ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

第12章 第三の秘密は二つの異なったテキストから成っているか?

ソダノ / ラッツィンガー / ベルトーネ同盟は、ファチマに関する書物を閉じようとする彼らの最善の努力にもかかわらず、2000年6月26日の記者会見をもってしても成功しなかった。世界中の十分な知識を持ったカトリック教徒は言葉を伴わない、「白衣を着た司教」のやや曖昧な幻視が、バチカンが40年間鍵をかけて秘してきた一つの秘密がそこにあるべきすべてであり得るとは信じなかった。

何かが欠けているはずだという主張を支持する最善の証人は、十分に皮肉なことであるが、われわれがすでに指摘した雑誌 Jesus において1984年に話しているラッツィンガー枢機卿自身であった。「信仰とキリスト者の生命、そしてそれゆえに世界[の危険]に対する危険」に関して、当時に戻って枢機卿が言及していた「宗教的預言」に何が起こったのか? 「『第三の秘密』のうちに含まれている諸々の事柄は聖書において告知されたこと、そしてその[すでに]知られた内容においてファチマそれ自体の御出現とともに始まる他の多くのマリアの御出現において再三言われて来たことに一致する」という彼の1984年の陳述についてはどうなのか? 「白い衣を着た司教」の幻視においては何一つ、他の多くのマリアの御出現において言われて来たことを繰り返していない。なぜならこの幻視においてはマリアはぜんぜん何も言っておられないからである。そしてもし、2000年のラッツィンガー枢機卿が今主張したように、「白い衣を着た司教」が1981年に死を免れた教皇ヨハネ・パウロ二世であったならば、なぜラッツィンガー枢機卿は1984年に単純にこのことを公表し、第三の秘密は成就されたと宣言しなかったのか?

多くの完全に忠実なカトリック教徒にとって避けられない結論はその幻視に附随するもう一つの文書がなければならないということであった。おそらくこの真相に関するバチカンの困惑の最高潮は「ファチマは終わった」記者会見のほとんど1年後、2001年5月16日に来た。その日に、マザー・アンジェリカ -- どちらかと言えばバチカン当局の忠実な擁護者である -- が彼女のライブのテレビ・ショーで数百万のカトリック教徒の常識を表明したのである。

秘密に関して言えば、そうですね、私はたまたま、われわれは事柄全体を手に入れなかったと考えている人々の一人です。私はそう言いました!つまり、あなたはあなた自身の意見に対する権利を持っているということです、そうではありませんか、神父様? ね、これが私の意見です。なぜなら、それは恐ろしいことだと思うからです。そして私は聖座が起こっていない何かあること、起こるかもしれないあることを言おうとしているとは思いません。そしてそれから、もしそれが起こっていないならば、それは何をするのでしょう? 私が言いたいのは、聖座は預言を作ることはできないということです。注1)

われわれがこの章において対決しなければならない問題 -- マザー・アンジェリカのようなそのようなカトリック教徒が提出した問題 -- はファチマの第三の秘密が2000年6月に公表されたたった一つの文書のうちに完全に含まれているのか、それともそれは二つの文書:すなわち、2000年6月に公表された幻視とその幻視を説明する聖母の言葉を含む一つの別のテキスト -- ルチアの第四回想録における「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」という文言に直接続く言葉 -- から成っているかどうかということである。

実際第三の秘密を含んでいる二つの文書が存在するという確信が大きくなっている。しかし、第二の文書の存在を支持するどんな証拠があるのか?

第4章において述べたように、 二つの文書の存在 -- 一つは一枚の紙に書かれ一つの封筒の中に封印された手紙であり、もう一つはシスター・ルチアがその封筒と一緒に引き渡したノートに書かれたものである -- はシスター・ルチアを含む多くの信じるに足る証人たちの証言によって明瞭に示されている。彼らの証言についてのより詳細な議論はフレール・ミッシェルの書物『ファチマに関する全真実--第3巻:第三の秘密--』の中に見ることができる。フレール・ミッシェルの第3巻のフランス語版の2万部の書物は1985年と1986年に(4年以上の研究の後に)出版された。そして英語版の5万部の書物は1990年に出版された。われわれの知る限り、この書物はその真正性に関しても、あるいは研究の徹底性に関してもいずれもこれまでに疑問視されたことはなかった。第3巻だけで、無数の文書、証言、証拠を引用しながら、1150以上の脚注をつけている。同様に、フレール・ミッシェルの典拠と彼自身の証拠はこれまで一度も問題視されたことはない。このように、フレール・ミッシェルはまた妥当な、信じるに足る証人だと考えられるべきである。注2)

われわれは今や、前のいくつかの章でそのあるものを提出した利用可能な証拠から、第三の秘密に関係するシスター・ルチアによる二つの草稿が実際に存在するということ、そして二つの文書は最終的にバチカンへと送られたということを証明する仕事に転じる。われわれはシスター・ルチアが1944年1月9日にダ・シルヴァ司教に宛てて書いた手紙を思い起こす:

私はあなたが私にお求めになったことを書きました。神は少し私を試みることを望まれましたが、しかし最終的にはこのことは実際神のみ旨でした。[テキストは]封筒に入れて封印され、またそれ[封印された封筒]はノートの中にあります....」注3)

オリジナルのポルトガル語を検討してみると、シスター・ルチアが、秘密そのものは封筒の中に入っているということ、そしてその封筒は彼女がまたマヌエル・マリア・ダ・シルヴァ大司教(グルザの大司教)に1944年6月にファチマのダ・シルヴァ司教のところへ持って行くようにと預けた彼女のノートのうちの一冊の中にあると言おうとしていることが明らかになる。

フレール・ミッシェルが更に述べているように:

幻視者[シスター・ルチア]はグルザの司教に秘密を含む封筒を挟んだノートを直接手渡した。その同じ夜、司教は封筒をダ・シルヴァ司教に手渡した....」注4)

しかしノートの方はどうなったのか? 確かに、それは第三の秘密に関するある重要なテキストを含んでいる。もしそうでなければ、なぜシスター・ルチアは封印した封筒およびノートをファチマの司教に託したのか?

 次の表は、ファチマの第三の秘密のための二つの草稿の存在を指し示す11の異なった事実を要約している:すなわち、一つは、聖母の言葉を含んでいて、封筒の中に入れられたものであり、そしてもう一つは、おそらく2000年6月26日に公表された「白い衣を着た司教」の幻視を含んでいるノートに書かれたものである。われわれはこれらの事実を次節で検討することにする。しかしながら、われわれはまず最初に、封筒の中のテキストが失われた、あるいは破り捨てられた、そして実際決して決して作られなかったかもしれない、という可能性を考慮に入れないことはできないということを強調しなければならない。

事実#1:
事実#1を支持する証拠書類
テキスト#1は聖母の言葉を含んでいる

 

第三の秘密テキスト#1
様々の証人によってほのめかされた
(第4章を見よ)

第三の秘密テキスト#2
バチカンによって公表された
2000 年6月26日

(1)

テキストは聖母の言葉を含んでいる。

テキストは聖母のいかなる言葉をも含んでいない。

(2)

テキストは聖省へ移された - 1957 年4月16日。

テキストは聖省へ移された - 1957 年4月4日。

(3)

1枚の紙に書かれた。

4枚の紙に書かれた。

(4)

およそ25行のテキスト。

62行のテキスト。

(5)

