ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅲ部:「神の忍耐の限度」

第2章:私たちの子どもたちを救ってください

Coralie Graham

誰も私たちを救ってくれないでしょう

ファチマ・クルーセイダーの編集者として私は毎週数千通の手紙を受け取ります。そして私はあなたがたに外部にいる人々が嘆いていると言うことができます。彼らはカトリックの指導を受けていません。私たち平信徒はもう発言権を持っていません。だからこそ人々は嘆願しているのです:「どうか、私たちを導いてください。司教様方に話してください。彼らに私たちが傷ついていることを告げてください。私たちの子どもたちの霊魂は地獄へ行こうとしています。そして誰も私たちを助けてくれないのです。」

一人の婦人は毎日泣いていると書いてきました。そしてこう言いました:「私は、ミサに行くとき、ミサの前にロザリオを祈ります。そして司祭が来て私の手からロザリオを引きちぎり、それを教会の真ん中で壊し、ロザリオの珠が座席の間の通路に転がり落ちました。」

それが私たちが受けている指導の種類です。権威の地位におられる方は誰もそれを止めておられません。彼らは司教様の所へ行きます。そして司教様はこう言われます:「はい、彼に話しましょう」しかし何事も起こりません。

数え切れないほどの人々がこう告げられます:「教会の中でロザリオを祈ってはいけません。あなたたちは人々に迷惑を掛けているのです。」この言葉はミサの前にロザリオを祈っている10人から15人くらいの小教区民の小さなグループに対して言われるのです。ミサの間ではないのです。何か他の典礼の出来事が進行している間ではないのです。ただ非常に静かに祈っているだけです。しかしそれでもなおこう告げられます:「いいえ、駄目です。あなたがたは人々に迷惑を掛けています。」

私たちの子どもたちについてはどうでしょうか

避妊は一つの罪です。にもかかわらず、彼らはカトリックの生徒たちに彼らに役立てられ得るすべての種々さまざまの避妊の道具を示し、そしてそれらの使い方を示すためにカトリック学校の中へプロテスタントの人々を招いています。このことは学校長と司教の完全な承認の下に行われています。生徒たち自身がこの反カトリック的な実践に疑問を提出するとき、彼らはこう告げられます:「おお、われわれは彼らにそれを使うように告げているのではありません。われわれはただ彼らにどのように使用するかを示しているだけです。」

ある教区の一人の司祭は彼の全会衆にこう説教します:「私の会衆の誰一人地獄へは行きません。というのは、私はあなた方が皆神を愛しておられることを知っているからです。そしてもしあなたが神を愛しているならば、あなたは大罪を犯すことはできません。たとえあなたが誰かを殺すとしても、あなたは地獄へ行くことはできません。というのは、あなたは神を愛しているからです。あなたは、地獄へ行くことを宣告されるために誰かを殺すときは神を憎まなければなりません。」

私はもっとよく知っています。私はそれが異端的であることを知っています。私は、成長したときに厳格なロレットの修道女たちによって教えを受けたことを神に感謝しています。彼らは私の心の中に信仰の種を植え付けてくれました。それで私はもっとよく知ったのです。

しかし私たちの子どもたちはどうでしょうか? 彼らは私が学校で教えられた私たちの完全なカトリック信仰を持たなければならなかった有利な点を持ちませんでした。彼らは霊魂を救う説教を説教壇から聴きませんでした。教会と学校制度はもはや彼らに罪を犯さないように教えていません。

むしろ、彼らはのんきになり罪を犯すように励まされています。彼らは現実に彼らの両親から指導を受けるよりはむしろ彼ら自身の形成されていない良心に耳を傾けるように奨励されています。

彼らは地獄へと導かれています

学校では今子どもたちに同性愛者たちを尊敬するように教えています。同性愛の人ばかりではなくて、また彼らの罪深い行為をも尊敬するように、です。彼らは教室で子どもたちに同性愛の活動にどのように従事するかをフィルムを通じて示しています。そして彼らはこう言っています:「あなたたちは彼らがしていることを学びそして尊敬しなければいけません。」

