トマス・アクィナスの『教師論』(その一)

三上 茂


I

 トマス・アクィナスがプラトン、アリストテレス、アウグスティーヌスとともに古代・中世の偉大な思想家の一人であることに異論をとなえる者は居ない。彼らが我々に遺している智慧をゆるがせにするならば、我々の思想はそれだけ豊かさを失うであろう。彼らがそのものとして教育学を書いたということはできない。我々は彼らの著作の中から教育に関する試作を取り出して今日の生きたことばに翻訳しなければならない。

 トマスの教育論についての研究は、二十世紀になって所謂トミズムの復興によって漸次顧みられるようになったが、筆者は寡聞にして未だ我が国におけるトマスの教育論ないし教授学習論についての纏まった研究を知らない。そこでまず外国において如何なる研究がなされてきたかということを、以下T.W.Guzie 1)の研究について検討することにしたい。

 彼は『学習のアナロジー』の序論において「アクィナスと学習理論:文献学的概観」と題し、トマスの教育論に関してなされた今までの研究を(一)一般的な研究と(二)学習理論に関する研究とに分かって紹介している。

 (一)一般的な研究 1)McCormick 2)。教師及び学者としてのアクィナスの簡単な研究で、トマスの人柄、学習及び学問についてのトマスの見解と彼の実践が述べられている。2)Kocourek 3)の研究。ここでは、知識獲得の秩序と学習における教師の道具性が強調されている。3)JacobsとBishop 4)の簡単な研究。彼らはトマスの教育学の理論の基盤として勤勉の徳と好奇心の不徳について注解している。4)DeBeaurecueil 5)は道徳教育の基礎的諸原理のために『神学大全』の第二部を跡づけている。

 いくつかの雑誌論文がトミズムの教育の定義を取り扱っている。5)Cala-Ulloa 6)によるアリストテレス及びトマスの諸原理の分析は教育の因果的、論理的定義に終わっている。6)Leoncio da Silva 7)と7)Dufault 8)はより多く目的性に関心を持っている。前者は教育の目的を人間のすべての諸能力の実現として述べているが、後者はその目標を道徳的及び知的諸徳の完全な統合として総括している。8)C.L.Maloney 9)は「教育における二元論」と言う論文で、霊魂の精神性と人間が単なる物質ではないとの基礎的原理を学生にしっかり身につけさせることの必要を説いている。彼は現在の教育的な害悪を教育者の側の二元論的観点の欠如のせいにしている。9)Bednarski 10)の論文は児童の生物学的、心理学的、教育学的な成長についてのトマスの考え方を多く採用しているが、この研究は一般的な性質のものとしてはかなり優れたものである。10)南米その他の国の学者たちによるトミズムの教育の一般的諸原理に関する九つの研究 11)。以上述べた諸研究は、アクィナスの教え(precepts)が、それらの真理価値が依存する経験哲学について何らの指示もなく一般的に述べられているからして、学問的な価値よりは勧告的な価値をより多く持っている。11)Kunicic 12)の論文。トミズムの教育的諸原理の一般的研究として今までに出版されたもののうち最もよくできている。この著者は教師、学生、知識諸価値、方法という四つのトピックを扱っているが、その原文の選択をトマスの特定の著作に限定していない。彼はトマスの教説の哲学的基礎づけを詳細にはやっていないが、一般的諸原理は各々の具体的な教授の場において、新しく解釈されねばならないという事実を強調していることは重要なことである。12)Mlle. Chabrol 13)の研究。効果的な学習のための習慣の発達の重要性を指摘している。13)Casitiello 14)の研究。訓練の転移という教育学上の問題にトマスの思想を適用している。

