ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅱ部:機会の窓

第3章:聖母を沈黙させる陰謀

Father Paul Leonard Kramer

ファチマの聖母によって要求されたロシアの奉献の問題は一つの非常に単純な問題、それがなされたかなされなかったかについて過去7年間以上なされてきた論争に直面するとき一人の人間がまごつき得るに充分なほど単純です。私はもしすべての人がその問題を非常に注意深く検討するならば、存在し得ない論争であると思います。

それは私がまだ学校に通っていた少年だった時、私の教師たちの一人が馬の口の中の歯の数に関する大論争について、馬の口の中の歯の数が何本であるかを決定する大論争と学問的な講話がどのようであったかについて語った時のことを私に思い起こさせます。

ロシアの奉献の問題は、もちろん、この問題に関して一つの論争を産み出すための何らかの隠された動機があるのでない限りは、馬の口を開けさせそのその歯を数えることと同様に単純です。

ファチマの聖母のメッセージを聴いたほとんどの人は祝せられたおとめが世界に向けて述べられた警告の重大性を十分に理解することができませんでした。余りにもしばしば人々はそれは単純に回心への呼びかけに過ぎない、あるいは彼らが関わる必要のない単なる私的啓示であると考えます。彼らはファチマの聖母が1917年に引き続く6ヶ月、来られたということ、そして聖母が結局は世界に平和を約束なさったということを受け入れます。そして彼らはそこのところでそれから離れます。彼らはファチマのメッセージの核心にあることを忘れます。ファチマ・メッセージの核心は、神が戦争、飢餓、教会の迫害と教皇の迫害によって世界を罰しようとしておられるという秘密の中に含まれています。それが起こらないようにするために聖母はこう言われます:「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるためにやって来ます。もし彼らが私の要求を聞くならば、ロシアは回心し、世界は平和を手にするでしょう。もしそうでないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教するでしょう。教皇は多く苦しむでしょう。そしてさまざまの民族は絶滅させられるでしょう。終わりに私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心しそして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

これは、もちろん、公式に明らかにされた秘密のあの部分の周知のテキストです。この個所でわれらの祝せられた御母は人類が二つの選択肢を持っていると言っておられます。われわれは聖母の要求に従うことができます。その場合にはこれらの悪は妨げられるでしょう。聖母はこう言っておられます:「それが起こらないようにするために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるために来るでしょう。」それゆえに、聖母はもしロシアの奉献がなされるならば、これらの悪は起こらないだろうということを非常に明確にしておられるのです。そしてそのようにわれわれが持っている選択肢はさらなる戦争、飢餓、教会の迫害と教皇の迫害そして世界中に拡がったロシアの諸々の誤謬、それからマリアの汚れなき御心の勝利です。でなければ、われわれは最初になされた奉献を持つことができます。われわれは戦争、飢餓、教会の迫害そして教皇の迫害を避けることができます。

ロシアの奉献は既に適切になされたのだと主張する人々がいます。もしこの主張が正しいならば、そのとき核戦争、化学戦争、生物兵器戦争はもはやわれわれの世代にとって存在しないでしょう。もし彼らの主張が正しいならば、そのときわれわれの世紀にはいかなるこれ以上の飢饉も存在し得ないでしょう。もし彼らの主張することが真であるならば、そのときわれわれの世代にとっては、諸民族全体を抑圧し、豊かな諸民族を貧困へと変え、貧しい諸民族をひどい貧困へと変える強力で強大な金権政治家たち、国際銀行の資本家たちによって支配されることはもはや可能ではないでしょう。もし奉献がなされるならば、そのときこれらの事柄は起こりえないでしょう。

壮大な愚劣さ

この前の2月スペインにおけるブルー・アーミーの出版物から取られた全面広告がマニラ・ブレティン Manila Bulletin に載せられていました。それは、ロシアの奉献がなされた、そしてそれゆえにもはや世界戦争の可能性はない、と告知していました。これ以上に大きな愚劣さを考えることは困難です。神は聖母が言及なさったおぞましいことは起こらないであろうと無条件に約束なさいました。われらの祝せられた御母御自身、これらの事柄はロシアの奉献によって妨げられるでしょうと言われました。しかしわれわれは今日、世界が深淵に向かって進んでいるのを見ることができます。一日一日と世界における状況は悪化しています。そしてにもかかわらず、奉献はすでになされた、そして今日われわれが見ているものはマリアの汚れなき御心の勝利の始まりである、と言っているブルー・アーミーのミラー神父、ブルー・アーミーのルナ司教、かつてのブルー・アーミーのフォックス神父のような人々がいます。われわれは世界の中に、私的および公的生活におけるあらゆる種類の悪徳、あらゆる種類の堕落といったそのような大量の罪を見ています。不正が満ちあふれ、諸民族全体そして人民の諸階級が抑圧されています。もしこれがマリアの汚れなき御心の勝利の始まりであるならば、そのとき私はその栄光の最高潮でのあの勝利が何であるかを考えてぞっとします。

