ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅰ部:ファチマ・メッセージの緊急性

第4章:神無き者のとりことなって

Josyp Terelya

私の家族について手短かにお話ししましょう。私は高い階級の共産党幹部の家庭の出身でした。父は内閣の大臣でした。父は共産党中央委員会のメンバーでした。彼はKGBの係りでした。KGBはロシアの外にあるソビエトの機関です。

母は共産党中央委員会の学校での勉学を終えました。彼女はウクライナのトランス・カルパチア地方における無神論的、反宗教的政策に責任を負っていました。私は家では生活しませんでした。祖母によって育てられたのです。そして12歳まで両親をさえ知りませんでした。祖母の死の後に両親は一緒に生活するために私を引き取りました。その時私は16歳でした。私は宗教的な仕方で育てられました。そして私が両親と生活するために引き取られた時、私の兄弟姉妹たちは共産主義的体制の中で育てられていました。母は私を同じやり方で育てました。彼女は私の教育のやり方を変えたいと望みました。そして葛藤が現れ始めました。私は建築を勉強したカレッジを終え、次にキエフにある大学に入学しました。私はカタコンベ教会においてかなり活動的でした。18歳の時には私はカタコンベ教会の青年部のリーダーでした。ここ西側ではほとんどの人はわれわれの教会を知りませんしまた理解していません。あなたたちは新聞において告げられることだけしか知りません。ソ連においてはどの宗教のどの宗派も迫害されているということを忘れてはなりません。1946年にわれわれの首座司教を含む司教たちのすべてが逮捕されました。数千人の司祭や修道者が逮捕されました。首座司教ヨシフ・スリピ、ヴァレスコフスキ司教、そして追放中に亡くなったチャルネスキー司教を除く全員が射殺されました。教会は指導部なしに残されました。人々は組織化し始めました。120の村のために山に身を隠す一人の司祭しかいませんでした。KGBは彼を捜索していました。1953年に彼は見つけられそして処刑されました。銃殺されたのです。ペレストロイカのこの時期、今になってやっと、数ヶ月前ですが、警察の高い地位にある幹部の一人が死の前にこの司祭がどこに埋められたかを告げました。

西側の人々は何度も私が狂信的であると言って私のことについて書きました。これは共産主義者たちが宣言することと同じことです。私は5年間ソ連国境の外側で生活してきました。そして私は人々が彼らの信仰を失いつつあるのを見ています。われわれは、これがただ現代世界におけるわれわれの物質主義的必要によるにすぎないと言うことはできません。

フリーメーソンが共産主義を支配している

西側においては、非常にわずかの人しかソ連の共産党のほとんど全部の上層階層がフリーメーソン・ロッジのメンバーであったということを知りません。私の父はグランド・マスターでした。父はティト元帥、フルシチョフそしてブレジネフからロッジへの会員申込みを受け入れました。すべての意図と目的のために私の父は中央ヨーロッパの東の部分におけるすべてのフリーメーソンのロッジの活動を支配していました。それゆえに、多くの人々は私が解放されたことについて議論があったとき驚かされたのです。というのはミッテラン大統領、ベアトリス女王そしてレーガン大統領が私が釈放されることに関心を抱いたからです。私は1987年に強制収容所から解放されました。私は、ウクライナがいわゆる独立を宣言したという事実にもかかわらず、私の市民権を剥奪されソ連を離れるよう強制されました。私は今なおウクライナに戻ることができません。

ここでの私の滞在の間に、私はソ連において実際にそして真に起こっていることについて西側の諸政府に多くの情報を伝えました。私は非常に密接な接触を持っていましたので私の情報を得ているのです。

最初にここに来たとき、私はかなり世間知らずでした。私は西側の人は誰でも本当に共産主義に反対であると考えていました。時間が経つにつれて、私が共産主義者たちについて大変好意的に話さなかった時、さまざまの西側政府の多くの人々としっくり行かないということを理解するようになりました。多くの人々はあそこで起こっていることの状況を理解していません。誰がこの状況を作り出したのですか? なぜすべての共産主義者たちが同時に共産主義の教義を公然と非難したのですか? その答えはすっきりしたものではありません。われわれは、ますます多くの人々が神から遠ざかっているという事実の証人です。サタンは神から人々を盗むために働いています。

