あること、生きること、理解すること

−トマス・アクィナスの霊魂論についての一考察−

三上 茂


I. はじめに

 トマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225-74)は多くの著作において、人間霊魂(anima humana)について論じているが、特に1269年の前半から1271年の終わり頃まで、3年間に集中的に霊魂について討論を行い、論駁書を書き、アリストテレスの『霊魂論』の註解を行っている。本稿ではこれらのうち、実際にパリ大学で1269年の1月から6月にかけて行われた討論をまとめた『討論問題集・霊魂論』(Quaestiones Disputatae De Anima)1)を中心にし、1270年12月10日にパリ司教エティエンヌ・タンピエが出した有名な13命題非難宣言2)の前に書かれたと考えられるアヴェロエス主義者たちに対する論駁書『知性の単一性について』(Opusculum De Unitate intellectus contra Averroistas)3)、そして1271年の終わり頃に出されたアリストテレスの『霊魂論』註解(In Aristotelis Librum De Anima Commentarium)4)を参考にしながら、13世紀に活躍した思想家の一人として彼が人間の問題をどのようにとらえたのかを明らかにしたい。

II. 歴史的背景

 プラトン(Platon, 427-347B.C.)は、トマスの理解に従えば、霊魂は自体的に自存する(per se subsistere)5)と考える。霊魂をそれ自体として考察する限りでは、この点に関してトマスもプラトンと同じ考えである。トマスにとって問題なのは、プラトンがそう考えただけでなく、さらに先へ進んで、霊魂がそれ自身のうちに完全な種の本性を持っていると主張した点である。つまり、霊魂をそれ自体としてではなく、人間存在の全体において、身体との関係において、考察する際に問題が生じているのである。プラトンは、人間が霊魂と身体から構成される存在ではなく、むしろ身体へと外から到達する霊魂であると考えた、とトマスは理解する。霊魂の身体に対する関係は水夫の舟に対する関係、あるいは衣服を着ている人と衣服の関係に相当するというわけである6)。水夫は舟との関係を離れても存在しており、衣服を着ている人は衣服を脱いでも、人であることをやめない。つまり、この関係は既に自存しているものと既に別の存在を持っているものとの関係であり、これは人間存在の全体的構造を考える上で、重大問題を惹起する。つまり人間の統一性がこのことによって保証されなくなるのではないかという問題である。

 それに対して、アリストテレス(Aristoteles, 384-322B.C.)は霊魂とは「器官を有する自然的物体の第一現実態である」7)と言う。すなわち、霊魂は器官を有する自然的物体の実体的形相であり、身体の現実態である。つまり、彼は人間存在を質料形相論の立場から、統一的に捉えようとする。

トマスの師であるアルベルトゥス・マグヌス(1193/1200-80)はこの問題に関して霊魂の自体的自存というあり方と霊魂の質料的形相というあり方を調停する道を見出せないでいることを次のように述べている。「霊魂をそれ自体として(secundum se)考察するとき、われわれはプラトンに同意するが、霊魂が身体に与える生命の形相に従って(secundum formam animationem)考察するとき、アリストテレスに同意する」8)。トマスは師のこのディレンマをアリストテレスの線に沿って解決するが、しかし、アリストテレスは西欧世界にアラビアの解釈者たちを経て入ってきたことをわれわれは考慮に入れなければならない。

 マホメット(Mohammed, 570-632)に始まるイスラーム教は多くの思想家を生み、スペインへの進出と共に西欧思想に大きな影響を与えた。イスラーム教徒は、九世紀の旺盛な翻訳活動の結果、すでに十世紀半ばにはアリストテレスの全文献をアラビア語に翻訳して入手していた。彼らは、アリストテレスをイスラーム神学と混同することなく理解するための努力を行ったと言われる。

 プラトン主義的にアリストテレスを理解したと言われるアヴィセンナ(Avicenna=イブン・シーナーIbun Sina,973/80-1030)や、アリストテレスが「哲学者」と呼ばれたのと似たような仕方で、「註解者」と呼ばれたアヴェロエス(Averroes=イブン・ルシュドIbun Rushd, 1126-98)から、トマスは多くのことを学んだが、同時に、彼らのアリストテレス解釈に対して、さまざまの疑問を提出し、批判を行っている。

 十二世紀の終わり頃に、シチリア島およびスペインのトレドで翻訳家たちが活動を始め、たとえばクレモナのゲラルドゥス(Geraldus, 1114頃-87)やドミニクス・グンディサリヌス(Dominicus Gundissalinus 1150頃活躍)などが、アラビア語からの翻訳を通じて西洋思想の内へのラテン語によるアリストテレス導入をはかった。トマスの友人であるムールベケのグイレルムス(Guillelmus 1215/35-86頃)は、トマスのためにギリシャ語から直接アリストテレスを翻訳した。

 十三世紀の初め1210年以降、教会当局によってアリストテレスの著作の読書、教授は何度かにわたって禁止されている。しかし、30年代にはその禁止も和らげられ、40年代には効力を失う。トマスがケルンのアルベルトゥスの下での勉学の後、25歳でパリに行き、バカラウレウスとして大学に関係した頃には、アリストテレスはパリ大学学芸学部のカリキュラムの重要な部分となっていた。アラビア語とギリシャ語で書かれたおびただしい註解がラテン世界に知られ、ラテン語に翻訳される。

 十三世紀に至るまで、西欧キリスト教世界はアウグスティヌス(Augustinus,354-430)によって大きく方向づけられていた。アウグスティヌスのキリスト教思想は新プラトン主義を経たプラトン的な伝統を強固に築きあげていた。トマスとほぼ同じ時期のボナヴェントゥラ(Bonaventura, 1217/21-74)を中心とするフランシスコ会の思想家たちはアリストテレスに対抗して、新プラトン主義的・アウグスティヌス的な独自の現実理解を堅持しようとした。そのために彼らは、世界観的には中立的な根本概念、すなわち質料・形相、現実態・可能態、実体・属性という存在者の構成原理の理論、さらに生成消滅の理論などの、アリストテレス思想の一部分のみを受け入れながら、他方、その霊魂論と認識論に関しては批判的な距離を保っていた。

