ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅰ部:ファチマ・メッセージの緊急性

第2章:世界の希望

Father  Paul Trinchard

T.S.Eliot は言いました:「諸々の時代を通じて本質的なあらゆることを達成してきた謙遜な人々の目に見えない団体に対するわれわれの感謝。」われわれが皆ここにいるのは、合衆国の人々のわずかのドルのおかげです。そしてわれわれはファチマ・メッセージをもっとよく知ることを助ける機会を彼らに与えられたことに対してグルーナー神父様に感謝します。ファチマ・メッセージは人口のおよそ5%の人々によってその全体において、あるいはその真正であることを知られているに過ぎません。ですからわれわれは目の前に大きな仕事を持っているわけです。

キリストの秩序

あなたたちは年を取るにつれて生活における神の恵みを見ます。もし神がそれを見るようにあなたに恵みをお与えになるならば、そのことに対して非常に感謝してください。聖霊の恵みによって私は数ヶ月フォート・エリーで過ごしました。そしてそのことは私にとってファチマのメッセージが何であるかを理解するのに十分でした。このメッセージの基礎 -- それをわれわれは十分に探求しなかったのですが -- はただ一つの真の教会がある -- 「教会の外にはいかなる救いも存在しない」 -- ということです。これは第二バチカン公会議後の異端ではありません。それはローマ・カトリック教会の一つの永遠の教義です。これはファチマの鍵となる基礎の一つです。

教皇そしてあなたがた司教は世界の希望です。あなたがたが持っておられるのは一つの畏怖を起こさせるような責任です。しかしあなたがたは世界の希望です。教会が成功するにつれて世界は祝福されます。そしてそれがファチマのメッセージです。それはそのように力強い事柄であり、そのように非常に強力なものです。もし教皇が神のファチマ・メッセージに従われるならば、世界は祝福されるでしょう。

あなたがたは何人の司教たちが北アメリカからここに来ておられるか御存知ですか? ゼロです。そのことは予期されていたことです。アメリカ合衆国における実存的教会は司教たちの落ち度によって、時には異端を助長することへの彼らの積極的な参加によってまったく堕落しています。キリストは一つの強い教会をお建てになったので、教会の堕落においてさえ、あなたがたはなおキリストの秩序を持っています。その堕落においてさえ、いかにそれが一つの堅く団結した組織であるか、驚くべきことです。そしてトップがするように、下部もします。彼らの教会指導者たちが間違っているのを見、何をすればよいか知らない人々は異なったグループの中へ入るか、あるいはトリエントのミサに主として集まる異なった司祭たちに従うようになります。なぜならその神学は正しいからです。彼らは分派へと分裂します。今や神はカトリック教会にこの組織、この一致をお与えになりました。ですから、その堕落においてさえ、それは今なおこの一致を保っています。そして司教たちは司教たちに対抗することを躊躇するでしょう。しかし、アンナ・カタリナ・エンメリッヒが予告しているように、終わりの時には、司教たちは司教たちに対抗するでしょう。それはわれわれがそのために準備しているべきことです。

われわれは一つの希望のメッセージを持っています。終わりに教皇は祝せられたおとめマリアに従われるでしょう。ロシアは奉献されるでしょう。平和が一つの真の教会、ローマ・カトリック教会を通じて得られるでしょう。「教会の外部ではいかなる救いもない」という啓示された真理は社会にとっても諸個人にとっても適用されます。

ロシアの諸々の誤謬

ファチマのメッセージは三つの部分を持っています。第一の部分は諸個人にかかわるもので、たいていは彼らを健全さへともたらします。そこにはまた、地獄が存在し、そして地獄は唯一の永遠の悪であるという劇的な注意があります。地獄について説教することを恐れないでください。それを恥ずかしがらないでください。そのことが聖母が第一のメッセージにおいて言っておられることです。地獄は唯一の永遠の悪です。そして罪は唯一の実質的な現在の悪です。霊魂が地獄へ行く原因は罪です。

合衆国はすでにロシアの諸々の誤謬を取り入れています。われわれは合衆国においてロシアが持っているよりも多くのロシアの誤謬を持っています。あなたは合衆国におけるわれわれの政府の諸学校においてイエズス・キリストに言及することができません。あなたはわれわれの政府の諸学校において壁に十戒をかけることができません。しかしあなたはロシアにおいて現在イエズスに言及することができます。

合衆国はずいぶん堕落しました。今やわれわれは憎しみの法律を獲得しました。われわれは児童の権利のような代物を獲得しました。「遊ぶ児童の権利」は最初はよい響きがするかもしれません。「宗教に対する児童の権利」もまた最初はよい響きがするでしょう。それが意味することは実際には、もし国家があなたはあなたの子どもに諸々の責任を取らせていると決定するならば、そのとき子どもはあなたから取り上げられるだろうということです。なぜならあなたは子どもの「遊ぶ権利」を侵害しているからです。もし国家があなたの10歳の子どもがもう教会に行くことを望まないということを知るならば、そのときあなたの子どもはあなたから取り上げられるでしょう。なぜなら、あなたはその子どもの「宗教の自由」を侵害したからです。

