ファチマの聖母マリア

悪魔の最後の戦い

われわれの時代のための黙示録的解答

序文

過去半世紀の間、全世界にとって重大な意味を持ち得る一つの風変わりな物語がカトリック教会内部で展開されてきた。

この書物が説明するように、その物語の核心は天からの一つのメッセージ、そしてそれゆえに、信仰と信念の事柄である。これはただカトリック教徒そして教会当局者たちにのみ関心のある事柄であると思わせるかもしれない。しかしこの物語にはそれ以上のもの-- はるかにそれ以上のものがある。

そのメッセージは教会史において類のないある仕方でもたらされた。そしてその形式と内容もまた類のないものである。このことはメッセージをそれ自身で一つの部類に入れるものである。それは数世紀にわたるさまざまのカトリック聖人や神秘家たちによって経験された「私的啓示」の広い範疇へと追いやられることはできない。もしそうできるとすれば、非カトリック者たち、そして多くの他の点では敬虔なカトリック者ですらそれを無視する自由があるであろう。しかしこの特別のメッセージを無視することはカトリック者には不可能である。そしておそらくこの困難の多い地球上の他のすべての人々にとってもまた賢明なことではないであろう。

問題にしているメッセージは祝せられたおとめによって、1917年にポルトガル、ファチマの小さな町の近くの三人の羊飼いの子どもたちに伝えられた。私的な出来事であるどころか、その伝達は7万人の人々によって目撃された一つの公的な奇跡を伴っており、世界中の新聞の見出しにおいて報道された。他のいかなる御出現、フランス、ルルドの世界的に有名な聖堂に結びつけられ、またメキシコのグアダルーペに結びつけられた御出現でさえ、この壮観な仕方で本物だと証明されたことはなかった。このことは御出現そのものをこの種の他のすべての先行の出来事から引き離すものである。しかしそれはファチマの唯一の類のない局面である。

子どもたちによって受け取られたメッセージの内容が明らかにされたとき、それはまた、キリスト教の年代記において類のないものであった。それは一つの要求、並びにもしその要求が聞き入れられなかったならば来るであろう懲罰の警告を含んでいた。それ以前には御出現のどの証人たちによっても、公的にであれ、あるいは私的にであれ、この種のメッセージは報告されたことがなかった。

この種のすべての事例においてと同様に、バチカンはファチマの出来事を綿密な検査に委ねた。教会は通常、それらの事柄がしばしばまったく主観的であり、そして検証が困難であるからして、そのような事柄を是認することをしぶる。しかしながら、ファチマの場合にはカトリックの位階は、ポルトガルの地方司教たちからバチカンにおける一連の教皇たちに至るまで、ファチマの御出現を一致して「信ずるに値するもの」と見なした。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ファチマのメッセージは教会に「一つの義務を負わせる」と言うところまで行かれた。多年にわたるこの一致した位階の是認は、ファチマの御出現が天からの一つの真正のメッセージを伝えたというカトリック信者の確信を強めた。

しかしそれから、2000年6月26日にファチマの物語は一つの奇妙な転換を遂げた。その日に、バチカンにおけるカトリック教義に責任を持つ枢機卿と彼の直接の部下がロスアンジェルス・タイムズが「ファチマ信心をやんわりと地位低下させる」と記述した一つの記者会見を行った。記者会見の主題はファチマの諸々の預言は「私的啓示」の範疇に入るものであり、そしていずれにせよ、それらは「過去に属する」ということであった。

何が起こったのか? ファチマの御出現はどのように、公的に信ずるに値するものであると公式に宣言される状態から高位にある枢機卿によって公式に地位低下させられる状態へと進んだのであろうか? そしてその要求とその懲罰の脅迫を伴ったメッセージについてはどうなのか? これらは、この問題に関する教会指導者たちの奇妙な行動のことを考えるならば、道理を弁えたカトリック者がだれでも問うであろう質問である。しかし、メッセージの内容がひとたび考慮されるならば、それらはまた地上にあるすべての人間が問うであろう質問でもある。

ファチマ・メッセージの内容はまったく信仰と信念の領域に存するカトリック宗教の問題に主として関わっている。しかしながら、メッセージの一部はより広い注意を保証するより広い意味を持っている。これは、一つの要求を提出し、そしてそれからもしその要求が聞き入れられないならば懲罰について警告する部分である。

