ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

1917年にロシアにおける共産主義革命の背後の悪の天才、ウラディーミル・レーニン。彼なしにはロシア革命は成功しなかったであろうということで歴史家たちは一致している。レーニン自身によれば、共産主義世界革命を確立し拡大するための基本的原理は(戦略的に用いられた)テロリズムの原理並びに「嘘は神聖である」という原理である。換言すれば、レーニンは共産党員(あるいは党員たち)が置かれているどのような状況においても嘘をつくことが共産主義革命を前進させる場合にはいつでも、レーニンに従えば、嘘をつくことが彼の神聖な義務である、と教えた。しかし人々は、もし党員#1によってつかれた第一の嘘が党員#2によってつかれた第二の嘘と一致しないならば、嘘をつかれていることを知ることができるがゆえに、レーニンは一般公衆に対して一貫したものであるように、すべての党員が繰り返す共通の嘘の必要性を提案した。その共通の嘘は「党路線」として知られている。このことは以下の章で詳しく説明される。そこでは、またファチマを滅ぼすためにカトリック教会の内部で用いられる「党路線」がどのように存在するかが説明される。

第8章 ファチマのメッセージ対党路線

第二バチカン公会議と共に始まった教会における突然の、前例のないそしてまったく劇的な諸変化の全般的な結果は何だったか? カトリックの著作家たちが述べたように、過去四十年にわたってカトリック教徒が目撃してきたことは、当時スターリン体制の諸要求に対するロシア正教会の「適応」と呼ばれたものにぞっとするほど類似したある種の「ローマ・カトリック教会のスターリン化」に相当している。

スターリンによる正教会の転覆は確かにファチマのおとめ[マリア]によって予見されていたロシアにおける展開の一つである。これがまさに聖母が御自分の汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるために来られた理由である。それはロシアが500年以上も前にキリストの神秘体を離れ、そしてそのようにしてスターリン主義への全体的な適応を避けることが憲法上できなかったとき、ローマに反対する人間的な反逆において創立された分離主義的正教会ではなくて、唯一の真の宗教、唯一の真の教会を抱擁するためであった。

正教会の適応はロシア正教会の主座司教セルギウスが1927年8月19日にイズヴェスチアにおいて「訴え」を公表したときに公式に始まった。セルギウスの訴えは、それが知られるようになったときに、ロシア正教会の活動の新しい基礎を説明した。ロシアの平信徒ボリス・タラントフはこれを「ソビエト社会主義共和国連邦の無神論的現実への適応」として記述した。換言すれば、教会は生きる道を見出さなければならなかった。それゆえ、議論は、スターリン主義のロシアの「無神論的現実」とともに進むのである。それゆえセルギウスは簡単に適応として知られるようになったものを提案したのである。

適応はまず第一に人間のいわゆる霊的必要、人間の純粋に宗教的必要と社会的・政治的必要との間の誤った分離から成っている。換言すれば、教会と国家との分離である。教会はソビエト連邦の市民たちの純粋に宗教的な必要を満足させなければならないが、しかし共産党によって建てられた社会的・政治的構造に触れてはならない。

適応はセルギウスの訴えが公表された後に取り決められたガイドラインに従ってロシアにおける教会の新しい行政を要求した。基本的にこれはスターリンの下でのソビエト連邦の公式的なイデオロギーを批判しない約束となった。そしてこれは教会のすべての活動において反映されるであろう。ソビエト体制に対するロシア正教会によるいかなる反対もこれからは純粋に宗教的な活動からの逸脱およびもはや許されあるいは支持されるべきでない反革命の形式と考えられるであろう。

事実上、正教会はその沈黙を通じてソビエト国家の片腕となった。実際、セルギウスはこの裏切りを擁護し、そしていわゆる反革命的諸活動のゆえに彼自身の仲間の正教会メンバーの断罪および強制収容所送付宣告を要求しさえするであろう。適応全体を非難したタラントフはそれを以下のように記述した:「現実の事実において、すべての宗教的活動は外的な儀式へと引き下げられた。適応を厳密に守った聖職者たちの教会説教は生活からまったく遠いものであり、そしてそれゆえに何であれ聴く者たちにいかなる影響をも及ぼさなかった。このことの結果として、信徒たちの知的、社会的および家庭生活、そして若い世代の教育は教会の影響の外部に留まった。人はキリストを礼拝し、同時に社会生活および家庭生活において嘘をつき、不正なことを行い、暴力を使い、そして地上の楽園を夢見ることはできない。」注1)

そこで、これが適応が含んでいたものである:すなわち、教会はスターリン体制の諸悪について沈黙するであろう。それは「抽象における」一つの純粋に「霊的な」共同体となるであろう、もはや体制に対しては反対の声を挙げないであろう、もはや共主義の諸々の誤謬や嘘を非難しないであろう、そして鉄のカーテンの背後のキリスト教がしばしばそう呼ばれたように、沈黙の教会となるであろう。

セルギウスの訴えはロシア・正教会の中に一つの分裂を引き起こした。適応を拒否し、訴えを公然と非難し、セルギウスよりもむしろ主座司教ヨゼフに固着し続けた真の信徒たちは逮捕され、強制収容所に送られた。ボリス・タラントフ自身、スターリン体制の政治犯として、最後には監獄で死ぬであろう。一方で、沈黙の教会は、実際には、KGB の一機関へと変形された。スターリンはロシア正教会の十人に一人を殺した。真の正教会信徒たちのすべては強制収容所へ送られるか、あるいは処刑され、またKGB 工作員たちによって取って代わられた。

ラッツィンガー枢機卿のような「改革者たち」の見解では、爆破されなければならない要塞とは厳密に何であろうか? われわれは、教皇ピオ十二世が教会における来るべき危機についてその霊感を受けた論評において正確に予告されたことをもう一度思い起こす:

タラントフは、1967年8月に死ぬ直前、適応について次のように書いた:

主座司教セルギウスによって植えつけられた無神論への適応は主座司教ニコディムおよび外国に根拠地を置くモスクワ主教の公式代表者たちの側でのロシア正教会の裏切りで終わり(それによって完成された)。引用された諸文書によって反駁出来ない仕方で証明されたこの裏切りはロシアおよび海外におけるすべての信徒たちに知らされなければならない。なぜなら、KGB との協力に依存する主教のそのような活動はすべての信徒にとって大きな危険を表すからである。実際、ロシア人民の無神論的指導者たちと教会の君主たちは主と主の教会に反対して一緒に集まったのである。注2)

ここで、タラントフはバチカンを勧めてバチカン・モスクワ協定を締結させたその同じ主座司教ニコディムに言及している。(われわれが第6章において示したように)その協定の下で、カトリック教会は第二バチカン公会議で共産主義について沈黙のままにとどまることを強いられたのである。このように、正教会を裏切った同じ正教会の高位聖職者がそれによってカトリック教会もまた裏切られた一つの協定において道具となったのである。第二バチカン公会議において、何人かのカトリックの教会人たちは、ニコディムと協力しながら、カトリック教会もまた、沈黙の教会となることに同意した。

そして公会議以来、カトリック教会はほとんど至るところで、単に共産主義の諸々の誤謬 -- 教会はそれらを断罪することを、教会を凶暴に迫害している赤色チャイナにおいてさえ、ほとんど完全に止めた -- に関してばかりでなく、世界全般の諸々の誤謬に関してもまた、明らかに沈黙に陥ってきた。われわれは、ヨハネ教皇が、公会議への開会演説において、公会議(そして彼に続いて教会の大部分)は諸々の誤謬をもはや断罪せず、「善意の人々」への教会の教えの「積極的な」提示において世界に対して教会自身を開くであろうと自由に認めたということを思い起こす。それに引き続いたことは、教皇パウロ六世自身が認められたように、望まれていた「善意の人々」の回心ではなくて、パウロ六世自身が「世間的な思考による教会の真の侵入」と呼ばれたものであった。換言すれば、これがカトリック教会(その宣教において決して完全に失敗することができない)において可能であるその程度にまで、一種のローマ・カトリシズムのセルギウス的適応が存在してきた。

ところで、カトリック教会のこの適応に一致して、2000年までにはファチマのメッセージは新しい方向づけの諸要求にすっかり服従させられてきた。教皇がおとめ[マリア]の要求に応えて取りかかられるいかなる奉献の儀式においてもロシアが言及されないということはすでにバチカン当局の何人かのメンバーによって決定されていた。Inside the Vatican 2000年11月号において、ただ「教皇に最も近い助言者たちのうちの一人」としか同定されなかった一人の指導的な枢機卿は、「キリスト教以後の西欧を含む全世界が深刻な諸問題に直面しているときに、あたかもロシアが特に助けを必要としているかのように、そのような祈りにおいて、もしローマがロシアに特に言及するならば、ロシア正教会がそれを一つの『侮辱』と見なすことをローマは恐れている」という意味のことを[言ったとして]引用されている。その同じ枢機卿助言者はこうつけ加えた:「余りにも文字通りの考え方をする者にならないように気をつけよう。」

換言すれば、「ローマ」-- その意味は教皇に助言するバチカン当局の少数のメンバー -- は、ロシア正教会に侮辱を与えるのではないかということを恐れてファチマの聖母のはっきりとした要求を尊重しないことに決定した。「ローマ」はロシアがマリアの汚れなき御心へのその奉献を通じてカトリック信仰へと回心するべきであるという印象を与えることを望んでいない。なぜなら、このことは第二バチカン公会議によって始められた新しい「エキュメニカルな対話」とはまったく反対のことであろうからである。神の御母によって要求されたロシアの奉献と回心はまたローマへの正教会の立ち帰りは「時代遅れの教会論」であるという -- われわれが示したように、カトリック教会の外では異端者たちや分離主義者たちは救われることができないという不可謬的に決定された教義に真っ向から反する主張 -- (1993年バラマンド宣言における)バチカンの外交的な協定にも反するであろう。カトリックの教えからのこの露骨な逸脱に一致して、ロシアに対するバチカン自身の使徒的執行者であるタデウス・コンドゥルシエヴィッツ大司教は1998年1月に「第二バチカン公会議は正教会がわれわれの姉妹教会であり、救いのための同じ手段を持っていると宣言した。それゆえ、布教政策を持つ理由は何ら存在しない」注3)という公式声明を発表した。

異端者たち、分離派の人々、ユダヤ教徒たちそして異教徒たちは、もし彼らが救われるべきであるならば、カトリックの群れの中に加えられなければならないという教会の不変の教えのこの事実上の放棄を考慮に入れるならば、ロシアの回心をもたらすための汚れなき御心へのロシアの奉献はもちろん -- 少なくとも、教会の新しい方向づけを促進している人々に関する限り -- 問題外であろう。

このようにして、1982年5月13日に、そして再び1984年3月25日に、教皇は汚れなき御心に世界を、しかしロシアには言及せずに、奉献された。いずれの場合にも世界の司教たちは参加しなかった。このようにして、シスター・ルチアによって彼女の生涯を通じてずっと証言されて来た二つの要求のどちらも果たされなかった。このことを明らかに認めながら、教皇自身、1984年の儀式の間および後に証拠となる発言をされた。聖ペトロ大聖堂広場で25万人の人々を前にした儀式の間に、教皇は準備されたテキストに自発的に次のことをつけ加えられた:「あなた御自身がわれわれの奉献と信頼の行為を待っておられるその人々を特別に照明してください。」注4)その儀式の数時間後に、イタリアのカトリック司教団の新聞 Avvenire において報じられたように、教皇は聖ペトロ大聖堂内で、1万人の証人たちの前で、「あなた御自身が奉献と信頼の行為を待っておられるあれらの人々」注5)を祝福してくださるように聖母に願いながら、祈られた。ロシアは汚れなき御心に奉献されてこなかった。そして教皇はそのことを知っておられる。明らかに彼の助言者たちによって説得されて、教皇は教皇立平信徒委員会の長であるコルデス司教に、「それがソビエトの指導者たちによる一つの立腹の原因となるであろう」注6)がゆえに、ロシアのいかなる言及をも落としたのだ、と告げられた。

ファチマに関する「党路線」(当局の方針)の出現

しかし信徒たちは単純にロシアの奉献を放棄しないであろう。なぜなら、1984年から2000年の時期の間にロシアは、汚れなき御心への適切な奉献の結果としておとめ[マリア]が約束なさった宗教的回心を経験することに失敗したからである。まったくその反対に、いくつかの政治的変化にもかかわらず、ロシアの霊的、道徳的および物質的な状況は1984年の「奉献」以来ただ悪化しただけであった。

2000年のロシアの状況の重大性についての概略だけを提供している以下の証拠を考えてみよ(そしてそれは、われわれが見るであろうように、それ以来ますます悪化しているだけである。)

この種の証拠を考慮にいれるならば、ロシアの奉献がファチマの聖母によって要求されたやり方でなされたかどうかという問題は単純に解決される方向へは進んでいない。それゆえに、教会の新しい方向づけ -- 世界への教会の適応 -- の執行者たちの観点からは、ファチマに関して何かあることがなされなければならなかった。そして、特に、ニコラス・グルーナー神父という名の一人のカナダ人司祭について何かあることがなされなければならなかった。彼のファチマ使徒職は、ロシアの奉献がバチカンにおける何人かの人々によって脱線させられてきたということを確信した数百万のカトリック教徒たちのためにニュースや意見を伝播させる手段となってきたのである。まったく単純に、ファチマと「ファチマの司祭」はこれを限りに葬り去られなければならなかったのである。

