ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

第1章 メッセージと奇跡

神は奇跡を無駄にお用いにならない。救いの歴史を通じて -- ヨシュアからモーゼに至るまで、十二使徒に至るまで、数世紀をくだってカトリック教会の諸聖人に至るまで -- 神は一つの最も重要な目的のために奇跡を与えてこられた:すなわち、その目的とは、神の名において奇跡を嘆願する証人に対する神の信用証明として役立つということである。神が一人の証人を選ばれるとき、そして次にその証人の証言に一つの真正の奇跡を結びつけられるとき、われわれはその証人が信ずる価値のあるものであるということが確かであると知ることができる。神は信頼できない証人たちを保証するために奇跡をお与えになることはない。神は信頼できない証人たちをお選びにならない。

否、神は奇跡を無駄にお用いにならない。神は7万人の信じる人々と同等に信じない人々によって目撃された一つの公的な奇跡を無駄に用いられることはなおさらない。その奇跡はその証言が疑われてきた三人の証人:ルチア・ドス・サントス(世界にはルチアとして知られている)と彼女のいとこ、フランシスコ・マルトとヤチンタ・マルトによって三ヶ月前に予告されたまさにその瞬間に起こったのである。注1)

それは1917年10月13日である。ファチマのコヴァ・ダ・イリアとして知られたみすぼらしい野原に一つの奇跡が起こるのを待つために7万人ばかりの人々が集まった。これはそれ自体驚くべきことである。なぜなら、救いの歴史において、幻視者が一つの公的な奇跡が正確な時刻と場所で起こるなどということを数ヶ月前に予告したことはかつてなかったからである。予告された公的な奇跡を目撃するために膨大な数の群集が集まったこともかつてなかった。にもかかわらず、それがまさにこの日に起こったことである。

なぜこの日なのか? それは、ルチア・ドス・サントスと彼女のいとこフランシスコとヤチンタがその前の5月以来毎月の13日に「貴婦人」からの御出現を受けてきたからである。その貴婦人はコヴァにおいてトキワガシの木の上で彼らに御出現になっていた。そして御出現ごとに群集の数は増えて行った。しかし、ポルトガルが無神論的およびフリーメーソン的政体の支配下にあった時代には、幻視者たちとその家族に対する嘲りと迫害と同様に幻視者たちの真実性についての疑いもまた増大していた。

そしてそのとき、1917年7月13日にその貴婦人は彼らに、彼らを恐怖でいっぱいにさせ、そして彼らを、その生涯(フランシスコとヤチンタの場合には非常に短い生涯)を罪人たちのために祈り犠牲を捧げて過ごす聖人たちにするように、彼らを永遠に変えることになるある事柄をお示しになった。カトリック教会が信じる価値があると見なした証言においてルチアが述べているように、その貴婦人は彼らに地獄を示された:

貴婦人は先月と先々月にもなさったと同じように、その両手をもう一度広げられました。光線が地を貫いたように見えました。そして私たちはそれが火の海であったと見ました。この火の中に悪魔たちと人間の形をした[罰せられた者たちの]霊魂とが、透明な燃える残り火のように、皆真っ黒になったあるいはぴかぴかに磨かれたブロンズとなって、火の大海の中を漂い、今や大きな煙の雲と一緒に彼ら自身の内部から噴出した炎によって空中へと吹き上げられ、今はまた火の粉のように重さも、あるいは平衡も取れずに巨大な火の中へと落ちて行きながら、苦痛と絶望の叫びや呻きの真っ只中に居ました。そのことは私たちを恐怖に陥れ、怖ろしさで私たちを身震いさせました。(人々が私が叫ぶのを聞いたと言っているように、私に叫び声を上げさせたのはこれらのことを見たからに違いありません。)悪魔たちは、燃えている石炭のように真っ黒で透明な恐ろしいそして知らない動物の恐るべきそしてぞっとする姿によって[罰せられた霊魂たち]から区別することができました。注2)この幻視はほんの一瞬しか続きませんでした。私たちは天上の愛すべき御母にどのように十分に感謝することができたことでしょうか、御母は最初の御出現において私たちを天国に連れて行くと約束なさることによって私たちにすでに準備をさせてくださったのです。そうでなかったら、私たちは恐れと恐怖で死んでしまっただろうと私は思います。」注3)

