ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

第7章 要塞の爆破

教会の最悪の敵どもが公会議とそれが導入した急進的な諸変化に非常に喜んだことは驚くに当たらない。彼らがまた、第二バチカン公会議に続いてあらゆる部門での突然のそして破局的な教会の崩壊にすっかり喜んだことも疑いない。あらゆる利用可能な統計は第二バチカン公会議によって導入された前例のない諸変化が司祭や修道者の数、新しい叙階者の数、神学生の数そして回心と洗礼の数における同様に前例のない低下を伴ったということを示している。第二バチカン公会議の直後、およそ5万人の司祭たちが[司祭職から]離反した。そして今日、31年前にいたよりも少ないおよそ5万人のカトリック司祭が残っている。合衆国においては1997年には1970年に存在したよりも少ない洗礼しかない。注1)

ラッツィンガー枢機卿でさえ、「公会議の要求に基づいて大部分進んできた衰退の連続的な過程について語った。そしてこのように多くの人々の観点において公会議を信用していなかった。」注2)にもかかわらず、ラッツィンガー枢機卿はこの総崩れを主宰した他の人々と並んで -- 十分信じられないことであるが -- われわれは同じものをもっと多く、第二バチカン公会議の新しい方向づけのもっと多くを必要とする、と主張するのである:

このことは公会議それ自体が無効にされなければならないということを意味するのか? 確かにそうではない。それはただ公会議の真の受容がまだ始まってさえいないということを意味するにすぎない。公会議の後に教会を荒廃させたものは公会議ではなくて、それを受け入れることを拒否したことであった...それゆえに、仕事は公会議を抑圧することではなくて、真の公会議を発見しそして現在の経験の光に照らしてその真の意図を深めることである。注3)

さらに先へとさえ進み、そして彼の権威として教会のためにこの大災難を産み出すことを助けた非常にネオ近代主義的な神学者たちの一人を引用しながら、ラッツィンガー枢機卿はこう宣言した:

事実は、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールが1952年の早い時期に指摘したように、教会がこれまで教会にとっての安全を意味してきた事柄の多くを捨てなければならないということであり、教会はそれを当然のことと考えたということである。教会は長年続いている要塞を爆破しなければならない。そしてただ信仰の盾だけを信頼しなければならない。注4)

教会における「長年続いた要塞の爆破」という枢機卿の要求はおそらく第二バチカン公会議によってもたらされた革命的な新しい方向づけに関するすべてのものの最も破滅的な容認である。なぜなら、もし教会の敵どもに対するその伝統的な防御 -- 枢機卿自身が見下すように、「これまで教会にとっての安全を意味してきた事柄、そしてそれを当然のことと考えた事柄の多く」として記述しているもの -- でないとすれば、枢機卿は「長年続いている要塞」によって何を意味することができたであろうか? 枢機卿は彼が、教会に安全を与えているまさにその事柄を爆破することを望んでいるということを認めている!教会は、枢機卿の奇妙なものの見方によれば、「ただ信仰の盾にのみ」信頼しなければならない。しかしそれはどんな意味なのか? カトリック教徒は、もし信仰が、枢機卿が爆破することを望んでいるまさにその要塞によって安全を保たれなければ、どのようにして彼らの信仰にしがみつくことができるのか?

この「要塞の爆破」のための彼の権威として「新しい神学者」ハンス・ウルス・フォン・バルタザールを引用することによって、枢機卿自身は、カトリック教徒が信じなければならない諸真理のその明白で正確な諸定義と共に、教会の伝統的な神学を解体するその計画における「新しい神学」を祝福している。教会の「長年続いている要塞」を破壊することへの枢機卿の呼びかけのうちに、われわれは明瞭に、ただ「破壊する欲求」とのみ呼び得るものを見る。その文言は Animus Delendi (「破壊する欲求」に当たるラテン語)と題されたカトリック作家アティラ・シンケ・グイマリャエスによる書物から取られている。グイマリャエスは公会議および公会議後の教会の「改革者たち」が「古い」教会の破壊を「現代世界」における教会の「成長と刷新」のために「悲劇的であるが必要」と見ている一つのメンタリティによって動機づけられているということを示している。

