ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

この手段によって

Father Nicholas Gruner, S.T.L., S.T.D.(Cand.)著

1917年7月13日に聖母は三人の子どもたちに、「私の汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるために」戻ってくるでしょうと告げられた。聖母はこの約束を1929年6月13日に、シスター・ルチアに御出現になり、次のように告知なさりながら果たされた:神がロシアをこの手段によって救うことを約束なさりながら、教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心に奉献することをお求めになる時が今来ました、と。この要求の極度の緊急性は、われわれがロシアは他のどの仕方でも回心することができないということを考察するとき明らかである。なぜなら、ロシアが救われることができるのはただこの手段によってのみだからである。

人々が考えているあるいは期待していることとは反対に、つい最近においてさえ、司教たち、教皇に近い人々、そして諸教皇でさえ、彼らに対するファチマの聖母の命令が何であったかをはっきりとは知らなかった。(しかしながら、われわれはここで教皇ヨハネ・パウロ二世が1984年に彼がこの要求について知っておられるということ、そしてそれがまだなされていないということを指摘なさったことに注目すべきであろう。)

司教たちと教皇の補佐役たちにおける上述の知識の欠如はその大部分は、ファチマの聖母のために働いていると主張しているが、しかし実際は聖母のメッセージを適切に提示していないある種の人々によって広められてきた故意の誤報キャンペーンによるものである。

誤報によって誤り導かれた一人の善良な司教

次のものはある最近の、非常に明瞭なこの誤報の例である。1985年11月29日金曜日にナイジェリアの司教会議議長ガナカ司教は司教会議に出席していた他の数人の司教たちと共にバチカンで教皇との昼食会に招待された。

バチカン市において11月24日に国際ファチマ・ロザリオ十字軍のシンポジウムに出席して、ガナカ司教はそこで初めてロシアの奉献を求めておられる聖母の重要な要求について学び知った。

彼はわれわれの発表に感銘を受けて、ファチマ・クルーセイダーにこのことをするように教皇に求めるつもりだと告げた。彼はまたこの計画のために教皇ヨハネ・パウロ二世に対する彼の支援を示したいと思った。アフリカ出身のガナカ司教はバチカンにおいて非常に影響力を持つ人である。カトリック教会は最近アフリカにおいて非常にうまく行っているので、バチカンの高官たちは特にアフリカの司教たちの見解や忠告を尊重している。それゆえわれわれはそのアフリカの司教が1985年11月29日に教会に対して大きな善をすることができたであろうということを知っている。

ああ、悲しいことよ!誰かある者がその日司教たちが教皇に会ったテーブルの上にロシアの奉献がなされたということについて偽りのニュースを載せている一冊の雑誌を置いたのだ。この話は1982年5月の「インチキのインタビュー」の結果であったであろう。

ファチマ・クルーセイダーは20号*および22号**において、シスター・ルチアとの1982年5月の「インチキのインタビュー」がいかに偽りであるかを論証した。しかし再び、故意の誤報キャンペーンは明らかに戦いに勝った。教皇の建物の中のテーブルの上にあった、そのどちらかのこの[キャンペーンの]記事を見て、その司教はこの問題について教皇に話す自信を失った。そえれゆえ彼はその問題を持ち出さなかった。

注* 暴露された反ファチマの故意の誤報戦術 - Father Paul Leonard - May 1986を見よ。
** ブルー・アーミー指導層はファチマ・メッセージを曲げて伝えるある意図的な政策に従ってきた - Father Paul Leonard - March 1987を見よ。

ある教皇はある司教によって誤り導かれる

次のものはファチマの聖母に反対する故意の誤報キャンペーンのもう一つの例である。ポルトガルへの教皇使節であったサンテ・ポルタルピ大司教は1982年3月21日にシスター・ルチアに、ファチマの聖母に従うために教皇は何をなすべきかを尋ねた。

シスター・ルチアは教皇使節に、教皇はロシアを奉献することにおいて教皇に加わるために全世界の司教たちに命令する日時を選ばなければならないと説明した。インタビューのその部分は教皇の1982年ファチマ旅行の前に教皇に全然伝達されなかった。

1982年5月にファチマで教皇は、ロシアではなくて、世界を奉献された。それゆえに彼は聖母の要求を果たされなかったのである。第二に、彼は司教たちにこの行為において彼に加わるよう命令されなかった。教皇による従順のこの欠如は教皇が誤った情報を受けておられたからである。

この故意の誤報キャンペーンは新しいものではない

1952年にあるベルギーの女性が1929年6月13日のファチマの聖母の命令に関する一冊のパンフレットを受け取った。そのパンフレットの中では、聖母の言葉は次のように報じられていた:「神が私に...ロシアを奉献することを教皇にお求めになる時が来ました。神はこの手段によってロシアを救うことを約束しておられます。」不幸にも誰かが、このパンフレットの中で、「すべての司教たちと一緒に」と述べられた聖母の言葉を[...の箇所から]取り除いた。

そのベルギーの女性は自分が何の変更もない聖母の言葉を受け取ったと考えた。自分が読んだことによって感動させられて、その女性は思いとどまることなく、彼女の縁故、エネルギーそして強い意志を通じて教皇に接見することができた。

彼女は教皇ピオ十二世に1952年7月7日、ロシアを奉献させることに成功した。驚くことではないのであるが、彼女は教皇に、世界のすべての司教たちと共に奉献をしなければならないということを告げなかった。なぜなら、司教たちに言及しているその言葉はパンフレットから消えていたからである。

