ファチマの聖母マリア

第三の秘密に関する二つのオリジナルの草稿があるのか?

The Fatima Crusader, Issue 64 Summer 2000より

アンドルー・M. セザネック

 われわれが尋ねなければならない問いはファチマの第三の秘密が完全に単一の文書のうちに含まれているのか、それともそれが二つの文書として書かれたのかということである。第三の秘密を含んでいる二つの文書があるように思われる。しかし、第二の文書の存在を支持する証拠が何かあるだろうか?

 二つの文書の存在(一つは一枚の紙に書かれた手紙であり、もう一つはノートに書かれたものである)はシスター・ルシアを含む多くの信じるに足る証人たちによって明瞭に確証されている。そして これらの文書はたいていはフレール・ミッシェルの書物『ファチマに関する全真実--第3巻:第三の秘密--』の中で引用されている。フレール・ミッシェルの第3巻のフランス語版の2万部の書物は1985年と1986年に(4年以上の研究の後に)出版された。そして英語版の5万部の書物は1990年に出版された。この書物が真正性あるいは研究の徹底性のいずれかのためにこれまでに疑問視されたということは知られていない。--第3巻だけで、無数の文書、証言、証拠を引用しながら、1150以上の脚注をつけている。フレール・ミッシェルの典拠と彼自身の証拠はこれまで一度も問題視されたことはない。このように、フレール・ミッシェルはまた妥当な、信じるに足る証人だと考えられるべきである。フレール・ミッシェルの『第三の秘密』の縮約版であるフレール・フランソワの書物『ファチマ:悲劇と勝利』もまたこの論考のために参考にされた。フレール・フランソワは定評のあるファチマ学者である。そして彼の書物が10万部が発行された過去7年間に彼の事実や研究については批判はなかった。注1

 この論考の目的は第三の秘密に関してシスター・ルシアによって書かれた二つのオリジナルの草稿があり、また二つの文書が教会当局の手許にあるということをはっきりさせることである。フレール・ミッシェルとアロンゾ神父は、シスター・ルシアが彼女自身の言葉で二つの文書が存在しているということを私たちに語っていると報告している。シスター・ルシアは1944年1月9日にダ・シルヴァ司教に手紙を書いた。

 「私はあなたが私にお求めになったことを書きました。神は少し私を試みることを望まれましたが、しかしついにこのことは実際神のみ旨でした。[テキストは]封筒に入れて封印され、またそれは帳面の中にあります....」注2

 フレール・ミッシェルはさらに、シスター・ルシアが1944年6月にレイリア・ファチマ教区の司教であったダ・シルヴァ司教に二つの文書を渡したと述べている。

 「幻視者はグルザの司教に彼女が秘密を含む封筒を滑り込ませた帳面を直接手渡した。その同じ夜、司教は封筒をダ・シルヴァ司教に手渡した....」注3

 次の表は、実際ファチマの第三の秘密のために二つの草稿が存在する(あるいはそれらは少なくとも、第一のテキストが失われたあるいは破壊されたということが後になって証明されないように、1980年代までは存在していた)ということのさらなる証拠を私たちに与えるそれぞれの文書についての異なった事実を要約している。以下の節でこれらの事実を検討することにしよう。

事実#1:
--事実#1を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は聖母の言葉を含んでいる

多くの証人によって暗に言及された第三の秘密テキスト#1

(1)テキストは聖母の言葉を含んでいる
(2)テキストは1957年4月16日聖省に移された
(3)1枚の紙に書かれた
(4)およそ25行のテキスト
(5)テキストはすでに1944年1月9日にできていた
(6)教皇ヨハネ・パウロ2世はテキストを1978年に読んだ
(7)教皇ヨハネ・パウロ2世は1978年にテキストを読んだ後に、(しかし彼が1981年7月18日に初めて4ページのテキストを読む前に)1981年6月7日に世界を奉献した
(8)手紙として書かれた(宛名書きされ、署名された)
(9)教皇のベッドの側に保存された
(10)幻視を説明している

バチカンによって公開を許された第三の秘密のテキスト#2

(1)テキストは聖母のいかなる言葉も含んでいない
(2)テキストは1957年4月4日に聖省に移管された
(3)4枚の紙に書かれた
(4)62行のテキスト
(5)テキストは1944年1月3日にできていた
(6)教皇ヨハネ・パウロ2世はテキストを1981年7月18日に初めて読んだ
(7)このテキストは1981年6月7日の彼の世界奉献の行為の前には教皇によって読まれなかった
(8)手紙として書かれたのではなく(宛名書きがなくまた署名されていない)、シスター・ルシアの帳面への記載として書かれた
(9)聖省の建物に保存された
(10)幻視を記述している

 ポルトガルの報道機関A.N.I.(ローマにある)の1960年2月8日コミュニケに現れたバチカンの声明は、第三の秘密のテキスト(すなわち、表に言及したテキスト#1)が聖母の実際の言葉を含んでいると私たちに告げている。

 「最も信頼できるバチカン圏内において、手紙は決して公開されない見込みがかなり強いと述べられた。この手紙の中でシスター・ルシアは聖母が秘密として三人の小さな羊飼いたちにコヴァ・ダ・イリアにおいて打ち明けられた言葉を書き下ろした。」(強調付加)

 われわれはまた、第三の秘密が聖母の言葉のうちにあるということを証言するシスター・ルシア自身の言葉を持っている。フレール・ミッシェルはこう報告している。

 「....1941年7月--8月に書かれた彼女の第三の手記の中で、シスター・ルシアは秘密の第三の部分の存在に言及することに満足していた。しかし、これまでに彼女はそれについて何も言わなかった。数ヶ月後、1941年10月--12月の間に書かれた第四手記の中で、彼女はもう少し多く言う決心をした。彼女は第三の手記のテキストをほとんど一語一語再び写し取った。しかし、『....そして平和のある時期が世界に与えられるでしょう』という最後の言葉に新しい文章を付け加えた。すなわち、Em Portugal se conservara sempre o dogma da fe, etc.

