ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅱ部:機会の窓

第4章:預言的原理と司祭的伝統

Father Paul Trinchard

預言は人間に対する神の矯正の言葉です。われわれは預言的原理と司祭的伝統を持っています。司祭的伝統は神がお与えになるものを守ることと考えられています。預言的原理は現在の状況を正し、そして適応させ、よくします。ファチマ・メッセージは神からの一つの絶対的に従われるべき預言なのでしょうか、それともそれは何か随意的なものなのでしょうか? それが、常にわれわれの精神のうちになければならない問いです。

真の預言のための三つの規準

まず第一に預言的なメッセージの基準はそれがわれわれのために神からのものであると主張されなければならないということです。神が旧約聖書において言われたように、偽りの預言者たちが彼ら自身の名において語るとき、彼らは神の名において語りませんでした。神は彼らを拒絶すると言われました。第二に、預言は証明されなければなりません。それは科学のようなものです。あなたは、あなたが神から話しているということを証明しなければなりません。旧約聖書においては、もし一人の「預言者」がある短期間の予告をし、そしてそれが的中しないならば、彼は連れ出され、石打ちの刑で殺されなければなりません。第三の基準は、それが神の啓示のすべてに一致しなければならないということです。それは聖書そしてカトリック教会がその中核とその本質的教えにおいて教えるすべてのことに一致しなければなりません。

カトリックの聖書後の預言は聖書に明るい光を当てるものでなければなりませんし、また明るい光を当てるものです。というのは、教会の教説は聖書から来るからです。預言の真正性を判断する聖書的な基準はすべての現代の御出現に適用されなければならないということになります。ファチマでは、1917年に7万人の人々が10月13日に予告された通りに、奇蹟を見ました。それとは対照的に、メジュゴリエにおいては、ザニッチ司教はこう言われました:「われわれは何年にもわたって待ってきた。いかなるしるしもいかなる証明もない。」メジュゴリエに対するザニッチ司教の基準はまったく聖書的です。彼はあなたが一つの証明を持たなければならないということを知っておられます。それは公的な証明でなければなりません。それは真正の預言のための基準の一つです。そしてファチマはその証明を豊富に持っています。われらの祝せられたおとめマリアは当時[まだ登位して]おられなかった教皇、ピオ十一世教皇の下での一つの戦争を予告なさいました。聖母はヨーロッパで空に輝く光を予告なさいました。それが1938年1月25日に起こったとき、この光は3時間続きました。

奉献と償い

私が教会で行った最後の説教は、司祭が外出していました。彼が戻ったとき、彼は私が純粋なファチマ・メッセージを説教したがゆえに私の諸々の権限は取り去られるべきであると要求しました。基本的なメッセージは今なお同じままです。すなわち、奉献と償いです。これらは一つの私的な次元を持っています。究極的に奉献はわれわれ諸々の個人のためです。償いもまた主としてそして究極的には諸個人のためです。にもかかわらずそれはまた一つの教会的な次元をも持っています。グルーナー神父は教会的なそして預言的な次元を強調しておられます。しかしながら、私の焦点はたいていは償いに置かれています。

すべての断片はファチマの第三の啓示が公表されるときに、それぞれの場所にあるでしょう。それは第三の啓示です。私はそれを秘密と呼ぶことを拒否しています。なぜなら、祝せられたおとめマリアはゲームをしておられるのではないからです。聖母は「私は一つの秘密を手に入れました、それが何であるか見つけなさい」とは仰いません。聖母は遅くとも1960年までに人々にそれは明らかにされるべきですと言われました。それを明らかにしないことにおいて悪いのは誰であるかは明白です。人間としての教皇と彼の公式の権限における教皇とを区別することは今日われわれの信仰の一つの試験です。