 (二)学習理論に関する研究。1)M. B. Schwalm 15)の論文「聖トマスによる教師の知的行為」。1900年に出版されたが、トマスの教育的諸原理についての研究の最も初期のものである。この著者は教授による学習(doctrina)を個人の発見による学習(inventio)とは全く異なったプロセスだとしていない。また彼は”De Magistro”をあたかもそれが学習の心理学についてのトマスのエクスプリシットな最後的な論文であるかのように扱っている。2)E. A. Pace 16)の研究。これはトマスの学習理論に関して以後五十年、学者たちによって犯された主たる誤りのいくつかを導入するものであった。”De Magistro”は教育論の専門的論述として扱われているのである。それ故、この著者はトマスがなぜもっと十分に記憶を論じなかったのかといぶかっている。”De Magistro”の歴史的文脈については何ら言及されていない。アクィナスは、そこではアウグスティーヌスに答えながら、また時にはアウグスティーヌスのことばを借用しながら、彼自身の教説を大まかに提示しているのである。このように、Paceはアクィナスが第一諸原理に適用している”rationes seminales”や能動知性(intellectus agens)に関連してトマスの著作のいたるところでしばしば語られる”lumen”の意味を説明するのに行きづまるのである。これらのことばがアウグスティーヌスの教説から取られた(そして恐らくアウグスティーヌスとは違った意味で用いられた)アナロギアとして理解されないならば、トマス自身の教説は容易にまちがって受け取られるのである。Guzieは”De Magistro”が学習理論に必要なすべての諸原理を扱っているのではなくて、主として人間の知性の本性をめぐって論が展開されている”De Magistro ”は「ひとは教えることができるか、それとも神のみが教師と呼ばれ得るのか」という明らかにアウグスティーヌス的な問いに対するアクィナスの直接的な解答であって、このような問いは、照明説の文脈の外ではそれほどの意味を持たないと註記している。『神学大全』の個所では、「ひとは他のひとを教えることができるか」という問いが出され、神についての部分は省かれている。ここではアウグスティーヌスから離れて、直接にプラトンとアヴェロイスの説が問題にされている。3)Willmann 17)の論文。アクィナスの教説が完結に辞典の項目として書かれているが、1900年から1920年にかけての諸研究のうちでは唯一の満足すべき論文である。4)1920年代のイタリアの新スコラ派による”De Magistro”の四つの註解 18)。5)Mario Casotti 19)の著作。彼はトマスを教育哲学者とし、”De Magistro”を教育哲学のエクスプリシットな著作として扱う。6)G. Busnelli 20)の論文。彼はCasottiの解釈に対して批判的である。7)Mary Helen Mayer 21)の『聖トマス・アクィナスの教授の哲学』。これは”De Magistro”の訳のあとに長い註釈をつけたものである。ここでも又、 ”De Magistro”の歴史的背景について何ら言及されていないので、解釈がしばしば混乱したものとなっている。この論文にはトマスの他の著作からも多く引用されてはいるが、多くの引用文が解釈されないままに挙げられている。1930年代には次に挙げる四つの研究が出された。8)Woroniecki 22)の論文。学習理論の哲学的アプローチと科学的アプローチとの相違をほのめかした少数の研究の一つ。彼の第二の論文は、学習における意志のはたらきについて論じているが知性と意志を対立させて主意主義を主張している。9)Keller 23)の”De Magistro”に関する研究。これはアウグスティーヌス的な背景において扱われている。そして、学習における感覚的経験の重要性、記号の機能が強調されている。しかし、著者がトマスのアウグスティーヌス的な”rationes seminales”の第一諸原理としての類比的な使用を誤って解釈しているようなので、知識は第一諸原理から演繹されるというような印象を受ける。10)R. J. Slavin 24)の「聖トマスの教育哲学の本質的特徴」も上と同じような傾向がある。そこでは、学習演繹説が暗に含意されており、トマスの云うinventioには何ら言及されていない。11)Jacques Maritain 25)の『岐路に立つ教育』における教育目標に関する議論は英語で書かれた教育目標の論述の最もよくできたものである。彼は感覚的経験の重要性を指摘している。トマスの著作からの直接的言及は見られないが、彼の哲学の全体的な光の下で学習のプロセスが健全な心理学的解釈をほどこされている。12)Corbishley 26)の「聖トマスと教育論」および13)Shannon 27)の「アクィナス・教師の技術について」。この二つの論文は教授における記号の使用と学習における感覚的経験の重要性を強調している。14)Francis Wade 28)の二つの研究。第一の論文は学習における教師の道具性(instrumentality)を厳密に規定している。第二の論文はトマスの原典を直接使用し、学習理論のための基盤としての人間の統一性を、今までに言及したどの文献よりも明白に論じている。15)Etienne Gilson 29)の講義。学習に置ける教師の役割に関して論述された最もすぐれたものの一つである。