 この新しい文章は「ポルトガルにおいては常に信仰の教義が保持されるでしょう、等々」と訳される。これは聖母の言葉である。フレール・ミッシェルはまた次のように報告している。

 「実際、ダ・シルヴァ司教が[第三の秘密の]テキストを書き下ろすように彼女に求めた1943年に、--そして彼女はこの命令に従うのに打ち勝ちがたい障碍に出会っていたが--彼女はそうすることは絶対に必要ではないと言明した。『というのは、彼女はある仕方でそれを言っていたからである』注6 明らかに彼女は偉大な秘密のテキストに1941年12月にはっきりとつけ加えられた--しかし、ほとんど誰もそれらに気付かなかったほどに慎重につけ加えられた--10語をそれとなくほのめかしていた。」[強調付加]

 この文章はファチマの秘密に一つの新しい--そして不完全な--考えを導入した。それはもっと追求されるべきことがあるということを暗示する。--それは『等々』が秘密の第三の部分のための「何かの言葉に置き換えられるあるもの」であることを示唆している。

 バチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』において公表された第三の秘密の2000年6月のバチカンの草稿(すなわち、表において言及されたテキスト#2)は聖母の言葉を何ら含んでいない。それはファチマの三人の子どもたちによって見られた秘密の幻視を記述している。なおその上に、このテキストはシスター・ルシアが第四の手記においてファチマの秘密につけ加えた新しい文章も、『等々』も、説明していない。このように、新しい文章に続くそれ以上のテキスト--欠けている聖母の言葉--があるのである。

事実#1に関して何が結論づけられ得るか

 これらの事実は二つの文書が存在するということを論証する。すなわち、一つの文書は聖母の言葉を含んでいる。もう一つの文書は三人の子どもたちによって見られた幻視を記述しているが、しかし聖母に帰される言葉を全然含んでいない。

事実#2:
--事実#2を支持する証拠書類による裏付け--
文書移管の異なった日付

 フレール・フランソワは第三の秘密が聖省(現在は信仰教義聖省として知られている)にいつ移管されたかを私たちに告げている。

 「1957年4月16日にバチカンに到着して、秘密は明らかに教皇ピオ12世によって、Secretum Sancti Officii(聖省の秘密)という記銘を施されて彼の個人机の中の小さな木箱の内部に置かれた。」注8

 1967年に教皇パウロ6世がバチカンを再編成する以前には教皇が聖省の長であったということに注目することが大切である。それゆえに、教皇が第三の秘密を自分の所有として保持していること、秘密を入れている箱が「聖省の秘密」というラベルを貼られていることは、教皇が聖省の長官であり、この箱が聖省の記録保管庫の一部であるから、まったく適切なことである。

 2000年6月26日に公開が許されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』はシスター・ルシアの第三の秘密のオリジナル・テキストを1957年4月4日に聖省に移されたものと同一視している。さらに、信仰教義聖省秘書官タルシジオ・ベルトーネ大司教はこう述べている。

 「封印された封筒は最初レイリアの司教の保管の下にあった。『秘密』のもっとよい保護を確保するために封筒は1957年4月4日に聖省の秘密保管庫の中に置かれた。」注9

事実#2に関して何が結論づけられ得るか

 日付のこの食い違いは二つの文書が存在するということを論証する。すなわち、幻視を含む文書は1957年4月4日に聖省の秘密保管庫へ移された。聖母の言葉を含む文書は1957年4月16日に教皇居住棟--これは聖省の一部と考えることができる--に移された。

事実#3:
--事実#3を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は1枚の紙である

 オッタヴィアーニ枢機卿は1967年に信仰教義聖省長官として、自分は第三の秘密を読んだ、そしてそれは1枚の紙に書かれていたと述べた。彼は1967年2月11日に、ローマにおける教皇庁マリア・アカデミーの集いの時の記者会見の間に、この事実を証言した。オッタヴィアーニ枢機卿はこう述べている。

 「そしてそれから、彼女[ルシア]がいとも聖なるおとめに従うために何をしたか? 彼女は聖なるおとめが告げるように彼女にお求めになったことをポルトガル語で1枚の紙に書いた....」(強調付加)