それゆえ、奉献と償いというこれら二つの要因に注目しましょう。聖母は十分な数の人々が奉献の生活を送るとき、そのとき教皇がロシアを奉献し、償いの日、償いの季節を宣言する(そして遂行する)ようにという神の教会的な命令に従うことへと圧倒的な仕方で恵まれるでしょうと約束しておられます。教皇がひとたびこのことをされるならば、われわれはもはやファチマの呪いと呼ばれ得るであろうものの下に生きることはないでしょう。われわれはファチマの祝福の下に生きるでしょう。われわれは一つの新しい時代精神 Zeitgeist、一つの新しい霊的雰囲気を持つでしょう。それはわれわれにかかっています。もし十分な数のわれわれが奉献された生活を送るならば、そのとき教皇は恵みを受けられるでしょう。なぜ個人的な奉献なのでしょうか? それは、リベラルな教会がどれほど多く「共同体」について話すとしても、それでもなおわれわれが諸々の個人であるからです。もし私が地獄へ行き、そしてあなたが天国へ行くならば、あなたの天国は私が地獄にいることによって減らされることはありません。われわれはそれでもなお諸個人なのです。奉献の第一のそして主要な目的はわれわれの霊魂を地獄から救うこと、そしてその次に他の人々の霊魂を地獄から救うことです。それが、シスター・ルチアが言ったことです。彼女は、自分の使命は世界に、もし世界が祈らず、前もって痛悔をしないならば、確かに来るはずの罰を示すことではない、と言いました。彼女は、自分の使命はすべての人に、全永遠にわたってわれわれの霊魂を失おうとしている差し迫った危険を示すことですと言っています。このことを思い起こすことはよいことです。あなたの行動あるいは行動の欠如のゆえに、私の行動あるいは行動の欠如のゆえに、霊魂たちは永遠に地獄に、あるいは永遠に天国にいるでしょう。

われわれの生活のそれぞれの無限の、そして永遠の重要性を持っています。それゆえ、われわれは他の人々を地獄から救うために奉献します。聖パウロはこう書いています:「教会であるキリストの身体のために、私の肉において、キリストの苦しみの欠けているところを満たせ...」(コロサイ 1:24)。

奉献の定義

奉献とは何でしょうか? 教会内部の(最高の地位においてさえ)リベラルな運動は「奉献」という言葉を、単に「委託」を意味するものにまで平凡なものとし、けなします。これは受動的です。真実のところは、奉献は積極的です。それは犠牲を献げること、キリストと共に死ぬこと、われわれが西欧において今日礼拝している神々に死ぬことを意味します。世間が気にかけているすべては「他の人々の意見」です。アメリカのリベラルな教会においては、彼らが気にかけているすべては他の人々がどう考えるかということです。それが、私が天主の第一戒を決して忘れるなと言う理由です。グルーナー神父は第一戒がまず何よりも彼の生活の中にあるそのような仕方で生活しています。そしてファチマ・メッセージと係り合いになっている多くの人々もそのように生活しています。奉献は何よりもまずキリストと共に死ぬこと、世間の肉に死ぬことを意味します。死ぬことです。死ぬことです。にもかかわらず、われわれはそれから逃れようと努めます。われわれがそれを逃れようと努める一つの方法は[ロザリオの]15連の中において「[キリストの]御復活」へと移入することによってです。これは適切ではありません。われわれは今、「十字架につけられ給う[キリスト]のところにいます。われわれは第15玄義にはいません。今われわれはここでキリストと共に死ななければなりません。聖書につけ加えるあなたに禍いあれ、地獄の苦痛があなたに加えられるでしょう。聖書から取り去るあなたに禍いあれ、あなたは生命の書から取り去られるでしょう。それが聖書が終わる仕方です。奉献は委託以上のものです。それはキリストと共に死ぬことです。

そこで疑問が起こります、なぜマリアの汚れなき御心に奉献するのか? と。それは一部は、歴史的に言って、人類が聖心を拒絶したからです。神は今われわれに御自分の祝せられた御母を人類のために提供なさいました。最後の二つの信心は汚れなき御心の奉献と聖なるロザリオであろうと言われてきました。

われわれは、マリアへ奉献するとき、キリストへ奉献するのです。これは、われらの祝せられたおとめマリアが神に対してまったく透明であられるからです。われわれは皆、神が愛であり、そして神の愛が無限であるということを知っています。神はあなたや私と共に御自分の愛を働かせることがお出来になりません。なぜなら、たとえわれわれが「われわれ罪人たちのために祈り給え」と祈るとしても、われわれはそのことを本気で言っていないからです。それが、神がわれわれのうちに明らかにされ得ない理由です。しかし祝せられたおとめマリアにおいては、神は御自分の愛を妨害する何物をも持っておられません、何一つ持っておられないのです。聖母は神に対してまったく受容的です。まったく留保がありません。人はこう言ってもよいでしょう、聖母は神に対して「神的に」女性的である、と。