テキストは1944年1月9日には準備された。

テキストは1944年1月3日には準備された。

(6)

教皇ヨハネ・パウロ二世はテキストを1978年に読まれる。

教皇ヨハネ・パウロ二世はテキストを1981年7月18日に読まれる。

(7)

教皇ヨハネ・パウロ二世は1978年にテキストを読まれた後に1981年6月7日に世界を奉献された。しかしそれは1981年7月18日に初めて読まれた4ページのテキストを読まれる前である。

このテキストは1981年6月7日に教皇の世界の奉献の行為以前には教皇によって読まれなかった。

(8)

手紙形式で書かれた(宛名があり、署名がある)。

手紙形式で書かれていない(宛名がなく、署名もない)。シスター・ルチアのノートに記載されているものとしてである。

(9)

教皇のベッドの側にしまっておかれた。

聖省の建物の中にしまっておかれた。

(10)

1枚の紙の左右両端の余白の幅は75ミリである。

4枚の紙の左右両端の余白はない。

(11)

幻視を説明している。

幻視を記述している。

第4章においてわれわれは(ローマにある)ポルトガルの報道機関 A. N. I. の1960年2月8日コミュニケにおけるバチカンの発表に注目した。それは第三の秘密のテキスト(表において言及されたテキスト#1)が聖母の実際の言葉を含んでいるということを認めている。

最も信頼できるバチカン圏内において、United Press International の代表者たちに、シスター・ルシアが、その中で聖母が三人の小さな羊飼いたちにコヴァ・ダ・イリアにおいて秘密として打ち明けられた言葉を書き下ろした手紙が決して公開されない見込みがかなり強いということが述べられた。

われわれはまた、第三の秘密が単に言葉を伴わない幻視だけではなくて、聖母の実際の言葉を含んでいるというシスター・ルチア自身の証言もを持っている。フレール・ミッシェルはこう報告している:

....1941年7月--8月に書かれた彼女の第三回想録の中で、シスター・ルチアは秘密の第三の部分の存在に言及することに満足していた。しかし、これまでに彼女はそれについて何も言わなかった。数ヶ月後、1941年10月--12月の間に書かれた第四回想録の中で、彼女はもう少し多く言う決心をした。彼女は第三回想録のテキストをほとんど一語一語再び写し取った。しかし、『....そして平和のある時期が世界に与えられるでしょう』という最後の言葉に新しい文章を付け加えた。すなわち、Em Portugal se conservara sempre o dogma da fe, etc.

この新しい文章は「ポルトガルにおいては常に信仰の教義が保たれるでしょう、云々」と訳される -- これは聖母の言葉を直接的に引用している。フレール・ミッシェルはまた次のように報告している。

実際、ダ・シルヴァ司教が[第三の秘密の]テキストを書き下ろすように彼女に求めた1943年に、--そして彼女はこの命令に従うのに打ち勝ちがたい障碍に出会っていたが--彼女はそうすることは絶対に必要ではないと言明した。『というのは、彼女はある仕方でそれを言っていたからである』注7)明らかに彼女は偉大な秘密のテキストに1941年12月にはっきりとつけ加えられた--しかし、ほとんど誰もそれらに気付かなかったほどに慎重につけ加えられた--10語[訳者注=ポルトガル語で]をそれとなくほのめかしていた。注8)

これらの慎重につけ加えられた言葉 -- 「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」-- は TMF が、あたかもそれらの言葉が何の重要性も持たないかのように、それらを脚注へと降格することによって、そしてこれらのつけ加えられた言葉を含まない大きな秘密のテキストのために第三回想録に頼ることによって避けようと努めているまさにその言葉なのである。

われわれは以前に出した問いを繰り返す:なぜソダノ枢機卿、ラッツィンガー枢機卿そしてモンシニョール・ベルトーネは、第四回想録がファチマ・メッセージのより完全なテキストを提供しているときに、第三回想録を選ぶのか? その答は明らかに、彼らが重大な文言「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」のいかなる議論をも避けるために第三回想録を選んだということである。この急場しのぎの方策によって彼らは、ファチマのメッセージが「云々」の内部に含まれたおとめ[マリア]のその先の言葉を含んでおり、またこれらの欠けている言葉が第三の秘密に関係しているに違いないという明白な指示を器用に迂回して通り抜けたのである。もしそうでなかったとしたら、そのときソダノ/ ラッツィンガー / ベルトーネはこの文言に対するそのような回避的行動を演じなかったであろう。彼らはファチマの偉大な秘密の最初の二つの部分についての TMF の議論において、その文言を含んでいる第四回想録を単純に用いたであろう。われわれは、彼らがそのように回避的であった文言が実際ファチマの第三の秘密への入口である、また彼らが信徒あるいは世間一般がこの入口に焦点を合わせることを望まなかったと結論することができるだけである。なぜなら、それはそれを超えて存在するものについての余りにも多くの疑問を提出するからである。

「云々」によって指示された秘密の残りは第四回想録には記録されなかった。しかし問題になっているその後のテキスト、「白衣を着た司教」の幻視を説明する第三の秘密の欠けているテキストには記録されていた。

実際、 TMF の著者たちは「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」の直ぐ後にわれわれが第四回想録のうちに:「このことを誰にも話してはいけません。ええ、フランシスコには話してもよいです」という文言を見出すということに言及することを怠っている。ところでもし、「このこと」がただポルトガルにおいて常に保たれる信仰にのみ言及していたならば、聖母は幻視者たちに、ポルトガルの人々へのこの天の挨拶を隠すように、どう見てもお命じにはならなかったであろう。それゆえ、「このこと」は明らかに、信仰の教義がいかに他の場所 -- 他の多くの場所 -- において必ずしも常に保たれないかということについての言及を含んでいる。それが、 TMF の著者たちがその鍵となる文言を脚注へと降格させることによって隠そうと試みたまさにその結論である。

第4章において指摘したように、これらの[ポルトガル語で]10語 -- Em Portugal se conservara sempre o dogma da fe, etc -- はファチマの秘密の中に一つの新しいそして不完全な考えを導入した。その文言は、すべての評判のよいファチマ学者たちが結論したように、もっと追求されるべきことがあるということ、そして「云々」は秘密の第三の部分のための座を占めるものにしかすぎないということを示唆している。しかし第三の秘密に関するバチカンの2000年6月の草稿(すなわち、表において言及されたテキスト#2)は聖母の言葉を何も含んでいない。それはただファチマの三人の子どもたちによって見られた秘密の幻視だけを記述している。このテキストは第四回想録における新しい文章も説明していないし、また「云々」の内部に含まれている言葉をも提供していない。

神の御母によって個人的に話された聖母の実際の言葉が「云々」で終わったか? 確かにそれらの言葉はそれで終わらなかった。疑いもなく、「云々」の後にはそれ以上のテキストがある。そのテキストに何が起こったのか?