 以上、教育論ないし教授学習論の観点からのトマス研究の概要を比較的忠実にGuzieの論述を追って見て来た。筆者は不幸にして上に上げられた文献のうち、(一)の1)McCormickの論文、(二)の3)Willmannの論文及び(二)の11)Maritainの論文以外には目を通すことができなかった。Guzieが挙げていないものでM. Linnenborn 30)の『トマス・アクィナスにおける教授及び学習の問題』が以下の論述においえ筆者が主として参考にした文献である。著者はミュンスター大学でのアウグスティーヌス及びトマスの”De Magistro”のゼミナールがこの著書の出発点であったと云っているが、著者のその他の点については詳しいことはわからない。

 Guzie の文献学的概観からも推察されるように、トマスの”De Magistro”だけをもって彼の教育論を十分に語ることはできない。そこで我々は一つのアプローチとして”De Magistro”において取り上げられたトマスの基本的な概念ないし思想を中心としながら彼の他の著作にも言及して、その意味を明らかにするという方法を採ることとする。以下の小論ではトマスの”De Magistro”を中心に、主として二つの点を吟味する。その一はトマスにおいて教師生徒関係がどのようなものとしてとらえれているかということについてである。その二は「技術は自然を模倣するといわれる」(De mag., 1c)という命題がトマスにおいてどのような意味をもっているかということについてである。

II

トマスの”De Magistro”の考察の出発点は、「あなたたちの教師はただひとりである」(マタイ、23.8)という聖書のことばである。トマス以前にすでに、アウグスティーヌスは389年に対話篇の形式で”De Magistro”を書いている。そこでアウグスティーヌスはまず「ことば」の吟味から始め、最後に「ことば」はただ人間に、学ぶように勧めるだけであり、真理たるキリストのみが内的に教える、という結論に到達している。我々はいまこのアウグスティーヌスの『教師論』を詳細に取り上げることはできないが、トマスが同名の『教師論』を書いた動機はこのアウグスティーヌスの対話篇の主題を受け継ぎ、発展させようとしたことにあると解してよい。

 さて、トマスは『教師論』の第一項で次の問いをもって問題を進める。「ひとは教えることができるか、そして教師と呼ばれ得るか。それとも神のみが教えることができ、教師と呼ばれ得るのか」と。我々はこのような問いの提出にとまどいを感じるかも知れない。しかし、トマスが二十世紀の教育学者ではなくて、十三世紀の神学者であることを考えればそれほどとまどいを感じることもないであろう。問題なのは「教える」、「学ぶ」ということの意味は何なのかということである。教授=学習の問題が正しく答えられるためには単なる現象の記述だけでは不十分であり、本質の分析が不可欠なのである。トマスが提出している問いはこの本質的なものにかかわる問いである。