罰せられた者たちの運命 -- それはファチマの偉大な秘密の第一部と考えられている -- を示された後に、貴婦人は次に子どもたに第二部を打ち明けられた。この発表の焦点であるバチカン当局のあれらの人々を含むすべての人は、シスター・ルチアの日記に記録されたものとしての秘密の第二部が次のようなものであることに同意している

あなたたちは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心への信心を確立することを望んでおられます。私があなたたちに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わろうとしています。しかしもし人々が神に背くことを止めないならば、もっと悪い戦争がピオ十一世の在位の間に勃発するでしょう。あなたがある未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神が、戦争、飢饉そして教会および教皇に対する迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられる、神によってあなたたちに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。

このことが起こらないようにするために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために[再び]戻って来るでしょう。もし私の要求が心に留められるならば、ロシアは回心し、平和が訪れれるでしょう。もしそうでないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇はたくさん苦しまなければならず、ざまざまの民族が絶滅させられるでしょう。最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、平和の一時期が世界に与えられるでしょう。ポルトガルにおいては信仰の教義が常に保たれるでしょう、等々.....このことを誰にも話してはいけません。ええ、フランシスコには話してもかまいません。注4)

この驚くべきメッセージの基本的な要素は次のようなことである。

これらの事柄に、聖母はカトリック教徒がロザリオを唱える時に、各連の終わりに次の祈りを加えるようにという緊急の要求をつけ加えられた:「おおわがイエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より救い給え。またすべての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする人々を天国へ導き給え。」聖母の要求に従順に、そしてファチマでの聖母の御出現の真正性を証明するものとして、教会はこの祈りをロザリオのうちに含ませた。そしてカトリック教徒は今日までその祈りを唱えている。

教会はまた初土曜日の償いの聖体拝領の信心をも採用した。聖母はその信心を次のように説明なさった:「私は、誰でも引き続く5ヶ月の初土曜日に:告解を行い、聖体拝領をし、聖なるロザリオを5連唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら15分間、私に償いをする意向をもって私と共にいる人に、救いのために必要なすべての恵みと共に、死の時に助けることを約束します。」

われわれはここでついでに(後のより詳しい議論のために)秘密の最初の二つの部分の終わりにある奇妙な文言に注目するために立ち止まる:すなわち、それは「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、等々」という文言である。「等々」で終わっている不完全な文言はシスター・ルチアの御出現に関する第四の回想録にある。それは明らかに、信仰の教義が常に保たれているであろう特にポルトガルから区別された教会一般におけるカトリック教義の信奉の状態について記録されていない聖母のさらなる言葉を含んでいる天からの予告を導入するものである。

ポルトガルにおけるカトリック教義の信奉の状態についての言葉は、それだけでは、余計なものであり、まったく無意味である。なぜなら、その文言は秘密の最初の二つの部分からは論理的にはぜんぜん帰結しないからである。すべての世間に認められたファチマ学者たちはこのことから、その文言が秘密の第三部 -- 単純にファチマ第三の秘密として知られるようになった -- の始まりを表していると結論した。後に見るように、ルチアはその内容によって非常に恐怖に陥れられたので、1943年10月にそれを書き下ろすように命令された後でさえ、聖母が彼女にそれをしなければならないと保証されたその後に起こった1944年1月2日の御出現までは、そうすることができなかったのである。にもかかわらず、今日までバチカンは「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、等々」に明らかに続く聖母の言葉を決して明らかにしてこなかった。「等々」は秘密のままにとどまっているのである。この継続している隠匿はこの書物の主題である犯罪の鍵となる一つの要素である。