われわれが今日起こっているのを見ているものはおそらくマリアの汚れなき御心の勝利ではあり得ません。その考えは冒涜すれすれです。なぜなら、今日われわれが見ているものは世界における悪の支配だからです。そのような勝利は善に対する悪の勝利でしょう。しかし聖母はまさに希望のメッセージをもってファチマに来られました。それは実際反対のものであるでしょう。

「終わりに、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献されるでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

われわれは今日世界の中に平和を持っていません。平和とは、聖アウグスティヌスによって定義されたように、秩序の静けさです。そして社会秩序が神の永遠の法に従って回復されるときにのみ世界の中に平和はあり得るのです。

悪の帝国

フリーメーソンのセクトは何世紀にもわたって活動してきました。

彼らは1717年に浮上して来て公的となりました。それ以来彼らは絶え間ない戦争と革命を行ってきました。共産主義者たちの言葉を使えば、彼らは、社会秩序を完全に逆さまにし、イエズス・キリストと彼の教会の権威を破壊し、神をその座から下ろし、そして人間を神化するために「考えられ得る限りのあらゆる種類の戦争、政治的、知的、経済的な」全面戦争をしてきました。われわれはこの悪の帝国、アンチキリストの帝国を達成することへ向かっての進歩、運動を見ています。毎日それはますます近づいていると思われます。これはおそらく聖母によって約束された勝利と混同されることはできません。その勝利は信仰の勝利、一つの真の宗教の勝利です。それゆえに、私は思うのですが、その考察一つだけのためでも、われわれは、少なくとも、もしロシアの奉献についての諸事実が吟味されなかったならば、この時点でそれはまだ達成されなかっと疑わなければなりません。

1917年に聖母は、単純に再び来るでしょう、そしてロシアの奉献を求めるでしょう、と言われました。秘密は1917年のためではありませんでした。聖母は何をお求めになるか、それを詳しく説明なさいませんでした。そのことは後になって分かりました。1929年6月13日に聖母はシスター・ルチアに御出現になりました。聖母は、神が今やロシアの奉献をお求めになっていると言われました。そしてここで聖母は神がお望みになっていることが何であるかを厳密に特定されたのです。

聖母がその機会にシスター・ルチアに話された言葉について、シスター・ルチアによって与えられた二つのバージョンがあります。最初のテキストはこうです:「神が教皇に世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心にロシアを奉献することをお求めになる時が来ました。神はこの手段によってロシアを救うことを約束なさっています。」またシスター・ルチアの手によって直接書かれたもう一つのテキストもこう述べています:「神が教皇に私の汚れなき御心に対するロシアの奉献をなし、そして同時に世界のすべての司教たちに、教皇と一致してロシアの奉献をすることを命じることをお求めになる時が来ました。」聖母はそれにこう付け加えられました:「この手段によってロシアは救われるでしょう」と。

奉献は名誉であって、侮辱ではない

先へ進む前に、私はこの奉献がロシアに対する大きな愛徳の行為であろうということを言いたいと思います。ロシアは近時、一つの試練、大きな混乱、飢餓、激動を経験しています。過去には、教皇の何人かの助言者たちはロシアを名指しで奉献しないように勧めました。というのは、彼らはこのことがソビエトの人々によって一つの侮辱、挑発として理解されるであろうと考えたからです。同じ反対は教皇ピオ十二世に対してもなされました。教皇はそれが何らかの挑発であるとは少しも考えませんでした。彼は忠告を単純に無視して、自分自身でロシアの奉献をすることにしました。そしてもちろん、何ら恐るべ結果はありませんでした。ソビエトの人々はそれがある種の侮辱であるとは理解しませんでした。教会に反対する好ましくない影響は何もありませんでした。にもかかわらず、この議論は、教皇がロシアを奉献しないようにその手を縛るために繰り返し用いられてきました。

ごく最近でさえ、ロシアの奉献はもはや必要ではないということが国務省のある高官たちによって再び述べられてきました。彼らは今なおそれがロシアに対する一つの侮辱として理解されると信じています。しかし一方で、事情はまったく正反対です。もしあなたが誰かのために祈るならば、あなたは彼らに一つの親切の行為をしているのです。あなたは彼らを尊敬しているのであり、もしあなたが一つの荘厳な奉献の祈りで彼らをとっておくならば、あなたは彼らをある特別の仕方で尊敬しているのです。ダヴィドが彼の兄弟たちからとっておかれて塗油されたとき、これは確かにダヴィドにとって侮辱ではなかったのです。