 「あなたたちはラビと呼ばれてはならない、あなたたちの教師はただひとりであって、あなたたちは皆兄弟であるから」(マタイ、23.8)。ヒエロニムスの「註釈」は、この「あなたたちはラビと呼ばれてはならない」という聖書のことばを、「それはあなたたちが神の栄誉を人間に帰したり、神に属するものをあなたたち自身のために奪うことがないためである」31)と解している。トマスによれば、「神に属するところの教授の首位性」32)(principalitas magisterii, quae Deo competit)を人間に帰すことは我々に禁じられている。このprincipalitas magisteriiは教師生徒関係の不可逆性を表している。即ち、この意味での教師生徒関係においては、教師は真理たる神であり、生徒は人間であって、この役割の交替はあり得ない。ここでは教師は常に教えるだけであり、生徒は常に学ぶだけであるという関係が成立している。教師が学び、生徒が教えるということは、この関係においては成り立たない。神の知性認識(intelligere)について、トマスは次のように云っている。「我々は当然、神の知性認識のはたらきはその実体であるとしなくてはならない。けだし、もし神の知性認識のはたらきが神の実体(substantia)とは別のものであるとするならば、アリストテレスが『形而上学』第十二巻にいうごとく、神の実体とは別な何ものかが神の実体の現実態であり、完成であることになり、このものに対して神の実体は、あたかも現実態に対する可能態のごとき地位にあることにならざるをえないであろう。(こうしたことは、もとよりありうべからざることがらであるが。)」33) ここでは教師と真理とが一致する。教師が真理そのものであるとすれば、すべての人間はこのひとりの教師の生徒である。トマスは『神学大全』のキリスト論の個所で、キリストの教師性について、次のように述べている。「キリストは自らこう云い給う。『真理に照明を与えるために私は生まれ、この世に来た』(ヨハネ、18.37)と。それ故に、ある人間から教えられるということは、彼の尊厳に一致しえないのであった。」34) また、ルカによる福音書において、「彼ら(マリアとヨセフ)は彼(キリスト)を神殿に見出した。彼は教師たちの真中に坐り、彼らに聴き、彼らに対して質問しておられた」(ルカ、2.46)といわれている場合にも、聴き、質問するということの意味を、トマスは次のように説明するのである。「ルカによる福音書に関してオリゲネスが云っているように、主が質問なさったのは何かあることを学ぶためではなくて、質問を受けて教えるためであった。何故なら、教えの同じ泉から賢明な質問と解答が流れ出るからである。」35)

 以上述べた意味での教師生徒関係を真理--人間、或いは神--人間の関係、絶対的な教師生徒関係であるとすれば、そこでは役割の交替があり得ないことは明らかである。「あなたたちはラビ(師)と呼ばれてはならない」という禁止はこの意味において云われており、「あなたたちの教師はただひとりである」、即ち真理たる神のみが原理的に教えると云われ得るのである。

 それでは、人間には如何なる意味でも教えるということはあり得ないのであろうか。「あなたたちはラビ(師)とよばれてはならない」という禁止は絶対的なものであろうか。トマスはヒエロニムスの『註釈』を挙げて、この禁止が絶対的なものとして理解されることはできない(ne posset intelligi hoc prohibitum absolute)36)と云っている。彼は、ひとり神のみが内的に、また原理的に教えると云われ得るのであるが、しかしにも拘わらず人間は固有の意味において教える(docere proprie)38)と云われ得る、と主張する。彼はアウグスティーヌスのことばを挙げて次のように云う。「ひとり神のみがその教授の座を天に持っている。彼は真理を内的に教える。他のもの、即ち人間はこの教授の座に対して、農夫が樹木に対すると同じ関係にある。しかし、農夫は樹木を創る者(factor)ではなくて、栽培する者(cultor)である。従って、人間は知識を与える者(dator scientiae)と呼ばれることはできず、知識へと援助する者(ad scientiam dispositor)としか呼ばれることはできない。」39)トマスはさらにこれに対して次のように云っている。「アウグスティーヌスが、神のみが教えるということを証明するとき、彼は人間が外的に(exterius)教えるということを排除するつもりはないのであって、ただ神のみが内的に(interius)教えるということを云おうとしているのである。」40)彼はこのように云って、人間の教授の地位を保とうとするのである。

