ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

Joseph Cardinal
Ratzinger

Angelo Cardinal
Sodano

この章は世界に平和をもたらすためにファチマの聖母の本質的なそして非常に重要な要求についての知識とそれへの従順とを妨害している彼らの明らかに意図的な試みのゆえに、写真に掲げられている4人のバチカン高位聖職者たちに対する告発状を作成する。このことは第16章pp. 225-251 において十分に説明されている。

Dario Cardinal
Castrillón Hoyos

Archbishop
Tarcisio Bertone

第16章 告発状を作成する

今聖なる教会と世界全体を苦しめている災難は大きい。これらの異常な時代には、アリウス派の危機の時代においてとまったく同じように、平信徒は、通常の時代においては彼らのものではない諸々の重荷を担わなければならない。

キリストの神秘体の一員としてわれわれは、生活におけるわれわれの立場に従って、その危機に対抗するために積極的な手段を講じる義務を持っている。そうすることにおいてわれわれは、「神が教会を世話しておられる」という大体の推測に満足するようわれわれに説きすすめる信心への偽りの訴えによって思いとどまらせられることはできない -- もしこのことが一般大衆のカトリック教徒は位階のメンバーたちによって犯された誤謬や不正に反対するために何もしてはならず、むしろ、その諸々の結果がどれほど破壊的であろうとも、権威のあらゆる決定には盲目的に服従しなければならないという意味に取られるとするならば -- 。

正義と慈悲におけるわれわれの義務

それはカトリック的なやり方ではない。それは平信徒と聖職者がアリウス派の危機の間にしたことではない。そしてそれはわれわれが今日なすべきことではない。この進行している災難に直面してわれわれが沈黙し黙認することは、まず第一に、教会に対する不正であり、堅振を受けたカトリック教徒、キリストの兵士としての正義におけるわれわれの荘厳な義務の裏切りである。

それから、位階におけるわれわれの上長たちを含むわれわれの仲間であるカトリック教徒に対する慈悲におけるわれわれの義務もまた存在する。われわれは、そのことがたといわれわれ自身の上長たちを公的に非難しなければならない異例の段階を踏むことを意味するとしても、教会において起こっていることに反対するためにわれわれの上長たちに対する慈悲における一つの義務を持っている

聖トマス・アクィナスが教えたように:「もし信仰が危険に曝されたならば、臣下は彼の上長たちを公的にさえ非難すべきである。」そのような場合に、臣下が彼の高位聖職者を公的にさえ、非難することはなぜ正しくかつ慈悲に富むことの両方であるのか? 聖トマスはここで、高位聖職者を公的に非難することは「無礼な高慢ぶったところがあると思われるであろう。しかしある点において自分自身をよりよいものと考えることの中には何ら高慢はない。なぜなら、この世の生においては、誰一人何らかの過失のない者はいないからである。われわれはまた、ある人が彼の高位聖職者を慈悲をもって非難するとき、そのことは彼が自分自身を何らかよりよいものと考えているということは帰結しないのであって、単に彼が、アウグスティヌスが上に引用した彼の規則において述べているように、『あなたたちの間でより高い地位にいる人がそれゆえにより大きな危険にある』人に対して彼の援助を提供しているにすぎないということが帰結するということをも想起しなければならない。」注1)もちろん、ファチマのメッセージに対してばかりでなく、教会の過去全体に対して彼らの背を向けたバチカン当局のあるメンバーたちによって追求されている破壊的な革新の現在の過程からわれわれの仲間のカトリック教徒たちに対する危険 -- 最も重大な可能的危険 -- もまた存在する。

彼らの行動が信仰に害を与える恐れがあるとき、われわれの上長たちを非難する義務に関する聖トマスの教えは教会の諸々の聖人や博士たちの全員一致の教えを反映している。教会博士である聖ロベルト・ベラルミンがローマ教皇に関する彼の著作において教えたように、教皇でさえ、もし彼が教会に害を与えるおそれがあるならば、非難され、抵抗されてもよいのである:

ちょうど身体を攻撃する教皇に抵抗することが正当であるのと同じように、霊魂を攻撃する者、あるいは市民的秩序を乱す者、あるいは、就中教会を破壊しようと試みる者に抵抗することもまた正当である。私は彼が命令していることをしないことによって、そして彼の意志が実行されることを阻止することによって彼に抵抗することは正当であると言う。しかしながら、彼を裁判にかけ、罰しあるいは退位させることは正当ではない。というのはこれらの行為は一人の上長に固有のことであるからである。注2)

同様に、優れた十六世紀の神学者フランシスコ・スアレス(教皇パウロ六世は彼を Doctor Eximius et Pius あるいは「例外的なそして敬虔な博士」として称賛された)は次のように教えた:

そしてこの第二の仕方において教皇は、もし彼が全教会を破門しようと試みたならば、あるいはカエタヌスとトルケマダ両者が述べているように、もし彼が使徒の伝統に基づく教会の諸々の儀式を覆そうと望んだならば起こったであろうように、教会の全体との正規の一致のうちにあることを望まなかったならば、教会分離の罪ある者であり得る....もし[教皇が]正しい慣習に反した命令を与えるならば、彼は従われるべきではない。もし彼が明らかに正義と共通善に反する何かあることをしようとするならば、彼に抵抗することは合法的であろう。もし彼が力によって攻撃するならば、力によって彼は、正当防衛に相応しい中庸をもって、抵抗され得る。注3)

もし教皇でさえ、彼が教会に害を与えるおそれがある行動を取るとき、合法的に抵抗されてもよいならば、われわれがここで非難しなければならない高位聖職者たちはなおさらそうである。まったく単純に、教皇聖フェリックス三世が宣言されたように:「誤謬に反対しないことはそれを認めることである。そして真理を擁護しないことはそれを抑圧することである。」平信徒および地位の低い聖職者のメンバーたちはその命令から免除されていない。教会のすべてのメンバーはそれに従属している。

われわれは、このように、声を挙げる義務を持っている。われわれは、この書物において名指された高位聖職者たち(および彼らの多くの協力者たち)がファチマのメッセージに対する彼らの攻撃によって教会と世界とに重大な害を引き起こした、そして差し迫って引き起こすであろうとわれわれが良心において信じていることが事実に基づいた非難であることを教皇に注意する義務を持っている。われわれはこれらの人々が犯したとわれわれが信じている犯罪の除去のために教皇に請願する義務を持っている。

われわれは聖なるカトリック教会の仲間のメンバーとしてあなたの考察のためにわれわれの訴訟を提出しようとしている。われわれは今、証拠が一般に示したこと、そしてそれがここでわれわれが非難した人々の特定の行動に関して示していることを簡潔に要約する。

概して、われわれは以下のことを証明した:

第1、ファチマのメッセージは人類の歴史のこの時期に教会と世界にとって決定的な重要性を持つ真のそして真正の預言である。そのメッセージは神の御母によって個人的に伝えられ、数万人の人々によって目撃された論争の余地のない公的な奇跡によってその本物であることが証明され、教会によって信じる価値のあるものと宣言され、そして教皇ヨハネ・パウロ二世を含む一連の教皇たちの明白な支持を受けた。要するに、ファチマのメッセージは単純に無視されることはできない。教皇ヨハネ・パウロ二世自身が言われたように、ファチマのメッセージは教会に対して一つの義務を課している。

第2、ファチマのメッセージは世界に汚れなき御心に対する信心を -- そしてこのようにしてカトリック信仰を -- 世界中に確立することを求めている。その目的のために、神御自身がわれわれの時代のために以下の事柄をお命じになった:教皇および司教たち全員による汚れなき御心へのロシアの -- 明示的にそしてただロシアだけの -- 荘厳、公的な奉献、カトリシズムへのロシアの回心、そしてロシアと他の場所における結果としての汚れなき御心の勝利。

第3、ファチマの第三の秘密(まだ明らかにされるべきその部分における)はカトリック教徒たちが今日彼らの周りすべてで見ていることを予告している:すなわち、教会における信仰と規律の破局的な喪失 -- カトリック世界のほとんどあらゆる地域の中へ達している異端、スキャンダル、背教。山ほどの他の証拠は別として、われわれはこの点に関して以下のことをひとり証明している証拠の一片を提示した:すなわち、被告たちが葬ったそしてすべての人に忘れさせようと努力したメッセージにおける決定的な文言:「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」-- ポルトガルにおいては、然り、しかし他の国々においては、われわれが見たように、否 -- という文言である。

第4、シスター・ルチアは第三の秘密が1960年までには公にされなければならないと主張した。なぜならその年にはそれは「はるかにより明瞭に」なっているであろうから。

第5、1960年までに第二バチカン公会議が召集されていた。1960年以降教会を支配した人々は教会の人間的な要素に一つのまったく新しい方向づけを与えた。彼らはこのことを、それを通じて異端者たち、分離主義者たち、共産主義者たち、無神論者たち、そして一なる真の教会の他の敵対者たちとの「対話」が事実上、誤謬に対する教会のかつての猛烈な反対と、キリストが彼らにそうすることを命じられたように、カトリック信仰を全体として無傷のままに次のすべての世代に伝える教会の義務に取って代わった「世界への開放」によって為したのである。信仰を護り、伝える彼ら自身の荘厳な義務を無視することに満足せずに、彼らはまたその義務を固守しようとする人々を迫害している。

第6、1973年という早い時期に、教皇パウロ六世は「世界への開放が世間的な考え方による」-- すなわち、自由主義による -- 「教会の真の侵略となった」ということを認めざるを得なかった。自由主義による教会のこの侵略とその結果としての教会内部の信仰と規律の崩壊は組織化されたフリーメーソンと共産主義の温められた目標を表している:すなわち、教会の完全な転覆 -- かれらはそのことが不可能であることを知っている -- ではなくて、自由主義的な考え方への教会の適応という目標である。教会の現在の状態はまさにこれらの勢力が達成するであろうと大胆に予告したこと、そしてまさに公会議前の多くの教皇たちが彼らの陰謀の目的であると警告したことである。