今日あなたは教皇が誤り導かれていることの結果として苦しんでいる

それゆえに、教皇は司教たちに彼と一緒にロシアを奉献するように求められなかった。その結果われわれは今日なお核戦争と共産主義への奴隷化の脅威の下に呻いているのである。われわれは今や1年間に5千万の中絶を持っている。

平和の一時代の代わりにわれわれは連続した戦争を生き延びている。それは教会に対する共産主義の戦争であり、1年間に5千万人の死者の犠牲を伴った胎児に対する戦争を生き抜いている。実際われわれは、カイヨン神父が「世界の司教たちと一致して」という文句を編集の時に削除したことに責任のあるその人物を正当に犯罪者と呼んだということを見るのである。

犯罪的なジャーナリズム

もしわれわれが一人の人間を殺す人を犯罪者と呼ぶことができるとするならば、もしわれわれがナチの大量虐殺において数百万のカトリックのポーランド人や数百万の他のキリスト教徒たちの強制収容所での死に責任があった人々を犯罪者と呼ぶことができるならば、もしわれわれが彼らを正当に犯罪者と呼ぶことができるならば、われわれはファチマのメッセージに関する彼らの意図的な歪曲、故意の誤報あるいは誤った情報によって諸民族全体が危険にさらされることを引き起こした人々を犯罪者と呼ばなければならないのではないか?

なぜなら、もしファチマの聖母のメッセージが従われず、ロシアがこの手段によって早晩回心しなかったならば、諸民族全体が絶滅させられ、地の面から拭い去られるであろうからである。

「犯罪者」という言葉はまったく正しい。そしてカイヨン神父は、シンポジウムで話しながら、これを犯罪的と呼ぶことにおいて正しく話したのである。われわれは、聖母の言葉を歪曲すること、そして聖母の言葉を与えないで、むしろファチマの聖母の明白な言葉に反対であるわれわれ自身の解釈を与えることは犯罪的であると同意しなければならない。

もしある共産主義者がこれらのことを言ったのならば、われわれはそれらのことを無視することができたであろう。なぜなら彼らはファチマを信じていないからである。しかしカトリックであることを公言し、そしてさらに多年にわたってファチマの聖母の使徒であることを公言しているある人物が聖母のメッセージを意図的に歪曲するならば、そのときこれは真に犯罪的であり、そして二重の意味でそうである。

それはわれわれの祈りによって、そして真理を広めることによって止められなければならない。神の助けと共に、そしてあなたの助けと共に、われわれはそれが遅すぎない前にそれを止めるであろう。

われわれは世界に真理を公表しなければならない

上述の三つの例によってわれわれは単に聖母の言葉を明確にそして歪曲なしに報告することの重要性を見るばかりでなく、またその言葉を公衆に公表することの重要性をも見るのである。1952年にロシアを奉献するように教皇に説得したのは教皇ピオ十二世のまわりの教皇庁高官たちではなかったということを思い起こしてほしい。ファチマの聖母のこの要求について告げるために教皇にその言葉を伝えたのは一般公衆に公表されていたあるパンフレットを取り上げた一人の平信徒の女性によったのである。

カイヨン神父によれば、教皇ヨハネ・パウロ二世のまわりには、ファチマの聖母の要求が何であるかについて誤った情報を伝えられている人々が今なお存在する。過去の経験ならびに現在の誤報キャンペーンの光に照らしてみれば、それゆえにファチマの聖母の完全なそして正確なメッセージが一般公衆に与えられるということは重要である。

イエズスはあなたが知ることを望んでおられる

教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマで「ファチマのメッセージは人類すべてに宛てられている」と言われたことを思い起こそう。次に、神が御自分の全教会がマリアの汚れなき御心の勝利としてのロシアの奉献を認めることを望んでおられるということを思い起こそう。

イエズスのこの望みはどのようにすれは実現され得るであろうか? 彼の全教会はロシアの回心が教皇と司教たちによるマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の結果であるということをどのようにすれば知るであろうか? 教会が、ロシアの回心が起こる前に、ロシアが回心するのはただ「この手段によって」だけであるということを告げられなければならないことは明らかである。換言すれば、その命令が従われる前に、イエズスの命令が教皇と司教たちに広く公表されるということは汚れなき御心の勝利のためのイエズスの計画の一部である。

それゆえに、この予告されたロシアの回心が起こるとき、ロシアが回心するということは教皇と司教たちによる従順の行為の結果であったということがすべてのカトリック教徒によって明瞭に見られるであろう。それはカザロリ枢機卿のバチカン・モスクワ同意(実際の同意はティッセラン枢機卿とヴィッレブランズ大司教の仕事であった。カザロリ枢機卿の東方政策はしかしながらバチカン・モスクワ同意に固執している。)に帰せられてはならないし、またロシアが回心するのは彼らの祈りによってであると主張するある敬虔な人々の誤った論法にも帰せられてはならない。。

ロシアの回心はただ「この手段によって」のみである。

ロシアの回心はわれわれの功績やわれわれの祈りにもかかわらず、純粋に、無償で与えられる恩寵の行為である。われわれはそれに値しない。しかし神は、われわれ自身の功績を通じてではなく、マリアの汚れなき御心の功績を通じてそれをお与えになるであろう。そして神は、ロシアの回心と平和が世界に与えられるとき、それはわれわれ自信の何らかの功績を通じてではなく、何らかの人間的政策、実践、等々を通じてではなく、ただマリアの汚れなき御心の功績と仲介に完全に信頼する奉献のこの行為によってのみであるということがそのとき明瞭に見られることを望んでおられるのである。

