ファチマの聖母マリア

憎むべきもの:

ファチマにおける神聖冒涜

The Fatima Crusader, Isuue 75, Winter 2004より

ポール・クレイマー神父、B. Ph., S. T. B., M. Div., S. T. L.(Cand.)
によって最近なされた話に基づく

教会の典礼は使徒聖ペトロの後継者のカテドラル、ラテラン・バシリカの奉献とそこにイエズス・キリストの最初の代理聖ペトロの墓が置かれているヴァチカンの聖ペトロのバシリカの奉献を記念する。これらの重要建築物は、「地獄の門」が決して教会に勝たないであろうという聖ペトロに個人的に与えられたわれらの祝せられた主の約束を可視的に思い起こさせるものである。カトリック教会はそれゆえに、不可謬であり(すなわち、誤ることができない)、そしてそれゆえにまた駄目になる気遣いのないもの、すなわち、神的に啓示された諸真理から決して離れることができない、そして偽りの宗教へと変形されることができないのである。

カトリック教会は迫害されるであろう

われわれは、カトリック教徒として、キリストが生ける人と死せる人とを裁くために再び来られる世界の終わりまで聖なるカトリック教会が忠実であり続けるであろうわれわれの信仰を告白する。

教会は、しかしながら、暴力的な迫害によって地下へと追いやられるであろう。教会の血みどろの迫害はファチマのメッセージによって予告された。このことが起こるとき、一、聖、公そして使徒的教会は、古代ローマの迫害の時代においてそうであったように、初期の教会の地下カタコンベキリスト教へ戻ることを強いられるであろう。

偽りの教会

そのとき、偽りの教会--名目的にはカトリックであるが、実際はフリーメーソンの霊感に属する偽りのエキュメニカルなセクト--が「以前の」教会の場所を占めるように見えるとき、教会は背教したと誤って見えるであろう。

これは大懲罰の最も恐るべき局面であろうものである:伝統的なカトリシズムの明らかな死と新しいエキュメニカルな「カトリック教会」、汎宗教的、汎キリスト教的怪物によるその「取り替え」。

これは聖書において、そしてファチマの第三の秘密において予告された「大背教」である。それはすでに形を取り、存在するようになる過程にある--「神の家」は「キリスト教的」異端と異教的偶像崇拝によって神聖冒涜され、侵害されそして神聖を汚される。神の教会の神聖冒涜は聖書に予告された大きな憎むべきものである。

この場所は恐るべきかな

一つの教会の聖別は典礼においては次の言葉で記念される。"terribilis est locus iste"この場所は恐るべきかな。言葉の固有の意味において、主の神殿、主の聖域は、そこで人が主の恐れを理解し経験するよう導かれる一つの恐るべき場所、畏敬を引き起こす場所である。

11月9日は救世主の教会、ラテラノ・バジリカの奉献の祝日である。そこは何世紀も何世紀もの間普遍的教会の教皇であるローマの司教、ローマ教皇の教皇座大聖堂でった。11月18日は聖ペトロのヴァチカン・バジリカの奉献の祝日である。そしてそのように、これらの古代教会の奉献を記念しながら、教会の典礼は"terribilis est locus iste"この場所は恐るべきかなというこれらの言葉を祈願する。なぜなら、教会は、典礼がわれわれに告げているように、「神の家そして天の門」であるからである。聖なる典礼は「神の家そして天の門」である聖なる場所の天上的本性と聖化を反映している。

それゆえ、その場所は聖なるものであり、取って置かれる。そしてそれゆえに、一つの教会が奉献されるとき、それは神へと聖別される:世間的であるすべてのもの、世俗的であるすべてのもの、異教的であるすべてのもの、偽り、異端的あるいは背教的であるすべてのものから取って置かれる。古代には、ローマ帝国のキリスト教化の間に、偽りの神々のために建てられた神殿は破壊されるよりはむしろ、改造され、神の住まいに相応しい場所とされた。彼らの悪魔たちから祓い清められることによって最初に聖化され、神の奉仕に捧げられる。そして次にわれらの主イエズス・キリストのまさに現存によって聖化される。受肉された神であるキリストは祝せられた秘蹟[御聖体]のうちに降りて来られる。そしてその聖なる場所に神の究極的な聖化と讃美をお与えになる。