ロシアの諸々の誤謬は一般的に言って何でしょうか? 神の代わりに人間を礼拝することです。それはまた今日合衆国政府の基礎でもあります。神の代わりに人間を礼拝することです。そのことは確かにイエズスの聖心とマリアの汚れなき御心をどのように悲しませることになるかということに相違ありません。

教皇の有りようによって全世界の有りようが決まります。われわれは終わりにマリアの汚れなき御心が勝利するでしょう、ロシアは奉献され、そして平和の一時期が世界に与えられるでしょうという約束を持っています。あなたと私がそのメッセージを完成させることの一部分となれるといいですね。教会があるべき姿になるとき私たちは喜ぶでしょう。そして全世界は教皇が為すべきことをなさるとき祝福されるでしょう。平和の一時期がやって来るでしょう。ロシアの諸々の誤謬はもはやアメリカ合衆国に広まらないでしょう。ロシアはもはや全世界を罰するための選ばれた道具とはならないでしょう。

あなたが新聞を読むとき、美しい印刷を読みなさい。ロシアがその核武装を2005年までに27,000発から4,000発に削減しようとしていると報道されています。そのことが実際意味していることは、彼らがロス・アンジェルスに50発の爆弾の代わりに12発の爆弾を落とすということに過ぎません。

教会における危機

この前私がある教会で話をしたとき、そこの司祭は私の諸々の権能が取り去られるべきだと要求しました。なぜですか? それは私が純粋で単純なファチマ・メッセージを話したからでした。私はたまたま、ファチマ・メッセージは諸々の個人と共同体の両者にねらいをつけているということを指摘しました。アメリカ合衆国においては、共同体が礼拝されています。それは一つの聖なる言葉です。しかしながら、真理は、共同体が一つの抽象であるということです。それは数学的な言い方をするならば、一つの共同の財産を分かち持つ一組の諸個人です。共同体は一つの抽象です。そのことについて考えてください。それは一つの実体ではありません。もし私が永遠に地獄に行き、そしてあなたが天国に行くならば、あなたの天国はより小さな一片ではないでしょう。なぜなら私は地獄にいるからです。もし私が永遠に天国に行き、そしてあなたが地獄に行くならば、私の天国はより小さな一片ではないでしょう。なぜならあなたは地獄にいるからです。それは神によって与えられた絶対的な真理です。

われわれの多くは「政治的に正しい」ものであるために、あるいはわれわれを政治的に前進させるであろうもののために、その真理を放棄しました。イエズスは言われました。「人の子が戻って来るとき、この地上に何らかの信仰が残されているのを見出すであろうか?」と。われわれは今信仰の危機の中にいます。ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密を読まれた後に、「危機」の一語で教会を記述されました。

ファチマと聖書

シスター・ルチアは黙示録の第8章から第13章に言及しました。第12章はマリアの残りの者を記述しています。それを詳しく読むならば、以下のことがはっきりします:マリアの残りの者である人々、祝せられたおとめマリアの保護の下にいる人々は真理を探し求める人々、真理を愛する人々、真理を信じる人々、そして死に至るまでさえ真理を証言する人々である、と。ラッツィンガー枢機卿は司教会議においてこう言っておられます:「信仰のための殉教者である準備をしておきなさい」と。それが祝せられたおとめの残りの者です。それはすべて一緒に当てはまります。

ファチマ・メッセージは、教会内のリベラル派の人々があらゆるものを薄めてしまったにもかかわらず、聖書と反目していません。合衆国において影響力を持っているわれらのリベラル派の聖書学者たちは神の言葉をくずかごに投げ込みつまらないものにしてしまいました。彼らはそうするために「[教会当局による]印刷出版許可」をさえ得ています。何人かのイエズス会の学者たちは26の共同体がマテオ福音書を書いたと言いました。私はなぜ彼らがそれをマテオによる福音書と呼ぶのか知りません。彼らはそれを「マティアン共同体の福音書」と呼ぶべきでしょう。彼らがこのことをする理由は単純です。それは、彼らが好むことを取り出し、選ぶことを可能にするからですが、それはあらゆる事柄を薄められたものとし、そしてそれゆえにそれは消失するのです。

私はかつてイエズス会員であったときのことを思い起こします。ある聖書学者がこう尋ねたものです:「彼らが『彼らは門の所に坐っていた』と言うときそれは何を意味しているか?」誰もがそれは一つの策略の質問であると考えました。しかしその答は、彼らは門の所に坐っていた、です。それが言われたことであり、そしてそれがそれが意味したことです。彼らはこのような離れ業をすることができたのです。なぜなら、彼らは非常に尊敬されていたからです。しかしそれは悪しき尊敬でした。私はそれを専門家崇拝と呼びます。専門家がこう言っている、だからこれは真に違いない、というわけです。