それゆえに、公衆にとって、特にキリストの教会の成員たち、カトリック教徒にとって、奉献が起こる前に、ロシアが回心するのはただ「この手段によって」のみであるということを知らされることは重要である。

彼らは平和が世界に与えられるのは「この手段によって」であるということを知らなければならない。彼らは世界平和とロシアの回心を引き起こしたのは他のいかなるものでもないということを知らなければならない。それゆえに、この問題の真理にとって公表されることが重要なのである。

次のことを思い起こしてほしい:

教皇がロシアを奉献するために1952年7月7日になされたように近くに来られたということは過去におけるそれについての公表を通じてであった。しかし、選ばれた平信徒の人物に与えられた誤った情報のために、すなわち、真理全体を公表しなかったあのリーフレットの発行者の「犯罪的な」怠慢のために、教皇ピオ十二世は神によって命令されたように[司教たちとの]共同的奉献をされなかった。そしてわれわれは、あの発行者の怠慢の結果として、われわれが今日いる混乱の中にとどまっているのである。

1952に、そして再び1982年に教皇に誤った情報を提供した人々、ならびに1985年にガナカ司教に誤った情報を提供した人々の悪しき例から、われわれはただ司教たちの目のためだけに意図された私的な書簡においてだけでなく、また一般公衆によって受け取られることを意図された雑誌、新聞そしてパンフレット等においても、真理全体が公表されるということを保証する必要性を明瞭に見ることができる。もし1952年のあのパンフレットの出版者が聖母の文章全体を公表さえしていたら、-- いかなる相違を今日われわれは持ったことであろう。

共産主義ロシアは故意の誤報によって政権を確保した

今日世界人口の半分近くは1952年に与えられた故意の誤報、誤った情報のゆえにロシアに支配されている。ロシアはその諸々の誤謬を広め続けており、15億人以上の人々を支配し続けている。もし教皇と司教たちが明確な情報を与えられていたならば、そしてもしファチマに対する反対や偽りの推論が明瞭に暴露されていたならば、そのとき教皇は奉献をなさっただろうとわれわれは確信している。

もし教皇と司教たちが義務感からそれをしなかったとしても、彼らはカトリックの公衆を喜ばせるために確かにそうしたであろう。ちょうど不正な判事の喩えの中の女が、その判事が神をも人をも恐れなかったとしても、正義を求めることを止めず、最後にはその根気強さのために正義を受けたのと同じである。

同様に、平信徒は、たとえ彼らが教皇と司教たちの従順の欠如によって基本的な正義を否定されているということを知っただけであるとしても、明らかに教皇と司教たちに[神の御命令に]従うように根気強く求め、そして最後には彼らの要求を獲得したであろう。

われわれはあくまでも求めなければならない

われわれは教皇と司教たちに彼らの義務を果たすように求める権利を持っている。そしてそれは彼らの義務である。それは単に一つの敬虔な儀式ではない。彼らは、われわれがファチマ・クルーセイダーにおいて論証したように、ファチマの聖母のこの命令に従う義務がある。彼らは義務を負っている。そしてわれわれは、彼らが彼らの義務を果たすように要求する権利、そして実際義務を持っている。

例えば、ある弁護士が依頼人を引き受けるとき、彼は依頼人を受け容れて、そしてそれから彼の訴訟を弁護しないということはできない。数年前、ある弁護士が雇われ、そして彼の助言と列席が、法廷においてではなく、他の状況において、必要とされた。ある土曜日に、この弁護士はすでにゴルフ競技を予め計画していた。それは彼にとって非常に重要なゴルフ競技であった。しかし依頼人は彼の弁護士にこう告げる権利のうちに完全にいた。「あなたは私の弁護人です。そしてこれは言ってみれば法廷における私の日です。そしてあなたは出席する義務を持っています。あなたがご自分のゴルフ競技をなさろうとしているかどうかは私には興味のないことです。」その弁護士は彼の義務を理解した。そして彼の依頼人のことを第一に配慮した。

同じように、医者は患者を受け容れるとき、その患者を癒すように努める義務を持っている。まさにその患者を受け容れることによって、彼は癒そうと努める義務、彼が患者に援助を与えることができるどんな道徳的仕方においてもその患者を助けるように努める義務を引き受けたのである。そしてそれゆえもし医者が「うむ、私は今日はとても忙しいのだ」と言うならば、われわれは、もし患者が彼の援助を必要とし、そして援助が得られないで死んでしまうならば、その医者は犯罪的に怠慢であると言うであろう。なぜなら、彼はその義務を果たしていないからである。

司教たちはこの責任を受け容れた

そしてそれゆえ、ある人が教皇になる前に、あるいはある人が司教になる前に、彼はその地位を受け容れるかどうかを尋ねられる。彼はただ司教にされるのではない。彼は教皇あるいは司教の職務を受け容れるのである。彼はそのことによって彼が引き受けた地位に付随する、われわれ一人ひとりに対する諸々の責任を受け容れる。彼はそのとき単に神に対してばかりでなく、われわれ一人ひとりに対してもまた義務 -- すなわち、われわれの霊魂を救うためにわれわれを助ける義務を持つのである。

神に対しまたわれわれに対する彼の義務を果たすために、そして世界に平和をもたらすために彼ができることを果たすことを含む共通善に対する彼の義務を果たすために、彼はロシアを奉献するようにという命令に従うことを義務づけられている。ところで、もし教皇や司教たちが遅すぎることになる前にマリアの汚れなき御心にロシアを奉献せよという神の命令に従うならば、神は世界に平和を与えること、諸国家の絶滅を避けることを教皇の手に、そして司教たちの手に与えられたのである。