神の讃美は旧約聖書の最も多い主題の一つである。なぜなら、人類を神の聖性、神の命に与らせるために、神の栄光を明らかにし、地上において神の名を聖とすることは神の栄光であるからである。そしてそれゆえ、神は御自分の栄光を明らかになさり、そして人間たちの聖化のために取って置かれ、聖とされ、神の奉仕に奉献されたすべてのものの聖化をもたらされるのである。

すべての悪魔たちは去らなければならない

神が御自分の聖なる神殿を所有されるとき、すべての偽りの神々は去らなければならない。スペイン人たちがメキシコに来たとき、彼らは諸々の偶像を破壊した。そして祝せられたおとめと御子イエズスの像がその場所に置かれた。偶像はすべて打ち倒されれ、破壊された。そして見たところ、神の介入によって、このことをなしたコルテス(Cortez)とその部下たちは怒った異教徒たちや偶像崇拝者たちに直面しても害を受けなかった。

神が御自分の人間の道具を通じてその力を顕わされることはカトリック教会の歴史と諸国民のキリスト教化を通じて起こってきた。これはイエズス・キリストの使徒たちに対する御命令であった。イエズスはまさに天に昇ろうとしておられたときにこう言われた:「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。--父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らに授け、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう。そして見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。」(マタイ 28:19-20; マルコ 16:15-16)

カトリック教会は駄目になる気遣いのないものである

この約束とともに、イエズスは御自分の教会が駄目になる気遣いのないものであろうということを明確になさった。イエズスの教会は世の終わりまで忠実であり続けるであろう。神は、御自分の教会が完全にくつがえされ、悪魔によって引き継がれ、そして反キリスト、サタン、悪魔とその手下ども、異教徒たちの偽りの神々の教会へと変形されることをお許しにならないであろう。

これは、われわれがファチマの聖母がそれについてわれわれに警告なさった大懲罰が近いということを知っている理由である。われわれは聖書において、詩編のうちに、神は正しい者が彼らの手をそれに伸ばさないように、王権が邪悪な者の手に持たれることをお許しにならないであろうということを読む。神は御自分の選ばれた者が信仰なきものへと逃亡し、不信仰の徒となることをお許しにならないであろう。

われらの主は、霊魂たちが天の御父によって御自分の手に与えられた、そして誰もその手から彼らを奪うことはできないと言われる。(ヨハネ 10:28-29)それゆえ、イエズスは選ばれた者は、キリスト教世界の残りの外見がどんなものであれ、忠実にとどまるであろうと約束される。

国民全体の離反

国民全体の離反はファチマの秘密の中で予告されている。第三の秘密、聖母が1917年7月13日に明らかにされた秘密の第三部は秘密を保管している人々がファチマの聖母の言葉によってまさに告発されている人々であるゆえに隠されたままである。

われわれはこのこと、すなわち、2000年6月26日に明らかにされた秘密の部分は、明らかにされたテキストが聖母の言葉を含んでいないがゆえに、第三の秘密全体として意図的に提示された一つのごまかしであったということがその事例であるということを知っている。第三の秘密は、よく知られているように、もともと聖母の言葉、「ポルトガルでは信仰の教義は常に保たれるでしょう」で始まり、そしてそれから秘密のテキストが等々という不思議な言葉の後に続く。

それらがファチマの子どもたちに聖母によって打ち明けられた秘密の言葉であり、1960年2月のヴァチカン新聞報道において言及された「秘密として打ち明けられた聖母の言葉」はそれらが、おそらく秘密は決して明らかにはされないであろうと告知されたとき、決して公表されなかったであろう。