 神が教師である場合の教師生徒関係が絶対的な教師生徒関係であるとすれば、それに対して人間が固有の意味において教えることができると云われる場合の教師生徒関係は、総体的な教師生徒関係であり、教師であることと生徒であることとが、同一の人間において共に成立しうる関係である。M.Linnenbornはそのことを次のように述べている。「人間の教授(magisterium)はあらゆる個別的人間にとって教授(Lehren)と学習(Lernen)とは共属するというように理解されなければならない。それはまさに教師存在と生徒存在との一致(Koinzidenz)によって特徴づけられる。教授と学習とは各々一個の人間の単なる二つの区別された局面である。単に教えるだけの人間は存在しないし、単に学ぶだけの人間も存在しない。すべての者は教師であり、同時に生徒である。」41)

以上、我々は「教える」と云われていることがらが、実は二つの異なった意味を持っているということを検討した。docere principaliter, docere interius は神にのみ属する。しかし、人間にはdocere proprie, doocere exteriusが属する。ところで、これら二つのdocereの様式は並列的なもの、同じ秩序に属するものではない。docere proprieはdocere principaliterに依存している。即ち、人間が真理によって教えられるということがあってはじめて、人間が他の人間を教えるということが可能なのである。docere proprie としての人間の教授はロゴスに依存し、教師と生徒とはロゴスによって結合される。従って人間の教師生徒関係はdia-logische Verhaeltnis、対話的関係として表される42)。

III

トマスは神的教授と人間的教授とを区別し、前者を規定する契機としてinteriusを、後者を規定する契機としてexteriusを挙げた。docere exterius がproprietas magisterii、即ち人間的教授の固有性を表すというのは如何なる意味においてであろうか。このことを明らかにするために、トマスが『教師論』において自然と技術との関係について論じている個所を検討しよう。彼は次のように云う。「自然及び技術によって産出される結果(effectus)において、技術は自然と同じ仕方において、また同じ手段によってはたらく。何故なら、自然が風邪を引いている者を暖めることによって治療するように、医者もまたそうするからである。それ故に、技術は自然を模倣すると云われる(ars dicitur imitari naturam)。同じようなことがらが知識の獲得においても起こる」43)。トマスはこの個所で、知識の獲得と医者の治療的行為の類比(analogia)を行っている44)のであるが、『神学大全』45)においてもこの『教師論』と同じような内容を取扱っている。彼はそこでは、自然を「内的根源」(principium interius)、技術を「外的根源」(principium exterius)と定義して、外的根源、即ち技術は主要な能動者(agens principale)としてはたらくのではなく、主要な能動者たる内的根源、即ち自然を援助するものとして(coadjuvans)はたらく、と述べている。技術は自然に奉仕するもの(minister naturae)46)である。トマスにおいて人間的教授とは自然に手をかし(coadjuvans)援助する技術である。このことは、ペスタロッチーが『ゲルトルートは如何にその子を教えるか』において、「人間のすべての教授はこの自然の努力(Haschen der Natur)に従って、それの固有の発展に手をかす(Handbietung zu leisten)ことにほかならない」47)と述べていることに符合する。

 それ故、トマスが神的教授に対置して人間的教授をexteriusっという契機によって特徴づけるとき、彼は主要な能動者たる内的根源を援助するものとしてはたらく外的根源、即ち技術(ars)を問題にしているのである。否、技術をというよりはむしろ自然と技術との統一を問題にしている、と云うべきであろう。トマスが云うように、「技術が自然を模倣する」ものであるとすれば、そして「模倣する」(imitari)ということが、自然のたてる要求に聴き従うことと解されるとすれば、教授学習問題に即して、我々が次に問題としなければならないのは彼のいう「自然」(natura)の概念である。

 L. Schuetz 48)によればトマスは「自然」ということばを、1)誕生(nativitas)、2)生物の生殖の内的原理、3)活動のすべての内的原理、4)物体的存在の形相と質料、5)事物の本質(essentia, forma, quidditas, quod quid est, quod quid erat esse, species, substantia)、6)世界のあらゆる事物、7)実体、8)現実の領域、9)理性を有しない事物の領域、等の意味に使用している。われわれはいまここでこれらすべての意味について検討することはできないが、トマスが「自然」を「種の自然」(natura speciei)と「個の自然」(natura individui)とに区別している点に着目してその意味を問うことにしよう。

