ファチマの聖母マリア

現代エキュメニズムは欺瞞である

The Fatima Crusader, Issue 31-32 March-May 1990より

聖ベネディクト会、ニュージャージー、ベルリン

この解説の目的は現代的エキュメニズムに石を投げることではまったくなく、忠実なカトリック教徒に彼らの「高価な真珠」、彼らの一つの真の聖なるローマカトリックの信仰を時代の自由な精神に明け渡す危険を警告することである。

1908年版のカトリック百科辞典には「エキュメニズム」という語は現れさえしていない。それはエクアドルからエキュメニカル公会議へさらにエッダへとまっすぐに続いている。エキュメニカル公会議というこの見出しは以下のことを含んでおり、それ以上は何もない:

エキュメニカル公会議:公会議、一般を見よ。

しかしながら、1965年のカトリック百科辞典には7ページが「エキュメニカル運動」に充てられている。それゆえに、エキュメニズムは20世紀の現象なのである。60年という短い期間にわれわれが今日それを知っているようなエキュメニズムは非存在の状態から「教会の新しい神学」の不可欠の骨組みとなったのである。

エキュメニズムの定義

エキュメニカルな運動は基本的には、すべての諸教会の単一の教会への再統合への運動である。それは身体において一つであるが、しかし必ずしも同一の宗教的教義を持っていない...われわれが共通に持っているものに焦点を当て、われわれを分かつ事柄をもみ消すものである。しかしながら、もしあなたが10の諸教派の10人の異なった神学者たちにエキュメニズムの定義を問うならば、その見込みはあなたが10のいささか異なった解答を受けるだろうということである。これがエキュメニズムの最大の弱点である。それは何らかの堅固な正統的な定義を欠いている、理解しにくいそしてずさんな表現である。このようにそれは--転覆を狙う諸運動一般がするように--曖昧性とごまかし言葉に役立つ。第2ヴァチカン公会議は、一度も言葉の定義を与えることなく、エキュメニズムについて非常に多く語った。

1960年以前は、カトリック教会は、ときどき、それによく知られた10フィートの棒でもって触れながら、しかし決して積極的な役割を演じないで、常にエキュメニカルな運動をキリストの神秘体に寄せ付けないようにしてきた。

教会史のどの研究者も、ローマ・カトリック教会の特別のカリスマは混乱の時代に真理を明確にすること、そして教会が使徒たちの時代以来常に信じてきたものにすがりつき、そしてそれを明確にすることによって新奇なものあるいは誤ったものに反対することであったと、あなたに告げるであろう。このように、マルティン・ルターが、ローマ・カトリック教会が真だと主張したものの非常に多くのものを否定したとき、教会は7つの秘蹟、贖宥[免償]、義認、等々の各々を詳細に定義しながら...トレント公会議でこの問題を処理した。教会はこれらの公会議において新しい教義を創り出すのではなくて、教会が常に信じて来たものを荘厳なそして公式的な仕方で定義し、そして明確にするのである。過去の諸々の公会議は教会と世界を混乱の時代から神学的な安定の時代へと連れて行った。不幸なことに、第2ヴァチカン公会議は教会の歴史の中でこの点に関して助けなかった最初の公会議である。実際のところ、われわれはすべての証拠が、公会議が事柄をますます悪くしたということを示していると残念ながら認めなければならない。

エキュメニズムの起源

今日存在しているようなエキュメニカルな運動はその起源を1910年にエディンバラでのプロテスタント宣教師たちの会議に負っている。その最初の目的は異なった教派のプロテスタント宣教師たちの間で異教的世界を「福音化する」ために協力の精神を促進することであった。教義上の諸相違は軽視されなければならない...行動の結束そしてすべてのものによって共通に主張されていることが称揚されなければならない。

フィリピンのアメリカ監督派教会主教チャールズ・ブレント(Charles Brent)がすべてのキリスト教宗派からの代表者たちの大会議招集の考えを抱いたのはこの時期の間であった。第2回会議はブレントによって「信仰と秩序に関する会議」と呼ばれた後間もなく形成された。1919年に、代表者を送るように請われた聖座は丁重に断った。ベネディクト15世教皇は、自分の熱心な希望は一つの群、一人の牧者であるけれども、カトリック教会にとって一致を求めて他の教派に結びつくことは不可能であると説明された。キリストの教会に関するかぎりでは、それはすでに一つであり、それ自体あるいはそれ自身の一致を求める外見を与えることはできないであろう。教皇はカトリック教会の外部の何かあるものとしてその運動を非とされたのではないと報告されている。しかし、彼自身の言葉によって、彼がカトリック信徒にとってそのような仕方で一致を探すことに参加することは単に有害であるばかりでなく、危険でありまた恥ずべきことでさえあるということを教皇が知っておられたことは明らかである。