もちろん、それが決して公表されないであろうということは彼らの望みである。なぜなら、3人の羊飼いの子どもたち、ルチア、フランシスコそしてヤチンタに打ち明けられた聖母の言葉は彼らの不信仰の告発であるからである。教皇付きの神学者であり、そしてそれゆえに第三の秘密のテキストが何であったかを知っていた、しかし秘密を守る誓いによって縛られていたチアッピ(Ciappi)枢機卿は、ファチマの第三の秘密の中に「他のこともいろいろあるが、教会における大背教がその頂点において始まるであろうということが予告されている」と言う以外には、それ以上を言うことができなかった。

異端者たちのための運動会

これはわれわれが今日われわれの眼前で起こっているのを見ている何かある事柄である。例えば、異端者たちは動き回って、単に祝せられたおとめはイエズスの誕生の後処女にはとどまらなかったと言うばかりでなく、その御子われらの主イエズス・キリストは結婚の状態か、あるいは何か結婚以下の何かあるものの状態か、そのどちらかで生活した、と言っているのである。あたかも、キリストが秘密の結婚の状態で生活したかのごとく、結婚ほどにはまったく合法的でない何かあるものの状態で、と。

これは、もちろん、まったく途方もない主張である。そしてこの時点で反駁する必要もない。なぜなら、聖書に関して一つの堅固な知識を持つ者は誰でもそのような命題が単に誤りであるばかりでなく、まったく滑稽なものであるということを非常によく知っているからである。

しかし、アメリカ司教会議の反応、これは私が興味のあることだと思ったことである。これは誰にとっても心配であるべきことである。これは彼らがその信仰を失ったという一つの信号である。彼らの反応は何であったか? もし彼らが非常にはっきりと言ったことを私が敷衍することを許されるならば、それはまったく曖昧なものであった:「聖書からはどっちみちどんな証拠もないと思われる」。そしてそれが彼らがそれを残した個所である。

神的に啓示された真理を支持する? 全然!北アメリカの司教たちはせいぜい良くて臆病者である。そして不信の徒、であると見えるであろう。もしこれが十分に悪いことでないならば、われわれが、結局のところアメリカの司教たちにつて話すとき、われわれは教会のまさに最高のレベルについては話していないということを思い起こそう。最高のレベルはローマにおられる教皇および教皇の最高権威の行使に参加するために代理をしてきたローマ教皇庁である。

ヴァチカンにおいて始まる堕落した者たちの背教

ファチマの秘密はわれわれに告げる、聖母はわれわれに告げられる、神の御母は教会における大背教がそこから、ヴァチカンから始まるでしょうと明らかにされる。われわれは、それゆえに、ゆくゆくはローマは一人の反教皇によて引き継がれるであろうと推測することができる。そしてそれは聖人たちによって時代を通じてずっと預言されてきた。その反教皇はまったくカトリック信仰を持っておらず、まったく異端的であろう。注1)彼はペトロの座を現在占めておられる方--その方は心の中では教会を保ち、救おうと望んでおられるが、しかしその知性においては、教会の破壊へと導くであろうまさに諸々の事柄を推進することによって、あたかも教会の最悪の敵であるかのように振る舞っておられる--とは違う。

エキュメニズムと宗教的自由は、カトリック的な何かあるもの、もともと聖なるカトリック教会に属する何かあるものであると第二ヴァチカン公会議によって宣言された。にもかかわらず、それは教会によって--先行する諸時代の教皇たちによって荘厳に断罪されてきたまさにこれらの同じ誤謬である。それらの誤謬は荘厳ではない、決定的ではない仕方で宣言された。それゆえ、たとえ当時の教皇パウロ6世が、そして世界の司教たちが、これらの誤謬をカトリック信仰の名において宣言しようと試みたとしても、彼らはキリストの名において不可謬的に話したのではない。

そして彼らがその教導職の役目を乱用していたけれども、もっぱら真理を教えるためにのみ教会の教える教導職を設立されたのはわれらの主イエズス・キリストであった。それゆえに、一司教、一公会議、あるいは一教皇でさえ、その教導職を行使しながら、すなわち、彼の教える職務を行使しながら、もし彼が誤謬を教えるならば、彼の宣言が教会の教導職に何らかの仕方で属していると言われることは決してできないのである。それは、ある人が聖書を読み、その聖書の中に彼が何かあることを意味していると理解し、そしてその意味を信仰において受け取り、あるいは彼がそう考えている時に、比較され得る。