 オッタヴィアーニ枢機卿はこの事実の一人の証人である。同じ記者会見において、彼はこう述べている。

 「秘密のテキストを読む恵みと賜物を受けた私、--私は秘密によって縛られているがゆえに、私もまた秘密を守らなければならないけれども--」注11

 アロンゾ神父は、シスター・ルシアもオッタヴィアーニ枢機卿もどちらも秘密が1枚の紙に書かれたと述べている、と報告している。

 「ルシアはそれを1枚の紙に書いたと私たちに告げている。それを読んだオッタヴィアーニ枢機卿は同じことを言っている。『彼女はそれを1枚の紙に書いた』....」注12

 私たちはまたヴェナンシオ司教の証言をも持っている。彼は当時レイリア・ファチマの副司教であったが、ダ・シルヴァ司教(レイリア・ファチマの司教)によって、1957年3月中旬にシスター・ルシアのすべての書いた物のコピー--第三の秘密のオリジナルを含む--をローマへの移管のためにリスボンにいる教皇使節のところへ持って行くよう命令されたということである。ルシアの書いたものを教皇使節のところへ持って行く前に、ヴェナンシオ司教は光にそれをかざして封筒を見、秘密が『小さな1枚の紙に書かれていた』のを見た。」注13 フレール・ミッシェルはこの証言の性格を最初に確認している。

 「しかしながら、当時レイリアの副司教であり、これらの出来事に密接に関わっていたヴェナンシオ司教の発表のおかげで、私たちは今無視しないように気をつけるであろう多くの信頼に価する事実を持っている。私自身ファチマで1984年2月13日にヴェナンシオ司教の口からそれらの事実を聴いた。ファチマの元司教はこの主題についてほとんど逐語的に、彼が既に以前にカイヨン神父--彼はその会議の中でそれについて非常に詳細な説明を与えた--に言ったことを私に繰り返した。」注14 今ここにフレール・ミッシェルによるヴェナンシオ司教の証言がある。

 「ヴェナンシオ司教は、独りになったとき、秘密の大きな封筒を取り、中をすかして見ようと努め、内容を見た。司教の大きな封筒の中に、彼は少し小さな、ルシアの封筒を識別した。そしてこの封筒の内部には1枚の普通の紙が入っており、それはそれぞれの余白が4分の3センチあった。彼はあらゆるものの大きさをメモする手数をかけた。このようにファチマの最後の秘密は1枚の小さな紙に書かれていた。」注15 [強調付加]

 2000年6月の第三の秘密に関するバチカンの草稿は4枚の紙に書かれていた。

事実#3に関して何が結論づけられ得るか

 再び、これは二つの文書が存在するということを論証するもう一つの証拠である。すなわち、一つは1枚の紙から成っている文書であり、もう一つは4枚の紙から成っている文書である。

事実#4:
--事実#4を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は25行の手書きのテキストである

 たった1枚の紙に書かれている第三の秘密に関する事実#3において引用された証拠の結果として、シスター・ルシア、オッタヴィアーニ枢機卿、ヴェナンシオ司教、アロンゾ神父の証言によって準備されたように、フレール・ミッシェル、フレール・フランソワは二人とも第三の秘密のテキストがただ20行から30行しか含んでいないということで一致している。

 「....われわれは第三の秘密は20ないし30行だと確信している....」  「1枚の小さな紙に書かれたファチマの最後の秘密はそれゆえ、それほど長いものではない。おそらく20行から30行であろう....」注17

 「ヴェナンシオ司教はそれを光にすかして[第三の秘密の入っている]封筒を見た。彼はその中に彼が正確に大きさを測った1枚の小さな紙を見た。このようにわれわれは第三の秘密がそれほど長いものではなく、おそらく20行から25行であるということを知るのである....」注18

 他方において、2000年6月のバチカンの草稿は62行の手書きのテキストを含んでいる。

事実#4に関して何が結論づけられ得るか

 この食い違いは二つの文書が存在するということを論証している。すなわち、一つは1枚の紙に20行から30行のテキストが書かれた文書であり、もう一つは4枚の紙に62行のテキストが書かれた文書である。

事実#5:
--事実#5を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は1月3日までにはできあがっていなかった

 ルシアは1943年10月に初めて第三の秘密のテキストを書き下ろすことを試みた。その10月半ばから1944年1月初めまで、シスター・ルシアはこの時期の間彼女が経験した言うに言われぬ不安によって第三の秘密を書き下ろすようにという公式命令に従うことを妨げられていた。

 このエピソードはシスター・ルシアが肋膜炎で倒れた1943年6月に始まった。このことは彼女が最後の秘密を明らかにしないまま死ぬのではないかという恐れをカノン・ガランバとダ・シルヴァ司教に引き起こした。カノン・ガランバは後にダ・シルヴァ司教に、シスター・ルシアに第三の秘密を書き下ろすことを勧めるよう説得した。しかしながら、シスター・ルシアはこの勧めを拒絶した。なぜなら、彼女はそのようなイニシアティヴに対する責任を自分自身に引き受けることを望まなかったからである。しかし、彼女はそれを書き下ろすようにという司教からの明確な命令には従うと述べた。この表明された勧めに大いに苦しんで、シスター・ルシアは、彼女の司教からの公式の命令なしに、彼女が第三の秘密を明らかにするわれらの主の許可をまだ得ていなかったということを心配した。

 1943年の10月半ば、ダ・シルヴァ司教は第三の秘密を書き下ろすようにという公式の命令を最終的にシスター・ルシアに与えた。シスター・ルシアはそのとき司教の命令に従おうと試みた。しかし、続く2ヶ月半の間そうすることができなかった。それから、祝せられたおとめマリアが1944年1月2日にシスター・ルシアに御出現になった後、シスター・ルシアを強め、そして彼女に最後の秘密の言葉を書くことは実際神のみ旨であるということを確信させる神の介入によってのみ、シスター・ルシアは最終的にこれらの困難を克服し、秘密を書き下ろすことができた。注19 しかし、シスター・ルシアがダ・シルヴァ司教に、秘密が最終的に書き下ろされたと報告して、以下のことを書いたのは1944年1月9日だった。