 「あるものは二重の仕方で(dupliciter)あるものにとって自然的であり得る。一つは種の自然に従ってであり、例えば笑うことができるということは人間にとって自然的である。他の一つは個の自然に従ってであり、例えばソクラテス或いはプラトンにとって病気或いは健康であるということは自然的である」49)。「あるものが二重の仕方で人間にとって自然的であると云われるということが考えられなければならない。一つは種の自然に従って、他の一つは個の自然に従ってである。各々の事物はその種(species)を形相から、その個別化(individuatio)を質料から引き出しているが故に、更に人間の形相は理性的な霊魂(anima rationalis)であり、人間の質料は肉体であるが故に、人間の理性的な霊魂に従って彼に属するものはその種の自然に従って人間に自然的であり、肉体の特定の気質に従って彼に属するものはその個の自然に従って人間に自然的である。何故なら、人間の種の部分と考えられている人間の肉体に従って人間に自然的であるものは、この特定の肉体がこの特定の霊魂に適合せられている限りで霊魂に帰せられるべきであるからである。これら二つの仕方において徳は始源的に人間にとって自然的である。即ち、知的及び道徳的な諸徳の萌芽(seminalia)である知識及び行為のある自然的に知られる諸原理が人間の理性のうちに自然的に内在する限りで、また理性に従うところの自然的な善への傾向が意志に内在する限りで、種の自然に従ってそうなのである。また肉体の傾向(dispositio)によって或る者がある徳へとよりよく或いはより悪く傾向づけられている限りで、個の自然に従ってそうなのである。......この仕方において或る者は知識(scientia)への、他の者は堅忍(fortitudo)への、また他の者は中庸(temperantia)への自然的傾向をもっている。そして、これらのいずれの仕方においても、知的及び道徳的な諸徳は、ある始源的な傾向に従って我々のうちに自然的に存在するのである。-----しかしそれらは完全(consummatio)ではない。何故なら自然は一つのもの(unum)へと決定づけられているからである。これら諸徳の完成は行為の一つの特定の様式(modus)に依存するのではなくて、そこにおいて諸徳が行われるさまざまのことがらに従って、またさまざまの環境に従ってさまざまの様式に依存するのである。」50)。

 我々はここに引用したトマスの文章を理解するために、彼の質料・形相論について若干のことを述べなければならない51)。トマスはアリストテレスと同様に、あらゆる物質的(質料的)事物もしくは実体において二つの異なった構成原理がある、と考える。即ち、すべての実体は実体的形相(forma substantialis)と第一質料(materia prima)から構成されている。実体的形相は、例えば人間について云えば、人間を人間たらしめている規定原理、活動の内在的・構成的原理である。第一質料は、実体的形相が形相を与える、もしくは規定するところのものであり、純粋に未規定的な構成原理である。例えば、人間が死んでその肉体が分解するとき、質料は直ちに他の諸形相によって規定される。しかしそこには連続性があり、この連続性の要素をなすのが第一質料である。これらいずれの原理もそれ自体はもの、もしくは実体ではなくて、両者によって実体が構成されるのである。