西側において私はメディアの多くの人々と話す機会を持ちました。彼らは私に尋ねました:「いったいあなたはどのようにして23年間の強制収容所と監獄を生き残ったのですか?」私は答えました:「祈りです。」彼らは私を理解しません。ジャーナリストたちは私がどのように拷問を受け、どのように殴られたかを私が彼らに告げるように要求します。彼らは興味本位のことを必要としています。私は彼らがわれわれを殴り、われわれから食物を奪ったとあなたたちに正直に告げます。しかしながら、これらの事柄はわれわれを怯えさせないでしょう。祈る人間は監獄においてさえ、神と共に自由でいることができます。私は7年の間独房に監禁されました。彼らはわれわれに300gの野菜スープ、4gの脂肪、22gの肉を与えたものです。にもかかわらず、あなた方が見ることができるように、私はここにあなた方の前に立っています。私は生きています。私はロザリオをパンで作りました。そして祈る機会を持った時には幸せだと考えました。なぜなら、もし祈っている時に捕まえられるならば、罰せられたでしょうから。われわれはパンから作られた小さな十字架やロザリオを隠さなければなりませんでした。なぜなら、このためにあなたはひどく殴られ得るからです。

誰も私は内閣の大臣の息子であることを知っていました。誰も私の両親がだれであるかを知っていました。私は外国人たちを入れている特別監獄にいました。そこで私はヴェトナム戦争の間に投獄され、今日に至っても拘留されていたアメリカの将校たちに会う機会がありました。私がこの情報を合衆国議会に提出したとき、公衆はこのことを知る必要はないのだと告げられました。それゆえ私は、メディアにこの情報を伝えた11ヶ月前まで沈黙を守りました。

監獄の看守の回心

そのような極端な環境において祈るために状況はどのようなものであるかをお話ししたいと思います。ソビエトの強制収容所には神は存在しないと言って彼らの信仰を公然と非難したキリスト教徒たちがいたということを説明しなければなりません。これらの人々は釈放されました。これは再教育と呼ばれました。しかしながら、神に対する彼らの信仰を否定する非常に少数のキリスト教徒がいました。彼らが私を打ち、セメント製の狭い独房に押し込めたときの一つのエピソードがあります。私が意識を取り戻したとき、私を打った将校のために私は祈り始めました。私は声を出して祈りました。彼はそれに我慢ができませんでした。それで彼は独房に通じるドアの窓を開き、私に大声で叫び始めました:「テレーリャ、再びお前を打つぞ。私は無神論者だ。私は神を信じない。そしてもし本当に神が存在するならば、なぜお前を助けようとしないのか? われわれは好きなようにお前を処置することができるのだぞ。」私は彼のために祈り続けました。しばらくの後、彼は再び窓を開けました。今回は彼は大声で叫ばずに、静かに私と会話を始めました。彼は言いました:「ヨシプ、お前は何のためにここに坐っているのか? われわれは皆お前がとがめられるべきではないということを知っている。ただ神は存在しないと言いなさい。そうすれば彼らはお前を釈放するだろう。」私は神が行って棒で叩かれないと答えました。私は神があなたを愛されるのと同じように私を愛しておられると言いました。私はあなたが神は存在しないと私に告げた、あなたは私に大声で叫んだ、そしてあなたは私を打った、そして今あなたは非常に静かに私と会話をしている、と言いました。これは神の強さと意志ではないのですか? これは神の行為ではないのですか? 彼は言いました:「狂信的だ。」彼は窓を閉めて行ってしまいました。私は彼のために祈り続けました。すでに夕方でした。彼は、自分でドアを開けることを許されていないにもかかわらず、ドアを開けました。彼は一着の暖かいオーバーコートを脱ぎ、それを私に与え、そして熱い湯を私にくれました。事柄の事実はソビエトの監獄では一日に熱い湯を3カップそして翌日には冷水を与えることになっていたということです。その日は私は冷水を貰っていました。そして彼は私に暖まることができるように熱い湯をくれたのです。彼は私に言いました:「ヨシプ、キリストが誰であるか、言ってくれないか?」われわれは朝早くまで話しました。私はその強制収容所に一ヶ月間いました。彼が交替勤務のためにやって来る度に彼は私と会話するのでした。彼らは私を別の強制収容所に移しました。しかしその人物はMPDと共に彼の仕事を辞めました。彼は洗礼を受けカトリック教徒となりました。1年後に彼は逮捕されました。彼は強制収容所で19年を過ごしました。彼は最近釈放されました。

