ファチマの聖母マリア

「それが知られるようにしなさい」

The Fatima Crusader, Issue 39 Winter 1992より

ニコラウス・グルーナー神父

明らかにわれわれはこの仕事を、われわれの事務局並びにわれわれが国中から、そして世界中から得ている支持の両方で、多くの善良な人々の援助なしには為すことができないであろう。

そしてそれらの支持者の中に私はわれわれの立場を支持すると書いてくださり、そして教皇がファチマの聖母のまさに特殊的な要求に従ってロシアの奉献を為すために命令されるときはいつでも喜んで従うと指摘してくださった400人以上の司教に言及したいと思う。

われわれが勝利する側にいるということを理解することはわれわれにとって重要である。もちろん、勝利する側は「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と言われるファチマの聖母をまず第一に含んでいる。そしてそれゆえに、気を落とさないことがわれわれにとって重要である。

同時にわれわれは盲目であってはならず、そしてわれわれの頭を砂の中につっこまないようにすべきである。不幸なことに、今日公的、私的の両面において、われわれを欺こうとする多くの努力が存在している。そしてこれらの努力は、我らの主が悪魔についてそう言及されたように、虚偽の父によって最終的には鼓舞されている。

真理なしにはわれわれは勝利することができないがゆえに、真理を広める必要性を理解することはわれわれにとって重要である。もしわれわれが何に反対しているかを理解しないならば、われわれはそれについて何をなすべきか、そして聖母をどのように助けるかを知らないであろう。

聖マキシミリアノ・コルベが指摘したように、これらの最後の時はサタンによってますます多く支配されるであろう。そして祝福されたおとめだけが蛇の頭を砕くことができるということが、祝福されたおとめに取って置かれたのである。

同時に、聖マキシミリアノは、聖母がこの勝利において、われわれが聖母を助けることを望んでおられ、そしてそのことを期待しておられる、と指摘している。聖母はそのすべてを御自身でおできになるが、しかし、聖母は多くの手を持つことを選ばれたのでありそして多くの手がすべて必要とされているのである。

聖母を助けるためにはわれわれはまず何よりも
知らされる必要があるということを思い出そう

祝福されたおとめはわれわれの助けを必要としておられる。聖母を助けるためには、われわれは知らされることが必要である。そしてそれが聖母がファチマに来られた理由である。聖母はまず第一にわれわれの祈りを求めるために来られ、そしてロザリオを毎日祈ることを求めておられる。

というのは、私がそれを絶えず表明しない、あるいはそれについて語らないということは私がロザリオの重要性を最小限に見積もっているあるいは小さくしているということを意味しないからである。そして確かに聖母はまたわれわれにスカプラリオをまとい、そしてわれわれ自身を聖母の汚れなき御心に奉献することをも求められた。

あなたたちはファチマのメッセージを二つの部分:信心に関する事柄に言及する部分と彼らが「政治」と呼ぶものに関わる事柄に関する部分、に分ける人々がいるということを知っている。

しかし、聖母は一人であり、そして聖母のメッセージは一つである。聖母の全メッセージのすべての局面はわれわれの霊魂の救いと神のより大いなる栄光に関わるものである。メッセージの信心的な局面とファチマの誤った信奉者たちが「政治」として言及するものの間には一つの実在的な統一が存在する。

われわれの霊魂の創造者であられる神は同様にまた人間社会そしてそこにおけるわれわれの場所の創造者でもあられるがゆえに、それらすべては関係づけられているのである。聖母御自身が政治と経済に関心を持っておられるように、神はそれに非常に関心を持っておられる。しかし、政治や経済が最も重要な事柄であるからではない。それらは確実にそうではない。われわれの救い、われわれの永遠の救いが最も重要である。

しかし、明らかにもし政治的、経済的そして軍事的な状況が、カトリック者が神と彼らの同胞である人間との平和のうちに生活することができるようなものであったならば、われわれの霊魂を救うことは遙かに容易なものとなるであろう。例えば、教会への彼らの忠誠のゆえに捕虜収容所で今日故意に傷つけられ、苦しめられそして殺されているクロアチアの人々にとって、もし彼らの敵が彼らをこの極端な試練にさらさなかったならば、彼らの霊魂を救うことはより容易であったであろう。彼らの(そしてわれわれの)うちのあるものはそのような迫害の下では忠実であり続けないであろう。

同じように、世界中の人々にとって、毎年ここ(アメリカ)で2千500万、そして世界中で5千万にも及ぶ赤ん坊をその母親の胎内で殺すような法律ではまったくない法律を擁護する政体よりもむしろ王たるキリストの王たることを公に承認する政体においての方が、世界中の人々にとって彼ら自身を救うためには容易であろう。

世界は背教の状態にある。しかしもっと正確に言えば背教は教会に侵入したのである。それが第三の秘密が関わっていることである。一つの短い話の中でなぜわれわれは第三の秘密が教会における背教に言及していると言うことができるかに関して、あなたたちにその諸理由を説明し、与えることは私にとって難しいことである。しかし、私はあなたたちがあなたたち自身で見ることができるいくつかの事実に言及するように努めようと思う。

一つはもちろん教皇自身がファチマで言われたことである。「愛のすべての力でもって、聖霊において育まれ、そしてすべての人の救いを望んでおられる御母が、その子どもたちの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるときに、黙ったままでおられることがおできになるだろうか?」そして彼は彼自身の問いにこう答える。「いいえ、聖母はおできになりません!」。

ところで、聖アタナシウスはわれわれの救いのまさに基盤はわれわれのカトリック信仰であるとわれわれに告げている。もっと正確に言うならば、聖アタナシウスに帰せられているカトリック信条はわれわれにこう告げている。「救われることを望む者は全体的にすべてのカトリック信仰にすがりつかなければならない。」第一ヴァチカン公会議はカトリック者にとって信仰を離れることにはどんな言い訳もどんな正当化も存在しないということをわれわれに告げている。

信仰は、聖ヨハネが聖書の中でわれわれに告げているように、世界に打ち勝つものである。教皇が、われわれを非常に愛しておられる御母がわれわれの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるとき、沈黙したままでおられることはできないとわれわれに告げるとき、教皇と聖母はわれわれが現在その中をくぐり抜けているわれわれの信仰の危険に言及されているのである。

われわれの信仰は危険のまっただなかにある

 それが第三の秘密が関わっている事柄である。われわれはこのことを教皇のこのあまり明白でない指摘から知るばかりでなく、またヴィットリオ・メッソーリに対してあの有名なインタビューを許したラッツィンガー枢機卿からも知るのである。そのインタビューはイタリアの雑誌『イエズス』において公表された。そのうちの一語たりともラッツィンガー枢機卿がテキストを承認することなしには公表されなかった。ラッツィンガー枢機卿はこの中でこう尋ねられている。「あなたは第三の秘密を読みましたか?」「はい。」「それは何に言及しているのですか?」「第三の秘密はわれわれの信仰の危険に、そしてそれゆえにキリスト者の生命に、そしてそれゆえに世界の生命に言及しています。」ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密を読んだ少数の人のうちの一人である。そして彼はそれはわれわれの信仰に対する危険に言及しているとわれわれに告げているのである。

さて、もしあなたが聖書を読むならば、そしてもしあなたが反キリストが来るという預言を読むならば、例えば聖パウロによる「テサロニケ人への手紙」のうちに、反キリストは大背教までは、すなわち、信仰と実践における[カトリック]信仰からの大離脱までは来ないであろうということを読む。ところで、聖母は第三の秘密においてこの背教に言及しておられるのである。もしそれが大背教でないならば、ファチマの聖母がわれわれの時代のためにわれわれに警告に来られたのはそれに似た背教である。

第三の秘密はわれわれがまさに現在生きているこの瞬間に言及している。それは1960年以前のある時期に言及しているのではない。そしてそれは教皇がロシアを奉献する、聖母の勝利の後の時期に言及しているのではない。

われわれはそのことを再び、シスター・ルシアが他の人々の間で、オッタヴィアーニ枢機卿によってわれわれに引用した言葉からも知る。私はフレール・ミッシェルの書物、『第三の秘密』において参照するように私が注意を促した詳細な記述と典拠をあなたたちに示す。その書物において彼はこのことを説明し、そしてあなたたちに、私が短い話のなかでそうすることができるよりももっとよく、証拠書類と出典を与えている。

この書物は第三の秘密を明らかにしている。私は、この書物を読んだ後には誰でも第三の秘密が何であるかを知っていると確信を持つに違いないと信じる。彼は言葉そのものを知っているわけではない。しかし、彼は確かに第三の秘密が何であるかの核心を知っている。それは、フレール・ミッシェルが再三にわたって指摘しているように、われわれの信仰に対する危険に言及している。それ以上に、それはアロンゾ神父が指摘したように、今日の教会内部の背教の状態に対する高位聖職者、すなわち、司教や枢機卿たち−彼らのすべてではなく、彼らのうちのある者であるが−の罪に言及している。

われわれの洗礼はわれわれが知らされることを要求する

それがわれわれにとって知らされることが非常に重要である理由である。というのは、ご存じのように、われわれは、われわれの洗礼によって、そしてわれわれの堅振[の秘跡]によってなおいっそう、信仰に関する一つの義務を持っているからである。われわれの信仰はわれわれの救いの基礎である。そして逆にわれわれ一人ひとりはわれわれが能力と機会を持っている程度に応じて、そしてわれわれができる程度に応じて信仰を擁護する義務を負っている。

聖トマスはわれわれにこう告げている。われわれの信仰を擁護する義務は、もし必要ならば司教や枢機卿を、教皇をすら、公に正すことをわれわれに要求するほどの負担の重いものである、と。これは反逆的な、あるいは無礼なことであろうか? そうではなく、反対に、われわれは聖書によってわれわれに与えられた規則を持っている。それは聖ペトロをその面前で非難した聖パウロについてわれわれに告げている。