ラテン・アヴェロエス主義と呼ばれることになる、アヴェロエスの示した方向を遵守するブラバンのシゲルス(Sigerus de Brabantia 1240頃-81/84年)を中心とするパリ大学学芸学部の教授たちは1260年代以降、アリストテレスを無制限とも言える仕方で受容していた。これらの人々に対しては、前に述べたパリ司教エティエンヌ・タンピエの13命題非難宣言や、ボナヴェントゥラの警告などが出され、トマスもまたこれらの人々を直接の対象として論駁書『知性の単一性について』を出したのである。

III. 霊魂論の基礎としての自然的・物体的事物の構成

 アリストテレスは『カテゴリー論』において十の範疇を区別している。すなわち、実体(ousia, substantia)とそれのあり方としての九つの属性である。属性は「何かこれこれだけ」(量)、「何かこれこれ様の」(質)、「或るものとの関係において」(関係)、「或るところで」(場所)、「或る時に」(時)、「位している」(体位)、「持っている」(所持)、「為す」(能動)、「為される」(受動)に区別される9)。実体は何かが本質的に、実体的に存在する、例えば、人間が存在すると言われるときの存在である。それに対して、属性は何かが偶有的・付帯的・派生的に存在する場合のあり方であり、例えば、ある人間はは白い、大きい、等々の属性のものであると言われる。

 実体は物体的実体(substantia corpora)と非物体的実体(substantia incorpora)に区別され10)、物体的実体は自然的物体(corpora physica, naturalia)と人工的物体(c. artificialia)に区別される11)。自然的物体はさらに、生きている自然的物体と生きていない自然的物体の区別が存在する。すなわち、生命を持つもの、すなわち生物と生命を持たないもの、すなわち非生物に分けられる12)

 生命によって意味されるのは自己栄養と成長・衰退の活動であり、その上に感覚・知性認識その他の生命的活動が行われる。もしある物体が生きており、ある物体が生きていないならば、生命はあるものが一つの物体であるという事実によっては説明できない。生きているのはある種類の物体であり、生きていないのはある種類の物体であって、われわれはその相違を質料のうちにではなく、形相のうちに探さなければならない。「それゆえに、実体は三様である。すなわち、複合体、質料そして形相であるから、そして複合体ー生命を持った身体ーではなく、また質料ー生命に従属する物体ーでもないので、分割からの議論によれば、霊魂はそのような物体の、すなわち、可能的に生命を持った物体的身体の、形相あるいは種である」13)

 引用したことばから明らかなように、実体の三つの区別が存在する。すなわち、質料(materia)と形相(forma)とその複合体(compositum)の区別である。質料はそれが可能的存在であるという点で形相と異なる。質料はそのものとしてはある特定の事物ではなく、ある特定の事物になる単なる可能態にあるものである。形相は質料を現実的ならしめるエンテレケイアあるいは現実性である。形相はある特定の事物がそれによって現実的に存在するところのものである。複合体は結果した現実的存在であり、特定の事物それ自身である14)

 自然的物体(corpora naturalia)と言われる場合のnaturalis, physikonは語源的には生まれること、産出することによって存在するようになることに関連してそう言われる。変化の結果として存在するようになった事物についてnaturalisが語られる。存在するようになるものは形相と質料の複合体である15)。存在しないけれども存在し得るものは可能態にある(in potentia)ものであり、すでに存在しているものは現実態にある(in actu)ものである。そこで、可能的に存在するものは質料であり、そして実体的存在に対して可能態にある質料は実体的存在の質料、第一質料であり、偶有的存在に対して可能態にある質料は実体的存在における質料、偶有的なものである16)。形相は第一質料を存在させるものである。「可能的に存在するあるものが質料と呼ばれるように、実体的に、あるいは偶有的に、いずれかの仕方においてある事物を存在させるものは形相と呼ばれる。...形相は、あるものを現実的に存在させるから、現実態と呼ばれる。そしてあるものを現実的に一つの実体であるように原因する形相は実体的形相と呼ばれ、偶有的にそうするものは偶有的形相と呼ばれる」17)

 質料を持つものは変化に従属する。変化(mutatio)の種類は第一に生成と消滅(generatio et corruptio)が挙げられる。第一の意味において存在する実体が存在するようになる変化が生成・産出であり、それは第一質料が形相づけられることであり、それによって実体が存在することをやめる変化が消滅である。第二の変化の種類は、ある実体が偶有的な形相を獲得する変化であり、それはさらに変質(質の獲得)、成長(量の獲得)、運動(新しい場所の獲得)に区別される。実体的変化あるいは偶有的変化は、基体が今は欠いている形相をそれによって獲得する事ができる三つの要因を含んでいる。すなわち、質料、形相、欠如である。変化は無から生じるのではなくて、むしろ、可能的に、変化の結果としてそれが現実的に存在するであろうものであるものから生じる18)

 以上見たように、霊魂論において前提されているのは、変化の結果として存在するようになるものは質料と形相の複合体であるということである。

 自然的対象が非生物と生物に分けられるとき、生物を特徴づけるものを探求しなければならない。霊魂論は生物の探求において第一に位置しているのである。

IV. 霊魂の定義

 アリストテレスは『霊魂論』第二巻において霊魂の定義を次のように与えている。これはアリストテレスの霊魂の第一の定義と言われるものである。霊魂とは「器官を有する自然的物体の第一の現実態」(actus primus corporis phisici organici)である19)。質料は可能態であり、形相は現実態である。ところで、現実態には二つの意味がある。一つは、われわれが現実的にある技能を持っているが、それを今使用していない状態を表し、もう一つは、ある技能を持っており、それを現実的に使用している状態を表す。前者の例は、知識(scientia)が現実態であると言われる場合であり、後者の例は、思考(considerare)が現実態であると言われる場合である。霊魂が身体の現実態であるといわれるのは、前者の知識と同じ意味での現実態である20)。この区別はこれらの現実態を可能態に関係づけることによって理解される。人間は文法学者になる以前には、可能的にのみ文法学者である。この可能態が現実化されるのは文法の習性・能力態(habitus)を獲得することによってである。しかし、ひとたびハビトゥスが獲得されても、文法について現実的に思考していない限り、使用に対してなお可能態にある。現に思考することがもう一つの現実態である。この意味において知識は一つの現実態であり、思考は他の現実態である。可能態もまた同時に二つの意味を持つ。すなわち、ハビトゥスを獲得する以前の可能態とハビトゥスを獲得した以後も使用されていない限りでは可能態と言うことができる。