シスター・ルチアは、終わりの時のしるしの一つは人々が盲目となり、そして彼らが自分たちの盲目において正しいと考えるようになることであると言いました。彼女はまた、終わりの時のしるしの一つはわれわれが真理の光を拒絶するようになることだと言いました。それと平行して、ロマ書1:16-24には、彼らが神を拒絶した、そしてそれゆえに神は彼らを罪に引き渡されたと書かれています。彼らは単に罪を犯しただけではなく、罪を罪として見ることができませんでした。彼らは罪をよきものとして、徳を悪徳して、そして悪徳を徳として説教しました。私はそれを「ロマ書第一章の呪い」と呼びます。あなたがあなたの聖書を翻訳する一人のリベラル派の聖書学者を持たなかったならば、それがそれが言っていることです。

私は10日ほど前に死海にいました。われわれはエステル書以外の旧約聖書のすべての巻からの抜粋を持っていました。これらの抜粋は1000年から1300年までの間に聖書には何一つ実質的な変化がなかったということを証明しました。すなわち、現在に至るまで何ら変化はありませんでした。1950年までそうでした。このことは、リベラル派の「ねずみども」が実際に登場して来るまではそうです。彼らは3000年間に存在したよりももっと多くの変化を、1950年から現在までの間に、聖書の中に導入しました。

聖母は信心の力を御存知である

グルーナー神父とノー神父のおかげで、私はこの最後の二日間がどのように重要であったか、そしてマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することがいかに重要であるかをよく理解しました。あなたがたが人々に出会う真の道は諸々の信心を通じてです。私は叔母が私を教会に連れて行き、いろいろの御像の前で祈らせたことを思い起こします。そのことは私の死の日まで私の全生涯と共にあるでしょう。いろいろの信心は人々に影響を与えるものです。そして祝せられたおとめマリアが世界中に確立されることを望んでおられるのは聖母の汚れなき御心に対する信心です。例えば、一つの御像がインドへ持って行かれ、そしてイスラム教徒たちがただあなたがその御像を通りを通じて運んだがゆえに回心するのです。しかし、どういうわけか、人々は影響を受け、そしてイスラム教徒たちさえこれらの信心そして諸々の秘蹟へと導く準秘蹟を通じて回心するのです。

カトリック教徒であるためにわれわれは三つの領域を持っています。第一にあなたは信じなければなりません。すなわち、「信ずべき領域」credendiです。第二に、あなたは、私が「祈るべき領域」orandiと呼ぶものを持たなければなりません。すなわち、あなたは祈りの手段、そしてあなたを特別にカトリック者とするミサと諸々の秘蹟を持たなければなりません。第三に、あなたは適切な統治機構、ローマとの結びつきを持っています。カトリック者であるため、教会内にいるために、あなたはこれら三つの事柄を持っていなければなりません。アメリカにおいては credendi はほとんど完全に撃ち落とされています。合衆国においては何人の司教様がExtra Ecclesiam Nulla Salus 教会の外に救いなしを公言なさるでしょうか? 彼らは言い抜けをなさいます。しかし、もしあなたがカトリック的 credendi を持たないならば、もしあなたがカトリック的な orandi を持たないならば、そしてもしあなたがカトリック的な統治機構を持たないならば、あなたはカトリック教会を持っていないのです。このことは、逆に、ローマ・カトリック教会の四つのしるし:すなわち、一、聖、公、使徒的というしるし、に影響を与えます。

それゆえに神はその両手に一つのとてつもない問題を持っておられます。神はこのことを続けさせることがお出来になりません。だからこそ、グルーナー神父は2000年という年が一つの決定的な時であると言ったのです。われわれは呪いの部分であり得るか、それとも祝福の部分であり得るかのいずれかです。われわれは信徒を祝福の方へ導くことができるか、それとも苦しみと呪いの方へ導くことができるかのいずれかです。そのことはわれわれの偉大なファチマの機会です。

