、その現実態への変化が同一事物において起こることができるためには、既に現実態にある何物かによって動かされなければならないからである。トマスはここでアリストテレスの『分析論後書』を引用し、「すべての知性的な教授と学習は先在する認識から生じる」(omnis doctrina et disciplina intellectiva fit ex praeexistenti cognitione)と言う*37。第三の条件は「現実態にある知性は知性認識それ自身のうちに存する」(intellectus in actu...consistit in ipso intelligere)ということであり、このことは可能的知性にもハビトゥスにおける知性にも妥当しない。

 ここで言われている現実態におけ知性は、能動知性のことを指しているのではなくて、能動知性の光によって可感的表象像が照明され、そこから抽象された可知的形象を受け取ったかぎりでの、現実態にあるものとされた可能的知性のあり方が語られていると理解すべきであろう*38(cf.S.T.,I,79,10c)。可能的知性にもハビトゥスにおける知性にも第三の条件が妥当しないということは、現実態へと変化させられる以前の単なる可能態における可能的知性についても、そして現実態に変化させられた後であっても現に今知性認識していないものとしてのハビトゥスにおける知性についても、現に「知力をはたらかせつつある」(considerare)、あるいは「知性認識それ自身である」(in ipso intelligere)第二現実態にはないから、現実態にある知性であると言うわけにはいかないということである。

 742節以下で、トマスはアリストテレスが能動知性は「分離されたもの」(choristos)であると言ったことの意味を積極的な仕方で説明しようとする。彼は、アリストテレスが「人間霊魂の他の諸部分[すなわち植物的および感覚的な部分]とは異なるものとしての知性的部分全体の条件」(conditiones totius partis intellectivae, secundum quod differt ab aliis partibus animae*36)を示している、と言う。アリストテレスが「分離された知性だけが真に存在するものである」(quod solus intellectus separatus est hoc, quod vere est)と言うときに意味していることは、アヴィセンナが理解したように、人間知性から分離された実体としての天上的な知性存在者intelligensではなくて、人間に属する知性的な部分全体、従って能動知性と可能的知性を共に含む人間霊魂の知性的部分が他の植物的および感覚的な部分から分離されているという意味において分離された知性である、とトマスは解釈する。この知性的部分は「身体的器官なしにそのはたらきを持つ」(habet operationem suam sine organo corporali)からである。

 743節で、トマスは霊魂の知性的部分だけが「不滅であり、永遠である」(est incorruptibilis etperpetua)と言う。そして、「永遠的なものが可滅的なものから分離されるように、霊魂の知性的部分は他の諸部分から分離される」(hoc genus animae separatur ab aliis, sicut perpetuum a corruptibili)のだ、と言う。トマスはここで、前節に引き続いて、能動知性が可能的知性とともに、霊魂の他の諸部分とは本質的に異なるという意味で、永遠的なものが可滅的なものから分離されるように 霊魂の他の諸部分から「分離される」(separatur)と言うのである。

 永遠的であるという意味について、トマスはそれが常に存在して来たということではなくて、これから先存在するであろうということだと注意している。トマスにとって人間霊魂は身体と結合される以前、すなわち人間が神によって創造される以前には存在しなかったが、身体から離れたとき、すなわち、死後には身体と共に滅びるのではなくて、残ると考えられるが、残るのは霊魂全体ではなくて、知性的な部分である、ということであろう。

 744節と745節では、アリストテレスが「能動知性は記憶しない」(non reminiscitur)と述べたことについて、トマスは次のように説明する。霊魂の知性的部分が不滅であるならば、人間の死後にも知性的霊魂のうちにはこの世にあったときにそれが持っていたのと同じ知識が残るのではないか、という反対論を排除するために、アリストテレスは能動知性はそれが「不受動である」(impassibile est)から、記憶しないと言ったのだ、と。「霊魂の知性的部分は不滅である」(pars intellectiva animae est incorruptibile)が、「受動的知性」(passivus intellectus)、すなわち霊魂の感覚的、受動的な部分である「諸情念」(passiones)は可滅的である。この部分は理性に参与するかぎりで、理性とか知性と呼ばれることもあるが、厳密に考えればそれらの部分は霊魂の感覚的な部分として身体が滅びるときに滅びる。知性は表象像なしに知性認識しないから、死後に分離された霊魂のうちには、身体と結びつき、表象像を介して知性認識していたのと同じ仕方で、事物の知識が残ることはない、というのがトマスのこの箇所の解釈である。