にもかかわらず、奉献のこの荘厳な行為がどういうわけかロシアの人々に対する一つの侮辱だと考えられるであろうとある人々によって今なお理解されています。私は健全な精神の持ち主がどのようにしてこのような仕方でそれについて考え得るのか分かりません。

これらの政治的考慮のために、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献についての問題を完全に混乱させ曖昧にしようと努める非常に多くの宣伝が存在してきました。

グルーナー神父はすでにバチカン・モスクワ協定が存在してきた、そして大きな躓きの石であり続けているということに言及しました。この協定の結果としていくつかの実際的な影響がありました。われわれはラッツィンガー枢機卿が解放神学について一つの警告を発せられたとき、当時国務長官であったカザロリ枢機卿がその宣言から公的に距離を置かれたということを思い起こすことができます。教皇御自身はそのような言葉を用いられなかったけれども、共産主義の諸々の悪について話されました。ラッツィンガー枢機卿もそうされたのです。ラッツィンガー枢機卿自身、ロシアの奉献がまだなされていないということを認められました。教皇はわれらの祝せられたおとめがその奉献をなお待っておられるということを公的に認められました。しかし、ローマにおいてさえ、この問題に関しては何らかの分裂がありました。

カザロリ枢機卿は、尋ねられるとき、ロシアの奉献については話しておられません。それにもかかわらず、次のような事実にもかかわらず、それがなされたと言うように人々に対して行使される大きな圧力があるのです:

  1. 教皇は聖母が奉献を今なお待っておられると述べられた、そして

  2. ラッツィンガー枢機卿はそれはまだなされていないとぶっきらぼうに述べられた。

これは奉献についての論争の源です。問題は日の光のように明白であり、馬の口の中を数えることのように単純です。それがわれわれがこれからなそうとしていることです。

ロシアの奉献に関する諸事実

一度ならずファチマ・クルーセイダーにおける私の論考の中で、私はロシアの奉献に対する聖母の要求がまだなされていないということを疑いのどんな影も超えて論証するために諸々の事実を提供しました。バチカン・モスクワ協定を擁護したいと望むあれらの出版物や組織は欺瞞でもって答える以外には応えませんでした。

私が既に提示した最初の事実は、天の元后御自身が次のように言われたときの言葉です:「神が教皇に私の汚れなき御心に対するロシアの奉献をなし、そして同時に世界のすべての司教たちに、教皇と一致してロシアの奉献をすることを命じることをお求めになる時が来ました。」この出来事がまだ起こっていない、すなわち、世界のすべての司教たちがマリアの汚れなき御心にロシアを奉献する儀式を教皇と共に行っていないということは周知のことです。私は、1984年3月25日に、教皇が世界を奉献されたということが世界中で多くの新聞において言及されたということをつけ加えるべきでしょう。いかなるテレビ・ネットワークも、いかなるラジオ・サービスも、いかなる新聞もロシアの奉献を何ら報道しませんでした。

起こったことが世界の奉献であったということは共通の正しい理解です。なぜなら、教皇は、1984年3月25日にも、また1982年になされた彼の以前の世界の奉献においても、何らロシアへの言及をされなかったからです。奉献のこれらの行為の何れにおいても教皇はロシアへのいかなる言及もされませんでした。

考察されるべき第二の事実は1930年にシスター・ルチアがゴンサルヴェス神父に書いたテキストです。彼女はこう書きました:「善き神は、もし教皇が償いとロシアの奉献の荘厳かつ公的な行為をなさり、またカトリック世界のすべての司教たちによってなされるように命令なさるならば、ロシアの迫害を終わらせると約束なさっています。」1930年6月12日の手紙において彼女はこう言っています:「教皇が御自身で償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさり、同じようにカトリック世界のすべての司教に同じことをするように命令なさればいいのにと思います。」

1982年3月21日にシスター・ルチアはリスボン教皇使節ポルタルピ大司教、レイリアの司教およびラセルダ博士の列席しているところで、教皇が償いとロシアの奉献の公的かつ荘厳な行為をなすよう世界の司教たちに命令する日を選ばなければならないと宣言しました。

1983年3月19日の午後、教皇使節ポルタルピ大司教は、教皇が1982年5月13日に行われた世界の奉献に関してシスター・ルチアが言わなければならないことを正確に確定するためにシスター・ルチアと会いました。そこには他の証人たちも列席していました。シスター・ルチアはロシアの奉献は、聖母が要求なさったようにはなされなかったと宣言し、そしてこうつけ加えました:「私はそう言うことができませんでした。というのは、私は聖座の許可を得ていなかったからです。」

それゆえ、あなたがたは、彼女が聖座の許可を必要としていたがゆえに、当時はこの問題に関して公然と話すことができなかったということが分かるでしょう。彼女はこの問題について沈黙する従順の下にいたのです。1984年3月25日の教皇の世界の奉献はロシアをその対象として明確に指摘しておらず、また司教たちは公的かつ荘厳な儀式に参加しませんでした。