それは何かさほど重要でない事柄に関することではなく、むしろまさに信仰の本質に関することであった。聖ペトロは何ら異端的なことを言ったのではなくて、一つの誤った印象を引き起こしながら、あたかも一つの異端が真であるかのように行為したのである。明らかに聖ペトロはこのことを善意をもってしていた。しかし、にもかかわらず、彼は誤っていた。そして聖パウロは聖ペトロを正さなければならなかった。そして公に彼はそうしなければならなかったのである。

聖パウロが聖書において書いている教訓をわれわれが学ぶことができるように、少しばかりそのことを説明しよう。私がこれを読み、そしてこれを研究した最初はそれは私にとって驚きであった。それゆえ明らかにあなたたちのうちのある人々は聖パウロと聖ペトロのこの例によって憤慨するだろう。

しかし、その教訓は聖パウロがわれわれに告げているように、聖書のすべてはわれわれの学習のために、われわれの教授のために、そしてわれわれの慰めのために、霊感を受けてそこにあるということである。神は聖ペトロがこの誤りを犯すことを許された。それは、私が言ったように、善意をもって為された。彼は教会における平和を欲したためにそれをした。しかし、それにもかかわらず、それは誤りであった。

そのことの背景は何であったか? 聖ペトロはエルサレムからアンチオキアへ下って行った。そしてそこで彼は、救われるためにはあなたたちは洗礼を受けると同様に割礼を受けなければならないと主張するキリスト者であるユダヤ化するグループを非難しなかった。

ところで、エルサレムの最初の公会議はすでに割礼は救いのために必要ではないということを決定していた。聖トマス・アクィナスはその『神学大全』の中で割礼を主張することは一つの背教の行為、信仰の否定の行為であるということを証明している。というのは、旧約聖書のあの秘跡は未来におけるキリストの到来を証言していたからである。

ひとたびキリストが到来されたらそのとき割礼はもはや必要ではなくなったのであり、そしてそれに固執することはイエズスがキリストであることを否定することであった。聖パウロは本能的にその危険を理解した。聖ペトロはユダヤ化する人々が正しいとは言わなかった。彼がしたことのすべては単に割礼を受けていないキリスト者たちとは会食しなかっただけである。こうすることによって彼は、モーセの律法が言ったように、彼らが清くないがゆえに彼らと会食することを彼が拒否しているという印象を与えたのである。

それゆえに、割礼を受けていない人と会食しないことによって、ユダヤ化するグループは他の人々にこう言うことができたのである。「見よ、あなたたちは誤っていて、私たちは正しい。」「教皇はわれわれと一致している。彼はあなたたちが割礼を受けていないがゆえに、清くないと考えている。それが彼があなたたちと会食しない理由である」。

しかしながら、ペトロはそうは言わなかった。しかし、にもかかわらず、彼の行為によって彼は、彼らが正しく、そして彼らの教義を広めていると考える異端を引き起こしたのである。そしてそれゆえに、聖パウロは信仰に対する危険を理解して、そして教皇の威信に反してすら、信仰は擁護されなければならないという彼の義務を理解して、公に語り、そして彼を非難したのであった。彼は聖ペトロに言った。「あなたは真理のうちに立っていない。」

それが、彼が遠慮なく声を上げたのは聖パウロが使徒であったからだということばかりでなくて、実際それは洗礼を受けた、男であれ女であれすべての平信徒の義務であるということを理解することがわれわれに取って重要である理由である。

平信徒でさえわれわれの祝せられた信仰を擁護しなければならない

われわれは429 A.D.に教会史におけるこのことのもう一つ別の例を持っている。エフェソにおける大主教であったネストリウスは満員の大聖堂の中で説教をしていた。その中で彼は祝せられたおとめマリアは神の母ではないと言った。

これは教会がその教義を決定する以前のことであったことを思い起こして頂きたい。大聖堂の中で立ち上がって、そしてネストリウス、会衆、そしてそこにいたすべての聖職者にこれは異端であると告げたのは大聖堂の中にいた司祭たちではなく、そこに居合わせた他の司教たちではなく、一人の平信徒であった。

その平信徒の主張が正当であると立証されたのはそれから2年後、431 A.D.年のことであった。彼の信仰の擁護はエフェソの公会議を開催する原因になった。その結果として、431 A.D.年10月11日に−それは1560年前のことであるが−聖母はエフェソ公会議の荘厳な決定によって真に神の母であると宣言されたのである。

そして聖ロベルト・ベラルミンについてもそうである。彼は単に聖人であるばかりでなく、教会博士でもある。彼はわれわれに、信仰が危機に瀕しているときには、一人の司教、あるいは一人の枢機卿、あるいは一人の教皇(彼は含めている)のうちからでさえ、その人は誰であろうと、公に非難されるとわれわれに告げている。

ところで、カトリック教会には列聖された数千人の聖人がいる。しかし、カトリック教会にはただ32人の博士しかいない。博士はまず第一に聖人である。しかし第二に彼はまた聖人たちの間で学問のある人でもある。そして彼の教説はそれが模範的であるということ、そして聖人たちの間においてさえ最も教訓的であるということを見るために二重に検討されてきたのである。

聖ロベルト・ベラルミンはそのような一人の人、そのような一人の聖人である。そして彼の特殊性は彼が教皇制の擁護者であり、教会が神によって建てられたものであることの彼の擁護のゆえに博士であるという点である。聖ベラルミンの例は、もしあなたたちのうちの誰かが「新たにされた」集会に出席したとすれば、今日教えられているものとは全く正反対のものである。「新たにされた」集会においては、例えば、あなたは、もし誰かある人が異端をとうとうと述べるならば、声をあげるべきではなく、彼を非難すべきではなく、親切な、友情にあふれた微笑みを維持することになっている、等々と告げられる。

これらの人々の多くは必ず善意をもって誤りに陥っている。われわれは彼らを敵あるいは悪意のある人と考えるべきではない。しかし、それにもかかわらず、特に、ファチマの第三の秘密が、信仰が内部から掘り崩されているがゆえに、われわれは危険な状態にあるということを告げているこの時期には真理は弁護され、そして信仰は擁護されなければならない。

第三の秘密は明かされなければならない

それが、聖母が第三の秘密が信徒たちに明かされるべきだと望まれた、そして今もなお望んでおられる理由である。あなたたちが多くの他の場所で告げられた嘘と違って、第三の秘密は教皇だけに宛てられたものではない。確かにそれは教皇に宛てられたものであるが、しかし彼だけに宛てられたのではない。それは全信徒に宛てられているのである。

私は、あなたたちのうちの多くの人々が1960年にはわれわれが第三の秘密の開示に対して持っていた期待を思い出すと確信している。その期待は、ファチマの司教が遅くとも1960年には、あるいはもしシスター・ルシアが死んだ場合にはそれ以前に明かすであろうとシスター・ルシアに荘厳に約束したがゆえに、根拠のないものではなかった。

そしてリスボンの総大司教・枢機卿は公式的に約束した。彼は、もしファチマの司教、ファチマの最初の司教ダ・シルヴァ司教が1960年以前に死んだら、彼が個人的にそれを見る、第三の秘密は信徒に明かされる、と公式に約束した。これは公式の記録に属する事柄である。それは歴史的事実の問題である。

ところで、フレール・ミッシェルはそのことを彼の書物の第3巻465-479ページに記録している。われわれが言っているほとんどすべてのことがわれわれの敵対者たちによって問題視されているので、あなたたちが参考文献を知ることは大切である。われわれはまたFatima Crusader Issue No. pages 18,19および39にこれらの多くの参考文献を挙げておいた。それゆえに、私はわれわれの信仰を擁護することの重要性のゆえに、第三の秘密の重要性を強調しなければならない。

われわれ各自は神がわれわれに与え給うた恩寵の程度に従って、われわれの能力、そしてわれわれの機会の程度に応じて、ファチマのメッセージによってばかりでなく、堅振におけるキリストの兵士としての、そして洗礼における神の子としてのまさにあなたの義務によって、カトリック信仰を擁護する荘厳な義務を持っている。

誰も同じ程度に信仰を理解するのではない。誰も同じ能力を持っているわけではないし、教えられる同じ機会を持っているわけではない。しかし、われわれすべてが知っている信仰についてのある基本的な事柄がある。

聖トマスはわれわれにこう告げている。使徒信条の条項はあからさまに信じられなければならない。もし誰かがそれらを否定するならば、たとえ彼が聖なる神学における博士であろうとも、使徒信条あるいはニケア信条において述べられたカトリック信仰のある条項を否定するならば、彼は非難されなければならない。そしてあなたは、彼がその誤りの中を歩み続けることに固執するならば彼と共に歩んではならない。

愛の使徒である聖ヨハネはローマの通りでマルキオンを悪魔の子として公に非難した人であった。それゆえ、もしあなたが神を愛し、そしてあなたがあなたの隣人を愛するならば、それはわれわれがつまらないものであるということを意味しない。それはわれわれが神を熱烈に愛し、そしてわれわれが神の意志に従ってわれわれの隣人を愛するということを意味する。

もしわれわれが善を愛するならば、そのときわれわれは悪を憎まなければならない。そのことは詩編44において我らの主について言われているように、善を愛することのまさに本性である。「あなたは正義を愛し、不正を憎まれました。神、あなたの神はあなたの同胞たちを越えて、あなたに塗油なさいました」。

そしてそれゆえ、悪を憎むことはキリスト者のしるしである。われわれは罪人を愛しなければならないが、しかしそれにもかかわらず罪を憎まなければならない。

信仰に反する異端と誤謬が撃退されなければならないのはなぜか?

