ファチマの聖母マリア

最も無視されたファチマの要求

The Fatima Crusader, Isuue 01, Summer 1978, p.06

「しかしとりわけ、人々は罪を犯すことを止めなければなりません。」「人々は彼らの日々の義務をなさなければなりません。これは今私が期待し、要求する悔い改めの行いです。」...ファチマのメッセージ

このメッセージは、最も重要な要求はわれわれが罪を犯すことを止めなければならないということを明瞭に述べている。このことは祈りと悔い改めの行為が要求されていないということを意味しない。実際、それらは神の御旨を果たすために必要である。

換言すれば、もしわれわれが生活を改めず、われわれの罪に対する痛悔の念を持たないならば、ファチマ・メッセージの外的要求を満たすことは十分ではないのである。われわれは、これらの言葉は他の人々に対して言われているのであって、われわれ自身に対して言われているのではないと言う誘惑にかられるかもしれない。われわれが殺人、中絶、日曜日のミサ欠席、フマネ・ヴィテの教えに従わない、あるいは大罪を告白することを拒否することなどのようなそのような明白な大罪を犯していないということは真であるかもしれない。にもかかわらず、われわれはわれわれの良心をよく究明し、われわれの生活状況に対する神の律法の要求を果たすように気をつけるべきである。

さらに、われわれがただ大罪を避けるように努めることは十分ではない。なぜなら、そのような態度をもってしては、われわれは容易に大罪を再び犯すであろうからである。われわれはよき業を行うべきである。そして神の恩寵の助けによってわれわれの小罪や欠点を同様に正すべきである。

確かに最も重要な悔い改めの行いはわれわれの生活を改めることである。聖イグナチオ・ロヨラは、もしわれわれが一年に一つの欠点を克服するならば、聖性への途上にあると言っている。完徳への道は生涯の戦いである。諸々の大罪がわれわれの生活において克服された後には、避けられるべき故意の小罪があり、そして最後に正されるべきより少ない欠点がある。

罪を犯すことを止めるためには、われわれは単に罪を止めることを単に望むだけであってはならない。われわれは罪を止めることを意志しなければならない。聖フランシスコ・サレジオはあることをすることを望むこととあることをすることを意志することとの間には相違があると指摘している。例えば、チョコレートに対してアレルギーのある人はそれを食べたいとしばしば望むかもしれない。しかしそれが彼に与える害のゆえにそれを食べることを意志することはない。

それゆえわれわれは罪を犯すことを止めることを意志しなければならない。回心の前に「おお、主よ、私を純潔なものとしてください -- しかしまだ今ではなく」と祈った聖アウグスティヌスのようであってはならない。われわれは今罪を止めるよう意志しなければならない。もしわれわれが止めることを意志することができないならば、われわれは止める意志を得るように祈らなければならない。

さらに、罪を犯すことを止めるよう意志するためには、われわれは手段、この目的を達成するようわれわれを助けてくれる必要な助け、を意志しなければならない。ちょうど食べることを意志する人間が食物がある所へ行き、それを準備し、そしてそれから食物を口へと持って行き、それを噛まなければならないと同じである。彼は食べたいと望むだけでは十分ではない -- 彼は実際に食べるために必要なことをなさなければならない。

われわれが罪を犯すことを止めるために取ることができるこれらの手段は何であるか? 罪を犯すことを止めるための最も重要な手段は罪の機会を避けることである。もしある人が不必要な罪の機会を避けないならば、そのとき彼は罪を避けることを期待することはできない。聖書が言うように、「危険を愛する者はその中で滅びるであろう。」このことによって、聖書は、十分な理由なしにあなたに罪を犯させる原因となる人物、場所あるいは事柄に近づくならば、あなたは罪に陥るであろうということを意味している。教会博士である聖アルフォンソ・リグオリは、もし人々が罪の機会を避けるならば、そのとき今犯されたたいていの罪は犯されないであろうと指摘している。

罪を犯すことを止めるためにわれわれはまた神の恩寵をも必要としている。恩寵の必要性は非常に重要であり、しばしば現代人によって見過ごされている。ある人々は今日、犯罪や罪は、われわれが人々に真理を教えさえすれば、あるいは問題について十分に学びさえすれば、克服され得ると考えている。換言すれば、彼らは罪を犯すことから守るためには精神を啓蒙することで十分であると言う。これは明らかに誤りである。なぜならわれらの主御自身が「私なしにはあなたは何もすることができない」と言われたからである。神の特別の助けなしに罪を止めることは文字通り真に不可能である。その恵みをわれわれは、祈りと適切に受けた諸々の秘蹟によって以外に、得ることはできない。

ひとたびこれらの手段によって罪を克服したならば、われわれは、成聖の恩寵の状態において引き続き生活するために必要である神の助けを受け続けるために、祈り、相応しく諸秘蹟を受け続けなければならない。

祈りと犠牲はわれわれの義務

ロシアの回心は聖母によって要求された祈りと犠牲なしにはもたらされないであろう。

抑圧を蒙っている人々の祈りと犠牲は霊魂の救いにおいて偉大な価値を持っている。しかし宗教的自由を享受している人々の祈りと犠牲もまたそうである。

もしわれわれが、同じ御父の子どもたち、そして神人、われらの救世主なるイエズスの兄弟たちであるすべての人々の兄弟たることを信じているならば、われわれは罪人たちの救いのための祈りと犠牲をという聖母の要求に応えるであろう。

われわれは他の人々のために功徳を得ることができるということ、そしてわれわれの行動の各々が霊魂たちに対してその霊的な効力を持っているということを知っている。各々のよい行為は他の人々の救いの助けとなり、各々の罪は霊魂たちの救いを危うくする。

小さな羊飼いたちへの御出現において、ファチマの聖母は彼らにこの重大な義務について話された。今日、聖母はこの同じ質問をわれわれ一人ひとりに出されている:「あなたたちは、あなたたち自身を神に捧げ、神に背くすべての罪の償いと罪人たちの回心のために神があなたたちに送られるすべての苦しみを堪え忍びますか?」

世界において平和が支配するために、われわれがお互いのために祈り、特にロザリオを唱え、十戒に従って生活し、日々の義務をよく果たし、苦しみを堪え忍び、正当な諸々の快楽を自分自身に与えないことが必要である。

今マリアの訴えに寛大に応える決心をしよう。神を信じず、礼拝せず、信頼せず、愛さない人々に憐れみを持とう。

罪人たちのために祈り、真理から迷い出た人々が神に立ち戻るように祈ろう。

とりわけ、戦闘的無神論の抑圧の重いくびきのもとに生きている人々のために祈ろう。ロシアが道、真理、生命であるキリストへと回心するよう祈ろう。

2005/04/03 三上 茂 試訳

作成日:2005/04/03

最終更新日:2005/04/03

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