神御自身から教会と全人類にとって明らかに大きな重要性をもつ一つのメッセージを受け取ったとき、ルチアは、彼女と彼女のいとこたちが、もし信じられるべきであるならば、一つの神的な信用証明書を必要とするということを知った。7月13日の御出現の間にシスター・ルチアは貴婦人に「あなたが誰であるかを私たちに告げ、すべての人があなたが私たちに御出現になっているということを信じるように奇跡を働いてくださる」ように願った。それで貴婦人はこう答えられた:「毎月ここに来続けなさい。10月には、私が誰であり、何を望んでいるかをあなたたちにお話します。そして皆が見て信じるようになるために一つの奇跡を行います。」注5)貴婦人はこの約束を8月19日にルチアと他の幻視者たちへの次の御出現で、そして再びコヴァで9月13日に、なさった。

そしてそれゆえに人々は10月13日にコヴァに大群衆となって集まった。そして7月に予告されたその時間 -- 12太陽時そしてポルトガル現地午後1時半 -- に正確にそれは始まった。ルチアは突然群集の中の人々に、コヴァを泥沼に変えていた土砂降りの雨の最中に彼らの傘をすぼめるように告げる。それから彼女は恍惚状態に入る。そして貴婦人は再び御出現になり、前に約束なさったように、最初に自分が誰であり、何を望んでいるかをルチアに告げられる:「私はここに私の栄誉を称える聖堂が建てられることを望みます。私はロザリオの聖母です。」その貴婦人は神の御母、それ以後またファチマの聖母の称号で知られるであろうおとめマリアである。それは教会によって祝せられたおとめに与えられた多くの名前の一つである。聖堂はもちろん建てられた。そしてそれから1922年3月6日にブリキ屋 -- オウレムのフリーメーソンの市長のあだ名 注6)-- の友人たちによってそこに置かれた爆弾によって吹き飛ばされた後に再建された。

そしてそれから奇跡が起こった。われわれはここにこの問題においておそらく局部性を非難されることができない、そしてそれはしかるべき理由でそうである、一人の報告者の証言を詳しく述べる。われわれはリスボンの大きな「リベラル」で反聖職主義的、フリーメーソンの日刊紙「オ・セクロ」O Seculoの編集主幹アヴェリーノ・デ・アルメイダを引用する。彼はこう書いている:

四輪馬車が群がり、数百人の人々が泥だらけの地面を横切って前進する十分な勇気を欠いていたためそこに留まっていた道路からわれわれは、雲一つない天頂に現れた太陽の方へと向きを変えた巨大な群集を見た。太陽は銀の円盤に似ていた。そして何らの苦痛もなしにそれを凝視することができた。それは眼を焼かなかった。それは盲目にしなかった。われわれはそれが食を産み出したと言うであろう。それからすさまじい叫びが響き渡った。そしてわれわれのすぐ側ににいた人々は大声で叫んでいた:「奇跡だ!奇跡だ!...不思議だ!」その態度がわれわれを聖書の時代へと運び、そしてものが言えないほど驚き、脱帽し、空の青さを凝視した人々の眩んだ眼の前で、太陽は震えた。それはすべての宇宙的な諸法則の外で、奇妙なそして突然の運動をした。農民たちの典型的な表現に従えば、「太陽が踊った」....注7)

反聖職主義のすべての新聞によって激しく攻撃されて、アヴェリーノ・デ・アルメイダは15日後に彼の雑誌 Illustracao Portuguesa において彼の証言を再び始めた。今回は彼は自分の説明を巨大な忘我の群集の多数の写真でもって例証した。そして彼の記事の至るところで畳句のように繰り返した:「私は...を見た、私は...を見た、私は...を見た。」そして彼は思いがけずこう結論した:「人々が叫んだように奇跡か? 専門家たちが言っているように自然現象か? 今のところ、それは私には重要ではない、私はただ私が見たことを述べているだけである...その他のことは科学にとっての問題そして教会にとっての問題である。」注8)