異端は殺人よりも悪い。現在、われわれの時代にはそのことはいささか奇妙に、あるいは一つの誇張と響くかもしれない。しかし、それは完全に真である。そしてまさに正確に真である。というのは、殺人はただ身体を殺すだけである。それが悪いことは悪いのであり、私はそのことを全然軽視しようとは思わない。しかし、身体を殺すことは霊魂を殺すことあるいは霊魂を永遠にわたって地獄へと宣告することほどには悪くない。そしてそれが異端がすることである。

ひとたびある人が異端に陥るとき、もし彼がこのことを知りながらするならば、彼はすでに大罪を犯したということを、あなたは知っている。そしてたとえ彼がこのことを故意にしているのでないとしても、矯正されても、自らを正すことを拒むならば、そのとき彼は大罪に陥る。

ある人が信仰を失うとき、あなたは彼は無防備であると言ってもよい。というのは、罪人、大罪にある人(しかし、異端の罪に陥っていない人)は少なくとも自分自身のために祈る力を持っているからである。しかし、信仰を失う人は祈りをする信仰を欠いているゆえに自分自身のために祈ることができない。

そしてそれゆえ、聖母は彼らのために祈り、彼らのために犠牲をする人が誰もいないので、地獄に堕ちる多くの霊魂がいると言われるのである。彼らは彼らのために祈ってくれる人を持たない。そしてそれが、教皇ピオ十二世が指摘しているように(それは一つの大きな神秘である、しかしそれにもかかわらず真である)、救われる霊魂の数がカトリック者が神の恩寵とどのようによく協力するかということに依存している理由である。

それがファチマの聖母が罪人たちのために祈り、そして償いをするようにわれわれに願われた理由である。そして聖母がわれわれが重大な危険、われわれの信仰のこの危険に陥っているのをご覧になられるがゆえに、われわれに警告するために来られたのである。

われわれは今重大な危険に陥っている!

さて、私はこの危険は特に1960年に始まったということに言及することから話を始めた。われわれはどのようにしてこれがその年であるということを知ったのであろうか? よろしい、シスター・ルシアは「なぜ1960年にだけ秘密は明かされることになったのか? なぜそれを今明かさないのか?」と質問された。これはファチマ作家の一人、モンシニョル・バルタスが1946年にダ・シルヴァ司教のいる前で彼女にした質問であった。そして彼女は非常に興味のある答えをした。「そのときにはそれがいっそう明らかになっているでしょうから」。

1955年にオッタヴィアーニ枢機卿は第三の秘密についてシスター・ルシアに語った。そしてオッタヴィアーニ枢機卿は後で第三の秘密を読んだ。そして第三の秘密が一つの預言であるということを理解した。一つの預言がいっそう明らかになるということは、それが実現され始めるということ以外にはどう理解されるであろうか。そしてそれゆえ、第三の秘密は1960年に明かされ始めた一つの預言なのである。

われわれはまた同様に秘密のもう一方の別の終端を知っている。われわれがそれが止むということを知っている。それは聖母が「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう」と言われるときに、聖母の言葉が実現された時に終わるだろうということを知っている。そしてこのことはまだ起こっていないのである。われわれは1960年と聖母の勝利の時の間にいるのである。そしてそれゆえ、われわれの信仰が今掘り崩されているということを特に忠告されるということはわれわれにとってよいことである。

アロンゾ神父は沈黙した。その生涯の最後の16年間をファチマの公式記録保管者として過ごしたアロンゾ神父はシスター・ルシアと話す多くの機会を持った。彼の死の前に、彼はその著作のいくつかを公刊させることができた。しかし、彼の著作の大部分−それは14巻にもなるが−は今日まで公刊することを許されていない。しかし、フォックス神父のような異端者たちは異端的なことを書くことができ、それらを公刊することができる。そして誰もそれについて何もしないのである。

現在10年間にわたってアロンゾ神父の14巻の書物は葬られて来た。それらは教会当局によって公刊を許可されていない。われわれが繰り返し証明したように、シスター・ルシアが過去31年間にわたって沈黙させられてきたのと同じである。

アロンゾ神父は、彼が死ぬ前に、ある神学雑誌において一つの短い論文を発表した。その中で彼は、第三の秘密はわれわれの信仰に対する諸危険(ラッツィンガー枢機卿もまた完全に是認した一つの事実)に言及しているということを記録した。アロンゾ神父はさらに先へ進み、第三の秘密は今日の教会内部での背教の状態として高位聖職者の罪に言及していると言った。

ところでシスター・ルシアは過去に、彼女が別の時にいるときに、第三の秘密についての誤った理論を論駁するために呼び出された。シスター・ルシアは今日までいかなる仕方でも第三の秘密についてのアロンゾ神父の分析を決して否定したり、あるいは攻撃したことはなかったし、あるいは訂正しようとしたことはない。

実際、1970年代の彼女の手紙の中に書かれたものを読むならば(フレール・ミッシェルは彼の書物の中でさまざまの手紙を引用している)、われわれはアロンゾ神父がこの説をありもしないことからでっちあげたのではないということを見ることができる。シスター・ルシアは教会において大きな責任を持った人々でさえ感染している悪魔的な方向逸脱について語っている。彼女はこのことを一度ではなく、多くの異なった機会に言っている。

聖ヨハネ・グアルベルトは公表する

7月12日が祝日である聖ヨハネ・グアルベルトは当時の教皇にフィレンツェの大司教がその職を買うことによって、すなわち、聖職売買によって得たということを告げようと努力した。教皇は、その時代の他の聖人、聖ペトルス・ダミアヌスがそうしたように、彼の言うことを聴いた。しかし、彼らは確信するに至らなかった。

それゆえ、聖ヨハネ・グアルベルトはヴァロンブローザ(私はイタリアで勉強しているときにそこを訪ねた)へと戻り、彼が言っていることが真実であるということを証明するための一つの奇跡をはたらくという神からの一つの特別の霊感をそこで受けた。それはあなたがあなたの霊感に確信をもたない限り確かに企てるはずのない、最も劇的な奇跡であった。

聖ヨハネ・グアルベルトは一つの大きな火を起こさせた。彼は町の人々すべてに来て、そして神が彼とフィレンツェの大司教の間を証言なさるのを目撃し、そして誰が正しいかを見るようにと呼び集めた。彼は人間が注意を払わないので彼の証人として神を呼び求めたのである。

聖ヨハネ・グアルベルトはフィレンツェの大司教は彼が持っていた高い職務に値しないというすべての人々に対する積極的な公の証明を約束した。彼は彼と悪しき大司教との間を判断なさるように神に呼びかけた。彼は彼の修道士たちの一人を彼が正しいという証明として、さもなければ確実な死から守るという奇跡を働いてくださるよう神に願った。

そしてそのようにこの火が起こされ、準備ができ、そして町の人々が集められたとき、聖ヨハネ・グアルベルトは兄弟聖イグナティウスに聖なる従順の下に、火を通って歩くように命じた。

今や神は巨大な篝火を通り抜けるこの人に奇跡を働かれた。彼はもし神が彼を守られなかったならば、明らかに死んでいたであろう。彼は反対側に傷を負わず、焼かれもせずに出て来た。そして人々は神が彼らに与えられたこの証言の前に彼らの義務を理解した。彼らは疑いのどんな影をも越えて、大司教が司教に任命されるために賄賂を使った悪い人間であるということを知った。

今やその大司教を町から追放することが彼らの義務であった。それが彼らがその同じ日に行なったことであった。

そしてそれゆえ、あなたたちに第三の秘密は重要ではない、あるいはそれはあなたたちに知らせるように宛てられたものではない、あるいはそれらの事柄についてあなたが為し得ることは何もないと告げる人々のために、聖ヨハネ・グアルベルトの時代のフィレンツェの人々が一人の悪い羊飼いから教会とフィレンツェの教区を救うために呼び出されたということを理解してほしい。

今日の教会にとっての危険は約千年前のフィレンツェの教区に降りかかったことよりもはるかに劇的であり、はるかに悪い。それが、まず何よりも危険が存在するということを理解することがわれわれにとってなお重要である理由である。われわれが危険に気づかないならば、われわれは何もしないであろう。そして第二に、われわれがすることが何もないとわれわれが考えるならば、われわれは何もしないであろう。明らかに、もし聖母がわれわれにとってすることが何もないと考えられたのならば、聖母はわれわれの信仰が危険に陥っている、そしてその危険はカトリック教会の内部から来ているということをわれわれに告げようとなさらなかったであろう。

第三の秘密は聖職階級を非難している

もしあなたたちがなぜ第三の秘密が明かされないのか、なぜシスター・ルシアが31年間にわたって沈黙させられているのか、なぜアロンゾ神父の14巻の書物が公刊を禁じられているのか、を知りたいのならば、それは第三の秘密が今日の聖職階級の多くの者の現在の方向を非難しているからである。そしてもしあなたたちがファチマの聖母があなたたちがそうすることを望まれなかったということを知ったならば、聖職階級に同調しないからであろう。それがわれわれにとってまず何よりも祈りと犠牲において聖母と我らの主へと立ち戻ることがなぜ緊急であるかの理由である。

聖ペトロが牢獄にいたとき、あなたたちが使徒行伝のうちに読むように、全教会は日夜彼のために祈った。そしてそれゆえ、神は天使を送って彼の足かせから彼を救われた。彼は一日二十四時間二人あるいは四人の看守の間にはさまれて手錠をかけられ、また足かせをはめられていた。これは人間にとって逃亡不可能な状況である。にもかかわらず、神は聖ペトロを解放された。

教皇と教会は教会の初期の時代、ヘロデの時代における聖ペトロのように、言ってみれば足かせをはめられている。そして聖母がわれわれにするように求めておられることは教皇のために祈り、犠牲をすることである。

例えばフレール・ミッシェルの書物の中で、第三の秘密を読むと、彼は三人の子どもの大きな犠牲を指摘してる。ちょうど7歳であったジャシンタがそのいとこと兄弟と共に8月13日に誘拐され、死の脅しの下に一般の犯罪者と一緒に牢獄に閉じこめられたことを考えてみなさい。彼女は泣き始めた。彼女は、死にそうになったからではなく、母親をもう見ることができないだろうから、泣いたのである。

彼女を慰めるために、シスター・ルシアは彼女がジャシンタに大いに興味があることを知っていたあるものでもって気を紛らわせようと努めた。彼女はこう言った。「私たちはこのことを犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを罪人たちのための犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを聖母の汚れなき御心に対する償いにおいて捧げることができるでしょう。私たちはそれを教皇のために捧げることができるでしょう」。ジャシンタが彼女の犠牲をどの意向のために捧げるかを尋ねられて、彼女が「私はそれをそれらのすべてのために捧げます」と答えたということに注目することは興味のあることである。ジャシンタは教皇についての二つの幻視をした。彼女はこれら二つの幻視を見た唯一人の人間であった。