「要塞は」どのように爆破されるべきであるか? 聖母は信仰の教義はポルトガルにおいては保たれるでしょうと言っておられる。もろもろの教義はそれら自身教会の要塞である。明らかに、そのとき、要塞の爆破は、掘り崩しを行っているネオ近代主義的な「新しい神学者たち」によって諸々の教義に口先だけのお世辞は言われているとしても、教義的な諸々の決定の掘り崩しを含むであろう。諸々の教義は以下の仕方で掘り崩され得る:1)単にそれらを無視する、そうするとそれらはすべての実践的な目的のために存在することを止めるであろう。2)明白な用語を曖昧な用語と置き換える -- 例えば、「である」を「に内在する」と置き換える。3)バラマンド宣言において、また前章で引用した高い地位にある教会人たちのさまざまの所見においてのように、教義を「時代遅れの神学」として退ける。4)まさにそれらが書かれているような、カトリック教徒が信じなければならない不可謬的な教義的決定のようなそのようなものは存在しないと言い張る。そして5)教会の外にはいかなる救いもないという教義に関係するところでは、単純に、「信じる人々」あるいは「キリスト教徒」として絶えず非カトリック者たちに言及する。

ラッツィンガー枢機卿のような「改革者たち」の見解では、爆破されなければならない要塞とは厳密に何であろうか? われわれは、教皇ピオ十二世が教会における来るべき危機についてその霊感を受けた論評において正確に予告されたことをもう一度思い起こす:

私はファチマのルチアへの祝せられたおとめ[マリア]のメッセージによって当惑している。教会を脅かしている諸々の危険についてのマリアのこの固執は、教会の典礼その神学そしてそのにおける信仰を変える自殺に対する神の警告である...私は私の周り全部で、聖なる聖堂の設備を取り除き、教会の普遍的な炎を滅ぼし、教会の装飾を拒絶し、そして教会の過去に対して自責の念を感じさせることを望む革新者たちの声を聴く。

教皇ピオ十二世は「革新者たち」が変えようと望んでいる教会の三つの要素を認定された:すなわち、教会の典礼、教会の神学そして教会の魂(すなわち、教会のまさに本性そのもの)である。教皇ピオ十二世が、彼自身ファチマ・メッセージに基づきながら、ならびに彼が当時の教会において個人的に目撃されたことに基づきながら、教会におけるこれらの事柄を取り除き、破壊し、拒絶する来るべき試みについて話されたということに注意せよ。換言すれば、それは「要塞の爆破」なのである。

典礼の爆破

第二バチカン公会議の前には、諸教皇は、教皇ヨハネ二十三世を含んでさえ、教皇ピオ十二世が典礼に関するその記念碑的な回勅 Mediator Dei において教えられたように、不変のラテン語が異端に対する障壁であることを認めながら、一致して刷新に対して教会の古いラテン語典礼を擁護された。実際、十六世紀のプロテスタント「改革者たち」が、ラテン語の伝統的カトリックのミサ、少なくとも四世紀(そしておそらくそれより以前)から1969年の教皇パウロ六世の典礼「改革」まで教会の生命の中心であったダマスス・グレゴリオ典礼ほど憎んだものは他になかった。

1,500年以上も続いている伝統的なミサを抑圧し、それを自国語のミサの新たにでっち上げた典礼と置き換えるという決定 -- 彼の先任者たちが絶対に考えられないと見なしたであろうまったく前例のない行為 -- についての教皇パウロ六世の説明においてよりももっと明白に破壊の欲求、要塞の爆破の欲求を見ることができるところはどこにもない。