リベラル派の人々は新しい用語を発明します。それで私も新しい用語を発明します。なぜですか? それはわれわれを少しばかり揺り動かします。あなたが一つの新しい言葉を発明するとき、それは、その用語が表現している基礎的な真理について少しばかり多くわれわれに考えさせます。私はカトリックの教えにおける何物をも否定していません。私はただわれわれを助けるために少し異なった表現法を提出しています。リベラル派の人々はわれわれを傷つけるためにそうします。私は助けるためにそうします。

ギリシャ語では、それはこう言います:「めでたしマリア、恵みの水路」と。ギリシャ語をちょっとたずねてください、それは一つの著しく目立つ水路、すべての恵みの唯一の水路です。マリアは神に対してそのように受容的であられるので、真の愛は完全に彼女において満たされるのです。それがマリアの本質です。それがマリアが -- ファチマを準備するために -- ルルドへ来られた理由です。「私は汚れなき御宿りです」とマリアはルルドで言われました。それはマリアの存在証明です。偉大なフルトン・シーンが言ったように「われわれは汚れなき御宿りの祝日を祝ったものでした。今、神学者たちはわれわれが皆汚れなく宿されているとわれわれに告げています」。何という悪魔的な高慢でしょう!

神の奴隷を御覧なさい、神のはしためを御覧なさい。まったくみじめな神の奴隷を御覧なさい。その方は神に対して「神的に」女性的であることにおいてと同様にまったく受容的であり、まったく女性的であられます。はしためが何であるかを誰が知っているでしょうか? 私は過去20年間にはしために会ったことがありません。それゆえ、聖母はそこで始められます:「見よ、神のはしためを...」、完全な奴隷、完全に「神的に」女性的な方を。聖書において、カナの結婚式の間に、聖母はこう言われました:「イエズスがあなたにしなさいと言われることをしなさい」、そしてそこにわれわれは「神的に」女性的なもの、そしてわれわれが「神的に」男性的であると呼んでもよいであろうものを見ます。換言すれば、ひとたびわれわれが神に対してすっかり開かれるならば、そのときわれわれは神がわれわれにするようにお望みになることをするべきです。われわれは祈ります。それからわれわれは、言ってみれば「実験室」の中へ入って行きます。そしてわれわれがそれについて祈ったことを遂行します。われわれは神がわれわれにするようにお望みになるとおりにします。それが、祝せられたおとめマリアに対する信心が意味していることです。マリアは「神的に」女性的であり、そして全能なる神にまったく開かれておられます。

キリストは救いの源泉です。祝せられたおとめマリアはそれを通じて源泉がわれわれに来る泉です。マリアは水路です。ファチマ・メッセージは、神が両方の御心が相互に並んでいること、人間の注目の焦点であることを望んでおられると言っています。すなわち、[キリストの]聖心とマリアの御心です。救いはマリアを通してキリストから来ます。このことに反対するどのプロテスタントに対しても、ただコロサイ書 1:24 を指摘しなさい:私は「キリストの苦しみの欠けたるところを、御体なる教会のためにわが肉体において補う」のです。それは、ひとたびあなたがその正しい意味をつかまえるならば、それについて熟考すべき美しい句です。

現代において祝せられたおとめに奉献するもう一つの理由はマリアの残りの者の一部であることです。黙示録の第8章から第13章は第三の啓示が関わっているものです。第12章を見てください。それはマリアの残りの者を記述しています。彼らは子羊の血によって打ち勝ちました。彼らの証言によって彼らは神の十戒に従います。彼らはキリストの証言を持っています。彼らはそれにしがみついています。簡潔に言えば、それが第12章が含んでいるものです。それはこの終わりの時代における祝せられたおとめマリアの残りの者を記述しています。換言すれば、われわれは真理に、ローマ・カトリック教会における真理の十全さに、まったく捧げられているのであり、それを通じてわれわれは打ち勝つでしょう。

位階の諸々の権利と責任

アメリカには「私は私の諸々の権利を持っている」という言い習わしがあります。「諸々の権利」を持つことはまた「諸々の責任」を持つことをも意味するということはほとんど指摘されません。ある人あるいはある物を神に奉献することはその人あるいはそれらの人々が、神が彼らに対して至高の支配権を持っておられるということを認めて、神の所有として神に捧げることです。教皇と司教たちはどのようにロシアとロシアの人々とを神に奉献することができるでしょうか? この奉献はただ、人々の霊魂の永遠の救いに対して責任を負っている者たちによってのみなされ得ます。だれが責任を負っているでしょうか? カトリック教会です。そしてただカトリック教会だけです。「教会の外にはいかなる救いもない」のです。ファチマのメッセージはまったくカトリック的です。誰が責任を負っているのでしょうか? あなたがた、教皇、そして司教たちが責任を負っています。カトリックの位階の諸々の責任のゆえに、彼らは奉献を行う権利を持っている人々です。