 次に、霊魂の第二の定義と言われるものはこうである。「霊魂はわれわれがそれによって第一義的な意味で生き、感覚し、また思惟するところのものである」21)。トマスはアリストテレスのこの霊魂の第二の定義を次のように註解している。「生きることの第一原理であるものが生物の現実態そして形相である。しかし、霊魂は生物における生きることの第一原理である。それゆえに、霊魂は生きている身体の現実態そして形相である。しかしこれは、ア・ポステリオリな論証である。なぜなら、実際には、霊魂はそれが生きている物体の形相であるがゆえに生命活動の源であって、その逆ではないからである」22)。すなわち、これは結果からの霊魂の定義であって、生命の諸活動あるいは働きから始める。生命の活動あるいは働きはその形式的対象によって区別される。

 トマスはアリストテレスと共に、霊魂を持ったものは霊魂を持たないものと、生きているという点において異なる、という点から出発する。そして生命の四つの様式を1)知性的なものとして、2)感覚的なものとして、3)空間における運動あるいは静止の原因として、4)栄養を取る運動の原因、成長と衰退の原因として、それぞれ区別する。生命の第五の類型を作る欲求的能力は、生き物の一つの異なった段階を意味しない。というのは、それは常に感覚に伴っているからである23)

 生命の四つの様式はしかし、現実の生物を次の三つの段階に大別する。この区別は三種類の霊魂の区別による生物の区別である。第一の段階は植物であり、植物における生命原理は一つの霊魂である。それによって植物は生きる。植物的霊魂は成長と衰退の本質的な原理である。第二の段階は動物であり、感覚的霊魂が動物における生きることの原理である。場所的運動を持つ生き物が多いがそうでなくても、感覚を持つことが植物から動物を区別する。触覚が動物における第一の感覚である。触覚を持たない動物はいない24)

 第三の段階を占めるのは、生命の四つの様式のすべてを持つ人間である。事物の生命力が、植物におけるように、まったく成長と栄養摂取に存するところでは、植物的原理が単純に霊魂あるいは生命原理それ自身である。しかし、事物が同様に感覚をも持つ場合には、この植物的原理は霊魂の一部分である。いくつかが一緒に見出される場合には、各々は霊魂の一部分であり、霊魂それ自身はその主要な部分に従って名づけられる。動物の霊魂は感覚的霊魂と呼ばれ、人間霊魂は知性的霊魂と呼ばれる25)

 霊魂が身体を要求し、それは身体とは本質的に異なる。霊魂は身体ではない。なぜなら、それは質料ではないからである。霊魂は身体と本質的に関わり合っている。なぜなら、霊魂は身体の現実態だからである。それゆえに、霊魂はそれの現実態である身体のうちに存在する26)。  植物のうちには植物的能力だけが存在する。他の生き物のうちには植物的能力と感覚的能力が存在する。感覚的能力が存在するならば、欲求的能力も存在しなければならない。なぜなら、欲求作用は欲望、怒り、意志を意味するからである。三角形が正方形のうちに含まれているように、植物的霊魂は感覚的霊魂のうちに含まれている27)

 霊魂の部分という言い方と霊魂の能力という言い方は同じことを意味する。霊魂の諸部分あるいは諸能力については植物的、感覚的、欲求的、運動的、知性的の諸部分あるいは諸能力が区別される28)。能力は行為・活動によって定義される。霊魂は一つの形相であるから、作用的諸能力を持っている。それゆえ、活動の相違によって能力の相違を区別しなければならない。トマスはアリストテレスにならって、感覚的諸能力の検討を五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)とその固有の対象および内的共通感覚について詳細に行っているが、ここでは霊魂の他の諸部分、特に感覚的部分と知性的部分との違いについて簡単に見ておくことにしよう。

 一つの感覚はあらゆる事柄を感覚することはできず、むしろただその固有の対象だけを感覚する。視覚は色を、聴覚は音を、嗅覚はにおいを、という風に。しかし、思考の対象は限定されていない。知性的霊魂あるいは精神は、感覚と対比して、それ自身決定された本性であることができず、一つの能力として、(原理的には)何でも知ることが可能である。ある感覚の強い刺激は感覚をはたらかせることを不可能にする。非常に強い光は眼を痛める。極端に大きな音は聴覚を破壊する。しかし、知性に関してはそういうことは起こらない。その理由は、感覚能力が身体に依存しているのに対して、知性は身体から分離可能ということにある」29)。知性が身体から分離可能であるという意味は、知性が身体から分離して存在する一つの実体であるということではなく、知性がいかなる器官も持たないということである30)

身体の形相である霊魂が身体的器官の力ではない一つの力を持つことはどのようにして可能か。トマスはヒエラルキアから答える。霊魂の諸能力は外的な植物的能力から感覚的諸能力を通じて、内的なものへとヒエラルキアを上げて行くにつれて、徐々に質料に浸されることが少なくなる31)。身体の現実態である形相が、その活動がある器官の現実態ではない能力を持つことを妨げるものは何もない32)

 感覚が可感的対象に対するように、知性は可知的対象に対する。各々はその対象に関して可能的であり、その対象を受け取る。それによって霊魂が知性認識するところの知性(intellectus quo anima intelligit)は本性的にすべての可感的・物体的な事物を理解するから、あらゆる物体的な本性に欠けている。もし知性がある特定の本性に限定されているならば、この本性的な限定は知性を他の本性を知ることから妨げるであろう。知性の本性は一つではない、すなわち、一定の本性を持たず、端的にすべての本性に開かれている。これは知性的な部分が、感覚的部分のように物体的器官を持たない(nullum est organum intellectivae partis, sicut est sensitivae)ということである。知性は物体的器官を持たないので、霊魂が諸形相の場(locus specierum)である33)