第7、自由主義的な考え方に教会を適応させるその新しい方向づけに対して戦う代わりに、われわれがここで告発している人々を含む公会議後の教会人たちは以下のことを含む諸決定を第二バチカン公会議の名において引き受けそして実行することによってその新しい方向づけを揺るぎなく追求してきた:すなわち、(a)東方政策、それによって教会の多くのメンバーたちが諸々の共産主義政権のいかなる非難あるいはそれに対する積極的な反対を避けるようにされた一つの政策;(b)事実上一なる真の宗教への非カトリック者の回心とカトリック教会はその外にはいかなる救いもない一なる真の教会であるという教義の両方を放棄する「エキュメニカルな冒険」と「諸宗教間対話」;(c)(四世紀のアリウス派の定式のように)信仰の教義への信仰を掘り崩す公会議および公会議後の諸文書における新奇で曖昧な用語の導入;(d)伝統的なラテン典礼を放棄することによる一つのまったく前例のない典礼の「改革」;(e)聖体および聖なる司祭職への信仰を掘り崩す手による聖体拝領、祭壇で奉仕する少女たち、祭壇からの聖櫃の除去等々のような異なった実践(不健全な実践)のさまざまの形式の許可あるいは容認。

第8、教皇と司教たちによる汚れなき御心へのロシアの公的奉献、カトリシズムへのロシアの回心そして世界中での汚れなき御心(およびそれと共にカトリック教会)の勝利へのその単純な要求をもつファチマのメッセージは、そこにおいて東方政策、「エキュメニカルな対話」そして「諸宗教間の対話」が、その国と世界の善のためにロシアは奉献され、真の宗教に回心しなければならないと公的に宣言することから教会を妨げる教会の新しい方向づけとは和解させられることはできない。

第9、被告を含む、新しい方向づけを実行している教会人たちはファチマ・メッセージを新しい方向づけに一致させるために修正を試みた。彼らは、(a)名を挙げてのロシアのいかなる奉献(彼らはそれを我慢できない「エキュメニカルな」違反あるいはロシア正教会に対する「挑発」と見なす)、(b)カトリック信仰へのロシアのいかなる回心(彼らはそれを「時代遅れの教会論」として明白に放棄した)、そして(c)世界中での汚れなき御心のいかなる勝利(彼らはそれを「勝利主義的なもの」、困惑させるものそして「非エキュメニカルなもの」と見なす)をも除去するメッセージについての一つの「解釈」を強く要求することによって、このことを為した。

第10、フリーメーソンであるジャン・ヴィヨ枢機卿(教皇パウロ六世の国務長官)によるローマ・クリアの再編以来教会の日常的管理を事実上支配してきたバチカン国務長官ソダノ枢機卿はファチマに関する一つの党路線を命じてきた。それに従えば、ファチマのメッセージ一般、そして特殊的に第三の秘密は、未来の出来事のその預言をそれらを過去の出来事へと変えて取り除き、そしてその特にカトリック的な内容をロシア正教会あるいはプロテスタントたちの感情を害することがないであろう単なる一般的な「キリスト教的」敬虔へと引き下げる一つの「解釈」によって葬りさられなければならないのである。

第11、ファチマに関する国務長官の党路線はファチマのメッセージに関する注釈および2000年6月26日にラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネによって公表された第三の秘密において4度も多く引用された。

第12、ファチマに関する党路線に一致して、第三の秘密はただ部分的にのみ公表された。そして半分廃墟になった都市の外で兵士たちによって処刑される「白い衣服を着た司教」の幻視は21年前に一人の孤独な暗殺者による教皇ヨハネ・パウロ二世の生命に対する失敗した攻撃以上のものを意味しないと「解釈され」た。

第13、1960年にバチカン自身によって言及された「おとめの言葉」 -- 「ボルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれれるでしょう、云々」という不完全な文言にほとんど確実に続く言葉 -- を含む第三の秘密のその部分は信徒たちに与えないままにされた。

第14、第三の秘密は実際、その本質において、単に多数の証人たちの証言によってばかりでなく、教皇ヨハネ・パウロ二世自身によって明らかにされてきた。教皇は二度(ファチマでの説教において)ファチマのメッセージをはっきりと黙示録に、そして特に「竜の尾」(黙示録12:3, 4)によって彼らが掃き落とされた後に天からの星(奉献された霊魂たち)の三分の二の転落に結びつけられた。-- それはメッセージの最初の二つの部分においては何処にも見出されない、そしてそれゆえに疑いもなく第三の秘密において見られる一つの出来事である --。

第15、ファチマに関する党路線についての正当な疑念を抑えるための無益な試みにおいて、バチカン当局はシスター・ルチアの一つの秘密「インタビュー」を行った -- それのためにはいかなる写しもあるいは他の完全な記録も存在しない -- 。その「インタビュー」の中では、彼女は本質的に「彼女がおそらく党路線に矛盾するファチマ・メッセージのそれらの要素をでっち上げたということに「同意する」よう説き伏せられた、そしてさらに、ロシアの奉献がロシアの明白な言及と一つの共同の公的な儀式における教皇および世界の司教たち両方の参加を要求しているという60年間の彼女の不動の証言を(ほんのわずかの説明もなしに)不当なものとして否認するように説き伏せられたと思われる。

第16、新しい方向づけとファチマに関する党路線に忠実である人々が、たとい彼らが異端を促進し、典礼上あるいは他の教会法に公然と従わず、あるいは言葉に表せない性的スキャンダルを犯しているとしても、そのままにされ、あるいは報酬を受けさえしている一方で、ファチマに関する党路線を含む教会の新しい方向づけに従わない人々は「職務停止」、「破門」の脅迫そして他の形式の不当な処罰による迫害や粛清を受けている。アリウス派異端の時代においてそうであったように、われわれは大聖グレゴリウスが嘆いた同じ状況に直面している:「ただ一つの罪だけが今や精力的に罰せられている:すなわち、その罪とはわれわれの父祖の諸々の伝統の正確な遵守である。この理由のために敬虔な人々は彼らの国から追いやられ、砂漠の中へと追放されている。」

第17、新しい方向づけに有利になるようにファチマのメッセージを修正し、曖昧にしそして葬るこの協調した努力の直接の結果として、ロシアは奉献されなかった、ロシアは回心しなかった、しかしたださらに堕落しただけであった、教会は前例のない危機の深みの中におり、多くの霊魂が危険に曝されている。なぜなら、ファチマのおとめはこう言われたからである:「もし人々が私が求めていることをするならば、多くの霊魂が救われるでしょう。」そして聖母はまたこう言われた:「多くの霊魂は、彼らのために祈り、犠牲をしてくれる人を誰も持っていないがゆえに地獄に行くのです。」彼女自身の使命に関して、シスター・ルチアは1957年12月26日にフエンテス神父にこう言った:「私の使命は、もし世界が祈らず、予め罪の贖いをしないならば、確実に来るはずである物質的な懲罰を世界に指し示すことではありません。そうではありません!私の使命はすべての人に、もし私たちが罪のうちに頑固に留まるならば、永遠にわたって私たちの霊魂を失うという私たちが陥っている差し迫った危険を指し示すことです。」その結果、世界が、ファチマの聖母が警告なさったさまざまの民族の絶滅に直面していることは彼女の要求を拒否した結果であろう。

ところで、われわれが教会の前に名を挙げて告発するよう強いられてきた高位聖職者たちに関しては次のことが実質的な証拠によって確立された:

アンジェロ・ソダノ枢機卿に関して

第一、教皇パウロ六世の下でのローマ・クリアの再編のことを考慮に入れるならば、バチカン国務長官としてソダノ枢機卿は文字通り今日の教会における最も強力な人物である。そしてそのものとして、ソダノ枢機卿は、特に教皇の衰えて行く健康のことを考慮に入れれば、教会の日常の出来事に対する事実上の支配者である。

第二、教皇パウロ六世の同じクリア諸改革のために、ソダノ枢機卿は信仰教義聖省(CDF)-- それは以前は(聖省と呼ばれていた時は)教皇がその長であった-- を含むすべてのバチカン各省の頂点に立っている。

第三、われわれがファチマに関する党路線と呼んだもの:すなわち、第三の秘密を含むファチマのメッセージがまったく過去に属する、そして誰ももはやロシアの奉献を要求することは許されないという嘘、を命じたのはソダノ枢機卿である。われわれはことを知っている、なぜなら、

第四、ソダノ枢機卿は、教会の日常の出来事の事実上の支配者として、ファチマの問題における教会の新しい方向づけを精力的に強要した。われわれはこのことを知っている、なぜなら、

*グルーナー神父の根拠のない「職務停止」は2001年9月12日に「より高次の権威(国務長官を指すためのバチカン用語)の命令によって」告知された。
*偽ってグルーナー神父を非難し、司祭たちや司教たちに彼の使徒職の会議を避けるように圧力をかける文書は、国務長官に結びついている教会「外交官たち」によって数年にわたって世界中に広められた。
*グルーナー神父の迫害は、当時の彼の司教がバチカン国務長官からの「困ったシグナル」と呼んだものと共に1989年に始まった。

ラッツィンガー枢機卿に関して

第一、ラッツィンガー枢機卿は、CDF の長としての彼の立場において、数え切れない機会に教会の新しい方向づけへの彼の関わり合いを述べてきた。彼は教会の新しい方向づけを、彼がCDF の長となった後に出版したある書物の中で「城塞の爆破」として記述した。