最大の新しさ、言語の新しさが注目されようとしているのはここである。ミサの主たる言語はもはやラテン語ではなくて、話し言葉である。自国語の導入は確かにラテン語の美しさ、力そして表現に富む聖式の言葉を知っている人々にとっては一つの大きな犠牲であろう。われわれはキリスト教的諸世紀の言語を手放そうとしているのである。われわれは聖なる言葉の保護区への不敬な侵入者のような者になりつつある。われわれはあの並はずれたそして比類のない芸術的および霊的なもの一つの偉大な部分、グレゴリオ聖歌を失うであろう。われわれは後悔の理由、ほとんど狼狽の理由を持っている。われわれは天使たちのあの言語の場所に何を置くことができるのか? われわれは値踏みのできない価値を持った何かあるものを放棄しつつある。なぜか? われわれの教会の諸々の価値のうちでもこれらの最も高尚なものよりも貴重なものが何かあろうか? 

実際、「われわれの教会の諸々の価値のうちでもこれらの最も高尚なもの」よりも貴重なものが何かあろうか? 教皇パウロ六世に従えば、もっと貴重なものは、「近代人」への訴えであった。教皇は彼らを、たとえその同じミサ典礼書がラテン語と並んで自国語の翻訳を含んでいたとしても、ローマミサ典礼書の中のラテン語の祈りを理解できないほどに頭の鈍い者たちと見なしたのであった。教皇パウロ六世は彼自身の問いに次のように答えることによってこう続けた:

その答は平凡である、ほとんど想像力に欠けるものと思われるであろう。にもかかわらず、それは一つのすぐれた答えである。なぜなら、それは人間的であり、使徒的であるからである。祈りの理解はそれがそのうちにすばらしく纏われている絹の衣服よりも重要である。人々による参加 -- 特に容易に理解され、日常言語に変えられる平易な言語を非常に好む近代人による参加 -- はより価値がある。注5)

教皇パウロ六世の演説は公会議以来全教会に起こってきたことの青写真である。公会議のそして公会議後の諸々の変化 -- 教会史においてすべて前例のない -- は単に聖なる典礼においてばかりでなく、教会の永遠の教えにおいて、値踏みのできない価値を持つあるものを滅ぼし、何世紀にもわたって続いてきた要塞を爆破するために働いている不敬な侵入者たちの仕事である。公会議の主要な発起人たちが初めからずっと破壊を計画していたがゆえに、第二バチカン公会議が前例のない破壊を引き起こしたことは偶然ではない。

神学の爆破

オッセルヴァトーレ・ロマーノの1946年12月19日号において、教皇ピオ十二世は(シュニュやド・リュバックのような近代主義者たちの異端的な理論をターゲットにしながら)「新神学」として吹聴されていたことは最後には信仰を掘り崩すことに終わるであろうと警告された:

「新神学」についての多くの議論(しかし必要な概念の明瞭性なしの)がある。それは、決してその終極に達することなく、流動と運動の絶えざる状態にある世間における他のすべての事柄の例に従って、絶えざる変形のうちになければならない。もしわれわれがそのような見解を受け入れなければならないとするならば、カトリック信仰の不変の諸々の教義はどうなるであろうか、そして信仰の統一と安定性はどうなるであろうか? 注6)

われわれが見たように、教皇ヨハネ二十三世は教皇ピオ十二世の警告を無視した。第二バチカン公会議においてヨハネ教皇は教皇ピオ十二世の在位の間異端の嫌疑の下にいた「新神学」のまさに擁護者たちの名誉回復を行った。モンシニョール・バンダスの証言を思い起こすならば:「明らかに善良なヨハネ教皇はこれらの嫌疑をかけられた神学者たちが彼らの考えを正し、教会に対して真正の奉仕を遂行すると考えられたのだ。しかしまさにその正反対のことが起こった...大きな混乱が進行中であった。すでに、トレント公会議も第一バチカン公会議もいかなる回勅もその進行を遅らせることは許されないであろう。