V. 可能的知性と能動知性

人間は受動的能力としての知性を持っており、トマスはこれを可能的知性(intellectus possibilis)と呼ぶ。これは可知的なものに対して可能態においてある知性であり、知性は受動的能力(potentia passiva)である。天使の知性(intellectus angelicus)が現実態によって常に完成されている可能態にあり、純粋な現実態である第一知性への近接性のために、常にその可知的なものの現実態においてあるのに対して、人間の知性(intellectus humanus)は可能態から現実態へと進んで行く可能態にある。すなわち、人間知性は知性の序列において最下位にあり、神の知性から最も遠いために、諸々の可知的なものに関して可能態においてあり、最初は「何も書かれていない書字板のようなもの」(sicut tabla rasa in qua nihil est scriptum)34)である。

 ところで、自然的事物の形相は、質料なしに自存するのではない。質料のうちに存する形相は現実的に可知的なものではないから、われわれが知性認識する可感的事物の本質や形相は現実的に可知的ではない。しかし、いかなるものも、何らかの現実的な有によらないでは、可能態から現実態へは導かれない。それゆえ、もろもろの形相をその質料的諸条件から切り離してとり出すという抽象(abstractio)のはたらきによって、これを現実態における可知的なものとする何らかの力が知性の側になければならない。この力が能動知性(intellectus agens)である35)

 プラトンは、自然的事物の形相は質料なしに自存し、従ってそれらは現実的に可知的なものであると考えた。ものが可知的であるのは、それが非質料的であるということによる。プラトンはこのような形相をspeciesとかideaeと呼び、これを分有することによって、物体的質料も形相づけられ、それによって個物が自己に固有の類や種において本性的に構成されることになり、また人間の知性も形相づけられ、それによって諸事物の類や種についての知識を持つ、と考えた。これがイデア論といわれるものである。

 能動知性はしかし、人間の場合には、霊魂から実体的に分離したものではなく、霊魂に属する一つの能力である。人間の霊魂のうちには、上位の知性から分与されたある力が存しており、人間の霊魂はこの力によって可知的なものを現実態におけるものとするのである。 われわれは、われわれが普遍的な形相を個別的諸条件から切り離して抽象することを知っている。そしてこの抽象の働きこそ、可知的なものを現実的なものとするはたらきにほかならない。諸々の形象を質料の個別的条件から抽象して現実態における非質料的なものとするある力が能動知性であり、このような諸々の形象に対して可能態においてある限りで、このような形象を受け取る力が可能的知性と呼ばれる36)

 トマスは理性(ratio)と知性(intellectus)を区別するが、それは同一の能力の異なった働きとしてである。知性認識する(intelligere)とは、端的に可知的真理(veritas intelligibilis)を把捉することにほかならない。これに対して、理性認識する(ratiocinari)とは、可知的な真理を認識すべく、既に認識された一つの事柄から他の一つの事柄へと進むことをいう。人間の推理(ratiocinatio)ということも、探求ないしは発見の途を辿るに際しては、ある「端的に認識されるもの」(simpliciter intellecta)すなわち、諸々の「第一基本命題」(prima principia)から出発するのであるし、さらにまた、判断の途にあっても、分析(resolvere)ということを通じて諸々の第一基本命題に立ち帰り、発見されたところのものをこれに照らして吟味する。人間においては、理性といい知性といっても、ともに同一の能力である37)

VI. 霊魂の実体性と人間の統一性

 IV節とV 節において概観したように、人間霊魂は知性的霊魂であるということであった。『討論問題集・霊魂論』において、トマスは霊魂の実体性と人間の霊肉の統一性を同時に保証する道をアリストテレスの思想の線で見出そうとした。この討論問題集は21の項から成り、後半の第15項から第21項までは分離した霊魂(anima separata)について論じている。以下においては、主として霊魂の実体性と霊魂と身体の結合が人間の統一を破壊しないかどうかの問題に限って、トマスの論点をすこし詳しく見ることにしよう。

 第1項においてトマスは霊魂が形相(forma)および個別実体(hoc aliquid)であり得るかどうかを問うている。トマスがここで個別実体と呼ぶものはアリストテレスのいうtode tiのラテン語訳である。II節で見たように、実体であることと形相であることが調停できないものと考えたアルベルトゥスは霊魂についてそのいずれかを決しかねていた。トマスは人間霊魂が個別実体であり、かつ形相であるという主張を貫く。個別実体は実体の類における個体(individuum in genere substantiae)38)である。それは自体的に自存する(per se subsistere)39)ものであり、また実体の或る種や類において何か或る完全なもの(aliquid completum in aliqua specie et genere)である。トマスはエンペドクレスが霊魂を質料的諸要素(四大)の調和であるとし、ガレノスがそれらの複合体であるとすることによって、霊魂の個別実体としての二つの特徴、すなわち、霊魂の自存と種や類における完全性、のうちの一つである、自存性を否定していることを指摘し、それを批判している。彼らはそうすることによって、結局は霊魂が他の質料的形相と同じように質料的で、可滅的であると主張する唯物論的な立場に立っているのである。しかし、このような立場は植物的霊魂(anima vegetabilis)についてさえ主張され得ない。植物的霊魂のはたらきは栄養摂取や成長という、質料的諸要素の能動的(熱と冷)性質そして受動的(乾と湿)性質の調和とか混合とは異なって、それらを超越する何らかの原理(生命的、非質料的原理)を持っているからである。さらに、この立場は感覚的霊魂について主張され得ない。感覚的霊魂(anima sensibilis)のはたらきは質料なしに形象を受け取ることであるが、霊魂が質料的であるとすれば、質料を伴わない形象を受け取ることは不可能だからである。それゆえ、理性的霊魂(anima rationalis)である人間霊魂についてはなおさら、彼らの立場は主張され得ない。そのはたらきは単に質料から離れているだけでなく、またすべての個別化する質料的条件から(ab omnibus conditionibus materialibus individuantibus)も離れて、形象を抽象することだからである。トマスはさらにもう一つの点をつけ加える。それは、理性的霊魂がその固有のはたらきにおいて、何かある身体的器官と共同することが不可能である(necin eius propria operatione possibile est communicare aliquod organum corpolrale)ということである。目が見る器官であるのと同じ意味において、知性認識する器官として何か身体的な器官が参与するということはないのである。知性的霊魂(anima intellectiva)は身体との共同なしにその固有の働きを持っているから、それ自体で働かなければならない。知性的霊魂は身体に依存しない絶対的自体的なエッセ(esse per se absolutum non dependens a corpore)を持たなければならない。これが、トマスが人間霊魂が自体的に自存するエッセ(esse per se subsistens)であるということで意味していることである。アリストテレスは『霊魂論』第1巻において、知性を不滅の実体(substantia quaedam et non corrumpitur)だと言っている。プラトンも、霊魂が自らを動かすことから、不死で自体的に自存するものだと述べている(ponens animam immortalem et perse subsistens, ex eo quod movet seipsam)40)