それゆえに、彼らはわれわれに対する義務を持っている。彼らは共通善に対する義務を持っている。彼らは祝せられたおとめに対する義務、この命令に従う神御自身に対する義務を持っている。われわれは彼らがわれわれに対する彼らの義務を果たすように主張する権利を持っている。神は彼らが神に対する彼らの義務を果たすように彼らに要求することがおできになる。われわれは彼らが義務を果たし、われわれすべてのために遅すぎることになる前にファチマの聖母の命令に従うように敬意をもって彼らに求め、要求する権利を持っている。

われわれの霊魂は危険にさらされている

危険にさらされているのは単にわれわれの生命ばかりでなく、単にわれわれの自由ばかりでなく、単にわれわれの家庭、われわれの家族ばかりでない、われわれの永遠の救いさえが危険にさらされている。この危険はこの従順の行為が教皇と司教たちによって果たされないかぎり存在する。全世界が共産主義によって奴隷化されるとき、共産主義政権の下でわれわれの霊魂を救うことははるかに困難であろう。われわれは神に向かいあるいは転じる以外には向かうあるいは転じる場所を持たないであろう。共産主義者たちがここに到着するとき、われわれはキリストを否定し、共産党あるいはその後継者である反キリストの支配を受け容れることを求められるであろう。われわれは偉大な聖人、英雄的な殉教者になる自分たちを見出すか、それともわれわれの信仰を放棄し、キリストを否定し、そしておそらくその状態で死んで、その罪のために全永遠にわたって地獄に行く可能性が高いであろう。

そしてそれゆえ、それは単にわれわれの現世の福祉を救う動機のためではない。危機に瀕しているのは単にわれわれの自由だけではない。われわれが関心を持っているのは、単に死の苦しみを避けること、あるいは共産主義者の牢獄や精神病棟において困難や苦痛を蒙ることだけではない。それ以上である!危機に瀕しているのは地獄における全永遠にわたる霊的な死である。だからこそ、ファチマの聖母を通じて与えられたこの命令が従われることはそのように緊急のことなのである。

最も重要な介入

この命令は、1929年6月13日のあの荘厳な幻視において教皇と司教たちに対していとも聖なる三位一体によって与えられた。ファチマの聖母のメッセージとロシアの奉献のための命令はキリストが地の面を歩かれて以来の人類の歴史における最も重要な介入である。

1951年に教皇ピオ十二世の回勅は今日世界は[ ノアの ]大洪水の前よりも今もっと悪いと言った。毎年政府の支持を得、沈黙した大多数の人々の暗黙の承認を得た、中絶によって殺された5千万人の赤ん坊と共に今日世界は実際遙かに悪いのである。彼らの無辜の血は天に向かって復讐を叫んでいる。

本当に世界は懲罰に値する。にもかかわらず、神は、もしわれわれがファチマの聖母を通じて命じられた仕方でマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を手にしたならば、今日ロシアの回心と世界平和をわれわれに与えようとしておられる。それを無視することによって、あるいはもっと悪くさえあることには、それを妨害することによって、この要求を軽蔑する人々はより大きな罪ある者とされ、そしてそれゆえに彼らの他の罪がすでにそれらに値した以上のもっと大きな懲罰に値する。

われわれがときどき尋ねられる一つの質問は:「なぜあなたたちは司教たちの共同的な奉献に対する責任を持ち出すように見えるのか? これらの人々は平信徒が彼らの仕事をするならば、司教たちは彼ら自身の仕事をするであろうと考えているように思われる。」われわれは次のように答える:

ファチマ・クルーセイダー は、すべての人々 -- 平信徒、司祭たちそして司教たち -- に向けられたファチマの聖母の要求があるということをすでに公表してきたしそして今も公表し続けている。聖母は毎日ロザリオを祈り、カルメル山のスカプラリオを身につけ、われわれの日々の義務を果たすことによって犠牲を行い、われわれ自身を聖母の汚れなき御心に奉献し、初土曜日の信心を実践するようにわれわれすべての者に要求しておられる。

これらの要求のほかに、また聖母がまさに教皇と司教たちに向けられた非常に特別で特殊的な要求、すなわち、彼らが同じ日に荘厳かつ公的な仕方で聖母の汚れなき御心にロシアを特殊的に奉献しなさいという要求、がある。彼らだけがこのことをするように命じられている。というのは、彼らはそのような公的な償いの行為をなし、そして一つの国家を神に荘厳かつ公的に奉献する力を神によって与えられている唯一の者たちであるからである。

ある平信徒たちの側で次のように言う傾向がある:「司教たちに彼らの仕事をさせよ、われわれは何もする必要はない」と。今度はある司教たちはこう言うであろう:「平信徒の人々に聖母に従わせよ、われわれは何もする必要はない」と。事実は両方とも必要だということである。

そのような論法に答えてローマ司教区の承認を得て公表された雑誌 Christ to the World July-August 1983, page 189 は次のように指摘している:「[司教たちによる]ロシアの共同奉献が十分な数の個人的な奉献に先だって行われるべきかどうかという問題は彼らの共通の御母であり女王であるマリアに対する従順を遅らせるための信徒による、あるいは司教たちによるいずれのものであれ、その口実とされるべきではない。」

