ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

第4章 第三の秘密

1917年におとめ[マリア]によって予告されたとおりに正確に第二次世界大戦がピオ十一世の在位の間に勃発した。1943年までにヨセフ・スターリンはカトリック教徒を粛清し、ソビエト・ロシアから世界共産主義を輸出することにおいて大きな働きをした。その同じ年の6月に、今や36歳になったシスター・ルチアは肋膜炎で倒れた。この展開はレイリア・ファチマのダ・シルヴァ司教と彼の親しい友人かつ忠告者であるカノン・ガランバを大いに不安にさせた。彼らは両者ともシスター・ルチアが第三の秘密を書き下ろすことなく死ぬことを恐れた。

非常に恐ろしくて彼女はそれを書き下ろすことができなかった

1943年9月にダ・シルヴァ司教は彼女に、それを書き下ろすように提案した。しかし彼女は単なる提案に応じることを丁重に断った。というのは、彼女はそのような主導権に対する責任を自分自身で取ることを望まなかったからである。シスター・ルチアは彼女の司教からの正式の命令なしに、彼女が第三の秘密を明かすためにわれらの主の許可をまだ得ていなかったということに重大な関心を持っていた。彼女はしかしながら、ダ・シルヴァ司教からの明白な命令には従うでしょうと述べた。

1943年10月半ばに、スペイン、トゥイ(ファチマからおよそ250マイル離れたポルトガル国境の近く)にある修道院にシスター・ルチアを訪問している間に、ダ・シルヴァはシスター・ルチアに秘密を書き下ろすための正式の命令を与えた。シスター・ルチアはそれから司教の命令に従うよう試みた。しかしその後の二ヶ月半の間そうすることができなかった。

おとめ[マリア]御自身がシスター・ルチアに秘密を明かすように指示なさる

最終的に、1944年1月2日に祝せられたおとめマリアは再びルチアに御出現になり、彼女を強め、彼女が秘密の最後の部分を明かすことは実際神の意志であるということを確証なさった。そのときに始めてシスター・ルチアは彼女の恐怖を克服し、ファチマの第三の秘密を書き下ろすことができた。注1)しかしそれでも、シスター・ルチアが、秘密は最終的に紙に書き留められたと知らせながら、ダ・シルヴァ司教に以下の覚え書きを書いたのはやっと1944年1月9日になってからであった:

私はあなたが求められたことを書きました。神は少しばかり私を試みようと望まれましたが、しかし最終的にこれは実際神の御意志でした:(テキストは)封筒の中に封印されており、そしてそれ(封印された封筒)はノートの中にあります...注2)

一枚の紙

このように、秘密が二つの文書を含んでいることは直ちに明らかであった:すなわち、一つの文書は封筒の中に封印されており、そして他の文書はシスター・ルチアのノート・ブックに含まれている。(そうでなければ、なぜ彼女は封印された封筒並びにノート・ブックを手渡したであろうか? )われわれはしばらくの間封筒の中に封印されたものに焦点を当てよう。

ルチアは秘密の内容に対してはなお非常に恐怖で一杯だったので、ダ・シルヴァ司教のところへ持って行くために、司教以外の誰にも[見られないように](ノート・ブックと共に)封印した封筒の中に秘密を託したのであった。1944年6月17日にシスター・ルチアはトゥイを出発し、ミニョ川を渡り、アシロ・フォンセカに到着して、秘密を入れた封筒をはさんだノート・ブックをマヌエル・マリア・フェレイラ・ダ・シルヴァ大司教(グルザの大司教)に手渡した。その同じ日に、ダ・シルヴァ大司教はその秘密を、ブラガからほど遠くない彼の田舎家でホセ・アルヴェス・コレイア・ダ・シルヴァ司教(レイリアの司教)に手渡した。それから、レイリアの司教はその秘密をレイリアの司教館へ持って行った。これらの細かな点は2000年6月26日に最終的に公表された第三の秘密に関するバチカンの注釈において述べられたことに関連して非常に重要なものであろう。

最初から一致した証言は第三の秘密が一枚の紙の形で書かれているということである。ホアキン・アロンソ神父(ファチマの御出現に関する書類の公式文書保管人)はシスター・ルチアとオッタヴィアーニ枢機卿とは両者とも秘密が一枚の紙に書かれていると述べたと報告している:

ルチアは彼女がそれを一枚の紙に書いたとわれわれに告げている。それを読んだオッタヴィアーニ枢機卿は同じことをわれわれに告げている:「彼女はそれを一枚の紙に書いた...」注3)

オッタヴィアーニ枢機卿は、信仰教義聖省長官として1967年に、自分は第三の秘密を読んだ、そしてそれは一枚の紙に書かれていたと述べた。彼は1967年2月11日に、ローマでの教皇立マリア・アカデミーの会議の時の記者会見の間に、この事実の真実性を証言した。オッタヴィアーニ枢機卿はこう述べた:

そしてそれから、彼女[ルチア]はいとも聖なるおとめに従うために何をしたか? 彼女は聖なるおとめが告げるようにと彼女に求められたことを、ポルトガル語で一枚の紙に書いた...注4)

オッタヴィアーニ枢機卿はこの事実の証人である。同じ記者会見において、彼はこう述べている:

秘密のテキストを読む恵みと賜物を得た私 -- 私もまた秘密によって縛られているがゆえに秘密を守らなければならないけれども -- は...注5)

われわれはまたヴェナンシオ司教の証言をも持っている。彼は当時レイリア・ファチマの司教補佐であった。彼はダ・シルヴァ司教によって1957年3月半ばにシスター・ルチアのすべての書き物 -- 第三の秘密のオリジナルを含む -- のコピーをローマへの移送のためにリスボンの教皇使節のところへ持って行くように命令された。教皇使節のところへルチアの書き物を持っていく前に、ヴェナンシオ司教は第三の秘密を入れた封筒を光にかざして見、秘密が「小さな一枚の紙に書かれて」いるのを見た。注6)フレール・ミッシェルは最初にこの証言の性格を[次のように]確認している:

しかしながら、当時レイリアの補佐司教でこれらの出来事に深く関わっていたヴェナンシオ司教の発表のおかげで、われわれは今無視しないように注意している多くの信頼できる事実を持っている。私自身、ファチマで1984年2月13日にヴェナンシオ司教の口からそれらを受け取った。ファチマ元司教はこの主題に関してほとんど一語一語、彼が既に以前にカイヨン神父 -- 彼はその諸々の会議において非常に詳細な説明を与えた -- に言ったことを私に繰り返した。注7)

今ここにヴェナンシオ司教の証言がある。フレール・ミッシェルによればこうである:

ヴェナンシオ司教は、かつて独りでいたとき、秘密の大きな封筒を取り上げ、それをすかしてみて、内容を見ようと努めたと語った。司教の大きな封筒の中に彼はルチアのより小さな封筒を認めた。そしてこの封筒の内部に両側の四分の三センチのマージンを取った一枚の通常の紙が入っているのを認めた。彼はあらゆるものの寸法を記録する労を取った。このように、ファチマの最後の秘密は一枚の紙に書かれていた。[強調は筆者]

その証拠はさらに、この一枚の紙がおよそ20行から25行のテキストを含んでいたということを示している。この点に関して、シスター・ルチア、オッタヴィアーニ枢機卿、ヴェナンシオ司教、アロンソ神父、フレール・ミッシェルそしてフレール・フランソワの証言はすべて一致している:

...われわれは第三の秘密の20行あるいは30行が...と確信している...注9)

一枚の紙に書かれたファチマの最後の秘密はそれゆえにそれほど長いものではない。おそらく20行から25行までであろう...注10)

ヴェナンシオ司教は「[第三の秘密を入れた]封筒を光の方に持ち上げている間に」眺めた。「彼はその中に、彼がその正確なサイズを測った一枚の小さな紙を見ることができた。このようにしてわれわれは第三の秘密がそれほど長いものではなく、おそらく20行から25行までであるということを知るのである...」注11)

手紙の形式で書かれた

第三の秘密がダ・シルヴァ司教に宛てた手紙の形式で書き下ろされたということも等しく明らかである。シスター・ルチア自身、われわれに、第三の秘密は一通の手紙として書かれたと告げている。この点に関してわれわれは、シスター・ルチアに次のように質問した1946年2月3-4日付けのヨンゲン神父の書かれた証言を持っている:

「あなたはすでに秘密の二つの部分を知らせました。第三の部分のための時はいつになるでしょうか?」「私は第三の部分を手紙の中でレイリアの司教に伝えました」と彼女は答えた。注12)[強調は筆者]

次に、われわれはカノン・ガランバの次の決定的な言葉を持っている:

司教が手紙を開けることを拒否したとき、ルチアは彼に、それがそのどちらが先に来るとしても、彼女の死の時か、あるいは1960年に、確実に開けられ、世界に知らされることを約束させた。注13)[強調は筆者]

1960年には世界に明らかにされるべきである

なぜ1960年なのか? 1955年にオッタヴィアーニ枢機卿は、なぜそれは1960年より前には開けられてはならないのかと彼女に尋ねた。彼女は彼にこう答えた。「なぜなら、そのときそれはより明らかとなる( mais claro )でしょうから。」シスター・ルチアはレイリア・ファチマの司教に秘密が彼女の死んだときに世界に読まれること、しかし1960年より遅くなってはならないことを約束させた。「なぜなら、祝せられたおとめがそう望んでおられるからです。」注14)そしてカノン・バルタスからの証言はこうである:「さらにそれ[第三の秘密]は間もなく知られるであろう。というのは、シスター・ルチアは聖母が1960年の始めにそれが公表されることを望んでおられると主張しているからである。」

この証言は秘密に関する第三の決定的な事実を導入する:すなわち、それは1960年までに明らかにされるべきであった。実際、1960年2月にリスボンの大主教はこう宣言したのであった:

ダ・シルヴァ司教は(ルチアによって封印された封筒を)、手紙が1960年に彼自身、ホセ・コレイア・ダ・シルヴァによって、もし彼がまだ生きていたならば、あるいはもし生きていなかったならば、リスボン大主教枢機卿によって開けられなければならないということを彼がその上に指示したもう一つの封筒の中に封入した。注15)[強調は筆者]

アロンソ神父はわれわれにこう告げている:

他の司教たちもまたその有名な手紙の公開を指示した年としての1960年について -- そして権威をもって -- 語った。このように、当時ティアラの名前だけの司教およびリスボンの補佐司教がルチアに秘密がいつ開けられるべきかと尋ねたとき、彼は常に同じ答え:すなわち、1960年に、という答えを受け取った。注16)[強調は筆者]

そして、1959年にレイリアの新しい司教、ヴェナンシオ司教はこう宣言した:

手紙は1960年以前には開けられないであろうと思う。シスター・ルチアは彼女の死の前、あるいは1960年以前には手紙は開けられるべきではないと求めた。今は1959年である。そしてシスター・ルチアの健康状態はよい。注17)[強調は筆者]

最後に、われわれは秘密を抑圧する決定に関する1960年2月8日のバチカンの告知(ポルトガルの報道機関 A.N.I.のコミュニケに現れた)-- 第6章でそれに立ち戻るであろう文書 -- を持っている。そのバチカン告知はこう述べている:

...シスター・ルチアがその中でコヴァ・ダ・イリアの三人の子どもたちに一つの秘密として聖母が打ち明けられた言葉を書き下ろした手紙はたぶん決して開けられることはないであろう。注18)[強調は筆者]

これまでのところ、すべての証拠は次のことを指摘している:秘密は一枚の紙に手紙の形式で書き下ろされており、両側四分の三センチの余白をもった紙に20行から25行で手書きにされたテキストを含んでいる。秘密は1960年より遅くならないように公開されなければならない。特に、1960年に公開されなければならない。なぜなら、そのときには「それはいっそう明らかであろう」から。

ヴェナンシオ司教が教皇使節のところに移したのはこの文書であった。教皇使節はそれからそれを聖省(今は信仰教義聖省として知られている)へ1957年に移した。

1957年4月16日にバチカンに到着して、秘密は確かに教皇ピオ十二世によって彼の個人的な机の、Secretum Sancti Officii(聖省の秘密)という銘刻を持った一つの小さな木製の箱の中に収められた。注19)