シスター・ルチアが1982年に与えた理由は同じように1984年の奉献がなぜ不完全なものであったかを具体的に挙げています。1987年7月20日にシスター・ルチアは後になって公表されたインタビューの中で、エンリコ・ロメロに、ファチマの聖母によって要求されたロシアの奉献はまだなされていないと述べました。

Sol de Fatima の1985年9月号において公表されたあるインタビューにおいて、シスター・ルチアは、教皇が1984年に世界を奉献されたとき、聖母によってなされた要求を果たされたかどうか尋ねられました。シスター・ルチアはこう答えました」「すべての司教たちの参加がありませんでした。そしてロシアの如何なる言及もありませんでした。」インタビューをする人は次に尋ねました:「それでは奉献は聖母によって要求されたようにはなされなかったのですか?」シスター・ルチアは答えました」「ええ、なされませんでした。多くの司教たちはこの行為に何の重要性も与えませんでした。」

最後に、ヨハネ・パウロ二世は1984年3月25日に、世界を奉献した後で、ファチマの聖母に二度、言葉を、聖母が要求なさった奉献が今なおなされるべく残されているという明白な承認を含んだ言葉を向けられました。教皇の言葉はオッセルヴァトーレ・ロマーノにおいて公表されました。そして教皇はこう言われたのです:「あなた、あなた御自身がわれわれの奉献と信頼とを待っておられる人々を特に照らしてください。」

数時間後に教皇は聖ペトロ大聖堂の中で次の言葉で再び聖母に言葉をかけられました:「われわれは信頼と世界の奉献の行為のためにこの日曜日を選ぶことを望みます。それはすべての人々の奉献、特に、あなた、あなた御自身がわれわれの奉献の行為を待っておられる人々の奉献です。」

教皇のこれらの公的な陳述は、教皇御自身が、ファチマの聖母はロシアの奉献がなされることを待っておられるという事実を意識しておられるということを証明しています。

もしロシアが、聖母の要求なさったように奉献されるならば、あれらの悪 -- 戦争、飢餓、教会の迫害そして教皇の迫害 -- は防がれるでしょう。聖母はまた、もし奉献がなされないらば、そのときロシアは全世界にその諸々の誤謬を広め、そしてロシアは戦争と迫害を引き起こすでしょうと述べられました。

赤い仮面

多くの人々はそうだと申し立てられたソ連の解体以来のんきになりました。彼らはロシアがもはや公式的、正式にマルクス主義的ではなく、それゆえに、ロシアはもはや世界平和にとって問題ではないと考えています。われわれはソ連がカール・マルクスの純粋な教説の真の信奉者たちによって建てられたのではないという事実を考慮しなければなりません。それはソビエト革命の真の目的を隠すための一つの仮面でした。

十月革命はフリーメーソンの革命です。レーニンとトロツキーは両名とも第33階級のフリーメーソンでした。共産主義は政治的理論家たちによって産み出されたのではなく、フリーメーソンのセクト主義者たちによって産み出されました。彼らの目的は、最初にキリスト教的君主体制を転覆し、国際的な境界を廃止し、そして神なき一つの世界共和国を建設することによってキリスト教宗教を撲滅することでした。

共産主義は単なる一つの社会革命ではありません。それは、すべての政府、財産、そして宗教を廃止し、古い秩序の廃墟の上に新しい神なき秩序を建設するためのフリーメーソンの言明された目的を実行することです。

カール・マルクスの諸著作を注意深く研究し、そして彼自身、共産主義者たちの監獄収容所において恐ろしい拷問を受けたリチャード・ヴルムブラントはその著書カール・マルクスは悪魔主義者であったか? においてこう書きました:「共産主義の究極的な目標は別の社会的あるいは経済的な体制を確立することではない。それは神を嘲り、サタンを称賛することである。」

ロシアはもやは公式的には共産主義的ではないのだから、われわれはロシアが今なおフリー・メーソンの指導者たちの支配下にあるということを忘れてはなりません。彼らは彼らが今していることについての記述を変えたかも知れません。彼らは殻を変えたかも知れません。しかし実体は残っています。