イエズスはそれが公表されることを望んでおられる

われらの主御自身は彼の司教たちの[持っている]従う義務について話された。そして彼らがこの問題において主に従わないことを選んだとと言われた。そして主は彼らがこの従順を遅らせることにおいて非常に重大な結果を蒙るであろうと述べられた。さらに、われわれはイエズスが教皇および司教たちに対する命令について彼の全教会が知ることを望んでおられるということを知っている。

われわれがそのことを知っている理由は、なぜ主は特定された仕方で教皇と司教たちがロシアを奉献することなしにロシアを回心させようとなさらないかというシスター・ルチアの質問に対する回答においてイエズスがこう言われたからである:「それは奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として私の全教会が認めることを私が望んでいるからだ。」

もしイエズスによって与えられた約束と条件が事実が起こる前に知られていないならば、どのようにして平信徒はロシアの回心がロシアの奉献の結果であるということを知るべきであろうか?

だからこそ父なる神、子なる神、そして聖霊なる神が1929年6月13日に聖母を通じてシスター・ルチアに荘厳に伝達されたこの命令を教皇と司教たちに対してお与えになったのだということは、広く公表されなければならないのである。

一般公衆はこの緊急の必要性を知らない

ファチマのメッセージを普及させる仕事において、司教たちと教皇からロシアの奉献についてのこの非常に単純で最も重要な事実を意図的に隠している人々は実際神のこの命令を軽蔑しているのである。もしファチマの聖母によって命令されているようにロシアの奉献が間に合うようになされないならば、そのとき聖母はわれわれに非常に明瞭にこう告げられたのである:「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

さまざまの民族の生存と多くの霊魂の救いがどうなるか分からないということを知っていて、そしてにもかかわらずこの奉献を意図的に妨害する人々は人類に対する非常に重大な犯罪に責任がある。

多くの司教は直ちにロシアを奉献する緊急の必要性について今日まで知っていない。彼らは次のことを知らない:

  1. 世界平和とさまざまの民族の文字通りの生存がそれにかかっているということ。

  2. もしそれがずっと長く遅らせられるならば、数百万人の人々が死ぬであろうということ。

  3. 多くの霊魂の救いがそれにかかっているということ。

  4. もしそれが間に合うようになされないならば、われわれこの「自由」世界にいる者は共産主義ロシアによって支配され奴隷化されるであろうということ。

教皇は真理が広く公表されることを必要としている

教皇はファチマの聖母に従うために司教たちの協力と支持とを必要としている。しかし司教たちがロシアの奉献について嘘を告げられ、誤った情報を与えられてい限り、彼らは教皇を支持しないであろう。彼らは教皇がそれを必要としていることさえ知らないであろう。

さらに、今度は司教たちはこの命令を遂行するために平信徒によって、そして彼らの司祭たちによって励まされ、支持される必要がある。しかし、もし人々と司祭たちがそれがすでになされている -- あるいはそれは本質的なことではないと考えるように誤り導かれているならば、このことはどのようにしてなされ得るであろうか?

このように、そのような嘘を告げそのことによって司教たち、平信徒と司祭たちを誤り導く人々は、たとえ彼らがその誤りにおいて誠実であるとしても、それでもなお世界平和と数百万もの生命や霊魂の救いを妨げているのである。

もし彼らがこれらの嘘を知りつつ告げているならば、そのとき実際彼らは人類に対する大きな犯罪に責任ある人々でなければならない。このことは彼らがその沈黙と黙認とによって人々と司教たちに何が神の命令であるかを知らしめないようにし、そのことによって諸民族の絶滅を引き起こしているからである。

ある人々によって持ち出された困難

ある人々によって持ち出されたもう一つの困難は次のようなものである:われわれはこの奉献の行為をするように司教たちに強制する政治的圧力をかけるべきではない、と。

われわれは、平信徒は諸権利を持っているということ、そしてカトリック教会のすべての成員は教会の権限に属する諸問題において教皇に請願する権利そして時には義務すら(第二バチカン公会議LG No.37を見よ)を持っていると説明してきた。カトリック教会の各々の成員が教会管轄権に属する諸問題に関して教皇から裁定を求める権利を持っているということは第二リヨン公会議ならびに第一バチカン公会議によって荘厳に決定されている。そして確かにファチマはそのような問題なのである。

第五ラテラン公会議がわれわれに告げているように、教皇は預言的啓示に関して判定者である。ところでファチマのメッセージは教皇と教会によって承認された一つの預言的啓示である。それは、教皇と司教たちが神の命令に従うときにのみ、平和が世界に与えられるであろうと明確に述べている。

教皇、司教たちそしてわれわれの義務

それゆえに教皇と司教たちは速やかに従う、神に対する義務とわれわれすべてに対する義務とを持っているのである。彼らが遅らせる限り、われわれはわれわれの生命、われわれの自由、そしてもっと重要なことに、ロシア共産主義の支配の踵の下で宗教的迫害を通じてわれわれの霊魂を失う危険に瀕しているのである。

これは彼らの義務であるからして、われわれは司教たちに命令するように教皇に求める権利を持っている。もしわれわれが権利を持っているならば、われわれはその権利を用いる義務を持っている。少なくともこれらの事実を知らされて知っているわれわれのうちのある者はそうである。われわれは教皇の注意にこれらの問題を尊敬をもってもたらすことによってこの権利を行使している。彼にとってロシアを奉献することにおいてファチマの聖母に完全に従うことよりも傾聴するのにもっと重要なものは何もありえないであろう。

