ファチマの真実(2)

今から82年前1915年以来、ポルトガルのファチマで起こった歴史的事実について Frere Michel de la Sainte Trinite の The Whole Truth about Fatima(tr.from French into English by John Collorafi)を参考にして若干のことを述べ、いくらかの私見も加えてみたいと思います。

目次

メッセージの成長

ダニス神父のテーゼの検討

メッセージの本質

三人の幻視者たち

メッセージの成長

1917年以後

1917年に聖母マリアの6回の御出現がありましたが、ファチマの出来事はそれで終わったわけではありません。1925年、1926年、1927年、1929年、1939年...1941年、1943年...と続きます。しかも、1917年の御出現についても、前にも言いましたように、その時点ですべてのメッセージが公表されたわけではなく、後に1935年から1943年にかけてのシスター・ルシアの手記の中で初めて明らかにされたものもあります。たとえば、1917年7月13日の大きな秘密の最初の二つの部分は1942年まで明らかにされませんでした。いわゆる「第三の秘密」と言われている第三の部分はシスター・ルシアによって1944年に書かれましたが、未だに公開されていません。

1930年代の文献と40年代以後の文献の違い

1939年以前に出版されたファチマに関する文献では、三人の羊飼いの子どもたちに聖母が突然、1917年5月13日に出現されたことになっています。現在では認められているそれに先立つ天使の出現については言及されていません。1917年の聖母の6回の御出現、子どもたちの受難については詳細に述べられたものが多いのですが、聖母のメッセージの内容は短い記述しかありません。1917年6月の聖母の御出現の記事にも、聖母マリアの汚れなき御心をルシアが見たことについての言及は見られません。また、7月13日の大秘密についても触れられていないのは当然です。聖母のメッセージは要するに三人の子どもたちに天国を約束なさったこと、戦争を終わらせるために毎日ロザリオを唱えるよう言われたこと、7月13日には10月13日の奇蹟が預言されたことが内容となっています。

子どもたちの地獄の幻視、第二次世界大戦勃発の預言、神の懲罰としてのロシアの果たす役割、聖母マリアの汚れなき御心にロシアを奉献することなど、聖母のメッセージの核心部分については40年代以後の文献にシスター・ルシアの手記をもとにして明らかにされて行きます。それらの著作の中には、ローマ教皇庁立聖書研究所のポルトガル人のイエズス会士ダ・フォンセカ師が1942年4月に出版した『ファチマの大奇蹟』や同年5月のイタリア人司祭ドン・ルイジ・モレスコ師の『ファチマの聖母』、さらに同年10月ガランバ師の『ジャシンタ』などがあります。それらはいずれも、枢機卿など高位聖職者が序言を書いており、教会当局によって認可された書物です。

ファチマに対する反論

シスター・ルシアの手記によって新たに明らかにされたファチマのメッセージは、しかし、必ずしもすべての人々によって支持されませんでした。1917年の聖母のメッセージを純粋に霊的なものだけにとどめておこうとする神学者たちがいました。ダニス神父は、聖母はロザリオの祈りをすること、わたしたちの罪の痛悔をすることを勧めておられるのであって、政治には関わられないと主張しています。聖母がナチス・ドイツやファシズムの危険に反対するソビエト・ロシアを名指しで挙げられ、その回心のためにロシアをマリアの汚れなき御心に奉献するように求められる、というようなことは考えられないというわけです。だから、聖母がそのようなことをメッセージの中で述べられたことはない、したがって、そのようなメッセージはおそらくシスター・ルシアの創作であろうというのが、ダニス神父の言い分です。ダニス神父はメッセージをファチマ1とファチマ2に分け、ファチマ1、つまり1917年に明らかにされていたメッセージだけを真正のものとし、ファチマ2、つまりシスター・ルシアが後に明らかにしたメッセージの真正性を否定します。

ベルギーのイエズス会士エドゥアール・ダニス神父は1933年から1949年までルーヴァン大学の神学教授を勤め、その後ローマのグレゴリアナ大学で教鞭を執り、1963年には教皇パウロ6世によって学長に指名された高名な神学者でした。この影響力の強い神学者ダニス神父によって、1944年以来ファチマのメッセージに対する攻撃が始まりました。彼は1944年にフラマン語で『ファチマの御出現と予言について』と題された2編の長い論文を書き、翌1945年初めに少し変えて『ファチマの御出現と秘密について』という題で書物の形で出版しました。ダニス神父の著書の要点は1917年アルジュストレルの3人の羊飼いへの聖母の御出現は真正のものであるが、後に加えられたものについては疑わしい、信じるに足るものではない、わたしたちは最初のメッセージにとどまるべきであるということでした。1946年にオランダのモンフォール会のヨンゲン神父がシスター・ルシアに会って、これに対する反論を書き、1950年にはポルトガルのイエズス会士ヴェロゾ神父が、1951年には同じくポルトガルのイエズス会士ダ・フォンセカ神父がダニス神父の主張に対して、鋭い論駁をします。同じ修道会の同僚からの論駁に対して、修道会の上長の勧めもあって、ダニス神父は論争を終わらせるために、1953年5月16日、「チヴィルタ・カットリカ」に『ファチマに対する見解と議論の評価』という論考を載せました。この論考は回りくどい言い回しで議論を展開し、同僚たちの怒りを宥めようとはしていても、結局のところ彼の主張のどれ一つも撤回しないものでした。