事実#1に関して何が結論づけられ得るか

これらの事実は二つの文書が存在しなければならないということを論証する:すなわち、一つは聖母の言葉を含んでいる文書であり、もう一つは三人の子どもたちによって見られた幻視を記述しているが、しかし聖母に帰される言葉を全然含んでいない文書である。

事実#2:
事実#2を支持する証拠書類--
文書移管の異なった日付

フレール・フランソワは第三の秘密が聖省(現在は信仰教義聖省として知られている)にいつ移管されたかを私たちに告げている。

1957年4月16日にバチカンに到着して、秘密は明らかに教皇ピオ12世によって、Secretum Sancti Officii(聖省の秘密)という記銘を施されて彼の個人机の中の小さな木箱の内部に置かれた。注9)

われわれが以前に述べたこと:すなわち、1967年に教皇パウロ6世がバチカンを再編成する以前には教皇が聖省の長であったということに注目することが大切である。それゆえに、教皇が第三の秘密を自分の所有として保持していること、秘密を入れている箱が「聖省の秘密」というラベルを貼られていることは、教皇が聖省の長官であり、この箱が聖省の記録保管庫の一部であるから、まったく適切なことである。

しかしながら、バチカンの注釈はシスター・ルシアの第三の秘密のオリジナル・テキストが1957年4月4日に聖省に移されたと述べている。さらに、信仰教義聖省秘書官タルシジオ・ベルトーネ大司教はわれわれにこう告げている:

封印された封筒は最初レイリアの司教の保管の下にあった。『秘密』のもっとよい保護を確保するために封筒は1957年4月4日に聖省の秘密保管庫の中に置かれた。注10)

事実#2に関して何が結論づけられ得るか

 日付のこの食い違いは二つの文書が存在するということを支持している。すなわち、幻視を含む文書は1957年4月4日に聖省の秘密保管庫へ移された。ファチマの聖母の言葉を含むもう一つの文書は1957年4月16日に教皇居住棟--これは聖省の一部と考えることができる--に移された。

事実#3:
事実#3を支持する証拠書類--
テキスト#1は1枚の紙である

第4章において示したように、オッタヴィアーニ枢機卿は1967年に信仰教義聖省長官として、自分は第三の秘密を読んだ、そしてそれは1枚の紙に書かれていたと述べた。彼は1967年2月11日に、ローマにおける教皇庁マリア・アカデミーの集いの時の記者会見の間に、この事実を証言した:

そしてそれから、彼女[ルチア]がいとも聖なるおとめに従うために何をしたか? 彼女は聖なるおとめが告げるように彼女にお求めになったことをポルトガル語で1枚の紙に書いた....注11)

オッタヴィアーニ枢機卿はこの事実の一人の証人である。同じ記者会見において、彼はこう述べている。

秘密のテキストを読む恵みと賜物を受けた私、--私は秘密によって縛られているがゆえに、私もまた秘密を守らなければならないけれども--注12)

次のことによく注意しなさい:オッタヴィアーニ枢機卿は第三の秘密を読んでいる。オッタヴィアーニ枢機卿は後にそれは一枚の紙に書かれていたと言った。しかし2000年6月26日にバチカンによって作られた幻視のテキストは多くの紙に書かれている。もし封筒の中に封印された第三の秘密 -- オッタヴィアーニ枢機卿によって読まれたもの -- が多くの紙に書かれていたならば、彼はそう言ったであろう

裏づけの目的で、アロンソ神父は、シスター・ルチアもオッタヴィアーニ枢機卿もどちらも秘密が1枚の紙に書かれたと述べている、と報告している:

ルチアはそれを1枚の紙に書いたと私たちに告げている。それを読んだオッタヴィアーニ枢機卿は同じことをわれわれに告げている。『彼女はそれを1枚の紙に書いた』....注13)

われわれはまたヴェナンシオ司教の証言をも持っている。彼は当時レイリア・ファチマの副司教であったが、ダ・シルヴァ司教(レイリア・ファチマの司教)によって、1957年3月中旬にシスター・ルシアのすべての書いた物のコピー--第三の秘密のオリジナルを含む--をローマへの移管のためにリスボンにいる教皇使節のところへ持って行くよう命令されたということである。ルシアの書いたものを教皇使節のところへ持って行く前に、ヴェナンシオ司教は光にそれをかざして封筒を見、秘密が『小さな1枚の紙に書かれていた』のを見た。注14)フレール・ミッシェルはこの高度に証拠となる証言に対する第一級の証人であった:

 「しかしながら、当時レイリアの副司教であり、これらの出来事に密接に関わっていたヴェナンシオ司教の発表のおかげで、私たちは今無視しないように気をつけるであろう多くの信頼に価する事実を持っている。私自身ファチマで1984年2月13日にヴェナンシオ司教の口からそれらの事実を聴いた。ファチマの元司教はこの主題についてほとんど逐語的に、彼が既に以前にカイヨン神父--彼はその会議の中でそれについて非常に詳細な説明を与えた--に言ったことを私に繰り返した。」注15)フレール・ミッシェルによれば、ここにヴェナンシオ司教の証言がある:

ヴェナンシオ司教は、独りになったとき、秘密の大きな封筒を取り、中をすかして見ようと努め、内容を見たと語った。司教の大きな封筒の中に、彼は少し小さな、ルチアの封筒を識別した。そしてこの封筒の内部には1枚の普通の紙が入っており、それはそれぞれの余白が4分の3センチあった。彼はあらゆるものの大きさをメモする手数をかけた。このようにファチマの最後の秘密は1枚の小さな紙に書かれていた。注15)

2000年6月の第三の秘密に関するバチカンの草稿は4枚の紙に書かれていた。何かあるものが重大な仕方で間違っている。

 

事実#3に関して何が結論づけられ得るか

再び証拠は二つの文書の存在:すなわち、一つは1枚の紙から成っている文書であり、もう一つは4枚の紙から成っている文書の存在を指し示している。

事実#4:
事実#4を支持する証拠書類--
テキスト#1は25行の手書きのテキストである

たった1枚の紙に書かれている第三の秘密に関する事実#3を支持する際に引用された証拠に加えて、フレール・ミッシェルとフレール・フランソワは二人とも第三の秘密のテキストがただ20行から30行しか含んでいないということで一致している:

....われわれは第三の秘密は20ないし30行だと確信している....注17)

1枚の小さな紙に書かれたファチマの最後の秘密はそれゆえ、それほど長いものではない。おそらく20行から30行であろう....注18)

ヴェナンシオ司教はそれを光にすかして[第三の秘密の入っている]封筒を見た。彼はその中に彼が正確に大きさを測った1枚の小さな紙を見た。このようにわれわれは第三の秘密がそれほど長いものではなく、おそらく20行から25行であるということを知るのである....注19)

他方において、2000年6月のバチカンの草稿は62行の手書きのテキストを含んでいる。

事実#4に関して何が結論づけられ得るか

 この食い違いは二つの文書が存在するということを論証している:すなわち、一つは1枚の紙に20行から30行のテキストが書かれた文書であり、もう一つは4枚の紙に62行のテキストが書かれた文書である。

事実#5:
事実#5を支持する証拠書類--
テキスト#1は1月3日までにはできあがっていなかった

第4章において示したように、ルチアは1943年10月に初めて第三の秘密のテキストを書き下ろそうと試みた。その10月半ばから1944年1月初めまで、シスター・ルチアはこの時期の間彼女が経験した言うに言われぬ不安によって第三の秘密を書き下ろすようにという公式命令に従うことを妨げられていた。

われわれはまた、秘密を書き下ろすようにという命令が、1943年6月にシスター・ルチアが肋膜炎で倒れた後に来たということにも注目した。このことは彼女がファチマの偉大な秘密の最後の部分を明らかにしないまま死ぬのではないかという恐れをカノン・ガランバとダ・シルヴァ司教に引き起こした。カノン・ガランバはダ・シルヴァ司教が、シスター・ルチアに第三の秘密を書き下ろすよう示唆したと後に確信した。しかしながら、シスター・ルチアは司教からの公式の命令なしにはそれに応じようとはしなかった。その命令は最終的に1943年10月半ばに与えられた。