一つは「飢えのために泣いているそして食べるものを何も持っていない人々でいっぱいの道路と野原。そして無原罪の聖母の前で祈っている教会における教皇。そして彼と共に祈っている大勢の人々」の幻視であった(Frere Michel, The Whole Truth about Fatima , Vol.III, page 716を見よ)。

そして別の時にジャシンタはこう言った。「私は両手のなかに頭を埋め、テーブルの側に跪いて、泣いている、非常に大きな家にいる教皇を見ました。家の外には多くの人々がいました。彼らのうちのある者は石を投げ、他の者は彼を呪い、汚い言葉を使っていました。かわいそうな教皇、私たちは彼のために大いに祈らなければなりません」(Frere Michel, The Whole Truth about Fatima , Vol.III, page 715を見よ)。

教皇についてのこれらの幻視はジャシンタに永続的な印象を与えた。ジャシンタは繰り返し教皇のために祈る必要を強調し、そして繰り返し繰り返し彼女自身そうすることを約束した。彼女は教皇のために多くの祈り、苦しみ、犠牲を捧げた(Frere Michel, The Whole Truth about Fatima , Vol.III, page 717-720を見よ)。

教皇はファチマのメッセージにおいて初めから終わりまで、特に第二の秘密おいて、そして明らかに第三の秘密において、取り上げられていると言ってもよいだろう。最終的にはすべては教皇にかかっている。それは非常に大きな責任である。それはいかなる人の手段をも越えた一つの責任である。彼の名前が何であれ、彼が教皇ピオ十一世であれ、教皇ピオ十二世であれ、教皇パウロ六世であれ、教皇ヨハネ・パウロ二世であれ、そうである。

それにもかかわらず、神は彼にこの巨大な責任を果たすことを期待されるのである。

奉献は紅海の奇跡のようなものではない。旧約における神の民の偉大な指導者を考えてみよ。モーセのことを考えてみよ。彼はファラオに民を神を礼拝するために行かせるように確信させたがその後に、ファラオは心を変えて彼らに対して彼の軍隊を送った。そしてそれゆえ、彼らは砂漠を出て、逃れる場所がなかった。彼らの前には紅海が横たわり、そして背後には彼らを殺す準備を整えて彼らに襲いかかろうとするエジプト軍がいる。神の民は鎧甲もなく、武器も持たずに、行く所がない。

神は紅海がどこにあるかを忘れておられなかった。また神はファラオの気が変わり、彼らを攻撃するために出発したということを忘れ、あるいは理解されなかったのでもない。しかし、むしろ、神はそれからより大きな善を引き出すために、言ってみれば彼らの歴史のこの頂点へと彼らをもたらされたのである。単にモーセの権威を再び言明するためばかりでなく、洗礼のシンボルや他の多くの事柄をわれわれに与えるためにである。

神はモーセの側での従順と信仰の行為を求められた。そしてこの従順の行為は人間的な知恵の光に照らせば非常に賢明であるとは思われなかった。(結局、神がもし語られなかったならば、彼らにとって逃げる、あるいは隠れる、あるいは散り散りになることがより賢明であったろう)。彼らは彼らの生き残りをモーセを通しての解放に依存するように求められたのである。

そしてモーセは信仰と従順のこの行為を求められた。モーセは彼が告げられたことをした。彼は紅海の上に彼の腕を伸ばした。そうすると海が開け、彼らは救われた。そして、歴史において実際に起こったその光景はわれわれが今日がおかれている現実のシンボルである。

新約聖書における神の民は、彼らがそのことを理解していようといまいと、取り囲まれている。そして彼らは大虐殺へと定められている。そしてわれわれは、教皇が最終的にロシアを奉献するというこの命令に従うとき、神のより偉大でさえある行為によって救われるであろう。

シスター・ルシアが説明したように、「聖母は何度も私自身に、そしてジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわれわれがその前にそのかわいそうな民の回心を獲得していないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具である、ということを告げられました。」

懲罰の道具を用いる神という観念に驚く人々のために、私はエレミヤの時代に言及しよう。エレミヤはエルサレムの聖なる都は捕囚において取り去られる、これら悪しき異教徒であるバビロニア人がエルサレムに対する戦闘において勝利するであろうと予言した。

ところで、その当時エルサレムに住んでいた人、ダヴィデとその子孫への約束を知っていた人にとって、預言者エレミヤによるそのような予言は異端と思われた。それはメシアの到来の約束、そしてエルサレムの都への約束と調和させることは不可能だと思われた。

ある人々は信仰を自分たちは知っていると考えるその無知において、エレミヤが言わなければならなかったことを拒否した。

彼らはそれを拒否し、その結果彼らは肉体的な危険に陥った。彼らは虐殺され、また補囚へと連れ去られた。神は預言者たちを通じて、神が神の民を彼らの罪のゆえに罰するためにバビロンを用いたと説明された。

ファチマはロシアが世界を再び奴隷化すると予言している。これは今日のカトリック教会の光景である。全世界が悪魔的な共産主義に従属するということは、我らの主が「世の終わりまでのすべての日を通じて」その教会と共にいる、と約束されたのだから、不可能であると考える考えるカトリック者がいる。

聖母は共産主義には言及されなかった。聖母はロシアの誤謬に言及された。そしてロシアは全世界の懲罰の道具であろうということに言及された。

1946年にアメリカの作家で歴史の教授であるウィリアム・トマス・ウォルシュはシスター・ルシアにインタビューした。そして彼は彼女にこう尋ねた。「われわれは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えた。「私たちはロシアがその誤謬を全世界に広めつつある段階にいます」。彼は彼女に尋ねた。「それはロシアが世界中のあらゆる国を征服するという意味ですか?」そして彼女は言った。「そうです。」ウォルシュ教授は彼女がその質問を理解しなかったと考えたので、彼女に対する質問の言葉を換えて、今度はこう言った。「そしてそのことはアメリカ合衆国を含みますか?」そして彼女は言った。「そうです。」

それゆえ、われわれにとって、あなたたちが、テレビ・セットをつけ、あるいは新聞を読む時に得ているいわゆるニュース(もっと正確に言えば誤った情報)は常に真理であるのではないということを理解することはよいことである。まず何よりもわれわれにロシアは回心しつつあると告げる教会内部の人々に対して答えるために、われわれはゴルバチョフが全国的なテレビにおいて自分は無神論者であると語ったということを指摘する。彼はこのことを、私がもっと正確には「クークークー」と呼ぶであろういわゆる「クーデタ」の後で言った。

ロシアは回心しつつあるのではなくて堕落しつつある

ゴルバチョフ氏はこの国[アメリカ]から来た一人のカトリック司祭から、あなたの宗教的信条は何であるかと尋ねられた。そして彼はこう答えた。「私は自分が無神論者であることを一度も隠したことはない」。そして、ボリス・エリツィンは同じことを主張した。しかし、自分は少しばかり迷信家であるので、それでときどき教会に行くと言った。

迷信は信仰ではない。ロシアの回心は存在しない。キリスト者であるロシア人がいないとは言っていない。私はすべての男も女も最後のロシア人にいたるまで一人のよいカトリックのロシア人もいないということを示唆しているのではない。しかし、ロシアの国は回心していない。

さらに、われわれの「ファチマ・クルーセイダー」36においてわれわれが指摘したように、1989年以来起こってきた諸変化は堕落であって、回心ではない。ジョン・コッターは彼の論文の中で、「ニューヨーク・タイムズ」、「トロント・サン」、「ザ・グローブ・アンド・メイル」や他の信用のある新聞(世間によれば)から引用している。そしてロシアにおいて起こっていることはロシアの人々の道徳のより大きな堕落であると指摘している。

そして単にロシアにおいてばかりでなく、ポーランドにおいても、ハンガリーにおいても、その他の国々においても同じことである。

いわゆる小屋共産主義を持つこれらの国々は実際、それ以来プレイボーイ誌、セックス・ショップ等々の輸入を増やした。それゆえ、もしわれわれがただプロパガンダを単に聴いているならば、十分容易にそうなるように、われわれの精神において誤って解釈しないようにしよう。実際、ロシアにおける諸変化はロシア社会のある局面をより西欧社会に似たものとしている。すなわち、それらは西欧が世界中に促進した堕落と腐敗によりいっそう似ているのである。

私がジョンの論文から取り除かなければならなかった事柄がある。それはそれらが真実ではないからではなく、私の雑誌は成人によってばかりでなく、子どもたちによっても読まれているからであり、また私は彼の議論にすべて賛同することができなかったからである。しかし、それは圧倒的なものである。彼が提供している証拠はロシアにおける諸変化がそこの人々のより大きな堕落を生み出したということを証明している。

今日ロシアは戦争の準備を加速させている。

彼らが決して語らない、あるいはたとえそれについて彼らが語るとしても、あなたたちが実際に姿を得ることができないような奇妙な仕方においてである何かがあるということに注意することはあなたたちにとって興味のあることである。それは少なくとも彼らのある人にとって一つの真の試金石である。われわれがほとんど提供することができない穀物や食料(われわれの食料貯蔵水準はこの十数年最低の水準である)でロシアの人々を養うことに突進しているのに、ロシアの人々は、彼らの指導者たちを通じて、彼らの経済資源のますます多くのものを軍事支出に費やし続けている。

彼らは6週ごとに一隻の原子力潜水艦を建造した。そして彼らはその生産を今年、昨年そして一昨年と維持した。もし私の間違いでなければ、一隻の原潜は数百万ドルかかると思う。

彼らは合衆国が費やす2倍の金額を費やしている。そして彼らは軍事支出に彼らの国民総生産のほぼ40%近くを費やしている。われわれが軍縮をしている間に彼らは再軍備をし、そして彼らの軍事力を近代化している。