1978年に亡くなるまでの30年以上にわたるダニス神父のファチマ問題に与えた大きな影響力は他の高名な神学者にも及んでいます。たとえば、ルルドの聖母の御出現に関する権威であるルネ・ローランタン神父は1982年に書かれた『ファチマの秘密』という論考においてダニス神父の見解をこの問題における一つの権威として引用し彼の見解に賛成しています。

シスター・ルシアの手記

それでは、シスター・ルシアがレイリアの司教コレイラ・ダ・シルヴァに要請されて1935年から41年にかけて書いた4篇の手記はいったい何であったのでしょうか? まず1935年に第1の手記がジャシンタについて書かれます。第2の手記は1937年にルシアについて、第3の手記は1941年8月に再びジャシンタについて書かれました。最後の第4の手記は同じ年1941年12月8日に書き上げられました。その内容は聖母の御出現とフランシスコ、ジャシンタのその後の生活、ポンテ・ヴェドラの御出現のメッセージなどです。

ダニス神父はこの1935年から41年にかけて書かれたシスター・ルシアの手記に基づく出来事を「新しい歴史」としてファチマ2と呼び、1917年の時点で明らかにされていた出来事を「古い歴史」としてファチマ1と呼んでそれから峻別し、前に述べましたように、ファチマ1は真正性があるが、ファチマ2には真正性がないと主張します。

ファチマ2には真正性がないという理由は何でしょうか? その理由をダニス神父は小さな子どもにそのように長い間の沈黙は不可能だからと言っています。1916年の天使の出現をルシアが1937年の第2の手記で初めて明らかにしたことは第1部の天使の出現の項で述べましたが、ルシアをはじめ子どもたちが天使の出現に強い衝撃を受け、地にひれ伏して礼拝するという体験によって、1917年当時誰にもこのことを打ち明けなかったというルシアの説明は、子どもの心理から考えてあり得ないことである、という理由でダニス神父を納得させるものとはならないのです。1917年の聖母の御出現の際にも子どもたちは聖母との約束を守って沈黙を守りますが、それもダニス神父にとっては、1917年から 1935年ないし1941年までというほとんど20年間もの長い間、沈黙を守ることが不自然であり、疑念を持たせることであることになります。

ダニス神父は結局シスター・ルシアの1935年以後の手記による証言の信憑性を否定します。さらに、三人の証人のうちフランシスコが1919年にジャシンタが1920年に亡くなっていますから、残るルシア一人の証言では信憑性に欠けるというわけです。「一人の証言は何ら証言ではない」(testis unus, testis nullus)。シスター・ルシアの司教宛の手記の中の「聖霊の御助けに感謝」という言葉もダニス神父には「錯覚」としか思えません。ルシアの誠実さや日常生活における健全な判断力を疑いはしないが、しかし、ファチマ2はルシアの「無意識的なうそ」unconscious fabricationだというのが、ダニス神父の結論です。つまり、1916年の天使の出現はルシアの作り出した想像力のなせる業だということです。このようにして、地獄の幻視もまたルシアの想像力の中で知らず知らずの間に作り出された幻覚でしかないことになります。これは罪の恐ろしさの意識とカテキズムを通して植え付けられた中世的観念の結合によってもたらされた想像の産物であるというダニス神父の近代主義的解釈ではないでしょうか? 聖母マリアの汚れなき御心の問題についても、ダニス神父はそれをシスター・ルシアの聖マルガリタ・マリアからの「無意識的な剽窃」にしてしまいます。無意識的というのはルシアの誠実さを疑わないからだそうです。誠実で健全な判断力を持ちながら無意識的剽窃をやってのけるルシアという人間を想像してください。

ダニス神父のテーゼ

ダニス神父のテーゼは三つの点にまとめることができます。

1)ファチマ1とファチマ2の間には対立がある。
2)ファチマ2はでっち上げである。
3)ファチマ1は真正性を持っている。
したがって、わたしたちはファチマ1だけを信じ、ファチマ2を無視しなければならないということになりますが、本当にそういうことになるのでしょうか? 次ぎにその問題について見て行きたいと思います。

ダニス神父のテーゼの検討

ファチマ1を受け入れること

1917年5月から10月までの6回の御出現の真正性を認めることは何を意味するのでしょうか? 神がファチマの三人の子どもたちを他の人々の中から選ばれ、彼らをコヴァ・ダ・イリアで聖母の御出現に立ち会わせるようにご計画になったこと、ルシア、ジャシンタ、フランシスコは聖母の姿を見、聖母の声を聞き(フランシスコは聞くことができませんでしたが)、聖母のメッセージを伝えるために神によって選ばれたこと、彼らの証言の真正性を保証するために神が多くの奇蹟、科学的には説明できない癒しや自然科学的に説明不可能な太陽の奇蹟を大観衆の前で行われたこと、三人の子どもたちが大奇蹟のことを三ヶ月も前から場所、日時を特定して予告していたこと、そのことは聖母がすべての人がそれを見て聖母の言葉を信じるために子どもたちに約束されたこと、つまり、御出現の超自然的起源を信じることを意味します。ダニス神父はこのすべてのことを真正なものとして受け入れます。