第二、この「城塞の爆破」に一致して、ラッツィンガー枢機卿は、福者ピオ九世と聖ピオ十世が自由主義の彼らの荘厳な、不可謬的な非難において「一方的」であった、そして彼らの教えが第二バチカン公会議によって「対抗され」た、という彼の見解を公然と宣言した。彼はさらに、カトリック教会がすべてのプロテスタントたちおよび分離主義者たちを回心させることをもはや求めない、そしてカトリック教会が彼らの「諸々の教会や教会共同体」を「吸収する」何らの権利も持っておらず、彼らのために「多様性の統一」のうちに一つの場所を作らなければならないと宣言している -- これはロシアの奉献とカトリック信仰へのロシアの回心とは明らかに両立し得ない一つの見解である。ラッツィンガー枢機卿の見解は控えめに言っても異端の疑いがある。

第三、ラッツィンガー枢機卿が「爆破」しようと求めた「城塞」の一つはファチマのメッセージの伝統的カトリック的理解である。

第四、ラッツィンガー枢機卿は、ソダノ枢機卿のコントロールの下で彼が出版した TMF において、ファチマの城塞を爆破しようとした。

第五TMF は次の解釈学的欺瞞によってメッセージの真正のカトリック的預言の内容を破壊しようと試みている:

第六、ラッツィンガー枢機卿は、ソダノ枢機卿の党路線に従いながら、TMF において「われわれはソダノ枢機卿と共に:ファチマの『秘密』の第三部が言及している事件が今や過去の一部と思われること」そして(ソダノ枢機卿の「解釈」に従えば)第三の秘密は1981年における失敗した暗殺未遂で頂点に達した、「と主張しなければならない」と述べた。

第七、第三の秘密に関するソダノの党路線を採用するに際して、ラッツィンガー枢機卿は、第三の秘密が「キリスト教徒の信仰と生命、そしてそれゆえに世界の信仰と生命に対する諸々の危険」に関する一つの「宗教的な預言」であると1984年 -- 暗殺未遂の3年 -- における彼自身の証言と真っ向から対立した。[1984年の]その機会にラッツィンガー枢機卿は秘密が1981年暗殺未遂あるいは他の何らかの過去の出来事に関係があるといういかなる示唆もしなかった。

第八、党路線の推進において、ラッツィンガー枢機卿は2000年6月26日の記者会見で、世界の報道機関に、グルーナー神父は「教導権に服従しなければならず」また世界の1984年奉献とされているものをロシアの奉献として受け入れなければならないと忠告しながら、ニコラス・グルーナー神父を批判するために彼の道から出て行った。そのことは、ラッツィンガー枢機卿によれば、グルーナー神父はソダノ枢機卿の党路線に従わなければならないということである。ラッツィンガー枢機卿の主張は誤りである。なぜなら、教導権 -- 教皇、公会議、通常および普遍的教導権 -- のいかなる義務的、権威的な宣告も存在しなかったからである。

第九、要するに、ラッツィンガー枢機卿は、党路線を遂行しながら、ファチマのメッセージの恥知らずの「解体」に対して神学的重みと妥当性の偽りの外見を与えるために CDF の長としての彼の立場を意図的に用いたのである -- それは、Los Angeles Times さえ TMF および2000年6月26日の記者会見についてその紙面に次のような副題をつけたほどに露骨な一つの試みであった:

バチカンのトップの神学者、数十年間の推測に燃料を供給してきた一人の修道女の1917年の幻視についての説明を穏やかに地位低下させる。

モンシニョール・タルチジオ・ベルトーネに関して

CDF の秘書官としての彼の地位において、モンシニョール・ベルトーネはまたソダノ枢機卿によって命じられた党路線を遂行した。

第一、モンシニョール・ベルトーネは TMF において、「シスター・ルチアは[1984年の世界の]奉献のこの荘厳かつ普遍的な行為が、聖母が望まれたことに相当するということを個人的に確証した」('Sim, esta feita, tal como Nossa Senhora a pediu, desde o dia 25 de Marco de 1984':「はい、それは1984年3月25日に、聖母がお求めになったように、為されました」。それゆえに、[ロシアの奉献のための]いかなるさらなる議論あるいは要求も根拠はない」:1989年11月8日の手紙)と主張することによって一つの証明し得る欺瞞的行為を犯した。

第二、その欺瞞は引用された「1989年11月8日の手紙」が年老いたシスター・ルチアが用いないコンピュータによってプリントアウトされたものであり、またシスター・ルチアが犯すことができなかった一つの誤り -- すなわち、教皇パウロ六世が、彼の束の間のコヴァ・ダ・イリアへの訪問の間に決して何も奉献しなかったその1967年のファチマへの訪問の間に世界の奉献[の儀式を]行ったなどという誤り -- を含んでいるからして、証明可能である。

第三、モンシニョール・ベルトーネは、たとい彼(そしてバチカン当局の残りの人々)が2000年4月 - 5月にシスター・ルチアに完全に面会する権利を持っており、そして1984年の世界の奉献がロシアの奉献のために十分であったか -- 彼女の首尾一貫した数十年にわたる証言とは反対に -- を確証するために彼女に質問することができたとしても、意図的に、明らかにインチキの「1989年11月8日の手紙」だけに頼ったのである。

第四、モンシニョール・ベルトーネは、ファチマが「過去に属する」というソダノの党路線にへつらいながら、TMF において、2000年6月26日に第三の秘密を公表するという「教皇ヨハネ・パウロ二世聖下の決定が権力と悪に対する悲劇的な人間的欲望によって特徴づけられた歴史の一時期を終わらせる」と敢えて述べたが -- それは現実を無視し、教会と全世界の現在の危険的状況悪化に貢献する一つの向こう見ずで、不合理そして詐欺的な主張である。

第五、第三の秘密およびロシアの奉献に関するバチカンの発表の完全さについての公衆の増大する疑いに答えて、モンシニョール・ベルトーネはコインブラの修道院でシスター・ルチアの秘密「インタビュー」をやってのけた。それのそうだとされる結果は一ヶ月以上もの間作られなかった。

第六、その「インタビュー」は2時間以上も続いたとされているが、モンシニョール・ベルトーネはロシアの奉献と第三の秘密に関係してシスター・ルチアからたったの44語だけを提供した。それらの語はいかなる周辺の文脈もなしに提供されているので、その結果シスター・ルチアが何を尋ねられたか、そして彼女がどのように正確に答えたかを告げることは不可能である。

第七、他の諸々の信じがたい事柄のうちで、われわれは、それについてたった44語しか与えられていないこの2時間のインタビューの間に、以下のこと[があったということ]を信じるように求められている、

第八、2時間の「インタビュー」のいかなる写しあるいは他の記録も作られずに、ただ、モンシニョール・ベルトーネと(その称するところによれば)シスター・ルチア -- イタリア語を話しさえしない -- によって署名された L'Osservatore Romano におけるイタリア語の要約だけが作られた。(シスター・ルチアの「署名」は「要約」の英語訳には現れていない。)

第九、モンシニョール・ベルトーネは、たとい彼が党路線を支持し、2000年6月26日の記者会見が「権力と悪に対する悲劇的な人間的欲望によって特徴づけられた歴史の一時期を終わらせる.....」という彼自身の馬鹿げた主張を擁護するためにシスター・ルチアを強要することに一つの確定した関心を持っていたとしても、「インタビュー」を行った。

ダリオ・カストゥリヨン・ホヨス枢機卿に関して

この問題におけるカストゥリヨン・ホヨス枢機卿の主要な役割は、党路線を遂行し、聖職者聖省の長としての彼の立場において、ファチマ使徒職を押し潰し、ファチマのメッセージを葬る努力に対して「抵抗」の最大のポケットを代表しているニコラス・グルーナー神父の名声を破壊しようと努めることによって、教会の新しい方向づけに奉仕することであった。証拠は次のことを示している、

第一、教会の新しい方向づけはカトリック聖職階級が、教会に対して恥をもたらした同性愛者たち、少年愛者たちそして異端者たちによって完全に侵入されること -- グルーナー神父のような、彼らの誓願を護り信仰を保ってきた多くの善良な司祭たちにとっての損害の原因であるが -- を許してきた。

第二、あらゆる大陸において猛威を振るっている聖職者の間での信仰と規律における危機にもかかわらず、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は、全カトリック教会においてたった一人の司祭:すなわち、信仰あるいは道徳に反するいかなる罪も犯したことがない、彼の独身の誓願を護ってきた、信仰を保った、そしていかなる罰をも保証する何物をも絶対になさなかったニコラス・グルーナー神父に関して、公的な非難、「職務停止」の通達、そして破門の脅迫をさえ、出した。-- 事実上教皇職を横取りしたソダノ枢機卿の命令の下でカストゥリヨン・ホヨス枢機卿によって彼に対して課された残酷かつ異常な罰をさておくとして --。

第三、彼の在職期間の間にカストゥリヨン・ホヨス枢機卿が直接的なそして厳しい懲戒の処置を行った唯一の司祭たちは、彼が「今日の教会の実体」と「現代の教会」 -- すなわち、彼が司祭階級の教義的あるいは道徳的完全さよりもはるかに精出して支持している新しい方向づけ -- の中へと不適当に「挿入された」と考えている「伝統主義的」司祭たちである。

第四、2000年6月5日のグルーナー神父宛ての彼の手紙の中で、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は破門をもってグルーナー神父を脅迫した -- それは、ソダノ枢機卿の命令の下で、ファチマのメッセージを「穏やかに地位低下させる」ために召集された2000年6月26日記者会見のわずか二十数日前である。

第五、2001年2月16日に、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は、「破門」の脅迫を更新し、彼がThe Fatima Crusader のいくつかの記事のうちに見出されるソダノ枢機卿の批判、および教会における自由な意見についての他の諸問題の批判を「公的に撤回する」よう要求するもう一通の手紙をグルーナー神父に送った -- それは、一つの前例のない要求であり、それについてカストゥリヨン・ホヨス枢機卿が何もしていない今日の忠実でない司祭たちそして司教たちさえによって促進されている異端的な文書のおびただしい数のことを考慮するならば、まったく滑稽な要求である。

