ファチマの聖母マリア

神が話されるとき -- われわれは聴かなければならない

The Fatima Crusader Issue 78, Autumn 2004

ポール・クレイマー神父, B.Ph.,S.T.B., M.Div., S.T.L.(Cand.)
による講演の編集された書写

あなたの生涯の中で、あなたに何回くらいいわゆる宣教師が近づき、そして彼あるいは彼女があなたに「救われるためにあなたは何を信じなければならないか」を説明しようと欲するでしょう。私には一度そのようなことが起こりました。そして私は言いました。「どうぞ、言ってください」と。その若い女性は私にこう言いました。「あなたはイエズス・キリストがあなたの個人的な救い主であることを信じなければなりません。そしてそのときあなたは救われるでしょう」と。

それに対する私の答はこうでした:「聖書のどこにそのことが言われていますか?」答はありませんでした。もしわれわれが聖書を非常に注意深く検討するならば、われわれはまず真っ先に信仰を持たなければなりません。われわれはここで徳、神学的な信仰の徳について話しているのです。

まず、いの一番に、われわれは神が啓示なさったこと、聖書と聖伝に含まれているすべてのこと、そして教会の教導権、教会の不可謬の教育職務によって決定され、神によって啓示されているものとして決定的に提示されてきたことを信じなければなりません。これらは信仰と道徳の諸真理です。これは、いの一番にわれわれが信じなければならないものです。

信仰なしには、聖パウロが「もしわれわれが信仰のたった一つだけでさえ拒否するならば、救われることはできない」と言っているように、神を喜ばせることは不可能です。信仰宣言が言っているように、「誰であれ救われようと望む者は完全な欠けるところのないカトリック信仰をしっかりと守らなければならない」のです。

しかしそれですべてでしょうか? われわれはただこれだけを信じなければならず、他のものは何も信じないでもよいのでしょうか? われわれは「私は私的な啓示を受け入れません」と言うことを許されているのでしょうか?

私はこのことを何度も聴きました。人々はこう言うでしょう。「私は教会において決定されていることを信じます。私はカテキズムにおいて述べられていることを信じます。しかしどうか私的啓示で私を混乱させないでください。われわれは救われるためにそれらを信じる必要はありません。教会はわれわれが信じなければならないことをわれわれに教えます。そしてわれわれが信じなければならないことは信仰の遺産、教会の不可謬の教導職によって述べられてきたことです。」

これは一つの非常に欺瞞的な半面の真理です。なぜなら、なされなければならない一つの区別があるからです。神の信仰、信仰の神学的徳によってわれわれが信じるものは神的真理 -- 神が啓示なさったもの -- です。

教皇インノセント三世は聴かれた

しかしながら、教皇インノセント三世は聖フランシスコの訪問を受けたとき、その第一印象において、アッシジから来た青年について余り高く評価しませんでした。しかし、それから、彼が夢を見て、教会が倒れており、アッシジの青年がそれを支えているのを見たとき、彼はこれは神からの啓示であると知りました。

もし教皇インノセント三世がこれは私的啓示であり、あなたはそれを拒否すべきだ、なぜなら、それは信仰の遺産において説明されてこなかったからだ、と言ったとしたら、どうでしょうか?

それは常識の問題であり、単なる常識以上のものです。なぜなら、理性の使用を授けられている者は誰でも道徳の第一の最も基本的な原理、すなわち、善をなし悪をさけるという原理を理解しているからです。そしてその系は、われわれは真であるものに、単に信仰の遺産において神が啓示なさったものだけをわれわれは守らなければならないだけではなく、真であるものを守らなければならないということです。

それゆえ、もし神がお話しになったならば、たとえそれが信仰の遺産の一部ではないとしても、われわれは信じる義務を持っているのです。

教皇インノセント三世は、自分が信じる義務を持っているということを理解しました。彼は、自分がフランシスコ会を認可することは神の意志であるということを理解するために神による照らしという一つの特別の恵みを与えられていたのです。教会の歴史は、アッシジの青年に、その修道会を設立することを認可するという彼の決定が当時の教会の生き残りにとって不可欠であったという事実を証明しています。

われわれは自由に私的啓示を拒否できるとう考えは半面の真理に基づいています。それは一つの欺瞞です。信仰の神学的徳によってわれわれが信じることは神が教会の教導権によって述べられ提示されたものです。これらはわれわれが救われるために信じなければならない不可欠の真理です。

神によって啓示されたものとしてカトリック教会の教導権によって述べられてきたことすべて、信仰の真理、道徳の真理、それはわれわれが救われるために絶対的に守らなければならないものです。

しかし、それを超えて、道徳的な義務、神の信仰の義務ではなくて、真であるものを守らなければならない道徳的義務、があります。

これは答えるのが難しい問題ではないはずです。しかしある人々はそれが非常に理解しにくいと考えます。道徳神学の最も偉大な教師、特に道徳神学における教会博士である聖アルフォンソ・リグオリは、もし人が神から一つの預言的啓示を受け取るならば、そのような人は、神が啓示なさったことを信じ、それに従うことを義務づけられ、道徳的に縛られると説明しています。

聖パトリックは聴かれた

われわれはこのことを聖人たちの生涯のうちに見ます。最も啓発的な例の一つは聖パトリックの例です。ペロディウスは教皇によってアイルランドに福音を説くために送られました。彼は追い出されました。しかし聖パトリックは、教皇によってではなく、イエズス・キリストによって個人的に、そして位階の多くの人々の意志に反して、呼ばれました。キリストは御自ら、彼に語られ、アイルランドへ行くよう彼にお命じになりました。