ファチマ2を否定すること

しかし、同時にダニス神父はそれ以後のルシアの証言を否定し、ファチマ2を拒絶しなければならないと主張します。「無意識のうちに物事をでっち上げる」傾向のあるルシアが1917年の超自然的出来事に尾鰭をつけ始め、ことがらをでっち上げ、メッセージを膨らませて行った、と彼は考えます。このようにして、尾鰭をつけられて膨らまされたものがファチマ2であり、それは1917年の真正の御出現を歪曲するものだ、というわけです。

ファチマ1とファチマ2の対立? ?

ダニス神父はファチマ1とファチマ2をこのように分離し対立させますが、そのことはそもそも可能なのでしょうか? 事柄の前半部分は真であるが、後半部分は虚偽であるというようなことはあり得るのでしょうか? ダニス神父のように主張することは、カトリックの信仰に照らして矛盾しないでしょうか? つまり、ファチマ1を真正のものと認めながら、ファチマ2を虚偽のものとして否定することは、神がお選びになった証人をファチマ1では承認しながら、同時にファチマ2において拒否することになりますが、それは神の選定に対する疑義の提出にならないでしょうか? ルシアは1917年には神の証人として相応しかったが、それ以後相応しくなくなったと言われているようですが、それは神ご自身によるルシアの幻視者としての選定が誤っていたということにならないでしょうか? ファチマ1が真正であるならば、ファチマ2も真正でなければならない、と考えるべきではないでしょうか? もし、ファチマ2が虚偽であるならば、ファチマ1も虚偽であるはずです。1930年10月13日にファチマの司教がファチマの御出現の真正性を公式に宣言したときに、メッセージの受け手であったルシアがその数年前から正気を失い、ありもしないメッセージをでっち上げ、霊的指導者ばかりでなく、世界中をいかさまのメッセージによって混乱させたなどということを考えることは不可能です。フレール・ミッシェルはこう言っています。「もしルシアが半世紀間も世界を欺いていたとするならば、まず第一にその責任を負わなければならないのは神御自身である」と。

ファチマメッセージ伝達の四つの段階

ファチマの出来事とメッセージは次の四つの段階を経て人々に伝達されて行きました。

1) まず出来事があり、何が起こったのかを人々に知らせる最初の口頭の証言があります。これは1917年に三人の子どもたちが家族や教会の神父に尋ねられて答えた内容です。

2)次に、後からの口頭の証言があります。

3)それらを書き留める段階が来ます。霊的指導司祭に対して提出されたシスター・ルシアの書いたものは数多くあります。しかもそれらは長い間出版されませんでした。

4)最後に、出版の段階が来ます。この出版はファチマの場合はしばしば非常に遅く為されています。ルシアが望んでいたにもかかわらず、教会当局の意向によって引き延ばされました。秘密やメッセージの本質的部分は1940年まで出版されませんでした。

ダニス神父はこの四つの段階のうち最初と最後だけを問題にし、真ん中の二つの段階を無視しました。ファチマの全体をファチマ1とファチマ2に分けて、前者の真正性を認めるが、後者をでっち上げとする考え方はこの連続する四つの段階を分断し、真ん中の二つの段階を無視することによって初めて維持できます。しかし、第二の段階と第三の段階を無視することはできません。それらは歴史的な証拠によって保証されているからです。

事実はむしろこうではないでしょうか? 3人の子どもたちは1917年に秘密を受け取り、それを注意深く保ち、摂理の導きに従って少しずつ明らかにしていったのです。ですから、1942年に明らかにされた秘密も1917年に子どもたちには明らかにされていた、と考えるほうが自然ではないでしょうか? 

フレール・ミッシェルは1942年から1917年までを遡ってファチマの出来事とメッセージの全体が徐々に明らかにされて行く様子を以下のように辿っています。

1942年  教会当局がファチマの秘密の出版を許可したのはこの年です。しかし、1927年にはすでにシスター・ルシアは天から秘密を明らかにする許しを得ていたので、そのうちの一つあるいは他の秘密を霊的指導司祭、司教あるいは教皇に明らかにしています。

1941年  シスター・ルシアはファチマ2の全体をなす第三手記と第四手記を書きました。

1940年  シスター・ルシアは教皇ピオ十二世に手紙を書き、その中で秘密を教皇に伝えました。そして1925年のトゥイ、1927年のポンテ・ヴェドラでの御出現で何があったかを語っています。

1938-39年  シスター・ルシアは司教に数通の手紙を書いています。その中で彼女は秘密の中で予告されていた戦争が間近に迫っていると述べています。そして、ポルトガルがその戦争に巻き込まれないこともすでに予言されています。

1937年  シスター・ルシアのために、レイリアの司教が教皇ピオ十一世に宛てて、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するように手紙を書いています。また、シスター・ルシアはこの年、第二手記を書いて、天使の出現とマリアの汚れなき御心について語っています。