 一方において、人間霊魂が実体であることを否定する唯物論的見解に対して、トマスは以上の論点をもってその誤りを指摘したのであるが、他方において、霊魂の実体性を強調するあまりに、人間霊魂が身体の形相であるという点を否定する分離主義的誤りに陥った人々に対して、批判を展開する。その一つがプラトンに対する批判である。プラトンは、トマスの理解によれば、人間霊魂の実体性を認めた点において正しかったが、さらに先へ進んで、人間霊魂がそれ自身のうちに完全な種の本性を持っている(anima humana haberet in se completam naturam speciei)と考えた点において誤った。霊魂が身体のうちにあるのは、ちょうど水夫が船のうちにあるのと同じであり、霊魂は身体に外からやって来て身体を支配するものだというわけである。トマスはそれに対して、霊魂はそれによって身体が生きているところのもの(id quo vivit corpus)であるが、生きることは生きているものの存在すること(vivere est esse viventium)だと言う。それゆえ、霊魂はそれによって人間身体が現実的に存在を持つもの、すなわち、存在するところのものである。そのようなものは形相であり、従って、人間霊魂は身体の形相なのである。もし、プラトンが考えるように、霊魂が身体に外からやって来るものだとすれば、霊魂はその身体および身体の諸部分にその種的な本性を与えないであろう。つまり、霊魂が人間であるならば、身体およびその諸部分は人間的なものではなく、人間にとって何か外的な、よそよそしいものであろう。そのことは、人間の身体およびその諸部分を人間的なものとしているのは霊魂であるということを意味しているのであって、霊魂が身体から離れるとき、身体およびその諸部分はその人間的性格、つまり種的本性を失って、ただ多義的な意味においてしか元の名前では呼べないと、トマスは言う。死体の目は、描かれた目や彫刻の像の目と同様の多義的な意味でしか目ではない41)

 トマスがプラトンに対して提出するもう一つの論拠は、霊魂と身体の関係を船乗りと船との関係にあてはめて考えるならば、霊魂の身体への結合は付帯的・偶有的であるということが帰結し、霊魂の身体からの分離である死は、実体的な消滅ではないことになるが、これは明らかに誤りであるという点である。

 以上のことから、トマスは次のように結論する。霊魂は個別実体であり、それはそれ自体で自存することができるものとしてそうであるが、自らのうちに完全な種を持つものとして自存するのではなく、身体の形相として人間本性を完成するものとして自存するのである。そしてこのようにしてそれは同時に一つの形相であり、一つの個別実体である。

 第1項主文の後半部分において、トマスは自然的形相の秩序の観点から(ex ordine formarum naturalium)それらのはたらきが上位の存在のはたらきに参与していることを観察しながら、人間霊魂の知性的部分の質料性の超越という側面と非質料的なものを質料的事物からの抽象を通して認識しなければならないという側面を明らかにしている。最も低く、質料に最も近い四大の形相は熱・冷・乾・湿という性質を超えるはたらきを持っていないが、複合体の形相はそれらのはたらきを超えて、それらが天上的物体から引き出す本性に従うはたらきを持つ。トマスがこの例として引き合いに出しているのは、磁石が鉄を引きつける例であり、彼は磁石がある仕方で天上的な力に参与しているからである、と説明している。さらにそれらの形相を超えて、植物的霊魂が存在する。これは、それ自身を動かす運動の原理を持つものとして、天上的諸物体を動かすものの似姿を持っている。動物霊魂は自己自身を動かすばかりでなく、彼ら自身において知識が可能であるという点でより高い秩序に属する。動物よりもさらに高いのが人間霊魂である。人間霊魂は知性認識のはたらきによって、非質料的なものを知ることができる。しかし、天使と呼ばれる高次の実体とは、人間霊魂の知性は感覚を通じて得られる質料的なものの認識から非質料的なものの認識を獲得するという本性を持っている(intellectus animae humanae habent naturam acquirendi cognitionem immaterialem ex cogninitone materialium, quae est per sensum)という点で異なる。人間霊魂は質料的なものを超越するはたらきを持っている限り、その存在は物体を超えて高められ、身体に依存しないが、しかし、非質料的な認識を質料的なものから獲得することがその本性である限り、その種の完成は身体との結合なしにはあり得ない。このことからトマスは、人間霊魂は形相としてその身体に結合されている限り、身体に依存しない身体を超える高められた存在を持つが、明らかにその霊魂は物体的なものと分離実体(天使)との境界線において構成されている、と結論する42)

ところで、人間霊魂が形相であると同時に個別実体であることを、トマスは第1項のセッド・コントラにおいて二つの点から指摘している。第一の点はこうである。「各々のものはその種を固有の形相を通じて獲得する。人間は理性的である限りで人間である。それゆえに、理性的霊魂は人間の固有の形相である。ところで霊魂はそれ自身ではたらくから、個別実体であり、そしてそれ自身で自存するものである。なぜなら、知性認識することは身体的器官によらないからである。それゆえに、人間霊魂は個別実体であり、そして形相である」43)。これは、人間霊魂の本性とそのはたらきから問題を述べている。第二の点はこうである。「人間霊魂の究極的な完成は真理の認識に存するが、それは知性を通じて達成される。ところで、霊魂が真理の認識において完成されるためには身体に結合されることが必要である。というのは、霊魂は表象像を通じて知性認識するが、その表象像は身体なしには存在しないからである。それゆえに、霊魂が個別実体であるとしても、形相として身体に結合されることが必要である」44)。第二の点は理性的霊魂の固有のはたらきである知性認識のあり方から問題に迫っている。