その要求とは、ロシアが世界のすべてのカトリック司教たちと一緒に教皇によってマリアの汚れなき御心に奉献されなければならないというものである。教会の外部にいる人々にとって、この儀式はほとんど意味を持たないかもしれない。しかしながら、教会内部では、そのような儀式はよく確立された伝統である。奉献は一つの聖化する効果を持っている。それゆえカトリック教徒の目には、そのような儀式はロシアにとって有益なものであろう。

もちろん、この儀式を行うことはただカトリック教会だけが行うことができる何ごとかである。しかしながら、その要求に付随している脅迫はたしかにカトリック教会を超えて拡がる。メッセージは、もしその奉献がなされるならば、「世界に平和の一時期が与えられるであろう」と言っている。しかし、もしそれがなされないならば、メッセージは、そのとき、他のこともいろいろあるが、「さまざまの民族が絶滅させられるであろう」ということを警告しているのである。

これは信用される脅迫であるのか? 非カトリック者たちや非キリスト教徒はそのような事柄について心配すべきであるのか? ちょっと見たところでは、そうは思われないであろう。しかしその問題はより綿密な検討に値する。このメッセージが、それにある重大な考慮を与えるために天からはっきり来たと信じることは必要ではない。これはファチマにその地球的な次元を与えるものである。

バチカンがその御出現を信用できるものと判断したからして、そして諸民族の絶滅がかかっているからして、その奉献はずっと前に遂行されていたはずだと考えられるであろう。結局のところ、それが要求していることは、明らかに誰にも何の害も与えることができない一つの単純で伝統的な儀式である。そしてもしメッセージが真正なものであるという最も遠い機会をさえ持つならば、要求されたような儀式を遂行する利益は計り知れない価値を持ち得るであろう。これらの事情を考えるならば、最も懐疑的な部外者でさえ、その奉献は「やってみる価値がある」と考えてもよいであろう。

にもかかわらず、ただバチカン高官たちのある少数グループにのみ知られた理由のために、そのファチマの要求は、教会が少なくとも60年の間それについて意識してきたとしても、聞き届けてこられなかった。繰り返し繰り返し、はっきりとロシアの名を挙げたものも含めて、さまざまの公式の奉献がなされて来た。しかし、すべての場合に、それらはファチマの要求:すなわち、教皇と世界のカトリック司教たちが、一つの荘厳かつ公的な儀式において、名を挙げてロシアを奉献するという要求、を満たすことを避けたのである。最も最近の例は2001年に教皇ヨハネ・パウロ二世と1,500人の訪問中の司教たちによってローマにおいてなされた世界の奉献であった。多くの人々は、教皇がその機会をファチマの要求を満たすために用いられるであろうと考えたであろう。しかし彼らが失望したことには、ロシアは言及されなかった。

内部の人間にとってもまた外部の人間にとっても、バチカンのこの問題に対する対処の仕方はそれ自身の規準と伝統とに奇妙に首尾一貫していないと思われる。それはまた単にカトリック信徒たちの安全ばかりでなく、同様にまた残りの人類の安全に対する向こう見ずの無関心を示していると思われる。もしファチマの脅迫が真正のものであるならば、バチカンの気乗り薄の代価は実際非常に高いものであり得よう -- そしてそれは全人類によって支払われるであろう。

これらの状況の下で、道理を弁えた人間なら誰でも、なぜ教会はメッセージを無視し、そのような破局的な結果の危険を冒すことに固執するのかと問うであろう。

このことがどのように、そしてなぜ起こっているのかということがこの書物の主題である。それが語る物語は諸々の事実と信仰の諸問題の混合を含んでいる。信徒でない人々にとって、諸々の事実はそのメッセージが真正のものであるということを決定的に証明はしないであろう。しかし諸々の事実はその方向への長い道を進む -- 多くの偏見のない人々をしてその真正性を一つの実際的な可能性と見なすように説得するに十分なところまで進ませるであろう。そしてカトリック信仰を共有している人々にとっては、その諸々の事実は真正性を肯定し、今日の教会位階の状態についての不安にさせる諸問題を提起しながら、遙かに先へと進ませるであろう。