世界教会会議=WCCが生まれたのはこの運動を通じてであった。

Mortalium Animos とHumani Generis

キリスト教的愛の歪められた概念によって影響されたかなりの司祭や神学者たちがこの「一致運動」に興味を持つようになり、そして多くの者が文字通りそれに加わろうと焦っていたことは疑いない。このようにして、ピオ11世教皇は1928年に書かれたのだが、すぐれたカトリックの手引きである回勅Mortalium Animos注1)(真の宗教的一致の助長について)を準備するように動かされた。これは、明白な諸理由のために、今日ほとんど引用されない回勅である。ピオ12聖教皇もまた、その偉大な1950年回勅Humani Generis(カトリック信仰の基礎を破壊する恐れのあるいくつかの誤った見解を扱う)においてこの誤謬に警鐘を鳴らされた。教皇は、「カトリックの諸々の教義の意味を最小限にまで引き下げる」ことを望む人々、そして「善良で正直な人々を分かつ防壁を廃止しようとする欲求」について警告された。教皇が用いられた言葉は、それを「重大な危険」と呼びながら、「平和主義」("eirenism")であった。なぜなら、「それは徳の仮面の下に隠されているからである。」(Humani Gneris par. 12 - 25を見よ。)ヴィンセント・ミセリ(Vincent Micelli)神父はこの回勅を「忘れられた回勅」と呼んだ。それは忘れられたのではなくて、猛烈に無視されたということの方がよりありそうなことであると思われる。十分に奇妙なことであるが、ピオ11世教皇とピオ12世教皇の両者によって不道徳だと考えられたまさにその行為が1962-65年公会議に従うカトリック教徒に対してはいわゆる「第2ヴァチカン公会議の精神」によって突然正当化されるものとして力説された。

公会議で流布されたエキュメニズム

それは将来のニュースレターにおいてもっと詳細に取り扱われるであろうけれども、ここでピオ10世教皇によって断罪され、そして実質的に統制の下に置かれていたすべての異端の総合である近代主義がそれにもかかわらず、聖ピオ10世がそう表現されたように、「教会のまさに懐の内部に」生きており、そしてうまく隠れていたのである。

第2ヴァチカン公会議は世界のすべての司教たちそして彼らの最も「一流の」神学者たちを一緒にローマへもたらした。そして教会の最大の悲劇であることには、リベラルなそして近代主義的な要素が勝ったのである。注2)その諸々の結果は際だった仕方でわれわれの目の前にある。

エキュマニア[=エキュメニズムへの異常な熱狂]の精神が今猛威を振るっている。第一の関心はもはや「それは正統であるか?」ではなく、「それはエキュメニカルであるか?」である。どうしてかわからないが変化と新機軸に対する強い欲望が一つの多幸症的高みにまでもたらされた。プロテスタントや教会分離主義者たちは参加するためではなくて、オブザーバーとして来るために、公会議に出席するよう招待された。少数の司教たちはこのことが彼らの諸々の誤謬が含まれている問題を議論するのにいくぶんやりにくくしたと述べた。ミサの新しい儀式はこのエキュメニズムの精神によって考え出された。これがその儀式があるプロテスタントの礼拝に非常によく似ている理由である。「エキュメニズムの精神」は「新しい教会」によって確立された新しい典礼および秘蹟の形式の全範囲における最も重要な形成原理であった。第2ヴァチカン公会議にすぐ引き続いて、全カトリック教会は突然、疲れを知らないエネルギーと激しい憤激とを伴って全教会を貫いてその軌道を飛び立つ、深いそして前例のない諸変化によってその中軸を揺さぶられた。確実にこの革命を求めなかった、そして彼らの指導者たちが彼らのために何を用意していたのかについてまったく知らなかった不幸なカトリック平信徒たちは完全に不意を襲われた。それゆえに、公会議は世界におけるあらゆる小教区、あらゆる修道会そしてあらゆる神学校を一様に貫いてまさにその軌道を飛び立とうとしているエキュメニズムのロケットを支えている一つの大きな発射台のようなものであった。