その過程はフレール・フランソワが次のように述べている1988年に早くも始まった:「バチカンから、ファチマの諸々の権威に、シスター・ルチアに、メシアス・コエリョ神父、聖母に非常に献身していた一人のフランス人司祭[明らかにピエール・カイヨン神父]を含むさまざまの教会人に、ロシアの奉献のことで教皇をしつこく悩ませることを止めるようにすべての人に命じる一つの命令が来た。」ファチマを愛する人、カイヨン神父はこの命令が出されたことを次のように確証した:「すべての人に次のように言いかつ考えることを強制する一つの命令がローマから来た、『奉献は為された、教皇はできるすべてのことをなさった、神はこの姿勢に畏れおおくも同意なさった』と。」注18)ロシアの奉献はなされなかったと主張していた多くのファチマ使徒職団体が突然態度を変え、1984年奉献は神のお望みを満たしたと宣言したのは、この時期、1988年から1989年にかけての頃であった。悲しいことに、カイヨン神父さえ、間もなく後に彼の証言を変更し、1984年奉献はおとめ[マリア]の要求を満たしていたと言い始めた。

シスター・ルチアからのものだと主張されたタイプで打たれ、コンピュータで作られた手紙が出回り始めたのもこの時期のことであった。明らかに信じがたい諸々の手紙の中の典型的なものは、1989年11月8日づけのもので、ネルカー氏に宛てたものである。それは教皇パウロ六世が1967年にファチマへの短期間の訪問の間に汚れなき御心に世界を奉献したという「シスター・ルチア」による陳述を含んでいる -- それは、シスター・ルチアがその訪問全体を目撃したがゆえに確実に知っていたように、決して起こらなかった奉献である -- 。注19)

このようにして、ファチマのメッセージに関する党の路線[当局の方針]が出現した。われわれは「党の路線」によって正確に何を意味しているのか? ウラディーミル・イリイチ・レーニンはかつてこう言った:「嘘は神聖であり、欺瞞はわれわれの主要な武器となるであろう。」このように Pravda プラウダは、それがソビエト共産党の公式機関であったときに、ロシア語の言葉 Pravda が真理を意味するけれども、嘘で満ちていたのである。その名前が「真理」である新聞は常に嘘で満たされていた。なぜなら、レーニンが言ったように、「嘘は神聖であり、欺瞞はわれわれの主要な武器となるであろう」からである。

ところで、嘘つきは、もし彼がその胸に「嘘つき!」と書いた大きなプラカードをつけているならば、彼の嘘について誰かを確信させることはないであろう。愚か者でさえそのような男を信じないであろう。その嘘つきが彼の嘘が真実であるということを人々に信じさせるために、その真理は再定義されなければならない。これが「嘘は神聖である...」というレーニンの文言によって意味されていることである。嘘は「真理」となりそして真理の場所に奴隷的に附着させられる。イザヤ書において呪いを宣告しながら聖書が言っているように、「悪を善と言い、善を悪と言うあなたがた、暗闇を光りとし、光を暗闇とするあなたがたに禍いあれ」。(イザヤ5:20)偽りの暗闇は真理の光の外見を与えられる。そしてこれがロシアの主要な諸々の誤謬の一つである。

しかし嘘を「真理」に転換するトリックはロシアに、あるいは共産主義者たちに始まったのではない。それは嘘の父である悪魔に始まった。聖パウロは光の天使に扮装した悪魔について語っている。もっとはっきり言えば、彼はわれらの主イエズス・キリストの福音に言及しているのである:「されど、われらにまれ、天よりの使にまれ、われらが汝らに述べしところに反して福音を述ぶるならば呪われよかし」(ガラチア 1:8)。それは、光の天使の装いの下に現れ、嘘によって欺くために真理の外見を与える悪魔である。「嘘は神聖である」そして「偽りは真理である」という誤謬が由来するところはここである。

ポール・クレイマー神父は、彼が合衆国陸軍司令官であったダニエル・グレアム将軍とした会話をこう述べている:「グレアム将軍はかつてソビエトの将校とロシアにいたことがあったと言った。そしてそのソビエトの将校は彼に尋ねた。『あなたは平和を望まないのか? 』それで将軍は答えた:『いいえ、望まない!というのは私はあなたがどのように平和を定義するかを知っているからだ。私はその種の平和を望まない。』彼らが会話を交わしているときに、彼らはライフル銃を担いだ兵士たちを示した巨大な広告板の側を通った。その広告板には短い説明文があった:’Pobieda kommunista eta mir’これは『共産主義の勝利が平和である』という意味である。」

マルクス主義の教えによれば、共産主義国家は革命をするために戦争を遂行し -- 共産主義に全世界を屈服させるために -- あらゆる可能な欺瞞の手段 -- 全面戦争 -- を用いる。そしてひとたび全面戦争が遂行されて、共産主義が地球全体に対して勝利するならば、そのとき「平和」の共産主義バージョンが存在する。しかし実際には平和とは何であろうか? それは聖アウグスティヌスによって最もよく定義されている:「平和は秩序の静けさである。」どちらの定義が正しいか? それは主観的な評価の問題ではない。聖トマス・アクィナスはこう説明している:"ens et verum convertuntur" 、これは真理が実在と交換可能であるということのスコラ学の言い方である。客観的に実在的であるものはまさにその理由で客観的にである。換言すれば、真理とは、嘘が存在しないところのものであるのに対して、存在するところのものである。それゆえに、もし誰かある人が、例えば、白は黒であると宣言するならば、白が黒であるという主張は -- その主張をする人の権威がどれほど高いものであろうとも -- 嘘である。

世界に対する教会の適応という意味において、ある種の教会の「スターリン化」が存在したのとちょうど同じように、そこにはまたファチマに関するある種のスターリン主義的党路線 -- 公会議後の適応の教会のすべての成員たちがそれをかたくなに信奉しなければならない高所から命令されたファチマに関する一つのバージョン -- も存在した。本質的には、ファチマに関する党路線はつまるところはこういうことになる:すなわち、「ロシアの奉献」は終わり、為された、そしてすべての人はそれを求めることを止めなければならない。われわれはファチマの聖母によって予告された「平和」を手にしている。ロシアは聖母が約束なさった「回心」を経験しつつある。それゆえに -- と党路線は言う -- ファチマのメッセージにおいて達成されるべきものは何一つ残っていない、そしてファチマは今や過去に属する、と。

われわれが後に見るように、括弧で括られた用語のすべて -- 「ロシアの奉献」、「平和」そして「回心」-- はファチマに関する党路線に適応させるために再定義された。ファチマに関する限り、われわれは今や「黒は白である」に相当するものを信じるように求められている。なぜなら、それは党路線であるからである。

バチカン国務長官の独裁

ところで、あらゆる党路線はそれを課すための党の頭、一人の独裁者を必要とする。バチカン内部では、正確には、ファチマに関する党路線はどこから出ているのか? それがバチカン国務長官から出ているという証拠が圧倒的である。この点に関して何らかの簡潔な背景[説明]が適切である。

まず第一に、物事の適切な状態においては -- 聖アウグスティヌスが「秩序の静けさ」あるいは平和と呼んだもの -- 教会は独裁制ではない。独裁制は野蛮な制度である。エウリピデスが言っているように「野蛮人たちの間では一人を除いてすべての者が奴隷である。」われらの主は「異邦人の君主は人をつかさどり、人の上に権をふるう」(マテオ20:25)と言われた。主は使徒たちに「汝らのうちには、しかあるべからず」と言われた。にもかかわらず、秩序の静けさ -- 教会の平和 -- は公会議後の時期に法外にかき乱された。今日われわれが教会の中に見ていることは、ローマ教皇庁クリアの権力者たち(教皇ではなくて彼のバチカン大臣たちの数人の者)が東洋的な独裁制で彼らの臣下たちの上に権を振るっているということである。もっと正確に言うならば、彼らは何人かの臣下たちの上に権を振るっている。その臣下たちは、教会が全体としてこれらの同じ有力者たちが無視している信仰と規律のほとんど崩壊に近い状態に苦しんでいる間に、党路線を自慢している。

このことはどのようにして起こったのか? 教皇パウロ六世の命令による1967年頃のローマ・クリアの再編成 -- それは実際には、ジャン・ヴィヨ枢機卿によって計画され、実行された -- 以来、さまざまのローマ・ディカステリー[=省ないし委員会]の長官たちは独裁者のように振る舞うことができた。第二バチカン公会議の前には、ローマ・クリアは君主制として構成されていた。教皇は聖省の長官であった。一方、聖省の日々の業務の責任を負う枢機卿は次長であった。他の諸々のディカステリーはより低い地位のものであった。そして彼ら自身の権威と管轄権とを持つ一方で、再び従属性の原理に一致して注20)、彼らは聖省に従属していた。そして聖省は直接教皇の下にあった。この配置は教会の神的構成にまったく一致するものであった。地上におけるイエズス・キリストの代理者、教皇は命令の鎖の頭であった。

しかし第二バチカン公会議の後には、ヴィヨ枢機卿がローマ・クリアの再編成を企んだ。ゴルバチョフがソビエト連邦においてペレストロイカの計画を告知するずっと以前に、教会はローマ・クリアにおけるそれ自身のペレストロイカを経験した。聖省は改名された -- しかしそれより遙かに重大なことは、聖省がクリアにおけるその最高の地位を失ったことである。クリアは国務長官枢機卿がかつての聖省を含む他のすべてのディカステリーの上に置かれるという仕方で再編成された。改名され、再編成されて、それは今は信仰教義聖省(CDF)と呼ばれた。そして教皇はもはやその長官ではなかった。しかしそれ(CDF)は今や枢機卿長官(今日それはラッツィンガー枢機卿である=訳者注 現時点ではラッツィンガー枢機卿は教皇に選出されてベネディクト十六世となり、アメリカ、ポートランドのウィリアム・レヴァダ司教をCDF 長官に任命した)の下にあり、彼は国務長官の権威の下にいる。

教皇と彼の聖省の下での以前の配置に従えば、信仰と道徳は重要な諸政策を決定する抜群の要素である。しかしながら、公会議後の配置においては、国務長官枢機卿と彼のディカステリー、国務省の下では、教会の諸政策の組織化における至高の決定要因であるのは党路線 -- 国務長官の諸政策 -- である。以前の聖省、現在のCDF でさえ、国務長官に従属している。この再編成の結果として、至高の司教たる教皇は国務長官によって彼に既成事実として提示される諸決定に、一つのゴム印のように承認を与える名目上の長へと引き下げられている。このことは繰り返す値打ちのあることである:教皇は国務長官の独裁に仕える名目上の長へと引き下げられたのである。注21)

イタリアの法律によって要求されたフリーメーソンの登録簿のうちに、ジャン・ヴィヨ -- クリアの再編成を監督した同じヴィヨ -- の名前が発見された。ヴィヨ枢機卿が死んだ後に、彼の私的な文書の中にヴィヨのフリーメーソン・ロッジのグランド・マスターからの手書きのメッセージが発見されたが、そこにはフリーメーソンの諸々の伝統を擁護したことに対して称賛が述べられていた。注22)ローマに住んでいるあるフランス人司祭が言ったように、「少なくとも一つの領域において彼は伝統的であった。」

党路線を押しつけるための偽りの「従順」の使用

ファチマに聖母が御出現になったまさにその年、1917年に聖マキシミリアノ・コルベはローマにいた。そこで彼はカトリック教会に対するあからさまな敵意を示し、サタンがバチカンから支配し、教皇が彼の奴隷となるように、バチカンに侵入するという彼らの意図を告知するプラカードを持ったフリーメーソンたちを見た。注23)彼らはまた同時に、彼らが教会を破壊するであろうと自慢した。教会を滅ぼすというフリーメーソンの意図は有名なフリーメーソンの声明「われわれは聖なる従順によって教会を滅ぼす」に完全に一致する。前章において示したように、ドイツ、レーゲンスブルグのグレイバー司教はフリーメーソンの有名人たちの他のそのような証言を集めた。そしてアルタ・ヴェンディタの永遠の教え自身、大胆にこう宣言していた:「聖職者たちを、彼らが常に使徒の鍵の旗の下に行進していると信じながら、あなたの旗の下に行進させるようにせよ。」すなわち、「従順」への要求は真の従順と信仰それ自体を掘り崩すために独裁的な仕方で用いられるであろう。

そして1967年のクリアの再編成は、-- 神御自身によって確立された諸限界を明白に超えた一つの権威への偽りの「従順」の装いの下に -- 国務長官の党路線 -- ファチマに関する党路線を含む -- へ全教会を服従させることによってその目標を達成する際の道具となるであろう。直ぐ後に論証するであろうように、ファチマの第三の秘密の幻視の状況 -- それを説明する聖母御自身の言葉を伴わずに公表された -- の「解釈」を文字通り指令したのは、ソダノ枢機卿であった。

国務長官はファチマのメッセージを標的としている

このことはファチマに関して党路線を押しつけることにおける国務長官の正確な役割へとわれわれを導く。すでに述べたように、この過程はファチマ・メッセージ全般を含むであろう。そして特に、おそらく教会におけるその主要な擁護者:すなわちニコラス・グルーナー神父のファチマ使徒職を含むであろう。