10月13日土曜日は巡礼者たちにとって悔悛の歩みとして始まる。なぜなら、前夜中ずっと雨が降っていたからである。ところで、この「激しく降る雨によって埃っぽい道路がぬかるみの湿地へと変えられ、一日で突然秋の甘美さを冬の身を切るような苛酷さに置き変えさせたほとんど突然の天気の変化は彼らに断念させるあるいは絶望させるために彼らを動かすことに成功しなかった。」注9)

目撃者たちの多くの説明を比較することによってわれわれはさまざまの局面とすべての人々によって見られた驚くべき諸現象の結果とを区別することができる。諸々の現象の一つひとつにとって、それら自体で一つの印象的な書物を構成するであろう目撃者たちのおよそ10ページ[の証言]をそろえることが可能であろう。

ここにアルメイダ・ガレット博士によって記述された最初の驚くべき事実がある:

子どもたちがいたまさにその地点に一つの煙の柱が立ったのは午後1時半であったに違いない。その煙の柱は細長く、きれいで青みがかっていた。それは彼らの頭上おそらく2メートルのところに拡がっており、その高さのところで消え失せていた。この現象は裸眼で完全に見ることができ、数秒間続いた。それがどのくらい続いたかを注意しなかったので私はそれが一分間より多かったか少なかったかどうかを言うことはできない。その煙は突然散らされた。そしてしばらくして後にそれは二度目に起こり、それから三度目に...注10)

御出現の間、「低いそして重い空は大量の長く続く雨を放出した湿気を含んだ非常に暗い色を持っていた」のに、その雨がすっかり止んだ。突然空が晴れた:「太陽が勝ち誇ってそのときまでそれを隠していた厚い層の雲を刺し貫いた。そして強烈に照った。」(アルメイダ・ガレット博士)この突然の天気の変化はすべての目撃者を驚かせた:「その日は激しい連続的な雨だった。しかし奇跡の数分前に雨は降り止んだ。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サント)

そして以下の証言は、眼を害することなしに直接見ることができる太陽が説明不可能な銀色になるということに関する科学者、物理学者のものである:

「突然私は数千人の人々の叫ぶ声を聞いた。そして私の足もとの広大な空間に拡がった全群集を見た...彼らは、その時まで彼らの期待がそこに焦点づけられていたその地点に背を向けて、もう一方の側の太陽を見上げた...私もまた彼らの眼を向けさせた方向に向きを変えた。そして私は太陽を見ることができた。それは眼を害することなしに鈍く光って、鋭い縁どりをもった非常にはっきりした円盤のようであった...それは霧(その瞬間には霧はなかった)を通して見られた太陽とは混同され得なかった。なぜなら、それはヴェールをかぶったようでもなく、また薄暗いものでもなかったからである。ファチマでは、それはその光と熱とを保っていた。そして一つの大きなゲーム用テーブルのようにはっきりした縁をもって空に明瞭にかかっていた。最も驚くべきことは、光と熱をもって輝きながら、眼を害すること、あるいは網膜を損なうことなしに、長い間太陽円盤を凝視することができることであった。」(アルメイダ・ガレット博士)注11)

同じ調子で O Seculo の編集主幹による以下の証言がある:

「それから次にわれわれは類のない見せ物、もしあなたがそれを目撃しなかったならば信じることができない、驚くべき光景を目撃した。道路の上手の方から...われわれは巨大な群集が太陽の方に向き直るのを見た。太陽はその頂点において雲の上に現れた。それは鈍い銀色の円盤のように見えた。そして少しの不快感もなしにそれを凝視することができた。それは眼を焼かなかった。それは盲目にしなかった。食が起こったと言ってもよいだろう。」(1917年10月15日の記事)

