対話と教育

三上 茂


 人格に対する配慮が欠落するとき、教育実践は時代の傾向を機械的、組織的に伝達・注入する作業となり、教育はそこから社会的効用を最大限に引き出すひとつの機能的、官僚的な経営となる。人格的な契機の欠落は同時に対話の欠落であろう。教育は人間による人間の人間化への援助である、という命題が承認さるべきだとすれば、たとえどれだけ組織化が進み、能率化されようとも、なお教育者と被教育者、教師と生徒との間の人格的関係が保持されなけれなまらないであろう。しかし、このことは人格的関係によってなにが意味されているかを究明する以前には結論できないことであって、むしろ問題の発端である。以下、三節に分けて、人格、対話、学習の問題を考察し、その内的連関において教育の営みが理解さるべきことを明らかにする。

第I節 人格の意義と対話

 人間はその中核において人格的存在者である。人格的存在者とはなにか。人格とは精神的存在者、すなわち理性と意志を賦与された存在者としての人間の謂である。

 人間に固有のものである責任性、自由、決断、良心などは本来的には意志的存在者としての人間の人格に帰属せしめられるべきことがらである。この問題については、すでに第II章において若干触れたので、この章では主として理性的存在者としての人間の人格に焦点を当てながら考察してみよう。

 人間が理性的存在者であるということはどのような意味を持つのであろうか。人格的存在者としての人間が理性を賦与されているということは、彼がその理性を通じて自己と他者、そして他のすべての存在者を認識するばかりでなく、さらにそれらすべてのものの根源たる存在そのものへと迫ることを可能ならしめられているということである。

 人間は動物や他のすべての自然的存在者とは異なり、人格(Person)として自らをわれ意識において固有の自己として経験し、また自らを他の人間や自然的対象から識別することができる。人間は人格としてわれと他のすべての存在者とにかかわるのである。これは存在するすべてのものが相互になんらかの関係にあるということだけを意味するのではない。人間は同時にそのことを認識することができるのである。

 しかし、動物もまたなんらかの意味で自己と世界との関係を理解しているのではないか。少なくとも感覚的存在者として、動物は世界を経験しているといえる。むしろ、感覚の領域においては、ある動物は人間にはとても及ばないような優れた能力を発揮するといわねばならない。問題は、しかし、理解とか敬虔といわれている事態の内容、構造である。

 動物は感覚知覚を持ち、場合によっては反復練習によってある特定の行動様式を獲得することができる。動物を馴致できることはこのことを物語っている。動物もまたある仕方で彼らの世界と関係している。どのような仕方でであろうか。それは彼らが自己および種属の生の維持にかかわるかぎりで世界と関係しているといえるような仕方でである。動物の関係する世界はそのように閉ざされた世界、「環境世界」(Umwelt)である。動物は生の衝迫に導かれて諸感覚によって外界を「感知する」(spueren)のであり、世界を「抵抗」(Widerstand)として経験するにすぎない。

 それに対して、人間は世界を「対象」(Gegenstand)として経験することができる。生の直接的な衝迫から自由な地点で、存在者を存在者として「認識する」(vernehmen)ことができる。人間にとって世界はまさに「世界」(Welt)であって、「周囲の世界」(Umwelt)の「周囲」(um)は原理的に取りはずされている、あるいはそれが言い過ぎであれば、少なくとも人間にとっての「周囲」は閉ざされたものでなく、開かれたものとしてあるということができる。人間はすべての存在者に対して、直接的な利害を離れた純粋な関心を示すことができるし、それらに参与し、沈潜し、それらを愛することができる。

 われわれはこのような人間の「認識」(Vernehmen)を動物の感覚知覚、「感知」(Spueren)とは本質的に異なるものとして、人格的なものだといわなければならない。もちろん、人間においても、感覚的なレヴェルでの認識がある。人間が同時に身体的存在者であって、そのかぎりで感覚に依存していることを否定することはできない。にもかかわらず、人間の感覚的認識はすでに理性のはたらきであり、したがって人格的なものである。理性のはたらきは、しかし、その段階にとどまらず、さらに感覚を通して認識されるものの奥にある存在者の本質を捉える。人間にとって存在者の世界はいわば限り無く奥深い。われわれはその内部へ入ってゆき、奥底へと下ってゆくことができる。人間が「世界へ開かれている」(weltoffen ist)とはこの謂ではないか。

 しかし、もっと重要なことは、人間がさらに「存在へ開かれている」(seinsoffen ist)ということである。このことはわれわれ人間が究極的に存在者の根源である存在そのものへと開かれているということを意味する。

 では、存在そのものとはなにか。すべての存在者が存在するのはまさにそれを存在せしめている存在そのものによってである。ところで、存在そのものによって存在せしめられているすべての存在者は必然的に非存在をそのうちに含んでおり、欠如的存在者として存在するにすぎない。しかし、他のすべての存在者を存在せしめている存在そのものは、これに対して、常に欠如のないもの、非存在を含まないもの、したがって存在の充足しているもの、永遠に存在し続ける絶対者である2)。

 人間が存在そのものへ開かれているのは理性を通じてであるということに注目しなければならない。人間の理性は相対的なこの世界の存在者の奥底へと降りて行きながら、そこに欠如、無を見出してそれらを超越し、存在そのものへと運動することができる。すなわち、理性は存在者に停滞し、固着してしまうことなく、存在者から存在そのものへ向かって上昇することができる。しかし、この理性の存在そのものへの上昇運動はなにゆえに起こるのか。あるいはその運動の原因はなにか。それは存在そのものが存在者を超えて自己への上昇させる地平、次元として理性を呼び出しているからである。理性は存在そのものがそこにおいて自己を開示する恵みを人間に贈るところの次元、存在そのものが自らのはたらきをそこで遂行するところの場である。このことは絶対的・超越的な存在そのものと相対的、欠如的存在者たる人間を同一視することを意味するのではなく、存在そのものの自己開示がまさに人間の理性において行われるということなのである。このような絶対的、超越的な存在ものものはそれゆえにペルゾーンであるといわねばならない3)。