彼らは戦争の準備をしているのである。そしてすでに彼らは、メディアが言うのとは反対に、あなたたちが告げられているのとは反対に、6倍から8倍強力である。現在の合衆国よりも6倍から8倍強力である。そして彼らは彼らの支出を倍加し、そして再倍加している。

彼らは愚かにそうしているのではない。合衆国はその金のほとんどを開発に費やしている。合衆国は約30%を賃金に使っている(私は兵隊たちに対して文句を言っているのではない)。一方、ロシア人たちは彼らの給料がはるかに低いので賃金に約10%しか使っていない。

しかし、第二に、アメリカ合衆国は研究と開発に費やしている。そのほとんどは決して展開されなかった。

ロシア人たちは苦にしない。彼らが自分たち自身で開発しないものを、彼らは西側から盗む。あるいはわれわれが彼らに与える。そしてそのとき彼らは複製し、大量生産する。

ところで、あなたたちが質問したこれらの事実、明らかにあなたたちは多くの嘘を告げられてきたが、一人の人間があなたに反対のことを告げていると信じることは難しい。私は、われわれが数年前に「クルーセイダー」においてそれらを公にしたように、あなたたちに参考文献を示すことができる。私はもっと多くの資料をあなたたちに示すことができる。

しかし、あなたはすべてあなた自身で、ロシア人たちの経済的なバスケットケースについて語っているすべてのこれらの事柄のうちに一生懸命に見ることさえなしに注意することができる。そしてわれわれがいかに彼らを援助しなければならないか、あなたにほとんど何のデータも与えられていないということを見出すであろう。この知識はまったく公のものである。それは隠されてでもいるかのようなものではない。それはこれらの新聞に利用できないものではない。それはまったく利用可能である。そしてあなたはそれをまったく容易に得ることができる。しかし、それは一般公衆に公開されているのではない。そのことが欺瞞の一部である。

私は軍事科学はまったく魅力的なものであると思う。私は数年前にそれに関して読み始めた。というのは、人々が私にロシアは回心しつつある、事態は良好である、等々と告げようとしたからである。しかし、聖母の言葉を知って、私はこれはそうであることができないと言った。そしてそれゆえ、私が世間がわれわれに提供するいわゆる事実を掘り返し始めたとき、私がそれらは嘘であることがわかった。

例えば、彼らがわれわれに、ゴルバチョフ氏は平和の人であると告げていたとき、彼がニコライ・オガルコフという名によって一人の人物をソヴィエト連邦において可能な最高の官職へと昇進させたということを知ることは興味のあることである。ニコライ・オガルコフは1982年に「祖国の防衛」という婉曲的に表題をつけられた小さなパンフレットを著した人物である。そしてその中で、彼はわれわれに、世界を打倒するための「プランB」を持っていると語っている。

私はそのプランをあなたたちに非常に簡単に概略しよう。ある晴れた日、何の挑発もなしに、彼は全開核攻撃を、告知なし、挑発なしに、要求する。その中で彼は1億3500万人のアメリカ人が戦闘の最初の30分間で死ぬだろうと見積もっている。すなわち、それは何らかの報復のための機会がある以前にということである。

そしてそれが、ほかでもないミハイル・ゴルバチョフがソヴィエト連邦における可能な最高の地位へと昇進させた人物である。それゆえ、ゴルバチョフのわれわれとの平和なんてまあそのようなものなのである。

われわれがロシアについてのこれらの事実や姿を信じようが信じまいが、重要なことはファチマの聖母がわれわれに告げておられることである。聖母はわれわれに、ロシアはわれわれがそのかわいそうな民族の回心を手にすることができないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具であろうと告げられている。ところで、聖母はロシアの民主化を手にするとは言われなかった。聖母は回心について語られた。それは一つのこと、悪魔的な共産主義あるいは無神論からの回心、そしてカトリック信仰への回心を意味する。

教皇ヨハネ・パウロ二世は知っておられる

例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世は、今年ファチマに来られたときに、他の形式の無神論によって取って代わられたマルキシズムの危険について語られた。彼はそのことを1991年5月13日にファチマで言われた。教皇はロシアの回心が起こらなかったということは知っているということを公に間接的に認められたのである。教皇は彼が実際に言っている事柄のメッセージを受け取るに十分鋭い人々に告げるためにやや隠された仕方でお話しされなければならなかった。明らかに彼は公然と話すほどに十分に自由であるとは感じておられない。

ロシアの回心は一つの事柄を意味する。すなわち、それは単にロシアにおける2億の人々ばかりでなく、また同様に社会的諸制度もまたカトリック信仰に回心するだろうということである。国家が、公的な諸当局が、彼らの法律と制度がキリストの律法を反映しているということはまだ起こっていない。

もしわれわれがロシアの回心を手にすることがないならば、そのときわれわれはなお、われわれの方へと向けられた彼らのミサイルによって(今日までわれわれがそうであるように)脅威を受けるのである。われわれがここ[アメリカ]に持っているあらゆるサイロに対して、彼らはその一つのサイロに向けられた3発のミサイルを持っている。

聖母はわれわれに解決を与えておられる。しかしわれわれはこの解決が一つであり、そしてたった一つであるということを理解しなければならない。第二の解決あるいは二者択一の解決は存在しない。 われわれはあのかわいそうな民族の回心を手にしなければならないのである。

他の選択は存在しない

われわれはどのようにしてロシアの回心を手にするのか? 確かに、われわれは、少なくともミサの終わりのロシアの回心のための祈りがなお必要であるということを理解しているあの司祭たちによってわれわれがミサの終わりにそうするように、祈ることはよいことである。家庭での、教会での、等々でのわれわれ自身のロザリオにおいてロシアの回心のために祈りなさい。確かに、祈りは最も効果的である。しかし、究極的に、そして最終的にロシアの回心はただ一つの仕方でみ起こるだろう。それは聖母がわれわれに与えられた手段、道具によって起こるであろう。

あなたたち誰もがある人に手紙を書いたことがきっとあると思う。あなたは聡明であるかもしれない、あなたは非常に文才があるかもしれない、等々。しかしあなたたちのうちの誰一人、それがタイプライターであれ、あるいはコンピューターであれ、ペンであれ、鉛筆であれ、書く道具なしには書くことができない。まさにわれわれの本性によってわれわれは制限されており、われわれは書くための道具に依存しているのである。

ある道具なしにはわれわれは書くことができない。そして聖母がロシアの回心のためにわれわれに与えらえる道具なしには、われわれはロシアの回心を手にすることはできない。この道具は一つであり、そしてただ一つである。われわれは、聖母が検証された奇跡と預言によって言われることを聖母がわれわれに告げ、確証されるということを知っている。

そして、それなしにはわれわれがロシアの回心を手にすることができないその道具は何であるのか? その道具は神がモーセに与え給うた道具、彼の腕を紅海の上に伸べるという命令に似た何かあるものである。ロシアの回心の場合における道具は特殊化された事柄におけるロシアの奉献である。
 ある人々は、不幸なことに司祭たちすら、これはまじないあるいは魔術あるいは何かそのようなもののように響くと指摘した。そのように聖なる事柄についてそのように語ることは冒涜あるいはそれに近いことである。それは確かに魔術ではないしまじないでもない。

そう言うことについての神学的背景をあなたたちに示したいと思う。まず第一に、聖アウグスチヌスはわれわれに、神はわれわれがそれに値しないことを御存知であるとしても、神がわれわれに与えることを望み給うある種の特別な計らいがある、と説明している。神は、それにもかかわらず、われわれに対する大いなる愛とその憐れみにおいてわれわれにこれらの恵みを与えることを望まれる。しかし、神はわれわれが高慢になり、われわれが幾分それに値すると考えるであろうということを知っておられるがゆえに、これらの恵みを諸聖人の功績と取りなしに取って置かれる。

そしてそれゆえ、世界平和の恵み、ロシアの回心の恵みは祝福されたおとめマリアに、その取り次ぎに、その功績に取って置かれた。われわれはマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアの回心を手にすることはないであろう。

真の平和はただ聖母を通じて

われわれはファチマのメッセージを通じて、世界の平和とロシアの回心はマリアの汚れなき御心に委ねられたということを告げられている。そのことはそれが他の誰にも委ねられなかったということを意味している。そのことは、神御自身はマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアを回心させることを望まれない、世界の平和をもたらすことを望まれないということを意味する。

もちろん、このことは神がそれをお出来にならないということを示唆しない。神御自身は神の意志をこの仕方で宣言されたということであり、そして神はその決心を変えようとはなさらないということを示唆している。それが、聖母がご自分のことについて三人称で語られるときに、「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを救うことができる」と言われる理由である。

聖母はファチマに御出現になった。そして三ヶ月後に御自身をロザリオの聖母と同一視された。そしてそれゆえ、神はこの恩寵がただ聖母を通じてのみわれわれに与えられることを望まれたのである。さらに、神は聖母が称賛を受けることを望まれる。神は聖母が御自身でそうなさることを望まれない。神はそれはただ聖母を通じてのみであるということを世界が認めることを望まれる。

ところで、なぜ神はそうされることを望まれるのであろうか? 神はいくつかの理由でそうされることを望まれる。まず第一に、われわれはファチマのメッセージにおいて、7月13日に子どもたちに地獄の幻視を示された後に、聖母が「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。神が世界に私の汚れなき御心への奉献を確立しようと望まれるのは彼らを救うためです」と言われた、ということを告げられている。

そしてそれゆえ、神は聖母が称賛を受けることを望んでおられるのである。神は人々が、聖母の功績とその取り次ぎの力を認め、その結果われわれが聖母に献身するように、この時期にわれわれの最善の者でさえますますそうであるように、望んでおられるのである。

神はロシアの回心のこの劇的な瞬間、歴史のこの絶頂の瞬間を、マリアの汚れなき御心に属すべきものと見られるために、留保されたのである。それが、神がロシアの回心を従順のこの行為、教皇と司教たちによる奉献のこの行為に留保された理由である。それは一つの荘厳なそして公の行為でなければならない。

いかなる奉献がなされなければならないのか?