カトリックの教義の首位性

二三日前私はハリファックスでのある会議に参加していました。人々が私に尋ねます:「テレーリャさん、私たちはどこに行けば一番いいでしょうか? ファチマへ、ルルドへ、他の所へ?」私は彼らに言います:「あなたは好きな所へはどこでも、財政的に適当な所ならどこでも行くことができます。しかしもしあなたがファチマへ、あるいはルルドに旅行しないならば、そのことはあなたがカトリック教徒ではないということを意味するのですか? あなたたちの二人がイエズスの名において出会う所ではどこでもイエズスはあなたたちと共におられるということをあなたは信じないのですか?」われわれはわれわれの教会を愛するべきです。われわれは我々自身の教会においてまず第一に祈るべきです。われわれは日々のカトリック生活において活動的であるべきです。それからわれわれは好きな所に行くことができます。人々はしばしばこのことを理解しません。そして彼らは言います:「テレーリャさん、あなたは御出現に反対ですか?」いいえ、御出現は御出現です。御出現は教会によって認められるでしょう。しかし教会はそれ自身の教説を持っています。われわれはある御出現の場所にわれわれがいるという事実によってのみカトリック教徒であるのではありません。私は或る類型の受動性がこのことから結果するのを見ました。諸々の会議で人々は祈ります。彼らはロザリオの祈りをします。しかしながら、彼らがそこを去り彼らの家庭に帰るとき彼らはこのことを続けません。われわれは、単に会議の時だけでなく、日常的にカトリック教徒であるべきです。ハリファックスでは私はこの質問を会議に出席している5,000人の人々に提出しました:「ここにいる人の誰が毎晩自分たちの子どもたちと一緒に祈っていますか?」たった30の手が上がりました。そして不幸なことに、これらの人々は彼らの小教区の司祭たちについて不満を漏らす人々なのです。彼らは彼らの司祭たちが子どもたちをどのように扱うかを知らないと不満を言います。すべてのキリスト教的教えの基礎は家庭において父母から与えられます。そして次に司祭たちと教会から与えられます。私は出席している人々に尋ねました:「毎日聖書を読んでいる人は誰ですか?」ただ一人の手が上がりました。これは恐るべきことです。われわれは受動的です。われわれは無関心です。われわれは行動を起こしません。われわれは、この時期にわれわれがウクライナそして他のいろいろの場所で聖母の御出現を持ったということをどのように説明するでしょうか? このことは世界が罪の中にあるということをわれわれに告げています。このことはわれわれの受動性について語っています。このことはカトリック世界が受動的になり、そして無神論がますますわれわれの上に這い上がって来ているということをわれわれに告げています。私はしばしば新しいエキュメニズム運動について尋ねられます。私はエキュメニズムをただ一つの意味において理解しています。もしある人が王たるキリストを歓迎し、そして一人のカトリック者であるならば、そのとき、これがエキュメニズムです。エキュメニズムはただカトリック的でのみあり得ます。