1935年  シスター・ルシアは第一手記を書き、その中ですでにマリアの汚れなき御心に関する秘密をほのめかしています。

1929-1936年  数多くの文書がトゥイとポンテ・ヴェドラの御出現を語っていますが、それらは秘密と密接に関連したファチマ2の本質的な全体を成しています。

1927年  シスター・ルシアは秘密の最初の二つの部分を明らかにする許しを天から得ています。彼女はそれを霊的指導司祭の命令で2回書き下ろしました。この年にすでに秘密が書き下ろされていたということは重要な事実です。シスター・ルシアは霊的指導司祭の命令でその文書を焼き捨てなければなりませんでしたが、秘密を書いたという事実は確かです。シスター・ルシアの指導司祭であった二人のイエズス会士、ホセ・ダ・シルヴァ・アパリシオ神父とホセ・ベルナルド・ゴンサルヴェス神父がそれらを読んだことは確かです。その彼らに、同じ修道会士であるダニス神父は確かめることができたはずなのに、そうしませんでした。シスター・ルシアはその他にもレイリアの司教、カノン・ガランバ神父などにも秘密を明らかにしています。

1925-26年  シスター・ルシアの霊的指導司祭宛のいくつかの手紙はポンテ・ヴェドラでのマリアの汚れなき御心の御出現を語っています。この中で初土曜日の償いのための聖体拝領の要求が語られていますが、これはすでに秘密の一つの本質的な部分です。
このように多くの文書が少なくとも1925年から1929年の間にシスター・ルシアがファチマ2の全体を既に持っていたということを明らかにしています。事実と秘密が1942年まで明らかにされなかったのは教会当局の許可がなかったからであり、従順の誓願をたてている修道者であるシスター・ルシアの責任にすることはできません。

1917年から1926年にかけては、天はそのメッセージを全体にわたって明らかにすることを許していませんでしたから、三人の幻視者たちは秘密に関して沈黙を固く守っていました。しかし、秘密が明らかにされた時点でこの時期のことを考え合わせてみるならば、わたしたちは三人の幻視者たちがすでにメッセージを受け、それを知っていたと考えることができるでしょう。

1924年  ルシアは教会当局の調査尋問で明らかにできない秘密があることを述べています。天使の出現はこの年にはまだ秘密でした。ルシアは尋問の時に秘密以外はすべてを述べると誓ったのに、自発的に「ある種のことがら」を述べなかったたために、不安な気持ちに苦しめられましたが、これは、ルシアがそのことを1937年に想像したのだとすれば、起こり得ないことでした。

1921-1922年  カノン・ドス・レイス神父の尋問はルシアがすでに天使から教わった祈りをアシロ・デ・ヴィラルの彼女の友人の一人に教えていたことを明らかにしています。同じことをアロンゾ神父もその友人に確かめて、確証しています。ルシアがダ・シルヴァ司教に天使の出現について語ったのもこの時期です。

1920年  ジャシンタは病気の間にマザー・ゴディーニョに秘密のうちのいくつかを打ち明けています。戦争と懲罰の預言や、地獄のこと、償いの必要性などです。

1917年  9月あるいは10月にルシアはカノン・フォルミガオに天使の出現について言及しています。彼はそのことをカノン・バルタスに語りました。さらに、小さな幻視者たちの両親は、子どもたちが「天使の祈り」と呼んでいた祈りを唱えていることを知っていました。しかし両親たちは彼らがそれを誰から教わったかを知りませんでした。

1915年  この年の天使の最初の出現は直ちに知られました。この話は直ぐに村人たちに知れ渡りました。1917年にカノン・フォルミガオはそのことについて知っていました。

以上見て来ましたように、1915年から1942年までの時間経過を逆に辿っても、ダニス神父の言うファチマ1とファチマ2の間にギャップとか、矛盾を見ることはむしろ困難であると思われます。秘密の内容は明かされなかったとしても、秘密の存在はすでに1917年の7月の時点で明らかにされていました。ですから、後に1942年にその内容が明かされたとしても、シスター・ルシアがそれを全部でっちあげたなどということはあり得ないことではないでしょうか? 第1部でも見ましたように、人々は子どもたちから秘密を聞き出そうとして、誘惑したり、脅迫したりしたわけですから。当時、7歳、9歳、10歳であった彼らが聖母との約束を破るよりは死んだほうがよいと思うくらい、固く沈黙を守ったことはまさにそれらがでっちあげでないことの何よりの証拠だと思われるのですが.....