物語は、最初はファチマを是認し、次にそれに疑問を投げかけ、次にそれを抑圧し、そして最後にそれをまったく捨てることを引き起こしたこの一連の変化を経験しているバチカンを示している。この経過を辿ることは困難である。バチカンにおいて起こっていることの多くが秘密のうちに為され、そして公式の態度はしばしば隠されたものである諸宣言から解読されなければならないからである。

ファチマ・メッセージをこのような仕方で扱うことを共謀してきたバチカン高官たちの心と精神の中を見ることは誰もできない。それらはただ彼らの行動によってのみ、そして彼らの公言した立場の論理的諸結果によってのみ判断され得る。この書物にあるように、それらが分析されるとき、頂点にまでまっすぐ昇っている裂け目を持った自らに対して分裂した教会についての一つの心をかき乱す状況が現れて来る。

信徒でない人々には分からないであろうこの物語には一つの皮肉な局面がある。この書物の中に語られている諸々の事実は多くの偏見のない非カトリック者たちに、ファチマの真正性は少なくとも可能であるということを確信させるであろう。もしこのことが部外者たちについて言われ得るならば、その物語がカトリック教徒にとってはどれほどそれ以上に確信を与えるものであるだろうか? にもかかわらず、物語が信徒でない人々を信仰へと動かすとしても、それは何人かのバチカンの高官たちに対しては反対の効果を持っていると思われる。皮肉にも、今ファチマをほとんど信じそうにない人々の何人かが最も信じそうであるべき人々の中にいるのである。かつてはカトリック信仰にとって最も重要であった諸々の信念は今や信徒席に留まっている信徒たちによってではなく、教会における最高の権威者たちのある者たちによって放棄されている。

それ以上の皮肉はこの問題における教皇の立場に関係している。ファチマの御出現が起こって以来の彼のすべての先任者たちと同様に、ヨハネ・パウロ二世は御出現の真正性に対する彼の信仰を公然とそして繰り返し公言してこられた。彼はファチマ大聖堂を三度訪問された。そして1981年の彼の暗殺未遂からの生き残りをファチマの聖母に帰された。にもかかわらず、その教皇さえ、ファチマについての非常に異なった見解を取ることから彼自身の最も高位にある枢機卿たちを妨げることに無力と思われる。彼は上述した2000年6月の記者会見には同席していなかった。その記者会見ではバチカンのトップの高官たちのうちの二人がファチマの諸々の預言の信憑性を掘り崩し、それらを過去に押しやるために努力したのである。

この書物におけるいくつかの章が説明しているように、ファチマのメッセージはまた、バチカンの高官たちがそれを処理する仕方に影響を与えたであろう政治的な意味をも持っている。そのメッセージはその民族をカトリシズムへと回心させるために、明示的な仕方でのロシアの奉献を求めている。その明白な意図をもった儀式を遂行することは、バチカンが最初は国際共産主義に関して、そしてより最近にはロシア正教会に関して採用したいわゆる「東方政策」に背くのである。これら両方の領域において、バチカン当局は、共産主義を悪として公然非難することを止め、ロシア正教会信徒たちの回心を求めることを止めることに同意して、教会の教えの伝統的に戦闘的な擁護を放棄した。それゆえ、ファチマ・メッセージは現在のバチカン政策の文脈の中では「政治的に誤った」ものであったし、今なおそうなのである。

人はバチカンが単にこれらの政治的な理由のためにロシアを奉献することを差し控えていると疑うかもしれない。しかしそれは本当に信用されるものであるか? 危険であることがあるならば、バチカンは本当にただ単にロシア人との外交的紛争を避けるためにだけ諸民族の絶滅の危険を冒すであろうか? ロシアは、要するにその国を神の御母の配慮に委ねる一つの儀式によって重大な仕方で傷つけられるのであろうか? そしてたとえロシアが傷つけられたとしても、彼らはそれについて何をなすであろうか? 彼らはおそらく、ロシアを奉献しないことに対する罰、すなわち「さまざまの民族が絶滅させられるであろう」という罰よりも悪い何をすることができるであろうか?