早くも1989年に、当時の国務長官カザロリ枢機卿(東方政策の偉大な立案者)は当時のグルーナー神父の司教、イタリア、アヴェリーノ大司教区のジェラルド・ピエロ閣下にグルーナー神父のファチマ使徒職について司教が「心配なシグナル」と呼んだものを伝えた。グルーナー神父は1976年に期待されたように結成しなかったあるフランシスコ会の共同体のために任命された。1978年以来彼は司教の許可を得てカナダに住んでいた。そこで彼はそれ以来世界でその種の使徒職の最大のものへと成長した一つの小さなファチマ使徒職の指導者となった。しかし、1984年の「奉献」に関する党路線が1988年の匿名の命令によって押しつけられた後には、グルーナー神父の使徒職と国務長官が衝突することは -- 第二バチカン公会議の後に伝統的な方向づけと新しい方向づけとが衝突したのと同じように -- 避けられなかった。

グルーナー神父を取り除こうとする基本的なテクニックはインチキの教会法上のシナリオを作り出すことであった。その中では、アヴェリーノの外部で彼を incardinateする[司祭あるいは助祭をカトリック教会の特定の司教区に、あるいは認められた宗教共同体へ公式に配属し、司祭あるいは助祭をその司教区の司教あるいは宗教共同体の上長の法的な命令に従わせること]他の司教を見つけるように命じて、グルーナー神父の incardination が他のどこかでひそかに、これまで前例のなかった圧力を加えることを通じて阻止され、その結果グルーナー神父がアヴェリーノに戻り、彼の使徒職を断念するよう強いられるだろう、ということであった。三人の引き続く善意の司教たちによるグルーナー神父の incardination を阻止したので、バチカン当局は(この書物の範囲を超える複雑な処置において注24))最終的にうなりを低めた:グルーナー神父はアヴェリーノに「戻る」か、あるいは「不従順」のゆえに「職務停止され」なければならない、と。本質的に、グルーナー神父は、彼のまさに告発者たちがそうすること -- すなわち、彼を incardinate する他の司教を見つけること -- を組織的に妨害したことを彼がすることに失敗したという理由で「職務停止」の脅迫の下に置かれたのである。注25)

グルーナー神父に対するこれらの前例のない行動からの彼のさまざまの教会法上の訴えがバチカンの裁判所を通じて進行していたときに、彼のファチマ使徒職は発展し続けた。2000年までに、使徒職は特にその雑誌 The Fatima Crusader を通じてロシアの奉献および第三の秘密開示の両方のための教会における最強かつ最も永続的な声となった。

さらに、教皇自身が2000年5月13日ファチマでの儀式においてヤチンタとフランシスコとを列福するその決定をもってファチマの情景を複雑なものとされた。二人の子どもたちを列福する教皇の意図は1999年6月の早い時期に知らされていた。そしてこの展開はバチカン当局内部で内部闘争のきっかけとなった。これはバチカンにとって最も異例である列福式の奇妙な断続的性格によって示されている。最初、国務長官、アンジェロ・ソダノ枢機卿は1999年10月に、ヤチンタとフランシスコの列福が、2000年4月9日に他の四列福と一緒に、サン・ピエトロ広場[ローマの]で行われるであろうと告知した。リスボンの総大司教は、バチカンによって教皇が子どもたちの列福のためにファチマに来ることは「まったく不可能」であると知らされていた、そして質問は「閉ざされ」ていたとポルトガルの新聞で引用されている。総大司教はポルトガルのジャーナリストたちに、教皇がファチマに来ることが「できない」というこのことはもっぱらほかならぬバチカン国務長官による決定のためだと確信していると告げた。

しかし教皇は別の考えを持っておられた。1999年11月に教皇は -- 明らかにソダノ枢機卿を無視して -- ファチマの司教セラフィム司教に直接、教皇が列福を行うために5月13日に実際ファチマに来られるということを告知すべきであると知らせられた。セラフィム司教は1999年12月までその新しい告知をしなかった。そして次に、2000年3月に、司教はまた「教皇がファチマのために何かある特別なことをなさるであろう」ということをもさしはさんだ。このことは、教皇がついに第三の秘密を明らかにしようとしておられるという怒りの推測を報道界に引き起こした。セラフィム司教は直ちにリスボンの総大司教枢機卿によって公的に叱責された。それはおそらく、教皇が秘密の開示を考えておられるということを知ることを誰にも望まなかったバチカン国務長官に雇われた誰かある者からの命令の下になされたであろう。しかし諺の猫は諺の袋から出て来た。注26)

そしてそのようにして教皇はヤチンタとフランシスコを列福するために2000年5月13日にファチマへ行かれた。教皇の出現はわれわれが議論してきた教会の二つのビジョンの間の葛藤のある種の生きた証明であった。すべての時代の教会を呼び出しながら、教皇は列福式の後に一つの説教をなさった。この説教の中では教会が過去40年間にわたって忘れていた多くの事柄が突然再び思い起こされた:

神の御計画に従って、「太陽を身にまとった一人の女」(黙示録12:1)が特権を受けた御父の子どもたちを訪ねるためにこの地上に天から下って来た。彼女は彼らに一人の母の声と心をもって話しかけられる:彼女は彼らに、彼女が彼らを安全に神にまで導くと言われながら、償いの犠牲として彼ら自身を捧げることを求められる...

後で、特権を受けた三人の子どもたちのうちの一人、フランシスコは叫んだ:「ぼくたちは神である光の中で燃えていた。そしてぼくたちは焼き尽くされなかった。神はどのような方であるか? それを言うことは不可能である。実際、ぼくたちは人々に決して告げることができないだろう。」神:焼き尽くすことなしに燃えている光。モイゼは燃える柴の中に神を見たとき同じ経験をした...

「もう一つのしるしが天に現れた;見よ、大きな赤い竜を。」(黙示録12:3)ミサの第一朗読からのこれらの言葉は、人間が神を無視するとき、どのように彼は幸福を達成することができず、自らを滅ぼすことに終わるかを示しながら、善と悪との間の大きな闘争についてわれわれに考えさせる...

ファチマのメッセージは、人類にその尾が天の星の三分の一を掃き落としそれらを地上に投げ下ろす「竜」(黙示録12:4)に関わるなと警告している回心への呼びかけである。

人間の最終目的は彼の真の家、天国である。そこには天の御父がその憐れみ深い愛ですべての人々を待っておられる。神は誰一人失われることを望んでおられない。だからこそ神は「失われた者を探し、救うために」(ルカ19:10)2000年前に御自分の御子を地上に遣わされた....

いと祝せられたおとめは、その母としての気遣いにおいて、「すでに余りにも多く背かれておられるわれらの主なる神に背くことを止める」ように男たちと女たちに求めるためにここファチマに来られた。彼女の子どもたちの運命が危機に瀕していると彼女に話すことを強いているのは一人の母親の悲しみである。この理由で彼女は小さな羊飼いたちにお求めになる:「祈りなさい、たくさん祈りなさい、罪人たちのために犠牲をしなさい、多くの霊魂は彼らのために祈り、犠牲をしてくれる人を誰も持たないがゆえに地獄に行くのです。

教皇がファチマのメッセージを黙示録と直接結びつけておられること、そしてファチマの幻視者たちの神との出会いを燃える柴の前でのモイゼの神との出会いと結びつけておられることは、ファチマの御出現についてわれわれの時代のために神によって与えられた預言として教皇が驚くべき仕方で本物であると認められたことを意味している。突然、ファチマは再びまともに全教会の目の前に現れたのである。

まず第一に、「太陽を身に纏った女」について語っている黙示録第12章第1節のまさに実現、一つの聖書的な瞬間としてのファチマのメッセージへの教皇の驚くべき言及があった。ここで教皇ヨハネ・パウロ二世は1967年5月13日にファチマで出された使徒的書簡 Signum magnum において次のように宣言された教皇パウロ六世の言葉と共鳴された:

使徒ヨハネが天に見た大きなしるし、「太陽を身に纏った女」は、根拠なしにではなく、救世主キリストの恵みによってすべての人々の御母、いとも祝せられたおとめに言及するものとして、聖なる典礼によって解釈されている...その母としての憐れみ深い心のゆえに無数の信徒によってそこで尊崇されているポルトガル、ファチマにおいて今回神の御母であるおとめの栄誉を称えて行われている宗教的儀式のこの機会に、われわれは教会のすべての子らの注意をもう一度マリアの霊的母性と...教会の御母である彼女に対する救済された人々の諸々の義務との間の分離できない結びつきに対して呼びかけたいと思う。

もっと驚くべきことには、その説教において教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマのメッセージを「竜の尾」が星の三分の一を天から掃いて、それらを地上に投げ下ろすと預言している黙示録第12章第4節へと明確に結びつけられた。グルーナー神父が後に述べたように:「聖書の言語においては、『天の星』は天国へ行くべき他の人々のために道を照らすよう天に置かれた人々である。この説はカトリックの諸々の注釈において古典的に、聖職者 -- すなわち、枢機卿たち、司教たち、司祭たち -- の三分の一が彼らの聖別された状態から落ちて実際に悪魔のために働いているということを意味すると解釈されてきた。」例えば、Douay-Rheims Bible への Haydock Commentary は天の星の三分の一のイメージが「迫害の重圧の下で堕落しそして背教した司教たちや優れた人々」に言及していると解釈されてきたと述べている。「悪魔は、神が彼にそれを許されるかぎり、教会と神の忠実なしもべたちに対して戦いを行う用意を常にしている。」

この関連において、グルーナー神父、ゲリー・マタティックス -- カトリック聖書学者(そして元プレスビテリアンの牧師)-- そして他の人々は、The Book of Destiny (運命の書)におけるハーマン・B. クレイマー神父による黙示録第12章第3-4節についての注釈を引用した。この作品は十分に摂理的であるが、第二バチカン公会議のわずか6年前、1956年に imprimatur[教会による公式印刷・出版許可]を得て出版された。天の星の三分の一の象徴に関連して、ハーマン・クレイマー神父はこう述べている:「これは聖職者の三分の一である。」そして「星の三分の一は竜に従うであろう」-- その意味は、教会における「星」である者、聖別された霊魂たちである聖職者の三分の一ということである。注27)すなわち、カトリック聖職者の三分の一は内部から教会を破壊するために働きながら、悪魔に仕えるであろう、ということである。ハーマン・クレイマー神父の注釈は赤い竜 -- 赤は共産主義の旗の色であるがゆえに共産主義をもまた象徴することができる悪魔のしるし -- が教会を内部から掘り崩すことによって教会を大きな苦境へと陥れると指摘している。

注釈はさらに進んでこう述べている:これらの背教した聖職者たちを用いて、悪魔はおそらく、教会に対して、「非キリスト教的な道徳およびもろもろの偽りの教説の受容、誤謬との妥協、あるいは良心に反する市民的支配者たちへの従順」を強制するであろう。その上、彼はこう示唆している:「竜の尾の象徴的な意味は、背教に対して準備の整っている聖職者が偽善、欺瞞そしてへつらいによって高い位を勝ち得て、教会における影響力のある地位を保持するであろう。」竜 -- すなわち、悪魔 -- に従う聖職者は「真理を説くことあるいはよい模範によって罪人に忠告することを怠り、むしろ締まりがなく人間的顧慮の奴隷であることによって人気を求める」者たち、並びに「自分たち自身の利益を気遣い、教会における悪しき諸々の実践に対して異議を唱えようとしない」人々そして「敢えて真理を告げる正直な司祭たちを忌み嫌う」司教たちを含むであろう。」注28)ハーマン・クレイマー神父はまた、黙示録12:3-4 によって預言された時代におけるカトリック教会の状態に関して次のように述べている:

「われらの主によって建てられた使徒的民主主義は司教団が東洋的専制で支配する絶対的な君主制に道を譲っているであろう。司祭たちは奴隷とへつらうごますりの状態へと変えられているであろう。理性、正義および愛による支配はそのあらゆる行為と言葉が問題なしに、事実、真理あるいは正義に訴えることなしに受け入れられなければならない司教の絶対的な意志によって取って代わられているであろう。良心は司祭たちの諸々の行動を導くその権利を失い、無視されあるいは非難されたままに留まるであろう。駆け引き、便宜主義そして他のごまかしが最大の徳として支持されるであろう。」注29)

しかしこのどれ一つこれまでに明らかにされてきたファチマのメッセージの部分において言及されていない。そこで、教皇は、黙示録12:3-4 への彼の驚くべき言及とともに、第三の秘密の内容を世界に垣間見させられたのか? 教皇は今秘密をその全体において明らかにされるのだろうか?