 人間が理性的存在者として人格であるといわれるのは、彼が存在そのものへ呼び出されていうるというまさにそのことによってである。人間が動物や他のすべての存在者から区別されるところの彼の「世界への開示性」、そしてそれを基礎づけている「存在そのものへの開示性」は人間の人格のベルゾーン性を特徴づけるものであるが、それは存在そのもののペルゾーンの相関者であることによってのみそのペルゾーン性を得ているのである。換言すれば、人間のペルゾーン性は存在そのもののペルゾーン性に基礎づけられている。

 人間の理性的存在者としてのあり方は、上述したように、彼のペルゾーン性に由来するのであって、人間が理性を持つがゆえにペルゾーンであるのではない。そして彼のペルゾーン性は存在そのもののペルゾーン性に呼応するものとして存在そのものから贈られている。このことは人格が対話的な構造を持つということを意味している。ペルゾーンとしての存在そのものはその存在の充溢を「もの」としての存在者に溢れ出させるだけでなく、「人格」(ペルゾーン)である理性的存在者に、まさに「理性を通じて」溢れ出させるのである。人間だけが存在者の中で自らの理性を通じて、存在者にかかわり、さらに存在者を超えて存在そのものへと迫ってゆくことができる。あるいは、存在そのものは他のすべての存在者のなかで、ただ人間だけを彼の理性を通じて、自らのペルゾナールな関係に招き入れているのだ、といってもよいだろう。

 しかしながら、人間が自らの理性を働かせる仕方は決して一義的に決定されているわけではない(ここに人間の自由の問題がある4))ので、人間は自己自身のうちに、あるいは存在者の次元に自己が閉ざされてしまうという仕方でその理性を働かせることもできるし、また、自己自身、他者そして世界を包越する存在そのものに対して自己が開かれたあり方を選び取るという仕方で理性を働かせることもできる。しかしながら、人間が理性的存在者であるゆえんは、彼がペルゾーンとして存在そのもののペルゾーンの相関者とされている点にあるということからすれば、すべての人間は理性的存在者の本来性に即して、彼の理性を通じて、自己自身、他者そして世界を究めながら存在そのものへと超越してゆかねばならないのではないだろうか。

 存在そのものが自己を開示してゆく次元ないし場としての理性は決定的にペルゾナールな個としてその独自性、一回性、主体性を持つものである。人間は生物学的に見れば、各個人は人間種属に属する個体である。しかし、彼はペルゾーンとして、つまり存在そのもののペルゾーンとの関係の中へ招き入れられたものとして、種属に従属する単なる個体ではなくて、理性を通じて存在そのものの自己開示を自らにおいて実現せしめる唯一独自の存在者なのである。われわれが個性とか主体性ということばによっていおうとしているのは実はこの事態なのであって、ある種属の個体が同じ種属の他の個体から区別されるといった意味で、各個人が他の個人から区別されるという事態ではない。そのような意味では、理性は人間種属に一様に所与としてあるというよりは、各個人に独自の仕方で、存在そのものの自己開示が実現さるべき場所として贈られている可能性あるいは課題である、というべきであろう。

 以上、人間人格が理性を通じて存在そのものとのペルゾナールな関係のうちに置かれているということを考察してきたが、このことは同時に、人間が他の人間との間にペルゾナールな関係を持っているという事態が帰結されることを示している。したがって、人間の間柄的関係、われ-なんじ関係を基礎づけ、規定しているといわねばならない。人間のペルゾーン性がそもそも存在そのもののペルゾーン性に基礎づけられているがゆえにのみ、われもなんじもともにペルゾーンとしてお互いにペルゾナールな関係にあるのであり、そのことがわれ-なんじ関係を他のすべての存在者との関係とは異なった独特のものとしているのである。カントは「人格」(Person)と「もの」(ザッヘSache)とを区別し、前者に「尊厳」
(ヴュルデ Wuerde)を、後者に「価格」(プライス Preis)を帰している5)。他者もまた、わたしと全く同じように、限りなく世界へ開かれ、さらに存在そのものへと開かれている者としてペルゾーンであり、わたしがそのような存在者としての他者をわたしの意の儘に処理しうる「もの」と見倣し、取り扱うことは事態の誤認であり、存在秩序の転倒である。したがって、個々のわれがわれでありつつ「われわれ」という共同体を形成しているのは、まさにわれが閉ざされた個ではなく、開かれたペルゾーンであるがゆえである。

 しかし、なにによって、あるいはなにをもって開かれているのか。理性によって、理性でもって、われは他のわれに開かれているといわなければならない。理性を通じて存在そのものへの通路が開かれているように、他者への通路もまた理性によって開かれている。われはわれの内部で「独語」(モノローク Monolog)を語る孤立した「単子」(モナド Monad)ではなくて、他のわれに対して「対話」(ディアローク Dialog)によって開かれている「人間」、間柄的存在である。

 それゆえに、人格的存在者としての人間は自立した、自律的な、唯一独自の存在者であるまさにその点において他者に対して開かれた存在者である。人格の自立性と他者への開示性を矛盾対立するものと考えるのは誤りであろう。それは二つの事態ではなくて一つの事態の異なる視点からの現れにすぎない。人間が人格的存在者として理性、自由、意識、自立の担い手であるからこそ、その本性そのものからして他者に対して開かれているのである。人間の間柄的関係は主体-客体関係ではなく、主体-主体関係であるといわれるが、しかし問題は主体か客体かではなくて、われもなんじも彼も等しく「ペルゾーン」であって、「もの」ではないということである。人格的関係にあるということは閉ざされた個体同志の接触があるということではなく、理性的存在者の間に「われわれ」という共同体が構成される「出会い」が生じるということである。このような人格的関係はまさに本性的に対話的構造をなすものとしてあるのである。