この書物は何人かの高位のバチカン外交官たちの間でのファチマに対する態度に明白に影響を与えた政治的な策謀を明らかにし、検討する。バチカンの融和的な「東方政策」の立案者たちがファチマ・メッセージを迷惑なものと見ていることはほとんど疑いがあり得ない。しかし、それでもなお、これらの外交的考慮だけがバチカンをして天からのメッセージを無視するよう説得することができるとは思われない。そのことが起こるためには、他の何かあることが、現世的な政治よりも深いそして暗い何物かが、働いているに違いない。

そのより深い、そしてより暗い病気がこの書物の究極的な主題である。それは、どのようにカトリック教会が多くの信徒を混乱させたままにしている仕方で変形させられてきたかを明らかにする。一方では、部外者たちは今、この外見の背後で徹底的な変形をただ覆っているにすぎない通常の機能の外見を主張している教会を見ている。

遠くから見ると、カトリック教会はただ緩やかにそしてしぶしぶ変化している制度であるように見える。1960年代に第二バチカン公会議によって始められた改革の過程は、内部の人々には劇的と思われたが、しかし部外者たちにはほとんど見えなかった、教会における前例のない諸変化(例えば、国語によるミサ、他と明確に区別できる聖職者の衣服の放棄)へと導いた。二十世紀後半における世俗的諸傾向に比較して、教会は、司祭の独身制、女性の叙階、避妊、離婚および中絶のような事柄に関するその教えを維持しながら、変化に抵抗しているように思われた。

しかしこのことはバチカンの指導部が決定的に伝統主義的であることを意味しているのか? 教皇の公的な発言のようなそのような事柄に頼っている部外者たちは確かにそのように考えるかもしれない。しかしこの書物が説明しているように、内部の人々はもっとよく知っている。カトリック教会は今日それがそう見えるものではない。そして一般の認識と現実の実体との間のギャップは日増しに大きくなっている。

諸々の伝統がある点では公式に擁護された一方で、他の点では放棄されあるいは掘り崩されてきた。そして今なお維持されている諸々の立場が広範囲に宣伝される一方で、放棄されあるいは掘り崩された立場はかろうじて認められた。かつては世界中で一つの共通の信念体系を共有したカトリック教徒は今やあらゆる水準における矛盾したそして不確実な指導部に従って、異なった場所で異なった方向に漂流している自分たち自身を見出している。

よく知られているように一枚岩的なカトリック教会はもはやぜんぜん一枚岩的ではない。それはこの書物がそれらの源泉を辿っているが亀裂に満ちている。それは、そこで最初の亀裂が熱心な信仰者である教皇を、そうではない彼自身の直接的な部下たちから分かっているばらばらになった教会指導部を示している。

これらの高位の当局者たちのうちの四人がこの書物において綿密に検討されている。この書物は伝統的なカトリック信仰の一つの政治的に誤った表現としてファチマに関する「書物を閉じる」試みにおける彼らの役割を詳細に証拠づけている。彼らの個人的な動機について確実であることは不可能である一方で、彼らが行って来たことが教会における現在の信仰と道徳の危機に貢献してきたという結論を避けることもまた不可能である。

多くのカトリックの時事問題解説者たちは、第二バチカン公会議後の時期に、事実上すべてのカトリック教徒によってかつては共有されていた信仰が今や主流から押しやられ、そしてカルトの地位へと引き下げられたということを述べた。これらのもののうち最も重要なものは御出現、奇跡そして預言に対する信仰である。何世紀にもわたって、カトリック教会は何百人もの多くの人々を聖人の位に挙げてきた。彼らのうちの各々は彼あるいは彼女の執り成しを通じて行われた奇跡を根拠として列聖された。これらの同じ聖人たちの多くはキリストあるいはおとめマリアの御出現を経験した。カトリックの伝統は、彼らの時代の預言者として呼び出され、そして奇跡を伴った彼らの預言を本物であると証明する幻視の聖人たちによって仲介された地と天との間の対話に対する信仰を肯定している。この長年続いているキリスト教信仰の局面を擁護するどころか、今日のバチカン高官たちのある者は、地球的な破局というファチマの警告にも関わらず、ファチマの御出現を含む、「私的啓示」は信仰にとって「本質的ではない」として無視されることができると強調している。

概して、カトリック教会の公会議後の「最新式のやり方」はしなびた芯にまで引き下げられたカトリック信仰を残した。そしてその芯さえ高位の段階で挑戦されている。広く出版され(そして公然と異端的である)「神学者」ハンス・キュングはキリストの復活や神性のような基本的な信仰箇条を疑問視することに対してただほんのおざなりの罰を受けただけである。

