ファチマ・クルーセイダー

ファチマの聖母は茶色のスカプラリオに対する古い信心を奨励なさる

The Fatima Crusader Issue 04, Winter 1979-80 より

1917年10月13日、神はファチマで一つの奇跡を行われた。最近の研究は、10万人以上の人々が、太陽が「踊り」回転するのを目撃し、そして三人の小さな幻視者たちが別の幻視を見る特権を与えられていた、ということを示している。最後の幻視はただルチア独りによって見られた。聖母は、カルメル山の聖母としての衣裳を召され、天と地の元后として戴冠され、膝の上に小さな御子を抱いて御出現になった。この御出現の意義について質問されたとき、ルチアは、神の御母がすべての人がスカプラリオを身につけることを望まれていると答えた。合衆国におけるカルメル第三会管区長のハワード・ラファティ神父はファチマとスカプラリオについてルチアに質問することができた。以下はそのインタビューの一部である:

ラファティ神父:「ファチマに関するいくつかの書物においては何人かの著者たちはメッセージの一部としてのスカプラリオの言及をしていません。」

シスター・ルチア:「おお、彼らは間違っています。」

神父「おとめ[マリア]がファチマの最後の幻視においてカルメル山の聖母として徒御出現になったということは何を示していたのですか?」

シスター・ルチア:「聖母は両手にスカプラリオを持っておられたからです。教皇様は全世界に対してスカプラリオはマリアの汚れなき御心に対する私たちの奉献の外的な印であると言われました。」

神父:「スカプラリオは、それゆえに、ファチマのメッセージを満たすために必要なのですか?」

シスター・ルチア:「はい、そうです。」

神父:「あなたは、それはロザリオと同じように必要だと言いますか?」

シスター・ルチア:「ロザリオとスカプラリオとは分けることができません。」

ファチマで聖母は茶色のスカプラリオの重要性を強調なさった。カルメル山の聖母としての彼女の御出現は人々にほとんど670年も前に聖母が聖シモン・ストックになさった約束について思い起こさせた。

カルメル会員たちとスカプラリオの歴史

茶色のスカプラリオはカルメル会員たちが着ている茶色の毛で織られたマントの一つの小模型である。修道会自体はその起源を預言者エリアの泉の近くのカルメル山に持っている。旧約聖書における最も偉大な預言者たちのうちの一人であるエリアはカルメル修道会の創設者であった。そして彼の神への熱意、愛そして恐れは初期のカルメル会員たちの霊感であった。有名な3年半の旱魃が終わったのは彼の祈りによってであった(列王記上第18章)。降るべき最初の雨は人間の足の形で海から立ち上がった雲から来た。その雲はそれが全地を覆うまで成長を続け、そして大雨が降った。エリアと彼の隠遁者の仲間たちはこの雲のうちに神が蛇の頭を踏み砕くであろうと約束なさった女の前表を見た。「おまえは彼女の踵を待って横たわり、そして女はおまえの頭を踏み砕くであろう」(創世記3:15)。カトリック教会の何人かの聖人たちそして博士たちもまた、苦い海から純粋に立ち上り、すべての不純を背後に残すこの雲がどのように、原罪のその普遍的な不純から解放された人類の海から純粋に立ち上がられるであろう汚れなきおとめの象徴であるかを世界に説明している。エリアは、雲を見た後に、人間の救い主を御出産なさることになっているおとめの到来のために祈るように彼の従者たちに命じた。

彼らの祈りは聞き届けられた。単に汚れなきおとめが神人を生まれただけでなく、数年後に、聖家族はエジプトからの帰りに、これらの聖なる修道士たちの間で食物と避難所と休息とを求めた。聖家族が彼らを去った後、これらの神の人々は神の御母に捧げられるべき地上での始めての聖堂を建設した。これらの人々は契約の櫃の中に祈りと瞑想についてのエリアの教えの完全な例を見出した。彼らは神の御母を彼らの模範として取り上げた。そして神の御母は彼らにすべての事柄を清い心で神に捧げる方法を教えられた。彼らがパレスチナを離れなければならなくなる前数世紀の間彼らは自らを「カルメル山の聖マリアの隠修士たち」と呼んだ。