ところで、教会に対する「新神学」の諸結果は何であったのか? 今日、第二バチカン公会議の名において、われわれはこう告げられている --

手短に言えば、ネオ近代主義、フリーメーソンおよび共産主義のキャンプにおける教会の敵どもは彼らの神学的な夢が大きく実現したのを見たのである。

教会の魂の爆破

未来の教皇ピオ十二世は、ファチマのメッセージの光に照らして、単に教会の典礼と神学だけでなく、教会のまさに魂 -- 教会がそれであるところのもの -- を変える来るべき試みを予告したとき、無駄に話していたのではなかった。もちろん、この計画は決して完全に成功することはできない。なぜならば、われらの主は地獄の門は御自分の教会に勝つことはないと約束なさったからである。しかしこの神の御約束は、最終的な死を除いて、教会の敵どもからの最大限可能な傷に苦しむ教会の人間的要素を排除しない。特にファチマの諸々の預言の光に照らして、教皇ピオ十二世にそのように警告を与えたのは、教会に対するそのように重大な傷の予想であった。

そして実際、教皇ピオの最悪の恐れは公会議後の時期に実現されてきた。そこではわれわれは、その外では誰一人救われない救いの唯一の箱船[訳者注=カトリック教会]から、一つのユートピア的な「愛の文明」を建設することにおいて他の「諸教会や教会共同体」、非キリスト教的諸宗教、そして無神論者たちさえとの単なる協力者へと教会を変える一つの試みを目撃してきたのである。この「愛の文明」において、地獄 -- それはもはや言及されない -- からの霊魂たちの救いは一つの新しい形の「救い」:すなわち、世界「兄弟愛」と世界「平和」を通じての救い、によって取って代わられる。これはフリーメーソンが過去三世紀にわたって促進してきたまさにその考え方である。

「人間の兄弟愛」(一つの世俗的、非キリスト教的意味において理解された)を通じての救いというフリーメーソンの考え方に一致して、多くのカトリック教会人は今やわれわれに、「エキュメニカルな対話」と「キリスト教的一致の探求」においてさまざまのプロテスタントたちや諸々の分離派を尊敬しなければならないと告げている。この新しい考え方に一致して、「すべてのキリスト教徒たち」の間にあると考えられている「部分的コンミュニオン」を証明するためにカトリック教徒たち、プロテスタントたちそして分離派の諸々の正教会の間での共同エキュメニカル「諸典礼」が存在する。確かに、カトリック教会の新しい方向づけの実行者たちは、カトリック教会がすべての諸教会のうちで最も完全であるということをなお許しているが、しかし、他のすべての諸教会を完全に排除してカトリック教会が唯一の真の教会であるという主張は、忠実なカトリック教徒の残りの者を除いて、すべての人々によって事実上放棄された。残りの者たちは1965年以前にはカトリック教徒が常に信じていたことを単純に信じているという理由で「融通がきかない偏狭な人々」そして「公会議前の人間」と考えられている。

しかし「キリスト教的一致」は世界兄弟愛における汎宗教的一致へ向けての単なる一歩にしかすぎない。同時に「キリスト教的一致」は、公会議前の諸教皇が神聖冒涜と見なしたであろう汎キリスト教的諸活動によって推進されている。「諸宗教間の対話」は非キリスト教的諸宗教 -- その信奉者たちはもはや彼らの霊魂を救うために信仰や洗礼を必要とする者とは見なされていない -- の「価値」に対して教会をより「開かれたもの」とした。カール・ラーナーの「無名のキリスト教」-- それはどの宗教のであれその真摯な信奉者たちは、それを知ることさえなしに、「キリスト教徒たち」であり得るし、そしておそらくそうであると主張する -- は事実上教会の神学となった。それに応じて、その中ですべての諸宗教のメンバーたちが、彼らは洗礼、キリストに対する信仰そしてキリストの教会への加入なしには地獄に落ちる危険にあるのだということを彼らのうちのだれ一人告げられることなく、人類家族のメンバーとして平和のために祈り、彼らの「一致」を証明するために一緒に集まる汎宗教的祈りの集いが存在することになろう。「改革された」聖金曜日の典礼においては、カトリック教徒たちは(教会の典礼の歴史において初めて)彼らの霊魂の救いのための一つの必要な段階としての非カトリック教徒たちのカトリック教会への回心のためにもはや公的にそして明白に祈らない。