ファチマ・クルーセイダーにおいて、ヨシプ・テレリャは、ロシアは今なお深くフリー・メーソンに支配されていると言っています。本質的なことは何一つ実際に変わりませんでした。フリー・メーソンの計画は過去200年間公然と遂行されてきました。フリー・メーソンの長老たちは1776年5月1日にイルミナーティ教団と呼ばれる一つのフリー・メーソンのセクトを確立するようアダム・ヴァイスハウプトに委任しました。そのセクトは宗教、財産そして政府を廃絶するための彼らの計画に従って行動しました。その教団とその悪魔的な計画は1785年にバイエルンの政府によって気づかれました。そしてイルミナーティは解散させられ、「正しい人々の連盟」という名の下に再編成されました。ヴァイスハウプトは1830年に亡くなりました。しかし教団は生き残りました。後に彼らは彼らの名前を共産主義者たちの連盟に変えました。そして彼らは共産党宣言と呼ばれる文書を委任しました。結局彼らは自らを共産党と呼びました。カール・マルクスは彼らの公式の理論家となりました。そしてわれわれが共産主義の真の目的が暴露されているのを見出すのはマルクスの諸著作においてなのです。

あなたがたが共産主義の計画と目的がフリー・メーソンの計画とまったく等しい、そしてまた国際シオニズムの計画ともまったく等しいということを考察するとき、それは非常に興味深いことです。これらの組織を深く検討すればするほど、それらの組織がまったく同一の計画そしてまったく同一の目的を持っていることがますますはっきりします。そしてそれらはすべて悪魔的です。

悪魔の詩人

絶望している者の祈願と題された一つの詩の中でカール・マルクスはこう書きました:「私は上で支配している者に復讐したい。神は呪いと運命の岩のうちに、私から私のすべてを強奪した。私には復讐以外に何も残されていない。」祈りと呼ばれるもう一つの詩の中で、マルクスはこう言っています:「地獄の蒸気が立ち上り、私が狂気になるまで私の脳を満たす。そして私の心はまったく変えられる。この剣を見よ、暗闇の王子がそれを私に売ったのだ。」

祈願という別の詩のなかでマルクスは、われわれがイザヤ書において:「私は天にまで昇るであろう。私は神の星々の上に私の王冠を高く挙げるであろう」と読むのとちょうど同じように、ルシフェルの言葉をおのれのものとしています。祈願においてマルクスはこう言っています:「私は頭上高くに私の王座を建てるであろう。その頂きは冷たく、恐るべきものであろう。その防備のためには迷信的な恐怖、その儀式係のためには真っ黒の苦悶。」

われわれは既にこれらの詩的な言葉を通して彼の計画を見ることができます。もちろん、迷信的な恐怖とは秘密結社の悪魔的な儀式ですし、そして真っ黒な苦悶によって、彼が意味しているのは、すべての宗教的、市民的および人間的諸権利を滅ぼすであろう残酷な専制です。それは全体的な専制でしょう。もちろん神は上に引用したイザヤの詩句の中でルシフェルにお答えになりました:「おお、ルシフェルよ、おまえは天からどのように落ちることか、おまえは地獄の穴の深みに投げ落とされるであろう。」

同じように、カール・マルクスは彼の運命が同じであることを認めていました。Oulanemという非常に奇妙な名を持つ詩の中で、マルクスはこう書いています:「破滅した、破滅した、私の時はまったく消え去った。間もなく私は私の胸に永遠を抱くであろう。そして間もなく私は人類に巨大な呪いを投げかけるであろう。」同じ詩の中でマルクスはこう書いています:「ああ、永遠、それはわれわれの永遠の悲しみである。」そして「言葉で言い表せない、そして測ることができない死、われわれ自身は盲目的に機械的な時計仕掛け、偶然に起こり、破滅させられる以外に何の目的も持たない、それゆえ、破壊すべき何かがあるだろう。」

マルクスは、他の悪魔主義者たちと同じように、語順転倒を用いることを好んでいました。そしてこのようにして Oulanem という奇妙な名前があるのです。それはイザヤによってイエズス・キリストに与えられた予言的な名前 -- Emmanuel -- の語順転倒です。あなたはそれを逆方向に綴ります。それから音節を逆転します。そしてそれからそれを逆方向に綴ります。そうすると、Emmanuel を Oulanem へと変えたことになります。それは Emmanuel の3度の逆転です。

青ざめたおとめと呼ばれる別の詩の中でマルクスはこう言っています:「このように天国を私は剥奪された。私はそれを熟知している。かつて神に忠実であった私の魂は地獄のために選ばれている。」

これらの詩においてマルクスは彼の生涯の仕事の真の目的を述べています:「間もなく私は人類に巨大な呪いを投げかけるであろう。もし貪り食う何かあるものがそこにあるならば、私はその内部に飛び込むであろう。私は世界を破滅へと導くけれども、私と深淵との間で塊になっている世界を、私は恒久的な呪いでもってばらばらに粉砕するであろう。私は両腕をその残酷な現実の周りに投げるであろう。私を抱きながら、世界は無言で過ぎ去り、次にまったくの無へと沈んで行くであろう、ぼろぼろになって。」

これらがカール・マルクスの言葉です。そしてあなたがたはリチャード・ヴルムブラントの著書カール・マルクスは悪魔主義者であったか? においてマルクスのオリジナルのテキストへのすべての参照を見出すことができます。