サラセン人たちが侵略したとき、カルメル会員たちは彼らの愛する山を離れ、神を礼拝することができる別の場所を探さなければならなかった。カルメル会員たちは彼らの完全な模範である聖母に指導を祈り、そして聖母は彼らを、聖シモン・ストックの助けと共に、1241年にイギリス、アイレスフォードへと導かれた。彼らの避難所に着いたときの彼らの最初の考えは彼らのパトロネス[聖母]の栄誉を称えて一つの聖堂を建設することであった。1246年にシモン・ストックは修道会全体の総長となった。彼らは多くの試練を受けた。それらの大部分は克服できないように思われた。パレスチナからイギリスへの移転による大きな変化によって引き起こされた修道会内部からの諸々の困難があった。修道会の外部からの苦労もあった。在俗司祭たち全体がこの「新しい」修道会を攻撃した。彼らはカルメル会員たちを憎んでいる、そして特に東方からのこれらの人々が着ていた修道服を憎んでいると思われた。エリアの伝統に由来する彼らの古くからの袖無しマントに対して恐ろしく忠実でありそれを愛していた年老いた修道士たちは、この特別の迫害を深く感じた。常に聖母に対して依り頼んでいたシモン・ストックは彼が直面したすべての問題が彼にとって対処するには余りにも大きくなったと思われたとき、聖母に立ち帰った。1251年7月16日、シモン・ストックは個室に行き、全心をこめてわれらの愛する御母の執り成しのために祈った。彼はこう祈った:

突然、聖人の部屋は光で溢れた。聖母がその御手にスカプラリオを手にして、彼に御出現になった。聖母はそのスカプラリオ[袖無しマント]を御自身で纏っておられた。そして聖母はこのスカプラリオを彼らに対する御自分の特別の愛と守護の印となさった。聖母は聖シモンにこう仰った:
「これはあなたとすべてのカルメル会員たちにとって、これ(スカプラリオ)を身にまとって死ぬ者が誰も永遠の火を蒙らないという特権となるでしょう。」

その幻視の後、一つの奇跡的な変化が修道会に対する人々の態度において起こった。教皇は修道会を認可された。そしてこれ以上カルメル会員たちを迫害した誰に対しても教会法上の譴責が用いられるべきことを命じられた。教皇は司教たちと大司教たちに、カルメル山の聖マリアの隠修士たちをより以上の愛徳と考慮をもって遇するように告げながら、書簡を発された。それ以後、世俗の権威も教会の権威も両者ともカルメル会員たちを助けた。

数年後、祝せられたおとめは教皇ヨハネ二十二世に御出現になった。聖母は、スカプラリオにつけ加えられるべき第二の大きな約束:すなわち、土曜日のあるいは「安息日の」特権を彼に明らかになさった。すなわち、1)カルメル山のスカプラリオを忠実に身につけ、2)彼らの生活状態に従って貞節を守り、そして3)ロザリオの5連を毎日唱える(小聖務に対してロザリオの代用が認められる時*)、茶色のスカプラリオ団体のメンバーたちは死後の最初の土曜日に煉獄の諸々の苦痛から解放されるであろう(*カルメル山の聖母のスカプラリオに登録されているすべてのカトリック教徒はわれわれのファチマ十字軍の誓約に記入し、それに基づいてこの特典を要求し、そしてファチマ十字軍本部のわれわれのところにそれを送ることによって、聖母の小聖務に代わるものとして毎日ロザリオ5連で代用する特権を受けることができる)。

1251年に聖母がカルメル山のスカプラリオを祝福されて以来ずっと、それはマリアへの奉献の一つの印であった。長い間、奉献のこの特別の印は専ら修道会に属していた。修道会の外部の人々はカルメル会、スカプラリオ、そしてその諸々の約束に関係したものとなることを切望するようになった。それゆえ十三世紀には、第三会とカルメルのスカプラリオ団体が起こった。

諸々の特権

カルメル山の兄弟会に属することからわれわれは何を得るのか?