しかし、残念ながらその説教は終わる。第三の秘密を論じるのは教皇ではない。それが始まるが否やすぐに、教皇のすべての時代の教会のビジョンへのつかの間の立ち帰りは終わり、そして新しいビジョンの一人の主たる説明者が立ち上がる。それは国務長官アンジェロ・ソダノ枢機卿である。-- 彼はヤチンタとフランシスコとを列福するために教皇がファチマに行くことを妨げようとしたが、失敗したその同じソダノ枢機卿である。ある奇妙な理由のために、教皇がファチマの第三の秘密を明らかにすることを決断されたと告知するであろうのは、教皇ではなくて、ソダノである。

教皇はファチマへの訪問の荘厳な機会に、あなたがたに一つの告知をするように私に命じられた。御存知のように、彼のファチマ訪問の目的は二人の「小さな羊飼いたち」を列福することであった。それにもかかわらず、教皇はまた御自分の巡礼が、教皇であるこれらの数年の間の聖母の御保護に対する聖母への感謝の新たにされた意思表示であることを望んでおられる。この御保護はまたファチマの秘密のいわゆる「第三部」にも結びついていると思われる。

そしてそれから、非常に奇妙に思われたことが突然まったく説明可能なものとなった。ソダノ枢機卿の仕事は第三の秘密を含むファチマのメッセージが今や過去の事柄と考えられるべきであるという考えを受け入れるよう信徒を準備することであろう。その過程は第三の秘密についての枢機卿の「解釈」で始まるであろう:

そのテキストは聖書のうちに見出されるものに似た一つの預言的幻視を含んでいる。それは未来の出来事の詳細を写真のような明確さで記述しているのではなくて、むしろ連続と持続における時を超えて拡がった諸々の出来事の統一された背景を綜合し圧縮している。その結果、そのテキストは一つの象徴的な鍵において解釈されなければならない...

また最近シスター・ルチアによっても確証された「小さな羊飼いたち」の解釈に従えば、すべての信徒のために祈っている「白衣を着た司教」は教皇である。殉教した(司教たち、司祭たち、男女の修道者たち、そして多くの平信徒たち)人々の死体の間で十字架の方へ非常な努力をしながら進んでいるとき、彼もまた砲弾の炸裂の下で見たところは死んだ者のように、地に倒れる。

信徒が間もなく学び知るであろうように、これは単純に一つの嘘である。幻視における「白衣を着た司教」は「見たところ死んだ者のよう」ではなくて、 -- 幻視のテキストが明瞭に述べているように -- 多くの司教たち、司祭たちや修道者たちと一緒に半分崩壊した都市の外で、一つの軍による処刑のやり方で--「殺される」のである

それでは、なぜ「見たところ...のように」という言葉を「解釈」の中へ挿入するのか? ソダノ枢機卿はすぐさま彼の手をひっくり返す:

1981年5月13日の暗殺未遂の後に、教皇には、それは「死につつある教皇」を「死の入口で」停止させることを可能にする「弾丸の通り道を導いた母親の手」であったということは明らかであると思われた....

ソビエト連邦および東欧の多くの国々の両方における1989年の連続して起こった事件は無神論を促進した共産主義体制の崩壊へと導いた....

たとえファチマの秘密の第三部が言及している諸々の出来事が今や過去の部分と思われるとしても、二十世紀の初めに出された回心と償いへの聖母の呼びかけは今日時を得たものであり、緊急であり続ける。

まったく単純に、ソダノはそれをこれを限りに葬り去ろうとするファチマ・メッセージの一つの「解釈」:1981年暗殺未遂および1989年における「共産主義の崩壊」で頂点に達したメッセージ:-- 「今や過去の一部と思われる」出来事 -- のための道を準備していたのである。この結果を確保するために、第三の秘密の実際のテキストが公開される前に一つの「注釈」が準備されるであろう:

信徒がファチマの聖母のメッセージをよりよく受け取ることができるように、教皇は信仰教義聖省に、一つの適切な注釈の準備の後に秘密の第三部を公表することを指示された。

しかしなぜこの注釈は5月13日の儀式に間に合うように準備されなかったのか? 結局、第三の秘密の差し迫った公表のニュースは少なくとも2000年3月以来ずっと流布されてきた。その月に、セラフィム司教は、教皇が彼にローマへの訪問の間に、教皇は2000年5月に列福の儀式のためにそこ[ファチマ]に行ったとき、「ファチマのために特別な何かあることをする」注30)ということを告げたと告知していた。

十分に奇妙なことであるが、教皇はセラフィム司教に、彼がローマにいる間はこのことについて何も言わず、彼がファチマに戻るまで待つように、要求された。しかしその主題は前の年の11月以来教皇の頭の中にあった。それゆえ、なぜ「注釈」が1999年11月から2000年5月の時期の間に準備されなかったのか? 確かに、そのような注釈はその時期に容易に完成することができたであろう。

二つの結論が示唆される。教皇が第三の秘密の公表に関する彼の意図についてソダノ枢機卿に告げなかったか -- その場合には、教皇はソダノを信用していない -- あるいは教皇がソダノに告げたが、それに対してソダノが2000年5月13日儀式での公表を何らかの仕方で自分は阻止できるであろうと見なしたか、のいずれかである。これ[後者の場合]はソダノがなぜ予め注釈を準備しなかったかを説明するであろう:すなわち、彼はそれは必要ないであろうと考えた、なぜなら、彼は第三の秘密のいかなる公表をも阻止することができるであろうから。しかし教皇は前へと進まれた。そして今や秘密はファチマの問題が葬られ得るようなそのような仕方で「処理され」なければならなかった。

ソダノ党路線を告知するための記者会見

われわれはこのようにして、2000年6月26日の運命的な日に到達する。この日に第三の秘密はThe Message of Fatima ファチマのメッセージ(これ以後 TMF として言及される)と題されたラッツィンガー枢機卿と the Congregation for the Doctrine of the Faith 信仰教義聖省(これ以後 the CDF として言及)秘書モンシニョール・タルチジオ・ベルトーネによって準備された注釈と一緒に、バチカンの記者会見で「公表された」。 TMF においてファチマに関する党路線が -- アンジェロ・ソダノ枢機卿の直接の命令によって -- 公式に普及させられるであろう。

まず第一に、信徒はシスター・ルチアによって見られた幻視の次のテキストがファチマの第三の秘密へと至るものが存在する全てであると告げられた:

私がすでに説明した二つの部分の後で、聖母の左側そして少し上の方に、私たちは左手に燃える剣をもった一人の天使を見ました。その剣は閃きながら、炎を吹き出しており、あたかも世界に火を点けるかのように見えました。しかしその炎は聖母がその右の手から天使の方へと放射された輝きと触れると消えて行きました。天使はその右手で大地を指さしながら、大声で叫びました:「償い、償い、償い!」と。そして私たちは神である巨大な光 -- 人々が鏡の前を通り過ぎるときに鏡の中にどのように見えるかというのに似た何かあるもの -- の中に、「私たちがそれは教皇であるという印象を持った」白衣を着た一人の司教を見ました。他の司教たち、司祭たち、男女の修道者たちは険しい山を登っていました。その山の頂上には皮のついたコルク樫の木からできたような荒削りの大きな十字架がありました。そこに到着する前に教皇は半分廃墟になった大きな都市を通り過ぎられ、そして不自由な足取りで半分震え、苦痛と悲しみで苦しみながら、途中で出会った死体の霊魂たちのために祈られました。山の頂上に着き、大きな十字架の足許に跪いて、教皇は彼に銃弾と矢とを浴びせた一群の兵士たちによって殺されました。そして同じようにしてそこには次々に、他の司教たち、司祭たち、男女の修道者たち、そして異なった地位や立場のさまざまの平信徒たちが死んでいました。十字架の二つの腕の下には二人の天使がいました。各々の天使は手に水晶の灌水器を持っていて、彼らはその中に殉教者たちの血を集め、そしてそれでもって神の方へ歩を進めていた霊魂たちに振りかけました。

数百万のカトリック教徒たちの即座の反応は次の二つの言葉 That's it? それだけか? に要約され得るであろう。明らかに、何かが間違っていた。なぜなら、このテキストには、ラッツィンガー枢機卿自身が1984年に第三の秘密について言ったこと -- この後直ぐに立ち戻るであろう一つの点 -- に何も相応していないからである。それはまた1960年以来のその不可思議な抑圧を説明したであろうものを何も含んでいなかった。

最も重要なことは、ノートの四枚の紙に書き下ろされたこの漠然とした幻視は聖母の言葉を何一つ含んでいなかったことである。特に、それはシスター・ルチアによってその回想録の中に忠実に書き写されたものとしてのファチマのメッセージの記録された部分の結論のところで聖母によって話された有名な文言:「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」を完成するであろうものを何も含んでいなかった。シスター・ルチアは「云々」を含むこの文言をメッセージの全体的なテキストの一部として彼女の第四回想録に加えていた。この附加は、それが記録されなかった第三の秘密の始まりを合図したものであるということ、そして第三の秘密がポルトガルの外部での教会における広範な教義上の危機に関係があったということを、あらゆる評判のよいファチマ学者に結論づけさせた。明らかに、おとめ[マリア]は書き下ろされなかった言うべきことをもっと持っておられた。なぜなら、シスター・ルチアはそれを -- すでに見たように、1960年までは -- 秘密のままにしておくように命じられていたからである。

しかしながら、ある奇妙な策略において、TMF はファチマのメッセージのテキストを、その文言が現れていないシスター・ルチアの第三回想録から取ることによってその証拠となる文言のいかなる議論をも避けた。TMF はこのことを次のように正当化している:「既に公表されたそしてそれゆえに知られている『秘密』の最初の二つの部分の説明のために、われわれは1941年8月31日の第三回想録においてシスター・ルチアによって書かれたテキストを選んだ。1941年12月8日の第四回想録の中にはある注釈がつけ加えられた。」注釈? ポルトガルにおける教義の保存に関する鍵となる文言は「注釈」ではなくて、その後で聖母が「これを誰にも言ってはいけません。ええ、フランシスコには言ってもよいです」と言われた聖母の話された言葉の不可欠の部分である。

ファチマのメッセージの一つの不可欠の部分を一つの「注釈」として欺瞞的に誤った性格づけをした後で、TMF は次にそれを再び言及されることが決してない一つの脚注の中に葬るのである:「『第四回想録』においてシスター・ルチアはこうつけ加えている:『ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々...』と。」

ソダノ/ラッツィンガー/ベルトーネはなぜ、メッセージのテキストのより初期のそしてより完全でない回想録を用いることによってそれを避けるためにそのように明らかに彼らの道から出て行くようなそのようにこの鍵になる文言に用心深いのであろうか? この文言の中に隠すべきものが何もないのならば、なぜ単純に第四回想録を用い、その文言が意味していることの説明を試みないのか? なぜ TMF の著者たちはそのように明らかに、それが全体的なテキストの中で神の御母の話された言葉の一部として現れているということを完全によく知っているときに、その文言が一つの単なる「注釈」であると言い張るのであろうか? われわれは後の一章でこの疑惑を起こさせる行動に立ち戻るであろう。

疑惑のもう一つの理由は「白衣を着た司教」の幻視が、-- バチカン自身が前に言及した1960年の記者会見において記述したように -- 「コヴァ・ダ・イリアの三人の羊飼いたちに一つの秘密として『聖母が打ち明けられた言葉』をシスター・ルチアが書き下ろした...」一通の「手紙」ではぜんぜんないということである。幻視のテキストはノートの紙に線を引かれて現れたものの4ページにわたっている。

別の疑惑を起こさせる状況は、6月26日に5月13日のソダノ枢機卿の虚偽が明瞭に暴露されたということである:すなわち、教皇は半分廃墟となった都市の外側で大きな木製の十字架の足許で跪いているときに、彼に対して発砲する兵士たちによって殺された。ソダノが5月に誤って主張したように、教皇は「見たところ死んでいるよう」ではない。教皇は「死んだ」のである。その幻視は、それが何を意味しようとも、明らかに1981年の暗殺未遂とは絶対に何の関係もない。信徒はすでに5月に騙されていた。そして今彼らを欺く過程は明らかに続いていた。

このテキストによって提出された多くの矛盾 -- 世界中のカトリック教徒に、われわれが秘密をその全体において受け取ったということを疑わせた -- は後の章で述べられるであろう。今のところ、われわれはファチマ・メッセージに関する TMF におけるラッツィンガー/ベルトーネ「注釈」を一つの全体として考察する。

ソダノ枢機卿は第三の秘密の「解釈」を命令する

まず第一に、TMF はラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネが(ラッツィンガー枢機卿の言葉を用いるならば)「試みよう」とするファチマ・メッセージの「解釈」は他ならぬソダノ枢機卿によって命令されたということの一つの実際の承認である。4度以上も、TMF はそれが第三の秘密についてのソダノの「解釈」-- すなわち、ファチマは過去に属するということ -- に従っていると述べている:

その主要な線が今年の5月13日にソダノ枢機卿によって読まれた声明のうちに見出され得る一つの解釈を試みる前に...

この理由で、幻視の比喩的言語は象徴的である。この点に関してソダノ枢機卿はこう述べている...

ここに提供された文書資料からも明らかなように、5月13日に彼の声明の中でソダノ枢機卿によって提供された解釈は最初に個人的にシスター・ルチアに示された....