しかし信仰の実体そのものは啓示された真理である。そしてもしその人がそれが聖書の真理であれ、あるいは聖伝の真理であれ、啓示された真理の彼の解釈において誤謬を犯すならば、誤った理解、誤謬の教説は信仰の徳によって信じられるのではない。なぜなら、われわれが第一の真理としての神に結びつけられるのは信仰の神学的徳によってであるからである。信仰のまさに実体は神的真理である。そしてそれゆえに、信仰におけるいかなる誤謬も信じることはできない。それは人間精神、人間知性の誤りである。誤謬を公言することは信仰の行為ではない。

同じように、ある教皇あるいはある司教が教導職の職務を遂行するならば、もし彼がある誤謬を教えるならば、彼は彼の教導職の職務を行使する際の彼の試みにおいて失敗したのである。彼の教えは教会の教導職ではないゆえに、彼の教えは彼自身の誤謬である。

頂点から教えられる現在の諸々の重大な誤謬

そのようなものが不可謬ではない教え(non-infallible teachings)、不幸なことに、そして最も悲しいことであるが、今日の教皇、ヨハネ・パウロ2世の不可謬ではない教えの事例である。二つの事例が私の心の中で目立っている:教皇は、1989年1月11日に公教要理教授をされたときに、われらの主イエズス・キリストに言及している使徒信経の箇条:「古聖所に降りて」を説明された。「古聖所に降りて」というその箇条の教皇の説明は、まさにトレント公会議の公教要理において教皇聖ピオ5世によってはっきりと断罪された教えである。その公教要理は「古聖所に降りて」というその箇条は、ヨハネ・パウロ2世が誤って主張されたように、イエズス・キリストが大地に葬られたということを意味するのではない、と説明している。なぜなら、使徒信経はすでにキリストが「十字架に付けられ、死して葬られ」と信仰告白しているからである。そしてそれゆえに、使徒たちは同じ信仰箇条を二度繰り返そうとはしていない。この箇条が意味していることは、われらの主イエズス・キリストが、十字架の上で死なれ、その御体が墓に置かれている間に、その御霊魂が聖なる父祖たちのリンボ[limbo=キリスト降誕以前の善人たちの霊魂がとどまる天国でも地獄でもない場所]--それが一般的な言葉「地獄」("Hell")によって示されている--へ行かれたということである。その場所は、断罪された者の地獄ではなく、天国から分離された何かある場所である地下の黄泉の国である。それは、われらの主イエズス・キリストが天の門を開かれるまでは、死んだ者たちの霊魂は皆天国には入れなかったからであり、そして彼らは使徒信経においてHellとして言及されているリンボのうちに留められなければならなかったからである。

そのような人が教会の成員として留まり得る唯一の道は、その人がそのように完全に自分のカトリック信仰について無知であるならば、彼は自分が異端を教えているということを知らないということである。私はその判断を神に委ねる。しかしこのことだけはわれわれは判断してもよいであろう、教皇はご自分のカトリックの教義を知っておられないのだ、と。

そのとき、教皇は、リンボにおける霊魂たちはキリストの恵みの力によって触れられたというピーター・アベラール(Peter Abelard)の異端を告白されたのである。それゆえ、キリストはその霊魂においてではなく、その力において、その恵みの力によって、降られた、と。これは断罪された異端、ピーター・アベラールの破門された教えである。

1989年1月11日のヨハネ・パウロ2世によって提出された命題、すなわち、「キリストは古聖所に降られた」という言葉が、イエズス・キリストの古聖所への降りがキリストが大地に葬られたことを意味した、ということを意味すると。これは、教皇聖ピオ5世の公教要理が単に誤謬であるばかりでなく、邪悪な教えであると宣言するものである。これは偉大な教皇ピオ5世によって公布された公教要理の教えであって、それは単純にそして権威をもって、ヨハネ・パウロ2世によって提出された命題が偽りで誤謬であるだけではなく、一つの邪悪な教えであると宣言しているのである。