そしてそのように、ローマの認可なしに、しかしイエズス・キリストの個人的命令によって、聖パトリックはアイルランドへ行き、そして不可能なことをしました -- 敵対的な異教の民は福音を受け入れたのです。そして彼は村から村へと行き、教皇の承認なしに、350人の司教を奉献し、3,000人の司祭を叙階しました。

30年という時期の間に、異教のアイルランドはカトリックのアイルランドとなりました。そしてこれは一人の人間が、いわゆる私的啓示において彼が受けた言葉に従うようにイエズス・キリスト御自身によって自分は義務を負わされたと信じ、理解したからでした。

聖アルフォンソ・リグオリはその原理を支持しています。もし神が話されたならば、あなたは信じなければなりません。ファチマの聖母は三人の子どもたちに話されました。そしてわれわれがしばしば聞く近代主義者の反対はこうです:「聖母はただこれら三人にだけ話された。だから、信じる必要があるのはただ彼ら三人だけである。他の者は信じる必要はない」と。

彼らが見過ごしている非常に大きな問題があります。聖母が1917年7月13日にファチマの全秘密の三つの部分を明らかになさったとき、幻視者たちの最年長のルチアは神学の訓練を受けていませんでした。しかし彼女は基本的な常識 -- それは知識の第一諸原理および道徳の第一諸原理の理解です -- をもって理解しました。

一つの奇跡、それゆえわれわれは信じることができる

ルチアは、おそらく人々は神の御母がそのように重大な事柄を明らかになさったということを信じないことに傾くかもしれないということを理解しました。彼女は、人々が信じるように一つの奇跡を願いました。この文言をわれわれは思い起こさなければなりません -- 彼らが信じるように --

ファチマの聖母は、誰もが信じるように10月13日に一つの大きな奇跡を働くでしょうと言われました。もし神が、御自分が話したと人々に確信させるために一つの奇跡を働かれるならば -- 聖アルフォンソ・リグオリが、ひとたびあなたが神は語られたと理解したなら、あなたが神の啓示を受けたならば、と説明しているように -- ひとたびあなたがそれが真である、そして神が語られたと理解したならば、あなたは信じる義務があるのです。それは、神に対する信仰をもってではありません。それは教義の問題ではなくて、そこには神が話されたということを信じる道徳的な義務があるのです。

聖パトリックが、もし単純にこう言ったとしたら何が起こっていたでしょうか? 「私は聖書あるいは伝統の中には、私が聞いた声に従う個人的な義務を持っているということを見ません」と。

しかし、彼に話されたのはわれわれの神なる救い主、イエズス・キリストでした。主が直接に話されるとき、そして主が奇跡を働かれるとき、それが最後の使徒の死の前に啓示されたものではないがゆえに、われわれは主を拒否する自由があるのでしょうか?

ここでわれわれは一つの区別をします。私は信仰の徳において信仰の問題として何を信じなければならないでしょうか? そしてまた、私は一般的に言って何を信じなければならないでしょうか? 命じられた法の普遍的原理はわれわれが真であるものを守らなければならないということです。

神は真理の創り主です。信仰の遺産のうちに見出されるまさに啓示された諸原理、すべての信仰箇条に適応するために、われわれはそれらを実践しなければなりません。われわれはしばしば、特定の場合に、われわれに一般的に啓示されている神の律法の命令を遂行するために神の助けを必要とします。そして神の世界支配が神の指名された人間的道具を通じて遂行されるように、それが特別な形で適用されることを必要とします。

そして、これが預言がなぜ存在するのか、その理由です。もし預言を信じる義務がなかったならば、もし、最後の使徒の死後起こるどんな神の啓示をも信じる義務がなかったならば、もしその必要がなかったならば、そのとき神はそれらの預言をお与えになっていないでしょう。

神は不必要に働かれません。もし神が話されるならば、神はある理由のために話されるのです。神は全能であり、全知です。神が語られるとき、われわれ被造物は、預言者サムエルのように、こう言わなければなりません。「主よ、お話しください、あなたのしもべは聴いております」と。

ファチマのメッセージに従う義務は神が話されたという道徳的義務です。神は、罪人たちが回心し、霊魂たちが救われるために、一つのメッセージ -- 人類の生き残りと多数の霊魂の救い -- をもった御自分のいとも聖なる御母を送られました。

メッセージは霊魂たちの救いのために与えられた

もしわれわれがこのことだけを考えるならば -- イエズス・キリストの御血によって贖われた霊魂たち、彼がその無限の愛で愛しておられる霊魂たちの救いが危険に曝されているのです。

霊魂たちの救いをもたらすために、神は世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。ロシアが救われ、世界が救われ、無数の霊魂たちが救われるのは、ファチマのメッセージを通じて、五回の初土曜日の信心を通じて、マリアの汚れなき御心への奉献の行為を通じて -- 神が命令なさったことを果たすことによって -- です。

太陽の奇跡は、聖母御自身が言われたように、われわれが信じるために、働かれました。

もし神が、われわれ皆が信じるようになるために奇跡を働かれるならば、われわれは信じる義務を持っています。信じる義務を持っていますから、われわれは従いそして実践する義務を持っています。そしていとも聖なる御母を通じて神が命令なさったことが達成されるまで我慢することを止めない義務があります。

2005/03/16 三上 茂 試訳

作成日:2005/03/16

最終更新日:2005/04/19

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