まず第一に、ファチマの第三の秘密が言及している諸々の出来事は今や過去の一部と思われるということをわれわれはソダノ枢機卿と共に主張しなければならない。

そしてまさに読者がなお要点を得ないことを考えてTMF の基本的な目標がもう一度強く訴えられる。

個々の出来事が述べられている限り、それらは過去に属する。

ファチマのおとめ[マリア]の世界に対する重要なメッセージの解釈が、教皇にではなく、また信仰教義聖省(それは単にソダノ枢機卿の意見を真似ていただけである)にでさえなく、バチカン国務長官に委せられたということは奇妙なことではないのか? ソダノ枢機卿は彼の見解を教会に押しつけるどんな権威を持っているのか? もちろん、何も持っていない。しかしソダノ枢機卿は、教会の諸問題の日常的な管理に関しては、事実上の教皇の地位へのバチカン国務長官の全面的な公会議後の優位を保つことによって自らにその権威があると主張したのである。

国務長官による権威のこの簒奪のもう一つの非常に印象的な例をここで提供することは適切なことであろう。「教皇、ミサそしてバチカン官僚たちの政治」という表題の論考(雑誌 The Latin Mass 2002年1月、冬期増刊号)において、イタリアのジャーナリスト、アレッサンドロ・ザングランドは、バチカン国務長官が、伝統的なラテン語ミサについての教皇の称賛についてL'Osservatore Romano における公表を阻止した事件を語っている。その称賛は礼拝および秘蹟規律聖省の集まりへの教皇のメッセージにおいて次のように表明されたものである:「聖ピオ五世のロマ・ミサ典礼書においては、他の多くの東方典礼においてと同じく、司祭たちが聖なる神秘の前で謙遜と尊敬の最も深い感覚を表明する多くの美しい祈り、それぞれの典礼の実体そのものを明らかにしている祈りがある。」

ザングランドは、バチカンの諸々の聖省に対する教皇のメッセージはいつもはそれが出された後に間もなく公表されるのに、このメッセージはそうではなかったと述べた。バチカン国務長官が突然(24時間以内に)バチカン報道局を通じて教皇のメッセージのテキストを公表したのはイタリアの世俗新聞 Il Giornale において教皇の伝統的なミサの称賛が公表された後 -- 教皇によってそれが出された後一ヶ月以上も経って -- であった。しかし今日まで、そして通例に反して、聖省に対する教皇のメッセージは教皇自身の新聞である L'Osservatore Romano において公表されてこなかった。ザングランドは有名なバチカニスタ(バチカン問題の専門家)アンドレア・トルニエッリの結論を引用した:「[ Il Giornale における]その論考の公表の24時間後にバチカン国務長官が教皇の手紙のテキストを公表したというまさにその事実は教皇の言葉を『検閲する』実際の試みが為されたということを証明している....作戦は意図しなかった結果と共に裏目に出た」-- すなわち、教皇の伝統的なミサの称賛は世俗の新聞におけるより広い評判をさえ得るということに終わった。

ここにわれわれはどのように教会の新しい方向づけのもう一つの鍵になる要素 -- その伝統的なラテン典礼の放棄 -- が教皇の伝統的なミサの称賛を検閲しようとした国務長官によって強いられたかを見る。バチカン国務長官によって -- 成功裡に -- どれほど多くの他の教皇の発言が検閲されたかを誰が知ろうか? この出来事は、特に教皇の衰えて行く身体的健康を考慮に入れるならば、教会の管理が今日機能している仕方についての単に典型的なものにすぎない。

ラッツィンガー枢機卿はソダノの党路線を実行している

これらの事実を念頭に置いて「注釈」に戻るならば、2000年6月26日の記者会見が一つの最も重要な目的:すなわち、ファチマのメッセージの「正しい」解釈に関するソダノ枢機卿の命令を実行すること、を持っていたということを見ることができる。報告者たちがその部屋を去るときまでにファチマのメッセージ -- そのすべて -- は葬られていなければならなかった。そしてひとたび葬られれたならば、メッセージはもはや教会の新しい、ファチマ後の方向づけの彼らの情け容赦のない追求においてソダノ枢機卿と彼の協力者たちを阻止しないであろう。その新しい方向づけは(後に見るであろうように)バチカンでのミハイル・ゴルバチョフのごとき人物たちを称賛し、彼らと会食し懇談するという重要な教会の仕事、赤の支那政権に対して教皇に謝罪させること、ヨシフ・スターリンによって盗まれた諸々の財産に対する地方カトリック教会の諸権利を正教会に引き渡すためにルーマニアのカトリック教徒たちに圧力をかけること、特定されない「人道に反する罪」ということでどの国家のカトリック教徒をも裁判できる神無き、責任を負わない、国連後援の下での国際犯罪法廷を支持しそれに資金援助さえすること、そして他のそのようなバチカン外交の「諸々の勝利」を含んでいる。

換言すれば、教会におけるあらゆる最後の申し出はバチカンの新しい思考様式と世界への語りかけの様式へと持って来られなければならない。その様式は聖母の汚れなき御心の勝利、聖母の汚れなき御心に対する信心の普及、そして汚れなき御心の介入を通じての結果としてのロシアの回心というファチマの聖母の預言とはうまく一致しないのである。この種の話は、たとえそれが神の御母から出て来ているとしても、もう何もしようとはしない。それゆえ、6月26 日にラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネに託された明確な仕事は、われわれに余りにも明らかに「公会議前の暗黒時代」の「勝利の」教会を思い起こさせるファチマのメッセージの明白にカトリック的な諸局面から信徒をこれを限りに引き離す一つの道を見つけることであった。 Los Angeles Times が2000年6月27日のその見出し「カトリック教会は第三の秘密を公開する」において述べるであろうように:「バチカンのトップの神学者は推測の数十年に燃料を供給してきた一修道女の1917年の幻視をおだやかに地位低下させる。」その努力はそのように大胆であったので、一世俗新聞でさえそのことに注目せざるを得なかった。ファチマの聖母と神が聖母のメッセージを受け取るために選ばれた聖なる幻視者に対するこの犯罪の証明を準備することにしよう。

第一に汚れなき御心の勝利をかたづけるための TMF におけるラッツィンガー枢機卿の試みがあった:

私は最後に正当に有名になった「秘密」のもう一つの鍵になる表現:「私の汚れなき御心は勝利するでしょう」に言及したいと思う。これは何を意味するか? 神の観想によって清められた神に対して開かれた心は銃やあらゆる種類の兵器よりも強い。マリアの fiat[われになれかし]、彼女の心の言葉、は世界の歴史を変えた。なぜなら、その言葉は救世主を世界にもたらしたからである -- なぜなら、彼女のはいのおかげで、神はわれわれの世界において人間となることができたからであり、そしていつもそうであり続けるからである。

注意深い読者は直ちに、ラッツィンガー枢機卿がおとめ[マリア]の預言から最初の三つの語:In the end[終わりには]を都合よく取り除いたということに気づくであろう。まさに神の御母のこの明瞭に意図的な検閲はソダノによって命令された線:すなわち、ファチマは過去に属する、という線に沿ったラッツィンガー枢機卿の修正主義的「解釈」のために必要だった。

このように、「終わりには、私の汚れなき御心は勝利するでしょう」は -- 最初の三つの語の方便的な除去の後に -- 今や次のように理解されなければならない:「2000年前に私の汚れなき御心は勝利した。」終わりには起こるであろうことについての聖母の預言は、キリスト教の歴史の始め、20世紀前にすでに起こったことの単なる承認へとあくどい仕方で変造されている。四つの未来の出来事 -- 汚れなき御心の勝利、ロシアの奉献、ロシアの回心そしてその結果としての世界における平和の時期 -- は巧妙に2000年前の一つの出来事へと転換されている!

神御自身がその祝せられた御母を通じて地上に送られたメッセージのこの改竄はどの信徒をも立ち上がらせ、天の名における正義を要求させるべきである。しかしラッツィンガー枢機卿のファチマ・メッセージ抹殺はここで終わっていない。それはこのことよりも遙かに悪い。「神が望んでおられる」ように、世界中にその汚れなき御心の信心を確立するという聖母の呼びかけに関して、ラッツィンガー枢機卿は以下の嘲りを提供した:

マテオ5:8 に従えば「清い心」'immaculate heart' は神の恵みでもって完全な内的一致に達した心であり、従って「神を見る」心である。マリアの汚れなき御心に対する「信心」がある to be 'devoted' ということは、それゆえに、この心の態度を持つことであり、それは fiat -- み旨が行われるように -- をある人の全生涯の決定の中心とするのである。

まず第一に、ラッツィンガー枢機卿が devoted immaculate heart -- 彼はその大文字の I を剥ぎ取っている -- の周りに置いている引用マークに注意せよ。-- それはこれらの語が新しい意味をまさに獲得しようとしている一つの確実なしるしである。

このようにして、「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます」は今や「神はすべての人が神のみ旨を行うことを望んでおられる」として理解されることになる。実際、その心が神のみ旨に対して開かれているすべての人はその人自身の『清い心』を獲得する。それゆえ、マリアの汚れなき御心に対する信心はその人自身の心を神に開くことを意味するのであって、世界(特にロシア)をカトリックにするためにマリアの御心に対する信心を広めることを意味するのではない。大文字の Immaculate (汚れなき)は小文字の immaculate (清い)となり、そして聖母の御心は、少なくとも潜在的に、誰でもの心となる。手品師が「さあ、変われ!」と言うであろうように。

もちろん、ただ一つの汚れなき御心 -- 原罪とどんな個人的な罪の汚れもなしに宿られた -- をその諸々の罪から立ち帰り、神との内的一致を見出す誰かある人の心のレベルへと降格することを記述するただ一つの言葉がある。その言葉とは冒涜である。この特別の侮辱に関しては次章において述べられるであろう。

ロシアの回心は消失させることがより困難であった。「教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう」という神の御母の非常に明瞭な陳述を覆い隠すために人が言い得ることはそれほど多くない。しかし、われわれがふんだんに論証したように、ロシアの回心はもはやバチカン当局にとっては受け入れることができない。この問題の解決は、聖母の言葉はコメントなしに引用はされているけれども、 TMF においてその主題に関するいかなる議論をも単純に避けることであった。ロシアの回心? どんな回心?

最高の侮辱は TMF におけるファチマの唯一の「権威」のラッツィンガー枢機卿の引用である:すなわち、フランドル人の神学者イエズス会のエドゥアルド・ダニスであり、ラッツィンガー枢機卿は彼をファチマに関する「傑出した学者」であると認めている。ラッツィンガー枢機卿はもちろん、近代主義のイエズス会士ダニスがファチマの御出現に関して疑念を呈することによって紛れもない経歴を作ったことを知っている。ダニスは祈りと悔い改めへの呼びかけを超えるファチマの秘密におけるあらゆる事柄は三人の子どもたちの精神の中で、彼らが彼ら自身の生活の中で見聞きした事柄から一緒に継ぎはぎされたものであるということを持ち出した。ダニスはこのようにして -- かつて一度もシスター・ルチアにインタビューすることも、あるいは公式的なファチマ文書を研究することもなしに -- 「傑出した学者」が恣意的にでっち上げとして拒絶したすべての事柄を「ファチマII 」として分類した。

ダニスが述べるように:「すべての事柄を考察して、シスター・ルチアの説明にどの程度の信憑性を与えるべきかを正確に述べることは容易なことではない。彼女の誠実さ、あるいは日常生活において彼女が示した健全な判断に疑義を差し挟むことなく、彼女の書いた物をただ留保をつけてのみ用いることが賢明であると判断してよいであろう....また、善良な人間が誠実であり得るし、そして日常生活において正しい判断を持っているが、しかし、ある種の領域において、あるいはある場合に、無意識的なでっち上げの生まれつきの傾向、20年前の古い記憶を尾鰭をつけることやかなりの修正を加えることによって語る傾向を持っているということに注目しよう。」注31)

公式のファチマ文書を検討することを拒否したダニスは彼のネオ近代主義的傾向に一致しなかったファチマ・メッセージのあらゆる局面に疑念を投げかける:天使によって教えられた祈りを彼は「不正確」と呼んだ。地獄の幻視を彼は「過度に中世的な描写」と呼んだ。第二次世界大戦の到来を先触れする「未知の光によって照らされる夜」の預言を彼は「疑惑の根拠」と記述した。そしてロシアの奉献に関して、ダニスはきっぱりとこう宣言した:「ロシアは、分離した位階並びにソビエト社会主義共和国連邦という両者の点で、この行為が一つの挑戦の雰囲気を帯びることなしに、教皇によって奉献されることはできないであろう。このことは奉献を実際的に実現不可能とするであろう...」このように、ダニスはロシアの奉献は「それが通常引き起こすであろう反応のゆえに道徳的に不可能」であろうと宣言した。注32)

ダニスのファチマ・メッセージの解体は、近代主義者たちが彼ら自身が発明した諸前提に基づいてどのようにカトリックの諸真理を掘り崩すかの一つの典型的な例である。ロシアの奉献が道徳的に不可能である(発明された前提)がゆえに、ファチマの聖母はどのようしてそれを要求し得たであろうか? このようにシスター・ルチアに反対するお膳立てをした後で、ダニスは「当然の」結論を述べる:「しかし、いとも聖なるおとめが、言葉の厳格さに従って理解されれば、実際上実現不可能であろう奉献を要求なさったということがあり得ようか? ....この質問は実際一つの否定的な答えを要求すると思われる....このように、聖母がロシアの奉献を求められたということがあり得るとはほとんど思われない....」ダニスが発明した前提に完全に基づいて、シスター・ルチアの証言はでっち上げと宣告される。