単純な事実は、何人かのトップのバチカン高官たちが実際に何を信じているのかを明瞭に決定することはもはや可能ではないということである。この点に関する重要な高官は信仰教義聖省長官である。伝統的には、この地位はカトリック教義の維持に対するその人の責任が絶対的で疑問の余地のないものである人によって占められている。今日、その地位は、(多くのインタビューにおいて、そしていくつかの公式の宣言においてさえ)カトリック教義に関するその陳述が、神学の専門家たちでさえ彼が多くの領域で実際に何を信じているのかを言うことができないほどに曖昧さを多く含んでいる人物、ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿によって占められている。

このすべてのことは部外者にとっては関係のないことだと思われるであろう。そして大部分の点においてその通りである。非カトリック者あるいは非キリスト教徒にとって、カトリック教徒が伝統的なラテン語のミサに出席するか、それとも現代的な自国語のミサに主席するかどうか、あるいはロザリオの祈りをするかどうかは、何ら重要なことではない。ラッツィンガー枢機卿が一般的にカトリック教義の問題について何を考えているかは部外者にとっては何ら重要性を持たない。

しかしラッツィンガー枢機卿が御出現、奇跡そして預言について考えることは重要性を持っている。それは重要性を持っている。なぜなら、もし彼がファチマの御出現を信じず、太陽の奇跡を軽視し、そしてファチマ・メッセージにおける諸々の預言を無視するならば、彼は全世界を危険に陥れるであろうからである。

伝統的な信仰の崩壊はこのようにファチマに関する教会の、そうでなければ説明不可能な行動に対する最も妥当な説明として現れる。御出現、奇跡そして預言に対する伝統的なカトリック信仰はファチマ物語の核心にある。これらの事柄に対する信仰の放棄はファチマを、「信じる価値のある」あるものから、教会の教義の指導者が疑い、地位低下させようと努めているカルトへと変形したものである。

部外者はこのことがまったく一つのカトリック内部の問題であることを望むであろう。しかしそうではない。人は神について思いめぐらし、そして神がどのように人類と意思伝達をすることを選ばれるかを思い巡らすために、カトリックである必要はない。ある特定の宗教に対する信仰を欠いている人々は一般に神の存在を否定しない。彼らはただ神が存在するかどうかを知らないだけである。不確実性のその状態において、何かあることがどのようにして排除され得るか? そのことが多くの人々にどのように奇怪なことと思われるようとも、神がファチマのメッセージを通じて人類と意思伝達をすることを望まれるとしても無理はないであろう。聖書が賢明にもわれわれに告げているように、神のやり方はわれわれのやり方ではないのである。

究極の問題点はそれゆえに単にカトリック教会が何を信じるかではなくて、このことが全体としての人類にとって何を意味しているかということである。この状況はカトリック者であろうとなかろうと、キリスト教徒であろうとなかろうと、あらゆる人々にファチマ・メッセージが真正のものである可能性を考察するように招いている。ちょっと見たところではありそうもないと見えるかもしれないが、この考えを支持するいくつかの説得的な証拠が存在する。バチカン自身の徹底的な調査はこの種の出来事をしばしば無効にする不一致、矛盾あるいは食い違いを何一つ見出さなかった。彼らはまた、それに対しては今なおいかなる適切な科学的説明もない、数千人の人々によって目撃された出来事である太陽の奇跡の類のない性質をも認めた。

メッセージの内容が1940年代により広く宣伝されたとき、真正性に対するさらなる支持が集中し始めた。メッセージは一連の預言を含んでいて、それらの各々は予告された通りに起こった。これらは第一次世界大戦の終末、教皇ピオ十一世の選出、第二次世界大戦の始まり、そして共産主義ロシアの拡大を含んでいる。証拠は、御出現が起こって以来、数百万のカトリック教徒とともに、六人の引き続いた教皇たちの信仰を十分に引き出すことを証明した。それはまた、現在の教皇[ヨハネ・パウロ二世]の下でのバチカンをも説得して、御出現の二人の亡くなった証人、フランシスコ・マルトとヤチンタ・マルトとを列福させ、またミサを捧げるためのローマ・カトリック教会によって用いられるカトリック礼拝の公式の書物であるミサ典礼書の中にファチマの御出現を記念させた。