 対話は人格の本質的徴表である。われわれはすでに対話とか対話的ということばを使ってきたが、ここでそれを皮相的に理解するのでなく、もう少し掘り下げて考察してみよう。ヨーロッパで対話を意味することばはギリシア語のdialogos
(ディアロゴス)から出ている。このギリシア語の名詞の動詞形dialegomai には離すという意味のほかに、論ずる、推理する、言語を用いる、計算する、議論によって結論を引き出す等の意味がある6)。このことだけでも、われわれは対話(ディアロゴス)の内実の豊かさを予見することができる。しかし、ここでわれわれはさらに、ディアロゴスということばがdia
(ディア)という前置詞とlogos (ロゴス)という名詞から成り立っていることに注目しよう。dia には、「--を通じて」、「--によって」、「--を介して」という意味がある。したがって、dialogos はロゴスを通じて、ロゴスによって、ロゴスを介して、と解することができる。ではロゴスとはなにか。ロゴスというギリシア語の一語が含蓄するところのものは辞書をざっと拾っただけでも次の通りである。すなわち、理法、理拠、原理、法則、規則、原因、関係、比例、類比、思考、推理、反省、考察、評定、評価、説明、計算、論証、陳述、議論、討論、対話、表現、報告、発言、理論、命題、話、物語、格言、文章、主題、仮説、言語、等々である7) 。これはロゴスが多義的であいまいだということだろうか。否、これらのことばが表しているのは理性的存在者としての人間が存在全体へ肉迫し、真理を認識するときのさまざまの契機である。それらはロゴスの同一性の諸契機であって、基本的には隠されている理法と顕わにしようとする言語という二つのものの対応関係の中に包み込まれるものである。

 したがって、対話(ディアロゴス)が人格の本質的徴表であるということは人間が決定的にロゴスにかかわっているということであり、ロゴスの諸契機を介して人間が存在全体、すなわち自己自身と他者、他のすべての存在者そしてそれらの根源たる存在そのものとかかわっているということを意味する。

 このように見てくれば、人格的存在者としての人間の対話性ということも、単に人格と人格の間に限られるのではなく、存在全体に対して対話的関係にあり、理性によって理法を把握し、それを言語化し、対象化しようとする人間の本質性格であるということは明らかである。しかし、こういったからとて、われわれは「人格」(ペルゾーン)と「もの」(ザッヘ)との区別を解消するつもりはない。ただ、それを峻別する余りに乖離させてしまうとき、「人格」(ペルゾーン)そのものも宙に迷い、貧血し、窒息して実在(レアリティー)との生きたかかわりを喪失するということをいいたいのである。人格は全存在を対象化し、言語化することにおいて人格である。「なんじ」も「それ」なしに生きることはできない。この点については次節でもう少し詳しく触れることにする。

第II節 対話的関係と教育の構造

 前節においてわれわれは人格と対話との内的連関を理性的存在者としての人間の観点から明らかにした。次に、教育における対話的関係に論点を移して考察を進めよう。

 教育における対話的関係の考察に入る前に、前節で触れた人間の対話性の存在全体への浸透という問題をもう少し詳しく考察しておこう。特に、対話的関係において「もの」の世界がどのように定位されるかということが検討されねばならない。

 対話的関係は普通には人格と人格との間に存するある特別の関係だと考えられている。この考え方によれば、対話的関係は対象的関係から区別される独特の関係であるとされる。すなわち、対話的関係は主体と主体が相向かい合う「われ-なんじ関係」であるが、それに対して対象的関係は主体が自己の前に客体を措定する「われ-それ関係」であるといわれる。第4章ですでに述べられたように8)、この場合の「なんじ」、「それ」は前者が人間で後者が「もの」と一義的に決定されているわけではなく、「われ」の取る態度によって人間も「それ」として、人間以外の存在者も「なんじ」として対面されると考えられている。しかし、一体われわれは人間を「それ」と見倣すときに彼を物体化し、、逆に人間でない「もの」を「なんじ」としてそれに対するときに「もの」を人格化するというようなことができるのであろうか。さらに、「われ-なんじ関係」と「われ-それ関係」という人間の二つの関係様式の関係はどうであろうか。「われ」と「なんじ」の間に「それ」の入る余地はなく、「われ」と「それ」の間にはなんらの人格的契機も存しないのであろうか。これら二組の関係様式はそこに交流すべきなにものもないような形で乖離されてあることはできないのではないか。もし乖離されてあるとするなら、両関係様式における「われ」は分裂したまま並列的に対立するか、あるいは交互的に現れては消えるかする以外にはないのではないか。そしてそのような「われ」はそもそも他の主体に向かい合ったり、客体を措定したりできる主体たりえないのではないか。

 主体と客体ないし主観と客観の対応は認識論的枠組みとして意味を持つであろうが、しかし、われわれはここではむしろ存在論的に事象に迫る必要がある。

 人間は存在そのもののペルゾーンの相関者たるペルゾーンとしてはじめて他者のペルゾーンに関係しているのであるが、その同じペルゾーンとしてペルゾーンではない他のすべての存在者にかかわっているのであって、単なる主観としてそれにかかわっているのではない。ペルゾーンではない他のすべての存在者は「それ」、「もの」と表現することができるが、一体この「それ」、「もの」にかかわるペルゾーンの関係様式はペルゾナールでないのであろうか。否、ペルゾーンは理性的存在者として「もの」にかかわるのである以上、人間と「もの」との関係は少なくとも人間の側からはペルゾナールな関係だといわざるを得ない。しかし、関係は相対的、相互的であって、「もの」の側からはどうなのかと問うべきだろう。ところで、「もの」はそれ自身によって自らをペルゾーンに提示し、また自らのうちに含む無、欠如によって存在そのものへの通路をペルゾーンの前に指し示しているのではないか。しかも、「もの」はそれぞれの段階に応じて固有の秩序、法則を持ち、それなりの完結性において理法をそのうちに隠しているのではないか。「もの」それ自身はペルゾーンと区別されるあり方を持っているとしても、ペルゾーンに対して自らの隠された理法を顕わにされることを、すなわち、対象化され、言語化されることを要求するものとして存在している。人間の理性に対応する「もの」の理法の開示が存在者の世界における「もの」の側からのペルゾーンへの関係である。