そして同様に:「人々は月を見るように太陽を見ることができた。」(マリオ・ド・カルモ)注12)

反聖職主義的新聞の世俗的編集主幹によってさえ目撃された次の太陽の現象についての諸々の証言を増やすことができるであろう。以下の記事を調べなさい:

「それは揺れまた震えた。それは火の車のように見えた。」(マリア・ダ・カペリーニャ)注13)

「太陽は虹のすべての色を帯びながら、火の車のように廻った。」(マリア・ド・カルモ)注14)

「それはそれ自身で回転している雪玉のように見えた。」(ロレンソ神父)注15)

「真珠のような円盤はめまぐるしい運動をもっていた。これはそのすべての輝きにおいて星の瞬きではなかった。それは猛烈な速度でそれ自身で回転していた。」(アルメイダ・ガレット博士)注16)

「ある瞬間に太陽は突然止まった。そしてそれから再び踊り、回転し始めた。それは再び止まった。そして再び踊り始めた。」(ティ・マルト)注17)

「太陽は虹のすべての色を持っていた。あらゆる事物:すなわち、われわれの顔、われわれの衣服、大地そのものがそれらと同じ色を帯びた。」(マリア・ド・カルモ)注18)

「その色が一瞬から次の瞬間へと変わったその光は人々および事物に反映した。」(ペレイラ・ゲンス博士)注19)

次に起こったことはその奇跡の最も恐ろしい局面、われわれの時代にとって深い意味をもった局面を構成している。人間はその局面において天から火でもって全人類を破壊する能力を完成させた:太陽は天空から引き剥がされ、大地に向かって突っ込んで来るように見えた。

「われわれは突然あの群集全体の苦痛の叫びのような一つのうなり声を聞いた。太陽は、実際、その急速な回転運動を保ちながら、天空と血の赤さから自らを解き放ち、その恐るべき重量でわれわれを押しつぶそうと脅かしながら大地に向かって突っ込んで来るように見えた。それらはわれわれを恐怖に陥れた数秒間のことであった。」(アルメイダ・ガレット博士)注20)

「私は太陽が向きを変えるのを見た。そしてそれは降ってくると思われた。それは自転車の輪のようであった。」(ジョン・カレイラ)注21)

「太陽は踊り始めた。そしてある瞬間に、それは天空から引き剥がされそして火の車輪のようにわれわれの上に突進して来るように思われた。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)注22)

「私はそれが大地に衝突しに来たかのように完全に降って来るのを見た。それは空から離れわれわれの方へ突進して来るように見えた。太陽はしばらくの間われわれの頭上に自らを保っていた。しかし、その種の攻撃は非常に短い持続期間のものであった...太陽は人々に非常に近いように思われた。そして反対の方向へ転じ続けた。」(マリア・ド・カルモ)注23)

「突然、太陽はその輪郭のはっきりした円周をもって現れた。それはあたかも雲の高さまで来るかのように落ちて来て、そして閉じ込められた火球のようにそれ自身で眩暈がするように旋回し始めた。ときどき中断しながら、この旋回はおよそ8分間続いた。」(ペレイラ・ダ・シルヴァ神父)注24)

「それは突然大地を脅かしながらジグザグに落ちて来たと思われた。」(ロレンソ神父)注25)

「太陽がわれわれの上に落ちて来るのを見て...」(ジョン・ゴメス神父)注26)

「最後に、太陽は止まり、そして皆が救われた吐息をもらした...」(マリア・ダ・カペリーニャ)注27)

「あれらの数千の口から私は喜びといとも聖なるおとめへの愛の叫びを聞いた。そしてそれから私は信じた。私は一つの暗示の犠牲者ではなかったという確信を持った。私は再びそれを見ることは決してないであろうような太陽を見たのだった。」(マリオ・ゴディーニョ、技術者)