このときでさえ、シスター・ルチアは、彼女が秘密の言葉を書くことは実際神のみ旨であるということ確信させながら、祝せられたおとめマリアが1944年1月2日にシスター・ルチアに御出現になるまでは、続く2ヶ月半の間従うことができなかった。そのとき初めてルチアは恐れと不安を克服することができ、そして秘密を書き下ろすことができた。注20)しかし、シスター・ルチアがダ・シルヴァ司教に、秘密が最終的に書き下ろされたと報告して、以下のことを書いたのは1944年1月9日になってからであった:

あなたが私にお求めになったことを私は書きました。神は私を少し試みようと望まれました。しかし、最終的にこれは実際神の御意志です。[テキストは]封筒に入れて封印され、そしてそれはノートの中にあります....注21)

しかしながら、バチカンの第三の秘密の草稿は、シスター・ルチアの4ページの手書きの文書の終わりに現れているこの日付によって示されているように、1944年1月3日には完成されていた。注22)さらに、ベルトーネ大司教はわれわれにこう告げている:

「秘密」の第三部は「レイリア司教閣下といとも聖なる御母の命令によって」1944年1月3日に書かれた....注23)

事実#5に関して何が結論づけられ得るか

シスター・ルチアが祝せられた御母の御出現の後に秘密を最終的に書いたということを考慮するならば、なぜ彼女は、文書を出すことが神の御旨であるという神の御母の保証を得たのに、文書ができあがったら直ちにダ・シルヴァ司教に知らせなかっただろうか? 従順において訓練されていたシスター・ルチアはなぜ、彼女の司教に知らせる前に、第三の秘密を書き下ろすようにという神の命令に従った後さらにあと6日間も -- 1月3日から1月9日まで -- 待ったのであろうか? このことから、われわれは第三の秘密のテキストは1944年1月9日まで、あるいはその直前まで、まだできあがっていなかったと結論してもよいだろう。

日付のこの食い違いは二つの文書の存在にさらなる支持を与える:すなわち、1944年1月3日に完成された幻視を含んでいる一つの文書;1944年1月9日にあるいはその直前に完成した幻視を説明している聖母の言葉を含んでいるもう一つの文書、である。

明らかに、この結論は状況証拠に依存している;しかし、ファチマ学者たちはこの種の証拠に頼らなければならない。なぜなら、反ファチマ体制は1976年以来、その時までの11年間の研究の成果である14巻に5千の文書を含んでいるホアキン・アロンソ神父の著作の出版を阻んできたからである。すでに述べたように、アロンソ神父は16年間ファチマの公式の記録保管人であった。

おそらく事実#11に関する結論を除いて、この論考における他のすべての結論は状況証拠には依存していない。

事実#6:
事実#6を支持する証拠書類--
教皇が最初に秘密を読んだ日付の食い違い

2000年7月1日 The Washington Post は、バチカン当局者が最近、教皇ヨハネ・パウロ2世が第三の秘密を最初に読まれたのはいつか、ということに関するその矛盾する日付を提供したと報じた。

5月13日、バチカンのスポークスマン、ホアキン・ナヴァロ・ヴァルスは、教皇が最初に秘密を読まれたのは1978年に教皇職に就かれた数日以内であると述べた。月曜日、バチカン信仰教義聖省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の一補佐官は、教皇は彼の暗殺未遂の後に、病院で最初にそれを読まれたと言った。注24)

The New York Times の2000年6月26日版の一論考はラッツィンガー枢機卿の補佐官を同定した:

ヨハネ・パウロ2世はファチマの第三の秘密のテキストを暗殺未遂の後に初めて読まれた」とラッツィンガーの主席補佐官、モンシニョール・タルシジオ・ベルトーネは文書を提供する記者会見の間にジャーナリストたちに語った。注25)

バチカンの注釈によれば、教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年7月18日まで第三の秘密を読まれなかった。ベルトーネ大司教は私たちにこう告げる:

ヨハネ・パウロ2世は、彼としては、1981年5月13日の暗殺未遂の後に『秘密』の第三部を含む封筒を求められた。1981年7月18日に聖省長官、フランジョ・セペル枢機卿が国務省代理、エドゥアルド・マルティネス・ソマロ大司教に二つの封筒を渡した。一つはポルトガル語のシスター・ルチアのオリジナルのテキストを含む1通の白い封筒であり、もう一つは『秘密』のイタリア語翻訳が入ったオレンジ色の封筒であった。その後8月11日にマルティネス大司教は2通の封筒を聖省の保管庫に戻した。注26)

事実#6に関して何が結論づけられ得るか

もし二つの文書が存在するならば、これらすべての陳述は真実であり両立させることができる:すなわち、教皇は、聖母の言葉を含んでいて、もともと封筒の中に封印された1ページの文書を1978年に読まれた;そして次に「白い衣服を着た司教」の幻視を記述している4ページの文書を1981年7月18日に読まれた。

事実#7:
事実#7を支持する証拠書類--
テキスト#1は教皇に世界を奉献するよう霊感を与えた

事実#6を支持するために引用されたベルトーネ大司教の陳述に引き続いて直ちに、大司教は続けてわれわれにこう告げる:

周知のように、教皇ヨハネ・パウロ2世は直ちに世界をマリアの汚れなき御心に奉献しようと考えられた。そして教皇自身「委託の行為」と呼ばれたもののために一つの祈りを作られた。それは1981年6月7日にサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂において祝われるべきものであった....注27)

事実#7に関して何が結論づけられ得るか

ベルトーネ大司教によれば--1981年7月18日まで、教皇が本当に第三の秘密を読まれなかったとすれば、教皇ヨハネ・パウロ2世はどのようにして1981年6月7日に--つまり6週間も前に--世界をマリアの汚れなき御心に奉献するように第三の秘密によって動かされることができたであろうか?

ふたたび、もし第三の秘密のために二つの文書が存在しているならば、両方の陳述は調停することができる:すなわち、教皇は聖母の言葉を含んでいる1ページの文書を1978年に読まれた--そしてこれは1981年6月7日に世界を奉献するように教皇を動かしたテキストである--そして次に、教皇は1981年7月18日に幻視を記述している4ページの文書を読まれたのである。すでに第6章において示したように、教皇ヨハネ・パウロ2世自身の陳述は、彼が世界の奉献のこれらの行為を、いつ最終的にロシアの奉献をすることが自由であると感じられるか、その段階を設定するものと見ておられるということを証明している。

 

事実#8:
事実#8を支持する証拠書類--
テキスト#1は一通の手紙である

シスター・ルチア自身、第三の秘密は1通の手紙として書かれたと私たちに告げている。1946年2月3日と4日にシスター・ルチアに質問したジョンゲン神父の書かれた証言を私たちは持っている:

あなたはすでに秘密の二つの部分を知らせた。第三の部分のための時はいつ来るでしょうか? 「私は第三部を1通の手紙でレイリアの司教に伝えました。」そう彼女は答えた。注28)

カノン・ガランバが証言したように:

司教が手紙を開封することを拒絶したとき、ルチアは彼女の死のときか、あるいは1960年には、そのどちらが先に来るとしても、決定的に開封され、読まれることを司教に約束させた。注29)

1960年2月リスボン大司教はこう宣言した:

ダ・シルヴァ司教は(ルチアによって封印された封筒を)もう一つの封筒に封入した。彼はその封筒の上にこの手紙は、もし彼がまだ生きているならば、彼自身、ホセ・コレイヤ・ダ・シルヴァによって、もし生きていないならば、リスボン総大司教によって、1960年には開封されなければならないと指示した。注30)

アロンソ神父はわれわれにこう告げている:

他の司教たちもまた、あの有名な手紙を開封するために指示された日付としての1960年について--権威をもって--語った。このように、当時のティアヴァの総大司教でリスボンの副司教はルチアに秘密がいつ開封されるべきかと尋ねたとき、いつも同じ答を受け取った。1960年です、と。注31)

1959年にレイリアの当時の新司教ヴェナンシオ司教はこう宣言した:

私は、手紙は1960年以前には開封されないと思う。シスター・ルチアは彼女の死以前には、あるいは1960年以前にはそれは開封されるべきではないと要求した。現在1959年である。そしてシスター・ルチアは健康である。注32)

報道機関A.N.I.を通じての1960年2月8日のバチカンの報道はまた第三の秘密のテキストが1通の手紙として書かれたということをわれわれに告げている:

....シスター・ルチアがその中で聖母が秘密として打ち明けられた言葉を書き下ろした手紙は十中八九公開されることはないであろう....注33)

ところで、第三の秘密の幻視に関するテキストはまたバチカンの注釈において一通の手紙と同一視されてきた。しかしながら、そのテキストは単純に手紙ではない。それは:

シスター・ルチアによって書かれた手紙のコピーは彼女の公表された回想録に含まれた。これらの手紙にはすべて宛名、日付、そして彼女の署名がある。

このように、われわれは1944年1月9日には手に入れることができた1ページの文書は誰かに宛てられた1通の手紙であると期待することができる。(シスター・ルチアは1946年2月にジョンゲン神父に、自分はそれをレイリアの司教に送ったと告げた)そしてそれはシスター・ルチアによって署名されている。

ここで、シスター・ルチアが第三の秘密を1通の手紙の形式で書くか、それとも彼女のノートの中に書くか、その選択肢を与えられていた、そして彼女がそれを手紙として書くことに決めたということに注目することは重要である。アロンソ神父によれば、シスター・ルチアは1944年1月9日にダ・シルヴァ司教にこのように書いた:

 

私はあなたが私にお求めになったものを書きました。神は少し私を試みることを望まれましたが、しかし、最終的にこれは神の御意志でした。[テキストは]一つの封筒に封印され、それはノートの中にあります....注34)

再び、われわれが上に述べたように、フレール・ミッシェルは1944年6月17日に次のように報告している:

幻視者は秘密を含んでいる封筒を挟みこんだノートをグルザの司教に別個に手渡した。その同じ夜、司教はその封筒をダ・シルヴァ司教の手の中に置いた....注35)

事実#8に関して何が結論づけられ得るか

証拠は以下の大いにありそうな結論を支持している:すなわち、二つの文書が存在している -- 1ページの手紙の形式における聖母の言葉を含んでいる第三の秘密のテキスト、そしてノートからの4ページのテキスト、である。

さらに、すでに指摘したように、幻視のテキストの日付は1944年1月3日である。一方、「私はあなたが私にお求めになったものを書きました。神は少し私を試みることを望まれましたが、しかし、最終的にこれは神の御意志でした。[テキストは]一つの封筒に封印され、それはノートの中にあります」と述べているファチマの司教宛てのシスター・ルチアの手紙はその日付が1944年1月9日である。シスター・ルチアのノートが、彼女が1944年1月3日から9日までの時期の間に書いた第三の秘密に関係する他の多くの事柄を含んでいるということはまったくあり得ることである。これらの他の事柄は秘密に関係するより重要でない諸々の点であろう。それらは1月9日の秘密の最も恐ろしい部分 -- すなわち、聖母御自身の言葉による秘密の説明 -- の最終的な開示へと導いて行くものである。われわれはここで実際秘密の二つの部分が存在する:すなわち、教皇に関係する部分と「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう」という言葉の結論を表すもう一つの部分がある、というシュヴァイグル神父の証言を思い起こす。

このことに関連して、シスター・ルチアが第三の秘密を彼女にノートに書くか、それとも一枚の紙に書くかの選択肢を与えられたということを思い起こすことは重要である。明らかに彼女は両方のオプションを利用した。再び、そうでなければ、なぜ彼女はファチマの司教への引き渡しのためにグルザの司教に封印した一つの封筒および一冊のノートの両方を渡したのであろうか?

そこで、曖昧な幻視 -- 第三の秘密の「より安全な」部分 -- がノートの中に書き下ろされたが、一方おとめ[マリア]御自身の言葉による幻視の具体的な説明 -- そのインパクトはまったく恐るべきものであった -- はシスター・ルチアがノートの内部に差し挟んだ封筒の中に封印されなければならなかったということはまったくあり得ることではないか? なぜシスター・ルチアが、第三の秘密を書き下ろすようにというファチマの司教の命令に応えて一つの封印された封筒と一冊のノートを彼に与えたかということに対する他のいかなる分別のある説明も存在しないと思われる。

簡潔に言えば、「白衣を着た司教」の幻視 -- そのテキストは4枚の紙から成っている -- はノートの中に含まれていた、しかしその説明 -- 多くの証人たちが証言したたった一枚の紙に書かれた -- は封筒の中に封印された。だからこそ、ノートは封印された封筒と一緒に渡されたのである。

このように、2000年6月26日にバチカンによって公表された4ページのテキストはおそらくノートの中に含まれていた第三の秘密の幻視の部分であって、確かに封筒の中に封印されていた1ページの手紙ではない

事実#9:
事実#9を支持する証拠書類--
テキスト#1は教皇の居住棟に保存された

フレール・ミッシェルはジャーナリストのロベール・セルーの証言を報告している。セルーは1957年5月14日 注36)--第三の秘密が1957年4月16日にローマに到着したおよそ1ヶ月後 -- にバチカンで一つの写真物語を行っている間に、第三の秘密が教皇の居住棟の中に、教皇の寝台のわきに保存されていることを発見した。フレール・ミッシェルはわれわれにこう告げている:

....われわれは今、モンシニョール・チェントによってローマへ送られたその貴重な封筒が聖省の保管庫の中に置かれていず、ピウス12世がそれを自分の居住棟に保存することを望んでいたということを知っている。

カイヨン神父はこの情報をジャーナリストのロベール・セルーの口から受けた。セルー自身はその情報を次のような仕方でマザー・パスカリーナから得た。ロベール・セルーは『パリ・マッチ』誌のためにピウス12世の居住棟においてある写真物語を作っていた。マザー・パスカリーナ--この女性は教皇の家事をする人として働いている少数のシスターたちを指導していた偉大な良識の持ち主、時には教皇の信頼を受けていた人である--がそこに居合わせた。

テーブルの上に置かれ、 Secretum Sancti Officii (聖省の秘密)という銘をもった小さな木製の保管箱を前にしてそのジャーナリストはマザーに尋ねた。「マザー、この小さな保管箱の中には何が入っているのですか?」彼女は答えた。「ファチマの第三の秘密が入っています....