 トマスは第1項において、18の異論を挙げているが、J.H.Robbによれば、その約半分の異論10までは霊魂が自存するものであるならば身体の形相ではあり得ないという反対論を、異論11以降は逆に霊魂が身体の形相であるならば、自存するものではあり得ないという反対論をまとめている。Robbは前者を「分離主義者たち」が提出する異論であり、後者を「唯物論者たち」が提出する異論と特徴づけている45)。前者の例として第1異論を挙げてみよう。「もし霊魂が個別実体であるならば、それは自存するものであり、そしてそれ自身で完全なエッセ(per se esse completa)を持つものである。しかるに、完全なエッセの後にあるものに外からやってくるものは、人間に白さが、また衣服が外からやってくるように、付帯的にそれに外からやってくるのである。それゆえに、霊魂に結合された身体は霊魂に付帯的に結合されている。....それゆえに、もし霊魂が個別実体であるならば、それは身体の実体的形相ではない」46)。この異論に対するトマスの解答はこうである。「霊魂は完全なエッセ(esse completa)を持つけれども、その身体が霊魂に付帯的に結合されているということは帰結しない。というのは、霊魂に属する同一のエッセが複合体全体に一つのエッセが存在するようにとその身体に伝達されるからである。同様にまた、霊魂はそれ自身によって自存することができるとしても、それは完全な種(species completa)を持っていなくて、身体が種の完成のために霊魂に結合されるからである」47)

唯物論者の提出する異論の中から一つ挙げてみよう。第14異論はこうである。「身体のエッセは可滅的なもののエッセである。そしてそれは量的な諸部分から結果するものである。しかるに、霊魂のエッセは不滅で単純である。それゆえに、一つのエッセが身体と霊魂にとって存在するのではない」48)。この異論に対するトマスの解答はこうである。「厳密な意味で消滅するのは形相でも質料でもなく、またエッセそのものでもなくて、複合体である。しかるに、身体のエッセは、それが消滅を通じてそれ自身と霊魂に共通であった、そして自存する霊魂のうちにとどまっているエッセから離れる限りで、可滅的であると言われる。そして同じ理由で、身体のエッセは諸部分から構成されていると言われる。というのは、身体は霊魂からエッセを受け取ることができるように、その諸部分から構成されているからである」49)。不滅の霊魂と可滅的な身体の間には釣り合いが存在しないから、霊魂が自存する個別実体であるならば、人間身体の形相ではあり得ないという反対論に対して、トマスは霊魂が自存する地平と霊魂が身体の形相である地平の違いを指摘するのである。

 分離主義のもう一つの形態として、トマスは第2項において、人間霊魂は存在においてその身体から分離されているか、という問題を論じる。アリストテレスは「霊魂がそれによって思考し、理解するものを私は知性と呼ぶ」(Dico intellectum, quo opinatur et intelligit anima)50)と言っているが、トマスはもし可能的知性が分離した実体であるならば、人間がそれによって理解するということはそもそも不可能であると主張する。アヴェロエスは、可能的知性は存在において身体から分離しているが、それにもかかわらず表象像を介して人間に結合されていると述べた。彼はまた、この分離している可能的知性はすべての人間にとって一つであると主張したが、この問題を論じた第3項においては、アヴェロエスの名前は一度も出てこない。われわれはここで、トマスが『知性の唯一性について』において、この問題を集中的に取り上げ、アヴェロエスとアヴェロエス主義者を名指しで論駁している箇所を参照しよう。トマスは第1章において「註解者(アヴェロエス)とその派の人たちが誤って説明しているように」(ut Commentator peruerse exponit et sectatores ipsius)という言い方を3回繰り返して用いている。その言い方が出てくる前に、第1章の初めの節でトマスはこう言っている。「知性に関する誤謬が多くの人々のあいだに広まるに至ってすでに久しい。この誤謬はアヴェロエスの言説に端を発している。アヴェロエスはアリストテレスが可能的と称した知性に質料的知性という不適切な名前をつけ、この知性は存在的に身体から分離した実体であって、いかなる意味においても形相として身体に結合することがないとし、あげくこの可能的知性はすべての人間にとって単一であると主張しようとしている」51)。トマスはこの著作で、アヴェロエスの謬説がアリストテレスの言っていることと考えていることにまったく背馳しているということを示そうとしている。アリストテレスが『霊魂論』第2巻で、「知性や洞察力についてはまだ何も明白になっていない」と述べた箇所は、「知性は魂であるのか、それとも魂の部分であるのか。もしそれが魂の部分であるとしたら、それは場所的に分離しているのか、それとも概念的に分離しているにすぎないのか、こういったことはまだ何も明瞭になっていない」52)という意味であって、「知性が魂でないということを示そうとして述べていることではない。それはアヴェロエスとその派の人たちが誤って説明していることである」53)とトマスは言う。彼は引き続いて次のように述べる。「しかし、たとえこの点はいまだ明瞭になっていないと言っているにしても、アリストテレスは『しかし魂には別の種類のものがあるように思われる』と述べて、この点に関して一見して明瞭なことは何かということを明らかにしているのである。このように言われるのは、知性が同名異義的に魂と呼ばれるからであるとか、あるいは上述の定義を知性に適合させることができないからであると解釈してはならない。それはアヴェロエスとその派の人たちが誤って説明したことである。これをどのように解釈しなければならないかということは、『ちょうど恒久的なものが可滅的なものから分離されているように、これだけが分離されていることになる』と言われることから明らかである。つまり知性が別の種類のものであるのは、知性がなんらかの恒久的なものであると思われるのに対して、魂の他の部分は可滅的であるからである。可滅的なものと恒久的なものが合一して一つの実体を成すことはありえないと思われるから、魂の諸部分のなかで知性だけが分離されていることになると思われるのである。身体から分離されているのではない。それはアヴェロエスが誤って説明していることである。知性は、それが他の部分と合一して魂の一つの実体を成すことがないから、魂の他の部分から分離されているのである」54)

少し引用が長くなったが『知性の単一性について』においてトマスがアリストテレスの説として確定したことは、霊魂は「器官を有する自然的物体の第一の現実態」(actus primus corporis phisici organici)であるという定義が知性にも適用されるということ、しかし、知性は身体の現実態・形相である霊魂の一つの能力である(intellectus est potentia animae que est actus corporis)55)ということであった。