第六、同じ手紙の中でカストゥリヨン・ホヨス枢機卿は、グルーナー神父がファチマについての新しいバージョンを受け入れないことに対して懲戒するときに党路線を促進する彼の動機を明らかにした:すなわち、「祝せられた御母は、世紀の初めにコヴァ・ダ・イリアにおいて三人の小さな幻視者たちに御出現になった。そして全教会がそれに参加しており、第三千年紀においてより緊急でさえある新しい福音宣教のための一つのプログラムを設計なさった」と。

第七、ファチマの聖母は何らかの「新しい福音宣教」について何も言われなかった。ただロシアの奉献、カトリシズムへのロシアの回心そして聖母の汚れなき御心の勝利だけを言われた -- それらのすべてをカストゥリヨン・ホヨス枢機卿は、他の被告たちと共に、慎重に無視している。

第八、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は、彼が一般的に寛大に取り扱っている広範な聖職者の堕落によって包囲された教会において、一人の忠実な司祭、ニコラス・グルーナー神父の生涯の仕事とよい評判を滅ぼそうと試みた。それは単純にただ、グルーナー神父がソダノ枢機卿によって命じられたファチマのメッセージの偽造品を受け入れようとしないからである。

被告人たち全員に関して

われわれが提示した証拠は被告人たち四人すべて -- アンジェロ・ソダノ枢機卿、ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿、モンシニョール・タルチジオ・ベルトーネそしてカストゥリヨン・ホヨス枢機卿 -- がわれわれがここで証明した動機:すなわち、伝統的なカトリック的意味において理解されたファチマ・メッセージを、真正のメッセージが言っていることとは共存することができない一つの新しい教会の方向づけのために道をあけるために、教会の記憶から消し去るという動機、のプリズムを通して見られない限り意味をなさないさまざまの行動を取ろうと結びつき、共謀したということを示している。

被告人たちは、ファチマのメッセージを、その要求に対する教会の一致が来るべき地球的な破局であると誰もが見ることができるものを防ぐであろう歴史におけるまさにその瞬間に、始末しようと試みた。彼らの人間的な秘密情報員たちの誤りのあり得る情報機関の報告だけで補強された世界の民間の当局は最悪のことのために準備するに十分賢明である。しかし、来るべき諸民族の絶滅に関する不可謬の天上の情報機関の報告を持っている被告人たちはわれわれに、その報告はただ過去の出来事だけに言及している、それはおそらく信頼できるものではない、そしてどっちみち安全に無視され得る、とわれわれに告げるのである。

同時に、被告人たちが教会における前例のない危機 -- その恐るべき諸々の結果が嘲りと軽蔑でもって傍観している全世界に今や目に見える一つの危機 -- の原因として直接に彼ら自身の行動と不作為とを指し示している天の情報機関の報告の一部を今なおわれわれから隠しているという証拠が圧倒的である。

十一の嘘

証拠は被告人たちが少なくとも十一の明白な嘘をつく罪を犯したということを示している。これらの嘘はすでに教会および世界一般に重大な損害を引き起こした。そして彼らは、ファチマのおとめ御自身がわれわれに警告なさったように、あらゆる男女そして子どもに対してより重大でさえある害を差し迫って突きつけた。

これらの嘘は次の通りである:

嘘#1:2000年6月26日に公表された「白い衣服を着た司教」の幻視はファチマの第三の秘密にとってそこにあるすべてである。

この嘘は、祝せられたおとめの欠けている言葉によっってのみ説明され得る幻視における明白な預言的警告を教会と世界から犯罪的に奪っている。欠けている言葉は単にその幻視を説明するばかりでなく、またその幻視が描写している未来の破局 -- 半分廃墟にされた都市の外での一団の兵士たちによる教皇(あるいは白い衣服を着た一人の司教)の処刑を含む -- をどのように避けるかをわれわれに教えるであろう。

甚だしい二枚舌を露呈させながら、被告人たちは、一方において、幻視は「比喩的に」(二十世紀の間の教会の迫害を象徴するものとして)解釈されなければならないとわれわれに告げながら、他方において、彼ら自身それを1981年の教皇に対する失敗した暗殺の試みの記述として文字通りに解釈している。彼らは単純に「教皇は殺されます」という幻視の公表されたテキストにおけるシスター・ルチア自身の説明を無視している。彼らはまた1982年5月12日のシスター・ルチアのそうだとされる手紙 -- 彼ら自身が TMF において証拠として提出している!-- をも無視している。おそらく暗殺未遂の一年後に描かれたその手紙の中でシスター・ルチアはこう警告した:「そしてたとい私たちがこの預言の最後の部分の完全な実現をまだ見なかったとしても、私たちはそれに向かって大股で近づいているのです。」

第三の秘密から明らかに欠けているおとめの言葉を与えないでおくことによって、被告人たちは、秘密がその全体において疑いなく明らかにしている、危機を引き起こすことにおける彼ら自身の役割を隠そうと試みる一方で、教会における前例のない危機のこの時代における貴重な天の導きをわれわれから奪っている。

嘘#2:第三の秘密は教皇ヨハネ・パウロ二世の生命に対する失敗した攻撃を含む「過去に属する」出来事を描写している。

教皇と位階とに降りかかる未来の大災難(公的な処刑を含む)の幻視を20年以上も前の失敗した暗殺の試み以外のものではないと「解釈する」努力は問題になっている犯罪のうちに含まれる最も見え透いた欺瞞である。われわれがふんだんに示したように、この嘘は犯罪の最も危険な局面である。というのは、それはすべての信徒たちに明らかにまだ起こっていない生命にかかわるほどに重要な預言的警告 -- さまざまの民族の絶滅を含む -- についてもはや関心を持つなと告げることによって、全教会を破滅への歓楽の道にまで導くからである。

この欺瞞 -- その図太さにおいてほとんど笑いを引き起こすものであるが -- はほかならぬ1984年のラッツィンガー枢機卿自身の第三の秘密の内容についての記述によって暴露されている。その当時は、枢機卿は、第三の秘密が1981年の暗殺未遂において頂点に達したという(明らかにソダノ枢機卿によって指令された)彼の現在の「解釈」については何も言わなかった。この「解釈」は明らかに、信徒たちに誤った指示をし、彼らを誤り導くためにソダノ枢機卿によって計画され(そして他の被告人たちによって遂行された)最近のでっち上げである。

嘘#3:ファチマのメッセージは祈り、償いそして「心の清い」者であることという形での一般的信心を超える教会と世界における現代の危機のための何ら特別の処方を提供するものではない。

被告人たちと彼らの協力者たちは、ファチマの聖母が全能の神御自身の意志によって明確に次のことを要求なさったのではないと言い張ろうと望んでいる:すなわち、教皇と世界のすべてのカトリック司教たち一緒による同時刻でのマリアの汚れなき御心に対するロシアの奉献;そして聖母の汚れなき御心に対する人間の罪 -- その中に数えられているのは汚れなき御心に対する人間の冒涜のすべてである -- を償うための聖体拝領を含む5回の初土曜日の信心。

証拠は、天からのこれらの要求が被告人たちと彼らの協力者たちによって葬られ、無視された -- なぜなら、そのような事柄は彼らがしつこく追求し促進している教会の新しい「エキュメニカルな」そして世間的な方向づけにとって余りにも明白にカトリック的であるから -- ということを示している。このようにして地獄からの霊魂たちの救いのためにわれわれの時代における特別の恵みを得るために神がお定めになったまさにその手段は犯罪的に視界から取り去られている。

嘘#4:ファチマのおとめの諸々の要求はすべて守られた。

その反対に、聖母の諸々の要求は被告人たちによってはねつけられてきた。被告人たちは彼らの協力者たちは、荘厳、公的な一つの儀式において教皇と世界のカトリック司教たちすべてによってなされなければならないロシアの奉献を、非常に少数の司教たちが参加した世界の奉献と横柄にも取って代わらせた。彼らは、回心しなかった、クレムリンによって支配されたロシア正教会の位階の側での教皇に対する継続した軽蔑以外の何物をも産み出さなかったまったく実りのない「エキュメニズム」を含む彼らの失敗した、そして価値のない人間的な諸々の計画とイニシャティヴに適合させるために、神の御母が御自分の神なる御子の権威において要求なさったことを「調整した」。

ロシアの回心、汚れなき御心の勝利、そして神がファチマで彼らに命じられたような罪の償いを求める代わりに、被告人たちは(この点におけるカストゥリヨン枢機卿の途方もない主張を思い起こすならば)一つの精彩のないそして無意味な「新しい福音宣教のための計画」としてのファチマのメッセージの詐欺的な包装のし直しに加わったのである。

われわれが示したように、「新しい福音宣教」は、単にロシア正教徒だけでなく、またすべての分離主義者たちや異端者たちもカトリック教会に立ち帰らなければならない、そしてイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして異教徒もまた回心、イエズス・キリストへの信仰そして地獄から救われるための洗礼を必要とするという教会の不変の教えを放棄している。「新しい福音宣教」-- 多く共産党のスローガンの仕方において -- はそれが言っていることの反対を意味している。すなわち、「新しい福音宣教」はいかなる福音宣教 -- 誰の!-- をも意味していない、そしてこのようにしてロシアの回心に関するおとめ[マリア]の要求を何ら尊重していないのである。

嘘#5:教会と世界の不安にさせる状態はファチマのメッセージへの誤って主張された「従順」からわれわれが期待することができる最善のものである。

ロシアおよび世界全般の現在の状態がいずれにせよファチマでの神の御母の約束の実現を表していると信徒たちに告げることによって信徒を欺こうとすることは犯罪的なことである。教会と世界はこのようにして、もしファチマのメッセージが尊重され従われるならば、神がお与えになるであろう無数のこの世的および霊的な利益を奪われているのである。われわれは、1931年における汚れなき御心へのポルトガルの奉献に続いて起こった一つのカトリック社会へ奇跡的に変わった一つの国家、ポルトガルの事例においてそれらの利益の証明を与えられた -- ポルトガルの位階の長がはっきりと宣言した一つの結果が、もしロシアが同様に奉献されたならば、世界中に起こるであろう。ロシアと世界の恐ろしい霊的および道徳的な状態を汚れなき御心の勝利に帰することもまた冒涜の感じがする。