ファチマ1とファチマ2の完全な一致

ファチマ1は1917年の時点ですでにファチマ2を明白な形ではないにしても、ヴェールをかけたような仕方で告知していました。1917年と1942年の間完全な沈黙が支配していたわけではなくて、上に見ましたように、時間経過の中で徐々にファチマの出来事とメッセージがシスター・ルシアによって大勢の人々を介して明らかにされてきたのでした。1917年と1942年の間事態が完全に空白となっていて、シスター・ルシアがその間にありもしない出来事やメッセージを捏造したということは経過を見てもあり得ないことです。さらに、たとえば、1917年7月13日の御出現のときに、子どもたちは地獄の幻視を経験しました。しかし、これが文書で明らかにされたのは1941年でした。聖母は地獄に落ちる危険を警告されるために「おお、私のイエズスよ、わたしたちを救い、わたしたちを地獄の火から救ってください....」という祈りを子どもたちに教えられましたが、当時巡礼者たちはこの祈りの意味を十分に理解せず、煉獄にいる霊魂のための祈りだと誤解していました。その祈りの真の意味は地獄の幻視が明らかにされたことによって明らかとなりました。7月13日のこの日に子どもたちが恐怖に襲われた表情をし、ルシアが「おお、聖母よ、おお、聖母よ」と叫び声を挙げたことを周りにいた人々が目撃していますが、当時はだれもその理由を知りませんでした。これは1941年のシスター・ルシアの手記によって明らかにされて初めて理解できることです。そのような関連を持つ出来事をシスター・ルシアの想像上のでっち上げとか、後から付けられた尾鰭だと考えることはできません。ファチマ2がファチマ1を解明する手がかりとなるほどに、両者は完全に一致している、とフレール・ミッシェルは言います。ファチマ2が後年の作り事の結果であるというダニス神父の主張は無理があります。むしろ、事実は1917年に与えられた秘密が正確に記憶されて、時が来たときに明らかにされたということです。シスター・ルシア自身、1946年にヨンゲン神父のインタビューに対して次のように述べています。「御出現について話すとき、わたしは自分が聞いた言葉の意味を伝えることに限定します。他方、書くときには、その言葉を文字通り引用するように苦心します。このようにわたしは一語ずつ秘密を書き下ろすようにしました。」ちゃんと記憶できたという確信があるかどうかを尋ねられて、彼女はそうできたと思うと答えています。シスター・ルシアは彼女が文書として引用した聖母のメッセージは彼女に伝えられた通りの順序で一語一語綴られたということを確証しています。

メッセージの本質

シスター・ルシアは1941年に書いた第三の手記の中でこう言っています。「秘密は三つの異なった部分から成っています。そしてわたしはそのうちの二つを明かすでしょう。第一の秘密は地獄の幻視です。....第二はマリアの汚れなき御心に関するものです。」シスター・ルシアは第二の秘密を1942年に明らかにしました。そして第三の秘密と普通言われている第三の部分は未だに明らかにされていないことは前にも触れました。そこで、まず第一の部分から見て行くことにしましょう。

霊魂の救い

ファチマの秘密は恐ろしい地獄の幻視から始まります。この幻視を通して聖母はわたしたちに直ちに重要で本質的なたった一つのこと、すなわちわたしたちの永遠の生命のことを思い出させられます。ですから、秘密の第一の部分は非常に大切な部分です。飢饉、戦争、迫害の予告以上に、わたしたちを脅かす永遠の生命のことを思い起こさせるこの地獄の幻視は聖母のメッセージの本質的な点の一つです。聖母は現代のこの世的、自然主義的、唯物論的な時代に伝統的なカトリック信仰を思い起こさせようと望まれました。長くなったとはいえ、わたしたちのこの世の生命は100年も続きません。わたしたちはその後永遠の救いか永遠の滅びかのどちらかに入らなければなりません。わたしたちの永遠の運命が決定されるということをわたしたちは忘れているのではないでしょうか。天国と地獄の存在は聖書に書かれている真理です。マタイによる福音書にはこうあります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい....呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」現代の人々はこれを文字通りに受け取ることを嫌います。

ダニス神父はシスター・ルシアが後に報告した、1917年7月13日に聖母マリアに見せられた地獄の幻視を子どもっぽい想像の産物であって、教養のある知的な成人にはとても受け入れられるものではないと考えます。有名な神学者のセルティヤンジュ神父もこのような地獄のイメージはダンテの『神曲』から霊感を受けて描かれた多くの絵画の中に表現されている、いわば「中世的な」イメージであって、もはや現代には時代遅れの「象徴的な表象」であると主張しています。しかし、事実はそうではありません。地獄のイメージを産み出したのはダンテの『神曲』ではなく(もちろんダンテはそれらのイメージの最も雄弁なそして最後の代弁者ですが)、それより遙か以前の大聖堂の彫刻、あるいはもっと遡って聖アウグスティヌスや他の教父たちの記述であり、なによりもまず聖書の中でのイエズス・キリスト御自身の言葉です。シスター・ルシアが見せられた幻視はまさに聖書的なイメージです。地獄に関する聖書の表現を文字通りに、たとえば火、ウジ虫、暗闇、呪われた者どもの叫びや呻きとして理解するのではなく、神からの分離であるというふうに抽象的に理解する傾向は近代的、現代的とされてわたしたちの心を平静にするのですが、ひとたびこのような「非神話化」の原理が認められると、もうとどまるところを知らず、やがては地獄そのものの否定へと行き着きます。ドイツの神学者ハンス・キュンク神父は地獄や永遠の苦痛というのはわたしたちがそこから解放されなければならない神話であると主張しています。これはマタイによる福音書にあるキリストの言葉の否定ではないでしょうか? わたしたちの最大関心事であるはずの霊魂の救いとは、そのとき、何を意味するのでしょうか? 聖母はこのような神学者たちが現れ、人々を霊魂の救いの問題に直面させないようになることを予見されて、ファチマで三人の子どもたちに地獄の幻視を経験させ、現代世界に警告を発せられたのではないでしょうか? 