それはまさにソダノ枢機卿とバチカン当局によって採用された線である:すなわち、神の御母はロシアの公的な奉献のような外交的に当惑させるようなある事柄を要求なさったということはほとんどありえないであろう、と。そしてそれゆえに、われわれはこの当惑させるような考え方をこれを限りに始末しなければならない、と。そして、ラッツィンガー枢機卿がファチマに関する「傑出した学者」としてダニスを称賛することによって、その「注釈」の中で支持したのは、この線、党路線である。ラッツィンガー枢機卿は党路線に従いながら、第三の秘密は特に「ルチアが諸々の信心書の中で見た、そして長い間続いている信仰の直観から霊感を引き出した諸々のイメージ」から成り立っていると示唆している。換言すれば、誰が本当に、第三の秘密のどの部分が真正のものであり、どの部分が単に個人的な記憶あるいは「直観」であると言うことができるか? そしてそのことが第三の秘密について真であるならば、それはまたファチマのメッセージの残りについても真であろう、と。

ラッツィンガー枢機卿が、ファチマのメッセージに対する大きな尊敬を告白する一方で、シスター・ルチアの信憑性を掘り崩すために取った内密の試みは次章で再び取り上げられるであろう。ここでは次のように言うことで十分である。すなわち、メッセージのすべての明確に預言的な要素が信頼できないというラッツィンガー枢機卿のダニスとの明白な一致は第三の秘密あるいはファチマ・メッセージの他のどの部分についていかなる「解釈」をすることからも彼を不適任な者とさせることに役立つ、と。まったく単純に、ラッツィンガー枢機卿は神の御母がロシアの奉献、カトリック信仰へのロシアの回心、汚れなき御心の勝利、そして世界中の唯一の汚れなき御心に対する明確にカトリック的な信心の確立をお求めになったということを信じていないのである。もしそうであるならば、枢機卿は、彼が「解釈する」と主張しているものを実際は地位低下させ、その信用を傷つける一つの試みである「解釈」を敢えて与える代わりに、彼の偏りを明らかにし、その問題をひかえる義務があったのだ。

ラッツィンガー枢機卿とベルトーネが6月26日に始末した後にファチマのメッセージには何が残されたのか? この点に関して、ラッツィンガー枢機卿、モンシニョール・ベルトーネ、そしてダニス神父はすべて[次の点で]一致している:「残っていることは、われわれが『秘密』のテキストに関するわれわれの省察を始めたときにすでに明らかであった:すなわち、『霊魂たちの救い』(ママ)の道としての祈りの勧め、そして同様に、悔い改めと回心への呼びかけである。」2000年6月26日にファチマのメッセージはファチマ・ライト:未来に対する何らの重要性も持たない個人的敬虔のための水で薄められた処方、となった。

神の御母はこのことのために地上に来られ、太陽の奇跡を呼び下ろされたのか? メッセージについてこの最小限の要求しか出さない人間のバージョンを提示することにおいてさえ、ラッツィンガー枢機卿が、彼の注釈の中で信心、勝利そして清いという言葉からいつも距離を置いていたその同じ吐き気のするクォーテーション・マークでそれらの言葉を括弧づけすることなしには霊魂たちの救いについて書くことができなかったということに注目することは興味のあることである。現代教会人たちのうちのエキュメニカルな高位聖職者にとっては、ファチマ・ライトでさえ、カトリック的内容において十分にまったく軽くはないのである。

もしロシアの奉献がなされないならば「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」という聖母の預言的警告について言うならば、このことをわれわれは忘れなければならないと明らかに想定されている。諸民族の絶滅はないであろう、「ファチマはすべて過去にある」。ソダノ枢機卿はそれだけ言う。ラッツィンガー枢機卿は同意する。

ロシアの奉献に関する党路線

われわれは TMF におけるベルトーネ大司教の役割に言及した。その茶番狂言への彼の主要な貢献は次の二つの点である:

第一に、ベルトーネは、信徒はロシアの奉献を要求することを止めなければならないという「命令」(もちろん、誰をも縛らない)を出した:「それゆえに[奉献についての]いかなるこれ以上の議論あるいは要求もその根拠がない。」

この主張を立証するために、ベルトーネは一つの証拠を正確に引用した:すなわち、われわれがすでに言及したネルカー氏に宛てた「シスター・ルチア」からの明らかに偽の「1989年11月8日の手紙」-- 「シスター・ルチア」が、決してそれが起こらなかったがゆえに決して目撃しなかったファチマでの教皇パウロ六世による世界の奉献について書いているその同じ手紙 -- である。十分にききめのあることであるが、ベルトーネは手紙の宛名を同定しそこなっている。彼はまた、パウロ教皇の存在しない「世界の奉献」に関する致命的なへまに誰も気づかないようにするために検討すべきコピーでその言葉を準備していない。さらにききめのあることは、 TMF は、ベルトーネ自身がわずか2ヶ月前に第三の秘密について彼女にインタビューをしたのにもかかわらず、そして彼女は5月の列福式の間にラッツィンガー枢機卿およびバチカン当局全体に容易に会うことができたにもかかわらず、奉献に関するシスター・ルチア自身によるいかなる直接の証言も絶対に含んでいないのである。何ら驚くことはない。「ロシアの奉献」についての TMF バージョン -- それはすなわち、ソダノ枢機卿バージョンのことであるが -- はシスター・ルチアによるそれとは反対の生涯をかけての証言とはまったく矛盾する。われわれはここで二三の例を考察する。

55年以上前、1946年7月15日に、有名な作家であり歴史家であるウィリアム・トーマス・ウォルシュはシスター・ルチアにインタビューを行った。それは100万部以上売れた彼の重要な著作 Our Lady of Fatima の中で詳しく述べられた。その書物の終わりに載せられているこのインタビューで、ウォルシュ氏は[司教たちによる]共同奉献のための正しい手続きについて彼女に鋭い質問をした:

最後にわれわれは、それについて非常に多くの異なったそして矛盾するバージョンが公表されてきた第二の7月の秘密の重要な主題に到達した。ルチアは聖母が御自分の汚れなき御心への世界の奉献を要求なさらなかったということを明らかにした。聖母がはっきりと要求なさったことはロシアの奉献であった。もちろん、彼女は1942年に教皇ピオ十二世が汚れなき御心に、ロシアではなく、世界を奉献されたという事実に関してコメントしなかった。しかし彼女は何度も、そして意識的に強調しながらこう言った:「聖母が欲しておられることは教皇と世界のすべての司教たちがある特別の一日に聖母の汚れなき御心にロシアを奉献することです。もしこのことがなされるならば、聖母はロシアを回心させられ、そして平和が訪れるでしょう。もしそれがなされないならば、ロシアの諸々の誤謬は世界のあらゆる国々に広まるでしょう。」注33 )

シスター・ルチアは明瞭で率直である。神によって要求された共同的奉献はロシアの奉献であって、世界の奉献ではない。その奉献は同じ日に世界の司教たちと一致して教皇によってなされなければならない。

次に1950年代初期にシスター・ルチアへの聖母のほとんど知られていない啓示がある。それはイタリア司教団の後援の下で出版された Il Pellegrinaggio Della Meraviglie において詳しく述べられている。おとめマリアは1952年5月にシスター・ルチアに御出現になり、こう言われた:「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献を常に待っています。奉献なしにはロシアは回心することができないでしょう。また世界は平和を手にすることもないでしょう。」注34)

このように、教皇ピオ十二世の1942年世界の奉献の10年後に、シスター・ルチアに、ロシアが名を挙げて奉献されない限り、ロシアが回心しないであろうし、また平和はやって来ないであろうということを思い起こさせられる聖母についての報告をわれわれは持っているのである。

30年後、1982年にシスター・ルチアの証言は不動のままである。1982年5月12日、試みられた1982年奉献の前日、バチカン自身の L'Osservatore Romano はサレジオ会司祭、ウンベルト・パスクアーレ神父によるシスター・ルチアのインタビューを公表した。そのインタビューの間に彼女はウンベルト神父に、聖母は世界の奉献を決して要求されなかった、しかしただロシアの奉献だけを要求なさったと語った:

ある時に私は彼女にこう言った:「シスター、一つ質問したいのだが。もし答えることができないなら、それでよい。しかしもし答えることができるなら、あなたに非常に感謝するだろう....聖母はあなたに聖母の汚れなき御心への世界の奉献について話されたことがありますか?」

いいえ、ウンベルト神父様!一度もありません!1917年にコヴァ・ダ・イリアで聖母はこう約束なさいました:私はロシアの奉献を求めるために戻って来るでしょう....1929年にトゥイで、約束なさったように、聖母はあの国(ロシア)の奉献を教皇に求める時が来たということを私に告げるために戻って来られました。」

この証言はウンベルト神父宛の手書きの手紙の中でシスター・ルチアによって確証された。神父はまたそれを公表した。(写真による複写を見よ。)その手紙の翻訳は次の通りである:

ウンベルト神父様、あなたの質問に答えて、次のことを明らかにします:ファチマの聖母は、その要求において、ただロシアの奉献のみに言及なさいました....コインブラ、1980年4月13日 (署名)シスター・ルチア

再び、1983年3月19日に、教皇の要求で、シスター・ルチアは教皇使節ポルタルピ大司教、ラセルダ博士そしてメシアス・コエリョ神父と会った。この会合の間にシスター・ルチアは1982年のヨハネ・パウロ教皇の奉献は聖母の要求を満たさなかったということを確証した。シスター・ルチアはこう言った:

1982年5月13日の奉献の行為においてロシアは奉献の対象であるものとしては現れませんでした。そして各司教は彼自身の司教区において償いとロシアの奉献の公的で荘厳な儀式を組織しませんでした。教皇ヨハネ・パウロ二世はただ、1942年10月31日にピオ十二世によって行われた世界の奉献を更新なさっただけです。この奉献から私たちはいくつかの利益を期待することができます。しかしロシアの奉献ではありません。注35)

彼女はこう結論した:「ロシアの奉献は、聖母がそれを要求なさったようにはなされませんでした。わたしは聖座の許可を得ていませんでしたので、そのことを言うことができませんでした。」注36)

1年後、1984年3月25日に教皇ヨハネ・パウロ二世はその中で彼が再びロシアをではなくて、「世界」を奉献された奉献の行為をされた。1982年奉献がそうであったと同じように、「各司教は彼自身の司教区において償いとロシアの奉献の公的で荘厳な儀式を組織しなかった。」この儀式に関してフレール・フランソワはこう書いている:「1982年の行為の単に更新に過ぎなかった1984年3月25日の奉献の行為に続く数ヶ月間に、ファチマの主要な学者たちはロシアの奉献は神がそれを望まれたようにはなされなかったと言うことにおいて一致した。」注37)

そのようなものがまたアントニオ・マリア・マルティンス神父 注38)およびメシアス・コエリョ神父の確信でもあった。コエリョ神父は1984年3月25日の前夜、彼がその発行者・編集者である Mensagem de Fatima において、「ロシアの奉献:それは今回もなおなされないであろう」と告知した。彼はさらにこう説明した:「より多くのものがより少ないものを含むということは確かである。それゆえに明らかに『世界の奉献』がおそらくはっきりとロシアを奉献するということに取って代わる力を持っているという印象を与えるであろう。しかしながら、問題は論理的な用語においても、また組織神学の光に照らしても、解決され得ない。」注39)

これらの神学者たちは彼らの陳述を単に、ロシアの奉献が「ロシア」という言葉を必要とするというありのままの事実に基づかせているばかりでなく、またシスター・ルチア自身の証言に基づかせている。

1984年3月22日、奉献の行為の2日前に、コインブラのカルメル会はシスター・ルチアの77歳の誕生日を祝っていた。彼女はその日に、いつもの習慣のように、彼女の年老いた友人であるエウジェニア・ペスタナ夫人の訪問を受けた。ペスタナ夫人は、彼女のカルメル修道女の友人にお祝いを述べた後で、こう尋ねた:「ところで、ルチア、日曜日は奉献の日だわね?」すでに教皇の奉献の式文のテキストを受け取り読んでいたシスター・ルチアは一つの否定的なしるしをしてこう宣言した:「あの奉献は決定的な性格を持つことはできないわ。」注40)

適切な奉献の特徴である「決定的な性格」はロシアの奇跡的な回心である。教会の新しい「エキュメニカルな方向づけ」は問題を混乱させて来たけれども、ロシアの回心はカトリシズムへの回心を意味する。これは単に常識の問題であるばかりでなく、また、おそらく二十世紀の最高のファチマ専門家であるホアキン・アロンソ神父の証言のうちにも見出される。シスター・ルチアと多くインタビューをしたアロンソ神父は1976年にこう書いた:

....われわれは、ルチアが常に、ロシアの「回心」がソビエトの人々のマルクス主義的無神論を拒否してロシアの人々が正教のキリスト教諸宗教へと立ち戻ることに限定されるべきではない、むしろ、それは純粋に、単純にそして端的にキリストの唯一の真なる教会、カトリック教会へとロシアが全体的、総体的に回心することを言っているのだ、と考えていたと主張すべきである。注41)

Sol de Fatima における1985年のインタビューの中で、シスター・ルチアは、教皇が1984年に世界を奉献したときに聖母の要求を満たしたかどうか尋ねられてこう答えた:「すべての司教の参加がありませんでした。またロシアの言及がありませんでした。」次に彼女はこう尋ねられた:「それでは、その奉献は聖母によって要求されたようにはなされなかったのですか? 」それに対して彼女はこう答えた:「はい、なされませんでした。多くの司教たちはこの行為に何ら重要性を与えませんでした。」注42)