われわれは、われわれのカトリック信仰の基礎がカトリックの教義に基づいているということを理解すべきです。われわれはわれわれの教義から逸脱することはできません。なぜわれわれはカタコンベを生き残ったのでしょうか? 1946年に450万人のウクライナ・カトリック教徒たちがカタコンベ教会に加わりました。1988年には1400万人のカトリック教徒が全体主義的共産主義国家のカタコンベから出現しました。彼らはどこから来たのでしょか? これは奇蹟ではないのですか? 祈りとわれわれの信仰がわれわれに生き残り、そして拡大することを許したものです。私は、多くの人々が祈りの力を知らないと確信しています。最近フィリピンを旅行したとき、私は彼らの信仰と教会に対する彼らの関係をうらやましく思いました。私はそのような深い信仰をただわれわれの村、カルパチア山脈の奥深い所でしか見たことがありません。実際、われわれは実際にそして真に神を愛さなければなりません。そしてわれわれは神に従い、神に忠実であることを望まなければなりません。

カナダ、トロントの我々の政府は日曜日は今や労働日であると宣言しました。彼らは今や日曜日をわれわれから奪い去りました。いと祝せられた御母はわれわれに「聖なる日曜日を祝いなさい」と言っておられます。キリスト教徒は日曜日を無視することはできません。なぜなら、イエズス・キリストが日曜日に復活なさったからです。これはわれわれの基本的な祝日です。トロントに帰宅すると、われわれはロザリオを唱えるために一緒に参加する多くのグループを持っています。これらのグループの50%はフィリピン人のグループです。この時代にはよきキリスト教徒であることは非常に困難です。司教は誰も自分が如何なる種類の問題を抱えているかを知っています。これらの非常に大きな問題は教育、テレビ、新聞、ラジオ、等々を含んでいます。今日の社会はカトリシズムを支持していません。そしてこの極端な時代に、祝せられた御母がわれわれの所に来られるのです。

聖母がウクライナを訪問される

1986年に、われわれが当局によって蹂躙されていると感じたウクライナにおいてそのような一つの状況がありました。彼らはこのために準備していました。諸新聞はそのことを公然と書いていました。チェルノブイリ原子力発電所で爆発がありました。悲観論はこれまでになく大きいものでした。人々は非常に怯えていました。爆発の1年後、祝せられた御母がフルシフに御出現になりました。共産主義者たちの支配の下にいた数百、数千の人々がそこに祈りに来たものでした。このことはモスクワにとっては非常に深刻なことでした。ユダヤ人たち、ロシア人たち、正教会の信徒たち、そしてイスラム教徒たち皆がフルシフにやって来ました。それを信じるために人はそれを見にそこにいなければなりませんでした。それは言葉で既述することが困難です。人はそれを心理的に生きなければなりませんでした。一人の司教が52人のユダヤ人の家族に洗礼を授けていたとき、私は彼らがキリストを受けているのを目撃しました。一日で3,000人のロシア人がカトリック教徒になりました。ここ西側では、ロシア人はしばしば悪い人々であると考えられています。これはそうではありません。ロシア民族は悪い民族ではありません。ロシア民族は打ちのめされ殉教させられてきた民族です。彼らの政府が悪いのです。しかし民族それ自身は神を求めてきました。そしてわれわれがウクライナにおいてそうであったと同じように苦しんできました。私がこのような仕方で話すとき、民族主義者たちはそれを好みません。

モスクワはファチマの聖母を拒否している

1年前ワシントンからソ連へと旅行した一つの特別のグループがワシントンにおいて結成されました。このグループはブッシュ大統領の助手としての、ルター派の牧師、ジョン・シェップによって率いられていました。カトリック教徒たちもまた彼らと一緒に旅行しました。彼らはファチマの聖母を彼らと一緒にモスクワへ連れて行きました。飛行機がモスクワに到着したとき、彼らは誰一人飛行機から出させませんでした。そして搭乗者全員は4時間半待たされました。誰一人機外にでることを許されませんでした。彼らは歓迎されなかったのです。飛行機はそれからワルシャワに戻るように強制されました。西側から金を受け取ることとは一つの事柄ですが、しかしモスクワにファチマの祝せられた御母を受けることはもう一つの事柄です。これらは厳密に霊的な相互作用です。そしてモスクワはそれらを軽くは受け取っていないのです。