マルクスと彼の仲間たちが神に反対する者である一方で、彼らがそうであると公然と偽っていたようには無神論者ではなかったと強調して述べることは不可欠のことである、とリチャード・ヴルムブラントは指摘しています。彼らは彼らが信じていた神を憎んだのです。マルクスの哲学は真理の意図的な転倒です。諸々の転倒がマルクスの全思考様式にそのように行き渡っていたので、彼はそれらをあらゆる箇所で使用したのだ、とヴルムブラントは言っています。マルクスはプルードンの書物窮乏の哲学哲学の窮乏という表題の別の書物でもって答えています。彼はまたこう書きました:「われわれは批判の武器の代わりに武器の批判を用いなければならない。」換言すれば、非常に明瞭に、別の機会にマルクスは彼らの目的は歴史を説明することではなくて、歴史を変えることであると言いました。それゆえに、真理は武器によって建てられるのです。もし誰かがあなたに同意しないならば、あなたは彼らを撃ち殺し、そして彼らはいなくなります。それが「武器の批判」なのです。

従って、マルクスの教説は「人間は人間にとって至高の存在である」と教え、そしてこれは彼の著書ヘーゲル法哲学批判 Zur Kritik der Hegelischen Rechtsphilosophie からの直接の引用ですけれども、彼は人民の幻想的な幸福としての抑圧は真の幸福の前提条件であると言っています。それゆえ、一方においてカール・マルクスは人類を解放するためにわれわれは宗教によって約束された幻想的な幸福から脱しなければならないと言っています。しかし実際には、彼の諸々の詩の中でマルクスは人類と全世界の永遠の破滅と破壊である彼の真の目的を述べているのです。

マルクスの共産主義についての教説に従えば、社会主義革命の究極的な目的は宗教を抑圧することによって人間を解放することです。彼が述べたように、「天の批判は地の批判へと変形される。神学の批判は政治の批判へと変形される。このように宗教に対する闘争は間接的に宗教がその霊的な芳香であるところの世界に対する闘争なのです。

このことは、神はマルクスにとって一つの幻想であるからして、人間は人間にとって至高の存在でなければならないということを意味しています。キリスト教文明は地の面から宗教を廃止し根絶するために転覆され滅ぼされなければならないのです。このように、われわれは、共産主義者の計画がその表明された目的が諸々の政府と祭壇とを滅ぼすことであるフリー・メーソンの計画と同じものであるということを見るのです。

共産主義者の運動は実際はフリー・メーソンの革命のカモフラージュ版です。それは世界に自らをプロレタリアートの階級闘争として提示していますが、しかし殻の下には宗教を廃し、神を侮辱し、サタンを崇拝するフリー・メーソンの同じ計画以外には何もないのです。

天の応答

レーニンは宗教に対する世界革命の司令部としてのロシアを設立しました。しかし神はロシア民族を一つの聖なる目的のために選ばれました。これが、ファチマの聖母が、教皇と司教たちはマリアの汚れなき御心にロシアを奉献しなければならないということを明らかになさった理由です。この奉献はロシアが神の与え給うたその使命において荘厳に建てられるであろう唯一の仕方です。それはレーニンが計画したものとは完全に反対のものである一つの使命です。

ロシアは恐るべき状態にあり、そして事態は確実に悪化するでしょう。しかしわれらの祝せられた御母は、神がファチマで要求された共同的奉献によってロシアを救うと約束なさっていると言っておられます。聖母御自身が言われたように、「神はこの手段によってロシアを救うことを約束なさっています。」ファチマにおいて神の御母はロシアの回心と世界平和を手にするために何がなされなければならないかを明らかになさいました。聖母は他の箇所でロシアの同じ問題について語られました。ラッツィンガー枢機卿が話されたように、「ファチマの秘密は他の諸々のマリア御出現において明らかにされたことに一致している」のです。ヨシプ・テレリャ自身、ウクライナのフルシフに聖母が御出現になったとき、祝せられたおとめを見ました。ここに聖母が彼に言われたことの一部分があります。「人類は悔い改める前にどれほどの警告を与えられることになるのでしょうか? しかし、世界はその自己意志と快楽主義のうちにとどまり続けています。抑圧と戦争は人々の決して終わることのない優先事項です。ロシアは私の息子を認めることを拒否し続けています。ロシアは真の愛徳を拒絶し、その悪魔的な生活を送っています。私は別の機会に失われたロシアの人々のために祈りを求めなかったでしょうか?」ここで私は「はい、そうです」とつけ加えることができます。聖母はまさにそのことをファチマでお求めになりました。彼女はこう続けられました:「もしロシアが王たるキリストを受け入れないならば、全世界は破滅に直面します。アンチキリストは権力を持っており、そして永遠なる御者の意志に反対します。アンチキリストは妬みと紛争を撒き散らしています。」