教皇パウロ六世が1967年にバチカンの機構改革をする前には、教皇が聖省の長であったということに注目することは重要である。それゆえに、教皇が第三の秘密を自分の所有物として保持し、それを入れた箱が「聖省の秘密」の見出しを付けられることはまったく適切なことなのである。教皇は聖省の長であるからして、この箱は聖省の保管文書の一部となった。後の考察のためにこれらの決定的な事実を心に留めておいてください。

教会における背教の予告

秘密の内容についてはどうか? われわれは今、前章において述べられたように、ルチアの第四回想録における偉大な秘密の最初の二つの部分の全体的なテキストの終わりに現れる「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」という、隠しきれない文言に立ち帰る。

この点に関してわれわれはヨーゼフ・シュヴァイグル神父の決定的な証言を考察しなければならない。彼は秘密の使命:すなわち、シスター・ルチアから第三の秘密について直接情報を得るという使命、を教皇ピオ十二世によって託された。彼はこのことを1952年9月2日にコインブラのカルメル[修道院]で行った。ローマに帰った後、シュヴァイグル神父はルッシクムの彼の住居に戻り、一人の同僚に翌日こう言った:

第三の秘密に関してファチマで私が学び知ったことについて私は何も明かすことはできない。しかしそれが二つの部分を持っているということは言うことができる:すなわち、一つの部分は教皇に関係している。もう一つの部分は(私は何も言ってはならないけれども)論理的に「ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう」という文言に続くものでなけれならないだろう。注20)

このようにして、秘密の一部は実際、その全体をバチカンがまだ明らかにしなければならない文言:「ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう」に続くものであるという結論が確証されるのである。

この結論は次の人々を含む他の多くの証人たちによって裏付けられている。

フエンテス神父

1957年12月26日にフエンテス神父はシスター・ルチアにインタビューを行った。そのインタビューは1958年に、彼の大司教、メキシコのヴェラ・クルスのサンチェス司教の印刷出版許可を得て公表された。他のこともいろいろあるが、シスター・ルチアはフエンテス神父に次のことを告げた:

神父様、いとも聖なるおとめは非常に悲しんでおられます。なぜなら、善人も悪人も誰も聖母のメッセージに何の注意も払わなかったからです。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージには何の重要性も与えないでそうしています。悪人は彼らの上に落ちかかる神の懲罰を見ないでメッセージについて気にかけることさえなく彼らの罪の生活を続けています。でも信じてください、神父様、神は世界を罰せられるでしょう。そしてこれは恐るべき仕方でなされるでしょう。天からの懲罰は間近に迫っています。

神父様、1960年に達する前にどれだけ時間があるでしょうか? もし前もって世界が祈りと償いをしないならば、誰にとってもそれは非常に悲しいことでしょう。誰一人まったく喜ばないでしょう。私は何か別の詳しいことを言うことができません、なぜなら、それはまだ秘密ですから....

これは、1960年まで秘密のままであろう聖母のメッセージの第三の部分である。

神父様、彼らに告げてください。いとも聖なる乙女は何度も私のいとこ、フランシスコとヤチンタ、そして私自身に、多くの国家が地の面から消え失せるでしょうと告げられました。聖母は、もし私たちが前もってあの可哀相な国[ロシア]の回心を手にしていないならば、ロシアが世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具となるでしょう、と言われました。

神父様、悪魔は祝せられたおとめに対する決定的な戦いに参加する気になっています。そして悪魔は最も神に背くことが何であるか、そして短期間に彼にとって最大多数の霊魂を獲得するものがどれであるかを知っています。このように、悪魔は神に奉献された霊魂たちを征服するためにあらゆることをしています。なぜなら、このようにして、悪魔は彼らの指導者たちによって見捨てられた信徒の霊魂を離れさせることに成功し、そのことによってもっと容易に彼らを奪い取るでしょうから。

マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心を苦しめるものは修道者や司祭の霊魂の堕落です。悪魔は彼らの美しい使命から離れ去った修道者や司祭たちが多くの霊魂を地獄へと引き連れるということを知っています。...悪魔は奉献された霊魂たちを自分たちのものにすることを望んでいます。悪魔は平信徒の霊魂を眠りに誘い込み、そしてそれによって彼らを最終的な悔い改めなしの状態へと導くために彼ら[聖職者たち]を堕落させようと努めています。注21)