 人間が理性を働かせるのは真理を求めるからである。真理を意味するギリシア語の aleetheia (アレーテイア)は語源的にみれば、隠され、覆われているものの覆いが取り去られてそれが白日のもとに顕わにされることを意味しているといわれる9)。とすれば、「もの」は隠され、覆われた理法を内に蔵して、人間の理性によって顕わにされるべく存在者の世界を構成し、かくして「ロゴスを介して」=対話的にペルゾーンとしての人間にかかわっているといわなければならない。

 対話とは単に人間と人間との言語のやり取りだけを意味するのではない。それは皮相な理解である。人間が理性を働かせて存在全体のうちに隠されてある理法をたずね、存在全体が人間の地道な理性的努力に応えてその理法を顕わにするという呼びかけと応答こそが対話の本質的意味である。したがって、人格と「もの」のかかわり方は皮相的で、人格と人格のかかわり方は核心に迫るものだというようなことは簡単にいうことが出来ない。どちらも皮相的でありうるし、またどちらも根源的、核心に迫るものでありうる。

 以上見てきたことからして、われわれは対話的関係と対象的関係、あるいは「われ-なんじ関係」と「われ-それ関係」を峻別してそれらを乖離させずに、むしろ「人格-もの関係」と「人格-人格関係」を区別した上で両者の相互通交を「対話」に求むべきではなかろうか。しかしその通交はなにに基礎づけられて可能なのか。以下、その点を検討しよう。

 「人格-もの関係」もまた人格的、対話的関係である。この関係において両者が「ペルゾーン-非ペルゾーン」関係にあることは確かであるが、しかし同時に同じ点で「理性的存在者-理法的存在者」というあり方で対話的関係にあることを見逃してはならない。このことは何によって基礎づけられているのか。それは理性的存在者たるペルゾーンも理法的存在者たる非ペルゾーン的「もの」も各々異なった仕方においてではあるが、欠如なき存在そのもののペルゾーンの充溢から溢れ出たということにおいて、存在そのもの、ロゴスのロゴス、真理そのものに結びつけられ、依存しているということに基づいているというべきである。そのことによってはじめて、両者はロゴスを介して対話的関係に入りうるのである。それゆえに、「人格-もの関係」において両者の対話を可能ならしめているのは存在そのもののペルゾーンである。

 次に、このような「人格-もの関係」と「人格-人格関係」との間には存在そのもののペルゾーンによって分かち難く結ばれた存在論的連絡があるといわねばならない。なぜか。「人格-人格関係」における「われ」と「なんじ」は「人格-もの」関係における「もの」、「それ」とともにひとつの存在者の世界を構成している。「われ」と「なんじ」と「もの」との相互連関の状況は構造的にはどのような相貌を呈しているのであろうか。

 「われ」と「なんじ」はペルゾーンとして同じ次元に位置する。「われ」と「なんじ」は互いに他に対して開かれつつ結合される。これはなにを意味するのか。われわれはここで言語を取り上げねばならない。人間が単に種属に従属する個ではなく、種属を超える個として他の個との間に内的交流を要請するとき、その交流を支えるものは愛と言語である。(ここでは愛については触れることができない。)言語を媒介にしない理解とはなんであろうか。人間にとって言語とは動物にとっての表情や身振りや叫び以上のものである。それは分節化されて意味を担うシンボルであって、直接的な意志伝達という単にサインとしての機能を果たすためだけのものではない。言語を媒介にするということはそれが単に道具ないし手段としてのみ用いられるということではない。むしろ、そのことは人間が言語というひとつの次元においてはじめて思索し、他者と内的に交流し、存在者の世界に分け入ることができるということである。「われ」と「なんじ」はそのような言語の次元において相互に他に対して開かれつつ、言語の次元がそれに連なっているロゴスのロゴス、すなわち真理に結合されている。それゆえに、「われ」と「なんじ」はいわば真空状態の中で二極的に相対しているのではなく、ロゴスに結合されることによって同次元に立ちつつ互いに他に対して開かれているのである。

 さらに、「われ」と「なんじ」は両者に共通の「もの」との関係、共通の課題、共通の関心を媒介とすることなしには「われ-なんじ関係」を展開せしめることはできない。この場合にも「媒介」ということは、われわれが恣意的に「われ-なんじ関係」の中に取り込むことが可能な外在的な道具、手段、素材として非人格的存在者の世界があるというように解さるべきではない。そもそもすでに予め与えられて在る存在者の世界の中に「われ」も「なんじ」も、「もの」とは異なった仕方でではあるけれども、存在せしめられて在るのである。「われ-なんじ関係」(「人格-人格関係」)は「われ-それ関係」(「人格-もの関係」)と交錯し、交流しているといわねばならない。それは究極的には存在そのもののペルゾーンとの関係から基礎づけられることではあるが、しかしそのことによって存在者の世界のなかで、「われ」と「なんじ」と「それ」は、その秩序が誤認され、転倒せしめられない限り、統一的な内的連関を保つということなのである。