神の第一戒に反する最も重大な罪

アッシジにおいて開催された祈りの集会は、たとえ神がその憐れみにおいていまなお忍耐しておられるとしても、神の復讐に値した何物かである。しかし、神は御自分の怒りを、教皇が彼の神に祈るために、そして彼らにとって、彼らの神々に祈るために、異教徒たちと一緒に集まられた直ぐ後に一つの破壊的な地震という形において、顕わされた。

第一戒はこう言っている:「汝、われの前に異教の神々を持つなかれ」。にもかかわらず、教皇は異教徒たちに来て、彼らの偶像に祈るように招かれた。そして仏陀の偶像が、アッシジの聖櫃、聖別された祭壇の上に置かれた。教会はそのようにして、それによって神の犠牲が神に捧げられる礼拝の唯一適切な行為である、聖なる礼拝、神的な礼拝、ミサ聖祭の永遠の犠牲のために捧げられ、聖別された場所における異教の礼拝のこの行為によって、神聖冒涜された。

教皇は、聖なる場所においてバビロンの秘密儀式のすべての不条理なものと憎むべきものを挙行するために、聖なるカトリックの建物の中へ偽りの諸宗教のすべての実行者たちを招かれた。

教皇はまた1987年にドイツ、マインツにおけるあるユダヤ教の集会に対して、旧約聖書は取り消されなかったと宣言された。教皇自身の言葉を用いれば、「神によって決して取り消されなかった」と。再び、教皇は異端を発言された。古い契約がイエズス・キリストの到来と共に、そして新しい契約が始まると共に終わったということは、フィレンツェの公会議で荘厳に信仰告白された、カトリック教会の決定された教えである。

これは、結局のところ、古い契約が終わりに達したというが神によって啓示された真理であるとわれわれが告白するということを、聖書の中で神の霊感の下で明白に述べている使徒たちの、聖パウロの教えである。ヨハネ・パウロ2世はそう言われず、「神によって決して取り消されなかった」と言われる。

これは単にヨハネ・パウロ2世の個人的な異端であるばかりではない。それは促進されている。注意深くではあるけれども、にもかかわらず精力的にヴァチカンによって促進されている。われわれはそれを今日真に「背教的なローマ」と呼ぶことができる。

ラ・サレットの聖母は言われた:「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」と。神の法に従っていた、そしてそこにおいてはカトリック教会が法的に確立された教会であったカトリック諸国はヴァチカンの外交的圧力のために世俗化された。ヨハネ・パウロ2世は教会と国家の分離を宣言された。そしてヴァチカンはその憎むべき誤謬を精力的に促進している。注2)

他方において、教皇聖ピオ10世は教会と国家の分離の教説を断罪された。そして教会と国家の分離の誤謬はいつも諸教皇によって繰り返し断罪されてきたと指摘された。注3)

ファチマの神聖冒涜

宗教的自由の名において、第二ヴァチカン公会議はすべての者は、その宗教が何であれ、彼らの良心に従って彼らの宗教を公然とそして公に告白する権利を持っていると教えている--良心の自由、宗教的自由そしてエキュメニズムというこれらの断罪されたそして憎むべき教えに一致して、彼らは聖母が来られた場所、神の御母がその現存でもって聖化なさったファチマをさえ神聖冒涜しようとしている。彼らはその聖なる場所を異教主義で冒涜するであろう。ヴァチカンはその場所が一つの悪魔的な異教主義の「聖域」に変えられることを許そうと意図している。

今や彼らはそれを一つの「聖域」--あるいは彼らはそれをそう呼ぶが、それは言葉における一つの矛盾である--すべての諸宗教のための一つの「聖域」:すべての諸宗教が一致することができる場所にしたいと思っている。これはまさに聖母が世界をそこから救いたいと望まれた事柄である。これは、結局のところ、ファチマの第三の秘密において予告された大背教なのだ。そして今やヴァチカンはその聖なる場所を背教のための一つの聖域へと変形することを許そうとしているのである。