もう一つの驚くべき事実:すなわち、その大部分がずぶ濡れになったすべての人々は喜びと驚きをもって彼らが乾いたことが事実であると証明した。その事実は、2000年5月13日に最終的に列福されたヤチンタとフランシスコの教会法上の列福訴訟において証言された。

「最もそれを期待していなかった瞬間にわれわれの衣服は完全に乾いた。」(マリア・ド・カルモ)注29)

「私の衣服は一瞬にして乾いた。」(ジョン・カレイラ)注30)

アカデミー会員マルク・ダ・クルスは次のように証言した:

この異常に大きな群集はずぶ濡れになった。なぜなら夜明け以来止むことなく雨が降っていたからである。しかし -- このことは信じられないと見えるかもしれないが -- 大奇跡の後、皆は心地よさを感じた。そして自分の衣服がまったく乾いているのを見出した。それは一般的な驚きの主題である...この事実の真実さは、私が子どもの頃からよく知っており、そしてまだ生きている(1937年)絶対に信用できる何十人もの人々によって、またそこにいた国の様々の地域から来た人々によっても、最大の誠実さをもって保証された。注31)

そして最後に、そこにはまた多くの人々の回心という道徳的な奇跡も存在した。ジョン・ハッファートはその著「目撃者たちに会う」においてこう書いた:

その日山の上にいた兵士たちの連隊の隊長 -- 群集が集まるのを阻止する命令を受けていた -- は即座に回心した。明らかに、彼らの証言が示すであろうように、他の数百人の信じない人々も回心した。注32)

「普通の女の子に会うためにだけファチマに出かけた『まぬけども』をばかにしながらその朝、そこで時間を費やした一人の信じない人がいた。彼は今や麻痺したように見えた。彼の眼は太陽に釘付けにされた。彼は頭のてっぺんから足の先まで震え始めた。そして両腕を上げて泥の中に跪き、神に大声で叫んでいた。」(ロレンソ神父)注33)

「私はファチマから18マイルの所に住んでいる。そして1917年の5月にわれわれは異常な御出現について聞かされた。しかしそのニュースは人々の幻想と混ぜ合わされてわれわれに伝えられた。当然私は信じなかった。私はそれが単に誰かの想像の産物にしかすぎないと心から考えた...私の母の要求で、8月に御出現の時間にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行った。もう一度私は落胆し、失望して帰って来た。しかしあの時は、何か途方もないことが起こった。何年もの間一方の眼に大きな腫瘍を持っていた私の母が癒された。母を診ていた医師たちはそのような治癒を説明できないと言った。それでもなお私は御出現を信じなかった。最後に、そして再び母の要求で、私は10月13日にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行った...私の母に起こったことにもかかわらず、私は失望していて、御出現を信じていなかった。それで私は自分の車の中に座っていた。そのとき突然、私は皆が空を見たのに気がついた。自然的な好奇心が私の注意を惹いた。そして私は車を出て、私もまた空を見上げた...数百人の人々の口から祝せられたおとめに対する信仰と愛の言葉が出るのを私は聞いた。そしてそれから私は信じた。」(マリオ・ゴディーニョ、技術者)注34)

治癒や回心の多くの他の事例は、他の場所にもいろいろあるが、次の書物の中に記録されている:Documentacao Critica de Fatima および Fatima from Beginning. 注35)

その奇跡はその場所での「集団ヒステリー」の産物である言う人々に対して、神御自身が即座の反論の手筈を整えられた。すなわち、その現象はファチマを離れた所からも見ることが出来た。コヴァ・ダ・イリアから非常に遠い所にいた完全に信用できる目撃者たちは、おとめが御出現になったトキワガシの木の周りに集まった7万人の巡礼者たちと正確に同じように、太陽のダンスの前例のない光景を見たと語った。注36)

ファチマからおよそ10マイルに位置するアルブリテルの小さな村では全村が太陽の奇跡を見ることができた。頻繁に引用された証言はイナシオ・ロレンソ神父の証言である。なぜなら、それはもっとも詳細な証言だからである。しかし彼が見たと話していることを、すべての村民が、調査者たちによって質問されて、それを正確に同じ仕方で見たと確証した。