嘘#6:ファチマのメッセージは祈りと償い以外には、教会と世界における危機に対する具体的な解決を何も提供しない。

ここでは神の御母の明確な要求が、それらを取り上げるよう誰も教会当局者たちに請願しないように意図的にそして欺瞞的に隠されている。われわれの時代のための神の処方なさった霊的助けのこの欺瞞的な隠蔽は教会と世界に無数の損失を引き起こした。

嘘#7:われわれは、個人的な祈りと償いを捧げる以外には、さまざまの民族の絶滅を含む、ファチマの聖母によって予告された大懲罰を避けるために何もすることはできない。

被告人たちはこのように教会と世界から教会の歴史のこの時期に、神がこの世の危害からの保護と並はずれた恵みの獲得のためにお定めになった二つの厳密な手段:すなわち、ロシアの奉献と初土曜日の信心の広範な実践、とを意図的にそしてわがままに隠すのである。

被告人たちはこのようにして冷酷に、意図的にそして無慈悲に教会と市民社会とを同じように、フランスが一つの荘厳かつ公的な儀式において聖心に奉献されなければならないというわれらの主の命令を心に留めることに失敗した不幸なフランス王たちによって従われたのと同じ道に置くのである。

1793年のフランスの革命家たちによるフランス王の処刑は、第三の秘密の幻視:すなわち、半分廃墟となった都市の外での兵士たちによる教皇と彼に仕える者たちの処刑、において見られるように、教皇と位階の多くのメンバーたちを待ち受けている運命を反映している。この未来の出来事を被告人たちは犯罪的に20年以上も前の教皇独りだけに対する失敗した暗殺攻撃として故意に誤り伝えている。

嘘#8:ファチマのメッセージは教会のメンバーたちに対してそれを信じるか、あるいはそれに従うかのいかなる義務をも課さない一つの単なる「私的啓示」である。

ラッツィンガー枢機卿が TMF において主張しているように、ファチマのメッセージは「提供されているが、しかし人が用いる義務がない一つの助け」以上でも以下でもないものである。すなわち、ラッツィンガー枢機卿は、教会は -- ロシアの奉献および5回の初土曜日を含む -- ファチマのおとめの要求を心に留める義務はないと公然と宣言している。他の被告人たちはそれに同意している。

にもかかわらず、被告人たちがわれわれに誰もファチマのメッセージを信じあるいは心に留める必要はないと告げている一方で、教皇自身はファチマのメッセージが「教会に対して一つの義務を課している」と宣言された。このことを証明するために、教皇は普遍的教会が毎年5月13日に祝うであろうファチマのおとめの祝日を新しいローマ・ミサ典書の中へ挿入させられた。このように、被告人たちの欺瞞的な主張によれば、教会は誰も信じる必要のない御出現の栄誉を称える祝日を祝うわけである!

「さまざまの民族が絶滅させられるであろう」という大懲罰、そして数百万の霊魂たちの喪失についての天からの警告は -- たといその警告が7万人の人々によって目撃された一つの前例のない公的奇跡によってその本物であることが保証されているとしても -- それらを信じないことをもしわれわれが選ぶならば、信用を与えられる必要はないと主張することは人間的愚かさの極みである。われわれは皆さまざまの民族の絶滅を含む恐るべき懲罰を蒙るであろう -- そしてすでに、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等々を、無辜の子どもたちの6億以上の殺人と共に胎児に対する戦争と同様に、蒙ってきた -- これらのそしてそれ以上のすべてはファチマでの神の御母の忠告のこの傲慢な降格の結果である。

嘘#9:ファチマのメッセージはその預言的な個々の項目において最終的にはほとんど重要ではない。一方、第三の秘密は「いかなる大きな秘密」も「いかなる驚き」もまた未来についてのいかなる警告も含んでいない。

この嘘によって信徒たちはわれわれの時代における教会にとって最大の重要性を持つ天からの警告と指示とを犯罪的に奪われているのである。もしファチマのメッセージが心に留められていたならば、無数のこの世の、そして霊的な損害は避けることができたであろう。この嘘の罪を犯し続けることによって、被告人たちは教会と世界を、全永遠にわたる地獄での数百万の霊魂の喪失は言うまでもなく、あらゆる男女や子どもに重大な影響を与える大懲罰 -- すなわち、文字通りの「さまざまの民族の絶滅」や世界の生き残りの人口全体の奴隷化 -- を避ける力のないままにするのである。聖母はこれが彼女の要求に心を留め損なうことの最終的な結果であろうと警告なさった。

嘘#10:被告人たち自身は真正のファチマ・メッセージを信じる人々である。

被告人たちがファチマのメッセージを信じているという偽りの見せかけの背後に隠れている一方で、被告人たちの客観的な言葉や行動はメッセージの明白にカトリック的な預言的内容に対するすべての信用を傷つけ破壊する一つの組織的な試みを明らかにしている。彼らはダニスがメッセージのすべての預言的な局面に対して疑問を投げかけたときに、ダニスをファチマに関する「傑出した学者」として引用することによって彼らの真の意図を明らかにしている。ダニスを彼らの偉大な権威として引用することによって、被告人たちは彼らの仲間の「啓発された人々」に(しかし情報を与えられていない一般公衆にではなく)彼らがファチマのメッセージを本質的には、シスター・ルチア -- ロシアの奉献と回心、等々についておとめ[マリア]と話をしたという彼女の主張は公会議後の教会の「啓発された人々」によっては実際真面目に受け取られることはできない -- の敬虔なでっちあげと見なしているというシグナルを送っているのである。

被告人たちが、われわれのためにそれを「解釈する」と主張するときでさえ、彼らが実際にはファチマの真正のメッセージを信じていないということを公然と認めることに失敗していることは単に露骨な偽善であるばかりでなく、教会に対する一つの恥知らずの欺瞞である。ちょうど法廷において、裁判官たちと陪審員団の潜在的なメンバーが、彼らが近い将来の訴訟に関して持つであろういかなる可能的な偏見をも発表しなければならないのと同じように、被告人たちもまた、彼らがファチマ・メッセージについて偏見のない判定者であると言い張る前に彼らの偏見を公然と明らかにするべきである。

嘘#11:ファチマのメッセージに関して被告人たちに同意しないカトリック教徒は「教導権」に対して「不従順」である。

「教導権」ということによって被告人たちはファチマのメッセージに関する彼ら自身の見解以上のものを意味していない。その見解は実際教皇自身がそのメッセージの真正性を保証するために言われ、そして為されたこと -- つい最近、教会の典礼暦の中にファチマのおとめの祝日を定められたことによって -- に矛盾している。

このように、十分皮肉なことに、被告人たちがファチマを、まったく安全に全教会によって無視されてもかまわない「私的な啓示」の地位へと降格するとき、教導権に不忠実なのは被告人たちなのである。

見当がつかない一つの犯罪

神の御母自身によって彼女の子どもたちのこの世の、そして永遠の幸福のために与えられた天からの貴重なメッセージを虚偽の申し立てと隠蔽において葬り去ろうとする人々によって犯された罪の重大さを人はどのように評価することができるか? この犯罪はあらゆる予測を超えている。なぜなら、それは単にこの世の大災難を含んでいるばかりでなく、また数え切れない数百万の霊魂たちの喪失をも含んでいるからである。それらは、ロシアの奉献の聖母の要求とファチマでの彼女の他の要求(被告人たちと彼らの協力者たちが促進することを拒否している初土曜日の信心を含む)を心に留めることによって避けられ得たであろう。ファチマのおとめ御自身、彼らを非難しておられる:「もし私の要求が聞き届けられるならば、多くの霊魂は救われるでしょう、そして平和がやって来るでしょう。」彼女の要求は聞き届けられなかった。そしてこれらの人々は(彼らの協力者たちと一緒に)教会に対し、世界に対し、そしてファチマの聖母が御子の名において彼らに提供するために来られた諸々の恵みを奪われた数え切れない数百万の霊魂たちに対する諸結果に責任があるのである。

邪悪さの神秘

なぜ、被告人たちおよび彼らと共に働く人々は教会の新しい方向づけの追求において教皇と司教たちにファチマの聖母が要求なさった単純なことをするのを許す彼らの拒絶においてそのように頑固なのか? なぜ彼らは「あの可哀相な国」の公的な奉献において一語 -- ロシアという -- を発することを阻止するために山を動かすのか? われわれは、バチカンの外交官たちやエキュメニストたちによって課された修正なしにおとめの要求を文字通り遂行することによって何を失わなければならないのか? 何もない。われわれは何を得ることになるのか? すべてのことを。

名を挙げてロシアを奉献することへのそのような道理に反する抵抗に対するいかなる妥当な説明も単純に存在しない。何か不自然なものがここには働いている。被告人たちの主観的な動機を判断することなしに、人は、一つの単純な語 -- ファチマの聖母が要求なさった一つの語 -- を発することを許すということの彼らのそうでなければ説明不可能なそして見たところ無意味な拒否が教会の中への一つの超自然的な干渉の結果であるという結論へと追いやられる。それは悪魔自身による干渉である。悪魔は、シスター・ルチア自身が言ったように、「祝せられたおとめに対する最後の決定的な戦いに従事する気分になって」いるのである。この最後の戦いは長い間教会を破滅させようと努めてきた組織化された勢力の教会の中への侵入を含んでいた。この恐るべき展開に直面して、教皇パウロ六世でさえ「サタンの煙が神の宮に入った」と公に嘆かざるを得なかった。