 われわれはここでもう一度「もの」が「理法的存在者」であるといわれたことを想起しなければならない。このことは後に学習の問題を考える上で決定的に重要なことである。「もの」は物質的、物体的形態を取るとともに、理法、理念、観念を内に蔵するものとして存在する。われわれが「もの」を知るとか理解するというとき、「もの」は物体として取り込まれるのではない。

 対話的関係における「もの」の位置を、敢えて図式的に構造化していうとすれば、それは一方において物質的形態を取った諸存在者として「われ」と「なんじ」の前に水平的に(しかし、さまざまの位階において)在ると同時に、他方において物質的形態の蔭に、あるいはそのような形態を取らずにそれ自体として、隠され覆われている理法として「われ」と「なんじ」の下に垂直的に在る10) 、といえようか。もちろん、物質的形態を取らない理念、観念があるといえる。しかし、それも言語化され、対象化され、客体化されなければ隠され、覆われたままにとどまる。言語は物質的形態(音声・文字)を取って、存在全体を対象化、客体化しつつ自らも対象、客体となり、同時に「観念」として意味賦与、意味媒介という形で人格と人格、人格とものを関係づけている。

 対話的関係とは、それゆえに、理性的存在者としての人間が、異なった仕方でではあるが、自己自身と他者、他の存在者、そして存在そのものにかかわる特別の関係様式である。

 少し長くなったが、以上のことを踏まえて教育の対話的構造の検討に移ろう。教育は人間による人間の人間化への援助であると規定できるが、人格的、理性的存在者である人間の人間化への援助であるがゆえに、それは一回性と独自性を持つ人格の自立性と他者への開示性が同時に実現されること、そして理性の働きによって理法を顕わにすることにおいて真理への結合が実現されることへの援助でなければならない。人間がそもそも対話的存在様式を持つものである以上、教育もまた当然対話的構造をなすといわねばならない。どのような構造か。教育の対話的構造は単純に二極的構造であるということはできない。もちろん、教師-生徒関係について語ることはできる。しかし、教師と生徒はすでに存在者の世界、自然と文化と社会の中で関係づけられるのであって、各々が主体そのものとして無媒介的、直接的に結びついているのではない。むしろ、教師と生徒は両者に共通の秩序に結合されることにおいて互いに独立した存在者でありつつ、「共にある人間」(ミットメンシュ Mitmensch)として互いに開かれている。だとすれば、教師と生徒が垂直的に上下、依存の関係で結びつき、教材が一方から他方へと伝達・注入されるといった構造を考えることは二重の意味で誤りである。第一に、教師と生徒は一方的依存関係にあるのではない。知らない生徒が知っている教師に依存しているのではない。教師と生徒は原理的に同じ次元に立っており、各々独立し(ウンアップヘンギッヒ unabhaengig)、自立して(ゼルプシュテンディッヒ selbstaendig)いる。教師も生徒も共にロゴスに、真理に依存して(アップヘンギッヒ abhaengig)いる。第二に、教師と生徒という二極の間の空間を教材が移動するのではない。もしそうだとすれば、教師は教材という物品を生徒に手渡す者でしかない。教材はそれによって生徒を存在者の世界の前に立たせるところのものである。教師と生徒は共に理性を働かせながら彼らがその中に住んでいる存在者の世界に対面し、対決する。彼らは共に存在者からの呼びかけを聴き取り、それに応答することに苦闘する。

 それゆえに、教育における対話的関係は垂直的な教師-生徒の二極的な対面、依存の関係でもないし、同じく垂直的な教師-(教材)-生徒の三極的な対面、依存、伝達の関係でもない。また、教育において、「われ-なんじ関係」と「われ-それ関係」が並列的に存在するか、あるいは交互に現れるかして、前者の「われ-なんじ関係」においてのみ対話的関係が生起すると考えることはできない。ただ、現実には「われ」と「なんじ」と「それ」の多様な変容、偏向、逸脱、誤認が存在するにすぎない。したがって、まず第一に、教師と生徒は共に人格的存在者であるがゆえに、教師は生徒を常に自らと同じ資格、権利においてペルゾーンと認めねばならないのであって、時に応じて生徒を「もの」(ザッヘ)、「それ」(エス)と見倣し、加工できる素材、注入しうる器、書き込みうる白紙というような教育の対象(オブイェクト)として特定の類型を刻印することはできない。

 第二に、しかし同時にであるが、生徒は人格的存在者であるがゆえに理性的存在者であるから、種属一般の平均的可能性をいわばひとりでも自動的に展開する動物とは異なり、種属を超える個として、理性を介して存在者の世界とかかわらねばならず、そのためにはどうしても他者の援助がなければならない。教師は生徒が援助なしに自らのうちに内在する可能性をひとりでに展開させる有機体であると考えて、彼を放置することはできない。

 以上のことから、教育は外在的なものの注入でも、内在的なものの自動的展開でもないということが明らかとなる。したがって、生徒の自立性、非依存性と援助必要性は矛盾対立するものと取られてはならず、両立すると考えられねばならない。むしろ、われわれはそれは生徒においてはひとつの事態であるというべきだろう。教師は生徒のとって絶対でも無用でもなく必要なのである。この事情を明らかにするためには学習の成立と教師の役割について詳しく吟味しなければならないが、これは次節に譲って、ひとまず本節の結論を出しておこう。

 われわれは教育の構造を対話的構造だと見定めたが、それを再び図式化していうとすればどうなるか。その構造は教師と生徒が同次元にあって、存在者の世界の中に、そしてそれを前にして立ち、前者が後者を援助することにおいて、各々理性を働かせて存在者の世界の内に隠され覆われた理法を努力と忍耐をもって探求しながらその深みへ下降してゆくと同時に、そこから自らを「転向」させて、存在者の世界を超越してすべてのものの根源、根拠たる存在そのものの高みへ上昇するという、いわば教師、生徒、世界の水平面を存在者の理法と存在そのものの垂直線が下から上へと貫くことによって切断している立体的、動的構造である。ひじょうに長い文になったが、以上のことを一気にいわねばならないほどに教育の構造は統一的連関を保っているといいたい。教育は究極的には「転向の術」(ペリアゴーゲー periagoogee)11)である。このことについても次節で述べることにする。