しかしもう一つのファチマの預言 -- それはただ部分的にしか明らかにされなかった -- はファチマの第三の秘密である。この書物において概略された証拠は教会の指導部における重大な問題、今日の教会において実際に起こっているものに異様に似ている諸問題の予告を強く指し示している。

大部分のカトリック教徒は聖職者のメンバーたちによる青少年の性的虐待についての最近の大量の暴露によって茫然とさせられた。そのような事柄は、多くの高い地位にある聖職者が独身制の無視を行った中世の時代においてすら、教会史においては完全に前例がない。このぞっとさせる状況の説明を求めて、カトリック教徒も他の人々も両者ともまだ公開されていない第三の秘密に期待するのは無理のないことであろう。

この書物は、第三の秘密が今起こっていることを正確に予告しているということを信じるに足るしかるべき理由を提供している。聖職者階級におけるスキャンダルは奉献がなされないならば約束された懲罰の始まりである。全世界が最終的に罰せられるであろうが、罰は最初に教会それ自身にくだるのである。カトリック司祭職の凋落とその道徳的堕落は人類全体を最終的には飲み込むであろう災厄の単に最初のしるしにしかすぎない。

この書物において検討された四人のバチカン高官たちが、第三の秘密のテキストを今なお隠している一方でファチマ問題を沈静化させるために最大限の努力をしたという事実はこの解釈を強く支持している。明らかに、これらの高官たちは今なお隠している何かあることを持っているのである。そうでなければ、なぜ問題になっている文書を公表しないのか、そしてなぜ御出現の唯一の生き残りの証人であるシスター・ルチア・ドス・サントスにその真正性を証言することを許さないのか?

物語全体が語られるとき、バチカンが奉献を遂行することを望まない本当の理由は、そうすることがファチマ・メッセージの真正性を肯定することになるからだということは明らかだと思われる。そして、逆に、そうすることは預言されたバチカンそれ自体の中への背教の侵入の真正性を肯定するであろう。信じない高官たちは彼らに指をさしているメッセージを心に留めることによってまさに彼ら自身に非難しようとしていないのである。その代わりに、彼らは、バチカン自身が以前には信用に値すると宣言していたことに信用を与えることを拒否しようとしてメッセージを葬ろうと努めたのである。

教会の歴史においてほとんど他のどの時代にも、バチカンのトップの階層のメンバーたちはそのような圧倒的な仕方で伝えられた天からのメッセージを信じる人々の間では最先端にいたものであった。彼らはすぐさまそれに心を留め、そしてその要求に応じたものであった。第二バチカン公会議の後に続いた混乱とともに、そして過去40年にわたる、教会を含むあらゆる制度の中への世俗主義の急速な進展とともに、そのようなメッセージは今や何人かのバチカンの高官たちによってさえ敵対的な評価を受けている。メッセージを無視することにおいて、これらの高位聖職者たちは自分たち自身を、単に信徒たちの列の外部に置いているだけではなく、常識をもった非信徒の列の外部にさえ置いているのである。なぜなら、彼らはメッセージに -- とにかく -- 何らかの仕方で、一つの試みをさせることさえ望んでいないからである。

聖書はこの点に関して一つの啓発的な例を与えている。列王の書第四(4列王5:1-15, ある聖書では2列王5:1-15)はシリア軍の隊長ナアマンの物語を告げている。彼の王は彼のらい病の奇跡的な治癒を求めるために彼をイスラエルにいる預言者エリゼオのところに送った。実際に彼に会うことなしに、エリゼオはナアマンに、癒されるためにヨルダン川で七度身を洗えという指示を送った。ナアマンはエリゼオが彼の治癒をじきじきに司るために来なかったことに立腹した。彼は、ヨルダン川で単に身を洗うことはおそらくシリアの美しい川のどれかで身を洗うことよりもよいはずがないと感じた。預言者の指示をつまらないとして拒絶して、ナアマンは立ち去る準備をした。しかし彼の助言者たちが彼に忠告して思いとどまらせた。彼らは、もし預言者が彼に、癒されるためにある困難なきわだった行いを命じたならば、ナアマンはそれをしたであろう。それでは、その代わりに要求された非常にありふれた事柄をなぜしないのか? 実際、彼らは彼に言った:それはそのように単純な事柄であるから、なぜそれをやってみないのか? ナアマンはそういう根拠でやってみることにした。そして確かにヨルダン川で七度目に身を洗ったとき、彼のらい病は消えた。