ある人は私に、教皇がある日、彼のチャペルの私室でそれをしたということを告げようとした。私は彼がそのチャペルの私室で何かあることをすることを非常に喜ぶが、しかし、それは確かにファチマの聖母が求められたことではない。それは一つの荘厳な公の行為でなければならない。それゆえに、それは聖なることで、またよいことであると私は確信しているけれども、そのチャペルにおけるどんな私的な行為もファチマの聖母の要求を満たすものではないのである。それはもっぱらロシアだけでなければならない。

さて、ある人々は再び、余りにも細かいくだらない区別だてあるいは律法尊重主義あるいは彼らがわれわれを告発したい何であれあるものという点でわれわれを非難するであろう。しかし、一般的な奉献と特殊的な奉献との間には非常に大きな相違がある。

まず第一に奉献とは何であるか?

何かあるものを奉献するということはそれを取って置くこと、それをもっぱら神への奉仕のために捧げることである。それは奉献されていないものから区別される。それゆえ、ある特別の国を奉献するためには、われわれはそれを名を挙げて奉献しなければならない。世界を神への奉仕のために取って置くことは特殊的な奉献の行為をすることではない。

特殊的な奉献の霊的な諸実例

おそらく私はこのことをいくつかの霊的な例によって示すことができる。預言者がイェッセの息子が王に塗油されるされるべきであると告げられたとき、彼はイェッセに彼の息子たちを連れて来るように求めた。イェッセは8人の息子を持っていた。彼はそのうちの7人を連れて来た。そして羊の世話をさせるために一番下の息子を家に残してきた。

さて、預言者は最初の息子を呼び出してそして言った。「いや、この子ではない」。2番目の息子にも、「いや、この子ではない」。3番目の息子にも「いや違う」、4番目にも「違う、違う、違う」。彼らのうちの7人とも神によって選ばれた特別の子ではないとして拒絶された。

それゆえ、預言者はイェッセにもう息子はいないのか? と尋ねた。イェッセは言った。「もう一人家にいます。」それから、王は言った。「彼をここへ連れて来い」。それでイェッセは人を送って彼を連れて来させた。そしてそれが、塗油されるべき特別の者、特殊的な仕方で神への奉仕のために取って置かれるべき者であったその息子であった。

その息子はダヴィデ王であった。

聖パウロが他の数人のキリスト者と共に祈っていて、聖霊が新約聖書の預言者たちの一人を通じて語られたとき、部屋には数人の人がいた。彼らのうちにサウロとバルナバと他の何人かがいた−他の人々は明確に特定されていなかった。そして聖霊は語られそして言われた。「私はあなたたち、サウロとバルナバをわたしのために取って置きたい」と。

さて、その部屋で祈っていた彼らのうちのすべての者がみな洗礼を受けていたということを思い出してほしい。彼らは皆、すでにその特殊的な洗礼によって神に奉献されていた。しかし、求められた奉献、取り分けは何かある別のことであった。そしてそれゆえ、彼らは祈り、断食し、そしてそれからサウロとバルナバ両者に按手した。

ところで、要求された一つの特別の奉献が存在した。それはサウロとバルナバを特定した。他の人々は特定されなかった。他の人々は按手を受けなかった。奉献され、取って置かれたのはただサウロとバルナバだけであった。

そしてそれゆえ、神がある特定の人物あるいは国を奉献されるべく特定されるとき、それが神が意味されるものである。

それは一つの国を他の国々から取って置かない一般的な奉献とはまったく異なる。
聖母はトィイでこう言われた。「神が教皇にロシアの奉献をするように世界の全司教に命令するように求められる時が来ました」。

聖母はロシアの特殊的な奉献を要求される

聖母は世界とロシアの間の区別をしておられる。聖母は世界のカトリック司教たちが特殊的にロシアを奉献することを欲しておられる。聖母はロシアが救われるのはこの手段によってであるということをどのように語るかを知っておられ、それが何を意味するかを知っておられ、そしてそう言われたのである。それはそれによってロシアが回心させられる道具である。この道具なしには、ロシアの回心は起こらないであろう。そしてそれゆえ、われわれはこの道具の独自性とこの道具の必然性を強調しなければならない。私は教皇ピオ十一世に反対ではない。私は教皇ピオ十二世に反対ではない。私は教皇ヨハネ二十三世に、あるいは教皇パウロ六世に、あるいは教皇ヨハネ・パウロ二世に反対ではない。しかし、もしこの真理が明白な仕方で知らされないならば、われわれはすべていっそう悪い方へ落ち込むであろう。

犯罪的なジャーナリズム

誰かある人が1951年、1952年にこのことを公に言っていてくれたらなあ、と考えてほしい。教皇ピオ十二世がロシアを奉献したときに真理がそのとき公に知らされていたらなあ、と。しかし、不幸にも、彼らは世界の全司教が彼に加わらなければならないということを彼に告げるのを忘れたのだ。カイヨン神父は、「犯罪的な」ジャーナリストとして、ファチマの聖母のメッセージを寸断して損なった人々に言及した。というのは、教皇にロシアの奉献をさせることにおいて道具的なものであったポストノフ夫人によってもし真理が明白に知られていたならば、彼女がそれが司教たちの奉献の行為を要求しているということを知ってさえいたならば、それは1952年になされたかもしれない。

しかし、カイヨン神父と同様に、ロシアの奉献を促進することに年月を費やしたフランスの教授はこう言った。「いかに犯罪的な手がそれらの言葉を取り去り、そして司教たちが奉献のこの行為に含まれていなければならなかったということをそれが特定した場所に置いたことか....」犯罪的という言葉を用いることはそれほど強い言葉ではない。

私が1985年にわれわれのシンポジウムで彼がそう言うのを最初に聴いたとき、私は彼が言ったことについて考え始めた。私は彼が犯罪的という言葉を用いることが正しいかどうか確信が持てなかった。しかしそれについて考えれば考えるほど、ますます私は彼が正しいということを理解した。

ファチマの敵どもはあなたたちに対して嘘を言うに違いない

 そしてそれゆえ、もしあなたたちにとって真理を知ることが重要でなかったならば、そのとき誤った情報操作を試み、そしてあなたたちを欺くそのように大きな努力は存在しなかったであろう。それが、1989年と1990年にシスター・ルシアの六通の偽の手紙が出回った理由である。今日、それらは完全に信用を落とした。それらはおそらくファチマ・メッセージに反対する教会内部の誤った情報操作の最も巧妙に仕組まれた努力であった。

われわれはシスター・ルシア自身の血に従った隠匿の年表Chronology of a Coverup after Sister Lucy's bloodと呼ばれる一つの小さなパンフレットを出版した。シスターは私に直接シスター・ルシアはタイプしていないと言った。出回っていたシスター・ルシアによるものだと言われている6通の偽りの手紙がある。−それらのうちの一通はマリア・ベレム宛、一通はポール・レオナード神父宛、一通はウォルター・クネルカー宛、等々である。すべて[の手紙]は同じことを主張している。すべて[の手紙]はそれらに付されたシスター・ルシアの見かけ上のサインをもったコンピューターによって作られたものである。それら6通は全部偽りの手紙である。

前表紙にシスター・ルシアの絵のついた「ファチマ・クルーセイダー」No.35号で、われわれは彼女が30年間にわたって沈黙させられてきたと指摘した。われわれはまたその中に隠匿の年表(ある教会当局者たちと幾人かの平信徒の人々による完全なファチマ・メッセージを抑圧する30年以上の努力に関する)を発表した。

マザー・プリオーレスはファチマ・クルーセイダーを擁護する

われわれは今年、1991年5月10日に、コインブラのカルメル会のマザー・プリオーレスによって擁護された。(彼女はわれわれ自身に何の欠点もなかったから、われわれの友人になったわけではない)。 彼女はリスボンで発刊されている「オ・ジュルナール」というポルトガルの週刊誌におけるインタビューの中である公式声明を出した。

彼女はシスター・ルシアと彼女の手紙を書くことについて尋ねられた際に、こう言っている。「シスター・ルシアは彼女がそうしようと望むままに、書き、返事を出し、あるいはそうしなかったりします。しかし、彼女が返事をするときには、彼女自身の自筆で返事を出します。」

彼女がポルトガル語で用いた表現、"de propria pugna"はイタリア語の表現、"propia pugna"と同じであり、それは字義通りには「自分自身の手で」という意味である。それは「あなた自身の手書きにおいて」という表現である。

そしてそれゆえ、2年間にわたって彼らはシスター・ルシアの50年間以上の証言の信用を落とそうと試みてきたのである。その証言の中で彼女は繰り返し、奉献は荘厳でなければらない、公のものでなければならない、ただロシアだけの奉献でなければならない、そして全司教がそれに加わらなければならない、そしてそれは同じ日に、同じ時間になされなければならない、と主張してきたのである。

彼女は尋ねられ、そして話すことを許されたときにはいつも、このことを繰り返してきた。過去2年間、これらの嘘つきたち、これらの偽作者たち、これらの犯罪的ジャーナリストたちは、奉献はなされた、シスター・ルシアがそう言ったという嘘を広げようと努めてきたのである。

次のことを理解することはわれわれにとって大切である。すなわち、あなたたちにとって知らされるということがもし重要でなかったならば、もしそれについてあなたたちが何もすることがなかったならば、なぜ彼らはあなたたちに嘘をつくことに手をわずらわしたのであろうか? なぜ彼らは一般公衆に対してこの誤った情報を広めたのであろうか? あなたたちが知らされることが重要であるということ以外にはそれの目的はないであろう。ファチマの敵どもにとってはあなたたちが真理を否定されることが重要なのである。

われわれの第一の忠誠−それはイエズスとマリアへの忠誠である

「みんな一緒に友人であろう、そうすればすべてすばらしく、申し分がない」と言うことは遙かに楽しいし、遙かに容易であろう。そしていつかわれわれは、聖母がわれわれに、「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と告げられるがゆえに、そう言うことができるであろう。

われわれの第一の忠誠を聖母に捧げよう。誤った忠誠をある役職者、ヴァチカンにいる役職者にさえ捧げないようにしよう。かれらはファチマの聖母の理解よりも何がなされるべきかについての彼らの理解を促進するのである。