われわれがここに再現したこの保管箱の写真は Paris-Match において1年半後に公表された....注37)


Paris-Match 誌の1958年10月18日号(No.497, p. 82)において公表されたこの保管箱の写真がここに示されている。セルーの証言の詳細は後に、彼が1985年1月10日にフレール・ミッシェルに書いた手紙の中で確証された。この手紙の中でセルーはこう述べている。

マザー・パスカリーナが、私に「聖省の秘密」というラベルのついた一つの小さな保管箱を示しながら、「この中にファチマの秘密があります」と私に言ったということは正確なことである。注37)

しかしながら、バチカンの注釈は第三の秘密が、聖省が入っている建物の中に保存されていたとわれわれに告げている。再び、ベルトーネ大司教に従えば:

封印された封筒は最初レイリアの司教の保管の下にあった。「秘密」のためによりよい保護を確保するためにその封筒は1957年4月4日に聖省の秘密の保管庫に置かれた。注39)

なおその上に、われわれはまた事実#6において、教皇ヨハネ・パウロ2世が1978年に第三の秘密のテキスト(すなわち、聖母の言葉を含んでいる1ページの文書)を読まれた、そしてその次に教皇が1981年7月18日に幻視を記述した4ページの文書を読まれたということを論証した。事実#6において論じられたように、聖省は教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年に第三の秘密を求められたと記録している。しかし、1978年に教皇が秘密を求められたということについての記録は存在しない。なぜなら、教皇はそれを必要とされなかった -- それは教皇の居住棟にあった -- からである。

事実#9に関して何が結論づけられ得るか

 これらの証言は二つの異なった場所にそして二つの異なった保管所に保存された二つの文書が存在するという事実を確立する。1978年に教皇ヨハネ・パウロ2世は聖母の言葉を含んでいる1ページの手紙--これは教皇の居住棟に保存されていた--を読まれた。それは教皇が聖省の秘密の保管庫から要求される必要がなかった文書である。しかし1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世はシスター・ルシアのノートから幻視の記述を含む4ページのテキストを読まれた。それは聖省の建物の中に保存されていた。教皇が聖省の秘密保管庫から要求しなければならなかったのはこのテキストであった。

事実#10:
事実#10を支持する証拠書類--
テキスト#1は両端75ミリのマージンを持っている

ここにわれわれはファチマの2番目の司教、ジョン・ヴェナンシオ司教の証言を持っている。彼は強い光の下でテキストの影を検討し、文字が書かれたページのマージンの輪郭を正確に書き留めた。

ヴェナンシオ司教は[フレール・ミッシェルに]、かつて彼が独りでいたとき、秘密の大きな封筒を取り上げ、それを透かして眺め、内容を読もうと努めたと語った。司教の大きな封筒の中に、彼はルチアの一つのより小さな封筒を識別した。そしてこの封筒の内部に両端がそれぞれ75ミリ幅の一枚の普通の紙を認めた。彼はあらゆるものの大きさを書き留める労を取った。このように最後のファチマの秘密は一枚の紙に書かれていたのである。注40)

さらに、第三の秘密の幻視を含んでいる4ページはどんなものであれいかなるマージンをも示していない -- それは他のすべての食い違いにつけ加えられるべき一つの小さな、しかし非常に印象的な食い違いである。

事実#10に関して何が結論づけられ得るか

この食い違いはまた2000年6月26日にラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネによって開示されたテキストが封筒の中に含まれていた第三の秘密のテキストではないということ、そしてそれゆえに、高位のバチカン当局者たちがその反対のことを主張しているけれども、われわれはまだ第三の秘密の完全なテキストを与えられなかったということをも証明している。

事実#11:
事実#11を支持する証拠書類--
テキスト#1は幻視を説明している

シスター・ルチアの第四回想録の中に、われわれは1917年6月13日の聖母の御出現の間に、シスター・ルチアが聖母に三人の幻視者を天国に連れて行ってほしいと求めた後で、聖母が次のように答えられたということを読む。

ええ、私はジャシンタとフランシスコをまもなくれて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します....注41)

シスター・ルチアは次に先へ進んで、聖母が上述の言葉--幻視の意味を説明する言葉--を話された直後に、三人の幻視者たちが見る恵みを受けた相応する幻視の記述を私たちに与える。

聖母は、これらの最後の言葉を話されたとき、その手をお広げになり、そして二回目には私たちにあの果てしのない光を送られました。私たちは、いわば、神のうちに浸されて、自分自身がこの光の中にいるのを見ました。ジャシンタとフランシスコは天の方へ上っている光の部分に、そして私は地上へと注がれている光の中にいるように見えました。注42)

このように、われわれは聖母が子どもたちに一つの幻視を与えられ、そして同様に、それを説明なさるのを見る。実際、 TMF のうちにさえ、われわれは1917年7月13日の聖母の御出現の間に三人の小さな羊飼いたちに与えられた地獄の幻視についてのシスター・ルチアの記述(彼女の「第三回想録」から取られた)を読むのである。

聖母は私たちに地下にあると思われる大きな火の海を示されました。この火の中には、人間の形をした悪魔たちと霊魂たちが沈められていました。彼らは皆真っ黒にされ、あるいは赤銅色に磨かれたようになって、透明な燃える燃えカスのようでした。大きな煙の雲と一緒に彼ら自身の内部から発した炎によって空中へと吹き上げられたり、今度は重さや釣り合いを失って、そして苦痛や絶望の叫びやうめきの中で、巨大な火の中の火花のようにあらゆる方向へ再び墜落しながら、大火の中に浮かんでいました。これは私たちをぞっとさせ、恐怖で身震いさせました。悪魔たちは皆真っ黒で透明で、その恐ろしい、未知の動物のぞっとする、いやらしい似姿によって識別できました。この幻視は一瞬間しか続きませんでした。最初の御出現の中で、私たちを天国に連れて行くと約束することによって私たちにすでに準備をさせておられた天上の優しい御母に、私たちはどのように感謝を捧げることができるでしょう。そうでなければ、私たちは恐怖のために死んでしまったと思います。注43)

その説明に続いて、シスター・ルチアは次に、その幻視が地獄の幻視であるということがたといまったく明らかであったとしても、この幻視が何を意味しているかを説明する聖母の言葉を私たちに告げることへと進む:

あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。注44)

それゆえ、たとい子どもたちが見たことを知っていたとしても、にもかかわらず聖母は彼らに告げられます。「あなたがたは地獄を見ました」と。もう一度、われわれは聖母が子どもたちに幻視を準備され、そして同じようにそれを説明なさるのを見る。

幻視の上述の記述そしてそれらを説明する聖母の相応する言葉とは対照的に、 TMF はただ、以下のことを含んでいる、一つの説明を明らかに必要とする幻視のテキストを提供しているだけである:

私がすでに説明した二つの部分の後で、聖母の左側、すこし上の方に私たちは左手に燃える剣をもった一人の天使を見ました....十字架の両腕の下にはそれぞれ手に水晶の聖水磐を持った二人の天使がいました。その聖水盤の中に彼らは殉教者たちの血を集め、神への道を作っている霊魂たちにそれを振りかけていました。注45)

第三の秘密のこのテキストは聖母の言葉を何一つ含んでいない。なぜ聖母は地獄の幻視のように明白なある事柄を説明なさったのに、しかしバチカンによって提出された曖昧な節を説明するために一語もお与えにならないのか?