 このようにすべての物体的な事物、もしくは実体はそれぞれ形相と質料から構成されているのであるが、例えば人間は馬と種的に異なっている、即ち人間の形相と馬の形相とは異なるのである。従って、人間という種に属する個々の人間は類似的な実体的形相を所有している。人間が人間である限り、個々の人間の実体的形相は根本的に類似しているのであるから、例えばソクラテスとプラトンとの相違を第一に形相によるものとすることはできない。ソクラテスとプラトンとをそれぞれ別の二人の人間たらしめ、一人の人間たらしめないものは彼らが人間であるという事実ではない。何故なら、人間であるという点においては、二人の間に相違はないからである。それ故に、個別化のもとになる第一の要素は質料(純粋に未規定的な質料ではなくて量化された質料)なのである。人間について云うならば、ソクラテスとプラトンにおける人間性は、彼ら二人をいわば一緒にさせるものであって、それ自身において二者を区別するものではない。彼らが区別されるのは、ソクラテスの人間性はこの質料のうちに、プラトンの人間性はあの質料のうちに存する、という事実によるのである。しかし、このことは人間の形相が、ソクラテスやプラトンから離れて、それ自体で一種の普遍的状態において存在しているということを意味しない。精神の外にはいかなる普遍的存在もない。人間の霊魂を相互に異なったものとするのは、それらが異なった肉体と合一しているという事実である。「何故なら、この霊魂はあの肉体とではなく、この肉体と適合的であり、あの霊魂はあの肉体と釣り合っているのであり、すべての霊魂についてこのようなことが云える」52)。従って、「肉体がよい状態にあれば、それと合一するように定められた霊魂もそれに応じてよいものとなることは明白である。このことは種的に異なった事物の場合には明白である。そしてその理由は、現実性および形相は質料の受容能力に応じて、質料によって受容される、ということにほかならぬ。したがって、ある人間はよりよい状態にある肉体を所有しているが故に、より大きな理解力を有しているということになるのである」53)。

 以上述べたところからして明らかなように、トマスの自然は論理的或いは形而上学的領域において語られているのであって、その概念は単なる生物学的概念ではない。それは直接経験され、或いは観察されるものではなく、経験を分析した結果措定されるものである。彼がnatura specieiによって意味しているものは人間の形相的規定である、即ち、それは彼が別のことばでnatura communisとも云っているようにすべての人間に共通する本性である。natura individuiは人間の質料的規定、即ち人間の個体的地位である。「natura specieiにおいて問題なのは、人間を人間として他の被造物に対して特徴づけるもの、従って規範であり、すべての人間共通であるところの本質である。我々はそれを人間性(Menschentum)と名付けることができる。natura individuiにおいて問題なのは各々の個人がその体質、素質、遺伝、才能、等に従って措定されている変化する諸々の所与、状況、制約である。natura specieiは人間における普遍妥当的なもの、主体性(subjektivitaet)を把握し、natura individuiは主体(Subjekt)、従って具体的な人間存在の事実性(Tatsaechlichkeit)を把握する」54)。しかし、人間は現実に統一的な存在であり、個々の具体的な「我」(das Ich)が存在するだけである。素質、才能、傾向などのさまざまの多様性を行為において人間性の実現のために用いるのが「我」だと考えなければならない。

 このように見てくれば、技術がそれを模倣するところの自然は人間の規範(Norm)、可能性として人間のうちに内在している規定であり、教師はそれに結合されていると考えることができる。教師は生徒の中に知識を注入するのではない(....docens non dicitur transfundere scientiam in discipulum....)55)。生徒をして彼の自然に従って生活することを学ばしめること、或いはnatura speciei、即ち彼の人間性を展開することへと援助することが教師の使命であり、責任である。

ところで、トマスが人間のnaturaを神の似姿として把握していることは当然である。「人間のnaturaのうちには神の似姿(模像の似姿similitudo imagines)が見出される。それは人間が神の能力(capax Dei)であるが故、即ち知識及び愛のはたらきによって神へと到達するが故に、である」56)。「....神的な真理は、それによって我々がすべてのものについて判断することができるところのその似姿の刻印によって我々のうちに語る」57)。従って、我々がすべてのもについて判断できるのは我々が神の似姿であるが故である。人間のnaturaはまた、「能動知性の光」(lumen intellectus agens)58)、「理性の自然的光」(lumen naturale rationis)59)であって、この理性の自然的光は、神的光の分有(participatio)であると考えられている60)。「我々の理性の光は我々のうちなる創られざる真理の或る似姿として神によって我々に植えつけられた」(...rationis lumen,...est nobis a Deo inditum, quasi quaedam similitudo increatae veritatis in nobis...)61)ものである。「神ひとりを除いてはいかなるものも精神を形成する(formare)ことはできない、と云われる場合には、そのことは精神が他の諸形相をどれほど持つとしても、それなしには無形式(informis)であると考えられるところの精神の究極的な形相(ultima forma)について理解されているのである」62)。神が人間の精神に予め形相を与えていることによって、精神は形成され得るのである。そしてこのultima formaは、われわれの精神がそれによってみことばへと転向せしめられ(ad Verbum convertere)、みことばに依存するところのかの形相なのであり、理性的本性は、それによってのみ形成せられた(formata)と云われるのである63)。