世界は一つの悪魔的な妄想の下にあります。三人の教皇:教皇ピオ十二世、教皇パウロ六世、そして教皇ヨハネ・パウロ二世は、この世代の罪は罪の感覚の喪失であると言われました。われわれは霊的に精神病患者です。われわれは霊的に狂気です。昨年私の国では一つの調査、ボンナー調査が行われました。その調査は合衆国において自らをキリスト教徒と呼んでいる人々の73%が真理のようなものは存在しないと信じているということを見出しました。そのことはわれわれがいかに堕落した者となったかということです。われわれはますます悪化しているのです。このすべてのことは完全にファチマ・メッセージと一致しています。シスター・ルチアは、上位の聖職階級のメンバーの多くが盲者を導く盲者であると言いました。彼らは問題を見ることができません。15年前にある大きな集会で話している間に私の大司教はこう言いました:「事態はトリンチャード神父がそうだと言っているほどには悪くはない」と。彼は正しかったのです。事態はもっと悪いからです。「人の子が戻って来る時、地上には何らかの信仰があるであろうか? 。」そのような危機に直面して、あなたの大きな機会はそれを取り戻すこと、信仰を取り戻すことです。

あなたがたの大部分の方が現実主義者であると私は確信しています。あなたがたは皆現実を信じておられます。このことと対照的に、合衆国における典型的な意見はこうです:「ところで、一つの宗教は他のどの宗教と同じようによいものである」と。換言すれば、いかなる客観的な実在も存在しないのです。何であれあなたが最善であると考えるものはすべて正しい、というわけです。しかし実在はあなたが考えるべきもの、あなたが知るべきものです。それは単にあなたが正しいあるいは誤りであると信じているものではなくて、あなたが正しいあるいは誤りであると知るべきものです。かつてアメリカの司教たちがローマを訪問したとき、彼らのうちの一人が、教皇と一緒に夕食を取っている間に避妊を正当化しようと試みました。その司教は言われました:「そうですね、避妊が悪いことであるということを知らない人々は確かにまったく正しいのですね。」教皇はスープの匙を置いて言われた:「司教様、たとえそうだとしても、彼らにそうだと告げるべきであった司教や司祭たちは永遠に地獄に行くでしょう。」それゆえ客観的な真理は存在するのです。これは信仰の賜物、見えざる世界の証拠です。これがわれわれがここで証言しなければならないことです。

預言と証明

真の預言のための基準の一つはそれが神のために語っているということです。預言は司祭的な伝統が宗教の具体的な現実に伝わっているところでは一つの矯正の影響です。預言はある人を通じて現在の中へと神が語られることです。それが預言の一つの全般的な定義です。

預言に関して聖書はわれわれに諸々の指針を与えています。もし誰かが立ち上がって神のために語っていると主張するならば、あるいは幻視を持っていると主張するならば、聖書はわれわれにそれらを吟味するように告げています。彼らに彼らが言っていることを証明するように告げなさい。旧約聖書はもし「預言者」が彼の言葉を証明することができないならば、彼を連れ出し、石打ちの死刑に処しなさいと教えました。そのようにして、あなたは偽っている人々から逃れます。そして人は神の名において「預言している」振りをする前に二度考えるでしょう。

ファチマは多くの証拠によって証明されている一つの預言です。主要な証拠、75年前に起こった太陽の奇跡を取り上げてみましょう。世俗的な新聞さえそれを報道しました。誰一人それを疑うことはできませんでした。どの真の預言も決定的に証明されるでしょう。

預言におけるもう一つの重大な局面は、それが神の啓示、聖書そしてローマ・カトリック教会の真正の教導的な教えに一致しなければならないということです。教皇によって承認されている教会の公会議を通じてあなたが読むすべての事柄、それらすべての教義的な教えは究極的に聖書から来るのであり、そして常に聖書に一致します。聖書と聖伝はわれわれの信仰の基礎であり、それゆえにそれは聖書と一致しなければなりません。

ファチマは完全に聖書的です。シスター・ルチアはわれわれに黙示録第8章から第13章までを読むように告げています。聖書を読んでいる間に些細な込み入った事柄に捕らわれないようにしましょう。われわれはイエズスの髪の毛の色を知らないし、イエズスがいつお生まれになったか正確には知らないし、イエズスの背の高さを知らないし、アメリカ人が非常に大切だと考えるすべてのことを知りません。先週私がイスラエルにいたとき、人々は尋ね続けていました。「ここはイエズスがお生まれになった正確な場所ですか?」「ここは羊飼いたちが天使たちから良き知らせを受けた正確な場所ですか?」重要でない細目へと入り込まないように努めましょう。ファチマのメッセージ全体を獲得してください。フレール・ミッシェルの書物を読んでください。私はそれらを強く推薦します。それらの書物を読んでください。聖書を読んでください。そして聖霊に対して開かれなさい。ファチマ・メッセージは完全に論理的です。ファチマ・メッセージは真の預言です。教会はファチマ・メッセージを全体的に承認しました。われわれがしなければならないただ一つのことはそれを知らない人々に広めること、ファチマでの聖母の言葉に親しんでいるけれども、しかし聖母のメッセージを歪められた仕方で理解しているあの5%の中に入る人々に正しいメッセージを教えることです。

目 次

2005/11/22 三上 茂 試訳

作成日:2005/11/22

最終更新日:2005/11/22

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