アロンソ神父

1981年に亡くなる前に、16年間ファチマの公式の公文書保管者であったホアキン・アロンソ神父は次のように証言した:

それゆえに、そのテキストが教会内部の危機および司牧者たち自身の怠慢[そして]教会のまさに懐における内的闘争と上層の位階の重大な司牧的怠慢に具体的に言及していることはまったくありそうなことである。注22)

マリアの汚れなき御心の偉大な勝利に先行する時期に、恐るべき事柄が起こるはずである。これらの出来事が秘密の第三部の内容を形成している。それらは何であるか? もし「ポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれる」ならば、...このことから、教会の他の諸部分においてはこれらの教義が曖昧となる、あるいはまったく失われるようになることさえあるという結論を明らかに引き出すことができる。注23)

公表されていないテキストは具体的な状況について語っているか? それが単にこの中間期の間の教会における信仰の真の危機について語っているばかりでなく、例えばラ・サレットの秘密のようにカトリック教徒たちの内部闘争、あるいは司祭たちや修道者たちの堕落へのより具体的な言及があるということは大いにあり得る。おそらくそれは教会の上層の位階の諸々の失敗にさえ言及している。そのことに関する限りでは、このどれひとつ、シスター・ルチアがこの主題に関して行った他の話と無関係ではない。注24)

ラッツィンガー枢機卿

1984年11月11日に、信仰教義聖省長官ラッツィンガー枢機卿は女子パウロ会の出版物である雑誌イエズスにおいて一つのインタビューをした。そのインタビューの題目は「信仰が危機に陥っている理由」となっており、枢機卿の明白な許可を得て公表された。このインタビューの中でラッツィンガー枢機卿は信仰の危機が世界中の教会に影響を与えていることを認めている。この文脈において、彼は第三の秘密を読んだこと、そして秘密が「信仰を、そしてキリスト教徒の生命をそしてそれゆえに世界の(生命)を脅かしている危険」に言及していることを明らかにしている。

枢機卿はこのように、秘密が教会における広範囲の背教に関係があるというアロンソ神父を確証しているのである。ラッツィンガー枢機卿は同じインタビューの中で、秘密はまた「Novissimi[終わりの時/終わりの事柄]の重要性」に、言及しているということ、そして「もし、それが、少なくとも今のところ、公表されないとすれば、それは宗教的な預言を扇情的な表現と混同することを避けるためである...」と言っている。枢機卿はさらに「この『第三の秘密』に含まれている事柄は聖書において告知されてきたこと、そして多くの他のマリア御出現において、とりわけファチマの御出現において、繰り返し言われてきたことに一致しているということを明らかにしている...注25)

アマラル司教

ラッツィンガー枢機卿に完全に一致しているのはアマラル司教 -- ファチマの三番目の司教 -- である。1984年9月10日にオーストリア、ウィーンでの講演の中で彼は次のことを述べた:

その内容はただ信仰にのみ関係しています。[第三の]秘密を破局の告知あるいは核のホロコーストと同一視することはメッセージの意味を歪めることです。一大陸の信仰の喪失は一国家の絶滅よりも悪いことです。そして信仰がヨーロッパにおいて絶えず先細りしていることは本当です。注26)[強調は筆者]

オッディ枢機卿

1990年3月17日にオッディ枢機卿は雑誌 Il Sabato の中でイタリア人ジャーナリスト、ルチオ・ブルネッリに次の証言を与えた:

それ[第三の秘密]はゴルバチョフとは何の関係もありません。祝せられたおとめはわれわれに教会における背教に対して警告しておられるのです。

チアッピ枢機卿

これらの証言にわれわれはマリオ・ルイジ・チアッピ枢機卿の証言を加えなければならない。彼は他ならず教皇ヨハネ・パウロ二世自身の個人的教皇つき神学者であった。ザルツブルグのバウムガルトナー教授に対する個人的な文通の中でチアッピ枢機卿はこう明らかにされた:

第三の秘密の中では、他のこともいろいろありますが、教会における大背教が頂点で始まるであろうということが予告されています。注27)

