ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

第Ⅲ部:「神の忍耐の限度」

第3章:ファチマ・メッセージを満たすために必要とされる諸段階

Father Ninolas Gruner

私は同じことを繰り返すと非難されてきました。しかし同時に私は、イエズスが教えられたこの小さな祈りに関する私の考え方が理解されてこなかったと見ています。イエズスが教えられたこの小さな祈りはシスター・ルチアに対するわれらの主の言葉のための背景です。然しその背景は非常に大切です。また、われわれにとってこれらがイエズスがファチマのメッセージにおいて教えられたたった二つの祈りであるということを理解することも大切です。あなた方はただファチマ・クルーセイダーだけがこれらの祈りを繰り返し、それらを世界に教えているのは何故か? と自問なさるかも知れません。それはわれわれが聖であるからではありません。おそらくそれは、われわれがわれわれの形成において余りにも知性的であってきたからです。ある司教はこう言われました:「あなたは余りにもよく教育されたのだ。」おそらくそれは私の十字架です。しかし少なくとも私はこれら二つの祈りをそれらの背景において理解しています。私は、それらの祈りは非常に重要であり、あなた方の疑問の多くに答えると思います。

ルチアは、その時24歳でしたが、われらの主が来られて彼女に話しかけられたとき、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパ、ロシアそして世界の回心のために祈っていました。主はこう言われました:「あなたはそれらの国々の回心のために祈ることによって私を非常に喜ばせる。そしてあなたはそれらの哀れな国々の回心を求めることによって大いに私を慰めている。『マリアの甘美なる御心がロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いでありますように』と言うことによって私の御母にしばしば願いなさい。」

十人の正しい人々

われらの主は、われわれがロシアを裁くためにここにいるのではないということを理解しておられました。われわれは彼らがわれわれよりも悪いと言うためにここにいるのではありません。そう言うことはわれわれの意図ではありませんし、またわれわれの言外に含まれた意味でもありません。もしわれわれがそのことをしたのであれば、それはただ、適切に語る仕方を知らないためのわれわれの落度です。この非難、すなわち、どういうわけか、われわれがロシアに反対しているという非難が繰り返しなされています。あるいは、われわれがファチマのメッセージについて他のことを何も知らないと[繰り返し言われています]。むしろ、ファチマのメッセージは一つの頂点を持っているということです。教皇はある程度の数の司教たちが彼に加わらないかぎり、ロシアの奉献をなさらないでしょう。私は彼らを十人の正しい人々に比較します。それはちょうど、もし神が十人の正しい人々を見出すことがお出来であったならば、彼らはソドムとゴモラを救っていただろうということと同じです。それゆえ、神は、それに釣り合って言うならば、もし神が十人の正しい人々を見出すことがお出来になったならば、世界を救われるでしょう。教皇と司教たちにとって奉献をするために必要とされる恵みをもたらすであろうのは、彼らが司教たちであれ、教皇であれ、司祭たちであれ、あるいは平信徒たちであれ、あの十人の正しい人々の祈りと犠牲を通じてなのです。

平和が世界に与えられるのはロシアの奉献という道具性を通じてです。というのは、神は御自分の御母に光栄を帰すことを望んでおられるからです。神はあなた方、司教方に光栄を帰すことを望んでおられます。神はあなた方を、あなた方がその生涯においてかつてそうであった以上に世界においてもっと尊敬されることを望んでおられます。神は世界的な平和をもたらすことを望んでおられます。過去40年間、50年間合衆国とロシアとの間に存在していた撃ち合いのない戦争ではなくて、積極的な平和です。この国、あの国の少しずつの攻撃、あるいはこのグループの人々を攻撃にさらすこと、あるいは赤ん坊たちのあのグループを殺すことではありません。社会のあらゆる階級における全世界のそのすべての次元における平和です。世界がこれまでに決して見たことのない平和です。それはイザヤ書において語られている一つの幻視です。「ライオンは子羊と共に伏すであろう。」われわれはそのことをこれまでに見たことはありません。しかしそれが、聖母が従順の単純な行為に対して約束なさっていることです。そしてそれは他のいかなる仕方でもやって来ないでしょう。私はやってくることを望んでいます。私の生活はよいもの、容易いものとなるでしょう。しかしそれはそれがある仕方です。それは単純な真理です。あなた方はそれを受け入れることができます。あなた方はそれを拒絶することができます。あなた方はあなたがたがそれと共に望まれることをすることができます。あなた方がなさることは何であれ、神に対してお答えになるのであって、私に対してお答えになるのではありません。しかしそれは真理です。そしてもし私があなた方に真理を告げていないならば、私は神に答えなければならないでしょう。私は私の義務を果たしました。