聖書のこの奇跡的な出来事とロシアの奉献に関してバチカンによって今取られている態度との間には著しい類似点がある。ナアマンと同じように、バチカンの高官たちは奉献のような単純なある事柄が真の世界平和のような重大な恩恵を叶えることができるということを信じることができないように思われる。そして彼らは彼らの立場においてそのように頑固なので、カトリックの聖職者内の数千人を含む、数百万の信徒からの何十年にもわたる繰り返しの訴えにもかかわらず、その救済策を試みてみることさえ許したくないのである。

部外者たちには、高い地位にある疑う人々の小さなグループが巨大な数の信徒たちによってそのように熱烈に望まれた行動を阻止できるということは信じられないことだと思われるであろう。このことを理解するためには、教会の構造を理解する必要がある。それは民主主義とは非常に異なったものである。カトリック教会の司教たちは信徒によって選ばれるのではないし、また彼らの同僚によって選ばれるのでもない。彼らは教皇によって選ばれ、そして教皇によって、あるいは[より普通には]一人の現在の司教によって叙階される。そしてこの叙階によって彼らに与えられる権力は直接的に神から来る。ひとたび叙階されれば、各司教は最終的にただ神にのみ責任がある。そして神の下で、教会の諸問題において教皇にのみ従順を捧げなければならない。

時代の気分と現在の教皇の行政的なスタイルから考えて、教皇が、まず何よりも司教たちの間に一般的な同意が存在しない限り、すべての司教たちに直接命令されないであろうことは確実である。

このすべてのことが意味することは、要求されているように奉献をすることに自発的に同意することは、およそ4,500人を数える教会の司教たちにかかっているということである。任命、昇進、そして他の諸々の特権に対する彼らの幅広い権力のことを考えれば、バチカンで責任を担っているその小さなグループにとって自発的な同意がだんだん高まることを阻止することは容易なことである。

今日、カトリック聖職者階級にある誰にとっても、ファチマについて遠慮なくものを言うことはどの司祭、司教にとっても、あるいは枢機卿にとってさえ、忘却への片道切符であるということは明らかである。それゆえたいていの司教たちは、彼らが実際に何を考えあるいは信じるかにかかわらず、その問題に関して沈黙している。同じことは司祭たちにとっても真である。彼らは「政治的に誤って」いることに対する罰にはより傷つき易いからである。

この書物はまた、大きな個人的代価を払ってファチマ・メッセージの促進に献身してきた「ファチマ司祭」ニコラス・グルーナー神父に対する抑圧的な処置に言及している。破門の脅迫をさえ含んだバチカンの彼を沈黙させようとする努力は未成年者の性的いたずらの申し立てに巻き込まれてきた数百人の司祭たち、そして司教たちや大司教たちさえに対する寛大な処置と鋭い対照をなしている。今日のカトリック聖職者の悲しい状態はグルーナー神父に対する処置と実際に重大な犯罪の責任があるカトリック聖職者に与えられた処置との間のこの対照によって縮図的に示されている。

カトリック教会は他の誰もがどうすればよいかを知らないある事柄 -- 果てしなく戦争に引き裂かれた世界に平和をもたらす -- を為す救済策をその手に持っている。この書物において提示された人を惹きつける事例に基づけば、この救済策が試みられることを妨げている人々はそれに対して多くを答えなければならない。彼らはカトリック信徒と世界との両方に彼らの行動の説明をしなければならない。さらに、世界全般にとってのその重要性を考えるならば、ファチマ・メッセージの隠蔽工作は2002年に報道機関によって暴露された司祭の性的非行の司教による隠蔽工作より以上に公衆の激怒の機会でさえある。

この書物の最終章は、教会自身の最善の利益そして全人類の最善の利益の両方において行動するようにカトリック教会の指導者たちを説得するためには、信じる者も信じない者も両方とも、諸個人が何をすればよいかについていくつかの示唆を提供している。この書物が明らかにしているように、カトリック教徒および非カトリック教徒の両者は、多くのものを手に入れるが、もしファチマのメッセージがその命令に従う責任を負っているまさにその人々によって無視され続けるならば多くのものを失わなければならない。

2005/04/12 三上 茂 試訳

目次

作成日:2005/04/12

最終更新日:2005/04/14

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