今年一つの新しいグループが合衆国とカナダ政府から構成されました。合衆国からのグループはルイジアナのハンナン大司教が同伴しました。彼らもまたファチマの祝せられた御母を一緒に持って行きました。これは1992年 -- ペレストロイカの5年後 -- のことでした。ロシアはすばらしい言葉でいっぱいかも知れません。しかし彼らはそれでもなおファチマの祝せられた御母を受け入れませんでした。聖母はウクライナのキエフに残されました。これはロシアに関して一つの単純な事柄ではありません。われわれは今なお以前の体制の以前の職員たちと共に働いているのです。すなわち、彼らは私の父が働かせている同じ人々であり、そして彼らは皆KGBのために働いていたのです。

ロシアは奉献を受ける準備ができているでしょうか? 国民はそれを望んでいますが、しかし政府は望んでいません。われわれは、ロシア国民がさまざまの勢力によって操作されているということを忘れるべきではありません。5,000人のロシアの将校たちがセルビアで戦うために動かされました。1,200人のイラクの将校が訓練されているウクライナにおいて一つの特別の学校が作られました。ロシア正教会はロシア人ではない司祭たちや司教たちのグループを追放し始めました。何人かは殺されました。

ロシアにおける新異教主義の興隆

新異教主義はロシアにおいて増大しつつあります。今日ロシア軍の70%は新異教徒です。彼らは軍事的転覆を求めています。これは、聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献にとってそれがそのように重要である理由です。新異教主義への回帰は単にキリスト教に対する闘争だけではありません。それはソ連におけるすべてのユダヤ人の全面的な大量虐殺への要求であり、一つの新しい戦争です。22のロシアの新聞がこの大量虐殺を求めています。そして西側の新聞はこのニュースについて沈黙を守っています。われわれキリスト教徒はわれわれの沈黙を通じて罪に加担すべきではありません。イエズス・キリスト御自身は真理であり、そしてだからこそキリストは憎まれたのです。人々はこの問題を非常に軽く受け取っています。しかしながら、われわれはそれをまったく真剣に受け取るべきです。私の短い講演においてすべての主題に触れることはできません。私はただ現在ソ連において起こっているいくつかの基本的な問題を挙げただけです。私が言ったことに直面して、教会はこの戦争が始まることを防ぐ義務を持っています。教会は、もしそれが正しい方向に向けられるならば、一つの大きな力を持っています。

ユーゴスラヴィアにおける平和行進の間に、私はセルビア人たちがイスラム教徒たちを虐殺したイスラムの村々を見ました。モスタルの街から21キロ、65家族の非常に小さなイスラム教徒の村ではすべての建物が破壊されました。そして老いも若きもすべての人々が殺されました。私は彼らが両手を切断されるのを目撃しました。女性たちの胸は切り落とされ、眼はくりぬかれました。これは単にセルビア人とクロアチア人との間の民族戦争ではありません。これはそれ以上に大きな何かあるものです。これは全面的な憎しみの表明です。これはサタンの働きです。人々は神の被造物です。そしてわれわれはサタンが神の被造物を滅ぼそうとしているのを目撃しています。サタンは人々を滅ぼし、二十世紀い非常に野蛮な仕方で彼らを滅ぼしています。ある人々は、私はこのことから非常に遠い所に生きている、なぜ私は心配するのか? と言います。そうではありません、われわれは関わりを持つ者となり、このことについて声を挙げるべきです。われわれはもっと多く祈るべきです。なぜならそうしなければ遅すぎることになるでしょうから。

ユーゴスラヴィアにおける平和行進に引き続いて、モスクワはフルシフにおける似たような平和行進を主催することを私に許可しました。6月26日に私はウクライナに旅行するためにウィーンからチェコスロヴァキアへ旅行しました。26日に私はチェコのKGBによって不法に逮捕されました。私は三日間ブラチスラヴァで投獄されました。そして私はオーストリアへ戻されました。三日間以上私は食物も水も与えられませんでした。私は殴られ、体のあちこちは今なお青あざがあります。一週間後に私は不法に国境を越え、ハンガリーで逮捕されました。ハンガリー人たちは私を逮捕したけれども、彼らは私によい待遇をしてくれました。ハンガリーのKGBの将校たちは私のサインを求めていました。彼らは私に「ヨシプ、われわれはあなたが不法にここにいるので、あなたを送り返さなければならない」と告げました。