 「あなたが私にお求めになったことを私は書きました。神は私を少し試みようと望まれました。しかし、最終的にこれは神の御意志です。[テキストは]封筒に入れて封印され、またそれは帳面の中にあります....」注20

 2000年6月のバチカンの第三の秘密の草稿は、第三の秘密のシスター・ルシアによるオリジナルテキストが、シスター・ルシアの4ページの手書きの文書の終わりに現れているこの日付によって示されているように、1944年1月3日にできあがっていたと、確認している。注21 さらに、ベルトーネ大司教はこう言っている。

 「『秘密』の第三部は『レイリア司教閣下といとも聖なる御母の命令によって』1944年1月3日に書かれた。」注22

事実#5に関して何が結論づけられ得るか

 シスター・ルシアが2ヶ月半の間出会った困難を考えれば、彼女は文書ができあがったら直ちにダ・シルヴァ司教に知らせなかっただろうか。もし彼女が1月3日までに文書を完成していたならば、司教に知らせる前に、なぜ彼女は1月9日まで待ったのだろうか? このことから、私たちは第三の秘密のテキストは1944年1月9日まで、あるいはその直前まで、できあがっていなかったと結論してもよいだろう。

 日付のこの食い違いはまた、二つの文書が存在するということを論証している。すなわち、幻視を含んでいる文書は1944年1月3日に完成した。幻視を説明している聖母の言葉を含んでいる文書は1944年1月9日に、あるいはその直前に完成した。

 明らかに、この結論は状況証拠に依存している--しかし、ファチマ学者たちは、14巻に5千の文書を含んでいるホアキン・アロンゾ神父の著作--その時までのアロンゾ神父の11年間の研究の結果--の1976年出版以来今なお維持しているファチマの立証によって、この種の証拠に従っている。アロンゾ神父は16年間ファチマの公式の記録保管人であった。おそらく事実#10 の結論を除いて、この論考における他のすべての結論は状況証拠には依存していない。

事実#6:
--事実#6を支持する証拠書類による裏付け--
教皇が最初に秘密を読んだ日付の食い違い

 2000年7月1日ワシントン・ポストは、バチカン当局者が最近、いつ教皇ヨハネ・パウロ2世は最初に第三の秘密を読んだか、その矛盾する日付を提供したと報じた。

 「5月13日、バチカンのスポークスマン、ホアキン・ナヴァロ・ヴァルスは、教皇が最初に秘密を読んだのは1978年に教皇職に就いた数日以内であると述べた。月曜日、バチカン信仰教義聖省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の一補佐官は、教皇は彼の暗殺未遂の後に、病院で最初にそれを読んだと言った。」注23 [強調付加]

 ニューヨーク・タイムズの2000年6月26日版の一論考はラッツィンガー枢機卿の補佐官を確認した。  「ヨハネ・パウロ2世はファチマの第三の秘密のテキストを暗殺未遂の後に初めて読んだ」とラッツィンガーの主席補佐官、モンシニョール・タルシジオ・ベルトーネは文書を提供する記者会見の間にジャーナリストたちに語った。」注24 [強調付加]

 2000年6月26日に公開を許されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』によれば、第三の秘密のバチカンの2000年6月草稿は教皇ヨハネ・パウロ2世によって1981年7月18日まで読まれなかった。ベルトーネ大司教は私たちにこう告げる。

 「ヨハネ・パウロ2世は、彼としては、1981年5月13日の暗殺未遂の後に『秘密』の第三部を含む封筒を求めた。1981年7月18日に聖省長官、フランジョ・セペル枢機卿が国務省代理、エドゥアルド・マルティネス・ソマロ大司教に二つの封筒を渡した。一つはポルトガル語のシスター・ルシアのオリジナルのテキストを含む1通の白い封筒であり、もう一つは『秘密』のイタリア語翻訳が入ったオレンジ色の封筒であった。その後8月11日にマルティネス大司教は2通の封筒を聖省の保管庫に戻した。」注25

事実#6に関して何が結論づけられ得るか

 これらすべての陳述は真実であり、もし二つの文書が存在するならば、両立させることができる。すなわち、教皇は封筒に託され、聖母の言葉を含んでいる1ページの文書を1978年に読み、そして次に幻視を記述している4ページの文書を1981年7月18日に読んだ。

事実#7:
--事実#7を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は教皇に世界を奉献するよう霊感を与えた

 事実#6において引用されたベルトーネ大司教の引用の直ぐ後に、大司教は続けてこう言っている。 「周知のように、教皇ヨハネ・パウロ2世は世界をマリアの汚れなき御心に奉献することを考えついた。そして教皇自身『委託の行為』と呼んだもののために一つの祈りを作った。それは1981年6月7日にサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂において祝われるべきものであった....」注26

事実#7に関して何が結論づけられ得るか

 --『ファチマのメッセージ』において引用されているように、ベルトーネ大司教によれば--1981年7月18日まで、教皇が本当に第三の秘密を読まなかったとすれば、教皇ヨハネ・パウロ2世はどのようにして1981年6月7日に--つまり6週間も前に--世界をマリアの汚れなき御心に奉献することを第三の秘密によって動かされることができたであろうか?