第III節 学習の成立と「転向の術」(ペリアゴーゲー)としての教育

 前節で述べたように、教師と生徒が同じ次元にあって各々自立し、非依存的であるとすれば、教授-学習の事態は成立しえないのではないか。教師が教授し、生徒が学習するのではないか。教師と生徒の間には「陶冶の勾配」(P. Petersen 1884-1952)12)があり、教師-生徒関係は「一方的に具体的な抱擁関係」(M. Buber)13)として特徴づけられ、一方性(Einseitigkeit)において教師の優越性と生徒の依存性が支配するのではないか。また、教師は教材という形で生徒に授け与えるのではないか。

 このような疑問はけだし当然である。なぜなら、教授-学習の事態は現象的にはそのようにわれわれには見えるからである。しかし、事態の本質はそうであることは出来ない。なぜか。われわれは学習の成立の根拠を問うことによって上述の疑問に答えることができる。そのとき、教師が教えるということの意味も明らかとなるであろう。

 教授-学習の場面で教師と生徒との間に起こる事柄は何か。教師が知識を与え、生徒がそれを受け取る、といういい方は不正確、否、誤りである。知識はそもそも物体的なものではない。教師が生徒に教科書を与えても教授-学習は生起しない。では、教材を与えるというべきか。教材とは何か。それによって存在者の世界が指し示されているところのものである14)。存在者の世界は教師から与えられるのか。否、それは生徒がすでにその中に立っているところのものである。教材を通して存在者の世界が指し示されるのは何をもってであるか。ことば、数、図形等々、要するに記号をもってである。では、教師が生徒にことばや文字を与え、生徒がそれを受け取るとき、教授-学習が生起するのか。否、教師の発する音声が生徒の聴覚に達し、彼の書く文字が生徒の視覚を刺激しただけである。つまり、ことばや文字が物理的に伝達されただけである。

 われわれは教授-学習の場面のうちに、大別して、教師、生徒、「もの」15)、「ことば」という四つの極を立てるjことができる。教師と生徒が同次元に立って各々自立し、非依存的であると同時に生徒が教師からの援助を必要とするとう事態は、その解明の鍵を「もの」と「ことば」のうちに持っているのではないか。

 教師が生徒に教材という表現によって代表されている「もの」を与えるというようなことは可能なのだろうか。既述したように、生徒は「もの」の中間に、あるいは「もの」に取り囲まれてすでに存在している。しかし、教師がなしうる、そしてなさねばならぬことがある。それは生徒を「もの」の前に立たせること、逆にえいば、「もの」を生徒の前に置く(praebere)ことである。そのことは一挙に把握できない「もの」の全体を切り分けて部分的に提示することであるが、そのとき生徒は教師によって提示される「もの」を、ちょうど鏡に映すように反映させるのであろうか。否、われわれはここではまだ学習の成立を認めることができない。「もの」を前に置かれた生徒はそれに対面するが、対面すなわち学習であると考えるのは感覚知覚即知識説である16)。生徒は「もの」と対決しなければ学習することはない。「もの」の内部に入り込むこと、逆にいえば「もの」を自らの内部に取り入れること、同時にいえば、生徒と「もの」の内的一致こそが学習の事態なのではないか。この一致は物体的でも感覚的でもないことはいうまでもない。「もの」は理念的存在者としてはじめて学習の成立にかかわるのである。このことはもはや教師と生徒の間に起こる事態ではなくて、生徒自身の内部で起こる事態であるといわねばならない。

 次に「ことば」の検討に移ろう。「ことば」そのものもある意味では「もの」である。教師と生徒はすでにその中に住んでいる。それは対象化され、それ自体学習の対象とされる。それは物質的形態(音声・文字)を取らざるを得ない。教授-学習の場面で「ことば」が果たしている機能はなんであろうか。物理的な意味での「ことば」の伝達はなんら学習の成立を根拠づけるものでないことは既に見た。「ことば」は物理的な仕方では伝達できない意味を担っている。この担われている意味は、もし伝達ということばを用いるとすれば、教師から生徒へどのような仕方で伝達されるのか。否、やはりわれわれは意味を伝達するということはできないのではないか。意味は表示する、指示するのみであって、そのもととして直接的に受け渡しされるものではない。意味する(significare)とは記号(signum)を作る(facere)ことだと解される。われわれは「ことば」を用いるとき記号を与えているのである。記号はそれが指し示し、表示している「もの」へとわれわれの注意を喚起する。教授-学習の場面において教師が生徒に対して用いる「ことば」は、結局のところ、その「ことば」が指し示している「もの」へと生徒の注意を喚起するという役割を果たしているのである。

 以上見てきたことから明らかとなることは教授-学習において、教師に帰せられている教授も一般に想像されているほど強大な働きではないということである。すなわち、教師は生徒に「もの」を直接与えたり、「ことば」の意味を直接注入したりはできないのであって、ただ「もの」を生徒の前に置き、また「ことば」を用いて生徒の注意を「もの」にむけるるか、「もの」に向かうように勧め、励ますかすることができるだけである。だけであるといったが、これは決してつまらない仕事ではなく、また容易な課題ではない。ソクラテスはこの課題を遂行するためにその生涯を賭けたではないか。