ロシア正教の司教たちは正しい秘蹟の体系を持っているかもしれませんが、しかし彼らは異端のうちにあります。彼らは汚れなき御宿りを信じません。それが聖母が「ロシアをマリアの汚れなき御心に奉献しなさい」と言われる理由です。ロシア正教はそれをすることができないでしょう。彼らは彼らの宗教を断念してカトリックにならなければならないでしょう。あなたがた司教様方、そして教皇様は彼らの救いに対して責任を負っておられます。それゆえに、あなた方は彼らを奉献することができるのです。私の母は100%のドイツ人でした。彼女は私を奉献しました。彼女はこう言いました:「神様は私に一人の男の子を授けられます、そして私は彼を育て、彼が成長したときにあなたに彼を与えるるつもりです。」彼女はこうする権利を持っていたのでしょうか? 誰が一人のドイツ人を止めようとするでしょうか? あなた方は司教として権利を持っておられます。教皇として、彼は権利を持っておられます。あなたがそれを好もうと好むまいと、それがあなたの役割です。

奉献し、それから諸結果を見守ってください

私は元イエズス会員です。私は多くのイグナチオの黙想を行いました。イグナチオは常にあなたを黙想における一つの決心へと導きます。それゆえ、イグナチオの黙想の精神において、私は今は決心の時であると提案します。あなたがたは、司教として、あなたの国をマリアの汚れなき御心に奉献することができます。それから、坐って諸々の結果を見守ってください。あなたがたは驚かれるでしょう。もしあなたがたがこのことをあなたがたの国の内部ですることがお出来になるならば、おそらく火がつくでしょう。おそらくそれは上層部へと進み、そして教皇がそれをなされるでしょう。あなたはあなたが住んでおられる国の霊魂たちに対して責任を負っておられないでしょうか? それとも、あなたは丘の上に坐して人々が罰せられているのを喜んだ預言者の見地を取られるでしょうか?

聖心とマリアの汚れなき御心が悲しんでおられるのは無理からぬことです。最近の調査によれば、50歳以下の信徒の80%はカトリック教徒が信じるべきであるようには御聖体を信じていません。それは最近の世論調査であり、そしてそれはアメリカの司教たちの最大の不名誉です。信仰におけるこの衰退は、われわれが人々を手による聖体拝領へと導き入れたという事実に帰せられなければなりません。われわれはこの実践へと彼らを洗脳しなければなりませんでした。もしそれが過去において存在したのであったなら、教会はそれを矯正し、そしてそれを取り除いていました。われわれは人々をその実践へと連れ戻しました。われわれは後方へと進んでいるのです。それは一つの強制された進行です。私は科学者として訓練されてきました。私はこれらの進歩派の人々に20年間実験の時間を与えました。結果が出ているのです。教会を空にする人は御聖体を空にしなければなりません。私がいた最後の教会で私は二つのミサの中で三人の人が彼らの手の中にあった御聖体を家に持って帰るのを止めなければなりませんでした。結果が出ているのです。たとえそれが一ヶ月に一つの教区で一回だけしか起こらなかったとしても、イエズス・キリストは御自分にとってそのような仕方で取り扱われるには余りにも重大です。

それゆえ、あなたの聖職者を教育し、あなたの国の奉献のために準備してください。ファチマ・メッセージについてあなた自身をそして聖職者を教育してください。それからマリアの汚れなき御心に対する信心をもって出発してください。人々がどのようにマリアの御像に捧げられているかということは今でも私を驚かせます。それは彼らを祝せられたおとめへと連れて行きます。私はその模範ではありません。私は20年、30年のイエズス会の訓練を経験してきました。それにもかかわらず、私がグルーナー神父と一緒にロスアンジェルスにいたとき、私の話は、人々が御像を崇敬するためにやって来る間、およそ10分の間遅延させられました。この御像が持っている力は驚くべきものです。