 ふたたび、もし第三の秘密のために二つの文書が存在しているならば、両方の陳述は真実であり、矛盾は調停することができる。すなわち、教皇は聖母の言葉を含んでいる1ページの文書を1978年に読んだ--そしてこれは1981年6月7日に世界を奉献するように教皇を動かしたテキストである--そして次に、教皇は1981年7月18日に幻視を記述している4ページの文書を読んだのである。ファチマの聖母がただロシアの特殊的な奉献だけを求められたということは周知のことであるけれども、教皇ヨハネ・パウロ2世が明らかに世界の奉献のこれらの行為を、教皇がいつ最終的にロシアの奉献をすることが自由であると感じるかの段階を設定するものと考えていることに注意せよ。

事実#8:
--事実#8を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は手紙である

 シスター・ルシア自身、第三の秘密は1通の手紙として書かれたと私たちに告げている。1946年2月3日と4日にシスター・ルシアに質問したジョンゲン神父の書かれた証言を私たちは持っている。

 「あなたはすでに秘密の二つの部分を知らせた。第三の部分のための時はいつ来るでしょうか? 『私は第三部を1通の手紙でレイリアの司教に伝えました。』そう彼女は答えた。」注27 [強調付加]

 次にわれわれはカノン・ガランバの決定的な言葉を持っている。

 「司教が手紙を開封することを拒絶したとき、ルシアは彼女の死のときか、あるいは1960年には、そのどちらが先に来るとしても、決定的に開封され、読まれることを司教に約束させた。」注28 [強調付加]

 1960年2月リスボン大司教はこう宣言した。

 「ダ・シルヴァ司教は(ルシアによって封印された封筒を)もう一つの封筒に封入した。彼はその封筒の上にこの手紙は、もし彼がまだ生きているならば、彼自身、ホセ・コレイヤ・ダ・シルヴァによって、もし生きていないならば、リスボン総大司教によって、1960年には開封されなければならないと指示した。」注29 [強調付加]

 アロンゾ神父は私たちに告げている。

 「他の司教たちもまた、あの有名な手紙を開封するために指示された日付としての1960年について--権威をもって--語った。このように、当時のティアヴァの総大司教でリスボンの副司教はルシアに秘密がいつ開封されるべきかと尋ねたとき、いつも同じ答を受け取った。1960年です、と。」注30 [強調付加]

 1959年にレイリアの当時の新司教ヴェナンシオ司教はこう宣言した。

 「私は、手紙は1960年以前には開封されないと思う。シスター・ルシアは彼女の死以前には、あるいは1960年以前にはそれは開封されるべきではないと要求した。現在1959年である。そしてシスター・ルシアは健康である。」注31 [強調付加]

 (ポルトガルの報道機関A.N.I.のコミュニケに現れた)1960年2月8日のバチカンの報道はまた第三の秘密のテキストが1通の手紙として書かれたと述べている。

 「....シスター・ルシアがその中で聖母が秘密として打ち明けられた言葉を書き下ろした手紙は十中八九公開されることはないであろう。....」注32 [強調付加]

 第三の秘密の幻視に関するテキストはまた2000年6月26日に公開を許可されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』によって手紙と同一視された。しかしながら、第三の秘密の幻視についてのあの草稿は手紙として書かれたのではない。

--それは

 1.誰かに宛てられたものではない
 2. 終わりに日付が書かれている。--しかし、18世紀以来のポルトガルの慣習によれば、手紙に日付が書かれるのは終わりにではなく、始めにである。
 3.シスター・ルシアによって、あるいは他の誰かによって署名されていない。そして
 4.明らかに、それは手紙ではない。

 シスター・ルシアによって書かれた手紙のコピーは彼女の公表された手記に含まれたが、--これらの手紙にはすべて宛名、日付、そして彼女の署名がある。このように、われわれは1944年1月9日には手に入れることができた1ページの文書は誰かに宛てられた1通の手紙であると期待することができる。(シスター・ルシアは1946年2月にジョンゲン神父に、自分はそれをレイリアの司教に送ったと告げた)そしてそれはシスター・ルシアによって署名されている。

 シスター・ルシアは第三の秘密を1通の手紙で書くか、それとも彼女の帳面に書くか、その選択権を与えられた。彼女はそれを両方の仕方で書くことに決めた。アロンゾ神父によれば、シスター・ルシアは1944年1月9日にダ・シルヴァ司教に書いた。

 「私はあなたが私にお求めになったものを書きました。神は少し私を試みることを望まれましたが、しかし、最終的にこれは神の御意志でした。[テキストは]一つの封筒に封印され、またそれは帳面にもあります....」注33

 フレール・ミッシェルは1944年6月17日に次のように報告している。

 「幻視者は秘密を含んでいる封筒を挟みこんだ帳面をグルザの司教に別個に手渡した。その同じ夜、司教は封筒をダ・シルヴァ司教の手の中に置いた....」注34

事実#8に関して何が結論づけられ得るか

 このことは二つの文書が存在するということを論証している。すなわち、シスター・ルシアは聖母の言葉を含んでいる第三の秘密のテキストを1ページの手紙の中に書いた。彼女はまた、--自分の帳面の中に--4ページのテキスト--その中に彼女は相応する幻視を記述した--をも書いた。4ページのテキストは2000年6月20日に第三の秘密の草稿としてバチカンによって公開が許されたものであり、そしてそれは明らかに1通の手紙ではない。