  最後に、トマスが能動知性の措定の必要性について論じた、討論問題集『霊魂論』第四問題の主文*37を以下に掲げ、その日本語訳を示しておこう。

 Dicendum quod necesse est ponere intellectum agentem. Ad cuius evidentiam considerandum est quod, cum intellectus possibilis sit in potentia ad intelligibilia, necesse est quod intelligibilia moveant intellectum possibilem. Quod autem non est, non potest aliquid movere. Intelligibile autem per intellectum possibilem non est aliquid in rerum natura existens, in quantum intelligibile est; intelligit enim intellectus possibilis noster aliquid quasi unum in multis et de multis. Tale autem non invenitur in rerum natura subsistens, ut Aristoteles probat in VII Metaphys. Oportet igitur, si intellectus possibilis debet moveri ab intelligibili, quod huiusmodi intelligibile per intellectum fiat. Et cum non possit esse id quod est, in potentia ad aliquid factum ipsius, oportet ponere praeter intellectum possibilem intellectum agentem, qui faciat intelligibilia in actu, quae moveant intellectum possibilem. Facit autem ea per abstractionem a materia, et a materialibus conditionibus, quae sunt principia individuationis. Cum enim natura speciei,quantum ad id quod per se ad speciem pertinet, non habeat unde multiplicetur in
diversis, sed individuantia principia sint praeter rationem ipsius; poterit intellectus accipere eam praeter omnes conditiones individuantes; et sic accipietur aliquid unum. Et eadem ratione intellectus accipit naturam generis abstrahendo a differentiis specificis, ut unum in multis et de multis speciebus.
Si autem universalia per se subsisterent in rerum natura, sicut Platonici posuerunt, necessitas nulla esset ponere intellectum agentem; quia ipsae res intelligibiles per se intellectum possibilem moverent. Unde videtur Aristoteles hac necessitate inductus ad ponendum intellectum agentem, quia non consensit opinioni Platonis de positione idearum. Sunt tamen et aliqua per se intelligibilia in actu subsistentia in rerum natura, sicut sunt substantiae immateriales; sed tamen ad ea cognoscenda intellectus possibilis pertingere non potest, sed aliqualiter in eorum cognitionem devenit per ea quae abstrahit a rebus materialibus et sensibilibus.

  能動知性を措定することが必要であると言わなければならない。このことを明らかにするためには、可能的知性は可知的なものに対して可能態にあるから、可知的なものが可能的知性を動かすことが必要であるということが考えられるべきである。ところで、存在しないものは何かあるものを動かすことはできない。ところが可能的知性によって[受け取られる]可知的なものは、それが可知的であるかぎりで、事物の本性のうちに存在する何かあるものではない。なぜなら、われわれの可能的知性は何かあるものを多における一として、また多からの一として知性認識するからである。そのようなものは、アリストテレスが『形而上学』第七巻において証明しているように、事物の本性のうちに存在するものとしては見出されない。それゆえに、もし可能的知性が可知的なものによって動かされるべきであるならば、そのような可知的なものが知性によって生み出されなければならない。そしてそれは何かあるものに対して可能態にある可知的なものを作りだすものではありえないから、可能的知性の他に、可能的知性を動かす可知的なものを現実態において作る
動知性を措定しなければならないのである。能動知性はそのことを個別化の原理である質料および質料的諸条件からの抽象によって行う。ところで、形象の本性は、それが形象に自体的に属しているものに関するかぎり、それが異なったものへと多数化される理由を持たず、個体化の原理は理由そのもの以外に存在するから、知性は個別化するすべての諸条件以外に形象を受け取ることができるであろう。そしてこのようにして、何かある一なるものが受け取られるのである。そして同じ理由で、知性は類の本性を種的な諸相違から抽象することによって、多くの種における一として、また多くの種からの一として受け取るのである。  プラトン派の人々が主張したように、もし普遍的なものが事物の本性のうちに自体的に存在するならば、能動知性を措定する必要はまったくない。というのは、可知的な事物それ自身が自体的に可能的知性を動かすからである。それゆえに、アリストテレスはこの必要性によって能動知性を措定することへと導かれたのである。というのは、彼はイデアを措定することについてプラトンの意見に同意しないからである。しかしながら、事物の本性のうちには、非質料的諸実体がそうであるような、現実的に存在するもののうちには自体的に可知的な何かあるものが存在する。しかし、可能的知性はそれらの認識へと達することはできず、質料的、可感的諸事物からある仕方で[能動知性が]抽象するものを通じてそれらの認識に到達するのである。