私の一人の良き友人は彼女の小さな子どもたちをホーム・スクールに行かせることに決めました。というのは、彼女は彼らの救いについて配慮したからです。彼女はいくつかの体制カトリック学校に彼らを送り続けることを拒否しました。彼女はすでに二つの学校を試してみました。そして希望がないということを理解しました。彼女はホーム・スクーリングを始めた日に、彼女の御像が涙を流しました。彼女は私を呼んで言いました:「私の御像が泣いておられます。私は何をすればよいですか?」私は彼女に御像を泣かせるままにしなさいと告げました。それは神が、彼女のしていることを認めておられるという神からの一つのしるしです。

祝せられたおとめマリアは「どうか私のメッセージを知らせてください」と言っておられます。諸々のマリア像さえ泣いているのです。各々の小教区がファチマの聖母に対する信心と並んで一つの御像を持つ手筈を整えるよう努めてください。それは出発するための一つのよい場所です。そこから、インドの司教様がなさったように、行列へと進んでください。イスラム教徒の人々がその結果回心しました。40年間私は一人も回心させることができませんでした。しかしどういうわけか、通りを進む御像、外見的な崇敬の表示を見ている人々、そしてこのすべてを通じて働いておられる聖霊によって、神の聖なる意志に従って回心者たちが作られたのです。それは一つの謎です。しかしそれは一つの事実です。どういうわけか、マリアの汚れなき御心に対する信心は具体的にはわれわれの御像の使用を通じて表現されるのです。

あなたの国の奉献のための一つの現実的な計画

私は、あなたがロザリオ、御像、行列に対する信心を増加し、それから徐々にそして最終的に、ひとたび人々が準備されたならば、あなたの国をマリアの汚れなき御心に奉献することを非常に強く提案します。ポルトガルの司教たちはマリアの汚れなき御心に対して非常に献身していましたので、シスター・ルチアに従えば、1940年に神は御自分の要求の真正性の証明をお与えになりました。司教たちの、マリアの汚れなき御心へのポルトガルの奉献のために、神はその憐れみと特別の保護をお与えになりました。ポルトガルは、御存知のように、第二次世界大戦の諸々の悲惨さを免れました。彼らは苦しみました。しかし彼らは他の国々のようには苦しみませんでした。ヒットラーはどういうわけかポルトガルへ侵入する決心を変えました。われわれは人間の精神と心において何が起こるかを決して知らないでしょう。しかし神はそれらを支配なさっています。神はマリアの汚れなき御心に献身するように、そしてあなたの国を奉献するように言っておられます。それはポルトガルにおいて効を奏しました。このすべてのことは第二バチカン公会議の曖昧な諸部分と一致しています。その中では教え、支配し、そして聖化する仕事は司教による奉献によって課されると教えています。あなた方はあなた方の司教区そしてあなたがたの国の人民に対して責任を負っておられます。

奉献についてのもう一つの事柄、それは真っ直ぐに償いへと導きます。それはちょうど旧約聖書が新約聖書へと導くようなものです。奉献は償いへと導きます。あなたが誰かある人を奉献するとき、あなたは奉献されなければなりません。教皇は1984年3月25日の彼の世界の奉献において聖書を引用されました。彼はこう言われました:「彼らのために、私は彼らが奉献されるように私自身を奉献します。」そのことは聖書からです。奉献は真っ直ぐに償いへと導きます。償いの一般的な見地を見るよう努めましょう。

非カトリック者でさえ償いを理解している

私の著書恐ろしいファチマ奉献 The Awesome Fatima Consecration において私は、エイブラハム・リンカーンが、カトリックではなかったけれども、償いと奉献の日の宣言をした、ということを指摘しました。ある人が「エイブラハム・リンカーンはある降霊術の会に行ったのだ」という反対と共に私に手紙を書いて寄こしました。私はこの読者が私に何を結論したかったのか知りません。それで私はこう言って返事を出しました:「それほどに悪いエイブラハム・リンカーンがもし奉献の行為をしたのであれば、われわれの司教たちはどれほどもっと多く不面目なことでしょうか?」リンカーンは少なくとも償いを信じていました -- 彼が持っていた小さな信仰はわれわれが持つべき信仰全体を恥じ入らせます。