これらの証言のすべては -- 単に上に引用したフエンテス神父に対してばかりでなく、他の多くの信頼のおける証人たちに対して -- シスター・ルチア自身が繰り返し述べた見解と一致している。第三の秘密の正確な内容に関する守秘義務に縛られてはいるけれども、信頼できる証人たちに対してなされた彼女の意見は「誤った教義によって騙されている」教会人たち、教会において「責任ある地位を占めている非常に多くの人々」を苦しめている「悪魔的な方向感覚喪失」、「悪魔が善の覆いの下に悪を潜り込ませ、彼らが占めている地位を通じて重い責任を持っている霊魂たちを誤謬へ導き、欺くことに成功した。...彼らは盲目の人々を導く盲目の人々である」がゆえに、「そのように欺かれ、誤り導かれた司祭たちや修道者たちの霊魂」への言及に満ちている。注28)

ピオ十二世は秘密の[中での]背教の予告を確証しておられる

しかしおそらくこの点に関するすべての証言の中でも最も注目すべき証言は、間接的な関連を持つものではあるけれども、教皇ピオ十二世になられる前、教皇ピオ十一世の在位の間バチカン国務省長官としてまだ奉職されていた間の、モンシニョール・エウジェニオ・パチェッリの証言である。シスター・ルチアが第三の秘密を紙に書き下ろす以前に話しながら、未来の教皇ピオ十二世は教会における来るべき激動についての驚くべき預言をされた:

私はファチマのルチアへの祝せられたおとめのメッセージのことを心配している。教会を脅かしている諸々の危険についてのマリアのこの固執は教会の典礼、教会の神学、そして教会の魂における信仰を変える自殺行為に対する神の警告である...私は私の周りすべてで聖なる聖堂を解体し、教会の普遍的な炎を消滅させ、その装飾を拒否し、そして教会の歴史的過去のために教会に罪悪感を感じさせることを望む革新者たちの声を聞く。

教皇ピオ十二世の伝記作者、モンシニョール・ロッシュは、会話におけるこの瞬間に、ゲレアッチ伯爵によれば、「教皇の眼鏡のレンズを通して見たその視線は超自然的となった。そして彼の背の高いすらりとした身体からは抵抗しがたい神秘的な力が発散した」と述べた。ピオ十二世はそのとき(ある教皇庁の枢機卿からの反対に答えて)こう言われた:

文明化された世界がその神を拒否する日、ペトロが疑ったように教会が疑う日が来るであろう。教会は人間が神となったと信じるよう誘惑されるであろう。われわれの教会の中でキリスト者たちは神がそこで彼らを待っておられる赤いランプを探すが無駄であろう。空の墓の前で泣いているマグダラのマリアのように、彼らはこう尋ねるであろう:「彼らは主をどこに連れて行ったのか?」と。註29)

未来の教皇が教会における来るべき荒廃についてのこの明らかに超自然的な直観を「ファチマのルチアへの祝せられたおとめ」と「教会を脅かす諸々の危険についてのマリアのこの固執」にはっきりと関係づけておられるということはまったく注目すべきことである。その予告は、もしそれが偉大な秘密の最初の二つの部分に基づいていたとしたならば、まったく無意味であったろう。その部分は「教会の典礼、教会の神学そして教会の魂における信仰を変えるという自殺行為」あるいは「聖なる聖堂を解体し、教会の普遍的な炎を消滅させ、その装飾を拒否し、そして教会の歴史的過去のために教会に罪悪感を感じさせることを望む革新者たち」というようなそのような事柄には何ら言及していない。また、秘密の最初の二つの部分には「われわれの教会の中でキリスト者たちは神がそこで彼らを待っておられる赤いランプを探すが無駄であろう」という何らの指摘もない。

未来の教皇ピオ十二世はどのようにしてこれらの事柄を知られたのか? もし超自然的な直観によってではないとすれば、そのとき、「ファチマのルチアに対する祝せられたおとめのメッセージ」のこれまで公開されていないある部分が教会におけるこれらの未来の出来事を明らかにしたのである。