ここで、「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう」という言葉の直ぐ後に続いて、聖母がシスター・ルチアに次のように言われたということに注目しなければならない:「このことを誰にも言ってはいけません。ええ、フランシスコにはそれを言ってもよいです。」フランシスコに告げることができる「このこと」は幻視の間に言われた最後の事柄のことを言っている。もしそれが一つの説明も伴わない単に一つの幻視に過ぎなかったならば、そのとき、フランシスコは何かあることを告げられる必要はなかった。なぜなら、彼はそれを彼自身ですでに見たばかりだったからである。しかしもし「このこと」が幻視の説明によるおとめ[マリア]の付け加えられた言葉のことを言っているならば、そのときフランシスコは告げられなければならなかったであろう。なぜなら、われわれが知っているように、彼はファチマの御出現の間聖母の仰ることを聴くことはできなかったからである。フランシスコは見たがしかし聴くことはなかった。そしてこのようにして聖母が幻視について「言われた」ことについて知らされる必要があったであろう。

「あなたはそれをフランシスコに話してもよい」ということが単に聖母が秘密の第二部の間に話された言葉のことだけを指しているとわれわれはもっともらしく主張することもできない。「このことを誰にも言ってはいけません。ええ、フランシスコにはそれを言ってもよいです」という文言は「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」という文言の直ぐ後に続いている。注46)明らかに、そのとき、「云々」はまだ書かれてはいないが、シスター・ルチアが口頭でフランシスコに告げることができた言葉を指し示している。これらの言葉は明らかに、ファチマの司教からの命令の下に、1944年に最終的に書き下ろされた第三の秘密に属している。

事実#11に関して何が結論づけられ得るか

それでは、この幻視を説明する聖母の言葉はどこにあるのか? もし聖母がこの幻視を説明するために何も言われなかったならば、聖母の行動は御出現の過程のいたるところで首尾一貫しないものであったということになろう。教会の教える権威 -- 教皇あるいは公会議の一つの公式の宣言を意味する -- がこの幻視に関してある特定の解釈を押しつけているのではないということを考慮に入れるならば、そしてもしわれわれがわれわれ自身の側でこの幻視を理解する何らかの特別の恵みを与えられていなかったならば、そのとき、聖母がファチマの第三の秘密の幻視の意味をわれわれに説明なさるであろうと信じる理由がそれだけいっそうある。そして明らかに聖母御自身による真の説明の一つの絶対的な理由があるのである。

事実、ラッツィンガー枢機卿は TMF の中で、彼自身の注釈は単に第三の秘密の幻視についての一つの解釈における一つの試みに過ぎないということを認めている:

それゆえに、以下に続くことにおいて、われわれはただすでに考察された規準に基づいて、この解釈のより深い一つの基礎を提供することを試みるだけである。注47)[強調は筆者]

ラッツィンガー枢機卿はまたある特定の解釈がこの幻視に押しつけられているのではないということを確証した。2000年7月1日に The Washington Post はこう報じた:

教皇が幻視について読んだことに関して問われて、ラッツィンガーは「公式的な解釈は存在しない」、そしてそのテキストは教義ではないと述べた。注48)

ところで、ファチマのメッセージの残余のものが単に明晰であるばかりでなく、聖母御自身の言葉によってその幻視の諸局面のすべて -- 明白な地獄の幻視さえ -- において十分に説明されているときに、ファチマの聖母は CDF 長官でさえただそれを解釈することを「試みる」ことができるだけであるほどに曖昧な幻視を三人の子どもたちにお与えになったであろうか?

さらに、聖母が第三の秘密の詳細な説明をお与えになった蓋然性は、ソダノ / ラッツィンガー / ベルトーネによって提供された明らかに詐欺的な「解釈」-- すなわち、一人の教皇および位階の他の多くのメンバーたちの兵士たちによる殺害が単に1981年の教皇ヨハネ・パウロ二世の暗殺未遂事件にしかすぎないという解釈 -- のことを考えるとき、確実性のレベルにまで上昇する。次に、ラッツィンガー枢機卿が誰であれ罪を避ける人の「清い心」へと降格している汚れなき御心に対する信心、そして彼が2000年前のおとめ[マリア]の fiat[なれかし]へと引き下げている汚れなき御心の勝利というインチキの -- 冒涜すれすれの -- 「解釈」がある。

これらは単に嘘であるばかりでなく、下手な嘘である。ファチマの聖母は確かにこれらの嘘を予告され、そしてそれらに立ち向かうために幻視についての一つの明白な説明を用意された。神の御母は御自分のメッセージのそのような詐欺的な解釈が行われることを決してお許しにならないであろう。このことは、おとめ[マリアの]欠けている言葉 -- 「云々」によって十中八九示されている -- のうちに見出される -- とわれわれは道徳的に確信しているが -- 真の解釈の開示をそれだけますます緊急のものとしている。

証拠からの全般的な結論

要するに、証拠は二つの文書の存在を圧倒的に支持している:

一つの文書はシスター・ルチアのノート(1通の手紙として書かれたのではない)から写された62行のテキストを含む4枚の紙から成っていて、それはファチマの三人の子どもたちによって見られた幻視を記述しているが、しかし聖母のどんな言葉をも含んでいない。このテキストはシスター・ルチアによって1944年1月3日に書き下ろされ、1957年4月4日に聖省に移管され、1981年7月18日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって読まれ(しかし、1981年6月7日にマリアの汚れなき御心に世界を奉献するように明白に教皇を動かさなかった -- また動かすことができなかった)、聖省に保管され、2000年6月26日にバチカンによって公開された。

もう一つの文書はおよそ25行の聖母自身の言葉を含んでいる1ページの手紙である。このテキストはシスター・ルシアによって1944年1月9日に、あるいはその直前に書かれ、1957年4月16日に聖省に移され、1978年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって読まれ(そして1981年6月7日にマリアの汚れなき御心に世界を奉献するよう教皇を動かした)、教皇の居住棟でその寝台の傍に保管され、そして今日までバチカンによって公開を許可されないままになっている。

われわれはこれらすべての結論を完全な確実性をもって述べることができるか? 否、しかしわれわれは、それらが真であるという道徳的確実性をもってそれらを述べることができる。なぜなら、それらは、2000年6月26日にバチカン当局が開示したことから何かある事柄が欠けているということを指示する証拠の山によって支持されているからである。さらに、上述した一連の申し分のない証人たちの証言に基づいて、第三の秘密に関係しているが、開示されなかったおよそ25行のテキストを含んでいる一枚の紙から成る一つの文書があるということを完全な確実性をもって述べることができる。このように、誰かある者がわれわれに嘘をついているということは確実である。第三の秘密が背教、教会における信仰と規律の崩壊に言及しているということについて話した証人たちのすべてが嘘をついているか、それとも、ソダノ枢機卿とラッツィンガー枢機卿とベルトーネ大司教が嘘をついているか、そのいずれかである。シスター・ルチアが嘘をついているか、それとも、ソダノ/ ラッツィンガー / ベルトーネが嘘をついているか、そのいずれかである。その両方を持つことはできない。しかしわれわれは、シスター・ルチアが嘘つきではないという道徳的確実性を持つことができるからして、それゆえに、嘘はソダノ、ラッツィンガー、ベルトーネから出ているという道徳的確実性を持つことができるということが帰結する。