リンカーンは言いました:「彼らの依存を神の力に負うこと、彼らの罪を真の痛悔が憐れみと赦しへと導くであろうという確かな希望をもって告白することは人間の義務であるのと同様に、国民の義務です。その神が主である国民だけが祝されているという、聖書において告知され、そして歴史において証明されている至高の真理を認めること。われわれは、今われわれの国土を荒廃させている市民戦争の恐ろしい災厄がわれわれの罪のためにわれわれの上に与えられている一つの罰であるかも知れないということを当然のことながら恐れています。赦しを祈り求めるために、われわれは国家的な屈辱、断食そして祈りの日を宣言します。われわれは、神の教えによって権威を与えられて、われわれの国家的な罪の赦しと同様に、われわれの現在の分裂したそして苦しんでいる国の、一致と平和のその以前の幸福な状態への回復という国家の結束した叫びが天国で聴かれ、そして祝福をもって答えられるという希望のうちに、このことを行います。」

そのことは、言葉を少し変えるだけで、今日のわれわれの状況に適用することができるでしょう。われわれの現在の分裂したそして苦しんでいる教会の、一致、平和そして繁栄の以前の幸福な状態への回復が行われるでしょう。われわれはアメリカ合衆国そして西側において苦しんでいます。われわれを見習わないでください。私は多くの調査を持っています。それらはすべて合衆国における教会が堕落、不信心そして衰退の状態にあるということを証明しています。

雑誌 30 Days の1992年第4号に載っているある論考はわれわれの時代がわれわれは立つべきであり、自己批判を告白すべきであることを要求していると言っています。われわれは過去のわれわれ自身を撤回すべきであり、非難すべきです。今は一つの異なった態度、一つの新しい”psych-geist”[心的精神]の時です。今は国民全体の間に広まっている償いの精神のための時です。その代わりに、リベラル派の人々は彼らがそれと共に平和に生活することができるように、ファチマ・メッセージを平凡なものにし、酷評し、隠蔽し、希薄化するのです。

そして償いとは何を意味するのでしょうか? 5月5日聖ピオ五世の祝日にシスター・ルチアが言葉を受けたとき用いられた古いラテン語のテキストを読んでごらんなさい。それはこう言っています。「教会の敵どもを征服し、神の礼拝を修復するために偉大な聖ピオ五世を高く上げられた神...」神の典礼をそれがあるべきもの、人間に向けられたものではなく、神に向けられたものへと回復させるであろうもう一人の教皇をわれわれが持つことができればよいのですが...Novus Ordo 新秩序の英語典礼は「お早うございます」と言う司祭をもって始まっています。そしてもし人々がそれに応えないならば、その司祭は言います:「私はお早うございますと言いました。」これは神に向けられたものではありません。それが、司祭が人々に対面している理由です。もしあなたがミサの背後にある神学を本当に理解されるならば、人々と、人々の仲介者である司祭は両方とも聖なる犠牲の間同じ方向、神の方向を向いてはいけないのでしょうか。現代の典礼学者たちは象徴的意味を非常に意識しています。しかし彼らは本質的なものを見失っています。それゆえ、この意味において、償うことはかつてそうであったものを回復することを意味します。エイブラハム・リンカーンでさえそのことを知っていました。

広く行き渡った不信仰

あなたがたは教会が今いる窮地を見なければなりません。アメリカ合衆国の50歳以下の、イエズスの信者であると考えられているカトリック教徒の80%が、教会がそう決定しているように[御聖体における]イエズスの現存を信じていないということよりもより大きな侮辱があり得るでしょうか? 普遍的な救い[誰でもすべての人が救われるという考え方]は最もひどい異端です。そしてその異端が今日のカトリック教会の中に普及しているのです。その形式は偽りのエキュメニズムであり、一つの宗教は他の宗教と同じようによいものであるという考えの受容です。これは完全な異端です。Extra Ecclesiam Nulla Salus は教会の外にはいかなる救いも存在しないということを意味します。それはただカトリック教会だけが一つの真の教会であるということを意味します。それが、グルーナー神父がイエズスとマリアと共に苦しむ賜を持っている理由です。しかしもしあなたが現実を知らないならば、どのようにしてあなたはイエズスとマリアと共に苦しむことができますか? もしあなたがこれらのリベラル派の楽観主義者たちの一人であるならば、そのとき問題は何もありません。すべてのことはすばらしいです。あなたは償いの第二の局面、すなわち、聖心およびマリアの汚れなき御心と共に深く悲しむこと、へと決して進みません。あなたが問題を知るまでは、あなたは答の一部であることはできません。それは一つの大きな恩寵です。そしてもしあなたがそれを持たないならば、それを得るように祈ってください。それが諸々の御像が泣いておられる理由です。それらの御像はグルーナー神父が指摘されたように、叫びません。それらの御像は微笑みません。それらは涙を流すのです。あなたは償いにおいて祝せられたおとめマリアに加わりますか、それとも加わりませんか? あなたは恩寵を得ていますか? あなたは、恩寵を得ていないならば、それをすることはできません。そしてあなたは、理解するためにあなたの知性を用い、教会が危機に瀕していると告白しないかぎり、恩寵を与えられることはできません。なぜなら、恩寵は自然の上に立っているからです。