聖コロンバンの例

彼らの計画はどのようにイエズス・キリストの福音に正反対であることか。聖人たちは世界をキリスト教化するために出かけて行った。そして彼らは異教徒たちの偶像崇拝を断罪した。ローマ帝国は対話を通じてキリスト教化されたのではなくて、イエズス・キリストの福音の大胆な説教、そして異教主義の憎むべきものに対する恐れを知らない非難を通じてキリスト教化されたのである。そして次に、ローマ帝国が崩壊し、そして異教の蛮族たちで満たされたとき、彼らの司祭としての召命の本性を理解したのは再び聖人たちであった。そして彼らは修道院から出て、非キリスト教化されたヨーロッパを再びキリスト教化したのであった。

聖コロンバンはアイルランドを出発し、諸々の修道院を建設しながら、ヨーロッパ中を旅行した。そして彼の弟子たちは諸々の修道院を建てた。そしてこれらの場所がヨーロッパの偉大なカトリックの中心となった。もし修道士たちがヨーロッパ中を周り、聖書を携えて行かなかったならば、ローマ帝国が崩壊したら、キリスト教はそれと共に、その帝国と共に死に絶えたであろう。

しかし、神の摂理によって、あらゆるものが、かつての帝国のいたるところで、蛮族たちによって破壊されていたとき、すべてのラテン文化、ラテン文学そして聖なる教えは皆アイルランドに集中された。

そして修道士たちは、エジプトから、そしてその多くの者が近東の遠隔の地から逃げ、アイルランドに亡命した。そしてそこから、修道士たちは出かけて行って、今や異教の蛮族たちで蹂躙されていたヨーロッパを再びキリスト教化したのである。彼らはトル(Thor)の礼拝者たち、そして他の偽りの神々の礼拝者たちと対話しなかった。彼らは福音を精力的に説教し、そして人々を彼らの偶像崇拝の誤謬から向け変えらせたのである。

ローマ教会の司教たちは、西欧にはもはや存在しなかった帝国の貴族、かつての帝国の少数の残存する役人たちと共に彼らの宮殿の安楽のうちにとどまっていた。彼らは敢えて出かけて行って異教徒たちに、蛮族たちに説教することをしなかった。彼らは家にとどまり、安楽に生活することに満足していた。

修道士たちは諸国民に洗礼を授け、彼らを偶像崇拝から救い出すことがイエズス・キリストの司祭としての彼らの義務であることを理解していた。聖コロンバンは諸々の修道院を創設した。彼と彼の修道士たちは今日フランス、ドイツそしてオーストリアであるすべての地域のいたるところで説教した。そして彼らはキエフの遠くまで行った。彼が受けた報いは何であったか? 彼は603年に司教たちの会議の前に出頭するよう召喚された。なぜなら、自分たちを合法的な司牧者と呼んだ人々は彼がこのことをすることを権威づけていなかったからである。

それは、彼が彼らの司教区の一つにおいて聖職者として司教から任命を受けていなかった、彼ら、地方の司教たちによって権威づけられていなかった、そしてそれゆえに、彼らは彼が非合法であり、反則であると考えたということのようである。聖コロンバンは、しかしながら、司祭職は一つの神的使命であるということを理解した。司祭は単に司教の喜びに仕えるのではない--彼はイエズス・キリストによって遣わされたのだ。

司祭は、司教が「私はあなたがこれ以上説教することを望まない」と言うがゆえに単純に沈黙したままでいることはできない。「なぜ望まないのですか?」「私はあなたを好まないからだ。」

誰からの誤謬も抵抗されなければならない

もし司祭が何かある異端を教えるならば、そのとき司教は彼を止める権威を持っている。しかしもし司教とローマにおける上位の位階が異端、誤謬、憎むべきものを促進しているならば、そのとき、司祭はそれだけますますその誤謬と闘う義務を持っている。聖ロベルト・ベラルミン(St. Robert Bellarmine)が言っているように、教皇は、もし彼が信仰を攻撃しているならば、抵抗されなければならない。そして誤謬に抵抗するために神によって指定された道具は聖福音である。