茶色のスカプラリオの登録した着用者は単に恵みの御母によって与えられた救いの約束と安息日の特権(それはそれ自身でそれを着用する十分な理由であろう)と何人もの教皇たちによって与えられた多くの贖宥を得るばかりでなく、彼らはまたカルメル山の修道者によってなされるすべてのミサ、祈りそしてよき働きへの参加をも得るのである。

われわれは、スカプラリオを着用するとき、天において祝福され、聖母御自身によって地上で奨励された衣服を着用するのである。われわれは、兄弟会へと正当に登録されすべての人々、そして彼らの死の時にわれわれに対する聖母の愛の印である衣服を着たすべての人に対して聖母が救いの無条件の約束をなさったときに着用なさったものを、着るのである。

聖ロベルト・ベラルミン、教皇ベネディクト十四世、ヴェルメールシュ等々のようなカトリックの神学者たちや権威者たちは、その約束が、カルメル山の聖母の兄弟会において死に、そして死の時スカプラリオを着ている者は誰でもその時に、恵みの状態に留まる恵み、あるいは最後の痛悔の恵みを受けるということを意味していると説明している。しかしながら、諸々の聖人たちや教皇たちは、マリアの約束を乱用することの無謀さについてしばしば警告している。同時に教皇ピオ九世は喜んでこう告白された:「私は母の両腕の中でスカプラリオのおとめを愛することを学んだ」と。彼はまたすべての信徒たちに、「祝せられたおとめが御自分を愛するすべての人を愛されるということはまことに真であるけれども、にもかかわらず、祝せられた御母を死の時に助け手として持つことを望む人々はその生活において罪を避け、聖母の栄誉のために働くことによってそのような好意の印に値する者でなければならない。」人は、もしマリアのスカプラリオの約束のゆえに罪を犯し続けるならば、スカプラリオを身につけて死ぬことはないということが確実だと理解することができる。スカプラリオの約束を信じている一方で罪の生活を送ることは罪を犯すことであり、その怖ろしさはほとんど神聖冒涜に近い。その罰は単に永遠であるばかりでなく、もしわれわれが、神の御母をその御子の十字架刑の理由とすることなしに罪の生活を送ったならば、遙かにもっと悪いものであろう。

教会の認可

聖アルフォンソはこう言っている:「現代の異端者たちはスカプラリオを身につけることを嘲笑する。彼らはそれを非常にくだらない無意味なものだとしてけなす。」しかし、その特権についてはこれまでに九つの公式で正式の承認があった。その特権を正当なやり方で確立なさった九人の別の教皇たちがおられた。聖ピオ五世はこう言われた:「使徒の権威をもって、そして現在の傾向によってわれわれはスカプラリオおよび安息日の特権のそれぞれを認可する。」聖ピオ十世もまた、教皇パウロ五世がそうされたと同じように、それらを認可された。「祝せられたおとめが、カルメル山の祝せられたおとめの兄弟姉妹会の兄弟たちや姉妹たちの霊魂を彼らの死の後に、聖母の絶えざる取り次ぎによって、その苦しみと功績によって、そしてその特別の保護によって、特に土曜日には、お助けになると説教することが許される...」教皇ピオ十一世は安息日の特権の600周年を記念して、こう言われた:「兄弟姉妹会のすべての人々にとって、彼らがその資格を与えられている贖宥を得るために、そして特にそれらすべてのものの中でも主要なそして最大のものであるあの贖宥、すなわち安息日の特権と呼ばれるもののために、規定されてきた聖なる信心業をやり抜くように奨励することだけでも確かに十分なはずである。」ピオ十二世はスカプラリオについてこう書かれた:「私が特にこの危険な時代に推賞しているマリアの汚れなき御心に対する奉献のあなたの印としなさい。」1965年2月2日に第二バチカン公会議が聖母への信心について何を意味したかを説明する際に、教皇パウロ六世はこう言われた:「....教会の教導職によって何世紀にもわたって推賞されてきたいとも祝福されたおとめへに対する信心の実践、実行を大いに尊重してずっと保ちなさい....そしてそれらの中でも私は特にマリアのロザリオとカルメル山のスカプラリオの宗教的な使用を想起することをよしと判断する。」