そして、結局のところ、誰がより信用のおける証人であるのか? 例えば、1984年以来劇的に彼の証言を変えたラッツィンガー枢機卿か、それとも、ファチマのメッセージの証人であるように神によって選ばれ、そしてその証言が動揺しなかったファチマのシスター・ルチアか? 注49)さらに、ラッツィンガー枢機卿のような一人の証人がその変化を説明するために煩わされることなく彼の証言を変えるならば、彼が欺瞞的であるということは明らかではないか? たといこのことが本当ではないとしても、われわれはそれでもなお彼の証言の変化を問う権利を持っている。そしてあらゆるカトリック教徒 -- 実際、全世界 -- は説明を受ける資格がある。

彼らを信じない、そして調査を要求するしかるべき理由があるか? 確かにある。われわれが名指しした人々を、単にファチマのメッセージの詐欺的な虚偽陳述の廉でばかりでなく、同様に詐欺的な隠蔽の廉で告発するに十分な理由が存在する。

実際、これらの非常に当惑させる食い違いは、バチカンがファチマのメッセージを葬ることを不可能にした諸々の理由のうちの主たるものである。マザー・アンジェリカのような体制擁護派でさえある人の懐疑的な態度は日毎に増大しつつある信徒たちの間の疑いの氷山の一角にしかすぎない。

脚注

1. Mother Angelica Live, May 16, 2001.

2. いくつかの証明において、われわれは状況的な証拠を扱っている。このことの理由は二つある:(1)アロンソ神父によって編集された24巻の書物における5,000以上のオリジナルの文書 -- 当時のファチマ公式文書保管者アロンソ神父による11年間の研究の成果 -- が宗教的権威(すなわち、ファチマの司教およびスペイン、マドリードに根拠地を置くクラレチアン会の総長)によって1976年以来出版が阻止されてきた。そして(2)われわれが今や、彼女はそれ以上明らかにすべきものを何も持っていないと告げられているけれども、(1960以来実施されている)シスター・ルチアに対する沈黙の体制の引き続いての押しつけ。

3. Quoted by Father Alonso, Fatima 50, October 13, 1967, p. 11. See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima (WTAF) - Volume III: The Third Secret, (Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1990)p. 47.

4. WTAF - Vol. III, p. 49.

5. Quoted by Father Martins dos Reis, O Milagre do sol e o Segredo de Fatima , p. 127-128. Cf. Father Joaquin Alonso, La Verdad sobre el Secreto de Fatima (VSF), Centro Mariano, Madrid, Spain, 1976, pp. 55-56. See also WTAF - Vol. III, p. 578.

6. WTAF - Vol. III, p. 684.

7. Father Alonso, VSF, p. 64. See also WTAF - Vol. III, p. 684.

8. WTAF - Vol. III, p. 684.

9. Frère François de Marie des Anges, Fatima: Tragedy and Triumph (FTT), Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1994, p. 45.

10. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB., “Introduction” , The Message of Fatima (TMF), June 26, 2000, p. 4.

11. WTAF - Vol. III, p. 725.

12. WTAF - Vol. III, p. 727.

13 Father Alonso, VSF, p. 60. See also WTAF - Vol. III, p. 651. Also, footnote no. 4 in FTT, p. 289.

14. FTT, p. 45. See also Brother Michael of the Holy Trinity, The Secret of Fatima ... Revealed (SFR), Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1986, p. 7.

15. WTAF - Vol. III, p. 480. See also Father G. Freire's exposition, O Segredo de Fatima, a terceira parte e sobre Portugal?, pp. 50-51.

16. WTAF - Vol. III, p. 481.

17. WTAF - Vol. III, p. 626.

18. FTT, p. 45.

19. SFR, p. 7.

20. WTAF - Vol. III, pp. 38-46.

21. Quoted by Father Alonso, Fatima 50, p. 11. See also WTAF - Vol. III, p. 47.

22. Original text of Sister Lucy, “Third Part of the ‘Secret’”, TMF, p. 20.

23. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, “Introduction” , TMF, p. 4.

24. Bill Broadway and Sarah Delancy, “3rd Secret Spurs More Questions; Fatima Interpretation Departs From Vision”, The Washington Post, July 1, 2000.

25. The Associated Press, “Vatican: Fatima Is No Doomsday Prophecy”, The New York Times, June 26, 2000.

26. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, “Introduction”, TMF, p. 5.

27. Ibid.

28. Revue Mediatrice et Reine, October 1946, pp. 110-112. See also WTAF - Vol. III, p. 470.

29. Quoted by Father Alonso, VSF, pp. 46-47. See also WTAF - Vol. III, p. 470.

30. Novidades, February 24, 1960, quoted by La Documentation Catholique, June 19, 1960, col. 751. See also WTAF - Vol. III, p. 472.

31. VSF, p. 46. See also WTAF - Vol. III, p. 475.

32. VSF, p. 46. See also WTAF - Vol. III, p. 478.

33. Quoted by Father Martins dos Reis, O Milagre do sol e o Segredo de Fatima, pp. 127-128. Cf. Father Alonso, VSF, pp. 55-56. See also WTAF - Vol. III, p. 578.

34. Quoted by Father Alonso, Fatima 50, p. 11. See also WTAF - Vol. III, p. 47.

35. WTAF - Vol. III, p. 49.

36. Ibid., pp. 485-486.

37. Ibid., pp. 484-485.

38. Letter to Frère Michel de la Sainte Trinité of January 10, 1985. See also WTAF - Vol. III, p. 486.

39. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, “Introduction”, TMF, p. 4.

40. WTAF - Vol. III, p. 481.

41. Sister Lucy, in an account written for her confessor, Father Aparicio, at the end of 1927.

42. Sister Lucy, “Fourth Memoir”, December 8, 1941, p. 65. See also Frère Michel de la Sainte Trinité, The Whole Truth about Fatima - Volume I: Science and the Facts(WTAF - Vol. I), Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1989, p. 159.

43. English translation of text in Sister Lucy's “Third Memoir” quoted in “First and Second Part of the ‘Secret'”, TMF, pp. 15-16. See also Sister Lucy, “Fourth Memoir”, Fatima in Lucia's Own Words,(Postulation Centre, Fatima, Portugal, 1976)p. 162. See also Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia,(Porto, Portugal, 1973, edited by Father Antonio Maria Martins)pp. 338-341.

44. Sister Lucy quoted in TMF, p. 16. See also Sister Lucy, “Fourth Memoir”, p. 162. See also Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia, pp. 340-341.

45. English translation of Sister Lucy, “Third Part of the ‘Secret’”, TMF, p. 21.

46. Father Fabrice Delestre, Society of St. Pius X, “June 26, 2000: Revelation of the Third Secret of Fatima or a Curtailed Revelation”, SSPX Asia Newsletter , July-August 2000, p. 24.

47. Joseph Cardinal Ratzinger, “Theological Commentary”, TMF, p. 39.

48. Bill Broadway and Sarah Delancy, The Washington Post.

49. シスター・ルチアの証言は、2001年11月17日の秘密のインタビューにおけるその証言を変えるモンシニョール・ベルトーネの努力と一緒に、この書物の第14章において詳細に論じられる。そのインタビューのためには録音からの書写も何ら作られなかった。

2005/06/17 三上 茂 試訳

目次

作成日:2005/06/17

最終更新日:2005/06/17

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