ファチマの聖母マリア

ファチマは今世紀を見ることを助けてくれる

(Echo of Mary-Queen of peace 137)1998年1月-2月号から

「神の拒否という人間の冷淡なまどろみの中で御母はそのマントで人間を護られる」

教皇はファチマ80周年記念祝典に、今世紀についての彼の予言的ビジョンを明らかにするメッセージをもって精神的に、参加されました。キリスト教の人々が2000年の大聖年のために準備するようにマリアに願われた後、彼はこう言われました。「ファチマは二十世紀においてもまた神の御手、私たちの摂理的な導き手、そして忍耐深く憐れみ深い御父の御手を私たちが見るのを助けます。」二十世紀は教会と世界の両者にとって肯定的および否定的な時のしるしによって特徴づけられています。すなわち、「もろもろの危機、荒廃、そして教会の構成員たちの多くの苦しみ。しかし、またキリストの神秘体における連帯と相互依存の新たにされた、強い感情。もろもろの個人および社会による神からの分離と神の放棄。しかし、また「人間における神の像と似姿」を救うために犠牲と殉教の点にまで[人々の]心と共同体の中へと真理の御霊が入って来られていること。

ファチマの光に照らして神からの人間の分離を分析するに際して、私たちは、神が人間によって拒絶され、軽蔑されるのを感じられながら、しかし、人間の自由を尊重されて、歴史に襲いかかる暗黒を引き起こす、結果としての生活の暗黒化を伴うけれども、人間に自分からは遠く隔たっていると感じることをお許しになるが、しかし、後では避難所を提供なさる、ということを思い起こすべきです。このことは既に、受肉した神が十字架につけられ、人間たちの手にかかって亡くなられたカルワリオの上で起こりました。そしてキリストは何をなさったでのでしょうか? 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」(ルカ 23:34)という言葉と共に神の憐れみを呼び求められた後に、キリストは母マリアに人類を委ねられました。「婦人よ、これはあなたの子です」(ヨハネ 19:26)。この福音書の出来事の一つの象徴的な解釈は、誤解されているのを感じて、混乱し、そして反抗的になって、夜の中へさまよい出るために彼の父の家を後にする息子の周知のそして共通の経験の最後のシーンがキリストのうちに反映されているのを私たちが見ることを可能にします....そして彼の母のマントは彼の絶望と孤独に打ち勝つように彼を助けながら、彼が眠っている間冷気から彼を保護します....ファチマから全世界へと拡がる母のマントの下で、人類は父の家、そしてそのパンへの切望を新たに感じます(ルカ 15:17を参照)。

親愛なる巡礼者の皆さん、あたかも全人類を抱擁することが可能であるかのように、私は彼女の名において、そして彼女のために、次のように言うようにあなたたちに求めます。おお、神の聖なる御母よ、私たちはあなたの保護のもとへ飛んで行きます。おお、栄光に満ち、祝福された乙女よ、私たちの窮乏において私たちの嘆願を軽蔑しないで、私たちをすべての危険から救ってください。

婦人よ、あなたの子を御覧なさい。このようにイエズスは、一方で同様にまた十字架の足元に立っていた彼の愛する弟子、ヨハネのことを考えながら、母に言われました。誰が十字架を持たないでしょうか? 師の後に従いながら、確かに救いの祝福として(一コリ 1:23-24)十字架を日々担うことは私たちに課された福音の条件です(ルカ 9:23を参照)。秘密は最初に十字架につけられたお方を見失わないことに存します。御父は復活の栄光をもってそのお方にお応えになりました。そしてそのお方が祝福されたもののこの巡礼を始められたのです。その観想は一般に尊ばれ、教会の教導権によって非常に執拗に推奨されているロザリオの諸玄義において単純で効果的な黙想の形式を取りました。親愛なる兄弟、姉妹たち、毎日ロザリオを唱えてください。私は司牧者たちにロザリオを祈るようにそして彼らのキリスト教共同体においてどのようにロザリオを祈るかを人々に教えるように熱心に勧めます。神の民に、彼らがその家へ引き取った御母(ヨハネ 19:27を参照)との子どもたちのこの甘美な会話であるロザリオを毎日唱えることへと戻るように助けてください。

最後に私たちの教皇は「すべての人のために、そしてある特別の意味で、苦しんでいる人々のために、彼らがキリストの苦しみにおいて欠けているところを喜んで満たすように(コロ 1:24を参照)」、「多くの者の救いが神秘体の構成員たちの祈りと自発的な苦行に依存している....」ということを思い起こしながら、「神の慰めと力を」祈願されました。

誰かが隠そうとしたメッセージ

モンシニョル・パウル・ヒニリカ司教はこう言っておられます。「悲しいことに、教皇様によるこのアッピールはそれが知られるべきであったときに知らされませんでした。ヨハネ・パウロ二世によって1997年10月1日にサインされた手紙はオッセルヴァトーレ・ロマーノによって10月15日に始めて公表されました。このように、10月13日にファチマに集まった50万人以上の信者、20人の司教たち、そして500人の司祭たちはこれらの鼓舞する言葉を聞くことができませんでした。

この不都合にもかかわらず、このメッセージは私たちの時代のために与えられたファチマにおける聖母のアッピールの意味に対する最も深いコメントの一つであり続けます。私たちはこれらの言葉でもって教皇様は圧縮された形で全世界にとってのファチマの重要性について長い省察の実を私たちに与えられたと確信します。それだけでなく、教皇様は全世界の司教と司祭たちに毎日ロザリオを祈るように、また他の人々にも祈ることを教えるように、勇気をもって一つの前例のない−と私は言いたいですが−訴えをなさったのです。ですから、私たちはこのメッセージに直面することを義務づけられているのです。実際、教皇様のうちに、単に人間的な姿だけではなく、救いの道において教会を導くために、他のすべての司教全部を合わせたよりももっと多く、聖霊によって霊感を受けておられるキリストの代理者を見ることを私たちに許すのは私たちの信仰です。もしヨハネ・パウロ二世がファチマを、神を見捨てたために、そして暗闇に生きているために、「冷たい眠り」に落ち込んでしまった二十世紀の人間に神が与え給うた一つの「避難所」と呼ばれたならば、私たちは彼の分析を過小評価すべきではないでしょう。教皇様は悲観論者ではありません。彼がしておられることは物事があるべき道筋をわれわれに思い起こさせ、一つの救済策を提供することです。その救済策とは、供贖者である私たちの御母、十字架の下に立っておられる悲しみの聖母の母としての取り次ぎによって私たちに与えられる神の憐れみです。私たちが「父の家、そしてそのパンへの切望を新たに感じる」(ルカ 15:17を参照)ように、私たち皆の上に、教皇様が彼女の「母のマント」と呼ばれるものを拡げておられるのは彼女です....

蛇がより激しく咬んでいる現在は特に、これらの言葉を大事にしましょう。あのいにしえの蛇、サタンは怒っています。そして母と子を抑圧するためにあらゆる手段を用います(黙示録 12:4を参照)ですから、私たちは眠り込まないで、他の無意味な言葉の洪水が私たちに脅威を与えているこの時に私たちに提供される神の御言葉にすがりつきましょう。」

終わり

1998/03/07 三上 茂訳

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作成日:1998/03/07
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