現在の教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマの聖母を通じて与えられた神のこの御命令を果たすことよりももっと良い何物をも好まれないであろう。彼がまだ司教たちに命令されなかったのはただソビエト・ロシアによって行使された恐るべき圧力と教会内部のある人々からの圧力のためである。もし教皇がカトリック教徒の徹底的な支持を持っているということを知っておられたならば、この命令を与えることに躊躇されなかったであろう。

ファチマの聖母のこのメッセージについての真理を公表することによって、反対に答えることによって、請願を広めることによって、われわれの信頼できるチャンネルを通じて教皇にこれらの請願を数百万も提出することによって、教皇を助けることはわれわれの義務である。このことを ファチマ・クルーセイダー はしてきたのであり、これからもし続けるであろう。

さらなる遅延の悲劇的な諸結果

シスター・ルチアの回想録や書簡および他の明白な資料において公表されているものとしてのファチマ・メッセージは何らの疑いもなく、ロシアが回心し、そして平和が世界に与えられる前に教皇と司教たちによって奉献されなければならないと明確に述べている。

この遅延の結果は多くの霊魂が永遠に失われるということである。すでに1940年7月15日の手紙の中で、シスター・ルチアは同じことを言っていた:「私はそれ(ロシアの奉献)がなされなかったことを本当に悲しんでいます。そうこうしている間に非常に多くの霊魂が失われるのです!」ファチマの聖母はこう言われた:「もし私の要求が聞き入れられるならば多くの霊魂が救われるでしょう。

純粋単純な論理は教皇と司教たちに与えられたこの荘厳な命令が1929年6月13日にファチマの聖母を通じて神によって与えられたか、それともそうでなかったかのいずれかであると言うことをわれわれに強いる。もしその命令がそのとき与えられたのであればそのとき、彼らは従わなければならない。

さらに、単純な論理は、神がファチマの聖母を通じて、世界の平和とさまざまの民族の連続した生存がこの命令への教皇と司教たちの従順に依存しているか、それともそうでないかを認めることをわれわれに強いる。

聖母の言葉は明瞭である

聖母の言葉の意味は明瞭である。すなわち、もしロシアを奉献するというこの命令が間に合うように従われないならば、さまざまの民族が絶滅させられる、すなわち地の面から拭い去られるであろうということである。教会はファチマ・メッセージを承認した。そしてそれゆえにそれに従う義務を負っている。そのことは教皇と司教たちはまた彼らに与えられたその命令に従う重大な義務を負っているということを意味する。これが聖母の言葉の明白な意味であり、そしてそれがさまざまのファチマ学者たちの結論である。

もしこれらの結論が真でないならば、もしファチマのメッセージがこれらの結論に反するある事柄を教えているならば、われわれは教皇からの公的、公式的な威厳ある裁定によって知る権利を持っている。換言すれば、もしこれがメッセージの適切な解釈でないならば、われわれは教皇からの裁定への権利を持っている。

教皇の比類なき立場

教皇は責任ある者でないことはできない。イエズス・キリストによって設立されたものとしての教会のまさに本性によって、教皇は神の次に至高の権威を持っている。そしてそれゆえに彼はまた至高の責任を持っているのである。

この責任は司教たちに命令するよう教皇を義務づける。というのは全教会の善がかかっているからである。そして教皇は癒しの医薬品を適用するために神からこの力を[与えられて]持っている唯一の者であるからである。それゆえにわれわれはロシアを奉献するように司教たちに命令するその義務を果たすように教皇に求める権利をそして義務さえを持っているのである。

教皇は医者に似ている

あなたが医者のところへ行くとき、あなたはあなたをよくし、あなたの生命を救うために最善を尽くすことを彼に求める権利を持っている。彼はそれが助言であれ、あるいは処方であれ、あるいは外科的処置であれ、彼があなたのためにする専門的な仕事に対して個人的に責任を持っている。

もし医者が病気を診断し、治療法を知っており、そして医薬品を適用することができるならば、彼は必要とされる医薬品を与える義務に縛られている。これは明らかである。同じように、教皇はファチマ・メッセージを承認することによって、世界の病を診断した。そしてその治療法 -- それはロシアを奉献することである -- を知っている。教皇は、医者と同じように、彼がそれを自分の能力のうちに持っている時その治療 --それはファチマの聖母によって指定された仕方でロシアを奉献することに彼に加わるよう司教たちに命令することである -- をわれわれに与えるよう義務づけられている。

あなたはあなたの弁護士が神の律法とあなたの最善の利益に従って助言を与えあなたを代理するであろうと期待する権利を持っている。もしあなたの弁護士があなたの利益を肝に銘じないならば、彼はあなたを代理する責任を引き受けてはならない。

司祭は小教区の人々に義務を負っている

同じように小教区の司祭は単に神に責任を負っているばかりでなく、また彼に委ねられた霊魂たちにも責任を負っている。その霊魂を救うよう彼らを助けることは彼にとって正義における一つの厳格な義務である。このように、例えば、一人の小教区司祭は道理に適った仕方で秘蹟を求める彼の小教区の成員に秘蹟を拒絶することはできない。そうすることは義務のはなはだしい放棄であろう。

司祭は平信徒の人々よりも高い地位を持っているけれども、それにもかかわらず平信徒は彼らの小教区司祭から真の教義と秘蹟の両方を受け取る、神によって彼らに与えられた権利を持っている。なぜならその両方は彼らの霊魂を救うために必要だからである。同じことは司教についても真であり、そしてその問題に関しては教皇も同様である。