近代主義者、合理主義者がどう主張しようと、イエズス・キリストが教えられ、聖母が子どもたちを通じてわたしたちに示された地獄のイメージをわたしたちは見失わないようにしなければなりません。フレール・ミッシェルは次の2点を強調しています。

1)イエズス・キリストはわたしたちを地獄から救うために苦しみを受け十字架上で亡くなられました。

ファチマのすべての幻視はイエズス・キリスト御自身の教えの純粋な反響であり、最も忠実な表現です。シスター・ルシアによって語られた地獄の幻視はまさに福音書に基づいたものです。イエズスは繰り返し地獄についての教えを述べ、説教されたからです。

2)イエズス・キリストはわたしたちに真理の言葉を語られました。

イエズスの教えは漠然とした抽象的な表現でではなく、具体的に現実を示す最も正確な表現で宣べ伝えられました。そして、聖母は子どもたちに地獄の幻視を経験させられた後にこう言われませんでした。「あなたがたは永遠の破滅の一つのシンボル、一つのイメージを見ました。永遠の破滅はもちろんそのシンボルとは全く違います。永遠の破滅は純粋に霊的な秩序に属するからです」と。いいえ、そうではありません。聖母はこう言われたのです。「あなたがたは地獄を見ました。そこへは哀れな罪人たちの霊魂が行くのです」と。地獄はわたしたちを脅かす一つの現実的な危険なのです!それは恐るべきものであり、具体的なものです。

シスター・ルシアは1957年12月26日にフエンテス神父にこう語っています。「わたしの使命は、もし世界が祈らず償いをしないならば確実に来る物質的な懲罰を世界に告知することではありません。そうではありません。わたしの使命は、もしわたしたちが頑固に罪のうちにとどまるならば、永遠にわたしたちの魂を失うというわたしたちが直面している差し迫った危険をすべての人に知らせることです。」

1977年7月11日、コインブラのカルメル修道院にいるシスター・ルシアを訪問した後に、後年ヨハネ・パウロ1世になるルシアーニ枢機卿はファチマの秘密の第一の部分を次のように要約しています。

地獄は存在します。そしてわたしたちはそこへ行く可能性があります。ファチマにおいて聖母はわたしたちに次の祈りをお教えになりました。『おお、わたしのイエズスよ、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを地獄の火から護ってください。すべての人々、ことに御憐れみを最も必要としている人々を天国へ導いてください。』この世界には重要な事柄があります。しかし、よく生きることによって天国を得るに値すること以上に重要なことは何もありません。そのように言っているのは単にファチマだけではなくて、福音書です。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか』(マタイ、16,26)」

世界の救い−聖マリアの汚れなき御心に対する信心−

1917年7月13日、第3回目の聖母の御出現の際に地獄の幻視を経験したとき、ルシアは救いを求めて聖母の方を見つめます。そのとき、聖母は親切に、しかし悲しそうにこう言われました。「あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。そこへは哀れな罪人たちの霊魂が行くのです。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」

聖母のこの言葉を注意深く正確に読むと、マリアの汚れなき御心に対する信心は決して信者がその内的好みに応じて選択できるオプションでないことが分かります。それは聖母自身のお望みですらありません。マリアの汚れなき御心に対する信心は神御自身が望まれたことであるということが聖母の言葉から理解できます。それは条件つきのお望みではなく、絶対的、無条件的な神の御意志であることが分かります。普通、信心というのは、ある特定の地域や国から始まり、多かれ少なかれ徐々に広がってゆきます。しかし、聖マリアの汚れなき御心に対する信心は事情が異なります。それは神御自身がそれが全世界に拡げられることを望んでおられるのです。神はその信心を打ち立てることを望まれました。フレール・ミッシェルは、これは私的な信心の問題ではなくて、堅固な基礎の上に確立されるべき荘厳な公的礼拝である、と言っています。ですから、それは教会当局によって認められ、保護され、広められた典礼的な礼拝です。

神は世界を救うために別の方法を選ばれることももちろん可能でした。しかし、神が選ばれた方法は聖母マリアの汚れなき御心に対する信心を通して、イエズスの聖心の限りなき愛をお示しになることでした。このイエズスの聖心に最も近い、最も親しい御母の汚れなき御心を世界中の人々に愛させることが神の御意図でした。イエズス以上に御母マリアを愛する者がいるでしょうか? そのマリアの御心がすべての人々によって栄光を帰せられ、名誉を与えられ、愛され、奉仕されることを神はファチマにおいて望まれたのです。聖母マリアはその意味で全人類の神への仲介者(Universal Mediatrix)であり、わたしたちの霊魂を救うための神の貴重な「道具」(Instrument of Salvation)なのです。聖母マリアがルシアに言われた「彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」という言葉は以上のようなことをわたしたちに理解させます。フレール・ミッシェルは、ファチマの啓示はパレ・ル・モニアルの啓示の完成であり、マリアの汚れなき御心に対する信心はイエズスの聖心に対する信心と結びつけられていて、両者を切り離すことは不可能である、と言っています。