その出来事の目撃者たちは実際数え切れない。彼らの証言は一致している。そしてわれわれは彼らがわれわれに残した文書を多量に持っているのである。注37)

まず第一に、多くの報告が直ちにポルトガルの新聞に載った。証言を用意した最初のものが反聖職主義的な報道記者たちであったということは注目に値する。Avelino de Almeida の三つの記事 -- 出来事の直前、10月13日の記事、13日の夕方にヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムで編集された10月15日のもう一つの記事、そして10月29日の第三の記事 -- は特別に言及する価値がある。部分的に最初の記事を書かせている嘲りの調子とヴォルテール的な皮肉にもかかわらず、15日の記事においてなお現れている予期された反聖職主義的調子にもかかわらず、有能な報道記者であり、おまけに誠実で良心的であるこの人が書いたこれらのテキストは第一級の重要性を持つ歴史的な記録文書である。注38)しかし彼は諸々の事実を話している唯一の人間ではなかった。なぜなら、他の報道記者たちがコヴァ・ダ・イリアにはいたからである。

次に公式の調査があった。1917年11月には当時リスボン司教区を指導していたデ・リマ・ヴィダル司教の要求によってファチマの小教区司祭が調査を行い、小教区の数人の目撃者たちに質問した。不幸にも、彼はたった四つの宣誓証言書だけしか書き写さなかった!

歴史家たちの調査は幸いにも公式調査者たちの怠慢を補った。コインブラ大学理学部教授ホセ・マリア・デ・アルメイダ・ガレット博士から得た非常に徹底的な説明であるフォルミガオ神父の報告はわれわれの所有しているものの中でも最も学問的な報告である。注39)その上、われわれはダ・フォンセカ神父(彼の仕事は、証拠を検討することを拒否したダニス神父注40)によって議論された諸点を検証するためになされた)、ド・マルキ神父、カノン・バルタス、ディアス・コエリョ神父、そしてリチャード神父の諸々の報告を持っている。

1977年に最後の御出現60周年記念日を祝うために、太陽の奇跡に居合わせ、そしてかれらの記憶を明らかにすることができた30人以上の人々をファチマに集めることがまだ可能であった。それらの多くの証言のおかげで、確実に世界の歴史の中でも最も重要な事柄の一つとして、この決定的な日を、時間毎に、分毎に再現することをわれわれに可能にする一つの正確な実況放送を再構成することができる。実際、1917年10月13日の太陽の奇跡の証拠はそのように圧倒的なものであったので、1952年にハリウッドでさえ、「ファチマの聖母の奇跡」と題された古典的な映画(ギルバート・ローランド主演)-- これは今日なおビデオ・テープで売られている -- を公開することによってその真正性を保証したのである。

この日はなぜそのように重要なのか? それは神の御母からの天上的なメッセージ -- 84年以上後に人間の歴史におけるまさにこの瞬間に教会と世界の危険な状況の中心に、われわれに出口を提供するものとして立っているメッセージ -- がいかなる疑いをも超えて真であると保証された日であったからである。

聖母が御出現になった正確な地点に建てられたファチマの聖母の最初のチャペル。それは1922年3月6日にポルトガルにおける反カトリック勢力によってダイナマイトで爆破された。上の写真は爆発によって生じた屋根の穴を示している。摂理的にファチマの聖母のオリジナルの像(トップにある)はその時チャペルにはなかった。


脚注

1. この章は大部分はFrere Francois de Marie des Anges, Fatima: Intimate Joy World Event, Book One, The Astonishing Truth,(English edition, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1993)Chapter III, pp.163-198. からそのまま取られた。

2. English translation of text in Sister Lucy, "Fourth Memoir", Fatima in Lucia’s Own Words,(Postulation Centre, Fatima, Portugal, 1976)p. 162. See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I: Science and the Facts,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1989) pp. 181-182.