私はある人の善意を問題にしようとは望まない。私はここで誰かを裁こうとしているのではない。神は人々の内面を知り給う。しかし、たとえわれわれがここで誰かある人の内面を裁こうとしているのではないとしても、聖書の次の言葉を理解することはわれわれにとって大切である。「悪いものを善いものと、そして善いものを悪いものと呼んではならない」。

教会の基本的な決断

あなたたちは教会が教会の最高のこと、同様に最低のことに触れる一つの基本的な決断に直面しているということを見ている。それは教皇からただの平信徒に至るまでそうである。

そして教会が直面しているその選択は何であるか。すなわち、共産主義、マルクス主義、戦闘的無神論はイエズス・キリストと教会に対する敵対を誓った。それは聖母が聖書において予言された(創世記3:15)創世記の時代へと実際に戻る大昔からの戦いである。そして神はアダムとイヴに話しかけられる一方で、悪魔サタンにこう言われた。「私はおまえ(すなわちサタン)と女(すなわち祝せられたおとめマリア)の間に、おまえの子孫(すなわち悪魔の追随者、地獄にいる悪魔ばかりでなく、またここ地上での彼の追随者)とマリアの子孫の間に、敵対を置く」。そのことは、もちろん、第一にイエズス・キリストに関わることであるが、しかしまた同様にその子らにも関わることである。「そしておまえはマリアを待ち伏せするであろう。そしてマリアはおまえの頭を砕くであろう」。そして蛇の頭を砕くその勝利はファチマにおいて予言された。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」。

そしてそれゆえ、サタンの軍勢は歴史的に、教会と聖母の子ら、信徒たちに対する彼らの攻撃をますます強めるために結集した。そしてわれわれはこの戦闘における頂点の時代にいるのである。シスター・ルシアは、例えば、悪魔が聖母との最後の戦闘のためにむずむずしている、とわれわれに告げている。それから、彼女は続けてその最終戦争は一方が勝ち、他方が負ける戦闘であると言っている。そしてその時は今である。

われわれが見ることができるサタンの軍勢の一つ、サタンに従う人々は確かに世界的な共産主義であり、それは一つの悪魔的な教義である。カール・マルクス自身その詩のなかで自分自身のことについて書きながら、このことを認めている。私は私の書物『世界の奴隷化か、それとも平和か−それは教皇にまで至る−』をあなたたちに見なさいと言おう。その序文でポール・レオナード神父は、マルクスは無神論者ではなくて、悪魔主義者である、彼は自分の霊魂を悪魔に売った、そして彼は人類を破滅へ引きずり込もうとしたと指摘している。

そのような悪はわれわれにとって考えることが難しい。しかし、その承認は彼自身の自筆でなされている。それが彼が自分自身について言っていることである。ポール神父はマルクスの詩を分析し、そして共産主義は実際悪魔的であると指摘している。

そして設立される際のその目的はキリスト教、すなわちキリスト教諸国を破壊すること、そして教会それ自身を破壊することである。

教会はそこで、それがどんな色彩あるいは名称(今、その名称を変えつつあると思われる)をそれ自身に適用しようと、その真の目的は変えないそのような、この不倶戴天の敵に直面しているのである。教会はそのように強力なそして執念深い敵の前で一つの基本的な選択に直面している。教会は逃げようとすることができる。教会は戦おうとすることができる。あるいは教会は交渉しようとすることができる。

共産主義あるいはその後継者がキリスト教を破壊することを決定したかぎり、教会はただこの三つの選択、すなわち、逃げる、戦う、交渉する[という選択]しか持たない。

教会はどこにも逃げることができない。というのは、共産主義も教会も共に世界的な広がりを持つものだからである。もちろん、個々人は一つの都市から次の都市へと迫害を逃れることはできるけれども、しかし教会は逃げることができない。

それゆえに、二つの選択、交渉するかそれとも戦うかのいずれか、が残される。

ファチマの聖母は、この対決に勝利するただ一つの道しかない、とわれわれに告げておられる。それはこの戦闘を聖母の武器で戦うことである。「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」。「ロシアが回心させられるのはこの手段によってです」。「私たちがあの可哀想な民族の回心を手にしないならば、ロシアは全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具です」。

それゆえ、ファチマの聖母はこの戦闘に勝利する唯一の道しか存在しない、そしてそれは霊的な手段、霊的な武器を使うことによってであり、そして勝利するためにこれらの霊的な武器でもって戦うようにとわれわれに告げておられる。もしわれわれがそれら[の武器]を用いないならば、われわれは確実に負けるであろう。そのことは純然たる現実である。それが事柄の真理である。簡潔に言えばそういうことである。

ヴァチカンの高官たちは誤った選択をしている

不幸にも、ヴァチカンの高官たちは交渉を始めた。1962年のヴァチカン−モスクワ協定は歴史的記録の問題である。しかしもしわれわれがそれをすこし詳細にさえ研究しようと欲するならば、ユリッシズ・フロリディ神父の『モスクワとヴァチカン』という書物を読むことができる。その中で彼は1917年から1979年までのヴァチカンとモスクワの間の外交関係を追跡している。

あなたたちはマラキ・マルタンの書物『イエズス会士たち』の85-88ページ(それをわれわれは彼の許可を得てファチマ・クルーセイダーにおいて公刊した)のうちにカッサロリ枢機卿および他の4人の枢機卿の教皇との会見について[の記事を]読むことができる。その[会見の]中で、カッサロリ枢機卿は1981年、教皇狙撃の約一ヶ月前に、もし教皇がイエズス会士たちを、彼らのマルキシズムのために圧迫するならば、報復でもって[何かをすると]教皇を脅した。

彼[カッサロリ枢機卿]は教皇、現在の教皇、に彼がヴァチカン−モスクワ協定を続けることを引き受けたということを思い起こさせた。

ヴァチカン−モスクワ協定とは何なのか? 共産主義者たちは教皇ヨハネ二十三世と彼の後継者たちから共産主義の誤謬を非難しないように約束を取り付けた。自然的秩序における、すなわち恩寵の武器を考慮に入れない教会は一つの武器を持っている。そしてそれは真理である。しかし、もし真理が示されないならば、それはもはや一つの武器ではない。それは鞘に収まったままの剣のようなものである。

ヴァチカンの高官たちはモスクワとの彼らの交渉において共産主義の誤謬を非難しないことに同意した。そのような協定は、私が公に言い、そして公に書いたように、まず何よりも不道徳であり、一つの裏切りである。そして私はあなたたちに一瞬のうちに証明するであろう。共産主義の勢力に対するわれわれの敗北と教会の喪失を確実にする。

もしあなたたちが1960年という年を覚えているならば、同時に共産主義者でありそしてカトリック者である人物について考えることはカトリックの教えについて何かを知っているある人にとっては不可能であった。そのように考えることがなぜ普通の人にとって考えられないことであったのだろうか? それは教会が共産主義とカトリック信仰との間の和解不可能性を宣言しそして繰り返し宣言したからである。

ヴァチカンが繰り返し宣言しそして再宣言したから、それについてほんの一瞬の間でも考える人にとっては、誰も同時にカトリックであり、かつ共産主義者であることはできない、ということは明らかであったのである。しかし、今はヴァチカンの側での沈黙の30年間と共に−私はあらゆる点で犯罪的な沈黙を加えたいところであるが−われわれはいわゆる「解放神学」を持っている。その中ではひとは同時によいカトリックであり、かつマルクス主義者であり得るということがまじめに示唆され、あるいは主張されさえしている。

そのような示唆はまったくばかげている。しかし、それにもかかわらず、他の点では知性を持っているまじめな人や人々がそのような説を主張するのである。そのことはもしこれらの過去30年間ヴァチカンを沈黙させたヴァチカン−モスクワ協定がなかったならば、あり得なかったであろう。このヴァチカン−モスクワ協定は単にあなたたちのカトリック信仰に直接反するものであるだけでなく、またあなたたち自身の肉体的な福祉にも直接反するものである。われわれは、もしそれが早晩撤回されないならば、共産主義者たちによって葬られるであろう。

ヴァチカン−モスクワ協定は一つの裏切りである

なぜ私はこれを一つの裏切りと呼ぶことができるのか? 私はジャン・ウーセによってこの協定が書かれている節を最初に読んだ。彼はそれについての彼の考えを公刊することにおいてばかりでなく、この協定の存在を実際にドキュメントすることにおいて道具的である。彼は一つの裏切りとしてそれに言及した。最初私は、ちょうど私がカイヨン神父は、彼が聖母の言葉を取り上げ、そしてそのメッセージを曲解したこれらの「犯罪的」ジャーナリストたちに言及したときに、少しばかり誇張していると考えたように、彼は行き過ぎたと考えた。

ジャン・ウーセはなぜヴァチカン−モスクワ協定にサインすることを一つの裏切りと呼んだのか? 「司教」bishopという言葉はギリシャ語に由来する、と私は教えられた。そしてそれは「見張り番」を意味する。エゼキエルと呼ばれる旧約聖書の書物を読むと、エゼキエルは見張り番と比較されている。そしてエゼキエルは見張り番としての彼の義務を告げられる。彼は、こう告げられる。もし私がイスラエルを見張る壁の上に一人の見張り番を指名するならば、そして見張り番が誰も見張っていない真夜中に、敵のところに野原を横切って行き、敵が近づいているときに叫び声を上げないという協定を彼と結ぶならば、その見張り番は聖なる信任を裏切ったのである。そして神は、彼の聖なる義務を果たさなかったその見張り番の手で敵の攻撃のゆえに虐殺されて死んだ市民たちの各々の血を要求されるであろう。

それゆえ、神の敵ども、教会の敵どもと協定を結び、敵が近づくときに叫び声を上げないことは一つの裏切りである。それは他の何ものとしても言及され得ない。私はこれによって彼らがこのことを不誠実にしたとか、彼らがこれを悪意をもってしたとは言っていない。しかし、客観的に言えばそれは聖なる信任の裏切りである。