諸段階

あなた方の国を奉献してください。あなた方の小教区を奉献してください。ロザリオを促進してください。メッセージを知らせてください。スカプラリオを促進し、それを理解させてください。あなたがたの議論の力によって、あなたがたの模範によって、恩寵によって、何であれあなたの自由になるあなたの持っているものによって、できるかぎり多くの人々に知らせてください。人々に、霊魂たちに、諸々の個人にメッセージを述べてください。それを理解させ、愛させてください。そのときわれわれはわれわれの十人の正しい人々を見出すでしょう。彼らは彼らの祈り、苦しみ、犠牲によって、われわれがそれに価しない大きな恩寵を得るでしょう。

私は、ファチマのメッセージがロシアの奉献よりは遙かに大きいものであるということを十分に知っています。しかし私はまた隠されてきたのがメッセージの一部分であるということも十分に知っています。それは、私の仕事の最初の6年間私から隠されていました。私はファチマのために15年間働いてきました。最初の6年間私自身はメッセージのこの局面を知りませんでした。私はファチマのメッセージを研究すること以外には他のことは何もしませんでした。にもかかわらず6年の間私はこの要求については暗闇の中にいました。それゆえに、私はあなた方がその中心的な重要性を理解する機会を持っておられなかったことをよく理解することができます。

司教様方の一人は私が入って来たときにこう言われました:「われわれがするように選ぶものは何であれしましょう。それは教会が欲していることです。」最後の司教は教会史について話されました。私は教会史のうちに多くの教訓を見ます。私は、もしわれわれが神学をただ教義の書物からだけ学び、それを教会史と一緒にまとめないならば、また神学の肉と血のわずかのものを失い得る、と思います。私はその両者が好きです。使徒行録第20章から初期教会史を引用するならば聖パウロは彼が出発するとき -- 私はそれはエフェゾからだと思いますが -- そこに集まった司祭たちと司教たちにこう告げています:「あなたたちはもう私を見ないようになるでしょう。私はエルザレムに行き、捕らわれ人になるでしょう。私は今日あなた方の前で、私があなた方に神の忠告をすべて告げることを恐れなかったということを、証言したいと思います。私はあなた方に何一つ隠しませんでした。私はテモテに告げたすべてのことをしました。換言すれば、私は都合がよいときも、都合が悪いときも、福音を話してきました。それにもかかわらず、あなた方自身の集団の間から信徒たちを自分たちに従わせようとする人々が生じるでしょう。彼らをキリストから引き離そうとして。」

そのように言いながら、彼はそのようなことが、アリウスのような、ルターのような、司祭たちの間から起こるであろうと予告していたのです。彼らは自分たちと一緒に信徒たちを地獄へ落とそうとしたのでしょう。そしてネストリウスのような司教たちの間から、信徒たちを教会から引き離すであろう他の人々が生じたのでしょう。アリウスの時代に、アリウス派の異端は325年のニケアの公会議において断罪されました。イエズス・キリストは真の神であり、御父と同じ実体を持つ真の人間であるということが決定されました。キリストはその神性においてあらゆる仕方でも等しいのです。にもかかわらず、 11年後の336年に、アリウス派は一つの語における一つの文字を変えることに成功しました。われわれの信仰は言葉によって伝達されます。話されたのであれ、書かれたのであれ、それは言葉を通じて伝えられます。われわれは、われわれの信仰が教える非現実的な、不可視的な諸実在を見ません。しかし神はそれにもかかわらずそれらを信仰によって、説教によって、言葉によってわれわれに伝達されます。言葉はそれが神のメッセージを担っているとき聖なるものです。それゆえ、アリウス派の異端が、教会の一つの荘厳な定義における一つの語の一つの文字を変えたとき、それはアリウス派異端の更新を引き起こしました。歴史はこの策略の結果として司教たちの90%がこの問題に関して誤ったということをわれわれに告げています。この時には、全カトリック教会においてたった3人の司教だけが、ニケアの公会議がそれを決定したように言葉の完全な意味においてキリストが真の神であり、かつ真の人間であるという真理を擁護しました。教会博士聖ジェロームがわれわれに告げているように、カトリック教徒たちはある日カトリックとして寝床に入り、そして翌日に起きたときにはアリウス派の信徒でした。すべてのカトリック司教によって真の教説が再び説教されたのは、381年A.D.のことでした。それらが教会史の事実です。われわれはこの場にアリウス派の、あるいは他の異端の熱心な支持者を持っていません。私が今言っていることは、そこに学ばれるべき教訓があるということです。真理は、ラッツィンガー枢機卿がわれわれに言われたように、多数決法則によって決定されません。真理は真理です。われわれは多数派と共に留まることができます。われわれは少数派と共に留まることができます。われわれはいずれの仕方でも誤ることができます。しかしわれわれは真理と共にいなければなりません。