なぜマリアは来られたのですか? マリアは子どもたちに、彼らが偉大なことをしている、そして人がする唯一の誤りは彼らが誤りをしたと「考える」ことであるということを告げるために来られたのではありません。このタイプの話し方は私がイエズス会士たちのロジャーズ流の非指示的アプローチを経験している間に学んだリベラル派の方向です。聖母はあなたが敏感でなければならないとは仰いませんでした。聖母はあなたは罪に対して敏感でなければならないと言われました。

償いへの聖母の呼びかけの最も重要な局面はそれに基づいて行動することです。シスター・ルチアはかつてフランシスコに尋ねました:「われらの主をお慰めすることと、地獄に行く人が少なくなるように罪人たちを回心させることのどちらが好きですか?」彼は答えました:「僕はわれらの主をお慰めするでしょう。あなたは、聖母が、人々はもうわれらの主に背いてはなりません、なぜなら、我らの主はすでに余りにも多く背かれておられるから、と言われた先月、聖母がどのように悲しんでおられたか、気がつきませんでしたか?」シスター・ルチアはまた、ヤチンタがときどき「おお、私のイエズスよ、私はあなたを愛します、そして私はあなたの愛のために非常に多く苦しみたいのです」と叫びながら、十字架に接吻し抱きしめていたことを思い起こしました。あなたは恩寵を持っているか、それとも持っていないかの、どちらかです。しかし最初の一歩は問題を理解することです。小さな子どもたちは問題を理解するとてつもなく大きな恩寵を与えられていました。彼らは地獄に落とされた者たちの苦しみを見るために地獄の幻視を示されました。彼らは問題を理解したのです。

あなたがたは教会の希望である

あなたの国を奉献することは何と重要なことでしょう。1941年6月12日にキリストはスペインにおける、在俗および修道会両方の聖職者の冷淡とゆるみについて不満を漏らされました。そして救済策が提案されました。キリストは言われました:「ヴァラドリッドの大司教に、私が、キリスト教の人々の改革のために採用されるべき手段を司教たちが彼ら自身の間で調整し、共同の一致において決定するために一つの黙想会において会合することを望んでいると、知らせなさい。」償い、償い、償い。それはまさに奉献と並んで一つの主要なテーマです。奉献しなさい、償いなさい、奉献しなさい、償いなさい。

T.S.Eliot を言い換えるならば、教会の指導者たちのうちには何か恐ろしく間違ったものがあります。あるいはキリストの一なるそして唯一なる教会には何か本質的に間違ったものがあります。そして、キリストの一なるそして唯一なる本質的教会が間違っているということは余りにもぞっとさせることでしょう、それは余りにもぞっとさせることでしょう。それゆえ、私はむしろ、教皇、司教たち、司祭たち、そしてより重要でない官僚たちを通じて教会を動かしている、君臨している神学者たちやそうだと申し立てられた専門家たちには何か間違ったもの、恐ろしく間違ったものがあると信じたいのです。(神は、あなたがたが実存的教会には何か間違ったものがあると認めることか、それとも、あなたがたが神の教会は間違っている、そしてそれは決してあり得ないと結論しなければならないかの何れかで、あなたがたをお助けになります。)

あなたがたは教会の希望です。もし誰かが一つの国家的なレベルで答えようとするならば、あなたがたがそうなさるでしょう。なぜなら、あなたがたはここに来るために、そしてここに滞在するために、多くの難儀を経験されたからです。そして神はあなたがたを祝福なさるでしょう。

目 次

2005/12/06 三上 茂 試訳

作成日:2005/12/06

最終更新日:2005/12/06

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