 霊魂と身体の結合の目的は、霊魂が指導し保護する身体の善であると考えるアウグスティヌスとは違って、トマスは身体が霊魂の善のために存在すると主張する。トマスの言い方はこうである。「霊魂は実体的完成である善のため、すなわち、その種的本性が完成されるために、そして付帯的完成である善のため、すなわち、霊魂が諸感覚から獲得する知性的認識において完成されるために、身体に結合されている」56)。このことは、人間という種的本性を完成するためには形相である霊魂が質料である身体をどうしても必要とすると同時に、人間霊魂の本来的はたらきである知性認識を遂行するためには霊魂がどうしても身体を必要とするということを意味している。霊魂の善のための身体ということは霊魂の身体への依存の側面だけが強調されているようにも受け取れるが、トマスはこうも言っている。「霊魂は身体なしにその種の完全さに到達しない限りで身体へのある依存性を持っているが、にもかかわらず身体なしに存在することができないほどには身体に依存してはいない」57)。霊魂の身体への密接な関係と霊魂の自体的自存性がここでは語られている。このことは次のような仕方でも言われている。「人間霊魂はそれ自身によって自存することができるが、にもかかわらずそれ自身によって完全な種を持っていない」58)。以上、見てきたことから、トマスにおいては霊魂の自存性・実体性と霊魂と身体の結合における人間種としての統一性が確保されていることが明らかである。

VII. 終わりに

 1269年から1271年のわずか3年間に書かれた3冊のトマスの霊魂に関する厖大な書物のほんの一部分を検討して、その霊魂論の検討を行ったが、霊魂の自存性・不死性と人間存在の統一性が同時に保証される道をトマスが、アリストテレスの『自然学』における基本概念を駆使し、彼の『霊魂論』の解釈を通じて、しかも、ギリシャやアラビアのアリストテレス解釈者たちとの批判的な対決を通じて確立していったことがうかがえた。トマスは同時代に生きた、師のアルベルトゥス・マグヌスやパリ大学の同僚であったボナヴェントゥラとは違った仕方でアリストテレスを理解し、彼自身のものとしたが、それは一方で800 年にわたる伝統を持ったアウグスティヌスの思想との、他方で西欧よりもずっと早くアリストテレスの思想を手中にしていたアラビア哲学との、ある種の対決であったと思われる。トマスの霊魂論における直接の対決の相手はRobbのいう分離主義者としてのプラトンやアヴェロエスであり、また唯物論者であるエンペドクレスやガレノスであった。そのいずれに与しても、人間存在の真の姿に到達しないとトマスが考えたということは、これまでに見てきた通りである。トマスの時代と違って現代においては、分離主義的とされる考え方はほとんどわれわれには想像もできないものかもしれない。そもそも霊魂という概念が今日使われることはない。精神とか心といってもそれは「それ自身によって自存する」(per se subsistens)ものとは見なされない。ましてやその不死性とか不滅性などということは、学問の世界では問題にされない。それは今日では宗教の問題、信仰の問題でしかない。トマスが生きた時代はむしろ分離主義に対する対決の方が急務であったのではないかと思われる。今日では逆に唯物論的アプローチに対する批判が、トマスが対決したエンペドクレスやガレノスに対するのとは違って仕方で為されなければならないのかもしれない。人間とは何かという問いは時代に応じて問い直されなければならないのであろう。

 この方向で問題を考えるために、「それ自身によって自存するもの」(per se subsistens)である形相としての霊魂は変化に従属する質料を持つ複合体ではなく、質料と結合して質料にエッセを与えることによって複合体を生成させ、その結合から離れることによって、複合体を消滅させるものであるから、不滅であるということを考えなければならない。トマスは、その『霊魂論』第14問題を霊魂の不死性の問題に捧げている。彼の議論の要旨はこうである。何かあるものに本質的であるもの(id quod per se consequitur ad aliquid)はそのものから取り去られることはできない。人間から動物であることは取り去ることができない。存在は形相に従う。ものはその固有の形相に従って存在を持つからである。存在は形相から分離され得ない。質料と形相から構成されているものは形相を失うことによって消滅するが、形相それ自身がそれ自身によって消滅させられることはできない。人間がそれによって知性認識する知性的原理(principium intellectivum)は身体を超越し、身体に依存しない一つのエッセを持っている形相として、人間霊魂の部分であるけれども、人間を存在させている形相として不滅である。トマスは第11異論に対する解答として、次のように述べている。「霊魂と身体は人間の一つのエッセを成立させるために結合しているが、それでもなおそのエッセは霊魂から身体に生じ、その結果人間霊魂はそのうちにそれが自存しているエッセを身体に伝達する。それゆえ、身体が取り去られても、依然として霊魂は存続する」59)。第21異論に対する解答も重要である。「霊魂はそれ自身によって存在することができるが、それにもかかわらず、それ自身で種(species)を持っていない。なぜなら、それは種の部分だからである」60)。トマスがここで述べている霊魂はもちろん人間霊魂であり、それは知性的霊魂として、不滅に与っているエッセを持つ形相である。

 最後に、第8異論に対する解答を引用して、拙論を閉じることにしよう。「形相が存在の原理(principium essendi)であるように、霊魂はそれが生命の原因(causa vitae)である限りで身体の形相である。なぜなら、アリストテレスが『霊魂論』第2巻で述べているように、生きることは生きている者にとって存在することだからである」61)。われわれ人間はあることが生きることであり、その生きることの原因・根源が霊魂であり、その霊魂は理解することをその本質とする知性的霊魂であり、それが不滅であることを再確認すべきではなかろうか。

文献

S. Thomae Aquinatis, Quaestiones Disputatae De Anima, Cura et studio P. P. M. Calcaterra, T. S. Centi, Marietti, 1949
S. Thomae Aquinatis, De Unitate Intellectus contra Averroistas
S. Thomae Aquinatis, In Aristotelis Librum De Anima Commentarium, Marietti, 1959
St. Thomas Aquinas, Questions on the Soul, Translated from the Latin. With an Introduction by James H. Robb, Marquette Univ. Press, 1984
Pegis, Anton Charles, St. Thomas and the Problem of the Soul in the Thirteenth Century, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 1934
McInerny, Ralph, Aquinas against the Averroists. On There Being Only One Intellect, Perdue Univ. Press, 1993
Aristotle, De Anima. Edited, with Introduction and Commentary, by Sir David Ross, Clarendon Press, 1961
アリストテレス、『霊魂論』、山本光雄訳、アリストテレス全集6、岩波書店、1968
トマス・アクィナス、『知性の単一性について−アヴェロエス主義者たちに対する論駁−』、水田英実訳、中世思想原典集成 14 トマス・アクィナス、平凡社、1993、pp. 503-583.