8月24日にフルシフで一つの大きな集会がありました。そこでは40,000人の正教徒を含む370,000人のカトリック教徒が参加していました。われわれは行列をしました。これはわれわれの歴史において、正教徒がカトリック教徒と共にこの黙想会のために集まった最初の機会です。

モスクワはバチカンを脅迫することによって奉献を妨げている

会議の間に何度も私は答えることのできない非常にデリケートな話題について質問されました。私は多くの情報を持っています。私はしばしば教皇様に会います。教皇様はしたいと思われることをすべてすることがお出来になりません。なぜなら、モスクワがバチカンに守るように特別の義務を課していたからです。多くの人々はロシアの奉献がまだ起こっていないと不満を漏らしています。われわれはソ連におおよそ2千200万人のカトリック教徒がいること、そして単に1千400万人のウクライナのカトリック教徒だけではないこと、そのことを正教会とモスクワの教会が許容しようとしないことを忘れてはなりません。人々の自由と独立への意識を高めているのはわれわれの教会です。そしてわれわれはソビエト・ブロックにおけるすべてのカトリックの利益、すべてのカトリック教徒の利益を結びつけるべきです。

ウクライナには101万5千人のロシア軍がいます。ウクライナは自分自身の国教を持っていません。あらゆることはモスクワの支配下にあります。ロシアの新聞は「もしあなたたちがより多くの自由を要求するならば、そのときわれわれはもう少し多くの原子力発電所を爆発させるであろう、そうすれば、あなたたちあ死海のようになるであろう」と言っています。われわれは非常にデリケートな状況にいます。それはカトリック教会がソ連全体において置かれているのと同じ状況です。公式的には、彼らはわれわれに祈る権利を与え、諸教会を開きました。しかしわれわれの教会の再建と合法化のための政府の法令はまだ作られていません。

バチカンーモスクワ協定に関して私はラッツィンガー枢機卿、シルヴェストリ枢機卿そしてヴィッレブランズ枢機卿と7時間に及ぶ討議をしました。7時間われわれは話し合い、そしてヴィッレブランズ枢機卿こう言われました:「なぜ東方政策は起こったのか?」と。それは、バチカンが、彼らはロシア正教会の位階を自らの位階のうちに含めることができるだろうと感じたから起こったのです。それが彼らが考えたことです。彼はこうも言いました:「これはわれわれの最大の破滅のもとでした。なぜなら、われわれはそのように考えたからです。」そして今や、すべての古い政策をやり直すことは非常に困難です。

私はカザロリ枢機卿から一通の手紙を受け取りましたが、その中で奉献の話題が議論されていました。多くの司教たちと枢機卿たちそして聖ペトロ広場にいる多くの信徒たちはこの奉献をすることを望んでいます。しかし彼らは適切なタイミングを待っています。これは私的な手紙です。そして私の良心は内容を公表することを許しません。というのは、誰も私にそうする許可を与えなかったからです。しかしながら、私は、これが一つの非常に複雑な問題であると言うことができます。あなたは、モスクワが奉献をしないようにバチカンに大きな圧力をかけているということを思い起こさなければなりません。彼らは、もしバチカンが実際に奉献するならば、そのとき彼らの領土内のカトリック教徒たちを滅ぼすであろうとバチカンに警告しています。これは非常にデリケートな問題です。それは司教たちそして信徒たちにかかっています。

目 次

2005/11/25 三上 茂 試訳

作成日:2005/11/25

最終更新日:2005/12/06

The "Divine Impatience"...Part I - The Urgency of the Fatima Message; Chapter 4: In the Grip of the Godless... へ

マリア様のページへ

トップページへ

inserted by FC2 system