進歩主義者たちの仲間であるルネ・ローランタン神父でさえ、1986年に「シスター・ルチアは不満足のままである....注43)ルチアは奉献が、聖母がそれを望まれたようには、『なされなかった』と考えていると思われる」ということを認めた。注44)

次に1987年7月20日に、シスター・ルチアは投票に出かけた間に彼女の修道院の外ですばやくインタビューをされた。ここでシスター・ルチアはジャーナリストのエンリケ・ロメロにロシアの奉献は要求されたようにはなされなかったと告げた。注45)

1984年奉献が神の出された諸々の条件を満たさなかったというシスター・ルチアのもっと多くの主張を引用することができるであろう、注46)しかし重要な点は:モンシニョール・ベルトーネとラッツィンガー枢機卿がソダノの党路線に従って、ロシアの適切な奉献の神の御要求に関するシスター・ルチアによる50年以上の不動の証言を制覇するためにたった一通の、明らかにインチキの手紙に全面的に頼っていたということである。彼らはその問題についてシスター・ルチアに彼ら自身で敢えて尋ねることもしなかった -- あるいは、もし彼らはそうしていたならば、彼女は党路線に一致する答を与えなかったであろう。注47)

ファチマと世界平和に関する党路線

このことはわれわれをモンシニョール・ベルトーネの第二の茶番劇への貢献へともたらす。それは以下の陳述の形でやって来た:

ファチマの「秘密」の第三部を公表するようにという教皇ヨハネ・パウロ二世の決定は、権力および悪に対する悲劇的な人間の欲望によって特徴づけられた、にもかかわらず神の憐れみ深い愛とイエズスおよび教会の御母の用心深い配慮によって浸透された歴史の一時期を終わらせる。

この不条理な主張の無礼さを表現する言葉を見つけるのは困難である。ここでソダノの党路線は権力と悪に対する人間の欲望の全体的な時代が「白衣を着た司教」の漠然とした幻視についてのバチカンの「開示」とともに終わりを告げたと真面目に提案しているのである。その場合には、モンシニョール・ベルトーネによれば、バチカンがしなければならなかったことがただ、この幻視を公表するために1960年に記者会見をはでに行うことであったときに、なぜ世界平和をもたらすために40年間待ったのか?

ソダノ枢機卿は、1984年の「ロシアの奉献」に引き続いて決して具体化されなかった汚れなき御心の勝利に取って代わるある種の偽造物を信徒に用意しなければならないということを明らかに認めた。2000年6月26日の記者会見はこのようにしてファチマのメッセージの偉大な頂点として提供された!

しかしどういうわけか、モンシニョール・ベルトーネとラッツィンガー枢機卿は同じように、彼ら自身が TMF において(部分的に)写真によって再現された1982年5月12日の教皇宛てのシスター・ルチアの手紙が明白に意味しているものを無視しようとした:

そして、たとえ私たちがこの預言の最後の部分の完全な実現をまだ見なかったとしても、私たちはそれに向かって大股で進んでいるのです。注48 )もし私たちが罪、憎しみ、復讐、不正、人間人格の諸権利の侵害、不道徳そして暴力等々の道を拒否しないならば;そして私たちをこのような仕方で罰しておられるのは神であると言わないようにしましょう;反対に、彼ら自身の罰を準備しているのは人々自身なのです。

この1982年の手紙は1981年の暗殺未遂には絶対に何も言及していない。ましていわんや、それはその未遂を第三の秘密のある種の実現として特徴づけてはいない。明らかに、未遂の1年後にシスター・ルチアは教会がファチマ・メッセージの命令に心を留めることに失敗した結果として起こるであろう地球的な懲罰について心配し続けた。彼女は確かに教皇に汚れなき御心の勝利について書かなかった。むしろ諸民族の絶滅について書いた。

シスター・ルチアからの同じ手紙(ラッツィンガーとベルトーネはわれわれにそれが教皇ヨハネ・パウロ二世に宛てられたものであると告げている)が次の文言を含んでいるということもまた非常に奇妙である:「あなたが知りたいと非常に望んでおられる(que tanto ansiais por conhecer)秘密の第三の部分」。教皇は、1957年以来置かれていたバチカンですでに自分の所有物としてそのテキストを持っておられたとすれば、なぜ「そのように知りたいと望まれ」たのであろうか? 教皇は、すでに1981年に読まれた(ベルトーネ/ラッツィンガーが主張するように)もの、あるいは教皇スポークスマンのホアキン・ナヴァロ-ヴァルスがポルトガルの新聞に語ったように1978年という早い時期に読まれたものをなぜ「そのように知りたいと望まれ」たのか?

「あなたがそのように知りたいと望まれている」という文言がラッツィンガー枢機卿/ベルトーネ注釈のさまざまの言語バージョンにおけるオリジナルのポルトガル語の手紙のあらゆるバチカンの翻訳から削除されているということは非常に怪しい。 TMF のポルトガル語バージョンでさえオリジナルの手紙のポルトガル語のタイプによる再現から「あなたがそのように知りたいと望まれている」という文言を脱落させている。明らかに、バチカン当局は、どのように教皇が既に知っていた何かあることを知りたいと望むことが出来たのかについての質問の嵐を避けたかったのである。しかし、報道記者たちがそれらの諸々の翻訳をオリジナルのポルトガル語の手紙と比較することができる時までに記者会見は終わった。そしてそれ以上の質問をすることはできなかったのである。

二つの答えが可能である:その手紙は実際は教皇に書かれなかったか、あるいはシスター・ルチアからのものだと主張されたその手紙の日付、1982年5月12日のものとしては教皇が実際には知らなかった何かより以上のものが秘密にはあったか、のいずれかである。サー・ウォルター・スコットの有名な金言が言っているように:「おお、われわれが最初に騙そうと実践するときには、何ともつれた蜘蛛の糸を織ることだろう。」注49)最初の嘘 -- ファチマは過去に属するという -- は最初のものを覆い隠すために他の嘘のもつれた蜘蛛の糸へと導く。

グルーナー神父を標的にする

しかしファチマを過去の中へ葬るためのこのキャンペーンにおいてはもっと多くのことをしなければならない。教会についてのその新しいビジョンを追求しているバチカン当局がおとめ[マリア]の要求に対して背を向けたという点をその使徒職の出版物や放送がしつこくそしてまったく効果的に知らせて来た「ファチマの司祭」についてはどうか? 6月26日の記者会見の終わりに、ラッツィンガー枢機卿は、グルーナー神父は(党路線がそうしているように)今や終わりそして始末されたロシアの奉献の問題に関して「教導権に従順」でなければならないと述べながら、ニコラス・グルーナー神父を名を挙げて言及するために彼の道を踏み出した。しかし、教導権 -- 教会の権威ある教えの職務 -- はこの種のことを何も教えなかった。ただファチマについてのソダノの解釈、そして(ただ祈りと償いだけを残して)ファチマ・メッセージのはっきりした預言的内容のすべてを説明し去ろうとする TMF の拘束力のない「試み」だけが存在した。

この迫害に歯止めをかましながら、バチカンの聖職者聖省は6月26日の記者会見のわずか数日前に、グルーナー神父に、彼がカトリック教会から破門されるであろうという驚くべき脅迫を含む一通の手紙を送った。この手紙の後には、グルーナー神父が(要求された他の諸々の事柄とともに)「教会当局に一致する」-- すなわち、アヴェリーノ司教区に戻り、彼の使徒職を閉鎖し、ファチマに関する党路線に屈服する -- のでない限り、破門されるであろうと忠告しながら、フィリッピン(そこではグルーナー神父の使徒職が強く支持されている)の司教たちへのコミュニケが続いた。アヴェリーノ司教は、彼自身の側では、グルーナー神父の奉仕を決して必要としなかった。1978年以来彼を財政的に支えなかった。そしてアヴェリーノへの「帰還」のために適切な移民ビザを確保するために何の行動も決して取らなかった。アヴェリーノの司教は国務長官のチェス・ゲームにおけるポーン[チェス・ゲームにおける、将棋の歩にあたる駒]にしか過ぎなかった。(われわれはこのパロディについて後の章でもっと多くのことを言わなければならないであろう。)

6月26日の記者会見の終わりでのグルーナー神父についての彼の所見の中で、ラッツィンガー枢機卿はまた、グルーナー神父が明らかに angoscia -- 極端な精神的苦痛にあたるイタリア語 -- を受けたということに言及した。ラッツィンガー枢機卿は、教会を愛するどの忠実な司祭においても angoscia を実際引き起こすであろう破門の脅迫について、明らかに知っていた。しかしグルーナー神父の苦境は単に公会議後の時代における全体としての教会の苦境を象徴するものにしかすぎない:すなわち、信仰と道徳に反するいかなる罪も犯さなかった一人の司祭が聖職者聖省のまさに長官によって個人的に破門をもって脅迫され、その一方で、教会の至るところで[司祭であることを示す]ローマン・カラーをつけた他人を食い物にする者どもが祭壇奉仕者の少年たちにみだらなことをし、あるいは異端を広めているのに、彼らの司教たちは彼らをあちこちへ移動させ、あるいは彼らの活動を隠し、彼らを罰から保護しているのである。そして聖職者聖省は何もしないのである。

この著しく常軌を逸した不釣り合いを何と説明すべきであろうか? われわれには、われわれがこれまでに示してきたことに基づいて、ただ一つの分別のある説明だけがあると思われる:すなわち、公会議後の適応のカトリック教会においては唯一の許され得ない罪は、ちょうどスターリン主義ロシアにおいてそうであったと同じように、党路線に反抗することである。そしてグルーナー神父はファチマに関する党路線に反抗したのである。

聖母が退出され、ゴルバチョフが入って来る

われわれはファチマ・メッセージのこの嘲りとぼやかし -- ファチマに関する党路線 -- が、ソダノ枢機卿が教会の新しい方向づけについての彼の追求をうまくやって行けるように、これを限りにきっぱりとそれを葬り去ることを意図していると主張してきた。ここに、われわれが意味していることについての一つの特に抗しがたい例がある:

6月26日にラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネによってファチマが(Los Angeles Times を引用して言えば)「おだやかに地位低下させ」られた後、ソダノ枢機卿によって導かれたバチカン当局は教会の重大な仕事と考えることを直ちに始めた。まさにその翌日、ミハイル・ゴルバチョフはバチカンの「記者会見」でソダノ枢機卿とシルヴェストリ枢機卿との間に名誉来賓として着席した。この記者会見の目的は何であったか? それは教会の新しい方向づけの鍵になる諸要素のうちの一つ:東方政策 Ostpolitik 、教会を迫害している(赤色支那を含む)共産党諸政府との「対話」と順応の政策を祝うために召集された。記者会見の直接的なきっかけは Ostpolitik の主要な立案者であり国務長官の党路線を強化することにおけるソダノ枢機卿の前任者だったカザロリ枢機卿の回想録の死後出版であった。

真にスターリン的なやり方で、この奇妙な「記者会見」では記者団からはいかなる質問も許されなかった -- 記者団からのいかなる質問もない記者会見! -- 明らかにバチカンは、ファチマについての何らかの質問、あるいは自分は今なおレーニン主義者であるということを認め、そして彼の非課税財団が世界人口から40億人を取り除くための中絶と避妊の使用を促進している人間、ミハイル・ゴルバチョフのごとき輩をなぜ礼遇するのかという質問でもって党路線に誰も反抗する者がないことが確実であることを望んだのだ。注52)彼がなおソビエト共産党書記長であったときのソビエトによるアフガニスタン侵略についてのこの血にまみれた人物の公的な抗弁 -- アフガニスタンの子どもたちの手足や頭を吹き飛ばすように、玩具に見せかけた爆弾を撒き散らしたことを含む大量虐殺的な軍事行動は言うに及ばない。注53)

すべての時代の教会と適応の教会との間の基本的な対立についてのこれ以上に劇的な証明があり得るであろうか? 2000年6月26日にファチマの聖母は帰ってくれと言われ、聖母の天上のメッセージはそれを敢えて忘却へと委ねようとした人々によってずうずうしくも検閲され、修正された。それから、一日後に、ミハイル・ゴルバチョフは、故カザロリ枢機卿および彼の後継者ソダノ枢機卿によって完成されたものとして、教会の新しい方向づけを祝うために、バチカンに入った。

死の文化の指導者ゴルバチョフは、彼が「政治家たちのヨベル[記念祝典]」-- 世界のおよそ5,000人の神なき世俗的国家の支配者たちのための晩餐祝賀会 -- で教皇と他の高位聖職者たちに演説した2000年11月4日に再びバチカンによって栄誉を受けた。写真家たちは中絶ホロコーストのこの主要な促進者による演説に非常に注意深く聴き入る教皇を捕らえた。注54)Jubilee ヨベル -- 旧約聖書の慣習に由来する教会における一つの霊的な伝統 -- と世俗的な問題に関して[なされた]中絶賛成の政治家たちによる演説とのこのグロテスクな混合は、ローマ・カトリック教の「現代文明」への偉大な適応において教会を絶えず世界と合体させようと努めている新しい方向づけの単に典型的なものにすぎない。

ゴルバチョフは彼が今なおレーニン主義者であることを認めている。そして彼は世界フォーラムの彼の地位を通じて中絶、人工調節そして彼のレーニン主義的諸原理を促進し続けている。ゴルバチョフは、共産主義と国家無神論の諸々の誤謬を公然と非難することを拒否している東方政策というバチカンの政策を擁護したカザロリ枢機卿の回想録を奨励するために2000年6月27日のバチカン記者会見でソダノ枢機卿によって彼の側に坐るために招待された。上の写真は2000年11月、「政治家たちのヨベル[記念祝典]」で教皇、他のバチカン・クリアの高官たちそして政治家たちに演説するために招待されたゴルバチョフである。

脚注

1. "The Moscow Patriarchate and Sergianism" by Boris Talantov, from Russia’s Catacomb Saints,(St. Herman of Alaska Press, Platina, California, 1982)pp. 463-486.