 学習の成立は教授-学習の場面における教師の教授によって結果されるのではない。すなわち、教師の教授は生徒の学習の原因ではない。そのように見えることはそうであることと同じではない。われわれは学習の条件と原因とを混同してはならない。教師の教授は生徒の学習成立の必要条件であるが、原因ではない。「もの」を生徒の前に置くことも、「ことば」を用いて「もの」を注視させることも、生徒の学習を直ちに惹起しはしない。生徒は教師に導かれ、援助されて、彼自身で学習しなければならない。それゆえに、われわれは学習の成立の根拠を生徒自身の内部に求めなければならない。

 プラトンは『メノン』17)において、「学習は想起である」(80D)と述べた。またアウグスティーヌスは『教師論』(De magistro)18)において、「人間に知識を教える教師は神のほかにいない」と主張した。彼らがいおうとしている真意はなんであろうか。

 『メノン』における奴隷の少年は生まれてこのかたまだ一度も教わったことのないピタゴラスの定理に関する問題の前に立たされ、ソクラテスの質問に導かれて、彼自身でそれを学習した。ソクラテスの「ことば」は奴隷の少年の学習の成立の原因ではなくて必要条件であった。ソクラテスの質問なしには、少年は問題の前に立たされてもそれだけで学習することはできなかった。いったい少年の内部で何が起こったのか。プラトンはこの事態を「想起」(アナムネーシス anamnesis)だという。しかし、それは現世の時間の枠内で少年のうちに幾何学の知識が内在し、忘却されていたものが想起されたということではない。プラトンのいう想起は魂の不死という観念と結びついて、魂が無時間的永遠において既に見てしまっているすべての事柄が現世において隠され覆われた状態から感覚的なものを機縁として想起される、すなわち顕わにされるということなのである。われわれはここに、プラトンが学習は決定的に主体的な事柄であるということ、しかもそれは超越への地平が開かれることにおいてはじめて可能であると主張していることを読み取ることができるであろう。学習の成立は教師の外在的知識の注入の結果ではないことはもちろんあきらかであるが、さりとて生徒自身の努力の必然的結果としての内在的知識の発現でもない。学習成立の真の原因は生徒の内部で超越の地平からの点火による触発ともいうべき飛躍、断絶が生起したということのうちに求められねばならない。

 アウグスティーヌスの『教師論』では、学習の成立は生徒の内部での超越者、真理そのものの内的「照明」(illuminatio)によってはじめて可能であるといわれている。可視的世界において太陽が輝き、その光に照らされてはじめてわれわれはものを見ることができるのと同じように、学習する者は彼の内面を照らす真理そのものの光によってはじめて当面する事柄を見ることができる。生徒は人間の教師の「ことば」に勧められて、「内なる教師」に「助言を求める」(consulere)のである。人間に教えるのは真理そのもの以外にはない。真理そのものは学習する者の「内なる光」であるけれども、学習者と同一性的連続において考えられているのではなく、まさに超越者としてすべてのものを包越している。アウグスティーヌスにおいても、学習の成立は学習者が人間の教師の「ことば」から真理そのものへの「方向転換」(conversio)を行うことにおいてはじめて開かれることが可能な地平だと考えられているのであって、その「方向転換」は連続的な変容というよりはむしろ「突然の」、「幸運にも」という表現が妥当するような飛躍なのである。

 以上見てきたように、学習成立の真の原因は超越的な真理そのもの、存在そのものの学習者の理性への自己開示にあるといわねばならない。換言すれば、学習の成立は学習者が真理そのもの、存在そのものに依存し、依拠することのうちに基礎づけられるのであって、それ以外のどこにもその保証はないのである。学習した者とは当面する事柄を判断できる者であって、教師のいうことを反復し、反響させている者ではない。彼は真理に基づいて、真理に依拠して判断するのであって、真理を判断するのではない。それゆえに、人間の教師は自らを論拠として生徒を強制することはできないのであり、自らもまた学習する者として超越の地平の前に襟を正すべきである。教師と生徒との同次元性とはこの事情をいうのである。

 しかし、教師は彼自身真理の生徒であるとしても、なお彼の生徒の教師である。教師は生徒の学習の援助者として教師である。ソクラテスは教育者の仕事は「助産術」(マイエウティケー maieutikee)であるといった19)。教師は生徒の知識の生産、すなわち、真理の探究に立ち会い、それが正しく行われるために援助しなければならない。生徒が真でないものを真とするとき、教師は生徒に対象に合致した論証を求めねばならない。生徒の人格を代行するのではなく、彼が正しく方向転換することを促さねばならない。生徒が自ら真理の要求を聴くように勧めねばならない。

 われわれは最後に学習の成立と「転向の術」(ペリアゴーゲー)としての教育の関連の考察をもってこの章を終えるとしよう。学習の成立はすでに見たように真理への依拠のうちに基礎づけられている。真理の探究は、それに携わっている者の主観的な思いがどうであれ、存在論的には真理そのものへの上昇運動である。あらゆる真理がそれによって真理でありうる真理そのものが存在しないとすれば、われわれの真理探究の努力、学習はその基礎を失い、その目標を欠いて解体し、その運動を停止せざるをえない。人間が理性的存在者であるということは真理そのもの、存在そのものが自らの働く場、次元として人間の理性を自らと存在者の世界の中間に置いたということではないか。人間は存在そのものによって、いわば上方から支えられ、下方に存在者の世界を持つ中間者である。われわれは普通はこれを逆に考え、下から支えられるという。しかし、人間実存の真相は、われわれが存在者の世界へ向かって下降してゆくとき、知識の深まりは同時にわれわれの魂全体を「向け変えさせる」存在そのものへの上昇を惹き起こさざるをえないという事態なのではなかろうか。なぜなら、存在者の世界は、もしわれわれがそこに沈潜してよく見るならば、それ自身のうちにその基礎、支えを持たず、非存在、欠如を必然的に内包しており、その存在性は存在そのものに起因するということを、そして存在者の世界は存在そのもののいわば射影である20)ということを顕わにせざるを得ないからである。このような存在者の世界を目に見え、触れることができるという理由で確固たるもの、存在そのものと見誤るとき、われわれはいわば倒立した世界像を持つことになる。そのとき、存在そのもの、真理そのものは人間のつくり出した虚妄、実在しない観念的産物と見倣される。しかし、事態は上述したようにまさにその逆である。確かに現代の物質文明の豊かさはその事態の認識を困難なものとする程に強くわれわれの目を眩ませる。しかし、よく考えてみれば、人間の世界から観念、理念が消え失せるならば人間はいったいなんであろうか。われわれの生は再び動物や植物の水準に墜ちるのではないか。