誰もが見ることができるように、キリストの社会的王権の「愛の文明」との置き換えはカトリック教会を完全に無力なものとした。カトリック教会はその神である創設者によってそうであるべきと意図されたような世界の道徳的、霊的な中心としての役目をもはや果たさないのである。

教会のこの新しい方向付けを進めた進歩主義的神学者たちは今やカトリック平信徒および聖職者のほとんど二世代を形成した。ラーナー、キュング、シッレベークス、コンガル、ド・リュバック、フォン・バルタザール、そして彼らの弟子たちの著作は今やカトリックの神学校および大学の教科書を支配している。過去35年の間、これらの人々の進歩主義的教義は司祭、修道者、神学者そしてカトリック大学生のための主要な形成として役立ってきた。このようにして、われわれは今や、高位聖職者たちが、例えば、列聖された聖人であり教会博士である聖ロベルト・ベラルミンや偉大な博士であり教会史における偉大な諸聖人の一人である聖トマス・アクィナスの神学よりもラーナーの神学の方を好む段階に達したのである。ベラルミンやアクィナスの教え -- 実際、第二バチカン公会議以前のすべての教皇たちの教え -- はただ、ラーナーや他の「新しい神学者たち」によってそれに与えられたひねりと一致してのみ受け入れられる傾向にある。同じことはカトリック大学および神学校におけるほとんどの教授たちについて真である。

教会のまさに魂そのものそして神学を変えようとする試みのこの過程は、教皇ピオ十二世が恐れたように、単に「エキュメニカルな冒険」や「諸宗教間対話」を含んでいたばかりでなく、また神の啓示の唯一の保管場所であると主張することにおける教会の過去の「勝利主義」、他の「キリスト教徒たち」および他の諸文化に対する教会の亡くなったメンバーたちのそうだと考えられた罪に対する高い地位あるいは低い地位のカトリック教会人たちからの際限のない一連の謝罪をも含んでいた。これはまさに、教皇ピオ十二世が、「教会の歴史的過去に対して教会に自責の念を感じさせ」ようとするであろう革新者たちについて語ったときに、予告されたそのことであった。

敵の諸々の予告が実現された

われわれは今や、われわれが公会議後の教会のうちに起こっているのを見てきたものとフリーメーソン(グレイバー司教によって多く引用された、ロカやさまざまのフリーメーソンたち、そして永遠の教えによって明らかにされたような)および共産主義(ベラ・ドッドや他の共産党脱党者たちによって証言されたような)の両者の目標との間の密接な一致を次のように要約する:

そしてこれらの展開のすべては未来の教皇ピオ十二世によって、彼がとりわけ「ファチマのルチアに対する祝せられたおとめ[マリア]」そして「教会を脅かしている諸々の危険についてのマリアのこの固執」に関係づけた所見において予告された。

教会の受難

このように、われらの聖なる教会が現在苦しんでいる受難は実際何ら大きな説明不可能なことではない。過去の諸教皇を向こう見ずに無視することによって、誤謬の断罪を放棄することによって、嫌疑をかけられた神学者たちを「復権させ」そして彼らを教会の英雄とすることによって、禁書目録および聖省を廃止することによって、異端に対する障壁であった伝統的なカトリック典礼を廃止することによって、福者ピオ九世の反リベラルの教えおよび聖ピオ十世の反近代主義の教えを「一方的」かつ「時代遅れ」と宣言することによって -- 手短に言って、教会からそのほとんどすべての防御を容赦なくそして組織的に奪うことによって-- われわれの現在の教会指導者たちは、かつて教会を侵入と堕落から護っていたほとんどすべての要塞を爆破したのであり、このようにして、われわれが今スキャンダル、堕落、不従順そして信仰の喪失において崩壊しているのを見ることができる一つの譲歩した構造を産み出しているのである。