事実#9:
--事実#9を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は教皇の居住棟に保存された

 フレール・ミッシェルはジャーナリストのロベール・セルーの証言を報告している。セルーは1957年5月14日に(注35)--第三の秘密が1957年4月16日にローマに到着したおよそ1ヶ月後に--バチカンで一つの写真物語を作っている間に、第三の秘密が教皇の居住棟の中に、教皇の寝台のわきに保存されていることを発見した。フレール・ミッシェルはこう述べている。

 「....われわれはモンシニョール・チェントによってローマへ送られたその貴重な封筒が聖省の保管庫の中に置かれていず、ピウス12世がそれを自分の居住棟に保存することを望んでいたということを知っている。」

 「カイヨン神父はこの情報をジャーナリストのロベール・セルーの口から受けた。セルー自身はその情報を次のような仕方でマザー・パスカリーナから得た。ロベール・セルーは『パリ・マッチ』誌のためにピウス12世の居住棟においてある写真物語を作っていた。マザー・パスカリーナ--この女性は教皇の家事をする人として働いている少数のシスターたちを指導していた偉大な良識の持ち主、時には教皇の信頼を受けていた人である--がそこに居合わせた。」

 「テーブルの上に置かれ、『Secretum Sancti Officii』(聖省の秘密)という銘をもった小さな木製の保管箱を前にしてそのジャーナリストはマザーに尋ねた。『マザー、この小さな保管箱の中には何が入っているのですか? 』彼女は答えた。『ファチマの第三の秘密が入っています....』

 「この保管箱の写真は『パリ・マッチ』誌の1958年10月18日号において公表された。そしてここに再現されている(この号の89ページを見よ)。セルーの証言の詳細は後に、彼が1985年1月10日にフレール・ミッシェルに書いた手紙の中で確証された。ロベール・セルーはこう述べている。

 「マザー・パスカリーナが、私に『聖省の秘密』というラベルのついた一つの小さな保管箱を示しながら、『この中にファチマの秘密があります』と私に言ったということは正確なことである。」注38

 2000年6月26日に公開を許された『ファチマのメッセージ』というバチカンの小冊子は、第三の秘密が、聖省が入っている建物の中に保存されていたと述べている。信仰教義聖省秘書官タルシジオ・ベルトーネ大司教はこう述べている。

 「封印された封筒は最初レイリアの司教の保管の下にあった。『秘密』のためによりよい保護を確保するためにその封筒は1957年4月4日に聖省の秘密の保管庫に置かれた。」注39

 なおその上に、われわれはまた事実#6において、教皇ヨハネ・パウロ2世が1978年に第三の秘密のテキスト(すなわち、聖母の言葉を含んでいる1ページの文書)を読み、そしてその次に教皇が1981年7月18日に幻視を記述した4ページの文書を読んだということを論証した。事実#6において述べたように、聖省の保管所において教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年に第三の秘密を求めたということが強調された。しかし、1978年に秘密を求める教皇の記録は存在しない。なぜなら、教皇はそれを必要としなかったからである。

事実#9に関して何が結論づけられ得るか

 これらの事実は二つの異なった場所にそして二つの異なった保管所に保存された二つの文書が存在するということを論証している。1978年に教皇ヨハネ・パウロ2世は聖母の言葉を含んでいる1ページの手紙--これは教皇の居住棟に保存されていた--を読んだ。それゆえに、教皇は聖省の秘密の保管庫からそれを要求する必要がなかった。1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世はシスター・ルシアの帳面からの幻視の記述を含む4ページのテキストを読んだ。それは聖省の建物の中に保存されていた。--このテキストを教皇は聖省の秘密保管庫から要求しなければならなかった。

事実#10:
--事実#10を支持する証拠書類による裏付け--
テキスト#1は幻視を説明している

 シスター・ルシアの『第四手記』の中に、われわれは1917年6月13日の聖母の御出現の間に、シスター・ルシアが聖母に三人の幻視者を天国に連れて行ってほしいと求めた後で、聖母が次のように答えられたということを読む。

 「ええ、私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。」注40

 シスター・ルシアは次に先へ進んで、聖母が上述の言葉--幻視の意味を説明する言葉--を話された直後に、三人の幻視者たちが見る恵みを受けた相応する幻視の記述を私たちに与える。

 「聖母は、これらの最後の言葉を話されたとき、その手をお広げになり、そして二回目には私たちにあの果てしのない光を送られました。私たちは、いわば、神のうちに浸されて、自分自身がこの光の中にいるのを見ました。ジャシンタとフランシスコは天の方へ上っている光の部分に、そして私は地上へと注がれている光の中にいるように見えました。」注41

 このように、われわれは聖母が子どもたちに一つの幻視を与えられ、そして同様に、それを説明なさるのを見る。

 2000年6月26日に公開を許されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』のうちに、われわれは1917年7月13日の聖母の御出現の間に三人の小さな羊飼いたちに与えられた地獄の幻視についてのシスター・ルシアの記述(彼女の『第三手記』から取られた)を読む。