 学習の成立と存在そのものへの「転向の術」(ペリアゴーゲー)としての教育は同じ構造を持ち、内的に連関している。前者において理性の存在そのもの、真理そのものへの飛躍が生じ、後者において魂全体の、全人格の方向転換が起こる。このような力をいったいわれわれは所有しているのだろうか。われわれ自身の努力と忍耐がかならず「転向」という結果を将来する保証は何もない。もちろん、われわれはそのような飛躍が起こることに備えて長い忍耐と倦まざる努力を積み重ねなければならない。われわれはいわば存在そのものからの転向の呼びかけを聴くために耳を澄ます必要があり、そのためには自己自身の「浄化」(カタルシス katharsis)21)を果たさねばならない。存在そのものの恵みはそのとき、太陽の光が世界を照らし、万物に生命を与えるように、われわれを照らし、生かすのではないだろうか。学習も教育も究極のところこの存在そのものの恵みの業に参加するところに成り立つのではないだろうか。それは連続的な成長、増加というよりはむしろ火花による点火であり、教師は存在そのものによるこの点火の働きに参加する者として呼び出された者ではないだろうか。

1)本稿執筆に当たり次の論文・著書を参考にした。
 1 Kurt Haase, "Der Lehrer in der Begegnung mit dem Schueler", 1954.
 2 Karl Holzamer, "Wuerde und Wagnis der menschlichen Person", 1954.
 3 Marian Heitger, "Ueber die Bedeutung der Personalitaet im paedagogischen Verhaeltnis", 1961.
        以上3論文は Personale Erziehung: Beitraege zur Paedagogik der Gegenwart, Hrsg. von Berthold Gerner
    1965, 所収。
 4 W. Pannenberg, "Person", Die Religion in Geschichte und Gegenwart, 3. Aufl. 1957, Thuebingen, Bd. V. SS.
       230-235
 5 Marian Heitger, "Dialogische Verhaeltnis", Lexikon der Paedagogik, Ergaenzungsband, 1964, Herder, SS.148-150.
 6 今道友信著、『同一性の自己塑性』、東京大学出版会、1971.
 7 清水正照著、『学習成立の一条件についての哲学的反省』、佐賀大学人文紀要1号、1965.
2)今道友信著、上掲書、pp.22-23参照。
3)同上、p. 26参照。
4)本書、第3章、「人間本性と教育」、第3節参照。
5)カント著、篠田英雄訳、『道徳形而上学原論』、岩波文庫、pp.75, 85参照。
6)Liddle & Scott, "A Greek-English Lexicon", Oxford, 1961, p. 400.
7)ibid., pp. 1057-1059.
8)本書、第4章、「出会いと教育」、第2節(1)参照。
9)ハイデッガー著、木場深定訳、『真理の本質について、プラトンの真理論』、理想社、1973.参照。
10)「下」というのはわれわれが存在者を知るとき、その知識は深まるという意味であり、いかなる他の存在者の世界よりもペルゾーンは高貴なものと考えられるという意味である。しかしまた、どれだけ存在者の世界を下って行っても、われわれが存在そのものへ到達せず、むしろ方向転換して上へ向かうときに存在そのものへの通路が開かれるという意味である。本章第3節参照。
11)プラトン著、山本光雄訳、『国家』、第7巻、518D, p. 228.
12)”Bildungsgefaelle”, P. Petersen, ”Fuehrungslehre des Unterrichts”, 1951, S. 22.
13)”eine einseitig konkrete Umfassungsrelation”. M. Buber, "Reden ueber das Erzieherische", 1926. ブーバー著
『教育論』、みすず書房、ブーバー著作集第8巻、p. 35.
14)われわれは教材の中に児童生徒の経験するあらゆる領域を含ませることができる。それは単なる教科の枠にはいっているものだけでなくてよい。
15)「もの」はここで物質的、理念的の両存在様式をもつものとして理解されねばならない。
16)プラトン著、田中美知太郎訳、『テアイテトス』、岩波文庫、1966.参照。
17)プラトン著、藤沢令夫訳、『メノン』、世界古典文学全集14,筑摩書房、1964参照。
18)Augustinus, "De magistro"(397A.D.) この日本語訳はまだないが、石井次郎著「アウグスチヌスの『教師論』について」、教育学研究、第28巻第1号、1961と三上茂著、「アウグスティーヌスの『教師論』における教授=学習の成立とことばの問題」、神奈川県立栄養短期大学紀要第3号、1971がある。
19)プラトン著、『テアイテトス』、149D以下、参照。
20)プラトン著、『国家』、第7巻、「洞窟の比喩」参照。
21)プラトン著、藤沢令夫訳、『パイドン』、世界古典文学全集14,筑摩書房、1964参照。

参考文献

1)プラトン著、上掲書の他『ゴルギアス』、『プロタゴラス』、『パイドロス』。
2)『ブーバー著作集』、みすず書房、第1巻『対話的原理 I』1967, 第8巻 『教育論・政治論』、1970.
3)Robert E. Cushman, "Therapeia. Plato's Conception of Philosophy", Univ. of North Carolina Press, 1958.
4)註に挙げた論文・著書。

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