にもかかわらず、われわれの教会指導者たちは、教会のこの承認された侵略と自己破壊に対して責任がある変化の破滅的な過程はエンジン全開で続けられるべきだと主張し続けている。これがまさに、ラッツィンガー枢機卿が第二バチカン公会議後何年も経って、教会は「長年続いている要塞を爆破しなければならない」注8)と宣言した理由である。

われわれがすでに論証したように、このすべてのことは教会の敵どもによって予告されていた。グレイバー司教は、フリーメーソンたちがそうすることに間もなく成功するであろうことについての彼ら自身の予告に照らして公会議後の危機について論評しながら、こう宣言した:

[フリーメーソンたち、その他の人々による]これらの明らかな是認に直面して、もしある人がなお、[第二バチカン公会議以来の]教会における諸々の出来事は、そのうちに自発的に消え失せる周辺的な現象あるいは過渡期の諸困難であるという意見にしがみつくならば、その人は見込みがない。もし教会における指導的な人々がこれらの問題に専念しないで、あらゆることはここかしこをつぎはぎすることによって修復され得ると考えるならば、彼らの責任はそれだけ余計にますます大きい。注9)

しかしわれわれの訴訟の対象であるのはまさにこれらの「教会の指導的人物たち」である。しかしわれわれはもう一度、エキュメニズムのような新奇な実践を促進しているすべての教会人が教会の敵として意識的に行動していると主張しているのではないということを急いで付け加える。十九世紀の有名な司祭、フレデリック・フェイバー神父はロンドン・オラトリーで1861年聖霊降臨の日に説教した有名な説教においてこう言ったとき、真の預言者であった:

もしすべての明白に善良な人々が一方の側におり、そしてすべての明白に悪い人々がもう一方の側にいるならば、誰かが嘘をつく奇跡によって欺かれるという危険はないであろうし、選ばれた人々は特にそういうことはないということをわれわれは思い起こさなければならない。アンチ・キリストの働きを行い、そして非常に悲しいことに主を新たに十字架にかけるはずの人は善良な人々、かつて善良であった人々、われわれがなお善良であることを希望しなければならない人々である...この欺きが悪い側にいる善良な人々から起こるという、最後の日々のこの特徴を心に留めておきなさい注10)

われわれが続いて証明するであろうように、われわれが関心を持っている人々はその悪い側にいる。かれらの新しい方向づけの押しつけを通じてカトリック教会における「要塞の爆破」において -- あるいはラッツィンガー枢機卿がフランス革命によって始められた「新しい時代」との公会議の「公式の和解の試み」と呼ぶもの -- において、彼らは必然的にファチマのメッセージに反対して立った。なぜなら、汚れなき御心へのロシアの奉献、その結果としてのロシアのカトリック信仰への回心、そして一つのカトリック社会秩序における世界中の汚れなき御心の栄光ある勝利というおとめマリアの要求よりもより完全にカトリック的であるもの、「新時代」の精神により反対であるもの、公会議のエキュメニズムにより敵対的であるもの、カトリックの要塞の破壊により反対するもの、は何もないからである。

ファチマのメッセージ:最後の要塞

これまでにわれわれが言ってきたことから、ファチマのメッセージはその真のカトリック的な完全さにおいて、「要塞の爆破」を通じて「破壊する欲求」をもつ人々によってわれわれに押しつけられた教会の新しいビジョンとは共存することができないということが明らかとなるはずである。この破壊はまさに、第二バチカン公会議の aggiornamento[現代化]の広範な計画がファチマ・メッセージの全体に行き渡るカトリック諸真理に反しているがゆえに起こった。

聖母は教会における要塞を爆破するためにファチマに来られたのではなかった。むしろ教会のメンバーたちに来るべき危機において教会の要塞を擁護するよう忠告するために来られた。聖母は「エキュメニズム」あるいは「諸宗教間の対話」を説かれなかった。教会の外にはいかなる救いも存在しないという教会の不変の教えを説かれた。聖母は、ファチマへ来られたとき、われわれに「新神学」をお与えにならなかった。また聖母は教導権の不変の教えとどんな仕方でも対立するであろう教義の「新しい理解」をわれわれにお与えににならなかった。