教皇が悪意をもって信仰を破壊しようとしているのか、それともその無知において意図せずにそうしているのか、ということは問題ではない。教会はわれわれに、もし教皇が信仰に対する危険を創り出しているならば、彼は抵抗されなければならないと教えている。

聖コロンバンの時代の信仰にとっての危険は「行って、すべての国の人々を、父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を授けて、弟子にしなさい」(マタイ 28:19)という神の命令に従う、位階の大部分の側でのまったき失敗であった。ほとんどすべての司教はその命令は彼らには当てはまらないと考えていた。

しかし、彼らは使徒たちの後継者であった。そして彼らはその義務を持っていた。そして彼らはそれを遂行していなかった。その命令を重大に受け取ったのはコロンバンのような聖人たちの指導の下にあったケルトの修道士たちであった。そして彼らは、神の命令への従順のために、神の前で彼らの義務を遂行するために罰せられようとしていた。

そしてそのように、聖コロンバンは出てきて、彼に対してなされた告発に答えるようにという、カトリック教会の司教たちの権威によって命じられた召喚には現れなかった。彼は、トマス・カヒル(Thomas Cahill)が述べているように、一通の手紙で答えた:

「そのような茶番劇に関わって患わされることができないコロンバンは、彼が出席する代わりに一通の手紙--司教たちに、彼らのうまく塗られた壁の上の方に、送るように計算された一通の手紙--を送った」

「キリストにおける聖なる主人たちと父祖たち--あるいはもっとよい言い方では、兄弟たち、聖なる教会の司教たち、司祭たち、そして残りの聖職階級の人たち、私、罪人であるコロンバンはキリストにおける挨拶を送ります。」

「私は、そのように多くの聖なる人々が信仰の真理とよき働きについて論じるために、そしてそのように相応しいことですが、善悪の識別のために研ぎ澄まされた感覚を通じて、正しい判断をもって論争の的になっている問題について判断するために、私のために集まってくださったことを神に感謝します。あなたたちがもっとしばしばそうされたならばと思っています。」

そして、もちろん、彼はその召喚を無視した。そして異教徒たちに福音を伝える神的な仕事を続けた。

高い地位にある教会人たちの今日の諸々の誤謬

[第二ヴァチカン]公会議[後]の教会は改宗をエキュメニカルな対話と置き換えた。--彼らは「すべての国の人々を弟子にしなさい」(マタイ 28:19)という神の命令を拒絶した。

公会議教会の異端はすべての諸宗教を良いものと見ること、そしてそれゆえに、真の、しかし不完全で諸々の誤謬を告白するものと見ることである。カトリック信仰はただ一つの真の教会、一つの真の信仰そして一つの真の宗教だけが存在するということを認める。他のすべての諸宗教は偽りである。教会の外にはただ異端者たち、不信仰者たち、そして異教徒たちがいる。ファチマの聖母によって予告されたように、教会における背教はキリストの聖なる宗教の、異教主義の憎むべきものとのエキュメニカルな混合という憎むべきものにおいてわれわれの前に立っている。背教はまさにこれである:すなわち、すべての諸宗教を一つの大きな異教化された教会に一緒に統一しようとする試みである。これは聖書がバビロンの神秘、憎むべきものと呼ぶところのものである。

この種の罪はヴァチカンによって、そして多くの司教たちによって促進されている。彼らはファチマの聖母の聖域を異教の神殿へと変えようとしている。戦いのために戦列を作った軍隊よりももっと恐るべき方、その汚れなき御心が勝利されるでろう方[聖母マリア]は背教的なローマが建てようと努力している異教化された罪に対して勝利なさるであろう。彼らが異教の罪の憎むべきものを促進しようと意図した場所は、聖母がわれわれの時代の罪の神秘を明らかになさったまさにその場所である。

彼らはあの聖なる場所を、悪魔の聖域、聖書が悪魔たちであると言っている偽りの神々の聖域、 すべての偽りの神々がわれらの主イエズス・キリストと一緒に礼拝される場所へと変えようとしている。「あなたは私の前で異国の神々を持ってはならない」。われわれは、カトリック教徒として、ただ立ち上がり、これを異端的な憎むべきもの、背教の行為として非難することができるだけである。真の宗教は偽りの諸宗教と一緒に実践されることはできない。