 「聖母は私たちに地下にあると思われる大きな火の海を示されました。この火の中には、人間の形をした悪魔たちと霊魂たちが沈められていました。彼らは皆真っ黒にされ、あるいは赤銅色に磨かれたようになって、透明な燃える燃えカスのようでした。大きな煙の雲と一緒に彼ら自身の内部から発した炎によって空中へと吹き上げられたり、今度は重さや釣り合いを失って、そして苦痛や絶望の叫びやうめきの中で、巨大な火の中の火花のようにあらゆる方向へ再び墜落しながら、大火の中に浮かんでいました。これは私たちをぞっとさせ、恐怖で身震いさせました。悪魔たちは皆真っ黒で透明で、その恐ろしい、未知の動物のぞっとする、いやらしい似姿によって識別できました。この幻視は一瞬間しか続きませんでした。最初の御出現の中で、私たちを天国に連れて行くと約束することによって私たちにすでに準備をさせておられた天上の優しい御母に、私たちはどのように感謝を捧げることができるでしょう。そうでなければ、私たちは恐怖のために死んでしまったと思います。」注42  その説明に続いて、シスター・ルシアは次にこの幻視が何を意味しているかを説明する聖母の言葉を私たちに告げることへと進む。

 「あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。」注43 [強調付加]

 子どもたちが見たことを知っていたとしても、にもかかわらず聖母は彼らに告げられます。「あなたがたは地獄を見ました」と。もう一度、われわれは聖母が子どもたちに幻視を準備され、そして同じようにそれを説明なさるのを見る。

 幻視の上述の記述そしてそれらを説明する聖母の相応する言葉とは対照的に、われわれは2000年6月26日に公開を許されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』においては、ただ幻視の記述(その一部分は以下に挙げられている)だけを読む。

 「私がすでに説明した二つの部分の後で、聖母の左側、すこし上の方に私たちは左手に燃える剣をもった一人の天使を見ました....十字架の両腕の下にはそれぞれ手に水晶の聖水磐を持った二人の天使がいました。その聖水盤の中に彼らは殉教者たちの血を集め、神への道を作っている霊魂たちにそれを振りかけていました。」注44

 2000年6月26日にバチカンによって与えられた第三の秘密のこの草稿は、しかしながら、聖母の言葉を含んでいない。

事実#10に関して何が結論づけられ得るか

 この幻視を説明する聖母の言葉はどこにあるのか? もし聖母がこの幻視を説明するために何も言われなかったならば、それは聖母の御出現の過程におけるそれ以前の同じような状況と一致しない。それはまた、われわれが事実#1において以前に挙げた証拠とも一致しない。

 もし教える権威--教皇自身を意味する--がこの幻視に一つの特殊な解釈を押しつけていないならば--そしてそれはそうではない--(すなわち、他の解釈もまた妥当であろう)、そしてもしわれわれが自分たちの側にこの幻視を理解するための恵みを持たないならば、ぞのときなおさら聖母がファチマの第三の秘密の幻視の意味をわれわれに説明なさるであろうと信じる理由がある。事実、ラッツィンガー枢機卿は、2000年6月26日に公開を許されたバチカンの小冊子『ファチマのメッセージ』の中にある「神学的注釈」は第三の秘密の幻視に関する一つの解釈の試みであると私たちに告げている。「神学的注釈」の中でラッツィンガー枢機卿はこう述べている。

 「それゆえに、以下に続くことにおいて、われわれはただすでに考察された規準に基づいて、この解釈のより深い一つの基礎を提供することを試みるだけである。」注45

 ラッツィンガー枢機卿はまた、ある記者会見の間に一つの特殊的な解釈はこの幻視に押し付けられないということを確証した。2000年7月1日、ワシントン・ポストは次のように報道した。  「ラッツィンガーは、教皇が幻視について読んだことに関してコメントするように求められて、「公式解釈はない」、またテキストは教義ではない、と言った。」注46 [強調付加]

第三の秘密に関してシスター・ルシアによって
書かれた二つの草稿の存在に関して提供された
諸事実の結論

 結論として、証拠は二つの文書の存在を圧倒的に支持する。一つの文書はシスター・ルシアの帳面(1通の手紙として書かれたのではない)から写された62行のテキストを含む4枚の紙であり、それはファチマの三人の子どもたちによって見られた幻視を記述しており、--聖母の言葉を含んでいない。このテキストはシスター・ルシアによって1944年1月3日に書き下ろされ、1957年4月4日に聖省に移管され、1981年7月18日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって読まれ(しかし、1981年6月7日にマリアの汚れなき御心に世界を奉献するよう教皇を動かさなかった)、聖省に保管され、2000年6月26日にバチカンによって公開を許された。

 もう一つの文書はおよそ25行の聖母自身の言葉を含んでいる1ページの手紙である。このテキストはシスター・ルシアによって1944年1月9日に、あるいはその直前に書かれ、1957年4月16日に聖省に移され、1978年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって読まれ(そして1981年6月7日にマリアの汚れなき御心に世界を奉献するよう教皇を動かした)、教皇の居住棟でその寝台の傍に保管され、そして今日までバチカンによって公開を許可されないままになっている。


Select Bibliographical List:

FTT: Frere Francois de Marie des Anges, Fatima: Tragedy and Triumph, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1994, 370 pages.