われわれはファチマのメッセージのうちに何を見るか? われわれは強化されたわれわれの信仰の主要な諸教説、われわれの時代において最も恐るべき攻撃にさらされてきたまさにそれらの教説を見る。注11)神の御母がファチマに来られたとき --

一つの動機が明瞭に暴露される

結論的に言えば、教会の新しい方向づけを揺るぎなく追求している人々にとって、ファチマのメッセージはただ爆破されなければならないもう一つの要塞を意味することができるだけである。それが、教皇ピオ十二世がその預言的な所見において明らかにされたように、シスター・ルチアに対するおとめ[マリア]のメッセージが「教会を脅かす諸々の危険」に関わっている理由である。それは、われわれがこれまでに見ることを許されたファチマのメッセージのあれらの部分において明らかにされていないけれども、教皇ピオ十二世は「教会の典礼、神学そして教会の魂における信仰の変更」を通じて教会に重大な損害をもたらすであろう「私の周り全部の革新者たち」についてのファチマでの「一つの神の警告」について語られた。

われわれは今やこの書物の主題である犯罪の動機が明瞭に暴露されているのを見る。第二バチカン公会議によって導入された「新しい」教会とファチマのメッセージによって代表されるものとしてのすべての時代の教会との間には一つの基本的な対立が存在する。ファチマのメッセージは、瓦礫の上に一つの新しい、より「啓蒙された」教会を建てることができるように、古い教会の要塞をブルドーザーでならす決心をした人々の道における天上の路上バリケードである。

教会についてのこれら二つの競争するビジョン -- 「新しい」教会のビジョンとファチマで見られるようなすべての時代の教会のビジョン -- は共存することはできない。一つのビジョンは他のビジョンを屈服させなければならない。この書物の対象である人々は(明白にあるいは暗黙の裡に)教会についてのどちらのビジョンが、彼らの思考の仕方のためん、支配しなければならないかに関して彼らの選択を行った。彼らは新しいビジョン -- メッツと第二バチカン公会議で始まった教会の新しい方向づけ -- を選択した。その選択のうちに彼らの動機があり、そしてその動機のうちにファチマのメッセージに対する彼らのそれ以外には説明不可能な諸々の行動についてのわれわれの理解が存する。

しばらくの間、この新しい方向づけの立案者たち -- 彼らはわれわれが提示した陳述の中で自分たち自身のために語っている -- の主観的動機の問題を脇へ置くとしても、客観的に彼らの諸々の行動が教会にとって恥ずべきものであり、自殺的(もちろん相対的な意味で)であり、また数百万の霊魂にとって有害であるということは否定され得ない。このように、彼らの行動は犯人たちが主観的に何を意図していようとも、一つの犯罪を構成する。なぜなら、人は意識的に害悪を意図することなしに向こう見ずあるいは咎めるべき怠慢を通じて犯罪を犯すことができるからである。なぜなら、誰かある人を殺すことが正しいと真面目に信じている人がそれにもかかわらず殺人の罪を犯しているのと同じように、教会に危害を及ぼした人々は -- 最善の意図を持ってであったとしても -- 教会に対する犯罪を犯す者たちであるからである。法律が他者に損害を引き起こす明確な意図と呼ぶものと、たとえ人が主観的に損害を意図していないとしても、損害を引き起こすであろうということを人が知るべき行為をする一般的意図との間には区別がある。換言すれば、法律はその行為を犯すことよりもっとよく知るべきであった人によって犯された意図的な行為を罰するのである。