われわれはシスター・ルチアがさまざまの機会に、秘密についてどのように質問されたかを思い起こすことができます。彼女がその内容を厳密に明らかにすることが出来なくなって以来、彼女は単純にこう言いました:「それは聖書の中にあります。それは黙示録の中にあります。」そして彼女は第8章から第13章を選びました。われわれがそれらの章のうちに読むものは、アンチキリストの世界的な悪の帝国の確立:世界の中にサタンの王国を確立し、人類の礼拝の対象としての神を取り除き、その可視的な代理者、アンチキリストを通じて神の場所にサタンを置くための政治的、経済的、軍事的、そして宗教的な専制主義の確立です。

ラッツィンガー枢機卿はファチマの啓示が多くの以前の聖母の御出現に一致すると述べられました。実際、それは諸聖人によって何世紀にもわたって予告されてきたことに一致しています。

385年A.D. に亡くなった聖メトディウスはこう言われました:「キリストの敵どもが、われわれは地とそのすべての住人を支配した、そしてキリスト教徒はわれわれの手から逃れることはできない、と誇る時が来るであろう。」1658年に亡くなった尊者バルトロメオ・ホルツハウザーはその黙示録注解の中でこう書きました:「あらゆるものが戦争によって破壊されたとき、カトリック教徒が反逆的な同宗教信徒や異端者たちによってひどく圧迫されるとき、教会とそのしもべたちが彼らの諸々の権利を否定され、君主制が廃止され、それらの支配者たちが殺されるとき、そのとき全能なる御者の御手は一つの驚くべき変化を働かれるであろう。」それは人間的な理解力に従えば明らかに不可能な何かある事柄です。

1833年に亡くなられたジョージ・マイケル・ヴィットマン司教の預言は重大です:「私は禍いなるかな、イエズス・キリストの聖なる教会にとって悲しい日々が近づいている。イエズス・キリストの御受難は教会において、そして教会の至高の頭において最も悲しみに満ちた仕方で繰り返されるであろう。世界のあらゆる個所で戦争や革命が起こり、多くの血が流されるであろう。難儀、大惨事そして貧困があらゆるところで大きいであろう。なぜなら、悪疫を発生させる諸々の病気、物資の欠乏そして他の諸々の不幸が次から次へと続くであろうから。暴力的な手がカトリック教会の至高の頭の上に置かれるであろう。司教たちや司祭たちは迫害されるであろう。そして分裂が引き起こされ、混乱があらゆる階級の間を支配するであろう。時は非常に著しく悪化し、あたかもキリストと、キリストがその御血をもって建てられたその教会の敵どもが教会をまさに支配しようとするかのように思われるであろう。諸々の秘密結社が大きな荒廃をもたらし、驚くべき軍事力を行使し、そしてそのことによって多くの人々は盲目とされ、最も恐ろしい諸々の誤謬で汚染されるであろう。しかしながら、このすべてのことは何の役にもたたないであろう。それらはその上にキリストがその教会を建てられた岩を揺り動かすことはできないのである。」

1837年に亡くなった福者アンナ・マリア・タイギはこう言いました:「神は二つの罰をお定めになるでしょう。一つは戦争、革命そして他の諸々の悪の形式においてであり、他は天から送られるでしょう。三日三晩続く強い暗黒が全地を覆うでしょう。何も見えないでしょう。そして空気は悪疫を含んでいるでしょう。それは宗教の敵どもを主として襲いますが、しかしそれらの人々ばかりを襲うわけではありません。」

われわれがまた見るこの種の事柄は旧約聖書において予告されています。「太陽はその光を失うであろう。」そしてこのことはまた非常に黙示録的な書である預言者ヨエルの書にも一致しているように思われます。聖母がファチマでなさった警告は、これらの事柄が後の時代に起こると予告した聖人たちの預言とは違って、これらの事柄が今やまさに起ころうとしている、ということを示しています。そして聖母はわれわれに一つの救済策を、すなわち、これらの事柄がわれわれの世代において起こることを防ぐために働くであろう唯一の救済策を、用意されました。

1945年、第二次世界大戦が終わってわずか数ヶ月後に、多くの人々が苦難はしばらくの間過ぎ去るであろうと考えたとき、教皇ピオ十二世は枢機卿たちに対する彼のクリスマス・メッセージの中でこう述べられました:「世界は一つのぞっとするような深淵の縁に立っています。人々は人類がこれまで決して見たことがないような苦しみのために準備しなければなりません。」

1984年11月11日に、ラッツィンガー枢機卿はそのインタビューの中で、第三の秘密の中に含まれている事柄は聖書において告知され、そして多くのマリア御出現において再三再四言われてきたことに一致している、と述べられました。私は教会によって正式に認可されたそれらの御出現の一つを引用したいと思います。