近代のエキュメニズム:教会の沼地

川と沼地との間の相違は大きい!沼地は堤を持たない。そして水は赴くままにごたまぜになる。沼地は航路として、魚のための生命の源として、あるいは浄化のためには役に立たない。だが一方、川は水を正しい方向に流れるようにする固定した堤防を持っている。それは境界、深さそして幅を持っているので、生命、健康そして実際的な利益の大きな源であることができる。

現代のエキュメニズムは一つの沼地である!われわれはエキュメニズムそれ自体の明確な定義なしに、そしてエキュメニズムのための安全なガイドラインが何であるか...換言すれば、人はどこで止まるべきかを[知らされずに]このエキュメニカル運動の中へパチンコ玉のように打ち込まれてきた。すべてのエキュメニカルな活動は、どれほど恥ずべきものであり、あるいは馬鹿げたものであろうとも、第2ヴァチカン公会議のエキュメニズムに関する布告に訴えることによって正当化されている。その布告は、他の公会議諸文書と共に、定義を欠いており、そして意識的に曖昧である。この点に関して、ルフィニ(Ruffini)枢機卿は、エキュメニズムに関する布告が「エキュメニズム」という言葉それ自体のいかなる適切な定義をも用意することに失敗したという特別の関心を表明された。...それは一つの危険な要因である。なぜなら、その言葉はプロテスタントたちとカトリック教徒たちによって異なった意味で用いられているからである!リベラルなオランダ人神学者エドワード・シレベークス(Edward Schillebeeckx)神父--第2ヴァチカン公会議の専門家(periti)--はこう認めた:「公会議の間われわれは曖昧な用語を用いた。そしてわれわれはそれらを後でどのように解釈するかを知っている。

ありそうなことであるが、「エキュメニズム」という用語のその使用のために第2ヴァチカン公会議によってエキュメニズムの定義が与えられなかったのはなぜか、その理由はもしエキュメニズムの布告の本当の意図が公然と宣言されたならば、善意のカトリック教徒でしっかり知識を持った者がそれを拒絶したであろう、そして転覆の道具としての布告の価値が失われたであろうということであった。額面通りに言って、神の意志に従った宗教的統一が、神御自身、神の教会そしてわれわれの救いに関する神の啓示の何であれ何らかの局面を「共通に」信じられているものを誇張して言うために軽視することによって可能であろうという不条理な考え方に、どの真のカトリック教徒がどのようにして同意できるであろうか? それは、あたかもカトリックの教えと伝統の2000年がエキュメニズムの「メシア」の前に腰をかがめ、「それは増大しなければならない、そしてキリストの教会は減少しなければならない」という不滅の言葉を発するべきであるかのようである。

同じ立場でのすべての諸宗教

エキュメニズムの大きな危険はそれがすべての諸宗教を同じ立場の上に置くことである。現代エキュメニズムはわれわれに何であれ宗教的信念を持っているすべての人間は等しく「神への途上に」あると信じさせるであろう。彼らはそこに到達するために単に異なった手段を取っているにすぎない...それゆえ、もしあなたがプロテスタントであるならば、よきプロテスタントでありなさい、もしあなたがユダヤ教徒であるならば、よきユダヤ教徒でありなさい、もしイスラム教徒であるならば、よきイスラム教徒でありなさい、もしヒンドゥー教徒であるならば、よきヒンドゥー教徒でありなさい。神は一つの山の頂上におられる方として描写され、そして神に導く山へと登る多くの道や小道がある。どの人間も彼が望む道を選ぶ自由がある。神にとっては神に達するために一人の人間がどの道を選ぶかにいかなる差違もない。誰も確実に彼自身「唯一の道」を持っていると宣言することはできない。

さてカトリック教徒がひとたび「エキュメニズム病」(Ecumenitis)ウィルスを彼らの血流の中に入れてしまうと、その伝染病はただ霊的な病気と死とをもたらすことができるだけである。彼らは彼ら自身のカトリシズムについて不注意になり始める。彼らは偽りの諸宗教の人々との礼拝に加わり、キリストの真の教会を放棄することに終わるであろう。彼らは7つの秘蹟を、彼らの永遠の救いに対して何の影響も及ぼさない、使用するのも自由、拒否するのも自由な...他の宗派の儀式とも同然の、恩寵の単なる「随意の」手段と見なすようになるであろう。