われわれは背教に積極的に抵抗しなければならない

そのような憎むべきものを促進しあるいはそれに参加する人々はまだカトリック信仰を持っている人々、背教においてそれらに参加しようとしない人々に対して何らかの権威を行使するすべての道徳的権利を失った。そして司祭であれ、あるいは平信徒であれ、それを理解するわれわれ、は抵抗する義務を持っている。司牧者たちに抵抗する権利、司教たちに抵抗する権利、そしてそれが教皇によって促進されるならば、教皇自身に抵抗する権利をわれわれは持っている。なぜなら、われわれは無傷のままの完全なカトリック信仰にすがりつくよう神によって命じられているからである。「全体的な無傷のままの」信仰に、である。なぜなら、使徒信経はわれわれに、われわれが全体的なそして汚されていない信仰を保たないならば、永遠に滅びると告げているからである。

特に、聖なる福音の奉仕者たちにとって、憎むべきものを非難すること、それを無条件にそして明白に断罪することが彼らの義務である。なぜなら、われわれがファチマ・メッセージから知っているように、背教は頂点から、ヴァチカンから始まるであろうからである。そして最終的には偽りのカトリック教会としてバビロンの異教化された神秘を公然と宣言するであろう反教皇から始まるであろう。それは名前はカトリックであるが、そのまさに本質においては異教的であろう。

血なまぐさい迫害が間近に

われわれはその変形がすでに起こっているのを見ている。そしてそれが結晶化するとき、それが形を取るとき、そのとき血なまぐさい迫害、カトリック教徒たちの大量撲滅が起こるであろう。そして聖母の言葉が実現されるであろう:「善人は殉教するでしょう。教皇(真の教皇)は大いに苦しむでしょう」。ファチマの聖母は言われる。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。」

その奉献の行為によって、ロシアは迫害の道具であることから、ローマの教会を掘り崩してきた異教の罪からカトリック教会とカトリック信仰を擁護し救う道具へと変えられるであろう。ロシア正教会は、今日でさえ、ローマカトリックとのどんな対話をも断固として拒絶している。なぜなら、彼らはローマ教会が異教化されていると見ているからである。

彼らは彼らの典礼の祈りにおける言葉遣いの小さな変化さえ許さないであろう。それは彼らにとっては破門である。彼らがローマ教会のプロテスタント化と異教化を見るとき、彼らは震える。

教皇がマリアの汚れなき御心にロシアを奉献されるとき、ロシアがカトリックとなるとき、そのとき、それはかつてキリスト教世界と呼ばれたものを溺死させようと脅かしている異教主義の罪からわれわれを救うであろう、第二ヴァチカン公会議の諸々の誤謬の伝統的、妥協のない、容赦のない敵、真に聖なるロシア、カトリック・ロシアであろう。

脚注

  1. アッシジの聖フランシスコ:「大きな分裂を引き起こすであろう教会法に基づかないで選ばれた一人の教皇が存在するであろう。多くの人々、そして異なった諸々の修道会にいる者たちにさえ疑いを引き起こす種々の思想、否、私の修道会に分裂を引き起こすであろう異端者たちにさえ同意する種々の思想が説教されるであろう。もしそれらの日々が縮められないならば、選ばれた者でさえ失われるであろうそのような普遍的な意見の相違と迫害が起こるであろう。」Reverend Gerald Culleton,from The Reign of Anti-Christ, p. 130.

  2. Abbe Daniel le Roux, Peter Lovest Thou Me, Victoria(Austria), 1989, pp. 20-30.

  3. Ibid., p. 28:「...ローマ教皇たちは、いつも、教会と国家の分離の教説を反駁し、断罪してきた...」St. Pius X in Vehementer, Feb. 11, 1906.

  4. Thomas Cahill, How the Irish Saved Civilization, New York, 1995, pp. 188-189.

2004/04/15 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/15

最終更新日:2004/04/15

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