3. English translation of text in Sister Lucy, "Third Memoir", Fatima in Lucia’s Own Words, p. 104. See also The Whole Truth about Fatima — Volume I, p. 182.

4. English translation of text in Sister Lucy, "Fourth Memoir", Fatima in Lucia’s Own Words,(Postulation Centre, Fatima, Portugal, 1976)p. 162. See also Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia,(Porto, Portugal, 1973, edited by Father Antonio Maria Martins) pp. 340-341; in Sister Lucy’s own handwriting there is no ellipsis after the "etc.". See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth About Fatima — Volume I: Science and the Facts, p. 182.

5. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I, pp. 180-181.

6. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume II: The Secret and the Church,(English edition, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1989)pp. 357-358.

7. O Seculo of October 15, 1917.

8. Article of October 29, 1917. See also Frère François de Marie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth, p. 164.

9. Ilustração Portuguesa, October 29, 1917.

10. Frère François de Marie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth, pp. 171-172.

11. Ibid., pp. 172-173.

12. Ibid., p. 173.

 

13. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I, p. 337.

14. Frère François de Marie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth, p. 178.

15. Ibid.

16. Ibid.

17. Ibid.

18. Ibid.

19. Ibid.

20. Ibid.

21. Ibid.

22. Ibid., pp. 178-179.

23. Ibid., p. 179.

 

24. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I, p. 337.

25. Ibid., p. 339.

26. Ibid., p. 340.

27. Ibid.

28. Frère François de Marie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth, p. 179.

 

29. Ibid.

30. Ibid.

31. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I, p. 340. See also Father John de Marchi, I.M.C., Fatima From the Beginning, (Missoes Consolata, Fatima, Portugal, 1981, third edition, first published in 1950)p. 141; and Joseph A. Pelletier, A.A., The Sun Danced at Fatima, (Doubleday, New York, 1983)pp. 129-130.

32. John M. Haffert, Meet the Witnesses, (AMI International Press, Fatima, Portugal, 1961)p. 62. This book was published with an Imprimatur from the Bishop of Leiria, Portugal and provides us with credible direct testimonies of numerous witnesses to the Miracle of the Sun.

33. Ibid., p. 65.

 

34. Ibid., pp. 86-89.

35. Documentaçáo Crítica de Fátima, Volume II,(Santuário de Fátima, 1999)17 cases documented on pp. 277-372; and Father John de Marchi, I.M.C., Fatima From the Beginning.

36. Father John de Marchi, I.M.C.,

Fatima From the Beginning, p. 136. See also Documentaçáo Crítica de Fátima, Volume I,(Santuário de Fátima, 1992)p. 408. See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima — Volume I, pp. 330-331.

37. Among the many reference works, see: Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth About Fatima — Volume I: Science and the Facts; John M. Haffert, Meet the Witnesses; Father John de Marchi, I.M.C., Fatima From the Beginning, pp. 135-142.

38. We find the photographic reproduction of those three articles in Fatima 50 of October 13, 1967, pp. 6-10; 14-15.

39. Novos Documentos de Fatima, Loyola editions, Sao Paulo, 1984, pp. 60-63.

40. 近代主義者のイエズス会司祭、ダニス神父。彼は地獄の幻視とロシアの奉献と最終的な回心を含むメッセージの預言的な要素を後に「地位低下させ」ようと試みた。ダニス神父はファチマに来てファチマ文書を研究するようにというシスター・ルチアの招待を拒否した。ダニス神父は結局は2000年6月26日に公表された「注釈」に従えばファチマのメッセージを改訂する彼らの試みにおけるバチカン当局の主要メンバーによって引用されることになるであろう。

2005/04/19 三上 茂 試訳

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作成日:2005/04/19

最終更新日:2005/04/20

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