 トマスによってこのように神学的に把握された人間の地位は、神から我々に贈られたものであり、しかもそれは所与としてではなく、実現すべき課題として与えられているのである。人間は神に似せて創られたもの、模像であるが故に自己の原型たる神に同化しなければならない(exemplata oportet conformari exemplari)64)。similitudoとして創られているが故に積極的にassimilatioの行為が要求される。みことばへと転向せしめられるべく創られているが故に我々の魂の転向(conversio)が求められるのである。我々はこれらの規定のうちに人間の課題性と責任性が明らかにされているのを見ることができる。

 以上によって我々は、トマスの教育についての本質的規定を得ることができた。即ち、人間の教師は主動者ではなくて、単に援助者にすぎない。しかしこれはいわば形式的な規定にすぎない。学習者による知識の獲得(inventio)の問題、その他残された問題は多い。今後の課題としたい。

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(30)Magdalene Linnenborn, Das Problem des Lehrens und Lernens bei Thomas von Aquin, Freiburg im B., Lambertus-verlag, 1956.
(31)De mag., a. 1, ad 1.
(32)ibid.
(33)S.T., I,14, 4c.高田三郎訳、『神学大全』、第二巻、pp.15-16.
(34)S.T., III, 12, 3c.
(35)S.T., III, 12, 3 ad 1.
(36)De mag., a. 1 ad 1.
(37)De mag., a. 1c.
(38)ibid.
(39)De mag., a. 1 ad 8.
(40)De mag., a. 1 ad 8.
(41)M. Linnenborn, op. cit., S. 66.
(42)cf. M. Linnenborn, op. cit., S.64, S.293-294.
(43)De mag., 1c.
(44)それが類比であるということに我々は注意しなければならない。類比はある側面を明らかにすることはできるが、有機体と精神との相違については何をも語るものではない。人間は客体の世界を越えるものであって、それ故に客体の世界のようには取扱われ得ない。
(45)S.T., I, 117, 1c.
(46)De mag., a. 1.
(47)Pestalozzi, Wie Gertrud ihre Kinder lehrt, Cotta, 1820, S. 31. zitiert von Linnenborn, op. cit., S. 72. (48)Ludwig Schuetz, Thomas-Lexikon, Stuttgart, 1958, S. 509-510.
(49)S.T., I-II, 51, 1c.
(50)S.T., I-II, 63, 1c.
(51)F.コプルストン著、稲垣良典訳、『トマス・アクィナス』、未来社、1962, pp.100-109参照。
(52)S. c. Gent., II, 81. 同上、『トマス・アクィナス』、未来社、1962, p.108から引用『トマス・アクィナス』、未来社、1962, pp.100-109。
(53)S.T., I, 85, 7. 同上、『トマス・アクィナス』、未来社、1962, p.108-109から引用『
(54)M. Linnenborn, op, cit., S. 93-94.
(55)De mag., a. 1 ad 1.
(56)S.T., III, 60, 2c.
(57)De mag., a.1c.
(58)S.T., I, 117, 1c.
(59)S.T., I, 12, 11 ad 3.
(60)ibid.
(61)De mag., a. 1c
(62)De mag., a. 1, ad 15.
(63)ibid.
(64)S.T., I, 18, 4 ad 2.

九州大学教育学部紀要 第11集 昭和41(1966)年1月 pp.13-22から転載

作成日:2003/01/23

最終更新日:2003/01/23

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