被告人たちが主観的にそれを意図していようと、あるいはそうでなかろうと、彼らはただ教会の最悪の敵の目標に奉仕するだけである仕方で行動してきた。彼らの諸々の行動の諸結果はそれら自身で物語っている。「彼らの実によって彼らを知るべし」(マテオ7:16).彼らの教会の管理の諸々の実は何であるか? ただ今日の教会の状態を眺めてみよ、そうすればその答えを知るであろう。

位階において高い地位にいる他の多くの人々と共に、被告人たちは教会の歴史における信仰と道徳の最悪の危機を主宰してきた。危機を引き起こした破滅的な諸々の新奇さを追求しながら、被告人たちは教会に健康を回復させ戦争をしている世界に平和をもたらすであろう一つの天からの指示を拒絶している。ファチマでの神の御母の忠告に耳を傾ける代わりに、彼らは、彼らのまったく実りのない「エキュメニズム」、「諸宗教間対話」そして「世界との対話」、被告人たちがファチマのメッセージを始末しようと試みたたった一日後にその出席がバチカンを汚したミハイル・ゴルバチョフのごとき殺人者たちとの彼らの親しいつきあいを押しつけている。被告人たちと彼らの追随者たちが世界の諸勢力と交渉しているときに、ロシアや他の所で彼らの救いのためにキリストの光を必要としている無数の霊魂たちは暗闇のうちに留まらせられているのである。教会の敵どもはこのようにほとんど彼らに反対するに無力なものとされた教会を見て喜んでいる。

教会は世界の諸勢力が教会に反抗して進歩し続けているときに後退している。にもかかわらず、被告人たちと彼らの協力者たちは、ファチマの聖母が彼らにそう望まれたように、王たるキリストのために霊的に世界を征服する代わりに世界を抱擁するという彼らの自殺的な試みに執着している。今日バチカン当局を統制している人々は、当惑させるものそして-- 彼らのお気に入りの言葉を用いるならば -- 「時代遅れの」ものだと彼らが見るカトリックの戦闘性を示すことでロシア正教会あるいは他の誰かを立腹させることを望んでいないのである。戦闘からの教会の惨めな後退はフリーメーソンたちや共産主義者たち -- 彼らはまさにこの悲劇的な状態にまで落ち込んだ教会を見る希望のうちに何世代にもわたって働いた -- の心を温めている。

それでも、被告人たちと彼らの協力者たちはその種の戦闘性を持っていない。過去40年にわたって彼らは教会の侵入者たちに実質上の刑罰なしに異端や道徳的堕落を広めるのを止めさせるためにほとんど何もしてこなかった一方で、彼らは彼らの「改革」、「開放」そして「刷新」という破滅を招く政策に余りにも効果的に反対する者をすべて容赦なく追いつめ、非難し、排斥している。公会議後の崩壊を主宰してきた被告人たちおよび上層の位階の他のメンバーたちにとっては、唯一の残っている「異端」、厳しい罰を保証する唯一の違反は教会に対して新しい方向づけ、彼らがそこから、その伝統的なカトリック的意味におけるファチマのメッセージを徹底的にまた明確に排除した -- あるいは彼らがそうだと考える -- 方向づけ、を課すことにおける彼らの判断を疑問に付することであると思われる。

信徒たちがその権利を持っている諸々の救済策

われわれがそうだと同定してきた人々の諸々の好意と不作為に対する救済策として教皇からわれわれが求めるのは何であるか? われわれは次のことを求める:

第一、
ロシアの奉献 --
まだ時間がある

このことによってわれわれが意味しているのは、まさにファチマの聖母が要求なさったこと:すなわち、-- 名を挙げて、そして曖昧にせずに -- マリアの汚れなき御心に、教皇と世界のすべてのカトリック司教たち一緒による、荘厳かつ公的な儀式におけるロシアの直接的な奉献である

われわれは教皇に、破門の苦痛の下に、すべてのカトリック司教たち(投獄あるいは重大な病気によって妨げられている者を除いて)が、教皇によって具体的に指定された同じ日、同じ時間に教皇と一緒にファチマの聖母の要求に従ってロシアを荘厳、公的そして明示的に奉献するよう命令なさることを求める。

ある人々は奉献を手に入れることは既に遅すぎる、そしてそれを要求し続けることは無意味であると言うであろう。それは単純にそうではない。われらの主御自身が1931年8月にリアンジョにおいてシスター・ルチアに明らかにされたように:

私に仕える者たちに、彼らが私の命令の実行を遅らせることにおいてフランスの王の例に従うならば、彼らは彼に従って不幸に陥るであろうということを、知らせなさい....彼ら[カトリック教会の聖職者たち]は私の命令に心に留めることを望まなかった。フランスの王のように、彼らはそれを後悔するであろう、そして彼らはそれをするであろう、しかしそれは遅いであろう。ロシアはすでに、諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その諸々の誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しまなければならないであろう。注4)

それでも、われらの主がその機会にまたシスター・ルチアに明らかにされたように:「イエズスとマリアに頼るのに遅すぎるということはないであろう。」すなわち、たといわれわれが今、神の命令の実行において遅れの諸々の結果を蒙っているとしても、さまざまの民族の絶滅を含むそれらの結果の最悪のものは、もしロシアを奉献するという命令が、どれほど遅くなろうとも、心に留められるならば、避けられるであろう、ということである。

人間的な顧慮 -- ロシア正教会の感情を害するという恐れ -- が、われわれの時代における平和のための神の計画を教会が実現するのを妨げることを許して来たことは著しく常軌を逸したことである。戦う教会のメンバーとしてわれわれはもはや、「教皇」は奉献が為されたと明白に、権威をもって、そしてはっきりと断言されたと宣告するために病気の教皇に代わって話すことを主張する人々を許すことはできない。われわれは教皇御自身がどのように公的にまったく反対のことを言われたかを示した。われわれは教皇聖下に、彼を取り巻いている人々によって与えられてきた明らかに悪しき忠告を拒否し、その代わりに神の忠告に従われるよう嘆願しなければならない。

第二、
完全で欠けるところのない
ファチマの第三の秘密の開示

この開示は2000年6月26日に公表された幻視を説明する祝せられたおとめの言葉のテキストを含まなければならないであろう。そのようなテキストが存在するということは山ほどの直接の証拠および状況証拠によって一つの道徳的確実性にまで証明されてきた。それらの証拠のあらゆるものはおとめ御自身の言葉を含む、手紙形式でおよそ25行の1ページの欠けているテキストを指し示している。

教会と世界は、明らかに教会における現在の危機についての有益な警告を含んでいる第三の秘密の内容を知る権利を持っている。秘密が背教および黙示録の書物のうちに記述された奉献された霊魂たちの堕落に関係があるという教皇の明白な指摘は、彼自身がその秘密をその全体において明らかにしないように強いられてきた、しかしむしろその内容をやむなく暗示するにとどめられたということをわれわれに告げている。一方では、教会の日常的な事柄を現実に支配している人々 -- まず真っ先にソダノ枢機卿 -- は彼ら自身の失敗した教会の管理について真理を葬り続けているのである。

第三、
毎日ロザリオを唱える要請

ロザリオは人間によって案出されたどの武器よりも無限に強力である。聖なるロザリオの助けをもってすれば、克服され得ないいかなる困難もなく、勝利され得ないいかなる戦闘もない。もし十分な数のカトリック教徒が正しい意向をもってロザリオを祈るならば、教会の敵どもは教会内部の彼らの拠点から追い散らされ、追い出されるであろう。ファチマそれ自体がわれわれに示しているように、神の意志によっておとめマリアは危機の時代におけるわれわれの避難所であり、われわれの力である。この最も重大な危機において、全教会は毎日のロザリオを唱えることによって聖母に頼らなければならない。

われわれは、われわれができるそして可能な限りで教会におけるあらゆる水準での永続的なロザリオ十字軍を設立するのを待つ必要はないし、また待つべきではない一方で、また、カトリックの諸聖堂や(修道者および教区の)マリア司祭たちのネットワークを通じてのさまざまの発意によってロザリオを促進するために一人の枢機卿が長となった一つの省を設立することによって、教皇レオ十三世のように、毎年ロザリオに関する回勅を書くことによって、教会の至るところにそのようなキャンペーンを行われるよう教皇に請願することもできる。そのような諸々の発意は、もちろん、聖母のすべての偉大な特権を促進する真正のカトリック教説と実践と完全に一致しなければならない。

ロザリオは、もちろん、ロザリオへの附加としてファチマの聖母によって指示された祈りを含むべきである:すなわち、その祈りとは、「おお、わがイエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より救い給え、すべての霊魂、殊に御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え」である。しかしながら、2000年10月における汚れなき御心への世界の「委託」の間に、バチカンでのロザリオの公の祈りは目立った仕方でこの祈りを落とした -- シスター・ルチアはその機会に彼女の修道院においてその祈りを唱えたけれども -- 。地獄と天国へのいかなる言及をも忌み嫌うことは、しかし、新しい方向づけのもう一つのしるしである。

第四、
初土曜日の信心の促進

ファチマのメッセージを「修正する」ことを企てた人々は、その他のすべての明白にカトリック的な要素と共に、メッセージのこの部分を沈黙のうちに葬ろうと試みた。実際、諸々の冒涜や他の罪のために神と祝せられたおとめマリアに償いをする人間という概念全体は教会の新しい方向づけにおいて重大な仕方でその重要性を下げられてきた。(新しい典礼において曖昧にされた主要な要素の一つはミサが、単に一つの「讃美の犠牲」であるばかりでなく、神に対して罪の償いをするためのなだめの犠牲であるということである。)

初土曜日の信心はわれわれの時代において教会のメンバーたちによる罪の償いの必要の感覚を回復するために神によって選ばれた手段の一つである。教会が、このように神の怒りの実行を止めながら、神と神の御母たる汚れなきおとめとに対して償いを捧げるその力をかつてより以上に今更新しなければならないことを誰が疑うことができるか? にもかかわらず、神の怒りは、それについてわれわれが現代の教会人からは何も聞かないもう一つの事柄である。初土曜日の信心を促進することによって、教皇は世界の歴史におけるこの危機の時代に罪のための償いを捧げる教会の力を先導なさるであろう。