文献

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1)Lee, Patrick, St. Thomas and Avicenna on the Agent Intellect, p.42
2)Aristotle, De Anima, Edited, with Introduction and Commentary by Sir David Ross, Oxford,1961, Gamma 5: 430a10-25;
(ギリシャ語原文省略)
アリストテレス『霊魂論』第3巻第5章(アリストテレス全集6:pp.101-102)
 「しかし、自然全体のうちでは、或るものはそれぞれの類のための質料(そしてこれは可能態においてかの[それぞれの類の]すべてのものどもであるところのものである)であり、他のものは原因であり、しかもちょうど術がその質料に対して果たすような役割を果たしながら、すべてのものを作ることによって、作出的原因であるから、[思惟的]霊魂においてもそれらの差異がなくてはならない。そして一方の理性はすべてのものどもになることにおいて質料のようなものであり、他方の理性はすべてのものを作ることにおいて、その作出的原因のようなものである、そして後者は例えば光のように、或る種の状態としてある。というのは或る意味では光もまた可能的に色であるものどもを現実的に色であるものに作るからである。この理性も[質料から]独立で、不受動的で、まじり気のないもので、その本質から見れば、現実活動である。何故なら作るものは常に[作用を受けて]作られるものよりも、また[作用を起こす]初めは質料よりも貴いものであるからである。しかし現実態にある知識は[その対象たる]事物と同一である。だが可能態にある知識は一個人において
は時間的には[現実態にあるもの]より先のものである。しかし、人間全体として見れば、時間的にさえより先のものではない、いや理性は或る時には思惟しているが、或る時には思惟していないということはない。しかしそれは[身体から]分離された時、それがまさにあるところのものだけであり、そして[われわれのうちにあるものどものうちでは]ただそれだけが不死で永遠である(しかしわれわれに[この世の生活についての]記憶がないのは、それの方は不受動であり、受動的理性の方は可滅的なものだからである)。そしてそのものがなくて、思惟するものは何もない。」
3)Aristotle's De Anima in the Version of William of Moerbeke and the Commentary of S. Thomas Aquinas. Translated by Kenelm Foster, O.P.,M.A. and Silvester Humphries, O.P.,M. A with an Introduction by Ivo Thomas, O.P., M.A. p.18
4)注2)のアリストテレスの原文と比較せよ。
5)S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium.nn. 671-727.
6)Ibid., n. 400.
7)Ibid., n. 716.
8)Ibid., n. 728.
9)Ibid.,nn. 677-683.
10)Ibid., n.692.
11)Lege per quas agit. Manifestum est autem quod artificiata etc.
12)S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium. n. 722.
13)Lib. VIII, cap. VIII, 1-6(apud S. Th., Lib. IX, lect. VIII, 1856-66).
14)Cap. I, 1 ss.(S. Thom., lect. I-II).
15)S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium. n. 688.
16)Ibid., n.21.
17)Ibid., n.268.
18)Lib. XI, cap. III, 5-6(apud S.Thom., XII, lect. II, 2450-54).
19)S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium. nn. 163-167.
20)Cap. XIII, 11-20(S. Thom., lect. XX).
21)S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium. n.772.
22)De Mag., 1c.
23)Ibid.
24)Ibid.
25)Ibid.
26)S.T., I, 79, 9c. "principia prima indemonstrabilia".
27)L. Schuetz, Thomas Lexikon, 同義語はconnaturaliter.
28)Ibid., 同義語はabsolute
29)アリストテレスの原文は"kai houtos ho nous choristos" 430a17.
30)Lee, Patrick, St. Thomas and Avicenna on the Agent Intellect, p.42, note 2)
31)Ibid., p.44: "Dicemus quod anima humana prius est intelligens in potentia, deinde fit intelligens in effectu."(Avicenna, Liber De Anima, V, 5; ed. Louvain, 1968).
32)Ibid., pp. 46-47.
33)Aristoteles, De Anima, 430a18
34)"animam, inquantum est immaterialis in actu, habere aliquam virtutem per quam faciat immaterialia in actu abstrahendo a conditionibus individualis materiae, quae quidem virtus dicitur intellectus agens."
35)cf., S. Thomae Aquinatis In Aristotelis Librum De Anima Commentarium. n.722: "Intellectus igitur dicitur pati, inquantum est quodammodo in potentia ad intelligibilia, et nihil est actu eorum antequam intelligit. Oportet autem hoc sic esse, sicut contingit in tabula,in qua nihil est actu scriptum, sed plura possunt in ea scribi. Et hoc eitam accidit intellectui possibili, quia nihil intelligibilium est in eo actu, sed potentia tantum. S.T., I, 79, 10c:"Quorum quatuor intellectus agens et possibilis sunt diversae potentiae, sicut et in omnibus est alia potentia activa et alia passiva. Alia vero tria distinguuntur secundum tres status intellectus possibilis. Qui quandoque est in potentia tantum, et sic dicitur possibilis; quandoque autem in actu primo, qui est scientis, et sic dicitur intellectus in habitus; quandoque autem in actu secundo, qui est considerare, et sic dicitur intellectus in actu sive intellectus adeptus."
36)Cf.,S.Thomae Aquinatis Quaestiones Disputatae, Volumen I, De Veritate, Cura et studioP.Fr.Raymundi Spiazzi, O.P., Marietti, 1949, Quaeestio XI, 1c:"Huiusmodi autem rationis lumen, quo principia hujusmodi sunt nobis nota, est nobis a Deo inditum, quaedam similitudo increatae veritatis in nobis resultantis."「しかし、それによってそのような諸原理がわれわれに知られるそのような理性の光は神からわれわれに注入されたのであって、それはわれわれのうちに反響している創造されざる真理のある種の似姿である。」
37)S. Thomae Aquinatis Quaestiones Disputatae, Volumen II, De Anima, Cura et studio M. Calcaterra, T.S. Centi, Editio VIII
revisa, Marietti, 1949,Quaestio 4c.
                                                                                               -1996.10.29-


『アカデミア』人文・社会科学編 第65号 pp.25-61 1997年3月から転載

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