教皇の関係に関しては、おそらくあなた方は、第五ラテラン公会議が、預言的啓示の問題においては教皇が唯一の判定者であると決定したということをご存じでないでしょう。私は教皇を批判するためにここにいるのではありません。私は教皇を裁くためにここにいるのではありません。私は他の誰をも批判したり裁いたりしたくありません。しかしわれわれは一つの預言的啓示に関する一つの判断を求めています。ファチマのメッセージは承認されてきました。しかし何人もの司教が指摘なさったように、そこには解釈の相違があります。私はそれに同意します。われわれが政治的手段によって一致に達することができるということはあり得ます -- すなわち、われわれは皆、そうですね、多数派に同意しましょうと言うことができます。そして次にわれわれはこの表面的な一致に達するでしょう。それはそれ自身による本当の一致をもたらさないでしょう。人々の多数は彼ら自身の間で意見の相違なしにしばらくの間は一つの嘘として役立つことができます。一致のためにキリストは御自分の教会をペトロの岩の上にお建てになりました。そしてキリストは教会の善のために行使するようペトロに権威をお与えになりました。しかし問題が未解決のままに残されて来た限り、そして教皇が彼自身のしかるべき理由のためにこのことに関して権威ある判断をお与えにならない限り、過去60年以上の間このメッセージの明白なそして連続した理解に関して、私は沈黙したままでいることを求められることはできません。

私は教皇のために、第五ラテラン公会議で決定された、そのペトロの司牧的な権威を引き受けられることを非常に好み、そしてこの問題を提出します。教皇はそうする権利を持っておられます。そしてわれわれはそうして貰うことが必要です。そうでなければ、歴史がわれわれに追いつくでしょう。われわれは諸民族の絶滅を持つことになるでしょう。このことを求める私の権利に関して言えば、それは二度決定されました。教会の司法権に属する問題においては平信徒を含むすべての者は裁定を要求する権利を持っているということが1274年、リヨン公会議でカトリック教会の教義として決定されました。それはカトリックの教義です。もしあなた方が、それがカトリックの教えであるということを理解された後に信じられないならば、あなた方はカトリック教徒ではありません。それは神的なカトリック教義の本性です。それは変化することができないものです。それは、教会の外にはいかなる救いもないという教会の教えと同様です。

昨日私は司祭が内陣から異端的である祈りを唱えていたのを聞きました。しかし私は、おそらくその司祭が別の意味で言っているのかも知れないと言いました。英語で話しているある神父はこう言いました:「われわれはプロテスタント、オーソドックス、そしてカトリックの人々が一緒に聖体を受けることができるように祈ります。」ところで彼がもし、彼らがプロテスタントのままでおり、オーソドックスのままでおり、カトリックのままでいる間のことであるということを意味したのであれば、そのときそれは異端的な祈りです。私は、オーソドックスはカトリックに回心し、プロテスタントはカトリックに回心するということをおそらく彼が意味しているのであろうと言いました。その場合にはそれはカトリックの祈りでしょう。しかし、私は彼がそれを異端的な意味においてそう言っていると告げられました。彼に話した人はそう理解しました。しかしそれがそうであるとしても、私の言いたいことは非常に簡単です。すなわち、たとえあなたが一致を望むとしても、一致は真理における一致でなければならない、ということです。もしあなたが、教皇がそれを決定なさる -- 教皇はそうする権利を持っておられます -- 外側で、ファチマのメッセージの真理を知りたいと思うならば、そのときフィリッピンからの最初の司教が言われたことをすることはわれわれにとって義務です。すなわち、「なぜわれわれは再び奉献をしないのでしょうか? 今度はそれを過去60年にわたって一般に理解されてきたような要求に従ってそれを行いなさい。ロシアに言及し、それを仕上げなさい。」

どのみち、決定をしてください。そしてそれは、それが言っていることを意味していないとわれわれに告げてください。あるいはそれが要求された仕方で奉献をしてください。それらのいずれをもしないならば、われわれは今なおファチマの聖母の諸々の預言を持っていることになり、聖母の要求を無視することの結果としてわれらの主の預言を持つことになるでしょう。われわれは決定を求める権利と教皇が至高の裁定権を持つと1870年に再び決定された第一バチカン公会議とを持っています。教皇はまた、単に信仰と道徳のためだけではなく、教会の善のための問題において司教たちに命令する権利を持っておられます。それゆえに、第二バチカン公会議と第一バチカン公会議の両方に一致して、教皇がロシアを奉献することを司教たちに命令するようにという聖母の要求は完全に教皇の裁定権の範囲内のことです。

目 次

2005/12/11 三上 茂 試訳

作成日:2005/12/11

最終更新日:2005/12/11

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