そしてそのような協定はまず何よりも神の前に正しくない。それはいかなる道徳的水準も持っていない。その上、数年前にわれわれがあるラジオ番組を作っていたときにミチェリ神父が指摘したように、ヴァチカン−モスクワ協定が働かないことを示す25年間の経験を持っていた。

それについての第一の事柄は、ロシア人たちは鉄のカーテンの背後のわれわれの兄弟たちの迫害を減らすという協定の彼らの側面を決して遵守しなかった。彼らはただ彼らの戦術を変えただけであった。私は私のテレビ・ショーでヨセフ・テレリャに会ったが、彼は一つの理由で、たった一つの理由で−彼がカトリックであったがゆえに−23年間を獄中に過ごした。そして彼は彼の刑期を、その協定が初めに締結されたあたり、あるいはその後の、1960年代に始めたのである。彼はわれわれが知っている一人の人である。しかし、他の数千人の人々がいる。

そしてそれゆえ、ヴァチカン−モスクワ協定は教皇がなぜ奉献をされないかの主要な政治的障碍である。というのは、奉献は共産主義の誤謬に対する一つの直接的な攻撃だろうからである。

なぜある人々がファチマを偽り伝えるか

あなたたちはファチマ・メッセージについてただその信心の局面(私は確かにそれに賛成し、それを支持する。私が以前に述べたように、ロザリオ、スカプラリオ、そして聖母の汚れなき御心への個人的な奉献は非常に大切である)においてだけ語るが、しかし、彼らが、ファチマのメッセージは同様にまたロシアの誤りについても語っており、そしてそれは同様にまたロシアの奉献の絶対的な必要性についても語っているということを指摘する点までなぜ先へ進まないのか、ということを知りたいだろう。

それは、教会の中にヴァチカン−モスクワ協定の無分別なそして裏切り的な政策に対して支持を与えなければならないと感じる人々、あるいはさもなければ、この裏切りの協定を支持するあれらの教会役職者に忠誠でなければならないと感じている人々がいるからである。

それが、われわれにとって教会の現代の状況の光に照らしてわれわれ自身の責任を理解することが大切である理由である。われわれは信仰を擁護するというわれわれの義務を負っている。われわれはファチマ・メッセージを知らせる義務を持っている。われわれはわれわれ自身がファチマ・メッセージを生きる義務を持っている。われわれは、われわれの祈りによって、そしてわれわれの犠牲によって、そして同様にまたわれわれの働きによって、聖母の汚れなき御心の勝利をもたらすためにわれわれができるすべてのことをする義務を持っている。

それゆえ、私はあなたたちができる限り多くのファチマ・クルーセイダーのコピーを取り、あなたたちの隣人たちや友人たちに配布し、このことについて語り、知らせ、毎日ロザリオを唱え、そして教皇、司教たちのために犠牲を捧げ、祈るように勧めたい。われわれは同様にまたそれは教皇に対する慈悲と忠誠の行為、実際彼に対する援助であるということを理解しなければならない。

> 彼が教皇になることによって引き受けたこの責任、ただ彼だけが遂行することができる一つの面倒な義務のゆえに、−それは彼自身の手段を越える−彼は神の恩寵を必要としている。たとえ私が教皇になるとしても−そして確かにそれは決して起こらないが−私もまた、私自身同じことを言ったであろう。

誰が彼自身の力によってファチマが命じたロシアの奉献をすることができようか。

このことは教皇ヨハネ・パウロ二世あるいは彼の先行者たちの誰かの批判を意味するものではない。彼が奉献のこの行為をしないことの結果は恐るべきものである。それらはわれわれ自身にとって、そしてわれわれの国にとって恐るべきものであるだけでなく、それらは特にそして個人的に教皇と司教たちにとって恐るべきものである。

いくつかのファチマ・グループはシスター・ルシアに対する聖母の言葉を無視している

我らの主御自身がシスター・ルシアに教えられたただ二つの祈りだけがファチマに関するほとんどどの書物あるいは雑誌にも公表されていないということは興味のあることである。

2日間で私はファチマとリアンジョへ巡礼に行くことにしている。リアンジョはサンチアゴ・コンポステラから遠くないスペインの小さな沿岸都市である。

我らの主がシスター・ルシアに二つの祈りを書き取らせたのはここ[リアンジョ]であった。宗教的なものに関心があるすべての人々にとって(そして彼らはファチマのメッセージの宗教的な面に関心があるはずである)我らの主御自身が書き取らせたこれら二つの祈りが他のグループによって英語で公表されないていないのはなぜなのか? それはそれら[二つの祈り]が、我らの主が同時に与え給うた一つのメッセージと関連しているからである。そしてそのメッセージは実際、難しい。しかし有益なものである。

私はそれがどのように起こったかをあなたたちに話したい。シスター・ルシアは病気だった。彼女は疲れていた。そして彼女は彼女にしきりに尋ねる人々から逃れる必要があった。それはちょうど御出現が教会によって承認された直後であった。それゆえ、1931年8月に、シスター・ルシアは彼女の上長によって、姓名を隠して小さな海辺の村に送られた。彼女が滞在していた家の人々でさえ彼女が誰であるか知らなかった。[そのことを知っているのは]その家の主人だけで、他の誰も知らなかった。そして彼女はそこ、リアンジョの聖堂、聖母に捧げられたチャペルにいた。そして彼女はスペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして世界の回心のために祈っていた。

我らの主が彼女に語りかけ、そして「あなたはそれらの国々の回心のために祈ることによって私を非常に喜ばせる。この恵みをまた私の母にも願い求めなさい」と言われたのは、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパ、ロシアそして世界の回心のためのこれらの祈りの間にであった。主はそのとき彼女に二つの祈りを書き取らせられた。

ひとつ[の祈り]は次のような祈りである。「マリアの甘美な御心よ、ロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いでありますように」。われわれが同様にまたファチマ・クルーセイダーにおいて公表したもう一つの祈りはこうである。「あなたの純なるそして無原罪の御孕りによって、おおマリアよ、私のためにロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の回心を手に入れてください」。

イエズスはそのファチマの命令を遅らせそして妨害する人々に警告される

そしてそのとき我らの主はシスター・ルシアの祈りをコメントしそしてそれを褒めた後に、続けてこう言われた。「彼らが私の命令の遂行を遅らせることにおいてフランスの王の例に従うならば、彼らは彼[フランス王]に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」。
フランスの王への言及は何であろうか? フランスの王は聖心によってフランスを聖心に奉献するように命令された。そしてフランスの王たちは100年間にわたって、これ[奉献]をすることを拒絶してきた。その命令は聖心によって聖マルガリタ・マリア・アラコックに与えられ、そして王に伝えられた。

それは1689年6月17日に与えられた。その日まで100年間フランスの王たちは従うことを拒絶した。そして1789年6月17日、100年後のちょうどその日に、フランス王は第三階級によってその権力を奪われ、そして4年後に公衆の前でギロチンによって処刑された。

「私の命令の遂行を遅らせることにおいて彼らがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、彼に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」。これら[の言葉]は恐るべき言葉である。それは一つの脅威であり、そして一つの予言である。我らの主は、もしそれが重要な問題ではなかったならば、ファチマに献身していると主張している人々の間にさえ一般に広められている、彼らは従わなければならないことはないという嘘にもかかわらず、もし彼らが従う義務を負わせられていなかったならば、教皇や司教たちに対するそのように恐ろしい懲罰を予言されなかったであろう。

それが私が私の書物の全部の部分をこの主題に当て、そしてそれを世界のすべての司教に送った理由である。そこにおけるその論証のどれかを反駁する一つの解答もなかった。そしてわれわれはその全部分、恐らく50数ページをわれわれの唯一の希望であるイエズスとマリアのこの命令に従うべき教皇と司教たちの義務に関して捧げた。

我らの主はこの懲罰でもって彼らに脅威を与えられた。同時に主はここにいるわれわれすべての者に忠告を与えておられる。

主は遅延について不満を述べておられる一方で、続いて次のように言っておられる。「彼らはそれを為すであろう。しかし、それはもう遅いであろう」。それで言ってみれば、主はその注意をわれわれに、教皇や司教たちのように一つの国を奉献する力を明らかに持っていない信徒、そして司祭たちに、向けておられるのである。主はその注意をわれわれに向け、そしてこう言われる。「イエズスとマリアに依り頼むことには決して遅すぎるということはない」と。

われわれの個人的な義務はイエズスとマリアに依り頼むことである。そのことはわれわれに、天使が子どもたちに語ったときの次の言葉を思い出させる。「イエズスの聖心とマリアの御心はあなたたちの嘆願の声を注意して聴かれます」。ちょっと考えてみてほしい。イエズスの聖心とマリアの御心が待っておられる、ということを。われわれから聴くことを期待し、待っておられる、われわれの嘆願の声に注意しておられるということを。

「イエズスとマリアに依り頼むということには決して遅すぎるということはない」というこれらの言葉によって、我らの主はわれわれすべてをより大きな祈りへと招いておられる。祈りなさい、祈りなさい、特に今、あなたたちはロシアの奉献が為されなかったゆえに、あなたたちが極めて危険な状況に置かれているということを知るようになったのだから。

もしロシアの奉献がすぐに為されないならば、われわれはこの世において恐るべき苦しみを受ける危険にあり、そして多くの霊魂は永遠に地獄に堕ちる危険にある。あなたたちは今それが非常に遅いということを知っているから、今、イエズスと我らの天の御母に祈るためにイエズスの招きを聴き、それに従っていただきたい。

私はこの話の後では、われわれが最初に出発したときよりも、あなたたちが諸々の事実、危険、時の遅さ、そして解決についてより意識するようになったということを希望している。

しかし、気を落とさないで欲しい。希望を棄てないで頂きたい。イエズスとマリアに依り頼むことには決して遅すぎるということはないということを思い出して欲しい。それはわれわれが常に心に留めておかなければならないことである。イエズスとマリアへのわれわれの祈りを増すことによってそれを実践に移すことを忘れないで欲しい。

終わり

1996/11/27 三上 茂訳

作成日:1998/02/15

最終更新日:2005/03/19

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