現代エキュメニズムはそれゆえに、われらの主イエズス・キリストがその使徒たちにその神の法をお委ねになり、その頭としてペトロを持つ御自分の教会をお建てになり(マテオ16:18-19)、彼らに「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マテオ28:19)という神の委託を彼らにお与えになったとき、その使徒たちに対するわれらの主イエズス・キリストの命令とは著しく調和しないのである。それは、キリストが「私によらずにはだれ一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14:6)そしてさらに「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16:16)とわれわれに告げられたとき、キリストの警告を無視するのである。それはキリストの御意志に反するものである。「一つの群、一人の牧者となるだろう」(ヨハネ10:16)。キリストは牧者である。現代エキュメニズムはイエズス・キリストの真の福音に反する...それは教会の狂気である。

エキュメニカルなモーゼ

脱出の書は律法の板...十戒...をもって神の山を降りて来たモーゼについてわれわれに告げている。ところでイスラエルの12部族がいた。その部族のうちの一つ、例えば仮にユダ族が十戒を検討した後で「われわれは第8戒と第10戒とを除いてすべての戒律を受け入れよう」と言って彼ら自身を区別し、「われわれは撤回することができないし、またそのつもりもない」と宣言して彼らの断言を強固にするとしよう。あなたは、モーゼがこれらの人々と「エキュメニカルな対話」を続け、あるいは彼らが少なくとも他の8つの戒律に関して彼に同意したという事実に喜んでエキュメニカルな多幸症の状態で踊り回るだろう、と考えるか? さらに、あなたは、モーゼがユダ族を怒らせることを望まなかったために、イスラエル諸部族の典礼や宗教的礼拝の中には第8戒と第10戒について何の言及もないということを確かめただろうと、考えるか? こうすることによって、モーゼは神の御計画に仕えたのであろうか、それとも道を外れた人間的計画に仕えたのであろうか? その答はまったく明らかではないか?

そしてこれは第2ヴァチカン公会議に引き続いて起こったとわれわれが見ているもの、そしてエキュメニズムに対する多幸症ではないのか? 誤った諸宗教へのこの新奇なアプローチにおいて仕えられているその目的はキリストの御計画なのか、それとも道をはずれた人間的な計画なのか? ちょうどモーゼが、神が彼をその管理人となさった啓示を無視する、あるいはもっと悪いことにそれを恥じるいかなる権利をも絶対に持っていなかったであろうのと同じように、カトリック教会におけるいかなる権威もまた、不信仰者たちを怒らせないようにするために、カトリック真理の最小の微粒子をさえ、エキュメニカルなカーペットの下で掃いて除けながら...神が彼らをその管理人となさった啓示を恥じる何であれいかなる権利も持っていないのである。そのような諸々の活動は、単に信徒に対してばかりでなく、彼らのうちの各人をわれわれがCatechumen in spe[希望における洗礼志願者](予想される洗礼志願者)だと見なすべきすべての非カトリック者に対してもまた同様に、取り返しのつかない不面目を引き起こしながらキリストの宣教を破壊する。そのような事柄は原則的に福音の律法の放棄であり、キリスト教それ自体の否認である。「律法の一点一画もすたれない」(マテオ5:18)そして「それを破り、またそのように人に教える者は、天の国でいちばん小さな者とあるであろう」(マテオ5:18-19)とわれらの主は言われる。

なぜそれは欺瞞なのか?

現代エキュメニズムは、それが一つの偽りの原理を「徳の仮面の下に隠している」がゆえに欺瞞である。それはただカトリック教会の破壊に向けてのみ働くことができる。それはここに提示された以上のもっと完全なもっと長い取り扱いに値するけれども、最も際だった諸点は:

1)それはキリストの神秘体を転覆する

教会の使命はキリストの使命である。キリストは人間を罪から贖い、人間が救いを得るために信じなければならず、行わなければならないことを人間に教えるために来られた。キリストはまた支配しそして聖化するために来られた...そしてわれわれはキリストのメッセージ全体を、それのほんのわずかな、あるいは歪められた部分ではない全体を、受け入れなければならない。キリストのこの完全なメッセージはただカトリック教会のうちにのみ見出される。