神は愛です。そして神の知恵は御母マリアの汚れなき御心に対する限りない愛とわたしたち哀れな罪人に対する限りない憐れみとを結びつけられました。どのように結びつけられたのかと言えば、神はマリアを通して、ただマリアを通してだけわたしたちを救うことに決められたのです。そのことによって聖母に対する栄誉と栄光が達せられ、同時に罪人の救いが実現するからです。1917年6月13日のメッセージの中で、すでに聖母はルシアにこう言っておられます。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。これらの人々の霊魂は神の玉座を飾るために私によっておかれた花のように、神にとって大切なものです。....私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、あなたを神へと導く道であるでしょう。」聖母マリアはルシアだけにでなく、この信心を実行するすべての人に救いを約束されました。これは弱くて卑怯なわたしたち罪人にとって何と確実・安全で容易な救いへの道であることでしょうか!

このようにいわば天国への道が聖母マリアの汚れなき御心を通してであることが神によって決定されたのですから、これ以外の道を取ることがどんなに無益で危険であるかということをわたしたちは考えなければなりません。そのことについてシスター・ルシアはフエンテス神父にこう言っています。

「聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心は私たちの最後の二つの頼みの綱です。ですから、このことは他のよりどころはないということを意味しています。...神はある種の恐れをもって救いの最後の手段・神のいと聖なる御母を私たちに提供しておられるのです。なぜなら、もし私たちがこの最後の手段を軽蔑し、拒絶するならば、もはや天の赦しを得ることはないからです。というのは、私たちは福音書が聖霊に反する罪と呼ぶ罪を犯したことになるからです。その罪は私たちに提供される救いを、完全に知りながら、同意して公然と拒絶することにあります。イエズス・キリストが善い神であるということ、そしてご自分のいと聖なる御母に背き、軽蔑することを私たちにお許しにならないということを忘れないようにしましょう。」

世界の救いのためにロシアが聖母の汚れなき御心に捧げられなければならないという点については、後に触れることにしたいと思います。

三人の幻視者たち

さて、ファチマのメッセージについて述べて来ましたが、1917年以後三人の子どもたちはどのような道を歩んだのでしょうか。まず、フランシスコから見て行きましょう。

フランシスコ(1917年10月−1919年4月4日)

フランシスコは瞑想的で優しい心の持ち主でした。彼は御出現を受けて聖母と神御自身が無限に悲しそうであると感じ、この御二人を慰めたいといつも考えていました。エフェソの信徒への手紙の中で聖パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4,30)と言っているように、神は私たちの罪のために悲しまれるのです。イエズスはゲッセマネで祈られたときに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ、14,34)と言われました。イエズスの御受難を預言していると言われる詩編69ではこう言われています。「わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱をあなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見だせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(20-22)。イエズスはパレ・ル・モニアルで聖マルガリタ・マリアに御出現になったとき、詩編のこの言葉と同じ嘆きを、棘に取り巻かれた御自分の聖心をお示しになりながら洩らされました。フランシスコはこの神の悲しみを慰めたいと心底から思っていました。彼は妹のジャシンタといとこのルシアにかつてこう言っています。「ぼくは神様をとても愛している。だけど罪があまりにも多いので、神様はたいへん悲しんでいらっしゃる。ぼくたちはもう二度と罪を犯してはいけないんだ。」

すでに1916年にカベソにおいて天使が3人の子どもたちに御聖体のうちにおられるイエズスに対する侮辱の償いをし、イエズスを慰めるように招きました。御聖体と御血を与える前に天使は彼らにこう言いました。「恩知らずの人々によって恐ろしく侮辱されたイエズス・キリストの御身体を受け、御血を飲みなさい。彼らの罪のために償いをし、あなたがたの神を慰めなさい。」フランシスコはこの償いと慰めが祈りと犠牲によって行われることをよく理解していました。フランシスコは一人でいることを好み、神を慰めるためによく祈りました。彼はまた食事や水を自らに制限して犠牲を捧げ、神を慰めていました。

フランシスコは神の「悲しみ」に対する感受性を持っていましたが、同時にまた病人や苦しんでいる人々に対して同情する優しい心を持っていました。彼は人から祈りを頼まれると必ず約束を守り、また彼の祈りはよく聞き入れられました。

1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを訊ねていますが、聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。このときからフランシスコとジャシンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。フランシスコは最後の御出現から1年半後に天国に召されるのです。聖母から天国へ連れていってもらえるという確信と神の「悲しみ」に対する特別の感受性はフランシスコの行いをよく説明します。彼は短期間に驚くほど進歩しました。彼はある婦人から将来何になりたいか、いろいろの職業を挙げて質問されますが、そのどれをも否定してこう言っています。「そのどれにもなりたくありません。ぼくは死んで天国に行きたいのです」と。彼は「隠れたイエズス」すなわち、御聖体をしばしば訪問します。