司教たちは責任を引き受けている

このことをさらに例証するためにある医者(あるいは弁護士)がある人物を患者(依頼人)として引き受けるとき、彼は自動的に彼の患者(依頼人)の利益を配慮する個人的責任を引き受ける。そのようにまた、ある司祭が教区司祭の仕事を引き受けるとき、彼は彼に委ねられた霊魂たちが救われるように彼のすべての義務を果たすために彼のすべての小教区民に対して個人的な責任を引き受けるのである。

同じように、ある司教が教区の管理を引き受けるとき、そしてある司教が教皇であることを引き受けるとき、-- 彼もまた、単に神に対して個人的責任を引き受けるばかりではない。彼はまた彼が彼らに対して彼の義務を果たすように、彼の配慮に委ねられた各々のそしてあらゆる霊魂に対する個人的な責任を引き受けるのである。

ファチマ・クルーセイダー においてわれわれが何度も指摘したように、教皇と司教たちは荘厳かつ公的に同じ日に[マリアの]汚れなき御心にロシアを奉献せよという神のこの命令に従わなければならない。この問題において神に従うことは彼らの重大な義務である。さらに、ロシアを奉献することは単に神に対する彼らの義務であるばかりでない。それはまたわれわれ一人ひとりに対する彼らの義務でもある。

われわれは彼らに求めなければならない

そうであるならば、われわれはこのことをうやうやしく求める権利を、そしてもし可能ならば彼らの義務を果たすことへと彼らを強制するわれわれの力における手段を使用しさえする権利を持っている。

このことをする際にわれわれは神によってわれわれに与えられた権利の限界を踏み越えないように注意深くあらねばならない。われわれは司教たちに命令することはできない。われわれは教皇に命令することはできない。われわれは市民法あるいは教会法の法廷に坐って、あたかもわれわれが彼らの上長であるかのように、彼らを裁くことはできない。しかしわれわれは神がわれわれに与え給うた手段と権利を用いることができる。そしてもし状況がそれを保証するならば、神はそれらをわれわれが用いることを期待しておられる。

教会はそのすべての成員の世襲財産である。われわれは演ずべき異なった役割を持っている。しかしすべての者は教会に対して責任を持っている。それはこの著者あるいはあなたあるいは小教区司祭あるいは司教あるいは教皇に属するのではない。それは神のものである。教会は守るためにわれわれに委ねられたのである。

このことは堅振という偉大な秘蹟によって聖霊を受けたわれわれすべてについて特に真である。われわれはキリストのための兵士であるように召されている。

ファチマの命令を公表する義務

聖書がわれわれに告げているように、ある人々は使徒であり、他の人々は説教者、他の人々は預言者、等々、そして他の人々は平信徒である。しかしすべての人はわれわれの能力と機会に従って、真理を語り、それを公表し、それを擁護することによって共通善を擁護する義務を負っている。あなたもまた、数百万の霊魂のために遅すぎることになる前に今この最も緊急のニュースを伝えることによってわれわれの努力を支援し、そしてそれらを増やす義務を持っている。

平信徒は神によって与えられた手段を持っている

ガニョン枢機卿は1983年9月の Wanderer において公表されたある公的なインタビューの中で、平信徒は彼らの能力のうちに教皇に従うように司教たちや司祭たちを強いることを持っていると明瞭に述べた。平信徒が持っているこれらの手段は何であろうか? 彼は公然とそして明白に、平信徒の人々は、例えば初聖体の前の初告解のような問題において教皇に従わない司教たちや司祭たちに日曜日の献金かごへの献金を控えるべきだと勧めた。

もしガニョン枢機卿がわれわれに、司教たちが従うまで(ちょうどあなたがあなたの弁護士に、彼が適切にあなたを代理しないならば、支払わないのと同じように)司教の支持に貢献することを控えることによって教皇に従うように司教たちを強いるようわれわれに告げることができるならば、そのようにあなたは、司教たちが彼らの職務を果たさないときあなたの司教たちから物質的な支持を取り消すことをあなたの力のうちに持っているのである。

そのことは神が平信徒に与え給うた一つの道具である。それは司法権という道具ではない。すなわち、われわれは彼らにあることをするように命令することはできない。しかしわれわれはもし彼らが彼らの義務を果たさないならば、われわれの物質的な支持を取り消すことができる。

われわれはあらゆる手段を用いなければならない

それゆえに、もしわれわれがわれわれの霊魂の救いを危険にさらして、共産主義者の支配の下に置かれるならば、われわれの自由、われわれの平和、われわれの子どもたち、われわれの財産...はすべてわれわれから取り去られるであろうから、確かにわれわれは司教たちにロシアを奉献させるために神がわれわれに与え給うた手段を用いる権利そして義務すらを持っているのである。もしロシアが間に合うように奉献されないならば、ファチマのメッセージは実際ロシアがわれわれすべてを征服するであろうと明瞭明白に述べるのである。

もちろん、われわれはまた司教たちのために祈らなければならない。そしてわれわれ自身の生活の中でわれわれはファチマの聖母に従い、そのメッセージをそれがわれわれのすべての友人たちや隣人たちに属するものとして広めなければならない。しかしこれらの事柄をなすことは、司教たちがロシアを奉献することにおいて彼らの義務を果たしているということを見るためにわれわれが出来ることをするようわれわれに与えられたわれわれの責任を排除しない。霊魂たちの救い、世界の平和、そしてさまざまの民族の生き残りにとって、教皇と司教たちが神のこの命令に直ちに従うということよりも重要な事柄は何もない。

