ファチマの聖母マリア

「神の忍耐の限度」

2000

序論

1992年10月、ポルトガル、ファチマにおいて一つの歴史的な出来事が起こった。ファチマ・クルーセイダーがその最初の国際司教会議を主催したのはここでであった。その会議は歴史におけるカトリック司教たちの最大の私的な集会の一つを代表しており、また有名なファチマ御出現の詳細を討論する明白な目的のために開催された最初の会議であった。この書物はこの会議で行われた諸々の講演を含んでいる。これらの講演はすべてテープに録音され、後に書き写された。それらは講演者たちの思想を忠実に再現しながら、読みやすくするために少しばかり編集された。

ファチマ・クルーセイダーは国際ファチマ・ロザリオ十字軍の雑誌であり、ファチマの聖母に対する信心とその完全なメッセージの利益を促進するために捧げられている。この雑誌の創設者、ニコラス・グルーナー神父はこの出版物、並びに彼の毎日のテレビ番組およびラジオ番組を通じて数百万人の人々に知られている。

ファチマ・クルーセイダーがなぜこの平和会議を主催するのかを尋ねられたとき、グルーナー神父は三つの理由を与えている:

1)1931年にわれらの主はファチマの唯一の生き残りのシスター・ルチアにこう告げられた:「私に仕える者たちに、彼らが私の命令の実行を遅らせることにおいてフランス王の例にならうならば、彼らが彼にならって不幸に陥ることになるということを、知らせなさい。」われらの主はこのファチマ・メッセージが彼に仕える人々によって、すなわち、彼の司教たちによって、知られることを望まれた。われらの主の言葉が示しているように、神の要求を心に留めないことに対しては恐ろしい結果があるのである。

2)雑誌「アプローチズ」Approachesの編集者であったスコットランドの故ハーミッシュ・フレイザーはファチマの熱心な使徒であった。彼はシスター・ルチアが、多くの司教たちはファチマ・メッセージについて基本的なことを教授される必要があると述べた、と言った。

3)1980年にポーランドのウィシンスキー枢機卿のおられる所で教皇ヨハネ・パウロ二世は聖母の諸々の要求の実現 -- 特に世界平和のためのロシアの奉献 -- を求めている人々はまず最初に司教たちの支持と援助を求めるために彼らの所へ行くべきである、と言われた。

それゆえ、ファチマ・メッセージを直接司教たちのところにもたらすことにおいて、ファチマ・クルーセイダーは単にわれらの主、シスター・ルチアそして教皇ヨハネ・パウロ二世の指示に従っているだけである。

グルーナー神父の使徒職は、[以下のような]多くの人々がうるさいと考えるファチマ・メッセージの二つの局面を強調する完全なファチマ・メッセージのその忠実な促進のゆえに何よりもまず議論を引き起こした。

1)1960年に公開されると考えられた第三の秘密が全部公開されなければならない。

2)世界中のすべての司教たちと一致して教皇によるマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献の緊急の必要性。

その論争が誘発し得る暴力はこの1992年の会議に加えられた。その時彼自身の会議を催していた地方司教は、そのような許可は何ら必要とされないにもかかわらず、「教会法上の許可なしに」行われるとしてファチマ・クルーセイダーの会議を公然と非難した。

ファチマ聖堂の役職者たちによって記者団において産み出されたそれに続く混乱のゆえにおよそ25人の司教たちと大司教たちは翌朝始まるように計画されていた司教平和会議に関して彼らの質問に対して解答を得るために1992年10月7日の午後、グルーナー神父と面会した。

彼らは、満足したので、当時の地方司教ファチマのアルベルト・コスメ・ド・アマラル司教閣下との謁見を求めることに決めた。3人の大司教たち、すなわちインド、フィリッピン、ブラジルからの大司教たちは他の司教たちを代表する者として出かけた。午後9時に彼らは18キロ離れたレイリアに住んでいたその地方司教に会った。この会合は数時間続いた。

ファチマの前司教、アルベルト司教はグルーナー神父および司教平和会議に関する非常に誤解を招く陳述の出所であったにもかかわらず、平和会議をアルベルト司教自身が主催するファチマ聖堂の会議の一つの公式の部分とすることに同意した。

司教平和会議への参加者の中の教会法の専門家たちが述べたように、公式の招待と地方司教によって与えられる公式の地位を得る必要はなかったにもかかわらず、出来事のこの予期せぬ転換は実際すべての人々によって歓迎された。特に日刊の国際的新聞において国際会議に関して出された誤報に対して特に強い反響が出されていたのでそうであった。

この一致はレイリアから真夜中ごろに帰りついた大司教たちによって平和会議の主催者たちに知らされた。そしてそれから、ブラジル、レシフェの大司教、ほせ。カルドーソ・ソブリーニョ大司教閣下によって翌日の開会セッションの場で演壇から公に知らされた。

しかしこの表面上の休戦協定にもかかわらず、グルーナー神父は、小聖堂の聖器室にいる間に、10月10日に聖堂の職員たちによる突然の、挑発によるものではない身体的攻撃の犠牲者であった。1992年のこの攻撃の詳細は、グルーナー神父と彼のファチマ使徒職についての物語、「ファチマ司祭」Fatima Priestのうちに概略されている。

以下の諸ページは完全なファチマ・メッセージが知られ、また早急に従われなければならないという真理を支持する評判の高いカトリックの学者、著作家そして司牧者たちによるすばらしい発表を含んでいる。読者は、様々の専門知識を持つ話し手たちが、曖昧さなしにそして弁解なしにファチマ・メッセージの完全な重大性を説明するとき、講演の多くが緊急性の要素を含んでいるということに気づくであろう。時は遅くそして結果は重大である。それにもかかわらず、この書物はまた希望の書でもある。罪によって引き起こされた世界の無秩序に対する解決は容易に手の届く範囲にある。それはただわれわれにとっては聖母の単純な、愛すべき命令に従うことである。

講演はそれらのそれぞれの主題に従って三部に分けられる。この書物は共同奉献の必要性に関するアルラッパ司教からの手紙、さまざまの司教たちからの激励、また進行するファチマのドラマにおいてかつて起こった最も風変わりなエピソードの一つについての注釈を含む五つの附録で終わる。

この1992年平和会議の時に、会議に出席していた二人の高位聖職者とポルトガル語を話す一人の司祭がカルロス・エヴァリスト氏によって行われたシスター・ルチアとのインタビューに出席していた。そのインタビューの中では、[いわゆる]「シスター・ルチア」は、彼女が過去70年間言って来たことの本質的な部分を明白に否定した。後に「シスター・ルチアとの2時間」という名の下に公表されたこのインタビューは数え切れない混乱の源であった。

この出会いが1992年ファチマ会議に間接的に関係づけられたので、発行者たちは弁護士クリストファー・フェララによるそのインタビューの優れた反証を載せた。その論考はそのインタビューをインチキのものそして意図的に誤り導くものとして暴露している。

この書物の出版は大きな重要性を持つものである。その諸々のページを通じてこの歴史的な会議の働きが生き続けている。それによって、これらのセミナーに参加することができなかった関心のある信徒の大多数はそれにもかかわらず提出された優れた講演から利益を受けるであろう。この著作が多くの霊魂のうちに完全なファチマ・メッセージへの更新された献身の火に点火することが期待される。

目 次

2005/11/17 三上 茂 試訳

作成日:2005/11/17

最終更新日:2005/11/17

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