SFR: Brother Michael of the Holy Trinity, The Secret of Fatima ... Revealed, Immaculate Heart Publications, Fort Erie, Ontario, Canada, 1986, 32 pages.

VSF: Father Joaquin Alonso, "La Verdad sobre el Secreto de Fatima", Centro Mariano, Madrid, Spain, 1976, 119 pages.

WTAF - Vol. I: Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima - Volume I:Science and the Facts, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1989, 556 pages.

WTAF - Vol. III: Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima - Volume III: The Third Secret, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, U.S.A., 1990, 874pages.

Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia, Porto, Portugal, 1973, 472 pages, edited by Father Antonio Maria Martins.

Sister Lucy, Fatima in Lucia's Own Words, Postulation Centre, Fatima, Portugal, 1976, 208 pages.

Archbishop Tarcisio Bertone, SDB and Joseph Cardinal Ratzinger, The Message of Fatima, June 26, 2000.

FOOTNOTES:

1. In some proofs, we are dealing with circumstantial evidence. There are two reasons for this:(1)over 5,000 original documents in 14 volumes written by Father Alonso- the resultof 11 years of research by Father Alonso, then the official archivist of Fatima- have beenprevented from being published since 1976 by religious authorities(i.e. the Bishop of Fatima and the Provincial of the Claretians based at Madrid, Spain), and(2)the crushing,non-moveable deadline which allowed only 1 week to research and write this article for publication vs. the 40-year history of suppression of the Third Secret.

2. Quoted by Father Alonso, "Fatima 50", October 13, 1967, p. 11. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 47.

3. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 49.

4. Quoted by Father Martins dos Reis, "O Milagre do sol e o Segredo de Fatima", p. 127-128.Cf. Father Joaquin Alonso, VSF, p. 55-56. See also WTAF - Vol. III, p. 578.

5. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 684.

6. Father Alonso, VSF, p. 64. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 684.

7. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 684.

8. Frere Francois, FTT, p. 45.

9. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, "Introduction", The Message of Fatima, June 26, 2000,p. 4.

10. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 725.

11. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 727.

12. Father Alonso, VSF, p. 60. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 651. Also, footnote no. 4 in Frere Francois, FTT, p. 289.

13. Frere Francois, FTT, p. 45. See also Frere Michel, SFR, 1986, p. 7.

14. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 480. See also Father G. Freire's exposition, O Segredo de Fatima, a terceira parte e sobre Portugal?, p. 50-51.

15. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 481.

16. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 626.

17. Frere Francois, FTT, p. 45.

18. Frere Michel, SFR, p. 7.

19. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 38-46.

20. Quoted by Father Alonso, "Fatima 50", p. 11. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 47.

21. Original text of Sister Lucy, "Third Part of the 'Secret' ", The Message of Fatima, p. 20.

22. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, "Introduction", The Message of Fatima, p. 4.

23. Bill Broadway and Sarah Delancy, "3rd Secret Spurs More Questions; Fatima Interpretation Departs From Vision", The Washington Post, July 1, 2000.

24. The Associated Press, "Vatican: Fatima Is No Doomsday Prophecy", The New York Times, June 26, 2000.

25. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, "Introduction", The Message of Fatima, p. 5.

26. Ibid.

27. Revue Mediatrice et Reine, October 1946, p. 110-112. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 470.

28. Quoted by Father Alonso, VSF, p. 46-47. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 470.

29. Novidades, February 24, 1960, quoted by La Documentation Catholique, June 19, 1960, col. 751. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 472.

30. Father Alonso, VSF, p. 46. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 475.

31. Father Alonso, VSF, p. 46. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 478.

32. Quoted by Father Martins dos Reis, "O Milagre do sol e o Segredo de Fatima", p. 127-128. Cf. Father Alonso, VSF, p.55-56. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 578.

33. Quoted by Father Alonso, "Fatima 50", p. 11. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 47.

34. Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 49.

35. Ibid, p. 485-486.

36. Ibid, p. 484-485.

37. See footnote no. 47 in Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 501.

38. Letter to Frere Michel de la Sainte Trinite of January 10, 1985. See also Frere Michel, WTAF - Vol. III, p. 486.

39. Archbishop Tarcisio Bertone, SDB, "Introduction", The Message of Fatima, p. 4.

40. Sister Lucy, in an account written for her confessor, Father Aparicio, at the end of 1927.

41. Sister Lucy, "Fourth Memoir", December 8, 1941, p. 65. See also WTAF - Vol. I, p. 159.

42. English translation of text in Sister Lucy's "Third Memoir" quoted in "First and Second Part of the 'Secret'", in The Message of Fatima, p. 15-16. See also Sister Lucy, "Fourth Memoir", Fatima in Lucia's Own Words, p. 162. See also Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia, p. 338-341.

43. Sister Lucy quoted in The Message of Fatima, p. 16. See also Sister Lucy, "Fourth Memoir", p. 162. See also Sister Lucy, Memorias e Cartas da Irma Lucia, p. 340-341.

44. English translation of Sister Lucy, "Third Part of the 'Secret' ", The Message of Fatima, p. 21. 45. Joseph Cardinal Ratzinger, "Theological Commentary", The Message of Fatima, p. 39.

46. Bill Broadway and Sarah Delancy, The Washington Post.


2000/10/13  三上 茂訳

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作成日:2000/10/13

最終更新日:2005/03/19

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