簡潔に言えば、1944年から少なくとも1984年(ラッツィンガー・インタビューの年)まで、第三の秘密の内容に関連するあらゆる個々の証言は、それがそのように長い間教会に反抗して勢揃いした諸々の勢力に有利な躍進を象徴する教会における信仰と規律の破局的な喪失 -- 未来の教皇ピオ十二世が、「私の周りのすべての者が」聖なる聖堂の解体と典礼およびカトリック神学における変化を声高に要求するのを聞かれた「革新者たち」を指し示しているということを確証している。

後に示すであろうように、その躍進は1960年、(シスター・ルチアが強調したように)秘密の第三部が明らかにされるべきであったまさにその年に始まった。しかし、われわれがそれについて話している大きな犯罪が始まったあの運命を決する年に戻る前に、われわれはまずその犯罪に先行した動機を論じなければならない。これがわれわれがこれからしようとしていることである。

脚注

1. The Whole Truth about Fatima - Volume III: The Third Secret,(English Translation, Immaculate Heart Publications, Buffalo, NY, 1990)p. 47.

2. Ibid.

3. Father Joaquin Alonso, La Verdad sobre el Secreto de Fatima,(Centro Mariano, Madrid, Spain, 1976)p. 60. See also Frère Michel, The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 651.

4. The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 725.

5. Ibid., p. 727.

6. Frère François de Marie des Anges, Fatima: Tragedy and Triumph,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1994)p. 45.

7. The Whole Truth about Fatima - Vol. III , p. 480.

8. Ibid ., p. 481.

9. Ibid., p. 626.

10. Fatima, Tragedy and Triumph, p. 45.

11. Brother Michael of the Holy Trinity, The Secret of Fatima ... Revealed,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A.)p. 7.

12. Revue Mediatrice et Reine, October 1946, pp. 110-112. See also The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 470.

13. Father Alonso, La Verdad sobre el Secreto de Fatima, pp. 46-47. See also The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 470.

14. Barthas, Fatima, merveille du XXe siècle, p. 83. Fatima-editions, 1952. It must be noted that Canon Barthas published this account after having the privilege of meeting Sister Lucy again, on October 15, 1950 in the company of Msgr. Bryant, O.M.I., vicar apostolic of Athabasca-Mackenzie. See The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 472.

15. Novidades, February 24, 1960, quoted by La Documentation Catholique, June 19, 1960, col. 751. See also The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 472.

16. Father Alonso, La Verdad sobre el Secreto de Fatima, p. 46. See also The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 475.

17. Father Alonso, La Verdad sobre el Secreto de Fatima, p. 46. See also The Whole Truth about Fatima - Vol. III , p. 478.

18. The Whole Truth about Fatima - Vol. III, pp. 578-579.

19. Fatima, Tragedy and Triumph, p. 45.

20. The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 710.

21. English translation of Sister Lucy interview with Father Fuentes taken from Frère Michel's The Whole Truth about Fatima - Volume III, pp. 503 to 508. Frère Michel explains that the text comes from Fatima scholar Father Joaquin Alonso's, La Verdad sobre el Secreto de Fatima (pp. 103-106). The interview of Sister Lucy with Father Fuentes was published with the Imprimatur of Archbishop Sanchez of Veracruz, Mexico.

22. The Whole Truth about Fatima - Vol. III, p. 704.

23. Ibid., p. 687.

24. Ibid., pp. 705-706.

25. Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima - Volume III, pp. 822-823. See also Jesus magazine, November 11, 1984, p. 79. See also The Fatima Crusader, Issue 37, Summer 1991, p. 7.

26. Fatima, Tragedy and Triumph, pp. 243-244. See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima - Volume III, p. 676.

27. See Father Gerard Mura, “The Third Secret of Fatima: Has It Been Completely Revealed?”, the periodical Catholic,(published by the Transalpine Redemptorists, Orkney Isles, Scotland, Great Britain)March 2002.

28. These quotations are condensed from numerous letters Sister Lucy wrote in the early 1970's to two of her nephews who were priests, and to other religious she knew. See The Whole Truth about Fatima - Vol. III, pp. 754-758.

29. Roche, Pie XII Devant L'Histoire, pp. 52-53.

2005/04/28 三上 茂 試訳

目次

作成日:2005/04/28

最終更新日:2005/04/28

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