最後の御出現からわずか1年後の1918年10月終わりにスペインに端を発したインフルエンザがヨーロッパに猛威を振るい、ポルトガルにも大流行します。8歳だったジャシンタと10歳だったフランシスコもこのインフルエンザにかかります。フランシスコもジャシンタもいったんはよくなるのですが、12月23日に再び悪化します。このとき特にフランシスコは半月も高熱が続き、動くこともできないほどになりました。そのような病状にもかかわらず、フランシスコはいつも明るく振る舞い、主イエズスを慰めるために自分の苦しみを捧げていました。ジャシンタがルシアに語ったところによると、聖母がフランシスコとジャシンタに再び御出現になり、フランシスコをまもなく天国に連れて行くと言われたそうです。おそらく1918年のクリスマスの頃だったようです。翌1919年1月の半ば頃には2度目の回復の兆しがあり、起きあがれるほどでした。家族は喜んだのですが、フランシスコは自分の運命をすでに知っていて、「聖母がまもなく迎えにこられます」と繰り返していました。1月の終わりか2月の初めにフランシスコは懐かしいコヴァ・ダ・イリアへ行くことができました。彼はそれがこの祝福された土地への最後の訪問であることを知っていました。

フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。

4月2日水曜日、フランシスコは御聖体をうけるために告解をしたいと望み、父のティ・マルトは教区司祭フェレイラ師に家に来てくれるように司祭館まで頼みに行きます。フランシスコは告解のための入念な準備をします。告解の後、遂に念願の聖体拝領をします。1919年4月4日金曜日フランシスコは最後の日を迎えます。彼は母親を側に呼び、こう言います。「お母さん、ドアの側にあの美しい光を見てよ!」しばらくして、「もう見えないよ」。夜10時頃、彼の顔は天使のほほえみで輝き、苦しむことなく静かに息を引き取ります。4月5日土曜日小さな葬列がフランシスコの遺体をファチマの墓地へ運びました。ルシアは涙ながらに葬列に加わりましたが、ジャシンタは病床にとどまらなければなりませんでした。このようにして、聖母の預言は成就し、ファチマの幻視者の一人が天国へ旅立ちました。フレール・ミッシェルは聖ルイ・ド・モンフォールの次の言葉がフランシスコに適用できると言っています。「人は自分自身の意志に長年従い、自分自身に頼ることによってよりも、短い時間にマリアに従い、より頼むことによってより多く進歩する」。

ジャシンタ(1917年10月−1920年2月20日)

ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母のメッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリアの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。聖母が1917年8月13日に告げられたメッセージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。

彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。

ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。シスター・ルシアの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったことに触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。三人でシエスタを終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えないかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験しています。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇と一緒に祈っています。これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のためにどれほど祈らなければならないかを理解しました。

1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表して、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!

ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタがはいと答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではなく、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。ジャシンタは苦しむことが多ければ多いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。

ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れることができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。それは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシアには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回心のために苦しみたいの」。

ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲として捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。

1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだということを知っていました。7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きくしたのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。このときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。8月末に治療の結果もはかばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでした。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャシンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流します。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間はあまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。

この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させることは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病院に送る決心をしました。

ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イリアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタはロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリンピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。

ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしました。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。

リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあまりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。何軒も家を廻って断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びました。

リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親のオリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エステファニア病院小児病棟に入院します。彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのような、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかかり、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性たちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中でたった一人で死んで行かなければなりません。

ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えました。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐに帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になって、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。

リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きましたが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。ジャシンタは臨終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。このようにして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。

ルシア(1917年−1925年)

「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われました。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕事が二つありました。一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。その次ぎに、そのことを実現できるための力をつけること、−これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが−「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。

1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッセージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。ルシアは司祭たちの尋問の厳しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もいました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。

1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲しさはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度はジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間にたったの2度短い訪問をしただけでした。ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつもルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いとして、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごたで母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さんを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアまで急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてルシアは帰途につきました。帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。

1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡くなりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れられてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。

フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人−ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル−がルシアを経済的に援助してくれることになりました。このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはしばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりました。ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイリアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したときにガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関してもいっさい他言してはならない、という勧告をしました。ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ−この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった人です−とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシアをアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リスボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりました。

1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズスのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはおそるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のところを選んだ方がよいというものでした。

その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシアは沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてきた、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。

10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんなに大きかったことでしょう!

ファチマに関して日本語で読める書物を数点紹介します。

*矢代静一(文)・菅井日人(写真):奇蹟の聖地ファチマ、講談社
*菅井日人:聖母マリアの奇蹟 −メジュゴリエ/ファチマ/ルルド−、グラフィック社
*ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥(共訳編):現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示、ドン・ボスコ社
*渡辺吉徳(編訳):ファチマのロザリオの聖母、ドン・ボスコ社
*アントニオ・アウグスト・ボレッリ・マシャド著、特別寄稿 プリニオ・コヘイア・オリヴェイラ、成相明人訳:ファチマの聖母 そのメッセージは希望の預言か?  悲劇の預言か?  『フマネ・ヴィテ』研究会

作成日:1997/11/04

最終更新日:1998/02/20

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