エクアドル、キトという都市においてこの御出現の記念に一つの教会が建てられました。それは「幸運の聖母」と呼ばれています。1634年2月2日に神の御母がマザー・マリアンナ・デ・ヘスス・トッレスに御出現になりました。「十九世紀の終わりに、そして二十世紀の大部分の間、さまざまの異端がこの地上に栄えるでしょう。信仰の貴重な光がほとんど全体的な道徳的堕落のゆえに諸々の霊魂の中で消え失せるでしょう。これらの時代には私的にも公的にも、大きな物理的および道徳的な災厄があるでしょう。信仰を保ち諸徳を実践する少数の霊魂たちは残酷で言葉に表せない苦しみを経験するでしょう。彼らの抜き出された殉教を通じて彼らの多くは彼らの苦しみの暴力のために死ぬでしょう。そして教会のため、あるいは国のために彼らの生命を与える人々は殉教者として数えられるでしょう。これらの異端によって奴隷化されることから逃れるためには、意志の大きな力、志操堅固、勇気そして神に対する大きな信頼を要求されるでしょう。これらすべては神である私の御子が回復の仕事のために選ばれた人々に対する御子の憐れみ深き愛からの賜物です。すべてのことが失われ、麻痺させられたと思われる時が来るでしょう。そしてちょうどそのとき、完全な回復の始まりが来ます。すべての社会階級の統制を獲得した後に、諸々のセクトが大きな技能を使って家族の中心へと侵入し子どもたちをさえ滅ぼすでしょう。幼年時代の無邪気さがほとんど消え去るでしょう。このようにして司祭職が失われるでしょう。それは真の災厄でしょう。司祭たちは彼らの諸々の義務を放棄し、そして彼らのために神によってしるしづけられた道から離れるでしょう。そのとき、教会は、愛、親切、強さ、そして思慮をもって見守る一人の高位聖職者たる父を欠くために暗い夜を経験するでしょう。そして多くの司祭たちは、このようにして彼らの霊魂を大きな危険のうちに置いて神の精神を失うでしょう。教会の自由の輝かしい曙を遮るこれらの黒雲を散らすために司祭たちと修道者たちの血がその中で流れるであろう一つの恐るべき戦争があるでしょう。その夜は非常に恐ろしいので、邪悪さが勝利を収めたと思われるでしょう。それから、私の時が来るでしょう。驚くべき仕方で私はサタンを私の足の下に投げ、地獄の深みに彼を鎖で縛り上げ、最後にサタンの残酷な専制から教会と国とを解放して、サタンのプライドを滅ぼすでしょう。」

1189年に亡くなったビンガムの聖ヒルデガルドはこう書きました:「人々は教皇の権威を拒否するでしょう。個々の国々は彼ら自身の教会の支配者たちを教皇よりも優先するでしょう。」

尊者ホルツハウザーが言われたように:「カトリック教徒は裏切り者たち、同宗教主義者たち、そして異端者たちによってひどく圧迫されるでしょう。」ここにわれわれは教会における分裂が予告されているのを見ます。聖ヒルデガルドは、これらの事柄は起こるでしょう、そしてこれらのことが起こるときにそれを警告するしるしを与える、と言われました。彼女は、ドイツが分割された後に、と言われました。そして、もちろん、ドイツは第二次世界大戦後に分割されました。

われわれは一つの深刻な危機が内部から教会を呑み込み麻痺させているのを見てきました。カトリック世界の最も尊敬された学者たちの一人であるコルネリオ・ファブロ神父は彼の著書の中で、こう指摘しました:「教会は現在その歴史においてかつて直面した最も重大な危機を経験している」と。

教皇パウロ六世御自身、教会がそれ自身の自己解体を経験していると思われるという事実を嘆かれました。

フリーメーソンは世界中に一つの悪魔的な宗教をもった一つの新しい世界秩序を建設するためにカトリック宗教を滅ぼすことを望んでいます。これはアンチキリストの世界的な支配の基礎でしょう。ファチマの聖母は彼女だけがわれわれを助けることができると仰っています。これらは聖母の言葉です。

政治的および軍事的な手段は不十分でしょう。われらの主が仰ったように、「剣を使う者は剣によって死ぬであろう。」聖書の黙示録にはこう書かれています:「アンチキリストの邪悪な帝国が制覇されるのは信仰と諸聖人の忍耐によって、そして神への従順によってであろう。」ファチマで聖母はこのことはマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献において実現されるでしょうと指摘なさいました。聖母だけがわれわれを助けることがお出来になるのです。

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2005/12/04 三上 茂 試訳

作成日:2005/12/04

最終更新日:2005/12/04

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