エキュメニズムはエキュメニカルな一致のためにカトリック真理をわれわれに無視させるか、あるいはその重要性を落とさせるであろう。それはわれわれに人々をだけを彼らの宗教的誤謬のうちに残させ、すべての諸宗教が、真の宗教も偽りの宗教も両方とも、すべて神への類似した道であると認めさせるであろう。エキュメニズムは、それゆえに、キリストのメッセージ全体とキリストの真の一なるカトリック教会が救いのために必要ではないという偽りのそして危険な原理を受け入れる。教会は人類の教師としてのその役割を失う(第1ヴァチカン公会議)注3)「行って、教えよ」は「行って、対話せよ」へと変えられた。

2)それはその最高の可能な善として宗教的諸団体の単なる外的/物質的 統一を置く

神学的真理とそれの受容はもはや宗教の最も重要な局面ではない。反対に、それは他の諸々の料理の材料と混ぜ合わせるために、そこで各人が彼自身の特有の味を煮て作り出さなければならない一種の「エキュメニカル・シチュー」の中でのすべての諸宗教のとろとろ煮となる。神が人類に啓示なさった真理とは対照的に、そこに真理の一致のない一つの外的な統一が彼らのものであり、そしてこのようにして全然一致はない。神が御自分が真理において信じられ、礼拝されること、すなわち、神があられるところのもの、そして神がわれわれに告げられたもの、に従ってそうであることを要求なさる。エキュメニズムはこのすべてを無視し、そして真理ではなくて、一種の「諸宗教の国連」をその最高の可能な目的として措定する。これは偽りの宗教である。(他のいかなる宗教団体もエキュメニズムのために第2ヴァチカン公会議後の教会以上にそのような徹底的な変化をなしたものはないということは注目されるべきである。プロテスタント諸派、ユダヤ教、イスラム教等々は何も変えなかった...ただカトリシズムだけである。)

3)一致を求める際の第一の損害

われわれの聖なる教会における当局者たちは彼ら自身の一致をエキュメニズムの祭壇の上に犠牲として捧げた。それは一致の名においてカトリック教会の容赦のない「分断」を、マス・メディアの用語を用いることが許されるならば、われわれの小教区内部に、われわれの神学校内部に、われわれの裁判所内部に、左翼に対する強い強調と、右翼に対する奇妙な寛容を伴って...「極右」から「極左」までのあらゆるものをわれわれがそこに見出す点にいたるまで、引き起こしているのである。もし「その人自身の良心に従うこと」そして「真摯さ」が宗教の唯一の尺度であるならば、そのときこれが教会の一致に直接打撃を与えそれを解体するであろうということが必然的に帰結する。エキュメニズムはカトリシズムを犠牲にしての一致である!

カトリック教徒は第2ヴァチカン公会議のエキュメニズムに異議をはさむことが許されるか?

第2ヴァチカン公会議は教義の公会議ではない...それは信仰と道徳に関してわれわれの良心を拘束するどんな荘厳な決定もしなかった。それは司牧公会議であった...霊魂を指導するための公会議である。それゆえに、われわれは次のように問うことを許されてよいであろう。「われわれはどこまで導かれたのか?」と。

公会議の終わりに、司教たちは、神学者たちが公会議の「神学的覚え書き」と呼んでいるもについてフェリチ(Felici)枢機卿に質問した。彼は答えた。「われわれは諸々の概要と集会に従ってすでに教義上の諸決定の主題であったものを区別しなければならない。新しい性格を持つ諸宣言に関して言えば、われわれは留保しなければならない。

ところで、エキュメニズムは明らかに目新しいものである。現代エキュメニズムの実践は明らかに先行の諸教皇の教えや行動に矛盾対立している。そしてエキュメニズムの結果は全教会を貫いてブルドーザーでならされた悲惨なそして破局的な道であり、それは非常に多くの個人の霊魂において*信仰のまさに基礎を根絶し、そしてカトリックの真理のあらゆる局面をその最後の分子にいたるまで粉砕する原因となった。エキュメニズムは教会の原子爆弾である!それは現在の信仰の危機のまさに中核にある。それゆえに、カトリック教徒は「留保をする」そしてエキュメニズムのこの疑問の余地のある「新奇さ」に抵抗さえする彼らの権利のうちに完全にいる。