この災難に対して責任を負っている人々にとって、それは「啓蒙」の一つの誤った指導を受けた意味 -- 「善の装いの下で悪を行うこと」あるいはシスター・ルチア自身の言葉を用いるならば、教会のリーダーシップにおける「悪魔的な方向感覚逸脱」であろう。これらの人々について言えば、それは、イエズスが福音書(マテオ 15;:14)において「盲人を導く盲人」と言われたことに言及しながら、シスター・ルチアが言ったように、「他の盲目の人々を導く盲目の人々」の場合である。それはまた自分たちが盲人であるということを認めるのを拒否している盲人の場合でもある。これらの人々のある者たちは実際、たとえそれが明らかに破壊的なものであるとしても、教会にとって自分たちがしていることは最善であると確信していた。

いずれにせよ、われわれは被告人たちが、客観的に言うならば、ファチマの真正のメッセージの実現を挫く紛れもない陰謀への彼らの参加を通じて教会と世界に対して一つの恐るべき犯罪に責任があるということを示すつもりである。神が彼らの霊魂の審判者であられるように。しかしながら、彼らの客観的な言葉と行動は歴史の外的な裁判所において彼ら自身を裁いている。

その上、これらの人々の行動は、彼らが公然と、「時代遅れ」あるいは「現代的」思考様式と「新神学」に一致して「正された」と宣言した(われわれが示したように)教会自身の不可謬の教えの光によって判断され得る。不可謬の教えからのこの逸脱の諸結果は、教会の現在の状況が誰にも証明したであろうように、悪い。カトリック教徒は、ただ単に権威にある何人かの人物がそれは善であると言い張るがゆえにそれは善であると言い張るよりはむしろ、彼らがそれを見るとき悪を悪であると判断しなければならない。「悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ人々は禍いである...」(イザヤ 5:20)。

われわれは、今やわれわれが確立した動機がどのようにファチマのメッセージをこれを最後にきっぱりと葬り去ろうとするバチカン当局による最近の努力を活気づけたかを検討するであろう。

1950年代の終わり、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールはそのように教義的に不健全であると考えられていたので、スイス司教団は彼が第二バチカン公会議で神学の助言者であることを許さなかった。


脚注

1. See, e.g., statistical analysis of the priesthood in L'Osservatore Romano, 13/20 August 1997, and “The Index of Leading Catholic Indicators,” The Latin Mass, Winter 2000, presenting extensive data from the Vatican Statistical Yearbook of the Church and other standard reference works.

2. Cardinal Ratzinger, Principles of Catholic Theology, p. 391.

3. Ibid., p. 390.

4. Ibid., p. 391.

5. Audience Address of November 26, 1969.

6. Quoted from David Greenstock, “Thomism and the New Theology”, The Thomist, Oct. 1950.

7. For example see: “Joint Catholic-Lutheran Vespers at Vatican”, CWNews.com, November 13, 1999: “Archbishops G.H. Hammar and Jukka Paarma—the Lutheran primates of Sweden and Finland, respectively—and Bishops Anders Arborelius of Stockholm and Czeslaw Kozon of Copenhagen joined with the Holy Father for the Vespers service. Several other Lutheran bishops from the Scandinavian countries were present for the ceremony, including two female bishops.” Likewise, at the beginning of the Jubilee Year, Pope John Paul II opened the Holy Doors of Saint Paul Outside the Walls with Anglican Archbishop Carey and schismatic Metropolitan Athanasios. Representatives of 20 other false confessions attended the ecumenical ceremony. See “Non-Catholics Joining Pope in Rite”, Los Angeles Times, Jan. 19, 2000.

8. Cardinal Ratzinger, Principles of Catholic Theology, 1987.

9. Graber, Athanasius and the Church of Our Time, pp. 170-171.

10. Quote taken from The Mystical Body of Christ in the Modern World, Father Denis Fahey,(Regina Publications, Dublin, first printed in 1935)p. xi.

11. For further considerations on the fact that Our Lady of Fatima reinforced key Catholic doctrines that are denied today, see John Vennari, “A World View Based on Fatima”, The Fatima Crusader, Spring 2000, Issue 64.

12. See The Whole Truth about Fatima - Vol. III, pp. 754-758.

2005/05/23 三上 茂 試訳

目次

作成日:2005/05/23

最終更新日:2005/05/23

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