第五、
マリアの汚れなき御心に対する信心の
教会の至るところでの再確立

唯一の汚れなき御心を自分の罪を痛悔する誰かの心と同等と見なそうとするラッツィンガー枢機卿の試みは、地獄と地獄堕ちの概念とまったく同様に原罪の概念を忌み嫌う新しい方向づけの典型にしかすぎない。

マリアの汚れなき御心だけが原罪のすべての汚れから解放されて保たれたのであり決してサタンの支配の下にはなかったのである。マリアの唯一罪のない、汚れなき御心の栄光を観想することにおいて、われわれはまたわれわれ自身の惨めさと、恩寵の状態にわれわれを保つために洗礼や教会の他の諸々の秘蹟の必要を意識するようにさせられるのである。

比類なくカトリック的なマリアの汚れなき御心に対する信心はその「エキュメニズム」が汚れなき御宿り(および被昇天)の教義を非カトリック者たちの感受性に対する人間的な顧慮から控えめに扱う教会の新しい方向づけに対する一つの非難である。それが、ファチマの聖母がわれわれに告げられたように、神が世界の中に彼女の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられるまさにその理由である。神は世界に、救いの箱船であるのはカトリック教会であって、他のものではないということを見るように望んでおられる。

第六、
被告人たちと彼らの協力者たちの辞任

われわれが証明したように、ソダノ枢機卿、ラッツィンガー枢機卿、カストゥリヨン枢機卿そしてベルトーネ大司教はその伝統的なカトリック的意味におけるファチマのメッセージを始末するために結びつき、共謀してきた。彼らは神の御母のまさに言葉そのものの意味を勝手に書き換え、メッセージの明白にカトリック的なそして預言的な要素のすべてを沈黙と曖昧化のうちに葬った。そして彼らの修正主義的なプログラム、ファチマに関する彼らの党路線に対して一つの真理に基づいた反対を試みた人々を迫害した。そうすることによって、被告人たちはすでに教会に対して無数の損害を引き起こし、そして教会と世界の両方を、聖母の要求を心に留めることに失敗した結果としてファチマの聖母によって予告された数百万の霊魂たちの喪失とさまざまの民族の絶滅を含む最も重大な可能的危険に曝した。なぜなら、聖母が教会に警告を与えられたように:「もし私の要求が聞き届けられないならば、ロシアは諸々の戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教するでしょう。教皇は多く苦しまなければならないでしょう。そしてさまざまの民族は絶滅させられるでしょう。」聖母はまた次のことをも約束なさった:「もし私の要求が聞き届けられるならば、多くの霊魂が救われ、そして平和がやって来るでしょう。」被告人たちが頑固に固執している行動方針は数え切れない損害を伴って教会と世界に差し迫った脅威を与えている。教会の善のためにこれらの人々は教皇によって直ちに彼らの職務を辞任するよう命令されるべきである。

しかしながら、ある人々は、そのような高い地位にある聖職者の辞任を教皇に請願することは単なる平信徒メンバーにとって傲慢の極みであると反対するであろう。そうではなく、その反対に群れを危険に陥れる間違った高位聖職者たちの辞任を教皇に請願することはカトリック教徒としてのわれわれの義務である。

聖ヨハネ・グアルベルトの例

ほかならぬカトリック教会の聖人が、信徒が教会に害を与えている一人のわがままな高位聖職者に直面したとき従うべき例をわれわれに与えている。注5)

聖ヨハネ・グアルベルトは十二世紀に生きた。彼は単に聖人であるばかりでなく、ヴァル・アンブロシジアのベネディクト会の創設者である。彼の祝日は古い暦において7月12日である。聖ヨハネの英雄的なキリスト教的徳は彼自身の兄弟の殺人者を彼が赦したことによって証明されている。ある袋小路で武器を持たず防御できない殺人者に出会って、聖ヨハネ(まだ修道士ではなかった)は、その男がその腕を十字架の形に挙げ、十字架につけられたキリストのために憐れみを乞うたとき赦しへと動かされた。聖ヨハネは、たとい彼が復讐をするために一団の兵士たちと共に彼を捜し求めていたとしても、その男を赦した。聖金曜日であったまさにその日、聖ヨハネは十字架上のキリスト像が生きたままやって来て聖ヨハネに向かってその頭を動かしてうなずかれたのを見た。この瞬間に、われらの主は聖ヨハネに、一つの絶対的に並はずれた特別の恵みを与えられた。なぜなら、彼は彼自身の兄弟の殺人者を赦したからである。それは聖ヨハネを修道士になるよう導いた恵みの瞬間であった。

ところで、われわれが見ることができるように、聖ヨハネ・グアルベルトはキリスト教的な赦しのまさに模範そのものであった。もし彼が彼の兄弟自身の殺人者を赦すことができなかったならば、彼はどんな罪をも赦すことができなかったであろう。彼はまた、今日までなお存在している一つの修道院と修道会を創設するところまで行って、教会の位階におけるかなりの重要性を持つ人物でもあった。その修道会はローマに一つの教会の教区、聖プラクセデス教会を持っていた -- そして今も持っている --。そこには他ならぬ、キリストがそこでむち打たれ給うた柱が見られる。文字通りサンタ・マリア・マジョーレからちょうど角をまわったところにあるその教会はまた聖ヨハネが彼の兄弟の殺人者を赦している -- 明らかに、教会の歴史における一つの非常に重要な出来事 --[ところを描いた]一枚の絵画を持っている。

しかし、彼の模範的なキリスト教的慈悲と赦しそして教会における彼の偉大な名声にもかかわらず、聖ヨハネ・グアルベルトは彼自身の時代の堕落した高位聖職者の辞任を求めることを躊躇しなかった。聖ヨハネは、フィレンツェの大司教が彼の職務に相応しくないから解任されるべきであると求めるためにラテラン(バチカン飛び領地を創る前の時代に教皇が居住していた場所)へ行った。聖ヨハネの請願の理由はその大司教が自らを大司教に任命させるために影響力を持つ数人の人々に金銭を支払ったということであった。すなわち、彼は彼の教会の役職を[金銭で]買ったのだ。これは聖職売買の大罪を構成する。

ラテランにおける教皇の高官たち -- 他ならぬ聖ペトロ・ダミアノを含む -- が想定上の証拠の欠如を引き合いに出して大司教を辞任させる行動を何ら取らなかった後に、神は聖ヨハネに一つの特別の霊感をお与えになった:聖ヨハネが大司教について真実を告げているということを証明するために、神は一つのしるしを与えられたのであった。聖ヨハネの修道会のブラザーたちのうちの一人、ブラザー・ペトロが、大司教に対する聖ヨハネの告発の真実を証明するために、そこから彼が奇跡的に無傷で出て来るたき火を通り抜けて歩くというものであった。聖ヨハネはすべての町の人々を呼び集め、彼らに中央に狭い通り道をもった巨大なたき火を作るように告げた。彼は彼らに何が起こるか、そしてなぜそれが起こるかを説明した。それから、ブラザー・ペトロは聖なる従順の下に、狭い、燃えさかる小道を通って歩き、傷を受けることなくもう一方の端に現れた。彼自身の大きな信仰のためにブラザー・ペトロは列福された(彼の祝日はローマ殉教録において2月8日になっている)。平信徒たちがこの奇跡的なしるしを見たとき、彼らは一つになって立ち上がり、そして文字通り大司教をフィレンツェから追い払った。大司教はその生命のために逃げなければならなかった。そして教皇は一人の誠実な交替者を任命しなければならなかった。

われわれの時代における
強情な高位聖職者たちの解任

教会の歴史におけるこの出来事は今日のわれわれ自身の状況についてわれわれに何を告げるか? それはわれわれに、平信徒は彼らの職権乱用によって教会と霊魂たちに害を与えている強情な高位聖職者たちから自らを護る権利と義務を持っているということを教えている。そして教会における前例のない危機のこの時代に、われわれは教皇からのこの異例の救済策を求めることにおいてほとんど独りではないのである。

2002年3月に教皇はサン・アントニオ大司教区の信徒たちのさまざまのメンバーから、フロレス大司教が彼の管理下にある同性愛の司祭たちによる性的虐待の犯罪的な行為を隠蔽し、これら他人を性的に食い物にする者どもの犠牲者たちを沈黙させるために「もみ消しの金銭」にして数百万ドルを支払ったという理由で彼の職務から解任するよう求める教会法上の請願を受け取られたということを考えて見よ。教皇への請願はフロレス大司教が「彼の司教としての職務の行使においてひどく怠慢であった、大司教区のこの世的な善を護ることに失敗した、そして聖職者内部での性的略奪者たちに行動の自由を許すことによって彼の配慮に委ねられた人々の信仰を危険に陥れたと告発している。」注6)同じように、数千人の信徒たちのメンバーが、十数人の同性愛の略奪者たちを暴露と処罰から護ることにおける彼の共謀のゆえにボストン大司教区のロー枢機卿の解任を求めた。注7)