  1. S. Thomae Aquinatis, Quaestiones Disputatae De Anima, Marietti, 1959; 以下、Thomas Aquinas, De Animaと省略

  2. パリ司教エティエンヌ・タンピエ、『1270年の非難宣言・他』、八木雄二、矢玉俊彦訳、中世思想原典集成 13 盛期スコラ学、 平凡社、1933、pp. 643-648.

  3. Opusculum De Unitate intellectus contra Averroistas,

  4. In Aristotelis Librum De Anima Commentarium,

  5. De Anima, a. 1c.

  6. ibid.

  7. Aristotle, De Anima, II, 1, 412b5, Cf. De unit. int., 1, 3:anima est"actus primus corporis phisici organici".

  8. Albertus Magnus, Summa theologiae, P. II, tr. 12, q. 69, m. 2, a. 2. Ad aliud dicendum quod animam considerando secundum se, consentiemus Platoni; considerando autem eam secundum formam animationis quam dat corpori, consentiemus Aristoteli. Cf. Robb, J. H., Questions on the Soul, Introduction, p.19.

  9. アリストテレス、『カテゴリー論』、第4章、p.6、山本光雄訳、アリストテレス全集1、岩波書店、1971

  10. In II De Anima, lectio 1, §217. アリストテレス、『霊魂論』、2,1, 412a11。

  11. In II De Anima, lectio 1, §218. アリストテレス、『霊魂論』、2,1, 412a11.

  12. In II De Anima, lectio 1, §219. アリストテレス、『霊魂論』、2,1, 412a13.

  13. In II De Anima, lectio 1, §221.

  14. In II De Anima, lectio 1, §215.

  15. McInerny, Ralph, Aquinas against the Averroists. On There Being Only One Intellct, Purdue Univ. Press, 1993, p. 166.

  16. ibid., p. 167.

  17. Thomas Aquinas, De principiis naturae, introduction and ciritical text by John J. Pauson(Fribourg: Societe Philosophique, 1950), no. 340; Cf. McInerny, op. cit., p.167.

  18. Cf. McInerny, op.cit., pp. 167-168.

  19. Thomas, De Unitate intellectus, chap. 1, 3. In II De Anima, lectio 1, §229 では、actus primus corporis physici potentia vitam habentis「可能的に生命を持つ自然的物体の第一の現実態」と少し違った表現をしているが意味は同じである。

  20. In II De Anima, lectio 1, §227, 229.

  21. アリストテレス、『霊魂論』、第2巻、第2章、414a12-13.

  22. In II De Anima, lectio 3, §253:Illud quod est primum principium vevendi est viventium corporum actus et forma: sed anima est primum principium vivendi his quae vivunt: ergo est corposis viventis actus et forma. Manifestum est autem, quod haec demonstratio est ex posteriori. Ex eo enim quod anima est forma corporis viventis, est principium oerum vitae, et non e converso.

  23. In II De Anima, lectio 3, §§254,255.

  24. In II De Anima, lectio 3, §260.

  25. In II De Anima, lectio 4, §§262,270.

  26. In II De Anima, lectio 4, §276.

  27. In II De Anima, lectio 5, c. III.

  28. In II De Anima, lectio 5, §279.

  29. アリストテレス、『霊魂論』、第3巻、第4章、429b3-4。 Cf.In III De Anima, lectio 7, §688.

  30. De Unitate Intellectus, chapt. 1, nos.24-25. Cf. In III De Anima, lectio 7, §684: Intellectus non habet orgaum corporale.

  31. De Unitate Intellectus, chapt. 1, nos.27.

  32. De Unitate Intellectus, chapt. 1, nos.30.

  33. In III De Anima, lectio 7, §686.

  34. Thomas Aquinas, In III De Anima, lectio 9,

  35. Thomas Aquinas, De Anima, a. 5c.

  36. Thomas Aquinas, De Anima, a. 4c.

  37. トマス・アクィナス、『神学大全』、第79問題、第8項、第6冊、I、75-89、大鹿一正訳、創文社、1961、

  38. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1c.

  39. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, ad 1.

  40. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1c.

  41. ibid.

  42. ibid.

  43. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, sed contra 1.

  44. ibid., sed contra 2.

  45. Robb, J. H., op. cit., p. 21.

  46. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, 1.

  47. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1 ad 1.

  48. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, 14.

  49. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, ad 14.

  50. Thomas Aquinas, In III De Anima, lectio 7.アリストテレス、『霊魂論』、第3巻、第4章、429a 22.

  51. トマス・アクィナス、『知性の単一性について』、第1章、1。水田英実訳

  52. 同上。

  53. 同上。

  54. 同上。

  55. 同上。

  56. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, ad 7: anima unitur corpori et propter bonum quod est perfectio substantialis, ut scilicet compleatur species humana; et propter bonum quod est perfectio accidentalis, ut scilicet perficiatur in cognitione intellectiva, quam anima ex sensibus acquirit;

  57. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, ad 12: anima aliquam dependentiam habet ad corpus, in quantum sine corpore non pertingit sad com;ementum suae speciei; non tamen sic dependet a corpore quin sine corpore esse possit.

  58. Thomas Aquinas, De Anima, a. 1, ad 4: anima humana per se possit subsistere, non tamen per se habet speciem completam.

  59. Thomas Aquinas, De Anima, a. 14, ad 11.

  60. Thomas Aquinas, De Anima, a. 14, ad 21.

  61. Thomas Aquinas, De Anima, a. 14, ad 8.

『アカデミア』人文・社会科学編 第63号 pp.49-74 1996年1月から転載

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