2. "The Moscow Patriarchate and Sergianism: An Essay by Boris Talantov," found at www.orthodoxinfo.com/resistance/cat_tal.htm.

3. Remarks of January 17, 1998 at Aid to Church in Russia Conference, www.catholic.net/rcc/Periodicals/Faith/1998-03-04/Russia.html. Reprinted in The Catholic Dossier, March/April 1998, p. 4.

4. L’Osservatore Romano, March 26-27, 1984, pp. 1, 6.

5. Avvenire, March 27, 1984, p. 11.

6. Father Fabrice Delestre, "Fatima: Why Isn’t the Mother of God Being Obeyed as She Should Be?", Angelus, June 2000, Vol. 23, No. 6. See also Frère François de Marie des Anges, Fatima: Joie Intime Événement Mondial,(French edition, Contre-Réforme Catholique, France, 1991)pp. 363-364; Frère François de Marie des Anges, Fatima: Tragedy and Triumph, pp. 168-172.

7. Father Maurer’s remarks appeared in an interview in Catholic World Report, Feb. 2001. A synopsis and commentary on this interview was published in "The Myth of a Converted Russia Exposed", Marian Horvat, Ph.D., Catholic Family News, March 2001.

8. See Mark Fellows, "This Present Darkness" Part III, Catholic Family News, October 2000.

9. ロシアにおけるアルコールに関して研究者たちはこう結論した:「伝統的に世界において最高位に入り、そして1990年代に著しく上昇しているロシアのアルコール消費率はこの国の健康危機の主要な貢献要因である....アルコール中毒は、特に成人男子の間では、伝染病的な規模に達した....ある1995年ロシア研究は頻繁な大酒のみがブルーカラー労働者の25%から60%の間に影響を与えたことを見出した....1994年にはおよそ53,000人の人々がアルコール中毒で死亡したが、これは1991年以来およそ36,000人の増加である。」そうだと主張されているロシアの回心以来の10年間に、また不法なドラッグの使用の急激な増加があった:「1995年には推定2万人のロシア人が、1990年代半ばに毎年50%使用者数が増加しながら、ソ連全体で10年前の20倍以上を記録して、麻薬を使用した....」From Mark Fellows, "This Present Darkness", Part II, Catholic Family News, Sept. 2000.

10. "Satanism on the Rise in Russia" compiled by John Vennari. See www.fatima.org/satanism. html.

11. "Russia Legalizes Homosexuality", United Press International, May 28, 1993. 論考の初めの部分を引用するならば:「ロシアの同性愛活動家たちは金曜日、男たちの間の同意の上でのセックスを禁止していたソビエト刑法典第121条の廃止に続くソビエトロシア後のゲイの諸権利の主要な勝利を祝った。『これはロシアにおけるゲイとレスビアンたちにとって大きなニュースである』とモスクワのゲイ雑誌 Risk の編集者ウラディスラフ・オルタノフは語った。」

12. "Activist Says Child Porn Prosecutions Will be Difficult in Indonesia, Russia", Christine Brummitt, Associated Press, Aug. 9, 2001.(Emphasis added)

13. "Big Brotherski goes too far for Staid Russians", Mark Franchetti, Sunday Times(London), November 25, 2001.

14. "New Visa System Seen Choking Russia’s Catholic Parishes", Russia Reform Monitor, No. 485, July 28, 1998. Also, "Catholic Clergy in Siberia Face Growing Visa Difficulties", Catholic World News, November 19, 1997.

15. Sarah Karush, "Foreign Priests Spark Controversy", Associated Press, February 12, 2002.

16. Radio Free Europe Report, June 20, 2001.

17. Ibid. See also Catholic News Service, February 17, 2002.

18. Fatima: Tragedy and Triumph, pp. 189-190.

19. ネルカー書簡の嘘についてのすぐれた論考に関しては以下を見よ: Mark Fellows, "This Present Darkness" Part II, Catholic Family News, Sept. 2000.

20. 権威が政府の過度の中央集権化による専制政治を避けるために最小限可能なレベルで行使されるということを要求する原理。例えば、ある町の予算案は国家あるいは連邦政府によってではなくて、その町の代表者たちによって決定されるべきである。

21. 1967年以前の古い機構の下では、教皇がローマ・クリアを主宰した。1967年以降の新しい機構の下では、ローマ・クリアを主宰するのはバチカン国務長官である。ローマ・クリアの機構における変化を見るためには1967年以前と以後の両方の Annuario Pontificio をチェックすることをお勧めする。

22. 一人のフランス人司祭がそのフリー・メーソンの文書を、他の人にもだが、アメリカ人司祭の Paul Kramer 神父に示した。

23. Paul Fisher, Their God is the Devil,(American Research Foundation, Washington, D.C., 1990)p. 40.

24. See Francis Alban and Christopher A. Ferrara, Fatima Priest, Fourth Edition(Good Counsel Publications, Pound Ridge, New York, 2000), Chapters 12, 14, 17-22; App. I, App. II.

25. グルーナー神父を沈黙させるための長いそして欺瞞的な「訴訟手続き」の詳細については以下の参照してください: Fatima Priest(Fourth Edition), A Law for One Man(both available from the Fatima Center, 17000 State Route 30, Constable, New York 12926)or visit the Fatima web site at www.fatima.org.

26. 断続的な列福儀式とそれに関係する諸問題については以下のものを見てください: the daily newspaper Correio da Manhã of 14 October 1999, the article on p. 12; the weekly newspaper Jornal de Leiria of 14 October 1999, p. 24; the weekly newspaper A Ordem on 21 October 1999, p. 1; the official weekly of the Patriarchate of Lisbon Voz da Verdade on 31 October 1999, on p. 6, the article entitled "The Beatification of the Little Shepherds Definitely Will Be At Rome"; the official weekly of the Patriarchate of Lisbon Voz da Verdade on 5 December 1999, entitled "The Pope Will Return to Portugal; Fatima is the Place of the Beatification"; article in Euronoticias on 24 March 2000, p. 8, entitled "Bishop of Leiria-Fatima" March 21 press conference; weekly Euronoticias of 24 March 2000, on p. 8, "Crisis: The Bishop of Leiria-Fatima Creates A Mystery Around the Visit of the Pope Without Telling the Patriarch What It Concerns, Will the Pope Reveal the Third Secret?"; Euronoticias of 24 March, an article on p. 9 entitled "Analysis: Persons Who Have Studied the Apparitions Say That the Third Secret Could Concern the Destruction of the Faith. A Crisis in the Interior of the Church Would be the Third Secret".

27. Father Herman Bernard Kramer, The Book of Destiny,(first published 1955, republished by TAN Books and Publishers, Inc., Rockford, Illinois, 1975)pp. 279-284.

28. Ibid.

29. Ibid.

30. On this point we refer the reader again to the following articles: in Euronoticias on 24 March 2000, p. 8, entitled "Bishop of Leiria-Fatima" March 21 press conference; weekly Euronoticias

of 24 March 2000, on p. 8, "Crisis: The Bishop of Leiria-Fatima Creates A Mystery Around the Visit of the Pope Without Telling the Patriarch What It Concerns, Will the Pope Reveal the Third Secret?"; Euronoticias of 24 March, an article on p. 9 entitled "Analysis: Persons Who Have Studied the Apparitions Say That the Third Secret Could Concern the Destruction of the Faith. A Crisis in the Interior of the Church Would be the Third Secret".

31. Dhanis’ entire thesis against Fatima is explained and critiqued in Frère Michel, The Whole Truth about Fatima - Volume I, Part II, Chapter 1. All quotations concerning his false theory are from this source.

32. Ibid.

33. William Thomas Walsh, Our Lady of Fatima,(Image-Doubleday, New York, Imprimatur 1947)p. 221. Emphasis in the original.

34. Il Pellegrinaggio Della Meraviglie, p. 440. Rome, 1960. This same work, published under the auspices of the Italian episcopate, affirms that this message was communicated to Pope Pius XII in June. Also, Canon Barthas mentioned that apparition in his communication to the Mariological Congress of Lisbon-Fatima, in 1967; see De Primoridiis cultus marianae, Acta congressus mariologici-mariana in Lusitania anno 1967 celebrati, p. 517. Rome, 1970. See Fatima: Tragedy and Triumph, pp. 21 and 37.

35. Fatima: Tragedy and Triumph, p. 165.

36. Reported within an article by Father Pierre Caillon of Centre Saint Jean 61500 Sees,(Orne)France. This article was published by the monthly periodical Fidelite Catholique, B.P. 217-56402. Auray Cedex, France. English translation from The Fatima Crusader, Issue 13-14,(Oct.-Dec., 1983)p. 3.

37. Fatima: Tragedy and Triumph, p. 172.

38. See Fatima e o Coraçao de Maria, pp. 101-102.

39. Fatima: Tragedy and Triumph, pp. 172-173.

40. Ibid., pp. 167-168.

41. La Verdad sobre el Secreto de Fatima, Fatima sin mitos, Father Joaquin Alonso,(2nd edition, Ejercito Azul, Madrid, 1988)p. 78. English translation by Joseph Cain. Original Spanish reads: "... podriamos decir que Lucia ha pensado siempre que la "conversión" de Rusia no se entiende solo de un retorno de los pueblos de Rusia a la religion cristiano-ortodoxa, rechazando el ateismo marxista y ateo de los soviets, sino que se refiere pura y llanmente a la conversion total e integral de un retorno a la unica y verdadera Iglesia, la catolica-romana."

42. Sol de Fatima, September 1985.

43. Chrètiens-Magazine, March 1987, #8. Cited from Fatima: Tragedy and Triumph, p. 189.

44. Father Laurentin, "Multiplication des apparitions de la Vierge aujourd’hui, p. 45, Fayard, September, 1988. Cited from Fatima: Tragedy and Triumph, p. 189.

45. This testimony of Sister Lucy was reported in the early August(1987)edition of Para Ti published in Argentina. See World Enslavement or Peace ... It’s Up to the Pope, Father Nicholas Gruner(Immaculate Heart Publishing, 1989), pp. 212-213.

46. For more testimony, see Chapter VI of Fatima: Tragedy and Triumph.

47. The reported November 17, 2001 interview between Archbishop Bertone and Sister Lucy is treated at length in Chapter 14, "Let us Hear the Witness, For Heaven’s Sake".

48. The Vatican translation "we are going towards it little by little with great strides" is clearly defective. The words "little by little" do not appear in the handwritten Portuguese original published on p. 9 of TMF provided by the Vatican itself. We have thus provided our own accurate translation.

49. "Marmion: A Tale of Flodden Field", Canto 6, stanza 17. Poem by Sir Walter Scott.

50. ラッツィンガー枢機卿自身が第三の秘密のバチカンの解釈に関して次のように言ったということは注目されるべきである:「教会は一つの解釈を押しつけようと欲しているのではない。」この引用は以下の記事において報告された: "Final Secret of Vatican Published by Vatican", Boston Herald, June 27, 2000; "Vatican’s Secret is Out", The Express, June 27, 2000; "Vatican Unease as it Reveals the Full Third Secret of Fatima", Financial Times(London), June 27, 2000; "Fatima ‘Snapshot of Martyr’s Past Century’", The Irish Times, June 27, 2000.

51. News of June 27, 2000 press conference. "Gorbachev Helps Introduce Casaroli Memoirs", Catholic World News, June 27, 2000.

52. 1995年9月にゴルバチョフはサンフランシスコにおいて彼の "State of the World Forum" を開催した。4000人以上の世界の「エリートたち」は5日間のイベントに参加するために一人当たり5000ドルを支払った。フォーラムの最終の全体会議においてサム・キーンという哲学者・著作家がその会議についての要約と結論的な所見を用意した。それはそのフォーラムの反生命的・反キリスト教的エトスを明らかにしている。会議出席者たちにキーンはこう述べた:「宗教的諸制度が人口爆発に対して主たる責任を取らなければならないということに非常に強い一致があった。われわれは性について、避妊について、中絶について、人口を抑制する諸価値についてもっと明瞭に話さなければならない。なぜなら、エコロジカルな危機は、簡潔に言えば、人口の危機だからである。人口を90%まで削減せよ、そうすれば、大きなエコロジカルな危害をなすために残される充分な人々は存在しない。」 "World’s elite gather to talk depopulation," John Henry Western, The Interim, April 1996.を見よ。

53. See interview with Afghan official Abdul Shams in Review of the News, July 1985.

54. Photograph published in Catholic Family News, January 2001, p. 13.

2005/06/03 三上 茂 試訳

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作成日:2005/06/03

最終更新日:2005/06/03

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