誰か、その行為と不作為が教会と無数の罪のない犠牲者たちに対してそのように大きな損害を引き起こした高位聖職者たちの解任を求める彼らの教会法上のそして神から与えられた権利を行使したことに対してサン・アントニオ大司教区あるいはボストン大司教区の信徒たちをその尊大さで非難するであろうか? バチカン機構において働く高位聖職者たちは、そのとき、正義のいかなる特定の基準によって、教皇に対する彼らの行動の説明責任を免除するのか? 明らかに、彼らは免除されていないのである。そしてまさに彼らの司牧者たちによる群のメンバーたちの性的虐待が諸々のスキャンダルのうちでも最も重大なもののうちにあり、これらの口で言えない行為を犯した司祭たち、そしてその犯罪者たちを護った司教たち、そして枢機卿たちすら、に対する平信徒の運動を正当化しながらも、これよりももっと大きくさえある一つのスキャンダルが存在する。われわれは、神の御母御自身がファチマで教会にお与えになったまさにその指示 -- もしそれらが従われていたならば、単に今教会を苦しめている性的スキャンダルばかりでなく、実際、われわれが今見ている教会全体のそして世界の危機を防いだであろう指示 -- を拒絶するスキャンダルのことを言おうとしているのである。われわれはまた、忠実な伝統的聖職者を -- もう一度カストゥリヨン・ホヨス枢機卿の隠しきれない文言を思い起こすならば -- 「今日の教会の現実」に対して余りにも忠実にカトリック的である「罪」のゆえに迫害する一方で、教会のまさに中心における教会の真の敵どもと戦うために何もしないバチカン機構のスキャンダルのことをも言おうとしている。聖母がファチマへ来られたのは今われわれが目撃している信仰と規律の堕落を防ぐこと以外の他の理由のためではなかった。にもかかわらず、被告人たちが、彼らの周りのあらゆるところで荒れ狂っている教会の危機について実際何もしない一方で、それを葬るために非常に多くの時間と努力を捧げたのはまさにファチマのメッセージである。

聖ヨハネ・グアルベルトの例はわれわれにまた、神が一人の選ばれたメッセンジャーを通じて一つのしるしを与えられるとき、たとい教会における最高の高位聖職者がそれを無視することを選ぶとしても、平信徒はそのしるしに頼る権利があるということを教えている。そのようなものがファチマ・メッセージの場合である。なぜなら、太陽の奇跡よりも大きな天からのしるしはあり得ないであろうからである。ファチマのメッセージは明らかに、多くの奉献された霊魂たちの彼らの地位からの堕落と同様に、上層の位階のメンバーたちの間での背教と悪事の警告を含んでいる。われわれはまさにこの時期にその預言の実現を目撃しているのである。われわれは、バチカンにおいてファチマのメッセージの「地位を低下させる人々」が何を主張しようとも、すべての分別のある疑いをも超えてその預言を本物だと証明している天のしるしに頼る権利がある。

ファチマで神がわれわれに何を告げられたかを知っているので、教皇に、彼を取り巻いている誤った忠告者たち、特に被告人たちを解任し、その代わりにファチマでの神の御母の忠告に従うよう納得させる努力をすることは教会のメンバーとしてのわれわれの義務である。われわれは、汚れなき御心へのロシアの奉献を、聖母が要求なさった仕方で正確に、バチカン機構のどの世間的に賢明なメンバーによる変更もなしに、遂行なさるよう教皇に嘆願しなければならない。さらに、われわれは、もし必要ならば、おとめ[マリア]の要求を遂行することから教皇を妨げようと試みるバチカンにおけるどの高位聖職者をもその役職から解任なさるよう教皇に求めるべきである。

同様に、われわれは、ファチマの第三の秘密の完全な開示を妨げることを共謀した、被告人たちを含む人々をその役職から解任なさるよう、教皇に請願しなければならない。第三の秘密は、われわれ自身をその破壊的な霊的諸結果 -- 非常に多くの司祭たちによって犯された口にすることのできない犯罪はそのうちの一つの現れにしかすぎない -- から護る一方で、教会における危機を理解し、それと戦う上で、明らかに最も重要性を持つものである。信徒は、神御自身が彼ら自身の霊的安全のために彼らが知るように望んでおられるものを知る権利がある。第三の秘密の完全な開示を妨げている人々の調整された諸々の行動は教会と祝せられたおとめマリアに対する重大な違反であり、また全能の神御自身に対する犯罪である。

戦闘的な高位聖職者たちを求める教会の緊急の必要性

今日教会はこれまで以上に教会の真の兵士たち -- 被告人たちとバチカン機構における彼らの多くの協力者たちが傍観し、侵略を励ます以外には何もしなかった間に、教会に侵入した世界の諸勢力との対決を恐れない落ち着いたカトリック的戦闘性を持った人々 -- を必要としている。教会は、カストゥリヨン枢機卿の「今日の教会の現実」の中へ「挿入される」ことを拒否する伝統的なカトリック聖職者を追いつめ抑圧する代わりに、教会における世界的に流行している異端やスキャンダルを根絶するために決定的に行動しようとする人々を必要としている。教会は、「対話」、「エキュメニズム」そして東方政策の実行者たちをではなくて、霊的な戦士たちを必要としている。

ファチマのメッセージそれ自身は霊的な戦い -- ロシアの奉献と回心およびマリアの汚れなき御心の勝利において頂点に達することになっている一つの戦い -- への一つの呼びかけである。被告人たちは、その戦闘性が何世紀を通じてずっとキリスト御自身のまさに次の言葉への一つの生ける遺言であるカトリックの諸聖人、博士たち、殉教者たちそして教皇たちのすべての世代よりも、自分たち自身がより啓発されていると考えているように思われる人々のよそよそしさをもってそのような事柄を見ている:

「世もし汝らを憎まば、汝らより先にわれを憎めりと知れ。汝ら世のものなりしならば、世はおのがものとして愛せしならん、されども世のものにあらずして、わが世より選み出だせる汝らなれば、世は汝らを憎むなり。」(ヨハネ 15:18-20)

「われ地に平和を持ち来れりと思うことなかれ、わが持ち来れるは平和にあらずして刃なり。すなわち、わが来れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分かつべきなり。人の族は、その仇となるべし。」(マテオ 10:34-36)

余りにも長い間教会はわれわれに一方においてキリストと彼の教会、そして他方において世界との間にいかなる霊的な戦いもないと信じさせようとした人々の管理の下で堪え忍んできた。余りにも長い間これらの人々は、教会に一致させられる世界よりはむしろ、世界に一致させられる教会という彼らの誤ったビジョンを追求し促進することを許されてきた。余りにも長い間これらの人々は、人々の霊魂が王たるキリストの恵みによって征服されるときにのみ来ることができる真の平和 -- キリストはマリアの汚れなき御心を通じて、そして聖なるローマカトリック教会を通じて人々にそれを仲介なさるのである -- よりもむしろ、すべての諸宗教の、あるいはまったく無宗教の人々の間の世間的な平和というユートピア的な考え方に教会を縛りつけてきた。

ファチマはわれわれに世界におけるこの真の平和への道を示している。にもかかわらず、われわれが名指しした人々は、教会と世界とを一つの究極的な大災害の危険に曝しながら、その道に沿ったわれわれの進歩を阻んできた。もし聖職者による性的虐待の犠牲者たちが、その怠慢がスキャンダルをもたらした高位聖職者たちの解任を求める権利を持っているとすれば、なおさらのこと、われわれはファチマのメッセージを無効にする恥ずべきキャンペーンを主宰してきた高位聖職者たちに関して同じ救済策を求める権利を持っているのである。ビジョンにおいて欠けているのは、普通のカトリック教徒ではなくて、ファチマ・メッセージの実現を挫折させてきた人々である。度量の狭い人々はわれわれではなくて、彼らである。非現実主義的であるのは彼らであって、われわれではない。彼らは全人類の善のために辞職しなければならない。

シスター・ルチアはさまざまの機会に現在の教皇[訳者注=教皇ヨハネ・パウロ二世]と文通した。そして教皇ヨハネ・パウロ二世と何度も一対一の会合をも持った。しかし、すべての手紙と会合の後に、教皇ヨハネ・パウロ二世は、シスター・ルチアがロシアはファチマの聖母によって要求されたようにマリアの汚れなき御心に奉献されたと告げたとは一度も主張されなかった。今日までシスター・ルチアは今なお沈黙の命令の下にいる(see pages 267-268 and footnote 5 on pages 299-300)。シスター・ルチアは十億のカトリック教徒の中でそのような自由な言論抑圧の命令の下にいる唯一のカトリック教徒である。この命令によれば、シスター・ルチアは、ロシアの奉献、あるいは第三の秘密、あるいはすでに彼女の予め認められたファチマに関する書き物のうちにない他のどんなことについても、誰かに話すためにはラッツィンガー枢機卿の許可を必要とするのである。もしロシアの奉献が真に遂行されたのであるならば、あるいはもし第三の秘密が完全に公開されたのであるならば、そのときそのような沈黙の命令の真の目的は存在しなかったであろう。


脚注

1. ST, Q. 33, Art. V, Pt. II-II.

2. St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, Book II, Chapter 29.

3. De Fide, Disp. X, Sec. VI, N. 16.

4. The Whole Truth about Fatima - Vol. II: The Secret and the Church, pp. 543-544. See also Toute La Vérite sur Fatima - Vol. II: Le Secret et L’Église, pp. 344-345.

5. See Coralie Graham, "Divine Intervention", The Fatima Crusader, Issue 70, Spring 2002, p. 8ff.

6. "Abuse Victims File Petition Seeking Removal of Archbishop", The Wanderer, April 4, 2002.

7.「教会の内部文書は1980年代半ばから90年代にかけて、ロー枢機卿と彼のトップの高官たちが、30年にわたって130人以上の子どもたちにみだらなことをした廉で遂に告発されたジョーガン神父の問題に気づいていたということを示した。2月に彼は10歳の少年にみだらなことをした罪で懲役9年から10年の刑を宣告された。ジョーガン神父をかばった際の教会の役割[すなわち、ボストン大司教区の当局者たちの役割]が知られるようになった後に、枢機卿は地方検察官たちに十数年にわたる性的虐待で告発された80人以上の司祭たちの名前を明かした。」Quoted from "As Scandal Keeps Growing, Church and Its Faithful Reel", New York Times, March 17, 2002.

2005/07/10 三上 茂 試訳

目次

作成日:2005/07/10

最終更新日:2005/07/10

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