われわれは皆聖書の中で、神が同性愛について何と言われなければならなかったかを知っています。私は、私の子どもたちが学校に行って、彼らにそのことが間違いのないことであると告げる同性愛の教師によって教えられることを望みません。

私は家に一つの美しい御像を持っています。それは、私たちの信仰において私たちが堅固である必要がある恵みを私たちにお与えになりながら、愛をもって私たちに両手を拡げておられるわれらの祝せられた御母です。その御像はばらばらに壊されて、ゴミ箱の中に投げ込まれて、ブッシェル・バスケットの中で見つけられました。何人かの修道女たちがその御像を接着剤でつなぎ合わせました。しかし彼らの少女たちのための中途半端の建物は部分的に政府の基金を受けていたためにその御像を保存することを許されませんでした。彼らは基金の欠如のためにすべての十字架や御像を教室から撤去するか、あるいは教室を閉鎖しなければなりませんでした。

彼らはその御像を私にくれました。それで私は聖母を連れて帰り、そしてそれに色を塗りました。聖母像はとても美しく魅力的でしたので、私はその聖母像があった教会に戻すことに決めました。私が聖母像を司祭に差し出したとき、彼はこう言いました:「おお、だめです。私はその聖母像を教会の中に置くことはできません。それは教会の壁に合いません。それは装飾と調和しません。」

私はまた家に一組の美しい十字架の道行きを持っています。それは4フィートの高さでキャンバスに油絵で描かれ、樫の木の枠組みに収まっています。この十字架の道行きは5フィートの高さの聖アントニオの御像とイエズスの聖心の御像と一緒に「救出された」ものです。そしてちょうど救出に間に合ったのです。それらは破壊とゴミ処理場への運送を運命づけられていたのです。

司教様方が助けるためにお出来になること

私は人々がロシアの奉献はなされたと言っているのを聴きました。私は他の人々がその奉献はなされなかったと言うのを聴きました。両方の側に尊敬すべき司教様方や司祭たちがおられます。一方の側はこう言います:「私は教皇に尋ねました。そして教皇は私にイエスと告げておられます。」他方の側はこう言います:「私は教皇に尋ねました。そして教皇は私にノーと告げておられます。」

教皇が実際に考えておられることに関して、私は、私たちが混乱を避けるために彼から一つの絶対的、権威的な教会の声明を聴くべきであると信じます。私たちが司教様方にして下さるように願っていることは教皇に一つの決定的な教会の宣言をなさるように求めてくださることです。

ファチマのメッセージは聖母が勝利なさるでしょうと言っています。私はこれまで以上に多くの霊魂が地獄に行くのを私が見ているときにそれが勝利であると言うことはできません。これが聖母の勝利であると私が言うことは冒涜をまくし立てることでしょう。聖母のメッセージは世界に平和があるでしょうと言っています。世界にはどこに真の平和があるのですか? ある人々はシスター・ルチアが意味していた平和は「心」の中の「平和」であると言っています。この「心」の「平和」はどこにあるのですか? 私の国ではティーンエイジャーたちが毎日自殺をしており、そして彼らと一緒に他の人々を殺しています。私たちはこれが聖母の勝利であるとどうして言うことができるのでしょうか?

聖母は嘘をおつきになりません。奉献がなされたと信じている人々でさえ、何かが間違っていると認めざるを得ません。

何百万のカトリック教徒は司教様方に助けを求めて叫び声をあげています。聖母は平信徒並びに修道者である私たち皆に「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」とお告げになりました。

私は今あなた方司教様方に、聖母の勝利をもたらすために、申し上げます、ただあなた方だけが私たちを助けることがお出来になります、と。

目 次

2005/12/10 三上 茂 試訳

作成日:2005/12/10

最終更新日:2005/12/10

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