驚くべき諸々の出来事

1276年に教皇グレゴリオ十世の遺体がアレッツォに安置された。1830年に彼の遺体は他の場所へ置かれた。彼らが墓を開いたとき、彼らは教皇の肩の上に、彼のカルメルのスカプラリオが腐蝕しないでかかっているのを見出した。それはなお完全に保存されており、アレッツォ博物館の最大の宝の一つである。教皇グレゴリオ十世は小さなスカプラリオを身につけた最初の人物であった。

聖アルフォンソ・リグオリの死後40年に彼の遺体は墓から掘り出された。そしてその中にあったすべての腐蝕すべきものは塵になっていた。彼の茶色のスカプラリオ以外のすべてのものがそうだった。スカプラリオの上に纏っていた衣服、スカプラリオの下の皮膚は朽ち果てていた。しかし彼のスカプラリオは今日まで無傷のままに残っている。そして羊毛に縫いつけられた木綿の絵さえ彼が死んだときと同じようにはっきりしており、そして縫いつけられた木綿の糸はなお強かった。

スカプラリオについて説教し、そして数千人の人々を入会させた聖ヨハネ・ボスコは彼の墓において同じような事柄を起こさせた。スカプラリオ以外のすべての朽ち果てるべきものは無くなっていた。これらの出来事においては、茶色のスカプラリオとその約束がいかに重要であるかを神が示しておられるように思われるであろう。

聖シモン・ストックに対する聖母の御約束は地上での死の後の永遠の生命のためであった。しかし茶色のスカプラリオの着用者たちは身体的な保護の特別の恵みをも受けた。マリア御自身こう言われた:「このスカプラリオを受けなさい。それを身につけて死ぬ人は誰でも永遠の死に苦しむことはないでしょう。それは救いの印、危険における保護、平和の約束です。」

1845年にオーストラリアへの途次に、イギリス船キング・オブ・オーシャン号は暴風雨に遭遇した。プロテスタントの牧師フィッシャー師、彼の妻、子どもたちそして他の船客たちは、船が絶望的になったと思われたとき、祈り、神の憐れみを乞うために甲板に上った。

一人のアイルランド人の船員、ジョン・マコーリフは彼のシャツを開き、スカプラリオを取り出した。海の上に十字の印をしながら、彼は甲板の上からスカプラリオを投げた。風は直ちに止み、波は静まった。嵐が吹き止む前にただもう一つの波だけが甲板を洗った。波が退いたとき、ジョンが大海に投げた茶色のスカプラリオは彼の足許に残された。

牧師と彼の妻は何が起こったかを見た、そしてジョンに尋ねた。彼は彼らに祝せられたおとめ、彼女のスカプラリオ、そして彼女の保護の約束について告げた。彼らは非常に感動したので、彼らもまたそのように大きな保護を享受することができるようカトリックになる決心をした。

1957年5月にドイツ、ヴェストボーデンにおいて建ち並ぶ住宅街で火災があった。その中の一つの家の家族は起こったことを理解して、すぐさま一つのスカプラリオをその家の玄関の扉に張り付けた。火花がそれを飛び越え周りを飛んだがしかし火は点かなかった。5時間のうちに22軒の住宅が灰燼に帰した。スカプラリオを貼られた一軒は破壊の真っ只中に損害を受けずに残った。

カルメル山の聖母の取り次ぎを示すもっと多くの出来事が記録されてきた。そしてこれらの出来事のあるものをわれわれは伝えることを望んでいる。この種の並はずれた出来事はわれわれと同じ普通の人々に起こっている。われわれもまた、われわれにそのように愛をもってお与えになった盾を身につけることによって、われわれ自身の愛する御母、天と地の元后の保護を享受することができるのである。

2005/09/16三上 茂試訳

Our Lady of Fatima Protects the Ancient Devotion to the Brown Scapular へ

 マリア様のページ

 トップページ

作成日:2005/09/16

最終更新日:2009/03/02

inserted by FC2 system