司祭たちは位階の成員である

司祭たちが位階の成員であるということを知らない人々に対して、われわれは彼らに司祭たちは典礼の書物が第二階級と呼ぶものを受けたということを思い起こさせる。それが意味していることは司教の階級である第一階級があるということである。

第二の階級によって、司祭たちもまた位階の成員である。司祭の権限はいくつかの事柄において彼の司教の権限に依存しているけれども、それにもかかわらず、司祭たちが、司教たちあるいは平信徒のいずれによっても呑み込まれることのできないカトリック教会内部での位階的な役割を持っているということは真である。

司祭は神に対して個人的に責任を負っているが同様にまた彼が個人的に施す諸々の秘蹟のために奉仕する人々そして彼が教えることに対しても責任を負っている。

例えば、パードレ・ピオは彼が常に従順であった彼の修道会の上長によって、彼の定期的な告解者の告解をただ2週間毎にだけ聴くために彼らの告解聴聞を毎週行うことを止めるように求められたとき、それに従うことを拒否した。その上長はしかるべき理由、すなわち、海外から来て、そして時には告解のためにパードレ・ピオにたどり着く前に17日間も待った告解者たちを楽にさせるという理由、を持っていた。

上長は定期的なその地の告解者たちに対するパードレ・ピオの告解聴聞を少なくすることによって海外の人々の待ち時間が幾分減らされるであろうと考えた。確かにそれは愛徳によって考えつかれたことであった。しかし、パードレ・ピオは、従順であったけれども、この提案を拒否した。彼が拒否したのは、彼の定期的な告解者たちの霊魂の聖化と救いに対して彼は個人的に責任を負っているからであった。彼らは週に一度自分たちの告解をパードレ・ピオに聴いてもらう権利を持っていたのである。このように、パードレ・ピオは神に対する従順から、そして彼の定期的な告解者たちに対する彼の義務を果たすために彼の上長[の言葉]を拒否しなければならなかったのである。

同じように、聖ピオ十世が小教区司祭であった時、彼は自分の司教からある種の主題に関する説教を止めるように命令された。彼はうやうやしくその司教に彼の命令を書面にしてくれるように求めた。すべて上長は彼が与えるあらゆる命令に対して個人的な責任を喜んで引き受けるということは教会法が当時規定していたことであり、自然法もそう規定している。説明責任を保証するために、部下はその問題が公的な記録の問題となるように求める権利を持っている。

このようにピオ十世は彼の司教に彼の命令を書面でくれるように求めたのである。それゆえ教区司祭が求められたならば、あるいはそれが知られるように望むことさえあるならば、彼は司教の署名のある文書を指摘することができるであろう。その司教はその命令に対する個人的な責任を取ることを望まず、彼の部下に書面での命令を与えることを拒否した。それでその小教区司祭、ヨゼフ・サルト(後に彼は聖ピオ十世となった)は彼に答えてこう言った:「結構です。私は私が説教してきたことを説教し続けます」と。そして彼はそうした。

司祭たちは真理を声高に宣言しなければならない

すべてのカトリックの信徒は、そしてそれ以上にすべてのカトリック司祭は彼らの仲間のカトリック者たちに神の真理に従って生きるように話しまた勧めることによる共通善に対する義務を持っている。誰も、司教でさえも、神が諸個人に、あるいは位階の成員たちにさえ期待しておられることについてそれが知られることから真理を妨害する権利を持っていない。

イエズスは道、真理、生命である。彼は真理を知られるようになることから妨害するために位階のいかなる成員にも権能をお与えにならなかった。特にこの真理が救いのために有益であり、そして必要であるならばそうである。ところで、神はいわばそのような困難に直面され、そしてファチマの要求を知らせるために恩寵ととてつもない奇跡という不思議を働かれたのであるから、確かに神はすべての人類に全真理を知らせたいと望んでおられるのである。

ファチマ・メッセージを宣言するために許可は必要とされない。

A.A.S(1966)に従えば、教皇パウロ六世は1966年11月15日づけの文書においてわれわれはもはや司教の是認なしにファチマ・メッセージを公表することを教会法によって禁じられないと定められた。

それゆえファチマのメッセージを公的に是認する司教がいることは必要ではないのである。それはすでに五人の教皇たちによて是認されてきた。あなたにとってあなたの隣人たちにファチマのメッセージを告げるために、あなたはファチマについて話し、このメッセージを書かれた形式で伝えるあなたの個人的な使徒職を是認する明示的な書簡あるいは文書を必要としないのである。

われわれがファチマの聖母のメッセージの真理を告げるということは、無知あるいは弱さ(あるいは悪意)によってファチマのメッセージを故意に歪める位階の何人かの成員たちの無価値な是認を得ることよりももっと重要である。

数年前別の雑誌の印刷物において、聖母は実際はロシアの回心のために公然と祈ることをわれわれに望んでおられないとそれとなく言った司教がいた。ジョセフ・ド・サント・マリー神父は、奉献がなされなかったことは明らかであるときに、奉献はなされたと言って世界中を回っているまだもう一人の司教がいるとわれわれに語った。

彼の誤った情報と人々を欺いたこと(意図的であろうとあるいはそうでなかろうと)の結果として聖母といとも聖なる三位一体の命令に従ったロシアの奉献は阻まれてきた。

われわれは上述の二つの例のような司教たちの是認を持たない方を選ぶ。われわれは真理がより重要であると考える。

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2004/11/18 三上 茂 試訳

作成日:2004/11/18

最終更新日:2004/11/18

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