カトリック教徒の増大する損失、p.34を見よ。

このことは、しかしながら、カトリック者と非カトリック者が共通善のために市民的レベルで共に働くことができないということを意味しない。ドゥアーヌ・ハント(Duane Hunt)司教が1949年に述べたように「たとえわれわれが信仰において統一されることができないとしても、われわれはよい仕事において統一されることができる。」すべての善意の人は彼らの力を結集し、東における戦闘的無神論の猛攻撃と西における柔らかく上品ぶった無神論に反対する共同戦線を張ることができるし、また張るべきであろう。それらのすべての形態におけるこれらの大きな悪に結束して戦うことは必要であるが、しかしこのことはカトリック教徒がこれらの試みにおいて、特に信仰のまさに家族内部でカトリックの真理のほんの少しでも犠牲にするように強制されるべきであるということを意味しない。

唯一の真の一致:カトリック教会

たとえどれほどの勝ち目であろうとも、われわれはすべての人々が一つの真の教会の群の内部に来ることに向かって勤勉にそして絶えず働かなければならない。キリストに関係するかぎり、他の何物も十分ではないであろう。たとえこの考えが今日「ほとんど不可能」に思われようと--もう一つの思い違い--、われわれはこの理想を放棄してはならない。なぜなら、非カトリック者の永遠の救いはそれにかかっているからである。エキュメニズムにその答えを求めようとすることは単に臆病、信念の欠如、そしてキリスト教的な慈悲の歪められた概念にしかすぎない。おそらく、神の恩寵を通して、われわれが、その本気の1928年回勅Mortalium Animos(真の宗教的一致を促進することについて)において疑いの余地を残されなかったピオ11世教皇のカトリック的原理に立ち戻るように熱心に祈ろう:

「非カトリック者がそれによってキリスト諸教会の一致を求めようとしている複雑な運動が頼っているある種の偽りの見解を説明し反駁することが適切であると思われる。彼らは、教会がそれ自身において、あるいはその本性からして、諸部分に分けられている、すなわち、教会がいくつかの諸教会から、あるいは異なった諸共同体から構成されているということを付け加える。教会は今なお分離されたままである。そして教義のある条項を共通に持っているけれども、にもかかわらず、残りのものに関しては意見が合わない。これら諸教会はすべて同じ権利を享受する。そしてこのようにして、彼らの主張では、教会はせいぜい使徒の時代から最初のエキュメニカルな公会議まで一つの分離されない形であった、と付け加える。それゆえに、現在までキリスト教的家族の成員たちを分裂させたままにしてきた諸々の論争、そして積年の意見の相違は完全に無視されなければならない。そして残っている諸教義のために信仰の共通の形が引き出され、すべての人が単に知っているばかりでなく、彼らが兄弟であると感じるものの信仰告白において、信仰のために提示されるべきである、と...彼らは続けてこう言う。ローマ・カトリック教会もまた過ちを犯した。そして信念のためにいつくかの教義を付け加えそして提案することによって最初の宗教を堕落させた、それらの教義は福音にとって単に無縁であるばかりでなく、福音に矛盾したものであると言う...同時に彼らは自分たちはローマ教会と喜んで交渉する、しかし同等の条件で、すなわち、対等な者との対等な者たちとして...ことがそのようであるから、使徒的聖座がいかなる条件ででも彼らの集まりに参加することはできないし、またカトリック教徒にとってそのような諸々の企てのために支援あるいは働くことは合法的ではない。なぜなら、もし彼らがそうするならば、彼らは一つのキリストの教会とはまったく無縁の偽りのキリスト教を支持することになるからである。...それでは、その成員たちが、他の残りの者の意見とは矛盾しているけれども、信仰のまさに対象にかかわる問題においてそれぞれ彼自身の意見と私的な判断を保持している一つのキリスト者連盟を誰が考えることができようか? ...一致はただ一つの教える権威、一つの信念の法そしてキリスト者の一つの信仰からのみ生じうる...キリスト者たちの一致はただ、それから分離している人々の、キリストの真の教会への帰還を促進することによってのみ促進され得る。なぜなら、過去において彼らは不幸にもそれ[キリストの真の教会]を去ったのであるから。

1)Mortalium Animos とHumani Generis の両テキストはThe Fatima Crusaderから入手可能。
2)The Rhine Flows into the Tiber のpp.13-56を見よ。これもThe Fatima Crusaderから入手可能。
3)"Ecclesia Romana est Mater et Magistra omnium ecclesianum". 「ローマ教会はすべての諸教会の母であり教師である。」(信仰の教義)

2004/01/30 三上 茂 試訳

作成日:2004/01/30

最終更新日:2005/03/22

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